農でつながる : 土地・畑から見る原泉の自然資源
著者 浅川 瑞貴, 竹村 友花
雑誌名 掛川市・原泉. ‑ (フィールドワーク実習調査報告 書 ; 平成25年度)
ページ 43‑69
発行年 2013
出版者 静岡大学人文社会科学部社会学科文化人類学コース
URL http://hdl.handle.net/10297/7490
農でつながる
土 地 ・ 畑 か ら 見 る 原 泉 の 自 然 資 源
1
はじめに2
原泉の生業2 . 1
農業の歴史2 . 2
林業の歴史と現在3
歴史を刻んだ土地3 . 1
原泉の農地の今3 .
1.1
原泉の抱える農業の問題3 .
1.2
現在みえるかつての農地一一一泉地区3 . 2
農地を手放す3 . 2 . 1 原野谷 J 1 1
防水ダム建設3 . 2 . 2
居尻キャンプ場3 . 3
農地にはたらきかける人々3 . 3 . 1
森の都推進委員会の取り組み3 . 3 . 2
原泉茶業組合3 . 3 . 3
農家ごとの取り組み、工夫4 原泉の農文化
4 . 1
変わらない風景4 . 2
山とともに暮らす人々4 . 2 . 1
薪づくり・炭づくり4 . 2 . 2
食べ物の恵み4 . 3 r食べるJ
こと
4
.4 農家の嫁の仕事4 . 5
道で、つながる原泉4 . 6
おすそわけの文化4 . 7
原泉の農と食からわかること5 おわりに
1 はじめに
浅川瑞貴、竹村友花
調査地である原泉地域では、古くから農業が山仕事とともに生業の中心にあった。近年、
‑43 ‑
農で、つながる 土地・畑から見る原泉の自然資源
農業は全国的にみられるような後継者不足や高齢化により厳しい状況にある。しかし、原 泉の農は、過去の遺物ではない。私たちは商品経済としての農だけではなく、他の 2 つの 視点から原泉の農について考えてみた。 1つは、農地を中心に人々が土地にどのように働き かけてきたかについて、もう
1
つは、現金にならない農の意味についてという視点である。農業従事者が減っても、農業自体がおこなわれなくなっても土地は存在し続けるもので ある。土地利用は、さまざまな変化を経て現在に至っており、そこに必ず人々の関わりが 必ずある。原泉を農地という視点でみてみると、山間地特有の農地の問題、歴史的な農地 の変化や農地をめぐる出来事、農地を守っていく取り組みなどさまぎまな事柄が浮かびあ がる。農地は原泉における土地利用の中心であり続けているのである。また、実際に現地 を訪れると、商品用の農地だけではなく野菜を作る畑も数多く残っていた。しかし、現地 で聞き取り調査をしても決まって茶か米の話ばかりで畑の話は出てこなかった。彼らにと って畑はあくまで家庭用の作物を作る場にすぎず、そこでできた農作物を売るということ はあまりしないということがわかってきた。この土地には、商品経済としての農業だけで はなく、自然の恵みの使用や現金にならない家庭菜園など統計資料にのらない農のあり方 もあるのではないかと考えた。
そこで本章では、金銭を得るための農業として農を捉えるのではなく、それ以外の現金 にならない農や農に関わる人々の動きを含めたものとして農を捉える。第 3節では、農業 従事者は減少し、高齢化が進み、休耕地等の問題を抱える原泉の農業であるが、人々は農 地を中心にどのように働きかけてきたのか、現在の状況を紹介するとともに、原泉の人々 にとって農地とはどういう存在なのかということに関しても考えていきたい。第
4
節では、現金にならない農に注目し、原泉の人々にとって当たり前にある農の様子から原泉の農文 化の豊かさについて考察してし、く。実際に現地に赴き、感じてきた原泉の農について少し でも近づきたいと考えている。
2
節1
項と3
節は浅川が、2
節2
項と4
節は竹村が、それ以外の部分は共同で執筆した。2
原泉の生業2 . 1
農業の歴史原泉では生業の中心として農業が古くから盛んで、あった。掛川市全体としてみても農業 は長い間経済基盤の中心にあり続けてきた。農業がどのような経緯をたどって現在に至る のかを掛川全体の農業、そして基幹産業である茶業に注目しながらみていく
1 0
掛川全体として米作を中心とした農業がおこなわれ、また、自家消費用として雑穀やイ モ類などが栽培されていた。茶業に関しては歴史が古く、原泉も含まれる旧佐野郡では近 世から茶の栽培がおこなわれていた。しかし、本格的に茶栽培が広がるのは、幕末の横浜
l
本項の記述は特に言及の無い部分は以下の文献に基づいている(掛川市史下巻;尾沼2008)
‑44‑
港の開港によって茶の輸出が活発になってからである。このように歴史が深い茶栽培であ るが、特に原野谷川上流の原泉のような地域では比較的古くからおこなわれており、明治 期になると南東部の村々へと拡大した。開国直後の日本では特に輸出するものがなく、茶 は生糸に並ぶ換金作物として存在していた。
1 8 7 7 ' " " 1878
(明治1 0 ' " " ' ‑ ' 1 1 )
年に茶価が大下落し、茶業は痛手を受けたものの明治20
年 代に入ると物価の上昇により発展を遂げてし、く。1889
(明治2 2 )年からはじまる米価など
の農産物価格の上昇により農業は発展し、また、円安の影響で輸出産業の茶業は有利な状 況であり、普及率は高かった。1902
(明治3 5 )年の記録には、原泉の農家戸数 224
戸に対 し、製茶戸数は200
戸と高い普及率であるとわかる。このように掛川で拡大した茶業だっ たが、1898
(明治3 1 )
年の米西戦争により、輸入茶に関税がかけられ、アメリカへの輸出 中心の茶業は停滞期を迎える。また、日清戦争後の急激なインフレにより茶業労働者の賃 金が上昇し、製茶コストは増加したが、茶の価格がそれに及ばず苦しい状況にあった。そ のため農業の合理化が急がれ機械導入が日本全体として検討されるが、掛川iでは品質保持 の面から機械導入にストップ。がかかっていた。停滞していた茶業であったが、日露戦争から第一次世界大戦期にかけて再び発展する。
第一次世界大戦によるイギリス紅茶輸出減の代替として日本茶の輸出の増加と園内需要の 増加によって
1918
(大正7 )
年にかけて茶園は急増した。しかし、大正末から昭和初年に かけては、1929
(昭和4 )
年の世界恐慌による農産物価格の全般的な大暴落の影響で全国 的な農業恐慌が発生し、掛川も例外なく影響を受けた。山間部の原泉では米や麦の穀物生 産は自給自足程度であり、現金収入は茶業や林業が中心であるため厳しい経済状況にあっ た。原泉は経済更生の特別助成村に指定されたほどである。茶業は第一次世界大戦終了に よる輸出低迷で内需型へと性格を強めるが、大戦景気より賃金が上昇しコスト増加のため 製茶農家は減少してし、く。昭和
20
年代に入るとGHQ
による農地改革により自作農の創設が急がれ、原泉でも小作 率は26.2%
から7.9%
となり、掛川全体としても48.5%
から12.9%
へと減少した。祖国修 によれば、農地改革により農家の生産意欲が増進され、日本全体として戦後の食糧不足が 解消されてし、く。このころ日本全体では戦後の改革による工業の急成長で都市労働者との 所得格差が拡大していた(祖田2 0 1 0 )
。農村では若年層が離村し都市へ働きに出るという 動きがみられつつあった。掛川│では1950
(昭和2 5 )年の産業別人口をみると第一次産業は 63.5%
と高く、原泉単体だと88.6%
であり戦前と同じ農林業中心の産業構造を維持してい た。高度経済成長期に入る
1955
(昭和3 0 )年では、明治以降進んでいた茶の園内の需要が都
市部への人口流出によって高まった。当時は生産が追い付かず、1960
(昭和3 5 )
年には輸 入が自由化され、静岡では、茶業は斜陽産業とされていた。1961
(昭和3 6 )
年の農業基本 法により農業の選択的拡大と構造改革がおこなわれ、農業の近代化が図られた。畜産、果 樹、野菜の育成がなされ、静岡でもその影響があり、ミカンがその例である。しかし掛川‑45 ‑
農で、つながる 土地・畑から見る原泉の自然資源
では茶業の拡大が進められ、
1970
(昭和4 5 )
年の減反政策の影響もあり、昭和40
年代に は米を上回り農業生産額の50%
超を占めた。昭和40
年代は、都市部の巨大市場を中心とし た国内型の茶業によって茶の好況期を迎えた。高度経済成長を経たことによって、農業中心で、あった掛川も
1970(昭和 4 5 )年には第一
次・第二次・第三次各産業人口がほぼ同じ割合となった。さらに農業だけをみると、昭和30
年代前半から展開された新農村事業の影響もあり、1960
(昭和3 5 )
年には兼業農家が、専業農家を上回った。農業以外の仕事に携わる人が増えたが、まだこの段階では兼業農家 は第一種が
64%
であり農業取得が中心で、はあった。昭和40
年代になると農家戸数の減少が さらに進み、専業農家は激減し、兼業ち第二種の割合が増えていった。また、都市部への 人日流出が進み、原泉では大幅な人口減少で過疎が進んだ。昭和60
年代には、さらなる兼 業化が進行するとともに高齢化と後継者不足といった現在でもみられるような問題点が浮 かび上がってきたのである。8 , 000 7 , 000 6
,000 5 , 000 4 , 000 3 , 000 2 , 000 1 , 000 0
制炉農家戸数
昭和60年 平 成2年 平 成7年 平 成
1 2
年 平 成17
年 平 成22年 図1
掛川市総農家数の推移出典:掛川市統計書(平成24年度)をもとに浅川作成
原泉および掛川の農業は時代の影響は受けつつも古くからある米作と茶栽培を続けてき た。特に茶業は、浮き沈みを繰り返しながらも現在も農業の中心となっている。原泉地域 では、かつて各地区に茶工場が存在していたが、茶農家の減少に伴い、大和田にある第一 工場に合併している。実際に合併したのは、大和田、萩問、泉地区の第一、二、三の工場 であり、国の補助を受けながら合併した。他の茶工場は、元々大和田の茶工場に合併する はずだった第六工場は、借金もあったということで元々掛川出の長野県の方が請け負う形 で運営している。他には居尻地区の第五工場、そして自園自製農家が一軒である。原泉で は同じ地域といっても、各地区でとれる茶の性質、製法は異なる。そのため異なる地区で とれた茶を一緒に取り扱うのは難しいそうだ。原泉には合併していない茶工場、または自 製をおこなっている農家も存在するが、その点を気にしたためではないだろうか。しかし、
茶工場を合併せずに維持したいとしづ気持ちがありながらも、茶農家の減少という現状に は逆らえず、合併せずに経営を続けていくのは難しいようである。
‑46‑
掛川の農業は現在、後継者不足、高齢化、また、原泉ではさらに山間地特有の問題も抱 え、農家の数は減少している。特に休耕地などの問題は多くあり、これらは現在まで続け られてきた農業をこれからも維持していくためにも考えていくべき課題である。現在の原 泉の農業に関しては本章
3
節にて詳述する。2 . 2
林業の歴史と現在原泉は現在でも木々が多く茂る森がある。しかし、山林面積の広さは必ずしも産出額の 大きさとは比例しなかったようで、原泉の人々が林業から得る収入は少なかった。
1906
(明 治3 9 )
年の静岡県小笠郡統計書によると、掛川地域全体では3 0 . 0 1 0
反の山林面積があり、そのうちの約
4
害J I
にあたる1 2 , 170
反が原泉村に位置しており、当時林産物がある掛J 1 I
地域 の9
地区の中で一番広い保有面積を誇っていた。ただし、その面積の多くは山崎家(通称 松が岡)という大地主の所有だ、った。その証拠に、泉地区には、事務所という屋号が残っ ており、これはこの山崎家所有の山で山仕事をする人たちの事務所であったことが由来と なっている。原泉地域に残る屋号に関しては資料編にまとめであるため、参考にしていた だきたい。しかし、林産物収入を比べてみると掛川地域全体で
1 4 . 0 6 5
円の収入があったが、原泉村 は787
円で約5.5%
にすぎない。この要因のひとつとしてあげられるのが森林を整備してい たのかどうかである。同じ掛川地域でも倉真地区では、早くから山林経営を盛んにおこな っていた。植栽経費を見ると、1906
(明治3 9 )
年当時、原泉村が31
円の植栽経費をかけ ていたのに対し、隣接する倉真村は約8 . 5
倍の264
円の植栽経費を使っていた。山の利用方法として、木材を生産する以外にも、木炭やシイタケなどを売ることも考え られる。しかし原泉村は木炭やシイタケなどの出荷もあまり盛んではなかった。
1906
(明 治3 9 )
年の木炭の出荷額は357
円、シイタケは350
円であった。掛川地域にある原田村で は、木炭やシイタケの出荷が盛んだ、ったようで、1906
(明治3 9 )
年の木炭の出荷額は2
,225
円、シイタケは1
,063
円で、あった。つまり、掛川市にある山間部の村々はそれぞれの方法 によって経済的に山を利用していることが多いが、原泉地域は経済的な山の利用はあまりしてこなかったことがわかる(掛川市
1 9 9 2 )
。しかし、原泉地域の中でも、一番川上に位置する泉地区では「農業よりも林業がさかん であった
j
と話す人もいる。泉地区在住のA
氏(男性、70
代)は泉地区にあった財閥所有 の山で働き、現金収入を得ていたと話す。林業が全国的に低迷してしまった要因としでは、すでに多くの説明がなされている。以 下、田中淳夫
( 2 0 0 7 )
によれば、林業低迷の要因は、価格と品質、品揃え、安定供給のむ ずかしさの3
点がある。まず価格については本来、国産の木材の方が外材よりも山本価格2
は2
立木の状態での樹木の販売価格。一般には、丸太の市場価格から、伐採、搬出などに必要な経費を控除 して計算された幹の材積1n r
あたりの価格。( W e b l i o 辞 書 HP: h t t p : / / w w w . w e b l i o . j p / c o n t e n t / )
ー
47‑農でつながる 土地・畑から見る原泉の自然資源
安い。外材と比べ輸送距離もはるかに短いのに最終的に建築現場に届くときには外材の方 が安くなってしまう。この理由として田中は流通と加工コストの問題を指摘している。流 通の面での問題として一番大きいのが円高である。海外では、
25
年間で木材価格が3 . 3
倍 にもなり、国際価格が上昇したが、日本の場合は円高により、1.2
倍程度の値上がりに抑え られていた。また流通・加工コストの差も大きく影響する。海外では林道などの道路整備 や、雨天時でも伐採からトラックの積み込みまで 1台でできる高性能林業機械の導入が進 んでいる。これらの対策の遅れの理由として、日本では、山が急こう配であるからともい われるが、ヨーロッパにも日本の山以上のこう配を持つ山も存在しており、ここでもいい 木材が生産されているため、言い訳の材料にはならないと田中はいう。品質面での問題は、木材の乾燥度が挙げられている。建築材としてのいい木材の判断はどれほど乾燥が進んで いるかによる。きちんと乾燥していないと加工中に曲がりや縮み、歪みが出てしまうから だ。外材の多くが乾燥材であるのに対し、日本の木材は生木での出荷が多く、乾燥材は全 体の約
2害 I J
でしかない。国産材を乾燥させない理由としては戦後木材が良く売れたときの 名残や、実際の製材市場では乾燥非乾燥があまり価格に影響しないことが挙げられている。次に品揃えの問題である。日本の木材業界はユーザーの求めるものを供給していないと田 中はいう。今で、は合板やベニヤなどの間伐材でもさまざまな用途への需要があるが、日本 の木材は相変わらず柱や梁などの構造材ばかりを生産する傾向がある。そのため、建築家 の要望に応えられるのは、外材やプラスチックやコンクリートなどの製品になってしまう。
また、安定供給のむずかしさも重要な課題である。住宅メーカーにとって材料を欲しいと きに欲しいだけ手に入れられるというのはとても重要なことである。そこで、木材は工場 で一括して同じ形状、品質の木材を大量に作ることが求められた。工場の稼働率を高める ため、工場側は大量の木を仕入れなければならなかったが、国産材はこれに応えるだけの 能力がなかった。そこで仕方なく外材に頼ることになったと田中は指摘する(田中
2007)
。こうした林業全体の問題の影響は原泉でも変わらず、加えて、高齢化や後継者不足問題 もあり、一時期
t
原泉での林業従事者はほとんど見受けられなくなってしまった。しかし、最近になってこの流れが大きく変わろうとしている。
現在、原泉の山仕事の多くを担っているのは掛川市森林組合である。森林組合は森林所 有者で作る協同組合である。山の作業は大変なので、共同で作業をおこなう目的で作られ た。森林組合の使命は地域の山を守り、育て、活かすことである。「守る
J
とは、森林の持 っさまざまな公共的な機能を、損なうことなく発揮し続けてもらうことを指し、「育てるj
とは、先人が植え、育ててきた木や山を引き継ぎ、さらに活用しやすい木や山に育てるこ とを指す。さらに、「活かす
J
とは、木材やシイタケなどの林産物、きれいな空気や水など の森林の恵みを、おおいに活用することである。具体的な作業としては、守る仕事は測量・作図・
GIS
データ管理などの山の環境保全や 林道等の維持管理、気象害・獣害・不法投棄・所有者など日々の仕事をしながら森林の動 態を観察したりすることである。育てる仕事とは、苗木の植栽や下刈、間伐であり、活か明
48‑
す仕事とは、素材生産(木材の収穫)、森林作業路の開設、キャンプ場との提携などである。
森林組合に勤務する
B氏(男性、 30
代)は、地域の森林の成長量に応じた収穫をし、また 植栽をおこなって植林し、森林資源の循環利用をしていくことが理想だと話す。現在では 木材の売り上げだけでは採算が取れないので、間伐補助金を活用しながら作業をしている。他にも、
HP
や広報誌を使った森林の情報発信、地域の人たちへのチェンソー講習会、間 伐の技術を生かし、屋敷林伐採から庭木の努定まで、木に関するさまざまな仕事をおこな っている。森林組合には、今、若い職員が入ってきている。長年勤めてきた
50
代以上のベテランと20
代の若手の人数が半々になるほど、若い職員は増加傾向にある。「木も戦後復興の際に植えられた木が
70年近くたち、切り頃を迎えている。事務所もパソコンが並ぶようになり、
若い人も増えた。今まで下火になってきた林業だが、今後ますます発展するでしょう
j
とB 氏は話す。原泉の未来は山が握っているのかもしれない。3
歴史を刻んだ土地3 . 1
原泉の農地の今3 . 1 . 1
原泉の抱える農業の問題原泉では、大和田、平丹、萩問、居尻、泉の各地区でそれぞれ農業が盛んにおこなわれ ていた。作られていた作物は、イモ類や雑穀類から米、そして茶業中心へと変化し、農地 の利用も時代とともに変化している。現在、原泉の農家はほとんどが兼業農家であり、専 業農家はほとんどいない。また、専業農家も他の作物(ブドウ、キウイ、ナシ、レタスな ど)と合わせて農業を営んでいる。これは主要な農作物の茶の単価が低下したために十分 な収入が得られないことが影響しており、専業農家でも茶業一本でというのは難しいよう だ。さらに若い担い手、後継者不足も問題であり、茶業は 70~75 歳の方が中心となってお り、高齢化が深刻である。原泉は中山間地域であり、急こう配な地形が多くあるため大規 模な農地、平らな耕作しやすい農地を確保することが難しい。大規模経営が困難であるこ とで多くの収入を得ることが難しく、高齢化している農家にとって急こう配な地形での耕 作も困難である。原泉は山間地の特色と高齢化、後継者不足を合わせた農業の問題を抱え ている。
農業従事者の減少に伴い、原泉では農地の荒廃が問題になっている。耕作されていない 農地を表す言葉には、休耕地(畑作をおこなっていない土地、田畑として利用していない 土地)、耕作放棄地(世界農林業センサスによる定義であり、農作物が
1
年以上作付されず、農家が数年内に作付する予定がないと回答した田畑、果樹園を指す)、遊休農地(農林水産 省による定義であり、耕作の目的に供されておらず、かっ引き続き耕作目的に供されない と見込まれる農地を指す)などがあり、ここでは広く利用されていない農地を表す「休耕
‑49‑
- 50 -
農でつながる 土地・畑から見る原泉の自然資源
地」を使用する。その中で適宜、適する用語があればそれを使用する。原泉の農業は全国 的にみられるような高齢化、後継者不足といった問題を抱えており、急こう配な地形も合 わせ、休耕地が増え続けている。
3 . 1 . 2
現在みえるかつての農地一一泉地区泉地区は、原泉地域の中でも最も北に位置する地区である。現在の泉を原野谷川沿いに 歩くと、山の奥に行くにつれ水田も畑もみることはできず、草の生えたままの手入れのさ れていない土地ばかりだった。しかし、草が生え使われていない土地でも、よくみてみる と、石で固まれた水田の跡とみられる場所や人工的に作られたコンクリートの水路があっ た(写真
1
)。また、農業用に使われたであろう川をまたぐ小さな橋や小さな物置もみられ、かつてそこに農地が存在していた様子をみることができた。また、集落もなく人が住んで いる気配もないような山の奥の方まで電線や電柱があり不思議に思ったが、それは茶畑の 霜対策用の扇風機のためのものであった。これは、かつて茶畑が存在していたという証拠 である。他には、原野谷川を沿う道からそれで山を登っていくと茶畑が広がっている場所 も存在していたが、中には茶の葉が伸びてしまっているような放置され荒れた茶畑、前は 茶畑だ、ったのではなし、かと思われるような畑の様子もみられた。かつて泉地区で、も、サツ マイモや麦を作り、主には米がよく作られ、また、茶栽培もおこなわれていた。泉は山の 奥地の集落であるため、急こう配な土地が多く、大規模な土地で農業はおこなうことはで きなかったが、小さな畑や水田が数多く存在していた。山の奥地に行くにつれ茶畑は少な かったそうだが、茶業が盛んな時期は開墾をし、積極的に茶畑を広げていた。そのため、
かつての泉地区では原野谷川に沿って水田や茶畑が存在していたとし、う。
写真
1
泉地区のかつて水田、農業水路だったと思われる跡(浅川撮影)原野谷)
1 1
に沿って山の奥地まであった多くの水田や茶畑は今ではほとんどが無くなって いる。後継者がいなくなってきたという理由はもちろんだが、泉の急勾配な地形から機械 が入りづらく作業がしにくいなど、耕作するのに厳しい条件であったために主要な商品作 物で、あった米を作る人は減っていった。その後収入の高い茶を作り、米は自家消費用とい う家が増えた。泉は山の奥地であるために大規模な農地で茶を作ることは難しい。戦後、高度経済成長を経て好調だ、った茶業も昭和年代の後半からの食の多様化により国内需要の 低下で茶は売れなくなった。茶価が下がるにつれ、茶価が高かったからできていた茶も規 模が小さいために採算が合わなくなってしまった。規模が小さく、急こう配な地形では、
一人で使用できる大型の機械は導入できない。そのためほとんどの農家が二人で使用する
「可搬茶刈機」を使っている。この機械は夫婦で協力して使用するため、高年齢の農家で はどちらかが体が弱くなって農業ができなくなると続けることができなくなってしまう。
また、高齢の農業従事者にとって急こう配での農作業はとても厳しいものであり、多くの 畑を耕作するのは困難である。中山間地域の農業は特に高齢者にとって厳しいことが休耕 地の増えている原因のひとつで、ある。茶価の下落、地形面の影響による農業の労力の負担 や厳しさにより現金収入を求め、農業を離れてしまう人がほとんどである。現在は場所の 悪い土地は面影がないほど荒れてしまっている。さらに、泉地区の人々の収入の多くを担 っていた山仕事も木材の価値の低下により減り、農地や山地から人々は離れていき、使わ れない農地は増えていった。
茶の単価の減少などの影響を含む就業構造の変化やそれに伴う農業従事者の高齢化、農 業を続けていく上で厳しい条件である地形面の問題によって農地は使われなくなり放置さ れている土地も多い。このよるな要因は、原泉の他の地区でも見られるものであるが、原 泉全体としてある農地の問題である。自家消費用の畑や植林をするなど対策は農家ごとで とられているが、放置された土地は多くみられる。
3 . 2
農地を手放す原泉の農地が減ってきたことは、農家の数が減ったことによるものが大きな理由である が、他にも現在までの歴史の中で農地を失うきっかけとなったできごとが存在する。どち らも水害をきっかけにはじまったが、年代も農業事情の背景も異なるため、当時の人々の 反応に差がある。その点にも注目しながら以下の
2
つので、きごとをみていきたい。3 . 2 . 1
原野谷川防水ダム建設原野谷ダムのダム湖はほぼ全てが萩問地区に収まるが、現在ダム湖である場所もかつて は農地として使われていた。この防災ダム建設計画は洪水被害が多発していたことや
1 9 5 9
(昭和
3 4 )
年の集中豪雨による原野谷川の水害によって浮上した計画である。しかし、こ のダム建設による受益地域は萩間ではなく、原野谷川の下流の地域である。また、ダムが つくられることによって多くの土地がダムに沈み失われてしまうのである。ダム建設をし‑5 1 ‑
農で可つながる 土地・畑から見る原泉の自然資源
ようとする行政側に対して、大幅に土地が失われてしまう萩間地区の人々は反対し、毎日 ダム対策委員会の会合が催され反対運動が活発におこなわれていた。ダム建設によって直 接被害のない原泉の他の地区では、反対運動はおこなわれず、ダムがつくられる苧丹地区 も被害を受けるのはごく一部であり大きな損害はないため反対運動に参加することはなか った。当時では萩聞のみでの運動であり、原泉全体でこのダム問題を解決しようという意 識が少なかったようである。
反対運動が活発におこなわれたが、ダム建設は
1962
(昭和3 7 )
年に着手され、萩間の多 くの土地がダム湖に沈むことになった。農地を実際に失った農家は1 0
軒ほどであったが、農地が点在していたためすべての農地を失ったわけではなかった。失われた農地の多くは 水田であり、茶畑もいくらかあった。農地を失うことで、農家の収入が減ってしまうことは もちろんであるが、水田が減ってしまったことで食糧にも多少影響が出た。自給自足の生 活である農家の人々にとって、農地の買い取りによる一時的な金銭だけでは、継続的な食 糧供給に支障が出たのである。農地は買い取られたものの、継続的に耕作を続けようとし ていた農地を失うことはお金だけでは補いきれないものがある。インタピ、ューをさせてい ただいた
C氏(男性、萩問地区在住)も「米を続けて作っていく方が良かった。」と語って
いた。失われる農地に対しては、補償金による買い取りという形で補助があったが、萩問 地区全体への金銭的な補償はなかった。他の地域でのダム補償をみてみると、奥津淳によ れば、1957
(昭和3 2 )
年に完成した井川ダムでは、多くの家屋や農地が沈むため金銭補償 だけでなく、現物補償を中心に水没者の生活の回復や向上を目的とされた補償が加わった (奥津2 0 1 1 )
。この違いを生んだ理由は、井川ダムの補償元の中部電力の財源が豊富なた めである。それに対し原泉の原野谷ダムの補償をおこなうのは掛川市であり、十分な補償 をおこなうことができる財源が掛川市にはなかった。ダムによってすべての農地を失った わけではない農家であったが、農地を買い取られたといっても残った農地だけでは農家と しての生計を立てていくには少なかった。採算が合わないために残った農地も荒らしてし ーまい結果的にすべてやめてしまう農家もあった。農地を失うことで収入が減り、他の日雇 いの仕事に出る人や街の方や萩間以外へ引っ越す人もいて、ダム建設は農家の減少や萩間 の外への人の流出も招いたのである。ただし、全く補助金以外の対策がなかったわけではない。ダムに沈む農地の代替案とし て市や県からは山の土地を開墾する案が提案された。しかしこの開墾に関する県からの補 助はなく、農家の方々が個人で開墾することとなる。現在よりも山の価値が高く、畑で耕 作をするよりも利益があるために結局開墾はできずじまいに終わってしまったそうだ。他 にも代替案が提案されるもどれも上手くし、かず農地は失われていくのみだった。
ダムが建設された時代は、日本全国的に産業構造の変化があった時代であったが、原泉 では農業が中心であり、農地は萩間の人々の生業において最重要であった。農地改革によ り、農地は自らの所有物であるという意識は強く、そのため反対運動は活発におこなわれ た。ダム建設は萩間の人々の生活、生業に変化を与えた。当時の人々にとっての農業の位
同
52‑
- 53 -
置づけがどれほど、高かったのかうかがうことができる。写真
2
原野谷ダム記念碑(浅川撮影)3 . 2 . 2
居民キャンプ場居尻地区では、現在米は全く作られていない。以前は居尻でも水田があったそうだが、
水田があったとされる場所は現在、居尻キャンプ場とならここ温泉となっている。そもそ もこの水田があった場所は
1979
(昭和5 4 )
年の台風による集中豪雨で大きな水害を受けた。この台風による水害で、居尻の水田は砂利が流れ込むなど被害を受け、修復できないほど になってしまった。そこで当時の榛村純一市長と地元の青年団を中心に被害を受けた水田 一帯をキャンプ場にしようという取り組みがおこなわれた。水田再生には費用面などリス クがあったため、居尻の住民も水田再生よりも埋め立ててキャンプ場にすることに賛成し、
居尻の水田を市が買い取る形で事業がはじめられた。第三セクタ一方式による事業で居尻 キャンプ場は完成し、中部電力の鉄搭の補償費で温泉を掘り、ならここキャンプ場は株式 で運営されていった。
f
周囲が賛成し提供してくれたおかげで水田を修復するより良かっ たのではないかj
とインタビ ューに答えてくれたD
氏(男性、居尻地区在住、専業農家) は語っている。居尻全体に直接的な利益があったわけではないが、人の行き来が増えたこ とで道も整備され広くなるなど間接的な利益があった。居尻のキャンプ場の設置がされた 時代は、ダムがつくられた時代と比べ農家数も減少し、兼業化が進み、担い手も高齢者が 多かった。また、修復が難しいこともあり、農地を手放すことにダム建設の時代ほどは抵 抗がなかったのだろう。時代背景によっても農地のあり方や価値は異なることが考えられ る。住民による反対運動は特におこなわれず、周囲の後押しもあってキャンプ場ができ、農地は失われてしまったものの、二のような土地利用の変化により原泉に利益をもたらし
農で、つながる 土地・畑から見る原泉の自然資源
ている。
3 . 3
農地にはたらきかける人々農家の減少、農地の減少や放置の中、原泉の人々はさまざまな形で農地に対し、はたら きかけをおこなってきた。農家個人だけでなく、団体として協力し、さまざまな単位で農 地に関わっている。そのはたらきかけは、農地を守っていく取り組み、新たな農地の利用 方法などさまざまである。
3 . 3 . 1
森の都推進委員会の取り組み原泉地域で、農地を守るべく働きかけてきた団体としては、まず、森の都推進委員会が 挙げられる。
森の都推進委員会は、
1 9 9 3 '
(平成5 )
年に策定された「森の都土地利用構想Jの実現を 図るために発足した団体である。この委員会は、大和田、苧丹、萩問、居尻、泉の各地区 から代表が選出され、市農林課農政係が事務局を担っている。r
森の都土地利用構想」は、5つの基本目標の土地利用対策、農業振興対策、福祉・文化の振興対策、環境整備対策、余一 暇活用対策、そして地域ごとの目標により構成されている。
森の都推進委員会の原泉での取り組みのはじまりは、合併処理浄化槽を普及させ、汚れ の目立つ原野谷川の源流をきれいにしようという動きの中からはじまった。合併処理浄化 槽とは、し尿のみを処理する単独浄化槽とは異なり、し尿に加え生活排水も処理する浄化 槽である。当時、合併処理浄化槽がつくられはじめたころ、メーカー側から合併処理浄化 槽のモニターとして依頼があり、原泉地域はかなりの補助を受けながらひきうけた。森の 都推進委員会の取り組みはここからはじまり、合併処理浄化槽の普及活動は、
1 5
年簡も続いた。
森の都推進委員会の取り組みはさまざまであるが、農地の利用に関する取り組みは多い。
「コスモス祭り」は中でも大きく成功を収めた取り組みである。当時、国から減反が呼び 掛けられ、水田を休耕田にし、他の取り組みをおこなうことで補助金がもらうことができ た。大和田の現在農村広場になっている土地の水田にコスモスを植え、県の補助で休耕地 において農業体験(田植え、サツマイモ作り)をおこない、収穫し、この活動を中心にコ スモス祭、りを開催する。他にもお年寄りがつくった野菜が売られ、コスモス祭りは多くの 人でにぎわい、森の都推進委員会の活動の中心となっていた。コスモス祭りは、森の都推 進委員会ができる前の
1992
(平成4 )
年からおこなわれ2003
(平成1 5 )
年まで続いた。減反を背景に意図的に休耕地にすることで生まれた新たな農地利用である。賑わいを見せ たコスモス祭りで、あったが、台風により
2004
(平成1 6 )
年に中止となった。このころ補助 金の減少もあって元の土地の所有者が水田に農地を戻すということでコスモス祭りは継続 的に中止となってしまった。コスモス祭りの中止により、森の都推進委員会の取り組みは
2"'3
年間試行錯誤の期間に圃
54‑
- 55 -
入る。その聞は各地のキャンプ場や神奈川県の丹沢の管理釣り場などさまざまな取り組み の視察をし、参考にすることに努めた。空き家や、荒廃農地の問題も表面化し、空き家を 調べるという取り組みがおこなわれた。増え続ける休耕地やそれに伴い増える荒廃する農 地の取り組みも、コスモス祭り中止以前には、ナシやブドウなどの新規作物導入がおこな われていたが、集落として定着するまでに至らなかった。コスモス祭り中止後にも休耕地 の問題が挙がったものの、頼りにしていた補助金が減ってきたことで対策が厳しくなって いる。そこで少しでもお金になるものをということから、棚田を整備し共同管理でもち米 の耕作をはじめた。もち米はセンターの祭りの投げ餅やイベントで売られたり、地元の方 に売られたりすることもあるとし、う。
写真
3
共同管理されている棚田(浅川撮影)森の都推進委員会の取り組みのなかで、農地を利用した事業、休耕地対策など、農地へ のはたらきかけがおこなわれていた。しかし、補助金の減少や新たな作物を導入すること の難しさなどなかなか上手くし、かないことも多く、厳しい状況ではある。現在、森の都推 進委員会は解散となり、組織の再編として生涯学習センターの地域っくり部が跡を継ぐこ とになった。跡を引き継ぐ関係で、森の都推進委員会の元メンバーであるさくら咲く学校 のメンバーがサポートにあたり、森の都推進委員会からの引き継ぎもおこなわれている。
2 0 1 2
(平成2 4 )
年度の取り組みでは、さくら咲く学校を中心にソパ、ジャガイモが萩聞の 農地で栽培された。時代の変化によって農地の需要はさまざまであり、目的も変化してい る。グリーンツーリズムなど自然環境の良さが見直されている中で原泉でもそのような方 向性へ農地を活用しようと努力がされている。またゆくゆくは、新たな移住者が原泉に訪 れ、その人たちがその農地を使っていってほしいという思いもある。このような取り組み はまだ準備段階である。さくら咲く学校での取り組みと合わせ、農地の新たな利用がこれ から発展していくのではなし、かと考える。農で、つながる 土地・畑から見る原泉の自然資源
3 . 3 . 2
原泉茶業組合原泉の主な産業のひとつである茶畑に関しては原泉茶業組合が農地を守る活動をしてい る。大和田にある茶工場はこの茶業組合が管理しているもので、他の地区にあった茶工場 を合併し再編し、国からの補助を受けてつくられた。現在茶業組合員は
39
人であり、茶工 場に製茶のために茶を持つでくる方は35
人で、4
人はもう完全に茶の生産をやめてしまっ ている。原泉の問題である耕作放棄地は茶畑でも増え続けており、茶業組合では対策として組合 員によって茶畑を共同経営している。原泉の地形も関係していることはきいていたため、
耕作放棄地は泉や居尻のような山の奥地で多く存在すると私は思っていたが、インタビュ ーを受けていただいた
E
氏(丹問地区在住、茶業組合組合長)の近所でも放置されでいる 茶:胞が多くみられるそうだ。こうした耕作放棄地は、茶価の低下や高齢化、また後継ぎも 若い人が原泉から出て働き、定年になっても継し1
でくれないことから、増加している一方 である。増えすぎているために組合員で管理しようにも足りないくらいである。D
氏がた びたび「お茶ほど手聞がかかるものはなしリといっていたように、1 1
月から1
月の間以外 は、茶摘みの時期でなくとも消毒や肥料、草取りなどの茶畑の手入れ、秋には秋晩茶とい ったように年間を通して茶畑に関わらなければならない。そのため自分の畑を耕作しなが ら共同管理することはやはり難しい。また若い組合員には勤めに出て、土日で農作業をす る人も多いため、耕作放棄地が増えていくのをなかなか食い止めることができない。原泉 にある耕作放棄地はいずれも場所が悪く、車や機械の入りづらい土地である。急なこう配 の土地であるほど放置されてしまいがちである。さらにそのような土地で高齢の方が農作 業をするのはとても難しく、危険で、ある。高齢化していく原泉地域で、さらに農業を続け ていくのが困難になってしまっている。平らな土地であれば、作らなくなった農地も誰か が引き受けてくれるが、放置されていくのは、場所が悪い農地ばかりである。耕作放棄地の広がりに対して茶業組合では泉や居尻、また、原泉の外の原田地域で共同 管理をおこなっているが、なかなか組合員が全てをカバーで、きているわけではなく限界が ある。かつて組合で、は原団地域において共同ですべての茶畑を管理していたことがあった が、 2年ほどでおこなわれなくなった。 fそれは自分の茶畑は自分で管理したいという気持 ちがあるからだろう
J
とE
氏は語っていた。農家にとって農地は財産であるため中々自分 の農地を手放すことには抵抗がある。そのような考え方はインタビューをしてきたなかで その都度感じてきたことであり、茶畑以外においても同様で農家が農地を手放さずにいる のはそのためであると思われる。3 . 3 . 3
農家ごとの取り組み、工夫これまでは、原泉での団体でおこなっている農地の活用や農地を守る取り組みをみてき たが、農家個人の単位でも、農家自身が自分の農地を工夫して活用し、農地を守っていく
‑56‑
取り組みをおこなっている。
原泉には専業農家が数軒存在する。専業農家では、農業だけで生計を立てていくために さまざまな工夫がなされている。居尻地区の専業農家の
D
氏は、茶価の低下により茶だけ では収入が厳しくなっていくことを見越して、ブドウやキウイといった果物をつくり観光 農園も経営するようになった。ブドウやキウイを作っている農地は元々茶畑であった場所 であり、また、近所で農業をやめてしまった方の農地も利用している。他にも休耕地を観 光農園の駐車場にしたり、草刈jり場にしたりと農地の活用がおこなわれている。茶に関し ても自国自製にこだわり、プランド化して価値を高めることで他と差別化をはかり、茶業 を継続している。大和田地区の柴田牧場では、米や茶を作る傍ら、牧場経営をおこない 乳製品の販売等で観光客に人気である。このように専業農家では、時代の流れに合わせて、作物を出荷するだけの農業ではなく生産、加工、販売を総合する観光面も含む第六次産業 的な農業をすることで、農地を守っていく工夫をしでいるのである。専業農家以外でも、自 然薯や蕎麦、果物など新たな商品としての作物を導入している農家もいる。今まで続けて きた米や茶だけでなく新たなものを取り入れて、農地の利用を変化させ工夫をしようとい
う動きをみることができる。
しかしながら、上記での紹介した工夫や取り組みは、どの農家でも取り組んでいて、成 功しているわけではない。すべての農家が農業だけで生活できるような大規模な農地を所 有しているわけではない。高齢化で多くの農地で農業をおこなうことも難しい。新規作物 の導入は森の都推進委員会も取り組んだが、新規作物を導入するには費用がかかり、高齢 な農家には体力的な負担も大きく、敬遠されがちであり、上手くはし、かなかった。また、
原泉全体でイノシシの被害が非常に多くあり、新規作物の導入は、イノシシにも妨げられ ている。放置され荒れてしまった茶畑はイノシシの巣になってしまうため、休耕地が増え ていくことでイノシシも増え、さらに放置された農地は増えていくという悪い連鎖も起き てしまう。イノシシ対策は、原泉全体では取り組まれておらず、農家個人がおこなってい る。
原泉の中で、団体として、農家個人として農地を守ろうという取り組みがおこなわれて いるが、前述にもあったように「農家にとって農地は財産である
J
ということが念頭にあ るのだろう。農地を農地以外の他の利用方法に変化させるという面もあるが、ほとんどが 農地として維持していこう、自分の畑は自分でなんとかしようという考えである。収入を 得るために続けていく工夫だけでなく、自家消費用の畑として活用したり、耕作はおこな わないがあけわたさずに植林をしたり、自分の財産をなんとか残していくという工夫もみ ることができる。このような農家に根付く農地を守る考えや活動は、現在に近づくにつれ、原泉全体としての活動へと変化してし、く。自分の財産を守ろうという考えはもちろんだが、
荒廃した農地をなんとかして、豊かな自然あふれる原泉を取り戻そうという考えもあると 思われる。この地区を越えた原泉の中心としての役割を今後さくら咲く学校が担うことに 期待している。さくら咲く学校が原泉の住民を巻き込んだ地域おこしの中心となっていけ
‑57 ‑
農で、つながる 土地・畑から見る原泉の自然資源
ば、原泉の全体意識をさらに強め、農地を守る活動は活発になっていくだ、ろう。すでにさ くら咲く学校では農地を利用じた取り組みはおこなわれており、地域お亡しと合わせて取 り組まれている?土地を守る活動は、個人、地区ごとから原泉全体へと変化し活発化して いる。原泉全体で、の「原泉
j
を守ってし吋活動は、さくら咲く学校を中心にさらに活発化していくだろラ。
4
原泉の農文化4 . 1
変わらない風景原泉地域をぐるりと見渡せば、青々としたお茶畑や水田の中に、規模は小さいもののき れいに整備された野菜畑がところどころに見受けられる。あるものは家のすぐそばに、ま たあるものは水田の間に、あるものは道路わきにと、場所はさまざまであるが、どの畑も きちんと耕されて季節の野菜が少ふしずつ植えられていた。まさによき田舎の風景そのもの のような印象を受けた。
こういった野菜畑で植えられているものは、その時期にあった「時期のものJばかりだ。
調査に行った 6月初旬には、ジャガイモ、サツマイモ、タマネギ、ニンジンが食べごろで あった。 トマト、ナス、キュウリ、 トウモロコシなどの夏野菜も植えられていた。他にも ネギ、ダイコン、ウリ、カボチャ、ゴボウ、ラッキョウ、大豆、小豆など日常的じよく使 うものを中心に多くの種類を少しずつ作っているそうだ
o
さらに、コンニヤクイモのよう なめずらしいものでも自分で栽培している方もいる。しかし、こうした野菜たちはスーパ ーや市場に出回ることはほとんどなく、自分の家、もしくは親戚やご近所に配られること で消費させることが多い。こうL
た行動は農業が米からお茶へと変わり、農家の数が減少してきても変わらず残フてきたものだそうだ。
しかし、主作物の変化のように大きな変化はなかったものの、畑の様子にも変化はあっ たようだ。米が十分に食べられなかった時期、旨始と呼ばれるムギ畑が多く広がっていた。
ムギ以外でもソパ・ヒェ,アワなどの雑穀類を畑で栽培し、米とまぜで炊くことでかさ増 しをしていた。こうしたものはあくまで家で食べる用で売ることはしてこなかったが、最 近になって、観光用としてソパを栽培して売るようになったという。こうしたことはシイ タケ、ハチ今コなどの他の食べ物でも見受けられた。
こうした野菜は、学校給食にも使われていた時代もあった。│日原泉小学校がで、きる前、
居尻地区に小学校があったころ、学校給食は副食のみを学校で、作って出していた。子ども たちは自宅から米飯を持参し、食べていた。当時、t この小学校で、給食を作っていた
F
氏 (女性、7 0
代、居尻地区在住)によると、給食として出していたのは1
品か2
品程度で、お茶や脱脂粉乳などを一緒に出していたそうだ。材料となる野菜は父兄が学校まで、持って きてくれていた。当時この小学校には
1 0 0
名程度の生徒が在籍しており、学校ができた当 初は父兄にも料理づくりを手伝ってもらっていたそうだ。その後、専属の給食員が来て調‑58
四理するようになったそうだ。
また当時小学生だ、った
G
氏( 6 0
代、女性)は、当時の給食の中で一番印象的なものとし てカレー汁を挙げていた。これは現在のカレーよりもあっさりしていて野菜が多く入った カレー味のスープといった感じた、ったそうだ。それでも当時子どもたちには大人気だったとし、う。
4 . 2
山とともに暮らす人々原泉地域は標高
6 0 0 , ‑ . . ̲ , SOOm
の小高い山々に固まれた中山間地域である。そのため古くか ら山と密接な関わりを持ってきた。2
節でも触れたとおり、林業としてお金を稼ぐことはも ちろんであるが、それ以外にもさまざまな方法で山の恵みを利用してきた。本章ではこう したお金にはならない山の使い方についていくつか事例を挙げてみたいと思う。4 . 2 . 1
薪づくり,炭づくり薪づくりは、基本的に女の人の仕事であった。山仕事をする男の人と一緒に山に入り、
たがね
丸太を割ったり、落ちている枝を拾ったりして薪にし、撃でまとめたものを背益子に乗せ て下まで運ぶという作業だった。こうしたことは、かまどからガスへと生活スタイルが変 わっていく過程で徐々になくなってしまった。
H氏(女性、 70
代、泉地区在住)のお宅で は、地区の中でもかなり遅く、1975(昭和 5 0 )
年くらいまでかまどを使用していたそうだ。また、炭づくりもおこなっている。山の中腹に炭作り場があって、薪を使って作る。炭 作りも昔はかなり盛んにおこなわれていたようである。数は少なくなってきたが今でも山 で炭を作っている人もいるようだ。
4 . 2 . 2
食べ物の恵み春には山菜をとったり、タケノコをとったりして食卓に出している。調査中もハチコと いうタケノコを地元の方が出してくれた。ハチコは淡竹のタケノコで、普段イメージする 孟宗竹のタケノコと違い、初夏に食べられる。孟宗竹のタケノコは掘らないと食べられな いが、ハチコは地上に出ている部分が食べられるので害
] 1
と簡単に収穫することができるの だという。こうした竹は荒れてしまった農地や山林に多く生えてくるそうなので森の荒廃とうまく付き合っている側面といえるかもしれない。
また、他の恵みとしてキノコがある。主にシイタケであるが、ナラの木を山から切って きて菌を打ち、家の周りの日陰において栽培をしている。キノコ栽培も家で食べるための もので現金収入に代えようという意識はないようだ。最近になって出荷用としてキノコを 栽培する人もでてきた。
4 . 3 r食べるj
こと
これまで畑や山などの自然資源を上手に活用してきた例を紹介してきたが、ここからは
‑5 9 ‑
農でつながる 土地・畑から見る原泉の自然資源
こうした食材をどのように食べてきたのかという農家の暮らしについて紹介したいと思う。
まず、農家の食事は今のような三食制ではなく、四食食べていたそうだ。朝仕事に行く 前に食べ、
1 0
時と2
時ごろお弁当を食べ、夕飯を食べるというものだ、ったそうだ。二食の お弁当によく好まれて使われていた弁当箱が、メンパと呼ばれる昔ながらのお弁当箱だ。これは寸又峡や家山、千頭といった大井川の上流域で作られていたそうで、ヒノキが米の 水分を程よく吸収してくれるため、時間がたつでもおいしく食べることができるそうだ。
このメンパのフタの部分と下の部分両方にご飯を入れて二食分にした。特に山仕事をして いた方は、 1度山に入ると一日中山にいて{動いているため、とてもおなかがすくのでおひつ ごと抱えていったこともあったと話していた。
このメンパを利用した二食弁当は、原泉だけではなくメンパを製造している静岡市井川 地区でもみられる光景だ。
2011
(平成2 3 )
年度に、井川で調査した長原みずほによると、井川でも昔から山仕事をする人が多くメンパを使う人も多かったようだ。その井川メンパ も作り手が減少し、今では一軒のみしか製造をおこなっていないという(長原
2 0 1 1 )
。し かし、今回お話しをきかせていただいた A 氏が「メンパで、ないと飯がまずくなるj
と語っ ていたようにメンパファンは山道を通して広がっていた。おかずは梅干しゃ野菜の佃煮といった保存がきくものをごはんに乗せる程度だ、った。ま た、家で食べる朝、晩の食事でも現在のような品数はなく、主食と野菜の煮物が中心だ、っ たと話してくれた。こうした二食弁当や、日の丸弁当の話は
30
歳代の方にも経験者がいた ことから1970
年代までおこなわれていたようだ。煮物の味付けの調査もおこなった。何人かの女性に家庭で煮物を作るときに何を入れま すか、という質問をしてみたが、ほぼすべての方が醤油、だし、みりん、砂糖で味付けを していると回答した また何から出舟をとるのかいう質問には、だしこというサパやイワ シを粗く削った市販のものを使用している方、昆布からとる方、削り節からとる方など、
回答に個人差がみられた。このことから特定の「原泉の味つけ
j
といったものは存在せず、個人が選択しているようだ。
料理についても、母や姑が、子どもや嫁に料理を教えたり、地域の年配の女性が若い人 に料理を教えたりということもほとんどなかったそうだ。料理はあくまで見たり、食べた りすることで覚えていくという意識が強かった。しかし、最近になって昔ながらの料理の 仕方を年配の女性から教わろうという取り組みがおこなわれるようになったそうだ。教え ている料理は昔から食べられているものであるが、いわゆる郷土料理のようなものではな く、農家が普段からよく食べていたもので時代とともに徐々に食べられなくなったもので ある。例として、芋がらが挙げられる。芋がらとはサトイモの茎を乾燥させて保存食とし たもので、秋の収穫のときに乾燥させて、食べやすいように小さめに切り、密封できるよ うな容器に入れておくと 1年ほどもっという。この芋がらはサトイモのみしか使わない。
他の芋類の茎を同じように乾燥させると紙のようにスカスカしてしまい、アクも強いとい うのが理由だそうだ。
‑6 0
凶またイノシシについても話を聞くことができた。猪肉が食べられるのは
1 0
月から2
月く らいまでの寒い時期のみで、禁猟期間である夏場は基本的には食べられない。ただし、冬 場に捕獲し、精肉した猪肉の中で、すぐに食べないものは冷凍保存させるため、冷凍の猪 肉は備蓄がある間は一年中食べることができる。昔はマタギがし、て、山で猟をおこなって いたそうだが、今は猟友会や市の駆除によって捕まり、殺処分されてしまうことも多いよ うだ。それでも猪肉はかなり食べられていて、頻繁ではないが食卓に上ることがあるよう である。しかし、猪肉もすべての人が食べているわけではなく、個人の好みによってはま ったく食べない人もいる。捕づたイノシシは加工場まで運び、精肉してもらう。その後猪 肉は冷凍保存しておいて、煮物や、猪汁、焼き肉などにして食べるそうだ。匂い消しとし てニンニクやショウガをいれることが多いそうだ。4 . 4
農家の嫁の仕事今まで見てきたように原泉地域で、はお金にはならない農が今で、も残っていて、人々の食 生活を豊かにしてきた。こうした畑の仕事は主に女性、特に嫁の仕事であった。お金を稼 ぐ農業である田んぼやお茶畑の仕事は男性中心でおこなわれており、繁忙期には一家総出 で手伝うこともあるため、とても対照的である。畑仕事は基本的に女性の仕事であるため、
男性が手伝うことはほぼないようである。ただし、家によっては畑を耕すなど力が必要な 作業は男性が手伝うこともあるそうだ。農協に現在正式に登録している正組合員数は
2013
(平成
2 5 )
年6
月現在、原泉全体で233
人でそのうち男性は179
人、対する女性は52
人 と圧倒的に男性が多い。このことから、農業の中心は男性だと考えられていることがわか る。一方、女性部や婦人部といった女性の地域組織もこの地域にはしっかり残っている。女性部や婦人部は地域の自主防災活動では炊き出しなどもおこなっているそうだ。地域の 祭りにおいても神事などを取り仕切るのは男性だが、女性も食事を作るなど裏方として何 人かが関わることがある。
地域の女性の立場に関しては本報告書の 3章でも取り上げているのでそちらも参照して いただきたい。
4 . 5
道でつながる原泉現地に行くまでは、原泉は中山間地域で交通も不便そうだ、という印象を持っていた。
しかし、実際に行ってみると道を通じて人や物が交流をしていることが良くわかる。
現在、主要な道路は県道
39
号線である。この道は1916
(大正5 )
年に大和田トンネルが 開通したことで原泉地域と掛川市街をつなぐ道となった。この道ができてからは、掛川市 街へのアクセヌが良くなったため、スーパーへの買い物や、通勤のために掛川へ出で行く 人が急増した。しかし、
1 9 1 6
(大正5 )
年より前は、掛川市街よりも森町や現在は島田市に合併された 川根、家山、金谷の方へ行く道の方が主要道路であったことがわかった。J
!I根に出る道は‑6 1 ‑
農でつながる 土地・畑から見る原泉の自然資源
今ではなくなってしまったが、背負子にお茶を入れて提灯を手に下げながら運んだという 話を現地で耳にした。また家山への道は今も林道として残っており、森町への道は第二東 名ができてから整備されている。
昔は行商人がし、て乾物や塩漬けなどを運んでいたようだが、この行商人たちも森町や金 谷、家山方面から来ていたようだ。そのため魚などの生鮮食品は塩漬けにしたものしか運 ぶことができなかったので、当時はなかなか食べることのできないぜいたく品であったよ
うだ。
ちなみに行商人は今でも原泉を訪れている。原泉にはお年寄りも多く、町までの道が整 備されたとはいえなかなか自力で町まで行くことは難しい、という人も多い。そこで魚介 類や惣菜をトラヅクの移動販売で売りに来ているのだ。
1 9 9 0
(平成2 )
年から移動販売を はじめ、20
年近く続けているというI
氏(男性、焼津市在住)にお話しをうかがうことが できた。週に一回、焼津から 1時間ほどかけてこの地域にやってくる。他にも天竜の二俣 の方までいくこともあるそうだ。音楽を鳴らして来たことを知らせると、近所の方が財布 を片手に集まってくる。品物は魚が中心だそうだ。足がない人やお年寄りがお得意さんで 顔なじみもかなり増えたと話す。I
氏によると、御前崎出身の魚専門の方や、なんでも屋の ような静岡出身の方も原泉で商売をしているそうだ。このような行商が、原泉の食を豊か にしてきた。4 . 6
おすそわけの文化今回、畑でできた収穫物の話を聞かせてもらっているときにとても印象的だ、ったことは、
できた野菜を売るとしづ感覚が薄いということだ。無人市や地域にある農協主催のファー マーズマーケットなどに出荷する人もいなくはないが、多くは自分の家で消費してしまう か、ご戸近所や親戚筋に配ってしまうのだという。イノシシ対策としてデンサタ
3
を設置したり、毎日畑の世話をしたりとかなり労力も使っているし、商品として立派なものができ上 がっていると私は思うが、なぜ売ろうとは思わないのか、という点はとても気になった。
このことを地元の方に尋ねてみると、「規模も小さいし、商品になんてとてもならない」
と話される方がとても多かった。「市場に出すためには基準があるから
J rそもそもそうい った市場が遠くてなかなかいけなしリという意見も聞けたが、やはり畑はあくまで自家消 費用であるという意識がかなり根強いという印象をうけた。
4 . 7
原泉の農と食からわかること第 3項で紹介した芋がらの例から私が関心を持ったことは、原泉で守られてきた食の意 識である。芋がらはこの地域に限らず、全国各地で食べられてきたもので、この地域の特
3
正式名称は電気さく田畑や牧場などで、高圧の電流によって、野獣の侵入や家畜の脱出を防止する fさ くj
のこと。(経済産業省 原子力安全・保安院 電力安全課制作 「鳥獣害対策用の電気さくについてj
パンフレット
2 0 0 6 )
刷
62‑
別なものというわけでもない。地元の年配の方のお話しでは、昔、食べ物が少なかった頃 よく食べていたもので栄養価が高いというわけでもないため、いったんはあまり食べられ なくなったそうだ。しかし、ここ最近になって中高年を中心に芋がらを再び食べたい、料 理を習いたいという方が増えてきたそうだ。しかし、こういった方々は芋がらを郷土料理 として残そうという意識で習っているわけではない。昔の暮らしの良さを感じて、もう一 度習おうとしているのだ。
調査中、現地の方に「名物はなんですか」というと[何もないね
j
という言葉が返って くることが多かった。これは観光物になるような目玉商品がないということを意味してい る。地域おこしとしづ概念は意味が広く、さまざまな活動が含まれる。地域づくりの定義と して、恩田守雄は「地域固有の資源を活かして、地域住民の生活力を向上させることであ るJ(恩田
2 0 1 0 : 1 )
としている。さらに、思田は地域づくりに必要な地域資源してヒト、モノ、カネ、情報、組織(システム)の
5
つの要素を挙げている。なかでも、ヒト資源の 重要性を訴えており、「地域の風土と歴史の中で育まれてきた知恵を持つ住民が地域資源に は含まれるJ(恩田 2 0 1 0 :2 )
とし、その具体例として「農業中心の過疎の村の高齢者のも てなしが、その地域の「特産品j
にもなりうるJ
(思田2 0 1 0 :3 )
と評価している。また、モノに関して自然資源や人文資源
4
、歴史資源の例を示しているが、こういった地域独自のf 顔 Jとなるようなものだけが資源ではないことを指摘する。恩田は f
何気ない日々の生 活風景に、地域差や個性が強く表れる点に留意したしリ(思田2 0 1 0 :4 )
と語る。私も、実 際に原泉で生活するなかで、そのまま存在しているからこそ与えられる価値があるのだと 感じた。女性たちは昔ながらの暮らしを日々こなすなかで、生活の知恵、を取り入れながら こうした暮らしの良さを無意識的に守っているのではなし、かと思う。「伝統を守ろう
j
と懸命に努力しなくても残すべきものは自然と生活の中に残ってし、く。当たり前だと思ってやっていくことで守られてきたものがある。これこそが原泉の良さに つながるのではないだろうか。