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一 一 マ ー ル 夫 人 の 母 性

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(1)

身体の決定論

一 一 マ ー ル 夫 人 の 母 性

中 村 英 男

ヘンリー・ジェイムズがニューヨーク版と呼ばれる自らの全集につけた序文 の中に「物事の普通の起こり方」という考え方が出てくる。自らが若い日に描 いた『アメリカ人

j

の主人公ニューマン。全集に収めるにあたり、彼がたどっ た運命を再検証した作家はそれが「物事の普通の起こり方」から逸脱してし まっていると批判する。金持ちのアメリカ人を金のないフランス人貴族が自分 たちの世界にふさわしくないなどという理由で自らの世界への参入を拒むとい うような(実際の小説で描かれたような)反応を見せるわけがない。より「普 通の物事の起こり方」としてはこの金のあるアメリカ人を積極的に招き入れて 徹底的に利用し、最後にあり金を巻き上げて終わりということになっただろ う。そう齢を重ねた作家は若さ故に現実を見据えていない自分の筆を批判す る 。 ( 1 )

ジェイムズは自分の別の作品にも同じような批評を加えても良かったのでは ないか。

r

ある婦人の肖像画

J

(以下『肖像画』と略記)の最終部分でマ‑)レ 夫人がイザベルの義理の娘、オズモンドの連れ子であるパンジーの実の母親で あったという事実を知ったイザベルが最後にマー

J

レ夫人と対面をする場面で、

二人の力関係が大きく変わってしまった様が描かれている。自分の大いなる秘 密を知られたマール夫人は内心の動揺を相手に隠すことが出来ない。動揺を見 せるという事はジェイムズの小説においては徹底的に敗北したという事を意味 する。マ‑}レが母親であったことは小説の劇的な(ピーター・プルックスなら

メロドラマ的と呼ぶような)真理なのである。

So Madame Merle went on, with much of the brilli

cyof a woman who had long 

(2)

b

田川

amistress of the art of conversation. But there were phrases and gradations in  her speech, not one of which was lost upon her Isabel'ear, though her eyes were  absent from her companion's face.  She had sot proceeded far before lsahle ooted a  sudden b

akin her voice, lapse in her continuity, which was

itselfa complete  dramaτ'his subtle modulation marked a momentous discovery ‑血eperception of 

entirelynew attitude on the part of the listener.  Madmae M

lehad guessed in a  space of an instant

ateverything was at end between them, and in

espa

of another instant she had guessed the reason why. Thp

町 田

nwho stood there was oot  the same one she had seen hitherto. but was a very diffe

ntpe

00‑a person who  knew her

. s

ecre

t .   1 b i

discovery w

出 位 。

mendous

, 皿

dfrom the moment she made it  the most accomplished of woman faltered and 105t her courage.

マ‑}レが母親であったという事は

f

肖像画』の中で具体的にはどのような意 味をもっているのであろうか。簡単に言えばそれはイサーベルにとって新しい生 き方のモデルとして映じていたものの破綻であり、イザベル自身の自由な選択 と見えていたものの否認であった。自由に漂泊をするように見えたマール。夫 を失ったマールは食客として様々な家に招かれその才能を見せつけながら暮ら Lている。マ‑}レのそのようなあり方に具現化されているように見えた新しい 女の生き方、女性の目の前に聞けた新たな可能性。従固な妻、慈愛に満ちた母 といった女性に割り振られてきた伝統的生き方に代わる生の可能性、そのモデ ルとも言うべきものをイザベルはマールの姿に見ていた。伝統的な女性が求め させられてきた、ありきたりな幸福の形一一裕:福な貴族や成功した実業家との 結主昏ーーを拒んで、世間並みにいえば地位も名誉も金銭も持たないオズモンド を夫に選ぶという判断をイザベルが下した背景には彼を興味深い人物として紹 介したマ}ルの影響力が大きく与っていた。

女にとってのこれまでにはなかった生の意味をつかもうとすること。それが

オズモンドという世間並みに言えば取り柄のない、しかし世間一般の凡俗には

理解し得ないような意味を約束しているように見える男との結婚でイザベルが

達成しようとしたものであった。しかし実際彼女がオズモンドとの結婚で経験

(3)

したものは思い描いていたその「別の何か」の可能性の徹底的な否認であっ た。結婚前にオズモンドが何気なく漏らした言葉「自分は因習それ自体のよう な人間ですよ(

265

頁)

J

という言葉が陰欝な予言のように具現化されるのであ

o

オズモンドの連れ子であるパンジーは彼の意に添わぬ結婚を望んだ為に物語 の最後に至っていったんは出ることを許された修道院に二度押し込められよう とする。パンジー古苛見実に経験させられるそのような自由の抑圧こそ、イザベ ルがオズモンドとの家庭生活において心理的に経験させられたものであった。

オズモンドはある意味でゆがんだ伝統的父権性ー←女性の自由を全く認めない ようなーーであり、 「因習的」なあり方の比較的わかりやすい具現である。自 由を、別の可能性を望んだイザベルが「因習の臼にひかれてゆく

(478頁)

過程こそジェイムズの意図していた『肖像画』という小説の構図であったとい うことになる。

そのような苦境におかれていたイザベ

J

レが最後の最後になって、自分をその ような立場に追い込んだものの正体と呼んでも良いものを目撃する。不可解と も見えるマールの行動ーーイ可故彼女はイザベJ レにオズモンドを紹介したのか、

何故イサーベルを選んだのか一一それら全てが理解可能なものとなる。マ‑)レは 最初から母としてパンジーという自分の娘のためにすべてを行ってきたので あった。イサーベルの財産が、パンジーの現在と将来を具体的に改善されるため に使われるだろう事。イザベルという女性がパンジーにとって意地悪なまま母 にはならないだろう事。マールはそういった事を徹底的に計算してイザペ

J

レ を 操ったのである。つまりパンジーの安寧と幸福を願うマ‑)レの中の母がイザベ ルをオズモンドと結びつけたものだったのである。イザベルは女の伝統的なも のとは別のあり方の可能性を示すものだと信じていた女の行動の源泉にこれ以 上もない程女のエッセンスとも呼ぺるようなもの 母性ーーを発見し物語は 終わりを告げる。

大事なのは繰り返し作家がイザベJ レがマールに操られていたという点を強調

している点である。マールの秘密をイザベルに暴露したジェミニ夫人の口を借

りてこう言わせている。

(4)

don't call Mdame Merle a succ

s.you know. 1 don't know what she may aCCOffi plish yet, but at p

sentshe has very little to show. Thonly

ngiblerultshehad  ever achieved ‑except, of course, getting to know every one and staying wi

them

世田

ofexpensehasbeen her bringing you and Osmond together. Oh, she did that,  my dear; you needn't look

ifyou doubted it

上旬発言を確認するようにイザベル自身にもその事を認めさせるような思い を別の箇所で作家は抱かせている。

She saw. in the crude light of that

velationwhich had

readybecome a part of  experience and to which the very frailty of the vessel in which 

i t  h

ad been of

ered hero

ygavean

恒 国

nsicprice

, 由

e

ys

ringfact that she had been

appliedand  handled hungup tool, as senseless and convenient as mere shaped wood and iron.

自分が「道具」として使われていたことを作家がイザベルに認めさせている のは一見彼女の自由な選択と見えていたものが実はマールの操作によるもの だったという作品内の現実の意味づけをはっきりさせたいためだったろう。

マ‑)レがイザベルの自由への飛期と見えた経験を裏で操っていたという事、

そして、そのマールの行為の中核にあったのが「母なるもの

J

であった事。こ の三つの事柄を結びつけて『肖像画

j

という小説の仕組みを考えねばならな い。イザベルをおしつぶしていく因習の正体、それは夫のゆがんだ父権性だけ ではない。より大きな、決定的な意味を持つものとして作家は女の中の「母 性」を考えていた。イザベルを偽の自由の飛淘へと誘い操作していた人問、そ の中核にあってその人聞を動かしていたもの。それはその女性の「抑圧された 母性の感情(ジェイムズの創作ノートに記された言葉)

J

であった。新しさを 求める女を一見新しく見える女の中の「母なるものjが押しつぶしていく。そ

ういう物語が『肖像画』においては展開されていたのである。

マー 1 レは新しい可能性であるどころか、徹底的に伝統的な(

I

因習」的なと

言っても良いだろう)女性であり、自由であるどころカヰ散底的に不自由な、母

(5)

であることに縛られた存在だったのである。単純な妻というあり方、ありふれ た母という生、幾世代にも渡って繰り返されてきたそういう既に見た物語とは 別の物語を見ょうとした女性を動かしていた女性の内奥から母親が姿を見せ た、そういう物語として読めばマー 1 レがイザペルに言い放った有名な言葉一一

「私って何かしら、どこから始まってどこで終わるのかしら

(175頁)

が言おうとするのは、自分とは娘であり、娘とは自分だということであった。

母である存在は自己完結しない。娘の中に自分が続いてゆく。マールはその自 分の外の自分の為に生きてきたということになる。 r 肖像画

j

という小説は少 なくとも作家の意図としてはマールの母性に起源を有するものとして設定され たものと受け取ることが出来るのである。

マ‑)レが母であること、それは『肖像画

j

という小説の暴露される秘密であ り、事実上その構造の重要な基礎として小説の世界を厳密に規定するもので あった。マールの母性はこれまで疑われることのない事実として扱われてきた ように思う。ステファニー・

A.

スミスは母としてのマール、娘としてのイザベ ルのあり方を精神分析的な視点から扱っている。母と娘の関係について規範的 な批評を展開していると言えるこの比較的最近の批評における取り扱い方自体 が、母性というマールの中に具現されたものとして作家が与えようとしたもの をいわば額面通りに受け取って書かれている。マ‑)レが母親として現れてくる そのことにこの批評家は、多くの読み手同様わずかの疑念をも投げかけてはい ないように見える。

m

ジェイムズが『肖像画』において描こうとしていたマールの姿、それは彼の 意図としては明確なものであった。創作ノートの記述にはつぎのような箇所が ある。

Whereupon Madame Merle, in whose breast the supp

ssedfeeling of maternity has  long been rankling, and who is pa

ionatelyjealous ofIsabel's infulence over Pansy,  breaks out withecry

atshe alone has a right 

‑由

atPansy is her daught

,目的

この大仰な場面はさすがに実際には描かれることはなくアイデアにとどまっ

(6)

た。しか

L

ジェイムズが『肖像画j を描くに際してどれほどの重みをマー

J

レの 母性に期待していたかがわかるだろうと思う。さらに創作ノートの作家は続け る 。

A regar

P

sy

es

ngenessof her [Merle's]

nductis  greater; but we must  remember

atweseeo

y

S

face‑we don't see her reasoing. Isabel has money, 

d

抽 出

Merlehas great confidence in her benevolence, 

i n  

her generosity; she has  no fe

紅 白

atshe will he harsh stepmoth

町"

and she believes she w

i I l  

push the for tunes of the child she herslef is unable to avow and afraid openly to patro

世 田 町

ジェイムズはマールの行為の「奇妙さ」に気付いていながら、マールの「母 性

J

がその奇妙さを説明してくれると考えているように見える。作品の構想の 段階でのジェイムズは必ずしも作品執筆の際のジェイムズではない、という事 をふまえた上でもジェイムズはどうもマールの、創作ノートに記された言葉で 言えば「抑圧された母性の感情」、小説内の言葉で言えば「母なるもの(

454 )J

がマ‑)レの行動を十分納得のいく形で説明してくれると信じていた節が ある。

はじめに「アメリカ人j という作品にジェイムズが下した批判が『肖像画」

にもあてはまるのではないかと言ったのは、作家によっても読み手によっても 当然祝されているように見えるこの重要なマールの母親としての姿がすこし不 自然で、 『物事の普通の起こり方』からずれている部分があるのではないかと いう意味であった。マールが母親であることを隠そうとするのは自然である。

マールが娘の事を思つてなにがしかの行為をすることも又自然である。しかし

「肖像画jの中でマールが為したほどに娘の事を思い娘の将来を良くしようと 努力する母の姿は十分納得のいくものだろうか。

少なくともジェイムズの描く他の親の姿の中において見るとマールの献身的

とも言える親としての姿は端的に言って違和感を与えるものである。極端な

例、例えば『メイジーの知ったこと』の主人公である幼いメイジーの親たちの

不愉快なまでの子供への無関心と残酷さや、娘を自分の愛人とのライバルと見

(7)

なして蹴落とそうとする『厄介な時代jの母親の姿を引き合いに出すのは少し 執筆時期が違いすぎるというのであれば、 『肖像画』により近い時期に描かれ た『ワシントン広場』の父親スロ}パー博士の我が娘をまるでモルモットを眺 めるように見る冷ややかな態度、あるいは『アメリカ人jで実の娘クレアを修 道院に押し込めるべJ レガード家の母親の残酷な態度を思い出すだけでも、ジェ イムズの通常描く親のあり方との聞には、ずれが感じられる。

もちろん作家には様々な親を書く権利がある。だが普通いやにリ

7i

レな、子 供を無視し、突き放し、虐待し、寄食し、自由を奪うような([肖像画

j

の中 のオズモンドのような)親を繰り返し描いておきながら、珍しく娘の運命に献 身的に関わろうとする母を描いておいて、その献身にその女性の内なる母性と いう動機だけを与えてそれで証明済みといったようにすましているのはすこし 妙だといっているのである。

ジェイムズ自身の親という存在への見方が明らかに問題を苧んだものとして 現れてくるのは

90

年代の短編「生徒」からになるが{旬、それ以前の作品でも 親のありかたがあまり理想的とは言えないような場合が多い。無論同じ『肖像 画』の中の父と子、ラ

J

レフとその父親との関係が非常に理想的なものとなって いることを承知している。お互いいたわり合い思いやりを抱いているこの美

L

い関係。しかしこの作品においてはラル

7もそして父親ダニエルも、いわば死

すべき存在としてその舞台に存在しているということを考慮に入れる必要があ るだろうと思う。彼らは二人ともそもそも最終的にラルフが実際にそうなるよ うに一種の人間存在を超越した存在=幽霊

(47 9

頁)としてこの小説世界に 存在している。病を得て生きる彼らはイザベルに遺産を与えるべき機構の一部 なのである。現実の世界の親、それはパンジ}を自分の思うがままに育てよう とするオズモンドであり、もうすこし穏当な例を出せば、死にゆくラルフとそ の母親の関係である。母親と息子ラルフは父との場合に比べ少しく隔たりのあ る関係を結んでいる。だがこの母との関係の方が相睦み合うような父との関係 よりも通常のジェイムズの描く親子関係なのである。

ジェイムズ自身の作品の歴史に照らして見た場合以外にもマー

J

レの理想化さ

れた母親像には不自然と感じられる点がある。それはたとえばギッシングの描

(8)

く母親の姿と比較してみることで見えてくる。ギッシングの『ジュピリーの年 にjの中でも母親が作品内の一個の謎として機能している。ホレスという青年 のことを何故か親身になって世話をしてくれる年輩の女性。彼女は青年がふさ わしからざる女性と一緒になることを恐れ、その関係に積極的に介入し別の

「ふさわしいj女性と結びつけようとする。ついにはそのふさわしくないと判 断した女をそそのかして別の男と駆け落ちさせて破滅に追い込むという事まで やってのける

o

物語の進展に従ってこの親身になった介入が行われた理由が明かされる。彼 女は実はこの青年を幼い日に夫のもとに残

L

別の男のもとへ走った実の母親で あったのである。この作品でも『肖像画』同様不可解なしかし善意に基づいて いるように見える謎のような行為の隠された真実として、その行為が母性に基 づいたものだという構造が存在している。

しかしその事実が明らかになったときギツシングはリアリステツイクな筆づ かいでさらにこの母親という一個の人聞を動かしていた経済的動機を付け加え るのを忘れていなし当。なぜ実の母親とは言え幼い頃に別れたまま長年月交流の 途絶えていた母親が(息子は再会した時相手を母親だと認識できていなし寸息 子の幸せを願ってそこまでの行動をするのか。なぜ息子の皇室む相手ではなく、

別の(ウインフレッドという)女性をそこまで息子の嫁に望むのか。(ここも

「肖像画』のマールの行動と重なっている側面が見られる。マールも娘パン ジーの愛している青年ロウジャーではなく別の貴族の富裕な男性ウォーノミート ンと結びつけようと画策する。)その理由を母親はこう息子に告白する。

am worldly; 1 c

'tlive without luxuries and society and amusements; but 1 love  you, my dear sondit will break my heart if you ruin yourself. It is

e1 thought  ofWinifred's money, but she is very fond of you, Horace; her mother has told me 50 

she is. And it  was because of my own position. 1 have spent nearly all my husband  left me; it  wasn't enough to  supply me with an inme;  1 could only hope

at some

mg‑

atyou, dear, would forgive your poor mother, and help her. If you  cast me off, what shall 1 do?"

(9)

息子がだらしない貧しい娘でなく金持ちの娘と結婚するように画策していた のは自分の将来の保証のためだったのだという説明は、この女性が血のつなが

りはあるとはいえ法律上の権利あるいは利益関係の存在しない脊年が財産を獲 得することに、何故そこまで熱心に介在するのかという動機をマー

J

レの場合よ りも理解可能なものとしていると思う。ここには母というものはこのようなも のだという固定観念、あるいは強度な理想化は存在していない。母であっても 子供を見捨てたなら、母であるからという理由だけで子供の幸福を望むわけで はない。ギッシングは母でありかっ、利益も得る人聞を描く。経済的理由を付 け加えることで、十分に利己的な理由で動いている個人の姿を描いている。

(ただし、自分の口から進んで利己的と言わさ寄るを得ないような内奥の動機を 軽々しく認めるというこの母親の行為の不自然さは認めなければならないだろ う。自らの美しい動機を信じこみ、その美しい理由を王張し続ける複雑な内面 を有した登場人物を後期作品で繰り返し描いているジェイムズの視点から言え ば、あっさりとあまり立派とは言えない動機を告白する人物の姿はあるいは粗 漏と見えたかも知れない。)

重要企事はギッシングは生物学的に母であることが必ずしも自分の子に対す る強烈な関心の絶対的な理由とはならないという事実を知っており、それ故に 母親の介在をより自然なものにするために理由を付加する必要を感じたという 事である。生物学的には母であっても幼い頃に家を出て別の男性と結婚した女 性。その女性が懐かしさをもって息子の運命に介在したいと願う、それはある 程度までは自然なことであるかも知れない。しかしその介在の程度がある一定 の程度を越えればそこには自ずとその重みを受け止める何らかの補足が必要と なるのではないか。少なくともギッシングはその必要を認め、単なる母性の無 私性にはよりかかろうとはしていない。

ジェイムズはある意味ではギ、ノシングの描く母親以上に利他的で無私の行為

をマールに行わせておいて、その行為にマールが母であること以上の説得的な

動機付けをしようとはしていなし、とってつけたようにジェミニ夫人の口を借

りてマールにとって娘パンジーが失敗してしまった自分の人生の補償の対象と

(10)

なっているという説明は行われているが

(45 4

頁)、あまりにもぞんざいと 私には感じられる。

ジェイムズとギッシングを比較するのは適切ではない、その描こうとする世 界の質の差がある、という批判が予想される。ではジョージ エリオットの描 いた母親の姿ではどうだろうか。ジェイムズという作家の先行作家への関わり 合い方を考慮に入れるとジョージ・エリオットが『ダニエル・デロンダ』の中 で描いた母親の姿、子供のために必死になって無様と言っても良い姿を人目に さらす事を敢えてする母親には偶然な似通り以上のものが感じられる。ギッシ ングの描く母親像よりもマールの母性について考える際重要であるかも知れな

"'0 

f

ダニエ

J

レ・デロンダ

j

の中で貴族ヘンリー・グランドコートとの結婚を間 近に控えたグエンドレンという主人公の一人である女性の前に見知らぬ女性が 現れる。この女性グラシャーはグウエンドレンの夫となる人物が不倫の関係の まま子供を産ませた女性で、いまグウエンドレンが正式にへンリーと結婚しよ うとしているという噂を聞きつけて彼女のもとを訪れ(マールとは逆に結婚の 阻止を狙って)ヘンリーとの関係を暴露しグエンドレンに結婚を思いとどまる よう懇願するためわざわざ二人の子供を伴って現れる。

, My name is Lydia Glasher

Grandcourtought not to many any one but me. 1  left my husband and child for him

neye

ago.

Th

ose two c

drenare his

, 阻

d we have tWQ others ‑girls ‑who are older. My husband is  dead now, andIr Grandcourt ought to m

ηme.He ought to make that boy his heir' 

'Y ou are' very attractive, 

Mi

ss Harle

[Gwendolen].But when he frrst knew me, 

owas young. Since

enmy 

l i 自 己

has been broken up

dembitter

吋 I t  

is sot fair 

athe should be happy and 1 miserable, and my boy thrust out of sight for another.'  τbese words are utter

dwith a biting accent, but wi

adetermined ahstinence from  any

ingviolent in tone or manner. Gwendolen, watching 

Mr

Glasher's face while  she spoke, felt a 50rt of terror: it w

出 国

ifsomeg

両 国

tlyvision had come to her in a 

(11)

dream and said

' ,

am a woman's life.' 

( 1

0) 

この女性の置かれた立場とマールの置かれた立場の類似はギッシングの描い た母親像との場合以上である。いずれも相手の男に対しての愛情は相当程度冷 めてしまっている。いずれも不倫の関係で子供をもうけ、その子供のためにそ れぞれが彼女らにとっては冒険と呼んで良い行為に出る。一方は恥辱も省みず 自らの不倫行為の結果を自分の過去の愛人の相手の女性に訴えて結婚しないよ うに願い、他方は逆に娘の成功を願って金持ちの優しい継母と裕福な貴族の結 婚相手を授けようと暗躍する。

扱われ方の軽重はある。エリオットにおいてそれが重要ではあっても一個の エピソードとして描かれているのに対し、ジェイムズにおいてはそれが小説全 体の大いなる物語の隠された(後に発見される)動機、真実として措定されて いる。またグウエンドレンカ句=倫の事実を暴露されるのは結婚の前であってイ ザベJ レのように結婚後にその破綻が明白になった段階においてではない。

しかしそのズレは時間的なものに過ぎない。時間のずれを主正視して基本の構 造を取り出してみると、子供のために力を尽くす母としての女性の強烈さが子 供を持たない女性(未婚と既婚の差はあれ)の自に焼き付けられるという点で 二つの小説は共通した構図を有しているのである。

ジョージ・エリオットは自分の主人公の女性に「これが女の生なのか」とい う感慨を抱かせている。イザベ

J

レはマールの同様な秘密をマールの真理として そして自分の運命を決定したものとして受け止めている。問題にしたいのは、

マー

J

レの置かれた立場と『ダニエル・デロンダjでの母親の姿とのずれ、ジェ

イムズがどうもさして気にしていないように見える二人の母の立場の決定的な

差である。すなわち、ギツシングがわざわざ母親に告白させる必要があった経

済的な動機、それがエリオットの読み手には明らかだという点である。エリ

オットの描く母親には十分な利己的な基礎が存在する。 浅ましいと言えるよう

な行為に訴えてでも子供を嫡出子として認めさせれば、いずれ彼女にも(ギツ

シングの描いた母親以上の)十分な利益がもたらされることは確実である。子

供が貴族ヘンリーの正当な跡継ぎに認められれば、将来にもなにがしかの保証

(12)

があるだろうことは特別に説明がなくとも著者と読者が暗黙の内に了解し得る ことであった。エリオツトは敢えてこの母親の女性の経済的動機を描く必要は なかったのである。

しかもマールの場合とは異なり、グラシャ一夫人の行為で利益を得る子供た ちは彼女が自ら育ててきた子供である。それに対しマールは自分の生物学上の 娘を直に育ててきたわけでもない。それどころかほとんど娘に嫌われ恐れられ ており

(46 2

頁)、結婚の申し込みを受けるような年齢にまで育った娘は依 然マールが母親であるという事実すら認識できていない。

マールの「抑圧された母性」は「肖像画

J

という小説において単に社会との 関わりにおいて抑圧されているのではなく、娘との関係においてそもそも具体 化されていないのであり、 「抑圧された母性」というより具現化されていない 母性という方が正しい。彼女はまさに産んだだけの女でしかない。マー

l

レとそ の娘パンジーとの関係は後の、ほとんど一人の男性をめぐってのライバルと呼 んでも良いような関係を展開する母娘、 「厄介な年頃jの母娘プルック夫人と 娘ナンダとの関係よりも本質的には希薄なもののはずなのである。

ジェイムズが描いているのは不可解に見えた女の行動の源泉がその女性の中 の母性であるという事だった。マールは『肖像画』で母として存在し行動し画 策していた。母であることがそのような行為の十分な動機になる、ジェイムズ はそう考えていたように見える。だが、フランスの貴族が成り上がりのアメリ カ人の金持ちをその育ちへの嫌悪から受け入れずに終わるのでなくむしろその 金を狙って徹底的に搾取する世界の方が「物事の普通の起こり方」の世界であ るならば、 『肖像画

J

について言えば、母親が単に産みの親であるという以上 の何らかの現実的な動機を持って、もはや愛していない相手との聞に生まれた 娘の将来に関わろうとする物語の方がより「物事の普通の起こり方」に近いと 言えるのでは告いだろうか。

もちろんジェイムズか消こうとしていたものが母性によって決定される女性

の運命ということであったのならば、そのような比較的抽象化されたテーマに

経済的動機という比較的卑近な動機を継ぎ合わせることは困難なものだったに

違いない。経済的動機を描かないことが彼の描こうとする母性の支配という点

(13)

を明確にするものだったかもしれない。だがそうするにはあまりにマールの実 体カマミ明確ではないだろうか。

ギッシングが描いたような下層あるいは中流最下層の人物のように現実的な 経済的利益によって動機付けされているような人物像をジェイムズが描こうと していないのだという反論も大いにあり得ることだろう。

r

肖像画』という小

説はそもそもイザベルという孤児に遺産が与えられることによって彼女が置か れていた経済的な現実から免れた場合の運命を想像しようとする試み、ラ

J

7

という死に運命づけられた大金持ちの相続人の想像力(それは持論作家ジェイ ムズ自身の想像力と重なる)から生まれてきたものである。ジェイムズの描く 小説世界において金銭や財産はおうおうにして努力や奮闘によって得られるも のではなく、イザベルが、ラ

J

7

が、ミリー(

r

鳩の翼

J

)がそうだったよう に遺産の相続によって可能になっているという事はある。

しかし、思い出す必要があるのは作家が経済的動機をたびたび大きな物語の 柱に利用しているという事実である。彼の小説では男女が往々にして結婚を先 延ばししたり、断念したりする(マールとオズモンド、 『鳩の翼」のケイトと デンシャー、 『金色の盃

j

の公爵とシャーロット)が、その理由は大抵金がな いからというものである。

また登場人物の重要な行為の動機がせんじつめれば経済的手Ij益である場合も 多い(オズモンドのイザベルとの結婚やケイトのミリーに対する陰謀、シャー ロットや公爵のそれぞれの配偶者との結婚)。そう考えると彼にとって経済的 動機は決して無視できるような無意味なものではなかったはずなのである。

ジェイムズがマー

J

レ夫人の中の「抑圧された母性」一一娘の事をひたすらに 念じそのために生きる母という業ーーというかなり定型化された観念に無批判 に寄りかかったまま、 『肖像画j という小説の世界全体をこの人物像にゆだね てしまっていることへの違和感が共有されたならば、この問題の射程が意外な 長さを持っていることについて、さらに触れておいても良いかも知れない。と いうのは後期の小説に描かれたマールとある意味で対照的とも言えるほど異 なった母という名に値しないような振る舞いをする母親達の姿について、マ‑

J

レにおいて示されたのと同じ様な最終的な起源の暴露が起きているのだが、そ

参照

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