古代東国の仏教と
切
経
は
じ
め
古代の正史である六回史の中で、単純に一切経をキーワード として検索すると全部で一 二例が検出できる。詳細は後述する が、内訳としては吋日本書紀﹄凶倒、♂祝日本紀﹄二倒、吋日本 ( l ) 後紀﹄関側、♂祝日本後紀﹄閤慨、J
u
本 文 徳 天 皇 実 録 ﹄ 一 一 一 例 、 吋日本一一一代実録﹄五例である。古代における一切経の が国家によって催されていることが多いのに比べると、この数 は決して多いとはいえないだろう。 この二二併の中で、 特に注思したい としては ♂ 祝 日 本 設紀﹄及び﹃日本文徳天皇実録﹄に収録されている東留に対す る一切経の書写命令に関する記事である。その書写命令は都合 四度にも及ぶことが史料より知られ、 それぞれが関連するか否牧
由 市 F 4 2 8/:-イ
了
かは加にしても、何故東閣に対して書写命令が出される イコ たのかということに隠しては、 その理由が明記されていないた めに不明とするしかない。 わざわざ東毘の数ヶ閣に対 し か し 、 して命令が出されているのであるから、何らかの事情があった のであろうことは想像に難くない。 ただし、このこの京協に対する 切経の書写を命じたことに は っ し、~\,、 る三て Jう 主 に際しての底本の問題等については述べられて のものに対しては管見に触れた探り﹁宗 教的文化的な関心を高揚する上で、断期的な事業であった﹂と ( 3 ) いう評価が堀池春蜂氏によって与えられているだけである。し かし、この評価は東留が当時の後進地域であったという前提の 下に与えられたものであり、果たして当時の東国の実舗に合致 するものであるのかどうかという点については再考すべき問題係数大学総合研究所紀要別冊 同 出 絞 の 歴 史 的 研 究 ﹂ を含んでいるものと考えられる。 また、書写を命じた動機についても堀池氏によれば﹁延暦七 -二十年度の蝦夷征討の後にもたらされた兵苅基地としての関 ( 4 ) 東に対する政治的工作の一環的施策﹂であったという推測を行 っておられる。ただし、弘仁一 〆戸、¥ )¥ 一)に文室綿麻呂によ る証夷が行われて以後は大規模な征夷活動は行われていないと いうことを考産するならば、この時期の東聞と抑制夷経営とを結 びつけることについては少々無理があるようにも考えられる。 さらに、奈良時代においては一切経の書写事業自体は国家事 業として、令外官である写経所において行われていたものを、 東屈という地域に龍定して命じているということは果たして如 何なる意味を持つものかというような点も考慮した上で、東国 における一切経写経事業に関して考察を行いたい。
一
、
六国史に見える一切経記事
令
官
本
書
紀
﹄
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机
日
本
紀
ら
東闘での一切経書写に関して考察を加える前に、最初に述べ た六国史にみえる一切経関連記事について、少々煩雑ではある が、それぞれの記事についてみておきたい。 1i 最初に一切経とい で検出できるのは A ﹃ 日 本 書 紀 ﹄ 自雑二年(六五一)十二月晦日条である。 冬十二月晦。於ニ味経宮一 子 百鈴僧尼イ使レ讃二一切 経寸是タ。燃一一二千七百飴燈於朝庭内寸龍レ譲二安宅土側等 経イ於レ是。天泉従一一於大郡一選居一新宮イ放日二難波長柄豊 碕 宮 イ これは味経宮で僧に一切経を読ませたという記事であるが、こ こにみえる一切経は来たして入蔵録に基づく一切経という意味 であるかどうかは不明である。この時間出以前より、陪・唐、あ るいは朝鮮半 2 局の諸国との交渉は行われており、大陵より経典 類が将来されていたであろうことは認められる。そして、入蔵 録の将来されていた可能性も否定することはできない。 ところで、この時点までに作成されていた入蔵録で主だった ものを挙げると、 ①前秦・道安 ﹃ 綜 煎 一 衆 経 目 録 ﹄ ( 吋 道 安 録 ﹄ )一 、
r u p ね 一 ﹂ ノ 一 一 一 千 ノ 立 口 八八六七巻 ②梁・僧祐吋山山三蔵記集﹄(吋僧祐録﹄) 一 五 巻 、 五 七 部 三三六五巻 ③跨・法経等 ﹃ 衆 経 目 録 ﹄ ( 句 法 経 録 ﹄ ) 七 巻 、 二二五七部五O
巻 ③ 陪 ・ 費 長 一 房 ﹃ 歴 代 一 一 ( ﹃ 長 一 房 録 ﹄ ) 五 巻 、一
O
七六部 一 一 一 二 九 二 巻 ⑤ 賠 ・ 彦 蕗 ﹃ 持 衆 経 毘 録 ﹄ ( コ 彦 蕗 錦 ﹄ 吋 仁 市 対 録 ﹄ ) 五 巻 、
一
一
。九部五O
五九巻 これらのうちの何れかが将来されていた可龍牲はあるが、巻数 を見る限りは﹁二千七吾余巻﹂と合致するものが存在しない。 むしろ、何れの入議録に比べてその数が少ないということを考 ぃ慰するならば、入蔵録に収録されている経典が全て将来してい るとは眠らず、現存するものを集めただけと考えた方が自然で あろう。そして、この時点で一切経への関心が持たれたことに ついては、新羅への対誌を契機として、汎東アジア的正当性と 唐皇帝への友誼を象徴するものして、思想的に根拠ずつけようと ( 5 ) したものであると指撰されている。 自雄二年(六五一) の記事は単独で史料に表れ、他に関連す る記事を持たないが、 その後天武朝に至って、 一切経に関する 記 事 が 一 一 一 部 あ る 。 B 天 武 天 皇 二 年 ( 六 七 一 二 ) 三 月 間 疋 月 条 是 月 。 緊 一 始罵二切経於川原土サイ C 天武天皇四年(六七五)十月発酉(⋮一一日)条 冬 十 月 辛 未 朔 奨 酉 。 遣 ニ 使 於 四 方 一 覚 一 一 一 切 経 イ P 天武天皇六年(六七七)八月乙巳(十五日)条 八月辛卯朔乙己。大設一一驚於飛鳥寺イ以讃二切経イ使天皇 古 代 中 筑 間 の 仏 教 と { 切 経 御一寺南門一部樫 日 疋 持 。 諸王及翠卿イ毎 刀 日 明 品 F L o z z n ニ ヨ 一 -一 -一 -一 レ 人 賜 一 一 出 家 ⋮ 人 イ 其 出 家 者 不 レ 問 一 男 女 長 幼 べ 皆 随 レ 願 度 之 。 国以舎二子大紫 4 これらの記事については一連のものと考えられ、先ず天武二年 ( 六 七 三 ) 一 一 一 月 に 川 原 寺 に 写 経 生 が 集 め ら れ 、 一切経の書写が 開始されている(
B
)
。 経典類の不足が生じたために そ し て 、 諸出へと使者が派遣されて、 一切経を集めるということが行わ れ(
C
)
、天武六年(六七七) に至って一切経の写経事業が完 成 し 、 飛鳥寺において供養が行われている(
D
)
。 こ の 場 合 、 自維の時とは異なり、何れかの入蔵録を基にしての写経であっ た と 考 え ら れ 、 そのために使者が諸国へと派遣されたのである。 つまり、漠然と存在する経典を書写し、 一切経としたのではな く、基準があってその不足を求めるために使者が派遣されたも のと考えられるである。 次 に 、 J 祝日本紀﹄が対象とする奈良時代であるが、奈良時 代における一切経の写経事業は、 一般的には令外宮である写経 機構が国家により設置されて、写経機構によって多くの写経が 行われていた。代表的な 切経としては、光明皇后の発願によ る天平八年(七三六)五月一日の識語を持ついわゆる﹁五月一 日経 L を初めとする 切経の書写事業が、国家の手によって行 われていた。このことは、先学による﹁五月一日経 L や 五係数大学内叫ん口研究所紀要別冊 M W 絞の箆史的研究 ( 6 ) 一切経﹂の研究によって実態の解明が行われている。また奈良 末以前に書写された一切経は現存しているものだけでも二 ( 7 ) もの存在が確認できることなどから考えて、 一切経の写経事業 の最盛期といっても良いのではないだろうか。 しかし、これらの一連の写経に鵠しては、正史である♂祝日 本紀﹄には全く触れられておらず、加えて忍机日本紀﹄に一切 経写経事業に関連する記事はほとんど存在しない。実際、 切 経をキーワードに検出できるのは 一 例 の み で 、 E 天平宝字七年 ( 七 六 一 一 一 ) 五月戊中(六日)条にある鑑真の卒伝の中に、鑑真 が来日後に勅によって﹁一切経論﹂の校正を行ったという記事 がみえる。また、 F 神護景雲元年(七六七) 八月内午(サ九 日)条に記される任官一記事中に若江王と秦忌寸知日麻呂が﹁ 経次官﹂に任じられたことが記されるのみである。 な お 、 一切経という表記はないが、 文武天皇剖年(七
C
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)
三 月 つ い 未 ( 十B
)
条の道照の卒伝に﹁此院多有ニ経弘明書迎楢立
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O リ 里 子 一 錯 誤 ぺ 皆 和 上 之 所 ニ 絡 来 一 考 也 ﹂ とある経論も禅段寺 に一品川蔵されていた一切経を指していると忠われる。さらに天平 十八年(七四六)六月己亥(十八日)条に掲載されている玄防 一経論五千絵巻及諸仰像一来﹂とある経論五千余巻 ( 8 ) もその将来の事実は別にして一切経を示しているが、これらを の卒伝で みる限り、﹃続日本紀 L に掲載されている一切経関係の記事は、 五 凶 当時の の隆盛に比して甚だ物足りないものであるとい え よ う 。2
コ
口
本
後
紀
L コロ本後紀﹄については、散逸している部分が多く、現行の ﹃ 門 口 十 午 後 紀 ﹄ に お い て は 唯 といえる記事としては G 延麿二十 m同 年 ( 入O
五)十月茂市中(サ五日)条が挙げられる。 庚 E j ヨ 中 間 各 一為崇道天皇一馬一二切経寸其寄生隠し功叙 位 及 得 度 。 これは、山田市道天泉すなわち早良親王のために一切経の書写が行 わ れ それぞれの功績に応 その一切経を書写した者に対して、 切 じて叙位が与えられたり、得度が許可されるという内容が記さ れている c ﹂ れ 以 外 に 、 ﹃ 日 十 午 後 紀 ﹄ の逸文と考えられるものが三例あ り、年代別に列記すると、 H 吋類以爪関史﹄巻百八十﹁仏道 天長元年(八二四) 九月壬中(廿七 β ) 条 淳 和 天 皇 天 長 元 年 九 月 壬 山 中 。 以 ニ ム 同 開 放 寺 一 括 一 定 額 イ 井 定 二 得 度経業等イ正五位下右河内守和気朝臣国民網。従五位下弾正 少 弼 和 試 抑 制 臣 仲 計 一 等 ニ 一 一 口 。 臣 問 。 父権子終。顎一之大孝イ替 レ公献レ可。惟忠惟孝。不レ可レ不レ願者む。昔景登山年中。僧道 鏡 。 以 二 日 依 邪 之 資 ぺ 玄麗之上イ辱階二法王之波寸遂懐 窺 観 之 心 イ 偏 二 部 幣 御 群 神 イ 行 ニ 権 一 縞 御 依 議 ぺ 愛 八 幡 大 神 。 語 ポ ヘ コ 司 之 頃
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ー ヴ ノ ロ 閉 山 一 J246 ロ h q 一 一 狼 奴 之 将 鼠 ハ 。 神 兵 尖 レ 鋒 。 鬼 戦 連 レ 年 。 皮武主宰 o f -- E ノ ノ イ ユ J ' 1 -P 邪 強 正 弱 。 大 将 歎 一 一 白 威 之 難 じ ゃ 問 。 仰 一 協 力 之 奇 誠 司 乃 入 一 一 御 夢 一 訪 問 一 使 者 イ 有 レ 効 。 追 二 引 臣 等 故 考 従 三 位 民 部 卿 法 麻 呂 イ 面 宣 一 一 御 夢 之 事 サ の 以 下 天 位 一 一 枝 一 一 道 鏡 之 事 印 令 ⋮大神イ清麻呂泰一詔旨寸向二宇佐神宮で LJ レ 時 大 神 託 宣 。 夫 神 有 一 大 少 イ 好 惑 不 レ 問 。 議 口 神 悪 一 一 夜 記 ィ 会 神 受 ニ 邪 幣 イ 我 矯 下 紹 ニ 陵 皇 緒 寸 扶 し 治 国 家 目 詰 ニ 造 一 切 経 及 仰 ぺ 日 間 JJ 人 出 汐 ニ コ n H E 羽針作此 H M 王 経 万 巻 斗 建 二 伽 蕊 イ 除 ニ 凶 逆 於 一 一 目 一 ぺ 閉 山 一 一 社 綾 於 万 代 心 汝 承 二 此 一 マ 一 口 ぺ 莫 レ 有 一 一 遠 失 心 清 麻 呂 封 一 一 大 神 国家平定 之 後 必 奏 ニ 後 帝 寸 奉 レ 来 二 神 願 ぺ 粉 品 目 昭 如 、 命 。 不 レ 錯 一 道 一 蒔 不 遇 三 身 降 二 刑 獄 4 遂 配 一 一 荒 開 削 イ LU 村 S1JO 一 や す 壬 詩人一帝都ぺ後匝際天皇 c 質強十一年。数泰一此事イ天皇感 続 。 親 製 一 未レ行之問。遇二譲位之事心夫臨二年又奏 レ 之 。 柏 原 先 帝 。 部 以 字 削 詔 イ ゴ 、 、 一 、 。 弓 ノ ー i ⋮ 一 延 暦 年 中 。 私 ↑ 伽 藍 寸 名 目 以 一 神 願 寺 ぺ 一 先 功 イ 以 二 神 願 寺 イ 潟 一 一 定 額 ペ ム マ 此 寺 地 勢 汚 機 。 不 レ 宜 伏 望 松 一 一 抗 日 古 川 雄 寺 ﹂ 以 潟二定額イ名目二神護閥幹真一⋮呈完備像一鉱工大悲飴裁及金 ( 一 カ ) 側界等イ筒 γ 解一倍二七人目、水潟二国家ぺ修一 寝t 法 門 イ 其 傍 有 レ 院 。 擦 下 有 一 一 道 行 一 僧 l 補 レ 之 。 又 楠 二 貞 操 沙 弥 二 古 代 交 問 聞 の 仏 教 と 切 絞 七人プ令レ勝二読守護問界王経。及調和風雨成熟五穀経等イ 者 一 夜 更 代 。 不 レ 額 一 一 其 啓 イ 七 年 之 後 。 額 二 得 度 イ 一 別 果 一 一 大 神 之 大 額 三 一 則 除 一 一 図 家 之 火 難 ⋮ 者 。 勅 。 一 代 之 向 。 毎 年 譜 レ 度 二 一 人 イ 又 備 前 悶 水 田 サ 町 。 賜 ニ 傍 二 社 一 鶏 一 一 功 回 一 者 。 人 後 寺 一 充 。 来 二 神 額 一 者 。 吏 延 一 一 世 プ 自 鈴 依 シ 請 。 I J 口本紀略﹄天長五年(八二八)二月庚子(十三日)条 庚子。在一一西大寺凹王堂⋮故正田位下吉備部毘由利之泰寓 切 経 。 充 一 一 法 隆 寺 イ 潟 ニ 彼 寺 経 ぺ ( 以 下 略 ) 五 j 月 刊 丁 頚 酉 紫 ( 医i十 史
プL Ib 日 巻 条旦五 千Ijl 紙 五 八橋大神﹂天長六年(八二九) 天長六年五月了調。 令 三 僧 十 口 。 車 事 万 ワ 恭 子 ¥ 来 日 ζ E E 持 活 お ・ 04Ldb 布 / 出 納 斗 ノ イ 荘 一 K 3主主 呂 寺 このうち、日と J はともに八幡宮に関する記事である。日は 古 川 雄 寺 を 定 額 寺 と し た 時 の 和 気 真 柄 ・ 仲 世 と の 奏 一 一 一 一 口 で あ る が 、 宇佐八幡が和気清麻呂に対して下した神託の中に﹁我潟らぬ一隆 扶 p淡 国 家 日 一 切 経 及 崩 御 イ 諦 最 勝 王 経 万 中 将 ] イ 建 一 伽 藍 イ 除 一 一 凶 逆 於 一 旦 寸 閲 二 社 礎 於 万 代 一 L と 切経の書写 と 仏 像 の 造 立 、 回 収 勝 王 経 万 巻 の 菰 諦 、 さらには一伽墜を建立す ることを命じたということが記されている。それに対して、 J では八幡大菩薩神宮寺すなわち弥勤寺において一切経を転読し た と い である。これは、先に宇佐八幡が和気清麻呂に命 r u 丘術品以大学総合研究所紀姿別冊 J 切経の鐙史約研究﹂ じた一切経を示しているのかどうか不明であるため、関連する か否か明雄にはし難いが、 ともかく天長六年(八二九)段 階で、弥紡寺に一切経が蔵されていたことが判る。 ま た 、 ーは商大寺の四王堂に蔵されていた吉備由利発般の 切経について、法隆寺に移し、法隆寺の所蔵とするべきことが 記されている。この吉備出利願経については、宝亀十 年(七 八
O
)
に作成された﹃西大寺資財流記帳﹄のつ経律論疏第間﹂ に﹁惣一切経律論説障部﹂とある西大寺に所蔵されていた 経四部の一つとして、 一部、吉備由利命婦︿在龍王堂﹀進納 とあるものであることが明らかである。ただし、吉備由利願経 については、現在留宝のτ大毘虚舎那成仏神変加持経﹄が西大 寺に所蔵されており、果たして一切経の移動が本当に行われた のかどうかは不明といえよう。3
3
祝
日
本
後
紀
﹄
♂祝日本後紀﹄において先に述べた、東留への一切経の写経 命令及びそれに関わる一速に記事が見えるが、最初にみえる記 は、東関との関係のない、むしろ吋日本後紀﹄の宇佐八幡に 関係する一切経記事が記載されている。 K 天 長 十 年 ( 八 一 一 一 一 一 一 ) 十 月 戊 中 ( 廿 八 日 ) 条 五 六 戊市中。縁ニ景雲之年八幡大菩議所 v 告 。 天 長 年 中 ぺ 仰 一 一 大 宰府ぺ鶏二得一切経﹂歪レ是便安ニ霞弥鞍寺イ今更復令レ寓ニ 通 イ 壁 一 一 之 衿 護 寺 ぺ この記事にみえる﹁景雲之年八幡大菩議所告﹂が、 日において 和気清麻呂に下つ の内容であることが指摘できる。そし て、そのうちの一切経に関する書写が天長年間(八一 四 J 八 一 一 一 間 ) に 大 宰 府 に 命 じ て 際 始 さ れ 、 天 長 十 年 ( 八 一 一 一 一 一 一 ) 以 前 に 完 切 成 し 、 そこでもう一部一切経を書写して、神護寺に置くべき事 が命じられている。すなわち、弥勤中古リに安室する一切経が完成 したのは J の記事にあるように天長六年(八二九) であったと 考えられる。 ところで、この時の一切経書写に関しては、貞観九年(八六 ( 叩 ﹀ 七)の﹃安祥寺伽藍縁起資財帳﹄に日記されている恵運の経歴に、 忽 然 有 レ 勅 、 換一技潟一切経於坂東 J 歴 一 一 四 年 J 強 功 皐 、 天 長十年泰レ勅、被レ拝二鎮西府観音寺講師兼筑前鴎講師 J 以 レ 第一九盟二嶋之僧統 J 特 勾 一 一 吉 大 識 経 之 事 J 恵 運 隠 鉾 不 レ 許 、 強 赴 一 一 任 所 とあり、恵運がこの時の一切経書写を勾当したことが明らかと なる。そして、この天長十年(八一二三) の恵還の大宰府への派 遣はK
にある神護寺へ納められることになる一切経 を完遂するためだったと考えられる。恵遂の派遣理由は、 そ の経略を見る限り天長十年(八一二三)以前に﹁坂東 L に お い て 一 切 経 常 一 日 写 事 業 を 検 校 し て お り 、 四年で完成させていたという経 陸によるものであったことは明らかである。 次に、来由に関係するものが挙げられる。 L 承 和 元 年 ( 八 一 一 一 四 ) 五 月 乙 丑 ( 十 五 日 ) 条 乙丑。効。令下相撲。上総。下総。常陸。上野。下野等図 司 其経本 勃 レ 力 寓 ニ 取 一 切 経 一 部 イ 来 年 九 月 以 前 奉 進 上 。 在 二 上 野 劉 縁 野 郡 縁 野 寺 ↓ MM 承和二年(八三五)正月庚申(十四日)条 庚 市 中 。 去 年 有 レ 勅 。 令 二 松 摸 。 上 総 。 下総。常器。上野。 下野等践。奉 u客 引 一 一 切 経 寸 今 亦 貞 一 冗 井 党 務 寺 目 録 所 レ 毅 律 論 疏 章 紀 傍 集 抄 。 毎 レ 図 均 分 。 令 レ 加 ニ 寓 之 ﹂ M 印 象 和 六 年 ( 八 一 一 一 九 ) 一 一 一 月 乙 酉 ( 四 日 ) 条 乙 語 。 陵 輿 圏 百 姓 三 万 八 百 五 十 八 人 給 一 一 復 二 一 年 ぺ 潟 レ 済 一 一 窮 弊 一 也 OL 勅。令七相撲。武載。上総。下総。常題。上野。 下 野 七 翻 斗 相 二 分 巻 数 ぺ 寝 中 進 切緩一部日其経修飾。通潟 同 色 ︿ 一 去 一 去 ﹀ 。 こ れ を み る と 、 ま ず
L
で束留六ヶ国に対して、上野田縁野郡 にある緑野寺の一切経を底本として、各国で分担して翌年の九 月までに一切経を書写することが勅によって命じられている。 そ し て 、 M には期間以よりも平くに一切経が書写され進上された 古代策閣の仏教と 切経 が、不足が存在したために口間以元釈教録﹄と党釈寺の﹁目録﹂ による増補が命じられた。 さ ら に 、 N の最初に東国への書写命令が出された四年後にも 再び東国に、武諸国を加えた七ヶ閣に対して、 一切経の書写が やはり勅によって命じられている。ただし、前回の書写では思 毎に﹁修飾﹂が異なっていたようで、同一規格で行うことを条 件として付加している。4
コ
ロ
本
文
認
天
皇
実
録
﹄
東留に対する一切経の書写命令は ﹃ 日 本 文 徳 天 皇 実 録 ﹄ おいても記載がみられる。 O 仁 寿 一 一 /戸、、 )¥、 一 一 ) 五 月 美 己 ( 四 日 ) 条 五月発己。詔二相模。上総。 下総。常態。上野。陸奥等六 国 ベ 寓 二 一 切 絞 イ ム ハ 鴎 各 分 二 部 軟 ぺ 寓 得 上 レ 之 。 P 仁 寿 一 一 /戸h¥ )¥、 ニ)五月発卯(十四日)条 発 矧 。 詔 一 一 武 戴 信 濃 商 圏 ベ 諮 問 切 経 各 一 部 ぺ O では一二震日の書写命令が東屈に対して出されているが、下野 閣と二度目の際に加えられた武蔵留が外されて、新たに経奥富 が加えられた六回がその対象となっている。 しかし、武蔵留は 今回の書写命令から完全に外されたわけではなく、 その十日後 である?によると、武諸国と信濃国はそれぞれ単独で一切経を 五 一 じ術 品 拡 大 学 総 合 研 究 所 紀 姿 別 冊 ﹁ 一 切 経 の 燈 巾 人 口 約 研 究 ﹂ 書写することが命じられている。 一 一 年 ( 八 五 したがって 一 一 ) の 段 踏 で は 都 合 の一切経が書写作成されたということ に な る 。 また、開じ吋日本丈穂天皇実録﹄ではその三年後に一切経を 供養したという記事がある。 Q 斉衡三年(八五六)六月乙爵(一四日)条 乙酉。(中時)是日。訪問ニ名僧二百六十五人於東政寺及延暦。 同一市議。党務。天王。東大。興福。元興。大安。薬師。西大。 法陸。新薬師等十四筒寺ぺ 切 経 一 各 三 遍 。 限 一 一 七 一 所 レ 寓 日 一 品 一 払 。 五 位 一 人 ⋮ 第 二 勅 使 ぺ これは、名僧二五六人を一四箆寺に集めて供養を行ったという 内容であるが、 切経について 一 一 前 レ 寓 一 切 経 L ここにみえる というあるだけで詳細なことは記されていない。ただし、可能 性としては先に O と
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で書写を命じられた一切経ではないかと 考えられる。 あくまでも推測の範囲を出ないが、 ﹁ 各 一 一 一 遍 ﹂ いうことを考えると、東田六ケ屈と武蔵留・信濃留に作成がム叩 じられた三部の一切経である可能性があるのではないだろうか。 そうすると、この一一一例の記事は一連の記事ということになろう。 { エ ¥ ↑ユ/5
今
日
本
一
一
一
代
実
録
L 六田史の最後である吋日本三代実銭﹄では次の五例がある。 R 貞観五年(八六二一)四月三日乙未条 三日乙未。先レ是。伯誉議締体燈法師位僧資、氷川突言。年来 五穀不レ登。百姓窮弊。加之疫病頻護。死亡者衆。賢永奉 矯 閥 家 イ 百 九 む 判 1JC ドバ付品開判ヤ九立三 五 時 品 ιト イ ノ 小 平 壬 n T 俳 札 レ ↑ 花 d ヨ 生 コ El:r レ 目 玉E三 O ! 盟 主 日 印 間 供 料 イ 詞 万一⋮一千仰井観祉音菩穣像及一切経寸貯 穀百斜イ以資一掻娃イ詰安二設割分寺一乃付二図可寸其穀毎年 出 翠 。 勿 レ 顕 一 燈 明 ぺ 詔 許 レ 之 。 ﹂の時に、伯香田の講締であった賢、水の奏上によってO
00
仏と観世音菩羅録、 それに一切経が書写され、諸国の国分 に安置されることについて許可が下りた記事である。 S 貞観十七年(八七 正月廿八日壬子条 と 廿八日壬子。夜。冷然説火。延ニ焼会五十四{主秘閑牧議 闘 籍 文 書 矯 二 灰 焼 イ 自 徐 財 質 経 ⋮ レ 有 二 ↓ J e u 型 紙 御 願 書 寓 切 経 。 国 一 一 縁 衆 救 イ 僅 得 レ 令 レ 存 。 冷然説よりの火災の延焼によって、収蔵されていた関籍文書が 灰となった、か、御願の一切経のみが無事であったということが 記されている。 T 貞観十七年(八七五)一二月廿八日辛亥条サ八日辛亥。遺ヱ一傍灯大法締位安京於大宰弥勤寺ぺ 切経三子四百品川二審大乗経二千二百十四巻。大乗律五十巻。 銭外経百六十七巻目先レ是。 藤 小 原 来 朝五律 臣ぎ五 欲 百
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巻 1去、 上 黍 主 主 而 与 え 故太政大臣 無溺而安小万民日奉 第八幡大菩陵ぺ於ニ豊前回 一切経イ令長故傍灯大法師役 行 数 検 中 山 税 其 事 け ⋮ 緩 ( お 功 成 。 始 有 一 一 首 尾 。 ム マ 遣 k安 宗 イ 可子 司一相共供養安置 i 薦 。 この記事は、先にみた宇佐八幡宮の神宮である弥勅寺に、藤原 長一房、か清和天皇のため、万民を安んぜんがために、 さらには字 佐八幡大菩薩のために、曲一旦前留に命じて書写させた一切経を奉 総したとう内容である。 コ ね 本 三 代 実 録 ﹄ の中では単独の記事 ではあるが、六悶史全体を通じていうと、宇佐八幡に関連する 記事であるとはいえる。なお、この時は豊前回という大宰府管 内の一一回において一切経が書写されているが、藤原良一局発願の 一切経が豊前回において書写されていることについて、当時九 叫に来襲していた新経の海賊等に関する外的危機に対処するた ( 孔 ) めという指摘がある。 U 元慶元年(八七七)十二月十六日壬午条 十 日壬
午 以 二 蹄 院 寺 ⋮ 第 一 一 元 一 胤 ハ 寺 別 院 ↓ 鵡 院 寺 者 。 遣唐 留 内 九 千 僧 道 問 問 。 還 レ 此 之 後 。 壬 成 年 三 月 。 創 一 一 建 本 一 兆 興 寺 東 南 隅イ和銅四年八月移二建平城京一也。道照法脚本願記司。良 古代前市街の仏教と一切経 身 金 口 利 。 一切経論。安二置一処ぺ流二通万代イ以潟一一一切衆 生 所 為 之 慮 一 ﹁十六日午﹂右京人従五位下行出域擢介飴 連剥使麿。内議権少允正七位上津宿祢輔、王。主殿允大初位 下 葛 弁 連 直 臣 生 一 さ 一 入 。 賜 一 一 姓 菅 野 朝 臣 イ 其 先 。 百 済 閣 人 也 。 ここにみえる一切経は、禅院寺が所蔵していた一切経について ♂必照法師本願記 L が 引 用 さ れ 、 その由来、が述べられている。 そして、この一切経については、先に♂祝日本紀﹄に挙げた丈 武天皇四年(七O
O
)
一二月己未(十日)条の道照の卒伝にもみ えるもので、道照が唐より将来した由緒正しいものであること ( ロ ) が主張されている。 V 元慶五年(八八一) ⋮月四日戊寅条 十二月乙亥朔。問日戊賞。清和設泰二潟先太上天皇斗於二回 設ニ周忌綿粛舎三供二養一切経イ太上天皇在一昨之日所一 -也 。 王 公 朱 紫 。 傾 レ 都 合 集 。 円覚寺において清和太上 の に際して御斎会を設け、 清和太上天皇が書写した一切経の供養を行った旨の で あ る 。J
M
本三代実録﹄の五例は基本的にそれぞれ単独の記事である が、この 切経の場合は、あるいは S で火災の際に唯一残った 御願の一切経を指している可能性がある。 I.i 九係数大学総合研究所紀要山出品川三切経の歴史的研究﹂
、
九世紀東国の社会状況
六昌史をみる限り、特定の留において一切経の書写を命令し ているのは、東閣と豊前留に対してのこ到しかないことになる。 ただし、豊前回の場合は、先にも述べたように書写を命じた環 由については、当時の社会情勢の一つである新銀等の外的脅威 に対する危機意識があったことが推測できる。さらに、 関与した人物についても、藤原良一房が発顧し、行教が⋮切経書 写を検校したといったことが記載されている。それに対して、 東関の場合は書写命令が下った理由や、 に関与した人物に ついては何も記されていない。しかも、 ⋮度だけではなく、都 合四回も書写が命令されているにも関わらず、 その詳細につい ては不明というしかない。 東聞に書写を命じた潔白について、豊前田の場合の外的脅威 に対する危機意識に類するものが東簡においてもあったのかど うかという問題について、先ずは東自の社会情勢について考察 を 加 え て み た い 。 東閣における一切経の書写命令関しては、延暦七年(七八 八)及び延暦二十年(八O
)に行われた蝦夷征討の後にもた らされた兵姑基地としての政治的工作という指摘が据池泰峰氏 (MH) によって行われている。確かに、延暦七年(七八八)に紀古佐 ム ハ ︿ ﹀ ( U H ) 北大が征東大慣に任ぜられおり、延諮二十年(八O
一 ) には征夷 ( 日 ) 大将軍である坂上田村麻呂によって戦果が挙げられている。し かし、蝦夷経営に関しては担武天皇の晩年である延暦二関年 ( 八O
五)十二月七日に藤原緒嗣と菅野真道との潤で行われた ( M W ) いわゆる﹁徳政相論﹂の結来、東北地方における軍事行動の停 tこ 止が命じられており、弘仁二年(八一一)に文護綿麻呂による ( げ ) 征夷が行われて以後は大規模な征夷活動は行われていない。し たがって、この時期の東国と蝦夷経営とを結びつけることにつ いては少々無理があるようにも考えられる。 では、この時期、特に弘仁年間(八o
l
八 閤 の東留に おける社会状況はどのようなものであったのかを考えた場合、 この時期までに特筆できることとして、神火の問題が挙げられ ( 同 ) る 。 神火について、史料上では天平宝字七年(七六一一一)が初見と ( 叩 ) なるが、東拐においても早く神護景雲年間(七六七 J 七七O
)
( 初 ) から史料にみ与えるようになるが、平安時代に入ってから史料上 明らかなものとしては、弘仁七年(八一六) のよ総菌夷讃郡で の も の が 挙 げ ら れ 、 ﹃類索国史﹄巻八十四 焼 亡 官 ﹂ ﹁ 政 理 六 に以下のように詳細が記されている。 七 年 八 月 丙 辰 。 公 卿 奏 一 言 。 上総調夷潜郡。宮物所レ焼。准 穎五十七万九吾束。 正 念 六 十 字 。 刑 部 省 額 レ 界 一 一 一 一 口 。 操 焼 損使散位正六位上大中毘腕臣井作等中。税長久米部品目閑人。 臨 一 一 失 火 時 イ 逃 亡 自 殺 。 推 ニ 量 意 況 ベ 量 級 ⋮ 二 所 犯 イ 忽 自 引 乎 。 可 レ 謂 宮 人 侵 二 盗 官 物 ぺ 謀 而 放 レ 火 者 。 省 案 レ 待 。 嘗 入 所 レ 犯 。 罪賞二絞刑イ市立(身自殺。の吏不レ論。健新任守小野朝臣奨 就レ政臼浅。此火之起。不レ縁不 野。介茨田宿禰文足等。 レ 覇 。 の 案 ↓ ⋮ 延 歴 五 年 八 月 七 日 格 イ 不 レ 間 一 一 神 火 人 火 イ 令 ら 幽 時図司郡司。及税長等イ一物己上。依レ数填備 M 然別賞路 神 { 火 ﹂ 猶 令 ふ & 時 公 厩 一 填 納 日 叢 以 ⋮ 司 示 品 廊 之 設 本 矯 一 一 欠 負 一 故 也 。 須 コ 一 在 任 国 司 郡 司 及 税 長 等 。 共 虞 一 一 俄 之 一 者 。 省 断 如 レ 此 。 一検法意イ外従五位下守大判事物部中原宿禰敏久目。 法 家 者 。 如 レ 此 事 類 。 禁 二 得 其 身 イ 期 自 備 償 。 若 資 財 乏 進 出 。 然 而 不 レ 得 レ 過 ご 五 歳 ぺ 年 摂 既 満 。 頗 物 未 レ 墳 。 役 レ 身 相 折 。 朗従一一原免ベ斯則公家有レ損然レ益。是以。延歴五年格。令 下 不 レ 論 一 一 神 夫 人 火 ぺ 以 ニ 首 時 公 癖 -填 上 レ 之 。 良 由 コ 一 欠 負 之 設 在 一 後 人 一 也 。 前 人 去 レ 職 。 不 一 一 更 迫 答 一 者 。 官 議 商 量 。 事 不 ニ 橋 使 ご 所 以 者 。 格 一 玄 。 正 倉 被 レ 焼 。 米 一 一 必 市 出 v神。何者。譜 監 主 之 司 避 ニ 納 一 以 放 火 。 盟 レ 忍 観 代 之 徒 害 ニ 傍 人 一 雨 相 焼 。 レ之。格之大躍。責跨ニ虚納一也。又選二用郡司寸前人之所 レ 行 。 後 司 乍 到 。 雑 務 未 レ 分 。 縫 レ 領 一 一 印 鑑 寸 交 替 未 レ 華 。 在 ニ 於 此 間 イ 含 逢 ニ 失 火 寸 前 司 寄 一 一 一 一 一 一 口 去 v職 。 専 避 一 一 其 公 明 イ 新 任 則 交替昔時。溺以持レ墳。夫麗約者奮時之怠出。公厩者後可 古代夜間の仏教と 切 主主 之 料 也 。 有 レ 怠 期 黙 然 免 二 罪 責 刊 紙 ⋮ レ 怠 即 毎 年 奪 ニ 科 物 イ 弘 二 無 レ 怠 之 料 イ 備 一 一 存 レ 怠 之 損 ﹂ 事 之 矯 レ 緒 。 不 レ 近 一 一 物 情 イ 今 臣 笠 荷 量 。 事 有 一 一 大 小 イ 政 有 二 関 忙 イ 是 以 八 刀 付 受 領 。 既 立 二 程 期イム寸前司全成雄レ去レ戦。是政納之宮時也。後任良野蹴 レ 領 一 一 印 鑑 斗 間 見 失 之 官 時 也 。 激 ニ 格 安 党 問 疑 渉 一 一 虚 納 イ 何 者 。 行 火 自 殺 。 玄 以 ニ 燈 一 備 ぺ 期 不 レ 縁 二 不 粛 ベ 何 者 。 封 レ 任 日 浅 。 凡 交 替 之 事 。 限 内 未 レ 畢 。 別 宜 レ 一 一 一 一 口 二 其 由 ニ 杭 令 無 レ 故 進 一 百 件 u 日ぺ会後火起別後任官可更知県レ所レ穣。市就レ任以降。十有 一 子 猫 填 イ 誰 甘 二 心 前 怠 後 責 ベ 伏 間 二 絵 日 。 歴 レ 任 不 レ 幾 。 天 裁 一 者 。 奏 可 。 これについては、その原因は﹁安婦虚納也 L と述べられ、国郡 訓叫が虚納を隠蔽するために放火したと認識されている。また弘 仁八年(八一七)には常睦回新治郡で発生している。 八 年 十 月 発 亥 。 常 陸 毘 新 治 郡 災 。 焼 一 一 不 動 倉 十 一 一 ( 幻 ) 九 千 九 百 九 十 石 イ
。
1J 又 ゴ ﹁ さらに、弘仁十年(八一九)二月には相模局面分寺、同年八月 ( お ) には遠江・相模・飛縛の一一一ヶ国における自分寺の火災、そして 承和ニ年(八⋮一一五)の武蔵間国分寺の七霊塔の焼亡に関する記 ( μ ) 巾ゃがみられる。栢模毘分寺が二度も焼失していることは注目に 値するが、それにもまして、武蔵留の場合は、﹁以ニ去承和二年 潟 二 神 火 所 v焼 L という記載から神火による焼失ということがわ ノ 、係 数 大 学 総 合 研 究 所 円 札 制 究 開 即 時 一切経の隆史的研究 j } かる。ただし、武殺菌国分寺の場合は、神火の例に加える事に ( お ) ついては異論もあるが、史料に﹁神火﹂とみえることから、当 時の認識として神火であった可能性を認めてもよいのではない だろうか。そして、神火が京国で多く発生したことに対する背 ( お ) 景には諸説があるが、何より国分寺自体が火災に遭うというこ とが、東屈の社会情勢に関する影響は決して小さくはないと考 え ら れ る 。 また、神火以外にも九佐紀の中頃から後半鰐になると、東国 地域では﹁倖囚の反乱﹂が頻発する。律令閤家が帰服した強夷 に対して伝統的に行ってきたのが、内国への強制的な移設、い ( 何 日 ) わゆる移記であった。そして、これらの帰服した抑制夷は待問の 名で呼ばれており、﹃延喜式﹄ ( お ) に移住させられていた。移配が行われた背景には、本郷から切 によれば畿内等を除く三五ヶ国 り離すことで未服の蝦夷と分断し、内民化を進める政策があっ た。移配先ではそれぞれの出より倖囚料が支給され手厚く保護 されていたが、倖囚の内氏化はなかなかに困難であったらしく、 様々な砲で箆遇策が講じられているにもかかわらずその時化は 難 し く 、 しばしば法を犯し、不満を訴えることが絶えなかった。 それが﹁反乱﹂という形で集中的に現れてくるのが東 ( ぬ ) 日出地域の特徴であるといわれている。 そ し て 、 先ず、嘉群元年(八四八) に上総国で倖囚丸子理毛らが反乱 ノ 、 ( 鈴 ) ( 訂 ) を起こしている。次いで貞観十二年(八七
O
)
には再び上総国 ( 幻 ) ( お ) は下総菌・下野国で相継いで反乱が ( 川 剖 ) に は 一 一 一 度 上 総 国 で 反 乱 が 起 こ る な で、貞観十七年(八七五) 起こり、元慶七年(八八三) ど、特に上総屈でも反乱記事が日を引き、東国の不安定な池田勢 しかし、京国全体で惇囚の反乱が起 を示しているともいえる。 こったわけではなく、 また承和年開(八三四 j 八四八) か ら み ると少し時代が下った段階で発生した事件であるともいえよう。 さらに、東屈においては﹁群議﹂の活動も正史にみえ、早い ( 八 ( お ) 子(サ二日)条に記されている丹塀門成の卒伝に、内成が承和 例としては 吋 日 本 文 徳 天 忠 誠 実 録 ﹄ 一一一・ ¥ーノ ー (八間五)武蔵権守任命され、翌年には守となった時の 武蔵障の様子として盗賊が横行し、治安が乱れていたことが記 ( 鉛 ) さ れ て い る 。 さ ら に 、 コ ロ 本 三 代 実 践 ﹄ 貞 鏡 ⋮ 一 ( 八 六 一 ) 十 一月十六日丙戊条の記事では﹁以凶滑成党。群盗満山む﹂とそ ( 幻 ) の強勢ぶりが評される。また貞続十二年(八七O
)
十二月二日 ( 総 ) 己卯条には﹁凡群掻之徒。自此而起﹂、元慶七年(八八一一一)二 ( m 剖 ) 月九日丙午条では﹁是倖夷群盗 L とあり、政府は停四の反乱と 群盗の践震とをひとつながりのものとしてとらえていたことが 明 ら か と な る 。 以上のように、東国においては神火の問題をはじめ、同片岡の 反乱あるいは群読の殴匿などその政情は決して安定していると、 仏 比 什 戸 、 。 l u v A Z 取 引ハ hLV 切経の書写が最初に命じられた承和元 た だ し 、 年(八三田) の段階は、丁度それらの問題が発生する端境問加で あるように思われるが、表面上をみる限りは何ら問問題となる事 件は発生してはおらず、むしろ安定期であったように考えられ る。そうすると、豊前日出に舟一一回写命令が出されたときのような、 緊張した危機意識が生じるような政治情勢ではなかったように 思われる。むしろ、安定した状況であったがために東国へ一切 経の書写を命じることができたと考えることができる。
一
一
、
緑野寺の一切経
で は 、 一切経の書写命令が東富へ下された理由は何であった のか。合計四度にわたって書写命令が出されているが、 それを ﹂こで改めて整壊すると以下のようになる。 L 承和元年(八三時)五月十五日、指模・上総 -v i 総・常陸 上野・下野の六ヶ因。 N 承和六年(八三九)一一一月額日、相撲・武蔵・上総・下総 常陸・上野・下野の七ヶ国。 O 仁 寿 一 一 (八五一一口五月四日、相模・上総・下総・常陸・ 上野・穣奥の六ヶ因。 P 仁 寿 一 一 (八五一一一)五月十鴎日、武蔵・信濃の二ヶ因。 古代米国の仏教と 反j bッ ずぺE 最初は六ヶ国に出されたが、 二度目では武蔵留を加えた七ヶ密 となり、一一一度目では武蔵間と下野田を除く替わりに践呉国が入 った六ヶ闘となるが、 さらに武蔵国と信濃回に対してはそれぞ れ 部ずつ一切経の書写を命じている。これらは それぞれ 何らかの理由によるものではあろうが、 それぞれの書写命令が 関連する 連のものであるのか、全く関連を有しないのかとい う点に閲して、 その詳細については不明であるとしかいえない。 ただし、最初の書写命令が下った際に、予定よりも早くその事 時 一 市 が 完 成 し て お り 、 それを切っ掛けとして複数回の書写命令が 出される った可能性はある。 つまり、承和元年(八一一一眼)五月の時点では、翌年の九月ま でに進上するべきこと、 そして上野園緑野郡緑野寺の一切経止を 底本として 切経を書写するべき旨が命じられている。 し か し 、 当初の期限よりも早く翌年の正月には進上しているが、底本に 問題があったようであり、不足分を﹃貞一冗釈教録司同と党釈寺の 日誌で増補するように再度命じられている。この場合、底本と した緑野寺の一切経については、 ﹃ 問 問 元 釈 教 掠 ﹄ によって作成 された一切経であったものと考えられるが、承和元年以前にそ れは縁野寺に完倣されていたということが判る。 ところで、この一切経の底本を蔵していた縁野寺であるが、 鑑真の ﹁ 持 戒 第 一 ﹂ の弟子であり ﹁ 東 由 化 、 五 ﹂ と称された道 ノ¥係数大学総合研究所紀前芦別冊 切殺の校史的研究 ( ぬ ) 忠によって開かれた寺であると伝えられている。そして、道忠 であるがその名は正史には全くみえないものの、天一千宝字五年 ( 七 六 一 ) に創設された下野薬師寺に戒師として派遣された僧 ( 引 ) であると考えられる。 さ ら に 、 ﹃ 叡 出 大 一 師 伝 ﹄ によると最澄が 一切経書写を発願した際に、 一切経書写を援助したことが記さ れ て お り 、 した一切経は﹁大小経律論二千 しかもその時の 余巻﹂という吋間一冗釈教録﹄の約関割にも達する巻数を書写し ( 必 ) ている。したがって、遅くとも最澄が一切経書写を発癒した延 暦十六年(七九七) 一切経が道忠の手元にあったで の 時 点 で 、 あろうことが想定できる。 また、東国においては道忠の弟子達による活動も活発に行わ れていた。道忠の弟子として伝えられている者としては、丹澄 認念・教蹴ハ・道応・真静といった僧の名 -広 知 日 ・ 木 語 ・ ( 必 ) が挙げられるが、このうち円澄・広知日・教輿の三名が特筆でき ょう。円澄は後に第ニ代の天ム口座、五となった僧であり、 また広 智 の 弟 子 で あ る 丹 仁 ・ 安 慧 も 並 ハ に 第 一 二 代 と 第 四 代 の 天 ム 口 座 、 主 と なるなど、道忠と最澄との問に密接な関係があったことが明ら か と な る 。 次 に 、 広 知 自 に つ い て は 、 吋 日 本 三 代 実 録 ﹄ の丹仁卒伝に円仁 誕生した時の奇瑞として紫雲が円仁の生家の上を覆い、その紫 (HH ﹀ 雲を広知日が見たという話、いわゆる紫雲倍説に登場する。特に 六 四 主芦白川大師伝﹄では広智について﹁時間郡大慈寺有レ僧。名日 蹟知日イ是唐僧竪良和尚第一二代弟子也。徳行該博。戒定具足。慮 レ 平 和 レ 他 。 観 人 競 ニ 殴 知 臼 菩 薩 ⋮ L と記されている。これによると、 正 日 出 現 は 下 野 田 都 賀 郡 の 大 慈 寺 の 僧 で あ り 、 鑑 真 の 第 一 一 一 代 の 弟 子 ( ぬ ) で、関人によって菩謹と称される人物であったことがわかる。 なお、師である道忠以上に広知闘は最澄の良き協力者として知ら れ、最澄が東畠巡錫に赴いた需に、上野閣と下野閣に﹁一級宝 塔﹂の建立を発瀕したことに関して、実際に最澄の意を受けて ( 必 ) 事に当たったのが広智であったとも推測されている。 そして、教輿であるが、 吋 叡 山 大 師 伝 ﹄ 十こ は; ﹁上野菌浄土院 一乗仏子教輿﹂とあり、上野田の浄土院の僧であったことが判 り、この浄土院が L にみえる縁野寺のことである。この縁野寺 の一切経が先に挙げた日夜澄の一切経書写止を劫援した際の一切経 である可能性は非常に高い。たとえば、現在高山寺が所蔵して いる吋金制頂一切如来翼賛揺大衆現誼大数王経稔伽続﹄上・中 ( 幻 ) ・下各巻の奥書には 上野圏 ( 持 仏 ) 縁野郡 添 院 中 立 リ 一 切 経 本 掌 経 悌 子 敬 服 ハ 掌 経 品 川 子 寓経主悌子教輿
一 経 陣 近 事 法 慧 弘仁六年︿歳次乙未﹀六月十八日︿即日延平域宮御宇 神野天皇之世也﹀ 奉震︿皇帝皇妃太子諮皐左右大窪洪基元動六親七位裕徳有 絵、近事悶身、遠浴他界、﹀ ︿一切行者法眼元上菩提正国﹀ と、弘仁六年(八一五)六月十八日に浄院寺(緑野寺) で 来 日 写 されたものであることが記されている。また表紙の見返しには あ り 、 秘密経玉三十六巻弘仁六年五月依海阿閉梨之勧進、上毛沙 門 教 鐙 ハ 寄 進 、 右十加熱蓮院中椙辛龍之銘三十六巻之内、金制問頂経三巻現存
十 九 日 々
、
天保元年七月奉修補之、高出沙門慧友護誌記 とあり、この経典は弘仁六年(八一五)五月に空海が勧進を依 頼して、数興が書写した経巻であるという。この吋金制頂一切 如来翼賛磁大乗現護大教王経稔伽経﹄は空海自身が唐より持ち ( 必 ) 帰ったものであり、 ♂机遍照発揮性霊集補擁抄﹄巻第九に収め られている弘仁六年(八一五)四月二日付の﹁泰勧諸有縁衆応 ( 幼 ) 泰 写 秘 密 蔵 文 ﹂ に よ っ て 、 空 海 が ﹁ 奉 レ 勘 一 一 諸 有 縁 衆 ↑ ﹂ ( 間 山 ﹀ 経を依頼した経典の一つであった。 っ て 写 古代京沼の仏殺と一切絞 こ の 時 、 舟 一 回 写 止 を 依 頼 し た で あ ろ う 人 物 に 関 し て は ﹁ 奉 勧 諾 有縁衆応奉写秘密蔵文 L に添付して送られてものであろうと考 ( 幻 ) えられる害状がJ
間野雑筆集﹄に訳録されている。そこには六 通の害状が収められているが、 は四月五日付の﹁陸州徳一 日付と宛先が確実なものとして 宛のものと、一二月二十六日付 の﹁下野底知日韓締﹂宛の二通がある。ただし、広智宛の臼付は 四月二日以前であり、時期が異なる可能性があるが、内容から 考えて、写穏を依頼するものと考えて差し支えはない。また、 日付は未詳ながら﹁甲州藤太守 L と﹁常川藤使君 L 宛のものが あ り 、 それぞれ藤原真川と藤原福当麻呂止を指している。さらに、 本文中に﹁高徳菩薩﹂とある書状があり、この万恕については 道忠の弟子の一人である﹁基諒﹂の の可能性が指摘されて い る 。 そ し て 、 日付・宛先ともに未詳ながら某阿陪梨宛のもの がある。某阿関梨に害状を託された﹁康守 L は、広智への使者 としても派遣されており、あるいは某何閣梨は教輿のことを指 すのかもしれない。 しかし、教組ハの名がみえる縁野寺の一切経で現存する経巻は 高山寺所蔵以外では、泉鴻寺一所蔵の﹃律摂教授至日慕学処﹄や ( 町 出 ) 聖興寺所載の2
日 制 約 弗 開 枇 内 山 一 立 制 ﹄ が 管 見 に 触 れ る が 、 何 れ も 野居緑野郡浄龍寺一切経本﹂という奥書があり、本来は緑 野寺の一切経として書写されたものであることが推澱できる。 六 五係数大学総合研究所紀姿則的情﹁ m w 経の凝史的研究﹂ つまり、空海の書写依頼に出閉して、教飽ハは加に緑野寺の 切 経 に加えるため した経巻が、何時の頃か不明であるが紙野 寺より流出した可能性があると考えられる。なお、 に み え る年号では弘仁六年(八一五) の年号以外に、寛弘五年(一
O
。八) の布十口ずがあり、遅くとも寛弘五年( 以 前 ⋮ に 高 山寺にもたらされたものであろう。 ところで、緑野寺の一切経については、吋安祥寺伽藍縁起資 ( お ) ( 口 出 ) の記載から、恵還の関与が推測されている。 防 帳 ﹄ そ れ は 、 ﹁ 忽 然 有 レ 勅 接 二 校 寓 一 切 経 於 坂 東 、 一 期 年 J 担 功 暴 ﹂ と あ ることによるが、この文は天長十年(入三一一一) に鏡役音寺講師 -筑前国師として九州に派遣された記事の市一前にあり、 それ以 前に東留において 切経書写事業を検校したことについては全 く異論はない。ただし、結野寺の一切経が早ければ最澄が一切 経書写を発願した延暦十六年(七九七)以前、 いくら遅くとも 弘仁六年(八一五)以前には作成されていたと考えられること から、恵運の総野寺一切経の書写への関与はなかったものとい え る 。 つまり、恵運は延暦十七年(七九八) の 生 ま れ で あ り 、 弘仁六年(八 では僅か数え年でふ l 八歳でしかない。しか も、法服としては恵還は空海の弟子である実恵の弟子であると いうことを考えると、年代的に恵運が緑野寺の一切経に関与し たということを認めることはできない。 しかし、平安時代前期、
L ¥ ノ 一 ノ の東国において、緑野寺以外であっても一切経を所蔵していた 寺院の存在は認められ、例えば法隆寺 切経の中で吋大菩薩蔵 巻十三は、武蔵国国分寺の一切経であったことがその'見書 ( } 叩 ) より明らかとなる。そうすると、今日ではその全てが伝わって いないながらも東国においても一切経の書写ということが仔わ れていた可能性を否定することはできず、恵運が検校したのも そのような 切経であったと考えられる。四
東国への書写命令
東国における 切経の書写については、決して東関が仏教に 関しては後進地域であったとはいえず、むしろ、 一切経を作成 するための土壊が撃っていたと考えられる。そのような状況の なかで東到に対して書写命令が下されたのである。付け加える ならば、道怠をはじめとする道忠教団に属する僧だけではなく、 最澄との簡で﹁一一一一権実論争﹂を行った徳一の存在や、 日光山 の間部者である勝道などが東国では活躍しいる。さらに、各国 に創建された同部分寺に加え、宮寺として大寺もしくは大寺に準 ( 白 川 ) ずるお寸段であったと考えられる下野器薬師寺などが存在したこ とからも明らかとなろうむ では、なぜ東田への書写命令が下されたのかについて考えてみたい。ただし、 L と N ではその期間は五年であるが、 L と 比 べ る と O と?に至つては足掛け二十年の時開差が存在する。あ る い は 、 L-N と
0
・ P では一切経を書写させた海自が異なっ ている可能性が誰測できる。そのため、 L を中心に考察を進め 拘 帯 、 0 ・ 4 l ド i v 最初の命令は永和元年(八三悶)五月十四日に出されている が、この時期で日在日するべきことの一つとして挙げられるのが、 同年正月に派遣が決まった遣唐館、いわゆる承和の遣皆使であ ( 幻 ) ( 思 ) るが、先ず正月に大使藤原常嗣・副使小野笠の在命が行われ、 ( 日 間 ) 一⋮月には遺留船造船便が佳ぜられている。実際に遣唐使 一 TJ パ ド ノa d i 一 ザ ム 渡海を来たしたのは、承和五年(八三八) であるが、この間に 全く波泌が試みられなかったのではなく の出発で渡海 に成功したのであり、承和三年(八三六) と承和四年(八 七)にも渡海は試みられている。すなわち、 L で当初指定され ていた一切経の進上期限が承和二年(八三五)九月であること を考えると、第二回目の遣唐慢の発遣には時間的な余裕は十分 に存在し、承和の遣唐鈍との関連性は十分に考えられるのでは 工 、 ミ J う 為 。 チ / } V J / マノえノふ川 H このことは、承和五年(八三人) の三度目の遣唐使出発に際 して、一二月二十七日には大宰府諾寺及び罰分寺・神宮寺におい( ω )
て遣麿使の平穏を祈り、四月五日には遣唐使の出発から帰国ま ! r 日 代 夜 間 凶 の 仏 教 と 切 ず ( 引 ) での関に諸国に海龍王殺を読ませている。さらに、五月三日に 遣唐使からの要請で、諸留において大般若経を転読させるとと もに、改めて遣唐使の帰留まで海龍王経を講じ、大般若経を転 ( m 出 ) 読することを命じている。なお、その後承和六年(八三九)一一 月⋮日には 五畿内七道の諸冨と十五大寺に対して大紋若経及 び海龍王経を転読させ、遣唐伎の帰国を待って転読を終わらせ ( 出 回 ) るという命令が出ている c このように、退官使の派遣に際して は、仏神にその無事を祈るということが頻繁に行われており、 その一環として東国に対して一切経の書写命令が出された可能 性 は 認 め ら れ 、 L と N に関しては遣唐使の無事を祈願するため に写経が命じられたと考えることに関して矛盾はないように思 わ れ る 。 し か し 、 M において一切経の増補を命じていることについて は、若干考えてみる必要があるのではないだろうか。このこと は、単に一切経の書写を命じただけではなく、 その底本にまで 細かい注文を付けていることを考えると、当然何らかの目的を 持ったものであったことを示唆しているものといえよう。想像 止を遅しくすれば、あるいは遣唐使派遣に際して、震への責上物 として一切経を書写させたのではないだろうか。そして、 そ の ために吋開元釈教録﹄ではなく当時の最新の入蔵録である 元釈教録﹄での増補を命じたのかもしれない。そして、敢えて と紳仰品拡大学総合研究所紀要別冊﹁ 州 出 経 の 協 は 史 的 研 究 一 東閣に書写を命じるというのは 日本国内の蝦夷の地に近い場 一昨、当時の輯廷からみて辺境地においても一切経を書写するこ とが可能であり、 それだけ天皇の徳化が行われていることを庶 に対してアピールするためのものであったと推測ですることも 可能である。 た だ し 、 O と P で の 切経巡回写命令については、遣唐使の派 よ ペ コ て 唐 〆¥ と 渡 イ コ て ~,~ニ るを?年
。
r¥ し/¥、 カミ し 」ー の 円 珍 の 渡 ! 吾 と 遣はないものの、 一一)七月に円珍が唐人の商船 tJJ 経 の書写とは無関係ではなかったかと思われ、承和の段階での 写命令とはその趣を異にする可能性がある。何故なら、 Q に お し、 て 切経を使った法会が行われたことが記されており、この 時使用されたのがO
とP
で書写を命じられた一切経であったと 考えられるからである。 この時の一切経の書写の理由について考えてみると、仁寿三 年 ( 八 京 一 二 ) には飽療が流行していることが﹃日本文徳天皇実 録﹄から知られるのである。 つ ま り 、 二月是月条に、 是 月 。 京師及畿外多患一一胞癒イ死者甚衆。 天平九年及弘仁 五 年 有 ニ 此 綴 患 ぺ 今 年 復 不 レ 免 一 一 此 疫 一 間 巴 。 とあるのを初見として、一一一月二十七日には京師で随癒を患う者 ( 侃 ) ( m m ) に対して穀倉院の籾塩止を給い、四月十問自に和気貞臣が、 )¥5
には成康親王が飽癒によって亡くなっており、開月二十五日 ム ハ 八 ( 町 山 ) の賀茂祭が胞僚の流行を理由に停められているなどの記事が挙 ( m m ) げられる。したがって、仁寿三年(八 一 一 ) に お け る 一 切 経 の は、疫病の流行に対処するために命じられたものと考えら れ る 。お
わ
り
以上、東院に対する一切経の書写命令が出された理由につい て考えてみた。ただし、本稿で行った考察に関しては、推測に 推測を喬一一ねるという部分が決して少なくはないが、 そ の 結 果 、 東国は文化面、特に仏教に隠しては決して後進地域というわけ ではなく、むしろ一切経書写が政府の意図した期日よりも速や かに終えることが可能な地域であったといえる。これはそれだ け東国において仏教・仏教文化が浸透していたということにも な る 。 ただし、合計悶度にわたって東自に対して出された 切 経の書写命令について、 てが向じ理由で命令が発せられたと いう前提で考えるべきかもしれないが、当時の社会情勢等を併 せ考えると、当初の命令と、その意味合いが変わっていると考 えることも決して不可能ではないと考える。 そして、承和元年(八三回) と承和六年(八三九) に 書 写 ム 叩 令 が 山 山 さ れ た こ と は 、 その理由としてはあくまでも披澱の域を出 る も の で は な い が 、 承 和 の 遣 鹿 伎 の 無 事 を 祈 る と い う 意 味 合 いがあったと考えられる、が、 そ れ と 問 時 に 承 和 元 年 に 書 写 さ れ た 一 切 経 は 、 遣 唐 使 に よ っ て 唐 さ れ た 可 能 性 も あ る の で キヰ町内ム、£︾ A J に J ' h ' o tfLTFiJ 刀 また、仁寿一一一年(八五一二) に 東 田 諸 国 及 び 武 蔵 眉 ・ 信 濃 閣 に 対 し て 出 さ れ た 書 写 命 令 に つ い て は 、 遣 底 捜 と は 関 係 な く 、 む し ろ 当 時 流 行 っ て き た 疫 病 で あ る 胞 癒 へ の 対 処 策 と し て 一 切 経 の 書 写 が 命 じ ら れ た も の と 考 え ら れ る の で あ る 。 註 ( 1 ) 吋日本後紀﹄の場合、現在散逸している部分が多数存夜し、 そのため逸文と考えられるものを﹃類策協史﹄や三日本紀絡﹄ から検索したものを含んでいる。 ( 2 ) 山 下 有 品 川 市 ん ﹁ 行 水 省 代 田 出 家 に お け る 一 切 経 と 対 外 意 識 L ( ﹃ 歴 史 評 論 品 工 品 八 六 、 一 九 九 九 年 ) 。 ( 3 ) 旧制池泰蜂﹁不安待代の一切経書写と法隆寺一切経﹂(問 2 m 都仏教史の研究﹄下︿諸点寸結﹀、法絞館、一九八二年。初出は 一 九 七 一 年 ) 。 ( 4 ) 抑 制 池 前 掲 設 ( 3 ) 論 文 。 ( 5 ) 上川通夫﹁一切経と古代の仏教﹂(﹃愛知県立大学文学部論集 (日本文化学科編﹄第四七号、一九八八年)。 ( 6 ) 代表的なものを挙げると、山下有美﹃疋念院文書と写経の研 究﹄(士口川弘文館、一九九九年)、栄原、水途男三市良時代の写経 と 内 裏 ﹄ ( 塙 永 田 同 町 、 ⋮ 一
C
C
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年)等が挙げられる c 古 代 京 阪 の 仏 教 と 一 切 経 ( 7 ) 窃崎健司氏のご教示による c ( 8 ) 山下有美前掲設 ( 6 ) 帯。拙稿﹁﹃続日本紀﹄玄防伝考﹂(水 都判柳太郎編吋日本古代の史料と制度弘、岩図書院、二CC
四 年 ) 。 ( 9 ) ﹃日本紀略﹄夫長六年(八二九)五月丁酉(十九日)条にも 同文が記裁されている c ( 川 山 ) ﹃ 安 祥 寺 伽 藍 縁 起 資 財 帳 ﹄ 少抽出部法眼和尚佼悲運送具之後、裕一一隠本締東大寺泰法大法 郎井律師中綴大法制川⋮之所、遊二於離識経⋮境之道 J 日 夕 泌 念 、 欲レ入一至極之秘数、間内閣梨少僧都笈慈大法郎勧奨一去、夫法相 大 桑 、 縦 一 数 一 校 滋 深 J 附 不 レ 超 一 三 火 J 得 レ 諜 尤 灘 、 不 断 種 初 日 、 設理安夜、徒然馳驚、多劫破臆困窮、総有二三采之外、神道 一 来 者 J 日 疋 三 議 之 外 、 持 一 一 明 裁 一 由 、 一 A 7 山 之 使 、 不 レ 絞 一 一 一 一 紙 J 隠 九丞妄判明忽済、一絞之郎、不レ続二磐夜、市三窓会茶頓符、所 諮 部 身 成 俄 之 秘 述 者 也 、 慾 遂 依 一 一 問 問 梨 数 一 一 試 J 銭一仰其宗 J 一 紀之念不レ党而室、忽伏⋮存し勅、機二校潟一切経於坂東 J壁
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4 収 作 怠 刷 n M U 間出右引 u t r u u 況 だ じ 寺家別殺右火史正六佼上坂上山約機斯文 参議正問仏以下行左大緋兼播際協能守火江朝足立日人 左大史坂上新文仰一去、な大然大江初目安人的思及、右大臣笈、 安群寺所レ市交財絞等捺印之一卒、須レ捺一官印、同彼寺 H A 忠 太 白 川 太后宮御願建立也、立下以一戦家印一令上レ捺レ之省、 貞 則 間 十 三 年 八 月 十 七 日 少 院 制 御 春 有 叶 一 泰 fさ : j ( 十 一 一 一 ↑ ノ ィ ー 大夫悶 売 り 萩 美 濃 縫 介 篠 原 制 約 一 段 遠 経 大進篠原初回異常 少進藤原範方 少送別 大 関 ぬ 上 良 野 少尉清科良行 ( 日 ) 沼 池 、 川 山 掲 註 ( 3 ) 論 文 。 (ロ)水野柳太郎﹁遊間⋮伝考﹂(吋奈良史学﹄第一号、 ( 泊 ) 抑 制 池 前 掲 註 ( 3 ) 論文 c (HH) ﹁日本紀略﹄延股七年(七八八)七月辛亥(六日)条に 亥 。 以 ↓ 参 議 紀 十 日 佐 美 一 第 二 征 京 大 使 一 ﹂ と あ る 。 (日)﹃日本紀略﹄延一段二卜年(八()一)九月内戊(サ七日)条に ﹁内成。征夷大将軍坂上街橋田村麻呂等言。使倒。一去々。対応一一 伏 爽 賊 一 ﹂ と あ る 。 (時)徳政総論については、可日本後紀﹂延一治二十四(八C
五)年 一二月壬寅(七日)条に、以下のようにみえる c イ 十 ム ( 点 。 ( 小 路 ) 込 日 。 中 納 言 近 衛 大 将 従 一 一 一 位 藤 原 初 包 内 麻 呂 侍 一 ⋮ 机 以 上 。 有 レ 効 。 ム v x 一 参 議 右 俗 士 山 以 げ 従 四 位 下 藤 原 初 包 絡 協 。 向 兆 二 参 議 左 大 排 正 四 位 下 菅 野 初 回 箆 道 知 制 中 込 加 平 八 千 徳 政 山 一 ナ 将 給 制 議 一 去 。 方 今 天 下 一 所 レ 昔 。 軍 事 胤 ( ご 造 作 一 也 。 停 一 此 一 山 市 ポ イ 百 位 安 レ 之 。 沢 一 一 道 健 一 一 執 開 央 競 心 不 音 聴 一 路 。 帝 義 一 緒 山 州 議 。 釦 従 一 九 八 三 年 ) 。 ﹁ c y r 句 、 ] 一ル 伴 駿 4 有 議 開 レ 之 。 英 レ 不 一 訟 欽 J (げ)弘仁二年(八一一)正月内午(十一日)には陸奥留に我賀・ 線縫・斯波の三郡を設置し、一一一丹市災(廿日)に大宗を動員し て ん 小 滋 体 ・ 幣 伊 二 村 を 征 討 、 十 月 間 γ 戊(十三日)に平定の報告 を行っているつぼ本後紀ヒ。 (同)佐伯有清﹁神火と思分寺の焼失﹂(同﹃新撰姓氏録の研究﹄ 研究綴、安川弘文館、一九六三年)。 ( 川 口 ) 迂 祝 日 本 町 任 天 平 宝 字 七 年 ( 七 六 一 二 ) 九 月 庶 子 朔 条 。 九 月 庶 民 子 朔 。 紡 日 。 疫 死 多 レ 数 c 水 m干 不 レ 時 。 神 火 屡 更 。 徒 級 一 管 物 イ 此 者 。 悶 悶 郡 可 等 不 レ 恭 一 於 閥 衿 一 之 終 日 也 c 又 一 勾 ふ ん 日 中 。 致 二 銭 ⋮ レ 水 苦 4 数日森一刷。抱一流亡隆イ此者殴郡可等佼レ民失 ν時 。 不 レ 修 一 堤 堰 一 之 過 由 。 自 レ ん 7 以後。務有一此色ぺ自レ釘己 ト ム 笈 二 悉 澄 品 川 日 。 不 レ 一 俊 一 一 久 居 努 援 百 姓 イ 吏 筒 一 一 山 口 比 判 例 迷 町 一 畳 間 川 C 遂 使 一 一 捌 者 向 問 問 。 資 者 在 じ ( 目 。 各 修 二 件 札 ハ 腕 帆 一 務 処 ⋮ 二 民 変 J ( 初 ) 神 火 と の 記 述 は な い が ♂ 杭 日 本 紀 ﹄ 衿 設 器 官 公 一 一 一 一 年 ( 七 六 九 ) 八月己関(十凶日)条に J し 市 m c 下 山 総 閥 援 鶴 郡 ん 火 む 俊 一 穀 六 千 四国徐州町一﹂とあることによる。なお、東閣における神火の一 党については前掲註(問)の佐伯論文の一覧表参照。 (幻)﹃日本紀略﹄弘仁八年(八一七)ト月炎亥(七日)条。 (幻)﹃臼本紀略﹄弘仁十年(八一九)二月丁卯(十九日)条およ び コ 叙 時 抗 出 巾 叫 ん ﹂ 巻 百 七 十 一 一 一 ﹁ 災 呉 七 火 ﹂ に ﹁ 十 年 二 月 . 3 卯 。 裕 摂 国 金 光 明 寺 ん 火 。 ﹂ と あ る 。 ( お ) ﹃ 料 刺 市 川 爪 閤 史 ﹄ 巻 百 七 十 一 一 一 ﹁ 災 呉 七 火 L 弘仁十年(八一九) 八 月 間 → 戊 ( サ 九 日 ) 条 に 一 八 月 間 γ 戊。遠江・相続・飛閥幹三国際 分 寺 ん 火 。 一 と あ る 。 ( お )JW 帆 一 日 十 午 後 紀 ﹄ 承 和 十 二 年 ( 八 間 五 ) 一 一 一 月 己 己 ( け ず 一 日 ) 条 に ﹁ 己 巳 。 武 裁 図 一 ⋮ 一 日 。 問 問 分 寺 七 廓 塔 一 法 。 以 一 一 去 永 和 二 年 一 骨 川 一 古 代 米 国 の 仏 教 と 一 切 経 神火所 u焼 。 子 レ ん γ米 二 機 立 ⋮ 山 品 。 前 市 刀 会 郡 大 銭 外 従 八 位 上 壬 生 虫 口 志 裕 正 中 一 弓 泰 一 一 翁 翠 朝 一 欲 シ 造 二 彼 等 イ 望 訪 問 言 上 。 殊 刊 次 々 一 底 分 者 。 依 レ 誠 一 古 川 レ 之 O L とあり、承和二年(八三五)に神火によって焼 亡した国分寺の洛を壬生士口志福疋が造立せんことを綴い許可さ れ て い る 。 (お)小池栄一﹁林火についての一考察 L ( 林陵朗・鈴水靖氏編 ﹃日本古代の図災 J と祭銭円放出関出版、一九九六年)。 ( M m ) 佐伯前掲設(印凶)論文および小池前掲設(お)論文参照。 (幻)♂机日本紀﹄神色二年(七二双)間正月己丑(附凶行)条に、 ﹁間正月己丑。陸奥閣待問冶婦問人記二子伊深間関斗五百七十八 人 問 中 一 子 筑 紫 イ 十 五 人 配 二 本 J 和 白 木 監 一 お J とあり、係国が伊予と 筑紫・和泉に配されているが、これが係国の移況の初日比である。 (お)﹃延立口式﹄巻二十六﹁主税上助税絞﹂によれば、停問料が 記載されているのは、伊勢思・遠江・駿一円国・甲斐悶・相模悶 .武夜間・上総国・下総国・砕一巾陸間・近江国・美淡国・信濃国 .上野間・下野凶・越前回・加資問・越中国・越後間・佐渡国 ・ 因 線 問 問 ・ 伯 誉 回 ・ 山 山 雲 間 ・ 播 府 間 図 ・ 美 作 図 ・ 備 前 回 ・ 備 中 国 . 弘 山 間 一 減 問 ・ 伊 論 出 国 ・ 土 佼 殴 ・ 筑 前 関 ・ 筑 後 図 ・ 肥 前 田 ・ 肥 後 殴 ・ 豊 後 図 ・ 日 向 悶 の 一 一 一 五 ヶ 国 で あ る c (お)中村光一﹁平安前郊における京国地域国河の動向とその対 策を中心として