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『チャールズ。テイラーと権利主体論

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博士(学術)学位申請論文審査要旨

森田 明彦

『チャールズ。テイラーと権利主体論

一現代多文化社会における「権利主体としての自己」を巡る研究‑』

[1]本論文の主題

本論文は,多文化の下での人権の普遍性という問題を,現代の優れた政治哲学者であるチャールズ・テイラーと マイケル・イグナティエフの議論に依拠しつつ考察したものである0 ‑股に,テイラーはコミュニタリアン,イグ ナティエフはリベラリストと見倣されている。しかし,両者の思想がアイザイア・バーリンの影響の下に形成され たことからも窺えるように,両者は基本的には,バーリンの多元的自由主義を終審している思想家である。テイ ラーは敬慶なカトリック教徒であるが,世俗世界における諸価値の予定調和を想定しているわけではない。イグナ ティエフも諸価値観の間の対立と共存について,実践を通して思索し続けている思想家である。そして何よりも両 者は,人権に強い関心を持っている思想家であって,テイラーは近代西欧思想の特徴を人権という角度から理解し てきたし,イグナティエフはハーバード大学人権政策力‑研究所所長を務めたこともあるO従って,テイラーとイ グナティエフは,本論文の主題である多文化の下での人権の普遍性の考察にとって逢してはならない思想家といえ る。

しかし現在,人権の普遍性の問題は,既存の文化を前提とし,現行の人権思想との整合性の問題として議論され ることが多いが,本論文はそうした方法を誤りだとして批判し,別の分析方法を提示する。何故,そうした方法が 誤りかというと,人権思想自体が近代西欧社会で成立した特殊な歴史的産物であり,また,文化の内容を決める権 利は個人にあるからである。これに対して本論文は.人権の普遍性の問題は,各文化において違った基礎づけ・原 理的根拠を見出さぬばならないという。それには,現今の人権思想のどの部分が特殊西欧的なのか,特殊西欧的な ものが外された人権思想とはどういうものか,人権思想を受け入れるには,各文化にはどのような変容が求められ るか,といった社会思想史的,哲学的,文明論的な分析・検討が必要である。

そのために,本論文は「権利主体としての自己」という観念を取り上げ.テイラーとイグナティエフの諸著作を 読み解くことによって,多文化の下での人権の普遍性の問題の考察を行うのである。これまで,イグナティエフと テイラーについて,特にテイラーについては,日本でも多くの議論がなされてきたが,彼らの思想を総合的に理解 し しかも人権の観点から論じたものは殆どない。この意味でも,本論文の研究上の意義は極めて大きいといわな ければならない。

〔2】本論文の構成

本論文の構成は以下の通りであるo なお本論文の分量が, 1貢, 40字×30行‑1200字で,全275頁(脚注を含む), 約33万字であることを申し添えておく。

第1章 課題の提示と論文の構成 1.本論文の契機一人権との出会い 2.課題の提示一人権は普遍的なものか?

3.方法論の提示一権利主体としての自己を通じて人権の普遍性を考える 4.本論文の構成

第2車 人権の普遍性‑イグナティエフとテイラー 1.国際人権‑の挑戦

(1) 「権利革命」の進展とその課題

(2)

(2)国際人権の普遍性への文化的挑戦 2.イグナティエフの人権思想の特徴 3.イグナティエフの人権思想に対する批判

(1)エイミ一・ガットマンによる批判 (2)アンソニー・アツピアの批判 (3)デイヴイッド・ホリンガ‑の批削 (4)ダイアン・オレントリヒヤーの批判

4.イグナティエフとテイラーー消極的自由と積極的自由を巡る二人の立場 5.イグナティエフ,テイラー,バーリン‑人権と個人主義

(1)個人主義と尊厳,自由,自己同一性(アイデンティティ)の関係 (2)近代個人主義とコミュこタリアこズム

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1.課題の設定と方法論の提示 2.ヘーゲルが目指したもの

(1)当時の思想的課題 (2)ヘーゲルが目指したもの (3)ヘーゲルの論理学と弁証法

3.ヘーゲルの存在論的弁証法は成功したのか?

(1)ヘーゲルの論理学

(2)定有(Dasein)と無限性(in丘nity) (3)ヘーゲル論理学は成功したのか?

4.現代日本のアポリアとヘーゲル哲学

第4車 テイラー『自己の諸源泉』 (1 ‑西欧社会における近代的自己の誕生 1.人権概念の西欧的偏向

2.権利主体としての近代的自己 3.近代的な内面性

4.日常生活の肯定

5.内的道徳源泉としての表現主義的自然観念 6.現代西欧思想家としてのテイラーの特徴

(1)キリスト教的伝統の肯定 (2)ロマン主義的な反啓蒙主義 (3)現象学的方法論

第5章 テイラーの言語哲学一言語論的転回と権利主体論 1.権利主体論の課題

2. 「言語論的転回」におけるテイラーの位置 3.テイラーの言語哲学

(1)表現主義的言語理論 (2)言語の三つの側面

(3)表現主義的言語理論と表象的言語理論 (4)言語の全体性

4.テイラーの「行為」論 (1) 「行為」論の系譜と課題 (2)表現主義的「行為」論 5.テイラーの思想と人権の根拠

(3)

第6章テイラー『近代社会像』と権利主体論 1.課題の設定と方法論の提示

2.近代西欧社会像

3.三つの近代社会像と権利主体としての自己像

4 L

1  2 mfl}辞清

3)主権者としての人民 4)権利主体としての自己像

現代的自己の特徴 現代日本の課題

第7牽 テイラー『自己の諸源泉』 (2) 近代西欧的自己の現代的課題とその限界 1.福祉コミュニティの担い手としての個人

2.近代西欧社会像と近代的自己の関係およびその現代的課題 (1)近代西欧社会像の核心一権利主体としての自己

(2)近代的自己の現代的課題 3.西欧近代道徳とロマン主義 什 州くJti!ilL道徳coi,y.与l吏的系誹 (2)ロマン主義の現代的展開

(3)ポストロマン主義と西欧近代遺徳

‑1.西¥'X近代道徳to.‑"‑.Oの課題

・p 研h'iされた道只.‑ K‑it‑、\の批判 榔 本質的善を巡る対立

(3)近代的遺徳規範とその実現の間の対立 5.西欧近代の遺徳的枠組と近代的自己

第8章 テイラーの全体論的個人主義と権利主体としてのチビも観 1.子どもの権利主体性

2.存在論と権利主体論

3.テイラーの全体論的個人主義 (1)表現主義的言語理論

(2)自己解釈的存在としての自己 (3)全体論的自己観と個人主義

4.テイラーの全体論的個人主義と権利主体論 5.子どもの権利主体性

第9章 テイラーの表現主義的個人主義と現代の人身売買 1.現代の人身売買

(1)人間の安全保障と人権 (2)人身売買の現状 (3)エンパワメントと参加 (4)人身売買と人権

2. (表現の自由)の侵害としての人身売買 (1)ネオリベラリズム,近代啓蒙主義と人身売買 (2)近代的自己の諸源泉と くはんもの)という倫理 (3) (表現の自由)の侵害としての人身売買

第9章付論 人身売買の事例研究報告‑フィリピンのケース

(4)

1.課題の提示と方法論の説明 (1)課題の提示

(2)方法論の説明

2.フィリピンでのワークショップの報告 3.暫定的な結論と今後の課題

第10章 テイラー『マルチカルチュラリズム』と現代日本 1.課題の設定と方法論の提示

2.テイラーの基調報告一承認の政治 (1) 『マルチカルチュラリズム』

(2)テイラーの基調報告一審認の政治 3.テイラー報告に対するコメント

(1)スーザン・ウルフのコメント

(2)スティーブン・ロックフェラーのコメント (3)マイケル・ウオルツアーのコメント (4)ユルゲン・ハーバーマスのコメント (5) K アンソニー・アツピアのコメント 4.マルチカルチュラリズムと現代日本

第11牽 ナショナル・アイデンティティとしての自由民主主義‑イグナティエフ『ヴァーチャル・ウオー』 『次善

'J点 、‡卜}て'' ''4 i蝣: .:二JJ削

1.課題の設定と方法論の提示 2.イグナティエフの思想

(1) 『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』に見るイグナティエフの思想 (2)イグナティエフの思想の特敬一多元的リベラリズム

3. 90年代以降のイグナティエフ

(1)合法性と正当性‑ 『ヴァーチャル・ウオー』

・∵ :i.ilV7,J上目 二㌦  八」

(3)人権を巡る米国の矛盾‑ 『米国の例外主義と人権』

4.現代日本の課題

第12章 テイラーへの応答‑わたしのコミュニタリアニズム 1.わたしのコミュニタリアこズム

2. E]本の近代と人権 3.日本の近代と個人主義

4. 「超越的体験」としての東洋的無 5. 「東洋的無」の主体としての「身」

6.自己解釈的存在としての「身」を巡る課題‑リベラリズムとコミュこタリアニズム

補論1 チャールズ・テイラーの作品と関連文献リスト 補論2 マイケル・イグナティエフの略歴と作品 その他の文献リスト

[3〕各章の概要

第1章は序章であって,先ず,ユニセフでの活動を通じて人権という問題に遭遇し,それが本論文を執筆する契 機になったことが表明されている。この間題はイグナティエフの論文・著作を読み進める中で,人権は普遍的なも のかという問題として意識されていく。そして,この間題を解くには,テイラーの「権利主体としての自己」を取

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り上げることによって最も適切な回答が得られるのではないか,と考えるようになる。テイラーによれば,権利主 体としての自己の観念こそ,近代西欧に特有なものである。従って,この自己が如何に形成され,どのような特質

を有するものかが理解されれぼ 近代西欧が生み出した人権の特質を明らかにすることができるはずである。

第2章は,イグナティエフの『政治,偶像としての人権』などを踏まえながら,人権の普遍性を考察している。

第2次世界大戦後,人権は国際人権として考えられるようになり,急速な発展をもたらしたが,また多くの議論を 引き起こしきた.如何なる意味において人権は普遍的かという議論もその一つである。イグナティエフは,国際人 権の問題を現実主義的立場から挑戦しているが,彼の人権思想の核心は,エイジェンシー,ミニマ7)ズム的人権構 想,個人主義にある。本論文は,ガットマン,アツピア,ホリンガ‑などの議論を参照しつつ,イグナティエフの エイジェンシー概念を出発点とし,バーリンの消極的自由一積極的自由をめぐるイグナティエフとテイラーの立場 を解明する。その結果,イグナティエフとテイラーの自由についての考えが実践段階において似ていること,リベ ラリズムとコミュニタリアニズムは,違った自己観に立ち異なった人権論を説くが,人権の普遍性は何れの自己観 からも導出されることが判明する。最後に,近代個人主義の問題点をテイラーの議論に基づいて検討し, 「<ほん

もの>の個人主義」の再生によってその克服が可能であることを明らかにしている。

第3章は,テイラーの主著『ヘーゲル』を取り上げ,カトリック教徒のテイラーからヘーゲル哲学を解明する。

具体的には. 1.ヘーゲルは西欧が直面する近代のアポリアに如何に取り組んだか, 2,へ‑ゲ)i/の論理学は何を 目指したのか, 3,汎神論的基層文化を持つ日本が,自らのアポリアを克服するためにヘーゲルから学ぶべきこと は何か,を検討する。 1については,近代化の中で見失われていく超越的な精神の再生こそが.ヘーゲルの試みた ことであったというO これについては,中沢新一も近代西欧社会が忘れ去った神話を弁証法という方法によって再 興しようとしたのが,ヘーゲルであったといっている。

2については,唯一絶対神の存在を前提とせず,精神をその必然的論理の展開のみによって絶対的精神の実在と 世界史は絶対的精神の発展過程であることを証明することを目指したのが,ヘーゲルの「論理学」であった,と。

3については,日本において近代的な自律的な個人意識を確立するために,日本的霊性の近代的復権を必要とする ならば,その企ては,ヘーゲル哲学から多くを学ことができる,と答えている。

第4章は.テイラーの『自己の諸源泉』に基づきつつ,近代西欧に成立した人権思想がどのような意味で西洋的 なのかを明らかにしている。近代以前の道徳世界と近代以後のそれとの違いは,権利の内容ではなく,権利の形式 である。近代以前においては.人は法の下にあると考えられていたが,近代以後は,権利はその所有者がそれを実 現するためにそれに基づいて行動すべき,行動することができる主体的権利と考えられるようになった。そしてこ の権利主体としての自己には, 1,近代的な内面性, 2, B常生活の青息 3,内的道徳の源泉として表現主義的 自然観念,といった特徴がある。前近代的な階層秩序から解放された個人は,プラトンからアウグステイヌスにい たる内面への転回という伝統を踏まえた徹底的な内省を通じて,自己探求と克己という内面性の観念を生み出し,

ここから自律と承認された独自性という近代的自己像が展開された。神聖な社会的秩序から解放された自己にとっ て,生産活動と家庭生活を中心とする日常生活及び苦痛からの回避が嚢も重要なものと考えられるようになった。

近代社会はそれ以前の社会と違って,個人の人生に意味を与える万人に共有される枠組みが存在せず,自分にとっ て何が重要かということについての枠組みは,自分にとって意味ある表現を行う表現力を発展させることによって 組み立てなければならない。そのための自己探求とは,自分は何かということ,即ち,人はそれぞれに独自のあり 方を持っているということになる。このような近代的アイデンティティの観念は,ヘルダーリンに代表される後期 ロマン主義に典型的に現れる表現主義的自然観念を発展させたO また同車の終わりで,テイラーの思想の特徴とし て,キリスト教的伝統の肯定,ロマン主義的な反啓蒙主義,現象学的方法論,を挙げている。

第5章では,テイラーの言語哲学が分析されている。テイラーの言語論は,表現主義的言語理論と呼ばれるもの で,ヘルダー,フンボルト ハイデガーの系譜上にある(それ故に, 3H理論といわれる)O またそれは,言語論 的転回による認識論的枠組みの転換を反映しているO言語論的転回と紘,これまで,意識や観念を伝える媒体とみ なされてきた言語が,‑逆に意識や観念の内容を構成していくものとして考えられるようになったことであるO 次に テイラーの行為論が取り上げられ,彼は行為を端的に表現だとする。つまり.行為は真の表現が可能となる公共空 間を構成するという意味で表現というのであるOエイジェンシーという概念は,行為をキーコンセプトとして,近

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代の想定する意識的自我を中核とする理性的個人に対する代替的概念として提示されたものである。そしてこのエ イジェンシー理論こそ新たな権利主体論を構築する概念的枠組みになり得ると考える。

第6車は,テイラーの『近代の社会像』に依拠しつつ,近代西欧社会像の内容とその核心を明らかにしているo テイラーは西欧近代を形作った主要な社会像として,市場経済,公共空間,主権者としての人民の3つを挙げる。

市場経済は政治から独立した敢初の空間であり,安全と経済的豊かさを目的とする世俗的で水平的な社会であっ て, 18世紀に始まり現代に至る近代西欧社会像を形成した。市場経済の直ぐ後に現れたのが公共空間で,それは, 直接的な対面あるいは様々な媒体を通じて出会い,共通の関心事項を議論し,共通の考えを形成する空間である。

人民主権への移行には,二つの経路があって,アメリカとフランスでは違った経路をとった。アメリカでは慣習的 な意味を持った社会像が既に存在していたので,その再解釈という形で移行したが,フランスでは受容され合意さ れた社会像なしで行われた。次に,近代西欧社会像の核心は権利主体の自己像だという。この近代的自己を権利主 体としたのが, 17世紀の自然法論であった。この権利主体としての近代的自己像と近代的社会像とは密接に結びつ いている。神聖な社会的秩序から解放された自由な主体に対応して,自由な個人の同意によって形成される権利主 体によって構成される社会という社会像が誕生したのである。

第7車は,テイラーの思想に拠りながら,近代西欧が生み出した近代西欧的自己が今日深刻な限界に直面してい る原因を探っている.テイラーは現代西欧が危機に陥っている面として, 1,唯一神が創造した世界の本質的善性

という一神教の想急 2,啓蒙主義とロマン主義が想定する単一自己モデル,を挙げている。キリスト教神学にお いては創造は究極的には善であるとされる。自然の善性とは西欧においては周縁的価値ではなく.プラトン主義と キリスト教の結合によって生まれた西欧の根幹的価値である。この価値は近代に至っても啓蒙主義とロマン主義に

よって鮭番された。そして啓蒙主義もロマン主義も異なった形ではあれ,単一の自己という観念に依存している。

この単一の自己という観念と唯一神が創造した世界の本質的善性という想定は西欧の知的伝統である認識論的二元 論と存在論的一元論を通じて相互に結びついている。啓蒙主義が想定する解放された理性は,経験を支配し,思考 と人生を指示し得る理性の秩序を構築できる厳格な管理中枢を必要としていたし,ロマン主義も,本来分裂してい た自己が感覚と理性の調和によって再統合されると想定していたOだが,ショウペンハウエル以隠 解放された理 性とロマン主義から脱却しようとするにつれ.単一の自己の枠外に出る必要性が認識されるようになった。即ち, 現在われわれは「主体の脱中心化」の時代を迎えているというのである。

第8肇は,テイラーの全体論的個人主義に依拠しつつ,子どもが権利主体と考えられる根拠は何かを考察してい る。テイラーは,存在論における全体論と原子論.政治的主張における集団主義と個人主義を,異なったレベルの 対立概念であり,両立可能だとする。つまり,テイラーの全体論的個人主義は,存在論的には全体論,政治的主張 としては個人の権利と自由を優先する個人主義ということになる。しかしここには,このような個人主義が整合的 な論理・主張として成立し得るかという問題がある。本論文は,その全体論的自己観をその根拠となっている表現 主義的言語観を明らかにすることを通して理解し,自己解釈的存在としての自己を取り上げ,全体論的自己が社会 科学のレベ)I,で個人主義に結びつくことを示すことで論証しているOそして.テイラーの全体論的個人主義は,言 語によって世界を共有する共同体によって構成される自己を前碇とした個人主義であるという。ここで,権利主体 としての人間について二つの見方が可能になる。第‑の見方は,自己解釈的能力を持つものだけが権利の主体であ り得るという考えである。第二の見方は,人間には価値の世界に生きる遺徳的な潜在能力が戯与されているが,こ の能力は社会や文化の中でのみ評価され開花するという考えである。この第二の見方に立てば,自由な個人を育て ることに価値をおく社会・文化においては,子どもも権利主体である考え方は十分成立するという。

第9章は,テイラーの人間観に拠りつつ,現代の人身売買問題を考察しているOテイラーの人間観は,ロマン主 義のみならず, 20世紀前半の言語論的転回を踏まえた表現主義的言語観に基づいている。従って,人間は切り離さ れた自己ではない。テイラーはこのような人間観に依拠して,自己決定の自由と結びついた「<ほんもの>という 倫理」を個人主義の遺徳観念として高く評価する。そこから,啓蒙主義的人間観から導かれる人身売買観とは違っ た考えが出てくる。原子論的人間観に立つ啓蒙主義にとって,人身売買は何よりも個人の人身の自由を侵害する行 為と考えられる。今日のネオリベラリズムは近代啓蒙主義の最後の段階のものとされる。しかし,啓蒙主義の人身 売買観は一面的であるO人身売買で失われるものは,人身の自由だけでなく,一人ひとりの人間がその独自性を共

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同体において実現していく機会であり,その結果としての個人の尊歌である。それ故に,より重安なのは表現の自 由である。人身売買は. 「表現の自由」を奪うことによって.個人の尊厳を侵害する行為である。なお,第9率に は付論として,人身売買の事例研究としてフィリピンのケースの研究報告が加えられている。

第10章は,テイラーの『マルチカルチュラリズム』を取り上げ.マルチカルチュラリズムが西欧の思想的文脈で 有する意味と現代日本に対して持つ意義を検討している。マルチカルチュラリズムは.近代のプロジェクトが持つ 平等性・普遍性への志向性を批判する。手続き的自由主義の中立性要求も近代社会の一つの特質であるが,テイ ラーはその起源をカントまで遡るo Lかしテイラーは.自由主義が中立性を保持することはできか、しすべきでも ないと考え,非手続き的自由主義を支持する。テイラーは.すべての文化を平等に尊重すべきだとする考えには懐 疑的であるO特定の文化に対して,すべての文化を平等のものと仮定することを権利の問題として要求することに は賛成するが.特定の文化を優れた価値のあるもの,あるいは他の文化と対等なものと見放すことを権利の問題と

して要求することには賛成しない。こうしたテイラーの考えに対して,本論文は次に,ウルフ,ロックフェラー, ウオルツアー,ハーバーマスなどの評価を紹介しているOその後で,マルチカルチュラリズムが現代日本に対して 持つ意義の考察に向かい.先ず」淡前の日本の混合民族論を振り返るが,いま必要なのは,日本の文化的伝統の意 識化 論理化 明断化であるというOそして,グローバル化に伴うマルチカルチュラリズムに対応するためには, 権利の主体としての自己意識の確立と,そのような自己意識に基づいてナショナルアイデンティティとしての自由

民主主義を確立することである,という。

第11章は.イグナティエフの諸著作を解読し,それらに見られる彼の思想と現代日本はそれらから何を学ぶべき かを論じているO先ず,イグナティエフの名を高からしめた『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』を取り上げ,被 の思想がバーリンの多元的自由主義に通じていることを明らかにする。イグナティエフの権札 ニーズに対する抑 制された姿勢は.人類の多様性は本質的なもので,それが,人間的な地平に止まる限り,尊重されるべきとする

バーリンの立場と塵なっている。しかし.イグナティエフは単なる懐疑主義者ではなく,自由に対する信頼は,級 にあってほ揺るぎないものである。次に, 1990年以降のイグナティエフの思想を, 『バァ‑チヤル・ウオー』 , 『次 善の悪退, ㌻米国の例外主義と人権』を取り上げ明らかにする.例えば.イグナティエフは,人権という文化は他 者ないし多文化と関るものであるから◆ 彼らの意見に耳を傾け.理性的対話を通して,より良い結論を導かねばな らない,と主張してアメリカの例外主義を批判する。また,イグナティエフの戦争に対する態度から,現代の冒本 が学ぶべきことは,彼の知的誠実さと精神的自立性に基づく遺徳的勇気であり,彼の実践と思索からは,日本人が

自由民主主義を当事者として生きることはどういうことかを反省することである,という。

第12章は本論文の終章であって,テイラーが明らかにした特殊近代西欧的自己観である「権利主体としての自己」

に対し,日本における近代的自己はどのような形で構想できるかについて独白の考えを提示し,本研究を締め括っ ている。西洋は絶対的創造者としての唯一神を基底に持つ社会であるが,日本は絶対者を想定しない汎神論的世界 観を基層に持つ社会である。そこに,西洋と日本との最も根本的な違いが認められる。従って,西洋の近代的自己 像が,日本に定着することは殊しいOそれ駄 今日の日本の課題は,汎神論的世界観を基層とする日本社会に適合 的な近代的自己モデルを確立することである。本論文はここで,伊藤登,久於真一.市川浩などの議論を援用し, 独自の考えを表明する。伊藤は,西洋における神という絶対の働きと,東洋の無の働きは同じだと考える。この無

を理論化したのが久松である。久桧は,西田幾多郎の絶対無を自己に当て飲めることによって,無相の自己 つま り東洋的無の自己ともいえる観念を提示している。それを西洋哲学用語で表現すれば,主体的主体,純粋な絶対主 体となるOでは,この主体的主体という概念を伝統的な日本語ではどう表現されるか。そこで,市川の「身」とい

う考えが採り上げられる。それは,人間の全体存在を包括した概念だが,その全体は実体的琉‑ではなく,多極分 解の可能性に晒された錯綜体としての統一とされる。実にこのような「身」の概念こそ,テイラーの自己解釈的存 在としての自己観と親和的なのであり,エイジェンシーの概念とほぼ対応しているといえる。このように市川の身 の哲学において,無の哲学と権利主体としての自己とが日本の文化的文脈において繋がれる。しかし 日本の知的 伝統においては自律的自己という意識を安易に超越しようとする傾向がある。そこで,本章の最後で,従って本論 文の最後で,日本の伝統的な自己観と親和的なコミュニタリアこズムの自己観が諸価値の対立下で公共性原理を追 及するリベラリズムとどのように接続し得るかを,井上達夫やサンデルなどの議論に依拠しつつ検討する。そこか

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らはまだ鋭得力ある結論は展開されていないが,おおまかにいえば,自己解釈的存在としての自己は構成的共同体 と接続されざるを得ないということになろう。本論文は次の文章で終っている。 「リベラリズムとは自己解釈的存 在としての人間が存在し得る社会的粂牲 井上の定義による人格構成価値の次元における一つの番き生の構想であ る。そして,リベラリズムの確立を通じた自由で民主的な社会の形成は,人々の実践によって育まれた歴史的な共 通信念によって可能となる。」

[4]分析と評価

審査員から出された意見等を摘示すると以下の通りである。

第1章は,本論文の課題と方法論が簡潔かつ的確に記述され,本論文の序章に相応しい車といえる。ただ,本論 文の構成,具体的にいえば各章間の関係についての説明があれば,もっとよかったであろう。

第2肇で,テイラーの「<ほんもの>の個人主義」とハイエクの「其の個人主義」とは概念的に近いものと論じ られているが,両者の思想的背景はかなり違っているので.もっと綿密な論証が必要ではなかったか。もっとも本 論文が,テイラーを大陸思想だけでなく英米思想にも精通した思想家として理解している点には異論はないが。

第3章は,テイラーの大部で難解な『ヘーゲル』を原文でよく読んだ上で,議論を展開していて大いに評価でき る。特に,ヘーゲルの論理学が目指したのは何かという問題を取り上げ,論じていることは評価されてよいO これ は,日本に見られる誤晩即ちテイラーはヘーゲルの論理学を読まずにヘーゲルを論じているといった誤解,の解 消に資することになろうo Lかしここでの議論は,殆どテイラーのヘーゲル解釈に依拠しているので,それをヘー ゲル自身の思想として議論してよいのか,という問題があるO また,テイラーの議論なのか.申請者自身の議論な のか判然としないところも見受けられる。

第4肇で,テイラー思想の特徴の∵つとして,ロマン主義的反啓蒙主義が挙げられている。実際,テイラーはロ マン主義の研究を深く行い,その影響を強く受けている.しかし,バーリンもロマン主義に非常な関心を示し,ロ マン主義,ロマン主義思想家に関する論述もある。そうしたバーリンのロマン主義研究が,テイラーに何らかの影 響を与えたことはないのか。また,ロマン主義の解釈について,バーリンとテイラーの間に違いはないのか。そう

した点について研究を進めると,テイラー自身の理解も深まるのではないか。

第5章で,テイラーの言語論がヘルダー,フンボルトだけでなく.ハイデガーの系譜上にあると論じられているo また,第4章でも,現象学的方法論のところで,テイラーの『自己の諸源泉』は,ハイデガーの『存在と時間』の 影響を受けている,と論じられていた。恐らく,テイラーの思想は,その自己観,言語論だけでなく,近代西欧文 明批判を含めて,かなりハイデガーの影響を受けているはずであるが,その詳しい議論が本論文ではなされていな い。ハイデガーは社会科学については殆ど論じていないので,ハイデガーとテイラーを比較論じることは難しいこ とではあるが。しかし言語論は,ハイデガーにとっても極めて重要なテーマであっただけに,言語論におけるハイ デガーとテイラーとの関係についても少し詳しい議論があってもよかったのではないか。

第6章では,テイラーの『近代社会像』に依拠して,近代西欧を形成している,市場経済.公共空間,主権者と しての人民という三つの社会像が論じられているが,この中で,後者の二つはよく議論されているけれども,市場 経済については,少し物足りない。市場経済については,やはりイギリスの古典自由主義者の議論に触れる必要が

あろう。ここでは,ロックには言及されているが,ヒュ‑ムやスミスの市場経済論には触れられていない。イグナ ティエフは,イギリスの古典自由主義者にも精通しているのであるから,ここにイグナティエフの議論を加えると, より詳しく明確な市場経済像が描けたのではないだろうか。また本章では,人民主権への移行にこっの経路があっ たという議論がなされていて,これは現代社会を考える上でも大いに興味あることである。

第7車では,ロマン主義の現代的展開が興味深く論じられていて評価される。また,本章で,唯一神が創造した 世界の本質的尊性という一神教の想定が現在危機に直面しているというテイラーの議論が取り上げられている。こ の議論は,西欧思想の最大の問題は「一元論」にあるとするバーリンの議論と重なるところはないか。そうすれば 西欧のもっと長い歴史的視座の中で,現代社会を捉えることができるのではないか。やはり,キリスト教に対する

態度や考えが異なるがゆえに,テイラーとバーリンの議論にこうした違いが生まれるのだろうか。しかし,非キリ スト教圏の日本では,寧ろ,バーリンの議論の方が容易に理解されるのではないか。

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第8章で,人権主体論について,強い人権主体論と弱い人権主体論の二つの立場があるとされ論じられているが, 人権主体論の議論として,こうした議論ははたしてどれほどの重要性を持っているのか。法理論からの厳密なアプ ローチがあってよかったのではないか。本章でも,上記二つの立場が前提としている人権主体としての自己観は共 に原子論的存在論に基づいていると,否定的に議論されているO そうであれは 強い人権主体論と弱い人権主体論 を持ち出す意味はどこにあったのか。もっとも,現代の人権主体論が上記二つの議論しかないのなら議論は別だ が。また,テイラーの全体主義的個人主義を論じたところで,田中智彦や,中野剛充の議論を取り上げている。田 中は,テイラーの思想を入間と世界の関係の両義性を明らかにしようとするものとして捉え,中野は,テイラーの 思想を,自己論,社会・存在論,政治論の三つの次元において連続性を持つものと理解する。確かに,田中や中野 のような議論をした方が.本章だけでなく本論文全体がもっとスッキリした形で論じられるのではないか。勿論そ れは,議論のレベルでそうだというに過ぎない。

第9撃で,エンパワメントが能力強化という意味で用いられているけれども,本来の意味はそうではないことが 指摘されている 2004年に発表された米国国務省の 陀004年度人身売買報告審』は,エンパワメントを能力強化と いう意味で使っている。しかしエンパワメントの本来の意味は.あるがままの自分を尊重すること,あるがままの 自己を受容してもらえる人と人との関係を示す言葉という。これは重要な指摘だが,具体的にはどういうことなの か,もっと詳しい説明があるとよかった。また,本章2で.ネオリベラリズムについて取り上げられているが,リ ベラリズムとネオリベラリズムの違いはどこにあるのか,また,イグナティエフも基本的にはリベラリズム擁護者 であるが,イグナティエフが擁護するリベラリズムとここにいうネオリベラリズムとはどう違うのかなどについ て,もっと詳しい議論がほしかった。

第10章で,テイラーは,非手続き的自由主義の擁護者として以下のような主張をしているという。即ち,特定の 集団が強い集団的目標をもつ社会においても,基本的自由に対して適切な保護を提供できる社会は自由主義的であ り得る,と.それほどの程度までいえるかo Lかしもし,ある特定の集団の目標が社会全体の目標となった場合は, もはや自由主義的とはいわれないであろう。また,手続き的自由主義か否かの議論の中で,ドゥウオーキンの議論 に触れているが.これも非常に重要な議論であるから,もっと詳しい議論がほしかった0

第11率は,イグナティエフの諸著作を丁寧に読みよくまとめているが,本章が本論文の中でどのような位置を占 めているのかの説明があるともっとよかったのではないか。

第12肇は,これまでの議論を総括し,現段階での一応の結論を提示し,潤筆している。テイラーが明らかにした

「権利主体としての自己」は,唯一神を基底に持つ西洋において説かれ得たもので,汎神論的世界観を基層とする 日本において,そのような西洋的な自己観が根づくことは粍しいO従って,今日の日本の課題は,近代日本社会に 適合的な自己観を確立することである。本論文は,伊藤整,久於真一などの東洋的思想を検討し,西洋的自己観に 対応するものとして,東洋的無の自己,主体的主体,純粋な絶対的主体といった考えを持ち出すO ここでは,論理 的議論というより,直感的な議論がなされている。しかし,こうした表現では,日本人の中に浸透しないと考えた のであろう,それを日本の伝統的な言葉で表そうと求める。そして得られた言葉が「身」であった。ここには,現 実との関りを決して見失うことなく議論しようとする本論文の根本姿勢が如実に示されている。また,本論文の今 後の研究が,アジア諸国の自己観,それに基づく人権論‑の考察へと向かうことが示されていて,本研究の今後の 発展が期待される。

本論文を全体として見た場合,何よりもこの研究の先駆的意義が強調されねばならない。本論文が主として取り 上げているテイラーは,日本でも盛んに論じられているが,しかしテイラーを包括的に議論したものはなく,本論 文が最初である。これはイグナティエフについても同株で.イグナティエフのすべての著作を検討し論じたもの も,少なくとも,日本ではこれまでない。本論文はイグナティエフ研究でも先駆的意義を持っているのである。し かも,本論文のテイラー論にもイグナティエフ論にも.随所に独自の見解と解釈が見られる。テイラーもイグナ ティエフも世界的に著名な思想家であるが,日本において,まだ彼らを扱った研究書がないのは,原文が殊解で, 翻訳書も少ないということがある。申請者は,彼らの著作を尽く原文で読み,先行研究も踏まえつつ,独自の議論 を行っている。また,本論文の議論が極めて説得的であることが指摘されてよいであろう。これは,本論文が,西 洋と日本という比較の視点と現実との関りということを終始見失うことなく論じられたことによるものと考えられ

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る。本研究がともかく,日本的な「身」の哲学まで辿り着いたことは,本論文執筆の問題意識が如何に強烈なもの であったかを窺わせる。また,本論文を読むと,ユニセフでの体験が如何に重いものであったかが感じられる。本 論文には確かに,荒削りな議論,一面的な解釈も見られるが,しかしそれは今後の本研究の発展の可能性を示すも

のである。

以上を総合的に判断した結果,本論文が「博士(学術)早稲田大学」の学位に値するものと認める。

2006年10月4日

主任審査員 審 査 員 審 査 員 審 査 員 審 査 員

早稲田大学社会科学総合学術院教授 早稲田大学社会科学総合学術院教授 早稲田大学社会科学総合学術院教授 早稲田大学社会科学総合学術院教授 早稲田大学政治経済学術院教授

経済学博士(早稲円大学)古賀勝次郎 那須 政玄 櫛投 光‑')]

博士(政治学)早稲田大学 厚見恵一郎 佐藤 正志

(11)

博士(学術)学位論文概要書

『チャールズ。テイラーと権利主体論

‑現代多文化社会における「権利主体としての自己」を巡る研究‑』

森 田 明 彦

本論文は.これまでの実践活動を通じてわたしが感じてきた人権の普遍性に関連する問題について,マイケル・

イグナティエフおよびチャールズ・テイラーの作品に基づき考察を試みたものであるO

そもそも.人権はいかなる意味で普遍的なのだろうか。わたしは,多文化の下での人権の普遍性を検討する際, 既存の文化を前提として,現行の人権思想との整合性を議論することは二登の意味で過ちであると考えている。第

‑に,人権思想自体がナ酉政近代社会において成立した歴史的産物であり,西欧社会の文化的偏向を反映しており, これをそのまま受容しようとすることは,個人の基本的平等から導かれる各個人の属する文化 民族,国家間の基 本的平等という人権思想の内在的原則に反している。第二に,それぞれの文化の内容は所与のものではなく,その 内容を決める権利は個人にあるという人権思想のもう一つの原則である個人の自律性を無視しているOつまり,あ る文化の下で人権という思想は完著し得るか,という問いには現在の人権思想自体と当該文化に対する批判的吟味 が伴っていなければならない。

わたしは,国際人棒という理念は,各々の文化において異なった基礎付け,原理的根拠を見出すべきであると考 えている。そのためには.冒)現在の人権思想のどの部分がその誕生の地である西欧社会の文化的偏向を反映した 特殊西欧的なものであるかを明らかにするという社会思想史的分析, (2)特殊酉洋的な部分を取り外した人権思想 はどのようなものとなり得るのかという哲学的検討, (3)人権という新しい思想を受け入れるために,特定の文化 にとっていかなる変容が求められるのかという文明論的検討という三つの作業が不可欠である。

そのために取り上げたのが「権利主体としての自己」という観念である。テイラーによれば 近代における遺徳 世界が,それ以前の文明と決定的に異なっているのは.権利の内容ではなく,稚利の形式である。すなわち,近代 以前において,ひとは「法の下にある(Iai llderlaw)」と考えられていたのに対して,近代以降,権利とはその 所有者が(権利を)実現するために,それに基づいて行動すべき,あるいは行動することができる「主体的権利」

と考えられるようになったのであるO 中世の身分制社会から解放された個人は,自らの望むところにしたがって自 らの人生を発展させる穣利を, 「法」によって与えられたのではなく,自らに帰属するものと考える「権利の主体」

となった。 「棒利の主体としての近代的自己」は,自由で民主的な共同体に「位置づけられた存在」として,他者 との対話と承認を通じて自らの個性を発展させるために,そのような生き方を可能とする自由主義体制を維持,発 展させる社会的資務を自ら担う「主権者としての人」となったのである。

権利主体としての「自己」の観念こそ,近代社会に特有なものであり,近代西欧社会が生み出したこの権利の主 体としての「自己」がどのような特質を有し,どのように形成されたのかを辿ることによって,近代西欧社会が生 み出した人権の特質を明らかにすることができるとわたしは考える。

テイラーは,敬虎なカトリック教徒として酉欧文明におけるキリスト教の一神教的伝統を強く擁護する一方で, ヨーロッパ大陸系哲学と英米分析哲学という両分野において, 「自己」を巡る多くの卓越した論考を発表し,更に, 80年代のリベラル・コミュニタリン論争および90年代の多文化主義を巡る議論においても主導的役割を果たした現 代の代表的な思想家の一人である。西欧的自己の特色およびその限界を検討する上で,テイラーの思想は最良の材 料を提供してくれるものとわたしは考えた。

テイラーの思想を学ぶ中で,わたしは西欧近代社会において成立した「単一自己(unitaryself)」という自己理解 の形式は必ずしも近代社会にとって普遍的な自己理解の形式ではないと考えるようになった。テイラーによれは 現代西欧社会において危機に瀕しているのは(1)唯一の神が創造した世界の本質的善性という一神教の想定, (2)

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西欧近代の主要な知的潮流である啓蒙主義とロマン主義が想定する単一自己モデルであるが,この二つの想定は西 欧社会の知的伝統である認識論的二元論と存在論的一元論を通じて相互に結びついている。すなわち,物自体の世 界に対する主体の自立的認識能力を確保することによって主体の認識する世界の一元性,すなわち神の創造した世 界の一貫性‑善性が確保されるのである。しかし,この自己理解の形式は西欧社会に特有なものであり,近代社会 において可能な唯一の自己理解の形式ではないO しかし,社会的存在としての人間をその尊厳と権利において平等 な存在とみなす「近代」の思想は普遍的なものであると私は考えている。

したがって,現代E]本の課題は西欧社会のように絶対者を想定しない汎神論的世界観を基層文化に持つ社会にお いて,如何に「近代社会」が要請する権利の主体としての近代的自己意識を確立するかであるとわたしは考えるよ

うになった。

一方,イグナティエフは,ジャーナリスト, TVレポーター,歴史家として多彩な経歴を重ねる中で,現代人権 を巡る数多くの論考を発表してきた。イグナティエフは. 1999年の多国籍軍によるコソボ作戦を支持し,さらに 2003年の米国によるイラクへの武力行使を容認して国際的な議論を引き起こしたが,近年は米国が自由民主主義と 人権を国際的に普及させることを国家理念に掲げる一方で,国際的な人権基準に従うことを拒否する例外主義を とっていることを指摘し,そのような例外主義が米国に対する国際的な信頼を損なっていると批判している。わた しは,イグナティエフの行動と思索を通じて,人権という理念を具体的な文脈の中で考える必要性を学んだ。

わたしの研究において,テイラーとイグナティエフは権利の主体としての自己という観念において交錯してい る。イグナティエフは『政治,偶像としての人権{HumanRightsa.∫Politic.∫andIdolatry)』において「エイジェンシー (行為者性)」をバーリンの消極的自由とほぼ同義であり, 「何らの干渉もない状態において,一人ひとりの個人が 理性的な意図を実現できる能力」と定義している.イグナティエフが,この「エイジェンシー」という観念を採用

したのは人権の基礎付けを巡る倫理学,形而上学の果てしない不毛の論争を避けるためであった。一方,テイラー は自己解釈的存在としての自己という観念を提示したが,この自己解釈的存在をエイジェンシーと呼んでいる。桂 木隆夫は,テイラーのエイジェンシーを自己の道徳的生活についての解釈を通じて人格を形成する存在であり,そ の人格形成は他者‑共同体との絶えざる対話を通じて行われるという意味で,従来のリベラリズムの自律的人格概 念とは異なっていると解釈している。さらに,上野千鶴子は, 「エイジェンシー」という概念を,言語に先立って 自律的な「主体」を前提とする近代の人間中心主義に対する批判から生まれたものであるとして, 「構造と非構造 とが言説実践の過程でせめぎあう,生きられた場」であると解説している。

わたしは,このように理解されている「エイジェンシー」概念を明断化することによって,多文化の下で了解可 能な権利主体としての自己の構想の糸口を見つけられるのではないかと考えた。

一般にイグナティエフはリベラリスト,テイラーはコミュニタリアンと冒されているが,両者はアイザイア・

バーリンの影響の下でそれぞれの思想を形成したという共通点がある。テイラーは1956年より61年までオックス フォード大学のオール・ソウルズ・カレッジのフェローとしてバーリンから直接指導を受け, 1976年にはバーリン が担当していた同カレッジのチチェリ講座の後継者となったのに対して,イグナティエフは1987年,イグナティエ フのユダヤ人問題に関する発言をBBCを通じて開いたバーリンに招待されて,やがて,バーリンの伝記を普くに 到っf‑

バーリンは自分とテイラーは社会への帰属が本質的な人間のニードであることにおいて合意しており,両者の基 本的な相違は,自分が異なった社会が追求する諸価値は相互に両立可能でないことを認めているのに対して,テイ ラーはそれらの異なった社会が究極的に何らかの調和に向けて進んでいると信じている点にある,と番いている。

しかし,テイラーは,差異の横断を通じた統一は人間を越えたもの, 「超越的なもの(transcendence)」への信仰に よってのみ可能であると述べており,世俗世界における諸価値の予定調和を想定しているわけではない0 ‑万,イ グナティエフはバーリンの思想を単なる相対主義とは異なったものであり,様々な価値体系の間の相違を認めつ つ,いずれの体系も人間のニードと目的に言及していること,その意味で「人間の地平(humanhorizon)」の範 囲内に留まっているという前提を共有していることを承認する思想であると述べている。わたしの見方によれば, バーリンとテイラーの思想上の相違はバーリンが無神論者であるのに対して,テイラーが敬慶なカトリック教徒で あることから生じているのであり,両者はR・俗世界における異なった価値の共存を認める自由主義を支持している

(13)

という点では共通していると考える。今日の日本では戦前の全体主義,共同体論を想起させるものとしてテイラー の思想を敬遠する者も少なくないが,本論文では,以上のような立場から.テイラーとバーリン,そしてイグナティ エフの思想を対立するものとしては扱っていない。テイラーとイグナティエフは,いずれも,バーリンの多元的自 由主義を継承する思想家であるとわたしは考えている0

本論文は,以上の問題意識に基づくわたしの人権を巡る知的探求の成果をとりまとめたものである。

第2車では, 「如何なる意味で人権は普遍的なのか」という問いについて,先ず,イグナティエフの『政治,偶 像としての人権』を踏まえつつ,考えてみた。イグナティエフの人権構想の特徴は, 「エイジェンシー理論」,ミニ マリズム的人権構想,個人主義の3つにあるとわたしは考えている。このイグナティエフの人権構想に対するエイ ミ一・ガットマン等の批判を踏まえつつ,第一にイグナティエフがバーリンの消極的自由とほぼ同義であるとする エイジェンシーという概念を出発点に,消極的自由と積極的自由を巡るイグナティエフとテイラーの考え方の共通 点と相違点を検討したOその結果,リベラリストであるイグナティエフと一般にコミュニダリアンと冒されている テイラーの自由を巡る考え方は実践段階においてはきわめて近いということが明らかとなったO第二に,近代人権 の根拠と考えられている尊駿と個人のアイデンティティ,自由の関係について検討し,人間は固有の意志に基づく 自由があるという想定のみからは人間であることを根拠とする尊厳という価値は導出されないことを示した。ま た,人権の普遍性はリベラリズん コミュニタリアニズムが想定する自己観のいずれからも導くことができること を明らかにした。第三に,テイラーの論考に基づき,近代個人主義の問題点を明らかにし,その克服が「 (ほんも の)の個人主義」の再生にあることを明らかにした。またナ テイラーのコミュニタリアニズムが実はハイエクの示

した「真の個人主義」の系譜にあるものでありことを論証した。

第3章では,テイラーの初期の主著である釘ヘーゲル{Hegel)』を取り上げ̀近代を人間の自己理解の形式の革 命と捉えるテイラーの史観からみたヘーゲル哲学の意義と問題点を取り上げた。わたしは, (1)ヘーゲルが目指 したものは,近代化の中で見失われていく超越的な精神性(人間を超越した絶対的精神)の再生であり, (2)ヘー ゲルの「論理学」は, 「精神」をその内在的,必然的な論理の展開のみによって明らかにすることによって,唯一 絶対神の存在を前提とせずに.人間を超越した絶対的精神の実在と世界史はこの絶対的精神の発展過程であること を証明することを主要な目的の一つとしていたと考えている。人間という存在を絶対化することなく,一方でその 尊厳を何らかの普遍的価値と結び付けて肯定することは,現代社会において繰り返し問われる根本的な思想的課題

の一つである。絶対的存在としての唯一神という観念を伝統的に持たず,汎神論的世界観をその基層文化として持 つ日本人が,この課題に取り組む上で,西欧社会が忘れ去った神話を弁証法という論理によって再興しようとする 試みであったとされるヘーゲル哲学は繰り返し参照される価値を有しているとわたしは考える。

第4輩では,テイラーの『自己の諸源泉一近代的アイデンティティの形成(sourcesoftheSelf‑MakingoftheModern Identity)』に基づいて,西欧近代社会が生み出した個人の存在形態である「近代的自己」の諸源泉を辿り,その西 欧的特質が, (1)近代的内面性, (2)日常生活の骨急(3)内的遺徳源泉としての表現主義的自然観念にある ことを明らかにした。また テイラーの思想の特徴が. (1)キリスト教的伝統の肯定, (2)ロマン主義的な反 啓蒙主義, (3 現象学的方法論にあることを示した。

第5章では,主にテイラーの言語哲学に基づきながら, 20世紀前半の言語論的転回と呼ばれる思想史的出来事に よってもたらされた認識論的枠組が導いた新しい自己の存在概念である「エイジェンシー」という概念について検 討した。 「行為」の哲学の解明を通じ 自然科学と人文社会科学の間には原理的な相違はなく,いずれの学問も一

定の信念体系を共有する言語共同体における「表現」として理解できることが明らかとなった。したがって,人権 もある種の言語共同体によって共有される信念体系であり,その内容は歴史的,具体的に明らかにされる以外にな いという結論が導かれた。

第6章では,主にテイラーの『近代社会像{ModernSocialImagin 』に基づきつつ,西欧近代社会を成り立 たせている人々の共通理解である「市場経済」 「主権者としての人民」 「公共圏」という三つの社会像(social imaginaries)の核心は, 「権利主体としての自己」像にあるという,わたしの考えを示し,この自己像が20世紀以 降の自己の脱中心化という潮流の中で揺らぎつつある事実を跨また上で,現代日本の課題は近代後期社会に相応し い自己モデルを構築し,そのような自己モデルに基づく日本独自の近代社会像を作り上げることであると結論付け

(14)

た。

第7章では,近年盛んに議論が行われている社会福祉制度の民営化を取り上げ, 「民(人々)を担い手とする公共」

を可能とする公共倫理の担い手としての「自己」モデルを考えてみた。民(人々)が公共を担うには,それぞれの 自己実現を追求する個人の中に,共通の公共倫理が存在し得ることを明らかにしなければならない。しかし, 20世 紀以降の工業化の進展と自然科学の急激な発達によって.人間の内面自然の道徳性を正当化しようとする思想潮流 は次第に支持を失い,ロマン主義の想定する内的自然と理性の調和という考え方を現代のわれわれはそのままの形 で受け入れることは出来なくなっている0本章では,テイラーの恩悪に即しながら,西欧社会が生み出した西欧近 代的自己が現在深刻な限界に直面した原因を探求した。

第8章では,自己決定能力に劣る子どもが権利主体であると考えられる根拠は,その個人が属する社会(共同 体)が,権利主体,すなわち自由な個人を尊重するという価値観を共有するという事実にあるというわたしの考え を,テイラーの全体論的個人主義に基づいて展開したO この考えに基づけば,ある個人が権利主体たり得るかどう かは.その個人が樋口陽一の想定するような「自己決定をし,その結果に耐えることのできる自律的個人」である かどうかとはとりあえず関係がない。よって.大人のような自己決定能力を持たない子どもも権利主体とみなし得 るのである。

第9車では,精神的自由権以上に生存権的人権が重要であるとする生存権重視論者が優勢である日本の現状に一 石を投じることを目的として,テイラーの表現主義的人間観を援用して「人身売買」を「表現の自由」の侵害とし て捉える見方を提示した。さらに付論として人身売買の被害者も少なくないフィリピンの元エンターターナ‑が懐 く対日イメージを彼女たちの子どもの心象風景を通じて明らかにするというワークショップの報告を加えた。同報 告は,人身売買という一見客観的な現象が,実は個人の主観的認識に大きく関わっていることを明らかにしている0

第10章では,テイラーの『マルチカルチュラリズム {Multiculturali.∫m)』に基づきつつ,政弘 特に英米筒の思想 的文脈におけるマルチカルチュラリズムの意味を明らかにした上で,現代日本における「普遍」と「差異」の問題 と取り組む際に正しい歴史認識と個人主義に基づかないマルチカルチュラリズムは容易に全体主義に接続される可 能性があることを戦前日本の混合民族論を振り返ることによって明らかにした。

第11章では,イグナティエフの思想がバーリンの多元的自由主義の系譜にあることを,初期の作晶『こ‑ズ・オ ブ・ストレンジャーズ(TheNeedsofStrange硯に基づき明らかにした。

次に, 『ヴァーチャル・ウオー{VirtualWar)過 『次善の悪(TheLesserEv硯『米国の例外主義と人権{An ExceptionalismandHumanRights)狛こ拠りつつ,イグナティエフの9 11の思索を辿り,現代日本の我々がイグナティ エフから学ぶべきことは自由民主主義を当事者として生きることの意味であると結論付けた。

第12章では,テイラーがその特質を明らかにした西欧近代的自己(権利主体としての自己)に対して,その限界 を踏まえて上で日本的な近代的自己は如何なる形で構想し得るのか,に関するわたしの考えを提示した。

この課題は,絶対的な創造者としての唯一神という観念を伝統的に持たない日本社会において,人間の尊厳を何 らかの普遍的価値と結びつけて肯定することは如何にしたら可能かという問題と密接に結びついている。わたし は.現時点では,伊藤盤が述べたように「無というものもまた絶対であることによって,神という絶対と同じ働き をし.それによって,即ち無の意識との対照によって我々は心の平安を保つことができ,また実在を把握すること が出来,それが伝統的に日本の芸術の方法となっている」という「無」の考え方を近代化し,かつ論理的に説明す

ることが必要であると考えている。この関連で,久於真一の「東洋的無」の構想がきわめで重要な意味を持つ。さ らにこの無の哲学を日本の文化的文脈において権利主体としての自己につなげ得るのが,市川浩の「身の哲学」で あるとわたしは考えている。

その上で.自律的自己という意識の超克を志向しがちな日本の知的伝統が,安易な全体主義に接続されることを 回避する方向性を探るという意図の下に,日本の自己観と親和性を持つ欧米のコミュこタリアニズムの自己観が級 源的な価値の対立下の下で公共性原理を追求するリベラリズムの思想とどのように接続され得るのか,井上達夫の 議論に拠りつつ.わたしの考えを展開した。

本論文では,テイラーの思想に基づき, 「近代(modernity)」を自己理解の形式の革命として把握した上で,近 代社会像の核心を権利主体としての自己像にあるというわたしなりの解釈を提示し,この権利主体としての自己の

(15)

形成を思想史的,哲学的に考察することによって西欧近代の特殊性を明らかにし,日本社会・文化と整合的な自己 論・近代社会論‑の道筋を文明論的分析を踏まえて明らかにしようと試みた。本論文は,また,テイラーの思想を 日本において初めて包括的に取り上げたという先駆的意義も有している。

今後の課題は,東アジアを含む非西欧社会の「近代」が,自己論のレベルではどのような特徴を有するのかを理 念的および経験的に明らかにし,現代日本に相応しい自己モデルと自由民主主義社会モデルを構築していくことで あると考える。

参照

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