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あぶくの告発 : 前夫を殺した後夫を妻が訴えた話

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あぶくの告発 : 前夫を殺した後夫を妻が訴えた話

その他のタイトル A Variant of the Cranes of Ibycus in the Song Dynasty

著者 佐立 治人

雑誌名 關西大學法學論集

巻 61

号 2

ページ 612‑581

発行年 2011‑07‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/6532

(2)

あ ぶ く の 告 発

反 っ

て 読

は 者

︑ 幽霊が出てこない幽霊話が一番こわい︑という意見を目にしたことがある

︒ 確かにその通りで︑幽霊が出てくると

この話は本当の話ではないと思って安心することができるのに対し︑幽霊が出てこないと︑条件がそ ろえば誰の身にも起こり得る話であることになって︑逃げ道がなくなってしまうからである︒こわいかどうかはさて おき︑幽霊が出てこない幽霊話の傑作としてここに紹介したいのは︑宋の荘綽が著した随筆集﹃雉肋編﹄

あ ぶ く の 告 発

目 次

二﹁淮陰節婦伝﹂について

三﹁淮陰節婦伝﹂の原形

四 法 律 問 題

前夫を殺した後夫を妻が訴えた話

あ ぶ く の 告

二七

︵ 六

︱二 ︶

︵ 紹

三 興

(3)

︵ ︱

三 三

︶ の

自 序

が あ

る ︒

刊 本

を 見

た ︒

私 ︵

﹃ 雖

肋 編

の巻下に記されている﹁淮陰節婦伝﹂である︒この話は既に数人の先学によって取り上

げられているが︑原文に即して訳されていないので︑左に直訳を掲げる︒﹃維肋編﹄は︑中華書局の唐宋史料箪記叢

の 著

者 荘

綽 ︶

の家の古い本の︱つに呂夏卿︑字は緒叔︵呂夏卿については後述︶

した︒その中に﹁淮陰節婦伝 ﹂ と題する文章が載せられており︑次のように記されていました︒ の文集がありま

若く美しい婦人がいました︒よく慎んで姑の世話をしていました︒婦人の夫は商人でした︒同郷の男と共同で出

資して︑旅商いをしていました︒男と婦人の夫とは大変仲が好く︑互いの家に往き来するほどでした︒男は相手の

妻の美しさにひかれていました︒それで︑男と婦人の夫とが同行して長江に沿って旅商いをした時︑たまたま近く

に人がいないのを見澄まして︑男は婦人の夫を水中に突き落としました︒婦人の夫は水泡を指して︑﹁いつかこの

あぶくが証人になってくれるんだからな︒ ﹂ と叫びました︒婦人の夫が溺れきってから︑男は大声で助けを求めま

した︒その体を引き上げましたが︑既に死んでいました︒男はすぐに慟哭して︑婦人の夫のために兄弟と同じよう

に喪に服しました︒手厚く遺体を棺におさめ︑喪礼を大変丁重に行いました︒婦人の夫の荷物を整理して目録を作

り︑ほんの少しも自分の物にしませんでした︒貨物を販売して利益を得ますと︑均分して帳簿に記入しました︒帰

郷しますと︑旅商いで得た利益を全部︑婦人の夫の母に渡し︑良い土地を選んで遺体を埋葬しました︒日々︑婦人

の家を訪れ︑婦人の夫の母の世話を︑自分の母親に対するようにしました︒このようにして年を重ねました︒ ︻

和 訳

法 第 六

一巻二号

ニ八

︵ 六

(4)

あぶ

く の

告発

この呂夏卿の文集は︑呂家にはもうありませんし︑私の家にあったものも兵火に遭って散逸してしまいました

登場人物の姓氏はすべて忘れましたので︑とりあえず﹁淮陰節婦伝﹂の大略を記しておいたまでです

余家故書︑有呂緒叔夏卿文集

載淮陰節婦伝云︑婦年少︑美色︑事姑甚謹

夫為商︑与里人共財出販︑深相親好︑

︻ 原

文 ︼

て︑淮水に身を投げて死にました

二︶

︵ 六

O

)

婦人は︑姑が年老いているので︑家を出てゆくのに忍びませんでした

婦人も姑も男の恩に感謝し︑郷里の人々

もまた︑男の義を喜びました

姑は︑嫁がまだ若く︑男がまだ結婚しておらず︑男を実の息子のようにみなしてい

たので︑婦人を男に嫁がせました

夫婦は大変仲睦まじく︑後に男女数人が生まれました︒ある日︑大雨が降り︑

男 は

人で軒下に坐っていましたが︑庭の水たまりを見て忍び笑いしました

妻がその理由を問いましたが︑夫は

答えようとしません

妻はますます疑って︑しつこく問い続けます

男は︑妻とは仲睦まじい上に︑数人の

供も

いるし︑きっと自分を優しく受けとめてくれるに違いない︑と思いました

そこで正直に妻に語りました

﹁ 僕

は 君を愛していたから︑君の前の御主人を殺したんだ

御主人が死ぬ時︑あぶくを指して証人にしたんだけど︑今あ

ぶくを見るとさ︑結局あぶくに何ができるんだろう

て思ったのさ

だから笑

たんだよ

妻もただ笑うだけで

後日︑男が外出したのを伺って︑妻はただちに官に訴えました

官は男の罪を究明し︑男の死刑を執行しました

婦人は慟哭して︑﹁私の色気で

人の夫を殺したのだわ

私は生きていてはいけないのだわ︒

いました

そ し

し た

(5)

︻ 訓 読 ︼

一 嘔も私せ

至通家往来︒其里人悦婦之美︑因同江行︑会傍無人︑即排其夫水中︒夫指水泡日︑他日此当為証︒既溺

里人大呼

求救

得其戸︑已死︒即号慟︑為之制服︑如兄弟

厚為棺欽︑送終之礼甚備

録 其

行 案

亦均分著籍

既帰︑尽挙以付其母︑為択地卜葬

日至其家︑奉其母︑如己親

若是者累年

婦以姑老︑亦不忍去

皆感里人之恩︑人亦喜其義也︒姑以婦尚少︑里人未姿︑視之猶子︑故以婦嫁之︒夫婦尤歓睦︑後有児女数人

大雨

里人者独坐櫓下︑視庭中積水窃笑

婦問其故︑不肯告

愈疑之︑叩之不已

里人以婦相歓︑又有数子︑待己

必厚︑故以誠語之日︑吾以愛汝之故︑害汝前夫︒其死時︑指水泡為証︒今見水泡︑意何能為︒此其所以笑也︒婦亦

笑而已

後伺里人之出︑即訴於官

鞠実其罪︑而行法焉

婦慟哭日︑以吾之色而殺二夫

亦何以生為

遂赴淮而死

此書呂氏既無︑而余家者亦散於兵火

姓氏皆不能記

姑叙其大略而已゜

余の家の故書に呂絹叔夏卿の文集有り

淮陰節婦伝を載せて云う︑婦︑年少︑美色にして︑姑に事うること甚だ

謹なり

夫は商たり︑里人と財を共にして出販し︑深く相い親好し︑通家往来するに至る︒其の里人︑婦の美なる

を悦び︑同に江行し︑たまたま傍に人無きに因り︑即ち其の夫を水中に排す

夫︑水泡を指して日く︑他日︑此れ

当に証と為るべし︑と

既に溺る

里人︑大呼して救いを求む

其 の

P

を得るに︑已に死す

即ち号慟して︑之れ

が為めに服を制すること兄弟の如くす

厚く為めに棺欽し︑送終の礼︑甚だ備わる

其の行案を録し︑

ず︒販貨して利を得る所に至りても︑亦た均分して籍に著す

既に帰り︑尽く挙げて以て其の母に付し︑為めに地

を択び卜葬す

日ごとに其の家に至り︑其の母を奉ずること己の親の如くす

是くの若き者累年なり

婦は姑︑老

関 法 第 六 一巻二号︱︱

1

不私

所 販

貨 得

利 ︑

0

(6)

あ ぶ く

﹁淮陰節婦伝﹂について

︵六

0

八 ︶

一九九八年︶︑井上泰山﹁雑劇﹁珠砂担﹂演変考﹂︵﹃中国

なるを以て︑亦た去るに忍びず︒皆︑里人の恩に感じ︑人も亦た其の義を喜ぶなり

︒ 姑は︑婦尚お少く︑里人未だ

姿らず︑之れを視ること猶お子のごときを以て︑故に婦を以て之れに嫁せしむ

︒ 夫婦︑尤も歓睦し︑後︑児女数人

一 日︑大雨す ︒

里人は独り櫓下に坐し︑庭中の積水を視て窃かに笑う

︒ 婦︑其の故を問うも︑告ぐるを肯ぜ

ず ︒

愈よ之れを疑い︑之れを叩して已まず

︒ 里人は︑婦︑相い歓し︑又た数子有り︑己を待つこと必ず厚からんを

以て︑故に誠を以て之れに語りて日わく︑吾︑汝を愛するの故を以て︑汝の前夫を害す

︒ 其の死する時︑水泡を指

して証と為す ︒

今︑水泡を見るに︑覚に何をか能く為さん

︒ 此れ其の笑う所以なり︑と

︒ 婦も亦た笑うのみ ︒

後 ︑ 里人の出づるを伺いて︑即ちに官に訴う

︒ 其の罪を鞠実して︑法を行えり

︒ 婦︑慟哭して日わく︑吾の色を以て

夫を殺す ︒

亦た何を以て生き為さんや︑と

︒ 遂に淮に赴いて死す ︒

此の書︑呂氏既に無く︑而して余の家の者も亦

た兵火に散ず ︒

姓氏︑皆︑記する能わず

︒ 姑く其の大略を叙するのみ

この﹁淮陰節婦伝 ﹂

を扱った研究として︑南方熊楠﹁泡んぶくの敵討﹂

︵ ﹃

全集﹄第四巻所収︑平凡社︑昭和四

十 七

年 ︶

︑澤田瑞穂﹁泡と蝦墓﹂

︵ ﹃

鬼趣談義﹄所収︑中公文庫︑

近世戯曲小説論集 ﹄

所収︑関西大学出版部︑平成十六年

がある

﹁ 淮

陰 節

婦 伝

の執筆者とされる呂夏卿は︑慶暦

二 年 (

1

0 四

二 ︶ の進士︵

﹃ 宋詩紀 事 ﹄巻十六

︶ ︒

泉州晋江県 ︵ 現

在の福建省泉州市 ︶

有り

の 人

﹃ 新

唐 書 ﹄

の編修官に任じられ︑嘉祐五年

(

i

O

0 ) に書が成ると︑直秘閣に任じられた

(7)

﹃ 宋

史 ﹄

巻 三

三 一

︑呂夏卿伝に拠れば︑﹁夏卿は史学に長じ︑唐代の事実をすみずみまでよく知り︑数百家の伝記・

雑説を博く採集し︑折衷し整理した︒また系譜学に通じ︑はじめて世系諸表︵﹃新唐書 ﹄ の﹁宗室世系表 ﹂

﹁ 宰

相 世

表﹂のこと︶を作り︑﹃新唐書﹄の編纂において最も功績があった

︒ ﹂

という︒英宗︵在位

同修起居注となり︑熙寧 (

1

0六八‑

1

0七七︶の初めに兵部員外郎・知制詰に任じられた︒

蘇頌﹃蘇魏公文集﹂巻六十六︑呂舎人文集序に拠れば︑仁宗・英宗正史を編修することが提議された時︑呂夏卿が

真先に修史官に推されたけれども︑呂夏卿は病気を理由に閑職を求めたので︑朝廷は呂夏卿を穎州︵現在の安徽省阜

陽市

の知事に任じたが︑翌年︑任地で歿した︑という︒﹃続資治通鑑長編﹄巻二八 二 ︑神宗︑熙寧十年 (

1

0 七

七 ︶

五月戊午条に︑﹁詔して仁宗・英宗両朝正史を修せしむ︒ ﹂ とある︒仁宗・英宗正史の絹修が提議された年と絹修を命

じる詔が下された年とが同じであるとすれば︑呂夏卿が歿したのは元豊元年

( 1 0

七 八

︶ であったことになる ︒

歿 し

た時の年齢は︑﹁呂舎人文集序 ﹂ に拠ると五十五歳︑﹃宋史﹄呂夏卿伝に拠ると五十 三 歳であった ︒

﹃ 雉

肋 絹

の著者荘綽の家の故書に呂夏卿の文集があり︑その中に﹁淮陰節婦伝﹂が載せられていたというが︑呂

夏卿の文集というのは︑呂夏卿と同年の進士で同郷の蘇頌が序文を寄せた﹃呂舎人文集﹄を指す︒﹃呂舎人文集 ﹄ は

現存しないが︑前掲蘇頌﹁呂舎人文集序 ﹂ に拠れば︑呂夏卿の嗣子が父の遺稿を悉く集めて︑分類配列したもので︑

古律詩十 二 巻︑雑文・議・論・賛・記八巻︑表・書・啓・序 三 巻︑祭文・碑・誌・行状七巻︑制諧十巻︑総ぺて五十

巻から成っていた︑という ︒ 挙げられている巻数を足すと四十巻にしかならないので︑数字の間違いか目次の欠落が

あるのであろう︒﹁淮陰節婦伝 ﹂ が載せられていたとすると︑﹁伝﹂の項目があってもよさそうである︒蘇頌は﹁呂舎

人文集序﹂の中で︑﹁呂夏卿の嗣子が︑巻頭に置く序文を書いてくれるよう私に求めた︒﹂と記しており︑この﹁呂舎

関 法 第 六

一巻二号

1 0

三 ‑

1

0 六

七 ︶

の 時

︵ 六 0

七 ︶

(8)

あ ぶ く の 告 発

人文集序﹂の日付が紹聖元年

(

1

0

九四︶二月十五日となっているから︑﹃呂舎人文集﹄が完成したのは紹聖元年頃で あったとみなしてよいであろう︒﹃呂舎人文集﹂という書名の﹁舎人

とは︑中書舎人の﹁舎人﹂であり︑呂夏卿が 任じられていた知制詰のことである︒元豊五年

(

i

O

八二︶の官制改革以前は︑北宋の知制詰は︑唐の中書舎人に相

︵余嘉錫﹃四庫提要辮証﹂巻十八︶︒荘公岳は︑泉州恵安県︵現在の福建省恵安

県︶の人︑嘉祐四年 (

1

0

五九︶の進士で︑吏部右侍郎等の官を歴任した

︵ 六

0 六 ︶

県は︑呂夏卿の出身地である泉州晋江県の隣である︒荘公岳と呂夏卿とは︑出身地が近く︑在官期間が二十年ほど重 なっているので︑荘家が呂夏卿の文集を入手する機縁が︑呂夏卿と荘公岳との間に存在したのかもしれない︒﹁呂舎 人文集序﹂が書かれた紹聖元年の翌年の紹聖

二 年 (

1

0

九五︶には︑荘公岳は淮南転運副使であった︵余嘉錫︑同上︶︒

荘綽本人は穎川︵穎昌府のこと︒現在の河南省許昌市︶

料考辮﹂︑唐宋史料筆記叢刊﹃雖肋編﹄所収︑中華書局︑

散﹂じたとあるが︑同じ﹃雉肋絹﹄

ろ あ

う ︒

荘綽の父は荘公岳という人である

で生まれ育った︑と考えられている

︵篇魯陽﹁荘綽生平資

一 九八

年︶︒荘綽の家にあった呂夏卿の文集が﹁兵火に の巻上に︑家蔵していた黄庭堅の﹁乞米帖﹂や蘇東披の書簡などが︑靖康年間

( ‑

二 六

︱ ︱

二七︶に穎川が﹁全虜の禍に遭﹂った時に﹁化して煙艇に為﹂った︑と記されている︒﹃三朝北盟会 編﹄巻七十二︑靖康元年十

二 月十六日条に︑﹁金人︑穎昌府を陥とす︒﹂とあり︑続いて﹃中興逍史﹄

の﹁金人︑其の 城︵穎昌府城を指す︶に拠り︑金銀・物吊・鞍馬を根括すること︑あげて計う可からず︒又た三日︑火を縦ち人を

殺し︑死する者︑十に七八︒﹂という記事が載せられている︒この時に︑荘家所蔵の呂夏卿の文集も失われたので 当する官職であったので︑﹁舎人﹂と呼ばれたのである

︵明の凌迪知撰﹃万姓統譜﹄巻五十︶︒恵安

(9)

荘綽は﹁姓氏は皆︑憶えていないので︑姑くその大略だけを述べた

︒ ﹂

と記しているが︑荘綽が叙述する﹁淮陰節

婦伝﹂の内容を補う史料が存在する ︒ 北宋の徐積 (

1

0

二八

i ︱ 1 0 三 ︶ の文集である ﹃

節 孝

集 ﹄

いる﹁淮陰義婦詩序 ﹂

である

︒ 左に訳文を掲げる ︒

﹃ 節

孝 集

﹄ は四庫全 書 本を見た ︒ の巻三に収められて

淮陰の義婦である︑富商の妻の李氏は美人でした ︒ 同じ県の人で 一 緒に商売をしている人がいました ︒

そ の

人 は

富 商の妻を見て好きになり︑旅の途中でその夫を殺しました ︒ 手厚く遺体を棺におさめ︑喪に服しながら帰りまし

た ︒富

商の妻を欺いて︑溺死したと語り︑富商の財産をすべて返し︑ほんの少しも自分の物にしませんでした

︒ そ

して︑喪があけるのを待って︑富商の妻に結婚を申し込みました ︒ その際︑自分は富商に対して義理がある︑と自

ら述べました ︒

義婦もまた︑この言葉を聞いて感泣しました︒そこで︑承諾してその人に嫁ぎました

︒ さて︑ある

日のことです ︒

家に大水が生じ︑水にあぶくが浮かんでいました︒義婦の夫がそれを見て笑いました

︒ 義婦が尋ね

ますと︑夫は答えません ︒ そこで強く尋ねました ︒ 夫は︑既に 二 人の子供が生まれているのだから︑妻が自分に復

嘗 する心配はない︑と思いました ︒ その場で本当のことを妻に告白して言いました ︒ ﹁ 君の前の旦那さんが溺れた

のは僕がしたことなんだ ︒ はじめに溺れてから︑また力を出して︑もう少しで自力で助かるところだ

っ た

ん だ

け ど

僕がさおで突いて沈めたのさ ︒

突いたところの水面にあぶくが浮かんでいた有様が︑まさに今日見たのと同じなん

だ︒﹂義婦は黙っていました ︒ いま始めて︑この男の計略を悟り︑復嘗の心が生じました︒数日のうちに機会を

伺って︑男が告白した事実を急いで官司に告言しました ︒ ついに︑その裁判が正しく行われ︑妻は 醤 の子供を棄て

︻ 和

訳 ︼

関 法 第 六

一巻二号三四︵

六 0

五︶

(10)

あ ぶ

の 告 発

三五

︵ 六

0四︶

ました ︒ 夫のための復嘗が遂げられ︑妻はさらに思いました ︒

﹁私は︑色気のせいで夫に災いをもたらし︑身を

もって夫の儘に奉仕したのだわ ︒ 二人の子供は 讐

の子供よ

︒ 義から

言 っ

て ︑

生 かしておくことはできないわ

︒ ﹂

こで子供を縛って︑淮水に赴いて︑これを水中に投げ込みました

︒ その後で自分も淮水に身を投げました

︵ 後

略 ︶

淮陰義婦︑富商之妻李氏︑有姿色 ︒ 邑人有同商者 ︒ 見而悦之 ︒ 因道殺其夫 ︒ 厚為棺殆︑持其喪以帰 ︒ 給云溺死 ︒

且尽帰其財︑無

一 吉 宅

之私焉 ︒ 於是︑伺其除葬︑謀為婚購 ︒ 且 自 陳有義於其夫 ︒ 義婦亦為之感泣︑遂許而嫁之 ︒ 廼 一

日︑家

有 大水︑水有浮渥 ︒ 其夫轍顧而笑 ︒ 義婦問之

︒未

応 ︒ 遂固問之 ︒ 侍已生 二 子︑不 虞 其妻之 嘗

己 也

︒ 即以実告

之日

︑ 前夫之溺︑我之所為 ︒ 已溺︑復出勢将自救 ︒ 我以篤刺之︑遂得沈去 ︒

所刺之処︑浮渥之状︑正如今日所見

義 婦黙然 ︒ 始悟其 計 ︑而復 嘗

之心 突 生

即日伺其便︑即以其

事 ︑

奔告有司 ︒ 卒正其獄︑棄其 饂 子 ︒ 夫 儡 既復︑又 自

念︑以色累夫︑以身 事嘗︒二

義不可復 子 饂 言 人之子也 ︒

生 ︒

即縛其子︑赴淮投之 干 水 ︒

已而

自 投焉

︒ ︵

後略 ︶

淮陰の義婦︑富商の妻李氏は姿色有り

︒ 邑人︑同に商う者有り ︒ 見て之れを悦ぶ ︒ 道に因りて其の夫を殺す ︒ 厚

く為めに棺殆し︑其の喪を持して以て帰る

︒ 給いて︑溺死すと 云 う ︒

且 つ

尽 く

其 の

財 を

帰 し

︑ 於て︑其の除葬を伺い︑謀りて婚講を為さんとす

︒ 且つ自ら︑其の夫に義有り︑と陳ぶ

︒ 義婦も亦た︑これが為め

に感泣し︑遂に許して之れに嫁ぐ

︒ 廼ち

一 日︑家に大水有り ︒ 水に浮溜有り ︒ 其の夫︑諏ち顧みて笑う ︒ 義婦これ

︻ 訓

読 ︼

︻ 原

文 ︼

一 吉

密 の私無し

︒ 是

(11)

序﹂とあるのは︑﹁徐節孝集﹂﹁淮陰義婦詩序﹂の誤りであろう︒

一 方にあって他方にない要素が を問う ︒

未だ応ぜず︒遂に固く之れを問う︒已に二子を生むを侍み︑其の妻の己に饂言するを虞れざるなり

︒ 即ち実

を以て之れに告げて日わく︑前夫の溺るるは︑我の為す所なり︒巳に溺れ︑復た勢いを出だして将に自救せんとす

我︑嵩を以て之れを刺し︑遂に沈め去るを得たり ︒ 刺す所の処の浮櫃の状︑正に今日見る所の如し︑と ︒ 義婦︑黙

然たり ︒

始めて其の計を悟りて︑復笞の心︑生ず︒即日︑其の便を伺いて︑即ち其の事を以て有司に奔告す︒卒に

其の獄を正し︑其の嘗子を棄つ ︒ 夫の蟹︑既に復し︑又た自ら念えらく︑色を以て夫を累し︑身を以て嘗に事う ︒

二子は嘗人の子なり︒義として復た生かす可からず︑と︒即ち其の子を縛り︑淮に赴いて之れを水に投ず︒已にし

て 自

投 す

︒ ︵

後 略

この﹁淮陰義婦詩序 ﹂

を書いた徐積は︑字は仲車︑楚州山陽県︵現在の江蘇省淮安県︶

の進士︒崇寧二年(

10 三 ︶

に七十六歳で歿し︑政和六年(

六︶に節孝処士の謡を賜わった

十二所収﹁行状﹂︑﹃宋史﹄巻四五九︑卓行伝︑﹃宋詩紀事﹄巻二十三︶︒

明の張鼎思

( ‑ 五 四 三

ー 一 六 0

三︶が著した﹃娘邪代酔編﹄︵四庫全書在目叢書本を見た︶

﹃ 雉

肋 絹

の﹁淮陰節婦伝 ﹂

の条を掲げた後︑﹁何子容日わく︑徐孝節婦集の淮陰義婦書序を按ずるに︑義婦は蓋し 李氏なり︒云わく︑讐︑既に復す︒又た念えらく︑二子は讐人の子なり︒義として生かす可からず︑と︒即ち其の子 を縛り︑淮に赴いて之れを投じ︑而して自投す︑と︒︵後略︶

﹂ と記されている ︒ ここに﹁徐孝節婦集﹂﹁淮陰義婦書

﹁淮陰義婦詩序﹂の話と︑荘綽が記す呂夏卿の﹁淮陰節婦伝﹂とを比ぺてみると︑

関 法 第 六

一巻二号

の人︒治平四年

( 1 0 六

七 ︶

三 六

︵ ﹃

節 孝

集 ﹄

巻 三

の巻十九︑淮陽節婦に︑

︵ 六

0 三 ︶

(12)

あ ぶ く の 告 発

たから︑徐積が﹃呂舎人文集﹄

︵ 慶

二 年 ︵

九 六

の 自

序 が

あ る

三七

る︒徐積は﹁淮陰義婦 ﹂

の話を直接︑地元の文献ないし伝承から知ったのではなかろうか

︵ 六 0

二 ︶

いくつかあるが︑両者の間で矛盾する要素はなく︑両者が同

一 の話であることは一見して明らかである

︒ 両者の関係

﹃ 呂

舎 人

文 集

﹄ が成ったと考えられる紹聖元年 (

i

O

九四︶頃から︑徐積は十年ほど存命であっ の﹁淮陰節婦伝﹂を見た可能性は否定できない

しかし︑﹁淮陰節婦﹂﹁淮陰義婦

﹂ の

﹁淮陰﹂は︑楚州淮陰県︵現在の江蘇省淮陰市の南西

を指し︑淮陰県は︑徐積の出身地である楚州山陽県の隣であ

の巻九︑淮陰張生妻に︑﹁﹃徐中車

集 ﹄ 載す

︒ ﹂

として淮陰義婦の話が記されているが︑﹁淮陰節婦伝﹂及び﹁淮陰義婦詩序﹂の話と異なる点がある

︒ 左

に訳文を掲げる ︒

﹃夷堅志﹄は明文書局の点校本︵中華民国七十一年︶を見た

︒ 校勘の注は省略した ︒

﹃ 徐中車集 ﹄

に次のような話が載せられています

淮陰のある婦人の夫が︑悪者の手にかかり命を落としました

婦人はそのことを知りません︒その後︑悪者は媒人を通じて聘財を納め︑婦人を迎えて妻としました

三 ︒

年間で子

供が

二 人生まれました︒ある時︑舟に乗って︑婦人の前夫が死んだ処に到りました︒悪者は︑夫婦になって久しく︑

子供もいるし︑決して自分を恨まないだろう︑と思いました︒そこで︑笑って妻に真相を告げました︒婦人は顔色 を変えて保正のところへ駆け込み︑悪者を捕えて官司に赴きました

婦人は慟哭して人に語りました

﹁ 私

は 若

く して夫に嫁ぎ︑夫は悪者に殺されました

︒幸

い に

くそれを聞いていたら︑絶対に人生を共にしませんでした

︒子 供二人は両方とも悪者の種です

人の世に留めることはできません

︒ ﹂子供を二人とも大波に投げ込みました

︒ 悪

︻ 和 訳 ︼

なお︑南宗の洪邁が著した﹃夷堅支志丁

﹄ であるが︑呂夏卿の

(13)

﹁徐中車集に載す﹂とあるが︑﹁徐中車集﹂の﹁中車﹂は︑徐積の字である﹁仲車﹂の誤りであろう

る と

︑ ﹁

中車集﹂即ち﹁徐仲車集

は ﹃

節 孝

集 ﹄

のことであり︑右の話は﹁淮陰義婦詩序﹂の話であることになる

︒ し

か し

奉に伏するを侯ちて︑亦た自沈して死す

徐中車集に載す

淮陰の一婦の夫︑命を盗の手に隕とす

而して婦は知らず

其の後︑盗︑媒に憑りて幣を納め︑

聘して室と為す

居 る

こ と

三 年

子を生む︒舟に乗り︑夫の死する処に過るに因り︑盗︑以為えらく︑相い従う

こと久しく︑又た子有り︑必ず我を恨まじ︑と︒乃ち笑いて故を告ぐ︒婦︑勃然として走りて保正に投じ︑盗を檎

なげ

えて官に赴く

大いに慟いて人に語りて日わく︑妾︑少年にて良人に嫁ぎ︑盗のために死さる

幸いに早く之れを

聞かば︑定めて

に生を倶にせず

両雛は皆︑賊種なり

人世に留む可からず︑と

倶にこれを洪波に榔つ

盗 の

︻ 訓

読 ︼

者が死刑を執行されるのを待って︑自分もまた水に身を投げて死にました

徐中車集載

淮陰一婦之夫︑隕命盗手︑而婦弗知

其後︑盗憑媒納幣︑聘為室

年︑生 二 子突

因乗舟過夫

死 処

盗以為相従久︑又有子︑必不恨我︑乃笑而告故

婦勃然︑走投保正︑檎盗赴官

大慟語人日︑妾少年嫁良人︑

為盗死

幸早聞之︑定不与倶生

両雛皆賊種︑不可留於人世︒倶榔諸洪波︒侯盗伏寧︑亦自沈而死

︻ 原

文 ︼

関 法 第 六

一巻二号三八︵

0i

(14)

あ ぶ く の 告

淮 陰 節 婦 伝 ﹂

の原形

は︑呂夏卿及び徐積が属した北宋時代の話であると︑とりあえず受け取っておきたい

‑ 九

0 0

)

舟に乗って︑前夫が殺された処に到ったことが︑後夫が真相を告白するきっかけになった点が︑﹁淮陰義婦詩序﹂の

話と異なる ︒

この話が収められている﹃夷堅支志丁

巻九の末尾に﹁此の巻は皆︑朱従龍︑説く

︒ ﹂と注記されてい

るから︑この話を洪邁に伝えたのは朱従龍という人であったことが知られる︒朱従龍については未詳であるが︑彼は︑

﹃夷堅支志甲﹄巻一・巻ニ・巻三︑﹃夷堅支志乙

﹄ 巻 一

︑ ﹃

夷 堅

三 志己﹄巻 三

の全話を洪邁に伝えるなど︑﹃夷堅志

に多くの話を提供した人である

︒ 朱従龍が記憶違いをしていたのか︑洪邁が朱従龍が伝えた話を変えたのか︑わから

荘綽が﹁其の大略を叙﹂したという呂夏卿の﹁淮陰節婦伝﹂︑及び徐積が書いた﹁淮陰義婦詩序﹂には︑話の年代 が明記されておらず︑年代を特定する根拠とすることができる字句も見当たらない

﹃ 夷

堅 志

の﹁淮陰張生妻

﹂ に 掲げられている﹁徐中車集﹂即ち﹁徐仲車集﹂の文には︑王安石が創始した保甲制の職役の名称である﹁保正

の 話

が出てくるが︑洪邁が書き変えたものかもしれないので︑話の年代を特定する根拠とすることはできない

け れ

ど も

﹁ 淮

陰 節

婦 伝

及び﹁淮陰義婦詩序﹂には︑他の時代の話であるとも記されていないので︑そこに述べられている話 ただし︑水泡をめぐる遣り取りの要素を除いて︑夫を殺した男であるとは知らずに︑その男と再婚した妻が︑子供

人を生んだ後︑その男自身から真相を聞き︑男に復

するのと同時に︑男との間に

生 まれた子供 二

人 を

す 殺

話 は

︑ はるか昔から存在する

元の陶宗儀が編纂した﹃説郭﹄︵﹃説郭

は上海古籍出版社の﹃説郭

三 種 ﹄

に収められている

な い

(15)

甲︑乙の婦と作る︒丙︑来たりて乙を殺す︒而して甲︑知らず︒後︑甲︑遂に丙に嫁して妻と作り︑ 二 子を生む ︒

︻ 訓 読 ︼

︻ 原 文 ︼

百 巻

本 を

見 た

の巻十一に収録されている︑唐の馬惚が絹集した﹃意林﹄

︵ 五 九 九

の﹁万機論八巻﹂の項に︑三国魏の蒋済が

甲は乙の妻となりました︒丙が来て乙を殺しました︒しかし︑甲はそのことを知りません︒後に甲は︑なりゆき

で丙と再婚して丙の妻になり︑子供二人を生みました︒丙は安心して甲に真相を語りました︒甲は︑丙が酒に酔っ

たのに乗じて︑丙を殺し︑同時に子供二人をも殺しました︒甲の行為は︑義から言って剛烈です︒死刑を免じるこ

とができるでしょうか︒解答者が述べます︒﹁婦女はひとえに︑行いが貞潔であるべきであって︑刀を振りまわす

行為を義とは言わないのである︒今︑甲は再婚したからには︑先夫との間の恩愛は絶えたのである︒実の子供を自

らの手で殺すとは︑子供を慈しむ母の心を持っていないのである︒ ﹂

甲作乙婦︒丙来殺乙︑而甲不知 ︒ 後甲遂嫁与丙作妻︑生二子︒丙乃語甲︒甲因丙酔而殺之︑井害二子︒於義剛烈︒

得寛死否︒答者云︑女子潔行専 一 ︑不以鼓刀称義︒今又改嫁︑已絶先夫之恩︒親害胞胎︑又無慈母之道也︒

︻ 和 訳 ︼

著 し

た ﹃

万 機

論 ﹄

の︑次のような文章が見られる︒

関 法 第 六

一巻二号

四〇

(16)

あ ぶ く の 告 発

めぐる遣り取りの要素に対応する類話である

アラビアン・ナイトのフランコリン

丙︑乃ち甲に語る︒甲︑丙の酔うに因りて之れを殺し︑井せて二子を害す︒義に於て剛烈なり

︒ 死を寛くするを得

るか否か ︒

答うる者云う︑女子は潔行︑専一にして︑鼓刀を以て義と称せず

今又た改嫁す︑已に先夫の恩を絶つ

﹃万機論﹄を著した蒋済は︑魏の大尉に至った人で︑嘉平元年︵二四九︶に歿した︒﹃三国志﹄巻十四︑魏書︑蒋済 伝に︑﹁蒋済が文帝に万機論を上り︑文帝はこれを善しとした︒﹂と記されている︒厳可均﹃全三国文﹄巻三十三に拠 れば︑﹃万機論

は八巻または十巻五十五篇から成り︑﹁政略﹂﹁刑論

﹁ 用

﹂ の 三

篇が含まれていた︒右に掲げた文

﹃ 万

機 論

﹂ のこの文章の話と﹁淮陰節婦伝﹂及び﹁淮陰義婦詩序

の話とを比ぺると︑妻が後夫を殺したか告訴し たか︑妻が最後に自殺したかしないか︑水泡をめぐる遣り取りの要素の有無︑という違いがあるだけである︒殺すか 告訴するかは︑復笛の方法の違いにすぎないし︑自殺するかしないかも︑復嘗を遂げた後の身の振り方の違いにすぎ ないから︑﹁淮陰節婦伝﹂及び﹁淮陰義婦詩序﹂の話の特色は︑水泡をめぐる遣り取りの要素が加わったことである︑

南方熊楠﹁泡んぶくの敵討﹂︵前掲︶は︑﹁淮陰節婦伝﹂の類話として︑ギリシア伝説の﹁イビュコスの鶴﹂の話と︑

︵鶴鵠︶の話とを紹介している︒これらの話は︑﹁淮陰節婦伝﹂のうち︑水泡を

ま ず

︑ アラビアン・ナイトのフランコリンの話であるが︑この話は︑リチャード・バートン

と 言う

ことができる ︒

章が何篇に属するのか︑わからない︒

親ら胞胎を害す︑又た慈母の道無きなり︑と

﹃ ザ

・ ブ

ッ ク

・ オ

ブ ・

︵ 五 九

八 ︶

(17)

の物語﹂は次のような話である︒ イ

ト ﹄

︵本巻十八巻︑別巻一巻︒平凡社︑東洋文庫︑

n

し ︑

後者には︑前者の ザ・サウザンド・ナイツ・アンド・ア・ナイト﹄ ン・バイバルス・アル・ブンドゥクダリ・アンド・ザ・シックスティーン・キャプテンズ・オブ・ポリス イバルスと十六人の警察署長﹂と呼ぶ︶ トン版の本巻十巻の翻訳であり︑補遺七巻は含まれていない︒バートン版の本巻は︑ タ第二版と呼ばれるアラビア語刊本を底本に用いた英訳である︒バートン版の補遺に収められている上記﹁バイバル スと十六人の警察署長﹂は︑ と十六人の警察署長﹂は︑ジョゼフ・マルドリュスが︑ した『千夜一夜の書』を和訳した、豊島与志雄・渡辺一夫•佐藤正彰・岡部正孝訳『完訳・千一夜物語』 岩

波 文

庫 ︑

一 九

八 八

年 ︶

︵ 五 九 七

︵本巻十巻︑補遺七巻︒以下﹁バートン版﹂と呼ぶ︒︶第十二巻︑

に︑﹁フィフティーンス・コンスタブルズ・ヒストリー

︵十五番目の警官の

ブレスラウ版と呼ばれるアラビア語刊本から英訳されたものである ︒ この﹁バイバルス

ブーラーク版と呼ばれるアラビア語刊本を底本に用いて仏訳

︵ 全

十 三

冊 ゜

の第十ニ・十三冊に収められている﹁バイバルス王と警察隊長たちの物語﹂と対応する︒し

﹁十五番目の警官の物語﹂に当たる話が存在しない︒前嶋信次・池田修訳﹃アラビアン・ナ

翻訳であり︑﹁バイバルスと十六人の警察署長﹂を含んでいない︒ バートン版の大場正史訳﹃千夜一夜物語﹄ 物語︶﹂として出てくる話である︒ プリメンタル・ナイツ︵補遺︶︑

関 法 第 六

一巻二号

一九六六年から九二年︶

ブレスラウ・テキスト︑

13 

は︑カルカッタ第二版を底本に用いた

バートンがブレスラウ版アラビアン・ナイトから英訳した﹁バイバルスと十六人の警察署長﹂ ︵本巻十巻︑別巻一巻︒河出書房新社︑

﹁十五番目の警官

マクノートン版またはカルカッ 一

九 七

三 年

か ら

四 年

ヽゞ19 

以 下

﹁ バ

アル・マリク・アル・ザビル・ルクン・アル・ディ

(18)

あぶ

く の

告発四

察署長や知事が彼を捜索するたびに︑彼は彼らから逃げて︑山の中に籠ったものでした

︵ 五

九 六

これは

一 人の乱暴な盗賊にまつわる話です ︒

彼は常に自分自身で隊商を襲って荷物を強奪していました

そして

さて︑ある日のことです ︒

ある男が︑この盗賊が潜んでいる道を通って旅をしていました

︒ この人は 一

人 旅

で ︑

大変危険な存在が彼の通り道につきまとっていることを知りませんでした

そこに︑その盗賊が旅人の前に現れて︑

彼 に

いました

﹁ あ

な た

が 持

っ ている物を出しなさい ︒

なぜなら私はあなたを間違いなく殺すつもりだからだ

︒ ﹂

旅人は 言 いました ︒

﹁私を殺さないで下さい

その代わり︑これらの鞍袋を合わせて︑その中に入

っ ている物を分

けて︑その四分の 一 をあなたが取って下さい

︒ ﹂

すると盗賊が答えました ︒

﹁私は全部以外は取らない

︒ ﹂ 旅人が応

じました ︒

﹁半分を取って下さい

︒ そして私を行かせて下さい ︒

﹂しかし盗賊は答えました︒﹁私は全部以外は取ら

な い

︒ さらに私はあなたを殺すつもりだ

︒ ﹂

そこで旅人は 言 いました ︒

﹁全部取って下さい

︒ ﹂

それに応じて盗賊は

鞍袋をつかみ︑その旅人を殺そうとする態度を 示 しました ︒ 旅人は 言 いました ︒

﹁これはどういうことですか

︒ あ

なたは私に対して︑私を殺すことが義務になる程の恨みは持っていないのです

︒ ﹂相手が答えました ︒

絶 ﹁

対 に

私 は

あなたを殺さなければならない

︒ ﹂

すぐに旅人は馬から降りて︑盗賊の前にはいつくばり︑嘆願して正

当 な扱いを

盗賊に求めました ︒

盗賊は旅人の嘆願に耳を傾けず︑それどころか旅人を地面に突き倒しました︒その時︑旅人は

目 を上に向けて︑上空を 一

羽のフランコリンが飛んでいるのを見て︑苦しみの中で

いました

﹁フランコリンさ ん︑この男が私を不当に︑かつ不正に殺したことを証

言 して下さい ︒ というのは ︑ 実際に私は彼に︑私が持 っ

て い

た物を全て与え た

上で︑私の子供達のために︑私を行かせてくれるよう彼に嘆願したのですが︑彼は同意しません

︻ 和

訳 ︼

(19)

でした︒しかし︑あなたは彼に対する証人になって下さい︒というのは︑

︵五 九五

アラーの神様は︑迫害する者の行ないを

お気にかけられないことはないからです︒﹂盗賊は︑彼が聞いた事に注意を払うことなく︑旅人に強打を加えて︑

その首を切り落としました︒

その後︑統治者たちは︑この盗賊の帰順と引き換えに︑彼と和解しました︒彼が統治者たちの前に参上しますと︑

統治者たちは彼に富を与えました︒そして彼はスルタンの副官のお気に入りとなり︑副官とよく飲食を共にするよ

うになりました︒二人の間で親しい交際が行われ︑その交際は︑最後に︑ある奇妙な出来事が起こるまで︑長い間︑

続 き

ま し

た ︒

スルタンの副官は︑ある日︑宴会を開きました︒そこには一羽の炎られたフランコリンがありました︒盗賊はそ

れを見ると︑大声で笑いました︒副官はその態度を怒って彼に言いました︒﹁あなたの笑いの意味は何ですか ︒ あ

なたが行儀良さを欠いたのは︑あなたが何かこちらの過失を見たからですか︒それとも︑あなたは我々を侮辱して

いるのですか︒﹂盗賊が答えました︒﹁そうではありません︒アラーにかけて︑閣下︒しかし私がそこにあるフラン

コリンを見ましたら︑それは私の心に︑ある奇妙な事を思い出させたのです︒それはこのような事でした︒私が若

い頃︑私はよく追い剥ぎをしていました︒ある日︑私は一人の男を呼びとめました︒彼は一対の鞍袋とその中のお

金を持っていました︒そこで私は彼に言いました︒﹁その鞍袋を置きなさい︒なぜなら私はあなたを殺すつもりだ

からだ︒﹂彼は言いました︒﹁鞍袋の中に入っている物の四分の一を取って下さい︒そしてそれ以外を私に残して下

さい︒﹂私は言いました︒﹁絶対に私は全部を取って︑あなたを間違いなく殺さなければならない︒﹂すると彼は言

いました︒﹁鞍袋を取って下さい︒そして私に私の道を進ませて下さい︒﹂しかし私は答えました︒﹁私があなたを

関 法 第 六

一巻二号

四四

(20)

あ ぶ く の 告 発

ア語写本を入手したと称して︑ ン

・ ナ イ ト 物 語 の 迷 宮 へ

この話を含んでいるブレスラウ版アラビアン・ナイトは︑ もかかわらず︑私を不当に殺して︑私を私の子供達のもとへ行かせなかったのです それに向かって言いました︒﹁彼に対する証言を引き受けて下さい︑ 殺すことに救いはない︒﹂私達がこの遣り取りを交わしていた時︑これはいかに︑彼は一羽のフランコリンを見て︑

︒ ﹂

けれども私は彼に何の憐れ

みもかけませんでしたし︑彼が言った事にも耳を傾けませんでした︒それどころか彼に強打を加えて︑彼を殺しま し た

し そ

て ︑

四 五

︵ 五

九 四

ロバート・アーウィン著・西尾哲夫訳

必携アラビア

フランコリンの証言には関心を持ちませんでした︒

︱つの声が次の

盗賊が語った話はスルタンの副官の心をかき乱しました

副官は盗賊に対して激怒して︑剣を抜いて︑盗賊に強

打を加え︑彼の首を切り落としました︒その間︑盗賊はテーブルに着席したままでした

そ の

時 ︑

ような二行連句を朗唱しました

﹁もし傷つけられたくないなら︑傷つけてはいけません︒反対に︑良い事をすれ ば︑アラーから多くの分け前を得られます︒﹂﹁アラーによって起こる事は︑そうなるよう運命づけられています

けれども︑あなたの行為こそが原因であることを︑私はあなたにぜひ知ってもらいたいと思います︒

まさしくこ

の声はフランコリンの声でした

フランコリンは盗賊に対する証言をしてくれたのです

︵ 平

凡 社

一九 九八 年︶

四︱︱年にかけて出版した︒ところが︑﹁実を言うと︑

拠 に

れ ば

てていたマクシミリアン・ハビヒト

︵一

七 七

五 ー

三 九

︶ が

ブレスラウでアラビア語教師として生計をた

チュニジア経由でアラビアン・ナイトの完全なアラビ

二五年

から

八年にかけて八巻を出版し︑その弟子が残る四巻を一八四二年から ハビヒトのチュニジア写本なるものが本当にあったかどうかす

フランコリンさん

彼は私のお金を取ったに

(21)

丹下和彦﹃ギリシア合唱抒情詩集﹄ 作った こぶる疑わしい︒どうやらさまざまなアラビアン・ナイト写本と︑ を切り貼りしてひとつの物語集にしてしまったというのが真相のようだ︒おまけにブーラーク版が一八三五年に印刷︑

十五番目の警官がフランコリンにまつわる話を語った相手であるアル・マリク・アル・ザピル・ルクン・アル・

六 0

‑ ニ ︱七七︶に他ならないから︑﹁バイバルスと十六人の警察署長﹂が形成されたのは︑十三世紀後半以降で

あることになる︒しかし︑十五番目の警官が語ったフランコリンの話それ自体が作られたのは︑もっと古い時期かも

コ ス

の 鶴

の話の﹁レプリカ﹂であると考えられているからである

﹁ イ

ビ ュ

コ ス

の 鶴

﹁ イ

ビ ュ

コ ス

の 鶴

フランコリンの話は︑南方﹁泡んぶくの敵討﹂にも紹介されているギリシア伝説の

の 伝

説 は

エジプトのマムルーク朝の第五代スルタン︑

ドイツの詩人シラーがこれを元にして︑

︵新関良三編﹃シラー選集﹄第一巻︵冨山房︑昭和十六年︶

前六世紀の詩人で︑南イタリアのレギオンの人︒イオニアのサモス島へ渡り︑僭主ポリュクラテスの宮廷で活躍した ︒

︵京都大学学術出版会︑二

0 0

年 ︶

の伝説について︑次のように記述しているという︒﹁彼︵イビュコスを指す︒佐立注︶

ないさびれた場所で盗賊たちに捕まるという目に遭ったが︑そのときこう言った︑

がわたしの仇討ちをしてくれようと︒彼は殺されてしまった︒ところがのちに盗賊の 一 人が町で鶴の飛ぶ姿を見て しれない︒というのは︑ ディン・バイバルス・アル・ブンドゥクダリは︑ ン・ナイトに属していた保証は全くないことになる︒ 出版されると︑その中の物語まで利用してしまった︒﹂

︵ 三

十 四

頁 ︶

関 法 第 六 一巻二号

バイバルス 一 世

︵ 在 位

に 翻

訳 が

あ る

︒ ︶

︒ イ

ビ ュ

コ ス

﹁ 解

説 ﹂

に 拠

れ ば

﹃ ス

ー ダ

辞 典

が ︑

は人気の

いま頭上に飛んでいるあの鶴たち

(I by cu s)

 

は︑紀元 一七九七年に物語詩﹁イビュコスの鶴﹂を ︵バートン版︑第十二巻︑補遺︑五十九頁注

l )

﹁ イ

ビ ュ

という︒すると︑

フランコリンの話がアラビア ヨーロッパの図書館所蔵の他のアラビア語物語集

四六

︵ 五 九 三

(22)

あ ぶ く の告

四七

二 ︶

言った︑見ろ︑イビュコスの仇討ちどもだ︒これを耳にした者がその盗賊を問い詰めた︒旧悪を暴露された盗賊たち

は罰を受ける羽目になった ︒

﹁イビュコスの鶴﹂という諺はここからできたものである

︒ ﹂

︵ 五

︱ 二 頁

か ら

三 頁

﹃ スーダ辞典

( S u i d a e L e x i c o n

)

は ︑ スイダスという名のキリスト教徒が十世紀に絹纂した︑百科辞典を兼ねた

︵ 研

究 社

昭 ︑

和 二

十 九

年 ︶

︱ 二

0 年頃に歿したプルタルコスが︑

﹃ モ

ラ リ

一 九

八 五

年 ︶

の﹁饒舌について ﹂

︵ 柳

沼 重

剛 の中で︑﹁イビュコスの鶴﹂の話に

言 及していることから

確認できる ︒ そこでは次のように述べられている ︒

﹁この犯人ども︵イビュコスを殺した犯人を指す

︒ 佐

立 注

が劇

場で芝 居 見物をしていると鶴の群が飛来した ︒

すると彼らが︑互いに﹁イビュコスの奴の仇討ち鳥が行くぞ

と 笑

ながら囁きあった

︒ そ れを近くに坐っていた人々に聞かれたのだが︑イビュコスが失踪してからもうかなり日数も たって捜索も行なわれていたので︑人々はこの

言葉 を聞き咎めるや役人に注進に及んだ ︒ かくて犯人どもは捕えられ

訊問を受けて牢に入れられた ︒

鶴にではなく︑自分たちの舌の軽さに罰せられたわけだ

︒ ﹂ ︵

柳沼訳︑五十八 頁

から九 バートン版アラビアン・ナイト補遺に附載されている︑

クラウストン

語の変形證と相似諌﹂は︑﹁この古代の伝説︵﹁イビュコスの鶴﹂の話を指す︒佐立注︶

は︑おそらく九世紀にアラビ ア文学の中に採り入れられたのであろう︒九世紀は︑相当数の最も優れたギリシア語の著作物がアラビア語に翻訳さ

﹁イビュコスの鶴﹂の話とフランコリンの話と﹁淮陰節婦伝﹂とを比べてみると︑被害者が復署の手助けを託した

れた時代である

︒ ﹂

と述べている ︵ バートン版︑第十 二 巻︑補遺︑三七

0

頁 ︶ ︒

W

A

(. 

C l o u s t

o n )

﹁ 補遺中のいくつかの物

頁 ︶ 訳﹃饒舌について他五篇﹄所収︑岩波文庫︑ 世紀には既に存在していたことは︑ ﹄ 書 であるが︵斎藤勇主幹﹃世界文学辞典 辞

スイダスの項︶︑﹁イビュコスの鶴﹂の話が

(23)

物を︑後に別の場所で殺人犯が見て笑った︑という共通点がある︒この殺人犯の笑いという共通点は偶然の一致では

なかろう ︒ つまり︑三者の間には連絡があると考える ︒

さ ら

に ︑

行から年月が無事に経過して︑殺人犯に安心感が生じた後に︑殺人犯が︑自分が信頼している第三者に向かって︑自

らの犯行を告白した︑という共通点がある︒﹁淮陰節婦伝 ﹂ は︑﹁イビュコスの鶴﹂の話よりも︑

一 層似ている︑と言うことができる ︒ すると︑﹁イビュコスの鶴 ﹂ の話がアラビア語に翻訳され︑少し変形させられ

桑原隙蔵﹃蒲寿庚の事蹟﹄ 一 方では﹁バイバルスと十六人の警察署長 ﹂

に 組

み 込

ま れ

では中国に伝わって︑中国古来の︑夫を殺した男と再婚した妻の復讐諌と結合して﹁淮陰節婦伝﹂が生まれた︑と仮

﹁淮陰節婦伝﹂がその文集に載っていたという呂夏卿の出身地である福建路泉州晋江県は︑泉州の附郭県である︒

︵ ﹃

全 集

﹄ 第五巻所収︑岩波書店︑昭和四十 三 年︶に拠れば︑泉州には︑宋初以来︑外国商

船が来集していた︒大中祥符二年 (

i

OO九︶頃には泉州城内に清浄寺というイスラム教の寺院が創建された︒元祐

二 年(10八七︶には泉州に市舶司︵外国貿易を掌る官司︶が開設された

南郊に外国人の居留地が設けられていた ︵ 本論二の参照3)︒呂夏卿が︑少年時代に︑泉州在住のアラビア商人から

フランコリンの話︑もしくはそれに類する話を聞いて︑後にそれを取り入れて﹁淮陰節婦伝﹂を作ったのではないか︑

と考えたくなるけれども︑もしそうであったとすれば︑なぜ﹁淮陰 ﹂ の話にしたのか︑という疑問が生じる ︒

細かく見ると︑徐積の﹁淮陰義婦詩序 ﹂ の話には︑被害者が水泡を指して︑

んだ場面は出てこない ︒ そこで︑﹁淮陰義婦 ﹂ 定することができる︒ てフランコリンの話となり︑

関 法 第 六

一巻二号

いつか証人になってくれるだろうと叫

の話にはこの場面はなかったのであるが︑呂夏卿が︑

フランコリンの話が︑

アラビア商人か

︵ 本 論 一 の 参 照 1 8 )

︒ ま た ︑ 宋 代

︑ 泉 州 城

の 一 方

︵ 五

九一

フランコリンの話に フランコリンの話と﹁淮陰節婦伝 ﹂ との間には︑犯

四八

(24)

あ ぶ く の 告 発

四 法 律 問 題

四九

︵ 本論 一

の参照

ら聞いた話をもとにして︑この場面を創作して︑﹁淮陰義婦

の話に附け足して︑﹁淮陰節婦伝

﹂ を書いたのではない

か︑と考えられないこともない ︒

しかし︑単に︑徐積は︑この場面に輿味が無かったから︑﹁淮陰義婦詩序﹂にはこ の場面を記さなかっただけであり︑﹁淮陰義婦﹂の話にははじめからこの場面があった︑と看倣しておくのが穏当で

あろう ︒

桑原前掲著書に拠れば︑盾代︑多数のアラビア商人が揚州

︵ 現在の江蘇省揚州市 ︶ に来集していた

7

)

︒ 揚州は︑淮陰県が属する楚州の隣州である

淮陰県の隣県であり︑﹁淮陰義婦詩序﹂を書いた徐積の出身地であ る楚州山陽県は︑揚州と運河で連絡している

﹁ 淮

陰 節

﹁淮陰義婦﹂の話は︑暦代に揚州に来たアラビア商人が伝 えた話を︑楚州の人が︑地元の説話に取り入れて作ったものかもしれない

前節で︑﹁淮陰節婦伝

に述べられている話は︑呂夏卿が属した北宋時代の話であると受け取っておいた

︒ 宋の基

本的な刑法典である﹃宋刑統﹄

の闘訟律︑告周親尊長条には︑﹁夫を﹂﹁告せば﹂﹁実を得と雖も徒二年

︒ 其れ告する

事 ︑重き者は︑告するところの罪より 一 等を減ず

︒ ﹂

と定められている ︒

これは︑唐の開元律の闘訟律︑告期親尊長

条を引き継いだ規定である ︒

つまり︑唐宋の基本的な刑法では︑妻が夫を告発することは禁止されていたのである

そして︑唐宋の闘訟律︑闘殴殺人条には︑﹁故らに人を殺す者は斬

︒ ﹂

と定められているから︑夫を故意殺人の

で 告

発した妻は︑斬刑から一等を減じた流 三

千里の刑に当たる処分が科されることになっていたのである

︒ ところが﹁淮

陰節婦伝 ﹂

では︑現在の夫を︑前夫を故意に殺した罪で告発した妻が︑法律上︑全く問題にされていない

︒ 現代の

︵ 五

九 0

)

(25)

︻ 和 訳 ︼

うか︒前節に掲げた﹃万機論﹄

︵ 五 八 九

我々の感情から言えば︑それで当然であるが︑宋の法律から見ても︑それでよかったのであろうか︒

﹃宋刑統﹄闘訟律︑告周親尊長条には︑前段に掲げた文言の後ろの末尾に︑﹁其れ相い侵犯し︑自ら理訴する者は

聴す︒﹂という規定が置かれており︑その︑公定の注釈である疏に︑﹁其れ相い侵犯す︑とは︑謂うこころは︑

略︶或いは財物を侵奪し︑或いは其の身を殴打するの類は︑自ら理訴するを得るなり︒﹂と説明されている︒つまり︑

この規定に拠って︑夫から家庭内暴力を受けた妻は︑夫を告訴することができるのである︒しかし︑現在の夫が︑妻

と結婚する前に︑妻の当時の夫を殺したことが︑妻に対する﹁侵犯﹂である︑と当然に解釈することができるであろ

の文章に見られる︑﹁再婚したからには︑先夫との間の恩愛は絶えたのである︒﹂とい

う考えに立つならば︑今となっては妻との間の﹁恩愛﹂が絶えた人を︑﹁恩愛﹂が絶える前に殺したからと言って︑

妻に対する﹁侵犯﹂であるとは解釈しにくいのではなかろうか︒

次に掲げる﹃夷堅志補﹄巻五︑張客浮泄は︑﹁淮陰節婦伝 ﹂ の類話であるが︑この話には︑妻が夫を訴えた問題が

含まれているだけではなく︑別の法律問題も含まれている︒﹃夷堅志補﹄

﹃ 夷

堅 志

の逸文を︑南宋末の人であるらしい葉祖栄の﹃新編分類夷堅志﹄から採って絹集したものである︒明文書

局の点校本︵中華民国七十一年︶を見た︒校勘の注は省略した︒

郭州︵現在の湖北省武漢市︶

関 法 第 六 一巻 二 号

と岳州︵現在の湖南省岳陽市︶ は︑中華民国の張元済が︑南宋の洪邁の

との間に居住していた民の張客︵﹁客﹂は行商人の

意︶は︑絹織物の行商を家業としていました︒張の下男の李二は︑真面目に働いて仕事に習熟し︑その上︑性質が

五〇

︵ 中

参照

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