IB‑6 東アフリカ牧畜民の医療と身体認識に関する 人類学的研究 (『人間と地球環境』研究報告 : 環 境変動と生態系・人間(生活)への影響)
著者 河合 香吏
雑誌名 静岡大学学内特別研究報告
巻 2
ページ 26‑27
発行年 2000‑03
出版者 静岡大学
URL http://doi.org/10.14945/00008227
IB‑6
は じめ に
ケニア 北部の半乾燥地域 に住 むウ シ牧 畜民 チ ャムスの身体認識に関 して、これまでお もに医療 行 為に着 目 して研究 を進 めてきた。
語 りと行 為 をとお して知 る ことので きるチ ャ ムスの身体観 は、まず な によ りも「身体 の (解剖 学 的
)構
造 と(生理的)メカニズムがだれ に も共 通である」ということにある。だが、身体 の共通 性 は、生物学的事実 としてそ の とお りだ と して も、チ ャムスがその共通性 を強調する こと、す なわち、
チ ャムス の身体認識にお い て差異よ りも共通 性 のほうが 優 越、な い し先行 している ことは、 文 化・社会 の仕 掛けに他 な らない。したが って、問 われるべ きは、身体の共通性や普遍性そ の もので はな く、どう してそれが人間に共通な所与、よ り 積極的には、普遍 とみな される (ようにな った)
のか、そ して、そのことの帰結 として人び とが ど のような 生活世界 を生 きて いるのか とい うこ と である。
以下で は これ までの研 究 のまとめ として、民族 医学、民俗 生殖理論、死 をめ ぐる習俗 の3点か ら 考察 した結果 を報告す る。
1.民
族 医学 における身体認識チャムスの民族医学 は、解剖学的・器官 生理学 的な知識 、症状の認知過程 、疾病 の命名・分類方 法、病原論 、予防・治療技術等 にいたるまで、一 貫 した医の体 系 として とらえる ことがで きる。そ の基本は、身体 を即物的 に とらえよ うとす る徹底 した態度 と、身体的な異常 の理解 を、それが まさ に起 こって いる身体そ の も のに求め る 自己完 結 性 にある。チ ャムスは身体 を徹底的に「み えるも の」とし、身体現象を 「み える こと」として語 ろ うとす る。そ うした 「みえる」身体 にた い して、
治療は徹底 した対症治療であ り、人間が共 通 の身 体 をもって いる こと、す なわち、人間 に共通 の身 体構造 と生理 メカニズム を前提 とす る。
人び とは、自分の患 っている症状がだれ にも起 こりうる 人間に共 通な身体 現象であ る という認
東アフリカ牧畜民の医療 と身体認識に関す る 人類学的研究
人文学部
河合香吏
識 を、たがいに自分 の身体不調 につ いて「物質的 世界 の論理」を適用 した表現方法 を駆使 して語 り あ うことによって確 認す るとともに、身体 の共通 性 にもとづ いた治 療や 予防 で対処す る といった 行為 によって実現す る。そ うした認識 は人び との あいだで相互 に直 接 的 にか わ され る行 為のな か にあ らわれ、培われてゆ くのである。
2.民
俗生殖理論 と胎児の形成過程「目にみえる」構造体である赤ん坊の身体が無 か ら発生す るわけがな い。その発生機序、すなわ ちチ ャム スの民俗 生殖 理論 の内容 を ひ とことで いって しまえば、「受月台は経血 と精液の結 びつき によって成立する」とい うものである。われわれ の もっって いる生 殖 生理学 的な知識 か らすれ ば 決定的な誤 りをもって いる といえるが、それは、
経血 と精液 という 「み えるもの」 を根拠 として、
性交渉 とい う実践的 な行為 と、受胎 という出来事 を連結す るための理論 なのであ り、 「みえる も の」である ところの要 素 をつなぎ合 わせて、一連 の身体現 象 として そ の全体 を再構成 す るとい う 手法 自体は、チ ャムスが身体不調 を説明す る場合
と原理的にはおな じで ある。ここで注 目すべ きは、
この理論の 「正 しさ」を裏づ ける、つま り「信 じ るに値す る」もの とす るよ うなコンク リー トなイ メー ジが、じつに豊富 に準備 されている点である。
胎児 の形成 に影響 をあたえ、結果的に赤ん坊 の身 体 に異変 を生 じさせ る とされる外 的 要因につ い ての語 りにも事欠か ない。この理論の リア リテ ィ ー は、赤ん坊の身体 が形成 されてゆ くi旦程 が「み えるもの」として、確 固たるイメー ジをもって い る ことによってささえ られている。
いっぱ う、胎児 と新 生児 のあいだにはあき らか な連続性 がみて とれ る。母 体内 とい う 「みえ な い」状況 におかれて いた胎児の身体 は、分娩 をと お して、「みえる」状況へ と移動す る というだけ の ことであ り、形成過程 という点か らは連続的な ものである。胎児は実体 としての身体 をもつ存在 であ り、存在論的にみれ ば、「みえるもの」とし
一
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ての資格 をもって、その存在 を知覚されていると いうことができる。
3.死
をめく゛ る習俗チャム スにおける死後の儀礼や諸行為はきわ めて簡素である。埋葬はするものの、人の死 をき わだたせるよ うな、た とえば服喪をしめす衣装や 化粧もな く、行動規範や喪明けをふ くむ葬送儀礼 とよびうるような儀礼的行為 にも乏しい。いっぱ う、個人の死 をめく゛
っての強力な因果論にも欠け る。人は「なぜ死んだのか」ではなく、「いかに 死んだのか」が問われるのである。
チャムス社会には、自己の死 に先立ってお こな われる、儀礼 をふ くむ一連の行為がある。それは 残される人び とが、死にゆくもの本人によってそ の死を受容す るよう導かれる過程でもある。人の 死は、死後 にお こなわれる儀礼や死後の世界 につ いての観念等 をつうじて経験 されるよりは、む し ろ、個別具体的な現実的プロセスとして、死 にゆ くものも残 されるものも、生きている過程 におい て、死 という出来事を「ともに」経験する といっ たほうがよい。死にゆくものは 自らの死 とい うプ
ロセスを「私 」自身の経験 として自覚的に生きる。
いっぱう、残 される人び とは、その死に立ちあう ことによ って彼が死んでゆ くというプロセス を 死にゆく人 とともに経験するのである。そ して こ のプロセス こそが、死 にゆくものと残され る もの の最後の実質的なかかわ りとなる。
チャムスは身体に起きる (生物学的)現 象 を認 識する過程において、「身体的存在である」とは
どのような ことであるのか という命題 について 、 その内容 を徹底的に言語化す る。だが、死 もまた 身体に起きる (生物学的)現 象であるにもかかわ らず、また、身体 に関する知識 はそれを十分可能 なものとするはずであるにもかかわ らず、チ ャム スは「死」という現象、ない し出来事を身体 の問 題として語 ろうとは しない。いっぼう、チ ャムス は精神 と身体 といつた二 元 論 を もたな い し、
「魂」や「霊魂」といった「肉体」に対立するよ うな存在 を認めていない。したがって、人の死 を
「肉体の死」と「霊魂の不滅」というように二元 的にとらえ、霊的存在 としての死者の実在 を信 じ るといった構 図をもたない。死体は死後早急 に埋 葬され、埋葬の習慣のなかった過去には、それが ハイエナに食 いつくされる、ないしはブッシュに
もち去 られる ことが期待された。
チャムスの死体処理の方法は、あたか も目のま えか ら死者の身体 を消 し去ることを、すなわち死 者の身体 を死 と同時 に「なきもの」とす ることを めざ しているかのよ うにみえる。それは身体 とき っぱ りと訣別する行為なのだといってよい。死が 身体 との訣別である とするならば、それは逆に、
身体であることこそが 「生きていること」の根拠 とな りうるもっとも基本的な前提 となっている ということでもある。そ して、死 にゆ くものの一 連の行為をともに歩む ことを最後 に、死者が「か かわれない相手」となる ことに照 らしていうな ら ば、身体的存在である ことは、おな じく生きてい る、つまり身体的存在である他者 と相互 にかかわ りあうための条件で もある。「人は社会のなかで 生きる」とは至極あた りまえの命題であるが、チ ャムスにおけるそ の内容は、まさに 「身体的存 在」として他者と相互にかかわることを意味する と考 え られる。「他者 との関係のなかに身体的存 在 として身をおくこと」こそが「生のかたち」な のであ り、同時に、人間の 「身体的存在」として の側面 を強調する徹底 した態度が、生身の身体を もって社会に在るとい う「生のかたち」(および、
その実感、根拠
)を
保証するのである。4.身
体 という「自然」身体が所与のものであることは、通常 の認識に おいてはまちがってはいない。か りに身体 を、そ れが生物学的所与 であるという前提 にもとづ い て、「人間が自己の内部にかかえもった自然」と いいうるとして、検討すべきは、その身体 という
「自然」にたいして人び とがどのような認識論的、
および存在論的意味づけをし、自らの了解世界に 位置づけているのか ということであろう。本研究 では、身体 を基軸に して強靭な思考を展開する人 びとの認識 と行為をとりあげ、身体 という生物学 的な所与が「生」を確認す る根拠 とな りうること、
そ して、そ こにはともに身体をもってかかわ りあ う他者が不可欠に介在する ことを実証的に示す ことを目指 した。人が生きている生物学的な根拠 は身体 という所与にある。 この生物学的な所与、
すなわち身体 という 「自然」は、 (「私」の)生 のかたち を社会的現場 にお いて築きあげるため の確固と した拠 り所 とな りうる可能 性 をふ くみ もつ ことを、今後、よ り多 くの民族誌的資料 を比 較検討することによって示 してゆきたい。
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