著者 長峰 登記夫
出版者 法政大学人間環境学会
雑誌名 人間環境論集
巻 14
号 2
ページ 92(1)‑59(34)
発行年 2013‑12
URL http://doi.org/10.15002/00009443
はじめに 本稿は、日本で学ぶ外国人留学生等の日本企業への就職、および日本企業によるこれら留学生等の採用や活用について、その歴史的な流れを明らかにすることを目的にしている。最近のことばで言えば、グローバル人材の育成や活用にかかわることである。
これに関連して、筆者は先に二つの文章を発表した。日本企業による日本人留学生および帰国子女(帰国生)の採用に関するものである (1(。グローバル人材の育成や雇用、活用をめぐる問題として一括りにすることも可能であるが、同じグローバル人材といっても外国人留学生等は、日本人学生や日本人留学生などとは性格を異にする。本稿では、グローバル人材のなかの外国人留学生および外国の大学を出て日本企業に就職する外国人(これらを併せて以下では「外国人留学生等」と呼ぶ)の、日本企業への就職、および日本企業による これら留学生等の採用や活用を考察の対象にする。 このように対象を限定したうえで、外国人留学生等がいつ頃から、何人くらい日本企業に就職し、あるいは日本企業に採用され、活用されるようになったのか、そしてその後どういう経過をたどり、現在いかなる状態にあるのかについて見ていく。 結論を要約すると、以下のようになる。 日本の企業は一九八〇年代の初め、日本人留学生や帰国子女の採用より少し遅れて外国人留学生の採用を開始した(実際にはもっと早いのだろうが、後述のような方法でみる限り一九八〇年代初頭が最初である)。外国の大学を卒業した外国人が採用されるようになるのは、ずっと後になってからのことである。一九八〇年代半ば以降、日本企業の海外進出、国際化に伴って外国人留学生の採用は増え、バブルの絶頂期には広くおこなわれるようになった。
外国人留学生の日本企業への就職事情 歴史と現在
長峰 登記夫
しかし、バブル崩壊後彼らの採用は停滞し、金融機関の破綻が相次いだ九〇年代末、およびそれ以降まで横ばい状態が続いた。二〇〇三年あたりから日本経済回復の兆しが見えはじめると、その後は急速なグローバル化の展開に伴って、外国人留学生等の採用は増えていった。とくに二〇〇五年以降急増し、二〇〇八年にピークを迎える。同年アメリカで起こったリーマンショックの日本経済への影響もあって、一時減少に転じたが、一一年には回復し、一二年には〇八年のピーク時に迫る勢いで増加し、現在に至っている。
雇用形態も当初は嘱託など非正社員が多かった。しかし、一九八〇年代後半からは正社員での採用も増え、また、バブル期になると新卒採用で、未だ数は少ないが、新卒の定期採用も見られるようになる。現在では、日本人学生と同じ条件での正社員採用が基本となっている。
仕事内容は、採用の初期には語学教師や翻訳、通訳、海外との連絡等、語学を使用する仕事が中心であった。しかし、バブル期を経て、日本企業が大挙して海外進出を果たし、海外との取引や現地生産が拡大してくる九〇年代に入ると、仕事内容も多様化してくる。とくに二〇〇〇年代に入って国際化、グローバル化が進むと、製造業では外国人技術者が求められるようになり、優秀な技術者が逼迫しているIT産業で も外国人技術者への需要が高まっていった。事務系でも、経理や法務などの分野で外国人が求められるようになった。流通や小売りでは海外で店舗が展開されるようになると、将来現地法人の幹部候補として外国人を採用し、金融や商社などでは日本国内で、日本人と同じ仕事、同じ条件での採用がなされるようになった。こうして今では日本の国内か否か、あるいは仕事内容を問わず、日本人と外国人が同じ土俵で競争するようになっている。1 調査の方法
日本人留学生と帰国子女の採用や就職に関する文章で触れたように、これらについて書いたとき参考になる調査資料はほとんどないに等しかった。そこで取った方法が、これらの人々の就職や採用に関する大まかな歴史的流れと実態を新聞記事で確認するという手法であった。また、これらの人々に関する企業の採用や活用に関する政策等については、後の聞き取り調査に委ねるということであった(聞き取り調査については現在実施している最中である)。新聞記事の利用には制約も多く、限界もあるが、そのことを承知のうえで取り得る一つの方法としてこれを採用した。
日本人留学生や帰国子女に比べると、外国人留学生等の日
本企業への就職や採用問題については調査もなされ、議論もより活発で、資料も多い。国際化、グローバル化のなかでこれらの人々をいかに活用すべきかに関する、人事コンサルタント等による、企業の人事担当者向けのマニュアル本も多く出版されている。外国人留学生の雇用に関する調査研究が多い理由は、時の首相が留学生一〇万人受け入れ計画(一九八三年)、三〇万人受け入れ計画(二〇〇八年)を提唱し、それに沿って大学が留学生を受け入れるようになったため、大学も受け入れ当事者として最低限の就職の世話をしなければならなかったこと、そういう立場から大学の研究者も実態把握の必要があったこと、さらに国際化の波とともに、日本企業がこれらの人材を必要とするグローバル化の時代がやってきたこと、等にあると考えられる。
他方、日本人の海外留学は学生個人の私事と考えられ、就職の世話をする主体もなかったことから、関心も薄かったと考えられる。帰国子女の場合も、基本的には海外赴任した社員の個人的な問題、せいぜい会社の人事部の関心事となったに過ぎず、それが会社や経済団体、あるいは政府の関心事となったのは、日本企業の海外進出が拡大してからのことである。
本稿では、先に発表した二論文と同じ手法、つまり新聞記 事を第一次資料とし、その過程で過去の資料を参考にしながら、外国人留学生等の就職や採用についての歴史的な経過を明らかにすることにした。前の二つの文章と比較可能になるからでもある。記事検索にあたって調査の対象とした新聞は、日本経済新聞(同社の記事データベースに出てくる日経産業新聞や日経MJ等の系列紙を含む)および一般全国紙三紙(朝日新聞、毎日新聞、読売新聞)である。いずれの場合も、系列の週刊誌は含まない。 検索にあたって使用したキーワードは「外国人採用」、「外国人留学生x採用」、「外国人留学生x就職」の三つとした。このやり方は日本人留学生、帰国子女の場合と同じである。ただ、日本人留学生、帰国子女に比較すると記事はかなり多い。帰国子女の場合は母数が限定的であること、日本人留学生については、一般的に日本語で「日本人留学生」という言い方をあまりしないということなども影響しているものと考えられる。留学生を日本人と外国人に分けて検索する際のキーワードの選択は難しい。日本人留学生から日本人を外すと外国人留学生との区別ができなくなって、しかも記事は膨大になり、本稿の目的からしても関連性の薄い記事が多くなる。これは外国人留学生にも当てはまるが、「日本人留学生」に比べると「外国人留学生」の方は日本語としてより定着し
ている分だけ、本稿の目的に沿った記事が検索できたと考える。
検索結果は図表1に見るとおりである。上記のキーワードで検索し、ヒットした記事の総数は二,〇〇〇件弱、各紙のヒット件数は二〇一三年一〇月五日時点で、日経九一七件、読売三四六件、朝日三三八件、毎日二四五件であった。それぞれのキーワードで検索すると、同一紙のなかで同一記事が重複してヒットすることもあるが、それらをチェックし重複してカウントしないようにした。また、読者の声欄の記事もカウントしていない。なお本稿でいう外国人とは、いわゆる高度人材としての外国人であり、日本の大学(大学院)への留学生を中心に、外国の大学(大学院)の学生や卒業生のことを指し、工場労働者等は含まない。本稿で検討した記事のなかには、一部にこれらの工場労働者や日本人留学生を対象にしたものも含まれているが、数もそれほど多くなく、多かれ少なかれ高度人材としての外国人労働者等にも触れていることから、カウントしている。
これらの記事のなかで、本稿で主に分析の対象としたのは日経新聞の記事である。理由は、本稿の目的に沿った内容の記事は同紙に最も多かったからである。情報源が新聞記事であることから、内容は企業の担当者へのインタビューなどが
0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100
1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013
記事件数
図表1 外国人採用に関する記事件数
(日経新聞、1981/1~2013/10)
日経新聞 朝日新聞 毎日新聞 読売新聞 日経新聞
朝日新聞
読売新聞 毎日新聞
資料出所:主要4社の新聞記事のデータベース。2013年10月5日時点でのもの。
注:これらのデータベースで「外国人採用」「外国人留学生x採用」「外国人留学生x就職」
をキーワードに検索してヒットした記事2,000件弱を集計したものである。
資料出所:主要4社の新聞記事のデータベース。2013年10月5日時点でのもの。
注:これらのデータベースで「外国人採用」「外国人留学生x採用」「外国人留学生x就職」
をキーワードに検索してヒットした記事2,000件弱を集計したものである。各紙のヒット件数は 日経917件、朝日338件、毎日245件、読売346件であった。それぞれのキーワードで検索する と同一記事が重複してヒットするが、それらはチェックして排除した。また、読者の声欄の記 事もカウントから排除している。ただ、これらの記事には内容がほとんど日本人留学生や単純 肉体労働に従事する外国人外労働者の記事や、外国人留学生の就職に関することが主な内容で はない記事も含まれていたが、数もそれほど多くなく、これらの記事はカウントされている。
中心で、外国人の採用や活用、それに関する方針や政策についても、実績ではなく将来的な計画や見通し、途中経過の場合も多い。その点で内容にも不確実な要素が多く、制約も多い。そのことを承知の上で議論を進める。煩雑になるため、一部を除いて記事の引用はしない。上述のキーワードや本稿で紹介している企業の名前、本文に出てくるキーワード等を掛け合わせて検索すれば記事は追跡できると考える。企業名は記事掲載当時のものを使用する。
記事の分析は以下でおこなうが、その前に、高度人材として対象となる日本の大学で学ぶ留学生についてみておこう。
2 外国人留学生を取りまく実情 日本に留学している学生は何人いて、出身国はどこか、この留学生たちの何人が、どういう業界で就職し、どういう職業に就いているのか。ここでは、こうした疑問に対して概略的な説明を試みる。
留学生の数の時代的変遷
明治維新後に教育の近代化を成し遂げた日本は、アジア諸国から留学生を受け入れる立場になった。日本への留学経験者のなかには、中国人では孫文、魯迅、周恩来、蒋介石、李 登輝など、歴史に名を残す人物たちも多い。しかし第二次世界大戦後、日本はアメリカを中心にヨーロッパ諸国へ留学生を送り出す側になった。最も多く外国に留学生を送り出してきたアジア諸国のなかでも、日本は最大の送り出し国であった。 戦後いち早く経済復興を遂げ、一九六四年には経済先進国クラブであるOECDに二〇番目の国として加盟が認められた。一九七五年には経済力をバックに先進国首脳会議(現在の主要国首脳会議で、当初のG6からG7を経て現在のG8)の一員となって経済先進国として世界から認知された。しかし、経済大国になっても欧米の経済先進諸国に比較して日本への留学生は少なく、日本は依然として留学生の送り出し国であった。そうした実情を踏まえ、一九八三年、当時の中曽根康弘首相は「留学生一〇万人計画」を提唱し、二〇〇〇年までに外国から留学生を一〇万人受け入れるべく、計画がスタートした。二〇〇三年にこれが達成されると、二〇〇八年には当時の福田康夫首相が新たに「留学生三〇万人計画」を発表した。 二〇一二年、日本への留学生の数は一三万七,七五六人であった。これには大学院、大学(学部)、短大、高等専門学校、専修学校(専門課程)、準備教育課程に在籍する学生
が含まれ、在学一学年以内の短期留学生も含まれている (2(。一三万八千人弱の留学生の内訳は、最も多いのが学部学生(全体の五〇%)で、次が大学院生(二九%)であった。短大、高専、準備教育課程はいずれも一%前後と少なく、比較的多いのは専修学校(一八%)である。大学院生と学部生を母数にした場合、大学院生の割合は高く(三六%)、それが多くは学部レベルで留学する日本の大学生との違いである。
次に、過去の留学生数の推移をみてみよう。結果は図表2の通りである。これは一九七八年から二〇一二年までの留学生の数の変化を示したものであるが、ここからわかるように中曽根元首相が一〇万人計画を提唱した一九八三年には、日本に来る留学生の数は未だ一万人をやっと上回る程度にすぎなかった。しかも、政府(日本政府および外国政府)奨学生が三割近くを占めていた。その後、日本がバブル経済に突き進むなかで留学生は増加しはじめ、バブルの絶頂期には四万人を超えるまでになった。日本の経済および産業技術のめざましい発展に世界が注目したことが、その背景にあったと考えられる。
バブル経済崩壊後も留学生は緩やかに増加し続けた。一九九〇年代半ば以降は横ばいないしは微減するものの、九〇年代末からはアジア諸国の経済成長に伴ってふたたび
1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 留学生総 5,349 5,033 6,572 7,170 8,110 10,428 12,410 15,009 18,631 22,154 25,643 31,251 41,347 45,066 48,561 52,405 53,787 53,847
0 20,000 40,000 60,000 80,000 100,000 120,000 140,000 160,000
1978 1980 1982 1984 1986 1988 1990 1992 1994 1996 1998 2000 2002 2004 2006 2008 2010 2012
留学生数
図表2 日本の大学に在籍する留学生の数の推移
(1992-2011)
出典:日本学生支援機構「外国人留学生在籍状況調査結果」各年版。
出典:日本学生支援機構「外国人留学生在籍状況調査結果」各年版。
・90%近くが私費留学生であることを確認。
・国・地域別の人数及び割合(中国、台湾、韓国、とりわけ中国の比率が圧倒的に高いこと を確認)
・留学整数が少なかった1970年代は、日本政府および外国政府による国費留学生の比率が高 かったことを確認(20%~25%)。その後の増加は基本的に私費留学生の増加によるもの
(2000年代に入ってからは80数%~90%前後が私費留学生)。
増加に転じた。とくに二〇〇〇年~〇五年の増加は著しく、二〇〇三年には一〇万人計画の目標が達成され、二〇〇五年には一二万二千人に達した。その後、再び微減するものの、二〇〇八年には再度増加に転じ、二〇一〇年には一四万二千人に達した。こうしたなか二〇〇八年、グローバル化の急展開をうけて、福田内閣は新たに「留学生三〇万人計画」を提唱し、今日に至っている。
こうして、若干の増減を繰り返しつつも、一九八〇年代以降をみると、日本に来る留学生の数は着実に増加していった。これらの増加を支えたのは私費留学生で、現在では留学生全体の九割を超えている。
留学生の出身国
ところで、これらの留学生たちの出身国はどこか。図表3はそれを示したものである。ここから明らかなように、圧倒的に多いのは中国で、全体の六三%を占める。次は韓国(一二%)、台湾(三%)、ベトナム(三%)で、それにネパール、マレーシア、インドネシア、タイが一%台で続く。この図表からもわかるように、上位一〇カ国はアメリカ合衆国を除いてすべてアジア諸国である。アジア諸国で留学生全体の九二%を占める。二〇〇〇年と比較すると、この一二年の間 に中国の比率が上昇し、逆に韓国、台湾の比率が低下していることがみてとれる。また、若干の国別順位の変動はみられるものの、東アジアを中心としたアジアが中心であることに変わりはない。なお、これら留学生には短期留学生も含まれるが、それに限定するとアジアの比率は六〇%強まで低下し、かわって欧州(二〇・一%)と北米(一三・九%)の比率が高くなる (3(。
国 名 留学生数 構成比(2012年) 構成比(2000年)
中国 86,324 62.7% ① 55.8%
韓国 16,651 12.1% ② 18.7%
台湾 4,617 3.4% ③ 5.4%
ベトナム 4,373 3.2% ⑧ 1.2%
ネパール 2,451 1.8%
マレーシア 2,319 1.7% ④ 2.3%
インドネシア 2,276 1.7% ⑥ 1.8%
タイ 2,167 1.6% ⑤ 1.8%
アメリカ合衆国 2,133 1.5% ⑦ 1.4%
ミャンマー 1,151 0.8%
その他 13,294 9.6%
計 137,756 100.0%
資料出所:文部科学省「留学生受入れの概況」平成12年版、およ び日本学生支援機構「外国人留学生在籍状況調査結果」平成24年 版。
注:2000年の構成比の前の丸の囲み数字はその年度の学生数の多 い国の順番を示す。なお、2000年の留学生総数は78,812人であ る。
図表3 出身国別留学生の数
日本企業への就職者数 外国人留学生たちが日本の大学を卒業し、日本の企業に就職するには、学生としての在留許可(通称「学生ビザ」)を変更し、就労目的の在留許可(通称「就労ビザ」)を取得しなければならない。いうまでもなくそれには一定の条件があり、本人が希望して申請すればすべて認められるわけではない。過去一〇年あたりでみると、申請者の九〇%前後が許可され、許可率は若干上昇傾向にある。では、どれくらいの留学生たちが就労ビザを取得し、日本国内での就労を認められ、就職しているのであろうか。それについて見たのが図表4である。一九八三年には一〇〇人を少し超える程度で、日本で就職する外国人留学生は未だ珍しい存在であった。
しかし、その後、日本がバブル経済に向かうなかで日本企業の国際化が叫ばれ、それとともに外国人留学生の日本国内での就職は増えていった。一九八五年には二四九人、八八年には五二二人と増え、バブル絶頂の一九九一年には一千人の大台を超えた。三年ごとにほぼ倍増していった計算になる。さらにバブル崩壊にもかかわらず翌九二年にはふたたび倍増し、二,二〇〇人弱になった。その後は停滞しつつも増減をくり返しながら中期的には増加し、九〇年代末には三,〇〇〇人弱までになった。それが再び大きく増加しはじめた
出典:法務省入国管理局「留学生の日本企業等への就職状況について」各年版、および1983~91年について は新聞報道による。
0 2,000 4,000 6,000 8,000 10,000 12,000
1983 1984 1985 1986 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012
110 189 249 403522 7071,0041,117
2,1812,0262,3952,3902,9272,6242,3912,9892,6893,5813,2093,778 5,2645,878
8,272 10,262
11,040 9,584
7,831 8,586
10,969
認定件数
図表4 日本企業への就職目的で 外国人留学生のビザ申請が認められた件数(1983-2012)
のは二〇〇三~〇四年あたりからのことで、二〇〇八年には一一,〇四〇人でピークに達した。この就職者数は、同年のリーマンショックで翌年には落ち込んだものの、二〇一一年には回復し、二〇一二年には二〇〇八年のピーク時に迫る一〇,九六九人となっている (4(。
これは留学生全体の何割くらいになるのであろうか。日本学生支援機構の調査によると、日本で就職する外国人留学生の割合は年によって変動するものの、およそ全体の二〇~三〇%前後である。最新の二〇一一年統計では、全体で二二%であった。これを大学学部生および大学院生でみると、リーマンショック直前の好景気時には四〇%前後まで上昇したこともあるが、およそ二〇~三〇%前後で推移している。ただ、大学院、とくに専門職大学院の就職率は高い (5(。こうして見ると、バブル崩壊やリーマンショック時の留学生の雇用状況をみればわかるように、この三〇年、外国人留学生の雇用は、日本経済の不況の影響を最小限にとどめて伸び続けてきたといってよい。その背景には、日本企業の国際化、グローバル化と、日本での就職を希望する留学生の存在がある。日本学生支援機構の別の調査によると、日本の大学等を卒業する留学生の五〇~六〇%が日本での就職を希望している (6(。 留学生の多くが中国出身であることはすでに見たとおりであるが、では、日本企業に就職した者についてはどうであろうか。図表5はそれを見たものである(総数一〇,九六九人)。卒業後日本で就職する留学生の六四・一%は中国人で、それに韓国(一二・九%)、台湾(三・二%)、ベトナム(二・八%)と続く。おおよそ留学生の数に比例し、ほとんどがアジア諸国の出身である。ただ、外国から申請する場合、つまり日本で仕事をするために外国から日本に在留資格申請をする場合は、事情が異なっている。日本での就労を目的に外国から在
64.1 12.9
3.2 2.8 2.0 1.5
1.5 0.8
11.1
図表5 国別在留許可された留学生の割合(2012年)
中国 韓国 中国(台湾)
ベトナム ネパール タイ バングラデシュ スリランカ その他
21.7
12.5
11.2 10.6 3.9 7.5
3.9 3.3 2.8 2.1
20.4
図表6 国別在留資格交付割合(2012年)
中国 米国 韓国 インド ベトナム フィリピン 英国 台湾 パキスタン オーストラリア その他
資料出所:法務省入国管理局「平成24年における留
学生の日本企業等への就職状況について」 資料出所:法務省入国管理局「平成24年における日本 企業等への就職を目的とした『技術』又は『人文知 識・国際業務』に係る在留資格認定証明書交付状況に ついて」
留資格申請するためには、仕事内容が「技術」または「人文知識・国際業務」に該当すると認められなければならない。図表6は、そこで交付が認められた者の国別割合をみたものである(総数一二,六七七人)。一位の中国は変わらないが、その割合は二一・七%で、次は米国(一二・五%)、韓国(一一・二%)、インド(一〇・六%)と続く。それ以外ではイギリスやオーストラリアなどの英語圏諸国も上位に入り、米英豪の英語圏諸国で二割弱を占める (7(。 就職後の職業 外国人留学生たちが日本企業に就職するとき、どのような業種、職業に就いているのであろうか。業種について二〇一二年度の調査結果をみると、製造業が二五%、非製造業が七五%であった。製造業で多いのは機械、電機、食品等であり、非製造業では商業・貿易、教育、コンピュータ関連が多い。個別項目で比率が高いのは商業・貿易の二五%、教育の九%、コンピュータ関連の八%等である。商業・貿易が多いのは人材の性格からして予想されるところである。コンピュータ関連は、この分野で優秀な人材の不足が指摘されていることを考えれば納得でき、また、教育も伝統的な語学教師等を想定すればよい。 次に、留学生たちが就いている職種を見てみると、最も多いのが翻訳
・
通訳(二七%)、次が販売・
営業(二三%)で、これらふたつで全体の半数を占める。それ以外は情報処理(七%)、教育(七%)、海外業務(五%)、技術開発(五%)、経営・管理業務(四%)と続く。一般的な予想どおり、翻訳・通訳や教育、海外業務などが多くなっている。年度による変化はみられるが、上位三職種の順位に変化はなく、また、傾向性をもった時代的な変化もみられない (8(。12.9 64.1 3.2
2.8 2.0 1.5
1.5 0.8
11.1
図表5 国別在留許可された留学生の割合(2012年)
中国 韓国 中国(台湾)
ベトナム ネパール タイ バングラデシュ スリランカ その他
21.7
12.5
11.2 10.6 3.9 7.5
3.9 3.3 2.8 2.1
20.4
図表6 国別在留資格交付割合(2012年)
中国 米国 韓国 インド ベトナム フィリピン 英国 台湾 パキスタン オーストラリア その他
資料出所:法務省入国管理局「平成24年における留
学生の日本企業等への就職状況について」 資料出所:法務省入国管理局「平成24年における日本 企業等への就職を目的とした『技術』又は『人文知 識・国際業務』に係る在留資格認定証明書交付状況に ついて」
就職先の企業規模 外国人留学生は仕事(
job
)中心で職業選択をし、日本の学生のように企業規模や企業ブランドで就職先を選ばない、だから中小企業にも日本人学生ほどこだわりなく就職するといわれる。それについて見てみよう。外国人留学生たちの就職先企業を資本金額でみたのが図表7である。資本金額がそのまま企業規模を示すわけではないが、一定のめやすにはなるであろう。外国人留学生の就職先をみると、全体では資本金三千万円未満の企業、三千万円~一〇億円未満の企業、一〇億円以上の企業と大きく三グループに分けることができる。資本金一〇億円以上の企業に大企業がどれくらい含まれているか不明であるが、最も多いのは資本金五百万円~一千万の小規模企業で、それよりも小規模の企業も含め、資本金一千万円未満の小企業に多くの外国人留学生たちが就職していることがわかる。また、大企業への就職が減って、資本金五〇〇万円未満の小企業への就職が増えていることもわかる。これを従業員規模でみたのが図表8である。これによると全体の半数近くが従業員四九人以下の小企業に就職している。従業員一,〇〇〇人以上二,〇〇〇人未満、二,〇〇〇人以上の企業を合わせても一六%で、外国人留学生の多くが中小企業に就職している実態がみてとれる。
0 500 1,000 1,500 2,000 2,500
図表7 資本金別就職先企業
(2008~2011)
2008 2009 2010 2011
資料出所:法務省入国管理局「平成23年における留学生の日本企業への就職状況 について」2012年7月。
これは日本人学生と比較してどうであろうか。ディスコ社の調査によると、日本人学生の場合、従業員三〇〇人未満の企業に就職した者の割合は一六%(留学生の場合六七%)、三〇〇人~九九九人は一八%(留学生は九%)、一,〇〇〇人~四,九九九人は二七%、五,〇〇〇人以上は三八%(留学生の場合はグループ化の仕方が異なるが、一,〇〇〇人以上で一六%)となっている(図表9)。就職先の企業規模は日本人の学生と留学生とでは大きく異なり、日本人学生は大企業への就職比率が高く、留学生は中小・零細企業への就職比率が高い (9(。同様に、就職活動中の日本人学生に対する調査でも、彼らが活動対象としている企業の規模は大企業中心になっている。この傾向は四年生になって就活が進展するにつれて現実の厳しさを反映してか低下していくものの、三年生の三月段階では大手企業が約四四%(業界トップ企業一八%、大手企業二六%)を占め、日本人学生たちの志向をよく示している (((
(。
47.5%
8.2%
10.8%
9.0%
4.3% 11.8%
8.4%
図表8 従業員数別留学生の就職先企業
(2011年)
1人~49人 50人~99人 100人~299人 300人~999人 1,000人~1,999人 2,000人~
その他・不明 16.2%
17.9%
27.0%
38.4%
図表9 日本人学生の就職先決定企業の従業員数(2012年)
~299人 300人~999人 1000人~4999人 5000人~
資料出所:ディスコ「2013年度 日経就職ナビ 就職活動モニター 調査結果」2012年7月発行。母数は1,200人。
資料出所:図表7に同じ。
3 日本企業による外国人留学生採用の歴史的動向 これまでは留学生側からの就職を中心に見てきたが、これ以降は、日本企業による留学生等の採用の動向についてみてみよう。そのために、ここでは外国人留学生等の採用等を扱った新聞記事を手がかりにする。先に見た図表1は、日本企業による外国人留学生等の採用が、国内主要紙に取り上げられた新聞記事の件数を年別に示したものである。これによって、日本にいる外国人留学生、あるいは外国の大学を出た外国人の日本企業による採用が、マスコミによってどの程度関心をもたれ、また、彼らの採用が歴史的にはいかなる経過をたどり、現在はどういう状況にあるのか、その大雑把な流れは把握できるのではないかと考える。
図表1からわかるように、記事数が圧倒的に多いのは日本経済新聞(系列紙を含む)で、それ以外の新聞の記事は日経の半数以下である。それは日経が経済紙で、しかも系列紙を含み、それ以外の三紙が一般紙で単独であるということ等が影響していると考えられる。これら四紙のなかで、時代の流れと傾向を最もよく示しているのは日経である。
先に述べたようなキーワードで検索する限り、外国人留学生や外国人大卒の日本企業による採用記事が出たのは、日経が最も早く、一九八一年のことであった。一九八一年に日本 で就職した外国人留学生の数は、日本全国で一〇〇人に満たなかったことが図表4から推測できる。日経以外の三紙がこれらの記事をはじめて掲載したのは一九八〇年代半ば以降のことで、朝日一九八五年、毎日八六年、読売八七年であった。ただ、日経の場合も、それ以外の三紙が取り上げはじめた一九八〇年代半ばまでの記事は単発的で、増えていったのは八七年あたりからのことである。 その背景を考えると、一九八五年のプラザ合意以降一九九一年までのバブル景気のなかで多くの日本企業は海外に進出し、国内産業の空洞化が懸念された。そうしたなかで、それまで年間一桁台だった外国人留学生等に関する記事件数はしだいに増え、日経の場合一九八八年あたりから急増し、九〇年には年間七〇件を超えた。日経ほど明確ではないものの、日経よりもワンテンポ遅れるかたちで他紙もこれと同様の傾向を示し、バブル景気の進行とともに記事が増えていった。このような流れは日本人留学生や帰国子女の就職についても言えることである。こうしたなかで、日本人や外国人留学生、あるいは帰国子女の採用は、一九八〇年代末から九〇年にかけて日本企業にとってブームと化した感があった。現在のグローバル人材ブームの最初の形態だったと言ってよい (((
(。
その後、バブル崩壊およびその後の景気停滞とともに、日本の企業は大卒の採用数をしぼっていった。それは日本人留学生や帰国子女、外国人留学生の採用にも影響し、ブームは急速に冷めていった。多くの日本企業は、日本人留学生や外国人留学生の採用を手控え、あるいは中断するようになった。九七年末の山一証券や北海道拓銀の経営破綻に端を発する、九〇年代末以降の金融不況のなかで、銀行や証券会社など多くの金融機関が経営破綻するに至った。そうしたなかで外国人留学生の採用ブームは去った。当時はこのように報道された (((
(。こうした状況は大卒の就職氷河期がいわれた二〇〇〇年代半ばまで続いた。
こうした状況の下で、留学生等の就職や採用に関する記事も減っていった。この時期、記事件数は日経も含めて減りつづけ、日経の場合九五年にかろうじて二桁台を保つ程度であった。九六年~九七年には一時的に回復するものの、九八年には年間三件で底をついた。こうした状況に変化が生じるのは二〇〇六年のことである。二〇〇八年のリーマンショックで翌年にはふたたび減少するものの、バブル崩壊後のようなことにはならず、日経の場合二〇一〇年には六〇件、一一年九一件、一二年には八八件と、バブル期を超える勢いで増えていった(二〇一三年が大きく減少しているのは、検索時 点が一〇月五日で、一年の途中までの記事数であること、さらに世の中の関心がグローバル人材に移ってきていること等が影響していると考えられる)。
こうした動きの背景には、経済・経営のグローバル化の進展や国内市場の逼迫、それにともなう新市場を求める企業の海外進出、二〇一一年三月の東日本大震災と東京電力福島第一原発の事故による海外移転、および当時の歴史的な円高によるコスト高を理由にした製造業の海外移転の動き等々、企業の海外進出や海外移転は増え、それとともにグローバル人材ブームが本格化した感がある。小学校高学年からの英語教育の必修化や中高での英語による授業の導入、中・高等教育機関に対してグローバル人材育成を求める政府の動きが、こうした流れをいっそう加速させた。
企業の方もバブル期の帰国子女、留学生ブームのときのように、単に英語(外国語)が話せればよいという安易な採用にはならず、英語(外国語)ができることを大前提としつつ、グローバル人材として技術系では専門的な知識、事務系では総合的な仕事能力が問われるようになった。グローバル人材の中身は、語学ができれば良しとした一九七〇年代~九〇年代半ばまでとは、根本的にその様相を異にしている。
4 日本企業による外国人留学生等の採用の時期区分 筆者は註1で紹介した拙稿のなかで、日本企業による日本人留学生採用の時期区分を、以下のように大きく四期に分けることができるとした。前項で検討した内容を踏まえると、この時期区分は基本的に外国人留学生等についても当てはまると考える。
第一期は一九八〇年代半ば(一九八三年ころ)以前の時期で、日本企業による日本人海外留学生、帰国子女、日本で学ぶ外国人留学生等の採用という点では、いわば前史ないしは黎明期といってよい時期である。第二期は一九八四年ころからバブル経済崩壊後の一九九二年あたりまでをさす。この時期の前半では外国人留学生等が日本企業に認知、採用されるようになり、後半では「新卒」の、一部では「定期採用」の対象となって、それが定着、拡大していった。
第三期はバブル経済崩壊から二〇〇〇年代前半(二〇〇三年ころ)までのいわゆる「失われた一〇年」に重なる時期で、いったん軌道に乗ったかにみえたグローバル人材の採用が停滞しつつも、中期的には微増していった次期である。それ以降が第四期で、日本経済がバブル崩壊以降の長いトンネルを抜けると、経済・経営のグローバル化が進行し、それに伴って外国人留学生等を含むグローバル人材の採用、活用が進ん でいった時期である。ただし、二〇一〇年あたり以降の官民上げてのグローバル人材育成への急速な動きは、これらとは別の新たな時期と見るべき様相を呈しているが、ここではひとまずそのことを指摘するにとどめよう (((
(。
以上を外国人留学生等に引きよせて敷衍すると、以下のようになる。
第一期 初期の外国人留学生等の採用 時期区分としては日本人留学生や帰国子女と同じだとしても、これらと比較すると外国人留学生等の採用開始は、第一期、第二期では時期的に若干遅かったように思われる。この時期企業側には、国際化への対応は、とりあえず日本人留学生や帰国子女で試してみようとの考えがあった。一九八〇年代には、日本人留学生や帰国子女ですら日本の企業文化になじまないとして、採用を見直す企業もあったほどで、外国人留学生等の採用に関して企業側は慎重であった。また、この初期の人材の国際化へのニーズは、企業側にとっては主に語学力あるいは基本的な異文化理解にあった。悪くいえば、総合的な仕事能力というよりは、英語(外国語)ができればよい、翻訳や通訳、連絡要員として使えればよいという側面もあった。そうだとすれば、国際化への対応は、とりあえず日
本人留学生や帰国子女でよいという考え方は当然であったともいえる。
日本企業による外国人留学生等の採用に伴う問題が、最初にマスコミに取り上げられたのは、新聞記事検索を通してみる限り、第一期の一九八一年、西武百貨店などを含む西武流通グループが、一一職種、一五人の外国人の大学新卒を採用しようとして政府にビザ申請したときであった。当時、外国人の採用は出入国管理令(一九五一年、これが一九八二年に改正され現在の出入国管理及び難民認定法になっている)で規制されており、外国人留学生が日本で就職し、仕事をするには政府の許可(留学から就労への在留資格の変更)が必用とされた。
出入国管理令の時代、外国人が就労目的の在留資格を得るためには、(1)熟練労働者であるか、(2)法務大臣が特に認めた者、のいずれかに該当する必要があった。しかも、この管理令は戦後日本人の雇用を守るために制定されたもので、これらの要件の前提には将来の幹部候補としてのゼネラリストではなく、日本人では代替できない特定の専門職であることが必用とされた。上述の西武流通グループの申請に対して、当時の労働省は、申請職種のなかには日本人でもできる職種があるとして、一一の職種を五まで減らすよう西武側に申し 入れたとされる (((
(。
外国人の雇用に対する制約は国立の機関でも同様で、一九八〇年代初頭まで、国立大学で外国人教師の採用は厳しく制限されていた。外国人研究者は学長との個別契約で済む講師にはなれたが、当時の文部大臣が任命する助教授、教授にはなれなかった。状況は他の国立の研究所等の公的機関でも同じであった。次の項でも見るように、それが部分的に開放されはじめたのは一九八〇年代後半に入ってからのことであった。
第二期 正社員採用の対象として認知され、採用も拡大 第一期から第二期の初期ないしは中期にかけて外国人採用を行い、日経新聞等で取り上げられた代表的な企業は図表⓾にみる通りである (((
(。これは当時の記事情報から一部を抜粋したものである。ただ、これらの報道で、その時点で外国人が何人採用され、あるいは採用予定かはわかるが、初めて採用した年や雇用上の地位(嘱託か正社員か等)などはっきりしないところもある。ただ、雇用上の地位に関していうと、一九八〇年代半ば以降は正社員としての採用、それも定期採用にするか、あるいはそれまで嘱託だった者を正社員にするかなどが関心事となっていた。また、日本の企業にとって、
図表 10 外国人留学生採用等の初期における採用状況
(会社名は当時のまま)
西武流通グループ 西武流通グループとして 11 職種 15 人の採用を申請。労働省 は出入国管理令に基づき、5職種くらいまで絞り込むよう西
武側に申し入れ。 1981
西武流通グループ この年から採用を開始し、1984 年時点で 25 人を採用。1989年西武百貨店には 110 人が在籍。
神戸製鋼 1982
外国人は 77 年から採用(嘱託)開始。社員の語学教育などを 目的に外国人の採用を進めているが、新たに米国人、イギリ ス人を合わせて4人採用することに。これで嘱託外国人社員 は 25 人に。当初の語学教育から一般業務に切り替えた人も出 てきた。
京都大学 国立大学で戦後初めて外国人助教授を採用(人文科学研究 所)。同大法学部や筑波大学、名古屋大学でも採用計画が進行 中で、東大や広島大学でも採用を検討中。
日本電気
この年から外国人採用を本格化。8人の語学教師の他、11 人 の電子・電気系研究開発者を嘱託で採用。87 年、嘱託だった 3人の研究員を初めて正社員(係長相当の主任)に登用。90 年には約 80 人の外国人社員が在籍(そのうち 55 人は技術者)。 1984 トヨタ自動車 外国人4人を採用。GMとの合弁会社NUMMI設立でGM
から研修員 25 人を受け入れ。
村田製作所 米国人の新卒1人、既卒2人を採用し、経理、総務、企画の 各部門にそれぞれ配属。
富士電機冷機 自販機業界で初めて、来年から外国人を正社員として若干名 1985 採用する方針を決定。
三井銀行 米大学を出た日系二世のスウェーデン人を本採用。
三菱銀行 日本に留学している中国人を本採用。
国立の研究所 政府は防衛庁を除き、国立の研究所の研究員に外国人の採用 を容認。
1986 三菱商事 外国人の定期採用第1号として米国籍の日系二世を採用。
丸紅 外国人2人を採用。当面は嘱託で、本人の意思を考慮したう えで正社員になるかどうかを決定。そうなれば外国人第1号 の正社員となる見通し。
伊藤忠商事
今後 10 年間で 100 人の外国人を本社正社員として定期採用す ることを決定。それまで海外子会社や支店で 2100 人の外国人 を採用していたが、ほとんどが事務補助や通訳。外国人の本 採用については他の大手商社も検討。
ソニー 32 人、90 年には 66 人の外国人が在籍。
ベンチャー企業
グラフィカ(東京)、シンク・ラボラトリー(柏)、レーザー テック(横浜)、国際技術開発(東京)、エヌエフ回路設計ブ ロック(横浜)、日本コンピュータシステム(東京)などベン チャー企業が積極的に外国人を採用。
ホンダ技研工業 初めて外国人新卒を6人採用し、翌 88 年には3人採用。
1987 富士銀行 外国人4人を採用。
通産省 工業技術院・機械技術研究所で外国人を国家公務員として採 用。3年の任期付き。その後どうするかは本人の意向をふま えて改めて検討。
研究者の採用 古河電気工業、住友電気工業、明治乳業、リクルート、松下 電器産業などが初めて外国人研究者を採用。
彼らが何年働いてくれるかも大きな関心事であった。しかし、外国人の長期雇用への期待は日本人と異なることから、まずは嘱託で採用し、本人の意向をふまえて正社員に転換するという方法などもとられていたようである (((
(。
先に外国人留学生等の採用は帰国子女や日本人留学生よりも遅かったと述べた。外国人を採用しはじめた時点で、日本人留学生や帰国子女出身の社員はすでに二桁、あるいは二〇人から三〇人に達していたところもあった。一九八六年に在籍外国人が三二人いたソニーでは、一九八七年時点で、すでに大卒採用の二〇%近くを日本人留学生や帰国子女が占めていたとされる。しかし、当時でも、企業によってはかなりの外国人採用をおこなっていたところもある。一九八六年、伊藤忠商事はその後一〇年間で外国人を一〇〇人本社で採用し、さらに全海外拠点のトップを外国人に置き換えるとしていた。そうした動きは電機産業やIT系のベンチャー企業などでも見られ、外国人技術者や研究員の採用が進められていった。
職種もかつての語学教師や通訳、会社パンフや年報、社内報の外国語版作成などから、技術や経理などの専門職や営業、販売に比重が移ってきていた。国際化の進展とともに、企業は海外子会社との連結決算や生産・販売の内外一元管理を進 めるため、そうした分野の専門職で外国人を採用するようになっていた。「内なる国際化」から外国人採用へ こうした動きに先立つ形で、あるいは同時並行的に、日本人社員の国際化も政策化されていた。たとえば一九八五年に清水建設は、一部のエリート社員が国際派として活躍する時代は終わった、これからは「社員全員が国際派」でなければならないとして、海外留学や海外派遣研修制度などを拡充するとしていた。社員の五%を毎年国際化研修に投入しても、四年後には二〇%になるとして人材の国際化策を進めようとしていた。背景には、年間受注量に占める海外比率を、当時の一〇%から五~一〇年後には二〇%にするという目標があった。このように海外での事業比率を高め、それに伴って人材の国際化をめざすという考え方は、当時他の多くの企業にも共通してみられた。 その後、日本経済がバブルに突き進むなか、国際化は日本企業の予想を超えるスピードで展開し、人材の国際化は語学能力だけでは十分ではない状況が生まれてきた。企業の海外進出も急増し、国際化は投資や事業展開だけでなく、人材の面でも求められるようになった。社員の国際化では、語学や
異文化理解はもちろんのこと、海外で仕事をするための総合的な仕事能力そのものが問われるようになっていった。こうした状況を反映して、この時期の企業の人事関係者の間で流行したスローガンが「内なる国際化」であった。それは一部のエリート社員を社内で語学研修させ、海外研修に出し、あるいはMBA取得を目的に海外の大学に派遣留学させたりするだけでは不十分で、全社的に人材の国際化に取り組まなければならないというような見方を捉えたものであった。
バブル景気に向かう環境のなかで、外国人採用は本格化し、採用形態が嘱託から正社員へ、定期採用へと移っていった。そうしたなか、セイコーエプソンのように外国人採用担当として外国人を採用する企業も出てきた。外国人留学生等の採用の政策化のなかで注目されたのは、社長が年頭の挨拶のなかで大胆な計画を発表した大成建設である。一九八八年当時、同社の外国人社員は一〇~二〇人。それをこの年から本格採用に踏み切るとして、初年度は五〇人前後で、それを順次拡大しながら、しかし会社全体の従業員規模を維持し、二〇〇〇年には従業員の一割にあたる一〇〇〇人強を外国人にするという、壮大な外国人採用計画であった。外国人の採用担当にはイギリス人を当て、外国の大学を回って会社説明会をおこなうなどして採用活動を進めるとしていた。 バブル期の人手不足、人材難と外国人等の採用 バブルに向かう経済環境のなか、人手不足、人材難が深刻化したが、その影響を最も受けたのは中小企業や小規模のベンチャー企業、とくに地方の企業などであった。日本人学生は企業ブランドで就職を考えるが、外国人、とくに欧米諸国の人たちは仕事(
job
)内容や処遇で就職を考え、興味深い仕事であれば企業規模にはこだわらないとされる。その点、大企業中心で就職を考える日本人学生とは異なる。そうであればバブル景気で日本人学生が大企業に流れ、人手不足、人材難に直面した中小企業やベンチャー企業にとって、その難局を外国人採用で乗り切るという余地が出てくる。外国人留学生の中小企業への就職は本人たちが望んだ結果だったのか、そういう選択を余儀なくされた結果だったのかは別にして、彼らの就職先が中小企業に集中しているのは先にみた通りである ((((。図表⓾にも見られるように、とくにIT系のベンチャー企業のなかには、IT技術者を中心に、積極的に外国人を採用しようとするところが現れてきた。また、証券業界のように、優秀な新卒の外国人学生を獲得しようと、業界として会社見学会を催すところもあった。
その後一九八九年~九〇年になると、こうした動きは北海
道や九州、北陸など地方の企業にも見られるようになる。この時期近畿、北陸、中国、四国の中堅・中小企業を対象にした日経新聞の調査によると、一五%がすでに外国人を採用しており、これに将来はその必要を感じると回答した企業を加えると六割に達していた (((
(。この調査の対象には大卒、大学院卒の高度人材だけでなく工場労働者等も含まれるが、外国人留学生等の採用の広がりも推測できる。
こうして一九八〇年代後半から九〇年前後にかけて外国人採用が広がっていくと、政府系の企業や団体、特殊法人も外国人採用をおこなうようになっていった。国際協力事業団(JICA)や日本貿易振興会(JETRO)、日本航空(以上は一九八八年)、新技術開発事業団(八九年)、NHK(九一年)なども外国人を採用するようになった。いずれも研究職や一般職での採用であった。
第三期 バブル崩壊と外国人採用の停滞
一九九一年から九二年にかけての時期が、外国人採用においてもひとつの画期だったとされる。いうまでもなく、その原因はバブル崩壊であり、その結果としての景気後退である。一九九二年には外国人採用が大幅に減少していると報道され、その翌年には日本人も含めた「留学生の就職にSO S」という類の見出しもみられた。たしかに当時の失業率を見てみると、一九九〇年、九一年の二・一%を底に、九二年から上昇しはじめ、九七年~九八年の金融危機をはさんで二〇〇二年には五・三%まで上昇し、失業率のピークをなした。また、当時の文部省の学校基本調査で大学生の就職率をみても、一九六〇年代半ば以降の最高を記録した九一年の八一・三%をピークに、その後急落しはじめ、就職氷河期と言われた二〇〇〇年代前半には五〇数%まで下がった。それまで大卒を大量採用してきた大企業は、一転して採用を控えるようになった。そのような状況を考えると、留学生の採用が落ち込むのも当然とも思える。 しかし、先に図表4でも見たように、日本での就職を目的に在留資格の変更を認められた、すなわち就労ビザを認められ、日本で就職した外国人留学生の数はむしろ増えていたのである。一九九一年の一,一〇〇人余から九二年には二,二〇〇人弱までほぼ倍増した。その後は横ばい、あるいは小さな増減を繰り返しつつも、中期的には増加し、九〇年代末には三,〇〇〇人近くに達していた。この当時の採用か採用停止かは企業により産業によってまだら状態で、マスコミで取り上げられる製造業の大企業、とくに電機メーカーは採用を減らし、あるいは控えた。他方、ソフトウェア関連や食品・
外食産業、スーパーや家電量販店等の小売りなど、バブル景気のなかで大卒を思うように採用できなかったところでは、新たに採用を開始し、あるいは拡大するところもあった。
もうひとつの外国人採用問題
―地方公務員への外国人採用をめぐって 一九九〇年代に入って外国人採用に関連して広く議論がなされた問題のひとつに、地方公務員への外国人採用問題があった。外国人の公務員採用に関して、それを禁止する法の明文規定は存在しない。しかし「公権力の行使、国家意思の形成に携わる公務員は、日本国籍を持っていることが必要」とする、一九五三年の内閣法制局見解が長年踏襲されてきた。これは通常「当然の法理」と呼ばれ、外国人の公務員採用の指針となり、結果的に、戦後一般事務職の公務員採用試験に外国人は応募できない状態が続いていた。
これに対して、一九九〇年五月、当時の本島等長崎市長は、外国人、とりわけ在日韓国人・朝鮮人に採用試験の受験を認めるという方針を公表した。これを受けるかたちで、同月末、自治体労働者を組織する全日本自治団体労働組合(自治労)が外国人の地方公務員への採用拡大を求める運動方針を提案した。さらに翌月、大阪市が採用試験の応募要項にあるいわ ゆる「国籍条項」の全廃に向けた検討作業に入ることを表明した。 こうした流れを受けて、ほぼ二年後の一九九二年四月二〇日、大阪市は、それまで採用試験の区割りで法律系、経済系、その他と分かれていた事務職をひとつに統合し、他に「経営情報」「国際」という専門二職種を創設し、これら二職種には国籍条項を適用せず、外国人の受験を認めると発表し、その年から実施された。それまでも保母や(当時の)看護婦、教員、研究員などの専門職は公権力の行使にはかかわらないとの判断から、外国人の受験を認め、採用もされていた。しかし、事務職に外国人の受験、採用を認めたのは、県や政令指定都市では大阪市が初めてであった。これに対して当時の自治省は、「従来の指導方針に抵触しないこと」を条件とし、また、昇進については「課長程度」とすることなど、歯止めをかけようとした。 在日韓国・朝鮮人や中国人などを想定した場合、大阪のやり方では対象範囲が狭すぎる、昇進制限は差別だ等の批判もあったが、これまで閉じられていた事務職採用試験の受験を外国人にも認め、門戸を開いたという点で「大阪方式」を評価する声も多かった。また、国籍条項の完全撤廃に向けた一里塚だという前向きの見方もあった。大阪市の決定から一ヶ
月もしないうちに神戸、横浜、川崎の三政令指定都市が大阪方式と同じやり方で外国人に採用試験の受験を認める決定をおこなった (((
(。
ただ、こうした動きや議論は県や政令指定都市レベルでのもので、市区町村ではそもそも国籍条項のない自治体も多かった。自治労が一九九二年におこなった調査によると、回答のあった全国一,一四八市区町村の約三割で国籍条項はなかったとされる (((
(。日経新聞の九六年末の調査では、県や政令指定都市の六割が国籍条項の見直しを「すでに検討中」か「今後検討する」としていた (((
(。県や政令指定都市が一般事務職員採用試験の門戸を外国人に開放する決定をしてから一〇年後の二〇〇二年、最高裁判所は、韓国籍を保持したままの在日韓国人を司法修習生に採用している。それまで司法修習生は公務員に準じるとの判断から、日本への帰化を修習生採用の条件としていた。
第四期 二〇〇〇年代半ば以降の外国人採用
二〇〇〇年代に入って、とくに日本経済が回復基調に入る二〇〇五年以降、日本市場の飽和感もあって、多くの企業はビジネスチャンスを求めて海外に進出していった。その結果、日本の海外直接投資は二〇〇八年、バブル絶頂期の三倍近い 規模に達した (((
(。それに伴って、外国人を採用する企業が増えていった。この時期になるとスーパーやコンビニ、家電量販店などの流通・小売りで、外国人の採用記事が目立つようになる。一般社員としての採用の他、流通・小売りなどでは、外国人旅行客を相手にした販売や海外出店時の要員としての採用などであった。
外国人旅行客によく知られた秋葉原では、石丸電気やラオックスなどが外国人採用を積極的におこなっていた。とくに横浜と成田に免税店をもつラオックスは積極的で、二〇〇四年には全社員の五%にあたる七〇人が外国人となり、それ以外にも外国人の学生バイトを雇用していた。中国人が半数を占めて最も多かったが、その他にもアラブ圏や南米、アフリカ出身者などもいて、同社によると、世界の主な言語はほとんどカバーできているというほどであった。
電機メーカーは海外進出に最も積極的な業界のひとつである。そのなかの一社、日立製作所は人材の国際化、グローバル化に積極的なことで知られる。同社は二〇〇八年までの数年間、毎年二〇~三〇人の外国人を採用し、新卒採用に占める外国人の比率は三%程度になっていた。同社はこれを、二〇一二年には一〇%まで拡大するとした。これと並行しておこなったのが、日本人社員のグローバル化策である。同社