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塚 飯 敬

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Academic year: 2021

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(1)

アンセルムス『選択の自由について』の考察

飯 塚

(序)

 アンセルムスは彼の論文『選択の自由について』(Dε妨θr鰯εαr砒r のωの始めに,

次の2つの問を提出している。

①選択の自由とは何か。(Quid libertas arbitrii est?)

②我々はそれを常に所有するのか。(Utrum semper illam habemus?)

 この2つの問に対して彼は先ず選択の自由の定義を与える(c.3)。そしてそのように 定義された選択の自由を我々が常に所有することを示している。アンセルムスの選択の自 由は,我々の意志にその自律的な働きを可能にするものであるが,一方神学的な観点から 意志の正しさ(rectitudo)と罪(peccatum)の問題,これと関連する神の恩寵(gratia)

の問題と深く関わり,多様な側面を持つ。この小論ではアンセルムスのテキストに即しな がら,その定義の理解を進めるとともに,彼の選択の自由の多面的な内容の持つ構造を少 しでも明らかにすることをめざしたい。この論文は教師(Magister)と生徒(Discipulus)

の対話の形式で書かれ,14の章からできている。内容から見て次の4つの部分に分けて考 察することもできるであろう。以下においてこの順序で考察を進めたい。

(一)第一章から第四章まで。ここでアンセルムスは選択の自由について「罪を犯しまた 犯さない力」(potentia peccandi et non peccandi)という見解を退け,「意志の正しさ をそれ自身のために保持する力」(potestas servandi rectitudinem voluntatis propter ipsam rectitudinem)という彼自身の定義を提出する。またその定義と平行して,これか

らこの論文の中で扱われる幾つかの間題が予め概説的に提出され,一応の解答が与えられ

る。

(二)第五章から第九章まで。ここでは上の定義によって与えられる選択の自由に より意 志は,他のいかなる力にも屈することのない自律的な力を持つことが示される。誘惑に負 ける場合にも意志は外的な力としての誘惑に負けているのではなく,自分が誘惑に対して 自らを従えさせていることが明らかにされる。

(三)第十章から第十二章まで。「聖書』では「罪をおかす者は罪の奴隷である」(2)と言わ れている。罪を犯す者の有するこの〈隷属〉(servitus)は人間が有するとされた選択の 自由と矛盾しないか。アンセルムスは自らの意志の正しさを放棄し,罪の奴隷状態にある 人も選択の自由を所有することを明らかにする。

(四)第十三章と第十四章。最後に選択の自由に対して与えられた先の定義が,過不足の ない内容を持つことが確認され,神,天使,人間の選択の自由について,その本質は同一 であるが,それぞれにおいて種々の仕方で存在することがまとめて述べられている。

(2)

(一)選択の自由の定義

(1)アンセルムスは第一章で上の2つの問を提出した後,選択の自由の定義について検 討する。先ず或る人々からよく言われている見解として「罪を犯すことも犯さないことも 出来る」(posse peccare et non peccare)という定義が生徒から提出される。しかし,こ の定義は明らかに不十分であることが彼から述べられる。何故なら,若しもこの自由が人 間に常にそなわっているのであれば,人間が神の恩寵を必要とすることはないであろう。

一方,この自由を人間が所有しない場合があるとするなら,その場合はその時に犯された 罪に対して人間は責任を負う必要はないことになろう。

 アンセルムスはこの定義を否定する。それは若しもこれが選択の自由の定義であるとす れば,最も自由を持つはずの神,善天使は選択の自由を持たないことになるからである。

何となれば神も善天使も罪を犯すことは出来ないのだから。生徒はこれに対して,神,天 使と人間の自由とは異なるという事実を指摘する。アンセルムスもこの事実を認めるが,

選択の自由はその定義に即して同一でなければならないことを主張する。例えば,種々の 動物は互いに異なる。けれども動物の定義は同一でなければならないように。だから神,

天使,人間の選択の自由に対して共通の定義を求める以上「罪を犯すことができる」とい うことは定義から除外されねばならないことになる。

(2)しかし生徒は「罪を犯す,犯さない」という選択の余地を残す方がどうしてより自 由ではないのか解らないと述べる。だがこの見方に立てば罪を犯し得ない神の方が罪を犯

し得る人間より,より不自由であることになろう。アンセルムスは「罪を犯すことが出来 る」ということが自由と相反し,かえって人を不自由にすると考える。このことを説明す るために,生徒に次の2つの意志の這いずれがより自由であるか(liberior),と問う。

①罪を犯すことのない正しさ(rectitudo)から,決してそれることが出来ないような仕 方で意志しているので,罪を犯すことがあり得ないような意志、。

②何らかの仕方で罪を犯すことへとそれることがあり得る意志。

 更にアンセルムスは①,②をそのような意志を持つ人を例に挙げて質問する。

①その人にとって適切であり,有益であるものを決して失うことがない仕方で所有する

人。

②その人にとって適切であり,有益であるものを失うこともあり得る仕方で,そして不適 切で有益でないものへと導かれ得るような仕方で所有する人。

 生徒は①の意志,人がより自由であることを認める。アンセルムスは更に「罪を犯すこ とは常に不適切で有害である」ことを認めさせることで,「罪を犯すこと」が人を自由に するどころか不自由にするものであることを認めさせる。従って「罪を犯さないような正

しさから決してそれ得ないような意志の方が,正しさを放棄し得る意志よりもより自由で ある」(3)ということになる。こうしてアンセルムスは次のように結論する。「罪を犯す力,

これは意志に付加されるとその自由を減少させ,若しも除去されると増加させるのである から,自由でもないし,自由の部分でもない。」(4)と。

(3)こうして自由の定義から「罪を犯す力」が除かれた。だがそのことにより,新たな 疑問が生徒から提出される。(5)それは先ず次の2つの疑問である。

①天使と人間の犯した原罪について,彼等が罪を犯した以上,罪を犯す力を所有していた

(3)

ことを認めなければならない。ところがこの罪を犯す力は選択の自由の内に含まれないと されたのである。それ故彼等は選択の自由によって罪を犯したのではないことになり,結 果的に彼等は必然的に罪を犯したことになるように思われる。

②『聖書』で言われているように「罪をおかす者は罪の奴隷」なのであれば,天使と人間 とは罪を犯すことで「罪の奴隷」となり得たのであり,従って罪は彼等を支配する力を有 していたことになる。だが彼等の有していた自由がもともと罪が支配し得るようなもので あったとすれば,それは本当に自由であったと言えるのか。

 この疑問は天使と人間とがかつて罪を犯したという事実から出発する。アンセルムスの 主張するように選択の自由から「罪を犯す力」を除去すると,①我々が罪を犯す場合,そ れは選択の自由に依るのではないことになろう。だが,それが選択の自由に依るのでなく 必然的な行為であるなら,我々はその責任を問われることもないことになる。②〈罪を犯 す以前には「罪を犯す力」を持たないような選択の自由を所有していた〉ということは,

罪を犯し「罪の奴隷」となり,罪に支配され得る可能性を持っていたことが現実に明らか になったことで否定されているのではないか。

 この疑問についてもう少し考えて見よう。この疑問は①〈選択の自由から「罪を犯す力」

を排除すること〉とく罪を犯す行為は選択の自由によって行なわれ従ってその責任を負わね ばならない〉ということが互いに矛盾していると思われるので,アンセルムスの選択の自 由からどうして「罪を犯す」ことが理解され得るのかが説明されねばならないことになる。

また②意志は誘惑に負けて「罪の奴隷」となったと言われる。だが「奴隷」は「自由」と 相反する概念であろう。では「自由」から「奴隷」となり得たのはどうしてなのかが説明 されなければならないことになるであろう。あるいは「自由」と「奴隷」のより具体的な 意味が何かが問題となろう。

(4)アンセルムスは,(二)の第五章から第九章の所でこの問題に改めて取り組むこと になる。ここでは簡単に次のように答えている。

①堕天使と最初の人間とは,いかなる外的な力によっても罪を犯すことへと強要されるこ とのない程自由であった。だから何かの強制によるのでも,何かの必然性によるのでもな く自発的に罪を犯したのであり,彼等が非難されるのは正当である。だが彼等は「自由で あった自らの選択によって罪を犯したのであり,それにより選択が自由であったところの

ものによってではない」(Peccavit autem per arbitrium suum quod erat liberum;sed non per hoc unde liberum erat)のである。つまり彼等は「それによって罪を犯すこと も罪に仕えることもできないような力」によってではなくて,「罪を犯す力によって,つ まりそれによって罪を犯さないような自由へと促されることも,罪への隷属へと強制され ることもないような力」によって罪を犯したのである。

②〈彼等が罪の奴隷となり得たのであれば,罪は彼等を支配することが出来たのであり,

従って彼も彼の選択も自由ではなかったのである〉ということは正しくない。何故なら,

隷属しないということがその人の力に属している人は,その人が隷属する力ではなく,隷 属しない力を用いる限りは,どんなものも彼を支配して隷属させることはできない。それ

はたとえその人が自分の力によって隷属し得るとしても同じである。

 ①ではアンセルムスは彼等が選択の自由によって罪を犯したのであり,従って彼等にそ の責任があることを明瞭に認める。だが,先に彼は選択の自由から「罪を犯す」力を除外

(4)

したのであった。そこで彼は自由であった選択が罪を犯したことを認めるが,それが本来 の自由に基づくのではないことを主張する。つまり「それにより自由であった」(unde liber erat)ところのものによるのではないとする。それと平行してアンセルムスは2つ の力を認め,一方は正しさと罪に対して中立的な力であり,もう一方は「それによって罪 を犯すことができない力」であるとしている。この後者がアンセルムスにとって本来的な 自由をもたらすのであろう。だから,アンセルムスの立場からすると彼等は「自由に」,

選択の自由によって罪を犯したのだから責任がある。しかしこの行為は本来的な「自由」

による行為なのではないというのであろう。だがここではより詳しい説明は述べられてい

ない。

 ②の説明としてアンセルムスは金持ちと貧乏人の例を挙げている。自由入としての金持 ちは,自らを貧乏人の奴隷にすることは可能である。しかし,彼がこれを行なわない限り は「貧乏人が金持ちを支配できる」と言うことはできない。若し言われるとすれば,それ は非本来的な仕方においてでしかない。何故ならそのことはあくまで金持ちの力に属する ことであり,貧乏人の力に属しているのではないからである。つまり金持ちが貧乏人の奴 隷となることができるのは,自分が選択の自由を持つからに他ならないとも言えるであろ う。それ故アンセルムスは,天使と人間が後で罪の奴隷となったとしても,それ以前彼等 が自由であり,自由な選択を持っていたことには何の支障もないと主張する。

(5)以上の2つの疑問は,天使と最初の人間が罪を犯したという事実から出発し,罪を 犯す以前の彼等の選択の自由について,疑問点を提出したものであった。アンセルムスは 彼等の選択が自由であったと主張し,これについて一応の解答を与えている。

 生徒の提出するもう一つの疑問点は,罪を犯した後「罪の奴隷」と言われている状態に おける選択の自由についてである。即ち,

      セ③罪を犯す以前に有していた選択の官由を彼等は罪の以後も保存することができたのかど うか,という問題である。(6)「罪の奴隷」ということは彼等の選択の自由が何らかの仕方 で制限されたことを意味するであろう。そしてそこから解放され,再び自由を回復するた めには神の恩寵が必要とされることが言われている。ではこのことは彼等の有していた選 択の自由が全く失われたことを意味するのか。また若し彼等になお選択の自由が存続して いるのであれば,「罪の奴隷」状態における自由とはどのようなものかが問われなければ ならない。

 アンセルムスはこの間に対して次のように答えている。③彼等は自らを罪に従えたけれ ども,そのことにより自分の内にある選択の本性的な自由を滅ぼすことはできなかった。

しかし,初めに彼等の有していたのとは別の,新たな恩寵無しには,彼等はその自由を使 用できない状態になった。

 この解答を理解するためには,本来の自由と「罪の奴隷」と言われる場合の奴隷状態 についてより詳しい説明がなされなければならない。このことは(三)の第十章から第十 二章において論じられよう。ここではアンセルムスは,先ず本来の自由とは何かを規定し ようとしている。ところで,アンセルムスにとって選択の自由とは後で見るように「力」

(potestas)である。そして力にとってその本性を規定する最も重要なものはその対象で あろう。従って選択の自由とは何かという問は,その対象が何であり,その対象とどのよ うな係り方をするかということと不可分である。力としての選択の自由の対象とは何であ

(5)

ろうか。アンセルムスは先に選択の自由から「罪を犯す」力を排除した時,罪を犯すこと のない正しさ(rectitudo)から決してそれることがない意志,例えば神の意志を最も自 由な意志であるとしていたのであった。彼は選択の自由は意志の正しさを対象とする力で あると考える。ではこの対象としての意志の正しさとどのような仕方で係るのか。この問 題はアンセルムスにとって何よりも神との関係において,神学的な背景のもとで考察され ねばならない事柄である。

(6)先ずアンセルムスは問う。彼等が罪を犯す以前,即ち明らかに選択の自由を持って いた時,彼等は何のためにその自由を持っていたのか,と。それに対して生徒は,彼等に とって「意志すべきもの,そして意志、することが有益なものを意志するため」(ad volendum quod deberent et quod expediret velle)であったと答える。アンセルムスはそのこと

を確認して,そこから彼等が選択の自由を持っていたのは,意志の正しさ(rectitudo voluntatis)のためであったと結論する。何故なら「彼等が意志すべきものを意志してい

た限り,彼等は意志の正しさを有していた」(7)のだからである。

 選択の自由がアンセルムスによって意志の正しさに係る力であることが確認された。し かし,意志の正しさと具体的にどう係るのかが次に考察される。ここでは神学的な観点か ら人間にとって意志の正しさのあり方が規定される。アンセルムスは「意志の正しさに対 して彼等はどのような仕方で選択の自由を所有していたのか」と問うて,次の4つの選択 肢を提示する。

①彼等が未だ正しさを持たない時にそれを授与訳無しに獲得する (capere)するためか。

②未だ所有していない正しさが所有すべく与えられる時,それを受け取る (accipere)た

めか。

③受け取られた正しさを放棄し(deserere),失われた正しさを回復する (resumere)た

めか。

④受け取られた正しさを常に保持する(servare)ためか。

 アンセルムスの解答は④である。何故なら,①授与者無しに獲得することは出来ない。

②人間が初め,意志の正しさを所有するものとして創られたことは信じねばならないこと がらである。③正しさを放棄することは罪を犯すことであり,選択の自由から除外されね ばならない。正しさを回復することはあり得るとしても,そのために選択の自由が与えら れたわけではない。④残るところは与えられた意志の正しさを保持するために,理性的存 在者に選択の自由が与えられたということである。

 ここにはアンセルムスの選択の自由と意志の正しさについての基本的な立場が表われて いる。即ち,選択の自由とは意志の正しさに係る力なのであるが,その意志の正しさは初 めから神により与えられたものであること。だから,人間の選択の自由はその正しさを獲 得する(capere)のでも,受け取る(accipere)のでも,回復する(resumere)のでもな

くて,保持する(servare)のであるということである。

 更に,意志の正しさを保持することは,何か他の目的のためにではなく,意志の正しさ それ自身のためでなければならないことが指摘される。アンセルムスはそれ自身のために 保持された意志の正しさが正義(iustitia)であって,意志の正しさを保持すべき選択の

自由も,この正義に役立つものでなければならないと考える。

 以上のように選択の自由を規定してきて,アンセルムスは「自由な選択とは意志の正

(6)

しさをそれ自身のために保持することのできる選択以外ではないことが今や明らかであ る」(8)(lam ergo clarum est liberum arbitrium non esse aliud quam arbitrium potes servare rectitudinem propter ipsam rectitudinem.)と結論する。

(7)アンセルムスの下した選択の自由の定義に対し,生徒は再び先の疑問を提出す る。(9)「罪の奴隷」とは意志の正しさが失われた状態に外ならない。従って彼等が罪を犯 した後には選択の自由の保持すべき意志の正しさがない以上,選択の自由も,またないと 言うべきではないのか。

 これに対しアンセルムスは次のように答える。我々の有するどんな力もそれ自身のみで 働くには十分ではないであろう。けれども,それ無しには我々の力が働かないといったも のを我々が持たない場合でも,我々の力に関して言うなら,それ故に我々の力が少なくなっ たとは言えないであろう。このことは道具について一般に言える。どんな道具もそれだけ では働くことができない。それがないと道具を使用できないといったものがない場合,我々 は道具を現実に使用できない,しかしだからといって我々は道具を持たなくなったわけで はないであろう。

 またアンセルムスは山を見る人の例を挙げる。「視力」を持つ人は山を見る力と道具を 持っている。しかしその人に現実に山が見えるためには対象としての「山」,山を照らす

「光」,更に山とその人を遮るとか,その人が目を閉じているといった「障害」がないこと が必要である。これら他の条件がそろって初めて人は山を現実に見ることができる。従っ て,他の条件の不足のために山が見えないという場合,だからといってその人が見るため の力と道具を持たないと言うことは正しくない。

 それ故たとえ見られる対象がなく,我々が闇の中に置かれ,目を閉じられているとして も,そのことにより我々の見るための力自身が失われるわけではない。そのように意志の 正しさがなくても,意志の正しさをそれ自身のために保持する力を我々が有していること

には何の支障もないとアンセルムスは主張する。それは,我々の内に理性(ratio)があっ て正しさを認識でき,意志(voluntas)があってそれにより正しさを保持することができ るからである。そしてこの理性と意志とから選択の自由は成立するのである。

(8)生徒はここまでの考察を簡単にまとめているが(10),それを整理すると次のようにな ろう。①選択の自由とは意志の正しさを(それ自身のために)保持する力であること。② この力は理性的存在に常に具わっていること。③この力は最初の人間と天使の選択におい て,自由であったこと。④彼等の意図に反して意志の正しさは決して除去され得なかった

こと。

 以上見て来たようにアンセルムスは(一)において,選択の自由とは何かという問に対 しその定義を与えてきた。そしてその定義を与える過程で,生じて来た問題について一応 の解答を与えた。その問題とアンセルムスの答えをここで簡単に振り返っておこう。

問題。

①アンセルムスの定義によると選択の自由とは意志の正しさを保持する力であり,罪を犯 す力は除外される。だが最初の人間,天使は罪を犯した。彼等がこのことにより責任を問 われるとするなら,彼等は選択の自由により罪を犯したのである。では選択の自由から罪 を犯す力を除外することは誤りではないのか。

②最初の人間,天使は明らかに選択の自由を持っていた。にも拘らず罪を犯し,「罪の奴

(7)

隷」となった。従って彼等が始め持っていた選択の自由とは,罪が支配し得るようなもの であったのであり,従ってそれは自由とはいえないようなものではなかったか。

③彼等は罪を犯すことで「罪の奴隷」となった。これは選択の自由の何らかの制限を意味 する。従って罪を犯した後,彼等は選択の自由を喪失したのではないか。

 ところで,③の問題は選択の自由の定義がアンセルムスにより「意志の正しさをそれ自 身のために保持する力」とされたために次のように言い換えられた。③彼等は罪を犯すこ とで,意志の正しさを喪失した。だから保持すべき正しさがない以上,選択の自由もない のではないか。

 これらの問題に対し,アンセルムスは(一)で一応の答えを与えて来た。その要点は,

①「選択が自由であった」ということと,「それにより自由であったところのもの」とは 区別される。また自由に選択したということと,それが本来の自由による行為であるとい うこととは別である。正しさと罪に対して中立的な力と,それによって罪を犯すことがな いような力とが区別されること。

②意志の正しさを持つ人がこれを放棄するのは,自分で自分の意志の正しさを放棄するの であり,それはあくまでもその人の選択の自由に基づく。だから「罪がその人を支配し得 た」というのは非本来的な言い方でしかない。     

③選択の自由とは意志の正しさを保持する「力」である。ところで我々の「力」はそれだ けで働くことができない。その対象等が必要である。だが必要なものがなく従って現実に は働くことがない場合でも,我々の力に即して言うなら,我々は相変らず自分の力を所有

していると言ってよい。

(二)選択の自由と意志の自律性

(1)(一)においてアンセルムスは選択の自由を「意志の正しさをそれ自身のために保 持する力」と定義した。ところでこの力を我々が現実に所有するかどうかは,我々の意志 が誘惑等の外的な力に対して,現実にこれに打ち勝ち,自らの正しさを保持できるかどう かということ,また我々の意志がそのようにして自己の自律的な働きを保持できるか,と いうことにかかっているであろう。(二)では人間の選択の自由の働きが,外的な力とし ての誘惑(tentatio)との関係においてより具体的に規定される。

 第五章で生徒は我々の意志が「不本意にも」(invitUS)何かをすること,何かを放棄 することがあることを提起する。例えば「殺害されないために不本意にも嘘をつく」よう な場合である。この場合,若しも「不本意にも」(invitus)ということが「意志、せずに」

(nolens)とか,「必然的に」(ex necessitate)いう意味であるとすると,不本意にも嘘を つくとは意志せずに,あるいは必然的に嘘をつくことになり,従ってここでは選択の自由 は働いていないように思われる。

 だがアンセルムスは,「不本意にも」(invitus)意志する,「意志せずに」(nolens)意志 するということを厳密な意味では認めない。厳密な意味では,意志は決して「不本意に」

意志することはないのである。例えば人は不本意にも縛られることがあり得る。何故なら 意志せずに縛られることができるから。同様に不本意に拷問にかけられたり,殺害される

(8)

こともあり得る。けれども不本意に意志することはあり得ない。何故なら,意志する者は

〈自分の意志すること自身〉を意志している(ipsum suum velle vult)のであり,従っ て不本意に意志するとは,〈意志せずに意志すること(nolens velle)〉を意志することに なるが,このことは不可能だからである。

(2)それ故我々が意志する場合は厳密には全て意志して意志する (volens velle)とい うことになろう。だが生徒の挙げた例「殺害されないために嘘をつく」場合はどうであろ うか。アンセルムスはこの場合にはある意味では「意志せずに意志する」(nolens velle)

ということが成り立っていることを認める。

 というのは我々の意志には2つの場合があり,ある場合にはある物を「それ自身のため に」(propter se)意志する。だがある場合にはある物を「他の物のために」(propter aliud)

意志するからである。前者の例は我々が「健康のために健康を意志する場合」の意志であ り,後者の例は「健康のためにアブサン酒を飲む場合」の意志であると言う。

 だから「殺害されないために嘘をつく」人は,若しその人がもともと真理を愛する人で あるなら,その人は「生命のために嘘をつくことを意志している」が同時に,「嘘のため に嘘をつくことは意志していない」と言うことができよう。だから,この意味では「意志 しないで意志している」(nolens velle)ということが成立しているのである。従ってこの 場合,嘘をつくことで意志の正しさを放棄するとすれば,ある意味でその人は「不本意に

も,あるいは意志、せずに放棄した」ということが成り立つと言えよう。

 しかし,アンセルムスは「嘘のために嘘をつくことを意志していない」としても「生命 のために意志の正しさを放棄することを意志している」ことは事実であるとし,「我々の 語っているのはこの(後者の)意志についてである」と述べ,この観点からは我々の意志 は全て「意志して意志している」のであり,その意味では我々が「不本意にも」意志の正 しさを放棄するという場合も,放棄することを意志して行なっているのであると主張する。

 だからアンセルムスはこの場合「嘘をつくか,殺害されるか」というこの二者択一の状 況に置かれたこと自身は「不本意に」であり,「意志せずに」であることを認めるが,そ のいずれか一方を選択したことはあくまでその人が「意志して意志している」のであり,

そこでは選択の自由の力が行使されているのであり,意志の自律的な働きが働いていると 主張する。

 (3)言葉の表現上は「不本意にも」とか「必然的に」とか言われるが,しかし現実に は「意志して」行なっている場合のもう一つの例をアンセルムスは提出する。(11)これは我々 が「困難なしにはやれない」ためにこれを「やらない」場合,我々はこれを「やることが できない」と言い,あるいは「必然的にあるいは不本意にもこれを放棄する」と言うよう な場合である。また逆に「困難なしにはこれを放棄できない」ためにこれを「やる」場合,

我々が「不本意に,意志せずに,必然的にやる」と言うような場合である。

 先の「殺害されないために嘘をつく」という事例は,この観点から見ることもできる。

この人が「殺害されないために嘘をつく」のが「不本意にも,意志せずに,必然的に」で あると言われるのは,「死という困難なしには」嘘を回避することができないからに他な らないとアンセルムスは主張する。

 だから(2)で見たように生命のために嘘をつく人が「不本意にも」嘘をつくというの は非本来的な用法である。何故なら嘘をつくことを「不本意にも意志する」ということが

(9)

非本来的な用法であるから,とアンセルムスは主張しているが,(3)の観点からも「死 という困難なしには」嘘を回避できないために嘘をつく人が「不本意にも」嘘をつくと言 われるのは非本来的な用法となる。何故なら「困難である」ということは「不可能」とい うことではないのであり,嘘を回避する可能性は残されていたのであって,その人はその 可能性を放棄して嘘をつくことを選択しているのである。だからこの人が「不本意にも」

嘘をつくと言うのは,先と同様「不本意にも,意志せずに意志する」ということになり,

これは非本来的な用法と言わなければならない。アンセルムスの言うように,「嘘をつく 時には嘘をつくこと自身を意志している。そのように嘘をつくことを意志する時には,意 志すること自身を意志している(vult ipsum velle)のだから」(12)である。

(4)こうして我々に選択の自由の力がある限り,我々は自分の意志の働きについて,こ れを最終的に意志して意志しているのである。この意味で我々の意志は自由で自律的な働

きをしていると言ってよいであろう。アンセルムスは言う「その人の同意なしには,他の 力がこれを従えることができない意志は自由でないことがどうしてあるだろうか」(13)と。

だが,生徒はここで一つの注文をつける。その者の同意なしには,外的な力に従えられな いということだけではその者が自由であるとは必ずしも言えないのではないか。彼は問う,

「同じ理由で馬の意志も自由であると我々は言えないでしょうか。意志しているのでなけ れば,肉の欲求に仕えることはないのですから」(14)と。

 勿論,アンセルムスは馬の意志が人の意志と同様に自由であるとは考えない。それは両 者の間の次の相違によるとする。馬の意志は自己自身を従属させているのではなくて,肉 の欲求に本性的に従属させられていて,これに必然的に仕えている。これに対し人間の意 志は「それが正しい(recta)限り,それに従うべきではないものに仕えることも従属す ることもないし,意志自身が同意すべきではないものに意志して(volens)同意すること なしには,如何なる外的な力によっても,その正しさ(rectitudo)自身から離反させられ ることはない。そしてこの同意を,馬のように本性的に,必然的に所有するのではなくて,

明らかに自己自身から(ex se)所有すると思われる」(15)のである。

 人間の意志が自由であるのは,自らの同意なしには如何なる外的な意志にも従わないと いうことによるが,同時にその同意が自然本性的,必然的なものではなく,意志がそれ自 身から所有することにもよる。つまり我々の意志は,自然本性の必然性に従属するのでは なく,意志の正しさという意志のあり方そのものが,我々の意志の守るべきもの,目的と なりそのことから我々の個々の意志が規定されて来ることによって自由なのである。

(5)だから我々の意志は自己の正しさを保持し,その正しさを維持し続けるような選択 をし,行為している限り自由であるということになる。そしてその限りで,他のものに支 配されることはあり得ない。アンセルムスは言う。正しい意志にとって「正しさを忍耐強 く意志していることが勝つということであり,意志すべきではないことを意志することが,

敗れるということなのである」(16)と。従って外的な力,例えば誘惑が意志に打ち勝つとは,

意志が自らの保持すべき正しい状態を自分で放棄して,意志すべきではない物を「意志、し て意志する」ことに他ならない。それ故「意志は正しさを保持することに対し,自由であ り,誘惑や罪から自由である」と結論される。(一)の(4)で「金持ちと貧乏人」の例 を見たが,ここでもアンセルムスは「誘惑が正しい意志に打ち勝つことは決してできない。

そのように言われる場合は非本来的な仕方でしかない」と述べ,「誘惑が正しい意志を破

(10)

ることができる」(tentatio potest vincere rectam voluntatem)とは「意志が誘惑に自 己を従属させることができる」(voluntas potest se subicere tentationi>という意味に 他ならない。それは丁度逆の場合,例えば「弱者が強者により敗れることができる」とは

自分自身の力によって「できる」と言われるのではなくて,他者の力によるのであり,こ の場合は「強者が弱者を破る力を所有する」という意味に他ならないのと同様であると二

つ。

(6)生徒はアンセルムスの以上の議論が十分説得力を持つことを認める。生徒は「あな たが我々の意志に対するあらゆる攻撃を撃退され,如何なる誘惑にも我々の意志を支配 することを許されない」(17)ことを認める。しかし同時に,誘惑に敗れる時我々全てが我々 の意志の内に明らかに経験する,ある無力(impotentia)を無視することもできないこと

を主張し,「あなたの証明されたかの力と,我々の感じるこの無力」(illam potentiam quam probas, et istam irnpotentiam quam sentimus)とを適合させることを要求する。

 この無力は我々が意志の正しさに忍耐強く固着できないところに成立する。我々がこの 無力により,正しさに固着しない時に,外的な力によりそこから離反させられるのであっ て,その外的な力が誘惑の力に他ならない。誘惑はある物を我々に勧めるが,我々の意志 がそれを意志しなければ,正しさから離反させることはできない。しかし,誘惑は自分の 力で自己の勧める物を意志するようにと我々の意志を強要するのである。

 だがアンセルムスは言う。我々は時には「困難なしには」誘惑の勧める物を意志しない ことができない程,圧迫されることがあることを認めざるを得ない。しかしだからといっ て,その勧める物を我々が意志しないことが「決してできない」という仕方で圧迫すると は言えないと。例えば,殺害されないために嘘をつく人は,死を引き受けずに,暫くの間 生命を保とうとしたのであるが,その人が永遠の死を避け,終なき生命を得るために,嘘

をつかないことを意志することが不可能であるとは誰も言えないのである。

 だから誘惑に同意し,正しさを保持できない時に,我々の意志の内に見出されるこの 無力は,保持することの「困難性」(difficultas)に由来するのであり,「不可能性」

(impossibilitas)に由来するのではない。先に見たように,我々はそれが我々にとり「不 可能」(impossibile)だからではなく,「困難なしにはできない」(sine difficultate non posse)故に我 々はそれを「できない」(non posse)と言うのであり,この「困難性」は それが「不可能性」ではない以上,意志の自由性を滅ぼすことはないと主張する。

(7)以上のようにアンセルムスは,一見すると外的な力に支配されているように思われ る場合にも,我々の意志は自律的な働きをしているのであり,正しい意志にとってその正 しさを保持することは常に可能であり,その意味で常に自由であることを確認して来た。

だが生徒は第七章で,意志が現実に誘惑に敗れる場合を問題にする。「誘惑に敗れる時,

意志、が誘惑より強いということを私は決して肯定できないのです」(1のと彼は述べる。

 アンセルムスのこれまでの主張からして,先に(5)で見たように「誘惑が正しい意志 を破ることができる」とは「意志が誘惑に自己を従属させることができる」ということに 他ならないのであり,誘惑に敗れる時にも意志はその自律的な働きを行っているのである。

それ故外的な力としての誘惑が自分自身の力で意志を破ることはできないのである。だが 意志の正しさを放棄して,誘惑の勧める所に従ったということは「意志すべき物」よりも

「誘惑の勧める物」をより強く意志したということであり,結果的に意志の強さよりも,

(11)

誘惑の強さが強かったということを事実として示していないか。この所に生徒の疑問が残っ たのである。

 アンセルムスは生徒のこの疑問が意志の二義性(aequivocatio)の無知に由来すること を指摘する。アンセルムスは意志(voluntas)が「道具」(instrumentum)としての意 志と,その道具としての意志の「働き」(opus)としての意志という二義性を持つことを 明らかにする。この区別は能力についての,アリストテレス以来の可能態と現実態の区別 に基づく区分に近い。我々は意志という能力を常に有するが,その能力を常に現実的に働 かせているわけではない。現実的に働かせていない場合にも我々が意志という能力を持つ ことは変わらない。アンセルムスの道具としての意志は,能力としてめ意志に,働きとし ての意志は,その現実態における能力の行使に,それぞれ対応すると考えられよう。そし てアンセルムスによれば,道具としての意志は我々が何を意志しようと常に同一であるが,

一方働きとしての意志は,我々の意志の対象の多さとその回数の多さにより多様となるの

である。

 アンセルムスは,働きとしての意志はそれぞれの場合において,ある時は強くある時は 弱く意志するが,道具としての意志の有する強さ (fortitudo)は常に同一であり,意志の 強さはこの道具としての意志を考えるべきであると主張する。彼は次の例を挙げてい

る。(19)ある力の強い男がいて,ある時その人が雄牛をつかまえて動けないようにしていた とする。ところがまた別の時には,その人は雄羊を捕えていたが,逃げられたとする。こ の場合,その人の力が弱くなったわけではなく,その人の力は同一であるが雄牛の時より も雄羊の時に少ししか力を行使しなかったのだと彼は言う。そのように道具としての意志 は不可分で如何なる外的な力にも凌駕されない強さを有しているが,この強さを意志はあ る時には強く,ある時には弱く行使するのであると主張するのである。

 だから誘惑に負ける時,意志はその本来の強さを「意志すべき物」より「誘惑の勧める 所の物」に対してより強く行使し,その結果「意志すべき物」が放棄される。だがそれは 意志が「意志すべき物」に対してもっと強く行使しなかったということを意味するだけで

あり,そしてそのように行使することは絶対に可能であったとアンセルムスは考える。

(8)最後に生徒は「では神は意志からその正しさを取り除くことができるでしょうか」(20)

と尋ねる。アンセルムスは神でさえも正しさを持つ意志から,その正しさを切り離すこと はできないと答える。神が正しい意志、からその正しさを除くことを意志するならば,それ は神がその「意志することを意志しない」ということになり,不合理に陥るからである。

 我々の意志が意志することを,神が意志している,そのようなものを我々が意志する時 に,我々の意志、は正しさを保持しているのである。ωだから,神が我々の意志から正しさ を取り除くことを意志する場合は次のようになるのであろう。我々の意志が意志すること を,神が意志していた,そのものを我々が意志することを,神が意志しないということ

(non vult eum velle quod vult eum velle)。だがこれは不合理で,不可能であると結論 される。      ,

(9)このようにして(二)では,正しい意志が如何なる外的な力によっても,その正し さが除去されることのない自由を持つことが示された。アンセルムスは言う。「このよう にして,君は正しい意志よりも自由なものは何もないことを認識した。如何なる外的な力

もこの意志からその正しさを除去することはできないのだから」。(吻

(12)

 人間の意志は正しさを持つ時,自由であることが(一)の(1)で先ず述べられた。そ してその正しさを正しさそのもののために保持する力として,選択の自由が定義された。

その選択の自由は,意志が正しさを保持することを意志する限りは,如何なる力によって も屈することのない力を有することを(二)で見て来た。

 ところで,選択の自由の力はそれが同意することなしには,ある物へと強要されること はない。そしてその同意は自己自身から(ex se)所有するのであった(4)。自己自身か らとはこの場合「本性的でも必然的もない」(non naturaliter nec ex necessitate>こと として述べられた。従って意志は自ら,自己の正しいあり方の保持をその選択の第一の条 件に入れ,正しさを保持することで,正しい意志であり,自由な意志であることを保持す

ることが常に可能である。そしてそのために選択の自由が与えられているのであった。け れどもそのことは,人間の選択の自由が,意志の正しさを放棄する方向に働くことがあり 得ることを排除していないのであった。それは例えば,保持することが「不可能」ではな いが「困難なしにはできない」ので,「不本意にも」正しさを放棄するような場合として 説明された。この場合には選択の自由が働いているが,それは正しさを保持する方向では なくて,実質的には逸脱する方向であるので(一)の(4)に見られたように,それは自 由な選択によって罪を犯したのであるけれども,「それにより自由であった」ところのも のによるのではないと言われなければならないのである。つまり選択の自由は本来「意志 の正しさ」を保持するためにあるのであり,その意味では選択の自由が真に自由であるの は,その選択が「意志の正しさ」を保持することに正しく向けられている場合に他ならな い。自由(libertas)が「意志の正しさ」に基礎づけられたように,選択の自由の自由性

も,この「意志の正しさ」に基礎づけられているということができよう。

 だからその基礎にある「意志の正しさ」が罪を犯すことにより,放棄された後には「選 択の自由」の自由性はある意味で無意味となり,結果的に人は「罪の奴隷」とならざるを 得ない。だが(一)の(7)で見たように,その場合にも我々の内には力としての,道具

としての選択の自由は存続する。そして力,道具が現実的に働かない場合でも,その力,

道具を我々が所有していることには変わらないとされた。我々は次にこのことについて

(三)において簡単に見ておこう。

(三)選択の自由と罪への隷属

(1) 『聖書」には「罪をおかす者は罪の奴隷である」と言われている。アンセルムスは この「罪の奴隷」と言われる場合の「隷属性」(servitus)を,罪を犯すことで放棄した意 志の正しさを,「自力で回復することの不可能性」(impossibilitas per se recuperandi)

に基礎づけている。(お)(一)の(6)で見たように,人間の意志の場合その正しさは神か ら与えられたものであり,人間の選択の自由とはそれを「獲得」したり「回復」するため の力ではなくて,あくまでそれを「保持」するための力に他ならなかった。そしてこの正 しさを常に保持することを義務としていたにも拘らず,人間の意志はこれを放棄したので あり,その結果,神がそれを戻してくれることなしには回復することができない状態になっ た。神が戻してくれることは,しかし死者にその生命を戻す場合よりもより大なる奇跡で

(13)

あるとアンセルムスは主張する。

(2)人間の意志がその正しさを放棄した後には「自力では回復することの不可能性」に よる罪への「隷属性」が,その内に存在する。だが(一)でみたように人間は選択の自由 を常に保持している。だから,人間の意志には「隷属性」と「自由性」とが共存すること になるとアンセルムスは言う。㈱

 意志の正しさを所有しない時には,これを「獲得」することは人間の力の内にない。一 方これを所有する場合には,これを常に「保存」することが彼の力の内に属している。人 間は罪から戻ることができないので奴隷であり,正しさから引き離され得ないので自由な のである。だがこの正しさから人間は自力でそむくことが可能であり,そのことより不自 由となる。けれども,選択の自由は自力によっても他者によっても決して失われることが あり得ない。だから正しさを失っている時には,正しさへと自力では戻れないという意味 で奴隷i生を持つが,同時に選択の自由の力はこれを保持しているので,人間は自由性を持 つのである。

(3)正しさを放棄した後には「自力でこれを回復することの不可能性」によって,人間 の内に「隷属性」が存在する。しかし,この「不可能性」は罪を犯すことによって初めて 我々が獲得したと言うことは必ずしもできないのではないか。(1ゲで確認したようにア

ンセルムスにとっては,意志の正しさは初めから神から与えられるものであり,人間がこ れを自力で獲得することは「不可能」なのであった。だから,この「不可能性」は罪によっ て我々が新たに所有することになったのではなくて,人間に本来具わった「不可能性」で あり,それが,意志の正しさが失われたために顕在化してきたに過ぎないということもで きるのではなかろうか。

 このように考えるなら,第十二章の生徒の質問は次のように解釈することもできよう。㈲

「人間は正しさを所有する時に,他の外的な力によりそれを除去されることがなく自由で ある。そして正しさを所有しない時にも,この保持する力を持つから自由である」と言わ れることが正しいなら,こう言うことも正当である。つまり「正しさを持たない時に,人 間は正しさを自力で回復することの不可能性を持つ故に奴隷であると言われる。そして正 しさを所有する時にも,この不可能性を持つから奴隷である」㈱と。すると,人間の意志 は選択の自由を持つ故に常に自由であるのと同様,自力で正しさを獲得,回復できないと 不可能性を持つ故に常に奴隷であるということにならないのであろうか。

 だがアンセルムスはこの考え方に次のように反論する。この隷属性を正しさへと「戻れ ない無力」(impotentia redeundi)と呼ぼうが,正しさを「回復あるいは再度所有できな い無力」(impotentia recuperandi aut iterum habendi)と呼ぼうが,要するに人間が罪 の奴隷であるのは,それらの無力により「罪を犯さないことができない」(non potest non peccare)からに他ならない。だが人間が意志の正しさを持つ時には,罪を犯さないこと ができないという無力(impotentia non peccandi)を持っていないのだから,その場合 には罪の奴隷ではない。これに対し,意志の正しさを保持する力は,正しさを所有する時 もしない時も常に持っている。だから人間は常に自由なのである,㈱と。

(4)このことを説明するためにアンセルムスは「太陽を見る力」の例を挙げる。太陽が 現前していない時,我々はこれを見ることができない。この場合我々は自分に太陽を現前

させる力がないから,「太陽を見ることができないという無力」を持つとは言わず,太陽

(14)

が現前する時,見ることができるので,現前しない時にも太陽を見る力を持つと言うであ ろう。これと同様に我々の意志に正しさがない時にも我々は自己の内に,それを認識し意 志する適合1生(aptitudo intelligendi et volendi)を所有しており,それにより我々が正

しさを所有する時にはそれをそれ自身のために保持することができるのである。

 だから選択の自由という「力」を持つと言われる場合と,自力で回復できないという

「不可能性」を持つと言われる場合では,その「持つ」という実質的な意味が異なるので ある。「力」を持つことは,我々の内にある正しさを「認識し意志する適合性」により客 観的な実在に基づいている。これに対し「不可能性」を持つということは,それ自身が何 かの客観的な実在に直接基づくわけではない。それは選択の自由が「力」であり,「道具」

であることにより,それなしには働きへと導かれることができないという対象を必要とす るということであり,それは力,道具の本性的なあり方を述べているに過ぎない。だから,

この「不可能性」は,むしろ「力」を持たなければ消失してしまうのであり,それは「力」

を持つことに付帯して来るものであり,「力」を持つことを前提しているということがで

きよう。

(四)考察のまとめ

(1)最後にアンセルムスは第十三章で選択の自由について彼の提出した定義,「意志の 正しさをそれ自身のために保持する力」(potestas servandi rectitudinem voluntatis propter ipsam rectitudinem)が完全な定義であることを確認している。つまり「力」

(potestas)は自由の類である。それは「保持する」(servandi)の付加により,他の「笑 う力」「歩く力」から区別される。「正しさを」(rectitudinem)の付力日により,「金の保持」

といった「正しさ」以外のものの保持から区別される。「意志の」(voluntatis)が加えられ ることで他の「見解の正しさ」などから区別される。「正しさそのもののために」・(propter ipsam rectitudinem)の付加により,「金銭のため」とか「犬がその飼い主を本性的に愛 する」場合と区別されるのである。

(2)続く第十四章では定義に即して同一であるが,その具体的なあり方が,神と天使と 人間においてどのように異なるかをまとめている。先ず「創られたのでも,他者によるの でもなく自己自身による」自由,これは神のみに属する。他の自由は「神により創られ,

受け取られた」自由でありこれは天使と人間の自由である。この「創られ,受け取られた」

自由は,保持すべき正しさを持つものと,持たないものに分けられる。そして正しさを

「保持する」自由は更に,それを可分離的な仕方で持つものと,非分離的な仕方で持つも のに分けられる。可分離的な仕方で持つものとは,堅固とされ,あるいは堕落する以前の 全ての天使の所有していた自由であり,また正しさを保持する生存中の全ての人間の所有 する自由である。また非分離的な仕方で持つ自由とは,堕天使が堕落した後選ばれた天使 と死後に選ばれた人間の持つ自由である。一方,保持すべき正しさを欠く自由は,その正 しさを回復可能な仕方で欠くものと,回復不可能な仕方で欠くものに分けられる。前者は 正しさを持たない生存中の全ての人間の自由であり,後者は堕落した後の堕天使と,浸せ

られるべき死後の人間の自由である。

(15)

(3)以上のように我々はアンセルムスの〈選択の自由〉について,そのテキストに即し て見て来た。先に(一)の終わりで,生徒の提出した3つの問題とアンセルムスの一応の 解答を掲げた。この解答はその後の(二),(三)の考察を通して次第に明らかになって来 たように思われる。そこから理解されたことはアンセルムスの立場が,選択の自由を基本 的に「力」であり「道具」であると見ていることであろう。㈱

 選択の自由という力,道具は神から与えられた意志の正しさ (rectitudo voluntatis)

を保持(servare)するためにある。だから,正しさを保持するために働く場合が本来の 働きであり,その場合には選択の自由の働きは本来の自由を実現する力として働く。一方,

我々の意志が選択の自由により意志の正しさを保持せず,誘惑の勧める所をより強く意志、

し罪を犯す場合,意志は自らのより一層意志する所を選択しているのであり,自律的な働 きであるが,選択の自由という力は正しさの保持という本来の目的のために働いているわ けではなく,従ってその働きは本来の自由を実現する行為でもない。その働きは選択の自 由による自由な働きではあっても,本来の自由による行為ではないのである。

 アンセルムスは初めに「罪を犯す」力を,選択の自由の定義から除外した。罪を犯す時 には,「自由であった選択」により罪を犯しているのであり,その意味で責任がある。け れどもその場合の自由な行為は,選択の自由が正しさを保持するために働く場合の本来の 自由な行為ではなく,意志が自分のより多く意志する所を自分で選択しているという意味 での自由でしかない。それは(一)の(4)で見たように「それにより罪を犯すことがな い力」ではなくて,「正しさと罪を犯すことに対して中立的な力」ということになる。

 更に,選択の自由が力であり道具であることにより,それはそれなしには働きへと導か れ得ないようなものなしには現実的に働くことができない。我々の選択の自由はその保持 すべき対象としての正しさを自力では獲得できないので,一度失った場合には自力では回 復できないという隷属性を持つ。しかしそれは力であり道具であるから,対象の欠如のた めに現実的に働かないとしても,視力の場合と同様,その力そのものがなくなるわけでは ない。そしてそのことが本来の自由の回復のための神の新たな恩寵の必要性と,その有効 性を明らかにしていると共に,罪の奴隷であっても,人間は常に自由であるというアンセ

ルムスの主張を支えているのである。

       (註)

1)テキストは,L oeuvre de S. ANSELME DE CANTORBERY 2(Les舩itions du Cerf,

1986)を用いた。

2) Joh. 8,34

3) c.1,Liberior igitur est voluntas quae a rectitudine non peccandi declinare nequit,

quam quae illam potest deserere.

4)ibid., Potestas ergo peccandi, quae addita voluntati minuit eius libertatem et si dematur auget, nec libertas est nec pars libertatis.

5)c.2

6)c.3 ..sed postquam se fecerunt servos peccati:quomodo liberuln arbitrlum servare potuerunt?

7)ibid., Quamdiu namque voluerunt quod debuerunt, rectitudinem habuerunt voluntatis.

(16)

16 fS5Z ilSl ln Xift

8) ibid.

9) ibid.

10) c. 4, Satisfecisti intellectui meo potestatem hanc servandi rectitudinem voluntatis  rationali naturae semper inesse, atque hanc potestatem m primi hominis et angelorum  arbitrio liberam fuisse, quibus invitus rectitudo voluntatis non poterat auferri.

11) c. 5

12) ibid., Nam sicut cum mentitur, vult ipsum mentiri : sic cum vut mentiri, vult ipsum  velle.

13) ibid., Quomodo ergo non est libera voluntas, quam aliena potestas sine suo assensu  subicere non potest ?

14) ibid., Nonne simili ratione possumus dicere voluntatem equi esse liberam, quia  non appetitui carnis servit nisi volens ?

15) ibid.,..in homine vero quamdiu ipsa voluntas recta est, nec servit nec subiecta est  cui non debet, nec ab ipsa rectitudine ulla vi aliena avertitur, nisi ipsa cui non  debet volens consentiat ; quem consensum non naturaliter nec ex necessitate sicut  equus, sed ex se aperte videtur habere.

16) ibid., Velle ipsam rectitudinem perseveranter est illi vincere ; velle autem quod  non debet, est illi vinci.

17) c. 6, Quamvis sic omnia irnpugnantia voluntati nostrae subicias atque nullam  tentationem illi dominari permittas,...

18) c. 7 , ..ita nullatenus queo voluntatem fortior esse tentatione cum ab illa superatur  affirmare.

19) ibid.

20) c. 8, Numquid vel deus potest illi auferre rectitudinem?

21) ibid., Nulla autem est iusta voluntas, nisi quae vult quod deus vult illam velle.

22) c. 9 , Cernis itaque nihil liberius recta voluntate, cui nulla vis aliena potest auferre  suam rectitudinem.

23) c. 10

24) ibid., Si bene discernas, quando non habet praefatam rectitudinem, sine repugnantia   et servus est et liber.

25) c. 12, Cur cum homo non habet rectitudinem magis dicitur liber, quia cum habet  non potest ei auferri, quam cum eam habet servus, quia cum non habet per se non  potest eam recuperare.

   e t ve , eeilll ti EllfiE E ij o) Eee o) P. pa ft ue5)‑bl IJ< L '( fi!F fEKt Lk. ii ]e >< N: gfi L v( ;IE[ ‑th t , rI[E

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26) ibid.

27) ibid.

2s) L to> L, Jz o Fpt ,p.] va gtk e ij t Bu ‑(F ca uv>. t di ,fi,. e:Dv> ‑( oi Eift to ‑( 2; fi Lkv>.

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