アダム・スミスの信用貨幣論について
著者 榎並 洋介
雑誌名 星薬科大学一般教育論集
号 7
ページ 69‑105
発行年 1989
URL http://id.nii.ac.jp/1240/00000170/
アダム・ス ミスの信用貨幣論について
高島善哉︵一九〇四ー一九九〇︶
﹁学問することは︑原点に帰って考えることを学ぶということである︒学問への思念は短絡の論理とはなじまない︒
学問への思念は媒介の論理を求めてやまない﹂︵﹃実践としての学問ー日本的知性批判のために ﹄より︶︒
榎並 洋介
目 次
一 流動 資本としての貨幣
二 貨幣節約 としての金紙代替論
三 いわゆる﹁スミスの原理﹂
四 生産資本 としての信用貨幣
ω 一七七六年アダム・スミスは主著﹃国富論﹄を刊行することによって︑旧い観念と幻想に根ざした経済社会観を批判し︑ ② 新地平を 開くための経済社会像を構築した︒それは理神論に基づいた経済社会の拡大した﹁循環的フロー﹂ともいえるも
のであった︒とくに︑流通空費としての貨幣の節約を通して信用貨幣に大きな役割を与え︑銀行信用を媒介に資本の拡大
カ く 的循環を 図り︑もって富裕を実現しようとするものであった︒
0 本稿はこのような視座を確保して︑ス︑ミスの拡大再生産過程の基底をなす信用貨幣の検討を目的とするものである︒7
註ω ︾合日◎力日津亡﹄§ざQミミヘミoき恥きミさoミ○§句霧ミき鳴司§へSミ日驚o§°●Oぴ匂団江忌問O●ロロ四見O書o皇二
陪巳ω︑いo昆oP巳切⇔これを﹃§〜きミき識o嵩と表記する︒邦訳は大内兵衛・松川七郎﹃諸国民の富﹄岩波書店︑全二巻本を
用い︑﹃国富論﹄と略記する︒
② 甲国・Op日旦8ロ四aP・C力・乙力在自05﹄§ミ⑦§へきト8画oP冶◎︒NロH謡゜久保芳和﹃アダム・スミス伝﹄東洋経済新報社︑昭和
五九年︑二二〇頁︒
㈲商品流通を基調 とする近代の商業的社会の論理は︑すぐれて貨幣の論理である︒スミスは富裕を消費財の大さいに求めることによ
って︑マーカンタイル・システムが消費者の利益を犠牲にして商人の利益を優先させたことを根本的に批判したのだった︒ ﹃国富
論﹄の基本的視角は﹁消費が生産の唯一の目的であり︑生産者の利益は消費者の利益を促進するかぎりにおいてのみ顧みられるべき
であるというのが経済学者アダム・スミスの根本的信条である﹂︒スミスは三大階級観に立脚しながら︑これを超越し︑消費者の立
場を堅持した︒すなわち︑ ﹁消費者の立場というのは︑いわゆる経済における正義を具象化したものにほかならないのであって︑し
たがっていわゆる正義の法を侵害しないかぎり︑資本家階級の利益は否認されないばかりでなく︑かえって大いに推奨されなければ
ならない﹂というのがスミスの思想であった︵高島善哉﹃アダム・スミスの市民社会体系﹄岩波書店︑昭和四九年︑九三〜九四頁︶︒
一 流動資 本としての貨幣
スミスは国富を土地と労働の生産物に求め︑これらの労働生産物が増加することによって︑国富は増加すると考えてい
た︒貨幣は︑生産物の交換を活発にするために機能するのであって︑貨幣の増加が国富を増加させるのではなかった︒
﹁流 通の大車輪であり︑商業の偉大な用具でもある貨幣は︑職業上の他のすべての用具と同じように︑資本の一部︑し
かもひじょうに貴重な一部をなしてはいるにしても︑それが属する社会の収入のどのような部分をもなすものではないし︑
またこの貨幣を構成する金属片は︑その年々の流通過程において︑当然各人に帰属すべき収入をその人に分配しはするに ② しても︑それ自体としてはこの収入のどのような部分をもなしてはいないのである﹂︒﹁流通の大車輪であり商業の偉大な
用具でもある貨幣﹂認識は︑資本蓄積を研究課題にしている﹃国富論﹄第二編の前提条件になっている︒しかし︑﹃国富
論﹄第二編第二章の右の引用にも見られるように︑スミスは貨幣を資本の一部として規定しながら︑貨幣は社会のどのよ
うな収入をも構成しないと主張している︒一体このことは何を意味するのであろうか︒
ス︑ミスは︑﹃国富論﹄第二編序論において︑貨幣に関する論究を次のように述べている︒﹁第二章で︑わたしは社会の総
資財の特殊部 門と考えられる貨幣の性質と作用を説明しようと努力した︒蓄積された資本になった資財は︑それが属して ③ いる人によって使用されるか︑またはだれか他の人に貸付けられるか︑そのいずれかするであろう﹂︒貨幣を社会の総資
財の特殊部 門と位置づけ︑また︑資財が蓄積されて資本になるという認識の仕方は︑まつ資本をどのように把握するかを
て 起点にしてはじめて理解できることであろう︒したがって︑われわれは最初に資本の性質の分析から初めなけれぽならな
いつ ・o≧ ︑
鱗舗 註ω 拙稿﹁ヒュ去の貨幣論とスミスの批判﹂﹃星薬科大学一般警論集﹄笙ハ輯︑一九八九年参照︒
の ② 綱§☆eミき☆O嵩︵一シPN謡゜訳〇四四六頁︒
スミ ㈲oo︒﹈.二やo︒Φ⇔同右訳書︑四四七頁︒周知のようにシュンペーターは︑﹃国富論﹄第二編第二章をスミス貨幣論の真髄と評価して
ス
・
い る︒﹈°﹀°o力畠已旨冨け05尽江ミ∨︒︑穿o§§苦﹄§せ怠臼O×So註qコ︷<二㊥冨ωω゜声㊤置も二㊤ω゜東畑精一訳︑四〇一頁参照︒
㌦万
資本とは何か︒この概念をスミスは三つの純粋なモデルを想定して抽出する︒まつ︑ ﹁分業がなく︑交換もめったにお
71 こなわれず︑あらゆる人が独力であらゆるものを調達するという社会の未開状態﹂においては︑労働によって獲得した資
72 ④財はその都度︑即座に消費する︒したがってこのような段階は︑予め資財を蓄積する必要は全くない︒次に︑﹁ある人の
所有す る資財がその人を数日間または数週間しか扶養するにすぎぬぽあいには︑かれはそれから収入をひきだそうなどと
はめったに考 えない﹂︒当座の間︑資財による扶養がここでの目的であるから︑この資財から収入をあげることをその使 ㈲用者は考えない︒
そ して︑最後は︑﹁この人が自分を数ヵ月間または数力年扶養するにたりる資財を所有するぽあい﹂である︒資財所有
老は︑自分を扶養する部分を留保して︑資財の大部分から収入を引き出そうと努力する︒﹁すなわち︑かれが自分にこの ⑥収入を もたらしてくれるものと期待する部分は︑かれの資本とよばれる﹂︒スミスよる資本なる概念の導出の仕方がここ
には 明示されている︒それは︑資財︵o③O津巴ω80オ︶の所有関係に規定された大いさが︑どのような状況にあるかとい
う特質を明らかにすることによって抽出していることである︒資財所有者の資財が直接消費の段階から間接消費へと発展
す ることを契機にして︑資本の性質を明らかにしている︒そこには収入と利潤の同一視が指摘できるのであるが︑しかし︑ ωともかく資本はその所有者に収入または利潤をもたらすという規定が生まれることになる︒
註㈲ 司§へきミさ篭§物︵﹈ソやN切◎︒°訳〇四四五頁︒
㈲ oOo貫⑰N窪゜同右訳書︑四四八頁︒
⑥80﹂ひ
mすでにスミスは第一編第六章において次のように説明していた︒ ﹁資財が個々人の手に蓄積されるや否や︑かれらのなかのある者
は︑勤勉な人々を就業させるために当然それを使用し︑かれらの所産を売ることによって︑すなわちかれらの労働が原料の価値に付
加するものによって利潤をあげるために︑かれらに原料や生活資料を供給しようとする﹂ ︵8︒芹ら﹁切P同右訳書一三二頁︶︒すで
に︑スミスは資財所有者と賃労働者という歴史的な社会関係を基軸にして利潤の創出を説明している︒しかし︑この場合の資本は原
料や資財や生活資料の諸素材を表わしているにすぎない︒
スミスは︑資財と資本とを区別するとき︑個人が所有している資財は自分自身が直接消費するから収入はうまれないと
考 える︒しかし︑直接消費しない残余の部分から収入を引き出すわけであるから︑この収入をスミスは利潤といいかえる︒
したがって︑資財の所有者がそれを直接消費する部分は資財と規定し︑収入11利潤をもたらす資財は資本と規定して区別 ㈲ す る︒しかしながら︑いずれにしても資本を資本的資財oo豆冨一ω90ズとして把握していることに相違ない︒このような
意味における資本は︑その使用の方法によって流動資本と固定資本に分かれる︒
流動 資本は︑資本の所有者が継続的に変わり︑流動することによって収入‖利潤をもたらすように使用されるものであ
る︒﹁それは財貨を調達し︑製造し︑または購買し︑さらに利潤をえて再販売するのに使用される﹂︒﹁商人の財貨は︑か
れがそれを貨幣とひきかえに売るまでは︑かれになんの収入ももたらさないし︑またこの貨幣にしても︑それがふたたび
財貨と交換されるまでは︑右と同様かれになんの収入ももたらさない﹂︒他方︑固定資本は︑流通することなく︑あるい ⑨
て は資本所有者が変わることなく︑収入または利潤をもたらすように使用されるものである︒
い⇔ この定義にはスミスの現実感覚がよくあらわれている︒しかし︑既に触れたように︑スミスには︑本来の資本の価値増
繍 殖の機能に関する視座があった︒それにもかかわらず︑ここでは単なる資本形態の視点に立脚して︑それが流通するか否
貨 ㊥朋 かを基 準にして︑資本を二つに区分しているのが特徴的であ面︒しかも流動資本の説明にみられるように︑本来の流動資
のス 本 と商品資本・貨幣資本を意味する流通資本とが︑一括して流動資本として説明されている︒
バ
かダ 註⑧藤塚氏は︑従来のキャピタルという用語法とス︑ミスの把握には著しい相違があると次のようにいう︒ ﹁従来のキャピタルなる語の
ア 使い方では︑利潤や利子の元本にせよ会社の出資金の意味にせよいずれにしても一定の金額あるいは価値額・・已日昆日oロo町を示す
3 概念にほかならなかったが︑これにたいして﹃国富論﹄におけるキャピタルの把握は︑単なる価値の額ではなく︑商品や貨幣など種〆 々の形態をとって姿態転換を経過しつつ運動するものとしての再生産的な把握を意味しているのである﹂︵藤塚知義︑﹁アダム.ス︑ミ
ス︽資本o趨吉巴論︾ー﹃国富論﹄におけるストックとキャピタルの区別と︿資本﹀概念の定立﹂﹃金融経済﹄第二百号︑一九八三 F← 年︑八七頁︒のち﹃アダム・スミスの資本理論﹄日本経済評論社︑一九九〇年︑収録︒同書︑一一八頁︒
⑨ 零§へSミき亘o嵩︵Hソ℃℃°N㊦H−NΦ&.〇四四九頁︒ ﹁このような固定資本と流動資本との区別を意識的かつ体系的に提起した
のは︑おそらくスミスがはじめてではないかと思われるが︑この両者の区別は実は生産資本︵生産過程にある資本︶と流動資本︵流
通過程にある資本︶との区別を意識したためではないかと思われる︵藤塚︑前掲論文︑八八頁︑同前掲書︶︒
⑩ マルクスは︑スミスの固定資本と流動資本とに関する批判を︑﹃資本論﹄第二巻第二編第一〇章に詳しく展開している︒︵民゜苦胃×
O禽§鷺ミ臣︑目ωω゜S°︒⌒で︶
個人の資 財の分類区分を一国全体の社会総資財にそのまま拡大適用するスミスは︑固定資本と流動資本の目的を直接消
費のために留保されうる資財を維持し増加させることに求める︒この資財とは人々の消費する衣食住を指す︒こうして︑
国民の貧富は︑この資財の供給の程度に依存すると次のように言う︒﹁人民の貧富は︑これら二つの資本が︑直接の消費 ⑪
のために留
保 される資財に提供しうる供給が潤沢か貧弱かに依存するのである﹂と︒
こうした場合︑貨幣はどのように考えられているのであろうか︒貨幣は︑食料品・材料および完成品の流動資本を構成
す る資財のひとつとして︑スミスは位置づけている︒スミスは貨幣の流通手段としての機能に立脚して︑貨幣がこれら食
料 品・材料および完成品を消費者に流通・分配していくものと把握する︒直接消費に供されるこれらの資財は︑補給され
ない限り継続できなくなるので︑土地や鉱山および漁場の生産物からくみとることによって償っていく︒貨幣も例外なく
補給を必要とする︒なぜならば︑貨幣は最終的には消耗したり摩耗したり消滅したり︑あるいは海外へ送られたりするか
らである︒したがって﹁鉱山からも︑流動資本中の貨幣部分を維持し増加するのに必要なものがくみとられる﹂のである︒
註ω 乞oミ■叉プミ昔嵩︵︼ソb°NΦ9訳9四五五頁︒
⑫8︒︷げ゜も゜NΦS 同右訳書︑四五六頁︒﹁貨幣とは流動資本から補充されるだけで︑直接消費用の資財には転化されないのである﹂
︵高島善哉編︑﹃経済学説全集 第二巻 古典学派の成立﹄河出書房︑昭和二九年︑一九六頁︶︒また︑この段階においてスミスは貨
幣が金銀鋳貨であると認識して鉱山からの補充を考えている︒
ところで︑スミスは﹃国富論﹄第二編第二章において貨幣を社会の総資財の特殊部門b碧寓o巳胃ぴ日口ひ庁とみなし︑
貨幣を国民資本ロ餌江oロ巴6ロ宮富一と =口い換え︑この貨幣を維持する費用にっいて論じている︒しかし︑何故に貨幣は固
定資本や流動資本とは異なる特殊な部門の資本なのであろうか︒
スミスはこの問題に対して収入を総収入と純収入とに区別し︑次のように述べる︒﹁ある大国のすべての住民の総収入
は︑かれらの土地と労働の年々の全生産物をふくんでおり︑純収入は︑第一にかれらの固定資本の︑第二にかれらの流動
資本の維持費をさしひいたあとで︑かれらの自由処分にのこされるもの︑いいかえれぽ︑かれらが自分たちの資本を蚕食
て することなしに︑直接の消費のために留保される自分たちの資財にくりいれることができるもの︑すなわち︑自分たちの
い⇔ 生活資 料︑便益品および娯楽品のためにつかうことができるものをふくんでいる︒かれらの実質的な富もまた︑かれらの
繍総収入では 芒に・かれらの襲入髭例す如﹂・こ︐三総収入とは国民の土地と労働の年々の全生産物であり・純収入
貨翻 とは固定資本と流動資本との維持費を差し引いた後に残る個人が自由に処分可能な収入をさす︒したがって︑︹総収入︺1
の
ス ︹固定資本の維持費+流動資本の維持費︺‖︹純収入︺という関係が成り立つことになる︒この場合の純収入は直接消費
こヘパ のために使われ る生活資料︑便益品および娯楽品を含む︒
ムダ スミスが資本の区分をおこなっていたのは実質的な富を明らかにするためであり︑それは国民の全生産物ではなく︑国
ア 民が直 接に消費する資財である生活資料︑便益品および娯楽品という消費財であった︒これらの消費財が純収入に比例し
ら
︐ン て増大することをとおして実質釣に国民の富裕が実現するという考え方は︑スミスが国民の富裕を目的にして︑これを実
6 現するための手段に資本を位置づけ分析していることを示すものである︒イ そのぼあい固定資本は労働の生産諸力を増進することにあるから︑生産物を減少させないで︑できるだけその維持費を ⑭ 軽減すれば生産物価値は増加し︑純収入は増加するはずであるという︒
それでは流動 資本の一構成部分である貨幣は︑純収入とどのように関わっていくのであろうか︒スミスは次のように言
う︒﹁貨幣は︑社会の流動資本のなかで︑その維持が社会の純収入のなにほどかの減少をひきおこしうる唯一の部分だと
い うことになる﹂と︒貨幣の維持費は純収入から差し引かなけれぽならないという︒スミスはこの問題を説明するために︑
固定資本と貨幣の両者が社会の収入に対して与える影響の類似性に着目し分析していくのである︒
註⑬ 司§ミeミき註§切︵﹈∵U°賠9訳∪四六〇頁︒
⑭89けこOや雪O−培ド 同右訳書︑四六一〜四六二頁︒食料品︑材料および完成品の他の流動資本は固定資本にひきあげられるか︑
直接消費のために留保されるかのいずれかである︒こうしてスミスにおいては︑固定資本を維持するのに必要なものを別にすれば︑
直
接 消費可能な財貨はすべて社会の純収入の一部をなすことになる︒富11消費財11純収入の関係が成り立つわけである︒
㈲一 〇bO﹂け膓O°N∨N° 同右訳童口︑ 四六三頁︒
第一の類似性は︑機械や職業上の用具の設置経費や維持費用が社会の純収入から控除される費目であるのは当然である
ということである︒これと同様に︑貨幣の貯えω90丙o咋日opo司の維持費は一定の経費を必要とするから純収入から控
除 される︒なぜならば︑貨幣の材料である金銀の一定量とそれを鋳造するための精巧な労働の一定量とは︑直接消費され
る生活資料︑便益品および娯楽品を増加させるためには使用されないからである︒貨幣はこれらの消費財を媒介し︑消費
者に配分
す るために使用されるからである︒
第二の類似性は︑固定資本も貨幣もそれ自体として総収入にも純収入にも入らないということである︒なぜこのように
言 えるのであろうか︒貨幣は貨幣によって媒介される財貨とは全く異なるのである︒社会の収入は貨幣によって媒介され
る財貨だけであって︑貨幣自体ではない︒貨幣は金属片の総額を表す手段であると同時に︑購買または消費しうる財貨の
価 値を表わす︒それは︑人々の暮らし向きである生活必需品や便益品の量や質を表わすものである︒貨幣と交換によって
得られた財貨は︑貨幣の値に等しい生産物価値を表現する・こうして︑金属片である貨幣が表示する富‖収入は︑購買ま
たは 消費しうる財貨の価値つまり生活資料などのことである︒だからスミスは次のように言うのである︒﹁われわれはし
ば しぽある人の収入を年々その人に支払われる金属片であらわすけれども︑その理由は︑これらの金属片がその人の購買
力の大きさ︑つまり︑かれが年々に消費しうる財貨の価値を規制するからである︒こういうぽあいにも︑やはり︑われわ
れ は︑かれの収入がこの購買力または消費力にあるとみなすのであって︑こういう力をもたらす金属片にあるとはみなさ ⑯
て ないのである﹂︒
いごっ 以上の個 人レベルにおける事実は︑社会のレベルにおいてもいえる︒﹁社会に流通している金属片の総額がその全成員
謝幣 の収入に等しいということはけっしてありえない﹂とスミスは言う︒それは︑金属片が人々の手から手へ転々流通するか
貨朋 ら︑収入の全貨幣額に比して︑金属片の総額が少なくなるのは当り前のことだからである︒その場合︑収入の全貨幣額と
の
ス それで買いうる財貨とは同一価値であるはずである︒だから﹁この収入は︑その総額がはるかにその価値におよぼぬこれ
ヘミ以 らの金属片にあるはずがなく︑その購買力に︑つまりこれらの金属片が手から手へ転々流通するにつれ︑つぎつぎにそれ
ム カ ロげ で買いうる財貨にあるわけである﹂︒
こうして︑貨幣は流通過程において流通手段としての機能をもつことによって各人に帰属するべき収入11富目消費財を
77 分配するのだけれども︑貨幣自体としては収入のどのような部分をもなさないのである︒したがって︑スミスは次のよう
8 に結論する︒﹁流通の大車輪であり︑商業の偉大な用具でもある貨幣は︑職業上の他のすべての用具と同じように︑資本7 の一 部︑しかもひじょうに貴重な一部をなしてはいるが︑それが属する社会の収入のどのような部分をもなすものではな
い し︑またこの貨幣を構成する金属片は︑その年々の流通過程において︑当然各人に帰属すべき収入をその人に分配はす ⑱
るにしても︑それ自体としてはこの収入のどのような部分をもなさないのである﹂︒
第三の固定資本と流動資本中の貨幣との類似は︑次の点にある︒労働の生産諸力を減少させない条件の下で︑固定資本
を維持す るための経費を節約すると︑純収入はとうぜん増加する︒固定資本の維持費の節約は生産物を増加させるので︑
あらゆる社会の実質的収入が増加する︒これと同様に︑貨幣の材料を収集したり鋳造したりするための維持経費を節約す
⑲ れ ぽ︑純収入はまちがいなく増加する︒つまり︑金銀貨幣の節約が社会の実質的収入を増やすというわけである︒
こうして︹総収入︺ー︹固定資本の維持費+流動資本の維持費︺︹純収入︺の関係は︑ ︹総収入︺ー︹固定資本の維
持 費+貨幣の維持費︺11︹純収入︺に置き換えることが可能になる︒
ところで︑スミスが貨幣を社会の総資財の特殊部門O①詳一〇巳①﹁ぴ﹃ρ口o庁と規定するのは︑上記のように固定資本との
類似性か ら引き出した特質をいうのであろう︒普通の資本は収入を構成し︑利潤を生む性質を持つものであるが︑貨幣は
収入の構成要 因でもないし︑また︑利潤ももたらさない︒しかしながら︑生産物を流通させるという機能をもつ︒そのた
めには一定の貨幣額を必要とする︒それを維持するためには︑年々摩滅する額を補墳しなけれぽならない︒これが貨幣の
維持には一定の費用を必要とする所以である︒スミスが︑貨幣を社会の総資財の特殊部門であると認識したのはこの特質
を指してのことであろう︒
また︑スミスが貨幣を国民資本ロ9註oロ巴8も詳巴として把握していることは︑単なる貨幣と貨幣資本とを混同してい
るという問題を含みながら︑なによりも流通過程における貨幣の流通機能が国民全員に実質的な富11収入11消費財を分配
す るのであるという認識が基底としてあったからであろう︒
註⑯ 妻§NSミきぱo嵩︵﹈シU°Nぱw訳〇四六六頁︒
⑰80芦日゜N謡゜同右訳書︑四六七頁︒
⑱8︒芦
⑲8︒﹂〜O﹄誤・同右訳書四六八頁︒中村氏は次のようにいう︒固定資本と貨幣との類似点は﹁①両者ともそれじたいは︑総収入
にも純収入にもはいらないこと︒②両者の維持費は︑ともに総収入にははいるが︑純収入にははいらず︑それを減少させること︒③
したがって両者の維持費の節約は︑ともに純収入の増加となること︒しかし︑②と③とは正しくない︒固定資本の維持費は︑けっし
て純収入を減少させるものではない︒貨幣の維持費はたしかにそれを減少させるけれども︒﹂︵中村広治︑ ﹁スミス貨幣・信用論の研
究﹂﹃大分大学経済論集﹄第一六巻第一号︑一九六四年六月︑二〇頁︑参照︶︒
て 二 貨 幣節約としての金紙代替論
い酌㈱ 上述したように貨幣の維持費を節約することは︑社会の純収入を増加させ︑国民の富を増やす観点からいって重要であ
貨舗 る︒その意味において金銀貨幣よりも少ない経費で財貨の交換ができる用具があれぽ︑その目的は大いに達成できるので
のス ある︒スミスはこのような課題意識に基づいて︑次のように問題提起する︒﹁金銀貨幣のかわりに紙幣を代用するのは︑
ベミ
パ 商 業のきわめて高価な用具を︑はるかに経費がかからず︑しかもときには同等に便利な用具でおきかえることである︒流
ムび 通は あたらしい車輪でお.・なわれるようになるわけで︑.﹂の車輪は︑︑﹂れを建造するにも維持するにも︑古い車輪より経
費がかからない︒しかしながら︑この作用がどのようにしておこなわれるのか︑またそれがどのようにして社会の総収入
7 または純収入のいずれかを増加させることになるのか︑ということは必ずしも自明ではないから︑もうすこし説明してお
ω0 く必要があろう﹂︒8 それでは︑金銀貨幣のかわりに紙幣を代用するメカニズムはどのようにしておこなわれ︑また︑それが収入にどのよう
な影響をあたえるのであろうか︒スミスは幾多の種類の紙幣の中でも銀行が発行する流通手形が最もよく知られているも
のであり︑この説明の目的に最も適しているとして︑銀行券を最良の部類の紙幣とする︒銀行券をそのように位置付けた
理 由は︑ス︑ミスがスコヅトランド地域のグラスゴウやエディンバラの商業や工業の発展における銀行の活躍ぶりを事実と
して眼の当りにしていたからであろう︒だから︑次のように言うのである︒﹁ある特定国の人民が︑ある銀行家の財産︑
誠 実および慎慮に対してひじょうな信頼をおき︑自分の約束手形をどのようなときに提示しようとも︑この銀行家はつね
にこの要求に応じて支払ってくれる用意がある︑と信じているぽあい︑こういう手形は︑それとひきかえにいつでも金銀 ② 貨幣がえられるという信頼にもとづき︑金銀貨幣と同じ通用性をもつようになる﹂と︒銀行が発行する約束手形は︑どの
ような場合でも無条件にいつでも金銀貨幣と見換するから︑スミスは銀行券を最良の部類の紙幣として位置づけているの
である︒
銀行 券11紙幣は︑いつでも無条件に金銀貨幣と交換できるという信頼oo⇒木建o⇒oo︑ つまり信任が前提となって見換は
成立す るものである︒紙幣と金銀貨幣とが同じ通用性夢Φ切餌日oo已苔o口○<をもつということは︑紙幣である銀行券が
つねに確定された同じ金銀量を表示していることを意味する︒事実︑スミスは﹁紙幣が銀行券で︑信用の確実な人々によ
って発行され︑要求があれば無条件で支払うことができ︑しかも事実上︑つねに呈示されしだい遅滞なく支払われている
ばあいには︑それはどう見ても価値の点では金銀貨に等しい︑というのは︑それとひきかえにいっでも金銀貨がえられる ③ か らである﹂と述べている︒その意味において銀行が発行する銀行券は︑金銀貨幣といつでも無条件に交換できることを
証 明する約束証であるといえよう︒
註 ω 弍㌻⇔へ牒魯ミさ識Oミ切︵﹈︶w℃°NやO° 訳﹈▽四六八頁C
②oOo一古二や賠Φ゜同右訳書︑四六九頁︒
㈲8否拝も゜ωOS同右訳書︑五一四頁︒
銀行 券という紙幣と金銀貨幣との見換は以上の関係で理解できるとしても︑紙幣が︑何故に金銀貨幣にとってかわると ④ い えるのであろうか︒そのメカニズムについて︑スミスは二つの仮定を設けて説明する︒第一の仮定とは︑ある特定国の
全流通 貨幣が︑ある特定の時期に英貨百万ポンドであり︑これが︑この時期におけるその国の土地と労働の年々の全生産
物を流通させるのに十分な金額であること︒そして第二の仮定は︑その後にさまざまの銀行や銀行家が︑百万ポンドを限
度として持参人払の約束手形を発行し︑随時の要求に応じるために︑二十万ポンドを銀行や銀行家の金庫に留保すること
である︒そうだとすれば︑流通界にはいくらの貨幣が存在するのであろうか︒それは二つの仮定により︑金銀貨幣が八十
て 万ポン ドと銀行券が百万ポンドの合計百八十万ポンドとなる︒
い⇔ こうして︑流通界では︑百八十万ポンドの紙幣と貨幣が存在することになる︒しかしながら︑流通界が真に必要とする
論幣 貨 幣の数量は︑百万ポンドあれぽ十分であるとスミスはいう︒それは何故か︒第一の仮定により﹁この国の土地と労働の
貨嗣 年々の生産物を流通させ︑それをその本来の消費者に分配するためには︑以前には百万ポンドしか必要ではなかった﹂か
のス らであるし︑また第二の仮定にみられるように︑﹁この年々の生産物は︑銀行業のこういう操作によってただちに増加す
ヘミ
パ るはずのものでもない﹂からである︒したがって︑﹁こういう操作がおこなわれたあとでも︑それを流通させるためには
ムダ 百万ポンドあれぽ十分であろう︒売買される財貨は以前と正確に同量だから︑それを売︒・貝するためには以前と同量の貨幣
ア が あれぽ十分であろう﹂というわけである︒
ユ8 この論理で重要な点は︑先ず︑流通界で売買される財貨の数量が変わらなけれぽ︑流通する貨幣の数量も変わらないと
82 いうことである︒貨幣の数量が流通する財貨の数量を規定するのではないということである︒しかも︑ここでいわれてい
る財貨の数量は︑流通する商品の価格総額を表わすものであることは︑第一の仮定によって明らかなことである︒また︑
銀行 券の発行が︑直ちに財貨の生産量を増加させるものではないということも明確に記述されている︒さらに︑銀行券が
発行されても︑商品価格は上昇しないということが︑暗黙の前提になっている︒ ⑤ これらの諸点を理論の骨格にして︑スミスは流通界から溢れた過剰分の使途について次のように考える︒﹁八十万ポン
ドは︑この国の流通界で使用しうるところをこえる金額なのであるから︑あふれだしてしまうにちがいない﹂︒流通必要
量を超 えた過剰分は︑国内では遊休の状態になって役に立たないから︑より有利な用途を求めて海外で使用されるであろ
う︒しかし︑この過剰貨幣が紙幣であるならば︑自国以外の海外では支払手段として通用しない︒結局︑これは︑紙幣で
はなくて︑金銀貨幣の形態をとらざるを得なくなる︒こうして︑スミスは次のように言う︒ ﹁したがって︑八十万ポンド
の金 額に達するまでの金銀貨が海外に送られるであろうし︑国内流通の水路は︑以前にそれを満たしていた百万ポンドの
こういう金属のかわりに︑百万ポンドの紙幣で満たされるということになるであろう﹂と︒以上の論理によって︑金銀貨
幣が紙幣に見事に代位する︒これが︑いわゆる金紙代替のメカニズムである︒
註㈲ きミSo︑﹀ざ迂§︵︼シp袖や忠︵°訳〇四七一頁以下︒
O
ここには︑別の機会で論じたように︑ヒューム貨幣論の機械数量説に対する拒否が見られる︒なお︑拙稿︑前掲論文参照︒また︑国゜呂餌舞−e︾日叉﹃ミ.ロO□ω﹈N㊤以下参照︒
このメカニズムの根底に横たわっている思考の基準は︑諸財貨の価格は流通する貨幣数量に比例的に依存するという機
械的 数量説の否定である︒換言すれば︑商品の価格総額が流通に必要な貨幣量を規定するというものである︒このことは︑
貨 幣ではなく︑実物が実質的な富裕を表わすと考えるスミスには︑当然のことであった︒貨幣の流通必要量に関して︑入
ミスは﹃国富論﹄第四編第一章の重商主義論の中において次のように触れている︒﹁ある国で年々に売買される財貨の価
値 は︑これらの財貨を流通し︑本来の消費者に分配するために︑一定量の貨幣を必要とはするけれども︑それ以上の貨幣 ⑥ に用途をあたえうるものではない﹂と︒ここには一定量の必要貨幣の存在が︑年々の商品価格総額に従属する関係として
位 置づけてある︒
いわゆる金紙代替のメカニズムは︑このような貨幣の流通必要量の法則に基づいた原理であったといえよう︒しかしな
が ら︑この原理にはほかにも基本的な特質がある︒すなわち︑銀行券の発行が直ちには一旨日o合暮oξ生産物の増加をも
た らさず︑また価格の上昇も伴わないという点が︑これである︒これにはどのような意味が潜んでいるのであろうか︒
金銀の増加と産業の発展の因果的関係について︑親友ヒュームは積極的に肯定していたが︑スミスはそれを強く否定し
て ていたのであった︒ただ︑スミスは銀行券11紙幣の発行による経済効果に関して︑日暮§ロ§一買o△⊆oo8口昌9冨
いの 一日日o合四9ε旬⊆oq日o暮o口ぴ縛芸oω①80日江8ψ・oS9⇒匹昌ひqと説明しているように︑一定のタイム・ラグを伴って生
論 ⑦
幣
じる経済効果を否定していないと解せる︒彼が紙幣たる銀行券の事後的な経済効果を捨象したのは︑金紙代替のメカニズ
貨朋 ムの原理を貫徹させるには︑二つの仮定を前提条件とした理論モデルを︑静止した状態に固定することによってしか説明
の
ス されえなかったからなのであろう︒
ヘミパ
ムダ 註⑥ ミ§〜さミき亘︒S︵︼ソoふO∨°訳〇六六一頁︒ スミスが大きく影響を受けたとおもわれるJ.スチュアートは次のようにいっ
ア ていた︒ ﹁すぺての国の流通は⁝⁝⁝常に︑市場に出される財貨を生産している住民の勤労に比例しなければならない︒⁝⁝⁝そこ
3 で一国の鋳貨が売りに出される勤労の生産物との比率以下の数量であるならば︑勤労自体がやむにいたるであろうが︑さもなければ︑8 象徴
貨 幣のような新しいものが︑生産物に対する等価物を準備するために考察されるであろう︒だが︑正貨が勤労との比率以上に存
在しているものとしても︑それは価格を騰貴させる効果を持たぬし︑流通に入り込むこともなかろう︒それは金庫に退蔵されるであ
8 ろうが︑そこでそれを所持する者の消費からの欲求からの呼び出しだけではなく︑この呼び出しを満足させようとする勤労者の呼び
出しを待たなければならないのである︒⁝⁝⁝すなわち︑世界のほかの国民との交流を持っているある国民にどれだけの数量の貨幣
が
存 在しているにしても︑流通には富者の消費と貧しい住民の労働や勤労とにほぼ比例する数量しか絶対に残りえない﹂︵︒り障S
ψ力9c自戸﹄心合oミミ軌ミoSe恥︑ミ§へ叉霧ミぎミ苦ミ㎏へ§︒§S↑o己oロ旨自゜o°吟OS 加藤一夫訳︑第二編・下︑東大出版会︑
一九八二年︑一一九〜=一〇頁︶︒
マルクスは﹁アダム・ス︑ミスはスチュアートの研究諸結果を死んだ事実として記録するにとどまっている﹂とか︑スミスの貨幣理
論は﹁スチュアートの理論をだまって採用している﹂などと批判しているが︑これは正確ではないと自から修正して︑本文引用の箇
所 などは貨幣の流通必要量法則を正しく言い表わしていると評価する︵民゜家①﹁担 Nミ民∨ミ㌔烏ミさミ法寒§O>§o§へ魯呂国司
ロP﹂ω﹄o庄見戸㊤巴∨ωQり゜﹂烏山お゜杉本俊朗訳︑国民文庫版︑二二一頁︶︒
ω もちろん︑ヒュームが金銀増加の経済過程に及ぼす波及効果を強調したのに対して︑紙幣たる銀行券の発行が事後的に経済効果を
有するとスミスが考えるのは︑両者による富の概念の把握の相違を映し出した結果であろう︒しかしながら︑このような異なった認
識に基づいていたとはいえ︑両者は通貨の事後的な経済波及効果を是認していたといえる︒
銀行券の発行が諸商品の物価上昇を伴わないという点については︑貨幣の流通必要量法則を前提にした当然の想定であ
ったといえよう︒すなわち︑諸商品価格の総額が貨幣の必要量を規定するわけであるから︑価格総額が一定の下では︑貨
幣の種類がいかように発行されたとしても︑それが価格に対して何等の影響をも及ぼさないことになるであろう︒あるい
は︑銀行券の発行が支払手段として流通し機能すれぽ︑それが現行の価格での取引を処理することになるから︑なんら新 ⑧
たな
価 格の形成に影響を与えるものではない︒
註⑧ 中村氏はこの点について次のようにいう︒ ﹁周知のように貨幣が支払手段として需要され︑かつ支払手段として流通するかぎりに
おいては︑価格の形成に作用することはない︒というのは︑それは︑すでに成立した価格でおこなわれた取引から生じた債権・債務
の関係に︑結着をつけるにすぎないからである︒スミスは︑支払手段を独自的に把握することができず︑それを流通手段として混同
してしまっているが︑かれのいう流通手段のなかには︑このような作用しかはたさない部分があることだけは︑感じとっていたよう
におもわれる﹂︵中村広治﹁スミス貨幣・信用理論の研究﹂﹃大分大学経済論集﹄第一六巻第二・三号︑一九六四年︑三五〜三六頁︶︒
ただ し︑掘家氏は﹁貨幣の数量が国内で増加し︑一方国民生産物はふえないのであるから⁝⁝⁝その価値は減少し︑価格水準は上昇
せ ざるをいない﹂と解釈し︑スミスのなかに貨幣数量説を読み取ろうとする︵掘家文吉郎︑ ﹃貨幣数量説の研究﹄東洋経済新報社︑
昭和六三 年︑ 一〇五頁︶︒
既 述のように貨幣節約論は︑金銀貨を紙幣たる銀行券に代位させることを本質とするものであるが︑これに関連して︑
最 後に︑次のような問題が生ずることになった︒すなわち︑それは先にも触れた国内の流通水路から溢れ出る過剰通貨の
もつ意義についてである︒スミスは︑流通の水路から溢れ出してしまった金額は﹁国内で使用しえぬにしても︑ただ遊ぽ
せたままにしておくにはあまりにも貴重である︒そこで︑国内で見いだしえぬ有利な用途を求めるために︑それは海外に ⑨
て
送 られるであろう﹂と説明していたのである︒
い⇔ スチュアートならぽ︑この過剰貨幣は流通に入り込まないで金庫に退蔵されるとするのであるが︑スミスはこれを外国
謝舗 貿易に使用する︒外国では他国の紙幣は支払手段として通用しない︒したがって︑自国の過剰貨幣は他国でも通用する金
舗
銀 貨に形を変え︑それを海外の財貨の購︒︒貝に使用する︒購買した財貨の種類は贅沢品よりも食料品︑材料および完成品が
のス 大部 分である︒これらは流動資本を構成する貨幣以外の部分である︒貨幣を除くこれらの流動資本は社会の雇用量を追加
ベミ
ス ¢
・ する機能をもつ︒つまり︑これらは勤労を促進し︑社会の消費を維持する元本となる︒貨幣はこれを実現するための手段
㌦η である︒過剰金銀貨が︑利潤を生む生産財貨に姿態変化することで︑流通手段としての目的が果たされる︒これこそがス
ミスの構想する過剰貨幣の再生産構造に与える意義である︒
ドむ8 金銀貨幣の紙幣への代位を通じて︑貨幣の維持費を節約し︑もって国民の実質的富裕をもたらす純収入を増加させると
6 いう考え方は︑すぐれて国民生産力の視点に基づいた資本蓄積論を形成するものである︒したがって︑ス︑ミスはこの限り り
において︑外国貿易をこの枠組の中に位置づけている︒このことは︑スミスが事実上貨幣を流通手段以外の機能である世
界貨幣として表象していたことを物語るものである︒しかし︑外国でも貨幣の流通必要量法則は作用しているとすれば︑
過剰金
銀 貨の海外流出分は︑相手国側にそれを受け入れる条件が整っていなけれぽ行き場所を失うことになろう︒だが︑
貨 幣の流通必要量法則を思考の基軸に据えるスミスにとって︑流通水路から溢れ出した金銀貨幣を退蔵することは到底考
えられないことである︒それは︑重商主義政策の基本をなす重金主義に組みすることになるからである︒
む しろ︑スミスは相手国が過剰金銀貨幣を受け入れることを当然のこととして疑問を抱かず︑金銀貨の流入に伴う相手
国側の波及効果を自国におけるのと同様に想像していたのではなかろうか︒すなわち︑相手国への金銀貨の増加がその国
内の生産を活発にし︑有効需要を増大させる︒こうして︑生産と消費の循環が拡大することによって︑当該国ではますま
す生産 力の向上と資本の蓄積が進行していく︒かくして︑相手国側においても︑自国においてと同様に︑拡大された再生
産の規模が実現するはずであるという構想である︒そのことが︑結局のところ﹁諸国民の富﹂の拡大に繋るという楽観的
⑬ な構想であったのであろう︒
註⑨ 司§︑きミきぱ⇔嵩︵一︶戸賠S訳〇四七〇頁︒
⑩89否二〇°巳は︹同右訳書︑四七〇頁以下︒
ω マルクスは再生産分析には外国貿易を捨象すべきだとして次のようにいう︒ ﹁年々再生産される生産物価値の分析に際して︑外国
貿易を引入れることは︑ただ混乱を招く怖れがあるので︑問題なり︑その解決なりの︑何らかの新たな要素を提供するものではな
い︒それゆえ︑外国貿易は全て捨象されるべきである﹂︵民゜呂ぼ〆b§日叉言へw日゜ロ⑩乙力﹄ぱ込昂゜向坂訳︑岩波書店版︑五
六六頁︶︒
⑫依光氏は次のようにいう︒ ﹁スミスは退蔵手段としての貨幣の機能を認めず︑貨幣はもっぱら流通手段と見る関係上︑従来用いら
れた金銀貨が全部海外に流通するという誤った結論に達したのは当然の帰結といえよう﹂依光良馨﹁アダム・スミスにおける貨幣と
銀行 券﹂ ﹃東京経済大学六十周年記念論文集﹄一九六〇年︑のち同氏﹃貨幣信用論研究﹄第三出版︑一九七六年に収録︑同書二二四
〜二二五頁︒もちろん︑全部の金銀貨が海外へ流出するという場合には︑国内の免換準備金は除外してあるはずである︒
⑬ このような観点に立てぽ︑スミスに固有のナショナリズムに対する関心があったとは思えない︒しかしながら︑川島氏は次のよう
にいう︒ ﹁金紙代替による金銀貨幣の外国への輸出︑デッド・ストックのキャピタル・ストックへの転嫁を論じて︑それに関連して︑
スミスがこのように︑国民的生産力の増進という彼固有のナショナルな関心と主題に促されつつ貨幣資本の運動という新たな一視点
を︑イムプリシットにもせよ導入している点は︑まことに注目すべきことといわねばならない﹂川島信義﹁アダム・スミスの信用論
の展開とスコティシュ・ナショナリズム﹂経済学史学会編﹃国富論の成立﹄︑岩波書店︑一九七六年︑所収︑二六二頁︶︒たしかにス
ミスには母国スコットランドの商工業発展の優位を分析・説明することが多い︒これがスミスのスコティシュ・ナショナリズムの高
調として受け取られる所以なのであろう︒しかしながら︑これは︑スミスが経済発展の分析・研究をするばあい︑身近かに見聞きす
るスコットランドという個別事象からはじめ︑そこから一般的命題を引き出す方法を採用しているにすぎない手法ではなかろうか︒
▽ 三 い わゆる﹁スミスの原理﹂醐輪 スミスが国内流通における過剰貨幣の捌けロとして外国貿易を登場させたことは︑彼の思考の基準が国内貨幣の流通必
貨朋 要量
法 則に依拠していることの証左である︒スミスはこのことをより明確に次のように説明する︒ ﹁どこの国でも︑そこ
の
ス でたやす く流通しうるあらゆる種類の紙幣の総額は︑それが代位する金銀の価値︑いいかえれぽ︑ ︵商取引は同一と仮定
ヘミ エパ して︶かりに紙幣が全然ないぼあいにそこに流通するであろう金銀の価値をけっしてこえることができない﹂︒流通貨幣
ムダ と銀行券たる紙幣とは同等の通用性を有するものであるから︑これらは同義語として理解できる︒したがって︑ス︑ミスは︑
ア 銀行 券の総額が金銀の価値に等しい量か︑あるいはその範囲以内に納まるものであることを強調しているのである︒
8 紙幣は金銀貨を正しく代用するものであるから︑流通紙幣がこの金銀貨幣を超過すれば︑ ﹁この超過分は海外へ送るこド イ