連載 教育研究の現在 第20回
「身体感性論」という新しい哲学プロジェクトと教育
樋 口 聡
* *ひぐち さとし 広島大学 はじめに 本稿の「身体感性論」という用語は、アメリカ の哲学者リチャード・シュスターマンが提唱する somaesthetics の日本語訳である。シュスターマ ンは、 (1992)(1) の著者とし て広く知られることとなった。日本では、この英 語の書物のドイツ語版 (1994)からの部分訳が、『ポ ピュラー芸術の美学―プラグマティズムの立場か ら―』(1999)(2) として出版された。シュスターマ ンは1970年代の後半、オックスフォード大学で学 んでおり、その時代的状況からだと思われるが、 分析美学から自らの研究を出発させている。その 後、アメリカに渡り1985年からテンプル大学の哲 学科で教え始め、研究の方向がプラグマティズム へと向かって行く。そして、 (1997)の第 6 章「身体的経験」の末尾で、「哲学 は、われわれが自己理解と自己創造を、美、潜在 力、快を、直接経験の改善された生き方への再構 築を、探究することができる身体的実践の多様性 に、もっと批判的なまなざしを向ける必要がある。 この身体化された探究を扱う哲学的な学問は「身 体 感 性 論(somaesthetics)」 と 呼 ば れ る だ ろ う(3) 」と書く。 シュスターマンは、2002年から2003年にかけて 広島大学に客員教授として一年間滞在した。シュ スターマンはことさら教育に関心を持っていなか ったが、筆者との共同研究の中で、 Somaesthet-ics and Education という論考を書いた(4)。それ に対して「学習論として見た「身体感性論」の意 義と可能性―R. Shusterman の所論をめぐって ―」という論文(5)を筆者は書いた。その中で、 「身体感性論」の意義と可能性として、(1)プラ グマティズムの再考、(2)「理論と実践」の問題 への新しい枠組みの呈示、(3)「精神-身体」の二 元論図式の再検討、の三点を筆者は指摘した(6) 。 その後、身体感性論はどのように受け止められ 展開したのだろうか。本稿は、その一端を跡付け ようとするものである。シュスターマンの は、初版と第二版と合わせて12 か国語に翻訳され彼を有名にしたが、シュスター マン自身は、研究のトピックとしては固有のプラ グマティズム美学というよりも、むしろ「身体感 性論」に一番の関心を示し続けている。それは、 哲学、美学といった学問の視点からの広がりを基 本的スタンスとするが、本稿では、教育学研究を 念頭におき、somaesthetics を扱った何人かの論 者の論考と、それらに対するシュスターマンの応 答を取り上げる。ダンス教育、音楽教育あるいは デューイとの関係といった断片を問題にするが、 この問題領域の研究を網羅してレヴューするもの では、もちろんない。まず、身体感性論という新 し い 哲 学 プ ロ ジ ェ ク ト の 原 点 を、 の第 2 版の第10章の Somaesthetics: A Disciplinary Proposal(7) で、改めて押さえること にしよう。 1 .「身体感性論」について 身体の美的機能と美への可能性から身体に強い 関心を示したモンテーニュや、深い呼吸が与える 活力に美的な悦びを見出したギュイヨーを、共感 を持って取り上げ、シュスターマンは、より体系 的に身体を論じ、美的経験における身体の重要な、
しかし複雑な役割を考察するために、身体を中心 に据えた学問として身体感性論を提唱したいと言 う(8)。しかし、シュスターマンは控えめな思いと 戸惑いを持ちながら、その革新性を言うのでなく、 試みの有用性の可能性を指摘したいと言う。それ が革新的だとしても、ウィリアム・ジェイムズが プラグマティズムは古い思考法のいくつかに対す る新しい名前だと言うように、それは美学と哲学 の最も根源的なものの復活を提唱しているにすぎ ないと、シュスターマンは考えているからであ る(9) 。 シュスターマンは身体感性論を、美学の伝統の 中に位置付けたいと考えている。そこで行ったの が、ドイツのライプニッツ=ウォルフ学派の哲学 者バウムガルテンのラテン語の著書 (1750/1758)の検討である。バウムガルテンの試 みは、今日の美学の視点をはるかに超えるもので あり、それは、生きる技芸(art of living)にお ける哲学的な自己完成といった意味を持ち、知、 徳、良き生き方に関わるものであった、とシュス ターマンは見なす(10) 。この基本的な性格が、身 体感性論のそれと合致する、とシュスターマンは 考えている。一方、バウムガルテンが問題にしな かった身体の修養(cultivation of the body)に まで、身体感性論は関わる。シュスターマンの議 論 の 中 核 に は デ ュ ー イ と フ ー コ ー の 哲 学 が あ る(11)。 シュスターマンはバウムガルテンの試みを以下 のようにまとめる。 ギリシア語のアイステーシス(感覚的知覚)か らその名称を取り、バウムガルテンは感覚的認識 の一般理論を構成する哲学的学問を考えていた。 そうした美=感覚的知覚は、論理を補完するもの と考えられ、両者によって、バウムガルテンが Gnoseology(認識論)と呼ぶ認識の包括的な理 論が呈示されるのであった。 は、感覚 的知覚の認知的価値を論じるもので、その豊かな 可能性は、単により良い思考だけでなくより良く 生きることに寄与するものと考えられた。バウム ガルテンは、美学的研究は、より良い感覚的知覚 を与えることによって、さまざまな仕方でより大 きな知の推進に貢献するだろうと考えたのである。 バウムガルテンの考える美学は、感覚的知覚の学 である。美学は単に理論的な営みではなく、規範 的な実践でもある。目的を達成するための実践的 訓練でもあるのだ。その美学の目的とは、感覚的 知覚の完成である。バウムガルテンが強調するの は、「感覚の鋭敏さ」「想像力」「洞察力」「記憶の 良さ」「詩的姿勢」「良き趣味」「先見の明」「表現 力」。しかし、これらの能力はすべて、高次の認 識能力である悟性と理性によって制御されなけれ ばならないと、バウムガルテンは言う。バウムガ ルテンは、身体を感覚という下級能力と結び付け る。そして、肉(fl esh)という語を使う。そこに は、身体的なるもの(the somatic)に対する神 学的忌避があった、とシュスターマンは見る。そ して、感覚の学から身体を排除するのである(12)。 シュスターマンは、より良き生を求める認識の 学としての美学というバウムガルテンの思想を再 興させたいと考える。理論と実践的行為の両方を 含み、バウムガルテンも陥らざるを得なかった、 美学における身体の否定(それは19世紀美学の強 力な観念論的伝統の中で強められた)を止め、生 の技芸としての哲学というもともとの役割を復活 させる。そうした構想が、身体を中心に据えた領 域としての身体感性論の提唱にはあったのである。 身体感性論の暫定的定義も、ここで登場する。 すなわち、「感覚的・美的受容(アイステーシス) と創造的自己形成の場としての身体の、経験と使 用についての批判的、改良主義的研究(13) 」である。 改良主義(meliorism)である。これは決して自 明の概念ではない。「身体をより良いものへと変 えていくこと」といったことをシュスターマンは 考えており、鋭敏な感覚を持った身体、感覚の機 能の高められた身体を、シュスターマンは例示す る(14) 。身体感性論は、身体を通してであっても、 デューイと同様、知的なことがらへの接続が大き な前提となっており、その意味で、改良主義は、 より良きものを目指しての営みである「教育」と 親和性を持つ。「より良きもの」を素朴に想定す ることなどできないといった批判的態度を貫けば、 ニヒリズムあるいはペシミズムへと向かうことに なる。それを乗り越えようとしてオプティミズム を取るといった選択肢は、われわれは持ちえない だろう。こうした思想の状況をシュスターマンも 共有しているのであり、ペシミズム‐オプティミ ズムの二項対立図式の向こうに、シュスターマン のミーリオリズム(改良主義)はあると考えられ る(15)。 シュスターマンは身体感性論の三つの次元(分
析的、プラグマティック、実践的)を考える。そ して、この章のタイトルに含まれる disciplinary に着目し、discipline の二つの意味、「学問の一分 科」と「身体訓練」に言及し、分析的、プラグマ ティックな身体感性論は前者に、実践的身体感性 論は後者に該当すると言う。従来の学問との関係 については、最も妥当だと思われるのが、身体感 性論は従来の美学の中に一つの部門として位置付 くことだとシュスターマンは考える(16) 。 2 .教育への包括的示唆 身体感性論と教育を結び付ける可能性について は、筆者がすでに指摘したように、プラグマティ ズムの再考、「理論と実践」の関係の見直し、「精 神‐身体」の二元論図式の再検討といった枠組み が考えられる。こうした枠組みで、身体感性論を めぐった教育学研究の展開が今後期待される。本 節では、身体感性論への教育学者の応答を取り上 げてみよう。Gert Biesta の Who Is there? Find-ing the Other in the Self(2007)(17)
である。ビー スタは、「教えること」を古く時代遅れであると し「学習」が無批判に持ち上げられ、教師の役割 を学習者(生徒)の傍らにいる支援者へと変える ような昨今の教育現場の風潮に対して、ランシエ ールやレヴィナスの議論をもとに、「教えること」 の再発見を提唱するオランダ生まれの教育学者で ある(18)。 上記のビースタの論文は、シュスターマンの身 体感性論につながる身体的自己意識の重要性を称 揚する、「自己理解(self-knowledge)」をめぐる シュスターマンの論文(19) を批評した論文である。 シュスターマンは、この論文の冒頭、デルポイの アポロの神殿に刻まれた古代ギリシアの有名な格 言「汝自身を知れ」に言及し、そのことの是非を 論文全体で検討する。論文のキーワード「自己理 解」とは、この自分自身を知ることを意味してい る。歴史を振り返って、シュスターマンはその是 非の両者を押さえつつ、身体的意識と絡めて、自 己理解の二つの対極的な方法を、(1)身体的感情、 習慣、振る舞いの内省、(2)思考という特別な精 神的活動に限定されたもの、とまとめる。シュス ターマンは、数少ない例外を除いて、近代の西洋 哲学は、身体的内省を無視するごく狭い精神的方 法を取ってきたことを指摘し、その好例としてカ ントを上げる。シュスターマンによれば、カント の『人倫の形而上学』における「自分自身を知れ (精査せよ、洞察せよ)」という「自分自身に対す る第一の義務」は、身体的な完全性ではなく、義 務と関係する道徳的完全性の問題である。それは、 罪を清める自己批判が神の啓示を受け神と結び付 く道であるという、古代のキリスト教の教えと重 なるのである。他方、道徳意識の探求の義務とは 対比的に、カントは、身体的感情の省察という試 みは心気症や病的な落胆といった精神障害を引き 起こすがゆえに、それを退けるという(20) 。自己 理解に対する批判の歴史的系譜として、ゲーテ、 モンテーニュ、ウィリアム・ジェイムズ、ニーチ ェを辿り、自己理解ではなく自己を変える自己修 養に価値を見出す思想家として、シュスターマン は、ウィトゲンシュタインとフーコーに辿り着く。 こうした思想の流れを踏まえつつも、シュスター マンは、自己修養による自己向上の重要な第一歩 は、自己の現在の限界を調べ、変化に必要な特質 と方向を把握することだと述べ、自己省察による 自己理解の価値を擁護しようとする(21) 。そして、 最近の心理学や神経生理学の研究も参照して、自 己省察的瞑想の妥当性に関心を示す。ニーチェが、 「最良の知恵におけるより多くの理性」を持った あなたの内部の「無名の賢者」としての身体を肯 定して、「健全なる身体の声を聞く」ことをわれ われに求めていることを引き合いに出し、デュー イが、内観の危険性に十分に気付きながらも、行 為(そして思惟)の習慣的様態をはっきりと理解 し、その様態を改善するためのより良い認知的基 礎を与えるために、身体の姿勢と運動の或る側面 に強く注目することを含む「意識的な構成的制 御」のアレグザンダー・テクニックを熱心に唱導 し実践もしたことを示すのである。最後には、身 体的自己の複雑さを指摘し、自己理解は、自己の 実体的な永続性といった究極の抑圧的な幻想から の解放なのだ、といった論点へと至る(22) 。 こうしたシュスターマンの議論をビースタはど のように読み、何を語るのか。ビースタは、まず、 シュスターマンの論文に散在する self-examina-tion(自己探求)、introspection(内省)、refl ec- tion(省察)、self-awareness(自己意識)、rumi-nation(黙想)、self-attentiveness(自己配慮)、 meditation(熟考)といった類似の概念に注意を 促す。これらをすべてひっくるめて自己理解と考 えてしまう不都合があるのではないか、と言うの
である(23) 。そして、自己理解は、それ自体が目 的となることはほとんどなく、何か別のことのた めの手段であるように思えると、その基本的性格 を捉える。この論点は、シュスターマンの論文に おいても出てきている。ビースタは、自己理解と いう考え方は、知ることと注意を向けることの対 象となりうる自己というモノが存在することを前 提にする、と述べる。西洋哲学の歴史は、自己と は何で「ある」か、という問いに、魂(soul)、 精神(mind)、経験から身体(身体的自己 somat-ic self)に至るまで、多くの異なる回答を生み出 してきたとシュスターマンが述べることを受け止 め、それゆえに、自己をいかに知りうるか、自己 にどのように目を向けることができるかという問 いだけでなく、実際に自己を構成するのは何であ るのかという哲学的問いもあると、ビースタは指 摘する。シュスターマンは自己についての実に幅 広い見方を視野に入れるのであるが、ビースタは、 自己理解についての理解をいかに拡張できるかを 探究するために、さらに一つ付け加えたいと言う。 そこで登場するのが responsibility(応答責任) という概念である(24)。 ビースタの responsibility は、レヴィナスから 来ている。通常「責任」と訳されるこの概念は、 レヴィナスにとっては、対応可能性と捉えられ、 自己の現実の第一のものであり、他者によって対 応させられることが自己としての私を構成するの である(25)。そして、シュスターマンの自己理解 論を考慮して、レヴィナスは自己理解の重要性を 疑問視しているのであるが、自己理解そのものを 疑っているわけではなく、他者との倫理的関係を 考慮しない自己についての自己のいかなる省察も、 自己を自己へともたらすものを見出すことに失敗 するということをわれわれに知らせているのだ、 と述べる。この論文の最後では、教育の根源的な 問いへと向かい、教育は最終的に自己の肯定であ るべきなのかと問い、そうではなく、自己の妨げ、 自己の存在、「自主独立」の妨げであるべきだ、 とビースタは主張する。それは、ビースタがレヴ ィナスとともに、自己は絶えず他者との関係、そ れも他者との倫理的関係において理解されなけれ ばならない、と考えているからである(26)。 こうした議論を見ていると、自己理解の「自 己」を無意識のうちにも実体化してしまう西洋哲 学の伝統と、自己理解かそれとも他者との関係か といった二項対立的な図式の想定を感じざるを得 ない。それはビースタにもシュスターマンにもあ るように思われる。ただ、両者とも単純にこの図 式に陥っているのではなく、ビースタはシュスタ ーマンが自己についての幅広い見方を視野に入れ ていることを理解しているし、シュスターマンは、 文化の政治学に言及する中で、「対人的に向き合 う共同体」での「親密で直接的な交わりの活力と 強さ」を指摘する際、レヴィナスに触れているの である(27) 。シュスターマンがこのビースタの論 考にどのように応じるのか、具体的に見ることは できないのであるが、おそらく賛意を示すだろう と思われる。応答責任という他者関係においては 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 じめて見えてくる自己理解4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4といった形で両者をつ なぐことは可能だからである。 シュスターマンは、ビースタが論文の終わりに 辿り着いた教育学の根源的な問いには思い至って いない。それは、シュスターマンは教育に対して 限定的な関心しか持っていないことを示している。 「身体感性論と教育」というテーマを考える際、 シュスターマンもまた身体感性論が教育実践に具 体的にいかに寄与するかということを考えてしま うのであるが、それとは違った言説の水準で、シ ュスターマンの自己理解論を批判する中に、ビー スタとともに、学びの主体である自己、教師も含 めた他者、共に生きる世界、これらの具体的で現 実的な関係を改めて省察し、教育とは何かといっ た根源的な問いをめぐって、シュスターマンの身 体感性論を教育に結び付けていく教育学的課題の 可能性がありえるのではないか。そのことをここ では指摘しておきたい。 3 .ダンス教育への示唆 身体感性論を教育の問題として取り上げようと するとき、ごく一般的に発想されるのは、身体運 動に関わる教育の具体的実践においてである。そ の議論の一例が、Peter Arnold の Somaesthetics, Education, and the Art of Dance(2005)(28)で あ る。著者のアーノルドは、現在エジンバラ大学の 一部となっているマリー・ハウス教育研究所の教 育学科長を務めた教育学者であり、 (29) を 1979年に出版するなど、長年、人間の身体運動の 美学的、教育学的研究に従事してきた研究者であ る。彼が、シュスターマンの身体感性論に応答し
た。 アーノルドのこの論文の主題は、ダンス教育で ある。論文の冒頭、アーノルドは、身体感性論と は何かと問う。そこで引き合いに出されるのが、 シュスターマンの の第二 版(2000)(30) である。アーノルドが参照している のは、本稿の第 1 節で取り上げた、身体感性論を 提案する章の論考である。アーノルドは、身体感 性論は、合理的思考や知性の発達を伴って人とし て良く生きるという思想に関わるものであり、特 に身体的技能・感覚・快という形を取る身体(ソ ーマ soma)が、概念的理解や言語の想像的使用 といったこと以上に、十全な生を生きることにお いて重要であるということを強調する、と理解す る(31) 。しかしながら、これ以上に踏み込んでシ ュスターマンの身体感性論の概念を検討してはい ない。論文の最後の部分でアーノルドは、運動感 覚的知覚(kinesthetic perception)に言及する。 運動感覚的知覚とは、ダンスであってもスポーツ であってもあるいは日常運動であっても、われわ れが自ら運動し、自分の身体や周囲の環境などさ まざまなことを身体的に感じ取る際働く知覚のこ と で あ る。kinesthetic に は esthetic が 含 ま れ て おり、運動感覚は美的(感性的)だと捉えること ができる。この身体−運動感覚−美的(感性的) という連関が、アーノルドの論の骨格であり、身 体感性論に対する彼の関心は、このことに尽きる と言っていいだろう。 アーノルドは、ダンス芸術が価値ある人間的な 実践であることを強調し、その教育の目的は、ダ ンスによってダンスの実践とは関係ない知識や態 度などを教えることではなく、活動それ自体の価 値を教えることだと言う(32)。「芸術」ということ にも注意を払っている。芸術は道徳的、社会的、 宗教的、政治的といった領域から立ち上がる「生 の問題」と関係しているというベストを引用し、 芸術教育における情動的感情とその表現には、必 然的に認知と理解が伴っているという見解を支持 する。そして、知識、理解、理性は芸術的経験に とって重要であり、芸術的表現から分離してしま うことはできないのであり、それは芸術が教育的 意義を有するために必要だという基本的立場を、 ベ ス ト の (1992) か ら引き出す(33)。アーノルドは、ダンスという実 践的行為の重要性を主張する一方で、ダンスの実 践的経験のためにダンスと深く関わる知識や概念 の理解と解釈は必要だと言うのである。それはそ のままダンス教育さらには芸術教育一般にスライ ドされる。概念はダンスを含む芸術教育に必須で あり、それは理解と観照の能力の基礎であり、ダ ンス教育の重要な側面だとアーノルドは述べるの である(34)。 アーノルドは、理性か感性かといった二項対立 図式にくみしない。その立場から身体感性論につ いても、次のように述べる。すなわち、デューイ の芸術と美的経験の考え方を踏まえて、身体感性 論は、人間を本質的に精神的なものと見なし特に 精神は本質的に言語的なものであるとする美の理 論に、闘いを挑もうとするのである。身体感性論 が打ち立て、守ろうとするものは、身体は、熟練、 感覚、快という形で、美的生活の重要な一部であ るということである(35)。ここで誤解してはなら ないのであるが、重要なのは精神・理性ではなく 身体・感性だなどということをアーノルドは、そ してデューイやシュスターマンも言おうとしてい るのではないということである。批判されている のは、実践的活動の感覚的・情動的満足の豊かさ を言語や知識や精神に還元することを善とする西 洋の思想的伝統の残骸なのである。ダンス教育は、 身体感性論の典型的な事例として、活動の中心へ と向かう。そこで重要性を持つ「熟練」や「快」 という経験に、概念や知識などの知的なものが豊 かに寄与する。それが、アーノルドが保持してい る基本思想なのである。 アーノルドにおいて、身体感性論とダンス教育 は合致するものと捉えられた。アーノルド自身は、 ダ ン ス 教 育 の 具 体 的 な 事 象 に、movistruct や movicept といった新規の概念を使って、現象学 的視線を注いでいるのであるが、理論と実践、精 神と身体の関係といった教育学の根源的問題に触 れるトピックにまで考察を広げている。精神・理 性・言語を哲学の根源に置く西洋の伝統との闘い の中で、アーノルドもまたシュスターマンととも に、西洋の特に近代以降の価値観を見直す近代教 育批判という教育学的課題に向き合い、理論と実 践の関係論などの新たな研究を、身体感性論から 出発させることができるのではないかと思われる。 4 .音楽教育への示唆
と い う 雑 誌 が、 シ ュ ス タ ー マ ン の 著 書 (2008)(36)での議論をめぐ って、七人の音楽教育学者がコメント論文を書く という特集を組んだ(37) 。それに対して、シュス ターマン自身が応答する論文 Body Conscious-ness and Music: Variations on Some Themes(38) を同じ雑誌に書いている。シュスターマンは七つ のコメント論文に丁寧に答え、自らの身体感性論 の立場を明らかにしている。ここでは、その論文 を取り上げる。 シュスターマンは、論文の冒頭、自らの著作に ついてのコメント論文を、音楽教育という特定の トピックをめぐって得られたこと、さらにそれら についての応答の機会を即座に与えられたことに 謝意を示し、議論の理解と解釈のコンテクスト、 議論の背景にあるジェンダー論、西洋哲学に対す る他者としてのアジアの文化と世界、現象学とプ ラグマティズム、言語と身体性、といった問題の 領域を設定し、議論を展開している。その中で、 「音楽の身体感性論」という形でまとめられてい る部分を見てみよう。 音楽教育学者によるコメント論文で取り上げら れた音楽の一つが、音楽のアンサンブルで使用さ れる「太鼓」であった。そのアンサンブルの実践 は、単なる音楽のイベント以上のものであり、民 族差別的移民政策をめぐる文化的・政治的問題と 絡んでいるのであるが、音楽は聴覚芸術、音響芸 術以上のものであり、感覚的知覚において十分に 身体化された複合的なものであるというパウエル の分析に、シュスターマンは賛同している。太鼓 は、演奏者と聴衆の両者が楽しめる重要な視覚的 次元を持っており、また、演奏者にとっては強い 運動の次元があり、それは聴衆もまた共感的に経 験でき楽しめるものであるという。こうした事態 は、音楽教育に生かされ、子どもたちの音楽的参 加の方法に結び付けられる。また、シュスターマ ンは音楽の身体感性論の別の次元についての、哲 学的に洗練され微妙な差異を考慮する分析を呈示 している Maus の論文を高く評価している。音楽 の演奏者と聴取者の異なる身体性の観点について の Maus の議論から生じる問題の複雑さを考慮す ると、音楽の演奏と聴取における身体の経験は一 つになるのか(なるべきなのか)、さらに、その 延長上に、どのようにそしてどの程度、演奏家と 聴取者は同じ音楽作品を経験し、構成し、享受し ていると私たちは言うことができるのか。そのよ うな美的経験と音楽作品の同一性という音楽美学 の古くからの問題にまで、シュスターマンは思い を馳せるのである。そして、芸術作品は、永遠の、 固定化されたプラトン的イデアであるのではなく、 (演奏や聴取といった)実践が変化しながら生じ る歴史的実践の構成体である、と述べるのであ る(39) 。 音楽の演奏と聴取による音楽の受容の問題は、 Maus によって、教育的示唆へと結び付けられる。 或る楽曲を適切な表現とスタイルで演奏するため にその楽曲を適切に理解する必要があるのだとす ると、演奏の良し悪しを言うためには良き聴取者 でなければならないのではないか。その楽曲を適 切に演奏するために、いかにその音楽を理解する かを教師が教えることになるのであるが、ここで 身体感性論が重要になる、とシュスターマンは指 摘する。ライヴにせよ録音にせよ多くの場合、音 楽の聴衆の面々は、単に聴取者であるのでなく、 視覚的にも演奏と向き合っている。演奏者の動き をなぞり、演奏の際に生じる演奏者の手、腕、頭 などの身体部位の動きや身振りの特質と表現的意 味の視覚的顕示を愛でるのだ、とシュスターマン は言う。さらに、最近のミラー・ニューロンの研 究を引いて、大脳の視覚野と運動野は非常に密接 に結び付いており、或る行為を見ることは、その 行為の視覚的表象と結び付いた視覚神経と、同じ 行為を行うことと結び付いた運動神経の両方を興 奮させることを示しているのであり、或る曲を演 奏するために身体を使っている演奏者を見る4 4こと は、そこでの動きに含まれる運動神経の道筋を捉 えることと非常に近いのだと言う。その結果、そ の観察者が鋭い身体感性を持っていて大変注意深 いのであれば、その観察者は、見ている演奏者の 動きの運動的質の感覚を自らの身体に得ることが できることを指摘する(40)。 非常に具体的な音楽教育の実践に関わる提言で ある。演奏者と聴取者両者の音楽的熟練を向上さ せるためのプラグマティックな身体感性的方法の 呈示をシュスターマンは考えているのであるが、 その方法は、音楽との類似物あるいは付随物とし て働く身体運動を行うことが鍵で、その音楽に対 応する表現的で非習慣的な身振り(つまりその音 楽をなぞるのに演奏者・聴取者が普通に使う身振
りではない動き)を呈示することによって、その 方法は、それ以前には気付かれなかった音楽の質 の高められた知覚・享受を可能にするのだという。 こうした方法が音楽の理解を実際に向上させる理 由として、シュスターマンは以下の仮説を考えて いる。すなわち、その音楽との身体的な関係付け の非習慣的な方法を導入することは、その音楽に 対する演奏・聴取の通常の身体的習慣を壊す。一 方で、新しい、全く違った身振りでその音楽と向 き合う挑戦を通して、音楽に対する私たちの注意 を強めることになるのである。したがって、決ま りきった型や習慣的な反応を取らず新しい反応に 挑戦することによって引き起こされる新鮮な関心 で、その音楽を聴くことへと人は導かれる。それ らは、私たちの注意を深め改めて方向付けをする ことをもたらすのであり、その結果、その音楽の 理解を拡張することができるのである(41)。これ はあくまで仮説にすぎないが、音楽教育学者の議 論と実践に触発されて、シュスターマンは音楽教 育の現場に降り立とうとする努力をしているので ある。 シュスターマンのこの論文で着目すべきは、言 語と身体性の関係をめぐる原理論的言及である。 シュスターマンは、自然的/文化的、自発性/反 省といった二分法のどちらか一方を選択すること を拒否するのと同じように、言語と、意味の非言 語的な身体的次元といった対立のどちらかを取る ということをしない。シュスターマンは、次のよ うに述べる。哲学は、言語の概念的意味に加えて、 私たちの生においてとても重要な、身体的に経験 され理解される意味の非論弁的、非概念的次元が あることを、認識しなければならない。言語帝国 主義やテクスト主義(あらゆる理解や意味のある 経験は必然的に言語的だとする見解)に向かう哲 学の傾向と闘いながら、シュスターマンは、言語 は言語の中にない意味を把握することから逸れる ことがしばしばありえるのだが、言語は、非言語 的である理解や有意味な経験の形へと人を導く有 用な道具でもありえることも認めたいと考えるの で あ る( 優 れ た 教 師 が す で に や っ て い る よ う に)(42) 。 この論点は重要である。西洋思想の伝統にある 言語帝国主義への絶対的忌避がシュスターマンの 立論においては目立つのであるが、シュスターマ ンは言語のプラグマティックな有用性にも気付い ている。このことによって、言語化しにくい身体 知の習得のために敢えて言語化を試みることの有 用性の理解(43)をシュスターマンと共有できる可 能性が生まれるのである。音楽教育の実際につい ては、シュスターマンの「仮説」を受けとめた実 践を現場の教師は試みてみることができるだろう。 その結果、得られるものが何かあるかもしれない し、全く的外れだということになるかもしれない。 身体感性論は、そうした試行錯誤を誘うプラグマ ティックな知であるという性格を顕わにするだろ う。 5 .プラグマティズムの立場をめぐって シュスターマンの身体感性論と教育について考 察するにあたり、シュスターマンがデューイとと もにプラグマティズムを基本的立場としているこ とを理解することは重要であるが、デューイとの 関係などは簡単な問題ではない。それ自体デュー イ研究の展開となりうるのであるが、 (38(4), 2004)に掲 載 さ れ た Scott Johnston の Refl ections on Rich-ard Shusterman s Dewey(44)と、それに応答して 書 か れ た Shusterman の Complexities of Aes-thetic Experience: Response to Johnston(45)
に、 議論の一端を見ることができる。 ジョンストンは、哲学的二元論を批判するデュ ーイの方法を批判するリチャード・ローティに対 して、シュスターマンは以下のように述べている ことを示している。すなわち、デューイの第一の 目的は、経験をより良いものにするという美的・ 実践的なもの、したがって、経験は形而上学と存 在論の連続性という理論的問題を解決しないと言 うローティは正しいとしても、それによって、デ ューイの経験の哲学の論点が無効化するわけでは ない。というのは、哲学は理論的な連続性の証明 に向けられるのではなく、実際に連続性を高める ことへと向かうものだからである。これに対して、 ジョンストンは、このような言い方は、基礎付け 主義とそれがもたらすものの問題を解決すること にはならず、だめだろうと言う(46) 。しかしながら、 ここにシュスターマンのプラグマティズムの立場 についての自己理解が表明されていることは間違 いない。ジョンストンの議論は、経験の直接性と 省察といった媒介的行為の優先性の問題に収束し ていくのであるが、最終的に、経験を美的なもの
にするもの、そして身体感性論を理論と実践の両 方として望ましいものにするものは、直接性にお ける統合、そして省察と探究の統合の感覚に気付 き、それを維持することであるに違いない、とジ ョンストンは述べる(47) 。 これに対し、シュスターマンは、ジョンストン の言う直接性や第一義性の多義性を指摘し、結局、 直接性と省察の関係は峻別されるものではなく、 直接性に寄与する省察4 4 4 4 4 4 4 4 4 4が強調されている(48) 。そ れは、現実を踏まえた実感として理解される。直 接性/省察の二分法は、実践/理論のそれに通じ ているが、この実践を経験に置き換えて経験/理 論を考えてしまうところに陥穽があることにシュ スターマンは気付いている。理論も経験の一種だ ということになるのである。
最後に残されたスペースで、Martin Jay の So-maesthetics and Democracy: Dewey and Con-temporary Art(49)に簡単に触れておきたい。ジ ェイは、シュスターマンの身体感性論の提案の意 図を理解しつつも、身体+美学という問題構成に おいてラップやヒップホップの重要性を主張する 一方、過去40年に渡って実践された或る芸術的行 為がシュスターマンにおいては問題にされていな いと指摘する。その芸術的行為とは、現代アート としての「ボディ・アート」である。アクショ ン・ペインティングなどのボディ・アートの驚く べき実践の様子が克明に記述され、最終的に、ボ ディ・アートは、完全に実現されることはない民 主主義の政治性を教えるための身体感性論の一つ となるだろう、と言う(50) 。 シュスターマンの身体感性論では全く考慮され ていないボディ・アートを、身体感性論の一つの 形として捉えるべきだというジェイの議論は、シ ュスターマンのプロジェクトを補完するようにも 思われるが、「身体」ということでジェイが持ち 出す「ボディ」・アートのボディは、シュスター マンが押さえようとしている soma とは次元が違 うと言わなければならないだろう。ジェイの議論 は、あくまでもコンテンポラリー・アート論であ り、逆に言えば、シュスターマンの身体感性論は、 こうしたアート論において改めて脚光を浴びうる ものでもあるのである。シュスターマンは、教育 研究への傾斜よりも従来の美学的問題の拡張の方 に関心を寄せてきているのであるが、そうした学 問と行為の実践の広がりは、デューイに帰着する プラグマティズムの立場を超えて、教育研究に身 体感性論を取り込もうとしたときの、これまでに ない新たな方向性となりうるのではないかと思わ れる。 註 (1) Shusterman, R. , Oxford: Black-well, 1992. (2) シュスターマン(秋庭史典訳)『ポピュラー 芸術の美学―プラグマティズムの立場から ―』勁草書房、1999年。 (3) Shusterman, R. , New York: Routledge, 1997, p.177.樋口聡ほか訳 『プラグマティズムと哲学の実践』世織書房、 2012年、273頁。
(4) Shusterman, R. Somaesthetics and Educa-tion , No. 51, 2002, pp.17-24.この論文の抄訳が樋口聡 ほか『身体感性と文化の哲学』(勁草書房、 2019年)に収録されている(175-185頁)。 (5) 樋口聡「学習論として見た「身体感性論」の 意義と可能性―R. Shusterman の所論をめぐ って―」『広島大学大学院教育学研究科紀 要:第一部(学習開発関連領域)』第51号、 2002年、9-15頁。 (6) 同書、13頁。
(7) Shusterman, R. Somaesthetics: A Discipli-nary Proposal in
, second edi-tion, Lanham: Rowman & Littlefi eld Publish-ers, 2000, pp.262-283. (8) ., p.262. (9) ., p.263. (10) ., p.263. (11) ., p.263. (12) ., pp.263-267. (13) ., p.267. (14) 樋口聡『身体教育の思想』勁草書房、2005年、 150頁。 (15) より良いものを目指そうとする姿勢は、苫野 一徳『どのような教育が「よい」教育か』 (講談社、2011年)のような議論とも通じる
かもしれない。
(16) Shusterman, Somaesthetics: A Disciplinary Proposal, . pp.276-277.
(17) Biesta, G. Who Is there? Finding the Other in the Self , 2007, pp.42-45. (18) ビースタ(上野正道監訳)『教えることの再 発見』東京大学出版会、2018年(Biesta, G. , New York: Routledge, 2017)。
(19) Shusterman, R. Self-Knowledge and Its Discontents, , 2007, pp.25-37.
(20) ., pp.27-28. (21) ., p.31. (22) ., pp.33-35.
(23) Biesta, Who Is there? Finding the Other in the Self , ., p.43. (24) ., pp.43-44. (25) ., pp.43-44. (26) ., p.44. (27) Shusterman, ., pp.86-87.(『プラグマティズムと哲学の実践』、 前掲書、136-137頁。)
(28) Arnold, P. A. Somaesthetics, Education, and the Art of Dance
, 29(1), 2005, pp.48-64. (29) Arnold, P. A. London: Heineman, 1979. (30) Shusterman, R. , sec-ond edition, .
(31) Arnold, Somaesthetics, Education, and the Art of Dance, ., p.48. (32) ., p.49. (33) ., p.52. (34) ., p.54. (35) ., p.53. (36) Shusterman, R.
Cambridge: Cambridge University Press, 2008. (37) ( 9(1), 2010) における七人の音楽教 育学者のコメント論文は、以下の通りである (シュスターマンの言及順)。 Hahn, T. -maesthetics̶emerging shapes, pp.27-30.
Maus, F. E. Somaesthetics of Music, pp.9-25.
Lamb, R. Mind the Gap! pp.46-54.
Powell, K. Somaesthetic Training, Aesthet-ics, EthAesthet-ics, and the Politics of Diff erence in Richard Shusterman s
pp.75-91.
Holgersen, S-E. Body Consciousness and Somaesthetics in Music Education, pp.32-44.
Jordan, J. S. Shusterman, Merleau-Ponty, and Dewey: The Role of Pragmatism in the Conversation of Embodiment, pp.68-73. Määtänen, P. Shusterman on Somatic Expe-rience, pp.56-66.
(38) Shusterman, R. Body Consciousness and Music: Variations on Some Themes,
, 9(1), 2010, pp.93-114. (39) ., p.102. (40) ., pp.103-104. (41) ., pp.104-105. (42) ., p.108. (43) 樋口聡ほか『教育における身体知研究序説』 創文企画、2017年。
(44) Johnston, J. S. Refl ections on Richard Shus-terman s Dewey
, 38(4), 2004, pp.99-108.
(45) Shusterman, R. Complexities of Aesthetic Experience: Response to Johnston
, 38(4), 2004, pp.109-112.
(46) Johnston, ., p.101. (47) ., p.107.
(48) Shusterman, Complexities of Aesthetic Ex-perience: Response to Johnston ., p.109-110.
(49) Jay, M. Somaesthetics and Democracy: Dewey and Contemporary Art,
, 36(4), 2002, pp.55-69.