アポーハ論の三段階展開説再考
石 田 尚 敬
1.アポーハ論の三段階展開説
仏教認識論・論理学派の創始者であるディグナーガ(5世紀頃)が,言語哲学の 分野で創唱したものが,「語は他の排除によってその対象を表示する」と定式化 されるアポーハ論であった.このアポーハ論は,インド仏教最後期の思想家であ るモークシャーカラグプタ(11∼12世紀頃)に至るまで継承されるが,その内容は 時代とともに変遷したことが知られる.そのようなアポーハ論の展開を考える場 合,これまでの先行研究で取り上げられてきたものに,アポーハ論の三段階発展 説が挙げられる1). (1)他のものの否定を強調する否定的アポーハ論―ディグナーガ,ダルマキールティ (2)心に生ずる肯定的な観念を第一に主張し,否定そのものは二次的に含まれるとする肯 定的アポーハ論―シャーンタラクシタ (3)否定と肯定とを同時的に行うとし,他の否定が肯定的な観念の限定者としてあるとす る否定肯定的アポーハ論―ジュニャーナシュリーミトラ,ラトナキールティ 否定肯定的アポーハ論は,[肯定否定]折衷的アポーハ論とも表現されるが, この説は,Satkari Mookerjee博士(Mookerjee 1935)の説明と関連付けて語られるこ とが多い.しかしながら,改めてMookerjee (1935)の説明を参照すると,上記の 三段階が語られているわけではないことがわかる.その点を確認しておきたい(以下は筆者による要約).
[1]ディグナーガ: 排除(apoha)または他の排除(anyāpoha)は,「純粋な否定」(pure
negation)という自然な意味を有する.それ(排除)は,肯定的な内容を持たない2).
[2]シャーンタラクシタ: 排除(apoha)は,肯定的な概念的構想物であり,純粋に主観的
な観念であり,我々の心理的な実在論的バイアス(傾向性)によって誤って対象化さ
れたものである.しかし,それ(排除)は,否定的含意(negative implication)を有し,
[3]ラトナキールティ: 語の意味は,対立項の否定に限定された概念知の形象という複合 体(complex)である4). Mookerjee (1935)は,未だ原典資料の乏しい時代に在って5),既に出版されてい た『真理綱要』(Tattvasaṅgraha)の解読により,第2期のアポーハ論者としてシャー ンタラクシタ(725–788頃)を配置した.それに先立つ第1期のアポーハ論者に ディグナーガを,ラトナキールティ(11世紀頃)を第3期のアポーハ論者とした. その後,Mookerjee (1935)の議論を受け,アポーハ論の三段階発展説を改めて 提示したのは,梶山雄一博士であった.梶山博士は,インド仏教最後期に活躍し たモークシャーカラグプタの『論理の言葉』の英訳研究(Kajiyama 1968, 125)にお いて6),以下のラトナキールティの著名な言明を引用する. 牛が認識された場合に,「その本質をもつものは,他の本質をもつものではない」という ように,間接的に,排除が,後から確定されると考える肯定論者の見解,あるいは,「〈他 者の排除〉が認識された場合に,間接的に,他者から排除されたものが確定される」と考 える否定論者の見解,それは妥当でない.
yat tu goḥ pratītau na tadātmāparātmeti sāmarthyād apohaḥ paścān niścīyata iti vidhivādināṃ matam, anyāpohapratītau vā sāmarthyād anyāpoḍho vadhāryata iti pratiṣedhavādināṃ matam, tad asundaram.
(RNA 59,7–9)
この説明を参考に,Kajiyama (1968)は,第1期を否定的アポーハ論者( vidhi-vādin),第2期を肯定的アポーハ論者(nivṛtti-vādin, pratiṣedha-vādin)第3期を折衷的 アポーハ論者に同定した.ここで,シャーンタラクシタを第2期としたことは Mookerjee (1935)と共通するが,第3期に新たにジュニャーナシュリーミトラを 加えた.さらに,第1期の否定的アポーハ論者にディグナーガに加えてダルマ キールティ(7世紀頃)を配当するにあたり,フラウワルナー博士の研究成果を参 照している点は注目に値する.フラウワルナー博士は,ニヤーヤ派のウダヤナの 著作『アートマ・タットヴァ・ヴィヴェーカ』に対するシャンカラミシュラの注 釈書において,以下の言明がなされることを指摘している. ディグナーガやダルマキールティなどによって,「これは牛である」などの概念において, 肯定的な顕現は全く存在しないと述べられた.
kīrtidiṅnāgādibhir gaur iyam ityādivikalpe vidhisphuraṇaṃ nāsty evety uktam. (Cf. Kajiyama 1968, 125, footnote 338)
これによって,ダルマキールティも第1期否定的アポーハ論者として同定される こととなった.こうして,Kajiyama (1968)によって提示された三段階発展説が, 一般に広まることとなった.
ここで改めて振り返ると,Mookerjee (1935)は,自身の分類に肯定論者( vidhi-vādin)や否定論者(nivṛtti-vādin, pratiṣedha-vādin)という表現も用いておらず,否定論 者が第1段階に同定されることもないことが注意されねばならない.というの
も,Mookerjee (1935)は,自身による第3段階を説明する箇所で,次のように述
べているのである.
He [Ratnakīrti] does not subscribe to the position of Śāntarakṣita, who held that word conveyed a positive meaning in the first instance and a negative import by logical implication. There were some other Buddhist thinkers, we guess from the words of Ratnakīrti, who thought negation to be the primary meaning and the positive aspect of negation was supposed to be understood by a logical construction. (Mookerjee 1935, 132. [ ]は筆者) 上記の説明を自身の第3段階の説明で行っていることにより,Mookerjee (1935) は,ラトナキールティの述べる否定論者を,第1段階のアポーハ論と同定してい ないことがわかるだろう. その後,梶山博士によって纏められたアポーハ論三段階発展説は,研究史上大 きな影響力を持つに至ったが,現在までにいくつかの問題が指摘されており,す でに過去の学説となったと言ってもよい.ひとつは,岡田(2010)等も指摘する ように,7世紀のナーランダー僧院で活躍したシャーキャブッディや8世紀のカ シミールで活躍したダルモーッタラ(740–800頃)を始め,ダルマキールティ以降 のアポーハ論の展開に一定の役割を果たしたと目される思想家が考慮されていな いことが挙げられる.また,内容面での重要な訂正として,赤松明彦博士によ り,否定論者(pratiṣedha-vādin)がダルモーッタラに同定されたことも挙げられる 7). このように,いくつかの修正点が指摘される三段階発展説であるが,今一度振 り返ると,示唆に富む点が未だ含まれているようである.その点を本稿で考察し たい. 2
.肯定的・否定的アポーハ論者とは
上述のラトナキールティの言明を振り返ると,問題とされているのは,否定と しての「アポーハ」(排除)がいかに理解されるかという認識プロセスに関するものであった.ラトナキールティの説明に基づきアポーハ論の展開を考える上で は,以下の2点を区別することが必要と考えられる. 1.否定・肯定の理解のプロセス: 肯定的なものを理解した後に否定(排除)が理解され るのか,あるいは,否定(排除)が理解されたのちに,肯定的なものが理解されるの か. 2.表象(形象)の有無: 概念知に現れる表象を認めるか否か8). ラトナキールティが肯定論者,否定論者を問題にする場合には,第1の「否定・ 肯定が理解されるプロセス(段階)」が問題とされていることが理解できよう. 3
.ダルモーッタラは否定論者か
本稿では9),ダルモーッタラのアポーハ論について取り上げることとしたい. ダルモーッタラは,Akamatsu (1986)によって,否定論者に同定されている.こ の点について,ダルモーッタラは,厳密な意味で,ラトナキールティの紹介する 「〈他者の排除〉が認識された場合に,間接的に,他者から排除されたものが確定 される」と考える否定論者の見解に合致するであろうか. すでに指摘されている通り,ダルモーッタラは,形象(ākāra)ではなく「虚構 されたもの」を語の意味とする.それを述べるのは,『アポーハプラカラナ』冒 頭偈であった. 概念知により,他の諸々のものとは区別されたもの(rūpa)として描き出されるもの,[そ れは,]知でもなく,外界[対象]でもない.まさにそれは,非真実の虚構されたものに 他ならないと述べられ,世人に真実を語られた,あらゆる過失という敵に勝利する者.そ の教示者に叩頭して帰敬した後,この[論書]で,そのアポーハが,詳述される.buddhyā kalpikayā viviktam aparair yad rūpam ullikhyate buddhir no na bahir yad eva ca vadan nistattvam āropitam / yas tattvaṃ jagate jagāda vijayī niḥśeṣadoṣadviṣāṃ vaktāraṃ tam iha praṇamya śirasā pohaḥ sa vistāryate // (cf. 石田2014, 789)
ここでは,非真実の〈虚構されたもの〉が,概念知によって描き出されるもの, すなわち概念知の対象と考えられていることが確認される. さて今,このように,概念知が〈虚構されたもの〉を知らしめるという見解に おいても,〈虚構されたもの〉を通して,実在する〈個別相〉が獲得されねばな らない.ダルモーッタラは,概念知に基づく外界対象への活動を可能とする, 〈虚構されたもの〉と外界対象との関連を,「外界[対象]との相似」(bāhyasadṛśa) と表現している.そして,どのようにして相似性が示されるのを,論証式を以っ
て説明する. 【遍充関係】全く異なるものを同一のものとして把握するもの,それは〈他の排除〉によっ てもたらされた相似性の把握に専心する.たとえば,布は壺と全く異なるけれども,〈木 でないもの〉という限定を受けて把握される場合に,「これ(布)も木でなければ,これ (壺)も木でない」というならば,[布が]〈壺と相似したもの〉として把握されるようなも のである. 【主題所属性】同様に,概念知の対象(=非真実のもの)は,外界[対象]と全く異なるけ れども,外界[対象]と把握されるものである10).
gaṅ źig śin tu mi dra ba de i raṅ bźin du dzin pa de ni gźan las bzlog pas byas pa i dra bar dzin pa lhur len pa yin te | dper na snam bu bum pa daṅ śin tu mi dra yaṅ śiṅ ma yin par khyad par can du ṅes par rtogs pa na di yaṅ śiṅ ma yin na di yaṅ śiṅ ma yin źes yin na bum pa daṅ dra bar ṅes par rtogs pa bźin no || de bźin du rnam par rtog pa i don phyi rol daṅ śin tu mi mthun pa yaṅ phyi rol du ṅes par rtogs pa yin no || (APF 244,29–245,4) ここで,布と壺が「木と異なる」(=木からの排除)という点で同じものと把握さ れるという議論は,あたかも詭弁のように聞こえるが,「あるものと異なる」(あ るものからの排除)という〈他の排除〉を通して,外界対象である〈個別相〉と概 念知の対象である〈虚構されたもの〉が類似性を持つという議論は,ひとまず理 解できよう.すなわち,外界対象に「非牛の否定」が成り立つ場合,〈虚構され たもの〉にも「非牛の否定」が成り立つと説明することができる.概念知は,非 真実の〈虚構されたもの〉を対象とするが,それが,〈他から排除されたもの〉 と把握される場合に,同じく〈他の排除〉を有する個物(個別相)との連関が確 保されるのである. 以上の議論を踏まえ,ダルモーッタラは,概念知の働きを以下のように説明す る.ここで,純粋否定と肯定的なものを含意する定立的否定が導入される. 概念知が,〈他から排除されたもの〉として虚構しつつ,外界対象の〈他の排除〉を理解さ せる.その時,他の実在の〈純粋否定〉だけによって,実在に触れることにより,実在の 理解があるのだから,語と概念知は〈純粋否定〉(prasajyapratiṣedha)に向かうものであり, 〈定立的否定〉(paryudāsa)に対して働くのではない.
gaṅ gi tshe rnam par rtog pa gźan las ldog par sgro dogs pa na phyi rol gyi gźan las ldog par rtogs par byed pa de i tshe dṅos po gźan med par bkag pa ñid kyis dṅos po la reg pas dṅos po rtogs pa yin pa i phyir sgra daṅ rnam par rtog pa med par dgag pa la phyogs pa yin gyi | ma yin par dgag pa la jug pa ni ma yin no || (強調筆者,APF 251,3–7)
ら,語および概念が,他の肯定的なものを含意するような〈定立的否定〉を求め ることはありえないことが主張される.したがって,語や概念の対象となるの は,実在する〈個別相〉のレベルでも,概念知の〈虚構されたもの〉のレベルに おいても,〈純粋否定〉となるのである.ダルモーッタラは,続けて以下のよう に述べる. したがって,〈純粋否定〉(prasajyapratiṣedha)を虚構しつつ理解した場合,同一のものと思 い込むことによって,外界対象の〈純粋否定〉(prasajyapratiṣedha)を確定するのである. したがって,外界対象の〈あるものの欠如〉(=〈他の排除〉)は,概念知によって確定され るものであり,〈虚構されたもの〉の〈あるものの欠如〉(=〈他の排除〉)は(概念知によっ て)把握されるものである.したがって,師ダルマキールティもまた〈純粋否定〉 (prasajyapratiṣedha)だけを認めていることは確実である.
de i phyir med par dgag pa sgro dogs par rtogs pa na tha mi dad par źen pas phyi rol gyi med par
dgag pa ṅes pa yin no || des na phyi rol gyi cig śos kyis stoṅ pa ni rnam par rtog pas ṅes par byas pa
yin la | sgro btags pa i cig śos kyis stoṅ pa ni gzuṅ bar bya ba yin no || de ñid kyi phyir na slob dpon chos kyi grags pa yaṅ med par dgag pa ñid bźed par gdon mi za o || (強調筆者,APF 251,7–12)
上記の言明は,ダルマキールティもまた,〈純粋否定〉(prasajyapratiṣedha)だけを 認めていたと主張する,思想史上有意義なものと言える.概念知が,〈虚構され たもの〉である〈純粋否定〉を把握することにより,外界対象である〈個別相〉 の〈純粋否定〉を確定するということが,ここで明確に述べられている. こうしてみると,ダルモーッタラの学説において,「〈他者の排除〉が認識され た場合に,間接的に,他者から排除されたものが確定される」と考える否定論者 の見解を読み取ることは,果たして可能であろうか. 4
.おわりに
このように,既に過去のものとなったアポーハ論の三段階発展説であるが,改 めて見直すことで,近年の研究を見直し,ダルモーッタラなどの仏教論理学派の 論師の主張を,改めて考えることができる.その意味で,未だ有効性を持ってい るともいえるのである. 1)長崎1984, 347参照.2)Cf. Mookerjee 1935, 132: (1) In the first place, apoha or anyāpoha, as formulated by Dignāga, had its natural meaning of pure negation, so far at least as its comprehensive reference was con-cerned. It had no positive content or reference.
interpreta-tion. Apoha was supposed to stand for a positive conceptual construction, a purely subjective idea, fondly objectified by the realistic bias of our psychological constitution. This realistic reference was traced to the working of previous sub-conscious impressions lying embedded in the subliminal re-gion of consciousness from a beginningless time. But still it had a negative implication and this negative aspect, though not psychologically felt, was regarded to be the fundamental keynote of verbal import.
4)Cf. Mookerjee 1935, 133: Ratnakīrti differs from the latter theory also. He maintains like the
Naiyāyikas that the connotation of a word is a complex, being a conceptual image as qualified by a
negation of the opposite entities. The meaning of a word is therefore neither purely positive nor purely negative with contrary logical implication, but even psychologically a distinctive concept with the element of distinction or negation as a part of the felt content.
5)当時,ダルマキールティの著作は『正理一滴論』(Nyāyabindu)を除き,サンスクリッ ト語原典は得られなかった.さらに,ジュニャーナシュリーミトラの著作は,一小作品 の部分的なチベット語訳を除き,翻訳すら存在しなかった. 6)Cf. Kajiyama 1968, 125, footnote 338. 7)Cf. Akamatsu 1986. 8)Mookerjee (1935)およびKajiyama (1968)の説明する第1期では,表象が認められない ことが指摘されており,Mookerjee (1935)の説明する第2段階においても,シャーンタラ クシタが「肯定的な表象を認めたこと」が特に指摘されているように思われる. 9)シャーキャブッディの立場については,別稿を期すこととしたい. 10)【結論】したがって,概念知は,〈他の排除〉によってもたらされた相似性の把握に専 心する. 〈参考文献〉
Akamatsu Akihiko. 1986. Vidhivādin et Pratiṣedhavādin: Double aspect presenté par la theorie sé-mantique du Bouddhisme Indien. Zinbun 21: 67–89.
Kajiyama Yuichi. 1966. An Introduction to Buddhist Philosophy: An Annotated Translation of the
Tarkabhāṣā of Mokṣākaragupta. Kyoto (repr. Wiener Studien zur Tibetologie und Buddhis-muskunde 42. Wien: Arbeitskreis für Tibetische und Buddhistische Studien, Universität Wien, 1998)
Mookerjee, Satkari. 1935. The Buddhist Philosophy of Universal Flux: An Exposition of the Philosophy
of Critical Realism as Expounded by the school of Dignāga. Calcutta: University of Calcutta.
石田尚敬2014「『Apohaprakaraṇa』の冒頭偈について」『奥田聖應先生頌寿記念インド学仏 教学論集』佼成出版社,784–792. 岡田憲尚2010「間接的に知られる〈他者の排除〉について」『佛教學』52: 91–111. 長崎法潤1984「概念と命題」平川彰他編『認識論と論理学』講座大乗仏教9,春秋社, 341–368. (令和元年度科学研究費補助金(若手研究・課題番号18K12203)による研究成果の一部) 〈キーワード〉 仏教論理学,アポーハ論,シャーンタラクシタ,ダルモーッタラ,ラトナ キールティ (愛知学院大学准教授,Dr.phil)