[資料紹介]
瑛九
から
山田光春
への
書簡
1938-1955
年
大谷省吾
瑛九(本名:杉田秀夫、1911-1960)は、1930年代から50 年代にかけて活躍した前衛美術家である。その作品は油彩 だけでなくフォト・デッサン、コラージュ、エッチング、リトグラフ など幅広く、また戦後の1951年にデモクラート美術家協会を 結成し、泉茂、靉嘔、池田満寿夫ら後進に与えた影響も大き い。当館では、瑛九と親しく交友し、瑛九没後には詳細な評伝 (『瑛九 評伝と作品』青龍洞、1976年6月)を記した画家の 山田光春(1912-1981)が旧蔵していた資料を、ご子息の山田 光一氏より平成24年度にまとめて収蔵させていただいた。こ れらの資料を整理して展覧会「瑛九1935-1937闇の中で「レ アル」をさがす」を2016年に開催し、同展カタログに瑛九から 山田光春に宛てた書簡のうち1935年から1937年にかけての 58通を翻刻掲載した。これらの書簡は瑛九が前衛美術家と してデビューする前後の心境を赤裸々に伝えるとともに、当時 の日本の前衛美術の動きも垣間見える貴重な資料であった。 しかし収蔵した資料の中には、上記展覧会で紹介した1935-37年以降の書簡も、もちろん多数含まれており、ここで残りの 書簡(1938-55年)60通を翻刻するとともに、必要に応じて註 をつけて紹介したい。また、これらの書簡資料のもつ価値につ いて以下、簡潔に解題として記しておきたい。 1937年の自由美術家協会結成に参加し、第1回展にコラー ジュ連作《レアル》5点を出品していた瑛九であるが、その後、 終戦に至るまでの戦時中はいわば雌伏の時期にあたり、具体 的な活動がつかみにくい。自由美術家協会(1940年7月に美 術創作家協会へ改称)には翌38年の第2回展には出品せず、 その後も退会・入会を繰り返したことが知られているが、山田 宛の書簡からは、協会に対する複雑な心境が垣間見られる。 また日本の伝統文化への傾倒が、和紙に毛筆でしたためた詩 (書簡62、63、64、73)などに窺え、一方では妹の住む京都に 滞在して太田喜二郎の洋画研究所で基礎的なデッサンを学 び直す(書簡79)など、戦時中は屈折を抱えながら苦しい模索 を続けていたことがわかる。活字化された資料からは知ること のできない戦時下の画家の活動や心の動きが、これらの書簡 には記されているのである。 なかでも、この時期の心境を切実に吐露したものとして、書 簡79(1940年11月21日)を挙げることができる。ロマン・ロラ ンを引用しながら「藝術は悲ゲキをたええたものでなければな らない。ゼツ望を母体として花咲たものでなければならない。 悲ゲキ的時代の人間をコブし希望をもたしめる力をもたねば ならない。そのためには何人よりもよく悲ゲキを知り、くわい疑 (懐疑)にたたかいぬかねばならぬ」と主張する熱い言葉は、 「悲劇を超える精神」として雑誌『美之國』(17巻1号、1941年 1月)に発表された文章にも通じるが、活字化された文章より も、山田宛の書簡のほうが、私信であるがゆえの遠慮ない激し さと切迫感が認められる。ほぼ同時期に、兄・杉田正臣宛に 記された書簡にも「戦争は悲ゲキを日常のすべてに生み、人々 の個人生活は、希望から遠ざかってゐます。芸術家は近頃の 様な戦争畫をかくことで民衆をコブし、民衆を永遠の希望に みちびくことが出来るでせうか。民衆の心も、芸術もそんな甘 いものではありません」との記述がある1)。世情がいわゆる「新 体制」とよばれる翼賛体制へと急旋回していくなかで、制作上 の孤独な奮闘の姿勢を貫こうとした瑛九の決意が、これらの 書簡からは明瞭に読み取ることができるのである。 戦後の書簡は、やや間隔がとびとびになるため、瑛九の行 動や思想を細かく追うのは困難となるが、自由美術家協会を はじめとする東京の前衛画家たちに対する距離感、あるいは 美術ジャーナリズムに対する不信などは、やはり窺い知ること ができる。その中で書簡110に見られる新しい活動(デモク ラート美術家協会など)へ向けた高揚感が印象的である。 これら山田光春宛書簡を読み進め、註を付けていく作業を 通して痛感したのは、資料のクロス・レファレンス的研究の必 要性である。瑛九の書簡は山田宛以外にも、上述の兄・杉田 正臣宛をはじめ、友人の画家たち宛、福井の後援者だった木 水育男宛、美術評論家の久保貞次郎宛など、数多く現存が 確認されている。それらを読み合わせてはじめて、芸術家の姿 は立体的に浮かび上がってくるといえるだろう。これらのいくつ かはすでに公刊されているが2)、すべてではない。以下の書簡 の公開が、他機関の所蔵する資料との横断的活用によって、 今後の瑛九研究に資することとなれば幸いである。 註 1) 瑛九から杉田正臣への書簡、1940年12月21日(杉田正臣『瑛九 抄』「根」発行所、1980年12月、18頁) 2) 杉田正臣『瑛九抄』「根」発行所、1980年12月、『親愛なる友 泉 茂様 瑛九書簡と展評・デモクラートのことなど』マンモスアート、 1999年、『瑛九からの手紙』瑛九美術館、2000年9月(木水育男 宛書簡を収録)、藤森茂次「瑛九芸術についての一考察」『宮崎県 立美術館研究紀要』1号、2004年3月(靉嘔、オノサト・トシノブ、勝 田寛一宛の書簡を収録)など。久保貞次郎宛の書簡は宮崎エス ペラントの会により翻訳されているが、未刊行。石川千佳子「『瑛 九による久保貞次郎宛エスペラント書簡』について」(『美術教育 研究』21号、2016年7月、48-51頁)において紹介されている。 書簡翻刻 凡例 ・ 以下では山田光春旧蔵の、瑛九から山田光春に宛てた書簡118通の うち、1938年以降の60通を翻刻する。書簡番号は日付順とし、118通 のうち1番から58番については展覧会図録「瑛九1935-1937闇の中で 「レアル」をさがす」(東京国立近代美術館、2016年)に掲載している ため、以下の書簡番号はそれ以降の通し番号として59番からとする。 ・日付は消印による。消印のない書簡は推定時期の根拠を注記した。 ・漢字、かなづかい、傍点は原文のまま。誤字もそのままとした。 ・判読できない文字は●で示した。 ・本文中の段落替えは原文のまま。宛名書き中の「/」は改行を表す。 ・必要に応じて大谷が を付けた。 ・ 翻刻にあたり山田光春ご子息の山田光一氏の協力を得た。また判読 にあたり中谷有里氏(高知県立美術館)の協力を得た。記して感謝 申し上げる。 書簡59 1938年1月8日 封書、和紙1枚、縦書 表:愛知縣名古屋市熱田新宮/坂町大喜伸治方/山田光 春様 裏:宮崎市廣島通り/郡司方/瑛九 松本静太郎[註1] 三春會 瑛九 山田光春 とする 君 松本は天才だつた。 瑛九 山田光春殿 [ 1]松本静太郎(1897-1982)洋画家。岡山県生まれ。東京美術学 校に学んだ後、宮崎に移り瑛九と親交を結ぶ。ここで言及されている 「三春会」は山田光春『瑛九 評伝と作品』(青龍洞、1976年、173頁) によれば実現しなかった。 書簡60 1938年1月10日 封書、和紙1枚、縦書 表:愛知縣名古屋市/熱田新宮坂町大喜方/山田光春殿 裏:宮崎市南廣島三/郡司方/瑛九/一月十日 三春會は まだ名前がかわるかもしれん そのつもつりでおれ 瑛九 山田光春殿 書簡61 1938年1月12日 封書、和紙2枚、縦書 表:愛知縣名古屋市/熱田新宮坂町/山田光春殿 裏:宮崎市/杉田秀夫/一、十二 (1枚目) なつだけ墨スミでゐてくだゐ 瑛九 光春大兄 時々すわれ 時々うなれ 時々畫かけ 余ゐまだ 女にほれ られん まだ、まだ 杉子先生に余及ざること遠し 〔図1:余白に毛筆素描あり〕 図1(2枚目) 長谷川の所の死屍 よろしくやつちよきやつたか、 おはんな大が爺さんのうまれかわりじや 大砲屁のよな畫をかきなはれ。 瑛九 為 光春 書簡62 1938年1月30日 封書、和紙4枚、縦書 表:名古屋市熱田新宮/坂町 大喜伸治方/山田光春兄 裏:宮崎市/杉田秀夫/雨の日 (1枚目) 春雨のつめたさ 今日の温さ 寂音 山光兄 (2枚目) 殘雪前峯入 畫圖 日光斜映満 墻隅 山居寂實微 風変 千樹琪花飛 欲無 (3枚目) 森 暁紅 作 古田草庵 曲 端唄 二筋道 道は二筋 二人の心 きつく結んで どつちへ行か 戀の極樂情けの地獄 それはこの世の繪そらごと まヽよ どつちだつて いヽぢやないか 秀夫謹書 (4枚目) 猛虎聲山月高 書簡63 1938年3月22日 封書、和紙4枚、縦書 表:名古屋市昭和区/柳ヶ枝町二ノ五六 小川治作様方 /山田光春先生 裏:春雨のなごりうれしや花がちる/宮崎市南広島/杉田秀 夫/昭和十三年三月二十二日 (1枚目) 拝啓 御無沙汰致し候程お許下れ度く大字を使用致候 (2枚目) 二十六日 晩ゆうべ日本医師會館にお出願へれば幸甚に存じ候由、 兄よりつたへてくれとに候 兄も長谷川にあへればあいたい由 なり、よしなによろしく願上候 日本医會館は駿スル河ガ台ダイにて、省線「お茶水」下車そこらの人物 (3枚目) におたづねあれば、すぐそこなりと指示するならんと愚考致候 夜来の雨もからりとはれ春光はうららかに窓辺にななめ映じ 候。南洲先生の (4枚目) 春光不レ似勁秋清 暖紫嬌法撃二我情一 夢在芳林桃李裡 驚來門外花賣聲 なぞ口辺に上り候 野辺に出て花を見また花をみらんとの考 へに候 草々●● 光春大兄 寂 書簡64 1938年5月2日 封書、和紙1枚、縦書 表:名古屋市昭和区/柳ヶ枝町二ノ五六/小川作治方/ 山田光春兄 裏:旅立つ日/瑛九 わけは ないぞへ みな為し まかせ これが戀路 と云ふものか 瑛九 光春どの 〔図2:余白に毛筆素描あり〕 書簡65 1938年5月6日 葉書、縦書 表:名古屋市/昭和区柳ヶ枝町/二ノ五六/小川作治氏 方/山田光春兄 心サマヨヒテイマダ九州地にあり、マツベカラズ されど予かならずその地へ行かん 酒もよし酒なきもよし寂しさよ 〔以下4行は朱文字〕 もみじ白う はだかの寒し 夕かな 福岡の雑餉隅なんいへる所にて 瑛九 書簡66 1938年5月20日 封書、和紙1枚、縦書 表:名古屋市柳ヶ枝町/二ノ五六/小川作治様方/山田 光春様 裏:於東京/瑛九 やつたことはえヽことにきまつちよりますが あんた出してえヽことしましたよ、 たいへんみんな勉強してゐていじらしい。 みにくるでせうね みにきたら解ることは解りますよ 三郎さん[註1]の画室にて 瑛九 光春兄 [ 1]「三郎」は自由美術家協会のリーダー長谷川三郎(1906-57)。長 谷川はこの時期、品川区大崎長者丸270にアトリエを構えていた。 書簡67 1938年6月12日 封書、便箋2枚、縦書 表:名古屋市昭和区/柳ヶ枝町/二ノ五六/小川作治氏 方/山田光春様 裏:瑛九 (1枚目) ペンにて失礼御めん下さい。 オヤヂ様死なれた由。父を先におくられたことはなによりの孝 行にて、悲しみや苦しみのふえたことと思ひますが、お祝致しま す。親は子に先だたれるくらい悲つうな事はない由に候へば、 かく私は信じ候 このさい貴兄色々と生活かいかく4444 を考へられることと思ますが、 白亞社[註1]にて動くこと昨夕長谷川兄より話あり、貴兄の決 心一にて、長谷川氏及田村宗太郎氏[註2]非常に熱望され てゐる、小生もそうなることを非常に白亞社4 4 4 のため小生のため、 貴兄の為めにもつともよきことにではなきかと愚考致しをり候 この前は貴兄その話あつたが、オヤヂ様の死去により貴兄現 實いくぶんへんくわいたしたことと思ふ。 貴兄もこのさい決心するの要かんじんと存じ候、士はおのれを しるもののために死す。長谷川は君をしるものといふべし。 貴兄決心一つ返答の事。 (2枚目) 予定 長谷川個展自由展大阪開催[註3]のため今月末下阪、その 時面談されること。(田島先生(神戸)と三人にて) 貴兄は 小野里[註4]のかわりに入社すること、月給は六十円位なり。 小野里は小生が編輯する美術雑誌の方にくる様になる とにかく貴兄の現在のじようせい一筆おまちおり候。 東京の戀人いかがあいなり候や、時々思ひ出し候。 貴兄の自由展の作品種々なる人々に好評にてうれしく思つて ゐる。 九 光春兄 下宿のおじさんおばさんによろしく 住所は 三郎兄方にしておく [ 1]白亞社は長谷川三郎が谷川二郎の名前で1937年に始めたデザ イン会社。『日刊美術通信』1937年10月26日1面には以下のような記 事がある。「抽象絵画の権威として知られてゐる自由美術家協会の長 谷川三郎氏は純粋美術の探求と共に近代文化面における商業美術の 更生に対し非常な関心を払つて居たが 々同協会の田村宗太郎、小 野里利信の二氏と提携して白亞社を創立し来る十一月初旬より商業 美術の実験的事業を開始することに決定した白亞社建設の趣旨として は建築意匠、ポスター、衣装、舞台装置、印刷、壁画、染織図案、マネ キン、ネオンサイン、シヨーウインド構成等の商業美術のあらゆる部門 に亘り新生面を開拓しやうとするものでデザインには欧米の最新理論 を基礎にわが国独特の古典味を加へて純粋美術の実際的応用に乗り 出すわけである」(無署名「画室から街頭へ 自由美術家協会の長谷 川画伯等 新たに白亞社を創設」)。 [ 2]田村宗太郎は図案家。新劇の舞台装置等に関わった後、長谷 図2
川三郎の白亞社に参加。1937-38年に雑誌『アトリヱ』で商業美術に 関する文章を連載。 [ 3]第2回自由美術家協会展大阪展は1938年7月11日-17日、大阪 市立美術館で開催。 [ 4]小野里利信(オノサト・トシノブ、1912-86)洋画家。津田青楓に 学んだ後、1935年に黒色洋画展を結成、1937年の自由美術家協会結 成には会友として参加し、白亞社にも設立時から参加していたが、この 年に故郷の桐生に帰っている。長谷川はその後任として山田光春に声 をかけたらしい。ただし山田はこれを辞退した。 書簡68 1938年7月1日 封書、和紙1枚、縦書 表:名古屋市昭和区/柳ヶ枝町二ノ五六 小川作治氏方 /山田光春兄 裏:於東京牛込久保てい/瑛九 其の後いかがにおくらしですか 長谷川兄と會はれるのも近 い内と思ます どうかなんとかして白亞社に出社される様にな るといいと心から願つてゐます 君の為にも皆んなの為めにも 君の方の學校の生徒の畫 二、三百枚もらへないだろうか、 久保さん[註1]が外遊するのにあつめてゐるのです。 今久保氏の所でその方の相談あいてになつてゐる 彼も東 洋に関心をもつて石とう沈石田牧溪大雅堂などの●何十円 もする復製をもりもりかつてゐて愉快だ、その相談相手も小生 つとめてゐて楽しい 久保氏は八月四日出帆、このごろ毎日 東洋古畫をみてくらしてゐる 大塚巧藝社しん美畫院などな かなかごうせいな復制があるのでよろしい 笑ゐたれば畫をかく。 死にきれず寝かへりをうつかぶと蟲。 我は死なぬナあ 瑛九 山田光春兄 君の戀人には會ひたいと思ひながらあわなかつた。 お送つてくれれば 作品は久保あてに。 牛込区砂土原町三ノ一八久保貞次郎 [ 1]久保貞次郎(1909-96)美術評論家、美術教育者。栃木県生ま れ。東京帝国大学卒業。1935年12月に日本エスペラント学会の使節 として宮崎を訪れて瑛九と名のる以前の杉田秀夫と親交を結び、その 後彼が没するまで支援を続けた。この書簡にある通り久保は1938年8 月から1939年5月まで欧米を旅行している。 書簡69 1938年7月15日 葉書、縦書 表:愛知縣名古屋市/柳ヶ枝町三四/小川作治氏方/山 田光春兄 先日お願致しました 児童作品まつてゐるのですが もらへ ませんか、 久保さんは八月四日出帆します、 瑛九(印) 作品は 牛込区砂土原三六 久保貞次郎方へ 書簡70 1939年2月6日 封書、便箋4枚、縦書 表:名古屋市昭和区柳ヶ枝町/二ノ五六/小川作治様方 /山田光春兄 裏:京都市上京区小山堀池町/三四ノ一 杉田方/瑛九 (1枚目) これは再生した僕の第一回の通信だと思つてくれ給へ 於京都一九三九・二・三 夜 あれつきりになつちやつたね。 元気の事と思つてゐる。 僕はあれから レンアイをしてそしてそれを失敗して、失敗さし て(と今だつたらかくべきかもしれない。)レンアイの初期ごろか ら(十二月初)すこしづつ僕は人間的なものを身につけ、みづ から凧の線をきつてその凧にのつてゐるようなあのじよう444 態か ら離かけはじめ、レンアイよりも藝術にミワクされそうな心理と、 レンアイがケツコンへのしんてんをさまたげるような機會とに めぐまれて(それも私の内にある人間的めざめがその機會を自 から作り上げて行つたのかもしれぬ)一月初から京都にきた。 一ヶ月はまるで、病人の様にすぎてゐつた。くわいふく氣にある 病人の様にといふ方がてきせつ4444 であらう。そのなかで毎日ブラ ツシユをにぎるようになつてゐつて、今僕は僕のすばらしい愛 を再び、或は最初に描き上げて行うといふ夢をいだきはじめて 君に手紙をかく。戦争のこんらんが、そして又僕個人のこん らんが(キヨム的心境)がおしへてくれた行きつきのドアにかか れてあつたものは人間─愛 (2枚目) であつた。 制度、国家 民族、みなそれは人間の上に、打ちたてられた、 或はうちたてたものにほかならない。不幸を知るもののみが、 幸福の何たるかをしるにちがいない。 戦争の不カヒ的なものがおしへてくれるものは又そのものの内 容にもつともあいはんした人間性、愛でなければならない。 いまこそ知ることが出来るのだ。藝術がすべての時代 制度 をのりこへてようご444 され、人類の血しを44の中にあるといふ事が。 たへづわれわれは生きつづけねばならぬ。 となりの家が砲火につぶされるまで、人間の生活はまだつづけ られねばならない。そしてその後までつづけられる444 大切なことはそれだけだよ。 僕は一年振りに自己をとりもどした氣持でゐる。嵐がおしへて くれたものは實に大きかつたのだ、僕は今度こそ一つのヱコー ルをうちたてるだらう。この世紀の上に。そしていかに僕が僕 のために忠實に人間を愛したかといふことを知らしめるために。 (3枚目) 自己のためにといふことがいつの場合でも人間のためである といふかく信にみちた、それゆへに44 4 44 のどかな自己を作りあげた い。一人の個人の力がなんだらう。このうたがいはたへず僕を なやました。一人の正道を歩くものがゐて、それが何になるだ らう。それが僕の心をたへずおびやかしつづけた。そしてその 思想のうしろにはいつも人間なんかなんだろう。人類がなんと はかないものだろうといふ影を負つてゐたのだ。しかしその様 なことにまけることは、もはや人間を否定するより外に道のない ものになつて行くのだ。そのしようこにはそのようなごうまんな4444 4 思想の生活にはたへきれぬぜつぼを4 4 4 4 と土の底にひきこまれる 様な寂しさがついてまはるではないか。しかしこれはとうぜん のかかる思想からせおいかへされねばならぬものであつた。 人間をこうてい4 444 する。人間をすべての上に。そこからしか人間 のあらゆる思考も認しき44もけつして實在はしないのだ。一人の 生にみちた人間こそ (4枚目) 求めるものなのである。山の繪はすてるほどある。しかしこの 時代の人間の見た山の繪がないといふことだ。一人の眞の意 味の人間は 人間全体のふへんてきな人間性の表現なので ある。 なぜわれわれが一人の個人にすぎないダビンチにこんなにも 心を動かされるのか。 バツハに、ゲヱテに。西郷南洲に、彼等は人間をひとしく第一 に於て思考し行動し、表現したのである。 一人の個人を、それは又一枚の作品をといふこと、一枚の作 品には個人の観念が、創造されてゐなければならない。 × だいぶ理論をかきましたが許てくれ給へ。續きはづいぶんある のだが。 戀愛はずいぶん色々の事をおしへてくれた。今はすべては愛 につながり、それは人間性を作り上げる。その上に藝術は花 咲くものであるといふことのよろこびにひたつてゐる。 ひまとキシヤ賃があつたら遊びにこないか、とまつてもよろし い。若き人々とくらしてゐる。 光春兄 九 書簡71 1939年4月24日 葉書、縦書 表:名古屋市/昭和区柳ヶ枝町/二ノ五六/小川作治方 /山田光春兄 その前の夕より 瑛九 一昨日 三郎兄の所で終日遊ぶ 小野里しきりと描てゐる 由、東京についたら色紙は俺がもつてゐた 書簡72 1939年5月1日 絵葉書、縦書 表:名古屋市/昭和区柳ヶ枝/町二ノ五六/小川方/山 田光春先生 裏(写真):(明石名勝)人丸山月照寺 八十銭ヲカリントシテ オバサンヲクドキシ話 長谷川三郎 ニスレバ 興ズルコトカギリナシ 今亦明石ニ遊ブ 幸ニ シテ酒アリ 五月一日 瑛九 書簡73 1940年2月14日 封書、和紙1枚、縦書 表:名古屋市昭和区/柳ヶ枝町二ノ五六/小川様方/山 田光春様 裏:宮崎市/瑛九 山家集 花ちらで月はくもらぬ世なりせば 物を思はぬわが身みならまし 花ちらずさへわたる月の一時を造型せんと思はおろかなる事 に候や 山家集 今更に春を忘るヽ花もあらじ やすく待ちつヽ今日もくらさむ 同じく 春風の花ちらすと見る夢は さめてもむねのさわぐなりけり いかがおくらしなされてゐるかと春雨のふれば筆はしらせし候 美之國に貴兄の寫眞をみて[註1]健在をよろこび候 傑 けつ 作作りおられ候事と想像致したのしみおり候 白詩 巧拙研賢禺相是非す 何如ぞ一醉盡て機を忘る 君知るや天地中の寛窄を 鵰鶚鸞皇各自に飛ぶ 醉て古人と語る唯一の樂しみに候らへども古人仲々に正氣を 尊び無欲を重ずゆえになかなかにその様な空氣作るは難く候 陶詩 洋洋たる平津 乃ち瀬ぎ乃ち濯ふ 邈々たる遐景 載 すなは ち欣び載ち矚みる 心に稱かなふて云へば 人は亦足り易し 玆の一觴しょうを揮て 陶然として自ら樂む 心はどこにも遊ばず 南洲先生の今人に在らずして古人にあ りの昨今に候 九
想ひごと遠くあそびて日ぐれかな 九 光春どの [ 1]山田光春「新人トーキー」『美之國』16巻2号、1940年2月 書簡74 1940年、消印破れて判読不可(山田光春『瑛九 評伝と作品』209頁によれば4月24日) 封書、便箋1枚、縦書 表:名古屋市/東区/東大曽根町/一ノ二七三 淺野様 方/山田光春兄 裏:宮崎市/瑛九 お手紙有難う。今度は中學なら前より氣分がいくぶんゆつた りするだらうと思ふと大變うれしい。手紙で想像すると今度の 所は明るい感じがする。所も、宿も。 風の便りで聞と三郎さんは神戸の方のアパートにいるそうだ ね。大阪に中村[註1]がゐるからいいだらうとQ想像してゐる が、心配だ。安心しきつたもののなかの心配だ。すいぶん長 い年月ではあつたが又春がきたといふ感じをいだかぬわけに はゆかぬ。北尾淳一郎[註2]がこん度は東京にてん任だ、先 生のために心からよろこんでゐる。こつちではみな惜かつたり 本人もその氣持が強い様ですが。 僕も最近結婚させられることになつてゐて僕もその氣になつた りしたが先方でことわつてくれたのでどうやら僕らしい行きかた で行けそうだ。櫻がきれいだね。 夢にうつつに忘れぬ人に 今日も櫻かちるぞへな。 この自作のどどいつをくちづさみたくなる。 作品はこれからの由、僕はこのどどいつの様な感をだそうとか いてゐる。發表するつもりだ、落せんかもしれんが。 日本だヨーロツパだといきりたヽぬ程 日本的になること 世界人になればなる程日本人だといふ所になる事 その内作品をもつて、きみのふとんを一枚かぶさせてもらおう 宿の娘さんはかれんで美しくて純情であるようゐのる。 光兄 九 [ 1]中村真(1914-69)洋画家。大阪の生まれ。大阪市立工芸学校 に学び、はじめ二科展に出品、自由美術家協会には1938年の第2回展 から出品して39年に会員となった。1950年に脱退、モダンアート協会 を結成。 [ 2]北尾淳一郎(1896-1973)農学博士。1925-40年に宮崎高等農 林学校で教 を執り、1934年から瑛九と親交を結んだ。写真をよくし 1937年4月25-28日に銀座・ブリュッケにて「瑛九・北尾淳一郎合同展」 を開催するほか、自由美術家協会展にも写真を出品した。「瑛九氏の事 ども」(『宮崎新聞』1937年6月9日、11日、12日)等の文章がある。書簡 にある通り、北尾はこの年に東京高等蚕糸学校に着任のため宮崎を離 れた。 書簡75 1940年8月10日 封書、便箋3枚、縦書 表:名古屋市東区/東大曽根町/一ノ二七三/淺野様方 /山田光春兄 裏:宮崎市南広島/三 瑛九(「ふるさと社」のスタンプが 押され、そこに抹消線が引かれる) (1枚目) 君は今名古屋にゐるか郷里にかへてゐるか、あるいは旅に出 てゐるかと思ひつヽこの手紙をかきます。色々考へ、行動もして みましたが、僕は君のゐる名古屋にしばらく住んでみたく思ひ ます。 君によろこんで頂けたら、ぼつぼつでよろしいが下宿の心あた りでもさがしてほしい。 やすい家でもあつたら家を借りるのもいいが、下宿の方きらく かとも思ます。 君の意見をまつ。 (2枚目) 君がさり 杉子がさり、北尾さんが去つた宮崎はかなりすみに くい。 兄貴がゐるばかりで、兄貴に必要以上に心配させるようだし、 僕のいろいろのめんどうを近ごろみてくれてゐた、すぐ上の姉も けつこんしたし、 色々はんもんした結果、東京にも京阪神にも近くそして君のゐ る名古屋あたりが淋しくもなく、又さわがしく心もみだされざる 地と思ひ、心にきめ、兄貴の奴も賛成なので手紙をかくことに した。君が名古屋にゐればすぐに出かけて、君のうちにゐそう ろうしながら下宿をさがしてもいいのですが (3枚目) 君の意見をききたいし 君がどこにいるかもわからぬので、こ の手紙の返事をまつて行動することにしました 君のけつこん4 444 はまだですか、色々話したいことあれど、名古屋 であつてからだなあ。 九 光春兄 ふるあめに便りながれて夜もすがら あめの音の遠くはしりし夕かな 書簡76 1940年9月13日 封書、便箋2枚、縦書 表:山田光春様 裏:瑛九/二六〇〇、九、一三 (1枚目) 色々とお世話に相成 貴兄の静境をさわがせあひすまず恥入 るばかりに候 お許下され度候 今後はせつかく制作に専念されたくいのり上候 色々申したき事あれどすべてみな妄念なればやめ候 大泉氏の老子[註1]一讀、面白く候 貴兄の本より正法眼藏借用[註2]あしからずお許下されたく 願上候 (2枚目) どうも落付んでるす中に出發致すことお許下さい 久保兄から返事きたらず、どちらにせよ返事してくれる様書て おいたのにこぬ所みると彼いつもの如く田舎にいつてゐるもの と愚考致し候 もしかふよういふてきたらお手数なれど一まとめにしてひも44 かけ おける分お送下されたくお願致します。もしかわずといへば貴 兄に借金のかわりに呈上致しますれば、てきとうにしよぶん致 されたく願上候。 九 光春兄 [ 1]大泉黒石『老子』春秋社、1925年。 [ 2]瑛九から兄の杉田正臣宛の1940年9月19日付書簡に「正法眼 藏をひろいよみしています。充分は解りませんが、よんでいていい気持に なります。 汝学坐禅為学坐佛 といふのは大変面白いと思いました。」 (杉田正臣『瑛九抄』「根」発行所、1980年12月、14頁)という記述が あり、山田から借用した正法眼藏を読んでいたことが窺える。 書簡77 1940年11月4日 封書、便箋4枚、縦書 表:名古屋市東区/大曽根町一ノ二七三/淺野様方/山 田光春兄 裏:京都市上京区/小山堀池町三四ノ一/杉田秀夫 (1枚目) 今日創作美術[註1]を見た。 北尾さんのに一番心をひかれた。その次が君のだ。北尾さん はえらいなあと思つた。無理がなくかく心があふれてゐて、今 ごろにない美しい無駄のない文章だとおもつた。かかれてある 理論のよしあしでないものがあると思つた。そしてけつして無 理でもない先生の生活のけつ論をみせられて、なんにも文句 をゆわせないな。このような眞劔なじゆんすいさが今のエカキ には類がなくて心よいね。同感でも同感でなくてもそのような りくつではないね。このまねをしろたつてだれにも出来なくて美 しい。むじようけんで僕は美術創作の今後の指導者としてきた いする。東京の連中がその點どれ程まで買つてゐるかギモン だが、北尾さんはこの時代に大きくひやく4 44 する人に違ひない。 それから君のも中々に面白かつた。ただかく心からくる熱情が 北尾さんほどリヅムにのつてゐないのは殘念だね。文章のリ ズム。考へてみてくれ。君のはそのことを理屈の中にかきこんで ゐるんだがなあ。北尾さんのはそのことが具体的な心象として (2枚目) 文章をなしてゐるんだ。 とにかくあの文章とその次の頁のあの寫眞とをみせられてはか なわんよ。ほかの頁がみんななくなつてしまふし、又とんと調和 せん。たいてい口の中にタクワンをいれてしやべつてゐるのが 感じられて理くつのよしあしでなくおかしな感じがするね。 京都で近世日本畫展[註2]をみた。光悦時代の面白い筆者 不明のべうぶやら元ろく風俗のべうぶや宮本二天のダルマや 鳥、浦上玉堂、に感心したが、ひどく生理的に洋畫の傑作がみ たくなつて弱つた。日本の傑作をみてゐると剣道をみてゐるよ うなすごさと淋しさがあるね。自然の前における自己否定だな。 これだけではつきりしないし満足でもないが、今のところわか らんことだらけさ。自然にだかれるとか自然の前に我をすてる とか仲々實感としては 生活としてはやつてきてくれんし、理 解できんで困るよ。 →裏へ (2枚目・裏) あれ以後すっかり失敬しちやつたが、どうもすみません。 しばらく市川にゐつてゐた。京都にいつて勝田[註3]の所行 こうと思つてゐたら奴旅行に出てけつこんさ。おれは金はない し京都の二階に例のごとくかんづめ444 4 さ。よくなつたような所も あるしわるくなつた所もあるし、名古屋に行つたころよりさしひ き同じぐらいかな。心もちよくなつてゐるかもしれんな。 久保氏の方のことやおれの荷物の冬物のことも氣になつてゐな がらさむくならぬのでづるづるとなり毎日毎日讀書ざんまいさ。 疑が多くてはつきりものが云へんでかないません。 美術創作を讀で感あり よつてぺんをとる。ひさしぶりだ。北 尾さんに一筆した。 一番やりたいことはやはり讀書だな。それからデツサン。しか しどうもこの現代の日本のじへん的書きものはゆううつになつ ていかん。どんなもんじやろ。 金もほしいんだがどうももうける道がまだはつきりせん。 畫は毎日かいてゐるか。僕のるすに坂野君[註4]が京都にき たそうだな。 秋季展の制作はいいのできたか。 小野里どうしとるか手紙こんか。 美術創作のハニワ的精神[註5]とかいふのなんのことやらわ からん。ちようどそういふ所にゐるのやろといふことはわかるが。 杉田秀夫 山田光春兄 (1枚目・裏) 讀書餘録 放哉先生之句 、 蛙釣つてゐる兒をみてゐるお女郎だ 、 友の繪がうまいんだそうだ 、 おつかけておいついた風の中
、 自らを罵しりつきず仰向に寢る 、 咳をしても ひとり 前の二句とくに面白い句かなんか知れんが。例のいれものが ないの先生だ。書かん集[註6]もつてゐる、前の二句のカイ シヤクがその中にあるんだ、ながくなるのでよすがなにかふれ るものがありそうなら送るよ。 渡辺崋山にはなかされるなあ。碧瑠璃園の渡辺崋山[註7]を よんでなかされどをし、あとにはなんものこりやせん。こうだん4 444 なんだ。それでなかせる。かなしいんだ。貧乏したり時代に入 れられずはらきつたり主人のことに一心になつたり両親のこと でこれ程の人物がもろくも孝行息子になつたりいやはやさ。 、 プーシユキンをひさしぶりによんで心の中から花が咲くような 氣がした。ロシア人てのはチョヨト違ふナ。うれしいのも悲し いのもけたはづれな所がある。 [ 1]自由美術家協会は1940年7月に美術創作家協会と改称したが、 これにともない機関誌『自由美術』も『美術創作』と改称した。ここで 言及されているのは3号(1940年10月)に掲載された北尾淳一郎「芸 術と全体主義」および山田光春「夢歩」。 [ 2]紀元二千六百年記念日本近世名画展、1940年10月23日-11月 6日、恩賜京都博物館。 [ 3]勝田寛一(1913-97)洋画家。広島県生まれ。中之島洋画研究 所に学ぶ。自由美術家協会には1938年の第2回展から出品。1950年 同会を脱退してモダンアート協会結成に参加。1951年には大阪市立 美術館で瑛九と二人展を開催。 [ 4]坂野耿一は名古屋の画家で山田光春の友人、この年の第3回自 由美術家協会展に《人物》3点が初入選。 [ 5]小野里利信「埴輪的精神」『美術創作』3号、1940年10月。 [ 6]尾崎放哉著、荻原井泉水輯『放哉書簡集』春秋社、1927年 10月。 [ 7]碧瑠璃園は渡辺霞亭(1864-1926)の筆名。『渡辺崋山』弘文 書院、1908年。 書簡78 1940年11月8日 封書、便箋3枚、縦書 表:名古屋市東区/大曽根町中一ノ二七三/淺野氏方/ 山田光春様 裏:京都/杉田秀夫 (1枚目) お手紙有難う。 多分君の展ラン會の頃は行くこころ掛でゐますが、今僕はす こし恥しいが大變勉強してゐるです。四十円お金が入るてこと は大變うれしい。僕はさつそく研究所に入學することにする。 クロツキだけに行つてゐるので、どうもならんのだ。京都の貧 乏タバコ屋にやつかいになつてゐるのも心苦しが、それだけの 勉強してつぐないとしたい。自由展に出品したヱを大阪の中村 君にたのんでゐるが、(ヤスインだ、三十号三十円、十号二十 円)それでさえらちあかん。これから原稿かいてすこしかせごう と思つてゐるがどうも僕の思想のはつてんせんとする意企とこ れからのジヤアナリズムと合ひそうにもない、のりきればこちら でリードするかもしれんが、そんな豫感をもつてゐる。しかし出 来ればここ二、三、年は沈黙をまもりたいもんだ。發表すると 發表したことにひきづられていやをう4 444 なしに引ずられる危険を 感じるからね。 この前手紙をかいてから「科學者の道」をみた。僕はすつかり 身体の調子がよくなつた。僕はこのごろ精神的な感動をする とすつかり肉体の状態がか (2枚目) はるんだ。それだけにまいることの方が多いことを想像してくれ 給へ。 奉祝展を今京都でやつてゐる[註1]、まだ見ない。見たら身 体の調子がわるくなることをかくごでいつては見るつもりでゐ る 藤島、(あるかしらんが)梅原、須田、いのくま444 4 (ヱハガキだ けでみてゐる)がみたいのだ。 繪はあかるい4444 とかくらい4 44 とかはようするに底をながれてゐる力 の問題だと僕は思つてゐる。僕の自由展の繪などあかるい4444 色 の繪だが病人の繪だ。 ロマンロウランはつねに藝術家は生活の反對の方こうをとる といつてゐる。(明日の音樂家[註2])生活が明るい時はくらい 作品を、(但し、このごろはくらい色のヱとかあかるいいろの繪 とかでそれがくべつされがちだがこれはロオランのいつてゐる こととはちがふんだ)といふことには僕は五分ぐらは理解でき る。ロオランの意味にはいろいろの意味がふくまれてゐるがせ つめいは會つた時にしよう。ただしこれは我々のような場合で はなく大藝術家に適用する(それは表現と生活との意味をす つかりはつきりと把握してゐるからだ) 小野里の文章で何よりも不快におもつた (3枚目) ことは良寛の言葉だ。僕は七月頃から良寛をかこうと思つてす こしよんでゐるが、そのうちにむらむと腹立しくなつてきた。だ からそれをかこうかと思つてゐたんだ。なぜかといふと良寛に たいする自分の對度に腹立つてきたんだ。しらずしらずに小野 里が引用してゐたようなことになつてゐる、そのようによませる 良寛(の一面)に腹立ちを感じてき、主題はそこなのだ。がそ のまヽになつてゐる。この主題こそ現代的なものだと僕には思 われてゐるのだ。そんな心境で小野里のあの文章の引用をみ ては敵てきをみつけたような氣になつたことは事實だね。もつとも 今では崋山の自さつ444 をかいぼう4 4 44 することに興味をもつてゐる。 崋山は絶望したんだ。しかし歴史は崋山の絶望をのりこえ4444て ゐる。崋山の悲げき44 は日本の悲げきとして立派だ。時にこの前 から崋山のしようぞうを見る機會にぶつかつてゐるが、じつに すぐれたものに驚いてゐる 山水やその他のものしか見てゐ なかつた僕は一つの驚きである。肖像に思想を表現する。わ かりやすい例になる程よく表現されてゐると思ひます。 行くのは展ラン會近所の土曜日になるでせう。研究所へ行く からおたのみのえはもつて行きます。 光春様 秀夫 [ 1]紀元二千六百年奉祝展(前期、洋画・彫刻の部)は1940年10 月1日-22日に東京府美術館で開催された後、大礼記念京都美術館で 11月3日-17日に開催された。このとき瑛九が言及している藤島武二は 《蒙古高原》を、梅原龍三郎は《紫禁城》を、須田国太郎は《歩む鷲》 を、猪熊弦一郎は《女と木の葉》を出品している。なお、瑛九はこの後、 同展を見た感想を兄に宛てて次のように記している。「奉祝展の洋画を 見て(これはほとんど全部のダン体が参加しています)日本のこのよう な方面の貧弱さにきようたん致すとどうじに、我々の責任の重大さを痛 感したしだいです。我々の文化は、今までの専門家たちをあてにしてい ては、とんでもないことになります」(1940年12月21日付書簡、杉田正臣 『瑛九抄』「根」発行所、1980年12月、17頁)。 [ 2]同題の書籍は見当たらなかった。ロマン・ロラン著、大田黒元雄 訳『過ぎし日の音楽家』第一書房、1928年、または同著同訳『今日の 音楽家』同、1930年か。 書簡79 1940年11月21日 封書、便箋3枚、縦書 表:名古屋市東区東大曽根町/中一ノ二七三 淺野氏方 /山田光春兄 裏:京都市上京区小山堀池町/三四ノ一/杉田秀夫 (1枚目) 荷物はおもかつた。電車はまん員になつた。 荷物は運てん手のそばにおいてくれといつた。僕はわきにたつ ていてはいけない、中にはいれとゆわれた。荷物ははげしい電 車のゆれでほおりだされた。運てん手は おりてくれ荷物はお ちたといつた、僕はおりた。荷物はみえなかつた。僕は逆にあ るきだした。するととおくからにこにこわらいながら自てん車に のつた ろう働者が自てん車のうしろにつんでやつてくるのに 出あつた。僕は非常にうれしかつた 荷物をレイをいつてうけ とるとそれをかついであるいた。たいへんにぎやかな通りであ つた。僕は大へん元氣だつた。荷物は重いしかしかつぎとを さねばならぬ、そしてその力は僕に充分にあつたし、又出てくる のであつた。しばらくあるいてすいてゐる電車を見つけて又の つて駅についた。 僕はなぜこんなつまらんささいな出来ごとをこう綴方みたいに かきつけるか、君にはわかるだらう。 我々は重い荷物をもつてゐる。そしてしばしば それは電車 からほをりだされ、あともどりしてたつた一人で (2枚目) かつがねばならない。そのような荷物を藝術家はもつてゐな ければならぬからである。そしてかつぎとをさねばならぬからで ある。 ミレ[註1]は感激をもつてよんだ。 藝術は悲ゲキをたええたものでなければならない。 ゼツ望を母体として花咲たものでなければならない。 悲ゲキ的時代の人間をコブし希望をもたしめる力をもたねば ならない。 そのためには何人よりもよく悲ゲキを知り、くわい疑にたたかい ぬかねばならぬ。 『彼が森の小暗い時刻や陰影の詩味などを他の畫材よりもし ばしば描かなかつたといふことは驚くべきことである44 4444444 。彼はさう いふ畫材の持つ安易すぎる効果を信用しなかつた。彼はセン4 4 44 チメンタリテイを恐れてゐたのであつて、ミケランヂェロがオラ444444 444 444444444 44444444 44 ンダのフランシスに語ったやうに「良い畫は決して涙を描か4 4 4 44444 4 44 4444 44 4 4 444 4 4 4 4 ぬ4 。」と言つたかも知れないのであつた。彼はとりわけ一日の 初めと終りとを喜んだ。』(ロオラン「ミレー」) 我々の時代は藝術をもつとも必要とするほど悲ゲキ的な時代 である。我々は藝術なしには一刻もこれをの (3枚目) りこえることは出来ないのだ。 ドラクロアからは藝術の本質についての成立をおしえられた。 彼は古典について明くわいに書てゐる ほとんと僕が現實からうけた教へと同一であつた。 研究所で僕の裸婦をみて大田喜二郎[註2]はテクニツクの 上からばかりで 形も色もいいといつて僕のだけはなほさな かつた。彼は僕がそれをどこで得たかといふことは完全にしら ないに違ひない。この上は大田のテクニツクばかりの観點か らは理解できないほどの實感にあふれた作品を描くのに全力 をそそぐつもりだ。 裸体のもつ眞の意味を描たい。それは僕の藝術の根本的な たちばをつくるものだ。それが出来れば二十世紀の眞の意味 のレアリズムを僕がうちたてることになるのだ。 こちらにはスケツチ板がないのだ、僕作品の二枚(つまらない のでつぶすスケチ板)をチヨツキを送る時送つてもらいたい。 これはいそがない。なぜならリルケのロダンへの手紙[註3] をも一緒の方がもつとうれしいからだ。ミレとドラクロアはなに かそれにつけておくるものがみつかるまでまつてゐたまえ。 坂野君によろしく 光春様 秀夫 今からベートベンをききに行くんだ。 [ 1]ロマン・ロラン著、蛯原徳夫訳『ミレー』岩波文庫、1939年。 [ 2]大田喜二郎(1883-1951)洋画家。京都の生まれ。東京美術学 校卒業後、ベルギーで点描技法を学び、帰国後はその手法で日本の 風景風俗を描いて文展で受賞を重ねた。1934年に紫野洋画研究所を 開設したほか、京都市立絵画専門学校等で後進を指導した。 [ 3]ライネル・マリア・リルケ著、祖川孝訳『ロダンへの手紙』実業 之日本社、1940年。
書簡80 1940年11月頃 封書、便箋4枚、縦書 表:名古屋市東区/大曽根町中一ノ二七三/淺野氏方/ 山田光春様 裏:京都市/上京区/小山堀池町/三四ノ一/杉田秀夫 (1枚目) お手紙有難う、それから幾日がすぎた。何度か紹介文を書き かけてみたが氣にいつたのか出来ないのと描く方に氣をとられ てしまつて今日になつてしまつた。 出来たから同封する。原稿紙二枚といふことであつたが長す ぎやしないかと思つたが二枚かいた。てきとうにして下さい。 僕は一月やるのなら始めの方にやつた方がいいように思ふ。 今日は朝から筆の方を休んでペンをもつてゐる。美之國が(久 保氏から僕の住所をかぎたして)原稿をぜひかいてくれといふ ので、今かいた所だ。新年号です。でたらよんでほしい。ひさ しぶりの断片でないもの4 4 4 4444 だ。「悲劇を超える精神」、ごくありふ れたことだけかいた[註1]。 それから君の照介新聞でかかしてくれる所があつたらいつて 下さい 枚数さえわかればおかきします。 ぼくはあれから研究所で二十号と三十号とをかいた。まだほん とにつまらぬもので毎日失望をくりかへしてゐるが決してやめ ない。明日から又三十号をかく予定でゐる。 坂野君はくるか、勉強してゐることと信じてゐる。 よろしくいつてくれ。 杉田秀夫 山田光春様 (2枚目)[註2] 山田光春氏の仕事に就て 瑛九 山田光春氏は日本洋畫界に於て少數のすぐれた新人の一人 であると信じてゐます。 山田光春氏は東京では毎年美術創作家協会(もとの自由美 術協会)の会員として作品を発表してゐられるのですが、今度 名古屋で作品を並べられるのです。名古屋は山田氏の郷里 でもあり、見る人も見せる人もうれしい事だらうと思ひます。 山田光春氏は自然からつつしみぶかい態度をもつて自然の教 訓を大小もらさず受けとろうとする人です。十九世紀以後絵 画は技巧の上でいろいろな流派がながれて、観賞者をいたづ らにまどわしたのでありますが、その様なものにまどわされるこ となしに、虚心に自分の生活をとほして作品をみればよいので あると思ひますが、不幸にして我々は見る人々の立場から素直 に自分の生活を通して見るによき対象となる作品を発見する のに苦しみま (3枚目) した。それはあまりに技巧化した意味のそうしよく品444444 ばかりみ せつけられてきたからであると思います。 山田光春氏の作品はかヽる今迄の技巧一てんばりの専問化 した作品に失望してゐる人々を必ず満足させることを信じて疑 ひません。 我々はかヽる正統な生きた畫派に対して後援することの義務 を感じます。今迄技巧のいろいろな変化にうきみをやつした近 代藝術の病気をなほすためには山田氏の如き新人を日本藝 術界の為に育てることが最も必要な事だと思ひます。 山田氏はよく子供を描きます。子供は親にゐだかれてゐたり砂 の上であそんでゐたり栗をむいたりしてゐました。花もたくさん 描きました。花はいつもつヽましくその美しさをみせぶらかす様 な風には見えませんでした。風景はたえず我々を思索の世界 にさそうように静かでした。氏をキタイしてゐる一人として友人 であるがゆえに駄文をろうしました。 (4枚目) 郷里の皆様がこのすぐれた画家を日本藝術界のために後援 し、勵まして下さることを切望してやみません。 [ 1]瑛九「悲劇を超える精神」『美之國』17巻1号、1941年1月。 [ 2]当館受贈時には、この2枚目∼4枚目の便箋は次の「書簡81」の 封筒に入っていた。しかし1枚目の文面から察するに、本来はこの「書 簡80」に同封されていた可能性が高い。 書簡81 1940年12月初旬 和紙2枚(うち1枚白紙)、縦書 封筒なし(後年の山田光春による整理用袋) (1枚目) ドラクロア[註1]讀みかけたら面白くてたまらんのでかりて行 きます ミレーもなにげなく見つかつたのでこれも一緒に、よんだら小 包で送ることにしませう しつかり勉強せんならん 荷物はすこしおもい がんばる 秀夫 光春様 [ 1]ドラクロア著、植村鷹千代訳『芸術論』創元社、1939年1月。 書簡82 1941年2月17日 封書、便箋3枚、縦書 表:名古屋市東区大曽根町/一ノ二七三淺野様方/山田 光春様 裏:京都市上京区小山/堀池町三四ノ一/杉田秀夫 (1枚目) 個展の時はお手傳どころか、かへて君に色々めいわくをかけて しまつてすみませんでした。 手紙を書こう書こうと思ひながら今日になつてしまつた。こうい ふ生活をまだつづけてゐて恥しい。(あす書こう書こうといふよ うな生活さ) 繪畫は大きな岩石のごとく僕の行く道の眞中によこたわつて ゐる。むつかしいなまつたく。君も百号の大作にかかつてゐる ことだろうと考てゐる。創作展[註1]は早く始ることになつた らしいね 君や阪野君[註2]が出品すれば見に行くことにす る それよりも前に僕はどうせ上京するつもりでゐる。京都は カイサンだし、それよりも僕の京都生活も、それ自体であまり 意味をもつてこなくなってゐる。といふのはまつたくの孤獨生 活だからね。京都では。研究所はやめた。これは僕の生活の 方向と違ひすぎるし、研究所を生徒の一人として改革すること は今の所不可能だと思つたし、そのことが僕の第一の仕事で もないからだ。制作はちちとしてすすまない。それがために僕 はやつきになつて思想のかく立を目ざしてゐる。讀書は熱して くると (2枚目) 一日に四冊までやる。今の所一つの思想精神がなければ、身 体があたたまらない。 すぐれた一頁はある時代の一パイのウオツカみたいなものだ。 こんなつまらん事書くのはよそう。 その内一度遊びにやつてこないか、こちらならゆつくり藝術論 だけやつてわかれられる境ぐうだよ。僕は新しい繪畫藝術の 方向だけはつかんだつもりでいる。理論が感性にまで具体化 するには刻々の闘争が必要らしい。めぼしい作品は一枚も出 来ない。その點はたしかに僕をゆううつにする。問題はやはり 思想の生活の大手術を要求するらしい。僕は自分にアカデミ ツクな要求の多いのに驚くし、藝術家としては狂氣の(エイ智 とそれからくる熱情)不足に自らおどろく。熱情はありすぎるの だといふ俗習的観念が僕をすつかりアカデミックにしてしまつ てゐたのだ。自分は俗人ではないと観念するくらい俗なことは ない。といふやつと同一わけだね。 (3枚目) この様なあやまつた自信にどくされてゐるね、日本の我及我々 のしゆうゐのエカキ達は。 × 君の個展はやはりあんな風でやつた事はよくなかつたね。もう 一度でなおしてやりなほしをやらねばゐかんと思ふ。 × 先日 今井(美之國)[註3]がきた。それから藤田君夫妻[註 4]もきた。もうすこしつつこんだ話がしたかつたといふ後悔に にたものがのこつてしまつた。態度を今一歩眞地目にしたいと おもつてゐる。 × 戀はまだしない。する必要はないのかもしれぬ。よくわからな い、(僕の生活思想の立てなほしの為めとして) × 阪野くんにも手紙を出すつもりだがよろしくいつてくれ。 時にあいますか、實は彼からの手紙をまつてゐるのだが。 九 光春兄 [ 1]第5回美術創作家協会展は1941年4月10日-21日、日本美術協 会(上野)で開催。 [ 2]「阪野」は書簡77の坂野耿一の誤記。このとき坂野は《湖水にの ぞむ》《習作として》《少年》の3点を出品。 [ 3]今井繁三郎(1910-2003)洋画家。自由美術家協会会員で雑誌 『美之國』編集者も務めた。 [ 4]藤田頴男は宮崎の画家で瑛九の友人。1935年に瑛九、山田光 春らと「ふるさと社」を結成。 書簡83 1941年4月4日 封書、便箋1枚、縦書 表:名古屋市東区/東大曽根町/中一ノ二七三淺野様方 /山田光春様 裏:東京市牛込区/砂土原町三ノ十八/久保方/杉田秀夫 お手紙有難う。 僕は東京に来てゐます。 非常にいそいでゐたので名古屋にはよれませんでした。 創作展の諸兄にはあいました。中々ガツチリした考へをもつて ガンばつてゐる人もゐるのに感心致しました。僕も受付だとか 會計だとかの手助をすることにしました。 毎日制作をやつてゐます。みぢめな氣持を味ひながら。今まで の不勉強のムクイを味ひながら。 君の百二十号はきたいしてゐます。 シンサには出てこないのか。 坂野君は例の作品を出すだらうね。どうぞよろしくいつてくれ、 其の他の諸君は出品されたか。 光春兄 秀夫 書簡84 1941年7月20日 封書、便箋1枚、縦書 表:名古屋市東区東大曽根町/中一ノ二七三/淺野様方 /山田光春兄 裏:東京市牛込区/砂土原町三ノ一八/久保方 杉田秀夫 手紙を出そう出そうと思ながら心外にもすつかり失敬してしま つた。 この前、といつても數ヶ月前に坂野君が突然上京して、東京で 生活したいようなことをいつてゐたので、一おう反對した。山 田に相談したかといつたら相談しないといふ。歸つたら相談し ろといつてわかれたが、その時は是非上京する風で、荷物をと りにかえるのだといつたまヽでわかれた。 僕はその時君に手紙を出さねばならなかつたのだが、坂野くん からなんとかいつてくるだらとまつてゐたが、こず、上京したの かどうかもわからず、その儘になつてゐる。 どうしてゐるかしらん、彼もいくらか太佐[註1]風な所がある 様で、常識がかけてゐるようだね。 君の方ずい分いそがしいことだらうね。 世上ではずいぶん色々なデマがとんでゐるようだナ。 僕どうにか讀書と繪畫にくらしてゐる。 自由展はやめた。
けつこん4444 はどうなつたか。じゆんび中かい。 とりあえず、あまりたよりをしなかつたおわびのみで。 近日中に輕井沢の方に行くことになつてゐるが、ひまがあつた ら一筆かいてくれ。 秀夫 光春兄 [ 1]太佐豊春(たさ とよはる、1921-2005)宮崎の画家で瑛九の友人。 書簡85 1941年12月1日 封書、便箋2枚、縦書 表:名古屋市東区/東大曽根町/中一ノ二七三/山田光 春大兄 裏:十二月一日/宮崎市南広島通三/杉田秀夫 (1枚目) お手紙有難う 御ケツコンの由お目出度う 昨年の名古屋生活が思ひ出されてならん。 貴兄の心境も大分進歩されしことならんとひそかに思ひます。 新居も一軒おいたとなりとは君らしくてよろし。動ざること林し の如しか。静かなること林の如しだつたかしらん。 僕はこのごろ大たい病氣と遊んでゐる。作品はずーとかいてゐ る 宮崎にかへつて一變しつつあると思つてゐる。タツチの 意味がわかりかけてきたこと。ヱカキはヱカキでなければな らんが、なかなそれはできん、道樂もんゴクドオもんにどんな時 でもなつておれんようにいつもヱカキでいることはよほどの馬 鹿にならんとだめですな。そんなこと考へてゐます。 (2枚目) 病氣でさけのめんで、酒のまず遊ぶことおぼえ、このごろ仲々 女給さんなどにもてます。 寫生してゐる時が一番いいきもちで、女の子と遊ぶのがそのつ ぎで、三番がネドコん中で本よみじや。 この二、三、日ねどこにて本よみばかり 何の病氣かて、やや こしうて云われん、たいしたことない。 生きて行くことが、一ヒトタツチ一ヒトタツチわかりかけてたのしゆうな りよります。 私、 病気なおつたら44 とか 金ができたら44 とか せんそうすんだら44 とか たら44 はやめて、やりよる。 あんたもその氣で女房カワイがんなはれ 光春兄 秀夫 書簡86 1942年3月25日 封書、便箋2枚、縦書 表:名古屋市/東区東大曽根町/二七二/山田光春兄 裏:宮崎市南広島通り三/杉田秀夫 (1枚目) 大変御無沙汰してすみません。今年になつてどこえも便りを書 かんしまつ、特に君に對しては例の「何かかいてくれ」がたたつ て返事がかけず、よわつた、もうあれはかんべんして下さい。 トコノマ藝術カクキニナレズ ゴブサタシタトワ申ワケナシ。 君の制作如何、愛妻カタワラでユウユウとしておられることと 思ます。 美術創作展も近づきましたネ[註1]。大作を出品しますか、エ ハガキでも送つてください。 杉子も獨立に出したそうナが一點しかナラベテクレナカツタ ラシイ[註2]、僕はアイカワラズ、小品をかいてゐる。 終日アクセクとしては、我才のたらざる、氣弱キ、努力スルヱネ ルギイのタラザルをたんずるのみ (2枚目) 畫の事はムツカシスギて語る氣になれず。 モソモソとしてスケチ板を十日もかいてゐる。 小説は七、八、年前によみとばしたものを再讀 いつも感ず るワ 若き日、汝何をかなせし、若き日汝、いかに粗末なる眠をもち てよみし、ととひかえす日日です。 思ひ出すは大原コレクシヨン、二流三流とあざけりしアマンジ ヤンすらいかにすばらしき男なりしかな。ピサロ ルノアール モネー云ふもおろかなり。 我が若き日の不勉強ののろわしきかな。 さよなら 奥様によろしく 秀夫 光春兄 [ 1]第6回美術創作家協会展(1942年4月4日-12日、日本美術協会) に山田は《春1タンポポ》《春2梅》《春3やぶ》を出品。 [ 2]瑛九の妹・杉田杉はこの年、第12回独立美術協会展(1942年 3月5日-23日、東京府美術館)に《独り》を出品。 書簡87 1942年8月12日 葉書、縦書 表:名古屋市東区東大曽根町/中一ノ二七二/山田光春 様/京都市左京区浄土寺/馬場町十一/杉田秀夫 お手紙有難う 姉の病氣も大分いい方ですが、八度五分ばかりの熱がつづい て、その原因が、大學的アカデミツクなつい究にかかわらずわ からないので、まだ僕も名古屋行きがはつきりしません。 今日は久しぶりに七度七分です、この調子で行けば、四、五日 内にはあえるでせうか、行くことがきまればデンポーかハガキし ます マダムによろしく。 書簡88 1942年8月20日 葉書、横書 表:名古屋市東区/東大曽根町中一ノ二七二/山田光春 様/京都市左京区浄土寺/馬場町十一/杉田秀夫 せつかく行けるかもしれないなどといつて、いまだ行かず、心苦 しく思つてゐます。 病人が、もうなほるのだらうと思つてゐたのに、又病勢がぶり かえして、ちよつと歸省する日はいつのことやらわからなくなつ てしまつた。昨年はいま一歩でといふ所自分の病でたをれ、そ の境地を取りかえすのに一年かかり、こんどこそ一つのかい段 にとうたつしたと、出来かかつ●の一枚の作品ををきざりにし て京都にきてしまつた。又谷間が出来る。 心がチヂにくだける。 君のやすみも20日までだらう、かえりにでなくだつたら行けるか もしれぬが、もしやすみが30日までだつたら一報してくれたまえ、 坂野君によろしく。マダムによろしく。 書簡89 1943年5月11日 封書、便箋1枚、横書 表:名古屋市/東区東大曽根町/中一ノ二七二/山田光 春兄 裏:宮崎市南広島通り/杉田秀夫 山田光春兄 miyazaki43.5.9.夜 久しぶりの手紙なつかしかつた。 君が昨年すでにオヤヂになつたのはうれしかつたが、病氣を したのはこの時代的でいたましい、しかし君の精神はけんこう そうだし、光一君もマダムもけんこうそうなけはいを感じて安心 しました。 ヱはすぐ送らうと思つたがさすがに久しぶりに君に見てもらを うと意識するとどうしてもすこし筆がくわえたくなつたので、明日 この手紙と一緒に送ることになるだらう[註1]。2号だ、がこれ は僕の重要な作品の一つだと思つてゐる、僕はこの題材で50 か80をかこうと思つてゐるし、それでなくてもたいへんすきなも のなのだ、君にみてもらつて感想をききたい。10日ばかりみて もダメならとてもダメだが、僕は1ヶ月ばかりかかつたのだ。(筆 をとつた時間は少いものだが) カイエダール マチス、ピカソ、シヤガアール、アートナウ、ヂ ドロオ 有難う 今日寫生からかえるときてゐたのでよきしないうれしさですぐみ るのが惜しい氣がした。僕はこのごろは小包がおくれがちなの で1週間ぐらはかかるだらうと思つてゐた 君のいつもかわらぬ友情を感じてうれしかつた。マチスのデツ サン集は忘れてゐた。僕の今もつともほつしてゐたものだ。マ チスは大原のおかげでずいぶんインサツで見ても率直に心を 打つてくれるのでとくに有がたい。 ピカソのすごさわはやはりまだつつぱりきれぬものがある。偉 大すぎるのか 僕と質が違ふのだらう。大いに勉強してみるつ もりだ。 シヤガールのなつかしさ、ブラツクの雄大さ、(僕は彼のマドロ スの様な寫眞をすぐ思ひだす、きつとかれもシニヤツクの様に 海がすきに違ひない。) なんといふゆうゆうとしたそれでいてデリケートなニユアンスだ らう。 大原に行くジユンビがこれですつかり出来るといふものだ、 いつか行つた時はフランス映画のケツ作をみてすぐ行つたの でたいへん率直に心に打れた 第一にきたことは生活のせい りの高さだつた。それはその少し前にみた映画のおかげだとい える。そんな意味でこんどもこれら大原に行くまで毎日勉強す るつもりだ、君の本で、 大原えは17日に立つて行くことにし た。京都の姉がすつかりカイフクしたのでツレテカエルので す。25日頃までには宮崎えかえる予定だ。 君、身体は大せつにしたまえ、すぐれた藝術家はすべて自己を てきかくにはんだんして自己誤解をさけてゐる様だね、式場の ヤクしたゴツホの手紙[註2]をよんで彼が彼をじつによく客 観的に批判してゐのに打れた。君も君の身体(又精神だ、)を よくはんだんして無理せぬ様、まだみぬ光一君にダツコを マ ダムにあいさつを、共に君にたくして送る。 Q.Ei [ 1]《園にて》1943年、油彩・板、22.7×16.6cm、東京国立近代美術 館蔵 [ 2]式場隆三郎編『夜の向日葵 テオ・ファン・ゴッホの手紙』畝傍 書房、1942年 書簡90 1945年1月21日 封書、便箋1枚(両面)、横書 表:名古屋市東区/東大曽根町中一ノ二七二/山田光春様 裏:宮崎市南広島通三/杉田秀夫 (表) 山田光春兄 お手紙有難う。僕はたいへんうれしかつた。しかし君も病氣を したことをよむとやはりすこしくらい氣持にさせられた。無理を せぬ様。仕事も時々さぼられて休息される事をのぞみたい氣 持になりました。僕は完全に昔とをりといふまでにはゆかぬが、 ヱをかくのにはさしつかえありません。材料はこちらもまつたく 手に入りませんが、あと100、80、をかくぐらいあります、ホワイト は自分でネツてゐるのでいくらでもあるわけです。おかげで畫 が白ぽくなつてこまる。 杉子は京都に一人でカンバツてゐます。どこかつとめてゐるら