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『宗教研究』138号

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(1)

――目次――

1,

カーディナーにおける宗教の問題, 岡田重精, On the problem of religion in Dr. Kardiner, Shigekiyo

OKADA, pp.1-22.

2,

満されざる主体(完):カントの道徳的宗教を背景として, 楠正弘, The Imperfectness of

“Human-being” as the Subject of Religion Action, Masahiro KUSUNOKI, pp.23-57.

3,

イスラエル宗教史における安息日意識の展開, 民秋重太郎, On the Sabbath Day in the History of Israel,

J

ūtarō TAMIAKI, pp.58-74.

4,

親鸞における個性と伝承:法然・ルターとの比較を通して, 脇本平也, Shinran’s religious thoughts,

inherited and of his own, Tsuneya Wakimoto, PP.75-104.

書評

5, Franklin Edgerton, The Bhagavad G

ītā translated and interpreted. 2 vols., 辻直四郎, Naoshirō TSUJI,

pp.105-110.

6,

堀一郎著『我が国民間信仰史の研究』, 棚瀬襄爾, Ichirō Hori; Studies on the developpment of folklore

in Japan, J

ōji TANASE, PP.111-112.

7,

菅円吉著『理性と啓示-神学における宗教哲学の問題』, 田丸徳善, Enkichi Kan; Reason and

Revelation, Noriyoshi TAMARU, pp.113-114.

8,

にひなめ研究会編『新嘗の研究 第1輯』, 柳川啓一, ed. by Niname Research; Studies on

Niname-ritus, Keiichi YANAGAWA, p.115.

9,

加藤玄智博士編『明治大正昭和「神道書籍目録」』, 戸田義雄, ed. by Genchi Katō; Shintō

Bibliography in Meiji, Taish

ō and Shōwa periods, Yoshio TODA, pp.115-116.

(2)

人間生活の実態の基本的横構に於いて、宗教の理由や根拠の問題が宗教学的にも宗教哲学的にも種々試みられてゐる。そ

の中の特殊なものの一つにフロイドの精神分析学的立場のあることはよく知られてゐる。

精神分析学と人項学乃至社会学とほ極めて密接な連関性をもち、特に近次両者の協力による研究業績が注目されて来てゐ

ることも周知の如くで、いほゆる古典的フロイド学派や新フロイド学派に属する人々によつて顕著な業績があげられてゐる。

−般にこの主たる研究方面は、直接経験に基く動的な個人の把握と、それと文化との相互関係におかれてゐるが、文化の﹁パ

ターン﹂の起源や発達の問題とも深い関係に立ってゐる。

ここに、総じて﹁文化とパーソナサティ﹂と呼ばれる人類学の分野に於いて、いほゆる﹁文化。ハターン﹂理論の抽象的、

観念的な間顆把握から更により緻密にこの間題性を辿って実績をあげてをり、いほばフロイドと新フロイド学派の中間に位

する考方によつて研究を進めてゐるカーディナー︵AbramKardine︰∞讐−︶の所論に就いて、宗教の問題を取上げてみ

ることは意味のあることと思ふ。特に彼に於いてはフラストレーションといふ適応状況に就いて幼時の親子関係の質的に転

カーディナーに於ける宗教の問題

カーディナーに於ける宗教の問題

田 岡 重

(3)

化された投射のシステムに宗教成立のダイナミズムをみてゐることは興味がもたれるヘーかかる取扱ひが実証的にどの程度の

② 妥当性をもつかほともかくある問題性を緯供してゐると息はれるむ

カーディナーの研究結果は、精神分析学と人類学との協力作業としても注目されてゐるが、リントン︵L己○コR.︶との協

力によるものとしてー↓he−ndくidua−a已His SOCie−y︰The PsychOdylla一2・csOf Primi−iくeSOCia−OrganizatiOn−

COぎllbiaPre夢N・Y・こ岩戸、−リントン、デュポア︵COraロuBOis︶、ウェスト ︵Wesこ.︶の協力により′ 貪The Psy・

ChO︼。gica−亨○象ersOfSOCieぎCO︼t︼mbia.N.Y.こ冨.道の両署がある■︺これほ彼の主著でありここで主として取扱ふも のであるが、この外次のもの及び他に数篇の論文が見られる.︺ TFe↓raumaticNeurOSisOfWarこ芝−. ↓−−eCO宍ept。fBasicPersOコa−ityStructureasaコOperatiOnal↓00〓−:−″e SOCia−Sciences∵コ︰↓訂ScieコCe OfManint訂WOr︼dCrisis−ed●byR●LiコtOコこ澄∽. TheMaユ︷OfOppressiOコ︰APsychO−Ogica−S−udyOf−トeAヨericaコNegrタ]石巴﹁JyK−A●a−1dO責SeyL− 鞋① 椅神病学乃至椅神分析学と人類学との閑停についてはクラ ックホーンが詳細なトレースをなしてをり、それによると特 に︼九二八− ︼九二九年の間に於て、Rぎrs W.H.R.. MaiiコOWSki Bh の民兼学的資料への摘神病学的摂念の滴用 が︼般化の基提となリBenedictR..MeadM..Sa音E. により実に両者の融合がなしとげられた。︵KどckhOhnC.. TheInぎeコCeOf−hePsychia−ry−OAmerican AnthrOp? −Ogydurin閃−bePa00ーOnehundredYears.inるコeHund・

し▼ atiOn,A・l・S,︼浩苛ノざ︼●舛Lコpp,遥−−讐∽. Cf●A訂戻aコder F●.PsychOaコa︼ysis aコd SOCia−DisOrgal︼i? −思料●︶何 red YearsOf AlゴeriBn Psychiatry.ed.by ︼.K.Ha−−.

① 宗教の問題と精神分析学乃至精神病学との関繹ほ種々の観

点から取上げらるぺきであらうが、今はこの問題には触れな

(4)

ニ カーディナーの所論の出発点は、異った文化のもとには夫々異った特有の。八一ソナりティのタイプがある。その文化の成 員は各々個人的性格をもちつゝも伸そこにほ成員に共通な態度や価値の特殊なシステムがありそれほ文化の軌道であると いふ常識的前提である。それは文化と。ハーソナリティの相互作用によつて樹立されたものであり、従て個人ほ文化を度外視 してほ研究され得ず文化は個人の創造物として以外は理解されない。何れから出発するにせよ両者を知らなければならぬと ① いふことを指摘してゐるが、彼ほこの研究を個人の観点に立脚して進めんと企図する。そして、右の前提に連関する仮説と して、端的に、同じフラストレーションのもとで人間は同じ反応を示し、それらの条件は所与の文化により決定されてゐる と云ふことが指摘される。 彼ほ、心理学からの社会学的研究ほ現代の種々の心理学にとつてはその適合性が欠如してをり独り精神分析学がその可能 性をもつが、それは次の如き要求を充たし得るからであると言ふ。即ち、変化や運動を力動的に把握し、種々の圧力の影響下 にある変動や様態を検証し複雑な動機を説明しドライグや衝動に課される種々の抑制の効果や影響を観、更に、幻想の通用的 役割や合理的思考の中の情緒的要素を看破し説明する事が出来なければならぬっ又個人の潜在的感情、理想化、自尊、攻撃等 の精神身体的。ハターン︵Psyc−10SOn︼aticpattern︶、超自我形成のパターン等の源泉を辿る事が出来、価値、理想、宗教等を ② っくり出す複雑な目的を分析しなけれほならぬー一と説明してゐる。この要求は尊貴、精神分析学的方淡により為し得る文 化の社会心理学的分析の問題点を指示してゐるものである。彼はフロイドの所論につき特に系統発生的、固定的本能論を非難 し新フロイド主義の観点から批判修正しつつ而もアロイドの立脚した次の乱点に従って分析を進めてゐる。−即ち、本能乃 至衝動の抑圧や満足のフラストレーションが個人の生涯の最初の時期に起るならばパーソナリティに永続的な影響を与へ、 カーディナーに於ける宗教の間嶺

(5)

叉フラストレーシヲンの効果が、ある防衛的態度や行為或は逃避等を運用しその綜合的行為は代用︵substitutiOn︶や補償 ︵cOmpenSatiOn︶ により置換され、これらの過程は成長後の生活から検証されるーーとの観点であるて カーディナーほ右の観点から分析を進めるに当つて作業概念として﹁制度﹂ ︵lコStitutiOn︶ と﹁基礎的パーソナリティ構 造﹂︵BasicPesOna−itySt−・uCture︶とを用ゐる。﹁制度﹂とほ彼によれば■文化の単位の一粒的名称であり、﹁個人の集団︵社 会︶ によつて保持された思想や行動の固定した様態﹂を指し﹁それは伝達され一般に受容され、それからの離脱や違反は個

人や集団に混乱を引起す﹂ものであり、特殊な影響が成長する個人に斎らされるための媒介物とも云ふことか出来る■︺ 之を

発生学的見地から﹁一次的制度j︵Primarylnstituti。n︶﹁二次的制度﹂︵SecOndaryHnstitt︼ti01−︶に分撰するが、前者ほ家 ④ 族構成、基礎的紀律︵basicdiscip−iコe︶−給食、離乳、子供に対する制度化された養護或ほ放任、肛門訓練、性のタブー 等を含む・1、生計技術等を指し、それほいほゞ固定不変の条件であり個人にとつて統禦し得ざる制度である。二次的制度 にほ宗教、民話、思考技術、価値体系、社会的観念形態︵ideO−Ogy︶等が含まれるが、それは一次的制度の影響下につくら

れた集合的な心的態度から結果された制度を指してゐる。一次的制度に於て基礎的なものは豪族であり、ここで最も重要な

のは基礎的紀律である■し従て親子の特殊関係のもとで子は紀律への適応を強制され調和の方洪を発展させなければならぬが、

並に親に対する基礎的態度が形成される。之等の態度がやがて基礎的な﹁心的コンステレーション﹂ ︵COnSteuatiOn︶をつ

くるといふ過程をもつが、一次的制度はかかるコンステレーション形成の根底となる経験を個人に与える制度とも言ふこと

が出来るっ このコンステレーションほ爾後個人を取巻く外界やその他の対象に遭遇し、投射のメカー一ズムにより ﹁投射体

系﹂︵PrOjecti完System︶を形成するがこの体系の結果としての諸制度を二次的制度とよぶのである。 ﹁基礎的パーソナリティ構造﹂とはこのコンステレーションの統合を客観的に表現した概念で1主観的に捉へれは自我構 造 ︵EgOStructure︶であるといふー1、特定の基礎的一次的制度のもとにつくられるパーソナリティの鋳型と言ふことが

(6)

出来る。即ち、一次的制度が各文化に於て夫々異ってゐる場合それに相応した自我構造が見出される筈であるといふ見込を

もつのであるが、之は作業概念として右の如くよばれるのである。之ほ投射体系、学習やタブーの体系、現実体系︵Rea−ity

System︶更に価値体系や観念形態等と連関して樹立される。カーディナーの理論構造は右の如く、一次的制度は個人的に永

続的な決定的な影響をもたらしそれは ﹁基礎的パーソナリティ構造﹂

次的制度 − を形成するといふ関係から構成されてゐる。

詳① Kardiコ項A■−TheIndiくidualand His SOCiety・p・N・

⑨ Kardiner、ThePsychO−Og−Ca−FrOコtiers OfSOCietyもp・ N−−NN ︵以下夫々−−1dividua−,F−・。ntiers と略称︶ ⑨ Kardiコerこ已iくidua−てp・ヾ・ ④ ;discip−iコe; の駅渾を ﹁紀行﹂ としたのけ後で触れる

右の理論体系に関してほ種々の説明が含まれなければならぬ︹−右に観た如く彼ほ妄化とパーソナりティ﹂の問題に於て

特に一次的制度の中核として基礎的紀律を夏要祝するのであるが、何故さうであるのか。之に関してほ先づ個人の生誕から

成長の初期に於ける生物学的特性が指摘される。彼は人間が他の動物に比して異る点について特に、十全なる独立生活を営

むに足る技術の発展が極めて渓徐であり、従って依存︵dependence︶の期間が長期に亘ること、極めて多様な可塑性をもつ

ことを強調するコ そして生得的な行動のパターンにより支配されること少く適応パターンが習得を通して形成されるが、コ

ンステレーションの特性は固定し統合エコtegrateしする傾向をもち、新しい統合ほ古いものとの結合により創られ、それは .ハーソナリティに決定的永続的影響を粛らすからである。 カーディナーに於ける宗教の問題 .ごraiコingミ と区別し、戒律的な強制的な制定たることを表 きんとしたためである。基硬的紀行は一女的制定の一構成要 素として給食、離乳、黍許等と並列的にも述べてあるが、広 義にとつてこのやうに包韓的に考へた方が妥当であらう。 の概念に媒介されて投射体系 − その結果としての二 五

(7)

大 任存−1特に長期の依存、この事は雁大な適応可能性と不可分の関係をもつ ー ほ草確約紀律の重要性の基盤である。そ れは幼児の不完全な頼りなさの状況下にあって、生物学的に決定されたニーヅに外ならず、その態度は保護、授助、支柱を 求め、それらの対象への接近の欲望を動機づけ、家庭に於ける依存の対象、主として両親との特殊関係が中心的間置として 取上げられねばならぬ所以がある。この依存と保護の関係面に於て個人はその伝達者たる保護者を媒介として、保護の組織 体系たる紀律との、又紀律を通して広く一次的制度との不可避的な関係に立つのである。一般に文化の存続ほこの紀律を増 強するための諸手段と深い関係に立ち、文化的に要求される制度であることも布陣せ考へなけれはならないー︶ 如何なる社 会にあつても紀律を欠いたものはない︺紀律にほ大別して二つの型があり一は指向的へノdi−・ectiOコaご、他は禁制的︵restrict・

iくe︶なもので、前者ほその社会の諸方式︵lゴal⊆erS︶ への誘導、後者ほある方式や行為を禁止する紀葎であるJ指向的絶律

は基礎的−一−ヅと衝突することが少く従って子に苦痛を感ぜしめることも弱い。模倣により寧ろ好奇心や企業心を鼓舞し培 養するタイプのものがあることも指摘するが、彼の用語によればそれらほ訓練へtraiコiコg︶ として区別されてゐる︹一従って厳 密には紀律は、生物学的であれ社会学的であれ基礎的ニーヅや既存の適応と桔梗し、行為の選択の楼台を限定するので強制 的であるを免れない。 この紀律への適応の態度が基礎的コンステレーションを形成するのであるが、﹁コンステレーション﹂ とは要するに適応 の結果習得される心的態度を指してゐる。それほ紀律の性格に依り多様であるが、二次的制度との連関性から観るならば、 紀律に於ける強制により生起するフラストレーションとの関係に立ってゐると言ふことが出来る。フラストレーションは種 々の補償や代用によつて快復されもするが、それが無意識的に抑圧される場合、コンステレーションほ奥妙に形成され、自 我の発展に最大の影響をもたらしそれはやがて何等かの形で表明されなければならぬ。それは社会内の各個人によつて多少 の異同を示すが、その成員に共通の反応は文化の上へ二次的制度を樹立すべきことを予想するウニ次的制度ほフラストレー

(8)

ションの抑圧の結果とも言ふべきである。従ってこの制度はフラストレーションの緊張をやはらげ、紀律に於ける強制を合 理化し補償すべき機能をもつたものでなければならぬと云ふことも予測される。 右のコンステレーションの客観的表現が﹁基礎的パーソナリティ構造﹂であることほ既に観たが、コンステレーションが 二次的制度を形成するに至る過程を辿ってみなければならぬ。ここで投射体系と投射作用が問題になる。 外界や種々の現象を評価し解釈する場合、特に心的過程を支配する法則に関して二つのタイプを設定する。即ち、一ほ科 学的体系樹立の基礎たる学習体系や合理的始源と連関した経験的現実体系と、他は社会の非合理的要素についての説明と連 関する体系とで、前者を現実体系、後者を投射体系と名づける。更に前者ほ科学的な技術や知識の申に典型的に見出され、 その合理的思惟は関心、好奇心から起り熟練と有用といふ目的をもつ。従って叉それは﹁必要性﹂によつてほいはゆる訓練 や学習に、又紀律への関係の結果樹立される因果関係の習得に基くものである。後者ほ快楽の原理、苦痛の回避、便法の影 響下につくられ、フラストレーションの救助を目的とし、それほ典型的に宗教や民話の中に見出されるものであり、対象や 外界への強力なー一−ヅとそこに於ける永続的なフラストレーションに由来する。両体系の内面的結合は単純でなく、特に幼 時にあつては両者は母の養護と結合し、その後文化の形状、制度のパターンに基き発展するが、すべての社会かこの両体系 に基く制度的パターンをもち、叉基礎的パーソナリティ構造もこの両者を含んでゐる。 彼は、上来の観点から理解される如く、その関心を投射体系に集中する。そして、﹁人間心理の広大な投射的上部構造や 適応の変化に富む作用を削除することは。ハーソナサティが社会に適応する面で最大の問題の構はる領域を見落すものである﹂ ︶ l r ことを指摘し、この領域の取扱ひが精神分析学独自のものであるとも言ってゐる。従って一次的制度下特に禁制的性格をも つ処の紀律にその主眼がおかれ、宗教の問題怯も亦この領域に構ってをり、従って我々の関心もここに集中せしめられる。 更に詳細にこの体系に関して迫ってみよう。 カープィナ一に於ける宗教の開運 七

(9)

入 投射体系は心的コンステレーシすンが爾後の発展に於いて外界や他の対象に投射されることによつて形成される外傷的経 験の記録で、投射的思惟の情緒的成分は人間関係を伴ふ凡ゆるアフェクトをつくり上げる。投射作用とほ精神分析学約手法 での主体と客体との間を観念構成的に表現し、主体に於て演ずる過程を客体に帰せしめる心的作用であるが、投射的体系形 成の心的過程は次のやうに図式化して示されてゐる。 統覚や情緒的に指向された関心を明かならしめる中核的な経験−・例﹁怠惰に対する罰﹂ ↑ 抽象化及び一般化 − 例﹁若し私が服従すれば苦しみを受けないであらう﹂ ︹ 投射及体系化 − 例﹁私は病気だ、だから悪いことをしたのだ﹂ ↑ 合理化=観念形態=緊張克服の体系 例﹁私を観てゐろ超越者がゐる。彼ほ全知全能である等。芳し私が悪いことをするなら罰せられるであらう。若し私が苦 ② 痛を蒙るならそれほ回復するだらう。﹂ アニミズムは投射作用の最も素朴なものの一つで、無生物の上に人間の属性が投射された甥象であり、未開人の観念形態も 外ならぬ彼等の実際的な経験の抽象化、一般化の結果である▲︶ 右の如き過程によつて投射体系は形成されるが、之が制度化されて二次的制度が構成されるに至る。従て又、基礎的コン ステレーション︵基礎的。ハーソナリティ構造︶ほ投射体系︵二次的制度︶の無意識的基礎であること。叉、投射体系は幼児 の環境に於ける保護者によつて伝達された制度化したプラクティス ︵紀律︶ に偶有されてゐると言ふことにもなるが、更に

(10)

中核的な意味に於いて之を図式化して言表はすならば ﹁絶律に於けるフラストレーシすン←抑圧1投射﹂ の過程によつて投 射体系︵二次的制度︶ほ形成されると言ふことが出来る。 二次的制度は発生的にこのやうな過程をもつのであるが、コンステレーションが体系化され制度化されることに関してほ、 個人の成長に伴ふ社会的条件が考へ合ほされなければならない。即ちフラストレーションを救済するに足る他の制度化され た補償や代用によつて投射作用が阻害されるならば二次的制度ほ殆ど見出され得ないと言ふのである。従って一次的制度か ら派生する二次的制度の様相ほ成長パターンを併せ考へることによつて充分に明らかにされる部面をもち、両制度の閃県関 係は必ずしも一律ではない。つまりほ一次的制度特に紀律に於けるフラストレートされた状況と類似した状況に於いて最も 適確に二次的制度の性格を意味づけることが出来る。適応の問題に関しても右の場面に於いて二次的制度への適応関係は一 次的制度へのそれの再適応︵readjt−Stment︶として性格づけることが出来ようっ 既に述べた如くカーディナーの文化とパーソナリティの問題に関しその中心点は、もしある制度 −一決的 − が個人の 上へある強制をつくり上げるならば、その強制の効果ほ亦制度化 − 二次的 − されるに重りそれほ個人によりある二次的 反応の上に記録されると云ふ点にある−し一次的制度の個人への効果について特に制度に対する個人の反応の効果に視点を集 中し形成期特に幼時の依存の状況下に於ける基礎的紀律に要点がおかれる。この場合記述の規準としてフラストレーション 鞋① Kardiuer,FrOntiers−pp・∽00ー∽P ③ ibidこp・さ● 何、現実体系の図式は次の如く表されてゐる▼︺ 知覚=意味=効用性 四 カーディナーに於ける宗教の関屋 ↑ 対象︵利用、回避、操作、破壊のための︶ ↑ 対象への詔箆=関心、好寄心、系体化=知識=科学 九

(11)

一〇 や不安の概念が用ゐられる。このことほ首題との関係に於ても亦重要な契機を与へるものであらう。 フラストレーションが依存の状況下生起するならばそれはパーソナリティへの永久的な結果を斎らすと云ふこととも等し い=而も紀律は望ましい状態にあつても伺豆子をして緊張から全く解放せしめはしない。フラストレーションとほ彼によれ ば要するに充足されぬニーヅ、満足にとつて必要な本質的な又仲介的な行為の妨害、表明され得ぬ感情や軍規され得ぬ期待 等を一般に指示するが、これはいかにして全体的。ハーソナリティが機構化されるかをみる最も有用な源であるとされ、これ に随伴する不安や緊張が貢祝されるっ 特に機博化された防禦の形での不安の効果ほ直ちに検証し得ると云ふ。右のフラスト レーションや不安への反応パターンとして彼は攻撃衝動を取上げその関係性においてコンステレーション形成のメカニズム を探らうとしてゐる。攻撃は個人に苦痛を蒙らし或は本質的な衝動やニーヅの満足を妨害される場合起され、その対象に向 ふ自我■の態度や行為として見られる。典型的に敵意、憎悪、嫉妬等として表出されるが特に。ハーソナリティの画でほ自己主 張と云ふ形をとる。 精神分析学にあつてほ幼時に於ける万能的な呪術的支配の時期を取上げる▲︺ 然し彼ほ上来の観点から特にこれを直接問題 としないし、それほ短期間に過ぎず而もこの状況下でさへも緊張から自由でほあり得ないとし、依存を中心的問題とする。 依存の最も強い期間は授乳期でありそこでは主として母親が依存を支へ満足の主たる源泉である。その状態はやがて独立の 要求、外界の性質の習得やその他理への関心を喚起するが、それと同時に父の権威との関係に移行するのが一般である。か くて彼が独立に至る迄の依存の期間に於ける種々の紀律の下でコンステレーションが形成されるっ 次に我々は紀律下のフラストレーションと充足との一枝的状況に触れてみようっ幼時のゴールは快楽、休息、緊張からの 自由、支配利用等であらうが、之ほ依存によつて達成されねばならぬ。しかし紀律は必ずやそれを妨害しある方向に禁断指 向するといふ関係におかれる。ここに強制と服従、禁止と許可の関係が成年丁るっ 勿論ここでも重要なことは之等強制服従

(12)

の方式は基礎的に制度的に決定されてゐるといふ事案である。

幼時に於ける基礎的ニーヅと言はれる依存に於いて、いはば強制に服従する事を条件としてのみ保護、是認或は愛情を獲

得することが出来る。親は欲せられる一面怖がら九るがここに紀律と依存との問に基本的にフラストレーションや苦痛を伴

ふ要素が潜在する。この関係に於いて子は苦痛快楽の原理︵P亡nishmenTrewardSystelきに立脚した罰と報償の体系即ち

苦痛の回避と快楽の追求といふ原理の下で服従と報償、不服従と罰の関係性が樹立されるのを見る。ここでは本来的ニーヅ

は歪曲され、或は放棄されざるを得ぬ。しかしその代償が何等かの形で要求され、常に放棄のための新しい報いを不断に創

造する。この抑圧は親への憎悪の基礎をつくるが、それは更に抑圧され額への恐怖を累積し、叉憎悪を表はすに必要なある

形をつくるかも知れない。服従への背痛の要素が罰の脅迫や、愛や支持の襲失といふ形で行為に導入される時、特に子が罰

を怖れ保護や是認を求める時、やがて罰の予測ほ衝動の満足に必要な行為を放棄せしめるに至り、危険を予期する不安が起

り禁制の対象たる親への苦痛、敵意ある映像が打立てられる。之は紀律に於ける禁止の一般的型であり、右の抑圧はやがて

投射体系特に宗教に於て神への懇願の手法を罰や満足の放棄と連関せしめて表出するに至るのである。之は然し罰の脅迫の

優位に於て見出されるが、紀律にあつて罰を伴ほぬ場合は右とほ異る結果を生ずる。それほ寧ろ慣習との関係におかれ不服従

に対して﹁否認﹂﹁nOn・名prOくa−︶といふ消極的禁制が課され、意識的であり﹁習得﹂ される性質のものであり従て抑圧を伴

はない。そして之は﹁恥﹂の感覚と連関するコンステレーションを導くものである。

紀律が厳格であるか否かの規準ほ彼によればV 厳格であるといふのは紀律が多数であり集合的に個人の義務を増大し叉木

質的満足と衝突するもの、更に重要な要素ほ紀律の開国に苦痛の脅迫、徴罰の手段、強要等の条件が樹立せられてゐる場合

を指すのである。然し故で紀律如何を問題にする時我々は﹁養謹﹂︵care︶の重要性を指摘しなければならない。之ほ養育、

清潔への注意、愛情への導入に関する緊密な配慮を含んでゐるが、かゝる養護の結果ほ子供の蓄積した緊張をやほらげ力強

カーディナーに於ける宗教の問題

(13)

︼二

い親の映像をつくり上げ、皐りほ親の理想化、強い超自我の形成、超自然の理想化を導くであらうし、叉かかる養護の顧慮

されぬ紀律の下でほ裁からの離反、憎悪、不信、敵意を生起し外界への興味を喪失し企図心が放棄されるに至る。之等は投

射体系特に宗教の問題にとつて重要な結果を導くものである。そして種々のプラクティスを含む親の態度特に愛情と叱責が、

幼時自己の価値を決定する唯一の規準となり、紀律下のフラストレーションの補償となつて、救済の力強い重心であり、爾

後の発展とコンステレーション形成に重大な影響を与へるものであることを示してゐる。

基礎的一丁ヅのフラストレーションに就き重要なものとして食物及び性に関するものを指摘する。之に閲し特に問題視す

べきは食物についてほ、養育の場合授乳に於ける母との関係、そこにつくられる母の映像であるか、口ほ幼時に於ける唯一

の効果的支配的な器官で母との結合の紐帯であり、それにより攻撃も防禦も為される香a−mas−ery︶コ更に飢餓及び初期 離乳の場合のフラストレーション、後期食物獲得のテク言等と連関しイ・嘉−一バリズムや攻撃の源となる。性的フラストレ

ーションほ最も強調されるものであるが、それは一股に最も強烈な禁制に遭遇せねほならず従七その影響も重大であること

によるっ之が食物関係と異つて居り、叉注目される他の特質ほ、その満足が延期され代用され或は昇葦︵sub−imate︶され得 る点にある。幼時に於けるエディプス複合︵bedipusCOn旦e旦性的対象及び手段に関するタブー、それらが他のニーヅ、

行為に転移され代用される満足等は奥妙な影響をコンステレーションに及ぼし、文政撃、敵意を契機として結婚や男女間の

均衡関係延いてほ社会平衡を支配するに至ることも考へられる。幼児に於ける自演乃至自己愛的行為は自我の発展への契機

となるが、特に依存に於いて新しい適応タイプ導入に関して括約筋制禦﹁旦︼inctercOコtrO−︶ と共に重要な意味をもつてゐ

る︺前者は自己自身で快楽を獲得する能力を知る事により母との依存的紐帯を破棄し衝動への親密な態度、快的な期待を導

く。後者ほ最初に子に責務を教へ社会化の入門たることに於いて注目されるが、その結果は色情的肛門帯域の価値や、保留

排泄の態度が、抑圧された攻撃を表はすための媒介となり叉清潔や垂頓等の社会的価値と連関する一コンステレーションを打

(14)

立てる。 右に特に取立てたものほ、彼の重要視する紀律におけるフラストレーションの場であるが、そこには勿論無数の緊張と不 安が介在する。不安は生涯に亘る凡ゆる場面に生起する普遍的甥象であるとするが、特に紀律下不安を醸成する状況は兄弟 姉妹︵sib−ing︶ との関係に顕著であり就中、最も依存を必要とする時期に弟妹が生れる場合次の反応を示す。親に対する主 張の放棄及親への憎悪、新生児への憎悪とその主張を阻害せんとの欲望等。稔じて脅迫が不安を生起せしむることが著しく ① 見られそれほマゾヒズム的解決を結果することが多い 侍、簡単に社会的エーヅに関し右の観点から触れる必要があらう。之はいはば社会化されたニーヅで、地位、富、名声、 階級、能力等の上におかれる社会的価値に対してつくられ、怖れ、愛、着目、賞潜等への欲求に支へられてゐる。かかるニ ㌧ツのフラストレーションの場面にほやほり羨望、憎悪、攻撃、奪取の願望が作き或ほ攻撃がマゾヒステイクに処分され依 存の形をとつて迎合、服従や自己への禁制等を導き特に不安は恥、彪下︵degradatiOn︺、自嘲を伴ふであらう。之が達成は 自信の増大を結果する。社会内での敵意や緊張は更に変動する経済、種々の社会横構に於ても、特に社会的ゴールと基礎的 パーソナリティ構造の桔梗する場合に発生するが、かかるフラストレーションや不安の保障として叉種々の制度が生起する。 それらほ主として紀律の結果と照応し社会的裁可 へsanctiOn︶等とも連関せしめられるが、個人の.ハーソナリティの発展や 二次的制度にも影響を与える。尤もかかる社会的緊張の場面に生起する攻撃は何等かの形での抑制もなく、是認された抜道 をもたぬ社会はないのであり、攻撃の昇聾や置換の形で多く表される。現代社会にあつてはそれほ是認された﹁舞争﹂の形を とる。彼の場合には、かかる社会的−一−ヅも勿論紀律に基くコンステレーションとの相応関係に於て分析するのであるが、 成長パターンに於けるパーソナリティ形成や社会的状況との連関性は必ずしも明瞭に示されて居らない。 上来述べた攻撃に於ける抑圧ほ然しフラストレーションとその充足との均衡が十全に保たれてゐる場合にのみ可能であり、 カーディナーに於ける宗教の問題

(15)

ヵーディナーによれほ宗教ほ凡ゆる社会に普遍的に存在する保障体系︵Secu−itySystem︶ であるりそして各社会に蹴課

される紀律や、之等が保障体系を樹立すべき関係ほ﹁必ず宗教に反映すべきである。何故なら宗教は集団の保障体系の一部

分をつくるからである。神からの助けを懇請するに用ゐるテクニクほ千に許された紀律の性格と一鼓する﹂と述べてゐる如

く、宗教は一次的制度就中基礎的紀律と依存との関係の写しとして、更に観た如くフラストレー・ションー卯年1投射の

過程の結果として捉へられてゐる。

典型的な宗教のメカミズムを例示するものとしてあげられてゐるクナラ族︵Ta邑auMadagascar︶ の場合、宗教ほまさ

しく親の映像の投射として分析され神は特に父の模写で、幼時父との関係が複製されたものに外ならない。即ち子ほ基礎的

紀律にあつて無援の状況下既にみた苦痛快楽の原理の支配による報償処罰の体系を体得し、その結果善行の報い悪行の罰を

伴ふ。ハーソナリティ構造が樹立されやがて投射されて神への倫理的宗教的関係が成立するに至る。従て神への懇願の手法ほ

満足の放棄によつて立てられ、神の所作の失敗ほ直ちに神の怒りとして翻訳されその恩寵の快復も亦右の満足や快楽の放棄

により、筏悔の表明も亦同様の態度によるが、更に神ほ祖神たることに於て畏琴室阜受することが出来るのである。而るに

一四

ここに社会平静の三の契横が衛つてゐる。然しかかる抑圧ほ投射体系に於てほ表出されるっ特に明白には迫害呪術︵ma−e. 言−entmagic︶の形として、又ヒステリアも見出されるが、更に民話に於ける攻撃的素材の中に顕著に示される亡 鼓① 周知の如く新フロイド学況に於て、HOrneyは特に神縫症 と﹁不安﹂との関停を刻明に剋り ︵cf●New Wa︶、S訂Psy・ C︼︼Oana−ysi㌘︼讐声TF2N2亡岩tic Per等na≡yQfOur↓i−︼一e. −篭㍗︶FrOm−nは﹁権威﹂を重要な耗念として用ゐる ︵cf. Esc曇市﹃rO−−1FreedOヨ、︼巴−●︶、がカーディナーを含め、 フロイド主義に立脚した所論が、対人関停に於てかかる面を 把揮してゐる事も注意さるべきであらう。

(16)

マルナサス ︵富arq亡eSaコS、POiy諸Sia︶ の社会にあつてほ、この関係は異なり、神の失敗ほその怒りの表れではなく、結 果は単にその神を棄てて他の対象との関係に転移することとなり、懇願の手法も満足の放棄とほ無関係に威嚇的態度を伴ふ。 之は複数の父速からの保護とそれからの離反の斎らす結果に外ならぬとされる。そしてここでほ神の横能ほ一次的制度と相 応して食物を与えることである。更に二三の社会の例に触れると、社会内の緊張の稀薄なコマソテ族︵COmanChe−U■S・A.︶ では、世襲の地位も特権もなく個人の発展は生来の素質や親の性格に委ねられ強い自我構造をつくる。紀律ほ緩徐であり養 護も善良で首尾一貫し組織的である処からそれが導かれるが、抑圧の必要をもたぬ状況からは投射体系ほ単純で実際的宗教 が見出されぬ。従て罪や満足の放棄もなく懇願はむしろ力、忍耐、決意を誇示するため叉社会協同を保障する慣習の模写に 過ぎない。尤も前文化たる高原文化 ︵P−ateau︶ でほ緊張が激しく呪医が重要な位置を占め霊魂は怖がられたが、生活環境 の変化にょり社会組綬の変容をもたらし緊張抑圧の制度が脱落し、攻撃が他の集団や行為に転移された結果にょるとされて ゐる。近代社会の性格をもつコミュユティとして取上げられたプレインゲィル ︵P−ain皇−e、U.S.A一︶に於てほ我々の社会と 殆ど同じ社会機構、家族構成や紀律をもつが、ここでほ失敗ほ罪悪と結合し、前への屈服、死後の恩寵の受容がカルビー一ズ ムと結びついてゐることが見られ、更に特殊なケースとして緊張の圧倒的強烈さのため投射体系を殆どつくり得ず、差迫っ た前の感覚から神は債権者として表はされ火急の際不承々々供犠をなすアロア族︵A−OreSe.NetheユandEastl−1dies︶の場 合も例示されてゐる。 右に例示した如く、特に異った様相をもつ異った文化が択ばれてゐるのであるが、夫々の社会は一次的制度の性格にょり 投射体系︵二次的制度︶を異にしてゐるといふ一綬論が例証されてをり、宗教が未開人の場合にも決して無制約な想像の所産 でなく外傷的経験の一般化、抽象化を通しての投射の結果の所産たることは言ふ迄もない。己に述べた如く紀律の厳しいか 否か、即ち紀律のもと緊張や不安が蓄積されるか否かは親の養護如何によつても極めて強く支配されるが、一枝的に紀律の カーディナーに於ける宗教の問題

(17)

︼六

厳しい場合にほそれに応じて投射体系も顕著であり、然らざる場合にほ特に努力してそれをつくる必要がないとされる。け

れどもかかる社会にあつてほ投射体系︵宗教︶は形成されぬかと間ふ際、右に観た如く彼は宗教が凡ゆる社会に普遍的に存

在する制度たることを見出してをり、稀薄でほあるが宗教の必要性を退けほしないっ ここで我々ほこの制度の遍在の説明を

求めなければならないぬが、それは彼に於ても必ずしも紀律下の緊張ヤフラストレーションとその抑圧及び社会内緊張等の

遍在性を以て答へてほ居らず制度の残存を認や卑︶ 然しその歴史的起源に関してほ語られはしない。そして彼の分析手順は

軍際にほ二次的とよばれる制度に於てそこから一次的制度特に紀律の様相を検出する面が少くない。従って彼の云ふ宗教へ

の、紀律に於ける反応タイプの投射は屡々述べた如く、特に神との関係性を決定する刻印であると云ふことであり、神に対

するテクー一クとの相応性に問題がおかれてゐる訳で、この領域で如上の見解が成立してゐるのである▲︶

宗教の械能的性格ほ保障体系たるにあり、それが紀律下及社会生活に於けるフラストレーションや、緊張や不安の如き苦

痛を補償する樺能を捜ふ事巳に異説の如くで、それはいはゆる来世の浄福と云ふ観念に於て顕箸に見られるであらう。更に

特に集団の保障体系としても意味深い−それほ宗教が一次的制度特に紀律や慣習への服従のもとでつくられたコンステレー

ションの投射であることに基いて、神の保護室享受する手段が社会に於ける現存の制度や慣習を保持しそれに服従すること

により助長されるとの謂に於いてであり、社会安定の強い要素を含むと云ひ得る。従って宗教は叉常に保守的性格をもち、

社会機構の変化の後に、而も基礎的な一次的制度の変化によつて徐々に変容する性格をもつものであつて、ここに彼の云ふ

無意識的なるものの強固な連続性と潜在性も見られる。彼はこの見地からヨブからカルビンに至る儀礼変化をも取扱ひ、こ

の変化を刺戟するのはイデオロギーでも抽象的な道徳の必要からでもないことを指摘する。宗教の変容に関しては更に、宗

② 教が近代社会に於いてイデオロギーによりとつて代られつつあることにも触れてゐる一︺

宗教と連関し呪術に関しても触れる必要がある。将に呪術の間額は精神分析学約手法に於て従来充分な解明が行ほれてゐ

(18)

なかつた点からも叉興味ある問題であらう。然し彼にあつても必ずしも主要な問題ともならず特に深く追究されてゐる訳で

もない。彼が宗教と呪術を区別する規準は寧ろ常識的なものであるが、如上の方法論と連関して両者の性格の相違を観るな

らば次のことが言へよう。

呪術は精神分析学に於いては、発生的にほ初期の万能感に基く呪術的支配の段階におかれ、それはア⋮、ズムの領域に於

ける霊的存在支配のテクヱクとして解釈されてゐると思はれる。彼も亦特にアニミズム的な領域での呪術硯黎−Iシャマーー

ズムを典型的なものとするーが幼時の口頭支配と照応することをも指摘する。けれども呪術をアーて、ズム的な領域に限定

せず寧ろマナイズムの観方を強調してゐる点が注意される。呪術のメカニズムは然し宗教と等しく投射に基くものと云ふ。

宗教との相違は更にそのプラクティスに於いて械械的対象︵sOrCery−Charm︶の性質を通しその操作にょり、その効力や利

用を意図して実験的、実利的な手法が用ひられることにある。そこに於いて宗教が既述の如く投射体系に属せしめられたに

対し呪術ほ現実体系の一部となつてゐる。但しそれは純粋にさうなのではなく、投射に基くものであるといふ意味から特に

投射的現実体系︵PrOjecti完rea−itysysteヨ︺として位置づけられてゐる。

呪術ほ紀律に基く攻撃反応の表出であり、害を与へんとの欲望や意図によつて行使されるが、その著しい表はれとして迫

害呪術が特に取上げられてゐるり呪術に於ける投射は典型的に次の如く示される。即ち幼時父に対する敵意﹁私は汝を傷けた

いと恩ふ﹂が抑圧され投射されて﹁汝は私を傷けるだらう﹂といふ怖れとなり、又 ﹁私の欲する如くしてくれない﹂といふ

フラストレーションに於いて﹁欲する如くせしめる﹂との過程をもち強制的、攻撃的様相を帯びるに至る。従って呪術の作

用する背後には常に﹁あるもの﹂ の意図が横はつてゐる。呪術の機能的性格はこの意図に基く害悪を防禦するものとして、

叉不安や苦痛の緊張更に攻撃衝動を間接的に放出するものたるにあり、やはり一つの保障体系として音義づけられる。

呪術が病気や死の概念と結びつく事が特に取上げられる︵特にTana−a︶。これは未開社会での一般的現象であるが、この

カーディナーに於ける宗教の問題

︼七

(19)

一入

事は宗教に於いても同様であつたJ何故病気や死その他不幸な現象が一は不服従や悪行の罰として、他は敵意ある迫害の結

果として受取られるか。このことは云ふ迄もなく彼にあつてほ一次約諾制度就中紀律の性格、それに基く心的コンステレー

ション換言すれば基礎的パーソナリティ構造の問題、更にそれと連関する社会的不安や敵対状況如何に帰せしめられる。勿

論実際には右の両様の要素は密接に連繋してゐるが、特に発生的に呪術的思考過程は幼時の状況に於ける依存の機会の欠如

と深い相関関係に立ってゐる。クナテに於いてほこの両様の思考過程の分化つまり宗教と呪術の機能的分化が見られ、病気

は主として祖霊の怒りに帰せられ、他の不幸は呪術に結果するものと解釈された。然し隣族︵謬tsi−eO︶の生計技術の流入に

伴ふ社会不安と敵意によつてそれらは呪術的行為に由るものとされるに至ったことが見られるー︺

右の宗教及び呪術の観点を超自然︵一Super邑u邑ism︶の立場に附して概括するならば、前者をア言ズム的領域におき後 ③

者をアミミズム的原理の上に作くマナイステイクな性格に於いて観てゐると云ふことも出来よう∪

大.

以上のカーディナーの所論についてほ種々の論難の存することが考へられる。彼自身、ここで主として取扱った両署の前

後でほかなり混乱を示してゐるようにも見受けられる。

先づ問題となるのは制度に関してであらう。彼も亦、後︵FrO註ers︶に至り凡ゆる制度が一次的、二次的に分頬し得ぬこ 辞① Kardiコer Iコdividua−−p・ご ② 文化変容に関してほ特に触れはしなかつたが、彼はTan・ a−a及COヨanC−1e に於けるその間薦を取上げてゐる。そこ では︼衆的制圧就中生計技術の変化に件ふ社会的状況特に不 安や緊蛮、ニ次的制定特に宗教や呪術の変容を基礎的コソテ ステレーショソとの連関から観てゐる。 ③ この点に就いては宗教学的間男として、su罵rnatura−ism に於けるロウキーの、宗教をアニミズム呪術をブレアニミズ

ムとする鶴点参照、︵LOWie R−H●、An I−1tr乱uctiOn tO

(20)

① とを告白してもゐるが、メキール︵Melハee−S.︶の指摘する如く、彼の云ふ一次的制度が環境的要素までをも含むもので厳密 に制度と云ふことが出来ぬことや、一次的制度が二次的制度を規定する半面逆に後者が前者に影響するといふ内的連関性も 考へ得ること等もあげられる。叉彼の云ふ制度については少くともその取扱ひの範囲が投射的制度に関するもの即ち特定の 文化的事象の問題であることも更に明確にしなければなるまい。次に基礎的。ハーソナリティ構造について、その統合性を強 調するに拘らず、﹁気質﹂の如き或は更に包轄的抽象的な概念 − 民族性の如き ー さへも用ゐられる場合があり、それが 社会形態や家族構成等の基礎的制度形態から演訳的、法則的に抽出するに至ることも看取されるように思はれる。更に一般 的論議としてフロイド主義について為される面、特に性的事象の過重視、幼時に於ける経験の決定性、永続性等の問題があ り、成長の過程に於ける。ハーソナリティの統合に関して明瞭に示されてゐない等の難点を含んでゐる。 ② 総じてその理論が、リントンもその間題性を指摘する如く、どの範囲の文化に適用される得るか、少くとも近代社会の複 雑性を如何に分析し得るかは疑問である。尤も彼も彼の書に於て近代社会分析の例証︵P−ain5.−−e−U●S●A●︶を示してをり、 そこでは未開社会の分析手法を修正して、性格学的視点を補充し又新たな価値体系や緊張の場面をも取扱ってゐる。然しそ の結果は未開社会分析の埼域を出ず、抽象的な結論を招いてゐる。ここで更に階級的、身分的な限定性、それに基く個人的 状況を具体的に把握する必要に迫られるであらう。 宗教の問題についてほ如何であらうか。観て来た如く彼に於ける宗教の概念は宗教学約定義としてはフロイド主義の学説 に基いたアユミズム的観点であると云ひ得る。アーて、、ズムについてほ投射体系の最も素朴なるものの一つであるとも云ふが、 投射体系に於て宗教を取扱ふ限り基本的にア︼一ミズム的な立場に立たざるを得ない。勿論彼が宗教を取上げる意図は投射体 系︵二次的制度︶ の典型的なものとしての例証にあり、宗教をそれとして問題してゐるのでないことほ云ふ迄もないが、そ の所論との関係に於てみても備荒多の問題性を残してゐると思はれる。 カーディナーに於ける宗教の問題

(21)

二〇 竜づブレア︼て、、ズム的な領域について間はれなければならない。研究された未開社会に於て超自然力に関する制度やプラ クティスを認め、それは社会的不安や緊張と連関して呪術的行為が問題点となつてゐる。従て宗教とほ性質を異にするもの として示されてゐることは既に観た如くである、一それはともかく宗教にあつて彼の場合人格的な超自然的存在にして親の映 像としての性格をもつものが最も重要な神とされ、その他の機能的性格をもつ神ほ軽視されるに至ってゐる。更に叉かかる 神々の属性にも触れるところがない。権威ある親の複製たることはそれとして、観て来た如く神への態度のみが取立てられ 実体としての対象たる超自然的存在の罵性の問題が無視されてゐることも制度として問題にする場合にも何不十分さを残し てゐるであらうし、彼の宗教の概念の一面性を指摘しなければなるまい。彼の論旨からすれは右の問題もおそらく歴史的解 明に委ねらるべきであるともされようが、然し他の二次的制度即ち民話やイデオロギー等と等しく置くことの出来ない性格 を宗教がもつてゐることによる。このことは遂にその分析を半ば改案し問題視したままで残されてゐる ﹁タブー体系﹂ の解 明の方向とも通ずるであらう。彼自身叉儀礼や宗教の概念についてある面で矛盾や混乱を示し位置づけが不可能である事を も告白してゐる︵特に A−Or︶面と連なると考へられる。 この間額性の領域は呪術をも含めて考察すべきであり、端的にここで超自然の問題に関して宗教的感情や態度の問題が指摘 されよう。即ちその場面でほ幼時親への依存の状況特にフラストレーシゴンに基いて形成されるコンステレーションが単に投 射されたものであるといふ範囲を超えたある感情や態度が作用する領域があるのではないかと云ふこと、それを畏怖︵awe︶ の如き宗教的感情とそれに対応する態度から究明される領域とも云ひ得ようが。尤もその領域は紀律や投射に於いて位置づ けられもしよう。何れにしてもフラストレーション、抑圧、投射と云ふ過程に於いて超自然の成立がどうなるか。このこと が宗教乃至呪術の問題性としては不明瞭のままに残されてゐると云はなければならない。更に云ふならば特にマナイステイ クな領域に於ける情確約、非合理的要素の性格づけが右の解明によつて明らかにさるべるべき問題性をもつであらう。かう

(22)

ヵーディナーの所論に就いて右に取上げた諸問題に未解決な或は疑問視すべき点が親られるし、更に仔細に及ぶ例証に関

して疑念を挿む事象も少くないように見受けられる。然し彼も云ふ如く問題は結論にあるのでほなく寧ろ方法論にあるとも

云へる。この点で、如上の難点を含みつつも注目すべき幾多の問題性を提供してゐることほ疑ひない。

リントンも指摘する如く、先づ彼の所論が横能主義的観点の一面性を鋭く衝くものであること。即ち機能主義は文化の統

合性を強調しっつも行動。ハターンや制度の並列的な相互依存を問題とするに留り、そこには焦点がなく機械的、平面的ない

ほばシンクロエクな文化の把撞に終ってゐると云ひ得るであらう。叉、﹁文化と。ハーソナリテイ﹂ の問題性に近接してゐる

いはゆる﹁文化パターン﹂の理論について云へることほ、変化を特殊な単一の態度ヤアフエクトで把へ、而もそれは観念的

な概念を援用することによつて示されてゐるり 従ってそこでは、他の多くの行動パターンのシリーズが看過され複合的な文

化様相を説明することが出来なかつた。

之等に対しカーディナーにあつては、。ハーソナリティは一次的制度に含まれた諸要素から、紀律を通して形成され、単一

の根源によつてでなく多数の要素から構成され、一次的制度に対応する心的コンステレーションと行動バクーンの多様性が

示され、そこに形成された基礎的パーソナリティは次元を異にする制度︵二次的︶ を創造するとされる。更に適応のメカニ

ズムは幼時に於ける経験即ち紀律特に基礎的紀律のもとで形成されたものに規定されるとの観点に立ってゐる。彼の書に於

④ いて特に。ハーソナリティの研究として個人の生活史の分析に多くの頁を割いてゐる。ここに適応の時間的把握が示されてゐ

近に於けるある限界性を示すものとも云ひ得る。

指模となるべきであらうと考へられる。倍以上の点ほ彼の分析手法に就いて云へば、何よりも﹁子﹂の例のみからの問題接

した問題は宗教の本質に遣るものであるが、特に妄化とバーナりティ﹂の問題性として宗教や呪術が取扱はれる場合にも

カーディナーに於ける宗教の問題

(23)

二二 寵︶ る。かかる多次元的な叉ディアクロニクな観点は既に指摘されてゐる如ぐ文化の問題の重要な一面であると思はれる。更に 又文化を個人に於て把握する彼の手法も文化と個人の問題性に於てのみならザ文化理論に意味深い寄与をなすものであらう。 このことは宗教学的にも同様な示唆を与へるものである■︺更にはカーディナーに於て如上の社会心理学的取扱ひから投射体 系が重要な論点となつてゐることも、宗教の人類学的乃至社会学的間顧に対し心理学に於ける投射約手法と関連して興味深 い問題点であらうと考へられる。 許① Mekee−S●−Aヨ● AコthrOpO︼Ogist冥Ll︻ ︵︼望○︶pp−∽Nの −∽∽P 偉力ーディナーり所論についての批判として、DeくereuH Character a−乙l指rSOコa≡y●≦ⅠⅠ︵︼望○︶特に幼兄に於 G・− ける不安の起源の問層について触れてゐるものとして Aus・

ube︼D・P■−EgO Deくe−pヨeコt aコd the PersOna︼ity DisO

rders、−誤N,p︼︶・∽Nのー︺N∞■ 更に特に基碓的パーソナリティ 構造論を中心として 斎藤吉雄氏﹁基本的人格構造概念について﹂ ︵社会学研究第 五号︶ 同﹁農村社会の基荏的パースナリティ﹂ ︵同上、 節七号︶ ② 参照、Kardiner−FrOntiers 及び Ⅰコdi≦.d亡al に於ける LiコtOn の序文 ③ リソトソ ︵右序文︶及びカーディナー自身指摘する如く、 他の人弊学的研究に於いて最も連関をもつものが、ベネディ クトのPattelコtl︼eOry であり、若し特殊な朝心匠や価値によ り強く支へられてゐる文化がある時、カーディナー?某夜的 パーソナリティほべネディク†の文化パターンの摂食と弊似 する辛が考へられる︵d●Kardiコerこndiくidua−p●−舛し Cf.Beコedict戸.PattelゴS Of cu−ture.−翌戸 ④ パーソナリティの分析?汚臭と文化のそれと?照合即ち文 化の分析により把握された基確的パーソナリティ構造を個人 に於いて検出する場合その結果は殆ど︼致すると云ふ。 ⑤ 参照、石津教授﹁宗教哲学り問題と方向﹂五九貫以降。更 に邁応の時間的観点を間廣としてゐるものは例へばChapp−e

(24)

八、﹃宗教論﹄における韓意の自由

九、悪の木原

十、悪の形式性

十一、﹃道徳形而上学の基礎﹄﹃雫践理性批判﹄における﹁有限者﹂

十二、﹃宗教論﹄における﹁有限者﹂

以上において、﹃実霊性批判﹄における樺意の位誓書味とを明らかにした。次ぎに﹃蒜理性批判﹄の誓と比較し

っっ、﹃宗教論﹄の誓について述べねばならない。しかし、本論の芸は、カントの宗教思想における﹁有限者の霊﹂を

明らかにすることであつて、韓意そのものを諭ずることが中心の課題でほない。したがつて、辞意を論ザる場合にも、いた

っらに、カントが使用してゐる﹁Wi−1kきといふ概念に左右きれてはならない。我々ほ誓といふ概念を、カントが使用し 滞 lきれざる主体

満されぎろ主体︵完︶

− カントの道徳的宗教を背景としてトー1

(25)

ニ四 てゐる﹁Wi−芹箸﹂の訳語として使用してゐるのでほないゥ按意といふ概念で、有限なる理性的存在者の意志をあらほさうと してゐるのである。カント白身は﹃冥躁理性批判﹄、﹃道徳形而上学の基礎﹄及びその他の著作において、Wink箸といふ概 念に関して明瞭な定蓑をあたへてゐない。しかし、﹃実躊理性批判﹄ や﹃道徳形而上学の基礎﹄ の中で使用されてゐる 鞋1 Wi−−k旨といふ概念を分析して考へると、これは、明らかに、他律的な意志といふ意味をもつてゐる。たとへば、もつとも よくこのことをあらほした箇所を引用すれば、

pr・く∴S・お︰DieAutOnOヨiedesWi−−ensis−dasa−−einigePrinzip a−kr mOra許chen G灰etZe 亡nd der ihnen

gem覧enPf−icぎen忘−−e芽terOコ○邑ederWi≡︷箸gr旨detdagegeコnichta−−eingarkeineくerbind・ −ic茅2it、SOnderコist吏erヨehrdeヨPriコZipderse−b2nu−乙derSi−−−icI旨ei−des WiueコSen−gegen・ といふのであるっしかるに、カントほこれとおなじ意味をもつた意志をWi−斉箸といふ概念を用ひないでW≡eといふ概 念を用ひてあらほす場合がある。﹁感性に触発された意志﹂ といふのがこれである。これについて二、三の用例を列挙して みよう■し gr−∴ S・ギ⋮:aberdemWi−−endesMeロSChen.sOferner.durchdieNatura琵Niertwird\⋮・ gr−∴S・ぞ⋮:dadieser︹derWi−︼edesMensche已もーsse−bstヨitsOくie−enNeigungen a琵Niert\::︵︹ ︺は著作 のつけたもの︶ pr・く︰S・−−り︰ern班m−ich2udenlempirischaffiN訂rtenWi−−en⋮⋮

pr・く∴S・Nギ︰Ineinempa−hO−Ogisch a詳ier−en Wi−−en eines扁rl︼旨ftigen Wesel一S kann ein Widerstreit der

MaximenwiderdieくOnihm邑bsterkann−e−−prak−ischeコGesetNeangetrO芽nwerden●

(26)

意志一股をあらはすことが出来なくなる。それで、我々ほ津意といふ概念で﹁有限者﹂の意志一般を表現し、この概念の中 には、カントが使用してゐるWiuk賢ほかりでなく、derWi−1edesMensche−1といふ概念も含めることにする。 しかし、カント句読意に関する思想は、﹃実践理性批判﹄等から﹃宗教論﹄にかけて、非常な展開をすることになつた。勿 論、﹃宗教論﹄における辞意ほ、﹃実践理性批判﹄及び﹃道徳形而上学の基礎﹄等において説かれる如く、自愛の原理を自己 の格率としてゐる﹁有限者﹂の辞意である。この点において、両者の間に一種の共通性は認められる。しかし、﹃宗教論﹄の 鞋2 許3 証4 韓意ほ、﹁自由な辞意﹂︵diefreieWi弄賢︶であつて、﹃実践理性批判﹄や﹃道徳形而上学の基礎﹄で論ぜられた他律的な韓 意と同一のものでほない。﹃実践理性批判﹄や﹃道徳形而上学の基礎﹄においては、自由が道徳律の存在根拠と考へられ、また、 自由の法則である道徳律ほ自然的因果の法則と相対立する法則であるといはれてゐる。したがつて、自然と自由とは、互に 矛盾し、相対立すると考へられてゐる。それ故、道徳律を自己の自由によつて自己の格率とする意志は純粋意志であつて、 鼓6 この意志の主体は純粋実践理性である。このやうな主体においては、道徳律と自己の主観的意欲とが根源的に同一となり、 倫理的拘束性も解消せねばならない。かかる倫理的理念が、現成されるべく、当為づけられてゐる現実が、カントの倫理学 における倫理的現実であるといふことが出来るであらう。そして、この倫理的現実の棟木構造は、倫理的理念の、絶対的、 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 無媒介的な実現へと将来づけられてゐる当為性なのであり、これを明らかにすることが、カントの﹃実践理性批判﹄ならび に﹃道徳形而上学の基礎﹄の主要課題であつた。したがつて、これらの﹁道徳論﹂においてほ、当為づけられ、将来へと拘 束されてある現実が問題にされても、将来へと拘束されつつ、しかも、実際にほ非理念的である現実、理念の通りにあつて ゐない現実ほ問題にされず、さらに、そのやうな現実の根拠へと倫理学的問題が深められるに至らなかつたロ これに反して、言ポ教諭﹄でとりあげられた最も大きな問題は、有限者としての人間が﹁自由に行動する存在﹂︵eiコfreT 証 9 hande−ndesWesen︶ であるといふことであり、次に、かかる存在者が道徳的な悪人であるといふことである。このやうな 活きれぎ る 主体 二五

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ニ六 道徳的な悪に関する問題ほ、﹃実践理性批判﹄や﹃道徳形而上学の基礎﹄においては、問題の中心とされなかつた。まづ本 節では、第一の問題である﹁費意の自由﹂に関して考へねばならない。 カントの﹃実践理性批判﹄においてほ、並列的に考へられて居た三つの理念が、その重要さの度合を変へ、自由が他の二 つの理念の根樵におかれるに至った、一﹁自由の概念はその実在性が実践理性の必然的法則によつて証明せられる限り、純粋 理性の、思所的理性の全体系の要石をなす、︺そして、理論理性において、単なる理念として、おちつき得ない凡ゆる他の概 念︵神と不死︶は、今や自由の概念に結合し、これとともに、また、これによつて、その堅実な存立と客観的な実在性を得 誅10 る﹂.㌧自由に関するカントの考へ方がこのやうに発展したことについては、既にシュブイツァーも指摘してゐるとほりである。 さらにカントほ、﹃実践理性批判﹄や﹃道徳形而上学の基礎﹄等の﹁道徳論﹂において、自由を意志の性質と考へてゐるった とへば、次のやうなカントの言葉の中には、このことが明瞭にあらはされてゐる。﹁自由は、すべての理性的存在者の意志 誅12 このやうに、自由な意志の線を辿ってゆくと、言不教諭﹄の中で、やはりこれと同様に、辞意の自由に関するカントの思 想に遭遇する。カントは、言不教諭﹄において、自由を韓意の性質であるといつてゐる。﹃実践理性批判﹄ において、カン トが自由を意志の性質であるといふ場合、その自由は自然法則と対立する自由を意味し、そのやうな自由を自己の性質とす る意志は純粋意志以外にはなかつた。しかるに、﹃宗教論﹄においては、有限者としての人間の津意に自由をみとめ、それ を控意の性質であるといふのであるから、その意味するところは、まつたく、逆になつて来なければならない。カントの言 葉を引用すれば、⋮⋮dieFr巴tderWi−芹賢istく○コderganzeigeコt仁ヨーichen Bescha謬nheit−da苧︰⋮ とのべてゐる。この箇所に関しては、既にフィットボーゲンが指摘してゐる通り、カントの文章をda苧⋮・以前で区切って 証15 読むべきであらう▲りさらに、カントほ、これと同様のことを次のやぅにいつてゐる。﹁心術、もしくほそれの最上彼処を韓

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ヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 意の何等かの最初の時間的な働きからも導出し得ない故に、そこで我々は、それを辞意の性質とよぷ。この性質は本性上韓 鞋16 意に属してゐる﹂。このやうに、時間的働きの連鎖を超えるもの、それ以上時間的働きの中に探究し得ざるものを、カントは 韓意の性質と考へてゐるのであり、これは他ならぬ自由なのである。またこのやうな考へ方がよく出てゐるカントの言葉ほ 次のやうな箇所である。 鞋17 ⋮⋮ヨitabsO−utenSpOntanit警derW≡k守︵derFreiheit︶zusaヨヨen bestehen● ここでカントほ、疎意の自発性を自由であるといつてゐる。 このやうに坪意を論じてゆく際に、﹃宗教論﹄における自由な樺意は、単に純粋意志と比較されるだけでほなく、より根 本的にほ、﹃実践理性批判﹄等で説かれた賛意、すなはち他律的な韓意と比較して考へられねばならない。他律的捷意ほ責 任を負ふことが出来ない。しかし﹃宗教論﹄における自由な辞意は責任を負ふことが出来、また責任を負ほねばならない。 といふのは、自由な韓意は、他律的な坪意とちがつて、その行為の第一根拠を自己の自由にもつてゐるからである。そして、 韓意が行為の責任を負ふことによつて、カントの悪ほ、その倫理的な意義をもつことになるのである。このやうにして、カ ントの立場は、坪意に関して変化して行ったが、﹃実践理性批判﹄ とほ違った彼の立場を次のやうに述べてゐる。﹁悪の棟 拠は⋮⋮人間の感性の中に、また、感性から生ずる自然的愛著の中にはない⋮⋮悪の根拠ほ、愛著心によつて辞意を規定す る如何なる客体にも、如何なる衝動にも存するを得ずして、ただ、賛意が、その自由の使用のために、自分に対して設ける 鞋18 所の規則、即ち、格率においてのみなし得る﹂。 このやうにして、カントのいふ倫理的悪は、自然的な感性を誘惑するやうな自然的対象の中や、愛著心の中には存在しな 鞋19 い。カントによつて悪とよばれるものは、単なる愛着心や感性ではなく、それらの感性や愛着心をして、悪たらしめる叡知 的原因をもたなければならない。このやうな原因は、悪といふ冥質でもなく、悪といふ価値でもなく、これらの実質の背後に 掃きれざる主体 二七

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二八 あつて、その冥質を悪たらしめる倫理的な行為者の津意の自由になければならない。我々はここに、カントの﹃宗教論﹄に おける賛意の自由の意義を見出さねはならないゥ 誅1 ﹃満されざる主体﹄七節を参照きれたい。︵宗教研究、一 三五号 二二−二五貢︶。 琵2 戸iコd∴S.−㍍.Nの.NA.罷㍍ゴム〇.島㌫−●ヲ㌘ノノ1● 註3 pr.<∴ S●−〇.Nの.N﹃−髭、当、畠−ぉこ﹃−念−発こ岩−まこ○㌣ 〓ヂ︼誌● 九 ﹃宗教論﹄第一篇は、人間存在における悪の解示を、その主要な課題としてゐる。前節においては、﹃宗教論﹄ における ﹁有限者﹂ほ、自由に行為する存在者であつて、自由な辞意の主体であることが明らかにされた。しかし、かかる人間が悪 であるとすると、それは何時から悪なのであるかといふ間ひが捷出される。そして、第二には、何故悪なのであるか、とい ふ質問が提起されねほならないっ ここでほ、まづ第一の間ひから論ずることにする。 荘1

カントは、かくの如き悪の起源に関する問題を、悪の本原︵DerUrsprung desB訝en︶、悪の根拠︵DerGrund des B苧

社 葬 蕎 蕎 詳 言生 誕 10 9 8 7 6 5 4 gユ∴S●∽u−毘● pr●く∴S●A●★ ibid∴S.笥● gユ∴S●−○ニーー∽㌣宗● l︶r●く∴S●詔,竺丁⊥㌫● R.in.d∴S.u叫. pr●く∴∽●F 鼓11 SnhweitzerA∴DieRe−igiOnSphi−○由OphieKant〆㌫.讐. Cf.s.謡..s.箋. 詮 註 蕎 蕎 15141312 鼓 託 詳 詮 19181716 gユ∴S−謡.cf.gr−s.笥. p−.●く∴S.−P R.iP d∴S.NN.

FittOgel二 KalltS Lehre くOn−・adika訂n B跡紹.︵Kaコt

Studell●舛lI●−害﹃∴S.巴㌢N亡SatZ.︶

R.in d∴S.Nふ.

ibid∴S.塁.

ibid∴S.∽㌣cf.s.−¢★.

参照

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