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個人作成教科書に見る科学コミュニケーションの視点─山下明著『電気基礎』(2012)を例に─

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個人作成教科書に見る科学コミュニケーションの視点

─山下明著『電気基礎』(2012)を例に─

矢部 玲子

1.はじめに

 本稿は,個人作成教科書に見られる科学コミュニケーション的視点の価値を検証することを目的と する.山下明著『電気基礎』(2012)を上記対象とする.

2.問題の所在

 初等中等教育で使用される教科用図書は,個人で作成し,検定を申請することができる(文部科学 省 1989).しかし,『学校教育法』(1947)施行による教科書検定制度開始以来,教科書の作成・発行は, ほとんど教科書会社によって行われてきた.山下明著『電気基礎』(2012)(以下 山下.山下明氏 本人は著者山下とし,本稿筆者と区別する.)は,発表当時,大学生がたった一人で作成して検定を 通過した,初の教科書として注目された.しかし,この話題性以外の,例えば,教科書の内容や,教 師や生徒など使用者からの評価,すなわち教科書そのものの価値に着目した検証は,現在,十分とは 言い難い.本稿ではこの検証を目的とする.これを行うことは,教科書の個人作成という行為の価値 を明確にする上で,有効であると考えるからである.  具体的には,著者山下と教科書使用者への取材調査や他教科書との比較等,教科書内容の分析によ る検証を試みた.その結果,「分かりやすく無駄のない」教科書を作るという目的や作成過程,そし てその内容は,近年注目される,一般市民の科学技術への主体的な関与を目指す,科学コミュニケー ション(Scientific communication)の一例としての価値を持つことが示された.また,現在の,教科 書検定システムに存在する問題もいくつか明らかになった.以下に得られた知見を記す.

3.科学コミュニケーションの現状

 岸田(2011:12)は,科学コミュニケーションを,「科学の側(専門家)」と「そうでない側(一般の人々)」 との間の,知識内容のみならず,考え方や価値観の差を少しでも埋めようとする活動のことであると 定義し,「共感・共有」の観点から,専門家と一般のコミュニケーションのあり方を見直すよう提言 している.  単なる科学者の講演ではない,参加者との対話や専門外のゲストも登壇させる形式を取り入れたサ イエンスカフェや,児童生徒を対象とした科学博物館の啓蒙活動など,科学技術と一般市民をつなぐ 科学コミュニケーション活動は,1990 年代からなされてきた.加えて,2011 年の東日本大震災とそ れに伴う原発事故は,科学技術をめぐる,専門家と一般市民の関係を見直す必要性を,我々に再認識 させた.その必要性の具現とも言えるのが,震災翌年の 2012 年に新設された,日本サイエンスコミュ ニケーション協会1)と独立行政法人科学技術振興機構内の科学コミュニケーションセンター2)であ ろう.後者センター長の毛利は,次のように設立趣旨を述べている.

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 残念ながら,科学技術を取り巻くさまざまなコミュニケーションにはギャップがあります.そ れを解消しなくてはなりません.今,私たちが必要としているのは真に役立つ科学コミュニケー ションです.その実践・普及・体系化を通して社会に貢献していくことを目指し,科学コミュニ ケーションセンターは設立されました(毛利 2012).  以上から,科学コミュニケーションの推進は我々にとって有価値であると判断できるだろう.  しかし,科学と一般市民とのギャップ解消や双方向コミュニケーションの促進について杉山(2012: 5)は,「“科学技術(原文ママ)コミュニケーションと言えばサイエンスカフェ”,という現状から,もっ と先に進む必要もある」と,課題も指摘する.しかし,課題解決の具体的方策は挙げていない.岸田 は以下のように指摘している.  科学コミュニケーションの主な対象は成人です.そして,成人の学習者は一般に自発的です. そのため,学校教育などとは違い,あらゆる科学コミュニケーションは,自発性を呼び起こそう とする活動になりがちです.ですが,相手の自発性を期待して待つのではなく,科学コミュニケー ションをせざるを得ない状況へと仕向けることはできないでしょうか(岸田 2011:246).  杉山と岸田は,「サイエンスカフェ」に代表される科学コミュニケーションの,成人の自発的参加 を待つという形式ゆえの限界を指摘している.特に岸田の指摘からは,学校教育に科学コミュニケー ション推進の可能性を求めていると理解できる点もある.  また,小林(2007:277-279)は,自身が高等学校 1 年生用の理科教科書の作成に関わった経験か ら,「トランス・サイエンス3)の共和国に参加する市民の養成は,高校教育の重要な任務ではないか.」 と,学校教育に科学コミュニケーション推進の可能性を求めている.また小林は,教科書作成に際し, 同一の教育内容を含む「理科と技術が別の教科になっていて,(教育内容や指導時期を検討する際に) ほとんど交流がない」中等教育の現状から,学校教育における科学コミュニケーションの必要性を主 張している.  以上の指摘からは,科学コミュニケーション推進のためには,次代を担う児童生徒を対象とし,実 施の場を学校とし,教科用図書を使用する,すなわち学校教育を活用することが有効であることが分 かるだろう4).その一例としての価値が認められるのが山下である.以下に論証を試みる.

4.教科書作成の過程

 本章では,山下と一般的な教 科書作成の過程を比較し,山下 の特徴を明らかにすることを試 みる. 4.1 一般的作成過程  一般的な教科書の作成過程は 図 1 の通りである(文部科学省 2014).著作編集から使用まで 図1 教科書が使用されるまでの基本的な流れ(文部科学省 2014)

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に,約 4 年間を要する.  現在,採択数最多5)の教科書,『電気基礎 1.2』(実教出版,2012 以下実教とする)の場合,奥付 記載の著作者数は,監修 2 名,編修 8 名,協力 5 名の計 15 名である.これらはいずれも,斯界の権 威と言えよう.この他に,文章・表紙・写真・挿し絵等の執筆者,撮影者,デザイン,諸交渉,営業 など,さらに多くの人々が,教科書作成に関わっている.  このように教科書作成は,膨大な人的資源と時間を要する仕組みとして確立しているのが,実態と 言えよう.換言すれば,個人による教科書作成は,許可されてはいるとは言え,非常に困難である, というのもまた実態である,とも言えよう. 4.2 山下の作成過程  この困難な状況のもと,たった一人で検定通過を経て現場の使用まで遂行できた稀有な例が,山下 である.以下に,この大変特徴的な教科書作成の過程を,著者山下への取材を中心に再構成する. 4.2.1 作成の動機  著者山下は,作成の動機を次のように語る6)  工業高等学校在学時から,『電気基礎』の教科書が,学ぶ側(生徒)にとって分量が多く,記 述方法も分かりにくいと感じていた.当時から,微分積分などの数式を印刷用にレイアウトでき る「TeX(テフ)7)」という無料の組版ソフトウェアを愛用し,レポート等を綺麗に組版してい た8)  そのうちに本を作ってみたくなり,大学 1 年の終わりから 2 年の初めにかけて,どんな本が 自分に作れるかを考えてみた.大学 1 年の後期に習った教養科目,『電磁気学』が,「E-B 対応」 という,高等学校の『電気基礎』で用いられていた,「E-H 対応」と異なる記法で説明されていた. これを機に,「E-H 対応」が不適切な記述方法だと知った9).これがきっかけとなり,教科書を 作成しようと思い立った.教科書という性質や競合者数から,ある程度の需要も期待できると判 断し,実行に移った. 4.2.2 作成の経緯  著者山下は,作成の経緯を,次のように回想している.  ひと通り書き終えたら,今度は内容に間違いがないか図書館などで関連図書を調べて確認.申 請手続きについてわからないことを文部科学省の担当者に問い合わせたりして,期限までになん とか見本を提出することができた.  1 年後,文部科学省から 101 カ所の修正を求められた.しかも 35 日以内に修正して再提出し なければならない.何日も寝ないでひたすら作業した(太田 2013).  上の修正作業について,著者山下はこう語っている(大阪市立大学 学生メディア団体 Hijicho  2013 以下 Hijicho).  中でも「理解し難い表現である」というコメントには心が折れそうになりました.それでもや

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り遂げられたのは,修正指定箇所を直し切った先にある「教科書発行者」という憧れと責任感が あったからだと思います.  自分の書いているものが高等学校生の手に渡ると考えれば頑張れましたし,だからこそ少しで も良いものを作らなければならないと思っていました.これを通して,日本の教科書がいかに厳 しく検定されていて,質が高いものかを痛感しました.  また,教科書の印刷・製本は全て自己負担です.検定には合格したけれど,実際に高等学校が 採用してくれるかどうか分からないというのがとても怖かったです.というのも,採用してもら うには各高等学校に見本の 800 冊を配らなければならず,合計で 40 万円近くかかります.(中 略)現時点で 80 万円近く出費しています.(中略)教科書制度によって定価に上限(一冊 2135 円10))が設けられていることもあり,まだまだ赤字です.  以上から,人的資源や時間に加え,経済的負担の点からも,個人による教科書作成は困難であると 言えよう.山下は,これら困難の克服によって完成したのである.

5.山下の特徴

 前章のような経緯で誕生した山下は,どのような教科書なのだろう.  著者山下は,検定通過時の取材で,以下 3 点を自著の特徴として挙げている(Hijicho 2013).   1. 文末表現に敬体(です・ます)を用いた   2. 内容を絞り頁数を減らした   3. 電磁気学の部分において大学で習う記述に修正した 上記に関して著者山下本人に取材した.以下にその内容を記す. 5.1 文末表現に敬体(です・ます)を用いた  高等学校の教科書の場合,指導内容を説明する,いわゆる「地の文」には常体(だ・である)が用 いられている.著者山下は,あえてそれと異なる文体を選択した理由を,「分かりやすさを追求した ため」としているが,その文体選択の経緯を以下のように語っている.  工業高等学校の生徒の実態と,教科書のレベルの差が大きいにもかかわらず,生徒が達成しな ければならない教科書のレベルは学習指導要領に準拠している.例えば,微分積分等の数学がで きないと,正確に説明できない単元もある等.また,工業科は数学の教育課程を考慮していない ので,数学で三角関数や弧度法が未習得のまま電気基礎で交流という単元を習い,三角関数など を扱う必要がある等.  そこで,せめて表現だけでも柔らかくしようと敬体を用いた.電気は不可視なものなので,「断 定」が強く表現される常体よりも,断定ではあるものの,「敬体―ですます調」で表現した方が, 見たことのないものへの理解・関心は得られやすいかと思ったからである.文末表現への規制に ついて,地元の大阪府教育センターや大阪市立中央図書館の教科書センター等で高等学校の教科 書をあるだけ調べたところ,文末表現で敬体のものはなかった.かなり不安になったが,文部科 学省の教科書検定基準等には規定がなかった11)ので,あえてこの表現を活用してみたいと思っ た.

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5.2 内容を絞り頁数を減らした  実教の場合,総頁数は 600 頁に及び,2 分冊になっている.しかし,山下の場合は,最低限必要な 内容だけに絞り,エッセンスのみをまとめたため,150 頁と非常に薄い(大阪市立大学 2013).これは, 約 1/4 の分量である.この圧縮が可能となった理由 2 点について,以下に述べる. 5.2.1 組版の工夫による冗長さの軽減  著者山下は,他教科書との比較も交え,こう述べている.  基本的に,教科書ほとんどすべてにおいて,極限を目指して精選・圧縮を行った.同じ単元で も割かれる頁数(正確には面積)が異なる.組版の中で,図や表の挿入方法,数式の展開,内容 の精選を行った.  全部で 200 頁に収まることを目標とした.実際執筆にあたり,文章の記述よりも組版の工夫 によって頁数を押さえられた.最終的に 146 頁に収まった. ちなみに,実教は,1 が 297 頁,2 が 217 頁,計 514 頁である.  執筆の実際は,以下の通り. ◦学習指導要領の内容から初めに目次を作り,大きなアウトラインを固定した. ◦ google map を拡大するように,サブタイトル→サブサブタイトルと作成する過程で,記述の 順序や重複の有無確認等,よりシンプルな構成を検討した.  上記作業に関して著者山下は,「頁中の文章や図表等の密度」を意識したと語る.その理由として,「密 度がある程度高くても,組版が規則正しく行われていれば,教科書は視覚的にもコンテンツの役割を 果たすが,最近の教科書は,量産を意識するためか,無難であまり考えなくてもよい組版の仕方が目 立ち,空白が多いように思う」と,現状への批判を挙げている. 5.2.2 「交流」部分の記述に見られる「直流」と重複した記述の削減  本節に関しては,実教と対比する形で,表 1(矢部 2014)にまとめた.  頁数(分量)が大幅に圧縮されているのは,著者山下の主張する,冗長度を減じた結果である.  この冗長度の軽減について著者山下は,山下の「第 3 章 交流」を例に,以下のように説明している.  「第 1 章 直流」で習ったことをいかに適用するかで,冗長度を減ずることができる.そもそも, 交流理論の神髄は,交流回路をいかに直流回路と同等に扱うかである.  上の点について,著者山下は,「いかに 3.2「交流回路の電流・電圧・電力」を重要視して直流回 路と同等に扱えるように持っていくかにページを割いているか」が現れていると述べている(表 1). 確かに,他項の頁数が 1/3 以上減じられているのに対し,この部分は半分程度である.

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表1 「交流」に関する記述と分量の比較 (矢部 2014) 事項 山  下 該当頁・分量 実  教 該当巻・頁・分量 交流回路 の基礎 「3.1 交流回路の基礎」 交流特有の事項,直流との違い を説明 PP.65-73 8 頁 第 4 章  交流回路  1 節 交流の基礎 1:PP.223-238 15 頁 「3.2 交流回路の電流・電圧・電力」 交流をベクトルで扱い,直流回 路に等価させていく PP.74-93 19 頁 第 4 章 交流回路  2 節 R,L,C の働き  3 節 交流電力 1:PP.239-289 50 頁 記号法と 回路の計算 「3.3 記号法」 「3.4 記号法での回路の計算」 ベクトルを複素数で扱い,さら に便利な計算方法を習得する PP.94-107 13 頁 第 5 章  交流回路の計算  1 節 記号法の取り扱い  2 節 記号法による計算 第 5 章 2:PP.1-42 42 頁 三相交流 「3.5 三相交流」 実際に送配電で使われる交流の 形式を学ぶ PP.108-118 10 頁 第 6 章  三相交流  1 節 三相交流の基礎  2 節 三相交流回路  3 節 三相電力 第 7 章  4 節 回転磁界 2:PP.65-110 45 頁 5.3 電磁気学の部分における大学で習う記述への修正  「4.2.1 作成の動機」にも掲げたが,著者山下は以下のように語っている.  従来の,『電気基礎』の教科書では,電磁気学は E-H 対応によって記述されていたが,大学で は E-B 対応による記述で講義が行われており,そちらを採用した. この,高等学校と大学の教育内容に差異が生じる背景について,著者山下は以下の仮説を立てている.  工学系の分野では,磁石・変圧器・モータ・発電機などの設計は,E-H 対応で計算した方が 楽である.日本に明治時代に伝わってきた書籍では,E-H 対応で記述されている.工業高等学 校でも高等学校理科でも E-H 対応が採用されている.  ところが,理論的に整合性が取れているのは E-B 対応である.大学の理学部系の学部では, 早い段階から E-B 対応で講義が行われていたようだ.工学部系でもだんだんと E-B 対応での授 業が普及し,現在では,ほとんどすべての電磁気学の講義は最初から E-B 対応を採用している のではないかと思われる.  高等学校の場合は,数式の類似性のみと思われる.高等学校程度の電磁気学の内容では,E-B 対応と E-H 対応の違いはさほど影響を及ぼさない.ただ,E-H 対応のほうが,若干磁気と静電 気の式に早い段階での類似性が見つけやすくはなる.これが,E-H 対応が採用され続けた最大 の理由と考えられる.  それ以外の理由としては,教科書記述を書き換えるエネルギーが得られるメリットよりも少な

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かった,E-B 対応と E-H 対応の差が見いだせない,物理の場合,問題を解く上で受験には影響 がない,そもそも高等学校の程度では問題視することではない,等が考えられる.  以上について,実教の執筆者に確認したところ,以下の回答を得た12) 1. 学習する時期(高校 1 年生の 9 月頃)には,厳密に説明するための数学力が生徒にはないので, 磁場の起因を,電流よりも身近にある永久磁石から説明する方が理解しやすいため.50 年ほ ど前の電気理論(当時の科目名)の教科書も同様の記載である. 2. 電場 E と磁場 H の対応の類似性が見つけやすいため. 上記 2. から,著者山下の仮説は裏付けられたと言えよう.  また,上記 1. は,教科書作成に当たって,同一もしくは類似の教育内容を含む教科同士の交流が ほとんどないため,指導時期の整合性が保証されないことによる影響の一例と考えられる.このこと は,「2. 科学コミュニケーションの現状」で小林(2007:277)も指摘している.著者山下自身も,「5.1  文末表現に敬体(です・ます)を用いた」で,「工業科は数学の教育課程を考慮していない」とい う現状を指摘し,その上で,以下のように述べている.  最も力を入れたのですが,磁気の範囲の表現方法を大きく変えました.本来,N 極と S 極はどれ だけ切り離しても単体で存在することはないのですが,従来の教科書では計算上,それが単体で存 在すると受け取れるような表現を採用13)してしまっていて,私はそれで高校時代に苦労しました (Hijicho 2013).  著者山下はこの問題解決のために,関係諸資料を確認し,以下の結論を得た.  物理(理科),電気基礎(工業科),電気理論(水産科)の教科書で E-B 対応を取ったものはなかっ た.しかし,文部科学省の教科書検定基準には,電磁気学の記法に関して,とくに E-H 対応に縛っ ている記述はなかったので,E-B 対応で記述した.  上記の,著者山下の提唱した教育内容は,検定通過という形で公に認められた.

6.教育現場の反応

 本章では,検定を通過した山下に対する教育現場の評価を検証することで,その価値を明らかにす ることを試みる. 6.1 採択高等学校  著者山下は,検定通過後,電気基礎の授業がある高等学校すべてに,大学生が作った教科書だとは 一切伝えず,教科書見本 800 冊を献本し,採択検討を要請した.「内容を見て選んで欲しかった」と いう著者山下の希望によるものである.その結果,北海道の工業高等学校が 1 校採択した.現在は, 全国 2 校14)で採択されている.採択率は 1/400 となる.採択校を仮に A 高等学校,B 高等学校とする.  教える側と学ぶ側から,教科書に対する意見を聞き取ることは,山下の価値を明らかにする上で有 効と考えられる.そのため,採択校の教科担当者に取材した15).以下にその結果を記す.

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6.2 質問内容  以下 4 点を質問した. 1. 採択の経緯と展望:採択理由,きっかけ,現在までの採択期間,今後採択の可能性とその理由 等お願いします. 2. 使用した感想(生徒にとって):例えば,著者山下は「です・ます」調(敬体)を用いて分か りやすい説明を心がけたそうですが,生徒さんたちの反応はいかがでしょうか.また,大学生 が作った教科書で授業を受けることへの,生徒さんたちの反応はいかがでしたでしょうか.そ の他,この教科書に対する生徒さんたちの感想をご存知でしたらお知らせ下さい. 3. 同上(教師にとって):従来の教科書と比較しての感想をお願い申し上げます.例えば,文体, 説明の仕方,証明の方法など,優劣両面でご意見をお聞かせ願えればと存じます. 4. 今後この教科書に望むこと:改訂時に改善してほしいこと等. 6.3 結果  以上の結果を表 2(矢部 2014)にまとめた.前章で述べた山下の特徴 3 点が,使用者にどのよう に受け取られたかが分かるだろう.A,B 両校で共通する指摘は,下線部の通りである.電気に関して 興味・関心が深く,向上心を持つ生徒には適した教科書であるとの評価は,共通している.その他の 指摘も含め,山下の特徴 3 点に関する指摘を以下にまとめる. 表 2 山下明著『電気基礎』(2012)使用者(教師・生徒)の声(矢部 2014) A 高等学校 B 高等学校 採択の経緯 ◦生徒の資格取得に力を入れているので,頁数が 少ない教科書なら早めに終わり,その分資格取 得の勉強に時間をかけられるかと判断した. ◦学習ポイントの提示や書き込み欄の工夫により, 知識及び技能が確実に習得できるよう工夫され ている. ◦例題や問題が数多く設定され,学習者の興味を 引く工夫がされている. 今後の採択 ◦発行後 3 年間採択.以後は予定なし. ◦今後も採択の予定. ◦上記「経緯」に加え,教師自身が読んでも面白 いと感じるため. 生徒の反応 ◦「敬体」に気づいた生徒はいなかった. ◦証明の方法等説明の仕方が分かり難い. ◦薄さと小ささは好評だった. ◦筆者の推す特徴のうち「敬体」使用については, 生徒の反応なし. ◦大学生が作った教科書というアナウンスしはて いない. 教師の感想 ◦行間が詰まっているので難しく感じる. ◦特徴的な教科書という印象はない. ◦カラーの頁や図がほしい. ◦向上心のある生徒には向いているが,就職や資 格という人なら順番が違う.色々入っていてチョ イスできない. ◦教科書中の言葉は面白い(冒頭「電気は熊より 危険」等)が,これらの言葉は,授業中に教師 が教科書記述を噛み砕いて説明するときに,自 ら考えている. ◦実生活に密着した例示はよかった. ◦第一印象「大学の教科書のようだ」. ◦文字の間隔が狭く,内容も限りなく凝縮して教 科書にしている感じはあるが,味気ない. ◦他の教科書と比較すると非常に殺風景. ◦証明の仕方や方法等,他教科書と比べて分かり 易い. ◦敬体で書かれているからか,丁寧な印象で不思 議な感覚を覚える.

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要望等 ◦使った教師は,生徒に問題集も買わせているの で,問題集と整合性のある教科書がよい. ◦この教科に興味・関心を持つ者には必須アイテ ムとなり得ると思う. ◦苦手意識を持つ者には少々読みにくい,読み出 しにくいと思う.   1. 文末表現に敬体(です・ます)を用いた  採択した 2 校とも,生徒たちからの,この点への反応はなかったと回答している.しかし,B 高等 学校の教師からは,「丁寧な印象で不思議な感覚」と,個性を評価する意見が述べられている.   2. 内容を絞り頁数を減らした  この点については,A,B 両校とも,行間・文字間隔の狭さを指摘している.薄さと小ささは生徒に 好評だったとする一方で,教師からは,「凝縮されているが味気ない」,「殺風景」,「カラーページや 図がほしい」,「別途生徒に用意させている問題集との整合性を」という,内容や頁数の増加を促すよ うな意見も寄せられている.実際山下には,実教のように,教科書に掲載されている練習問題の正解 はない.また,科学史等のコラムや,写真等も割愛されている.   3. 電磁気学の部分において大学で習う記述に修正した  両校ともこの点への言及はなかった.  以上のように,使用者の意見からは,山下を評価する一方で,上の特徴 3 点を中心とした,「分か りやすく無駄のない教科書を作りたい」という,著者山下の意図が十分に理解されているとは言い難 い点もあることが明らかになった.むしろ,自動車のハンドルの遊びのように,多少の無駄な記述は 授業には必要である,という内容の意見もあった.

7.考察

 本章では,科学コミュニケーションの視点から山下の価値を明らかにすることを試みる.  著者山下は,科学コミュニケーションについて,「根本的に興味の対象である」と明言している. 幼少時から子供向けの科学読物を愛読し,「これらの本にはサイエンス(原文ママ)コミュニケーショ ンがあったのだと思います.」と語っている.この経験は,生徒を対象とした,「分かりやすく簡潔な 教科書」の執筆動機へとつながった.また執筆中持ち続けた,「冗長さの改善」という視点は,教科 書のスリム化・コンパクト化を促した.そして,山下の検定通過と高等学校での採択は,「2. 科学コミュ ニケーションの現状」で,他の諸指摘とともに筆者が主張した,学校教育の現場で,次世代を担う児 童生徒を対象として,専用の教科用図書を使用するという,科学コミュニケーション活用の一例とな り得たと言えよう.  また,執筆当時,学生だった著者山下は,他の教科書執筆者にはない,学ぶ側の視点を持っていた. それが科学コミュニケーションの視点を補完し,山下の作成に寄与したと言えよう.だからこそ,「5.3 電磁気学の部分において大学で習う記述に修正した」にもあるように,工業科も理科も E-H 対応の みであるという記述方法の現状を認識した上で,過去に囚われず,大学教育と同様の,E-B 対応を 取り入れた記述の,新しい教科書,山下を創作できた.一般市民(この場合は生徒)の利益を考慮し た,科学コミュニケーションの立場に立った記述を実現した例と言えるだろう.この記述の正しさは 検定通過によって保証された.  もっとも,この,E-H 対応による記述のみが採用され続けてきたのは,著者山下や小林(2007:

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277)も指摘するように,教科書作成に当たって,教育内容や指導時期を検討する際に,教科間での 交流がほとんどないという現状も影響していると思われる.異なる教科間の交流もまた,科学コミュ ニケーションの一形態と言えよう.山下は,この交流の必要性を明らかにした.教科書作成時はもと より,学習指導要領改訂の時点から,同一もしくは類似の教育内容を有する教科間で交流することは, 何よりも学ぶ側にとって必要である.交流による調整は,複数の教科を横断した教育内容の,適切な 時期の指導を可能にする.結果,学習者の利益にもつながるだろう.ここにも科学コミュニケーショ ンの必要性が存在すると認められる.  山下の内容は,「6. 教育現場の反応」にあるように,評価された一方で課題も指摘された.課題解 決を実現する最も確実な方法は,山下の改訂である.改訂を重ね,個人作成の,科学コミュニケーショ ンの視点を持った教科書として存続することである.それは実現するのだろうか.  現在,教科用図書は,通常 4 年毎に改訂され,作成には,「4. 教科書作成の過程」で述べたように, 多くの人的資源と手間と時間を要する.国語科のように,教材文を変更するなどの大幅な内容変更が 毎回の改訂でなされることは,『電気基礎』ではあり得ないものの,個人が教科用図書の作成を続け ることは,現状の教科書作成のシステムにおいて,容易ではない.  山下は,現行の検定制度開始以来,学生個人による,初の検定通過教科書であった.その理由の一 つは,上記のように,個人で教科書作成を行うことを想定しているとは言い難いシステムであると考 えられる.著者山下も,自身が教科書を作成できた大きな理由として,組版の技術を有していたこと 等を挙げている.が,工業高等学校の教師となった現在,教科書執筆継続の希望は持ち続けていない という.これらの解決には,個人作成の教科書が作成し続けられるような,教科書検定システムの改 善が必要であろう.その改善がなされれば,科学コミュニケーションの視点が学校教育に活かされる 可能性は,より高まると考えられる.

8.おわりに

 以上,個人作成教科書に見られる科学コミュニケーション的視点について検討した.  学習内容をわかりやすく伝えるために,ハンドアウトと呼ばれる自作教材を自らの授業で使用する 教師は多い.しかし山下の場合は,それにとどまらず,検定を通過させ,教科用図書としてその教育 内容が認められたという点で,大きな功績となった.それは同時に,科学コミュニケーションの視点 が学校教育に取り入れられた嚆矢ともなった.E-H 対応による記述の問題を,E-B 対応記述の導入 によって解決しようとした試みなど,個人作成の教科書ならではの挑戦も成し遂げた.それは,教科 書作成や学習指導要領改訂に当たって,教育内容や指導時期を検討する際に,教科間交流が必要であ るという課題も明らかにした.  しかし,教科書の個人作成を継続させる仕組みは,現行の教科書検定制度には存在していない.現 在,授業方法は,オンライン化や動画教材のネット配信等を取り入れた「反転授業」等,大きく変わ りつつある.山下を初め,これらの状況を教科書検定システムに活用できるような改善は,急務であ ると言えよう.  著者山下の出身校,大阪市立大学の西澤良記学長は,「今後教科書だけでなく,一般向けに,た とえば小中学生が科学に興味を持ってくれるような本の執筆にも挑戦してほしい(大阪市立大学 2013)」と語っている.著者山下の,科学コミュニケーションに対する適性と能力への評価と言えよ

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う.現在の検定制度下,教科書という形式に囚われず,より多様な方法に注目し,『電気基礎』教育 内容を初め電気について,若き一般市民に広く伝える活動を続ける等,著者山下の今後ますますの活 躍を願う.また,教科書検定や学習指導要領改訂の際には,他教科との交流をより深めた,個人を含 む,より多様な視点が活かされるようなシステムへと,改善がなされることを提案したい.その改善 について,より具体的に提案することを,筆者自身の今後の課題として本稿を終える.

1) 設立目的「サイエンスコミュニケーションを促進することにより,社会全体のサイエンスリテ ラシーを高め,人々が科学技術をめぐる問題に主体的に関与していける社会の実現に貢献」する ため. 2) 設立目的「科学をめぐる様々なコミュニケーションのギャップを解消し,科学と個人,社会の よりよい関係をつくりあげ,持続可能な社会の構築に貢献」するため. 3) 柿原(2007:1)によれば「科学に問うことはできるが科学(だけ)では答えることのできな い領域を指す造語」. 4) 対象を幼児・児童生徒とすることの有効性に関しては,環境教育プログラム,「Growing Up

WILD」,「Project Wild」,「Project WET」,「Project Learning Tree(P.L.T)」等で実証されている.

5) 2014 年 12 月,実教出版に確認. 6) 2014 年 10 月本人談.以下同. 7) オープンソースの組版処理ソフトウェア.数学や物理などの数式表現などが綺麗に作成でき, 目次や索引の管理などもできる. 8) 同級生向けのテキストを作り個人的に補講を開いて教えていた(太田 2013)という指摘もある. 9) 「クーロンの法則」に基づく E-H 対応による記述は電場と磁場による記述である.具体的には, 本来,切り離しても単体では存在しない N 極と S 極を,従来の教科書では計算上,各々単体で 存在すると受け取れるような表現を採用している.これは,解釈に混乱を招きやすく不適切であ る.「アンペールの法則」に基づく E-B 対応による記述は,電場と磁束密度による記述で,より 適切である. 10) 2014 年消費税値上げ前の価格. 11) 文部科学省(2014)によれば,文体に関しては以下のみ.「別表 文体 特に学習上必要な場合 及び原典をそのまま載せる必要のある場合を除き,現代口語文を用いること.」 12) 2014 年 12 月 26 日実施. 13) 『実教 1,2』のうち 1 では,「電極は現実には単独では存在しないが,ひじょう(原文ママ)に 長い棒磁石の一端と考え,ここでは便宜的にその磁極を点磁荷で扱う.(P.65 注①)」としている. 14) 北海道と九州で各 1 校. 15) 2014 年 10-11 月実施.

文献

米国環境教育協議会,2013,『グローイングアップ・ワイルド ガイド』一般財団法人公園財団 . 実教出版,2013,『電気基礎 1』,『同 2』.

(12)

柿原泰,2007,「『トランス・サイエンスの時代』の市民科学」『市民科学 第 7 号 通算第 21 号』, NPO 法人市民科学研究室(Citizen Science Initiative Japan).

岸田一隆,2011,『科学コミュニケーション:理科の「考え方」をひらく』,平凡社. 小林傳司,2007,『トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ』,NTT 出版. 文部科学省初等中等教育局教科書課,1989,『教科用図書検定規則(平成元年 4 月 4 日文部省令第 20 号)』文部科学省. 日本サイエンスコミュニケーション協会,2012,『サイエンスコミュニケーション vol.1 No.1 創刊号』. 杉山滋郎,2012,「チャプタ 1 サイエンスカフェとは」『科学技術コミュニケーションの道具箱』,北 海道大学 CoSTEP. 山下明,2013,『電気基礎』. 大阪市立大学 学生メディア団体 Hijicho ,2013,「◇第 6 回〜教科書発行者・山下明〜」大阪市立 大学新聞 おもろい学生おりまっせ!(2015 年 1 月 5 日取得,http://hijicho.com/?p=12420). 毛利衛,2012,「センター長からのメッセージ」,科学コミュニケーションセンター,CSC Center for

Science Communication(2015 年 1 月 5 日取得,http://www.jst.go.jp/csc/about/message.html). 文部科学省,2014,「別表  表記の基準」,高等学校教科用図書検定基準,(2015 年 1 月 5 日取得, http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/1284728.htm). 大阪市立大学,2013,「『工学部 4 年生の山下明さんが高等学校の教科書(電気基礎)をつくりました』」, 公立大学法人大阪市立大学 (2015 年 1 月 5 日 取 得,http://www.osaka-cu.ac.jp/ja/news/2012/ a4yqqo). 太田知子,2013,「進学トレンド 2013/07/10 現役大学生として初!高等学校生向け教科書発行 の 快 挙!」, リ ク ナ ビ ジ ャ ー ナ ル,(2015 年 1 月 5 日 取 得,http://journal.shingakunet.com/ column/4672/). 謝辞:本稿作成に当たりご協力賜りました方々に心より感謝いたします。

(13)

The Perspective of Scientific Communication When Examining a Textbook

Created by an Individual:

The Example of Basic Electricity (2012), Akira Yamashita

YABE Reiko

Abstract: The textbook Basic Electricity (2012), written by Akira Yamashita, has been attracting attention

in various fields. In Japan, elementary, middle, and high school textbooks are usually created by textbook companies, and only those textbooks that have passed the Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology’s tests are used in education. Yamashita created his textbook entirely on his own: However, thus far, there has been no evaluation regarding the merits of his textbook. This study will evaluate the textbook, based on interviews conducted with the author and users of the textbook and an analysis of the book’s content. From the results, it became clear that what the author had created possessed a perspective based on scientific communication (the act of not only attempting to bridge the gap between the knowledge of scientists and the general public but also of attempting to bridge, even if only slightly, the gap between their thought processes and sense of values). This paper will report the findings obtained from the evaluation outlined above.

参照

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10月 11月 12月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月以降 平成26年度.