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パーリ学仏教文化学 (32) - 004林 隆嗣「上座部大寺派における「仏所説」(buddhabhasita)と「仏語」(buddhavacana)─失われた上座部文書『大法心』・『大界論』の位置づけをめぐって─」

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[論文]

上座部大寺派における「仏所説」(buddhabhāsita)と

「仏語」(buddhavacana)

──失われた上座部文書『大法心』・『大界論』の

位置づけをめぐって──

林   隆 嗣

“What Was Spoken by the Buddha” (buddhabhāsita)

and the “Word of the Buddha” (buddhavacana)

in Theravāda Buddhism (Mahāvihāravāsins):

In Relation to the Lost Abhidhamma Works:

Mahādhammahadaya and Mahādhātukathā

Hayashi, Takatsugu

It has been noticed that the Aṭṭhasālinī recorded an argument about the canonicity of the Kathāvatthu composed by Moggaliputta-Tissa. The

vitaṇḍavādin there rejected it as being sāvakabhāsita (what was spoken by a

diciple) and proposed either the Mahādhammahadaya or the Mahādhātukathā instead, while the Aṭṭhasālinī managed to interpret it to be buddhabhāsita (what was spoken by the Buddha). On the one hand, from this discussion one may think that the elders of the Theravāda (Mahāvihāra) fraternity commonly believed that the three piṭakas called buddhavacana (literally, “Word of the Buddha”) are supposed to consist of only the Buddha’s words. On the other hand, there is a scholar who has a query about equating the three piṭakas with the word of the Buddha, assuming that “a few passages” which remain in the

Mahādhammahadaya and the Mahādhātukathā are the Buddha’s original

teachings outside of the canon ([清水 2016a]).

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by the disciples of the Buddha to be buddhabhāsita or jinabhāsita on account of the Buddha’s approval. However, since it is not applicable in most cases, such interpretation cannot be generalized. Furthermore, the Vinayapiṭaka classifies the dhamma into four categories: buddhabhāsita, sāvaka-bh°, isi-bh° (saints) and deva-bh° (deities), and its commentary applies the canonical texts to each category. The Theragāthā and the Therīgāthā are, according to the Pāli comentator, sāvakabhāsitas collected at the council(s). The Pāli commentaries reveal that the executors of the councils (saṅgītikāras) occasionally add their own words and passages to the canon. Thus it is evident from the Theravādin’s point of view that the Pāli canon does not consist exclusively of the Buddha’s words.

It is also important that the Pāli commentaries recognized that the Buddha’s words exist outside of the canon. The fate after death of the kind Ajātasatthu is exposed by the Buddha in the commentary on the Sāmaññaphalasutta, and this is said to be “certainly told by the Exalted One” (bhagavatā vuttam eva). When the suttas relate the Buddha pleasing people with a dhammakathā, the commentaries, calling it Pāḷimuttakakathā (the sermon freed from the canon), sometimes reveal the content of the sermon. There is even a case when a non-canonical story is called buddhabhāsita by the commentator. In the

Kathāvatthu, we can find unknown suttas accepted as having been “told by the

Exalted One” both by the opponents and the Theravādins.

As shown in the expression: “in buddhavacana consisting of three piṭakas listed at three councils” (tisso saṅgītiyo ārūḷhe tepiṭake buddhavacane),

buddhavacana is a category term for the three piṭakas collected, approved and

authorized at three councils, while buddhabhāsita exist inside and outside of the canon. キーワード:パーリ三蔵,パーリ註釈文献,アッタカター,正典,「仏説」  「私が説示し制定した教法と律が私の死後に君たちの師となる」という遺 言を受けた釈尊の弟子たちは,釈尊入滅後に仏典結集会議を開催し,教法 と律を確認したと伝えられる。さらにその後の2回の結集を重ねるなかで, アビダンマの教義を加えて上座部大寺派はパーリ三蔵を完成させた。[馬 場 2008]によって明らかにされたように,パーリ三蔵がすべての「仏語」 (buddhavacana, ブッダの言葉)として制度化されて,その枠が原則的に閉

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じたのは,ブッダゴーサに代表されるパーリ註釈文献の時代と考えられる。 「仏語」は,文字通りには,ブッダ(釈尊)自身の言葉(1)を意味する。しか し,tepiṭaka-(三つの蔵からなる,三つの蔵をもつ)という形容句を伴う表 現が『ミリンダパンハ』(Mil 18)以来パーリ註釈文献にも頻出する(2)よう に,「仏語」は基本的に上座部では正典(canon)であるパーリ三蔵の文書枠 やカテゴリに関わる術語である。これまで筆者は,この正典三蔵に対して 「外典」(apocryphal texts)とみなしうる諸文書について解明を進めながら, パーリ三蔵と類似し上座部特有の表現を含むそれらが三蔵の枠外で伝承され ていた事実を見出し,そこから翻って上座部大寺派の正典観を検討するため の足がかりを築いてきた。  『法集論註』(Aṭṭhasālinī, As)には,こうしたパーリ正典の枠の内と外 に関連する議論として,これまで多くの研究者によって指摘されてよく 知 ら れ て い る 記 述 が あ る(Cf. [Lamotte 1988: 183],[Norman 1983: 103], [Norman 1997/2006: 135],[v. Hinuber 1996, sec.130, cf. 144] な ど )。 そ れ

は,第三結集でモッガリプッタティッサ長老がまとめたとされる『論事』 (Kathāvatthu, Kv)をアビダンマ蔵に加えることについて異論を唱えた難癖 論者(vitaṇḍavādin(3))とそれに対する註釈者の応答を内容とする。近年, この議論で難癖論者が提示した『大法心』(Mahādhammahadaya)と『大界 論』(Mahādhāthukathā)という2文書を取り上げて従来の上座部大寺派の聖 典観・仏説観について再考を迫る論文[清水 2016a]が発表された。本稿で は,当該論文が注目した2文書の再検討を出発点としながら,「パーリ三蔵 に収められる文書や教説は誰が説いたものとみなされたのか」という視点か ら,上座部大寺派における「ブッダの言葉」を考察してみたい。

1.難癖論者が提示した『大法心』と『大界論』

 『法集論註』に記される難癖論者の主張と註釈者の応答は,以下の通りで ある。

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As i.5 (Ee 4‒3): vitaṇḍavādī (Ee Vidaḍḍha°) pan’ āha: “Kathāvatthu (Ee -vatthuṃ) kasmā gahitaṃ? nanu sammāsambuddhassa parinibbānato aṭṭhāsaravassādhikāni dve vassasatāni atikkamitvā Moggaliputtatissattheren’ (Ne Moggalli°) etaṃ ṭhapitaṃ? tasmā sāvakabhāsitattā chaḍḍetha naṃ (Ee nan)” ti. “kim pana chappakaraṇāni abhidhammo” ti? “evaṃ na vadāmī” ti. “atha kiṃ vadesī” ti? “sattappakaraṇānī” ti. “kataraṃ gahetvā satta karosī (Ee karontī)” ti. “Mahādhammahadayaṃ nāma atthi etena saha sattā” ti. “Mahādhammahadaye apubbaṃ natthi, katipayā va pañhavārā avasesā, Kathāvatthunā saddhiṃ sattā” ti. “no Kathāvatthunā, Mahādhātukathā nāma atthi, tāya saddhiṃ sattā” ti. “Mahādhāthukathāyaṃ apubbaṃ natthi, appamattikā va tanti avasesā. Kathāvatthunā va saddhiṃ sattā” ti.

  しかし,難癖論者は言う。   「『論事』がなぜ含まれているのか。正等覚者の般涅槃から218年を過ぎ 越してから,モッガリプッタティッサ長老によってこれが設けられてい るのではないのか。だから,声聞の所説であることにより,それを〔君 たちは〕放出しなさい」と。   「では,アビダンマは6論書なのか」と。   「〔私は〕そのようには言わない」と。   「すると,〔君は〕何と言うのか」と。   「7論書である」と。   「どれを取り入れて〔君は〕7にするのか」と。   「『大法心』と呼ばれるものがあって,これを伴って7である」と。   「『大法心』には以前になかったものはない。ほんのいくつかの問分 (pañhavāra,質問の章)が残っているだけである。〔だから〕『論事』を 伴って7である」と。   「『論事』を,ではない。『大界論』と呼ばれるものがあって,これを 伴って7である」と。   「『大界論』には以前になかったものはない。ほんの少量の文(tanti)が 残っているだけである。〔だから〕他ならぬ『論事』を伴って7である」と。

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 以上の議論では,難癖論者が『大法心』や『大界論』という未知の文書を 提案するが,わずかな「問分」(pañhavāra)やほんの少量の「文」(tanti)を 除けば,別の正典文書ですでに説かれているという理由で,いずれも却下さ れる。『法集論復註』の解説によると,『大法心』は『分別論』中の「法心分 別」とほぼ同じ,『大界論』は『法集論』「色品」,『分別論』「界分別」,『界 論』とほぼ同じとみなされている(4)。この『復註』の記述が正しければ,他 の正典文書とほとんど重複している2書は,既存のアビダンマからの抜粋や 再編版にすぎないため,独立の典籍として流通していたとしても,所謂「外 典」とは文献的性質が異なる。  『大法心』と『大界論』の内容については,上記の情報がすべてであり, その信憑性を確認することができない状況にあって,[清水 2016a]はこれ を事実と認めて,「ほぼ同一内容の「大法心」と呼ばれる典籍が,上座部内 で流布していた事実」[p. 22322‒23]とし,そのまま結論として,「「法心分別」 とほぼ同一の内容をもつ典籍である」[p. 22123‒24],「「大界論」は[… 略 …] と同文を含む典籍である」[p. 2201‒2]と断定する。  『相応部註』(Spk II.201‒201)には,「三つの結集に収載されなかったも の」として,Dhātukathā を始めとする5書(Cf. [林 2013: 26])が,「非仏語」 (a-Buddhavacana)の8書とともに列挙されているが,『相応部復註』ではこ の Dhātukathā を “Mahādhātukathā” と言い換えている。この点に着目した[清 水 2016a: 221]は,『相応部復註』と『法集論復々註』が同じダンマパーラ の著作であることを理由に,難癖論者が示した『大界論』はこの書のことで あり,上座部外典として受容されていたと予想する[p. 22117‒18]。しかし, この予想も,両者の同一性を支持する傍証など具体的材料が何もない状況 で,そのまま事実となっていく[p. 2204‒5]。このように,[清水 2016a]に は,一つの情報に基づいた一つの仮説や想定や可能性を検証することなく繰 り返すうちに既成事実化して,それ自体を結論にするという論法上の問題が 多く見られる。  清水氏は,「以前になかったものはない」(apubbaṃ natthi)という理由で

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両書が大寺派から却下されるという議論の核心を脇に置き,「ほんのいくつ かの問分がある」や「ほんの少量の文がある」という言辞に光を当てる。そ して,それを「独自の教説」と認定し,「両書だけに含まれる独自の教説は 極僅かであると考えられる」[p. 22410],「独自の教説が『大法心』と『大界 論』の中に僅かながら残っていることも認められている」[p. 2208‒9]と主 張する。しかも,「両書」について註釈者が「ブッダの所説」という点で否 定(反論)していないことだけを理由に,「両書に残された『独自の教説』 を 仏陀の所説 として認めていたことを示唆している」[p. 22421‒23]と推 定する。それはさらにエスカレートして,「その中には三蔵には含まれない 仏陀の所説 が記されていると認められている」[p. 22014‒15]とみなして, 最終的には,「『仏陀の言葉=三蔵』という等式のもとに上座部の聖典観・ 仏説観を一律的に理解しようとすることは再考を迫られることになる」[p. 22015‒17]と主張するにいたる。   筆 者 が 扱 っ た 外 典 文 書 Kuḷumbasutta,Catuparivaṭṭasutta,Rājovādasutta, Nandopananda の場合,いずれもパーリ註釈文献に引用文が存在しているた め,そこから語彙や文体上の特徴を抽出したり,それらの扱いから上座部に おける文書的位置づけを考察したり,上座部内外の現存関連文書と照合する ことで受容や普及の状況を検討したりすることが可能となる。しかし,『大 法心』と『大界論』に関しては,実際の文章がどこにも確認できず,具体的 な検証も不可能な状況にあって,我々は立ち止まざるをえない。

2.パーリ三蔵に含まれるブッダ以外の所説

 このようにパーリ註釈文献の議論からは,少なくともすべての「仏語」 (buddhavacana)=三蔵という等式はゆるがないとしても,上座部大寺派の 註釈者は,三蔵とブッダの教説との関係をどのように理解していたのだろう か。[清水 2016a: 22622‒23]は,「ヴィタンダ論者にとってこの両書は仏陀の 肉声を記録したものであると考えられる」と述べるが,当時の上座部教団に とっても客観的に見ても,仏陀の肉声を記録したものはありえない(5)。ただ

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し,難癖論者の論点を裏返せば,彼らは,「仏所説」(buddhabhāsita)のみが 三蔵に入る資格を持つ,あるいは「仏所説」の方が三蔵にふさわしいという 理念を有していたのかもしれない。確かに,三蔵はパーリ註釈文献におい て「ブッダのすべての言葉」と呼ばれ,パーリ註釈者は難癖論者に応じるか たちで『論事』を「仏所説」化するための強引な解釈(6)を提示している。さ らに仏弟子が教えを説く『長部』第33経「結集経」などの経典を「仏所説」 とみなす例もある(Cf. [清水 2015])。しかし,釈尊以外の人物が説法する 経典のほとんどは,註釈で何の合理化もなされず,それらの解釈理論で説明 できるものではない。  むしろ,三蔵の内容は釈尊の説いた教えだけではないということは,上座 部教団自身も認識していた。例えば,『律蔵』波逸提第4条(未受具戒人同 誦戒)の条文解釈(Vin IV.15)では,教法(dhamma)を「仏所説」,「声聞 所説」(sāvakabhāsita),「聖仙所説」(isibhāsita),「天所説」(devabhāsita)な どと分類している(Cf. [林 2013: 24])。これに対応する箇所は,他の諸部派 に属する『四分律』,『十誦律』,『根本説一切有部律』,『摩訶僧祇律』にも見 られ,教法の分類はおおむね共通している(7)。そのため,すでに『律蔵』の 制作段階にあった初期仏教教団において,聖典の教法は釈尊の説法だけでは なく,声聞弟子,仏教外の者たち,神々の説いた内容も含まれていると認識 されていたことがわかる。さらに,『律蔵註』(Sp 742, cf. Ss 45)でも,この 箇所における律蔵編者たちの認識は訂正されないばかりか,具体的に経典名 を挙げて解説しているのである(8)  『ウダーナ註』(Ud-a 2‒3)では,「感興語」(udāna)を分類して,仏所説 の感興語と辟支仏所説(paccekabuddhabhāsita)の感興語と声聞所説の感興語 の三種があると述べる。そして,「辟支仏所説」として『経集』の「犀角経」 (cf. Sn-a 46)などを挙げ,「声聞所説」としては『長老偈』と『長老尼偈』 の経(偈)を例示している。その他にも,三蔵の中には,帝釈天を始めとす る諸天所説(Sakkādīhi devehi bhāsitāni)の感興語(Ud 30など)や,アーラー マダンダ・バラモンを始めとする諸人が説いた(Ārāmadaṇḍabrāhmaṇādīhi

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manussehi ca bhāsitāni)感興語(AN I.67など)があることを註釈者は認めて いる。  『長老偈』と『長老尼偈』が声聞弟子の言葉だけを集めた経であることは, もちろん上座部教団においても理解されている(9)。しかも,大声聞たちの言 葉がすべて集められたわけではなく,分量に限界があり,韻文形式に限定さ れるという理由で収載から外れたものがあったことすら,註釈者が明かして いる(10)  このように,パーリ三蔵を全体として「仏語」という観念で受持している 上座部大寺派(パーリ註釈者)の認識においても,パーリ三蔵は純粋に釈尊 の教説に限定された文書群ではない。彼らは,仏弟子などによって説かれた 経も三蔵内部に存在するという明白な事実を受け入れ,それを前提に分析考 察している。それは,仏典結集会議の権威のもとで教団に承認されて合誦さ れたことをもってこれらの文書(教説)が三蔵に加えるべき正典文書の資格 を得たからであって,『長老偈』と『長老尼偈』のような事例(11)においても, 仏典結集によって文書が確定され,正典性が担保されているからこそ,教団 はそれらを受容してきたと言えるだろう。

3.パーリ三蔵における結集執行者などの加筆

 仏滅直後の第一結集を行った教団では,釈尊の直弟子たちに伝持されて いた様々な教法が集められたが,その際,場所や人物の因縁を語るアーナ ンダの言葉やウパーリの言葉が教法に加えられたという伝承がある(Cf. Sp15‒16, Mv 97)。さらに,第二,第三結集は,最初の編纂以降に増広が起 こり,許容できない要素も混入してきたために開催されたという。つまり, 『律蔵註』の記述によると,仏滅100年後には「マハーカッサパ長老によっ て結集(合誦)されたのとまったく同じように,教説の垢をすべて洗い清 め て 」(Sp 34: Mahākassapattherena saṃgāyitasadisam eva sabbaṃ sāsanamalaṃ sodhetvā)第二結集が行われ,さらに「それから180年後には教説に大きな 腫れ物が生じることになり」(Sp 36: ito vassasatassa upari aṭṭhārasame vasse

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sāsane mahantaṃ abbudaṃ uppajjisati),そのために第三結集を開催して,教説 に生じた腫れ物を洗い清めたわけである(Cf. Sp 36, 53, 62)。  しかし,上座部教団による第二,第三結集の作業は,垢や腫れ物に喩えら れる異端文書を排除して(洗い清めて)第一結集の原正典に純化したという わけではなかったはずである。むしろこれらの結集会議では,第一結集のリ ストに載らなかったけれども教団内で受容されていた経典などを再検討し て,選定し直し,文章や内容の修正や削除,及び補足などを伴う再整理が行 われたと考えられる。パーリ註釈者は,以下に列挙するように,結集執行者 (saṅgītikāra)たちの手が三蔵内部に入り込んでいることを明かしている(Cf. [Norman 1983: 8])。 ①『長部』第16経「大般涅槃経」第5章では,遍歴行者のスバッダが釈尊 入滅の直前に出家を認められた後に,「彼は世尊の最後の直弟子(目で確認 した声聞)になった」(DN II.153: so bhagavato pacchimo sakkhisāvako ahosi) と述べられる。この一文について註釈は,「結集執行者たちの言葉」(Sv II.590: saṅgītikārānaṃ vacanaṃ)と指摘する。そして,釈尊の遺言が語られた 後にある,「これが如来の最後の言葉である」(DN II.156: ayaṃ tathāgatassa pacchimā vācā)という一文についても,註釈は,「結集執行者たちの言葉」 (Sv II.594, Spk I.223)と指摘する。

②『長部』第28経「歓喜経」の経名(Sampasādaniyasutta)の由来を説明す る最後の一節(DN III.116)は,結集執行者たちによって設けられた(Sv III.904: iti h’ idan ti paṭṭhāya padaṃ saṅgītikārehi ṭhapitaṃ.)と,註釈が指摘す る。

③『 相 応 部 』「 有 偈 品 」 天 相 応 第 5 章 第10経(Ghaṭikāro) の 最 終 偈(SN I.36),悪魔相応第3章第5経(Dhītaro)の最終偈(SN I.127),梵天相応第 1章第3経(Brahmadevo)の最終偈(SN I.142)は,註釈によると,それ

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ぞれ結集執行者たちが設けたものである(Spk I.92, 188, 208)。また,釈尊 の対論者として登場する一部のバラモンたちの呼称(Akkosaka-Bhāradvāja, Bilaṅgika-Bhāradvāja, Ahiṃsaka-Bhāradvāja, Jaṭā-Bhāradvāja, Suddhika-Bhāradvāja, Aggika-Bhāradvāja)は,註釈によると,結集執行者たちが名づけ たものである(Spk I.229‒231) ④特に『経集』や『長老偈』などには,結集執行者たちによって偈や散文が 付加されたり,話者名が挿入されたりしている事例があることを註釈者がし ばしば明かしている。 ・Dhaniyasutta の一偈(Sn 30)は結集執行者たちが話したもの(Sn-a 42) ・Sn 33の iti māro pāpimā,Sn 355の ti bhagavā 及び icc-abravī bhagavā pañca-seṭṭho (Th 1275偈 Th-a III.202),Sn 459の ti brāhmaṇo ように偈のセリフ部分 に補足される話し手の指示は,すべて結集執行者たちの挿入(Sn-a 44, 351, 405) ・Rāhulasutta の最後の一文(Sn p.59)は結集執行者たちの言葉(Sn-a 344) ・Sn 401偈後半 pāda cd は結集執行者たちによって述べられたとも人々は言 う(Sn-a 377) ・Padhānasutta 最後の Sn 449についてある人々(eke)は結集執行者たちが 語っているとみなすが,註釈者は認めない(Sn-a 394) ・Subhāsitasutta の散文部分(Sn p.78)は結集執行者たちの補足(Sn-a 394, 398) ・Sundarika-Bhāradvājasutta の散文部分(Sn p.79f.)は結集執行者たちの言葉 (Sn-a 400) ・Māgasutta(Sn p.86ff.)は,結集執行者たちが述べた散文部分,バラモン のセリフ,釈尊の言葉をつなぎ合わせたもの(Sn-a 413, 414) ・Selasutta の途中の568偈直前の散文部分は結集執行者たちの言葉(Sn-a 456) ・Dvayatānupassanāsutta の序文と724偈をつなぐ文章は結集執行者たちの言

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葉(Sn-a 504) ・Pārāyanavagga の序偈(976‒1031)は結集のときにアーナンダ尊者が述べ たもの(Sn-a 580) ・同じく最終章(第18経)の序文(散文)は結集執行者たちが述べたもの (Sn-a 603) ・Th 869, 870の二つの偈は結集執行者たちが置いた(Th-a III.58) ・Th 948は結集執行者たちが述べたもの(Th-a III.81)  その他,『長老尼偈』のイシダーシー尼の冒頭三偈400‒402, 404は,結集 執行者たちの言葉とされているし(Thī-a 242, 245),『仏種姓』の第27章の 18偈は結集執行者が設けたもの(Bv-a 295)とされている(12)  このように,「仏語」にふさわしい文書を集め,その垢を洗って正典を浄 化することを目的とした仏典結集において,結集執行者たち自身が正典文書 の語句や文章や偈を作成して補ったり,登場人物に名前をつけたりして経典 を整えていたというのが,上座部の註釈者,上座部教団の理解である。  さらに,パーリ註釈文献は,経典の中に第三結集以降のスリランカ長老 たちによる加筆すらも存在することを明かしている。『長部』「大般涅槃 経」の終結部では,遺骨の分配と仏塔建立について語られた後,「以上のよ うに,かつてこのことが起こった」(DN II.167: evam etaṃ bhūtapubbaṃ)と いう記述がある。註釈は,「まさにこのようにして,他ならぬ遺骨の分配と 十塔の建立がインドでかつて起こったと,後に結集執行者たちが言ってい る」(Sv II.611: evam eva dhātuvibhajanañ c’ eva dasathūpakaraṇañ ca Jambudīpe bhūtapubban ti pacchā saṅgītikārā āhaṃsu)と,そして,「以上のように,過 去 に, こ の 遺 骨 の 設 置 も イ ン ド の 大 地 で か つ て 起 こ っ た, と い う こ と で,第三結集の執行者もこの語句を置かせた」(Sv II.615: evam etaṃ atīte dhātunidhānam pi Jambudīpatale bhūtapubban ti tatiyasaṅgītikārā pi imaṃ padaṃ ṭhapayiṃsu)と説明している(Cf. [田辺 1997: 4])。そして,インドの諸地 域と天界において釈尊の様々な遺骨が崇拝されていることが経典の最後

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に4つの偈(Be では 5偈)で述べられる(DN II.167‒168)が,それらは 「スリランカの長老たちによって述べられた」(Sv II.615: Tambapaṇṇitherehi vuttā.)と註釈されるのである。聖典への付加が明かされる他の多くの事例 が「結集執行者」によるものであることを考え合わせると,紀元前1世紀の Vaṭṭagāmaṇī 王の治世下で行われた第四結集(アルヴィハーラにおける聖典 書写事業)時になされた加筆なのかもしれないが,詳細はわからない。  以上のように,ブッダの説いた教法が集められ,「すべての仏語」と規定 されたはずのパーリ三蔵の中には,ブッダの所説に止まらず,声聞弟子の所 説も存在し,聖仙や神々の所説も含まれていて,さらには結集会議における 正典編纂者やスリランカ上座部教団の長老による補足があることを上座部の 註釈者自身が認めていたことは確かである。その意味で,上座部の立場にお いても「仏語」(buddhavacana)と「仏所説」(buddhabhāsita)とは等式の関 係にはなかったことがわかる。

4.パーリ三蔵に含まれないブッダの言説

 「仏語」たるパーリ三蔵の中にブッダ以外の所説が存在することを確認し た上で,次に考察すべきは,「仏語」にすべての「仏所説」が内包されてい るかどうかである。しかし,この点については,以下の諸例から答えは明ら かである。 ①『長部』第2経「沙門果経」の終結部では,マガダ国王アジャータサッ トゥが釈尊の説法を聴聞し歓喜して退出した後で,釈尊が比丘たちに対して 王の救済についてコメントを残す(DN I.86)。註釈では,以下のように「聖 典(本文)には収載されていない」(Pāḷiyaṃ na ārūḷhaṃ)釈尊の言葉がさら に詳細に伝えられている。

Sv i.237‒238: idaṃ vuttaṃ hoti “sace iminā pitā ghātito nābhavissa idāni idh’eva nisinno sotāpattimaggaṃ patto abhavissa. pāpamittasaṃsaggena

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pan’assa antarāyo jāto. evaṃ sante pi yasmā ayaṃ tathāgataṃ upasaṃkamitvā ratanattayaṃ saraṇaṃ gato, tasmā mama sāsana-mahantatāya yathā nāma koci purisa-vadhaṃ katvā puppha-muṭṭhimattena daṇḍena mucceyya, evam evāyaṃ lohakumbhiyaṃ nibbattetvā (Ee nibbattetvā) tiṃsa (Ee tiṅsa) vasasahassāni adho patanto heṭṭhimatalaṃ patvā tiṃsa (Ee tiṅsa) vassasahassāni uddhaṃ uggacchanto puna uparimatalaṃ pāpuṇitvā muccissatī” ti. idam pi kira bhagavatā vuttam eva,

Pāḷiyaṃ pana na ārūḷhaṃ.

  次のことが言われている。「もしもこの方によって父が打ち殺されてい なかったとしたら,今まさにこの場に座ったままで預流道に達した者に なっていただろうに。しかし,悪友との交流によってこの者には邪魔が 生じている。このようであってもなお,この如来に近づいてから,三つ からなる宝を避難所(帰依所)として行っているがゆえに,私の教説の 偉大さによって,たとえば誰かが人を撲殺して一握りの花の分量だけの 刑罰をもって釈放されるとするなら,まったく同様に,この者は,銅製 の釜の中に再生して,3万年間,下方に落ちていき最底面に達してか ら,3万年間,上方に昇っていき再び最上面に到着してから解放される だろう」と。伝え聞くところでは,これもまた世尊によって確かに述べ られているのだが,しかし聖典には収載されていない。([畑 2010: 320] 参照) ②『長部』第17経「マハースダッサナ経」では,釈尊がアーナンダにクシ ナーラーにちなんだ前生譚を語る経であるが,語り終えたところで,「以上 のことを世尊は話した」という一文がある(DN II.199)。しかし,註釈によ ると,釈尊の説明はこの経に載せられていない内容もあったと述べる。

Sv ii.636: idam avoca bhagavā ti idaṃ Pāḷiyaṃ āruḷha– ca anāruḷha– ca sabbaṃ

bhagavā avoca.

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されていないもの,このすべてを世尊は話した〔ということである〕。 ③『長部』第16経「大般涅槃経」において,釈尊は,パータリ村の優婆塞 たちに対してよき生活習慣(戒)の不保持の危難と保持の功徳について説法 した後で,さらに夜遅くまで法話をもって(dhammiyā kathāya)教示し,喜 ばせた,という記述がある(DN II.86)。経典には法話の内容が具体的に述 べられておらず,註釈は,聖典本文から抜けている(Pāḷimuttaka)法話であ ると指摘している。

Sv ii.539: dhammiyā kathāyā ti aññāya pi Pāḷimuttakāya dhammikathāya c’ eva āvasathānumodanakathāya ca ….   「法話をもって」とは,他ならぬ聖典本文から抜けている別の法話と住 居〔提供〕の随喜(感謝)の話をもって……。 ④『中部』第128経「随煩悩経」(MN III.152‒162)には,コーサンビーで比 丘たちの論争が起きたことで,釈尊がそこを去ってバーラカローナカーラ村 で法話を示し,次いでチェーティ国の東竹林園で随煩悩の教えを説いたこと が述べられている。註釈では,釈尊がそこからさらにパーリレッヤカの森で 三ヶ月間象の給仕を受けて過ごしてからサーヴァッティーに行って十八の破 壊の根拠(aṭṭhārasa bhedakaravatthūni)を説いたという続きのエピソード(13) が示されていて,それが「聖典本文から抜けている話」(Pāḷimuttakakathā) と注記されている(Ps IV.203‒204)。  つまり,上座部教団に伝承されていたこの釈尊の行状と説法内容は,聖典 に組み込まれていなかったために,註釈の中で補足的に記録されたことにな る。この事例は,何らかの理由でパーリ聖典に残されずに脱落した釈尊の説 法があったことが,上座部の註釈者(大寺派教団)に自覚されていたことを 明確に示している。

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⑤『法句』第2偈の註釈では,因縁譚の題名にもなる「マッタクンダリンの 出来事」(Maṭṭhakuṇḍalivatthu)そのものが釈尊自身によって説かれた「仏所 説」(buddhabhāsita)と呼ばれていて,さらにパーリ三蔵のどこにも見られ ない釈尊の教説(下線部)も付加されている。

Dhp-a I.34: … ti dvīhi janehi kathitakathaṃ pakāsento sabbaṃ Maṭṭhakuṇḍa-livaṭṭhuṃ kathesi. ten’ ev’ etaṃ buddhabhāsitaṃ nāma jātaṃ kathetvā pana “na kho brāhmaṇa ekasataṃ na dve —atha kho mayi manaṃ pasādetvā sagge nibbattānaṃ gaṇanā nāma nātthī” ti āha.

  ……と,〔世尊は〕二人(アディンナプッバカというバラモンと彼の 亡くなった息子マッタクンダリン)によって語られた話を明らかにし て,マッタクンダリンの出来事(Maṭṭhakuṇḍalivatthu)をすべて語っ た。他ならぬそれゆえに,「仏所説」と呼ばれるものになったこれ (Maṭṭhakuṇḍalivatthu)を語ってから,さらに,〔世尊は〕「バラモンよ, 百ではなく,二百でもないのだよ。さらにいえば,私にたいして思考 (意)を澄み渡らせて,天界に再生した者たちを数えきれることは決し てないのだよ」と言う。  ここで注目すべきは,釈尊が直接関わらない場で交わされる人々の会話 と,それを含めた物語(因縁譚)の全体を「仏所説」としている点である。 さらに,この内容が三蔵に見られないことから,「仏所説」が,文書などを 「仏語」化して三蔵に組み込むための解釈概念とは限らないことがわかる。 ⑥『論事』の三蔵外経典  上座部と異部派との論争が記されている『論事』には,対論者側によって も上座部側によっても,自説の根拠としてしばしば経典(sutta/suttanta)か らの引用がなされる。その中には,以下のように現行パーリ三蔵に存在しな い経典が見られる。

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⑴ Kv 546において対論者が提示する経

  kammena kittiṃ labhate pasaṃsaṃ, kammena jāniṃ ca vadhaṃ ca bandhaṃ /   taṃ kammanānākaraṇaṃ viditvā, kasmā vade natthi kammaṃ ti loke //   「業によって[人は]名声を得る,称賛を。業によって破産と殺害と捕 縛とを。   そのように業の種種の行いを知ってなお,どうして『この世に業はな い』と言えようか。」  これは,以前に [林 2013: 38‒39]で検討した経(偈)である。対論者は, 註釈(Kv-a 164)によると,王山部・義成部である。この偈は,現存経典に 見られないが,「世尊によって述べられたか(nanu vuttaṃ bhagavatā)」とい う相手の問いかけに上座部側は “āmantā” と同意している。『法集論註』にも この偈が引用され,その直前には「結集で収載されなかった経」が引用され ており,両者の関連が窺われる。

⑵ Kv 550において対論者が提示する経   āhuti[ṃ] jātavedo va, mahāmeghaṃ va medinī /   saṃgho samādhisampanno paṭigaṇhāti dakkhiṇaṃ //

  「献供物を〔受けとめる〕火の如く,大雲〔の雨〕を〔受けとめる〕豊 潤な大地の如く,   精神集中を具えている僧団は,施物を受け取る。」  対論者は,註釈(Kv-a 167)によると,現在大空性説者と称する方等部 (Vetulyaka)であり,この経は「他派に伝承された経」(suttaṃ parasamayato āgataṃ)と明示されているが,本文中では,少なくとも世尊が述べたことに ついて上座部側は同意している。 ⑶ Kv 579において対論者が提示する経

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  suññaṃ idaṃ bhikkhave saṃkhārā attena vā attaniyena vā

  「この世は,比丘たちよ,空虚である。諸行は我という点からみても我 のものという点からみても〔空虚である〕。」

 これは,比丘への呼びかけ表現を伴う散文経典の一節であると考えら れる。現存パーリ経典には,「この世は,我という点からみても我のもの という点からみても空虚である」(MN I.298, II.263, SN IV.297, Paṭis II.36: suññam idaṃ attena vā attaniyena vā)というよく似たフレーズは存在するが, “bhikkhave saṃkhārā” を含む同一文は見られない。対論者は,註釈(Kv-a 178)によると,アンダカ派であり,この経は「他派に伝承された経」(suttaṃ parasamayato ābhataṃ/āgataṃ)と明示されているが,世尊が述べたことにつ いて上座部側は同意している。

⑷ Kv 339において上座部側が提示する経(14)

  cittañ h’ idaṃ cetasikā ca dhammā, anattato samviditassa honti /   hīnappaṇītaṃ tadubhaye viditvā, sammaddaso vedi palokadhammaṃ //

  「つまりこの心と心所法どもは,無我として見いだした者にとって〔も〕 生じる。   劣ったものと勝れたものというその両者を知ってから,正しく見る者 は,壊滅する性質のものを知った。」  対論者は,註釈(Kv-a 95)によると,王山部・義成部である。上座部 側は,これが「世尊によって述べられたか」と相手に問い,この経の存在 (atth’ eva suttanto)を認めさせ,自説の正当性を主張する。

 以上のように,パーリ三蔵(経蔵)に含まれない釈尊の教説が教団の内外 に数多く存在していること,そして三蔵とは別にそれらが上座部教団に容認 されていることをパーリ註釈者が明かしている。三つの結集に収載されな かった Kuḷumbasutta などの上座部外典も,正典の外部で受容・伝承された

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経であるという点でこれらと類似した立場にある。このような文献的事実か ら,上座部大寺派は,釈尊の説いた教えや釈尊の言葉が漏れなくパーリ三蔵 に存在するという共通理解を持たず,三蔵にすべての仏所説が含まれるべき という一貫した理念を有していないと言えるだろう。

5.まとめ

 「難癖論者」(vitaṇḍavādin)は,『論事』が「声聞所説」であるという理由 で,三蔵に加えることを問題視し,代替案として『大法心』や『大界論』と いう文書を提示した。現存しない両書の詳細は不明であるが,これらが難癖 論者やパーリ註釈者の認める通り「仏所説」であったとしても,他の正典文 書とほぼ同じ内容の抜粋本や再編本のような独自性のない文書であるなら, 所謂「外典」に位置づけることはできない。何より,具体的情報や文献的検 証を欠いたまま,『大法心』と『大界論』には「仏所説」の「独自の教説」 があると主張する清水氏の論理は認めがたい。  そもそも難癖論者が,上座部に実在した特定の一派を指すのか,大寺派の 正統的教理に異議を唱えた者たちに対してその都度便宜的に名づけた呼称な のか,あるいは理論強化のために想定された架空の立場なのかも不明である が,もしも彼らが単に一方的な批判をするだけではなく,総合的な理論や一 貫した基準を有するグループであったとするならば,彼らにとって三蔵はす べて「仏所説」のみで構成されていなければならないだろう。  仏滅後に釈尊に代わる師とすべき三蔵(法と律)は,確かに「仏語」と呼 ばれる文書群であり,ブッダを大王に譬えれば王の書状(rājapaṇṇa)に値す るものとみなされている(Cf. Mp I.124)。ところが,「仏語」を,字義通り, 釈尊が実際に発した言葉や釈尊本人の言説(「仏陀の直説」「金口直説」)と 理解しようとすると,即座に矛盾が露呈する。三蔵は釈尊の言説を中心とし ながら,そこには声聞たちや神々などが説いた教えが含まれており,結集の 編纂者やスリランカ長老の加筆も存在する,ということが了解されている からである。『法集論註』の註釈者は,難癖論者の指摘を受けて『論事』を

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「仏所説」とみなすが,その方法は,ブッダ以外の者が説いた教説(文書) を仏所説化するための一般的な理論とはなりえない。そして,その一方で, パーリ三蔵から抜け落ちた釈尊の言説が偈や逸話のかたちで個別に伝えられ てきたこと,さらに,ブッダの言葉を伝える数々の外典文書が上座部教団で 受容されてきたことをパーリ註釈者自身が認めている。  上座部のパーリ三蔵は段階的にまとめられて最終的に現行のかたちになっ たことが知られている。初期教団から伝承されてきた釈尊の教説,声聞弟子 などの教説,仏滅後に創作された文書などが存在する中で,それらを三蔵に 収めるための判断基準は示されていない。ただ,三蔵から漏れたものがある とすれば,それは仏典結集から漏れたことを意味し(15),「三つの結集に収載

された三つの蔵からなる仏語」(tisso saṅgītiyo ārūḷhe tepiṭake buddhavacane, Sv III.898)という表現が示すように,上座部大寺派が伝承してきたパーリ三蔵 は,あくまで仏典結集の承認に基づいて集約された「仏語」である。そのた め,パーリ註釈者が最終的に結集の権威に従って確定したパーリ三蔵=「仏 語」の枠組み自体はゆらぐことはない。  歴史上の釈尊が成道から入滅までの間に語った言説,上座部が「仏所説」 と認めていたもの,そしてパーリ正典三蔵(の諸文書)としての「仏語」 は,それぞれ意味する内容や範囲が異なる。この状況において,説一切有部 や大乗仏教における議論などで伝統的に使用されてきた「仏説」という多義 的な用語によって上座部の正典(聖典)観を語ろうとすると,混乱と誤解を 招くことになる。そのため,カテゴリ概念を明確に区別したうえで「ブッダ の言葉」としてのパーリ三蔵の正典性について議論する必要があるだろう。 註 ⑴ 「最初の仏語」,「中間の仏語」,「最後の仏語」に分類される場合は,文字通り 覚りを開いた釈尊仏陀の言葉という意味と考えられるだろう。それでも,「最初の 仏語」とされる言説は,「熱心に瞑想するバラモンにたしかにものごとどもが明ら かになるとき…」(Vin I.1)と「〔私は〕多くの生の輪廻を流転してきた…」(Dhp

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153‒154)の二種類あり,両方とも感興語(udāna)であるが,前者は言葉に出して 話したことで,後者は心の中で述べた内容(Khp-a 13: manasā va vuttavasena)であ る(ただし他の註釈文献ではそのような区別はなく,Dhp-a 127でも無言)。清水氏 は buddhavacana を「仏陀の肉声」と「権威を附託するための抽象的概念」とに分 類する。しかし,「肉声」が誤った表現であることはもちろん,後者の日本語も意 味がまったく分からない。これは認識可能な具体的事物(テキスト群)を指し示す 具体(的)概念であり,「附託」は負託の誤用か。

⑵ たとえば,4ニカーヤ註では,Sv II.480, 531 (= Ps II.395, Mp III.338), 566, III.865, 898, 1002, 1030 (= Ps II.68, Mp III.325), 1047 (= Mp V.6), 1056, Ps II.293, 294, 336, 339, III.17 (= Spk III.44), 282, Spk II.203, 247 (= Mp I.152), 319, Mp I.30, 40, 88, 124, II.379. ⑶ vitaṇḍavādin について,[佐々木 1990: 235]は,「上座部と同じ経典を利用しな がら自らの自由な解釈を与へんとしてゐる一群のソフィスト」とみなす。[工藤 1966]は,インド論理学用語としての Skt. vitaṇḍā(論詰)や lokāyata 派(唯物論 者,快楽論者)を指す事例,Mil などの用例を視野に入れながら,『法集論註』と 『分別論註』の vitaṇḍavādin を区別し,スリランカ仏教における分派論者や他の諸 部派の可能性を指摘した。パーリ註釈文献に登場する vitaṇḍavādin の事例を広く 収集し総合的に考察したのは Adikaram と森祖道である([Adikaram 1994: 95‒96], [森 1984: 128‒139])。[村上 1991: 254]は,自説の積極的な構築よりも他説批判, 否定に徹するヴェーダーンタ派のシュリー・ハルシャの vitaṇḍā(論詰)につい て,川口賢氏の研究をもとに中観派との親近性を示唆している。筆者は,上座部 の理論的欠点を叩き(vi-taḍ),矛盾の論詰をくり返す点から vitaṇḍavādin を「難癖 論者」と名付け,彼らがパーリ経典特有の表現を有する経(Kuḷumbasutta)を引用 し,しかも『論事』以外のパーリ三蔵を認めるのであれば,非上座部(大寺派)で はなく,むしろ上座部内の異論師を指すのではないかと指摘した([林 2013: 31, 43 n.14])。[清水 2016a: 219]は,明らかに筆者と森祖道の訳語を利用して「ヴィタン ダ(vitaṇḍa [ママ])とは「難癖」「詭弁」と言う意味である。」という不可解な注 記(n.2)をし,さらに[森 1984]を批判する際には,筆者らの指摘した論点を明 記せずに用いている(n.3)。 ⑷ 「ほんのいくつかの問分が残っているだけである」とは,〔『分別論』の〕「法心 分別」に伝承されておらず『大法心』に伝承されている残りのものは,「法心分別」 の言葉と比べると,ほんのいくつかの問分だけである,という意味。他ならぬこ こ(「法心分別」)に含まれている,というわけで「以前になかったものはない」と 述べられている。「ほんの少量の文が残っているだけである」とは,「法心分別」に 伝承されておらず『大法心』に伝承されている聖文よりも,もし地などについて 〔より〕詳しく論じる〔としても〕『大界論』は,〔『法集論』の〕「色品」と〔『分別

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論』の〕「界分別」のなかに〔含まれている〕。さらに,『界論』よりも詳しく論じ ていて,『界論』に伝承されておらず『大界論』に伝承されている聖文はほんの少 量だけであるということを意図している。(Abhidhammamūlaṭīkā Be 13‒14, cf. [浪速 2014: 51‒52]) ⑸ 別の論文でも,buddhavacana が「仏陀の肉声を意味している場合」[清水 2015: 100],「仏陀の肉声を引用している箇所」[清水 2016b: 10]というように,清水氏 は「肉声」という言葉を頻用する。しかし,仏典というのは肉声(人の口から直接 発せられたなまの音声)ではなく,音声記録媒体でもなく,口述筆記したものです らない。 ⑹ このテーマを論じる[Shimizu 2015]の問題については別の機会(『印仏研』 63‒1, 2018)に検討する。 ⑺ 『四分律』では「仏所説,声聞所説,仙人所説,諸天所説」,『十誦律』では「仏 所説,弟子所説,天所説,仙人所説,化人所説」,『根本説一切有部律』では「仏, 及び声聞所説の法」,『摩訶僧祇律』では「仏所説と仏の印可する所」とある。 ⑻ 『律蔵註』によれば,「仏所説」とは,律蔵全体,アビダンマ蔵,Dhp, Cp, Ud, Iv,

Ja, Sn, Vv, Pv,「梵網経」を始めとする諸経典(Brahmajālādīni ca suttāni),「声聞所 説」とは,Anaṅgaṇa(MN no. 5,サーリプッタの教説),Sammādiṭṭhi(MN no. 9, サーリプッタの教説),Anumāna(MN no. 15,マハーモッガッラーナ),Cūḷavedalla (MN no. 44,ダンマディンナー比丘尼),Mahāvedalla(MN no. 43,サーリプッタ の教説)など,「聖仙所説」とは,外道の遍歴行者たちが説いた,Paribbājakavagga (MN nos. 71‒75),バーヴァリの内弟子である十六人のバラモンたちの質問(=

Pārāyanavagga, Sn p. 190ff.)など,「天所説」とは,神々が説いた,SN 有偈品の中 の Devatāsaṃyutta, Devaputtasaṃyutta, Mārasaṃyutta, Brahmasaṃyutta, Sakkasaṃyutta など。漢訳『善見律毘婆沙』(T1462, 779b‒c)では対応箇所の訳出なし。

⑼ Th-a III.203: evam ete Subhūti-ādayo Vaṅgīsapariyosānā dvisataṃ catusaṭṭhi ca mahātherā idha Pāḷiyaṃ ārūḷhā, te sabbe yathā sammāsambuddhassa sāvakabhāvena ekavidhā. このようにして,これらスブーティを最初としヴァンギーサを最後とす る200と64の大長老が,ここでは聖典(『長老偈』)に収載されている。彼らはすべ て正等覚者の声聞であることによって1種類である。

⑽ Th-a III.206: ye pana ariyasāvakā aggasāvakā viya ca mahāsāvakā viya ca na parimitā va. atha kho anekasatā anekasahassā, te pakatisāvakā. idha Pāḷiyaṃ ārūḷhā pana parimitāva gāthāvasena pariggahitattā. tathā pi mahāsavakesu pi keci idha Pāḷiyaṃ anārūḷhā. ところ が,最高の声聞のような,大声聞のような,聖なる声聞たち〔の数〕は決して計り 知れない。さらに数百,数千いるのだが,その者らは一般的な声聞たちである。し かし,ここで聖典(パーリ)に収載されているもの(偈たち)はまさに分量に限り

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があるのであって,偈によってまとめられていることにより,たとえ同様であって も,大声聞であってもある者たちはここでは聖典に収載されていない。

⑾ Th-a I.1, v.7: Theragāthā ti nāmena Therīgāthā ti tādino / yā Khuddakanikāyasmiṃ saṅgāyiṃsu mahesayo // 名称からすると,「長老偈」というもの,「長老尼偈」と いうものを,その如きお方である大仙人たちが『小部』のうちに結集(合誦)し た。Th-a I.2: tā sabbā saṅgītikāle ekajjhaṃ katvā Theragāthā icc’ eva dhammasaṅgahakehi saṅgītā. それらすべて〔の偈〕は,結集の時にひとまとめにされて,他ならぬ「長 老偈」として教法の結集者たちによって結集(合誦)された。 ⑿ 現在の Bv は全28章で構成されているが,第27章第1偈の註釈において,「これ を始めとする18偈は結集の執行者(saṅgītikāra)たちによって設けられたもので あって,結論偈(nigamanagāthā)として理解されるべきである」と説明され,そ れ以降の偈については「残りは明らか」と述べられていて,第28章の註釈もない。 つまり,註釈者の手元にあった聖典(古註釈も同様)は全27章だったはずである。 しかも,現行 Bv は第27章は20偈なので,偈の数も異なっている。このように, パーリ註釈文献が執筆された後も,厳密な意味では,聖典が閉じずに修正が加わっ ている。[森 1984: 54],[Norman 1983: 93],[v. Hinüber 1996: sec.124]など参照。 ⒀ この箇所のさらに詳しい話は Dh-a I.56‒66にある。コーサンビーの破僧事件の資 料については[森・本澤 2009: 226‒31]参照。 ⒁ 後代の思想を反映した「心所法」の語法からも成立時期の遅さを窺わせる([水 野 1964: 216‒217]参照)。 ⒂ これは,本稿4.③で扱った『長部註』の「聖典本文から抜けている〔法話〕」 について,復註が「結集に収載されなかった〔法話〕」と言い換えている(Sv-ṭ II.177: Pāḷimuttakāyā ti saṅgīti-anārūḷhāya dhammikathāya)ことからもわかる。

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中心に─」『仏教論叢』60, 8‒15. 田辺和子『パーリ聖典に見られる物語文学の世界』東京:山喜房佛書林 1997. 浪花宣明 2014『法集論註』京都:平楽寺書店. 畑昌利 2010「傷ついた阿闍世」『印仏研』59‒1, 324‒319. 馬場紀寿 2008『上座部仏教の思想形成──ブッダからブッダゴーサへ』東京,春秋 社. 林隆嗣 2013「仏典結集で収載されなかった経典─ Kuḷumbasutta と Catuparivaṭṭasutta を中心に─」『パーリ学仏教文化学研究』27, pp. 21‒46. 水野弘元 1964『パーリ仏教を中心とした仏教の心識論』東京:ピタカ. 村上真完 1991『インド哲学概論』京都:平楽寺書店. 森章司・本澤綱夫 2009「コーサンビーの仏教」『原始仏教聖典資料による釈尊伝の研 究』【14】東京:中央学術研究所,pp. 226‒31. 森祖道 1984『パーリ仏教註釈文献の研究─アッタカターの上座部的様相─』山喜房 佛書林.

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参照

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