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龍谷大學論集 479 - 006小寺慶昭「教材としての狛犬の研究(一)」

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教材としての狛犬の研究

〆園、 -・4

はじめに

敗戦後、﹁国家神道﹂への批判の高まりから、公教育の現場においては神社の存在そのものまでをも軽視しようと する傾向が見られた。特に寸教育基本法﹂の第十五条(現行)寸

2

.

国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗 教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない﹂という条文が拡大解釈され、宗教施設に触れることさえ憾 るかのような状況も出てきた。たとえば、京都府南部地方の小学校の修学旅行先として今も伊勢志摩方面が少なくな いが、殆どの学校が神宮(伊勢神宮)の境内には立ち入らない。日本人の歴史の中で重要な意味を持つ神宮の存在す ら無視しているのである。二見興玉神社(伊勢市二見町)の門前町に宿泊しても、夫婦岩の﹁見学﹂はさせるが、な ぜ岩に注連縄が張られているのか、神社に何の神様が杷られているのかについての説明はしない。いわば﹁宗教色を 取り除いた観光地 L としての扱いであり、﹁信仰﹂に関する理解を深めようとはしない。学校行事としての写生大会 でも、神社建築を対象に選ぶと﹁必ずと言っていいほど保護者からクレームがある﹂(某公立小学校長)という。 寸教育基本法﹂の第十五条(現行)第一項に﹁宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会 生活における地位は、教育上尊重されなければならない﹂とあるにも関わらず、公教育は宗教に関しては﹁非寛容の 教材としての狛犬の研究(一)(小寺)

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龍谷大学論集 一 二 四 態度﹂であり、ー一般的な教養 L とは捉えず、また﹁尊重﹂していないという状況とも言える。 宗教なくしては語れない。宗教が社会発展の要因になったり、戦争の原因になったりもしたし、人の生き方に大きく 影響してきた。社会科や日本史の教科書においても、当然、宗教に関する記述は多く採り上げられるが、表面的な記 述に終始し﹁宗教と政治との関係﹂﹁宗教の持つ影響力 L については深入りしようとはしない。美術史の一部として 神社仏閣や仏像が扱われても、それは極一部の有名社寺等に限られるため、当然のようにして地域の鎮守の社等は無 視され、排除されてきた。郷土史が重視されてきた現在でも、郷土史家による各地域の宗教や信仰に関する研究成果 は、多くの場合、学校教育に反映されていない。 このような風潮の中で、神社の境内に多く設置されている狛犬達は、戦後、一貫して無視され続けてきた。国定教 科書に﹁コマイヌサンアコマイヌサンウン﹂という文章が採られたことによ町、狛犬が皇民化教育の入門期に おける象徴的存在と受け止められたこともあって、余計に見捨てられてきたのであろう(もちろん、この教科書で授 業を受けた人たちと話すと、多くの方々がなつかしい思い出として話されたが)。 平 成 一

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年度(一九九八年度)改訂の﹃学習指導要領﹄で寸総合的な学習の時間 L が設置されると、地域の歴史や民 俗を学ぶ教材とし狛犬が極一部で採り上げられたこともあった折、現状では、学校教材として採り上げられることは 皆無に等しいと言える。 一方、人類の歴史は その原因として﹁宗教教育への誤解 L が前提にあるのは間違いないが、それと同時に、狛犬そのものへの誤解もあ ると考えたい。﹁国家神道﹂への反動により、戦後の長期間にわたって神社境内の文化財も軽視され、参道に蹄据す る狛犬などはまともな研究対象とされてこなかった。そのため、狛犬、特に参道の狛犬に関する研究が遅れ、地域 的・歴史的価値が明らかにされてこなかったことで、学校教育における教材としても扱われなかったのである。﹁軽 視と誤解 L の一種の悪循環があったとも言えよう。

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本稿では、特に中学校・高等学校での﹁総合的な学習の時間﹂や社会科、地理歴史科等で扱う教材としての狛犬の 可能性について論じていく。そのために、まず、狛犬についての様々な寸誤解﹂を検討し、正しい理解の仕方につい て述べる。そして、単なる﹁氏子や崇拝者逮による信何の証としての狛犬﹂だけではなく、国家と地域社会との関係 を考えるための教材として、地域文化を捉えるための教材として、また、今まで指摘されることのなかった、江戸時 代の大坂の商人の経済活動の販路拡大と地域との関係を考える教材としての狛犬の可能性を述べていく。なお、次稿 においては、本稿での提案を基盤として、狛犬を教材とした具体的な実践計画の在り方や実践例を検討、提示する予 定 で あ る 。

獅子・狛犬とは

獅子と狛犬は﹃広辞苑(第五版)﹄では次のように説明されている。 しし︻獅子・師子︼①ライオン。からしし。︿和名抄一八﹀②左右の狛犬(こまいぬ) 開いた方をいう。③獅子頭の略(以下略) こまいぬ︻狛犬︼(高麗犬の意)神社の社頭や社殿の前に据え置かれる一対の獅子に似た獣の像。魔よけのため といい、昔は宮中の門一扉・九帳(きちょう)・界風などの動揺するのをとめるためにも用いた。こま。 ﹁ 狛 犬 L の項では二体一対の総称であると説明している。一方、﹁獅子﹂の項目の②では、二体一対のうちの左の 一体を指すものとしている。となれば、二体一対の右の方にある、獅子でないもう一体を何と呼ぶのか。そのことに ついては﹃広辞苑﹄は何も答えてくれない。 狛犬の設置目的が寸魔よけのため﹂という記述は、歴史的にも一般的な常識論としても否定しないが、後半部分の ﹁ 昔 は 宮 中 の : : : L 以下の記述では、まるで風よけの重しとしての役割しか果たしていないようにも読める。 の う ち 、 左 方 の 、

を 教材としての狛犬の研究(一)(小寺) 一 二 五

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龍谷大学論集 一 一 一 六 獅子・狛犬について、﹃枕草子﹄の中で次のように書かれている。正暦五年(九九四年)二月、清少納言が新築に なった二条宮を訪れる場面である。二条宮とは、藤原道隆が娘である皇后定子のために自分の屋敷の隣に建てたもの を い う 。 つとめて、日のうららかにさし出でたるほどに起きたれば、白う新しうをかしげに造りたるに、御簾よりはじ めて、昨目掛けたるなめり、御しつらひ、獅子、狛犬など、いつのほどにか入りゐけんとぞをかしきロ (二七八段・日本古典文学大系﹃枕草子紫式部日記﹄による) ﹃日本古典文学大系﹄では、寸室内の御設備は、獅子でも狛犬でもいつの間に入っていたのかと面白い﹂と訳した 上 で 、 獅子・狛犬は主上と后の御帳台に限りその前に据える置物 との注釈を載せている。 御帳台の前に動物の像を置くのは中国から渡来した風習であり、獅子・狛犬はその中の人物が高位の方であること を示していることが分かる。 また、藤原彰子が一二才で一条天皇の皇后として入内した時(長保二年・一

OOO

年)のことが、﹃権記﹄の二月 二五日の条に脅かれている。 亦大床子 師々形等 宣命了 即可給者 このように、皇后になると大床子(こしかけ台)と師々形(狛犬像)が天皇から贈られる。つまり、その人物の位 を表すシンボルである。当時、重しとしての機能で使用されたことがあったとしても、それは本来の設置目的ではな い。副次的な役割を重要な役割であったかのように説明する﹃広辞苑﹄の記述は正鵠を射ていないし、獅子・狛犬に ついての誤解を助長している。

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そもそも﹁高鹿犬の意﹂との記述は何を意味するのか。同辞書の寸高麗﹂の項目では、﹁朝鮮王朝の一つとしての 高麗・高句麗、あるいは朝鮮の総称﹂という意味の説明がある。となれば寸高麗犬は高麗や朝鮮半島から渡来した犬 の意味﹂と読みとれるが、果たしてそのように断定できる根拠があるのだろうか。古文等に﹁高麗犬﹂という表記が かなり見られるのは事実であるので、正確には﹁高麗犬とも書く L と す べ き で あ ろ う 。 平安末期の成立とされる﹃類衆雑要抄﹄には次のように書かれている。 左獅子、於色賞、開口 右胡摩犬、於色白、不関口、在角 つまり、左(神殿から見て)の角のないのが獅子であり、口を聞けた姿(阿形)で、身体は黄色に塗られている。 右(神殿から見て)の角のあるのが狛犬で、口を閉じた姿(昨形)であり、身体は白色であるとする。 口の開閉については、寸向かって右が阿形・左が昨形﹂という様式が一般的である。ただし、だからといって、 ﹁阿形ならば獅子、昨形ならば狛犬﹂とは言い切れない。 ﹁角の有無﹂についての記述は重要である。一対の内、角のあるのが狛犬であり、角のないのが獅子であるとの指 摘は正しい。ただし、狛犬という語は、﹁二体のうち、角のある方を指す﹂という狭義の意味とともに、﹁二体一対の 総称﹂という広義の意味をも併せ持っている。﹁一一体一対 L といっても、﹁獅子と狛犬とで一対﹂という様式ばかりで はない。﹁獅子と獅子とで一対﹂寸狛犬と狛犬とで一対﹂という様式も少なくなく、現在ではそれらの一対の総称とし て﹁狛犬﹂という言葉を使っているのである。 獅子についての説明は﹁一対の狛犬のうち、角のない方をいう﹂とすべきであって、﹃広辞苑﹄の﹁左右の狛犬の うち、左方の、口を開いた方をいう﹂という説明は、単に阿形について説明をしたにすぎない。 ﹃広辞苑﹄の今一つの大きな誤りは、その挿絵である。狛犬の項目に薬師寺(奈良市西ノ京町)蔵と思われる一対の 教材としての狛犬の研究(一)(小寺) 一 二 七

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龍谷大学論集 像が添えられている。向かって右側が阿形、左側が昨形になっているのはいいのだが、双方とも獅子であり、頭上に 角が描かれていない。確かに、広義の意味では狛犬だが、狭義の意味での狛犬が無視されているし、二体ともが獅子 であれば、獅子の項目での記述と矛盾する。狛犬の説明としては﹁①神社の社頭や社殿の前に据え置かれる一対の 獅子に似た獣の像の総称﹂とし、②として﹁一対の狛犬の内、角のある方をさす﹂とすべきであり、挿絵としては獅 子と狛犬とで一対となっている像を添えるべきであろう。 ﹃広辞苑﹄は、一般的に辞書の中でも権威があるとされてきた。大きな影響力を持ってきた辞書であるにもかかわ らず、獅子・狛犬についての説明は、版を重ねても改まらず、暖昧で不正確なままである。しかし、それは同書の記 述者の責任だけでもない。そもそも、獅子・狛犬という用語そのものが社会的にも不正確で、区別に無頓着なまま使 われてきたのであり、歴史的にもかなり括れてきたという背景がある。 先に触れた﹃類緊雑要抄﹄の挿絵では、向かって右側に角のない獅子、左側に角のある狛犬が描かれている。獅子 はライオンのような姿で描かれているのに対して、狛犬の姿は現在のものとはかけ離れた姿で描かれていて、蹴麟と いうイメージに近い。絵を描いた人物は、獅子と狛犬とを、角の有無だけでなく、全く姿の違う獣として理解してい たのだろう。しかし、平安時代以降の獅子・狛犬像は、その殆どがほぼ同じような姿で描かれるようになり、﹃類褒 雑要抄﹄の挿絵の方が特殊なのである。 石川県白山市三宮町に鎮座する白山比昨神社には、檎材を使った寄木造の立派な狛犬がいる。肉付きのよい胸をぐ っとそらす力強い姿は、鎌倉時代の彫刻の特色を示す名品として国の重要文化財に指定されている。この二体とも角 がないので、口の開閉以外はほぽ同じ姿をしている。ところが、向かって左側の一体の頭上には角を削った跡が残さ れている。もともと﹁獅子と狛犬 L であったものを、﹁獅子と獅子﹂に作り変えてしまったのである。何時、誰が、 何のために削ったのかは謎のままだが、角がなくなると、左右の像は口の開閉以外に殆ど違いが見られない。このこ 一 二 八

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とは、狭義の意味での獅子と狛犬との区別が、頭上の角の有無でしか出来なくなっていることを示している。他の例 からしても、木像の狛犬にはかつて長い角が付けられていたが、時代とともに短くなっていく。参道にいる石の狛犬 の場合、江戸末期の大坂では一センチメートル程度にまでなってしまう。目立たない角となったため、簡単には見つ け ら れ な い 。 いきおい、獅子と狛犬との混乱がおこることになる。 江戸時代の博学者として知られる寺島良安でさえ、﹃和漢三才図会﹄(一七一二年頃出版)の﹁高麗狗﹂の項目の説 明の中で﹁いま作られる狛犬の形を見るに獅子のようである。そもそも獅子は西域の獣である。どうしてこのような 獣を用いているのであろうか﹂と、狛犬そのものについての疑問をあらわにしている。この項目には挿絵があり、木 像の一対が描かれているのだが、いずれも角のない獅子であ&。﹃広辞苑﹄の挿絵の不的確さは﹃和漢三才図会﹄の 挿絵にル

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ツがあるのかもしれない。 ﹁丹波に出雲といふ所あり﹂で始まる﹃徒然草﹄二三六段は、聖海上人が人を誘って丹波の出雲の社(現在の亀岡 市千歳に鎮座する出雲大神宮)へ行く話である。同社の獅子と狛犬の像が逆さま(背中向き)に設置されているのに感 激した上人が、わざわざ神宮を呼び出してその理由を尋ねると、神官が﹁子どものいたずらですよ﹂と言って据え直 していったので、聖海上人の感涙も無駄になったという話である。 兼好は﹁獅子・狛犬﹂と描いており、その区別を意識していたことが分かる。注目すべきは聖海上人が神宮に尋ね る﹁この御社の獅子の立てられよう﹂という言葉である。現在なら寸この狛犬の据え方は?﹂と聞くはずだが、﹁こ の獅子の据え方は?﹂と言っている。つまり、一対の総称として﹁獅子(師子)﹂を使っているのであ&。この記述か らすれば、一対の総称が当時は﹁獅子﹂であり、後に﹁狛犬﹂へと変化していったと考えられる。 一対の総称としての狛犬という言葉が定着したのは江戸時代であろう。先の﹃和漢三才図会﹄も、神祇関係の中で の項目は、﹁獅子﹂はなく﹁高麗狗﹂だけである。官、江真澄の紀行文の中にも﹁狛犬﹂しか使われていない円。 教材としての狛犬の研究(一)(小寺) 一 二 九

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龍谷大学論集 一 三 O おもしろいのは山東京伝の戯画集﹃腹筋逢夢石﹄であ&。小道具を使って人物にいろいろな動物や器物のまねをさ せるという趣向だが、その中に狛犬がある。踏み台の上に蹄蹄した男性が、着物の裾を尻尾のように立たせ、頭の上 には湯飲み茶碗を逆さまにのせて狛犬のまねをしている。湯飲み茶碗は角ではなく、宝珠を擬しているのであろう。 これは江戸時代中期に江戸ではやった﹁宝珠をのせた獅子と角のある狛犬で一対﹂との様式であるロここでも狛犬と しながら、実際は獅子の姿をまねさせている。 獅子の像はライオンがモデルであり、古代エジプト文明やメソポタミア文明が発祥の地とされている。アショ l カ 王(紀元前二六八頃から二三二年頃の在位とされる)の詔勅碑文柱頭に見られるように、インド・ガンダ

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ラ に 入 り 、 仏教に取り入れられた。そして、やがて中国を経て日本に伝えられてきたのだが、その渡来は古く、正倉院御物の 寸紫檀金銅柄香炉﹂の柄の部分に小型の獅子像がつけられている。法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町)の五重塔の内陣に も一対の小さな獅子の塑像が飾られている。天平勝宝四年(七五二年)に東大寺(奈良市雑司町)で行われた虚舎那 仏像の開眼供養会では、大きな獅子が仏教の教えの尊さを示す劇の中で舞っている。 日本に渡来したのは獅子の像である。一方、角のある狛犬はどこから来たのか。そのル

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ツとなる像が大陸にも朝 鮮半島にも見られない。中国には歴史的な獅子の像も多く残っているが、古代から現在まで、全て角のない獅子の像 である。鎮墓獣のように角のある獣の像もあるにはあるが、狛犬とは別の聖獣として理解されている。韓国には中図 式の獅子像とともに、民族独自のへッテェという聖獣がいる。王宮の守護等、狛犬とよく似た役割と考えられるが、 こ れ に も 角 が な い 白 ﹁ 狛 犬 L の文献上の初出は不鮮明である。一応は﹃和名類衆抄﹄の楽曲の部に﹁狛犬﹂とあり、獅子舞のように踊 っていたとされる。﹃和名類衆抄﹄は源順が編集した辞典で、承平年間(九=二

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九三八年)の編纂であるロしかし、 伝本に﹁十巻本﹂﹁二十巻本﹂の二種類があり、内容的にも大きく異なっていて、﹁二十巻本﹂の方は、後の人が補っ

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た可能性が強い。﹁狛犬﹂という曲名は、﹁十巻本﹂にはなく﹁二十巻本﹂にある。となれば、狛犬の語の初出が承平 年間とは言い切れないのである。 ただし、たとえ承平年間が初出であったとしても、その百年以上も以前に、既に寸狛犬像﹂が存在していた。東寺 (教王護国寺・京都市南区)がかつて所有していた獅子と狛犬の一対の像がそれで、現存する寸獅子・狛犬、阿形・ 昨形﹂の様式の最古とされる。この像は平成五年(一九九三年)に発見されたもので、同年三月一三日の﹁京都新 聞﹂に掲載された。それよると、今まで一一世紀の作品が角のある狛犬像の最古とされていたのが、二

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年間も遡 り、九世紀・平安前期の作品が最古となった(調査は当時京都国立博物館に在職していた伊東史朗)。 以上からも、狛犬は日本で発明された霊獣と考えざるを得ない。﹁高麗犬﹂と書かれたことから、あたかも朝鮮半 島から来たかのような誤解を与えたきたのである。﹁狛 L は特定の地域や国を指すのではなく、﹁舶来の L の意味であ ろう。国産の日本独自のものにわざわざ﹁狛﹂を被せたことが、用語の混乱を招いたそもそもの原因であろう。獅子 に対応する語として寸犬﹂を付けたのだろうが、これも誤解の元となってきた。 なお、寸阿形と昨形で一対﹂という様式が日本では圧倒的に多い。中国では、主流は﹁阿形と阿形で一対﹂という 様式であり、その影響を受けた東南アジア各地もほぼ同じである。仏教の﹁獅子肌﹂の思想からも、それは領ける。 ただ、﹁阿形と昨形で一対﹂という様式は、中国でも古いものの中には一定数見られ、韓国でも見られるの合、日本 の発明ではない。ただ、寸阿形と昨形で一対﹂という様式がこれほど好まれたのは、日本以外には見当たらない。

参道狛犬の誕生

﹁角がないのが獅子でライオンをモデルとしている、角のあるのが狛犬で日本で作り出されたものである、そして、 獅子や狛犬の二体一対の像の総称を現在では狛犬という﹂ということが理解されず、用語の上でも多くの混乱や誤解 教材としての狛犬の研究(一)(小寺)

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龍谷大学論集

を生じてきた。実はそれ以上に大きな誤解があったのだ。獅子・狛犬の設置場所に対する根本的な誤解から、前述の ﹃徒然草﹄二三六段に対する誤った解釈の本が多く出されてきたのである。そのうえ、この段落が中学校や高等学校 での国語科や古典の教材としてよく採られてきたため、学校現場で多くの先生方が誤った解釈を生徒に教えてきたと いう残念な事実がある D それを助長してきたのが教科書の注釈であふロ 御前なる獅子、狛犬、背きて後ろさまに立ちたりければ の注釈として、一九八四年度版の三省堂中学校国語科二年生の教科書には、次のように書かれていた。 (御前なる)神社の拝殿の前にある。 (獅子・狛犬)石や金属で造った獣の像。向かって右に口を開けた獅子、左に口を閉じた狛犬を置く。 その挿絵として、大費神社(滋賀県栗東市繕)の獅子・狛犬像を載せていた。躍動感溢れる力強い姿であり、国宝 に指定されていて、挿絵としては適切であると思われるが、木像である。木製の獅子・狛犬の挿絵を載せながら、注 釈として寸石や金属で造った﹂と書くのは矛盾している。この矛盾が見過ごされてきたのは寸多くの狛犬は石で出来 ている﹂という現代人の寸常識(先入観)﹂で理解しようとしてきたからである。 それ以上に問題なのは、﹁神社の拝殿の前にある﹂という暖昧な説明である。拝殿の前であれば、当然参道に設置 されていると生徒逮は理解する。これも現代人の寸常識﹂による解釈である。 結論的に言うならば、神社の社殿の中や拝殿の縁の上に置かれた獅子・狛犬(以下﹁陣内狛犬﹂と称す)と、参道 にいる獅子・狛犬(以下、寸参道狛犬﹂と称、引)との混乱が誤読の原因である。 兼好の時代の狛犬は全て陣内狛犬であった。だから、当時の人々にとって獅子・狛犬が建物の中にいるのが常識で あり、参道にいるとは考えもしなかった。兼好が﹁御前に﹂と書くだけで、拝殿の前の部分、階段の上の縁の部分に 設置されていたと理解できたのであり、それ以上にわざわざ書く必要もなかったのである。ところが、現在は参道狛

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犬が常識となったため、参道に設置されていると受け取ってしまう。 つまり、﹃徒然草﹄の時代の常識を無視し、現 在の常識で読み解こうとするため、陣内狛犬を参道狛犬と誤って読んでしまったのである。一九五四年刊行の、能勢 朝次編吋改訂新中学国語三上﹄(大修館書庖)では、わざわざ石造りの参道狛犬の挿絵まで載せていた。 寸神社の拝殿の前にある﹂という注釈だけでは、誤解を解くための補助にはならないどころか、助長させる危険性 が強い。その上、﹁石や金属で造った﹂という注釈があれば、参道狛犬を思い浮かべて当然である。挿絵の狛犬が木 製なのは陣内狛犬だからであって、木像を露座に出すことはあり得ない。なお、拙著吋狛犬学事始﹄(ナカニシヤ出 版・一九九四)の指摘等により、三省堂の教科書については改善された。獅子・狛犬の注釈がより正確になるととも に、挿絵で縁に置かれていたことを示し、誤解を招かないように配慮されている。ただ、その挿絵も二体ともが角の ない獅子が描かれるなど問題は残る。なお、高等学校の一部の教科書では以前と変わらない注釈のままで、誤解を助 長する記述がまだ使われている。 陣内狛犬か参道狛犬かは、読解の上で重要なポイントである。本文では、子ども逮がいたずらで背中合わせにして いた獅子・狛犬を、最後に年老いた神官が据え直していったと描かれている。木造の陣内狛犬であるからこそ、容易 に据え直せたのである。参道狛犬と理解すると、子ども達が重い石造りの狛犬を簡単に後ろ向きにしたり、年老いた 神宮が簡単に動かしたりという、常識では全く考えられない漫画的な情景が教室で真面目に教えられてしまうことに な る の で あ る 。 陣内狛犬がいつ頃から参道に出たのかについては、現在、定説はない。 狛犬(以下、便宜上、断りのない限り一対の総称としての意味で記述する)が陣内にいた頃は木造が主流であった。 参道狛犬として露座に出てきたため、木製は不適切となり、石の狛犬が主流となる。 石造りの像として古いものは奈良東大寺の南大門にいる狛犬である。当時日本に来ていた宋人に中国の石で造らせ 教材としての狛犬の研究(一)(小寺)

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龍谷大学論集 一 三 四 た物で、建久七年(一一九六年)という製作年代も分かっている。宋の様式で、双方とも阿形、獅子と獅子とで一対 になっているが、これも参道用ではなく、当初から建物内用であった。 その他、大陸から渡来したと思われる石造りの獅子像が九州北部で何対か見られる。たとえば、飯盛神社(福岡市 西区飯盛)に伝わる宋風狛犬は国の重要文化財の指定を受けているが、小型であり、陣内狛犬である。 京丹後市大宮町に鎮座する高森神社には、文和四年こ三五五年)と天正二年ご五七四年)との年号が刻まれた 石造りの狛犬がいる。福井市周辺で採れた勿谷石で造られたもので、同種の狛犬は、福井県の三国港から日本海沿岸 各地へかなりの数が運ばれていったことが確認されている。いずれも小型で、陣内用である。この様式の狛犬を、地 元の研究者の命名を尊重して﹁白山狛犬﹂と呼んでいる。この白山狛犬も巨大化し、やがては参道に出るようになる のだが、江戸時代に入ってからである。 江戸時代以前と見られる参道狛犬らしきものが各地に見られる。大賀神社(兵庫県篠山市寺内)の摂社前の小さな 石の狛犬が室町時代とされ、都郡水分神社(奈良市都郁)のずんぐりとした狛犬は鎌倉時代とされる。長野県北佐久 郡軽井沢町峠町に鎮座する熊野皇大神社の狛犬も室町時代中期とされる。だが、いずれも年代が確定したわけでもな く、また参道狛犬であるかどうかも確定していない。 明らかに参道用で、最も古いものの一つとされるのが、丹後一ノ宮の館神社(宮津市大垣)の参道にいる。参道狛 犬としては唯て国の重要文化財に指定された名品である。安山岩で造られた体長が一メートルの巨大な狛犬で、桃 山時代の作とされている。ただ、この狛犬がなぜ造られたのか、また後の参道狛犬にどのような影響を与えたかにつ い て は 、 ま だ 定 説 ら し い も の は な い 川 。 参道狛犬が一般化するのは江戸時代に入ってからである。現在では、橋本万平が﹃狛犬をきがして﹄(精興社・一 九八五年)で展開している﹁日光東照宮起源説﹂が定説に近いものとして受け入れられている。それによれば、寛永

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一三年(一六三六年)に、日光東照宮造営に功績のあった武士遼が特に許され、徳川家康の墓前に一対の狛犬を設置 する。このことを知った江戸の豪商が、承応三年(一六五四年)に目黒不動尊(東京都目黒区)の参道に狛犬を寄進 する。この狛犬は都内に現存する最古の参道狛犬として今も現役で参拝者を脱み続けている。その後、江戸の各神社 に狛犬奉納が続くことになるロ大坂は遅く、元文元年(一七三六年)になってようやく住吉大社(大阪市住吉区)の 参道に石造りの狛犬が寄進され、その後多くの狛犬が参道を挟むようになるというのである。ただし、筆者は御霊神 社(大阪市中央区)に元和年間(一六一五

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二四年)の青銅製の参道狛犬が現存するとして、橋本説への疑問を呈し て い る 。 いずれにせよ、狛犬は陣内から参道に進出したのである。江戸時代以前の陣内狛犬の場合は、貴族等、限られた一 部の人達による寄進でしかなかったが、参道に出ることにより、寄進者の範囲が拡がる。武士から豪商へ、そして一 般町人や村人へと拡大し、江戸時代の町人文化の発展とともに、より大衆化していくのである。明治維新以降は、国 家神道政策推進の中で、氏子制度も整えられ、全国各地の村々の鎮守の社にも狛犬が寄進されるようになる。 陣内狛犬については美術史の一部として扱われる名品が少なくないが、一般の者が簡単に接することが出来るもの は限られる。一方、大衆化された参道狛犬は、その地域で簡単に接することが出来る。台座に刻まれた文字も容易に 写し取ることも出来る。狛犬を教材として扱う時、このような﹁身近ですぐに見られる﹂ということは大きな利点で あ る と 言 え よ う 。

参道狛犬を教材化する視点

研究対象としての狛犬は、まず陣内狛犬に焦点が当てられてき

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近年では上杉千郷(元学校法人皇皐館理事長) が神職の立場で早くから取り組み、研究成果を発表するとともに、その膨大なコレクションを狛犬博物館で公開して 教材としての狛犬の研究(一)(小寺) 一 三 五

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龍谷大学論集 一 一 ニ 六 いる(元は高山市古川町にあったが、現在は下目市の下呂温泉合掌村に移している)。出版物としては、藤倉郁子 ﹃狛犬﹄(岩波プックサービスセンター-一九九五年)、上杉千郷﹃狛犬事典﹄(戎光祥出版・ニ

OO

一年)が詳しい が、いずれも参道狛犬は著名なものだけが対象となっている。 一方、参道狛犬そのものについての研究史はあまりにも浅い。 まず、参道狛犬のみを対象として美術史の観点から分析しようとする試みが木村茂によってなされる。氏は寸大阪 近郊の石製狛犬の研究

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年代不明の狛犬について│﹂を、﹃大阪教育大学紀要第一九巻﹄(一九七

O

年 ) に 発 表 す る 。 大阪市周辺の参道狛犬を美術の専門家の立場から調査、分類し、寄進年不詳の狛犬の年代推定を行おうとするもので あった。数次にわたる論文を通じて、江戸時代の大坂の狛犬の時代的な変遷史をまとめたことは画期的な業縦である と言える。ただ、狛犬の分類を、その様式だげではなく、石屋別・石工別に行ったため、種類分けが細分化しすぎ、 全体像を把握しにくい面がある。当時の石工には専売特許という発想はなく、流行するものはお互いに真似をしあっ ている点、あるいは、東国で﹁西行﹂と呼ばれた流れの石工が大坂にも多くいて、必ずしも特定の石屋に定着してい ないということを軽視したためであろう。 参道狛犬の先駆的な業績としては、橋本万平の﹃狛犬をきがして﹄(前出)が挙げられる。兵庫県の神社を中心と しながら、各地の特色ある狛犬の紹介や、参道狛犬の歴史的経過について多くの発言をしているし、現在、定説視さ れていることも多い。ただ、論拠となる資料的な提示が不明確なことが残念である。この橋本の業績も、同曹が自費 出版であったことから、残念ながらあまり知られず、一時は﹁幻の名著﹂とされた。 雑誌等の中で狛犬が部分的に採り上げられることはあったが、参道狛犬だけを対象とした単行本として一般書庖に 出たのは、一九九四年の拙著﹃狛犬学事始﹄(ナカニシヤ出版・ねずてつやのペンネームで上梓)が初めてであろう。 京都府南部地方一五

O

対の狛犬調査をもとに、狛犬の調査方法を示し、地域文化として捉えようとした。基本概念の

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整理、特に通俗的な﹁常識﹂への実証的な批判が多い。しかし、調査対象が地域的にも狭く、調査数も少ないため、 地域性・時代性についての鳥敵的把握に多くの課題が残った。ただ、この研究が、宇治市主催の﹁第二回紫式部市民 文化賞﹂を受賞したことから、多くのマスコミで採り上げられることになり、﹁参道狛犬が研究対象になり得る﹂と いう認識が一定の社会的市民権を得たことは大きな成果であった。 一九九五年、三遊亭円丈の﹃

THE

狛犬!コレクション 参道狛犬大図鑑﹄(立風書房)が出版された。著者が落 語家で、師匠が名人とされる著名な方だったこともあり、マスコミ等にも多く採り上げられることになる。そのこと で、一般市民の参道狛犬への関心を高める上で大きな役割を果たしてきた。氏の地元関東地区の参道狛犬の調査結果 は評価できるが、﹁名づけて立川談志狛犬﹂﹁広島で見つけた

J

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グかまえ狛犬﹂との表現に見られるように、おも しろい表情や姿のみを楽しもうとする傾向が強い。﹁楽しむ﹂ということは筆者も同じ立場をとっていて否定しない が、﹁円丈独自のタイプ別分類﹂と称して、先行研究の中で認められてきた狛犬の様式等に関する用語を無視して勝 手に名づけたり、純粋な大坂の様式の狛犬を﹁京ウチワ L と名づけたり、明治時代後半には登場していた岡崎現代式 狛犬を﹁昭和﹂と命名するなど、直感のみで判断し、根拠があまりないままに断定するため、研究史に混乱を与えて いる面があるのは否めない。 九

0

年代にようやく参道狛犬が注目されるようになり、一部とはいえ調査する人々が急増した。この時期の特徴と しては、狛犬の珍品・奇品を探して楽しもうとする﹁珍獣ハンター﹂的な傾向が強かったと言える。その傾向に大き な影響を与えたと考えられるのが﹃京都おもしろウォッチング﹄(赤瀬川原平他路上観察学会編・新潮社・一九八八) に掲載された、松田哲夫による J 尽の狛犬十二傑﹂であろう。氏の姿勢は﹁(狛犬)が制作された時には、それなり の理由があったのだろうが、それが判然としなくなった今見て、勝手に解釈していくのも面白い﹂という言葉によく 表 れ て い る 。 教材としての狛犬の研究(一)(小寺) 一 三 七

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龍谷大学論集 一 三 八 ﹁ 珍 奇 な 狛 犬 を 探 す L という姿勢はすぐに壁にぶつかり、ようやく参道狛犬の基本的なデ

l

l

を収集しようとす る機運が高まってくるのが九

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年代後半からである。一九九九年には、奈良文化財同好会によって、八八年以来の調 査資料をまとめた﹃狛犬の研究 l 大阪府の狛犬 l ﹄が自費出版されている。丹念な調査と詳細な研究で資料的な価値 は高いが、﹁大阪全域の調査﹂と銘打っているが、江戸時代寄進(推定を含む)の参道狛犬だけに限っても、府全域 で一三九対が調査から漏れているなど、調査対象選定の社撰さが残念である。 一定の広い地域を対象とした全神社の調査が多く報告されるようになり、主に次のような単行本が出版された 0

0

小寺鹿昭著﹃京都狛犬巡り﹄(ナカニシヤ出版・一九九九年):::京都府内全域の調査報告 。日本参道狛犬研究会編﹃参道狛犬大研究﹄(ミ

i

ナ出版・二

O

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O

年):::東京都二三区全域の調査報告 。渡海俊明﹃長崎の狛犬たち﹄(自費出版・二

O

O

O

年):::長崎市内全域の調査報告 。小寺慶昭著﹃大阪狛犬の謎﹄(ナカニシヤ出版・二

OO

三年):::大阪府内全域の調査報告 。久保田和幸著﹃狛犬深訪埼玉の阿・昨たち﹄(さきたま出版会・二

OO

三 年 ) : : : 埼 玉 県 内 全 域 の 調 査 報 告 。丸浦正弘著﹃ほっかいどうの狛犬﹄(中西出版・二

OO

七年):::北海道内全域の調査報告 。永井泰・康江正幸著﹃狛犬見聞録﹄(ワン・ライン・ニ

O

O

年):::島根県内全域の調査報告 その他、各地域の研究誌等に発表された報告・論文も多く、データの集積は急速に進んできた。現在は、それらの デ

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タをもとにして傭敵的に把握することが課題となってきている。参道狛犬を全国的な視野から把握し、地域性や 時代性の特色を明らかにすることが必要である。そのためにも路上観察的な手法だけでなく、日本人の大衆的な文化 の一部として民俗学的なアプローチも必要であるし、特に江戸時代の狛犬については、信仰だけでなく、経済流通の 面から捉え直すことも可能である。 このような流れの中で、筆者は次の視点の必要性を提案してきた。これら視点を踏まえることによって、ようやく

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参道狛犬は学校教育の教材としての扱いが可能になると考える。 ①各地域の参道狛犬を、その地域の先人達が残した貴重な文化財と捉え、誰が何のために設置したのかを調べる ことで、地域の歴史を調べる上での資料となる。一般民衆の生活史を明らかにすることで、今まで見えてこなか った歴史の一面が解明できる。たとえば、明治以降の参道狛犬は、その地域の人々と国家との関わりを考える上 で貴重な資料である。 ②狛犬を様式別に分類し、その分布を調べ、文化圏として捉え直すと、江戸時代から明治時代にかけては大きく は三つの狛犬文化圏があったことが分かる(琉球・沖縄地方のシ

l

l

文化圏や狛犬文化のない地方を除く)。 従来の民俗学が提起してきた寸中央から地方への波及﹂﹁東の文化と西の文化の対立﹂とは別の新しい文化圏の 分け方であり、自分たちの地域の新しい特性を把握することに繋がる。また、狛犬の材料となった石の生産地、 あるいは石工達の活躍を通して、地域の産業史の一つとして捉えることができる。 ③大坂の狛犬は、瀬戸内海沿岸を中心として全国にひろく分布している。彼らが何故各地の神社に寄進したのか を調査することによって、江戸時代の大坂の商人の活躍の版図を解明する大きな証拠資料になる。また、その地 域にとっては大坂との経済的な関わり、特に商品経済の導入の過程を明らかにするための資料となりうる。また、 大阪市内に残る狛犬達の寄進者名は、当時の﹁紳士録﹂的な性格もあり、浪花商人の歴史を考える上での重要な 資 料 に な る 。

地域と国家との関わりの歴史を考える教材としての狛犬

狛犬は、何時、誰によって、何のために寄進されたのであろうか。 ありがたいことに、参道狛犬の多くはその台座に寄進年や寄進者名が刻まれている。筆者の調査でも、調査対象と 教材としての狛犬の研究(一)(小寺) 一 三 九

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龍谷大学論集 一 四 O した九四七七対の狛犬の中で八一九

O

対に寄進年が刻まれており、実に八六.四%にもなる。残りの二ニ.六%の狛犬 達も、寄進年が意図的に刻まれていないのは少なく、剥落しているか台座が取り替えられたか等の理由で読み取れな い の で あ る 。 なお、調査神社数は一一五三九社で、筆者の推定では全国の神社数の約一四%にあたると考えている。調査対象と して著名な神社も村の小さな産土様もまんべんなく回っているので、近畿中心という問題はあるが、この結果の数字 の各々を七倍した数字が、ほぽ全国の実数に近いと見ても大きな間違いではないと思われる(参道狛犬は一部の寺院 にも見られるが、総数としては極少数である)ロ 八一九

O

対の狛犬の寄進年を年度別に集計したのが次の︻表︼である(表では作成上の都合で元禄二年以前の六対 を 省 い て い る ) 。 江戸時代の狛犬が寛政頃から増加し、幕末に向かって増加し続けている。商人が寄進者の中心となっていることか ら、彼らの経済活動の発展との関連性が考えられる。明治維新以降、狛犬寄進数は一時減るが、明治二

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年代から増 加し、大正を経て、昭和一

0

年代に急増し、昭和一五年(一九四

O

年)に二三八対とのピ

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クを迎える。この数字は 二位の昭和一一年こ九三六年)の一四二対を大きく離している。敗戦後は激減するが、昭和三

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年代からは微増を つづけ、その後はコンスタントに寄進され続けてきたことが分かる。 昭和一五年にとびぬけて多い理由は明白で、その多くに﹁皇紀二千六百年記(紀)念﹂と刻まれている。その年の 紀元節(二月一一日)には全国の一

O

万以上の神社で大祭が開かれ、一一月一

O

日に皇居前広場で開催された﹁紀元 二 六

OO

年式典﹂をはじめ、各地で様々な記念祝賀行事が行われた。日中戦争の長期化に伴う物資統制や生活の窮乏 で疲弊していた国民の不満を祝賀ム

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ド一色で払拭し、戦争拡大への国民総動員の態勢の仕上げを図ったともいうべ き年であった。その意図は、式典の後で張られた﹁祝ひ終ったさあ働かう!﹂というポスターがよく表している。

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【表】年代別寄進狛犬数一覧 四 年号・設置数 年号・設置数 年号・設個数 ~l~lま・ i没回数 年号・i没i世数

2 寛 延02 文 化06 15 19J治02 20 !1!1百邑羽10045 89 フ じ 03 2 18 17 95 フe~ 04 宝 01 {0} 8 9 18 19J7(:1 04 8 95 冗 護05 宝!皆02 2 23 19]

m

05 3 115 ヌ じ 06 - 陪03 文 10 17 砂]

m

06 10 昭 和 08 119 冗 禄07 5 文 11 20 191ifi:07 11 昭 和 09 104 、 05 2 文 12 13 tIJ]

m

08 8 I 10 120 フ じ 09 l 3l1ft06 支 -文XF 13 :~O 19]治 的 9 J 11 142 Jë~lO 宝 07 3 14 20 明 治 10 14 ] 12 116 元1禄Z11 宝 08 3 01 21 明 記 11 22 IIB I 13 75 冗~ ~ 12 豆宝 0190 3 34 I1!J if:i 12 31 H日有I14 95 冗 禄 13 3

菱自

22 明 語 13 42 11白 238 冗 禄14 宝 府 11 2 18 明 1,1 27 IIs.fI1 16 62 冗 禄 15 4 文 05 17 明 治 15 28 昭 17 52 冗革氷16 宝 13 6 委 政06 19 明 治 16 22 i昭 和 18 55 宝 01 明 01 4 政07 32 明 器 17 11 昭 和 19 16 宣 言宝 氷02 明 02 3 文 政08 28 19J

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18 8 8 塁 主

3 明 03 2 文 政09 24 明 治 19 2 附 21 6 04 明 04 文 政 10 24 19]治20 16 日目 22 9 宝 05 明 05 3 21 明 治21 26 lIf:f .fIJ 23 5 宝 06 明 06 5 19 明 語22 23 H日新 24 9 宝 07 5 天 01 35 s}J

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2:~ 26 日目 25 12 正 01

聖位

5 天 02 36 明 治24 64 Ill'f羽I26 10 iE 02 4 天 03 26 明 治25 :39 1171翁127 16 正 03 安 02 2 天 ~ 04 23 明 記26 :31

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14 正 ‘04

1

03 2 天 ~ 05 20 19J rd 27 34 日目 29 14 正 05 04 天 ~ 06 21 明 治28 39 昭 30 14 安 氷05 天 07 20 明 言29 21 lIl:f ,fU :31 26 02

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天 E・08 19 19J

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32 33 03 4 天 l 09 31 明 治:31 26 If百 33 23 04 5 33 明 治32 47 lI~f .fIl 34 3:3 05 安 09 4 天 11 :32 明 治:33 48 日目 35 25 06 ? 天 明01 3 天 12 58 明 器34 :39 日目 :36 35 07 天 明02 2 天 13 28 明 35 65 日目 37 35 08 天 明 03 3 天 14 31 19J治36 72 Il[j.fI1 38 16 09 天 明04 3 弘 01 52 明 治:37 32 32 10 天 明05 9 弘 02 43 明 治38 46 日召 40 26 天19106 5

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O3 37 明 器39 79 IIH.fI1 41 28 12 2 天 明07 4 04 41 HJj7ti40 66 lIr:f 日42 34 保 13 2 10 01 32 明 治41 70 l沼 I 43 46 盤 保 14

8 高 02 42 I1!J治42 ,1:3 日lf I 44 31 15 10

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24 明 治43 59 IIl:f ) 45 42 03 6 19 明 治44 60 35 政04 11 高 05 38 大 正 01 68 昭 47 48 政05 13 };t, 百氷06 37 大 正 02 68 昭 48 33 政06 7 安 01 41 天 正 0 3 68 日目 49 37 亭 20 1 政07 13 35 iE 04 116 IIs.fIJ50 40 Je Jt01 1 b

17 31 大 iE05 93 lI~f 布J 51 39 冗 文 02 09 10

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安 政0034 43 天大 正 06 86 日白骨52 31 冗 文 03 政 10 8 40 正 07 93 IIs.fI1 53 38I 冗 文 04 警 護 ! ; 9 支安万 00061 1 58 大 正 08 114 昭 薪54 44 冗 藻文05 11 44 大 正 09 83 lIl:f .fI1 55 44 寛 01 10 45 大 正 10 89 昭 薪56 41 寛 曇02 15 文 久 02 50 大 正 11 73 IIl:f ,fI1 57 50 3

8 文 久 03 46 大 正 12 68 昭 君 58 60 互延 - 0031 2 17 ヌじ治 01 36 93 昨f,ffJ 59 49 I 延 再02 3 文 02 16

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応 O02l 50 iE 14 111 IIs ) 60 62 延ー[ 03 2 文化花03 9 31 昭 和01 107 昭 6331 51

文 04 16 随 応03 :38 附 和02 83 62 54 I 文 化05 13 明 治 01 28 昭 和03 157 l回 ) 6:3 57 I 教材としての狛犬の研究 ( 小 寺 ) (寄進散の単位は対)

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龍谷大学論集 四 実は、殆どの狛犬に寄進年や寄進者名が刻まれているのに対して、寄進理由が書かれているものは非常に少ない。 京都府内に現存する一三九八対を例にとると、寄進理由が書かれているのはわずか一六五対で、全体の一一.八%に 過ぎない。全国的にもほぽ同じであろう。 江戸時代から明治中期にかけては、たとえ書かれていても﹁五穀豊穣 L ﹁村内安全﹂寸家内安全﹂﹁航海安全﹂が多 い。運輸業者や個人、広くても村規模の願いであり、藩や幕府、国家との関わりによる祈願は殆どない。 寄進理由が大きく変化するのは日露戦争である。北白川天神宮(京都市左京区)の狛犬には、?臼川在郷軍人並有 志者﹂﹁明治三七・三八年戦役為凱旋記念建之﹂と刻まれている。この他、全国各地で寸日露戦役戦捷紀念﹂﹁従軍紀 念﹂寸征露紀念﹂の文字が見られる。不思議なことに、日露戦争に比べて日清戦争に関する狛犬寄進は圧倒的に少な い。戦争は国民一人一人が国家の一員であることを最も強く意識せざるを得ない時である。と考えれば、狛犬を見る 限り、日本人が国家意識を明確に持つのは、日清戦争より日露戦争の時ではなかったかとも考えられる。世界の強固 に対して勝利することで二等国﹂という幻想に酔ったことによるとも言える。ただ、﹁戦捷紀念﹂という言葉も、 国家意識の高揚というより、﹁無事に帰還できたのは氏神様のおかげ﹂という感謝の色合いが強いとも理解できる。 日露戦争は全国民を巻き込んだ戦争である。﹁こんな田舎に﹂と思えるような山間地域の神社の狛犬に、多くの戦 友が名前を連ねているのに驚かされる。当然、学校教育で日露戦争を教える。反戦の動きも銃後の国民の苦労にも触 れるであろうが、生徒にとっては遠い昔の話でしかない。自分の校区から何人の若者が動員され、何人が生きて帰っ てきたのか、語り部となるべき体験者が殆どいなくなった現在、地域との関わりを実感として考えられる教材として 狛犬は有効である。 もちろん、日露戦争だけに限らない。国家との関わりでの狛犬の寄進は増加する。﹁御大典記念﹂で、大正・昭和 と二度にわたって寄進される。学校教育で寸日本は神国﹂と教えられ、神道は特定の宗教ではないという立場から神

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社参拝が強制され、強化されていく中で、また狛犬寄進が増加するロ昭和六年こ九三一年)から一五年(一九四

O

年 ) の 一

0

年間の寄進総数が二二九対もあり、全狛犬数の六.四%を占めている。第二次世界大戦に突入すると、 ﹁大詔奉戴日奉納﹂寸武運長久・国武宣揚 L 1 必勝祈願﹂﹁大東亜戦争完遂﹂の文字が多く見られるようになる。 戦争遂行に向けての国民の意識高揚のために狛犬が利用されてきたのはまぎれもない事実である。戦後、神社の社 号標に脅かれた﹁県社﹂﹁村社﹂など、社格を表す文字の多くは、セメント等で隠されたり、削られたりした。社格 制度がなくなった以上納得できる措置である。また、狛犬の台座に刻まれた第二次世界大戦に協力する文字が削られ ている狛犬も少なくない。進駐軍(占領軍)に対する防衛策というより、戦後になってから﹁戦争協力者﹂としての 批判を避ける意図があったと想像できる。 公教育において、憲法の理想に沿って平和への希求として戦争教材を採り上げることは重要なことである。隠すこ とではなく、かつての過ちは過ちとして直視させ、そこから考えさせるのが必要であると考える。そのための教材と して参道狛犬の中には教育的価値があるものが多数存在する。戦争が単なる過去の話ではなく、自分たちの住んでい る地域の人々がどのように関わらざるを得なかったのかを学ぶことで、それも自分たちで調査することによって、国 家と地域の関係を身近なものと感じることが出来るであろう。 しかし、狛犬が教育実践として活用された例はまずない。広島市東区二葉の里に鎮座する、境内が荒廃した状態の 某神社の参道には、明治一一年(一八八八年)に寄進された狛犬がいる。市街地を見下ろせる場所であり、肌の黒ず みから、明らかに被爆したと考えられる。被爆したマリア像はよく教材とされるが、この狛犬は忘れられたままで草 むらの中に行んでいる。 狛犬は個人だけでなく、氏子全体や集団で寄進することも多い。果たして寄進者逮は、信仰・祈願のためだけに寄 進したのであろうか。 教材としての狛犬の研究(一)(小寺) 一 四 三

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龍谷大学論集 一 四 四 福知山市上佐々木に鎮座する七王子神社の鳥居の横に﹁鳥居石段狛狗建立記念﹂の石碑が建てられている(句読点 等 は 引 用 者 ) 。 古来七王子神社ニ鳥居狛狗無キヲ憂ヒ、時ノ氏子総代竹下真、之ガ運立ヲ発企シ、八方奔走シテ篤志家ノ寄附 ヲ募リ、氏子ノ協賛ヲ得テ、各一人宛労人奉仕ト相俣ツテ、葱ニ之ガ完成ヲ告グ。 その下に﹁寄附者芳名録 L があり、﹁二人宛奉仕・金五拾円野際最寄 L を始め、﹁金五拾円﹂が勤勉貯蓄会と岸石 松他四名、寸段石原及び金弐拾円﹂﹁敷地及金弐拾円﹂各一名、他に、三

O

円が八名、二

O

円が八名、出征した人が一

O

円、援助者が渡辺重太郎と刻まれている。現金の合計だけで七三

O

円になる。石碑の最後には﹁昭和一四年七月一 一 日 ﹂ と あ る 。 平凡な狛犬だが、村人の歓喜の中で迎えられた様子がよく分かる。﹁鳥居狛狗無キヲ憂ヒ﹂という正直な表現がほ ほえましい。ここには祈願する内容や神恩に感謝する気持ちは書かれていない。ただ、﹁他の村にはあるのに﹂とい う負い目を持ち続けてきた村人達の長年の課題が解決した喜びに満ちあふれでいる。﹁各一人宛労人奉仕﹂という村 の先人達の姿を考えさせれば、生徒達の地域に対する考え方も変わるであろう。 狛犬の寄進理由は決して信仰心からだけではない D 各地域の狛犬寄進日が地域ごとにかなり接近している例は多い。 その地域に一種の狛犬寄進プ l ムがあったとすれば、信仰心だけで理由づけられるはずがない。そこには村同士の微 妙な関係もある。村の鎮守さんは村人達の信仰の場所だけではない。かつては寄り合いの場所であり、祭の場所であ った。村人達にとって、どの神様を配っているかは大きな問題ではない。﹁ええじゃないか﹂に典型的に見られる江 戸時代の伊勢参りプ

l

ムも、物見遊山という視点がなければ捉えきれない。 筆者は﹁日本人の神社信仰の特色は神様の固有名詞が希薄化していくこと﹂と考えているが、村人のコミュニティ ーの場として、歴史を刻んできた場所として捉え直し、狛犬や石垣、鳥居等に刻まれた先人達の姿を学ぶことは、教

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育的に大きな価値があると考えられる。 -L. ノ、

時代性と地域性とを考えさせる教材としての狛犬

京都府内を調査していた時、南丹市と船井郡京丹波町との間にある観音峠を境に、狛犬の姿や形が大きく変わるこ とを発見し、驚いた。分水嶺の北側が出雲地方でよく見る狛犬、南側が大阪でよく見る狛犬であった。もちろん、お 互いに混在している部分はあるが、主流となる狛犬は別種であり、違う文化圏を構成していたのである D 地方性豊かな狛犬がいることは多くの人が指摘してきた。それを狛犬文化圏という視点で、日本全体を鳥敵してみ ようとするのが、筆者の主張である。 現在は、狛犬の世界でも画一化が進んでいる。主に愛知県岡崎市で造られる岡崎狛犬現代式と言われる様式が全国 を制覇している。北海道根室市の納沙布岬の先端に近い場所に鎮座する金万比羅神社の境内にもいるし、沖縄県那覇 市の沖宮にもいる。中国産の同じ様式も加えれば、平成になってから寄進された狛犬の八割以上を占めている。 しかし、江戸時代から明治中期にかげては、地域性が保たれていた。大きくは三つの狛犬文化圏に分けられるが、 四 それぞれの概略は次の通りである。 ① 出雲狛犬文化圏 島根県の宍道湖のほとり、来待町周辺は﹁おとどめ石﹂とされた来待石の産地である。藩主の許可がないと他の 藩へ移出できなかったのである。この石で造られた出雲様式の狛犬が、背森県から山口県にかけての日本海側に狛 犬文化圏を形成している。 出雲様式の狛犬は、座っている様式と、前足をかがめ、今にも跳びかかろうとする様式に分けられる。前者を八 重垣式狛丸、後者を出雲式狛犬と呼んでいるが、姿勢が違うだけで、顔もたてがみも尻尾も同じ様式である。寄進 教材としての狛犬の研究(一)(小寺) 一 四 五

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龍谷大学論集 一 四 六 年の刻まれた最古の狛犬は金毘羅宮(松江市玉湯町)の天明二年ご七八二)。 来待石は火山成岩石が堆積した石で、出雲石とも呼ばれる。加工しやすく石燈箆や狛犬、造園材料として利用さ れてきた。この様式をモデルとして日本海各地でも狛犬がつくられた。福井県では、地元の砂岩や日引石を使った 狛犬が造られた。また、秋田市周辺にも独自に改良した八重垣狛犬系の狛犬がいる。 ② 江戸狛犬文化圏 江戸の狛犬が中心種で関東平野全域から北にかけて広く分布している。材料としては多くが小松石を使っている。 在銘のある都内最古は目黒不動尊(前出)の狛犬で承応三年二六五四年)。 江戸狛犬は、最初の特異なものを除くと新旧二つに分けられる。古い方が太筆のような尻尾を立てているのに対 して、新しいのは尻尾がお尻から左右に分かれて伸びているのが大きな特徴である。また、獅子・獅子の組み合わ せが多く、子獅子や玉を持ったものも多い。これは﹁子取り﹂﹁玉取り﹂といわれる様式で、中国では一般的に見 られる。また、獅子山を造り、親獅子が子獅子を千尋の谷に突き落として鍛える様子を表しているものが見られる のもこの地方の特色である。 浪花狛犬の文化圏 ③ おおざっぱに言って、江戸時代に大坂で造られた狛犬を浪花狛犬と呼んでいる。浪花狛犬は全国各地に見られる が、特に西日本の瀬戸内海沿岸では主流の種であり、この地域を浪花狛犬の文化圏と考える。材料は御影石か和泉 砂岩。初期は尻尾が身体に密着したたいまつ型であったが、やがて扇を拡げたような形が主流となる。江戸時代の 寄進であると銘記されているものだけでも大阪府内に六一五対も現存している。 石造の浪花狛犬の発展の歴史は次の七期に分けられる。

a

住吉型狛犬の時代

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最古は住吉大社(住吉区)の太鼓橋前の狛犬で、元文元年(一七三六年)の寄進。御影石で造られ、異 形とも言うべき独特の風貌をしている。

b

柴島型狛犬の時代 柴島神社(東淀川区)の延享二年(一七四五念)の狛犬が代表的作品である。名工・御影屋小兵衛が活 躍して恐ろしい表情の狛犬を造るが、人々の支持を得られず、少数派のまま廃れる。 C 杭全型狛犬の時代 最古は杭全神社(平野区)神殿前の狛犬で、延享五年ご七四八年)の寄進。多くは御影石で造られ、 短足胴長の姿をしている。 d 上宮型狛犬の時代 最古は上宮天満宮(高槻市)に宝暦九年こ七五九年)に寄進された狛犬で、四角で獅子舞の頭に似た 顔をしているのが特徴である。たてがみに初めて毛筋が刻まれる。 三輪型狛犬の時代 最古は三輪神社(高槻市)の拝殿前にいて、寄進は天明五年(一七八五年)。上宮型狛犬のたてがみが 阿昨とも巻き毛と直毛とで表現されていたのに対して、昨形を直毛のみに改良したもの。 浪花型狛犬の時代 e f 丸顔でぽっちゃりとした愛らしい狛犬で、扇型の尻尾である。文化八年(一八二ハ年)に寄進された伊 居太神社(池田市)の狛犬が代表的な作品。浪花狛犬を代表するもので、天明頃から改良され、文化以降 の狛犬寄進プ

l

ムの中では殆どがこれとなる。 g 蝦護型狛犬の時代 教材としての狛犬の研究(一)(小寺) 一 四 七

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龍谷大学論集 一 四 八 最古は天保七年こ八三六年)寄進で、八剣神社拝殿前(城東区)にいる。発達したあごの形が蝦護ガ エルを連想させることからの命名である。 狛犬の中には台座が入れ替わったものがある。明治時代の年号の入った台座の上に最近の狛犬が乗っていれば、狛 犬の古さから考えて容易に見抜ける。しかし、寛政の年号の入った台座に弘化年間の狛犬が乗っていても見分けにく い。そのため、先の

a

か ら

g

への発展史についての理解が必要なのである。また、年号が読み取れない狛犬に対して おおよその見当を付けるのためにも必要である。 奈良盆地の南側、大和郡山市から天理市、桜井市、橿原市にかけて、

g

の蝦基型狛犬が圧倒的に多い。このことか ら、弘化年聞から幕末にかけて、この地域と大坂との聞に盛んに交流があったことが推察できる。また、京都市内の 一 番 古 い 物 が 、

d

の上宮型狛犬である。参道狛犬設置という習慣が、ようやくこの頃京都に入ってきたことが分かる。 さて、浪花狛犬の文化圏では、文化年間(一

O

八四年

i

一八一八年)以降、寄進プ

l

ムが起こる。大坂の石工だけ では需要にこたえられなくなり、岡山等、地元で独自の狛犬を造るようになる。その代表的なものが尾道狛犬、伊部 狛犬である。前者は尾道の石工が多く造ったもので、広島県を中心に多数見られる。阿昨とも両前足を大きな玉の上 に載せている。後者は備前焼の狛犬で、軽くて移動させやすいこともあり、岡山県を中心にして多く見られる。いず れも、浪花狛犬の文化圏の中にそれぞれの文化圏が形成されていて、包括的には浪花狛犬文化圏と捉えて良い。 日本文化における地域差を考える場合、民俗学の教えるところによれば、中心である京都から各地に同心円状に広 がったとする見方と、岐阜県の関ヶ原から静岡県の浜名湖にかけてを境として、西の文化と東の文化とに分けられる との見方とがある。ところが、狛犬を文化圏として見ると、日本海側と太平洋側の西部と東部の三つのエリアに大別 できるという、新しい区分が可能なのである。 なお、江戸狛犬文化圏と浪花狛犬文化圏のとの接点を調べると、実はなかったのである。滋賀県から静岡県にかけ

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ては、江戸時代の狛犬は点在はしているが非常に少なく、文化圏とまでは言えない。つまり、狛犬文化が伝わらなか った地域があるのだ。狛犬が大衆化するのが遅く、お互いの文化圏が接する前に明治維新を迎え、その後の政府の指 導の元に画一化した狛犬が寄進されることになったからであろう。このことから、江戸時代の江戸と大坂の文化がど のように地域に波及していったかを考える上で貴重な資料であると言える。 以上の三大狛犬文化圏以外にも、地方色豊かな狛犬はたくさんいる。狛犬と起源を同じくすると考えられる沖縄の シ

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は独自の文化圏を形成している。福岡県久留米市から佐賀県にかけては小型で独特の肥前狛犬が見られる。 金沢市周辺には逆立ちをした狛犬が多く見られる。宮城県仙台地方の狛犬も特異である。だが、それらの広がりは穫 の中に限定される傾向が強く、寸文化圏 L とは言い難いので、全国的規模で見る場合には独立させて考えてはいない。 以上の代表的な狛犬の写真を生徒に与え、校区の神社の狛犬を調べさせ、その地がどの文化圏に属しているのか、 なぜその文化圏の狛犬がいるのかを考えさせることで、地域を空間的・時代的に再発見させることも可能であろうロ 三大狛犬文化圏の狛犬は各々の尻尾に特徴があり、お尻から二つに分かれる尻尾(江戸狛犬)、扇形の尻尾(浪花狛 犬)、太い蝋燭のような尻尾(八重垣狛犬)というポイントさえ掴ませれば、大まかな分類は可能である。 また、人と人との交流という面からも教材となりうる。たとえば、愛媛県喜多郡内子町の八幡神社の境内には﹁大 阪和泉仁﹂が造った浪花狛犬がいる。嘉永六年(一八五三年)正月の寄進で、寄進者は寸長堀心斎町問屋河内屋 吉兵衛﹂﹁戎通心斎町問屋曽根屋喜助﹂など、当地出身で大坂在住の者の名前も見られる。故郷に錦を飾った者よ り、他に大坂へ行った者はもっと多かったのであろう。都から遠く離れたこの地とも同じような傾向が他にも見られ たはずである。幕末にそれだけの人々の移動があったという事実はあまり知られていない。 北野天満宮(京都市上京区)の参道途中に萩の黒石でつくられた特徴ある狛犬が置かれている。萩市の笠山近くの 石切場から掘り出された石で、阿形が﹁長州萩石匠師武村孟唯昌﹂、昨形が﹁長州萩石匠師武村孟唯長 L の 作 と 教材としての狛犬の研究(一)(小寺) 一 四 九

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龍谷大学論集 一 五

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台座に刻まれている。寄進者として神事奉行松梅院や長州の宿場・松園坊をはじめ、長州関係者や京都の取次所等、 二

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名ほどの名が見られる。文久二年(一八六二年)に設置したものを明治一

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年(一八七七年)に近くの現在地 へ移転している。長州藩の進出と共に萩から都へ持ってきたのだが、蛤御門の変で長州藩士が敗走する時、当然この 狛犬は残される。その後、会津藩士が倒そうとして縄をかけたところ、雷鳴(神なり)が轟く。祭神の菅原道真は雷 国 神と考えられることから、会津藩士は逃げ帰ってしまう。後に明治維新となり、無事に現在まで残されているのであ る。長州議は決して信仰のためだけに狛犬を萩から持ってきたのではない。寄進当時は京では有数の巨大な狛犬であ り、話題になったという。長州藩の威勢を誇示するために設置され、置き去りにされ、また大事にされる。狛犬が政 治に利用されるのは、何も国家神道に限ったことではないのである。生徒達にこの狛犬と会津の寄進である鳥居を調 査させれば、幕末の姿をより身近なものとして感じることが出来るようになるであろうロ なお、地域産業としての石工遠の歴史を掘り起こすことも重要である。浪花狛犬の多くは和泉石(和泉砂岩)で造 られている。大坂泉南地方で多く採れた石である。細工がしやすく石肌がよいため需要が多かった。寛政八年二八 九六年)刊行の﹃和泉名所図会﹄には﹁名産和泉石﹂と題して次のように紹介している。 鳥取荘及び下荘箱作村多く出るロ其色、青白にして細密なり。石碑を造るに文字顕然なり。京師及び諸国に出 る事多し。近年孝行臼といふもの、此石を以て作る。強き魚物の類、此春に入、則、同石の杵を以て春和らげ、 歯のなき老人に進む。味損ぜずして可也。又、引茶、白酒等にみな此磨を用ゆる。 同書には石工の作業所の挿絵があり、一方で若い衆が灯箆の火袋を彫っていて、もう一方では眼鏡をかけた老人が 狛犬を彫っている。 現在、石切りの仕事は大企業化したが、中国からの安い石の輸入で経営は芳しくないところが多い。かつての職人 達の苦労も忘れられ、石切場も雑草の中に埋もれている。この光景は全国に見られる。由良石の石切場も、日引石の

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石切場も同じである。石の層を見分ける力も、細工の上での様々な技術も忘れ去られようとしている。かつての石工 さん達からの聞き書きも、今は何とか可能だが、今を逃せば永久に記録として残らない。

大坂の商人と地域との関係を考えさせる教材としての狛犬

文化文政の頃から商人による狛犬の寄進が急増する。その中でも、特に大坂の商人による寄進が目立つ。 なぜ、大坂の商人が多くの狛犬を寄進したのか。その理由は大きく分けて二つ考えられる。まず、地元である大坂 での寄進は、商売繁盛を祈願したり、お礼を述べるために寄進したのであろう。 住吉大社(前出)の太鼓橋の前に、石造りでは大坂最古とされる、元文元年こ七二六年)寄進の巨大な参道狛犬 がい旬。この台座の表側には、阿形・昨形とも正面に大きく寸堺講中 L と刻まれ、反対側には講中の人々の名前が次 のように刻まれている。 阿 形 松 屋 長 右 衛 門 松屋源助 松屋惣兵衛 綿屋長兵衛 紙 屋 忠 兵 衛 新 屋 七 兵 衛 伊 勢 屋 治 兵 衛 備 前 屋 太 郎 兵 衛 大 津 屋 吉 兵 衛 京 紺 屋 七 郎 兵 衛 綿 屋 久 兵 衛 自由貿易都市として有名な堺も大阪夏の陣で焦土と化してしまう。元和年間中にようやく復興がなり、元禄頃まで 昨 形 山家屋重兵衛 灰屋吉左衛門 植下長三郎 藍屋七兵衛 大和屋忠兵衛 松屋五兵衛 松屋勘兵衛 海部屋八郎兵衛 山家屋太兵衛 米屋四郎兵衛 植下市郎兵衛 麹屋喜兵衛 教材としての狛犬の研究(一)(小寺) 松屋久兵衛 松屋庄五郎 海部屋太兵衛 山家屋仁兵衛 松屋太郎兵衛 松屋六兵衛 山家屋保三郎 大坂屋武兵衛 酢屋長左衛門 五

参照

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