サフアヴ ィ一朝陶芸史研究の方法論
‑ ケルマ‑ンの新資料 を中心 に 一
阿 部 克 彦
は じめに
本稿は、サ フアヴィ一朝陶芸 に関す る研究 について近年の動向を踏 まえ、その 現状 を分析 しつつ、新たな資料 を提示する ことで、美術史学の視点か ら新たに方 法論の確立 を試みるものである。サ フアヴィ一朝期 の陶芸および窯業 に関 しては、
文献史料や考古学的データの不足か ら、研究の進展が遅れていた。 ところが現在、
カナダの王立オ ンタ リオ美術館 を中心 とす るカナダ ・アメ リカの合同研究チーム は、主 に科学的方法 による胎土の成分分析 によって、サ フアヴィ一朝期の陶器の 産地同定 を行 い、その成果 を発表 している1。サ フアヴィ一朝期 の陶芸史は、いま やイ ラン ・イス ラーム美術史研究 の中心課題 の1つ と言 って も過言ではない。
一方、イ ラン ・サ フアヴィ一朝史研究 については、特 に文献史学の分野で新た な研究成果報告が多 くな されて いる。そ の結果、周辺地域 との交易関係や商業 ネ ッ トワーク、行政な ど、多岐にわたる情報が蓄積 され、 16世紀か ら18世紀 にか けて、東西交易の中継地 としての果た した役割が明 らかにな りつつある2。
筆者は、 まさにこの東西美術交渉史の観点か らサ フアヴィ一朝期 の陶芸 に注 目 してきた。特 に中国の明代の輸出陶磁器がイ ランの陶芸 に対 しどのように影響 を 与えたのか、そ してイ ランの美術史上 どのよ うな役割 を果た したのか という問題 提起 を行 って きた。そ の一環 と して、サ フ アヴ ィ一朝研 究 に関す る国際学会 (2001年、於イギ リス、 ロン ドン大学S.0.A.S.) にお いて、イ ラン ・ケルマ‑ ン 市 に現存する建築装飾タイル と、 旧市街地 における実地調査 において表面採取 し た陶片資料 を用 いて、 17世紀初頭か ら後半 に至 るケルマ‑ ン窯業の実態の一端 を 紹介 しつつ、サ フアヴィ一朝期 の窯業 におけるケルマ‑ ンの役割 と特色 について
1最新 の成果は次 に報告 されて いる。GOLOMBEK,Lisa,HTheSafavidCeramicIndustryat K
irm an',Iran,vol・41,2003,pp・2531270・
2FLOOR,MATTHEEな ど参照の こと。
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考察 した3。そ こでは、窯虻 の発掘調査が未実施の現状 にあって、現存す る伝世品 の産地 同定 の課題 に対 し、 どのよ うな方法論が可能で あるか を提案 した。
本稿では、 まず、現在進め られて いるサ フアヴィ一朝陶芸研 究 を検証 し、先行 研究 を含 めたそ こで の問題点や批判点 を整理す る。 また、サ フアヴィ一朝 の陶器 の新 たな分類方法 を提起す る。そ して、最後 にイ ラン ・ケル マ‑ ンで の調査 に よって得 られた新資料 を用 いて、産地 同定 とサ フアヴィ一朝陶芸 の位置付 けに関 して新たなアプ ローチ を試み るものである。
Ⅰ サ フアヴ ィ一朝陶芸史研究の現状 と批判 1歴史学的手法
サ フアヴィ一朝陶芸は、非常 に限 られた史料 しか知 られていない現状 にある。
加 えて、それ らは全て にお いて、サ フ アヴィ一朝期 にイ ランを訪れ た ヨー ロッパ 人による記述である。そのなか には、陶器 あるいは窯業 に関す る見 聞 も含 まれて いるが、産地や陶器 の技法 に関す る情報 は、断片的な ものにす ぎないので ある。
17世紀後半サ フアヴィ一朝期 のイ ランに滞在 し、見 聞録 を著 した2名の フランス 人で ある、 タヴ工ルニ工 とシャルダ ンは、 ともに優れた陶器 の生産地 としてイス フアハー ン、ケルマ‑ ン、ヤズ ド、マ シュハ ド、 シー ラーズな どの諸都市 を挙げ て いる。そ のため ここは、今 日に現存す る多数 の陶器 の製作地 と考 え られ る4。 両者が最 も中国陶磁 に近 い優れた製品 を生み出す のはケルマ‑ ンである と述べて いるが、 シャルダ ンは、 当時ベル シア全土で陶器 の生産が行われて いる と記述 し て いる5。そ のため個 々の作例 の生産地 を、上記 の都市 の どれか に同定す る こと はできない。事実、サ フアヴィ一朝期 に製作 された陶器 は、技法や装飾 に多種多
3ABE,Katsuhiko,HBlueandWh iteTi1esfrom Kerman",ConferencebanandtheWorldin theSafavidAge,S.0.A.S.(schoolofOrientalandAfricanStudies),London,6September 2002.
4TAVERNIER,Jean‑Baptiste,VoyagesenPerseetdescriptiondeceroyaume,Paris,1930.
CHARDIN,Jean,VoyagesduCheualieyChardin,enPerse,etautreslieuxdeI‑Orient,edL.LanglとS, paris,1811.邦訳では、 シャルダ ン・J、岡田直次訳 『ベル シア見聞録』東洋文庫621、平凡社、
1997年。
5同書、 シャルダン、266頁。
様なタイプがあ り、文献史料 のみ を頼 って分類 を行 うことはできない60
2考古学的手法
窯業史研究のなかで も産地および年代同定 にお いて、確実な成果 を得 られるの が考古学的手法である。産地 同定は、窯場の発掘調査が最終的な結論 を得 るため に欠かす ことができない。 ところが、 17世紀の窯業地 とみ られるイ ランの諸都市 は、 いずれ も今 日では近代都市 として発展 を続 け、市街地 において発掘調査 を行 うことが、 ほぼ不可能な状況 に置かれている。前述の文献史料か ら、ケルマ‑ ン は、サ フアヴィ一朝期の窯業の中心地の1つ と考 え られているが、市内の再開発が 進行 した現状では、市街地 における発掘調査 を計画す ることが難 しい0
1970年代 にケルマ‑ ン南部のグベイ ラで行われた発掘調査では、地表 にサ フア ヴィ一朝期 の陶片が見 られた との報告がな されて いる7。 また、筆者が1999年 に テヘ ラン考古学博物館 において見分 した出土資料は、サ ヴェ一 にて出土 したもの との説明を受 けたが、発掘報告書す ら無かったため、確証が得 られなかった。イ ラン西北部のサ フアヴィ一朝発祥の地であるアルダ ビール にある、 シェイ フ ・サ フィー廟で行われた1994年の発掘調査では、大量の陶片が出土 した8。
3美術史学的手法
17世紀サ フアヴィ一朝期の伝世資料 は多 く存在す る。最 も多 く所蔵品を有す る ロン ドンのヴィク トリア ・アン ド・アルバー ト美術館 (以後 「Ⅴ&A」という) に は、およそ600点が所蔵 されている。その多 くは 白地藍彩で、白い素地の上 に、コ
6アーサー ・レー ンは、1957年 に、これ ら文献 をもとに、Ⅴ&A所蔵 のサ フヴィ一朝陶器の分類 を試みた。 しか し、彼の主観的な分類は、今 日では基準 とす るに値 しない。
IJANE,Arthur,LaterIslamicRottery,Faber&Faber,London,1957.
7BIVAR,A.D.H.,ExcavationsatGhubayra,Iran,SchoolofOrientalandAfricanStudies, UniversityofLondon,2000.1971年か ら4期 にわたって調査が行われた。
82000年8月、筆者はイ ラン文化遺産庁の発掘主任マフムー ド ・ムサ ヴィ氏の協力によ り、出土 資料 の調査 を行 った。報告は未刊行。 1994年度 の発掘報告 に関 しては以下参照の こと。
MOUSAVI,Mahmoud∴ ̀Excavationsinthewestem partofthemonumentalcomplexof Shaykh Safi,Ardabil",edit,CANBY,R"Sheila,SafavidArt&Architectwe,TheBritish Museum Press,2002,pp.16‑19.
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バル ト顔料で彩色 を施 し、最後 に上か ら透明粕 をかけた陶器である。他 に、単彩 粕や ラスター彩粕な ど、多種多様な技法が試み られた。
これ ら大量の陶器が現存す るにも関 らず、編年による分類は不十分であると言 わざるを得ない。 クロウは、Ⅴ&Aの資料 を用 いて、編年 と様式の変遷 を試みた9。
その主な根拠は、数少ない記年銘の作例 と、編年がほぼ確立 されている中国陶磁 の比較によるものである。 クロウは、それ まで にも中国陶磁研究の成果 を踏 まえ なが ら、文様構成の変遷 による分類 を提示 してきた10。 また、クロウと共 にサ フア ヴィ一朝陶器の様式変遷 を試みたのが、ホイ ッ トマ ンである。ホイ ッ トマ ンも同 様 に、未刊行の博士論文 において、 16世紀初頭のサ フアヴィ一朝成立か ら18世紀 半ば までの王朝滅亡 まで、記年銘 の作例 を軸 として、 中国陶磁 の作例 を用 いなが
ら様式による分類 を行 った'1。
文献史料や考古資料が不十分ななかで、伝世資料 のみを用 いて分類 を行 うこと は困難 を極める。特 に、産地 同定 に関 しての確証が まった く無いまま、個 々の作 例 を特定の産地 に同定す ることは不可能である。製作年代 について も記年銘のあ る作例は、それ を軸 として編年 を確立す るには数量が不足 してお り、全体 のなか の比率 としては不十分な数である。実際、記年銘 のある作例 とは文様構成や様式 を全 く異 にす る作例 も多 く、それ らを正確 に分類す ることは困難である。
4科学分析
科学分析は、既述のカナダ ・アメリカの合 同研究プ ロジェク トの核 となる手法 である。 と りわけ、イス ラーム陶器 の胎土分析で実績 を築 いて きた ロバー ト ・ メ‑ソンによって、次第 にサ フアヴィ一朝期の陶器 の産地が明 らかにな りつつあ る12。
9CROWE,Yolan de,PersiaandChina;SafavidBlueandfmu'teCeylamicsintheVl'ctoriaandAlbert Museum1501‑1738,LaBorie,2002.
川cROWE1979‑80、1980、2002をそれぞれ参照の こと。
‖ wHITMAN,M.D.,Persian Blue‑and‑white Ceramics
. ・
Cycles of Chinoiserie,New YorkUniversity,Ph.D.dissertation,1978.(UniversityMicrofilms)
12MASON,a Robert,"PetrographyofPotteryfrom KirmanH,ban,vol.41,2003,pp・27卜 278.
まず、研究の出発点 において考古学的観点 によると、伝世品は歴史 を経て取捨 選別 されて今 日まで伝世 してきた ものであ り、製作時の歴史的環境か ら完全 に切 り離 されたものであるか ら、考古学的資料 としては価値が低 いもの として捉え ら れる。生産地、製作年代 に関す る情報は、作品 自体 に銘文が記 されている場合 を 除 いて、作 品そ れ 自体 か ら得 る ことはで きな い。 メ‑ ソ ンは、そ こに岩 石 学 (Petrography)の手法 を応用 し、胎土 に含 まれ る石英 の結晶の特徴か ら、産地 を導 き出す方法 を採用 した'3。 また、同プ ロジェク トのゴ ロンペ ックは、そ こに美 術史的成果 と合わせ ることで産地 を特定す る試み を行 った14。
ゴロンペ ックとメ‑ソンは、 この成分分析 を行 う際の資料 として、お もにケル マ‑ ン市内の旧市街地で採取 された陶片 を基準資料 とした。 しか し、考古学的立 場では、表面採取資料が参考資料 として有効だが、窯虻の発掘調査 による出土資 料 との比較研究がない時点 において、産地同定の決定的な証拠 と見なす ことはで きない。
Ⅱ サ フアヴ ィ‑朝陶器の分類 1サフアヴィ一朝陶器の分禁裏基準
サ フアヴィ一朝期 に帰せ られる陶器は主 に欧米 のコレクシ ョンに収蔵 され、そ の代表的な ものは中国の青花磁器 (染付) を模 してお り、 白色の素地の上に、 コ バル ト顔料の青色 (藍色)で彩色 され、最後 に透明粕が施 された作例である。 こ れ らの陶器は、従来、 中国陶磁 のオ リジナル に対す る倣製品 として扱われ、比較 対象 として部分的に取 り上げ られる ことはあって も、その発生および発展の実態 については、不明な点が多 く残 されている。その理 由は、大部分がいわゆる 「伝 世品」であって、発掘 による出土資料 と異な り、従来 の考古学的手法による分類 が行 えない。 よって、年代および製作地の同定、技法の実態 について多 くの疑問 が残 されて いるため、頼 るべ き分類方法が確立 されていないのである‑5。 従来か
13MASON,B.Robert,"petrographyofPotteryfrom Kirman",Iran,vol.41,2003,pp.271‑278.
14 GOLOMBEK,Lisa,"TheSafavid CeramicIndustry atKirman",Iyan,vol.41,2003, pp.253‑270.
15考古学的立場か らの研究方法 につ いては以下 に詳 しい。
佐 々木達夫 「イス ラームの染付」『東洋陶磁』第28号、43‑54頁。
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ら陶器の製作地名による漠然 とした分類が行われている。 しか し、それ らの地名 は、前述のように、 同時期 にイ ランを訪れた ヨー ロッパ人の記述 に依 ってお り、
他の文献資料 による裏付 け、 あるいは科学的、考古学的な資料 による立証がない。
つま り、分類方法 としては、極 めて暖昧であるといえる。
そ こで、第2節では、どのような方法 を用 いて これ ら伝世品の陶器 を分類 してい くか という課題 に基づき、陶器の装飾 の文様構成、および様式の変容過程 を把握 し分析することによって、資料の分類 を行 う際の基準 を設定す ることを目的 とす る。そのために、は じめにサ フアヴィ一朝陶器 の概略 を述べ、そのなかで意匠の タイプを紹介する。つぎに、製作地の同定、年代設定、技法 に従 った分類の問題 点について、先行研究 を参照 しなが ら述べる。 さ らに、文様構成 と様式の発展 に 従 った分類 を提示す る。
2サフアヴィ一朝陶器の概略
サ フアヴィ一朝陶器の多 くは欧米 の美術館 に収蔵 されている。そのなかで もっ とも代表的なコレクシ ョンは、 ロン ドンのヴィク トリア ・アン ド ・アルバー ト美 術館で、その数は、約600点である。 また,パ リのルーブル美術館、そ してセーブ ル陶器美術館 には、数十点が収蔵 されて いる。他 にも、オ ックス フォー ドのア シュモ レアン美術館、ベル リン博物館、エル ミター ジュ美術館な ど、 ヨー ロッパ 各地のコレクシ ョン、そ してニ ュー ヨーク ・メ トロポ リタン美術館 も多数所蔵 し ている。
それ らは白地 にコバル トで装飾 を施 した白地藍彩のグループがその大部分 を占 め、そのほかに青粕彩、 白粕彩な どの無地のグループ、 白地藍彩 に赤、緑な どの 色彩 を施 した もの、そ して ラスター彩な どがある。 また、器型 も多岐にわたって お り、大型の皿、壷、瓶か ら、小型の壷、八角形の小皿、 あるいはカ リアンと呼 ばれる水パイプ用の容器な どと様々である。本稿では、数量的にも質的にも豊富 で、 中国陶磁 との相対比較が可能な 白地藍彩 のグループに対象 を限定す る。
装飾意匠に関 しては、 い くつかの異なった様式が認め られ るが、 ここでは どの ようなタイプが見 られるか、具体例 を挙げなが らそれ らを概略的に紹介す る。
は じめに、 中国の元代、明代 の陶磁 を模倣 した ものが挙げ られ る。 これ らは、
元代、そ して明代初期の洪武、永楽、宣徳期な どの陶磁器が原型である。 シヤー ・
アッパース1世が1611年 にアルダ ビールのシェイ フ・サ フィー廟 に奉献 した元代や 明代初期 の陶磁以外 にも、明代後期か ら清代初期 にかけて陶磁器は大量にイ ラン に招来 され、特 に嘉靖、万歴期 にはその最盛期 を迎える。サ フアヴィ一朝陶器の 白地藍彩 もこの両期のものを模 した ものが多 く残 されている16。
輸入 された中国陶磁 を直接写 したコピーが製作 された一方で、それ ら中国陶磁 を模 した装飾のなかに、サ フアヴィ一朝期 に由来す る独 自のモテ ィー フ (人物像 な ど)が挿入 された折衷様式のタイプ も作 られた。 また、 中国の図様 をモデル と しなが らも、簡略化、デザイ ン化 された ものが現われた。次 に見 られるのは、全 体 の構成の印象がきわめてイ ラン的、 あるいはイス ラーム的 といって もよい作例 で、例 えば幾何学文様で構成 された構 図の中に中国的モテ ィー フが納め られてい るものな どである。
最後 に、 中国陶磁 の原形か らまった く離れ、 中国的要素が識別できない独 自の サ フアヴィ‑様式 とで も言 うべきグループが挙げ られる。 これ らは筆致 も自由で、
よ り装飾的特徴 を示 した作例である。そ して、 白地藍彩 に朱色、オ リーブ色、褐 色な どの顔料で彩色 を加 えた明代の五彩 に類似 したグループ もこれ に含 まれるが、
デザイ ン、モティー フともに、 中国的要素は認め られないのである。
これ ら数百点 にものぼ る多種多様な資料 を分類す る方法は、その製作地および 年代 による分類、 あるいは技法 による区別、そ して器型 と装飾文様 のテ ィポ ロ ジー、すなわち類型 区分が挙げ られ る。 しか し、 これ ら陶器 の大部分は、 19世紀 以降 にイ ランを訪れた西欧のコレクターな どの収集 による伝世遺品であ り、発掘 による出土品は、わずかな陶片が知 られているのみである。 よって、 出土品を基 準 とす る分類方法は ここでは適用できない。 また成分分析 も陶器の技法 を理解す るのみな らず、その胎土 の分析 によ り生産地 を特定す ることが可能であるため有 効である。 しか し、 この方法はサ フアヴィ一朝陶器 においてはまだその端緒 につ いたばか りであ り、今後 の詳細な検証 を待たなければ な らないであろう。
.61611年時点での中国陶磁 のコ レクシ ョンは、王室 を中心 とす るご く限 られた層 によって形成 された。 しか し、 この時期以降は、貴族や富裕な商人層 にも浸透 した と考 え られている。なお、
シヤー ・ア ッパース1世奉献 の中国陶磁 コ レクシ ョンの詳細 に関 しては以下 を参照の こと.
POPE,∫.A.,ChinesePorcelainefrom theArdabilShrine,London,1981.
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3産地同定及び編年 に関する問題点
製作地 に関 しては、従来、クバチ (あるいはクバチ ャ)、ケルマ‑ ン、マシュハ ドあるいはイス フアハー ンな どの地名が付せ られている。 これ らの呼称は、 アー サー ・レー ンが1957年出版 の 『後期イス ラーム陶器』 のなかで主張 した説 に従 っ ている。 ここでは、 同時期イ ランを訪れた ヨー ロッパ人の記述、 あるいはオ ラン ダ、イギ リスの東イ ン ド会社 の報告 を典拠 として いるH。 ところが レー ン氏はサ フアヴィ一朝陶琴 を分類す るに足 る他 の具体的な資料が存在 しないことを認めて いるにも関わ らず、2つの主要な装飾的特色 を持 ったグループに対 して、それぞれ ケルマ‑ ンとマシュハ ドの地名 を当ててお り、それがその後 の研究者 によって引 き継がれ、便宜上そのまま広 く使用 されている。つ ま り、明確な基準が提示 され ていないため推定の域 を出ない、 といった問題点が指摘 されよ う。
その他 にも、陶器が購入 された土地 の名称がその生産地 として付せ られている ケースが挙げ られる。その代表的な例が、 クパテ (あるいはクバチ ャ)産 と称せ られるグループである。それ らの陶器は コ‑カサスのダゲスター ン地方の町クバ チにおいて19世紀末か ら今世紀初頭 にかけて ヨー ロッパ人によって収集 された も ので、それ以降広 くこの呼称が使われるようになった。つま り、 この地が陶器生 産地であったわけではな く、交易によって もた らされた と考 え られている。
つぎに、年代 を特定する手がか りは、年代が銘記 された数点の作例 を参照す る ほかはな く、それ による詳細な分類は困難であるが,発展の流れ をつかむ上で1つ の基準 となる。 ここでは、大 き く分 けて、 シヤー ・アッパース1世がガズヴィ‑ ン か らイスフアハー ンに首都 を移 した とされ る1598年前後 を境 としてサ フアヴィ一 朝陶器は明 らかに技法上、 また意匠の上か らも、 16世紀 に帰せ られる作例 とは一 線 を画する こと。そ して、 16世紀 を前期、 17世紀 を後期 として区分 し、それぞれ の特徴 を述べなが ら検討 を加えてゆきたい。
4前期サ77ヴィ一朝陶器
16世紀 に帰せ られ る作例の多 くは、前述のクパテ (あるいはクバチ ャ) の名称 で知 られている。胎土は荒 く赤みを帯びた ものが多 く、器壁 も厚手で表面の粕全
17LANE,Arthur,LaterIslamicBotte7y,FaberandFaber,London,1957
体 に細かいひびが入 っている。装飾は 白地 にコバル トで染め付けた ものの他 に人 物、動植物な どを朱、緑、黄色な どで描 いた ものがあ り、そのなかには同時代の 写本挿絵 の画題か ら写 した と思われ る作例 も残 されている。
中国青花 を模 した作例は、それぞれ作風の異なるい くつかのグループが存在す る。そのなかには、年代銘 の入ったものもあ り、 ロシアのエル ミタージュ美術館 にはH.878/1473‑4年'8のマシュハ ド作 と銘 の入 った作例が知 られてお り、 15世紀 末か ら16世紀初頭 に帰せ られ る作例 も多 く混 じっていると考 え られる。装飾様式 はおおむね元未、明代は じめの中国陶磁 を模 した もので、かな り忠実な ものか ら、
自由にイ ラン的意匠 と組み合わ された ものまでさまざまである。 ここでは、技法 的な差異 も認め られ、数箇所 の製作地の存在 を示唆 している。
これ らのグループは、カナダの王立オ ンタ リオ美術館のティームール朝陶器研 究プ ロジェク トによる研究が発表 された.90そのなかで、 ロバー ト・メ‑ ソンの論 文 によれば、ニーシャプール、マシュハ ドが約1430年か ら1520年の間、そ してタ プ リーズが1470年か ら1550年 の期間 に、15‑16世紀 の主要な陶器生産地 としてあ げ られ ると報告 している。 これは岩石学 (Petrography)の方法 を用 いて、胎土 に含 まれ る鉱物の成分分析 (ScanningElectronMicroscope法)によって判明 し た もので ある。そ して、従来 クバチ産 と称 されて きた青花 の陶器 の大半はニー シャプール、マシュハ ドそ してタプ リーズで製作 され、その後ダゲスター ン地方 のクバチに交易によって もた らされた ものであると結論づけている。
しか し、 同論文 によれば、同時期 のイズニー ク陶器 と同 じ性質 を持 ったタプ リーズ作 に帰せ られる作例 の存在 も報告 されているので、今後はイズニーク陶器 との影響関係 も考慮 されるべきであろう。
中近東文化セ ンター にはH.929年/1522年、ニー シャプール にてつ くられた と の銘文が記 された作 品が ある。 この作 品は、現在知 られて いる年代 と産地銘 の 入った16世紀 の唯一の作例であるO しか し、装飾は、明代初期の永楽期、そ して 宣徳期 の花鳥文か ら派生 した ものではあるものの、その後 の17世紀以降の製品 と
.aH.は、ヒジュラ暦 (イスラーム暦)の略.以下同.
.gGOLOMBEK,Lisa,MASON,R.B.andBAILY,G.,Tamerlane■STableware.・ANew4秒roachto theChinoiserieCeramicsofFifteenth‑sixteenthCenturyIran,Toronto,1996.
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は技法、意匠の面で も連続性がな く、む しろサ フアヴィ一朝期 に入 って も15世紀 に発生 したテ ィームール朝陶器 の意匠が連続 して踏襲 された ものであるとみなす べきである。サ フアヴィ一朝 における造形は16世紀の半ば までティームール朝の 様式 を色濃 く残 してお り、それは陶器 のみな らず、絵画、金属工芸の面で も明確 に反映されていることは多 くの研究者 も指摘 して いる通 りである。
5後期サ フアヴィ一朝陶器
これ ら15・16世紀の陶器生産地が、ホ‑ ラサー ン地方およびイ ラン北部 に位置 していたのに対 して、 シヤー ・ア ッパース1世がイス フアハー ンに首都 を移 した 頃、すなわち17世紀初頭以降、サ フアヴィ一朝陶器 の生産は、マシュハ ドと並 ん で、南部 のケルマ‑ ン、ヤズ ドな どの都市 にお いて盛んになった とされている。
しか し、それ らのなかで、マシュハ ド以外 の地名が銘記 された作例は、現時点で は 知 られ て い な い。た だ1点 の 大 英 博 物 館 に 所 蔵 され て い る水 差 し に は、
H,1025/1616‑7年 という年代 と共 に、「MahmoudMimariYazdiの作」と銘がある。
しか し、 これだけでは、 この製品がヤズ ドで製作 された とす る確証 にはな らない。
ただ、少な くともヤズ ド出身の一族 の陶工の手 によるものであることは推定でき る。
他 の生産地 として、イス フアハー ン、カー シヤー ン、サ ヴェ‑、ナ‑イー ンな どが考え られているが、文献史料 あるいは発掘資料 による裏付 けはな く、個 々の 作品をそれ らの地名 に当てることは不可能である。そのため、今後窯 の発掘、 あ
るいは新たな文献資料の発見等がなされない限 り研究 の進展が望 めない。
サ フアヴィ一朝陶器は、 シヤー ・アッパース1世の治世の前後、すなわち17世紀 の初頭か ら半ば にかけて転換期 を迎 える。 この時期 に製作 された とお もわれる作 品は技法的にも完成度 の高いもので、胎土は精選 され 白く、焼成温度 も高 く、粕 も貫入が少な くな り、光沢 と透明度が増 して くる。そ こでは、胎土 にまず 白い錫 粕 をかけ、その上にコバル トで彩色 を施 し、 これ に透明なアルカ リ粕 を施 した。
ア ッパース1世以降、技術的 にも装飾的 にも良質な製品が大量 に生産 され るよ うになる。現存する伝世品の大部分は、 この時期以降のものである。
ルーブル美術館 に所蔵 されている17世紀後半の作 とされているカ リアンと称せ られ る水パイプの容器は、 フランス国立博物館研究所 の成分分析 によると、透明
アルカ リ粕のす ぐ下 に白色の錫粕がかけ られている。 この層 のなか に鉛、銅、亜 鉛、そ してバ リウムが含 まれている。そ して、 このバ リウムの含有量はいままで のイス ラーム陶器 には見 られないもので、 中国、東アジア産 の陶器の粕、 あるい はガ ラスにしか認め られないと結論づけている。 この報告は、何 らかの形で中国 の陶磁器 の技法がイ ランに伝わった ことを示唆 しているのか、 あるいはイ ランの 陶工が研 究 の結果独 自に生み出 した ものなのか とい う疑 問が生 じる。 シヤー ・ ア ッパース1世が中国か ら陶工 を招来 した という事実 を多 くの研究者が記 してい るが、 いずれ もその論拠 となる史料 の提示は していない。ただ、 1683年 に、イ ラ ンに宣教師 として派遣 された フランス人のサ ンソン神父は、 1695年出版の 「ベル シア王国の現状」という著書のなかで、当時のシヤー ・ス レイマ‑ ン1世 について 記述 している20。そ こには、 「シヤーは多 くのヨー ロッパ人の工人を雇 っている。
フランス人の中には時計職人がいて、 シヤーは多額 の報酬 を彼 らに与えている。
その他 にも中国人やアジアの他の国々の工人 も雇 っている2'」とあ り、その中国人 が陶工である可能性 もある。
6文様構成 と様式 による分類
これ まで、年代 と生産地の同定 に関す る問題点、および技法 と成分分析 につい ての研究状況 について検討 を加 えた。 これ らの研究方法は互 いに相補関係 にあ り、
対象 とす る資料 を分類す るにあた っては必要不可欠で ある。 ところが、サ フ ア ヴィ一朝陶器の分類は、前述 のよ うに、それ ら各問題点 を解 明す るに必要な資料 や情報が極めて限 られている。そのため、 ここでは、装飾 の文様構成 のティポ ロ ジー と様式の分析 という研究方法 によって分類 を試みたい。そ して、明代の嘉靖 期、および万歴期 の陶磁器 を原型 に した17世紀 の陶器 を中心 にして、比較考察 を 行 いたい。
サ フアヴィ一朝の陶器 に関す るい くつかの先行研究は、おおむね意匠の変容 を 中心 に論 じられてきている。そ して、それ らの研究は、ある1つのモテ ィー フを選 択 し、それが中国陶磁器 に描かれたオ リジナルか らどのよ うに変容 したのかを検
20SANSON,Nicolas,EtatduRoyaumedeRerse,Paris,1695.
21同書、pp.73‑74.
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討 している。 しか し、各モティー フが全体 の構 図のなかで どのように配置 され、
解釈 されていったのかについては研究が不十分であ り、文様 の類型区分の規準 も 明確ではない。
そ こで、 ここでは どのようなテ ィポ ロジーを設定すれば分類が明確 になるか を 提示 し、 さ らには分類 における具体的な規準 を示す ことによって、 中国陶磁 の意 匠及び構成がベル シア陶器 によって受容 され、変容 していったプロセス を明 らか にすることができる。
意匠および構成の類型の区分、そ して分類の規準は、前述 したコレクシ ョンの なかか ら共通の性質 を有す る作品を選択 し、は じめに意匠、構成 を比較す ること によっていくつかの類型 を抽出 し、その後分類の規準の設定 を行 う。 ここでは意 匠の変容過程 をもとにして、次の4つのグループに分 けて検討 を進めてゆ く。
1)模倣 (オ リジナル に忠実なコピー、 あるいはその意 図が認め られる作例) 2)変容 (全体 の構図は中国的であるが、モテ ィー フに変容がみ られ る作例、あ
るいはベル シア的モテ ィー フが挿入 された例)
3)同化 (中国的要素 を用 いなが らも構成がベル シア的である作例)
4)独創 (独 自の新様式の発生がみ られる作例、 中国的要素が認識 出来ない例) 1つの作品が どのグループに属 しているか判 断す るには、次 のよ うな作業が必 要である。 まず、皿であれば、見込み、器壁、 口縁、そ して外壁 にそれぞれ描か れた文様のなかか ら、中国的モテ ィー フを抽出 し、それが どのよ うに解釈 され、
変容 したのか、あるいは何が取捨選択 されたのかを分析す る。つぎに非中国的要 素が認め られる場合 には、 同様 の方法で分析 を行 う。
この作業を行 った結果、 い くつかの特徴が明 らか になった。モテ ィー フに関 し て指摘できることは、 ある文様が模倣 される際に、その形が表象 している意味が 理解 されず に、図像的混乱が生 じて しまうケースである。 た とえば、鉢植 えの底 か ら植木の根が外 に張 り出 している意匠が、模倣 の過程で、花瓶の表面 に竜が巻 き付いたデザイ ンに変容 して描かれ ることな どである。 しか し、 これ らはオ リジ ナル を忠実 に模倣す る過程で生 じた誤差 の範囲であ り、第 1グループに含 める こ とが出来 るO第2グループは、 中国陶磁 のモテ ィー フが具体的な事物 を表 して い る場合、それが次第 に抽象化、幾何学化 されてい く傾向が現れ る。段階を経 るに 従 って、 中国陶磁 のオ リジナル に対 して、文様が簡略化 され、機械的にそれがパ
ター ン化 して繰 り返 されるという特徴が認め られ る。 また、 自由で流麗な筆致 に よる曲線が強調 され、有機的な構成 に変化 してゆ く傾向が現れる。 これ らの特徴 を表す具体例 としては、波涛文が挙げ られる。確かに波 と判別できる文様が、完 全 に抽象化 され、編み 目のよ うな図案 に変化 して しまった ものである。
第3グループは、全体 の図案が全 く幾何学的であるが、それ を構成 している個 々 のモティーフは中国の文様か ら派生 した ものである。例 としては、星形、 あるい は花弁型の枠 の中に繰 り返 された文様が納め られているものである。第4グルー プは、例 えば 白地藍彩 に朱 と緑の顔料で上絵付けをほ どこした作例は明の五彩 に 相 当す るものであろう。 しか し、 ここでは、全 く中国的要素は見 られない。 ある いは逆 に中国的な文様がパネルの中に挿入 されている奇妙な例 もある。 これ ら彩 色 を施 したグループは17世紀末の作 とされてお り、 まさにサ フアヴィ一朝様式 と いって もよい独創的な作例である。
全てのサ フアヴィ一朝陶器 に共通す るもう1点 の特徴 は、後期 の作 品にお いて も、見込みに描かれる主題 に対 して器壁 あるいは 口綾部 に描かれ る文様が、明初 の牡丹唐草文や波涛文 を使用 しているため、時代的なずれが生 じていることであ る。 これは、前述 のオ ンタ リオの研究 プ ロジェク トの一員で あるベイ リー も、
テ ィームール朝時代の陶器 について既 に指摘 している通 りである。そ して、 17世 紀 に到 って も、明代は じめの意匠が継続 して繰 り返 し用 い られているのである22。
このため、各グループは、それぞれ時間的な発展段階 として捉えることはできな い。
その1例 を挙げると、図2に示 した作例は、15世紀 の宣徳期 図1の ものを写 した も のであ り、 アルダ ビール廟 に所蔵 されている作品ほか、類品が数点知 られている。
オ リジナルでは、花束の文様 を中心の軸か らず らす ことで立体感 を出 し、 しか も 蓮華の花弁 もぼか しを入れているのに対 し、 この17世紀のサ フアヴィ‑陶器では 左右対称 になるよう中心軸 にあわせた構 図をとり、描写 も線描 をつかって平面的 な効果 をあげ ている。 この意 匠は、 16世紀後 半 の作 とされ るイズニー ク陶器 に よって もコピー されているが、 ここで もやは り立体感はな く、彩色 を入れ ること
22Bailey,G.A.,HTheResponseⅡ:TransformationofChineseMotifs",TamerLane‑STableware, Tbronto,1996,pp.57‑123.
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によってよ り装飾的印象 を強 く受ける。 このデザイ ンは、その後 も繰 り返 し用 い られるが、単純化が さらにすすみ、 アウ トライ ンのみで描かれ、完全 にパター ン 化 されて しまう (図3参照)。 ここまでは、オ リジナル を模倣す る意図が認め られ る ことか ら、第1グループ に分類 され る。 しか し、次 の3例 を見 る と (図4,5,6参 照)、中国的な雰囲気は残 しなが らも、個 々の文様は変容 を遂げ、よ り装飾的な様 式へ と移行 しているのが確認できる ことか ら、第2グループに相 当す る。図6にい たっては、幾何学的な星型デザイ ンの枠組みの中に、 中国の文様か ら派生 した植 物文がち りば め られている。 これ は、第3グループの代表的特徴 を示 している。
次の2例である図7と図8は、全体が有機的な構成 に変容 して、見込み と口綾部 との 境 もあいまいにな り、 同じパター ンが繰 り返 され、均質 に空間を埋め尽 くしてゆ く。特 に図8は、すでに中国的要素 を兄 いだす ことは難 しく、もはや模倣の域 を脱 し、新たな様式の発生が認め られ るのである。
これ らの作例 によって明 らかにされたように、変容過程が進むに従 って、簡略 化、幾何学化、左右対称化が起 こり、その後、有機化 とも言 うべき各装飾要素が 相互 に溶け合 った様式に変容 してい く。
Ⅲ 新たな研究方法の方向と提案 1新たな研究方法 における方向の概要
前節では、伝世晶の分類方法 として、 中国陶磁 の図像 の受容 と変容過程 に従 っ て4つのグループに分類す る方法 を検証 した。 ところが、従来か らの様式分析 に よる美術史的手法では、産地同定 に関 しての確証 を得 る ことは困難であった。最 終的には、考古学的手法 による焼成窯 の発見 とその発掘調査 という命題が課せ ら れる。そ こで筆者は、新たな研究方法の試み として、陶器 のみを研究対象 とす る のではな く、陶器 と同 じ技法 を共有す る建築装飾タイル を比較対象 として取 り上 げた。具体的には、文献上、サ フアヴィ一朝期 の陶器製作の拠点の1つ として挙げ
られている、イ ラン南東部のケルマ‑ ンの建築遺構 に注 目した。
2ケルマーン旧市街の表面採取資料
今 日のケルマ‑ ン市は、過去 の都市計画 によって、主要な幹線道路が旧市街 を 貫き、かつての城壁 も一部 を除いて取 り壊 されている。そ して、現在 も大規模な
再開発 によって、 旧市街 にあたる地区の歴史的住居は、次々 と取 り壊 されつつあ る。筆者が現地 を訪れた1999年か ら2000年 の時点では、 旧市街 の至るところで廃 屋が多 く目につき、 自由に敷地 に立ち入 ることができた。そのため、地表 に散在 す る陶片 を観察、そ して採取が可能な状況であった。2000年夏 (8月20日〜9月2
日)に行 った調査では、旧市街 の32ヶ所で総数368片 に及ぶ陶片 の表面採集 を行な い、その後、現地の文化遺産庁 に報告 を行ない、陶片資料の保管 を依頼 した23。
これ らの陶片 を観察 した ところ、その中に焼成不良品が数点含 まれてお り、陶 器 を焼成 した窯が市内に存在 した可能性 を示唆 している。陶片 を含んだ土壌が市 外や他 の都市か ら、市内に大量 に運び込 まれ ることはまずない。 しか も、他の地 域の生産地か ら完成品 とともに、焼成不良品や破損品がケルマ‑ ンまで運搬 され て くる可能性は極めて低 い。 よって、 これ らの不良品は、陶片採集地かその近辺 の窯か ら破棄 された と考 えるのが妥 当であろう24.
3ケルマーンの建築装飾 タイル
ケルマ‑ ンには、今 もサ フアヴィ一朝期 に建設、 あるいは修復 された建築が現 存 してお り、そのなかには、 白地藍彩 の技法で彩色 されたタイルが見 られる。
ここでは、ケルマ‑ ン市内の2箇所 の建築、すなわち、マス ジッ ド ・ジャーメと マスジッ ド ・エマ‑ムの、2つのモスクのタイル装飾 に見 られ る形式的、および様 式的特徴 を検証 し、陶器 における文様 と比較考察 を行 い、製作年代 を推定す る。
そ して、それ らのタイルが、陶器生産地 としてのケルマ‑ ンとどのよ うに関連づ け られるか、 という課題 を検証す る。
ケルマ‑ ン市内のマスジッ ド ・ジャー メ (金曜モスク) には、その壁面装飾 に 白地 に藍色で絵付けを施 された、 いわゆる染め付 けタイルが見 られた。 これは、
従来か ら欧米のイス ラーム美術史研究者 によって、その存在が知 られていた。 し か し、それ らは、サ フアヴィ一朝期 に制作 された ことが推定 され ること以外 に、
詳細な調査研究が行われた ことはない。その主な理 由は、その技法、色彩な どが、
23テヘ ラン、イ ラン文化遺産庁(Miras‑eFarhangilran)提 出 レポー ト、受理番号5321/79,6,16 (未刊行)。
24これ ら陶片の分析は現在進行 中であ り、成果 の発表 を近 く予定 している0
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サ フアヴィ一朝期以降の主要な建築装飾 とは異質で、他 に類例のない作例である ことか ら、従来のイスフアハー ンの宮廷美術 を中心 としたサ フアヴィ一朝美術研 究の領域では捉 えがたい資料であった ことが挙げ られ る。
4マスジッ ド ・ジャーメ (金曜モスク)の装飾タイル
マスジッ ド ・ジャーメは、現存す る市内の もっとも重要な歴史的建築 として知 られ、その建造年代は、H.750/1349‑50年 (西側 のイー ワ‑ ンに銘記) とされて お り、その後、 いくたびかの改修や補修 を重ねて今 日に至 っている。 ミフラーブ には、H.777/1375‑76年銘のタイルがあるが、多 くのタイルはサ フアヴィ一朝、あ るいはガ‑ジャール朝期以降 に大幅 に改修 された と考え られ る。 しか し、一部 の タイルの銘文 に年代が記載 されていることを除けば、各部位 についてそれぞれの 年代を特定す ることは困難である。
ここで、注 目され るべきは、主イー ワ‑ ンの左右 に縦型の長方形のパネル部分 図9で、コバル ト ・ブルーの濃淡 と黒 の縁取 りで彩色 された下絵付けタイルが、左 右532枚ず つ張 られている ことである。 この各タイル のサイズは約18.5C絹で、パ ネル全体はそれぞれ縦7.9m横2.78mである。それ以外 に、小 さな横型パ ネルが 左右2枚ずつ、 さ らには隅 に細長 い縦型パネル2枚ずつ、そ して両側の壁面 にも同 じく細長 い縦型パネルが1枚ずつ設置 されている。向かって最左側 の横型パ ネル のタイル1枚 には、H.1321/1942‑43年 と、ケルマ‑ ンの工房 で作 られた との銘文 が下絵付けされてお り、観察 によって半分以上の下絵付けタイルが この時に取 り 替え、 あるいは補充 された ことが確認できた。 これ らのタイルは、色彩が淡 く惨 んでいて、表面の透明粕 も濁 り、多 くのひび割れが見 られ ることか ら、それ以外 のタイル とは明確 に区別が可能である。
よ り古いと見 られ るタイルは、 どれ も色彩が鮮明で、粕薬 も透明度が高 く、上 質 の素材 と高 い温度 で焼 成 され た こ とが推 測 され る。パ ネル 全体 の文様 は、
ティームール朝以来 の レパー トリー に加 えて、元 ・明代の中国陶磁 の意匠か ら派 生 し、様式化 された唐草文、蔓草文 を軸 に、蓮華文や牡丹文、飛雲文な ど多岐に 及んでいる。各モテ ィー フは、平面 に均質 に配置 され、視点が特定の箇所 に固定 されることがない。複数の枝が曲折 しなが らお互 いに交差 し、様式化 された花や 実、葉な どがそ の枝 か ら分 かれて いる。 これ らの どの特徴 を見 て も、前述 のサ
フアヴィ一朝期の陶器 と比肩 し得 る高い完成度 を見せている (図10参照)0 それ らの多様な レパー トリーのなかで も、 とりわけ特徴的なモテ ィー フが注 目 され る。それは、S字型 に湾曲 した羽毛状、 あるいは火焔状の葉文様で、 中心の 葉脈 に沿 って2本の線が入れ られ、中間は白地のまま残 され、透か しに似た効果が 得 られている。その周囲はちぎれたよ うになっている (図11参照)。
マスジッ ド ・ジャー メのタイル には、 この羽毛状の葉文様が多 く用 い られてい る。 また、 中心の葉脈が 白地のもの と、黒 い線が1本引かれた ものの2種類ある。
しか も、 中心の線 によって左右 に分割 された葉が、それぞれブルーの濃淡 によっ て描 き分 け られている。 この文様は、 17世紀前半の作 と考 え られる陶器 において も多用 されてお り、 ここに見 る作例では、蓮 の葉か ら派生 した植物文 と共 に描か れている (図12・13参照)。 これ をケルマ‑ ンのタイル と並べて比較すると、両者 の形態の類似性は明 らかである。
また、 この意匠は、イス フアハー ンのイマーム ・モスク内部 のクエルグセカ技 法25で描かれたタイル の装飾デザイ ンに近似 して いる。技法 と色彩が異なっては いるものの、青の濃淡2色で描 き分 ける方法は同 じで ある。 この王のモスクは、
1612年 に着工 し1638年 に完成 した。 このタイル は、そ の様 式か らいって、ケル マ‑ ンのタイル と各構成要素が類似す ることか ら、その同時性が認め られる。ケ ルマ‑ ンのマスジッ ド ・ジャーメの下絵付けタイルは、 17世紀前半の陶器 に見 ら れ る技法、意匠 との共通性、 またイス フアハー ンのタイル装飾 との類似性か ら見 て も、その年代 を17世紀前半か ら中葉 にかけて製作 された と推定できるのである。
5マスジッ ド ・エマームの装飾タイル
ケルマ‑ ンには、もう1つ重要なモスクが存在す る。マスジッ ド ・エマ‑ム (古 くはマス ジッ ド ・マ リー ク)は、セル ジューク朝時代 (1051‑1220)の建造である が、現在は、 ミナ レッ トの一部、 ミフラーブ、そ してイー ワ‑ ンの一部 にレンガ 装飾が残 されているのみである。現在、大規模な修復が行われてお り、改築が進
25スペイ ン語でcuerdaseca(乾 いた紐) の意。素焼 きのタイルの上 にまず植物油性 の顔料で 文様 を描 き、そののち彩色粕で着色す る。焼成後 は、最初 に絵付 した線描が蒸発 し、素地があ
らわれ るとい う技法。スペイ ンで多 く使われた技法である ことか らこの名が付 いた。
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んでいる (図14参照)。その主イー ワ‑ ンの通路 と中庭 に面 した両側4面の壁面 に は、タイルが張 られている。 ここには幾種類 ものデザイ ンのタイルが混在 し、全 く計画性が見 られな い ことか ら、他 の建築物か らの転用 で あろ うと推定 され る (図15参照)。 ところが、そ の ことがかえって多様 なタイル の見本帳のよ うな役 割 を果 た して いる。 ここには い くつか のタイ プが見 られ るが、 まず、 白地 にブ ルーの濃淡で文様 を描 いた もの、つぎに、青に、黒、赤、紫、褐色 を加えた もの があるが、八角形の星形の枠 の中に花束が置かれたタイルは、オ ランダのタイル をモデル にしていると考 え られる。
内部のミフラーブの両脇 には、 アーチ状の通路があ り、筆者が訪問 した2000年 の時点では、そのむかって右側の床面 には、やは り外部か ら運ばれた と考 え られ るタイルが無造作 に貼 られていた。そ の うちの1枚 には、風景の一部が描かれて いる (図16参照)。
この図柄は、上部 に帯状の線が重なるよ うに描かれ、その下 には岩 と草が連続 して描かれている。 この図柄は明 らかに風景の一部 を描写 した ものであ り、かつ ては大きなパネル を構成 していた1枚で あった と考 え られ る。それが どのよ うな ものであったかは、想像 に頼 るほかはないが、 17世紀初頭 のイス フアハー ンの宮 殿の1つを飾っていたクエルグセカ ・タイル ・パネルは、同 じく岩の脇 に生えた草 花 と、山あるいは丘の稜線 を縁取 るよ うに描かれた幾重にも重なった線描が確認 できる。ケルマ‑ ンのタイル も、色彩、様式 ともに差異はあるものの、おそ らく このような人物像の背景 として描かれたパネルであった可能性は高い。 このよ う な風景描写が、 白地藍彩 によって下絵付 けされたタイルは、他 に類例 のないもの である。
ここで も、 白地 に黒で まず アウ トライ ンを描 き、その上 にブルーの濃淡で彩色 するという、極めて絵画 と関連 のある手法 をとっていることか ら、年代 を推定す る手がか りとして、製作年代が確定 している17世紀初頭 の写本絵画 に比較が可能 な作例 を求めた0
16世紀末以降、 シヤー ・アッパース1世の時代 には、それ までの写本挿絵 として の絵画か ら、単独の肖像画 を集めたアルバムが好 まれ、 同時代 を代表する宮廷画 家であった レザー ・ア ッパース イー をは じめ とす る画家は、多 くの肖像画 を描 い た。そ のなか の1枚 で あ る レザ ー ・ア ッパ ー ス イー によ って1630年 頃描 かれ た
「指で数 をかぞえる女性26」の右下 には、マス ジッ ド ・エマ‑ムの風景画タイル に 描かれたモティー フと同様 の、先端の尖ったスペー ド型の葉 をもった植物が描か れている (図17参照)。特筆すべき点は、葉 につながる茎が、葉の中心 に向けて、
1本 ない し2本線 の早 い筆致で 引かれて いる ことであ る。全 く同 じ描写 をもつモ テ ィー フが、ケルマ‑ ンのタイル画 と、イス フアハー ンの宮廷画家の手 になる写 本挿絵 に見 られることは、何 らかの下絵 となる図がタイル の絵付け師の手元 に届 いていた ことを意味す る。
このよ うに、ある様式のデザイ ンが、 さまざまな造型芸術 に共通 して応用 され ることは、イス ラーム世界では珍 しい ことではな く、宮廷絵師が下絵 を製作 し、
それ を写本装飾や陶器やテキスタイル、 あるいは建築装飾 に用 いることは頻繁に 行われたのである。
6ケルマーンの下絵付 けタイルの位置付 け
サ フアヴィ一朝期 においては、モザイ ク ・タイル と、 クエルグセカ ・タイルの 2種類 のタイル技法が主 として使用 され、下絵付 けタイルは例外的であった。マ ス ジッ ド・ジャーメのタイル ・パネル にも、 これ ら3種類の技法が用 い られている。
なかで も白地藍彩 の下絵付けタイル ・パネルは、その規模 と美 しさか ら見て も、
とりわけ念入 りに製作 された ことが確認できる。
白地藍彩の下絵付けタイルは、面 としての色彩 よ りも線描 とその筆遣 いが強調 されるため、よ り高いデ ッサ ンカ と熟練度が求め られ る技法である。 また、彩色 において も、濃淡 を用 いてグラデー シ ョンをつけるな ど、よ り繊細な描写が可能 であ り、絵画的な性格 をもっているといえよう。 また、最後 に透明粕 を掛けるこ とで、表面 に透明感 のある光沢が得 られ る ことも特徴 の1つである。それ に対 し て、 クエルグセカ ・タイルは、線描が厚 く均等 に塗 られた粕薬 を分割する下絵 と しての役割 を果た し、不透明な色彩の下 に隠れて しまうため、 よ り色彩 と面が強 調 されるという特色 をもつ。 この場合は、絵付 け師の熟練度 にば らつきがあって も、下絵 に沿 って忠実 に色 を塗 っている限 り、均一な結果が得 られ るのである。
26図版 に関 しては、RICHARD,F.,Splendeurspersanes:ManuscritsduXTLeauXVIIesieLcle, BibliothとquenationaledeFrance,1977,p・206,cat.no・150・HJeuneFillecomptantsurses doigts parReza ̀Abbasiを参照の こと。
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建築のよ り広範囲な表面 を覆 うためには、 クエルグセカ ・タイル の優位性は明 白 であ り、その ことか らイス フアハー ンをは じめ とす る、多 くのサ フアヴィ一朝下 の建築装飾 として選択 されたのであろう。
なお、技法の面 において、下絵付 けタイルは、彩色 を施 した後、最後 に透明粕 を表面 に掛ける工程 を経なければな らず、 1回の彩色工程で終わるクエルグセカ・
タイル と比べると手間がかかる。素材 に関 して も、透明粕は、素地が 白い ことを 必要 とし、石英 を主 とした複合胎土 を高い焼成温度で焼かな くてはな らない。 し か し、クエルグセカ ・タイルは、素地は不透明な着色粕 に隠れて しまうため、よ
り安価な粘土質のタイルで対応できる。
この技術的に複雑で手間のかかる下絵付 けタイルが、ケルマ‑ ンで生み出され た ことは、 この街が当時、 良質な下絵付け陶器 を大量 に製作 していた ことと無縁 ではない。事実、タイル職人 と陶器職人が しば しば 同 じ工房で作 られていた こと は、た とえば、カーシヤー ンで作 られた ラスター彩 のタイル と器が、全 く同 じ技 法を用いてお り、 同質な要素が兄 いだされ ることが、それ を証明 している。つ ま り、あるモスクな どの建造 に際 して、その表面 を覆 うタイルがある時期 に大量 に 生産 されたあ とは、一時的に修復が行われ ることはあって も、定期的に継続 され て注文が出され ることは考 え られない。そ こで、やは り通常は、陶器生産 を行 う 工房が、ある一定の期間タイル生産 も担 当 したのではないか と考 え られ る。 また、
首都のイスフアハー ンのよ うに、数十年 にわたって、次々 と公共建築や宮殿、邸 宅な どを継続 して建てる場合は、おそ らくタイル生産 を専門に行 う工房があった と考 え られる。ケルマ‑ ンの場合は、街 の規模か らす ると、おそ らく同 じ工房、
もしくは同じ絵付 け師が製作 に関わった ことが十分 に想像できるであろう。
以上のように、技法、色彩、モテ ィー フという3点か ら比較例 を総合す ると、ケ ルマ‑ ンの白地藍彩のタイルは、 17世紀サ フアヴィ一朝期 の陶器 と共通項が多 く、
その技法的特徴か ら、線描 を主体 とした極めて絵画的な作品が生み出された こと が指摘できた。ケルマ‑ ンのもっとも重要なモスクに、陶器 のデザイ ンに倣 った、
白地 にコバル ト ・ブルーで彩色 されたタイルが設置 された ことは、 17世紀前半に、
この街でいかに下絵付け陶器の生産が活発であったか を物語 っているのである。