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『椀久一世の物語』試論 : 遊女松山及び「下女連 れし女」について

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『椀久一世の物語』試論 : 遊女松山及び「下女連 れし女」について

著者名(日) 長澤 麻衣子

雑誌名 大妻国文

巻 40

ページ 39‑57

発行年 2009‑03

URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001313/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

﹃ 椀 久

世 の 物 語

﹄ 試論

||遊女松山及び﹁下女連れし女﹂

はじめに

井原西鶴の浮世草子第四作目﹃椀久一世の物語﹄︵貞享二年刊︶は︑西鶴初めてのモデル小説といわれている︒その内

容は︑主人公椀久が夢の中で弁財天から内蔵の鍵を買い受け︑その財を使い果たし︑遂には零落して気も狂い︑水死して

しまう哀れな一代記である︒

本稿では﹁椀久一世の物語﹄において︑主人公椀久の相方である遊女松山の取扱われ方の変化と下巻ノ四﹁現の情物語﹂

に登場する﹁下女連れし女﹂は誰であるのかについての考察を試みる︒この﹁下女連れし女﹂については︑本文中では

﹁通ひ女﹂や﹁彼の女﹂さらに﹁この女﹂と同じ女を指しながら別な呼称で表現されている︒これを統一するために︑本

稿ではこれ以降﹁下女連れし女﹂に統一して表す︒

なお︑本稿では﹃椀久一世の物語﹄の引用文のすべてを﹃新編西鶴全集﹄第一巻︵勉誠出版・平成一二年︶に拠る︒

(3)

遊女松山の取扱われ方の変化

松山は︑﹃椀久一世の物語﹄の本文中に六箇所の場面で登場する︒その該当場面を本文から引用する︒傍線部は松山の

さほどふびんとおぼしめさるる御事ならば︑外の人のなぐさみになし給ふも︑云甲斐なし︒けふのうちに受出し︑下

屋敷に置かせられ︑かよひ女にあそばせと︑枕箱より一歩物数四百取出し︑是も其女郎に衣裳にでも遊ばされ︑御お

くりあれと参らせけるに︑嬉しげに取りて︑其一日に何にした事やら︑跡かたもなし︒松山受出す約束せし甲斐もな

年月あはんしたる松山様身にしては︑いかばかり悲しさ︑思ひやるも限りなし︒︵中略︶早や松山様も是非なきかた

へ引とれば︑ままならぬ御身︑さぞさぞ思ひやられしと︑申しもはてぬに︑椀久面を替へ︑狂人のごとくなりて︑我

れ独合点する言葉の末の松山に怨み︑哀れにふびんに聞えける︒

さてもさても︑松山様はおぬし様の事のみにて︑それはそれは御歎き︑人こそ知らねと︑遠州申出すを︑聞捨て赤面

して︑門にかけ出るを︑色色とめしが︑川口屋の門より姿を見失なひける︒

(4)

⑤出家直前の椀久の独り言︵下巻ノ四﹁現の情物語﹂︶

我れも松山を請出しそこなふたと︑一波をこぼし︑さらば是までとあたまを剃りて︑法名を栄寿とあらため

@身請けの遊女をみた椀久の独り言

又帰らぬ松山が事をおもひ出し

以上の場面の特徴をまとめると︑松山は自らを語ることが全くない︒すべて松山以外からの発言であり︑①は地の文で

登場し︑②は椀久と椀久妻の会話中で︑妻の口によって語られる︒また③④はそれぞれ妹背や遠州の口から松山の動静が

椀久に語られる場面である︒さらに⑤⑥は椀久自身の独り言の中で語られているだけである︒つまり松山本人の発言や行

動︑心情発露の描写はない︒また松山の容姿や性格に関する表現も一切ないことがわかる︒この作品に登場する松山以外

の遊女には︑雲川︵上巻竺己︑初花︵上巻ノ四︶荻野︑遠州︑早川︵下巻ノ三︶などがいるが︑彼女たちも松山同様︑

容姿や感情の描写は一切ない︒即ち松山の待遇も他の遊女と全く同等に扱われているのみであり︑椀久の相方としての特

別な存在を印象付ける特徴は何ら見出すことができないのである︒

遊女松山の存在

曲亭馬琴﹃著作堂一タ話﹄︵﹃日本随筆大成﹄第一期第十巻︶や浜松歌国﹃摂陽奇観﹄︵﹃浪速叢書﹄第一︶︑西沢一鳳

﹃伝奇作書続編﹄︵﹃新群書類従﹄第一︶などの考証随筆類の中に椀久の相方として松山の名前が記されており︑

実在したかのようになっている︒さらに︑丹波屋という遊女屋が新町佐渡島町下之町に存在した事は︑﹃色道大鏡﹄︵新版

色道大鏡刊行会編八木書店︶や﹃諸国色里案内﹄︵﹃未刊文芸資料三期﹄︶などにより確認ができる︒また﹃定本西鶴全

集﹄﹃対訳西鶴全集﹄﹃西鶴事典﹄でもそのように記されている︒しかし﹁丹波屋の松山﹂という太夫は﹃諸国色里案内﹄

(5)

や﹃難波鉦﹄などにも記載されていず︑実存したかどうかを確認することはできない︒松山の名称は実在のモデルに由来

するのではなく︑西鶴が便宜的に付けた可能性がある︒仮に西鶴の命名だとすれば︑なぜ松山と名付けたのだろうか︒松

山の名前が最初に登場する前引①の本文を改めて補足して引用する︒

椀久其頃は︑丹波屋の松山と云ふにあひそめ︑ちぎりきな形見の袖の紋を究め︑横堀を浪は越すとも︑変るな変らじ

と云ひかはして︑あけ暮かよひぬ

右の引用文の﹁ちぎりきな形見に袖﹂︵傍線A︶と﹁浪は越す﹂︵傍線B︶は︑﹃後拾遺和歌集﹄巻第十四・恋四

O

心かはりてはべりけるをむなに︑人にかはりてω

ちぎりきなかたみにそでをしぼりつつすゑのまつ山なみこさじとは

を踏まえていることは諸注の示す通りである︒

俳譜師であった西鶴が︑この永遠に﹁変るな変らじ﹂︵傍線C︶と約束を交わした相手の象徴として松山と名付けた可

能性は十分にあり得ることである︒付け加えると︑﹁心かはりてはべりけるをむな﹂︵点線D︶は︑形の上ながら身請けさ

れる松山にふさわしいことになる︒そう解すれば︑松山は極めて便宜的な命名ということになる︒この手法は下巻ノ一に

登場する椀久妾の久米の場合にも︑﹁久米のさら山さらさら其日暮しに﹂と﹃古今和歌集﹄巻第二十・神あそびのうた

﹂の歌は︑承和の御べのきびのくにのうた

美作ゃくめのさら山さらさらにわがなはたてじよろずよまでに

に由来することから︑いわば西鶴の命名によくある例であったことが了解されるのである︒

そこで西鶴における﹁松山﹂の語感がどのようなものであったのかを確認する︒西鶴の俳譜では﹁末の松山﹂という語

(6)

で︑﹃俳譜之口伝﹄﹃西鶴大矢数﹄﹃俳譜習ひ事﹄﹁一目玉鉾﹄に見られる︵いずれも﹃新編西鶴全集﹄第五巻上・下に拠る︶0

以下に一例として︑﹃西鶴大矢数﹄と﹃一目玉鉾﹄を引用する︒なお引用文中﹁末の松山﹂の語に傍線を︑付合語には点

﹃西鶴大矢数﹄巻一第五

圏甥なから跡職の公事

海にまた末の松山欲ふかひ

一度に喰れぬしほ竃の浦

﹃西鶴大矢数﹄巻一第七

此著上戸の喉の沖の石

さては殿様末の松山

系図なとかたり詰てはもそっとしゃ

浦近く降くる雪は白浪の末の松山越かとそ見る

春の海行すへの松山吹風に震ぬ浪も花やちるらん

ちなみに﹃俳譜類松集﹄にあたると以下の語が該当する︒

末ノ松山

宮城原花の浪こす

ほと﹀きす

p

岸の初雪輩/釣舟

さらに﹃椀久一世の物翠巴以前の西鶴の浮世草子作品である﹃好色一代男﹄﹃諸艶大鑑﹄︵いずれも﹃新編西鶴全集﹄第

(7)

一巻に拠る︒引用文中﹁松山﹂の語に傍線を︑﹁松山﹂の連繋語には二重線を施した︶

﹃好色一代男﹄巻三ノ七

身は沖の石︑かはく間もなき︑下の帯︑末の松山腰のかがむまで︑色の道はやめじと︑けふの塩竃の明神に来て

むかしの角弥に︑あいもかはらぬ男︑契は松山のすゑ懸てと︑互に申合して︑かはらぬ心底見すまし

と﹁松山﹂の語がみられる︒﹃好色一代男﹄では﹁色の道﹂︑﹃諸艶大鑑﹂では﹁契る﹂﹁すゑ﹂と連繋して用いられている︒

上記からすると︑西鶴の俳譜や浮世草子に﹁松山﹂の語は既に用いられていることがわかる︒椀久の相方として﹁松山﹂

を着想することは︑西鶴にとっては極めて容易であったはずである︒﹃後拾遺和歌集﹄の﹁ちぎりきなかたみにそで﹂の

和歌を前提として︑松山の命名が生まれたのではないかと考える︒一言葉の流れの中で作られた形式的な名前であったと推

椀久物の系譜

さて︑椀久といえば椀久・松山の一対で主人公であるといっても過言ではないほど著名である︒現在でも椀久物という

一類がものなされ︑演劇などで多く上演されている︒

そこで﹃椀久一世の物語﹄の前後で刊行ないしは︑演劇として上演された椀久物の展開を見ていく︒歌舞伎に始まり︑

西鶴の浮世草子へと続き︑その後には浄瑠璃等で数々上演されていることがわかる︒次頁︽表一︾では︑歌舞伎や浄瑠璃

の一部を載せている︒その数は多く︑期間は息が長く︑椀久物と呼ばれるようになっていく︒その後明治に至り︑幸四露

岩波書店︶まで繋がっている︒

(8)

︽表一︾椀久を素材にした作品 13  12 11 10  9 8 7 6 5 4 3 2 1 

i: 

<.  7G 字 享

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7G 

年 年 年 年 年 年 年 年

七 七 七 七、 ノ\ ノ

ノ\ ノ~ 1\ ノ¥  1\ ノ¥  1¥ 

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伽 椀 山 椀

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浄 浄

西

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風 積

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有 有 有 有 無 有 有 有 有 無 有

山 松 Lく 遊

野 女

*  * 

番号の上に貴印のある1

4

8

野間光辰著﹃刷補西鶴年譜考謹﹄中央公論社一九八三年︑瀧田英二著﹁一克禄期の世話狂言に就て﹂︵東京帝国大学演劇史研究学会﹃演劇史研究I﹄︹元禄劇篇︺巧芸社一九三六年︶︑伊原敏郎著﹃歌舞伎年表﹄第一巻岩波書店一九七三年

︽表一︾に挙げた作品について簡単に説明をする︒ーの﹃椀久袖の海﹄は︑その内容は不明である︒ただ︑大和屋甚兵

衛が演じたであろうことが野間光辰氏や瀧田英二氏により考証されている︒貞享元年に大阪で興行されており︑元禄一二年

4の﹃けいせい袖の海﹄を上演したとなっている︵これもその内容は不明である︶︒さらに︑

歌調の一部が8の﹃椀久出端﹄にあるとなっている︒本稿でも︑

4

8の﹁椀久

出端﹄は同様のものとする︒なお8の﹃椀久出端﹄はその内容がうかがえることにより︑以下に本文を引用する︒

(9)

﹃椀久出端﹄大和屋甚兵衛

誰かいく野をひきぬきしより︑いつの比より相馴れ初めて︑通ふ心の幾瀬

の思ひ忍ぶ妻戸をほと/\た︑くは椀久か︑さりとはさりとは受けうかの︑忍ぼかの︑そっこで請け出せ︑思はくを

これ/\/\請けたもの︑あのや椀久はこれさこれさ︑鼓の皮かのうほんえ︑しんぞ心はこれさ/\うちぬいた︑

l

再度︽表一︾に戻る︒最上段に黒い星印を施した行︵148の一番下の項目である遊女名に日を転じると︑椀久の

相方である遊女が﹁いく野﹂であるということに気がつく︵右に引用した﹃椀久出端﹄本文中の点線E

しかし﹃椀久一世の物語﹄以降の作品ではすべて48を除く︶が﹁松山﹂で統一されている︒さらに右に引用した

﹃椀久出端﹄本文中の﹁幾瀬の思ひ﹂︵点線F︶は﹁いく野﹂︵点線E︶と呼応している︒前述した西鶴の﹁松山﹂の命名

は︑言葉の流れの中で作られた形だけの名前であったと推察したが︑﹃椀久一世の物語﹄以前の作品でも命名には状況か

次に西鶴以降の椀久物の内容で補足すると︑3の﹃椀久浮世十界﹄は芝居の筋がなく番付や役割︑挿絵などが載せられ

ているものである︵﹃元禄歌舞伎傑作集﹄上巻早稲田大学出版部一九二五年︶︒椀久と松山の内容的関わりは検証する

ことはできないが︑その挿絵に椀久と松山の名前を認めることができる︒5以降では︑都一中や紀海音における浄瑠璃︑

歌舞伎また︑江島其積の浮世草子︑またや西沢一風の歌謡においても︑その作品中の椀久の相方は松山である︒松山の名

前が不動のものになっていったことがわかる︒また内容も﹃椀久一世の物語﹄における松山は形式的な命名であるのに対

し︑都一中や紀海音の作品以降の松山では︑松山自身の積極的参与があり︑感情が吐露され︑作品中で魂の入った人間形

象がなされている︒たとえば︑紀海音の浄瑠璃を例にとると︑﹃椀久末松山﹄中之巻に︑

もろ共に︒セメじゃゐんの悪鬼は身をせめて其念力の道も恋ぢも高へいのうへに恋しき人は見へたり嬉しゃな︒

(10)

地色中松山かはやうこ﹄ゑとまねかれて︒せかるLからに足ふるひ︒とぶよと見ゑしがゑんさきの石の角に胸打て︒

うんと計に息たゆる︵中略︶松山は︒こずへにおびを引かけてへいのうへにひらりとのぼり︒わん久様おさん様ウぷ

心中はおためぞや︒せけんのそしりはよきやうに︒ハル頼まするといふこゑもヲクリなく/\とびをり出行ば︒︵﹃椀久

というように︑塀をも乗り越える具体的行為をする松山の場面がある︒ 末松山﹄中之巻︵﹃日本古典文学全集﹄第四五巻

以上により︑﹃椀久一世の物語巴以前では相方の遊女名は松山ではなく﹁いく野﹂であったのに対し︑﹃椀久一世の物語﹄

で松山となり︑以降その松山に具象的な人間像が付加されていく︒﹃椀久一世の物語﹄では便宜的であった松山が︑椀久

の相方として椀久と並ぶ主人公格になっていったと考えられるのである︒

下巻ノ四の

ここまでの椀久と松山の関係︑松山の存在をふまえた上で︑再び﹃椀久一世の物語﹄本文に戻って考えてみる︒下巻ノ

四の後半では︑通ひ女といわれる下女を連れた女が出家をした椀久を訪れる場面がある︒

 

ある夜︑下女つれし女の来りて︑さまざま昔しを語りなぐさめける︒ 以下に該当本文を載せる︒

蛸に酢をかけて思ふままと

遂に夢のさめねば是なれば何を云ふ

文も首尾のあらば︑相見る事もと︑云捨てて帰りぬ︒其程ちかき夜番の是を寝覚めに聞きしが︑其や

I l l i t

− −

1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 I I I I l i I I I I I I I

β I I I I

︑人間とは思はれず︒黙りて夜明けて見れば︑黄八丈に紅うらの女着物︑裾にうち掛け︑枕に紙包み

;巾

V I I I

i氷砂糖を残せり︒見し人︑此女恋しゃと云へども︑其行方知れがたし︒椀久目覚めて︑

軒川音すさまじくなりぬ︒彼の女いろいろ身をうごかせども︑

砂糖うれし

く楽しみとなしけるとや︒︵目録題には﹁何とも知れぬ通ひ女の事﹂という章題脇の説明文あり︶

(11)

;¥  この女は下女をつれ︑眠る椀久を揺り起こしてまで話をしようとする︒その容姿は人間離れしたやさしい声をしており︑

黄八丈の着物と氷砂糖を残して去ってゆく︒なおこの﹁下女連れし女﹂は︑﹁通ひ女﹂や﹁彼の女﹂さらに﹁この女﹂と 同じ女を指しながら別な呼称でも表現されているが︑前述したように本稿では以降︑﹁下女連れし女﹂に統一して表す︒

まず先学の研究を確認する︒下巻ノ四の﹁下女連れし女﹂について言及をしている稿は︑次頁︽表二︾に記した十名の 先学である︒その十名のうち九名が﹁下女連れし女﹂は松山とすることで共通している︒﹁下女連れし女﹂は松山としな

がらも︑松山と明記しない理由に︑ーの鈴木敏也氏は﹁何故上巻あたりで松山との濃やかなさま︵中略︶を描寓しなかっ

たらうか︒この作の大きな融陥はこの一貼にあると思ふ﹂という意見である︒3の笠井清氏は︑﹁相当の理由があったは

ずである︵中略︶現実とフィクションの背反の間に生じたのではあるまいか﹂としている︒意見の一つとして︑

中から7の西島孜哉氏の稿を引用する︒

ここで西鶴がこの女の素性を明確にしなかったのには︑特別な意図があるとみるべきであろう︒︵中略︶夜番の言葉 に﹁そのやさしきこはっき︑人間とは思はれず﹂とある︒﹁人間﹂ではないはずなのに︑あえてそのように言わせて

いるわけで︑それが椀久の心に抱く松山の幻想であることを︑いいたかったのである︒椀久は︑夢の中でなら︑この

﹁人間とは思われ﹂ない女との心を通わせることができるのである︒椀久は︑今や夢の世界に生きているのである︒

8の白井雅彦氏が︑﹁下女連れし女﹂が﹁椀久の女房︵もしくは妾の久米︶の面影﹂である可能性を示唆され

ている︒白井氏はその根拠を︑下巻ノ四の挿絵の解釈から考察されている︒その一部を引用する︒

この二つの一致︵本稿六章︽挿絵一︑二︑ゴ一︾参照︶が一葉の挿絵に指摘しうる事実を︑そしてそれが﹁妻﹂と﹁妾﹂

という主人公との特殊な間柄にあった人物を想起せしむる事実を︑果たして偶然のこととして看過してよいであろう

米でもないをした上で︑ か︒今日までの研究には︑この事実|着物柄が同じについて納得のゆく否定氷砂糖の女は椀久の女房でも妾の久

なお﹁氷砂糖の女は松山である﹂とするものはないのである︒︵中略︶私は氷砂糖の女

(12)

10  6  5  4 

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あい主 着物二るるや 人 椀久てし椀久 最 のの ののの の はせが ると てし 柄が女が 心松山が心 久 幻影ぷり最後 え面

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宮池官

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0)1

L

主 得

−鈴木敏也著﹁﹁大坂堺筋椀久一世の物語﹂に就て﹂︵﹃廃園雑草﹄所収︶右文書院一九二六年2陣峻康隆著﹁﹃椀久一世の物語﹄と﹃椀久二世の物語﹄﹂︵﹃西鶴評論と研究上﹄所収︶中央公論社3笠井清著﹃椀久一世の物語評釈と論考﹄明治書院一九六一二年4小森啓助著﹁﹃好色五人女﹄の出発点﹃椀久一世の物語﹄との関連を主に﹂︵﹁同志社大学国文学会﹂四号5高橋俊夫著﹁﹃椀久一世の物語﹄について﹂︵﹃西鶴論考﹄所収︶笠間書院一九七一年6槍谷昭彦著﹁椀久一世の物語と西鶴﹂︵﹃井原西鶴研究﹄所収︶三弥生書店一九七九年7西島孜哉著﹁﹃椀久一世の物語﹄の意義|モデル小説の試み|﹂︵﹃西鶴と浮世草子﹄所収︶桜楓社一九八八年8

m森耕一著﹁﹃椀久一世の物語﹄と﹃嵐は無常物語﹄|遊里幻想と役者幻想﹂︵﹁そのだ語文﹂第四号 9白倉一由著﹁﹃椀久一世の物語﹄の主題﹂︵﹃西鶴文芸の研究﹄所収︶明治書院一九九四年 O

OO

(13)

O

を椀久女房もしくは妾の久米の面影として解釈する可能性を否定はできないと考えるのである︒

以上により先行研究は十名によって行われているが︑特徴的であることは︑十名のうち九名が﹁下女連れし女﹂は松山

としていることである︒その理由は︑椀久が最も思いを寄せながらも気の狂った原因が松山であり︑その松山も椀久のこ

とを憎くは思わず︑わざわざ逢いにくる可能性のあった間柄であったからであるとされている︒松山以外の可能性はいつ

さい示唆されていない︒8の白井雅彦氏は唯一挿絵の着物の柄が同じ事から︑﹁下女連れし女﹂が﹁椀久女房もしくは妾

の久米の面影と解釈することができる可能性を否定できない﹂と述べられているが︑問題提起に止まっている︒

しかしながら前節までの考察により︑松山は間接的︑抽象的にしか描かれていなかった︒また先行研究では椀久が気が

狂ってしまった時に︑その混乱した精神状態の中でもなお松山恋しさのあまりに︑松山が﹁下女連れし女﹂として登場し

たとしている︒ところが下巻ノ四の本文中における椀久は︑﹁下女連れし女﹂に話しかけられでも眠って無視を続けてい

る︒﹁下女連れし女﹂を見たのは周囲の人だけである︒もし﹁下女連れし女﹂を松山とするならば︑最初で最後の腕久と

松山が同場面で登場し︑語り合える重要な見せ場である︒﹁下女連れし女﹂である松山が椀久と会話もしないですれ違っ

たままこの場面をやり過ごしてしまっては︑松山の物語上の立場は椀久の相方として台無しである︒しかし先学九名の松

山説はこのことに関して全く言及がない︒

そこで﹁下女連れし女﹂は松山ではなく︑他の女性がそれである可能性について考えてみる︒

の特徴

下巻/四﹁現の情物語﹂に記された﹁下女連れし女﹂の特徴を表現する部分は次の五項目である︒かっこ内の部分は前

出四節に引用した本文の点線部と対応する︒

(14)

ァ.下女を連れている

ィ.椀久と交渉があった︵さまざま昔を語りなぐさめける←@︶

ゥ.容姿の描写がある

ェ.人間らしくない人

ォ.物をくれる︵黄八丈に紅うらの女着物︑裾にうち掛け←⑧︶

松山以外でも︑上巻︑下巻共に椀久と関わる女性は多く存在する︒その中の女性たちを﹁下女連れし女﹂の特長に当て はめると︑右のいずれか一︑二項目には誰でもが該当するが︑完全に﹁下女連れし女﹂になり得る人物は存在しない︒

しかしウ

の﹁やさしきこはっき﹂については︑すでに檎谷昭彦氏が﹁椀久一世の物語と西鶴﹂で︑﹁やさし﹂と描写

されている三名の女性︵上巻ノ六の女乞食と上巻ノ七の椀久妻︑及び下巻ノ四の﹁下女連れし女﹂︶は椀久にとって特別

な存在であるとしている︒それは﹃好色一代男﹄で同じく﹁やさし﹂と描かれる女性五名︵巻一ノ五の伏見撞木町の遊女︑

巻二ノ一二の京︑川︵河︶原町の遊女︑巻三ノ四の大原の女︑巻四ノ一の信濃追分の女︑及び巻五ノ一の吉野太夫︶を引例

されながら︑注意を喚起されている︒

また︑﹃新編西鶴全集﹄の索引によると︑西鶴のほかの作品では︑

の﹁人間とは思はれず﹂の語句は︑﹃西鶴諸国は

なし﹄巻一ノ六﹁雲中の腕押し﹂と﹃男色大鑑﹄巻三ノ五﹁色には見寵は山吹の盛﹂に見られる︒いずれも﹁人間とは思 はれず﹂の対象が男性でかつ人間離れした状態の意味である︵前者は風体やしぐさが常識はずれの僧のことであり︑後者

は見目麗しい若衆の表現で︑いずれも本文中の﹁下女連れし女﹂の印象とは異なる︶︒そこで︑次の引用文の﹁人間には

(15)

まがふ所なし﹂と現記された部分に注目してみると︑﹁下女連れし女﹂と扱い方が似ていると思われるので引用する︒

上方風なる女︑袖に香なと留て︑ゆたかなるありさま︑うたかはれて︑又見れども︑人聞にはまがふ所なし︒御身い

かなれば︑不思儀と申︒︵中略︶我風車に乗て︑諸国に見立し美人の書付と︑畳紙ひとつわたして︑

杉村の木末に声のみ︒跡おそろしくなって︑此山を立のき︑峨陰の草なき所に座して︑彼の書たる物を見れば︑当代

のうつくし姿としるして︑江戸の花紫︑京の金太夫︑大坂の総角︑其外一二ヶの津の太夫どもを書のせる︒さては女郎

よりは︑美形なき事を得道して︑又︑揚屋に入とかや︒︵﹃諸艶大鑑﹄巻八ノ四﹁有まて美人執行﹂︵﹁新編西鶴全集﹄

﹁人間にはまがふ所なし﹂の女性はとても美しく︑彼女の身の上話をしばらく聞いていた︒その後︑﹁いつとなく消えて︑

杉村のこずえに声のみ﹂となる︒やはり化け物か狐だったのだろうかといわざるをえない場面である︒以上のことから︑

の表現が︑人間とは変わらないものの︑真の人間ではないものを指すことがわかる︒

イメージとして非日常の遊女である松山を指すのか︑そう

の何かを指すのかである︒そこで注目したいのが椀久妻である︒

この妻は上巻ノ七で死亡しており︑下巻ノ四で登場する時には幻影か亡霊とならざるを得ない存在である︒登場人物が死 ここで問題にしたいのは︑﹁人間とは思はれず﹂の存在が︑ではなく事実として人間離れした状態︵人間ではない︶

亡してしまうのは︑﹃椀久一世の物語﹄を通して椀久妻だけである︒このことから椀久妻は﹁下女連れし女Lの候補とし

て考えられないであろうか︒﹃椀久一世の物語﹄は︑冒頭部で椀久の夢の中に椀久の状況を悲観した弁財天が現れ︑内蔵

の鍵を渡すことをきっかけにして物語が始まる︒人間ではない弁財天が︑物語の始まりを伝えるメッセンジャーとしての

役割を担って登場する︒下巻になると︑椀久を取り巻く環境や椀久自身の状況が一変する︵具体的には﹁下女連れし女﹂

が登場する同じ下巻ノ四の前半で椀久は出家し︑挿絵の椀久もこれ以降は坊主頭の墨染め姿に変わる︶︒このタイミング

(16)

ろうか︒冒頭で物語のきっかけとしてメッセンジャーを登場させる用法は︑﹃諸艶大鑑﹄にもみられるものである︒

以上から︑松山以外で﹁下女連れし女﹂の特定を試みる中で︑﹁下女連れし女﹂の描写から︑﹁人間とはおもはれ

﹁其行方知れがたし﹂を勘案すると︑登場人物の中で唯一死んでしまった椀久妻の可能性があると考えられる︒

」L.

/\ 

挿絵の考察

せるメッセンジャーとして

ず﹂と

(17)

︽挿絵一︾が下巻ノ四の﹁下女連れし女﹂の場面であり︑

絵二︾が上巻ノ七の椀久妻の場面である︒下段各左右の図が当の

︽挿絵一︾の立っている二人の女の

うち︑右側の女性の着物の柄︵①︶と︑

物の柄︵②︶を見比べてみると︑櫛形模様の絵柄が似通っている︒

A mゃ ん

の椀久の妾である久米の着物の柄︵④︶が似通っている︒この妾は風流女︵﹃定本西鶴全集﹄の頭注では美人の意︶

︽挿絵一︾③の人物を拡大したもの

*挿絵は、浅野晃校注『新編西鶴全集』第一巻本文篇に拠る。

椀久の身代が落ちぶれ財産などすべてを失っても色の道だけはやめられないとして︑しばらく一緒に暮らす女である︒椀

で ︑ 久は︑尼法師︵元茨木屋の遊女妹背︶から松山の身請け話を聞かされ︑狂人のようになってしまう︒その出来事の際にこ の妾は︑﹁中津川の親里に帰りぬ﹂の記述を最後に作品から姿を消す︒着物の柄が似通った椀久妻と妾の久米は︑椀久と 一つ屋根に暮らした経験のある近親者であり︑松山の存在により椀久と離別することで共通する︒この共通項から︽挿絵

(18)

一︾の女は﹁妻﹂が暗示されていると読み取る事ができる︒さらにこれら︽挿絵一︑二︑三︾については︑前出回節で引

用した通り︑既に白井雅彦氏も﹁﹃椀久一世の物語﹄考二﹂において︑

注目したいのは二人の女が着ている着物の柄で︑着物を手にした女は上|七の挿絵に描かれる椀久女房と同柄の着物

を着ている︒︵︹挿絵二︺参照︶また︑てぷらの女のそれは下|一の挿絵に描かれる椀久の妾久米と同柄の着物︵︹挿

絵三︺参照︶なのである

と論述をなさっている︒﹃椀久一世の物語﹄では︑登場人物ごとに着物の柄が決まっているようである︒松山は本文中の

描写も数が少ないが︑挿絵にも全く描かれていない︵上記のことは︑たとえば﹃好色一代男﹄の吉野︵巻五ノ一︶︑タ霧

︵巻六ノ二︶︑高橋︵巻七ノ一︶などに比べると歴然たる差である︶︒ところが︑椀久妻︵︽挿絵二︾の②︶と椀久妾の久米

︵︽挿絵一ニ︾の④︶は︑下巻ノ四の二人の女︵︽挿絵一︾の①と③︶と各々着物の柄が非常に似ている︒本妻と妾の上下関

係がこの挿絵に反映されているかどうかまでは明言できないが︑前出四節の本文引用@にあるように︑﹁下女連れし女﹂

が手ずから着物を椀久の裾にうち掛けたと考えられることから︑櫛形模様の着物の女︵︽挿絵一︾の①︶が﹁下女連れし

女﹂であり︑妻の存在を強く暗示する幻の椀久妻ではないかと考える︒

﹁下女連れし女﹂と椀久妻の共通描写

最後に椀久妻と﹁下女連れし女﹂の共通する項目を示す︒以下の四点が挙げられる︒

﹁下女連れし女﹂は﹁さまざま昔しを語りなぐさめける﹂とあり︑椀久妻は﹁椀久妻たる人﹂で共通する︒

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