欲 望
の 工 不 ル
( その 5 )論
石 里 小 並 日 9。 商人機械 (1)一 ― 貨幣のマクロ構造 ―― か りに神が存在するに したところで, 別 にどうとい うことはない。 一 ― ジャン ・ポール ・サル トル 市場理論の標準モデル (一般均衡理論)に ,理 論上,貨 幣が登場 しないこと は良 く知 られているし,す でに少々触れた。それは,ひ とつには,こ のモデル が 〈閉鎖系の平衡理論〉になっているか らであ り,こ の均衡状態には売 り手市 場 も買 い手市場 もないか らであった。だが現実の経済は もちろん,到 底そのよ うな ものではない。 一方,塩 沢由典が指摘するように,市 場理論には 〈貨幣〉の他に く商人〉 も 姿 を表 さない。市場理論 では,合 理的な経済主体の全知全能が前提 とされ,彼 らは所望す る財の所在 を瞬時に把握 ・判断で き, したがって交換のために時間 もコス トも要 しない と虚構 されている。市場理論には大規模 な, しか も個房Jな, 需給の対面交換があるだけなのであ り,そ れゆえそもそも商人の存在す る理論 的余地が ないのだ。だが現実 の経済は もちろん,到 底そのようなものではない。 す でに示唆 して きたように,実 際には,貨 幣経済は商人経済であ り,商 人経 済は貨幣経済である。 そ してそれは,シ ステムが作動 してゆ く 〈過程〉 として のみ存在す る。 してみ ると市場均衡の理論に貨幣 と商人が ともに存在 しないの 1)塩 沢 由典 『市場 の秩序学』筑摩書房,第 2章 。62 彦 根論叢 第 312号 は決 して偶然ではな く,実 は動的 〈過程〉に重 きを置かず (過程が永続す る, な どとはよもや考 えない),不動の く結果〉のみ を希求す る, という同一の理論 的抽象の手続 きが帰結す る必然 といえよう。 そ うなるのは,市 場理論が理論化 のための便宜 を優先す るあま り現実の経済 を強引に抽象 していることによる。 では,貨 幣,お よびそれ をめ ぐって商人たちが編制す る社会機械の実体 とは いかなるものか。われわれはすでに,欲 求に もとづ く く閉鎖系の平衡理論〉 を 捨て,社会への欲望エネルギーの不断の備給に着 目したく開放系の非平衡理論〉 を目指す決意 をした。 これについて考察す る手は じめ として,以 下,上 記のよ うな く閉鎖系の平衡理論〉の論理構成について批判的に再検討 し,そ れを逆手 に とって,非 平衡 の商人経済の特徴 を浮 き彫 りに していこう。 I 商 人経済の特質 商人 とは誰の ことか 商人 とは,商 品を扱 う人のことである。 ここでい う商品 とは,前 号で見たよ うに,貨 幣 と引換 えにその所有権 を移転す る財のことであるか ら,商 人 とは貨 幣 を扱 う人のことで もある。当然なが ら貨幣 と商品 とはつねに反対方向へ動 く 関係 にあるわけで, したが って商人は,社 会 ―経済 システムにおいて貨幣 と商 品 とを反対方向に流す働 きを担当す る人のことなのである。 商人は また,未 分化 な欲望 に対 し,貨 幣 と引換 えに具体的快楽 (商品)を 備 給す ることで,人 々の欲望 を実現す る欲望の代理人で もある。 その過程 で商人 は, 自分 の持つ具体的商品を他人か らの未分化 な貨幣に換え,そ れを用いて自 らの欲望 をも実現す る。 この意味では,商 人は他人の欲望 によって養われる被 扶養者であ り,い わば社会への く寄生者〉 である。だが彼 らはまた,そ の代償 として,社会の新 しい道 を開拓す る企業家であ り,また人々の欲望 を煽 る場動家 であ り,か つ時 として人々か ら欲望エネルギー を搾取す る主人に成 り上がる。 商人は社会 においてか くも多機能であって, まさに光 と間の両面 を備 えてい る。 ここにい う 「光 と間の両面性 を併せ持つ」 とい う属性,こ れは本稿 ですで
欲望のエネルギー論 63 に頻繁 に現 れてい る。 それ は,そ もそ も く貨幣〉や 〈欲望 〉 の属性 なのであ り, またひ いてはエ ネル ギーー般 の属性 だ ったの であ る。 エネル ギー にお いては, 秩 序 と破壊,創 造 と破 減 一一 光 と間 一一 とが紙一重 だか らであ る。 したが って洋 の東西 を問 わず,歴 史上,商 人 は しば しば 「卑 しい職業」 とされ る傾 向 が あ った。江戸時代 の士農工 商 しか り,西 洋 におけ るユ ダヤ商人の処過 しか り である。 この ような現象は,社 会か ら見て商人が 「有用」 ・ 「必要」であ りな が らも,他 方で非常に 「危険」 。 「有害」である, とい う 「両面性」に由来す るのであ り,そ れは商人が人々の く欲望〉 を代弁す る活動者だか らこそ,生 じ るこ となのである。 商人機械 における欲望の調整 ともあれ,文 頭に述べ たように,商 人 とは欲望 の代理人であ り,総 じて社会 の欲望 を開拓 し,欲 望 と欲望 との間 に新 しい,新 奇な く接続 conne対on〉 を見 出 し,こ れを互いにつなぎ合わせ ることを使命 としている人 々のことだ, とい うこ とがで きよう。 この活動によって,商 人は社会の中に新 たな関係 を紡 ぎ, 付力日して, それが全体 として社会構造 を築 きあげてい くことになる。 この ように して商人 と商人 とが結合 し,成 立す る異方的な構造,方 向性 を持 った構造 を,本 稿 では 〈商人機械〉 と呼んだのだった。 それは同時に,貨 幣の く分子機械〉であ り,欲 望 のエネルギー を用いて作動す る く欲望機械〉で もあ る。商人はつ ま り,°社会 の中で くキュー リーの法則〉 を実現す る役割 を担 った 存在 なのである。 マクスウェルの魔 上記の論点 をもう少 し論理的に掘 り下げておこう。 そのために,や や遠回 り となるが, まず熱 ・統計力学系におけ る 〈エネルギー/エ ン トロピー〉 と く情 報処理〉 との関係 を理解 してお く必要がある。本論考 は基本的に 「エネルギー 論」であるか らだ。 熱 。統計力学系におけ るエネルギー/エ ン トロピー と情報処理 との関係 を典
64 彦 根論叢 第 312号 型 的 に示 してい る有名 な事plJが,〈 マ クス ウェルの魔 〉 のパ ラ ドクスであ る。 以下 に,こ の逆 説の概要 を示 してお く。 * (a)電 磁 気 学 の分 野 で よ く知 られ るス コッ トラン ド系 の物理 学者マ クス ウェル (James C.Maxwell)は ,熱 ・統 計 力学 で もい くつ か の重要 な貢献 をお こな って い るが,な か で も有名 な もののひ とつが 「マ クス ウェルの魔」 と呼 ばれ る 思考 実験 であ る。 この思考 実験 は,当 初 エ ン トロ ピー増大則へ のパ ラ ドクス と して知 られ た もの で,そ の骨子 は次 の よ うな もの であ る。 きわめ て小 さな扉 の あ る壁 に よって隔 て られ たふ たつ の部屋 A・ Bを 考 え る。 この 2つ の部屋 は,初 期 条件 にお いて同 じ温度 とす る。次 に,こ のふ たつ の部 屋 をつ な ぐ扉 を開 閉す る仮 想 的 な門番 として霊 的 な存在 =魔 物 を想定 す る。 扉 は非常 にガヽさ く軽 いの で,そ の開閉 にはエネル ギー をほ とん ど消 費 しない。 ま た この魔物 は,部 屋 の空気 の分 子 を個 々 に識別 で きる もの とす る。 それ ぞれの 部 屋 の 内部 で空気 の分 子 は ランダム な運動 を して い るわけ だが,こ の魔物 は, B の 部屋の側 では,扉 に向か って くる空気分子の うち速度の大 きなものは瞬時 に扉 を開いてAへ 入れ,速 度の小 さな ものに対 しては扉 を閉 じてBに 残す。逆 に A の 側 では,同 じく扉に向か って くる空気分子の うち,速 度の大 きな もの に対 しては扉 を閉 じてAに 残 し,速 度の小 さなものは扉 を開いてBへ 通す。魔 物が この仕事 を繰 り返す とどうな るか ? 一― 容易 に想像 で きるように, や が てA の 温度は上が り, Bの 温度は下が るはずだ。結果, もともと均等だったふ たつの部屋に温度差が生 じ,か つその温度差が増大 してい くことになる。 しか もこのふ たつの部屋 は,そ の外部に対 して孤立系であ り,そ の意味で閉鎖系で ある。 この事実 は,閉 鎖系においてエン トロピーは増大す る, とい う熱力学第 2 法 則に反す る。 以上が 「マ クスウェルの魔」 と呼ばれ るパ ラ ドクスである。 この結論は,簡 単 な思考実験 で 「エ ン トロピー増大則」の破綻 を予言す るものだったため, お おいに世 の関心 を呼ぶ こととなった。
欲望のエネルギー論 65 (b)マ クス ウ ェ ル の魔 の パ ラ ドクス を解 く鍵 は,ハ ンガ リー 系 の物理 学 者 レオ ・シ ラル ド (Leo Szllard)に よって与 え られ た。彼 は,魔 物 の行動 の本質 は情 報処理 にある, と考 えた。 ここでは個別分子の状態 を識別 し選別す る, とい う 営みが情報処理 なのであ り,こ れだけで系のエン トロピー値 を変化 させ ること ができる。つ ま リシラル ドは,エ ネルギー論的 〈エン トロピー〉現象が実は情 報論的 〈選択〉 と同 じであることを示 したのである。逆にいえば,エ ン トロピ
上指夫と,ま
,圭該素赤ミタこ拳動あ違苅とふう情報鬼途あ皆みを放美じたとき
に た どる過程 なのだ といえ る。 この知見 は,シ ャノンに よる情報量のエ ン トロ ピー 表現 と直接論理 的 に結 びつ くものであ る。 なお この場合,魔 物 に よる認知 の範囲は,扉 の周囲の局所的 な ものであって よい。部屋全体 の分 子 の挙動 の認識 を要す る, といった非現実的 な全知 全能性 を仮定する必要はないのである。 また,魔 物が処理すべ き情報量は 「開/閉 」 の l bitだけであ り, しか もその判断には多少の誤 りが混 じってもよい。すな わち,魔 物に要請される条件は,① 極方、あ款鶏能力と ② 極方、あ桔義鬼垂能力 ―― 極小の計測 と極小の制御 ―― だけである。このような条件はきわめて 緩やかで自然なものであ り,行 為主体に全知全能を仮定する非現実的な理論構 築の対極にあるものといえるだろう。かかる行為者を,本 稿では仮に く極小主 体 m i n i m a l a g e n t 〉と呼んでお ぞ。 上 述 の知 見 に加 え,シ ラル ドが指摘 した重要 な結論 は次の こ とであ る。魔物 は分 子 を識別 す る際,何 らかのエネル ギー手段 (光を当てて観測す る,な ど) を とらねば な らない。 だが そのエネル ギー源 は系の中に存在 しない。つ ま り分 子識別 の ため に必要 なエネル ギー を外部 か ら供給 しなければ,魔 物 は分子 を識 2)繰 り返 しになるが,〈 マ クスウェルの魔〉の活動に全知全能の仮定は必要 ない。 「魔」 は極小 の認知 と極小 の情報処理 だけでシステムの秩序形成に大 きな力を発揮す るのだ。こ の ような く極小主体〉は,そ れ を想定す るに十分 な現実性 と論理的意義 を有す るとい うべ きであ る。 これに対 し,世 界のすべ ての質″点の位置 と速度 を把握 し,力 学法則に もとづ く 計算 を行 うこ とで世 界 を未来永劫 まで予 言す る仮想的 な全知全能の知性 は 〈ラプ ラスの 魔〉 と呼ばれている。新古典派経済学の市場均衡理論は,経 済主体 にこのような知性 を要 求 してい るのであるが,こ れ こそ非現実的 とい うべ きである。66 彦 根論叢 第 312号 別 で きない。 いや そ もそ も,外 部エネルギー を前提 しなければ魔物 自身が生物 として存在 しえないのである。 こうしてマ クスウェルの魔は,一 見閉鎖系に見 えて も,実 は開放系だったのであ り,閉 鎖系では起 こ りえない現象だったこと が示 されたわけである。 したがつて閉鎖系における 「エ ン トロピー増大則」は 破 れていない。 さきに 「エ ン トロピー増大 とは,当 該系が ミクロ挙動の選別 と い う情報処理の営み を放棄 した ときにたどる過程 なのだ」 と述べ たが,閉 鎖系
↓
ま
, ど
うじをも捨報鬼途あ替みを放美もきるをえをふゎけだ。閉鎖系では,み
ずからの情報処理 をみずからがおこなうことはできないのである。 このことはしか し, 逆 にいえば, 系 の外部か ら適度なエネルギーの供給があ れば, つ まり開放系であれば, うまく調整することによって当該系は非平衡の 異方的状態を必ず実現できる, ということでもあるわけである。 * ( C ) な お, シ ラル ドのア イデア を精級化 し, 数 理 的 な考察 を進め たのが フ ラン スの物理 学者 レオ ン ・ブ リルア ン (Leon Brillouin;ブリユ ア ン と発音す るの が正 しい)で あ った。 したが って今 日, くマ クスウェルの魔 〉 は時折 〈マ クス ウェル = シ ラル ド= ブ リルア ンの魔〉 とも呼 ばれてい る。 * マ クスウェルの魔がお こなっていることは,か いつ まんでいえば,熱 ・統計 力学系においてエネルギー を担 っている ミクロ分子 を一定の基準の もとに選別 ・分丹Uし, これによってエネルギーが無方向の等方的分布へ と拡散す るのを防 ぎ,結 果 として当該の熱 ・統計力学系に方向性のあるマ クロのエネルギー分布 をつ くりだす こ と 一― エ ン トロピー を下 げ ること一一 ,で ある。この働 き に よって,当 該の熱 ・統計力学系は,全 体 として何 らかのマ クロ 「仕事」 をお こな うマ クロ 「力」 を得 ることがで きる。 もちろん,シ ラル ドやブ リルアンが指摘 したように, ミクロ分子を識別・選 別する際の情報処理にそもそもエネルギーの消費が不可避である。 したがって マクスウェルの魔はエネルギー論的閉鎖系には存在 しえない。だが逆に見れば, 系が開放系であれば, うまくやれば,必 ずマクロの方向性 をもつ構造を実現で欲 望 の エ ネ ル ギー論 きる, とい うことで もある。 商人 はマクスウェルの魔である 以上の関係 を社会 ―経済 システムにあてはめて考 えてみ よう。個々の人間主 体 に含 まれ る 〈欲望〉の もとでは,社 会 ―経済 システムはエネルギーが不断に 備給 ・散逸す るエネルギー論的開放系 となる。 そ して商人 とは,か れ ら自身欲 望 のエネルギー を消費 しなが ら貨幣 (欲望エネルギー媒体)の 流れを選別 し, それによって欲望エネルギーの社会的分布が無方向性の ものになるのを防止す る存在 である。 ここに,社 会 一経済 システムにおいて く貨幣〉は 「エネルギー を担 うミクロ分子」に, また く商人〉はそれ を選男Uする 「マ クスウェルの魔」 に,そ れぞれ相 当 していることが理解 され よう。商人の活動は言葉の厳密な意 味での く能動輸送 active transport〉である。 か くて商人こそ,社 会 の方向性 (社会機械)を 成立 させ,そ れが崩壊 しない ように維持す る存在,す なわち 〈キュー リーの法則〉 を実現 し維持す る役割 を 担 った存在 ―― 社会 一経済 システムにおけ る 〈マ クスウェルの魔〉 ―一 な のである。 そ してこう考 えるとき,社 会 ―経済システムにおける商人の活動の 本質は情報処理 である, と極 言できる。 この働 きによってこそ,社 会が方向性 を持 ったマ クロの力 を 一一 社会秩序や社会発展 を 一― 発揮 しうるのである。 商人のはたらきとその意義 上述 したように,社 会 ―経済系の中で商人が担 っている第一義的に重要な営 みは,貨 幣の流れを方向づ ける情報処理 をおこな うことであ り,そ れによって, 社会 に方向性のあるマ クロ構造 (社会の分子機械)を 形成 し ・維持す ることで ある。 このマ クロ構造 を く商人機械〉 と呼ぶのである。 商人は,こ の過程 で,貨 幣 を社会空間にまんべんな く等方的に分布 させ るの ではない。時に,あ るところへ集 中的に投下す る。それは結果 としてきわめて 不公平 な営み となるが, これ こそ,マ クスウェルの魔が行 っていた情報選別の 働 きにほか ならないのである。 しか しむろん,そ れは確信 をもって行われるの
68 彦 根論議 第 312号 では ない。欲望 の行為 は,不 安 な行為 だか らであ る。 商人 の活動 と社 会 の活性 以上のことか ら,次 のことがいえるだろう。 商人たちが活発に活動 し新 しい販路を開いて欲望 と欲望 を接続させつつある 状態 。新たな商人機械が形成されつつある状態は,社 会が若 く成長 している状 態,健 全な状態 といってよかろう。商人は,本 来的に一箇所へ永住 し安定均衡 を指向する定住民ではない。彼 らはむしろ定着せずあちこちへ動 き回る遊牧民 たることを宿命づけられているのだ。かつての商人は隊商を組んで内陸を往来 し,あ るいは大航海時代には七つの海を股にかけた。現代 日本の商社マンもあ らゆる交通手段 を駆使 して世界中を飛び回っている。商人とは本来そういう存 在で,こ うしてあらゆる欲望 を開拓 し接続するのが彼 らの使命なのだ。 とすれば逆に商人たちが既得権の墨守のみに堕 しているような社会は,社 会 が老化 し発展の可能性 を失っている状態 といえよう。このような社会は,環 境 の不慮の変化に付いてゆけず洵汰される恐れがある。 そして彼 らがいない社会は 一一 それこそ,需 給が直接に く接触〉を模索し, 対面交換せねばならない原始的な社会 ということができよう。まして,欲 望が 想定 されず欲求の閉鎖系が前提 とされるなら,そ こでは社会の分子機械は表退 に向かい,こ れにともなって自動的に貨幣 も不要 とな り消滅するはずだ。その ような社会 とはいかなるもので, どこに存在 しているか。これを次の節では, 市場均衡の世界 と社会主義計画の基本発想の中に探ってみることとしよう。そ れを考察することで,商 人経済の対照例 を把握 し,ひ るがえって商人経済の特 質について理解 を得 ようというわけである。 H 商 人のいない世界 市場経済 と商人経済の理念型的対比 純粋 に理念的にい うと, 市 場経済 と商人経済 との形式的関係 は, す でに述べ
欲望 のエネルギー論 6 9 て きたことか ら,次 の ように対比分類す ることがで きるだろう。 理念型 としての市場経済で想定 され るのは,多 数の経済主体が互いに一過性 の接触 ・交換 ・分離 を繰 り返す,無 構造の等方的な (対称的な)抽 象空間であ る。 そこには商人の存在が想定 されていない。だが現実の経済システムは異方 的 な (非対称の)商 人経済であ り,そ こでは方向性 を持つ販路によって持続性 の 〈接続〉が行 われている。 この持続性の構造 こそ,塩 沢由典のいう く見える 手〉 であ り, ド ゥルーズ=ガ タ リのい う 〈根茎〉であ り, また くキュー リーの 法則〉でい う 〈非対称〉である。 この ように,市 場経済 と商人経済の両者は論理形式上,基 本的に異なるもの である。に もかかわ らず,市 場均衡 の理論は,こ の複雑 な商人システムを,無 自覚 なままに,均 質 でノッペ リとした等方的な単純 システム として粗雑に近似 し,そ れで済 ませ ようとしているのである。複雑 な非線形現象 を,そ のままの 形 では解けない とい うだけの理由で線形近似 し,そ れで済 ませ よう, というの に近 い, といったらよかろ うか。 この近似は,む ろん,一 概 に誤 りだ とはいえない。認識 目的によっては有効 な面 も含んでいる。ただ,あ ま りに も単純だ といいたいのである。た とえば, 商人経済の複雑 な販路網は,こ れ またきわめて複雑 な神経細胞の複雑 な有方向 の く接続〉か らなる脳にた とえられ よう。脳はあま りに も複雑 なので,神 経細 胞の一つ一つの接続 を解明す るのは至難である(絶望的です らある)。だが,だ か らといって, この脳 をまず生体か ら取 り出 し, さらに ミキサーにかけてバ ラ バ ラな無構造状態に し,得 られた有機物の均等溶液 (モル=平 衡)で 近似 した として,そ れで済 まされ るであろ うか。 もちろん,こ の均等溶液 を分析 して, タンパ ク質○%,脂 質○%,… , と明 らかにすれば,真 理の一端 を表現す るも のにはなる。だが,「 この均等溶液が脳だ」とは到底いえまい。脳は もっと「複
70 彦 根論叢 第 312号 雑 な もの」であ り,生 体 内の生 きた状態で (非平衡 とい うこと),その構造・機 能 を明 らかに しなければ不十分 だか らである。 市場経済 と商人経済 との関係 も,こ れに似 ている。無構造の市場が きわめて 大雑把 な形で真理 の一端 を表現 していることを否定するものではないが,そ れ はあ くまで 「一端」にす ぎず,そ れだけではあまりにも単純 というほかない。 ここでは,困 難ではあるが,こ のような安易 な 「単純思考」の誘惑 を振 り切 り, モランのい う 「複雑思考」(la pens6e complexe)の精神 を実践 してみ ることに
3 ) しよう。 以上 の ように対比把握 した上 で,以 下 では市場経済 と商人経済,両 者の理論 形式上の比較 を通 じて複雑 な経済 システムの実像 に迫 っていこう。 社会主義の特性 一方,同 じく商人の存在 しない経済システム として,社 会主義計画の経済に つ いて も同時並行 して考察 していこう。 第 3節 (『彦根 論 叢』第306号,p.133)で 我 々 はす でに,社 会 主義 経 済が失 敗 したのは,欲 望 を開拓 しそのエネルギー を社会の発展に供する仕組みを持た なか ったか らである, と述べ ておいた。 ただ しその際には,こ の 「仕組み」が 具体 的に何 なのか とい う点に までは踏み込んでいなか った。だが今や次の よう に言 える :一一 その仕組み とは,商 人の ことであ り,商 人機械の ことであ る,・ ● ● ● ● ● ● ● ● つ と。社会主義 国には,そ もそ も,上 記の ような意味での商人がいなか ったのだ。 20世紀型社会主義の社会主義 たる所以は,社 会か ら資本家 を追放す ることであ 3)エ ドガール ・モ ラン 『複雑性 とはなにか』 国文社,1993年 。 4)も ちろん社会 主義 国に も小売店が あ り売 り子が いて,物 流機構 が存在 したが,そ の事実 が ここでい う商人の存在 を意味 しないことはい うまで もない。彼 らには戦略的意思決定 (選 択,開 拓)の 余地が なかったか らである。 したが ってそれ らは単に配給窓 口であ り,配 給 係員 であ り,配 給機構 にす ぎなか った。 また,貨 幣が存在 し,貨 幣 を介 した商品交換がな され てい るよ うにみ えたが,そ れは実 際 には配給切符 にす ぎなか った し,伝 が なければ 十分 に機能 しなか った (盛田常夫 『体制l転換 の経済学』新世社)。この ように一見資本主義 体制1と類似 した組織 ・媒体 の存在 した こ とが社会 主義 の悲劇 といえる。 どこに問題があ る のか,隠 蔽 されて しまうか らだ。
欲望のエネルギー論 7 1 った。つ ま り社会主義 は,個 人 ・法人が まとまった資金 を保有 しその投下先 を みずか ら戦略的に開拓す ること (資本家 となること,商 品化すること)を 禁止 し―一 つ ま り販路 の 自己開拓 を禁止 し――,か か る資源配分 の権限を国家独 占とした。 これはつ ま り,商 人 を禁止 した とい うことであ り,そ れに尽 きるの である。 このように商人 を禁止 した経済 システムが,↓ヽかなる運命 を辿るか。 この点 を社会主義の歴史に即 して考 えることは,市 場均衡の理論が単に机上のモデル に終始す るのに対 し,実 際に歴史的実例 として検証できる″点で研究素材 として 優 れた事例 なのである。 そ して社会主義体制は,商 人に代わって資源の分配権 限 を中央に集 中独 占し,中 央の計画によって分配を実施す る, という道 を選ん だのだが,そ の際の計画の理論的裏付けが どういうものだったのか を市場均衡 理論 との関連で考察す ると,非 常に面 白い結果 となる。 古典的 ・単純思考の限界 社会主義が商人 を敵視 して排除 し,そ して失敗 した とい う事実には,市 場理 論 との関連 で,非 常に面 白い教訓 を読み取 ることができる。つ まり皮肉に も社 会主義は,少 な くとも結果 を見 る限 り,商 人 を排除する市場均衡の理論 を信 じ, 理論通 り忠実に実践 し,そ して失敗 した, ということを含意 しているのだ。そ れは,市 場均衡 の理論 も社会主義計画の理論 も, ともに (神の)予 定調和 を信 奉す る “古典的"思考 ―― 系 を閉鎖系 とみな し,そ の結果 どこかに最適解が あ るはずだ と信奉す る思考 ―― に立脚 しその呪縛か ら逃れ られない同 じ穴の な であるか らだ。つ ま り,社 会主義 を斬 り捨てるのなら,返 す刀で市場均衡の 理論 とも対決 しなければならない。 均衡理論 と社会主義計画は どこが違 うか ? この論点 をもう少 し掘 り下げてみ よう。かつて ミーゼスやハ イエ ク,ラ ンゲ らに よってなされた,社 会主義計画の可否に関す る論争はよ く知 られているが, この論争は,今 日となっては奇妙なことに,市 場経済 も社会主義経済 も理論的
72 彦 根論議 第 312号 9 に大差がない, とい う結論に至 っている(森鳴通夫)。社会主義計画の理論 (物 財バ ランス法)も ,そ の形式 をつ きつめてみれば,結 局 は需給の均衡 を目指す もの として市場均衡の理論 と形式上同一物 になつて しまうのであ る。 た とえば レオンチェフの投入産 出分析 は社会主義計画の手法 と事実上同 じものだ。 また, ミーゼ スに よって 「価格 を失 った経済には最適化計画の根拠がない」 と批判 さ れたランゲは,こ ともあろ うに,価 格 をパ ラメー タとして導入すれば計画は可 能 だ と反論 した。 そ して問題 の価格 は,運 立方程 式の最大化計算に よって求め られ るとい うことになった。 これによって,社 会主義計画において も最適配分 がなされ る, とい うのである。 だがそ うなると,社 会主義計画 と市場機構 とではいったい どこが どう違 うの か ?一 一 この疑問は誰 しもが抱 くところであろ う。結局,こ ういったや りと りの結果,両 者の間で僅かに異なっているのは,社 会主義計画が中央に集 中し て行 っていた均衡 の計算 を,市 場機構 は分散的に行 っている, とい う計算機構 の違 いにすぎないことが確認 され るに至 ったのである。実際,純 粋理論面だけ をみれば, この結論 は正 しい。ただ実践上,現 実の経済系が複雑す ぎて中央集 中方式では計算が解 けない とい う欠陥が社会主義の側 にあった 一― もちろん これはシステムを現実に運営す る上 で致命的な欠陥だったのだが 一― だけだ とい うのである。 市場均衡理論 への疑問 実践上 は ともか くとして,こ の ように理論 の根幹が同一物だということが露 呈 して しまうと,社 会主義の失敗 を眼のあた りに した市場均衡の理論 も,実 は 安 穏 としてはい られないはずである。 それは,な るほ ど均衡解 (“見 えざる手")の存在 を特定条件 の もとに 「証明」 は したか もしれない。が,現 実の経済に即 してそれ を解 いて見せ たことは一度 もなか った (複雑す ぎて,社 会主義計画 と同 じ意味で解 け るはずがない)の だ。 5)森 鳴通夫 『思想 としての近代経済学』岩波書店,1994年 。
欲望のエネルギー論 73 これでは空論 と言われても致 し方なかろう。その意味では計画に迫られてとも か く解 こうとした社会主義の方が理論に対 して誠実だったといえるのである。 もっと辛辣にいえば,一 般均衡理論が生 きのびているとすれば,そ れは, 自身 にもとづいて現実の経済システムを運営せ よという使命 を負わなかったために 責任追及の眼から逃げおおせているという狡猾の産物にほかならない。両者は 出自のみならずオ能 ・知性 までも同じくする一卵性双生児であ り,そ の後にた どった人生が明暗を分けたにす ぎないのである。 繰 り返 していうと,両 者が究極の ところで同じものになってしまうのは,社 会主義計画の理論 も市場均衡の理論 も同 じ古典的思考 (均衡 =平 衡の予定調和 思考,単 純思考)の 上に立脚 しているか らにほかならない。いずれも,商 人に よるいかなる努力 も結局すべて無駄で, どうあがいても必ず均衡解へ連れてい かれるはずだと信 じられているのだ。かようにシステムの予定調和が信 じ込ま れてしまっては, これをかき乱す商人の力が認められないのも当然 といえよう。 それは理論的に不都合なもの として排除されねばならなかったのである。 商人のいない世界 だが現実の社会では,商 人は,そ もそも社会―経済システムが均衡 =平 衡ヘ 向か う力に逆 らお うとする〈マクスウェルの魔〉である。 〈マクスウェルの魔〉 とは, ミクロ要素の情報選別 を繰 り返 し行 うことによってエン トロピーの増大 に抵抗するメカニズムのことである。 かかる くマクスウェルの魔〉,すなわち商人のいない世界を実現 した社会主義 国こそが,実 は,欲 望の抑圧の もとに,正 確に,均 衡理論の予言する閉鎖系の 均衡 =平 衡に向かっていたのである。すなわち,社 会―経済的 “死"の世界に。 I I I 資 本 主義の活動 資本 主義 は単 な る市 場均衡 の経 済 で は ない だが現実 に存在 す る資本 主義 の運動 は,単 な る市場均衡 の経済 ではな く, も
74 彦 根論叢 第 312号 っ と“したたか な もの"で あったのだ。 この こ とを自党す るには, まず こう問 うてみ よ う :一― 百歩譲 って,か りに資本主義が分散的計算機構 だ として, いったい誰がそれ を実行 していたのか 一一 と。それが均衡論 を信奉す る理論 経済学者でなか ったこ とはまず明 白である。理論上 は,そ の計算お よび計算の ための情報収集は,全 知全能 と仮定 され る個々の経済主体が実行 したことにな る。 しか し社会主義の計画当局が全知全能 であ りえなか ったように,経 済主体 もまた全知全能 ではあ りえない。 したが って この仮定 には説得力が乏 しい。 その現実の世界に即 した解答 はこうである :一― それは商人であ り,彼 ら の努力であ り,彼 らによる試行錯誤である 一― と。彼 らが時に成功 し,時 に 失敗 し 。自らを犠牲に しなが ら,経 済の システムを運営 して きたのだ。 しか も 彼 らが身をもって実践 した解が,市 場均衡理論のい う均衡解 と同 じものであっ たか どうかは,実 は甚だ疑わ しい。エネルギー収支 を伴 う開放定常系において は,安 定均衡解 とは異なる非平衡定常解 (あるいは定常の存在 しないカオス ・ ア トラクタ)の 方が一般的なのであるが,均 衡理論にはそれ を証明す る手だて が理論的に存在 しないのである。 ともあれ,資 本主義は,市 場均衡 の理論がい うような “死の"物理的平衡 三 均衡 の経済ではな く,非 平衡の “生 きた"商 人経済だったのである。 これが現 実 とすれば,生 きた商人たちの活動 を理論的に排除 している市場均衡の理論 は, 分散的計算機構 をも排除す る空論 と言わねばならない。 ここまでは 「百歩譲 って」の議論 だったが,実 際には,商 人 こそが,社 会の 欲望 を後 ろ盾 に,事 前の計画 ・計算か らは予測 しえないことをや ってのける。 その意味で商人経済の システムこそ,予 測不能の複雑系である。商人システム こそが,社 会 一経済系のマ クロな発展の力 を生み出すのだ。社会主義の失敗は, 資本主義 に内包 され るこの商人の力 を認識 し取 り込む ことがで きなか ったこ と に よるのであ り,そ れは同時に,商 人 を認めえない市場均衡の理論が実験的に 失敗 したこ とをも意味 しているといって よい。少 な くとも,市 場均衡 の理論の み を資本主義の中心パ ラダイムに据 えることは もはや できないことが実験的に ● ● ● ● ● 0 証 明 され たの であ る。
欲望のエネルギー論 75 プ ロー デル に お け る 「経 済 」 と 「資 本 主 義 」 繰 り返 して言 うと,資 本主義の運動は,単 なる市場均衡 の経済ではな く, も っ としたたかな ものである。 この ことについて,今 ひとつの研究事例 を挙げて お こ う。 フランスの 「アナール派」史学の泰斗,フ ェルナン ・ブローデルの考 察 で あ る。彼 が大著 『物 質文 明 ・経 済 ・資本 主義 :15∼18世紀』(肋 胸 力% 物滋勿物 をθ%θ物彦冴の 物 ゐ物夕,ズ7e‐ χ/rrre s滋ゑ 1979)を 構想 した と き,念 頭に置いていたのは,け だ し, このことであった。 この著作 においてブローデルが 「経済」(市場機構)と 「資本主義」 とを区分 把握 していたことは書名 に も示唆 されているが,彼 は人間社会の長期にわたる 歴史的な動 きを,物 質生活 。経済生活 ・資本主義活動 とい う3つ の異なる階層 でそれぞれ捉 えようとした。 こうした とき彼に とって,資 本主義 とは経済現象 ではなか ったのである。 もっとも,こ の表現には誤解のないよう補足が必要だ ろ う。ブローデルのい う 「資本主義」 とは,経 済を基底 としなが らも,経 済現 象その ものに とどまらぬ,そ の上層に築かれた構築物 として構想 されているの だ。彼は言っている : …私が始終気付 いたのは,通 常のそ して しば しば慣習的な (18世紀では, 自然の と呼 ばれ たであろ う) 交 換経 済 と, よ り上位 の,精 級 をきわめ た (18世紀 では,人 工 的 な と呼ばれ たであろ う) 経 済 との絶 えざる対立 であった。私 は,こ の区分 が明 白に触知 で きるものであ り, こ れ らの相 異 なる階の間では,活 動 の担 い手 と人間 ・行動様 式 ・ 心性 が明 らか に同 じではない と信 じている。 また市場経済の諸法則 は,あ る水準 にお 6)「 実験」 とは,そ もそ も研究対象のパ ラメー タを人為的に制御す ることに よって,当 該 仮 説に含 まれ る因→果の一意的な対応 を確認す る手続 きである。 とす ると, もし経済理論 を実験的に検証 しようと思 えば,人 為的に統制経済 を作 ってみ るしかないわけだ。 そ して, 当該 の制御 の もとで,事 前に計算 された均衡点へ と経済系が収敏す ることを実証 しなけれ ばな らないのである。 だが これは まさしく社会主義が市場理論 に即 して試みたことではな いか ?― ― こう考 えれば,社 会主義 は,市 場均衡 の理論 を含めた古典理論全般 に対す る きわめて壮大 な しか も貴重 な実験 であった と認識 しうる。社会主義は, 3億 人 もの (ある いは見方によっては15億人 もの)人 々 を被験者 とし,50年 あまりの年月を費や し,か つ被 験者 にはそれが実験 であることを知 らせずに行 われた,大 規模 で本格的な社会実験 であっ た。 しか もその実験結果は,理 論 に対 して明確 に 「否」であった。社会科学者はこの壮大 な実験か ら謙虚 に多 くを学ばねばならない。
76 彦 根論叢 第 312号 いては古典経済学が記述するとお りの姿で現われるが,よ り高度の領域 ・計算 と投機 の領域においては,自 由競争 というその特徴的な形態が見 られるのがはるかに稀 であ ることも。影の部分,逆 光の部分,秘 義に通 じた者の活動の領域がそこか ら始 まるの であ り,私 は,そ れが資本主義 という語によって理解 しうるものの根底にあるのだ と 信 じている。そして資本主義 とは,(交 換の基礎 を,た がいに求めあう需要にお くの と 同程度あるいはそれ以上に,力 関係にお く)権 力の蓄積 であ り,避 け られぬ ものか否 かは別にして,他 に多 くあるの と同様な一つの社会的寄生物なのである。一言でいえ ば,商 業世界の階層 というものが存在するのである。すべての階層においてと同様に, 上部の階は,そ れが乗 る下部の階がなければ存在 しえないの も事実であるが。最後に, 交換の直下に,よ りよい表現がないため私が 「物質生活」 と呼んだ ものが,… 。すべて の うちでもっとも部厚い層をなしていたことを忘れないでおこう。 (『交換のはたらき』pp.2-3) 経 済 現 象 は市 場 の 自己調 節 メカニ ズ ム が その 中心 をな して い るが,ブ ロー デ ル に とって 資本 主義 とは,こ の 市 場 メ カニ ズ ム を前提 と しつ つ ,そ の上 に成 立 す る,力 と力 との ぶ つ か りあ いの 中 に生 成 す るダ イナ ミッ クな シス テ ム の こ とで あ る。 だ か らそ れ は,市 場 機 構 そ の もの と同 じで は あ りえぬ,別 物 で あ る。 そ して彼 に よれ ば,そ の構 築 物 の 中心 をな して い るの が 「商 業世 界 」 で あ り,そ の 担 い手 と して の 「商 人 」 なの で あ る。 筆 者 と して は,ブ ロー デ ル の構 想 した,こ の 「経 済」(市場機構 )の 階層が本 論 考 で い う く市 場 経 済 〉 に, ま た 「資本 主 義 」 の 階 層 が本 論 考 で い う 〈商 人経 7 ) 済〉に, そ れぞれ相当する, と考えたいのである。 7)資 本主義 とい う運動体 の根幹 を商業活動に置 く,こ の考 え方は, “正統"マ ル クス主義 を標榜す る論者 たちか らは忌み嫌 われて きた伝統があ る。 それは “正統"マル クス主義が 「流通」 よ りも 「生産様式」にウェイ トを置いて社会体制 を理解 しようとして きた とい う 因襲 の所産 だ と思われ る。 た とえば1950年代 の有名 な 「ドッブ=ス ィー ジー論争」 を想起 してみ る とよい。 “正統"と された ドッブは何 よ りも資本主義 を 「生産様式」 として捉 え るこ とに固執 し,流 通の力 を強調 したスィー ジー と対立 したのである(『封建制か ら資本主 義へ の移行』柘植 書房,1981年 )。なおスィー ジーの立場 は今 日のブローデルや ウォー ラス ティンの立場 に近 い といえ,筆 者の立場 もこの系譜に属す る。 なぜ な ら,本 稿 の く欲望〉 論 の立場か らす ると,「 生産」 を取 り上げ るに して も,重 要 なのは 自分 に とって必要 なだ け を生産す る 「必要の生産」(欲求に よる生産)な のか,あ るいは 自分 に とって必要 とされ る以上 の 「必要以上 の生産」(欲望 に よる生産)な のか, とい う区別 だか らである。 そ して 後者 は,商 人に よる流通 を前提 として初めて意味 を持つ ものだか らである。
欲望のエネルギー論 77 物 理 / 化 学 現 象 と生 物 現 象 上 述 の事 実 を直観 的 に 言 い表 わす な らば, 〈 市場 経 済 〉を 「物 理 / 化 学 現 象 」 に, ま た く商 人 経 済 〉 を 「生 物 的現 象 」 に例 えて み れ ば よい だ ろ う。 生 物 現 象 は,全 体 として一見,一 般の物理/化 学現象 とは大 きく異なっているようにみ える。 しか し個別に見ると物理/化 学的メカニズムに反 しているわけではなく, む しろ生物現象はそれを前提 とし,そ れを逆手にとって 「利用 し」,その上に成 り立っている物理/化 学現象への 「寄生物」なのである。 く商人経済〉 も,こ れ と同様に く市場経済〉に反することな く,そ れを前提 とし,そ れを利用 して 構築 される く寄生物〉である。 生物現象 として生ずることは,物 理/化 学現象のすべてではない。むしろ, きわめて限られた, きわめて入念に選択 (自然選択)さ れた特別な物理/化 学 現象だけが生ずるところに,生 物現象の特徴がある。 もともと物理/化 学的に は 「何が起 こってもよい」のであるが,生 命においては 「特房Uなことだけが起 こる」。両者の論理の違いは,機 構そのものの違いというより,こ の選択的発現 ′性にある。 ところで,こ の 「選択的発現」のような現象が起 こるのは,系 が開放系にな っている時に限られる。閉鎖系では,述 べたように,特 定の結末だけが生 じ, 系の作動に選択の余地がないからである。つまり生命は,系 が非平衡になって いる場合に限られるのである。そして非平衡の系は一般に,物 理/化 学系にお いてす ら,閉 鎖系のような決定論的な予測ができず,多 様な振舞いを生 じうる ことが知 られている。カオス科学や複雑系の科学が明らかにしたのは, まさに このことであった。生物現象は, このような物理/化 学系の 「多様な振舞い」 を逆手に取 り,そ れを選択的に利用 しているのである。 このアナロジーでいえば,資 本主義 もまた,市 場機構の上に立脚するものの, その作動機構は閉鎖系の均衡化メカニズムではないはずなのである。資本主義 において,〈 経済〉 と く経営〉 とが別個の現象 として存立 しうる根拠 もまたこ こにある。商品関係は,本 来 「どうつながってもよい」,自由な関係である。そ れを,「 このつなが り」へ と特定化するのが く経営〉の働 きなのだ。この意味
7 8 で 彦根論叢 第 312号
く
経営〉という現象は完全に情報論的カテゴリーに特有の現象である。
I V 古 典思考の終需 予定 調和 の 終需 と神 の死 中世 ∼近代の西洋思想には,こ の世界における 「神 の存在」 を何 とか証明 し よ うとす る作業 に大 きな意義 を置 く伝統があった 一― 我々束洋人には馬鹿げ たこ となのだが。 ダー ウィエズムに反対す る神学者たちが神の存在証明に躍起 になったの も,そ の一端の現れであるし, また現代物理の旗手 とい うべ きアイ ンシュタインさえ もが,量 子記述の確率性に対 し 「神はサイコロを振 らない」 と述べ たの も,こ の思想の流れに属 しているといえよう (ちなみに物理学にお いて,ア インシュタインの相対性理論は,量 子力学 と対比的に古典力学の一種 として扱われている)。物理学の歴史は,近 代 どころか最近 に至 るまで唯一神 に奉納 さるべ き教義 を探求す る歴史であったのである。 してみると,19世 紀 ま での古典物理学に範 をとって 「見 えざる手」 を証明 しようとした一般均衡理論 も,所 詮,こ の 「古典」大河の一支流で しかなかった。 だが今 日,カ オス科学や複雑系理論の知見に従 えば, もはや物理/化 学にお いてす ら,決 定論的な 「見えざる手」 を信奉す ることはできない。世界は,超 越者の摂理 に盲 目的に従 うものではな く,系 がみずか らを決 してい く予測不能 な固有の歴史にほかならないのであ り,そ もそ も,回 定的な 「最適解」なるも のが存在 しないのである。つ ま り最適化計算など,ど こで も行われてはいない。 生命の進化 に して も,進 化の先 を安定均衡 の収束″点として予測す ることはで き ない。経済 システム もその例外 ではない。神 は最終的に死んだのである。 西洋思想において (エーチェによる神 の死亡宣告 を受け),予 定調和の 「神」 を脱 し, よ うや くすべてを人間の準位 で考 えようとしたサル トルは,次 のよう に言い放 った :「 か りに神が存在す るに した ところで,別 に どうということは ゆ ない」 と。 これは神 の 「否定」です らない。 「無視」である。神 に対する,考 え うる限 りの最高の冒漬 といえるだろう。筆者はサル トルの全面的な主体性信欲望のエネルギー論 79 奉 を支 持 す る もの で は な い が , 神 に 関 す る この 点 に 限 れ ば 同感 で あ る。 これ に 倣 って言 うなら,欲 望の高まった資本主義のもとで,欲 望の後ろ盾を得た商人 たちはこう言い放つであろう :「か りに均衡が存在するにしたところで,別 に どうということはない」 と。均衡 とは,系 を環境から恣意的に切 り離 して閉鎖 系 とみなした場合にのみ観察 される,便 宜的な,み かけの存在である。現実の 社会―経済システムは, もともとそのような閉鎖系ではないのだから。 (続) 8)J‐P.サル トル 『実存主義 とは何 か』人文書院,1996年 (新装版),p.81.