翻 訳
ヴィクター・ブロムバート
感 情 教 育 論
−−売春と理想︱−−O
中 條 屋 進 訳
マドンナ
この導入部について語るべきことは多い︒小説全体のテーマと主人公の感受性とが︑セーヌを航行するこの船
上の場面で︑相互に照らし合い明らかになっているのだ︒出航時の気だるい雰囲気︑滑ってゆく舞台装置のよう
な景色︑河床が定める水路を辿るしかない船とその船の乗客という状況が含む二重の受動性︑︽繰り出される二
本の幅広のリボンのように︾続く両岸の風景を前に耽る夢想︑将来の仕事の計画︑目の前を過ぎて行ったあの様
な所で暮らしてみたいという夢i−ーこの導入部のすべてが︑浮薄で優柔不断なひとつの性格を暗示している︒パ
リと地方という︵十九世紀小説に多い︶二極構造がいきなり確立されると同時に︑実現されざるものにまつわる哀愁
というフローベールの重要なテーマが準備される︒小説の最後に至ってなお︑旅の観念は︽生まれかけて途絶え
感情教育論
― 173 ―
てしまった共感の悲哀︾︵Ⅲ・6︶と結び付けられている︒そして皮肉にも︑ここにあるのは真の旅ですらないの
だ︒セーヌを溯るこの短い行程がどんな危険や冒険をもたらすはずもなく︑それは主人公らしいところの少しも
ないこの小説の主人公にいかにもふさわしい︒
ところが︑いかなる意外性をも受げ付けないかに見えるこの状況こそがまさに劇的な重要性を秘めているので
あって︑人類という悲しい積荷を運ぶこの船の上には︑思いもかけぬ輝かしい出会いが用意されているのだ︒
︽とその時︑あたかも幻が現われたかのようだった︒︾ この最初の出会いに於けるアルヌー夫人の姿︱若しく
はその幻−−は︑それが発する︽光輝︾の為に周りの物はことごとく無意味な闇の世界に退けられてしまうよう
な︑天使のような存在として描かれている︒彼女の目から出るくまばゆいばかりの輝き︾︑フラ・アンジェリコ
の絵を思わせる青空を背景にくっきりと浮かび上がる聖母に似たそのうりざね顔︑日の光を透き通すその手指︑
彫像のようなその︽姿勢︾︑幾重もの襞を周りに広げるそのドレス︒それらすべてから︑フレデリックは︽殆ど
宗数的な感動︾を覚えるのだ︒
平凡陳腐のただ中での霊的体験︑ダンテの﹁新生﹂以来の伝統に則った出会いー背景との著しい対照にもか
かわらず︑ここにはいかなるパロディ的要素も見当たらない︒ただ︑あるかなきかの皮肉な意図を読み取ること
はできるかも知れない︒神秘への導き手たるその女性を前に︑青年は︽苦痛に満ちた際限の無い好奇心︾︵プルー
ストに見紛う表現だ/︶を感じた︑とフローベールは書く︒小説中繰り返し︑この理想化された女性の姿はフレデ
リックに︽宗数的な畏怖の念︾を抱かせ︑それには母のイメージにまつわる禁秘の感覚が加わって更に複雑にな
るのだ︒︽そのドレスは⁝⁝彼には途方もなく大きく︑無限で︑持ち上げ難いものに思われた︒︾︵ⅡⅡ・3︶
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それに︑アルヌー夫人は殆どいつも裁縫や刺繍をし︑子供に字を教え︑幼い息子を膝に抱きといった︑いかに
も母親らしい姿で登場する︒彼女は心穏やかな︑愛と慈悲の分配者だI﹈彼女のあらゆる身ごなしが︑物静か
な尊厳にあふれていた︒その小さな両の手は︑恵みを垂れ人の涙を拭いてやる為にだけ作られているようだっ
た︒︾︵ⅡⅡ・2︶幼児に乳をふくませるシュレザンジェ夫人の姿を鮮かに脳裡に刻み保ち続けたフローベールは︑
その面影を更に高め︑若き日の感動を以って︑小説中に数々の輝かしい聖母像を描きあげた︒︽陽光が彼女を包
︵26︶んでいた・⁝:︾︵ⅡⅡ・6︶ 光は﹁彼女﹂から放射される場合もあれば︑後光のようにその顔を包んでいる場合も
ある︒例えば1︽フレデリックは彼女の眼差が魂に深く染み透るのを感じた︑ちょうど強い日光が水の層を貫
いて川底に達するように︒︾また1︽アルヌー夫人は火事のような夕陽を背に︑大きな右に腰を下ろしていた︒︾
︵I・5︶ が︑いずれの場合も結果は同じであって︑︽この上ない甘美さ︾に浸されてフローベールの主人公が
見つめるうちに︑その存在のあらゆる部分が彼には掛け替えのないものになるのだIIII︽彼女の指の一本一本が︑
彼にとってはただの指というより殆どひとりの人間のように思えた︒︾フローベールは︽名状し難い至福︾という
言葉さえ記している︒︵H・6︶
こうした宗数的な︑殆ど神秘的な用語が多用されるその一方では︑沈黙の詩情が濃く流れている︒︽二人とも
しばらく口を関かなかった︒︾そしてまた︑発せられた言葉の外に漂う詩情Iフレデリックとアルヌー夫人が
久方ぶりに偶然街角で出会い︑平凡極まりない挨拶を交すまさにその言葉の下から︑極度の感動の脈打ちが伝わ
ってくるのだ︒︽この邂逅は︑彼にはどんなに胸躍る恋の逢瀬とも替えられないものだった︒︾︵ⅡⅡ・6︶ ここに
あるのはまさしくフローベール的な︑紋切望とリリスムとのあの独特の関わり合いである︒
−:L75 −
風景描写の曖昧性
フローベール作品にあって曖昧なもののひとつに風景描写があるが︑これは決して単なる技巧披露の場ではな
い︒それは何事かを表わす︒が︑その意味内容は常に多義的で重層的なのである︒遺産を相続したフレデリック
は意気揚々とパリヘ舞い戻る︒︵パリで何をしようというのか?︽何も/︾II幕これが母親への彼の返答だ︒︶それにもか
かわらず︑車中の人となった彼は︑酔い心地のうちに将来の幸福を夢み空中楼閣の構築に余念がない︒ところ
で︑パリ郊外に差し掛かってからの風景は︑すべて彼のそうした夢の実現を危ぶませるものばかりなのだ︒すべ
てが不毛性とー−︱︽何か廃墟のようなもの︾︑︽技のない木々︾︑ごみだらけの中庭に溜った汚水︑化学工場の煙
に汚染された空気Iそして流産とを暗示している︒愛の称揚というイメージとは全く無縁の産婆の看板︒ここ
では︽廃墟︾すら︑過去の栄光の名残りではなく︑現実の形を取るに至らなかった何物かの惨めな素描に過ぎな
いI︽ここかしこに︑漆喰壁のあばら屋が半分建てかけのまま打ち捨てられてあった︒︾更に︑居酒屋︑煙草
屋︑産婆などの夥しい看板や家々の壁を覆う貼り紙が︑フレデリックの入り込もうとしている世界の低俗な商業
性を強調して歴然たるものがある︑というのに︑それでもやはり彼はその現実を無視して憚らないのだ︒︽細か
い雨が降り続き︑寒く︑空はどんより曇っていた︒しかし︑彼にとっては太陽に等しい双眸が霧のかなたで燦然
と輝いていた︒︾︵Ⅱ・1︶
風景描写に於けるこのような両義性は︑あのフォンテーヌブローの森の挿話に︑より歴然としかも更に複雑な
形で現われている︒そこには︑二重の情緒的な暗示と共に二重の倫理的判断が込められているのだ︒まず森は牧
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歌的でエロティックな場所として描かれる︒そこでは︑とねりこが遣る瀬無げに枝を焼ませ︑白樺は哀歌を奏で
るかのような風情を見せ︑柏の木が互いに絡まり抱擁し合い︑あたり一面に︽物憂い熱気︾が立ち込めている︒
だが︑この物憂さには暴力の脅威が潜んでいる︒抱擁は愛の抱擁とは限らないのだ︒︽半身像に似た柏の木が裸
の両腕を差し伸べて︑絶望の叫び︑恐ろしい威嚇の言葉を投げ掛け合うその様は︑まるで怒りのさ中に凝固させ
られた巨人族の一群のようだった︒︾この錯綜した意味の場の全体像を捉えるには︑更に次のことを思い浮かべ
なければならない︒つまり︑恋人たちが快楽に現を抜かしている今この時︑パリでは革命と苦悩が跋扈し︑しか
も彼らはまさにそれを逃れる為にフォンテーヌブローにやって来たという事実をである︒しかし︑逃避は所詮不
可能なのだ︒風景が心の疚しさを反映し︑パリの出来事を執拗に暗示する︒フローベールは革命という言葉につ
いて諧謔をすら弄し︑渾沌たる岩山の様子は大規模な天変地異の跡を思わせる︑と記してぺ認︒だが︑ここにも
二重の意味が込められており︑自然界の激変と革命との類似からはまた︑人間界の一時的擾乱や政治的変革の空
しさが浮かび上がってくるのである︒この世の末のような岩山の光景は見る者を茫然とさせ︑日常的時間とは全
く異なった時間の観念がそとに現出される︒︽これらの岩はこの世の初めからここにあったのだし︑そしてこの
世の終りまでこのままあるだろう︑とフレデリックは言った︒︾ただイメージの喚起力のみによって︑そして見
かけは内在的で客観的としか思われないそれらのイメージの意味の緊張関係を通して︑作者フローベールの存在
と個人的見解がここに露になっている︒これこそこの作家の典型的な作品介入の様態であって︑それによって彼
は︑何事もあからさまに表明することなしに︑行動︑特に政治行動に関する自らの強迫観念を十全に表現し︑更
に時代の騒擾と狂乱をひとり免れることの不可能性をも同時に示し得ているのである︒フォンテーヌブローの挿
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話は︑深い良心の苛責の意識を醸して終る︒︽フレデリックは女のそのエゴイズムに憤慨し︑そして皆と一緒に
パリに留まらなかった自分を責めた︒︾︵Ⅲ・1︶
政治に於ける曖昧性
一八四八年の革命にフローベールが下した審判は辛辣だった︒飽くまでも史実と資料に基づいた客観性云々と
いう意見は︑ここでは全くの迷妄である︒現実を裁断するにはまず観点を定めなければならず︑そしてあらゆる
観点は何らかの判断を含んでいる︒採択された主要なエピソードは︑たとえそのすべてが実話であろうとも︑特
にその配置のされ方にょって︑何らかの心的態度︑ひとつの気質を暴露する︒作品の構造自体がひとつの注釈と
なるのである︒革命は︑アルヌー夫人の為に︽敬虔に︾整えられた貸間で︑ロザネットがとうとうフレデリック
の情婦となるまさにその日に勃発する︒二月革命はこうして惰弱と涜聖と挫折の星のもとに始まるわけだ︒もっ
とも︑ロザネットとフレデリックにとっては︑この日の路上の出来事は遠くから見て楽しむショーのようなもの
に過ぎない︒︽﹁ああ︑これでブルジョワが何人かやられたな﹂とフレデリックは平然と言った︒︾その直後に︑
この身勝手な無関心を難ずるフローベールの言葉が続くI−︽たとえ全人類が滅ぶのを見ても︑彼は動悸の高ま
りひとつ覚えなかっただろう︒︾︵Ⅱ・6︶
ひとたび火を噴き波に乗るや︑革命はその獣的相貌を露にし始める︒チュイルリー宮への侵入略奪の場面の描
写は︑いや増す暴力と淫猥さに貫かれている︒それは群衆の足音と咆哮で始まり︑そして王妃の部屋に詰めか
け︑王女のベッドを犯し︑すべてを汚し破壊し燃やし尽くす下層民︵フローベールの言葉では︽下種ども︾︶の狂乱の
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場で終るのだ︒
しかもこの狂気は伝染性のものであって︑獣性と共に至るところ愚劣と暗愚が蔓延してゆく︒代議士選挙に立
候補することを決意してフレデリックが出席してみたあの︽知性クラブ︾こそは︑人真似︑野卑な言動︑駄弁︑
そしてありとあらゆる馬鹿気だ企画が横行する政治集会のカリカチュアであって︑︽バルセロナの愛国者︾なる
男がする誰にも意味の通じないスペイン語の演説が︑そこで渦巻く憤りやユlトピックな夢すべての空疎さを象
徴している︒こうした状況に対するフローベールの診断には実に厳しいものがある︒無能力という判定の上に背
信の摘発が加わることになるからだ︒二月革命は︑真の指導者の欠如にょり︑あらゆる分派のエゴイズムにょ
り︑口先だけでその勃発を讃える人々の欺隔にょりIそして何よりも︑この革命が増幅し遂にはそれに押しつ
ぶされるに至った︑人間の本質的愚劣さという重圧のもとに︑ここでは初めから挫折すべくして挫折しているの
である︒ 獣性と愚劣さと⁝⁝︒しかし︑フロlべlルの審判と反応は決してこれで尽きる程単純なものではない︒ある
種の集団的熱情のようなものに対してフローベールが決して無感覚ではなかったこと︑革命というこの歴史的事
件の雄壮さは彼も感じていたこと︑そしてとりわけその劇的・終末論的な様相を鮮かに描き出す術を彼が心得て
いたということを示す作中の箇所を挙げて︑この革命を告発し貶める多数のエピソードと対比することは容易で
あろう︒フォンテーヌブローからパリに引き返したフレデリックが︑真夜中に歩哨に捕えられるくだりは︑革命
下の雰囲気のこうした詩的描写の好例である︒煌々と明りが燈された慈善病院の窓ガラスの内側で人影が慌ただ
しく行き来し︑息詰まるような静寂の中で歩哨の叫び声が長く尾を引き︑暗闇の中を斥候隊の重々しい足音が近
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づいて来る⁝⁝
︽四つ辻の真中に竜騎兵がひとり︑馬にまたがってじっとしていた︒時折︑伝令が馬を疾駆させて通り抜け︑
その後はまた静寂が戻ってきた︒石畳の上を運ばれていく大砲が︑遠くで陰々と物凄い音を響かせていた︒普段
耳にするどんな音ともまるで違ったこの音を聞いていると胸が締めつけられる思いがする︒その音はあたりの静
けさをかえって増幅するかのようだった︒それは深く︑絶対的な静けさー︱暗黒の静寂だった︒白い仕事着の男
が兵士に近づき︑何かひと言告げては亡霊のように闇に消えていった︒︾︵・1︶
汚濁と雄壮とのこのような逡巡は︑フレデリックの常にどっちつかずの態度と照応している︒街で進行中の出
来事に対して︑彼はある時は無関心なあるいは憤慨した単なる傍観者であり︑またある時は群衆のエネルギーに
冒され︑民衆の力に熱狂して︽ゴール人の血が踊る︾のを感じ︑自分のエゴイズムに腹を立てたりもする︒もっ
とも︑彼は銃で狙われたのが自分だとわかった時にとりわけ︑その犠牲者に同情するのではあったが︒おおよそ
フレデリックの姿勢は︑比喩的意味に富む次の文章に要約されているように思われるが︑それは深層に於てフロ
lべlル自身の心的態度でもあっただろうか1︲︱︽群衆は絶えず渦を巻いて揺れ動いていた︒フレデリックは厚
い人垣に挟まれて動きがとれなかった︒魂を奪われたようになってもいたし︑それにひどく面白くもあった︒く
ずおれるけが人や横だわった死体がほんものの負傷者や死人であるとは思えない︒何か芝居でも観ているような
気がした︒︾︵Ⅲ・1︶
愛に於ける曖昧性
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同じ逡巡と曖昧さが他の感情領域に於ても認められる︒フローベールに於ける愛のテーマ程複雑なものは無
い︒そこでは対位法的手法や︵多くは冷徹・酷薄な︶アイロニーなど様々な巧緻な技巧が駆使されるが︑ところで
それらすべてもやはり︑相矛盾した内的諸要請が拮抗する作者の内面の反映なのである︒アルヌー夫人への恋
は︑十六年の空白を経てあの最後の対面の場へと収斂される︒この場面の基調は哀歌のそれだ︒ある日暮れ時︑
アルヌー夫人は亡霊のようにフレデリックの前に再び姿を現わす︒甘美な沈黙のうちに初めの数刻が過ぎ︑︽二
人とも何も話すことができないまま︑お互いにほほえみかけていた︒︾それから二人は思い出を語り合う︑非現
実と幽冥の気に包まれ︑︽枯葉の積もった田舎の道を共に歩んでいるかのように︾夕暮れの街をそぞろ歩きなが
ら︒二人の共通の思い出からなるこのデュエットは既に現し世を超えた平穏を湛え︑彼らの仕草も言葉も︑言わ
ば詩と芸術の究極︑ある超時間的な世界を感じさせる︒そして無論︑大きな喜びもI︽彼はもう何も悔みはし
なかった︒︾
ところが︑こうした恋の穏やかな成就という印象をかき乱し蝕むものがここにはあるのだ︒それは二人の会話
の文体そのものであり︑ロマンティッタな小説本からそのまま抜き出してきたかのような感傷的なせりふの累積
である︒二人の恋に対する反理想化の意図がフロlベールにはあったのだろうか︒散歩から帰るとランプの光が
アルヌー夫人の白髪を照らし出す︒フレデリックにとってくそれはぎくりと胸を突かれるような衝撃だった︒︾
その姿を見なくて済むように彼は夫人の前に脆き︑情熱的な愛の言葉をくもう過ぎ去った昔の彼女︾に捧げ︑遂
には自分自身の言葉に酔ってしまうのだ︒これはフレデリックの不誠実を暴くシーンなのか︒ところが︑更に悪
いことが起こる︒︽フレデリックは︑アルヌー夫人は身をまかせるつもりで来たのではないかと思った︒︾そう思
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うと︑彼は再び激しい欲望に捉えられるが︑それと同時に︑何か近親相姦の怖れのようなものに引き止められ︑
更に︑はるかに月並な怯儒にも捉われるのだII−︽もうひとつ別の怖れが彼を踏み止まらせた1−後になって嫌
悪感を覚えはしないかという危惧だった︒それに︑どんな面倒事を背負い込むことになるか/︾ そして最後の
皮肉が追い打ちをかける︒︽⁝⁝彼は踵をかえして煙草を巻き始めた︒︾このフレデリックの混乱を︑アルヌー夫
人は感嘆の眼差で見つめて次のような賛美の言葉を口にするが︑それは︑この大いなる和合のシーンに潜む重大
な誤解を余す所なく暴露している︒︽なんて細やかな心遺いのできる方︒あなただけ︑本当にあなただけだわ︒︾
リリスムの敗北か︒ともかくも︑この場面にあるアイロニカルな要素には︑以上のように充分注目しなければ
ならないことは事実である︒しかし︑それらすべてにかかわらず︑これが文学に描かれた最も美しい愛の場面の
ひとつであることにかわりはないのだ︒ロマンティックな紋切型の言葉も︑ここではひとつの転換︱人生が︑
芸術を模倣するのではなく︑芸術に追い付いて芸術そのものになるという︑実人生と芸術との理想的転換の実現
︵28︶に寄与している︒二人の会話の言葉が小説本からそのまま抜き出してきたかのようなのは︑それはまさに彼らは
今彼ら自身のロマンを共に語り合っているのだからである︒︽でもいいじゃありませんか︑私たちは本当に愛し
合ったのですから︒︵N'importe。nousnousseronsbienaimes.︶︾という文の前未来形が含む回顧は︑成就した大
いなる宿命のみに属する美を過去に付与し得るような︑仮定上の︑ある最終的一時点からなされた回顧である︒
二人が自分たちの過ぎ去った恋に自ら捧げるこの哀悼の辞はまた︑時間からの解放︑自由の賛歌でもある︒彼ら
は時の支配を脱し︑時の浸食はもはや二人には及ばないのだ︒チボーデがいみじくも言っている︑アルヌー夫人
は︽過去の休息︾という彼女の︽本然の場所︾に落ち着き︑︽夢に捉われるのではなくして︾彼女は今や夢を所
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︵29︶有できたのだと︒フレデリックについて言えば︑︽もう過ぎ去った昔の彼女︾に恋の告白をするあの不滅実は表
面的なものに過ぎない︒それは︑飽くまでも自らの夢を信じ続けたいという執拗な欲求の顕われに他ならないの
︵30︶だ︒あの時︑彼がアルヌー夫人に背を向けたのは︽理想を汚したくないため︾でもあったとあるではないか︒
現存と不在
文体の次元に於ける曖昧性は恐らく更に根本的なものである︒﹁感情教育﹂によって︑フロlべールは作品へ
の介入・評釈の務めをすべて言語︵語彙︑構文︶に負わせつつ︑実は他のいかかる作家より以上に自己の作品中に
あまねく現存し得るような技巧を見事に完成させたのである︒無論︑作者が直接介入している箇所はある︒それ
は恐らく一般に考えられている以上に︑またフローベール自身が思っていた以上に多いだろう︒まず︑作中人物
を評価し批判した多くの箇所がそれに当たる︒ダンブルーズ氏は︽ギリシャ人のように抜け目なく︑オーヴェル
ニュ人のように勤勉︾︵I・3︶である︒デルマールは︽遠くから見るにかぎる芝居の書割のような︑下品な顔付
の大根役者︾だし︑デローリエは︽氏素姓のいやしさ︾丸出しの口のきき方をする︒最も頻繁に批判されこき下
ろされるのはフレデリックモの人であって︑彼は時に︽途方もない臆病者︾︵11・2︶︽底なしの卑劣漢︾︵11・4︶
で︑︽弱さの権化のような男︾︵Ⅲ・1︶だという︒
ラ・ブリュイェールに深く敬服していたフローベールは︑自らも往々にして警句やポルトレや箴言への好みに
引きずられている︒そのモラリスト趣味に更に歴史家嗜好が加わって︑ある時は格調高い短い文に抽象的内容を
盛り込んだ金言が︵︽いったん良心に詭弁を往ぎ込むと︑そこにはいつまでも澱が残る︾︵11・3︶︶︑またある時は︑フロ
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lべlルがモンテスキューやヴォルテールの文章に認めて玩味していた歴史書的簡潔な文体が諸処にちりばめら
れているが︑そうした箇所で聞こえているのは紛れもない作者自身の声である︒
また︑彼が説明や個人的見解の吐露をすべて控え︑作中人物に対するいかなる高みをも自らに禁じているよう
に見えるところに於てすら︑彼が操る骰子に細工が施されているのを示すことは容易にできよう︒およそ小説の
人物でフローベールの作中人物ほど自由でないものはない︒余りにも頻々と発生する偶然の符合︑邂逅︑邪魔者
や障害の皮肉な闖・介入1それらすべてが一致協力して︑この小説を極めて意識的な一個の構築物にしている
のである︒無論︑それは小説家たる者の言わば不可避的な特権でもある︒ただ︑フローベールの場合は手口が一
筋繩ではないのだ︒彼はバルザックのように作品中の至る所にあからさまに顔を出すことは決してしないし︑ま
た︑小説家とその作品との関わりを問題にし︑自らの作中人物と袂を分かつ素振を見せるディドロやスタンダー
ルあるいはジードなどの疑義の多い態度とも全く異なっている︒
作中でなされる判断に短い副詞をひょいと付け加えるのがフロlべlルの常套手段のひとつだが︑それによっ
て︑その判断の主体がいつの間にかぼかされてしまう︒IIIフレデリックが訪ねて行くと︑ダンブルーズ夫人は
︽二人用の椅子に深くかけて日本の扇の総飾りをしきりともてあそんでいた︒きっと︑自慢のその手を見てもら
いたいのだろう︒︾︵11・2︶ 別の箇所では︑彼女は恋仇の女の顔を穴のあく程じろじろと見ているI︽たぶん
相手の若さが妬ましいのだ︒︾︵Ⅲ・5︶ また︑フレデリックとダンブルーズ夫人が心置きなく語り合えない時に
はI︽二人とも殆ど話さなかった︒恐らく用心のためだろう︒︾︵Ⅲ・3︶ こうしたくたぶん︾や︽恐らく︾に
よって︑作者と登場人物の間にはある流動性が保たれ︑作者自身のものに他ならない解釈を作中の人物が口にし
−184−
ているかのような印象が生ずるのだ︒
さて︑流動性があるところでは何らかの融合が起こっているだろう︒事実︑ここでは︑主体と客体とのあらゆ
る乖離を無に帰せしめるような︑二つの視点の融合がなされている︒つまり︑作者の視点と作中人物の視点が同
時に読者に与えられるのだ︒ダンブルーズ邸の招待客たちは︽財産を守る為︑何らかの不安や窮境を免れる為な
らば︑いや︑何の為と言わず単なる卑屈さからだけでも︑祖国はおろか全人類をも売ったであろう︾とフローベ
ールが書く時︑これはもちろん彼自身の憤りを表白したものではあるが︑それは同時にフレデリックの考えでも
あるのは明らかであって︑その証拠に主人公はまさにこの場で︽憤激︾を隠せないでいる︒︵H・4︶ 作者と作
中人物との間に隔たりの幻影を漂わせつつ︑実際にはいかなる乖離の忍び込む余地をもそこに残さない︑両視点
の巧みな融合である︒蓋し︑世に名高いフロlべlルの客観性とは︑作中人物への作家の絶えざる没入に他なら
ないのであろう︒思い出や態度︑反応の仕方に至るまで︑この小説に於ける作者の自伝的要素の充満は余りにも
圧倒的なので︑それらを彼の実生活と照合しようとする試みは殆ど無意味である︒ある種の半過去形が含む擬・
客観性が︑作家のこのような現存=不在の様態を典型的に表わしている︒例えばロザネットについて︽彼女の本
心を知ることはとてもできない相談だった ヨetaitimpossible.。。。)))(H・2︶とあるが︑こうした文では︑読
者は作者の客観的叙述と︑主人公の意識内でまだ形を成すか成さないかの思考とのちょうど中間の地点に置かれ
ることになる︒同様に︑最後のあの大いなる慰めII︽彼はもう何も悔みはしなかった︒昔の苦しみがこうして
報われたのだから︒︵Sessouffrances.。。。etaientpayees)︾−これも︑作者の客観的判断の要約であると同時に︑
主人公の内的独白に等しいものでもあるのだ︒
― 185 −
こうして問題は︑既に小説﹁ボヴァリー夫人﹂の諸要請に見事に応えていた︑あの自由間接文体へと帰着す
る︒没我主義の為のこの有力な武器︲︱−言わばすべての先行詞を巧みに隠蔽してしまう手法であるこの文体はま
た︑作者が作中人物の中に入り込んでその身を隠すことをも可能にする︒そこで真に行なわれているのは︑作者
自身が先行詞に取って代わって代名詞つまり作中人物になってしまうことであり︑こうして彼は︑不在を装いつ
つ︑実は自らの創造世界のまさに中核に現存することになるのだ︒
時の悲劇
さて︑その創造世界の中核にはまた︑ある特殊な悲劇の気が漂っている︒それは悲劇の不在という悲劇であ
る︒︽この小説は余りにも真実であり過ぎ︑美学的に言って︑遠近画法的歪曲を欠いているのです︒︾真実とは︑
観念としての真実とは︑元来︑心の高揚を誘う壮麗で劇的なものではない︒﹁感情教育﹂にあって支配的なのは
生の実感︑少なくともその文学的幻影である︒人生との闘争でも光輝ある敗北でもない︑ただ︑すべてを浸食し
解体する時間というものへの為す術もない忍従︒︽華々しい事件が︑ドラマが少し欠けているのです︒それに話
の筋は余りにも長期間に渡っています︒︾ フローベールが誰よりも先にそのことに気付いていた︒だが︑それが
この作品の欠陥だという訳ではない︒それはドラマの不在が生む︑この小説のドラマモのものなのだ︒そして︑
ここに言うそのドラマとは︑何よりも優って﹁時﹂のドラマである︒
老化︑少年期への回帰︑そして失敗と凋落の認識︒小説が示すこのような運動は︑そのまま︑病気と死につい
ての作家の強迫観念の反映である︒フロlべlルの想像力は常に︑時間的病理学的両方の意味で︑人生が呈する
― 186 ―
慢性的なものを廻って働いた︒それに︑たとえ彼の想像が遊蕩に向かうことがあっても︑想像力でする放蕩は決
して行動欲をそそりはしない︒反対に︑それは﹄ネルギー消費以前にその意欲を根こそぎ殺いでしまうものだ︒
この小説中のあらゆる行動︑いかなる微弱な意志をも支配し︑それらに先行しさえするあの疲労感はそこに由来
するのだ︒︽⁝⁝そして彼らはたいへんな放蕩にでも耽った後のように物悲しかった︒︾︵I・2︶ 次の文は更に
明瞭だー−︽脳裡に描いたこうした夢の数々は︑遂には余りにも明確な輪郭を帯びてきたので︑それらはいった
ん手にした後に失われたものであるかのようにフレデリックを悲しませた︒︾︵I・5︶
時の悲劇︒だが︑それはまた時の詩︑とりわけ思い出の詩でもある︒追憶が為す錬金術に︑フローベールは既
に青年時代から敏感だった︒︽思い出とは実に良いものだ︒それは︑︹亡き人を悼むかのように︺我々が哀惜する
︵33︶ フュネープル︹昔の︺欲望のようなものだ︒︾ー弱冠二十歳にして彼は友人エルネストにこう書いているが︑ここでは死と葬送
への執着は︑肉体を離脱して存続する何かがあるという観念と結び付いている︒晩年には︑思い出は彼にとって
︵34︶殆ど神聖な光輝を帯びるに至る︒︽昔の日々が︑きらきら輝く霞の中で優しく穏やかに揺らめいています︒︾ と
は言っても︑このフローベール的時の抒情に於て支配的なものは飽くまでも死に関わるイメージなのだ︒あのフ
ォンテーヌブローの森の挿話からはある特殊な憂愁の気が立ちのぼるが︑それは皮相な夢想が誘う感傷とは程遠
い︑︽あらゆるものの永遠の悲惨︾を想う者の憂愁であって︑その時︑人類の過去の歴史は︽幾世紀もの時間が
放つ︑ミイラの匂いにも似て人をぐったりさせる死の気配︾︵Ⅲ・1︶のうちに現われるという︒フローベールに
於て︑何らかの喪失態が極めて頻繁にミイラ化あるいは剥製化の願望と結び付いているのは︑決して偶然ではな
いのである︒
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数ある大小説家のうちで︑フロlべlルは︑小説が本質的に時間的体験︑時間というものの探究であることを
認識した︑恐らく最初の作家である︒だから彼の小説では︑出来事にではなく︑出来事と出来事との間の空隙に
焦点が合わされる︒フローベールの関心事は︑危機ではなく危機の合間に起こっていること︑更に言えば︑危機
の代わりに起こっていることなのだ︒プルーストが最も高く評価したのが︑この小説のこうした側面であったこ
とは何ら驚くに当たらないI﹁空白﹂︑空洞︑緩急自在な速度の切り換え︑主観的時間の極めて弾カ的な揺れ
動き︒フロlべールに於ては︑プルースト同様︑自己と他者との関係︵更にまた自己と自己との関係︶が共時的で
あることはめったにない︒︽フレデリックは体の震えるような喜びを予期して来たのだった︒が・:⁝自分の心が
静まりかえっていることに彼は唖然とした︒︾︵H・1︶ 草案のひとつには次のような記述があって︑こうした同
時化の困難︑つまり欲望とその成就との間の懸隔というテーマが︑この小説の最初の構想以来のものであったこ
とを明示しているI︽しかし和合の機は既に失われている︒⁝⁝彼女が愛し始める時︑彼はもう彼女を愛して
はいない︒︾
恐らくは以上のような理由から︑﹁感情教育﹂は真に説話的な作品ではないのである︒ここにあるのは︑全体
との繁りの度合がまちまちな個別的総体︑ブロックの集積である︒作品構想の時︑執筆の時︑作中人物の主観的
時︑それに更に読書の時が加わる︒経験も筋︵?︶も心理も︑ここでは︑抽象や分析が可能な実質を備えたもので
はない︒作者が呈示しているのはむしろ︑程度の違いはあれ常に不透明な︑慰めとなる展望を一切許さない︑不
断の現在である︒これは︑ばらばらの断片から成り常に定かならぬ人生の︑広漠たる一個の詩だ︒そして︑こう
した作品に於てフローベールは︑自伝的諸事実などより何よりも︑ひとつの心的構造︑彼の精神の有り様を我々
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に委ねているのである︒