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表 4‑ 6‑ 5 鉄 山関係語運上銀
年 代 藷 逆 上 銀 年 代 諸 運 上 銀
(,j頂rj鍛 冶運上) 6 5 9 2日
元一文元 (1756) 7 0 0日 7 6 9 2日
2 1見 4 0 0B 8 8 9 2日
5 ′′ (炭焼運 上 ) 安 水元 (1772)
4 7 00日 120日 2 (舟 ,亜 冶遡上 )
5 ′′ さ 8 9 2日 9 0日
寛保元 (1741) 5 58日 ′′ 4 9 12El 90.5 0日
2 70 0日 5 ′′ 〟
5 7 58日 A ′′ ′′
延草元 (1744) 7 ′′ ′′
2 18 ′′ ′′
5 9 ′′ ′′
4 天明元 ('1781) ′′ ′′
寛延 元 (1748) 1耳 8 8 0日 2 ′′ ′′
2 3 ′′ ′′
5 q ′′ ′′
宝暦 元 (1751) 5 9 15日
2 占 〟 2 5 0日
5 7 8 9 0
.
25日 ′′4 8 ′′ ′′
5 平取元 (1789) ′′ ′′
占 2 8 9 1.2 0日 ′′
7 5 ′′ ′′
8 8d目 4 ′′ 8 0日
9 ′′ 5 8 9 5.15日 ′′
10 ′′ 占 ′′
ll ′′ 7 ′′
12 (鍛 冶運1 ) 8
15 8dE] 9 8 0日
明和元 (1764) 8 8日 10 ′′
2 ′′ I.1 (釘鍛 冶 ) ′′
5 ′′ 12 9 0 0日 8 0.5 0日
4 ′′ 草和元 (ー80ー)
年 代 芳書‑ 避 上 銀 牢 代 諸 運 上 銀
5 8 1.08日 占.5 0日 8 1貫 550B
文化元 (1804) 9 ′′
2 (鰍地 .鍛冶冥加銀 ) 10 ′′
5 8 2.0 0日 ll ′′ (御林下刈)
4
′ ′
12 ′′ 15.20日5
ノ
15 ′′ ′′′′占 14
′ ′ ′ ′
7 弘化元 (1844)
8 2 1耳 550日 1 5▲2 0日
9 5
10 4 1貫550日
ll 嘉 永元 (1848)
12 2 1其 55D自 1 0.0 0日
15 5 ′′ ′′
14 4 ′′ 2 0.0 0日 (小割鉄銀治)
文政元 (18ー8) 5 ′′
′ ′
6 5.0 0日2 占 ′′ 10̲0 0日 ′′
5 i 安改元 (ー854) ′′ ′′ ′′
4 2, ′ノ ′′ ′′
5 (鉄山節 操 ) 5 ′′ ′′
′ ′
6 1耳 目 4 ′′ ′′
7
′ ′
5 ′′ ′′8
′ ′
6 ′ノ ′′9 ′′ 万硬元 (18占0) 〟' 5 5.0 0日 ′′
10 ′′ 文久元 (1861) ′ノ ′′
ll ′′ 2 ′′ ′′
12 ′′
天保元 (1850) ′′ 明治2 (1869) 永 1文 800文
2 L史料 〕 各 年代の 「免定」 に よb作 成
5 I 2耳 目
4 (三船 家 文苗 )
5 1nr目
占 7
襲 4‑ 61 6 鉄 山 柴 地 銀 (切札 )
l
紫 地 銀 内 訳
遇 上 皇摘 禁 詫 鉄保 頭 拾山 大 庄 尾仕 切 米 庄屋仕切米中 庄 屋 天保5 (1854)毎 1耳 7dd匁 1占 11‡ 51匁 545 540l 匁5 92匁 日 5匁 占9匁 天保占 (1855)辛 5才 720匁 16
り
7 51匁 545 540匁5 H d匁 145匁 87匁 天保7 (1856)牢̲ 21
‡845匁 5 1rt575ql96 454匁 202匁dd 255匁 155匁天保8 (1857)牢 2rr845匁 5 1才 571旬 9占 454匁 144匁 180匁 108匁 天保9 (1858)辛 2貨 845匁 5 T甘 569旬 9 454匁 ー75匁55
(荏) 紫地銀の 内訳は主賓 な項 目だけを記載 したo
史料 :「天保 10亥年 去伐 牢上斎原村鉄 山乗地料割 合帳 」
「天保10亥 年 上寿原村鉄 山柴地引差引算 用帳
」
「安政2年 鉄山柴地掛 6ケ村 ′ト日成歌詞帳」
(三船続 昌氏所蔵 文苛 )
次
に.鉄山菜 と村方 との関係 をみ てゆ くことに よって.鉄山其の上清原村ひい ては中国山脈 山間部将紳農村地域 における存在悪感に つい̲て考察 す る。「御領分西 々東部上斎原村外拾三 ケ和之俵古来 古典貴之余 力鉄砂収相棟罷在候, (中略 ) 右穣 相止 メ罷在候吐.津村 々之俵老優 山中夏作‑毛取之村方 二而例 年麦作背一向生立不 申冬春之韓無Z. 当分雑 木生茂 り猪鹿等 移敷相住居 日夜作 物 灸荒候碍共.通船者勿輪筏等相流涙 土地 二無之逆送慈倣故右雑木伐出候儀 も 不相叶鉄抄取 相穣候外数万康之処.右稼相止 メ候 而追 々及難渋. 御 牢貫 御納所
も差 支候様成行必至 二差話髄喪候, (中略 ) 大成御 国益 こ も有之韻殊 二相当 之手当収斗相稼,当又遥 々山方 帽盛儀得我隣 々一 円之潤 二相成候塙 二付.
(以 F略 )」 (注5 2 )
上記の史料 か らもこの地方は.気候カニ咋舟 であるため麦 作の で きない貨作‑毛作の戯 村 であ 9.度民生活の維持 ・牢‑貢皆済の意味 にか Vlて も鉄 山
某
に付随 す る砂鉄採取は.ガ生民の冬春R5 間接 として重 要な役割 を果たす もの であ t). 「右楳 二付 而老山内‑ 入込稼方仕候処 も不少・鉄 砂 鉄鉄其外諸荷物述送之駄甥梓等 二両 年分多分之似通 二相成御替 二而社有相綻簡在候」 (荏55)とあるよ う(,C.この地方の村方曲民は山内労働者 として鉄 山英 に従歩す る とか,砂鉄 ・ 銑 ・鉄な どの諸荷物逆送の駄賃稜 が確守な農閑津 であった ようであるO また 史料 上 では確認 で
きなtJlれ 鍛 冶葛岡の 」、炭焼 も農 民の息何棟 に相当の比重 を占めていた もの と懲悌 され る0
‑155‑
,{‑.■l<▲蒼・14■けl■tヽ‑・1.帆‑ー・ヽ▲1PLtJTtまで■「,サー呈て・.
湖明通 先妻一・・1 l川甘叩iP‑1・t1.‑呈1l一一 †JHrぺけ一月ノt一丁一t4・̲1.tl一<<ー一・一、.■llT方J‑.Jt.号L▲il▲・・・.‑I一,/・.■‑‑・‑〜̲Jゝ一・一・1・ー一・圭TJ■姑八.1†‑・+一l一f一小1・q一・lr/・tlttlF.14爪.刑.管‑■妻..Jr▲上「■'
写真41 61 15 速郷 冶屋議定詮文 天明9 ( 1789 )辛 (上帝原村 三船就 昌氏所蔵 )
前掲の史料中の 山子人数 で
の
「口見方埼^ J も村方労働者 と推察 され,雇用方法 も 「村方 占山 内江入込脊 いた し候肴 山内抱人並 二御作廻可葡 成償却
」 (荘 5 4)と記峨 され ている ようVC.村方農民の山内労働者への屈 網の適は開 け支帝 が起 きなvlよ う取 図られているO莫際の駄笥稜 と戯民の各人特高 との関係払 「串 5牽 2(1)附屑榊成」の項 目での分析結果 を参照 したい。 こ こで帖鉄穴場 での人歩罰 を 「人噺山・丑 ケ谷品 々送 り
帳
」 (荘 5 5)に よってみる と.「人形イ山鉄穴井手渡 し幻
金十 邸常用旬 写 し 一 四井五首弐親 日 人歩 九百輸 入培」
とあ b.1人の人歩貸 5匁 とな るO また,駄賃の支 払方法とL 「‑ 駄賃銭払 出 ン之鶴四 月七 月九月十二 月四切 二御払可被成
陰部
.I
(注5 ム )とある ように 4期に分けて支払 っている。次仏 向井義郎氏 が 「多敬 の専属労働者 と家族 を抱えた山内 で蛙多丑 の飯米 を必要 とした.
給与 も男親の他, 莱.昧噂簿 で支給 し墳米 も行な った し.村方の労
的
vc対す る給 付 も米を もっ てする聾が多かったo鉄師 把 とb米の確保は経営上欠 くflJの で きぬ前撞条件 であ る. (中略 ) 帯 が鉄山美保適 の立場 か ら租米 を城下に送 る代Dに
, これを層按付近の山内‑ふ b向け 盲せ時 価vc換丑 して朝納 させる為替米の制度壮一般 に行なわれた対紫の一 つであ去。 これに よれば租 米ig塊 の負超 も省かれ山間部の惑米 も吐かせ られて銀 が入 る とい う一挙両得 の方法 である」(江 5 7 )と説明す る為替米の制度 忙ついて検討 す るQ史料 VC払 「桐 軍貫之儀敏十 年乗御銀 札場御仕入鉄山銀 治恩等 々為替米相渡当卸統御切苧受取之,右 を以御牢貢米銀共相納采鹿
(以 下略 )」 (注5 8 ). 「一・為替米之鳳 御津米珊L馳合二而村 々割呪被仰出 侠上 者増滅之 俵聯 申上
関
褒群山
○之俵沸而 相心得確在候軌 但ソ協 米之儀速近 二寄御定可硬下儀 旨鹿又御連 背 申J:闇鋪候宮
」 (荘 5 9 )とあ9.上兼風 村勧牢貫 米銀 を各鉄山に鉄 山労働者の凄米 として 山内 ま:P納入 し.御蔵御切 手を受唄 って卒青 米銀皆済の療忙 しているQ天保〜座長 牢間
に為替 米 として各鉄 山忙軌 大 した石高の郷 と.上帯原村取米 倉石商に
占める為者米の割 合は讃 4 ‑ 5 ‑ 7に示 した。 また,為番米 の納入方続kt.
「弘化 四 年 鉄11偽 替御米車相場
」 (注40)
‑156‑
忙よる と.
r束御廻米
三 分 十 月什日限
十月析R∫
四 分 十一月十 日限 三分 十一月廿 日限 二納限
十一 月廿‑ 日歩 十二 月十 日
限b
但一御本領中為倍僻有 之村方着工納限 一同可相納,且又来 申年 先銀之内高青 石二付壱分八度懸
T )
LIT
相納串」であ 9. 年貢米 を10月1日か ら20日ま でに 王口車.I 1月10日 までlて 4 0
年.
1 1月20 日 までVC5 0帝と納入期限 ・納入冊 が規定 きれ てい も。 しか し,
「御蔵 御切手 可受取練 り之受取 背教呉不 *.夫放 御上納差支迷惑 至施仕.蔚 早此上相硬候而老 日延御改 申上方 も無御座.盃 々轟 恐 入一同心配仕儀 得次数 方無御唖侯間.息 々例 年之通 為替米鉄 山方受取呉候様乍恐御銀札場 ‑初 仰過被為 下準備 ‑‑.村 々御初納銀 御皆済仕 珪肴仕台車春風 (以 下略 )」(注4 1)とあるように鉄山方か村方の軍貰米 である為替米 を受取 らないため.村方の年貢皆済 がで きず難渋 してい る状態 も起 ってお・9. この境野智か らもわカ・る よ うに為替米制度壮村方 に とって軍貢収納 方法 と していかtA=重賓 な もの でも 9. さらに 「商々粂郡上帝 原村明細番̲上帳
」
(荘 4 2 )の中に. 「 ‑
当村 御牢斉米締出 ソ場所当御城 下江付 出 し申.駄賃 入用之義 米膏石二付拾壱匁位 も相懸 少下地困 窮之百姓至極迷惑仕
像
」とあ わ,津山城 下 号で 8盟の舶
な山越え を伴 う羊斉米のi嫌 ・と米1石あた b駄項 目 匁の負担 も省かれ る とい う利点 を もつ もの であったO
ー157‑
写永 4‑ 占‑ 14 鉄 山為替御米 小附帳 薪水 2 ( 18 4 9 )牢
(三輪横 島氏所蔵 )
表.4‑ 6 1‑7 為 替 米
年 代 為替米石高 納 合作占め る箪 依 拠 史 科 名
天保 2 (1851)早 182.586 (*) 「鉄山為替米頭取通等帳 」 (三船家文雷 ) 天保 3 (1852)早 178一04 108,28 「鉄山為替 米御通等帳
」
( I ′′ ) 天保 10(1ti59)軍 85.195 109.56 「御鉄山為桝 写 シ.ト前帳」 ( 、′′ )天保 15 (1842)窄 66.dd 82.71 「鉄山為替 御米 小附帳」 ( ′′ )
天保14 (1845)竿 ム7.65 82.58 「鉄山為替 御米 ′ト附帳」 ( ′′ )
天 保 15 (1844)fF ム5.195 「鉄山為蓉 御米 ′」、附晩 ー1 ( ′′ )
弘化 2 (1845)牢 59,51 72.ム4 「鉄 山為替御米 .」、附帳」 ( ′′ )
弘化 5 (1846)牢 60.225 「鉄山為替御米 小附帳」 ( ′′ )
弘化 4 (1847)串 62.57 64.26 「鉄 山為替御米 小附帳」 ( ′′ )
嘉 永 4 (1851)牢 5G.57 69.05 「音 路山為せ 御米請取党帳 ー ( ′′ )
凝 永 5 (1852)牢 ムま855 79.89 「中酔河LLJ為替御米許取頓」 ( 〟 )
為 永 d (1855)軍 78.125 87.75 「鉄 山為替 御米語取帳」 ( ′′ )
安政 2 (1855)早 80.52 「増金山為替 御米 .J、附峠」 ( ′′ )
安政 5 (185占)牢 45,56 47.52 「為替御米 納附 留帳 」 ( 〟 ) 文久 5 (18占5)午 85,14 「代茂山為替米通写井 二′ト前へ割賦附 留帳 」
慶応
5 (1867)牢 45.D4 95:86 「人形仙鉄穴帳写J
(田淵家文脊 ) (注 ) 上表中の 納 会 に 占 め る峯 の数 字 は ,為替米 石福がその 年の皆済日
銀中の糾合の米納 VC占 め る削 合 を示 した もの で ある。
最後 に上斎 原村 をは じめ,山間地帯 での独特 な山地 産業の 1つ である木地挽典 と鉄 山黄 との 関連 について考察す ると. この雨産革の共通点け木地挽薬 では材料が木材 であり.鉄 山某 では 燃料原が木庚 であと). ともに木材 の供給 が必要 であった とい うこ とである。そ こで山林確保 杏 め ぐって,上斎原村 と羽Hj村の入会地 での鉄 山共著 と木地挽共著の間で訴訟問題が発生 してい る。
「御当地確実尾俵七郎轟.右所古屋二両鉄 山相立 申鹿村方相散 布之懐 こ札 (中嶋 ) 右 折吉尾山不残伐私 儀而‑木地職不相環 ‑相成僚間. 右山内生木 之内砺 木,三 づめ軌 ぶなの木三品者相残 し木地 職方 ‑伐取可 申
候.
Jt外之禾不残鉄山方 へ伐取可 申候 申定二両内済 仕離在風 (以 下略 )」 (荘 4 5 )
この史料 で仇 木地塊共 著が臨 みづめ桜,ぷ なの 5木の伐採 慨を得 るこ と(,Eよって内済 し
‑158‑
ているが,その後鉄山傑人確実屋俵七郎 が,それでは鉄山稼 vc支障 が あb難渋す るとい うこと で訴訟 を起 している。当地の鉄 山軽骨形 態か ら して,鉄 山菜 を藩が強 力に保護 ・援助 す るため 木地挽薬は鉄山
薬
vc圧迫 され 徐 々VC木地挽綬行地域 を制限 され 「木地職稼 キ相続 相成不 軌 (中略 ) 無拠 住馴候土地粥散 仕候様 相威儀
」 (注4 4)とい う状況 忙追 い込 まれてい った よ うである。(,う 鉄 山労働者の性格
ここでは.近世後期の鉄山労働者 の性格 (,tつVlで考察 す る.史料 の年代は不明 であるが.秩 山倭人が稲葉屋儀七郎.鉄山名が代続山 であるこ とか ら天保〜弘化 年間の もの と推定 で き. こ の史料は鉄山労働部 D性格 ・特徴 を明確 に示 す もの である。全 文を引用す るO
l'‑.‑・‑‑
「
/F恐以甘付奉 申上侯津山御領所作州西 々条郡 上寿原村牧山穣 人津山町稲実屋蛮七郎穣場代続 山下 代与惣治.同村木路山香右衛門番 申上席,鉄 山拍之者素姓之養老私共召仕候 も の何職 二不審雇人候義乱 七 月十二月弐李 を出番 と相定 申候.右切 合二他 山
妄
召抱呉 慶由申出候節者.共著之菜姓添合拝先給貸銀何程袋渡呉鹿段申出候趣能 々相尋候 t.共著元相動居候鉄 山穣 入江 当方 石引合仕候碍者,切 合出啓 二付雇 人候而 も故障無之候段 申容儀御者甚潮先給 傍 喪ソ人別 引越候節.井 目背附差出 候間右之背屈入候振 合 二御座候.石轟中上侯鉄 山鋤仕候 もの老中国八 ヶ国之内 数 年来鉄山働而己仕候者故何国何村之 住人 と申訳者無御座候,尤数年来召抱実 敗 正路見定候 もの者鉄山傑 人家内 人利江加江候様之 もの も聞 々御座風 戎者幼 少 二而親 二離 し候様之 もの,稼人子伺仕職分為 習候 もの も御座飽 又者他山
古
風与 参 i)何之織仕候者召仕県債様朝 出侯へ者.某省之出所碍与承 合口 入人有之 侯得者,当分抱候様之者 自然与相煩 性轟等持致賛銀等 相満候姿之○ 身者,風与 欠落仕候族有之早速相藩 侯待井行術 相知不 申心得連之 もの間 々御確候 二付,私 共稼方差支迷惑仕候 二付隣 山之鉄山師一同馴合相談仕照候間,右馴 合之鉄 山‑
i血 参 ・)足留仕居候節者其 山へ尋 参 り揖軒者早速相渡呉候様 二相 互約定 仕罷在候.
右之段乍恐以苛付奉 申上候以上, 午八月
津山御子貞所
作州両 々条郡上斎原相
鉄山 師津 山町轟七郎穣場 丁 字代続 山支配 人
与 惣 冶
同村 未踏山 源 兵衛
‑159‑
車右衛門 倉 敦
御役所
前事之通 中上候二村奥 野印形仕奉差上候所以上 ヽ 右村庄屋
茂 平」 (荘 4 5 ) 上記の史料仇 代続 山支配 人与惣治 と木路山帝 石軒 弓が 「鉄 山抱之者」について倉敷御役所
‑報告 した もの である. この内客 を分析す ると,鉄山労働者の欠構禰充 ・人音 の時 期 を7月 と 1 2月の2筆 と企め てい る。 これは鉄 山車専 門労触者の欠席 ・引抜争い を防止 す るため移動 を 規制するもの であ 9. この人昔時糊外 に懇意に. あるいは労働者 が移動 を願 い出 で も鉄山支配 人が認めないために逃亡す るとい う世態がか こ 少.作美 に支障を来たす こ とにな る
。
「相渡 申 Lh子絹戒転公許
」 (托 4 占 )では.
「私戎去JL,弐拾菅 ケ年以前成年 (文政九 年)
小泉山御津 中 日け 之義約仇 (̲中略 ) 翌 年亥二 月途中之術 願出候所切中之参政御 喝届無御座 匝縛央 (臥 下略 )J
とあ れ 朋蔵は備 中国古屋鉄山 とい う所‑山子 として逃 亡 してい るO また.雇人の際 忙比 津姓 を調査 し以前の鉄山雇傭主 にい くら倍銀 があるか尋ね て,雇 入れる場 合はそれを弁 済す るためにその労 働者 に先給費銀 を行なってい るO これ紘一
「労働者は名取種共 多額の前貸 銀 を うけ ている点に特 色があ b,これ を以後の拾償銀 か ら差 引返済 する越 前 であったが.実際 拭栄進の上に次 々と所貸が重 なってゆ き借金奴隷的状態VCかかれていたの であって,結局は欠 落す るか腕の よい者は他の条件の よL^鉄 山‑移 って侶銀 を弁汚 して第 5とい う手段 に訴 え ざるを得なかったの である
O」(
江 4 7 )と向井氏が指摘す る点 であるO次
に.
鉄 山労御者は従来 「諸方か らの あぶれ竜
」的 とらえ方 が一般的 である那. ここで紘一 (I )
r'解 路見定候 もの各 鉄山鞍人家内人別江加江候様之 もOJ
(2)「幼少 こ両親 二離 し候 梯之 もの.襟 八子飼仕職分為 習催 もの」
(3)「他 J,Jも乳与 参 b伺之畷仕儀竜召 仕県債横顔出俵」者 などの鉄 山労働者の出 自が 明確 LC史料 に記載 首れてい るO ‑iた. 愚人 について村方 との誠定 むVT・d
・
ト 抱人の繊御勝子 次卸 町万 古成井御拍可被威儀
」 (江 48)とあ り・鉄山労働者 の腐蝕
に関 しては鉄LLl方 rL一任 され ていた ようで あるOでは,山内労 働者 の職
種
につい てみ ると.鉄 山独碑 の労働組織 が展開 され 領においては職 長郎 あた轟や
? その下噸 額 .炭焚 .雑役 に従 折 る山子 を棚 .鮒 す る山配 備 を踏 む葡子 ,鍛冶屋紬 い ては碑長格の大工 をは じ長 芋,)吹差.幸子 な どが ある.現在 で も上帝 原村遠藤 でIji.村下.釜本.手楓 加 治な どの姓 が多 く鉄 山弟の面影 を今 に表す もの である。この中で村下 ・炭坂 ・山配 ・大工 ・左 下な どは専門的技術労働者 であ り
. .
「村下 ・大工以 下の 技術労働者は, 代 々の専業的鉄 山労働者が多 く.基本的pcはその内部 にかいて再生産 される も の と考 え られ る. (中略 ) 和 下に舟いて紘そ の有す る技術 (秘法的 製鉄技術 )の性格か らし て職欄の世‑Q的性格は特 に著 しいJ (荘 49)といわれる性格の鉄山労働者 につV'て, 小野武‑1d0‑
。l
成 幸 L A
・ヰ ・掛 軸
Tか 60'■ 赫 ぺ棚
倉叶洲 ポ叫 L
・ ‑ ' l 軒 叫 中 嶋碑 告や・ & 鴫 嶋
岬 貞嶋 也か柵 l 『 再r 哲恐 岬 噸 ヰ 坤 叫十
一叫もせ叩 嶋や 血. ■
}蕗 : ・I ‑ ‑ ・ +鵬 いせ心
E =i=
エ コ =昆
【 空 E t
尊 宅‑ 1b1‑
(海1R封印世事川を軽便T.)
鵜に駄寧T忠勝と栂Tv翫j/:‑9‑寸y,抑
夫氏は 「山内者は一般 首姓 よbも井の身分低 Lとせ られた.随 て一般の百姓は山内者 と婚 を通 ぜず.山内者 同士に於 て結婚す るのを常例 とした」 (注50)また. 「山内はいわば一種の カ ース トの どとく地下に対 して門戸 を閉 ざ し, また地下の鼻 民 も爽質 的には吸菜の相連 か ら くる 一種の人種的偏見の こ ときもの を もってこれに対 している̲i(注5 1)との見解 を述 べ られ 山内vCおけ る内婚 制 ・世製 制の率が大 であることは.特殊 な山内組織 と山内労働者の特性 を示 す もの と考 え られる。
さらに曹子 ・LLJ子な どの非技術労働者について吐.前掲 の丑 ケ谷鉄 山規模の史料 中の山子人 数 で.扶持 人V'わゆる山内専属労 勝者占 4人に対 し. 日屑 としての村方労働者が5 0人 とV・う 高い比蜜 を示 してお D
,
「‑ 村方 占山内江 入込穣 いた し候者,山内抱人並 二御作廻可被成候臥
」(注5 2 )とある ように・鉄山英の労 働供給源 として村方良民労働者 を諸 々の駄懲襟 をし てのみに捉 えるの ではな く. 山内非技術労 働者 として も評価すべ きであると考 え られ る。最後に,上記の史料 の末部 忙み られ る鉄山労働者の欠落 .逃亡Vr.関 して近隣の鉄 ILJ橡^間VC 横の連絡網 .連帯が徹底 してい るのは注 目VC値 す る もの であるo
( =
) 鉄 の流通 と連取との地方の流通路については
,r
岡山の交通J に
「上斎原方面の荷札 奥津 ・事 々央 中T,罵 継 ぎして津山‑の道 をた どっ‑たが途中 で泉 山中腹か ら盲J
LLを越 えなければな らなか った」 とあ b.地図VC示 す道が近世にかけ る主賓な鉄の流通路 であった ようであるo せた,上斎原 も陰陽 交通路の中継 地であ̲D.文政d ( 18 25 )牢には鉄 山緒荷物持送 の継立間屋認可 をめ ぐって.上帝原村庄屋茂兵衛 と伝市が嘆願 を行な っている。
しか し
,
「為取替一札之i J
(住 5・5 )VC払「‑ 伯州倉吉話荷物之範へ 従往古着 々美谷筋‑送 り出於 中村継来候 二村久 田 筋‑ 年中差送
D
候 儀‑相止 メ町 中候.尤冬春大雪 二両石 谷峠人馬通路差留b
候節者奥津村 々留置候而者,荷主井旅人難儀之筋 二付久 田脊髄差通 し可 申.
且近 々ち出荷物の義 ‑荷主任勝 手伺連江成典差 出候定
l
とあ b.従来は倉吉 ‑上斎原 一奥津 ‑百ALL一番 々黄 中村 一軌 LIが主賓通路 であるが.首山 大g・
の冬春期 間は. 奥津 ‑久田下原 一津山の通路 も利用 された ことがわか 9. 「久田谷筋杉村之内 攻手 小原分政‑」 とい う者が新規問屋 に定め られ てV'る。
次作史料 でわかる砂鉄 ・銑鉄 ・・J\割鉄の価格 をみると.発保2 ( 17 42 )牢の古川村 生産 汁右術門の鉄山薬VE関 す る報告啓 「鉄‑切開 合七大概覚替」の中VCQi.
「‑ ′J、鉄 三十 F 目 此代三匁
‑ 鉄 小利弐拾八貫 目 壱駄 此代入拾匁 也
‑ づ く≡拾 貫 目 宅駄 此代四拾五匁 也
」
であ b砂鉄50耳を5匁 小利鉄 1駄 を8 0匁 銑1敵 を4 5匁 で売却 してい るo また
,
「受‑142‑
■
/
′lヽ .
/⁚ノ
院庄
図‑ 4‑ a‑ 7 鉄の 流通路
取 音の
琳」 (
任 54)では.「一 式 首四倍駄 此代Vrq百 /L拾匁 一 百弐拾駄
同弐 百四拾匁 一 百三拾 五駄
写 真4‑ 6‑ 16 受取 帝之 額 文 久‑/‑C(1861)牢 (上兼原村 三船続昌氏所蔵 )
五兵術
文長 軸
徳左
i l l 門
奥載 同弐 百七拾匁
右 者川鉄 抄 代内受取 沓葡 之通
9
道 三受取 申陳.為 後 日之受取 讃美 人中候 処 如件文久元
御 庄屋 茂兵衛横
上帝原 村 五 兵衛 文兵 衛 徳左衛 門 奥 戒
であ
b.
砂鉄 が1駄2匁 で受取 られ てい る。屯
l呆2牢 と文久元 年 との間に!,l l 2 0年近 くの隔 りが あるが. 砂鉄 1駄 (約5
0L.f目 )は2‑ 5匁 で虎 只 され てお り一砂鉄 の値 段 は固定 的 であ‑‑165一・・
った ようである。
また.鉄山薬関係の諸荷物の運搬賃は.
「 上斎原江付込又 ‑付送 b荷
‑
小判弐東 才原 占奥津迄 八拾 文 た ちん屋敷共 '‑ 銑弐束 才原 占奥津迄九拾六文 同塵放火
‑ ≡拾弐1'fめ 追かけ荷物 内積敷迄 首四文 屋敷共
(以 下略 ) 了 (江 5 5 )
「一 山 ろ出荷物入/'・?物共才 原 占遠藤迄菅駄 二付武官 文.小別F芭束 ‑付九捨文.
米宅俵 二村 九拾叉定 メ申
展
」 (荘 5占 )この2史料 しか残存せず.輸送 地点 も異な 9比戟検討 が不可能 であるが,後者の天明9(寛政 元 )年の史料 中にみ られ るよう
に.
小判鉄1束 が米 1億の輪送 相場 であ った と考 え られるo(荘 1 ) r日本科学古典全番 第1 0
巷
」所 収(法 2 ) 武 井 博 明 若 「近 世 如 鉄 史
輸
jp 8 7を参考 に した (托 5 ) 砕鉄鉱 を主成 分 とす る(荘 4 ) 赤鉄鉱 を主成分 とす る
(江 5 ) 『日本連繋史大系7 中屋四包地方符J所 収
(注 占 ) 文政占 ( 18 2 5 )年 上青 原村 馴 討仁.也夫氏所成文苛 (注 7 ) 文政8 ( 18 25 )牢 同上
(注 8 ) 突 針 弁に
よ
b井出 した数字は14石1斗9升4合である (注 9 ) 芙計.#VC上り算 出 した数字は2 1石ム斗1升8合である (庄 10 ) 文政8 ( 18 25)牢 上斎原村 田淵仁也夫氏所載文替(荏 ll ) 「東塔 な し」 年代不明 同上
(荘 12 ) (注 目 )に同 じ
(注 15) 「書 上申一札 之串」宝永元 ( 1 7 04 )牢 矢吹家所蔵文苛 (注14 ) 「砂鉄採取英之銭 こ付臥 j明治2 1年 田淵亡屯夫氏所成文 昏
(注15 ) 上斎原村役場所載
(tEld ) 田淵仁屯夫氏所蔵文‑C
(注17 ) 文政5 ( 18 2 0 )年 田淵仁亀夫氏所載文番
‑164‑
(注18 ) 嘉永2 ( 18 49 )牢 田淵仁QL夫氏所載文嘗 (注19 ) 嘉永元 (18 4 8)牢 同上
(在 20) 嘉永元年 同上
(注21 ) 文政6年 同上
(注 22) 「議 定香之歩」天保14 ( 18 4 5)牢 田淵仁 也夫 氏所蔵文脊 (注 25) 藤沢晋若 F岡山の交通J 岡山文圧 4 7 昭和4 7年
(注24 ) 蒐保2 ( 17 4 2 )平 矢吹家所載文辞 F山中一校調査 史料j所収 (注 25) (注 2 4 )に同 じ
(荘 26) 「乍恐以碑付華厳 上
候
」文久元 (1 8 61)牢 田淵仁他夫氏所蔵文砺 (注27) 「奉差上御宗定之 」座 応 4 ( 18 占8 )牢 三船続 昌氏所蔵文事 (江 28 ) 宗森英之兼 「村方地主制 と鉄 山埋骨」
F岡山史学J所収(注29 ) 「発」文政 8年 皿淵仁佃夫氏所
紀文 苛
(注50 ) 粛永2年 同上
(注51 ) 天明9 ( 1 78 9 )牢 三船続昌氏所載文官
(注52 ) 「再熱談議定帝之
串
」文政5牢 田油仁 亀夫氏所敏文帝 (注 55) 「乍恐以 井付車願 上候」文久元 帯 同̲E (EE54) 「連番源治馬糞定之 鼻」天明9串 三崎が ,f師 戒文滞 (注55 ) 座応4年 田淵仁伯東氏所鼓せ .午(注id ) (荘5 4)VC同 じ
(荘 57 ) (法 5)中の 「中国山脈 の鉄」所収 (注58 ) 牢不詳 三船続 昌氏所戒文&
(注59 ) 博 差 上御議定市之 東」慶応4年 三船成 昌氏所蔵文香 (注40 ) 三船続昌氏所蔵文苛
(庄 41) 「乍恐以Tf付華Gt̲候」 牢不凍 三船続昌氏所蔵文再 (荘 42 ) 天保9 ( 185 8 )牢 皿淵「 屯夫氏所蔵文番
(注45 ) 「乍恐御着 串中上倹 弔」文政5牢 田淵仁亀夫氏所蔵文甘 (荘 44 ) (荏 45)と同 じ
(注45 ) 三船綻昌氏所蔵文Iir
(荘 46 ) 弘 化5 ( 18 4d )牢 三船援rEa氏所 鷲文替l (任 47 ) (注5 7 )に同 じ
(注48 ) (注5 4)に同 L'
(注49 ) F近世製鉄 史
輪J
P1 6 4を巷考托 した (荘 50) r近性製鉄 史論J P T57に所収 (荘 51) (注5 0)
に同 じ【 (注 52) (注5 4 )に同 じ
(荘 55) 牢不詳 三船続 昌氏所蔵文耳 l
(注54 ) 文久元 年 同上
(注 55) 「党」元文5 ( 175 8)牢
三船
綻晶氏所蔵支帯P は 56' (注5 4 '絹 じ (・ 田 村 啓 介 )
( 2
) 木 地師の生活 一亦和瀬部落 を中心 として一木也師 とは .中世東胡頃か ら各地の山間において准庁や,手挽椀磯 を用 いた盆 夜どの剖物細=を LてVl た特殊功業集団のことである。
この 上斎原村LR:も中 性末期頃には赤 和瀬部落を中心 と Lて木地師の集団が生活 Lていた ことは ,級 述す るところで あるO以下赤和瀬部 落 を中心 に木 地師の生活につい て調べ てみ た。
(1)木地師 統制につい て 木地師はその根源 地 ‑/d・現在の滋/J貫鵜愛 知
郡朝
/J、掠村 と伝え られている。 ここは 肢等が威祖 と仰 ぐ小 野宮惟布 親王の所 額 であ り.この 由緒i/E よ り諸 楓 を日由 1,て従来 Lて木地職渡 轍 す る動 免 を禍たので
ある。い わゆる 「木 地崖文、咋」と称す る
「研縁起 」や,蔑 多の論 旨tlLJがそtl・であるo
Lか しこれ らはいずれ も 後 世の偽作とす るのが美 東の よ うである。赤 和傾 部落では ,現在 「御縁超」
「免許 状」
,
「藻門弔rZjJ「紙雛 印鑑」が 小椋貞一 氏所乾で残 されているo Lか L近世にfTL,この 由緒 に よって この他の杜 が ひろ く諸 国の木地聴 を 統指 して彼 らを氏子 と し て戸瀬を あっかい ,‑'iE の奉仕に も従事 させ るか わ 少に .彼 らの首禁 令・保
軍兵 4‑ 6‑ 17
写実 4‑ 6‑ 18
‑1(id‑
「御縁超」
木地師の Fb紺番 である 赤和瀬 ′J、椋兵一氏所蔵
ii̲
iI
」形錐
状手印許門脱「R頂慨(同氏所蔵 )
「御縁起」
証 していた ことは事実 で ある。 Lか しこの 地 では本 源 と称する杜が 2カ所 あ り,諸 国の 木地師 統制 Iを め ぐって,この2カ所の社 す fEわちIUI村蜂谷 の 鯨♯八幡宮 と君 ケ畑 の 大畠大 明神の樹には たがvlt,こ勢 力の 消長 が あ った ようで ある。 明和 4年( 17 6 7 )両 者が 大皇大明神石・木 地師祖先 ,筒井八幡 を雌
】 軸師範守 と して一応妥結 し,籍 国の木地椴を 分割支 配す ると とと Lてい る。
赤和瀕 部落 に城 され てい る 「御縁起
」
には 筒井 八繍宮の名が 記されてい るが , この赤祁戚の木地師 奥 田が筒井 八幡 宮の統制のみ 受け た とい うこ と忙つVlで.i ̲まだ巌 同点 が あ り.両方の 社か ら何 らか の影轡 を受け たの では ないか と考 え るのが妥当で あろ うOいず11・忙 Lて も木地師(・1,‑ 亡iの料金 を太 山の方へ 支払い ,それ と引 きかえ に免許状 ,御縁 起 ,g, 宗 門手形 ,往来 手形 など彼 らの職席 上の鞍栖
糾
醍 す る もQ:,を もらった とき;rLてい る。 この一定料 金 が どの くらい支払 われ たか t,Cつい ては:,構 文策 老 r* 地層の ふ る さと』の 中の美貌加納 ,松栄甜組 の】
.
(料 か ら,ある程 度の険討 石つ け る ことが で き よう,,r・
党 御 免状 2通
一念宅両宅 分
泌 ‑ 拾 四軒分印産科 一金を雨 竜分
右之 金子磯子 泌収納 己干 座応 元年 丑八月日
江州 筒井 公 文所収締方
t 美蘇加 納 松栄 講組
これ らの料 金は両 社が各管梯 下の諸国散 在の木地細 を巡 回 して氏 子神 役の代銭 参 るいは版式料 を敢
とな b営業 を保証 されたので ある O (ロ) 赤 和瀬部落への居住時湖についで
小椋莫博
若
F,卜椋姓 の 由来射 てよれ ば,赤和頑
に払 大 体安土桃 山の末期 か江戸の初順 境か ら木地 師が 居住 していた ことが 推測 で きる と して いる0回 Lく前端 山に筒井神社の 氏子狩 の 記録 と Lて 正保 4年( 1 64 7 )th=木地屋の戸数 妊 作州苫 田郡帝原に5 1戸 ,赤 加瀬に 1 4戸 ,赤祁輝炎山 六分に 18 戸 ,草保 15任 (17 2 8 )には赤卸瀬に 17戸 ,草抹 2 0年 (1 7 5 5 )i,'C紘赤和瀬に 1 5戸 ある と記 され てい る。 この こと:,i近 世に結 .赤 和瀬に定 住の木地 師が V,た ことを払付け る もの で あろ うO∴ 赤 細 額部落 で木地師 看・祖先に もつ ′J、椋友一・氏の京平を調べ てみた場 合 .位牌 でみ る限 りで もだいた い次の よ うであるOすfL・わち利衛門 ‑,伊 四郎 ‑不軌
→替衛門 ‑拡三 郎・‑+他三郎一一づ茂 次郎 ‑長一この家系 にかい て知 り梢 る堪 りでは伊
州
朗か 捜 しため が貫政5 ( 1 79 1 )とな ってい るか ら一 番古 い 利衛門が没 Lたのは‑ 酎t:5 0年 と して17 日 狂代前 後 とい うことI.{な るO利 備門 存命 と堵 え ら‑ 1d7‑
れる時 期 よ D,ず っと早い正保4年 (1 6 4 7)には すで に赤 和 頑に木地 師が居住 してい たのは .す でに前述 した とおりであ る。現在の当主友一 氏汝 に よれば ,氏の家 は建 築 後2 50‑ 28 0年経 過 し てい るとい う ことで あ り,涙が辿つ 前には木地師遠 は奥小島, 中′」、虚 ,下 ′ト屋 と上げYLる小屋 を作 っ て 仕堺を していたのであ る。
木地 師は どの地方か ら人 材 して きたの であろ 5か とい うことにつ いては 明 らか では■ないが ,近
く V E
木地 山 (鳥破瓜 )75どの名 称 かあ る こと,あるいは1‑8 的 忙木地部 痛 が他の部港 と多 くの変 的Jr もた ないの 忙対 して ,赤和神都
博の
木 地師は 為銀 粘三朝町の且 戸,神倉 な どの筋痛 と縁 組み を していた と い )こと (これはか たD薙 近の こ とである エ5だが Qt小助 長‑ 民政 )))キ ビか ら,木 地師忙主 に鳥 取 県 の 方か ら入居 Lで きた ととが推察 で きるo この集団は 陳 作の民 俗』 に ・tJtぱ ヨコキジとい う名 称 でま とめ られ ri也の木地臥 J
と して扱われ てい るO と九 に対 して同 じ木 地師で もクテキ ジと呼 ばれ る い わ ゆる 「旅の木地窪」の躯 EBが ある。 しか し両 者の相遠 点は単 に との r矢 作の民晦
凸で述 べ られ て V,る どとく
「旅の木地崖」 か 「地 の 木地崖 」か忙 由来 する ものではをVlことは後述す るO上斎 原村 では 赤和溺 部落 に宅任 した木地肺 舶 頭が ヨコ キ ジであ り,中津 河部
落
に定 住 した木地 師鮎価 が タテ キ ジで あ った こと結 ,中津河の川崎 氏戚 に よ り,明 らか であるoH 木地菜 と鹿ijf
赤和 帝都離 定常 したJlこ地師は出桝 のかた わ ら木地 をす る とい う特色 竜・もっていたO,J、掠友一 氏談 に よ^ ば ,せ 初 に入居 して来 た娘EBは村 の 中心部に あたる低地 地域忙 出を切
b
開 き,EBの 近 くのLLJぞ い に家 を建 て ,後の山を 自分の持 山 と してい った とい うことである 。現在 成 さtLてい る1 0 0‑ 120 年以 前 と推定され る地図 に もその よ うす を兄 い出す ことが で きZJ(耳炎 4 ‑ 6 ‑ 1 9 )。 また同氏に
上れば .出 を起 こすための人 夫を養 っていた木 地師 もある とい うこ とである 。 これ らの人夫は1年以 上無 跡 で働 く代津 と して一 家族全点 を挙 って もら ってV,た。 Lか Lこれ ら成 人i・もっ ことの で きた木 地師は
赤
和戚 で も,か な りの 独英 生 塵をで きる良い土 地 を もっていた もの に限 らTLる。次に抱 ける前 述の地軸 のr写しl/Cより一
軒の木地 師が どの く らい の山林 を所 有 していた か を調 べ てみるO(図4‑618);村山肺 とそ の所 有地の関係 をま とめ る と以 下の よう陀 なる。
小 槻房五郎 5畝 1 2歩 又富 4畝 1 5歩 治 邸乎 4畝 / 甚 三郎 4畝16歩
せ五郎 占畝
長十郎 2畝18歩 YJT十郎 1反 1 7歩 岩 多郎 5畝 1 1歩 票次 郎 5畝2 4歩 亀意 5畝 2 7水
魚 助 5畝 歩
‑1d8‑
・lA?I‑ 写41占‑19近世赤卸軸部藩の地図(三嶋鏡昌氏所戒) (言買芸慧竺含孟′l;讐警去;三冨笠冨芸誓誓誓菅笠冨諾至芸霊KL望05eKbたるO)
‑‑\ ヘ 蚕室 ≦
̲、字向谷漣 山林記号地名面鏡所有者家の番号現在の戸主山林言己号地名面積所有者家の番一号現在の戸』
a手本谷口1畝15歩甚三郎@友一n字カンナグレサ コ
5畝12歩宗次郎⑦春雄 b/I5+/五1○字ホヤ谷リロ
2⊥21、I C字滝谷ロ2畝12歩//〟//p字ホヤ谷簡平5畝歩碑十邸⑨滑 a̲字コブナ上ノ平e
た±'家ノ後5畝歩1畝15歩又盲〟②〟兵‑〟q董望芸ヱ97去12歩5畝歩宗次郎惣助⑦番地 子ス久で字家ノ後′±'●〟治郎平⑤薫r管S字ふ項へb谷と≡▼2畝12歩叢十毎⑥松夫f 監妄蒜7/左下ノ平1畝歩5畝1歩//甚三郎〟④〟衣‑七千市平クワ下u字クタラノ上6歩5畝歩〟清十郎
〟@/′滴 注言電装警艶宏篤書芸'Jim発はの家綱居していたものと推定される 図4‑6‑8近世赤和瀬の山林所有l 表4‑6‑8文政8年(1825)間島三船伝市政木地生産高 毎か曇12545占78918ll12 (∋単位丸(マル)盆でも杓子でも川個で1丸 ③小足,大足とは膳のこと物収とは鉢のこと めんことは弁当.入れのこと
蓑 4‑ 6‑ 9 天保14(1854)問 屋三 船茂 兵 衛扱木 地 生産 高
l l 1 2
平八 十 半盲 禰 門a.亀碑 次 郎左秘 門書蔵 l物胸ばち大 足盆大足盆大足盆大足 盆2111,′1.大 足盆J、足金 13 金大はち
' j
赴 10.5.r.はiち1ち11,大 足.5.カ まら盈 1,知1 ち0.5 紋 右 エ門 大地 4. は ち27話 せ 大足1
直 吉 大足 1
芳 戒 大足 1
武 就 大足 1
伝 右 エ門 小足 1, 大足 1
伯 蔵
宰 右 エ門 虹 ち 5は ち‑1●大M lと糊 〕 :^LTA..5 長 次 郎 小 足 1.ば ちD.5
惣 助 物収鉢2と100枚 大杓 子1
めく
L 1注 ① 「木地荷 物請私党
幌
」 (三船 椀 昌氏 所 征 )よ り作成② 単位 丸
③ 1‑ 10月まで綻 出荷 され てい をV , a
姓坊 のHIJ媒 と しガ ラなbれ る木 地弟 は 冬の l獅 坤 心 で あ った 。 これ は r木 地荷 物 誠払 倒
喝
(三船 続 昌氏 所栽 丈滋 )に 上って 作成 Lた表 4 ‑ 61 8,表 4‑ 6‑ 9の 木地 生 産高 を検討 して も明 らか をよ うに冬の 胤に多 くの娘 晶が 出荷 舌 れてい る と とか らも確 か め られ る O出荷 が1 1, 1 2月托滋 も大 きい.‑iた この時 期 は ,他の 時期に 比 べ て よ り珊巧 を木地生 産品 (例 え ば1‑ 10月頃 ま では 杓子 が主 な出荷品 であ るが1 1, 1 2月には盆が 主 な出荷 品 で あ る )が 作 られ てい る。禾地業 に専念 す る時純 の 相速 で あ ろ うと思われ るOまた 何 じ月 で も木地 師 に 上 ってか な Dの 収益 を あげ ていた者 とそ うで な い老 とがある 。 lFlJえば文政8年の 木地生 産高 を検討 す る と.平 六vl 1月 と10月に万年杓 子 をそれ ぞ れ l丸ず つ出荷 した だけで あ る。これに対 Lて惣音 , あるいは市価 門の ように 年 間7ケ月,8ケ 月に わ た って 木地 製 品 を出荷 Lて い る木 地師 もある O この ことか ら も木地 薬は 冬の 俄が一番 さかん で あ っ た ことが うか がわれ 上う。
木 地 の 仕 如 家族 単位 で行 なわ れ る ことが 多か ったO材 料 と して 妊栃 , ブナの木 が 多 く用い られ , 入 手の 手 段 と して は男が LIJ‑t、入 り木 i・兼 敏 り L,野 づ み把 Lて乾燥 させ 5年 後に使 うとい うようVCL
‑172‑
て いた。家には ヒ トマル〜 7クマル持 ち帰 り木地に娩Lnた。 ヒ トマル とは 尺 1‑ 5寸の 盆が50枚 と れ る濃 で1荷 ともい った。 ( 陣 作の民俗』 )木地製品 を挽 く植&l・,i.明治 初年 ま でri女が綱 Li・ひ き 男が仕歩 i・する手ひ き軸組 ,そ れ以 後は水車地
織
を使用 Tろ ように な った.手 ひ き栖助 を 鮫用す る際 には .綱師 な どの魔人 をかか えて いる木地師 もあ った とい うこ とであ る。 (小 椋友一氏談 ).また別に
やは り木地師の下請け的仕境 と して ,先山師木 旗,そ 士 人な ど荒収 少を職業 とす る人 々が硯在 の 中津 河 の セ ド谷 , ウド谷に居住 してい た よ うで あるO (小榛東∵ 民 放 )
写其 4‑ 6‑ 21 盆
(水庫繊細 による ) (赤和瀬 小埼春姓 氏所蔵 )
・ttL!
千‑Iヽ●
写夷 4‑ 6‑22 杯
(中津河 川崎 氏所就 )
これ らの木 地製品は 在地 問屋の馬方 (運搬人 )が 貯お って津山 あるいは 倉吉方面 ‑持 っててる こと もあ った し,木地 師 自身が娘晶 をま とめて 出荷する こと もあ った o出荷 先 と しては津山方面が 主 であ った よ うで .一例 として題永元 年( 18 4 8 )の 「f木 地 荷物 dl75‑私 党嘲 間 慶三 船茂兵術扱」 (三船
‑175‑
家 丈脊 )には津 山高松 屋へ出荷 され た ことが記 され てある。 陰 作の民俗
』
によれば約7 0年前には伯 背の ′」、鹿か ら仲買人が来て倉吉に 出荷 していたこと,百蛇 を越えて 坪山に も出荷 Lていた こと,運搬 は馬方 がおこなってV,たことが 明 らか である。小椋友 」毛淡に よれ ば同運 賃 で三朝の片柴 か ら両は奥 津まで出荷 LてVlた ら しいO杉本 寿若 転 じやJ J
に よれば ,これ ら仲 買人 と木地師 とは親 方一子方の 牌係に あD,製 品の 出荷のみな らず生 活 必常 品の入 手に して も, このルー トで行われ たとな っている。こ こで クテ キジと ヨコキジについ・て触れ てみた い。 j葉 作の民俗 Iは ,クテキジは椀 を中心に, ヨ コキ ジは丸膳 ,丸盆 を中心に挽 くことに大 きな逮V,を もっ とな っているが .凍 原の と ころ(dl,杉去 寿 著 Fき じや 』の中で次の ように分け られ てV}るo ヨコキジは京木地 師を中心 と した健 秀= 作卦′こ属 L・
その 製品はす べて木 目が横に逸 る ようVこ= 作 Lた ようであ る。 これに対 して クテ キジ払 ′」、木を利用 L安価で且村 組合地方向 きに製 品 をつ くるものが 多 く,木 目は縦に 見える となってい るo Lたが って 中津河,赤 和瀬i・片方が ヨコキ ジもう一方が クテ キジと分類 す ることは むつ か しい ようであるが ,現 在では赤和瀬は ヨコキ ジ,中浄河 は クテ キ ジで あ った と伝 えられ ている。
いつ頃 まで木 地薬が残 っていたかt,CつV,ては 陳 作の民 俗3 あるいは小 椋友一氏談 よ b, 4 0年 ぐ らい前まで挽いていた′」、椀睡昔 が食後で ある.木 地菜犀止の埋 由 と Lて F総 合調査研究 上斎 掛寸 昭 和 2 8年 1 1月 矢掛 高校
J
には次の( ‑ i ) .
⑧ があげ られているo① 近代技 府の流入 に よ りガラス器 ,瀬戸物類 ,金属製 品が安価 で多
丑
に 出まわ る ようにな った O② 明治50年森林 法の公布に よりLIJ林 が国有 化 される と用 材の 入手が 困難 となった。
(木地登品のための用材 をとる山 を将に ミヤマ とい って落葉広 葉樹林の ブナが中心に生育 Lてい た。
ミヤマとは野焼の時延焼 Lない森林 の ことである。 ) (⇒ 年 中行事 と食生活
木地師 適は その職業 上 ,山の神 をまつ ってい た。小 腹春雄 民放に i:れば,か っては村の いたる所に 山の神が まつ られていたそ うだが .現在は赤和瀬神社に一括 して祭 られ てVlるoLUの 神の祭 りは木地 屋祭 りとも言われ 旧2月9日・1 0月9日,現在 は5月10日 ・1 0月2 4E]忙行なわれ ている。祭 りの時 に部落の者が果 せる家 は毎年交代 で ,これは硯在 で も行 なわ れ てLrIる。古 くか ら この 日は仕車 を休ん で酒を飲 む ことにな ってい る。そ Lて神社 には神 官 (ここでqjT.太夫 とい う)が来 て拝 む。むか L は木 地屋のみ ,親類扱者が娘ま って行 なわれ ていた。 (小椋友一民政に 上る )
構 文策著 陣 地 屋のふるさ と」に よれ ば ,LIJの神の祭bqi正月 9日に行 なわれるかが普通で,また毎 月
9日は山の神を崇敬す る意味か ら山 に人 らをVlのが一般的であ った とうだが ,赤和瀬に おいて ,特に そ の よう夜番例 は見当 らをか った。
特別 夜行車の他に次の ような時 に木地師は数 多 く奥 ま った とV,うことである。 1‑5月は一軒の家 に近所 の木地師が央 ま り,共同で漆を逸 ってV,た ようで ,その際には酒 と巌が用意 され た。 この場合 免許状 を もたない もぐりの木地師 は杓の他 の木地師 と交流 させて もらえをV,状態に あ った.
この赤和解の木地師はレナで も考 え てきた ように鈍排が生活の 中心 であ ったために .た とえば君 ケ畑 の ような木地架が生活の中心である木地屋部 落ほど,木地師独特め 行番 とい うものは ない とい って よ
いo
■̲
、 . ‑174‑
食 生活は ,畑で栽 培 きれ て きた
乱
麻 (鞭朝.ん挽 く網 を作るため 自冶 ),菓 ・小豆が あ ったo また他 に 食料 と した ものは ・さん し ょ,)魚 .ひ rlq),はえ ・LU鳥 ・ うさ ぎ ・いの L L.・風 みず な , す ず の子 , うど,ふ きなどで あ った。 (小 椋友一氏奴に よる )( 福 間 美智子 )
参考文献
r糞作の民俗 J 加歓森太 郎 著 r木地 屋のふ るさ とl 構文繋 常
r
小椋姓の由来 J ′ト掠莫博 苛rき じ や J 杉本希 書
r総合調査研究 上兼原村 昭和28年11月』矢掛 高校
‑ 1.7 5‑
第 5
章交 通 と 通 信
1
近代 の交通
(イ)交通 路の開発 (D 道路の開発 と整備
岡山県における道路盤僻状 況及び交通輪送 機関の 発達についてみ てみ るな らば、一般に 県南が進 ん でお り、県北が立ち遅れて いるとV,う感が強い。 完備 した鉄道輸送 とパ ス路線 を もつ県南 に くら べ て、県北 の交通は冬の狭い概雪に オ効 堪れるということ もあって充分 とい うにはほ ど遠い ものがあ る。 「古来 本賂 南部の交通 ・運輸 ・通信機関は水 陸共 に早 く発達せ Lが、作州地方は、水 緒の便は あ りLも 、陸路は概 して南部 に比 し、井の発達遅 々たるは 、地 理的関係 の然 らしめたるもの な らん。
」と「苫田部誌
」
に も記蔽されてい る. また 、比較的潜まれてV、るはずの水路の健 も書 井川 発源 のれ る高瀬舟 を利用 しての物資 輸送比不可 能だ った。 だか らとい って 上帯原 村を 「県下 最北端に位 し、
四囲中国山脈倭吉61,000m以 上の南棟に包れ た山村であ り、交通庸めて不 便
」(
「上斉原付託」)
在所 と決めつけて しま うこ とはで きな い。 とV,うの吐、上斉原 村には陰牒連絡路の1本である倉書 往来が適 ってV,たか らである. 一口に陰陽連格 路といって もそれ比図5‑ 1‑ 1に示 したことく岡 山県に関す る主 要道だけで10本近 くも存在 してV,たO これ ら陰放連終路は美作 と因幡を結ぶ もの ・ ■ 美 作 と伯者 を結ぶ もの ・馴 Lと 伯者を耗ぶ ものに三分されるが、倉 書往来 は 美作 と伯̲菅を結ぶ連絡 路 であ った。 この倉書往来は、図5‑ 1‑ 1に示 した他の陰陽連絡路 に くらべ て、小道 で難所の多 い道ではあ ったが 、鉄 が運ばれ る道 と して遊軍 な雌 を占めていた。以下 、近代に入 って倉吉往来 が どの ような変遷 を とげ、今 日の国道179号鰍 こまで至 ったのかをみ てい くことにする.
(a)人捌 Lfか ら人形峠へ
近代に 入る と、明 治新政 何は旧来の籍削姫の領廃、薪制 酸の確立に力を住いだ。 交通関係 にかい て も明治2年 の馳所の徹廃、明沿 5年 の各駅伝馬 ・助郷 制の廃止 、それに伴 う陸運会社の説屯 と一 連の詣改革 を実 行に笹 したC さ らに明治9年に比太 政官 遼第60号が発せ られ、全国の道路は次の よ
うに分類 された。
同道
一等 前菜 よ り各 剛性場 に達す る もの (道幅七間 )
二 等 車京 よ り伊勢の宗頗及び各 村頚 台に連す る もの (道幅 六桝 )
三等 中京よb各県庁に達する もの及 び各 村各演台 を拘聯す る もの (道幅五聞 ) 県道 (道幅四聞乃至 五間 )
一等 各県を凄統 し及 び各餌台 よ り各分営IIjC達する もの 二等 各 何県本庁よりtEの支 庁VC達す る もの
‑176‑
下津井
幽 5‑ 1‑ 1 近世忙おけ る玉 食軸 と陰賠女過 給
〔注〕 本撰壮 r塩適 と朋 舟 J(耶 漉 八3F)・r岡山の交通」
(藤沢管窯 )を参考 とLて作成したo
ー177‑
三等 暑 Plの 区 よ り部
帝
に達 し 、或 は其 の 区に徒費 すべ き便宜 の海港 等に崖す る もの 界道 (道 幅一 定の 規準な し )一等 彼 此の教 区を耳 適 し、或紘 甲区 よ り乙 区 に達す る もの
二等 用水 ・墳防 ・牧畜 ・坑山 ・熟造所 等のた め放 区 人 民会議 に依て 別段 に 設 くる もの 三 等 神 社仏 髄及田畑桝転 の ため 澄 くる もの
明 治 政府 ijTiよる これ らの諸改 革 吐、 除 々忙上寿 原 村‑ も形 廿 を与 えは じめ、人 馬 のみ が通行 してい た古 い 道 か ら、荷車 ・荷馬車 な どの通 る新 しい 道が切 り開かれ て い った の であっ た。
す で に述 べた よ うに近世 の主 要夜 陰際 交 通路で あ った倉 吉 往東は 、図5‑ 1‑ 2に示 した よ うに 津 山 ・一宮 ・田辺 を経て香 々美谷 には い り、首 々IL・奥津 そ して人 形仙 女越えて穴 鴨 ・倉 吉 にV,た る もので あ った. この倉書往 来 は 、道 幅 の狭 い 、傾斜の 急 な山 道 が その畢程 の 多 くを占 め、 上斉原 村か ら坪山 ま でい くの忙途 中 奥醇 ・昏 々責 で 馬鰍 ぎ をす る必要が あ った。 近 代 には V,る と、倉 書往 来は太 政官 達第60号 に よって 一等 里道 とな った。 「上 斉 原 村誌 」は この倉 吉往来 につ V,て次の よう に記 して V,る。
伯曹往来一等 農 道 二属ス 、村 ノ西北 方鳥取 県伯曹 国河林部木 地 山界 ヨ リ南 方 下 斎原村 界 マ預 サ 弐旦 拾闇 、筋管 間 、馬 蹄四 尺道政宅間弐 尺、字 谷 田 ロ ヨリ北二折レル道アリ,鳥取県 因幡 国智頭 肪 =通ス こ こでい う伯 菅往 来 とは倉 書 往来 をい い かえた もので あ るか ら、 ヒ斉原 村JjEか け る倉 吉 往来 は 延 長
2里 10間 、頓 1剛 の道だ った わけ であ る。 次 にあげ るの は田淵 に 屯 夫氏 所蔵 の 「道直 シ御節 」の 文 省 で あるが,この 文掛 こよ って明治 1 2年 におけ る倉 吉往来の 改掛 こつい て知 るこ とが で きる。
道
宵
ツ御願 美 作国西 々傑 邦 ヒ青原 相 手 立神 ヨ リ伯 者 国 境人形仙峠 迄‑. 道 路里程 壱里弐 拾町
右 ノ、大破 二付 人牛 馬通行差 支候 W 、大急 御検 査之 上
7 7
1甫 シ被 仰付 酸比 段轟野 上候 也 明 治十二年三 月十 四 日右 付総 代
水嶋政蔵
草苅忠何 戸 兵
田淵亀 治 郎 岡 山県 合 点崎五六解
せ た
、
同 じ く明冶12年の田淵仁 屯 夫氏 所 蔵 の文8忙合音往 来の土 木工 事 を詣け 負 った 「神 色証 」が み られ る。育.l氏耶 美 作 国酉 々燦 郡 ヒ斎原村
字 人形仙 Ll ヨ リ伯者 国境 人形仙峠 マデ
ー178‑
担】5‑1‑2
書盲在米 とEEliI 179印
‑ 179‑
「 金 四拾三 円九投銭
右 者 道路 惨膚今般 入札 ヲ以 御仕 様港之 適請 負工 事仕儀処相違 転倒 虚侯 、然 ル ヒ者 、十一月三 日迄 こ庸 堅牢 二相仕立 、且又工堺 中音 勿 鞄落成 後非常 ヲ除之 外演者 ヶ年之 間破損等之 鶴候 者 自資 ヲ以 早速 修嘩可 仕候 、万一当人 惨楢 軒数儀有之候 ノ、ゝ、郡人引負惨縛可 仕儀 、依而 遜思 ヲ以証 せ 差出 氾 候 也
実作 国西 々傑郡 ヒ斉原 村 三首 九十 九番 地
卵 色人 丸山新 五郎 明 治十 二年 九月三 十 日
引 食入 柳 井 留次郎 右 村人民惣 代
水 嶋 政戯
呼
石 田政太 郎昭 草苅 忠滞戦
以 上、 2つ の女
帝
に よってわ か るよう貯まだ明約 12年 の時点の倉書 往潔 は近世の道 をその まま受け 継 V,で 人形仙 女経て鳥 取県へ と通 じてい たの であるOところが 、人 力雄 や荷畢 ・荷馬車 な どの新 しい変通機牌が導入 され、 それ らが従 来の牛 や 馬の 背 に荷物 を招んで選ぶ 方法 にかわ って さ かんに用 V,られ る よ うに なると、 従来の倉 吉往来 で は道幅 が ] 淡 く、傾斜 が急 を ために新 しい交 通機 関の させ たげに な るとい うこ とがわ かった。 この間題 を解決 す るには 、峠 を切 り下げて傾斜 をゆ るやかにす る こと、)道幅 を 広げて荷 馬車 で も十分に通行 で きる よ うにす るこ と、及 び鴨の架 穀な どが必要で あった. しか し、倉 吉往 来の 助命比 その うちの どれ1 つ を とっ て も難関で あった。 一方、明潜 50年頃 忙在 ると、人 々の往 凍 結倉書往来 よ りも久田 を通る 野道 の 方に柴中す る傾 向がみ られ はじめた。 それ とい うの も久 田適過 の 里道の方が、泉 LLJの中腹を ぬ うよ うには しる倉書往来 よ りも、傾斜が ゆるやかで あったか らで あ る。 明 治54年、 5年 頃 久田谷 通 過の 野道 が改 修 されたとい F)の も県 が この状況をみて とった からで あ ろ うO ここにおいて従来の 倉書 往来 は 、樺 山 より二宮 ・寺元 ・久田 を柿て 、羽出 ・奥津 そ して 上斎原 付‑ と遊 じる迫に とって かわ られ九 のだ った。 しか し、 ヒ斎原 村において仕 いせん として人形仙 を通 り穴 髄‑めけ る道 が と られていた。 ところが 、明治57Li]三VLか V,て人形仙道に とってかわ り石越 から天王 の山腹 を迂 回 して 四 ツ筋 (現在 の人形峠)に至 る道が改 修されたのであ るo この新 しい石越 ・天王 を通る道 が、改 陸 前 に どの ような秋歯 の道で あったかは さだ かでrtをvb しか し、明rL75711:・にかいて従来の 人形仙 を 通 る
遭
VCとって かわ り、新 しV,人形峠 道が開けた こ とは倉 吉往瀬 の発 展tje̲おけ る1つの 転機で あっ た。ll80‑
ま た、 とこで忘 れ て仕 な らをV,こ ととして へ彫 IiLJJ瓜の そ の後 とい う間盛が あ る。 さいわ い そ
J I l l K
つ いては 「上斎 原 村議 三
嶋 」
に記 硬 か あ わ、そ れ に よる と明翻 7年 以 降 も人形仙 道V̲対 して 怯縛の 手 が加 え られて いる こ とが わ か ろ。 その一 例毛 ̲
招け てみ る怒 らは下記 の >Jと くで ある。明 治59年 字 人形仙道 路 惨
埋;
lfJ一府右 実地 昏 険 ヲ遂 7工 事 念之 肉 脂分 ヲ村役場 ヨ 1)補
助i t i
明 治42年 人形仙 造 指 惨増光 五 捨円
明 治45/ir=・ 字 人形仙外 二 ヶ所 道 路 修繕 ス此 坪坂 fL拾Fq 大正15年 人形仙 般 /谷 迫 路改 修収 納肋謝鼎 /件
金玉 拾 円補 助 スル コ トニ詞決
今 日 もこの人形仙道は 、 木材 切 州 r.LO:)た めa;,* 切 な道 で あ り、村人 の /ii清に密兼 した道で あ る。
この 人形仙 道 をた どって 人形 仙 Iiで登 ってい く方 らば 、二 本杉 ま では未 舗装 なが らも車 の i酎 =J‑が可 能 な山道 で あ り、そ れ よ り上 は わず か幅 1仇 くらい の道 がず っ と人形仙 にま で至 って い る。 人 形仙
忙 立 って鳥 取県 側をのぞ む な らば 、追 らしい道 は 発見 され ず 、近世 か ら絞い て明 治57年 ま で主 要夜
陰蜂 連絡 路で あ った倉 吉 往来 のお もかげ仕 人形他 で 7'ソツ リと途切れ て しま ってい る。
(b)明治50年 前後の物 釈輸送 状況
明冶20年 代か らの物資柏送 には 、 従架の牛 や 馬の骨に 柑物 を研 ん で述ぷ方法 に かわ って、 糾車 さ らには 荷馬車 が利用 され る よ うに 在 った. 荷単rCiA'車 (車 台 の 長さ八尺 ・幅 二尺五 寸 ・車 輪径三 尺 五寸 以 ・ヒ)、中 ・小即 事 台 長六 尺 ・嶋 二尺 ・車 輪僅 二尺 五寸 前後 )か あ り、 比較 的平坦地の近 距 離 をい く場合 (,C用 い られ たo そ れ //7:右ル て荷 Et・:.車は 、 か な りの 長距 離 をV,く場合 に 韮 宝 か られ た よ F)で あるo これ ら荷車 ・荷 馬車 の 利用 に よって 、 いせ まで よ りも多 くの 荷 を一 座に 運ぶ こ とがで きる よ F)に 在った。
この当 時、中座村 llCは西 々傑 郡内 伺業者 を もって献地 され、 明治21llf:・の 糾 合第5号r
K
よ って細 ET 規 約 を定め られ た竹 ItJ糾合 とい う陸迎営業 税 告が あ った。 この竹 Ftl組 合 の人 馬想 銭 ・手 数 料 を 「陸 述 営業竹 田組合 規 約 」か らみ て み る と次の よ うに定 折 られ てい た。‑ 三 琵 雷 望藷 壱 里‑ 岩 至芸 篭諾 誓 空崇 晶 子達 ム
手数 料 弐銭
一成 三
琵
習望 誇 ‑ 五銭 難 易篭 監 誓 禁芸 く望/Al五網 トス手 数 糾 弐 銭 ■
‑荷車 冒警 報 習 物 ‑ 八銭 以 内 但三 組 外 荷物 目方‑ i" ‑付一 里七馴 定 ム
手 数 料 弐 純
一布 寵但壱挺 二付 壱 嬰於 鋪以州 旦非常
ノ山
号ハ五潮
岬 トス一 手数 料 弐 絹
I, 一 人堵 至去 習物 日プノ 壱 甲三凱 庖以 内
l 手数 料 壱銘
しか L、これは あ くま で も上記 の条 件 を 慌た してい る場合 の貸 鈍で あ って、 そ の 他 に もLL儲 ・夜行
‑ 1Bl‑
●
・大風雪 の時の5剖杓更銘 ・,急 ぎの場合の
2
剖増賃銭、人足一人の持iFi・が壱甘弐青
柳す ごとの5割
将領錨 な どもとってよいことになっていた。 だが、 これ らの
堵
fiは 境柊 的把は荷主 との許 し含V'で 決定すべ きもので 一方的に取るこ との で きる ものではなか った. 「竹m組合規約 」には、 これ以外 K も荷物 の受け取 り、配達の仕方、
拍佑賠田の行ない方についての 記収がみ られ る。この竹 田組 合の
F
で、上斎原村には 田淵掲次郎の と 。お こな う田淵 艇 店があった. 上寿原 村 l は穴取 と津山間の引 き継 ぎ点であ り、山陰 と山防両地方の物資 が入 って きてV,た。上斎原村が山陰・山際両物資の出合 地域で あ った とtJlうことに関 して 、富岡依 八
著
F坂道 と高 瀬舟』
に 興味ある記 述がある。 それに よると ヒ素原 村にお V,ては、その上 り ・下 り両荷 に共 に塩か含 まれてV,るとV,ラ のた。 そ の雛 、明細 期まて鮒 射 山陰紛 ら臥 され る塩 )が主 体 を‑ 、臓 0年 代 以降 l 漸次南塩 (山陽側か ら潜 入され る塩 )に変え られてい った。 政治的には費作で山陽に屈す る と斎原 村 で性 あ るが 、経 済的紡びつ き虹山職 ともかな り強か ったことが この蟻の移送 に よって うかがわれ る. また 、明治5岬 頃か ら漸次繭塩‑主体が移 っていったとい うのは、久田舶 の弔道改 修 とも少 J 夜か らず 関係があ るのではなvlだろ うか。ここ
に明治20年の 上斎原村におけ る 「荷物送証 」と同57 年 の 「篭 り荷物運送帳 」及 び 「下 り荷物逓送帳 」がある. この17年間 をみてまず 気付 くこ とは荷鮮ぎ場所の賓軍 であ る. 明治20年 の時点では穴髄 ・上斎原 ・首 々帆 ・坪山 で奉ったのが、明 治57年
に
か いては穴鴨 ・上斎原 ・甘木 ・,取木 ・津山にかわ ってV,る。 このこと仕倉吉往来 か ら久田通過の 窮 近 (明治57年 には県道へ昇格 してV,た )‑ 人々の祥R・が移動 してい た ことを示 してい る。上斎原村で 取 り扱わ れた とり荷物、下 り荷物につ V,て も富岡氏は次の よ うにV,ってい るo 「上 り荷は 産地帯送 形式が多 いの
忙
対 して、下 り侍は津山l ・A7{木など中継 郡市か らの簡送 がめだつ.」(
「塩 道 と福相帝
」P46)これは、明治57年の両荷 物逓送 蝦をみ て もその通 りにな って V,ろ。 ところで、これ らの 荷 が との地峡 壇で運送 されたのか をみてみ るならば、上b
荷仕泣 く東京 までとい )ものであ るが大部 分 は京鮪 ・大阪 ・兵卯 までであ る。 そ れに対して下 り荷は倉膏 周辺の町 村までで ある。 またどの ような物穀 が運ばれたかをみてみ るな らば、
卜
り荷 としては、儀 ・鍬 ・稲抜 ・木綿 ・玉薪 ・わ さびな どが あ り、下 り荷 は、桑苗 ・陶器 .酒 ・支部鞄 .滞抽などである。 その他1.{紘上 り・下 り両帝 共に 蓮包 とか併合 利な ど もみ られ る。この明 治50Er・・代の物野辺速が どのよ うVC‑行か つれていたかにつV,て 、 「上兼原 村
詫
」に 次の よう なほ己鞍がみ られる0本付 に仕掛 海草の営菜 をなす もの 二十 数台あ り、苫田耶久田付大字鳥越部敵 は部落全 員全ん ど 荷馬車の営業をなされnd:0本村木炭の輸送 はこれ切 )人 々に よ って選ば れていた。 一 日数十 台の伴 侶卓が 行列 をなし、 (甲略 )、早 くて三 日、天候 が哲ければ四、五 日tg.しなV'と物班が
剛
に あわ なか った. (中略 )、一 日十現に余 る並 を徒歩に て晩方 よ うや く津山に到新 し、翌 日問屋へ木炭 を渡 して買物をすませて・hllり、
荷を概 んでかt^てその夜 も軌 山に宿 り、三 日目に早 く津山を出発 して晩方まで一 日がか りで帰 って くる。これで もわ かるように荷梶車 とい う、 より機 載能力の大 きい交通矧 甥の利用に よ 9、い くぷん か
は
便利にな った のであるが、それで も
削
LLiでの往復忙殺低5日を要 したのである。 つま り必要な物‑182‑ 」.