Posted at the Institutional Resources for Unique Collection and Academic Archives at Tokyo Dental College,
Title 血脇守之助伝
Journal , (): ‑394
URL http://hdl.handle.net/10130/917
Right
第 十 三 章 野 口 英 世 の 栄 冠
野口英世に恩賜賞
血脇守之助を語るとき、野口英世との関係に触れないわけにはいかない。大正四年七月五日、午前十時から上野美
術学校講堂で当代の碩学を一堂に集めへ第四回帝国学士院の授賞式が挙行された。今回の受賞者は野口英世、金允
植'外山亀太郎の三名で、守之助は野口の代理として院長菊地大麓男爵から栄誉の恩賜賞を拝受した。
野口は、五月二十二日付の手紙で、守之助に'
「一両目前帝国学士院より恩賜賞授与議決の旨通知に接し'小生も驚き申候‑‑。授賞式には何卒小生の代理とし
て御出頭被成下御隣中上侯賞牌は一応渡部先生へも御示しの上御面倒ながら小林栄氏を通じて愚母まで御廻送の上御
閑暇の節小生の許へ御郵送険上げ候‑‑」
と授賞式への代理出席を懇請している。
彼にとっては渡米後永い年月が流れたいまもなお'守之助は、兄であり、父であり、たよりがいある師であった。
米国に渡った英世は、明治三十三年十二月二十九日'フィラデルフィアのフレックスナ‑(SimonFteXner)教授
‑ 188‑
を訪ね、
「かねてのお約束通り、私は貴方を頼りとして参りましたから、大学(ペンシルバニヤ大学)の助手に採用してい
ただきたい」と申し出た。
フレックスナIが'そのl年八カ月前来日した際に'案内役をつとめて全国各地を廻ったが、フレックスナIは、儀
礼的に'「渡米されたときにはお力添えをしましェう」といった言葉尻をとらえての訪問であった。人のよいフレック
スナIも'この申し出には閉口したが、野口の真筆な態度に惹かれて、やがて何くれとなく面倒を見るようになった。
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帝国学士 院 よ り授与 された賞記
フレックスナ‑は、最初'蛇毒に関する研究の手伝いを申しつけた
が、これが登龍の糸口となって、野口は知名の研究者となり、四年目に
はヨーロッパの留学を命じられた。当時'先進の外国で'留学を命じら
れた日本人は、彼が初めてであった。教授は後年'野口を、「彼には優れたものが三つある。その第一は、明澄透徹の精神、その
二は'人の仕事とは思えぬ精妙な技術、その三は、比頬なき勤勉」と秤
しているが、次第々々に頭角を現わしてきた野口に全幅の信頼を置い
た。
デンマークに留学した野口は'そこでも幸運の指導者に巡り会い、マ
ドセン(T.Madsen)の奇遇を得て、血清学について学ぶことが出来
た。一年の留学を終えて明治三十七年九月、野口が帰米したとき、フレ
ックスナ‑博士は、ロックフェラー医学研究所の所長に決定していたの
ペ ソシルバニヤ大学研究室において 野口英世26歳 (
明治 34年) つ士博研野たにでいてもまこの口、'
究 所重の 要な 仕 事を 分 掌 すになた。そることのっ 後は 梅 毒の 血清 診断 法に 重 点を 置いた 研 究を 展開し、 盛 名をは せ た。
こ のよう な 活 躍 ぶは、り 勿 論' わが 国 にも 逐 一 報 道 さ れ、
京 都 大 学 医 学 部で は「、 梅 毒の 血 清 診断 法
」に 関 す九十三る 篇に及ぶ 論文中四の 簾を主論文て審とし 査二位学士博学医一十二年四十四治明月のがし日'' 授 与さ れた。 野は口 不 眠不 休の 研 究 者であたからっ、 そ の 後小も、
児 麻痔狂犬病ラコトへ、
ー マ、 結 核 など に 関 する 研 究を 矢 継ぎ 早に 手 掛 け、その 業 績は欧 米 諸 国 で 高 く 評 価さ れた。
大正二年九は再度渡月に欧てフし'
ラ ン ス、
オスー ト リ ヤド、 イツデマルンクノウー''
ェー'スウェー
デ
ン' 英国で 講 演 旅
行訪地れ各た。行なたをではっ、 ‑190‑
大 歓迎受け、特勲叙はでれいてデにをさマるクンー。 ま た 大東三年七十八正学大帝京には月国か日、
ら
「 スピ
ロ ヘハタダリーー。
」に 関 す論文にて理るよっ 学博士を授与さ れ た。 こ のよう に 野口 は、 渡 米 後十 五 年の
辛
再会
大正四年九月四日'その夜の守之助は子供達を前に昔話を始めた。
「お父さん'野口ってどんな人なの」
「片田舎の会津から出てきて世界の野口になった男で'勉強家だよ。その昔、お前達が生まれる前に(明治三十三
年十二月五日)アメリカ丸で渡米Lへお母さんにも随分面倒をかけた。お母さんの着物までも質に入れて、野口のア
メリカ行きの費用をこしらえたのだから、広瀬の家にも気まずい思いをしたものだ。広瀬で作ってもらったお母さん
の晴着も、あのとき、質種に使ってしまったんだからなあ、しかし見所のある男だから、俺も惜しいとは思わなかった」「野口さんは変わっていましたね。お父さんは野口びいきと皆さん大分やかましかったけど、今は本当にょかった
と思います。あんなに俸‑なるとは思わなかったけど'やっぱり予想が当たりましたね」
「当たりまえさ、俺の目に狂いがあってたまるものか」
「じゃ、僕も勉強して偉いお医者さんになろうかな」
「何になったってかまわんが、とにかく一心こめてやらねは、何事も成就せぬ」
「お天気がよいと良いのですが」
「この分では、明日も雨降りか」
「さあ、子供は早‑おやすみなさい」
ソデは'まだまだ話がつきそうもない夫の様子をみてとって'
「今夜は早目にお休みになった方がよろしいでしょう」
とうながした。
守之助は書斎へと立っていったが'なかなか就寝する気配はなかった。書斎の片隅から'野口の手紙を引っ張り出
して読み始めたのである。「随分筆まめな男だ」と感心Lt腕ぐみをしながら座敷の中をぐるぐる歩きはじめた。何か忘れているものはない
か'守之助は'野口をできるだけ歓待しよう'できるだけ歓迎してやろう、ただそれだけを考えていたのである。
九月五日'昨夜来の雨はすっかりやみ、快晴の秋日和である。午後一時、守之助は花沢鼎、川上為次郎、門石長秋'
佐藤運雄等を引き連れて、さらに小林栄、渡部鼎'山谷徳次郎'田原利と打ち揃い'電車で横浜へと向った。横浜で
は大村1男、奏佐八郎等と合流し'新埠頭に向かった。郵船横浜丸の甲板上からは、野口が帽子を頻りに振ってい
る。小林、守之助、渡部も帽子を大きく振り返した。
午後四時過ぎ、横浜丸は着岸し、桟橋がかかると一同争って船に駆け上がる。野口はサロンで記者連中にとり囲ま
れてしまったので、守之助一行は側へ寄ることが出来ない。一同しばらく待つことにして甲板に出て休憩とした。
暫くすると野口は、甲板上に脱出し'守之助へ小林栄へ渡部鼎'奏佐八郎、真鍋嘉一郎と一人一人固い握手を換
し'次いで、守之助の紹介で、花沢鼎へ川上為次郎、水野寛商、佐藤道雄、柴田伊之助'大村1男等とも撞手を交換
し、連れ立って下船した。野口は直ちに用意された馬車に守之助や小林と同乗し、横浜ステーションに向かい、楼上
の食堂で、一同と夕食を共にした。
午後七時十分横浜発の電車で東京に向かったが、またもや、東京日日'報知、東京毎日の記者連にかこまれ'スピ
ロヘータ研究の模様について説明を加えた。
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午後八時東京駅帰着、プラットホームには、東京市歯科医師会の榎本積二万長はじめ歯科医師会の面々、北島多1
博士はじめ医界の面々、学生代表等'無数の出迎えの人々が輪になって歓迎した。野口は挨拶しながら人垣を‑ぐ
り'帝国ホテルへ赴き、投宿した。
あ‑る日九月六日、朝から野口は守之助と同道し、総理大臣、東京市長、東京帝国大学総長、帝国学士院長、医学
会の長老を歴訪Lt帰朝挨拶を済ませ、代々木山谷の血脇邸を訪れた。
血脇邸では'小林栄、野口英世、守之助'それにソデ夫人も加わって水いらずの昔話しを楽しんだが、野口はそれ
に加えて欧州における講演旅行の状況を詳しく説明した。小林栄は、
「まさかお前一人で講演旅行に出掛けたのではあるまい?」
「いいえ、私一人で参りました」
「よ‑ぞ一人で行ったもんだ。それにしても世界の有名学者の前で講演するのだから、気後れがしたろう」
「自分が苦心して研究したものを発表するのですから'進んで壇上に立ちました」「大したものだね大抵のものなら怖じ気づ‑だろうに'お前は子供のときからはにかみやのように見えても気性は
勝気だったからな‑‑」
小林栄は、自分の教え子の話にひとつひとつ領きながら、自分のことのように喜んでいた。守之助もまた、野口英
世の栄達を喜びつつ、忍苦に耐えて今日の大をなした努力を賞讃した0
野口はふと思い出したように、「私は自分の身体は健康なものと信じていましたが、丁度欧州から帰米したあとで'保険会社の医者に診察してもら
ったところ、その医者が首を傾げて、﹃どうもヘルツが弱いから保険に入れることはできない。三年ぐらいの寿命でし
よう﹄といいましてね。それが事実なら、来年はその三年目に当たります。まあ'私も止むを得ないと諦めています」
といい出した。
守之助は顔に憂色を漂わせてこの話を聞いていたが'何を思ったか'中座して自分の居間に閉じ寵もった。菅‑し
て'座敷に戻って来た守之助は、
「いま'私は、心をこめて易を立ててみた。君の寿命は三年ではない。十数年'あるいは三十数年である。私の見
立てだ、決して心配はない。しかし自重して健康に留意してくれないと‑‑」と真剣な顔付きで野口を諭した。野口
は、守之助のいつも変わらぬ恩情に感激して'今後気を付けることを誓った。
その後、九月八日から十七日までは郷里へ錦を飾り、各地の歓迎会'講演会に列席し、十八日帰京した。
野口の帰京を待っていた守之助は、九月二十日、有楽町の生命保険協会に晩餐会を主催した。この晩餐会の招待客
は'野口が指導を受け世話になった人々'ロックフェラー研究所に野口を訪ねた医界の諸大家、学位、恩賜賞拝領に
つき推薦の労をとった人達で'守之助が野口の親代わりとなってホスト役を引き受け、野口に対する歓迎宴ではなか
ったのである。当夜の出席者は'
‑ 194‑
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口英世などで、アカデ‑‑色豊かな会合であった。
九月二十二日'午後五時から日本工業倶楽部で、医界の名流緒方正規、北里柴三郎、三浦護之助へ鈴木孝之助'本
多忠夫、石黒忠底、高木兼寛それに守之助が加わり発起人となった野口博士歓迎宴が開催された。この日集った各界
の重鎮は、実に百四十名を越え、代表発起人石黒忠感によって渡部鼎、血脇守之助、北里柴三郎の三人が恩人として
の発言を求められた。
守之助は'「渡部ドクトルは、野口を称揚されたが'余は未来ある人という言葉を贈る」と至極あっさりと結諭した。
北里柴三郎は、
「野口君が今日あるは朋友相排し圧迫と狩疑を以て迫害を加える日本とは異なって'才能をのはす大研究所で仕事
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ができたからである」と述べた。これは、野口が北里研究所に出入していたころ'北里所長のところに野口非難の声
が絶えなかったことを想起しての発言であった。
九月二十六日には'東京医事週報社、東京医事新誌局'日本之医界社'日新医学社'医海時報社合同主催の野口博
士講演会が大日本私立衛生会で開催され、来聴者六百、立錐の余地なき盛況であった。
野口は'北米における医学研究は、英国風医学'独逸医学、仏国医学の‑ックスされたものであるが、最近二十年
間大学の充実ぶりが著し‑'ヨーロッパの大学に劣らぬ施設を有するものも十を越えている。
ロックフェラー医学研究所は、約二十年前にロックフェラーが牧師ゲーツの勧めにより設立したもので、恩師フレ
ックスナ‑は流行性脳脊髄膜炎の免疫血清療法に成功し、ロックフェラーの絶大な信用を得た。
研究所の所長は'創設以来フレックスナ‑氏であるが'フレックスナ‑も含め部長が八名で'余もその1員である。
研究所の基金は三千五百万ドルでその利子と維収入とで、年間三十五万ドルの研究所費と十万ドルの付属病院の費用
を賄っている。
米人の研究指導は独逸人に劣る懸念もあるが'学問的には自由で独逸の紋切型の研究とは異なる。
研究所の最近の業績は肺炎菌とその免疫血清に関するものと、サルパルサンの脊髄膜腫注射法の完成である‑‑」
と最近の米国事情を説明した。
大正四年十月十日関西入りした野口は佐多愛彦博士の案内で大阪市内見物の後箕面を訪れた。大阪毎日新聞は野口
の横顔を次のように伝えている。
「野口博士は'懐しい母と福島の小学校時代の先生(小林栄夫妻)と七円の月給から毎月二円ずつを貢いで呉れた
という恩人の血脇氏等を伴って来阪した。佐多博士は'其の一行に気の張らぬ清遊を試みさせてやろうといふ機転
で'十日の朝九時から二台の自動革へ六人の人を乗せて福原博士を接待役に大阪ホテルを出て、大阪城を見物して'
秋の野道を一直線に箕面公園の琴の家へ駄けらせた。同家の別座敷にてすぐさまアッサリの昼餐会が開かれるとへ野
口博士は'膳の上の刺身を執り上げて﹃おっかさん、これは鰹の刺身ですヨ'美味しいですか'ハハハ小林の奥さ
ん'あなたは焼魚がお好きでしたかネ'ハハハ‑‑﹄と隣の母堂や小林老人の手を取らんばか‑に機嫌を取って自分
も夢中に嬉しがる。﹃山家で生れて刺身なんぞ覚えもしないうちに外国へ参りましてネ、やっとこの十日ばかり前か
ら食ふやうになりましたがへ母なぞは唯御馳走に魂消るばかりですヨ'ハハハ‑‑﹄お相伴の記者に母堂を紹介され
る。やがて招ぜられた土地名代の舞子の踊となってからは母堂や小林老夫人たちは箸も取り落としそうな顔つきで気
抜けのようになって居られる。母堂の横漠を野口博士は覗き込んで、﹃どうです'面白いものでせう、サー御飯召し
上がれ'松茸のお汁ですヨへその蓋が御椀になるのださうですヨ、ハハハ‑‑﹄と手づから給仕に余念もない。其の
有様を眺めながら血脇氏は涙ぐんで、﹃諸君'この野口君の懇な心情の一部が他の当世紳士にあったらへ社会の風儀
は淳厚になるだらうに、いまさらいふのもおかしいが'僅かばかりの世話をした自分に対して十五年間に二有余通の
長い長い手紙を呉れた野口君の情誼には常に泣かされて居たものですが、斯んな田舎の婆さんを堂々と連れてあるい
て人前も道路も頓着なく思いのままに孝心を発露させる今回の事実には涙が堪らな‑こぼれるのですヨ﹄と語り出し
たとき佐多博士も福原博士も眼にいっぱいの涙を浮べた」
今回の帰朝に当たって'天真欄漫に孝心を発揮する野口、つねに自分に恩師の礼をとる野口を眼のあたりにしてへ
守之助はこれがかつて十五年前'唯一人淋し‑横浜の港から出港していった野口とは到底思えなかったのであろう。
佐多博士の機転のおかげで'野口の心優しい一面を発見した守之助は心の中で、ヨカッタ、ヨカッタと繰り返してい
‑ 198‑
たのである。
大隈首相と語る
十月の前半を関西地方の巡遊と講演に費した野口は、十月十七日帰京して、直ちにその足で東京歯科医学専門学校
の第二十一回卒業式に臨んだ。
野口は'「卒業生諸君は、本日設備完全なる歯科医学校にて授けられるべき事'訓えられるべき事は1切を終わりて鼓に目
出度く卒業の栄冠を得られたり、今日以後諸君は一層人格の修養につとめ、日進の歯科医術に後るるな‑益々奮励し
て社会の為'母校の為力を尽‑され
! 't
東京歯科医学専門
学校卒業式に 列席 し,高山紀斎像 の
前で記念 撮影 (大正4年10月17
日午後)述べと 望」んをむこと
た。
こ のとき' 卒 業 証 書を 授与さ れ た 者は 百 二十 八名で紅顔に胸はずを' ま
せ
大隈首相 と記念撮影 左か ら市島謙吉,大隈栄信,[野 口英世, 血脇 守之助,大隈重信,下村宏,石塚三郎, 監沢博士, 小林栄 (
早稲田 の
大隈宅にて 大正4年 11月3日) 血助之守脇三一月十は日、
、 早 朝 から 野口と 共 に 大 隈首相を早 稲田の 私邸に 訪ねた小林栄。' 石 塚三 郎の 二名は 特に 乞 わ れて同 道
し た。
応 接 室
に 入る 前 に、 一同記念 撮 影を 行ないたま、 たま いあ わ せ
た、 市 島誹 吉' 下 村 宏 ( 台 湾 民 政 長 官 赴任 挨拶ための 首相を 訪
問)も 加 わ話はり、 大いには ずん だ。
大 隈 首 相 は'
「 余むかもし 医
学を 学ん だこと があり、 余の 人 生 百 二 十 五 歳 説 に は 医 学的根 拠が独雑あ国のる。 誌に投も 稿たがあこるとし。 世 間の 人 は 老人を 1概に 塞 接ないて馬とどっ 鹿に する が' 老人廃は 物を 意 味ているし わ けで は な い。
余
は 老 人で は あ
る がま' だま だ 塞 雁なはておどし れぬ、
大いに国 家のた めに 働く 考えである。 君 は 世 界人 頬のた め日 本 人 の 権 威を 大い
に示してくれたま
え
後列左か ら石塚三郎,小林栄,血脇守之助,山岡晋,前列左か ら英 千,
野 口英世・三郎,政子, ソデ,芳雄,日出男 (代 々木山谷血脇 邸に
て 大正4年11月3日)
野口英世博士見送 りの一行 前列左より奥村鶴吉,野 r:j英世,血脇 守之助,花沢鼎 後列左か ら佐藤義三,榎本英彦,尾崎稀三
「生存競争が激烈で'人が物質上の問題を焦慮し、修養を怠たっているからである。ところで君はどこの生れかな」
「会津です」と野口が答えると'伯爵は'「道理で眼の玉が光るナ、会津魂は豪気である。会津藩主は傑物であった」といいながら側に近寄って堅‑野口の
手を握りしめた。
大隈は'維新の頃朝敵の汚名を受けながらも勇戦した白虎隊で知られる会津藩とその藩主松平侯に好意を持ってい
たことがこの一例をもっても窺われる。大隈は薩長閥(長州︹山口県︺'薩摩︹鹿児島県︺出身の派閥)と対抗して、
かつて下野した前歴があったからであろう。
大隈邸を辞した野口の一行は早稲田を参観し、帰途故川上元治郎の墓前にぬかづき、市島謙吾別邸に至り、田園趣
味ののどかさを味わい'午後二時'代々木の血脇邸を訪れた。血脇邸では一同記念撮影をしたが'守之助'日出男、
芳雄、ソデ、政子'野口英世と三男三郎、英子と並んで撮影したこの写真は野口と血脇の一家が撮影した最初で最後
のものとなった。三郎もこの後しばらくして天折したから、これが最後の写真となった。
血脇家の人々との惜別の名残‑はつきなかったがへ予定のある身へ野口は二、三時間で滞在を切り上げ、すぐさま
京橋区木挽町線屋に赴き惜別の宴を張り、金杉へ渡辺へ田原'沢田、宮原'守之助、石塚等'極内輪の本当に世話に
なったと思う人々を招待した。
あけて十一月四日'午後零時三十分東京駅発の列車で帰米の途についた。
駅頭には名士雲の如く集まりへ並列した東京歯科医学専門学校生徒の歓声を浴びて博士の自動車が到着'一同博士
の万歳を三唱、プラットホームでは各界の名士が競って握手を求めた。博士は車窓から手をさし伸べつつ名残り多き
東京を後にした。午後一時四十分横浜駅着、ここでも県医師会、歯科医師会の面々の出迎えを受け埠頭へ向かう。直
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ちに佐渡丸に乗船へ午後三時出港'埠頭には数百の人々が野口の壮途を見送り、野口また帽子を打ち振ってこれに応
えた。
かつて明治三十三年十二月五日守之助1人に見送られ、懇々と説諭を受けて乗船Lt同行の知人は守之助に紹介さ
れた小松線大使館書記官唯一人という淋しさに比べて何と盛大な見送りを受けたことか。守之助も感無量であった
が、野口もまた同じ思いを抱きつつ迄か去りゆく故国の風景が目にしみるようであった。