駒澤大學佛教學部論集 第四十七號 平成二十八年十月 一一 〔 265〕 〈 原 文 〉 西 京 応 天 禅 院 、 即 太 宗 (祖カ) 誕 生 之 地 。 景 德 四 年 二 月 、 真 宗 毎 幸 、 詔 建 院 、 設 太 祖 神 御 、 如 啓 聖 制 度 。 吏 部 尚 書 張 斉 賢 、 翰 林 学 士 晁 迥 、 入 内 都 知 石 知 顕 (顒カ) 択 地 。 天 (大カ) 中 祥 符 元 年 、 又 命 翰 林 学 士 李 宗 諤 与 河 南 府 王 化 基 覆 視 。 二 年 、 賜 名 。 祀 汾 陰 迴 、 幸 院 焚 香 。 又 命 礼 賓 副 使 賈 文 寿 同 修 。 天 禧 元 年 成 、 凡 九 百 九 十 一 区 、 令 洪 州 僧 智 新 住 持 。 寺 旁 有 驍 勝 軍 営 、 寺 僧 常 請 為 馬 厩 。 真 宗 曰 、 頗 聞 太 祖 生 於 此 営 、 今 営 有 二 岡 、 殆 是 乎 。 二 年 、 又 令 増 院 常 住 銭 日 三 千 、 毎 朔 望 、 士 庶 瞻 礼 焚 香 。 〈 訓 読 〉 西 京 応 天 禅 院 は 、 即 ち 太 祖 誕 生 の 地 な り 。 景 徳 四 年 二 月 、 真 宗 毎 に 幸 し 、 詔 し て 院 を 建 て 、 太 祖 の 神 御 を 設 け し む る に 、 啓 聖 の 制 度 の 如 く せ し む 。 吏 部 尚 書 の 張 斉 賢 、 翰 林 学 士 の 晁 迥 、 入 内 都 知 の 石 知 顒 、 地 を 択 ぶ 。 大 中 祥 符 元 年 、 又 た 翰 林 学 士 李 宗 諤 と 河 南 府 の 王 化 基 に 命 じ て 覆 た 視 さ し む 。 二 年 、 名 を 賜 わ る 。 汾 陰 に 祀 り 迴 り て 、 院 に 幸 し 焚 香 す 。 又 た 礼 賓 副 使 の 賈 文 寿 に 命 じ て 同 に 修 せ し む 。 天 禧 元 年 成 る 、 凡 そ 九 百 九 十 一 区 あ り 、 洪 州 の 僧 、 智 新 を し て 住 持 せ し む 。 寺 の 旁 ら に 、 驍 勝 軍 の 営 有 り 、 寺 僧 は 常 に 馬 厩 を 為 す を 請 う 。 真 宗 曰 く 、 頗 る 太 祖 此 の 営 に 生 ま れ る と 聞 く 、 今 営 に 二 岡 有 り 、 殆 ど 是 れ な る か 。 二 年 、 又 た 院 の 常 住 銭 、 日 に 三 千 を 増 し 、
『宋会要』道釈部訓注(一一)
永
井
政
之
程
正
五十嵐
嗣
郎
角
田
隆
真
大
澤
邦
由
徳
護
長谷川
淳
一
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 一二 朔 望 毎 に 、 士 庶 を し て 瞻 礼 し 、 焚 香 せ し む 。 〈 解 説 〉 本 項 は 、 北 宋 第 三 代 の 真 宗 が 初 代 の 太 祖 ( 趙 匡 胤 ) が 生 ま れ た 西 京 ( 洛 陽 ) に 応 天 禅 院 を 建 立 し た 記 事 で あ る 。 ま ず、 西 京 応 天 禅 院 の 建 立 ま で の 経 緯 に つ い て 述 べ て い る 。 西 京 応 天 禅 院 は 、 太 祖 が 誕 生 し た 場 所 に あ る 。 真 宗 は つ ね づ ね 行 幸 し て い た が 、 景 徳 四 年 ( 一 〇 〇 七 ) 二 月 に 、 詔 し て 寺 院 を 建 設 し 、 太 祖 の 神 御 ( 先 帝 の 肖 像 ) を 納 め る こ と を 命 じ た 。 そ れ は 啓 聖 院 で 太 宗 の 「 聖 容 」 を 安 置 し た 際 の き ま り に 従 っ て 行 わ れ た 。 吏 部 の 長 官 の 張 斉 賢 、 翰 林 学 士 の 晁 迥 、 入 内 内 侍 省 の 都 知 の 石 知 顒 が 寺 院 を 立 て る 場 所 を 選 定 し た 。 ま た 、 大 中 祥 符 元 年 ( 一 〇 〇 八 ) に 翰 林 学 士 の 李 宗 諤 と 河 南 府 知 事 の 王 化 基 に 命 じ て よ く 調 べ さ せ た 。 大 中 祥 符 二 年 に 応 天 禅 院 の 名 前 を 賜 っ た 。 西 京 応 天 禅 院 の 建 立 と 太 祖 の 神 御 の 安 置 は 、 さ き に 太 宗 の た め に 啓 聖 院 が 建 立 さ れ 、 ま た 真 宗 に よ っ て そ こ に 太 宗 の 聖 容 が 奉 納 さ れ た こ と に 倣 う も の で あ っ た 。「 啓 聖 院 」 に つ い て は 、 本 稿 〔 126〕 を 参 照 。 太 祖 の 生 誕 地 に つ い て は 『 宋 史 』 巻 一 ( 中 華 書 局 本 、 第 一 冊 、 二 頁 ) に 「 洛 陽 夾 馬 営 に 生 ま る 」 と あ る 。 次 に 、 汾 陰 ( 山 西 省 ) で の 后 土 の 祭 祀 と そ の 帰 途 で の 応 天 禅 院 へ の 行 幸 等 の 記 事 が 述 べ ら れ て い る 。 真 宗 は 汾 陰 で 祭 祀 を 行 っ た 後 各 地 を 巡 り 、 西 京 の 応 天 禅 院 に 行 幸 し て 焼 香 を 行 っ て 、 礼 賓 院 副 使 の 賈 文 寿 に 命 じ て 共 同 し て 寺 院 の 建 設 に あ た ら せ た 。 天 禧 元 年 ( 一 〇 一 七 ) に 応 天 禅 院 が 完 成 し た 。 全 体 で 建 物 は 九 百 九 十 一 の 区 画 が あ っ た 。 洪 州 ( 江 西 省 ) の 僧 智 新 を 住 持 さ せ た 。 寺 院 の そ ば に 驍 勝 ( 勇 ま し く 優 れ た ) と 名 づ け ら れ た 軍 隊 の 駐 屯 地 が あ り 、 寺 僧 は 馬 を 野 放 し に せ ず 、 馬 小 屋 を 造 る こ と を 要 請 し て い た 。 真 宗 は 、「 し ば し ば 太 祖 は こ の 軍 営 で 生 ま れ た と 聞 い て い る が 、 い ま 軍 営 に 二 つ の 岡 が あ る の で 、 お そ ら く は こ の あ た り で あ ろ う 」 と 言 っ た 。〔 天 禧 〕 二 年 ( 一 〇 一 八 ) に は 、 ま た 寺 院 の 運 営 費 用 を 一 日 あ た り 三 千 銭 ず つ 増 や し 、 陰 暦 の 一 日 と 一 五 日 に は 士 人 と 庶 民 に 礼 拝 焼 香 さ せ た 。 真 宗 は 大 中 祥 符 元 年 十 月 に 泰 山 で 封 禅 の 儀 式 を 行 っ た の に 続 き 、 大 中 祥 符 四 年 二 月 に 漢 の 武 帝 の 例 に な ら い 汾 陰 で 大 地 を ま つ る 后 土 の 祭 祀 を 行 っ た 。 こ れ ら は 澶 淵 の 盟 ( 一 〇 〇 四 年 の 契 丹 と の 和 平 条 約 ) 以 降 の 状 況 の 下 で 、 宋 が 中 国 の 主 権 者 で あ る こ と を 内 外 に 示 そ う と す る 行 事 で あ っ た 。 汾 陰 で の 祭 祀 の 後 、 真 宗 は 西 京 に 立 ち 寄 り 、 応 天 禅 院 に 行 幸 し た こ と が 『 続 資 治 通 鑑 長 編 』 巻 七 五 に 記 さ れ て い る 。 (大 中 祥 符 四 年 三 月 ) 甲 申 ( 一 一 日 ) 応 天 禅 院 に 幸 す 、 太 祖神 御 殿 監 修 の 官 及 び 工 匠 、 将 士 に 衣 服 、 緡銭 を 賜 う 。 ( 中 華 書 局 本 、 第 六 冊 、 一 七 一 六 頁 )
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 一三 な お 、『 宋 会 要 』 で は 天 禧 二 年 と し て 載 せ る 記 事 に つ い て 『 皇 宋 通 鑑 長 編 記 事 本 末 』 巻 二 〇 で は 天 禧 三 年 一 二 月 丙 申 の 記 事 と し て 載 せ 、 さ ら に 馮 拯 の 上 奏 に よ っ て こ の 詔 勅 が 下 さ れ た こ と が 知 ら れ る 。 各 人 名 に つ い て は 以 下 の 通 り で あ る 。 張 斉 賢 ( 九 四 三 ― 一 〇 一 四 ) は 、 曹 州 句 容 ( 山 東 省 ) の 人 、 字 は 師 亮 、 諡 は 文 定 で あ る 。 太 平 興 国 二 年 太 宗 の と き 進 士 と な る 。 真 宗 の 時 に 兵 部 尚 書 、 右 僕 射 等 を 歴 任 し た 。 晁 迥 ( 九 四 八 ― 一 〇 三 一 ) は 、 澶 州 清 豊 ( 河 南 省 ) の 人 、 字 は 明 遠 、 諡 は 文 元 で あ る 。 太 平 興 国 の と き 進 士 と な り 、 官 は 真 宗 の 時 、 工 部 尚 書 、 集 賢 院 学 士 を 歴 任 し た 。 後 に 、 太 子 少 保 を 以 て 致 仕 し た 。 詩 を よ く し 、 西 崑 体 に 通 じ 、 又 、 吐 納 養 生 の 術 を 善 く し た 。 書 室 を 養 素 園 と い う 。 著 作 に 翰 林 集 、 道 院 集 、 法 蔵 碎 金 集 、 耆 智 余 書 等 が あ る 。『 宋 史 』 三 〇 五 巻 に 伝 が あ る 。 石 知 顕 に つ い て は 、『 宋 史 』 巻 四 六 六 ・ 宦 者 一 に 「 石 知 顒 」 の 伝 が あ り 、 そ の 略 歴 か ら み て 同 一 人 物 で あ る と 思 わ れ る ( 中 華 書 局 本 、 三 九 冊 、 一 三 六 二 五 頁 )。 石 知 顒 ( 九 五 一 ― 一 〇 一 九 ) は 、 宦 官 の 家 系 の 人 で あ り 、 建 隆 年 間 に 入 内 し 、 後 に 太 宗 の 供 奉 官 と な っ た 後 、 軍 に 従 事 し 、 景 徳 年 間 に 入 内 都 知 と な っ て い る 。 李 宗 諤 ( 九 六 四 ― 一 〇 一 二 ) は 、 深 州 饒 陽 ( 河 北 省 ) の 人 、 字 は 昌 武 で あ る 。 端 拱 二 年 に 進 士 と な る 。 真 宗 の と き 知 制 誥 、 判 集 賢 院 を 経 て 翰 林 学 士 と な る 。 著 作 に 翰 林 雑 記 、 内 外 制 等 が あ り 、 ま た 続 通 典 、 大 中 祥 符 封 禅 汾 陰 記 、 諸 路 図 経 等 の 編 集 に 携 わ っ た 。 王 化 基 ( 九 四 四 ― 一 〇 一 〇 ) は 、 鎮 州 ( 河 北 省 ) の 人 、 字 は 永 図 で あ る 。 太 平 興 国 二 年 に 進 士 と な る 。 地 方 官 を 経 て 右 諫 議 大 夫 、 権 御 史 中 将 丞 、 工 部 侍 郎 、 参 知 政 事 、 礼 部 尚 書 等 を 歴 任 し た 。 な お 、 礼 賓 副 使 の 賈 文 寿 、 洪 州 僧 の 智 新 の 伝 は 確 認 で き な い 。 〈 長 谷 川 〉 〔 266〕 〈 原 文 〉 崇 恩 延 福 院 淳 熙 十 四 年 二 月 十 七 日 、 嗣 濮 王 士 歆 言 、 乞 将 臨 安 府 在 城 蒲 橋 修 蓋 庵 舍 一 所 、 以 崇 恩 延 福 院 為 額 。 従 之 。 〈 訓 読 〉 崇 恩 延 福 院 淳 熙 十 四 年 二 月 十 七 日 、 嗣 濮 王 士 歆 言 く 、 臨 安 府 在 城 の 蒲 橋 を 将 っ て 庵 舎 一 所 を 修 蓋 し 、 以 て 崇 恩 延 福 院 を 額 と 為 す こ と を 乞 う 。 之 に 従 う 。 〈 解 説 〉 本 項 は 、 宋 の 皇 族 で あ る 嗣 濮 王 ( 濮 王 の 後 継 者 と い う 称 号) 士 歆 が 、 自 身 の 功 徳 墳 寺 と し て 崇 恩 延 福 院 の 建 立 を 願 い 出 て 、 許 可 さ れ た 記 事 で あ る 。
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 一四 淳 熙 一 四 年 ( 一 一 八 七 ) 二 月 一 七 日 に 、 嗣 濮 王 士 歆 は 、 「 臨 安 府 城 内 の 蒲 橋 に 小 さ な 寺 一 か 所 を 建 築 し 、 崇 恩 延 福 院 と い う 勅 額 を 掲 げ る こ と を 許 し て い た だ き た い 」 と 上 奏 し 、 こ れ が 許 さ れ た 。 嗣 濮 王 士 歆 ( 一 一 一 八 ― 一 一 九 六 ) に つ い て は 、『 宋 史 』 巻 二 四 五 に 以 下 の 伝 が あ る 。 士 歆 は 、 仲 湜 の 第 十 一 子 な り 。 保 康 軍 節 度 使 を 襲 封 し て 由 り 、 開 府 の 儀 同 三 司 を 加 え 、 累 ね て 三 少 に 陞 る 。 慶 元 二 年 に 薨 じ 、 太 傅 を 贈 ら れ 、 韶 王 に 追 封 さ る 。 ( 中 華 書 局 本 、 第 二 五 冊 、 八 七 一 六 頁 ) 士 歆 は 、 宋 第 五 代 の 英 宗 の 父 で あ る 濮 安 懿 王 允 譲 の 曾 孫 に あ た る 。 淳 熙 一 三 年 に 少 保 、 同 一 六 年 に 少 傅 、 紹 熙 五 年 に 少 師 に 任 じ ら れ て い る 。( 参 照 、 中 華 書 局 本 『 宋 会 要 』 第 一 冊 、 帝 系 一 至 二 ) 崇 恩 延 福 院 に つ い て は 、『 咸 淳 臨 安 志 』 巻 七 六 に 記 事 が あ り 、 そ の 所 在 は 、「 塩 橋 下 の 八 界 巷 の 北 に 在 り 。 旧 く は 北 西 流 寓 濠 州 鍾 離 県 の 孔 雀 妙 明 寺 に 係 る 」( 中 華 書 局 本 、 第 四 冊 、 四 〇 四 八 頁 ) と 記 載 さ れ て お り 、 塩 橋 近 く に あ っ た こ と が 分 か る 。 本 文 で は 所 在 地 は 「 蒲 橋 」 と な っ て い る が 、『 咸 淳 臨 安 志 』 巻 二 一 の 「 疆 域 六 」 の 「 橋 道 」「 府 城 」 の 項 に 「 大 河 」 に 架 か る 橋 と し て 、「 塩 橋 、 興 徳 坊 の 東 な り 」、 「 蒲 橋 、 塩 橋 の 東 、 舟 楫 を 通 さ ず 」( 同 上 、 三 五 五 八 頁 ) と い う 記 載 が あ り 、 蒲 橋 と 塩 橋 が 近 接 し て い た こ と が 分 か る 。『 咸 淳 臨 安 志 』 に 添 付 さ れ た 地 図 の 「 京 城 図 」 お よ び 「 浙 江 図 」 に よ れ ば 、 塩 橋 は 臨 安 城 の 南 東 側 に あ る 「 東 青 門 」 近 く に 存 在 し て い る 。 〈 長 谷 川 〉 〔 267〕 〈 原 文 〉 永 寧 崇 福 院 紹 熙 元 年 六 月 十 四 日 、 詔 、 故 貴 妃 張 氏 墳 所 修 蓋 屋 宇 、 可 特 充 本 家 功 徳 院 。 仍 賜 永 寧 崇 福 院 為 額 、 差 僧 法 雲 住 持 。 日 後 闕 人 、 従 甲 乙 選 請 有 戒 行 人 焚 修 香 火 。 〈 訓 読 〉 永 寧 崇 福 院 紹 熙 元 年 六 月 十 四 日 、 詔 す 、 故 貴 妃 張 氏 の 墳 所 、 屋 宇 を 修 蓋 し 、 特 に 本 家 の 功 徳 院 に 充 つ べ し 。 仍 て 永 寧 崇 福 院 を 額 と 為 す こ と を 賜 い 、 僧 法 雲 を 差 わ し 住 持 せ し む 。 日 後 、 人 闕 け れ ば 、 甲 乙 に 従 い て 戒 行 有 る 人 を 選 請 し 、 香 火 を 焚 修 せ し む べ し 。 〈 解 説 〉 本 項 は 、 南 宋 高 宗 の 張 貴 妃 の 功 徳 墳 寺 で あ る 永 寧 崇 福 院 の 建 立 に 関 す る 記 事 で あ る 。
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 一五 紹 熙 元 年 ( 一 一 九 〇 ) 六 月 一 四 日 に 、 次 の 詔 勅 が 出 さ れ た 、「 亡 く な っ た 貴 妃 の 張 氏 の 墳 墓 の 場 所 に 屋 舎 を 建 て 、 特 別 に そ の 家 の 功 徳 院 と せ よ 。 よ っ て 永 寧 崇 福 院 の 勅 額 を 与 え 、 僧 の 法 雲 を 派 遣 し て 住 持 さ せ る 。 後 日 住 持 が い な く な る こ と が あ れ ば 、 甲 乙 徒 弟 制 に 従 っ て 戒 律 を 守 っ て 修 行 す る 人 を 選 び 取 っ て 法 灯 を 守 ら せ よ 」 と 。 張 貴 妃 ( ? ― 一 一 九 〇 ) に つ い て は 、『 宋 史 』 巻 二 四 三 に 以 下 の 伝 が あ る 。 張 貴 妃 は 開 封 祥 符 の 人 な り 。 初 め 入 宮 し 、 永 嘉 郡 夫 人 に 封 ぜ ら る 。 乾 道 六 年 に 婉 容 に 進 む 。 淳 熙 六 年 に 太 上 皇 淑 妃 に 封 ぜ ら る 。 一 六 年 に 貴 妃 に 進 む 。 紹 熙 元 年 薨 ず 。 ( 中 華 書 局 本 、 第 二 五 冊 、 八 六 五 〇 頁 ) 張 貴 妃 は 北 地 の 出 身 者 で あ り 、 長 年 高 宗 に 仕 え て 順 次 貴 妃 の 位 に 上 っ た こ と が わ か る 。 宋 代 の 内 命 婦 の 等 級 に つ い て は 〔 123〕 を 参 照 。 ま た 、 永 寧 崇 福 院 に つ い て は 、 黄 敏 枝 「 宋 代 的 功 徳 墳 寺 」 (『 宋 代 仏 教 社 会 経 済 史 』、 学 生 書 局 、 一 九 八 九 年 、 二 四 九 頁 ) に 、 功 徳 墳 寺 に 甲 乙 徒 弟 制 ( 寺 院 が 師 か ら 弟 子 に 伝 え ら れ る 制 度 ) が 適 用 さ れ て い た 事 例 と し て 紹 介 さ れ て い る 。 ま た 、『 咸 淳 臨 安 志 』 巻 七 九 に 次 の よ う な 記 事 が あ る 。 永 寧 崇 福 院 は 元 内 侍 の 陳 源 の 花 園 に し て 、 重 華 宮 に 献 じ て 小 隠 御 園 と 為 る 。 寿 皇 聖 帝 に よ り て 貴 妃 張 氏 に 撥 賜 さ れ 墳 寺 と 為 る 。 紹 熙 元 年 、 賜 わ り て 功 徳 院 に 充 て 今 の 額 に 改 む 。 淳 祐 元 年 、 旨 し て 専 一 に 孝 宗 皇 帝 の 神 御 を 崇 奉 せ し む 。 寺 前 に 澗 有 り て 、 双 峯 と 曰 い 、 又 た 金 沙 と 曰 う 。 淳 祐 五 年 、 趙 安 撫 与 𥲅 、 小 堤 を 築 き 、 僧 の 道 円 、 寺 前 に 即 し て 茶 湯 亭 を 建 つ 。 ( 中 華 書 局 本 、 第 四 冊 、 四 〇 八 二 頁 ) 永 寧 崇 福 院 は 、 も と も と は 内 侍 の 陳 源 の 花 園 で あ っ た が 、 孝 宗 が 光 宗 に 譲 位 後 移 り 住 ん だ 重 華 宮 に 献 上 さ れ 、 小 隠 園 と な っ た 。 そ の 花 園 は 寿 皇 聖 帝 ( 退 位 後 の 孝 宗 ) に よ っ て 高 宗 の 貴 妃 で あ る 張 氏 に 下 賜 さ れ 墳 寺 が 建 て ら れ た 。 紹 熙 元 年 ( 一 一 九 〇 ) に 功 徳 院 と な っ て 、 今 の 永 寧 崇 福 院 の 額 を 改 め て 賜 っ た 。 淳 祐 元 年 ( 一 二 四 一 ) に 、 皇 帝 か ら の 下 命 に よ り 、 も っ ぱ ら 孝 宗 皇 帝 の 神 御 ( 肖 像 ) を 尊 崇 す る た め の 寺 院 と な っ た 。 寺 院 の 前 に は 、 双 峯 澗 も し く は 金 沙 澗 と 呼 ば れ る 谷 の 水 が 流 れ て い た 。 淳 祐 五 年 ( 一 二 四 五 ) に 、 安 撫 使 の 趙 与 𥲅 が 小 堤 を 築 き 、 僧 の 道 円 が 茶 湯 亭 を 建 て た 。 〈 長 谷 川 〉 〔 268〕 〈 原 文 〉 奉 先 資 福 院 奉 先 資 福 院 、 即 安 陵 卜 定 。 乾 徳 二 年 改 卜 。 五 月 、 詔 就 陵 域 置
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 一六 院 、 設 宣 祖 、 昭 憲 太 后 銅 像 。 太 平 興 国 二 年 、 命 円 覚 大 師 守 篆 主 之 。 真 宗 毎 行 幸 大 礼 、 必 詣 院 。 又 秦 国 夫 人 劉 氏 、 孫 貴 妃 、 呉 昭 容 、 代 国 公 、 曹 国 長 公 主 悉 葬 院 側 。 〈 訓 読 〉 奉 先 資 福 院 奉 先 資 福 院 は 、 即 ち 安 陵 の 卜 し 定 む る と こ ろ な り 。 乾 徳 二 年 に 改 卜 す 。 五 月 、 詔 す 、 陵 域 に 就 き て 院 を 置 き 、 宣 祖 、 昭 憲 太 后 の 銅 像 を 設 く 。 太 平 興 国 二 年 、 円 覚 大 師 守 篆 に 命 じ て 之 れ を 主 ら し む 。 真 宗 、 行 幸 し 大 礼 を す る 毎 に 、 必 ず 院 に 詣 ず 。 又 た 秦 国 夫 人 劉 氏 、 孫 貴 妃 、 呉 昭 容 、 代 国 公 、 曹 国 長 公 主 は 悉 く 院 の 側 に 葬 ら る 。 〈 解 説 〉 本 項 は 太 祖 の 両 親 の 陵 墓 に 建 て ら れ た 奉 先 資 福 院 に つ い て の 記 事 で あ る 。 安 陵 は 太 祖 の 両 親 で あ る 宣 祖 ( 八 九 九 ― 九 五 六 ) と 昭 憲 太 后 ( 九 〇 二 ― 九 六 一 ) を 最 初 に 祠 っ た 陵 墓 で あ る 。 乾 徳 二 年 ( 九 六 四 ) に 改 卜 さ れ 、 陵 墓 が 遷 っ た の で 、 五 月 、 陵 墓 の 地 に 寺 院 ( 奉 先 資 福 院 ) を 建 て 、 宣 祖 と 昭 憲 太 后 の 銅 像 を 設 け よ と の 勅 命 が あ っ た 。 太 平 興 国 二 年 ( 九 七 七 )、 太 宗 の 命 令 に よ っ て 円 覚 大 師 守 篆 は 奉 先 資 福 院 の 住 持 と な っ た 。 真 宗 は 行 幸 の た び に 、 必 ず こ の 寺 院 に お 参 り し た 。 こ こ に は 秦 国 夫 人 劉 氏 、 孫 貴 妃 、 呉 昭 容 、 代 国 公 、 曹 国 長 公 主 な ど も 葬 ら れ た 。 安 陵 に つ い て は 『 宋 史 』 巻 一 二 二 の 「 凶 礼 」 に 「 安 陵 は 京 城 の 東 南 隅 に 在 り 。 乾 徳 の 初 め 、 河 南 府 の 鞏 県 西 南 四 十 里 の 訾 郷 鄧 封 村 に 改 卜 す 」( 中 華 書 局 本 、 第 九 冊 、 二 八 四 七 頁 ) と 記 さ れ て い る 。 改 卜 の 経 緯 は 『 宋 史 』( 同 前 ) と 『 宋 会 要 』 の 「 帝 陵 」( 『 宋 会 要 』、 第 二 冊 、 一 三 〇 六 頁 ) や 「 改 卜 陵 」 ( 同 右 、 一 三 五 四 頁 ) な ど に 詳 し く 、 乾 徳 元 年 ( 九 六 三 ) 一 二 月 二 三 日 に 安 陵 を 改 卜 す る 勅 命 を 下 し 、 同 二 年 四 月 九 日 に 改 葬 し て い る 。 円 覚 大 師 守 篆 に つ い て は 〔 270〕 に 説 明 が あ る 以 外 は 未 詳 で あ る 。 秦 国 夫 人 劉 氏 は 『 宋 史 』 に よ る と 、 真 宗 の 乳 母 で あ る ( 中 華 書 局 本 、 第 九 冊 、 二 九 〇 五 頁 )。 『 宋 会 要 』 后 妃 三 に よ れ ば 、 初 め に 斉 国 夫 人 、 至 道 三 年 ( 九 九 七 ) に 秦 国 延 寿 保 聖 夫 人 に 封 ぜ ら れ 、 咸 平 元 年 ( 九 九 八 ) 九 月 に 亡 く な り 、 十 月 二 四 日 に 奉 先 寺 に 葬 ら れ た (『 宋 会 要 』、 后 妃 三 の 二 九 、 第 一 冊 、 二 四 八 頁 )。 孫 貴 妃 は 太 宗 の 后 妃 で あ る 。 左 金 吾 衛 大 将 軍 守 斌 ( 不 詳 ) の 娘 で あ り 、 太 平 興 国 二 年 七 月 に 入 宮 し 、 三 年 に 才 人 と な り 、 後 に 貴 妃 の 号 を 賜 わ っ た 。 八 年 九 月 に 亡 く な っ た (『 宋 会 要 』、 第 一 冊 、 二 三 四 頁 )。 呉 昭 容 は 、 右 屯 衛 将 軍 延 保 の 娘 で あ り 、 太 平 興 国 四 年 二 月
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 一七 に 入 宮 し 、 五 年 に 美 人 と な り 、 真 宗 の 初 め に 昭 容 に 進 み 、 景 德 四 年 に 亡 く な っ た 。 明 道 二 年 一 二 月 に 淑 容 を 贈 り 、 慶 暦 四 年 九 月 に 淑 儀 を 贈 ら れ た ( 同 右 、 二 四 二 頁 )。 代 国 公 は 太 宗 の 第 九 子 で あ り 、『 宋 史 』 巻 二 四 五 に 伝 記 が あ る ( 中 華 書 局 本 、 第 二 五 冊 、 八 七 〇 七 頁 )。 本 名 は 元 億 、 幼 く し て 死 去 、 代 国 公 は 追 封 で あ る 。『 宋 会 要 』 の 「 帝 系 」 に も 同 内 容 が 記 録 さ れ る (『 宋 会 要 』、 第 一 冊 、 一 六 頁 。 二 九 頁 、 七 八 頁 )。 曹 国 長 公 主 は 太 宗 の 娘 と 思 わ れ る 。『 宋 史 』 巻 二 四 八 の 公 主 伝 に よ る と 、 太 平 興 国 七 年 ( 九 八 二 ) 出 家 、 員 明 大 師 を 号 し 、 八 年 に 亡 く な り 、 至 道 三 年 ( 九 九 七 ) に 曹 国 長 公 主 と 追 封 さ れ た ( 中 華 書 局 本 、 第 二 五 冊 、 八 七 七 三 頁 )。 『 宋 会 要 』 の 「 公 主 」 に も 同 内 容 の 記 録 が あ る ( 中 華 書 局 本 、 第 一 冊 、 一 五 二 頁 )。 本 項 、『 続 資 治 通 鑑 』 巻 五 ( 中 華 書 局 本 、 第 二 冊 、 一 二 七 頁 ) と 『 宋 会 要 』 の 「 神 御 殿 の 奉 先 資 福 院 」( 中 華 書 局 本 、 第 一 冊 、 五 六 〇 頁 )、 南 宋 王 明 清 ( 一 一 二 七 ? ― 一 二 〇 二 ? ) の 『 揮 麈 前 録 』( 『 四 部 叢 刊 続 編 』、 第 九 八 冊 、 二 頁 左 。〔 台 湾 〕 商 務 印 書 館 、 一 九 六 六 年 ) な ど に よ る と 、 奉 先 資 福 院 は 乾 徳 二 年 に 着 工 、 乾 徳 六 年 ( 九 六 八 ) に 竣 工 し た と 考 え ら れ る 。 〈 徳 護 〉 〔 269〕 〈 原 文 〉 百 福 院 建 康 府 崇 恩 百 福 院 、 即 建 康 府 江 寧 県 百 福 院 。 紹 興 三 十 年 七 月 十 三 日 、 詔 依 左 中 大 夫 知 建 康 府 王 綸 所 乞 、 充 本 家 墳 寺 、 賜 是 額 。 以 綸 前 係 同 知 枢 密 院 故 也 。 〈 訓 読 〉 百 福 院 建 康 府 の 崇 恩 百 福 院 は 、 即 ち 建 康 府 江 寧 県 の 百 福 院 な り 。 紹 興 三 十 年 七 月 十 三 日 、 詔 す 、 左 中 大 夫 、 知 建 康 府 の 王 綸 の 乞 う 所 に 依 り 、 本 家 の 墳 寺 に 充 て 、 是 の 額 を 賜 う 。 綸 は 前 に は 同 知 枢 密 院 に 係 る 以 て の 故 な り 。 〈 解 説 〉 本 項 は 元 同 知 枢 密 院 の 王 綸 が 百 福 院 を 自 家 の 功 徳 墳 寺 と す る こ と を 許 可 し た 記 事 で あ る 。 王 綸 ( ? ― 一 一 六 一 ) に つ い て は 『 宋 史 』 巻 三 七 二 に 伝 記 が あ る ( 中 華 書 局 本 、 第 三 三 冊 、 一 一 五 三 五 頁 )。 建 康 の 人 、 字 は 徳 言 、 紹 興 五 年 に 進 士 に 及 第 、 中 書 舎 人 、 工 部 侍 郎 な ど を 歴 任 し 、 紹 興 二 八 年 に 同 知 枢 密 院 事 、 二 九 年 に 資 政 殿 大 学 士 と な り 福 州 や 建 康 の 知 事 と な っ た 。 三 一 年 八 月 に 亡 く な り 、 左 光 禄 大 夫 を 贈 ら れ 、 章 敏 と い う 諡 を 賜 わ っ た 。
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 一八 百 福 院 に つ い て は 、『 景 定 建 康 志 』 に 「 城 南 五 里 に 在 り 。 本 は 梁 の 解 脱 院 な り 。 今 は 枢 密 王 公 綸 の 功 徳 寺 と 為 る 」( 中 華 書 局 本 、 第 二 冊 、 二 〇 八 四 頁 ) と 記 さ れ て い る 。 こ の 記 事 に よ り 、 百 福 院 の 前 身 は 南 北 朝 の 梁 ( 五 〇 二 ― 五 五 七 ) に 建 て ら れ た 解 脱 院 で あ る こ と が わ か る 。 〈 徳 護 〉 〔 270〕 〈 原 文 〉 普 安 禅 院 、 周 顕 徳 中 建 。 建 隆 初 賜 額 、 昭 憲 太 后 建 仏 殿 。 端 拱 二 年 、 遣 内 侍 鄭 守 均 (鈞カ) 部 兵 卒 以 重 建 。 又 造 法 華 、 千 仏 、 地 蔵 、 不 動 尊 仏 閣 、 凡 六 百 三 十 八 区 。 初 、 元 徳 太 后 攢 宮 在 此 院 、 及 改 上 (卜カ) 、 又 別 起 殿 、 塑 元 徳 真 容 、 亦 守 篆 住 持 。 守 篆 五 台 僧 、 跣 足 遊 京 城 、 結 庵 此 院 。 卒 、 賜 諡 明 悟 、 塔 曰 正 慧 。 〈 訓 読 〉 普 安 禅 院 は 、 周 の 顕 徳 中 に 建 つ 。 建 隆 の 初 め に 額 を 賜 わ り 、 昭 憲 太 后 、 仏 殿 を 建 つ 。 端 拱 二 年 、 内 侍 鄭 守 鈞 を し て 兵 卒 を 部 す べ ら し め 以 て 重 建 せ し む 。 又 た 法 華 、 千 仏 、 地 蔵 、 不 動 尊 の 仏 閣 な ど 、 凡 て 六 百 三 十 八 区 を 造 る 。 初 め 、 元 徳 太 后 、 此 の 院 に 攢 さ ん ぐ う 宮 す る も 、 改 卜 に 及 び 、 又 た 別 に 殿 を 起 し 、 元 徳 の 真 容 を 塑 つく り 、 亦 た 守 篆 を し て 住 持 せ し む 。 守 篆 は 五 台 の 僧 に し て 、 跣 足 に て 京 城 に 遊 び 、 庵 を 此 の 院 に 結 ぶ 。 卒 す れ ば 、 諡 明 悟 を 賜 い 、 塔 は 正 慧 と 曰 う 。 〈 解 説 〉 普 安 禅 院 は 後 周 の 顕 徳 年 間 ( 九 五 四 ― 九 五 九 ) に 建 て ら れ た 。 宋 の 建 隆 年 間 ( 九 六 〇 ― 九 六 二 ) の 初 め に 額 を 賜 り 、 太 祖 の 母 で あ る 昭 憲 太 后 が 仏 殿 を 建 て た 。 端 拱 二 年 ( 九 八 九 ) に 内 侍 の 鄭 守 鈞 に 命 じ て 兵 を 使 っ て 再 建 さ せ 、 さ ら に 法 華 堂 、 千 仏 堂 、 地 蔵 堂 、 不 動 尊 な ど の 仏 閣 全 て で 六 三 八 棟 の 建 物 を 造 ら せ た 。 太 宗 の 后 で 真 宗 の 母 で あ る 元 徳 太 后 の 亡 骸 は 初 め こ の 普 安 院 に か り に 安 置 さ れ て い た が 、 改 め て 占 っ て 、 ま た 別 に 宮 殿 を 建 立 し 、 元 徳 太 后 の 塑 像 を 造 り 安 置 し 、 守 篆 を 住 持 と し た 。 守 篆 は 五 台 山 の 僧 で 都 を 裸 足 で 巡 り 歩 き 、 こ の 普 安 院 に 庵 を 結 ん だ 。 亡 く な っ て 明 悟 と い う 諡 号 を 賜 わ り 、 塔 は 正 慧 と 命 名 さ れ た 。 元 徳 太 后 ( 九 四 四 ― 九 七 七 ) に つ い て は 、『 宋 史 』 巻 二 四 二 に 、 李 賢 妃 は 真 定 の 人 な り 、 乾 州 防 禦 使 の 英 の 女 な り 。 太 祖 、 妃 の 容 徳 有 る を 聞 き 、 太 宗 の 為 に 之 を 聘 めと る 。 開 宝 中 、 隴 西 郡 君 に 封 ず 。 太 宗 即 位 す れ ば 、 夫 人 に 進 む 。 皇 女 二 人 を 生 む も 、 皆 な 早 く 亡 じ 、 次 に 楚 王 元 佐 を 生 む 。 妃 、 嘗 て 日 輪 己 に 逼 せま り 、 裾 を 以 て 之 を 承 う く る を 夢 む 。 光 耀 や き 体 に 遍 あまね し 、 驚 き て 悟 さ め 、 遂 かく て 真 宗 を 生 め り 。 太 平 興 国 二 年 、 薨 ず 、 年 三 十 四 。
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 一九 真 宗 即 位 す れ ば 、 賢 妃 を 追 封 し 、 又 た 尊 号 を 進 上 し て 皇 太 后 と 為 す 。 有 司 上 り 諡 し て 元 徳 と 曰 う 。 咸 平 三 年 、 永 熙 陵 に 祔 あわせまつ り 葬 る 。 中 書 侍 郎 平 章 事 、 李 沆 を 以 て 園 陵 使 と 為 す 。 車 駕 、 普 安 院 の 攢 宮 に 詣 き 、 素 服 に て 行 礼 し 、 拜 伏 し て 嗚 咽 す 。 駕 部 郎 中 知 制 誥 、 梁 周 翰 に 命 じ て 哀 冊 を 撰 せ し む 。 神 主 は 別 の 廟 に 祔 る 。 ( 中 華 書 局 本 、 第 二 五 冊 、 八 六 一 〇 頁 ) と あ り 、 真 宗 が 即 位 し た の ち 、 亡 き 母 親 の 李 夫 人 に 賢 妃 の 位 を 与 え 、 さ ら に皇 太 后 の 尊 号 を 与 え 、 元 徳 と 諡 し た の で あ る 。 ま た 普 安 院 に 安 置 さ れ て い た 亡 骸 は 咸 平 三 年 ( 一 〇 〇 〇 )、 太 宗 の 陵 で あ る 永 熙 陵 に 埋 葬 さ れ た 。『 宋 会 要 』 礼 三 一 の 元 徳 皇 后 の 箇 所 に も 、 (咸 平 元 年 ) 二 月 一 日 、 司 天 監 言 く 、 詔 に 準 したが い て 園 陵 を 改 卜 す 。 三 年 庚 子 三 月 二 十 日 を 以 て 攢 宮 を 啓 き 、 二 十 五 日 発 引 す 。 四 月 八 日 、 皇 堂 を 掩 い 、 永 熙 陵 に 祔 り 葬 む る こ と を 請 う 。 之 に 従 う 。 (『 宋 会 要 』、 第 二 冊 、 一 一 六 三 頁 ) と あ り 、 別 に 永 熙 陵 に 埋 葬 さ れ た こ と が 記 さ れ て い る 。 な お 鄭 守 鈞 の 伝 は 、〔 207〕 に よ れ ば 未 見 で あ る 。 ま た 守 篆 に つ い て も 『 宋 会 要 』 で の 記 載 以 外 に は 見 当 た ら な い 。 〈 五 十 嵐 〉 〔 271〕 〈 原 文 〉 婺 州 恵 安 禅 院 。 紹 興 三 十 一 年 正 月 二 十 二 日 、 右 朝 奉 大 夫 、 直 秘 閣 、 主 管 台 州 崇 道 観 呂 用 中 言 、 父 好 問 昨 為 尚 書 右 丞 、 除 資 政 殿 大 学 士 。 累 贈 太 師 、 今 葬 婺 州 武 義 県 恵 安 院 之 側 、 乞 充 功 徳 院 。 賜 是 額 。 〈 訓 読 〉 婺 州 恵 安 禅 院 。 紹 興 三 十 一 年 正 月 二 十 二 日 、 右 朝 奉 大 夫 、 直 秘 閣 、 台 州 崇 道 観 を 主 管 す る 呂 用 中 言 く 、 父 好 問 は 昨 むかし 尚 書 右 丞 と 為 り 、 資 政 殿 大 学 士 に 除 せ ら る 。 累 ね て 太 師 を 贈 ら れ 、 今 、 婺 州 武 義 県 の 恵 安 院 の 側 に 葬 ら る 。 乞 う ら く は 功 徳 院 に 充 て ら れ ん こ と を 。 是 の 額 を 賜 う 。 〈 解 説 〉 紹 興 三 一 年 ( 一 一 六 一 ) の 正 月 二 二 日 、 右 朝 奉 大 夫 、 直 秘 閣 、 台 州 ( 浙 江 省 ) に あ る 崇 道 観 を 管 轄 す る 呂 用 中 が 、 父 の 呂 好 問 が 葬 ら れ て い る 婺 州 ( 浙 江 省 ) の 恵 安 院 を 功 徳 院 に す る よ う に 願 い 出 た も の で あ る 。 な お 資 政 殿 大 学 士 と は 真 宗 が 参 政 を 辞 め た 王 欽 若 に 授 け た の が 始 ま り で 、 後 に は 宰 相 の 職 を 辞 め る も の に 多 く こ の 官 が 授 け ら れ る よ う に な っ た 。 呂 用 中 に つ い て は 『 会 稽 続 志 』 巻 二 に よ れ ば 、 呂 用 中 、 紹 興 十 年 十 二 月 右 宣 教 郎 を 以 て 任 に 到 り 、 十 二 年 十 二 月 知 泉 州 に 改 む 。 范 振 、 紹 興 十 三 年 正 月 左 朝 請 大
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 二〇 夫 を 以 て 任 に 到 り 、 九 月 罷 む 。 吴 序 賓 、 紹 興 十 三 年 十 月 、 右 朝 奉 大 夫 を 以 て 任 に 到 り 、 十 四 年 四 月 、 知 泉 州 呂 用 中 と 両 ふたた び 易 か ゆ 。 呂 用 中 、 紹 興 十 四 年 八 月 、 右 奉 議 郎 直 秘 閣 を 以 て 任 に 到 り 、 十 五 年 五 月 、 宮 祠 と な る 。 (『 会 稽 続 志 』、 成 文 出 版 社 本 、 六 五 五 一 頁 ) と あ り 、 紹 興 一 〇 年 一 二 月 に 右 宣 教 郎 に 任 ぜ ら れ 、 紹 興 一 二 年 一 二 月 に 知 泉 州 と な り 、 紹 興 一 四 年 八 月 に 右 奉 議 郎 直 秘 閣 、 一 五 年 五 月 に 宮 祠 と な っ て い る 。 ま た 呂用 中 の 父 の 呂 好 問 ( 一 〇 六 四 ― 一 一 三 一 ) は 、『 宋 史 』 巻 三 六 二 に よ れ ば 、 字 は 舜 徒 、 父 は 呂 希 哲 、 祖 父 は 呂 公 著 、 曽 祖 父 は 呂 夷 簡 と 名 門 の 呂 氏 一 族 の 出 身 で あ る 。 祖 父 の 呂 公 著 が 旧 法 党 の 重 鎮 で あ っ た た め 、 そ の 盛 衰 と 共 に 浮 き 沈 み し た 。 欽 宗 の 時 代 に 御 史 中 丞 か ら 吏 部 侍 郎 に 進 む 。 靖 康 の 変 の 時 、 金 軍 に 連 行 さ れ る の を 免 れ て 張 邦 昌 の 楚 に 事 務 官 と な っ て 仕 え た が 、 張 邦 昌 に 対 し て 趙 構 ( 後 の 南 宋 ・ 高 宗 ) に 帝 位 を 返 上 す る よ う に 勧 め た 。 そ の 功 績 に よ っ て 高 宗 の 即 位 後 に 、 高 宗 は 好 問 に 「 宋 廟 全 き を 獲 る は 、 卿 の 力 な り 」 と 言 っ て 尚 書 右 丞 ( 副 宰 相 格 ) に 除 し た の で あ る 。 そ の 後 宰 相 の 李 綱 と 意 見 が 合 わ ず 、 靖 康 の 変 当 時 の 行 動 を 糾 弾 さ れ て 失 脚 し 、 資 政 殿 学 士 、 知 宣 州 と な り 、 東 萊 郡 ( 山 東 省 ) 侯 に 封 ぜ ら れ た 。 〈 五 十 嵐 〉 〔 272〕 〈 原 文 〉 淳 熙 五 年 六 月 二 十 四 日 、 詔 、 秀 王 墳 庵 、 在 湖 州 府 烏 程 県 。 以 普 明 禅 院 為 額 。 〈 訓 読 〉 淳 熙 五 年 六 月 二 十 四 日 、 詔 す 、 秀 王 の 墳 庵 、 湖 州 府 烏 程 県 に 在 り 。 普 明 禅 院 を 以 て 額 と 為 す べ し 。 〈 解 説 〉 淳 熙 五 年 ( 一 一 七 八 ) 六 月 二 四 日 の 詔 勅 。 湖 州 府 烏 程 県 ( 浙 江 省 ) に あ る 秀 王 の 墳 庵 に 普 明 禅 院 と い う 額 を 与 え た 。 秀 王 と は 秀 安 僖 王 の 略 称 で 宋 太 祖 の 末 裔 、 南 宋 孝 宗 の 実 父 。 『 湖 州 府 志 』 巻 二 四 「 陵 墓 」 に よ る と 、 秀 安 僖 王 子 称 の 墓 が 菁 山 に あ る 。 さ ら に 巻 二 七 「 寺 観 」 に は 、 普 明 寺 は 菁 山 南 麓 に 在り 。 宋 の 治 平 中 、 僧 の 皎月 、 建 つ 。 鋳 し て 銅 の 観 音 像 有 り 。 元 の 末 、 寺 燬 る る も 、 像 存 す 。 明 の 万 歴 ママ 三 十 年 、 僧 の 煥 然 、 重 建 す 。 (『 湖 州 府 志 』 二 、 成 文 出 版 社 本 、 五 三 三 頁 ) と あ る 。 普 明 禅 院 と 普 明 寺 の 違 い は あ る が 、 同 じ 菁 山 に あ る こ と か ら 同 一 の 寺 と 見 て よ い だ ろ う 。 黄 溍 の 「 重 修 普 明 寺 記 」 に よ る と 、 普 明 寺 は 唐 の 天 祐 年 間 ( 九 〇 四 ― 九 〇 七 ) に 文 通 法 師 を 初 祖 に 迎 え て 開 か れ 、 当 時 の 名 は 「 報 恩 」 と 言 っ
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 二一 た 。「 宋 の 祥 符 ( 一 〇 〇 八 ― 一 〇 一 六 ) に 至 り 今 の 額 を 賜 わ り 、 甲 乙 を 以 て 次 ぎ 、 黄 牒 を 相 い 授 く 」 と あ る こ と か ら 、 普 明 寺 に な っ た の は 大 中 祥 符 年 間 で あ っ た 。 大 中 祥 符 年 間 よ り 甲 乙 徒 弟 制 の 禅 院 で あ っ た が 、 治 平 年 間 ( 一 〇 六 四 ― 一 〇 六 七 ) に 僧 皎 月 に よ っ て 伽 藍 が 建 て ら れ 、 淳 熙 五 年 に 「 普 明 禅 院 」 の 額 を 賜 い 秀 王 の 墳 寺 と な っ た 。「 重 修 普 明 寺 記 」 に は 「 普 明 教 寺 」 と あ る こ と か ら 、 元 代 に は 教 寺 と な っ て い た こ と が 知 ら れ る 。 〈 角 田 〉 〔 273〕 〈 原 文 〉 資 聖 院 。 一 在 新 并 州 城 内 。 天 禧 五 年 、 真 宗 以 祖 宗 皆 嘗 親 征 、 為 陣 亡 将 士 追 福 、 得 神 虎 三 部 落 二 営 地 、 遣 内 侍 楊 守 信 造 。 凡 七 百 二 十 区 。 天 聖 初 成 、 賜 名 、 給 田 園 。 太 祖 、 太 宗 忌 日 、 皆 就 建 道 場 。 〈 訓 読 〉 資 聖 院 。 一 は 新 并 州 城 内 に 在 り 。 天 禧 五 年 、 真 宗 、 祖 宗 の 皆 な 嘗 て 親 征 す る に 、 陣 亡 の 将 士 の 追 福 の 為 に 、 神 虎 の 三 部 落 二 営 地 を 得 る を 以 て 、 内 侍 楊 守 信 を 遣 り て 造 ら し む 。 凡 そ 七 百 二 十 区 。 天 聖 の 初 め 成 り 、 名 を 賜 い 、 田 園 を 給 う 。 太 祖 、 太 宗 の 忌 日 に 、 皆 な 就 き て 道 場 を 建 つ 。 〈 解 説 〉 資 聖 院 の 一 つ は 新 并 州 の 城 内 に あ る 。 天 禧 五 年 ( 一 〇 二 一 )、 祖 宗 ( こ こ で は 太 祖 と 太 宗 の こ と を 言 う ) が 皆 な 嘗 て 親 征 し た 際 に 陣 没 し た 将 士 た ち を 追 福 す る た め に 、 真 宗 は こ の 寺 を 建 て た 。 こ こ で 言 う 所 の 嘗 て の 親 征 と は 、 北 漢 を 討 伐 す る た め に 行 っ た 親 征 で あ る 。 太 平 興 国 四 年 ( 九 七 九 )、 太 宗 は 北 漢 を 平 定 し 、 太 原 府 付 近 の 楡 次 県 を 新 并 州 と し た 。 嘉 祐 四 年 ( 一 〇 五 九 ) に は 新 并 州 は 太 原 府 と い う 名 に 再 度 改 名 さ れ て お り 、 本 項 に 出 る 新 并 州 と は 、 こ の 太 平 興 国 四 年 か ら 嘉 祐 四 年 の 間 に 使 わ れ た 、 太 原 府 の 新 市 街 を 指 し て い る 地 名 で あ る 。 資 聖 院 を 建 て る 場 所 は 、 神 虎 と い う 部 隊 の 三 部 落 二 営 地 の 跡 地 が 充 て ら れ た 。 真 宗 は 内 侍 楊 守 信 を 使 わ し て 、 七 二 〇 区 画 に わ た る 寺 院 を 建 て さ せ た 。 天 聖 年 間 ( 一 〇 二 三 ― 一 〇 三 二 ) の 初 め に 完 成 し 、 資 聖 院 の 名 を 賜 り 、 田 園 を 給 っ た 。 太 祖 の 忌 日 と 太 宗 の 忌 日 に そ れ ぞ れ 道 場 を 建 て た 。 『 宋 史 』 巻 一 八 七 に よ る と 、 神 虎 と い う 部 隊 は 、 咸 平 五 年 ( 一 〇 〇 二 ) に 陝 西 州 の 兵 馬 を 選 ん で 設 立 さ れ 、 翌 年 に は 河 東 州 の 兵 も 加 え ら れ た 。 神 虎 部 隊 の 駐 屯 地 は 二 六 あ り 、 そ の う ち の 一 つ が 太 原 府 に あ っ た 。 ま た 、『 続 資 治 通 鑑 長 編 』 巻 一 七 四 に よ る と 、 并 州 資 聖 院 に は 統 平 殿 と い う 建 物 が あ り 、 皇 祐 五 年 ( 一 〇 五 三 ) 三 月 に 太 宗 の 御 容 が 奉 安 さ れ て い る 。 内 侍 の 楊 守 信 と い う 人 物 は 未 詳 。
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 二二 〈 角 田 〉 〔 274〕 〈 原 文 〉 一 在 隆 安 場 (坊カ) 。 初 太 宗 第 七 女 陳 国 長 公 主 、 幼 不 茹 葷 、 許 出 家 。 大 中 祥 符 二 年 八 月 制 、 進 封 呉 国 、 号 報 慈 正 覚 大 師 、 賜 紫 、 名 清 裕 。 九 月 、 出 居 是 院 、 以 教 坊 楽 、 釈 門 威 儀 導 送 。 前 一 日 、 車 駕 臨 視 。 初 在 建 初 坊 、 後 以 迫 隘 、 徙 城 西 隆 安 坊 。 〈 訓 読 〉 一 は 隆 安 坊 に 在 り 。 初 め 太 宗 の 第 七 女 陳 国 長 公 主 、 幼 き よ り 葷 を 茹 くら わ ざ れ ば 、 出 家 を 許 さ る 。 大 中 祥 符 二 年 八 月 の 制 に て 、 進 み て 呉 国 に 封 ぜ ら れ 、 報 慈 正 覚 大 師 と 号 さ れ 、 紫 を 賜 わ り 、 清 裕 と 名 づ け ら る 。 九 月 、 出 で て 是 の 院 に 居 す に 、 教 坊 の 楽 と 釈 門 の 威 儀 を 以 て 導 送 せ ら る 。 前 一 日 、 車 駕 あ り 臨 視 せ ら る 。 初 め は 建 初 坊 に 在 る も 、 後 に 迫 隘 を 以 て 、 城 西 の 隆 安 坊 に 徙 る 。 〈 解 説 〉 も う 一 つ の 資 聖 院 は 開 封 の 隆 安 坊 に あ る 。 そ も そ も の は じ め は 、 太 宗 の 第 七 女 で あ る 陳 国 長 公 主 ( 詳 細 は 〔 88〕 を 参 照 ) が 、 公 主 は 幼 い と き か ら 五 辛 を 食 べ な か っ た 人 で 、 出 家 が 許 さ れ た こ と に よ る 。 公 主 は 、 大 中 祥 符 二 年 ( 一 〇 〇 九 ) 八 月 に 、 呉 国 長 公 主 に 封 じ ら れ 、 報 慈 正 覚 大 師 と 号 さ れ 、 紫 衣 を 賜 わ り 、 清 裕 と い う 名 を 与 え ら れ た 。 九 月 に 居 を 遷 し て 資 聖 院 に 入 っ た 時 は 、 教 坊 が 音 楽 を 奏 で 、 仏 式 の 威 儀 で 送 ら れ た 。 そ の 前 日 に は 、 真 宗 も 行 幸 し て 公 主 に 面 会 し た 。 資 聖 院 は 初 め は 開 封 の 建 初 坊 と い う 場 所 に あ っ た が 、 後 に 街 の 西 側 に あ る 隆 安 坊 に 移 っ た 。 右 の 経 緯 に つ い て は 『 仏 祖 統 紀 』 巻 四 四 に 同 様 の 記 事 が あ る 。 『 宋 史 』 巻 七 に は 、 大 中 祥 符 三 年 九 月 に 真 宗 が 崇 真 資 聖 院 に 行 幸 し 、 呉 国 長 公 主 に 謁 見 し た 時 は 、 既 に 公 主 は 病 ん で い た と い う 記 事 が あ る 。〔 273〕 に所 出 の 新 并 州 に も 資 聖 院 が あ っ た こ と か ら 、 開 封 の 資 聖 院 は 正 式 名 称 を 崇 真 資 聖 院 と 言 い 、 崇 真 院 と も 略 称 さ れ た 。 『 事 物 紀 原 』 巻 七 ( 中 華 書 局 本 、 三 七 三 頁 ) の 記 述 か ら は こ の 寺 が 「 七 公 主 院 」 と 呼 ば れ て い た こ と が わ か る 。 隆 安 坊 は 開 封 の 西 側 に あ っ た 坊 で あ る 。建 初 坊 に つ い て は 、 『 宋 会 要 』 食 貨 五 二 に 油 醋 庫 が あ っ た こ と が 記 載 さ れ る 。 な お 、 教 坊 と は 宮 中 に 置 か れ た 音 楽 や 歌 舞 を 司 る 役 所 で あ る 。 〈 角 田 〉 〔 275〕 〈 原 文 〉 紹 熙 元 年 五 月 四 日 、 直 秘 閣 張 鎡 言 、 乞 以 臨 安 府 艮 山 門 裏 所 居
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 二三 屋 、 捨 為 十 方 禅 寺 、 仍 捨 鎮 江 府 本 家 荘 田 六 千 三 百 余 畝 、 供 贍 僧 徒 。 礼 部 太 常 寺 擬 慶 (広カ) 寿 慈 (慧カ) 雲 禅 寺 為 額 、 従 之 。 〈 訓 読 〉 紹 熙 元 年 五 月 四 日 、 直 秘 閣 の 張 鎡 言 く 、 乞 う ら く は 臨 安 府 艮 山 門 裏 の 居 す る 所 の 屋 を 以 て 、 捨 し て 十 方 の 禅 寺 と 為 し 、 仍 お 鎮 江 府 の 本 家 の 荘 田 六 千 三 百 余 畝 を 捨 し て 、 僧 徒 に 供 贍 せ ん こ と を 。 礼 部 と 太 常 寺 は 広 寿 慧 雲 禅 寺 を 額 と 為 さ ん と 擬 し 、 之 に 従 う 。 〈 解 説 〉 張 鎡 が 邸 宅 を 喜 捨 し て 十 方 住 持 制 の 寺 院 と な し 、 さ ら に 自 ら の 荘 田 を 寺 に 寄 付 す る こ と を 上 奏 し 、 政 府 は そ れ を 許 し て 額 を 与 え た と い う 記 事 。 紹 熙 元 年 ( 一 一 九 〇 ) 五 月 四 日 、 直 秘 閣 の 張 鎡 が 上 奏 す る に 、「 臨 安 府 艮 山 門 ( 府 城 の 東 北 に 位 置 す る ) の 内 側 に あ る 居 宅 を 喜 捨 し て 十 方 住 持 制 の 禅 寺 と し 、 さ ら に 鎮 江 府 ( 江 蘇 省 ) の 私 の 家 の 荘 田 六 千 三 百 余 畝 ( 一 畝 を 六 〇 二 平 方 メ ― ト ル と 換 算 す る と お よ そ 三 七 八 ヘ ク タ ― ル ) を 寄 付 し て 、 僧 徒 に 供 養 し た い 」 と 。 礼 部 と 太 常 寺 は 寺 額 と し て 「 広 寿 慧 雲 禅 寺 ( 慶 寿 慈 雲 禅 寺 カ 、 後 述 )」 を 与 え る こ と を 起 草 し 、 皇 帝 は こ れ を 許 可 し た 。 『 咸 淳 臨 安 志 』 巻 七 六 に は 、 寺 号 が 異 な る が 、 場 所 や 賜 額 の 年 代 の 一 致 か ら 見 て 同 一 の 寺 院 と 推 測 さ れ る 「 広 寿 慧 雲 禅 寺 」 が 立 項 さ れ 、 次 の よ う に 載 る 。 広 寿 慧 雲 禅 寺 。 艮 山 門 裏 の 白 洋 池 に 在 り 。 張 循 王 の 孫 の 鎡 、 宅 を 捨 し て 寺 と 為 す 。 紹 熙 元 年 、 今 の 額 を 賜 わ る 。 (『 宋 元 方 志 叢 刊 』、 第 四 冊 、 四 〇 四 七 頁 ) こ の 記 事 に よ り 、 そ の 場 所 が 艮 山 門 の 白 洋 池 の 傍 に あ っ た こ と が わ か る 。 白 洋 池 は 、『 欽 定 四 庫 全 書 総 目 』 巻 七 九 に よ れ ば 、 張 鎡 の 宅 の 南 に 位 置 し た た め 南 湖 と も 呼 ば れ た 。 こ の 寺 院 の 寺 号 に 関 し て は 、『 宋 会 要 』 で は 「 慶 寿 慈 雲 禅 寺 」 と す る が 、『 咸 淳 臨 安 志 』 や 『 両 浙 金 石 志 』 巻 一 〇 、『 武 林 梵 志 』 巻 一 、『 浙 江 通 志 』 巻 二 二 六 、 及 び 『 破 庵 祖 先 語 録 』 で は 「 広 寿 慧 雲 禅 寺 」 と し 、『 西 湖 遊 覧 志 』 巻 一 八 で は 、「 広 寿 慧 雲 寺 」 と し 、『 続 伝 灯 録 』 巻 三 四 で は 「 慧 雲 」 と す る 。 他 の 資 料 に お い て も 臨 安 の 「 慶 寿 慈 雲 禅 寺 」 に 類 す る 名 前 は 見 当 た ら な い 。 こ れ ら の 事 由 か ら 、『 咸 淳 臨 安 志 』 等 に 記 録 さ れ る 「 広 寿 慧 雲 禅 寺 」 と 本 項 の 「 慶 寿 慈 雲 禅 寺 」 は 同 一 の 寺 で あ っ て 、『 宋 会 要 』 の 記 載 は 魯 魚 章 草 の 誤 り と 見 た 。 こ の 広 寿 慧 雲 禅 寺 に 関 し て は 、 臨 済 宗 虎 丘 派 の 密 庵 咸 傑 ( 一 一 一 八 ― 一 一 八 六 ) に 嗣 法 し た 破 庵 祖 先 ( 一 一 三 六 ― 一 二 一 一 ) の 『 破 庵 祖 先 禅 師 語 録 』 に 、「 臨 安 府 広 寿 慧 雲 禅 寺 語 録 」 の 一 章 が あ っ て 破 庵 祖 先 が 本 項 に 記 さ れ る 寺 に 住 持 し た こ と が わ か る が 、 さ ら に 破 庵 の 行 状 に は 、「 後 に 張 循 王 の 捨 す る 所 の 宅 の 広 寿 慧 雲 禅 寺 に 居 し 、 開 山 住 持 と 為 り 、 三 年
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 二四 し て 辞 去 す 」( 『 続 蔵 』 二 ― 二 六 、 二 四 六 c ) と あ っ て 、 破 庵 が こ の 寺 の 開 山 と し て 招 か れ 住 持 し た こ と が 知 ら れ る 。 ま た 、 と も に 明 代 成 立 の 『 武 林 梵 志 』 巻 一 や 『 西 湖 遊 覧 志 』 巻 一 八 に よ れ ば 、 こ の 寺 は 世 間 で は 「 張 家 寺 」 と 呼 ば れ た 。 『 咸 淳 臨 安 志 』 巻 一 「 京 城 図 」 の 白 洋 池 の 傍 に 「 張 寺 」 や 「 張 園 」 の 文 字 が あ り 、 こ れ が こ の 寺 院 に 当 た る こ と が わ か り 、 か つ 南 宋に お い て も 「 張 寺 」 と 呼 ば れ た こ と が 知 ら れ る 。 『 武 林 梵 志 』 巻 一 に は 、 元 の 至 正 年 間 に 荒 廃 し た こ と や 明 代 に 入 り 復 興 し た こ と が 記 さ れ る 。 同 書 に は 張 鎡 の こ の 寺 を 建 立 し た 際 の 「 誓 願 文 」 と 明 末 の 呉 用 先 撰 「 重 復 慧 雲 寺 建 宣 義 張 公 祠 碑 」 が 収 録 さ れ 、 前 者 に は 張 鎡 が こ の 寺 を 建 立 し た 由 来 が 、 後 者 に は 明 末 に 至 る ま で 宋 刻 の 碑 が あ り 、 そ の 頃 は 一 〇 〇 畝 の敷 地 が あ っ た こ と 記 載 さ れ る 。『 両 浙 金石 志 』 巻 一 〇 (『 石 刻 史 料 新 編 』 第 一 輯 第 一 四 冊 、 新 文 豊 出 版 、 一 九 八 六 年 、 一 〇 四 三 六 頁 ) に は 宋 刻 の 碑 で あ る 史 浩 ( 一 一 〇 六 ― 一 一 九 四 、 史 弥 遠 の 父 ) 撰 「 広 寿 慧 雲 禅 寺 碑 」 が 収 め ら れ る 。 礼 部 ( 六 部 の 一 ) と 太 常 寺 ( 九 寺 の 筆 頭 ) は と も に 礼 法 を 掌 る 役 所 で あ っ て 、 そ の 職 掌 は 重 複 す る と こ ろ が あ っ た よ う で あ る 。 直 秘 閣 と は 淳 化 元 年 ( 九 九 〇 ) に 設 置 さ れ た 宋 代 の 官 名 で 、 は じ め は 秘 閣 ( 善 本 や 古 画 墨 蹟 の 管 理 ) の 事 務 を 担 当 し た 。 元 豊 の 改 制 後 は 、 秘 閣 は 秘 書 省 に 統 合 さ れ て 、 直 秘 閣 と い う 官 名 の み 残 っ て 、 兼 職 の 官 名 と な り 、 皇 帝 の 恩 寵 を 表 す た め 、 試 験 を 経 ず に 任 命 さ れ た 。( 『 中 国 歴 代 職 官 辞 典 』、 上 海 辞 書 出 版 社 、 一 九 九 二 年 、 一 九 三 頁 ) 張 鎡 は 、 字 は 功 甫 ( 功 父 と も )、 号 は 約 斎 、 南 宋 初 期 の 名 臣 と さ れ る 張 俊 ( 諡 号 は 循 王 、 一 〇 八 六 ― 一 一 五 四 ) の 曾 孫 。 そ の 生 没 年 は 王 秀 林 、 王 兆 鵬 「 張 鎡 生 卒 年 考 」( 『 文 学 遺 産 』 二 〇 〇 二 年 第 一 期 、 中 国 社 会 科 学 院 文 学 研 究 所 ) に よ れ ば 、 紹 興 二 三 年 ( 一 一 五 三 ) 生 、 端 平 二 年 ( 一 二 三 五 ) 没 。 著 作 に 『 南 湖 集 』 一 〇 巻 、『 仕 学 規 範 』 四 〇 巻 が あ る 。『 宋 史 』 に は 立 伝 さ れ な い 。『 四 庫 全 書 』「 南 湖 集 提 要 」 に よ れ ば 、 官 は 奉 議 郎 直 秘 閣 ま で 至 り 、 寧 宗 が 時 の 権 力 者 で あ る 韓 侂 胄 ( 一 一 五 二 ― 一 二 〇 七 ) を 誅 し よ う と し た 際 に そ の 事 を 主 導 し た 。 そ の 後 、 更 に 史 弥 遠 ( 一 一 六 四 ― 一 二 三 三 ) を 失 脚 さ せ よ う と し て そ の 企 み が 露 見 し 、 象 州 ( 広 西 省 ) に 左 遷 さ れ そ の 後 没 し た 。 左 遷 の 年 次 は 、『 宋 史 』 巻 三 九 に 嘉 定 四 年 ( 一 二 一 一 ) 一 二 月 と 記 さ れ る 。 性 格 は 、 残 忍 で 機 知 を 用 い た 一 面 が あ っ た と い う 一 方 、 詩 に つ い て は 陸 游 に つ い て 学 び 、 評 価 さ れ て い る 。 張 俊 か ら の 遺 産 の た め 莫 大 な 資 産 を 持 ち 、 豪 奢 な 生 活 を 送 り 、 幅 広 い 交 友 関 係 を 持 っ た 。 張 鎡 と 仏 教 に 関 し て は 、『 南 湖 集 』 に 仏 教 に 関 係 す る 詩 文 が 多 く 収 め ら れ 、 明 代 成 立 の 心 泰 編 『 仏 法 金 湯 編 』 巻 一 五 に は 簡 歴 や 開 道 詩 な ど が 記 さ れ る 。 特 に 密 庵 咸 傑 に 参 じ て 、 『 密 庵 和 尚 語 録 』 で は そ の 序 文 を 撰 述 し ( 淳 煕 一 五 年 の 序 )、
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 二五 元 末 の 円 極 居 頂 撰 『 続 伝 灯 録 』 巻 三 四 は 、 密 庵 の 嗣 法 の 弟 子 と し て 張 鎡 を 列 し て い る 。 同 書 巻 三 六 の 滅 翁 文 礼 ( 一 一 六 七 ― 一 二 五 〇 、 法 系 は 密 庵 咸 傑 ― 松 源 崇 岳 ― 滅 翁 文 礼 ) 章 下 に 「 嘉 定 五 年 、 約 斎 居 士 張 公 鎡 、 師 に 臨 安 の 慧 雲 に 開 法 せ ん こ と を 請 う 」( 『 大 正 蔵 』 五 一 ― 七 一 四 a ) と あ っ て 、 張 鎡 が 開 法 の た め 滅 翁 を 慧 雲 寺 に 招 い た こ と が 記 さ れ る が 、 上 述 の よ う に 張 鎡 は 嘉 定 四 年 一 二 月 に 失 脚 し て い る た め 、 こ の 事 は 更 な る 検 討 を 要 す る 。 〈 大 澤 〉 〔 276〕 〈 原 文 〉 慶 元 四 年 三 月 十 七 日 、 詔 、 仙 林 住 持 、 慈 恩 宗 教 、 賜 紫 真 教 大 師 宗 満 、 已 降 特 補 右 街 僧 録 、 主 管 教 門 公 事 、 仍 旧 住 持 、 指 揮 更 不 施 行 。 臣 僚 言 、 伏 覩 指 揮 、 僧 宗 満 特 補 右 街 僧 録 。 命 下 之 日 、 外 議 藉 藉 、 咸 謂 宗 満 乃 么 庸 釈 耳 、 安 能 上 動 冕 旒 、 護 (獲カ) 降 中 旨 、 意 有 与 之 為 地 者 。 若 非 左 右 之 近 習 、 則 必 肺 腑 之 懿 親 也 。 陛 下 与 之 、 固 不 害 於 為 治 、 至 於 重 煩 内 降 、 三 省 施 行 、 給 舍 読 書 、 乃 為 一 緇 黄 之 流 委 曲 若 此 、 人 其 謂 何 。 臣 観 国 朝 僧 職 有 闕 、 命 両 街 各 選 一 人 、 較 芸 而 補 。 今 日 僧 官 充 剏 (牣カ) 都 城 、 未 聞 有 清 修 之 士 可 以 厭 服 衆 望 者 。 安 得 較 芸 而 補 哉 。 近 日 有 女 冠 季 貞 詠 干 犯 天 聴 、 補 左 街 鑑 義 、 中 書 繳 奏 、 隨 即 寝 命 。 未 及 両 日 、 忽 有 宗 満 希 求 僧 録 、 可 謂 無 忌 憚 之 甚 矣 。 欲 乞 寝 罷 。 故 有 是 命 。 〈 訓 読 〉 慶 元 四 年 三 月 十 七 日 、 詔 す 、 仙 林 の 住 持 、 慈 恩 宗 の 教 え も て す る 、 賜 紫 真 教 大 師 宗 満 を 、 已 に 特 に 右 街 僧 録 に 補 し 、 教 門 の 公 事 を 主 管 し 、 旧 に 仍 り 住 持 せ し む る こ と を 降 せ し も 、 指 揮 は 更 に 施 行 せ ざ れ 。 臣 僚 言 く 、 伏 し て 指 揮 を 覩 る に 、 僧 の 宗 満 を 特 に 右 街 僧 録 に 補 す 。 命 の 下 り し 日 、 外 の 議 は 藉 藉 と し て 、 咸 な 謂 ら く 、 宗 満 は 乃ち 么 庸 の 釈な る の み 、 安 ん ぞ 能 く 上 り て 冕 旒 を 動 か し、 中 旨 を 降 さ る る を 獲 ん や 、 意 そも そ も 之 に 与 え て 地 と 為 す 者 有 り や 。 若 し 左 右 の 近 習 に 非 ざ れ ば 、 則 ち 必 ず や 肺 腑 の 懿 親 な る べ し 。 陛 下 、 之 を 与 う る は 、 固 よ り 治 を 為 す こ と を 害 せ ざ る も 、 重 ね て 内 降 を 煩 わ せ 、 三 省 に 施 行 せ し め 、 給 舍 に 書 を 読 ま し む る に 至 り 、 乃 ち 一 緇 黄 の 流 の 為 の 委 曲 、 此 の 若 く す れ ば 、 人 は 其 れ 謂 い か ん 何 せ ん 。 臣 観 る に 、 国 朝 に は 僧 職 に 闕 有 ら ば 、 両 街 に 命 じ て 各 お の 一 人 を 選 ば し め 、 芸 を 較 べ て 補 す 。 今 日 僧 官 は 都 城 に 充 牣 す る も 、 未 だ 清 修 の 士 の 、 以 て 厭 服 し 衆 望 す べ き 者 有 る を 聞か ず。安 ん ぞ 芸を 較 べ て 補 す こ と を 得 ん や 。 近 日 、 女 冠 の 季 貞 詠 有 り て 天 聴 を 干 犯 し 、 左 街 鑑 義 に 補 せ ら る る も 、 中 書 繳 奏 し て 、 隨 た だ ち 即 に 命 は 寝 み ぬ 。 未 だ 両 日 に 及 ば ざ る に 、 忽 ち 宗 満 の 僧 録 を 希 求 す る こ と 有 る は 、 忌 憚 無 き の
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 二六 甚 し き と 謂 う べ し 。 欲 こ い ね が 乞 わ く は 寝 や 罷 め ん こ と を 。 故 に 是 の 命 有 り 。 〈 解 説 〉 慶 元 四 年 ( 一 一 九 八 )、 仙 林 寺 の 住 持 の 宗 満 を 右 街 僧 録 に 任 命 す る 勅 諭 が 下 っ た 後 に 、 そ れ を 取 り 消 す と い う 詔 勅 を 出 し た と い う 記 録 、 及 び そ の き っ か け と な っ た 官 僚 の 諫 言 の 内 容 が 記 さ れ る 。 慶 元 四 年 三 月 一 七 日 、「 仙 林 寺 の 住 持 、 慈 恩 宗 教 寺 、 賜 紫 真 教 大 師 の 宗 満 に は 、 す で に 特 別 に 右 街 僧 録 に 補 任 し て 、 教 門 の 公 事 を 主 管 さ せ 、 仙 林 寺 の 住 持 は 元 通 り 行 う こ と を 命 じ た が 、 こ の 勅 令 は 施 行 し な い よ う に 」 と の 詔 勅 が 下 さ れ た 。 〔 そ の 理 由 と し て は 〕 官 僚 が 上 奏 す る に 、「 恐 れ な が ら 僧 侶 の 宗 満 を 右 街 僧 録 に 補 任 し た 勅 命 を 拝 見 い た し ま し た 。 勅 命 の 下 さ れ た 日 、 世 論 は 騒 然 と し 、 人 々 は み な 、『 宗 満 は 凡 庸 な 僧 で あ る の に 、 ど う し て 上 奏 し て 皇 帝 を 動 か し 、 中 旨 ( 中 書 省 を経 な い で 下 さ れ た 勅 諭 ) を 下 さ れ る こ と が で き よ う か。 そ れ と も 彼 に 地 位 を 与 え よ う と 考 え て い る も の が い る の だ ろ う か 』 と 。 も し 皇 帝 の 左 右 の 側 近 で な け れ ば 、 必 ず や 皇 帝 の 親 族 外 戚 に 違 い な い で し ょ う 。 陛 下 が 中 旨 を 与 え る 事 は 、 当 然 為 政 の 妨 げ と は な り ま せ ん が 、 た び た び 内 降 ( 中 旨 と 同 様 の 意 ) を 下 し 、 三 省 ( 中 書 省 、 門 下 省 、 尚 書 省 を 指 す ) に 施 行 さ せ 、 給 舍 ( 給 事 中 と 中 書 舎 人 ) に 読 み 上 げ さ せ る こ と と な り 、 僧 道 の 一 人 の 輩 の た め に 煩 瑣 な 事 務 が こ の よ う に な さ れ て は 、 人 は そ れ を ど の よ う に 考 え ま す で し ょ う か 。 私 が 見 ま す に 、 宋 朝 で は 僧 官 に 欠 員 が 出 た 場 合 、 両 街 に 命 じ て そ れ ぞ れ 一 人 の 候 補 を 選 抜 さ せ 、 才 能 を 比 べ て 任 命 す る と さ れ て い ま す 。 現 在 、 僧 官 は 都 城 に 満 ち て い ま す が 、 彼 ら の な か に 清 修 の 士 で 、 人 々 を 信 服 さ せ 、 衆 望 を 集 め る 人 が い る と い う こ と を 聞 い た こ と が あ り ま せ ん 。 こ の よ う な 状 況 で ど う や っ て 才 能 を 比 べ て 任 命 す る と い う こ と が で き ま し ょ う 。 近 日 、 女 道 士 の 季 貞 詠 と い う も の が 皇 帝 へ の 口 添 え を 得 て 、 左 街 鑑 義 に 補 任 さ れ ま し た が 、 中 書 が 弾 劾 し た た め 、 即 刻 、 中 旨 は 取 り 消 さ れ ま し た 。 こ の 事 か ら 二 日 も 経 ず に 、 宗 満 が す ぐ に 僧 録 を 希 求 す る な ど と い う こ と は 、 恐 れ が な い の も 甚 だ し い こ と で す 。 内 降 を 取 り 消 す こ と を お 願 い し た い と 存 じ ま す 。」 こ の 上 奏 の た め に こ の 勅 命 が 下 っ た の で あ る 。 本項 は 、 南宋 寧 宗 の 代 に 、 僧 官 の 補 任 が 規 定 通 り 行 わ れ ず 、 正 規 の 手 続 き を 経 な い 皇 帝 の 内 降 に よ り 決 ま っ た こ と に 対 し 、 あ る 官 僚 が 、 皇 帝 の 側 近 や 外 戚 の 関 係 で 凡 庸 な 僧 侶 を 僧 官 に 任 命 す る の は 問 題 が あ る 、 一 僧 道 の た め に 煩 瑣 な 事 務 が 増 え る と い っ た 理 由 か ら 反 対 し 、 内 降 を 取 り 下 げ さ せ た と い う 記 録 で あ る 。 僧 官 の 補 任 の 規 定 に つ い て 本 文 で は 「 僧 職 に 闕 有 ら ば 、 両 街 に 命 じ て 各 お の 一 人 を 選 ば し め 、 芸 を 較 べ て 補 う 」 と 記 さ れ て い る が 、 こ こ で 臣 僚 が 引 用 す る 規 定 は 、
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 二七 『 続 資 治 通 鑑 長 編 』 巻 二 〇 六 の 治 平 二 年 九 月 の 条 に 本 項 と 同 文 の 記 載 が あ り 、 仁 宗 と 明 示 さ れ る こ と か ら 、 北 宋 の 仁 宗 代 に 出 さ れ た 詔 勅 を 指 す こ と が 確 認 で き 、 具 体 的 に は 〔 50〕 ( 本 稿 ( 三 ) 収 録 ) の 天 聖 八 年 正 月 の 詔 勅 を 指 す と 思 わ れ る 。『 続 資 治 通 鑑 長 編 』 巻 二 〇 六 の 記 述 は 次 の 通 り 。 先 に 是 れ 、 僧 官 に 闕 有 ら ば 、 多 く 権 要 に 因 り て 謁 す る を 請 い 、 内 降 も て 人 を 補 す 。 当 時 、 諫 官 と 御 史 は 累 ね て 論 だん 列 がい す る こ と 有 り 、 仁 宗 深 く 其 の 事 を 悟 り 、 因 り て 令 を 著 し て 、 僧 官 に 闕 有 ら ば 、 両 街 に 命 じ て 各 お の 一 人 を 選 ば し め 、 芸を 較 べ て 補 せ し む 。 是 に 至 り て 、 鑑 義 に 缺 有 り 。 中 書 已 に 両 街 に 下 し て 人 を 選 ば し む る も 、 上 ら ず 。 而 し て 内 臣 の 陳 承 礼 、 宝 相 院 の 僧 慶 輔 を 以 て 請 を 為 せ ば 、 内 降 も て 鑑 義 を 与 え し む 。 中 書 執 奏 し て 可 ゆる さ ず 、 韓 琦 、 曾 公 亮 は 極 め て 其 の 事 を 保 つ 。 欧 陽 修 奏 し て 曰 く 、「 一 僧 官 を 補 す に 、 当 と 不 当 と は 、 至 り て 小 事 為 り 、 何 ぞ 利 害 に 系 わ ら ん 。 但 だ 中 書 の 事 已 に 施 行 す る も 、 而 し て 内 降 を 用 い て 先 朝 の 著 令 を 衝 改 す れ ば 、 則 ち 是 れ 内 臣 の 朝 政 を 干 撓 す る な り 、 此 の 事 何 ぞ 其 の 漸 きざし を 啓 く べ け ん や 。」 又 た 啓 し て 曰 く 「 宮 女 近 習 は 、 前 世 よ り 常 に 防 制 に 難 き を 患 ら う 。 今 小 事 も て 若 し 聴 き 許 す こ と を 蒙 ら ば 、 後 に 大 事 有 る べ し 。 陛 下 必 ず 政 を 害 す る を 以 て 従 わ ざ れ 。 是 れ 初 め 姑 息 せ ん と 欲 し て 反 っ て 怨 望 を 成 す は 、 之 を 漸 に 絶 つ に し か ず 。 此 の 一 小 事 、 陛 下 以 て 意 と 為 さ ず し て 之 に 従 わ ば 、 彼 は 必 ず 自 ら 外 に 張 り 、 以 て 謂 ら く 上 の 親 信 と 為 し 、 朝 政 を 迴 ら す べ し と 。 陛 下 の 目 前 に 在 り て は 一 閑 事 に 似 た れ ど も 、 外 辺 の 威 勢 は 小 さ か ら ず 。」 上 、 遽 に 中 書 の 奏 す る 所 を 可 し 、 只 だ 条 例 に 依 り て 選 試 せ し む 。 ( 中 華 書 局 本 、 第 一 五 冊 、 五 〇 〇 三 頁 ) 『 続 資 治 通 鑑 長 編 』 の 記 録 か ら 見 れ ば 、 英 宗 代 の 治 平 二 年 九 月 に も 本 項 と 同 様 の 事 態 が あ っ て 、 欧 陽 脩 の 上 奏 に よ り 、 皇 帝 か ら 僧 官 の 補 任 に 対 し 試 験 を 課 す こ と を 詔 勅 と し て 下 し た こ と が わ か る 。 そ こ に 収 録 さ れ る 欧 陽 脩 の 上 奏 文 の 内 容 は 本 項 に 近 似 し て お り 、 本 項 の 上 奏 は こ れ を 参 考 に し た 可 能 性 が あ る 。 欧 陽 脩 の 上 奏 文 の 内 容 は 、 本 項 の 内 容 よ り 更 に 厳 し く 皇 帝 の 行 為 を 批 判 し 、 僧 官 の 任 命 と い う の は 些 細 な こ と で あ る が 、 側 近 や 外 戚 の 意 見 を 取 り 入 れ て 内 降 を 発 布 す る と 、 官 僚 政 治 の 体 制 が 崩 れ る き っ か け と な る 可 能 性 を 指 摘 し て 、 そ の 内 降 の 取 り 下 げ を 要 求 し て い る 。 宋 代 に 僧 官 の 選 考 に 試 験 を 用 い る こ と が 詔 勅 と し て 出 さ れ た の は 、仁 宗 以 前に は 、〔 46〕 に 真 宗 の 景 徳 二 年 ( 一 〇 〇 五 )、 皇 帝 自ら 面 接 し て 選 ん だ と い う 記 事が あり 、 次 い で 〔 48〕 に、 大 中 祥 符 三 年 ( 一 〇 一 〇 )、 知 制 誥 の 李 維 等 に 中 書 省 に て 経 論 の 問 題 を 造 ら せ 試 験 を 行 わ せ た と の 記 録 が あ る 。 僧 官 補 任
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 二八 の 試 験 を 課 す よ う に と の 規 定 は 何 度 も 破 ら れ た が 、 南 宋 寧 宗 代 に は も は や 僧 の 能 力 低 下 の た め 、 僧 官 試 験 は 有 効 に 機 能 し て い な か っ た こ と が 本 項 よ り わ か る 。 仙 林 寺 の 住 持 で 、 慈 恩 宗 の 教 を 奉 じ 、 紫 衣 と 真 教 大 師 と い う 号 を 賜 っ た と い う 宗 満 、 及 び 女 冠 の 季 貞 詠 に つ い て は 、 こ の 他 の 資 料 に そ の 名 は 見 え ず 詳 細 は 不 詳 。 仙 林 寺 に 関 し て は 、『 咸 淳 臨 安 志 』 巻 七 六 に 次 の 記 事 が あ る 。 仙 林 慈 恩 普 済 教 寺 。 塩 橋 の 北 に 在 り 。 紹 興 三 十 二 年 ( 一 一 六 二 )、 僧 洪 済 大 師 智 卿 造 り 、 今 の 額 を 賜 わ る 。 隆 興 元 年 ( 一 一 六 三 )、 隆 興 万 善 大 乗 戒 壇 の 額 を 賜 わ る 。 淳 祐 三 年 ( 一 二 四 三 )、 淳 祐 万 善 大 乗 戒 壇 の 額 を 賜 わ り 、 又 た 寺 額 、 及 び 飛 天 法 輪 宝 蔵 の 額 を 賜 わ る 。 皆 な 奎 画 な り 。 六 年 ( 一 二 四 六 )、 御 製 の 鐘 銘 を 賜 わ る ( 御 製 門 を 見 よ )。 宝 祐 元 年 ( 一 二 五 三 )、 内 帑 の 銭 も て 大 仏 宝 殿 を 造 る 。 開 慶 元 年 ( 一 二 五 九 )、 銭 を 降 し 嘉 興 府 の 田 二 百 余 畝 を 買 い 、 豊 禾 荘 寺 と 名 づ く る を 賜 わ る 。 蘇 文 忠 公 書 の 金 剛 経 石 碑 有 り 。 ( 中 華 書 局 本 、 第 四 冊 、 四 〇 四 〇 頁 ) こ の 寺 院 を 建 立 し た と い う 洪 済 大 師 智 卿 に つ い て は 未 詳 。 こ の 史 料 か ら 、 仙 林 慈 恩 普 済 教 寺 は 大 乗 戒 壇 を 有 し 、 御 製 の 額 や 鐘 銘 、 蘇 軾 書 の 金 剛 経 石 碑 が あ る な ど 、 朝 廷 と の か か わ り が 密 接 な 有 力 な 官 寺 で あ っ た こ と が 窺 え る 。 ま た 、 佐 藤 成 順 『 宋 代 仏 教 史 の 研 究 』 に は 仙 林 寺 に 言 及 が あ る ( 同 書 、 四 一 頁 )。 そ れ に よ れ ば 、 曹 勛 「 仙 林 寺 記 」( 『 松 隠 集 』 巻 三 一 ) に 寺 の 創 建 に 関 し て の 詳 細 な 記 述 が あ り 、 賜 額 の 年 は 『 咸 淳 臨 安 志 』 よ り 二 年 早 い 紹 興 三 〇 年 で あ る と い う 。 〈 大 澤 〉 〔 277〕 〈 原 文 〉 紹 煕 四 年 三 月 四 日 、 詔 、 開 宝 仁 王 寺 、 特 与 蠲 免 借 官 員 指 占 〈 従 住 持 僧 文 坦 請 也 〉。 〈 訓 読 〉 紹 煕 四 年 三 月 四 日 、 詔 す 、 開 宝 仁 王 寺 に 特 に 与 え て 官 員 に 借 よ り て 指 占 す る を 蠲 け ん め ん 免 す 〈 住 持 僧 文 坦 の 請 に 従 う な り 〉。 〈 解 説 〉 紹 煕 四 年 ( 一 一 九 三 ) 三 月 四 日 、 開 宝 仁 王 寺 に 対 し 、 役 人 が 寺 を 自 分 の 私 有 物 に す る こ と を 拒 む こ と を 特 に 許 す 旨 の 詔 勅 が 下 さ れ た 。 こ れ は 住 持 文 坦 の 求 め に 応 じ た も の で あ る 。 開 宝 仁 王 寺 に つ い て 『 咸 淳 臨 安 志 』 巻 七 六 に は 次 の よ う に あ る 。 開 宝 仁 王 寺 は 七 宝 山 に 在 り 。 先 は 是 れ 東 京 の 開 宝 寺 に 仁 王 院 有 り 、 僧 慧 照 大 師 法 曄 、 駕 に 随 い て 南 渡 し 、 紹 興 五
『宋会要』道釈部訓注(一一) (永井) 二九 年 ( 一 一 三 五 ) 奏 請 し て 権 に 七 宝 山 に 建 つ 。 大 内 の 祈 禳 を 主 ど る 事 、 故 典 の 如 し 。 紹 凞 三 年 ( 一 一 九 二 )、 始 め て 勅 額 を 賜 う 。 嘉 泰 甲 子 ( 四 年 ・ 一 二 〇 四 )、 紹 定 辛 卯 ( 四 年 ・ 一 二 三 一 )、 一 再 燬 き 、 僧 祖 仁 重 建 す 。 端 平 元 年 ( 一 二 三 四 ) 尚 方 、 鐘 を 鋳 し て 以 て 賜 う 。 淳 祐 元 年 ( 一 二 四 一 ) 寺 額 を 御 書 し て 以 て 賜 う 。 三 年 ( 一 二 四 三 )、 田 三 頃 を 賜 う 。 景 定 五 年 ( 一 二 六 四 )、 又 た 燬 く 。 太 傅 平 章 賈 魏 公 、 度 牒 を 施 し 、 省 劄 市 材 を 給 い 、 重 ね て 造 る 。 ( 中 華 書 局 本 、 第 三 冊 、 四 〇 四 一 頁 ) 杭 州 に あ っ た と い う 開 宝 寺 は す で に 失 わ れ て い る が 、 東 京 ( 開 封 ) の 開 宝 寺 は 現 代 で も 鉄 塔 寺 な ど と 呼 ば れ て 現 存 す る 。 開 封 開 宝 寺 に つ い て 清 、 周 城 『 宋 東 京 考 』 巻 一 四 で は 次 の よ う に 言 う 。 開 宝 寺 は 旧 名 は 独 居 寺 、 安 遠 門 裏 、 上 方 寺 の 西 に 在 り 、 北 斉 の 天 保 十 年 ( 五 五 九 ) に 創 建 す 。 唐 の 開 元 中 、 明 皇 、 東 封 よ り 還 り 寺 に 至 り 、 改 め て 封 禅 寺 と 曰 う 。 太 祖 の 開 宝 三 年 ( 九 七 一 )、 改 め て 開 宝 寺 と 曰 い 、 重 ね て 繚 廊 朶 殿 を 起 て 凡 て で 二 百 八 十 区 、 内 に 二 十 四 院 有 り 、 惟 だ 仁 王 院 最 も 盛 ん な り 。 端 拱 中 、 塔 を 建 て 其 の 偉 麗 を 極 む 。 初 め 釈 迦 仏 の 舎 利 塔 、 杭 州 に 在 り 。 仏 書 に 所 謂 阿 育 王 七 宝 塔 な り 。 呉 越 王 銭 俶 、 宋 に 帰 す に 及 び 、 太 宗 、 供 奉 官 趙 鎔を 遣 わ し 寺 内 に 取 置 し 龍 の 地 を 度 し て 之 を 瘞 む 。 時 に 木 工 喩 浩 に 巧 思 有 る こ と 流 輩 を 超 絶 す れ ば 、 遂 に 塔 を 造 ら し む 、 八 角 十 三 層 、 高 さ 三 百 六 十 尺 、 其 の 土 木 の 宏 壮 に し て 金 碧 の 炳 耀 な る こ と 、 仏 法 、 中 国 に 入 り て よ り 、 未 だ 之 有 ら ざ る な り 。 大 中 祥 符 六 年 ( 一 〇 一 三 )、 金 光 有 り て 相 輪 よ り 出 で 、 車 駕 臨 幸 す れ ば 、 舎 利 、 乃 ち 見 わ れ 、 因 り て 名 を 賜 り 霊 感 塔 と す 。 慶 歴 四 年 ( 一 〇 四 四 )、 塔 、 火 に 毀 か る 。 其 の 殿 宇 廊 廡 、 後 、 倶 に 金 兵 に 毀 か る 。 ( 中 華 書 局 「 中 国 古 代 都 城 選 刊 」 二 五 四 頁 ) 開 封 を 代 表 す る 開 宝 寺 は 、 高 宗 の 南 渡 に 伴 い 臨 安 に 遷 っ た が 、 宮 廷 の 祈 禳 の 行 事 は 変 わ ら ず 行 わ れ た と い う 。 し ば し ば 火 災 に あ っ た が そ の 都 度 再 建 さ れ た こ と が 分 か る 。 勅 額 を 得 た 翌 年 に 『 会 要 』 が 伝 え る 詔 勅 も 発 布 さ れ 、 名 実 と も に 臨 安 を 代 表 す る 寺 の 一 つ に な っ た こ と が 知 ら れ る 。 し か し そ の 一 一 年 後 、 寺 は 回 祿 の 災 に 罹 る 。 住 持 は 文 坦 で あ る 。 右 の 一 文 に 続 い て 『 咸 淳 臨 安 志 』 は 次 の よ う に 伝 え る 。 〈制 し て 曰 く 、 可 ぼ 五 伝 し て 文 坦 と 為 る 。 嘉 泰 歳 甲 子 ( 四 年 ・ 一 二 〇 四 )、 民 居 の 火 を 以 て 延 燬 す 。 坦 、 起 廃 を 議 し て 、 未 だ 暇 あ ら ず 。 綿 ず る こ と 十 有 七 禩 、 四 た び 主 僧 を 易 え 、 祖 仁 に 逮 及 ぶ 。 坦 よ り 嫡 伝 し て 次 を 得 る を 以 て 、 先 志 を 補 念 す る も 未 だ 就 か ず 、 慨 然 と す る も 肯 あ と つ ぎ 堂 を 以 て 自 ら 任 じ 、 数 年 せ ず し て 浸 く 旧 観 に 復 す 、 云 々 〉