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修辞学発凡 第十篇 

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1 名前は順不同。甲斐は『修辞学発凡』翻訳の代表者として全てに參加、本文の翻訳作業のほか、提出原稿の文体を整え校正に携わった。従っ て、翻訳の原稿に問題があればひとえに甲斐の責任となる。

陳望道『修辞学発凡』第十篇・十一篇・十二篇

付録 霍四通「当代漢語修辞学の新興領域」

甲 斐 勝 二 間   ふさ子 宮 下 尚 子 張     璐 王   毓 雯 霍   四 通

(翻訳)

翻訳に当たって

 前回に続いて陳望道『修辞学発凡』の第十篇・第十一 篇・第十二篇を訳出する。基づいたのは1976年に第1版 が出て9月に新1版が出た上海教育出版社出版1982年第3 次印刷版である。この書籍や作者の陳望道については後 に上げる「陳望道《修辞学発凡・第一篇引言》翻訳」を 参照されたい。

 『修辞学発凡』は再版のたびに手が加えられ、 引用文 の差し替えも行われているが、1932年にその大枠は完成 しているので、既に90年近く前の論説ということにな る。些か時代が古いので、復旦大学で修辞学の研究をさ れている霍四通先生に現代の中国修辞学研究からの視点 で、第四篇の翻訳からその後の研究情況の様子を解説し てもらっている。

 今回は,第十篇を宮下、十一篇を間、第十二篇を甲斐 が担当し、張璐・王毓雯の二人が翻訳文の点検を行った。

脚注は全て訳者によるものである。霍四通先生の解説の 注は宮下が担当した。最終的には甲斐が全篇の訳文を整 えている。

 陳望道が説明に使う例文の引用は、時代は古代から陳 望道の生きた当時まで、韻文から散文,文言から白話,

経典から通俗小説までと自由自在で、まさしく「漢語」

の「修辞学」の「発凡」にふさわしいものといえるのだ が、その分中国の文学史に一定の知識がないと理解しづ らいところがあるかも知れない。従って引用文でもその 筆者の時代くらいは分かった方が良いと訳文に時代をつ け加えたり、また脚注をつけたりしたところもある。注 も( )で補ったり、脚注で行ったり、またその内容も

不揃いなところがあって必ずしも十全なものとなってい ないのはどうかお許し願いたい。

 今回の三篇で書籍の全内容十二篇全てを訳出したこと になる。始めたのが1998年だから結局20年以上かかっ た。それだけ時間がかかると各篇の翻訳作業に参加して くださった先生方も諸事情あり変化がおこるものだ。以 下に、各篇の訳出を掲載した紀要誌を示し、参加者を( ) に入れて上げる。翻訳に参加してくださった各先生方に お礼を申し上げたい1

第一篇  1998年10月 福岡大学総合研究所報第209号      (石其琳・横山裕・藤原静郎・垣見美樹香)

第二篇  1999年 2月 福岡大学総合研究所報第215号      (石其琳・横山裕・藤原静郎・垣見美樹香)

第三篇  1999年 3月 福岡大学総合研究所報第221号      (石其琳・横山裕・藤原静郎・垣見美樹香)

第四篇  2010年 11月福岡大学研究部論集A:人文科学編  Vol.10 No.3

(間ふさ子・張璐・王毓雯・内堀由美子・羽田ジェシカ・

霍四通)

第五篇上 2011年 11月 福岡大学研究部論集A:人文科学編  Vol.11 No.2

(間ふさ子・張璐・王毓雯・内堀由美子・羽田ジェシカ・

霍四通)

第五篇下 2015年 1月 福岡大学研究部論集A:人文科学編  Vol.14 No.2

     (間ふさ子・張璐・王毓雯・羽田ジェシカ・霍四通)

第六篇  2016年 1月 福岡大学研究部論集A:人文科学編 

(2)

Vol.15 No.2

     (間ふさ子・張璐・王毓雯・羽田ジェシカ・霍四通)

第七篇上 2016年 12月 福岡大学研究部論集A:人文科学編  Vol.16 No.2

     (間ふさ子・張璐・王毓雯・羽田ジェシカ・霍四通)

第七篇下 2017年 12月 福岡大学研究部論集A:人文科学編  Vol.17 No.2

     (間ふさ子・宮下尚子・張璐・王毓雯・霍四通)

第八篇  2018年 12月 福岡大学研究部論集A:人文科学編  Vol.18 No.2

     (間ふさ子・宮下尚子・張璐・王毓雯・霍四通)

第九篇  2019年 12月 福岡大学研究部論集A:人文科学編  Vol.19 No.3

     (間ふさ子・宮下尚子・張璐・王毓雯・霍四通)

 おそらく細かに読み返せば、誤訳や単純な校正ミスな ども残るに違いない。訳文をまとめてきた甲斐の責任は 逃れえず、誠に忸怩とした思いがある。訳文は訳者の実 力を超えるものではないのでそれは致し方なく、中国語 が良くできる方には原文で読んでほしいと言うしかな い。しかし、そうでない方に、せめて概ねの内容を伝え ること、そのような仕事も、外国学に関わる研究職に就 く者の役割の一つだと考えての成果報告にはなろうとご 寛恕を願う。

 なお、中国の修辞学については日本では既に翻訳書も 出版されており、その紹介は為されていると言ってよ 2。とはいえその原本は人民共和国成立以後の新しい 視点に基づくもので、それ以前の民国時代にできあがっ ていた『修辞学発凡』とは方針も違うようだ。陳望道の 修辞学はその意味では既に古典となっており、或いはも はや古いのかもしれないが、中国の修辞学研究史におい ては誰もが認める書籍であり3、それが非常に良くでき た記念碑的な存在であることは論を待たない。これもま た訳文を公開する所以である。御指正をお待ちします。

(文責 甲斐)

修辞学発凡 第十篇 

   修辞現象の変化と統一

一 格局に定め無し(決まりのない文章構成法)

 これまでの話で、様々な修辞現象については概ね既に 述べ終わったことになる。通常に従えば、さらに文章の 構成或いは組み立て方という問題を挙げておくべきであ ろう。この問題は、以前「布格」と呼ばれ、また「布局」

とも呼ばれたものである。格局(文章の構成)はもとよ り重要なものであるが、実際の所、語文の体裁や内容及 び各人のねらいに従って変わるもので、応用無碍に使え るほどに語るべき一定の方式があるのではない、もちろ ん形式に従って書いていく実用文は別にしての話だが。

文章の構成(格局)についてはこれまでにいわゆる三準 四法というものがあったのをご存じだろう。三準という のは、所謂「表現すべき思いが湧き起こるとき、それを 表現する言葉はあれこれあって選択に苦しむが、心は天 秤ばかりのようにバランスをうまく取れるものではない ので、しばしば軽重が損なわれてしまう。したがって、

文を書き始める時には、先ず三つの準則を念頭におくの である。先ずその初めに当たっては表現しようとする心 情内容に従って文章体裁を選択する。書き始めれば内容 に相応しい事例や比喩を示す。文を終えるに当たっては 適切な言葉で要点を挙げる、というものがそれである。

その後に、修飾を加減し、語句を加減して、方針からは み出すものは、見事な表現でも切り捨ててしまう、こう やってこそ前後一貫し、筋の通ったものになるのである」

(『文心雕龍』鎔裁篇4)というものである。四法とは、「作 詩法には起承転合の四法がある。起では素直であらねば ならず、承では悠悠と響かねばならず、転では変化しな ければならず、合では深みと余韻がなければならない」

(范梈5『詩法』)というものである。これらは一部の語 文についてはその通りと言えるものかもしれないが、決 して古今すべての語文の構成法をまとめられるものでは ない。たとえ、更に幾つかの項目を加え、起/承/鋪/

叙/過/結の六法とし、伸ばしたり縮めたりして、「時 にはその二つを使い、時にはその三つか四つを使って、

適宜増減すればよい」(陳繹曾『文筌』)としたとしても、6 やはり文章構成の各種変化を尽くすことはできない。こ のことは、既に言われたことであった。章学誠7が論じ

2 『中国語修辞学』王希傑(原名は『漢語修辞学』)修辞学研究会訳 好文出版 2016年3月 

3 例えば王希傑『漢語修辞学』(北京出版社1983)では、修辞学史の部分で、「『修辞学発凡』は依然として漢語の修辞を学びまた研究する人 は読まねばならない重要著作である」(p3)と述べている。

4 『文心雕龍』:六朝・梁の劉勰による中国最古の文学理論書。西暦500年頃の成立。古代の文章をとりあげ、その文体や修辞をそれぞれの部 門ごとに整理解説した。

5 范梈(1272-1330):元代の詩人。楊載、掲傒斯、虞集とともに元詩四大家と称された。

6 陳繹曾:元代書法家。生没年不詳、1329年〜 1343年頃在世。著書に『翰林要訣』『遼史』『文筌譜論』などがある。

(3)

た「古文十弊」の一つに以下のようにある。

 「古人の文章はできあがるとそこに法式が読み取 れるが、定式というものはなかった。人物を描こう とすればその人に相応しいやり方で描き、事柄を述 べようとすればその事柄に相応しい方法で描く、定 式がないとはいうものの、そこには一定のものが あったのである。そのコツを知る者は、すぐにわか る。そのコツが分からぬものは、その形貌を描いて も、その精神は描けるものではない。以前、私は和 州の故給事であった成性に『成性志伝』を撰したこ とがある。成性は提議上奏で評判が高かったので、

その奏議文を採録した。しかしながら、成性は若い 頃戦乱に逢い、一家は殺害されてしまっていた。成 性は先代の供養を行うにあたって、それぞれに文章 を書きしるしたが、「猛省」の篇は最も沈痛でその 孝行を伝えるものとなっていた。従って、志伝の最 後に置く篇として、その文をすべて記録したのだっ た。その土地の知名な人物が私の文を読んで、「あ のように奏議の文ばかりを前にした場合、もし後ろ に「猛省」篇がなかったとすると、船の運航にた とえていえば、舳先ばかりが重く、船尾が浮かび上 がるようなものだ。これを最後においたのは、実に 見事な篇構成と称しうる」と言った。私はからかっ て、「もし、成殿にこの篇がなかったとしたら、そ の船は無事に進まないとでもおっしゃるのか」と反 問したのだった。塾の師匠が教える四書の文章を、

時文8という。そこには書き方というものがあり、

規範に従うものだ。この書き方は抽象的な言葉では 伝えづらいので、しばしば喩えを使って初心者に示 される。家屋にたとえるならば、間取りの構造とい うものを使う。身体にたとえるなら、容貌や骨組み というものを使う。絵画にたとえるなら、顔立ちの 整えかたというものがある。風水師にたとえるなら 龍脈とか墓所の位置というものがある。場合に応じ てたとえるのである。しかし、初学者に示す方法な のだから、自ずからそうあらざるを得ないので、こ れを責めるわけにはいかない。ただ時文の書き方で 学んだことに固執し、頑なにそれを守って、すべて の古典籍を読もうとすると、そこで得られるのは時 文的な理解であって、ややもすると塾の師匠が初学 者を教えるような議論になってしまう。それでは、

将棋盤に碁石を並べるようなことになって、うまく いくはずがない」(『文史通義』五に見える)。

 古文ですらこうなのだから、ましてや古文のように しっかりしたものでないならなおさらである。所謂「定 式はないとはいうものの、そこには一定のものがあった」

というのは或いは劉勰のいう「前後一貫し、筋の通った もの」を指すのかもしれないが、ここでは「人物を描こ うとすればその人に相応しいやり方で描き、事柄を述べ ようとすればその事柄に相応しい方法で描く」時の自然 な結果のことをいう。四法六法などのように一定の方法 を定めたものを、日本では「杓子定規」という決まり文 句でよぶのだが、章学誠のほうは別の呼称を付け、「井 底天文9」というのだった。井底天文については研究す

7 章学誠(1738-1801):中国清代の史学者。考証学が全盛の乾隆年間にあって、考証学や宋学とは異なる特異な歴史理論を展開。地方誌に おいても独自の理論を展開。編著書に『文史通義』『校讐通義』『和州志』『永清県志』『湖北通志』などがある。

8 時文:科挙の試験の答案に用いられた文体で、特に古文に対し、明代や清代の形式重視の八股文のことを言う。

9 井底天文:章学誠『古文十弊』の九。「井底天文」は井戸の底から見えるわずかな星空のことで、見識の浅さと視野の狭さをいうもの。

10 以上4種は第四篇消極修辞参照

11 上からそれぞれ第五篇第六篇第七篇第八篇参照

12 それぞれ第九篇参照

明確

(一)消極的        通順 平匀

修辞現象(或いは方式) 隠密10

  材料上の 意境上の 修辞法       言葉上の 章句上の11       (二)積極的

意味 言葉の情緒       音調 形貌12

(4)

るつもりはないので、これ以上比較検討する必要もな い。修辞現象はこれで概ね述べ終わったことになる。い ま下に略表を上げる。

二 変化して行く修辞現象

 修辞現象というものもまた固定されたものではない。

言葉の選択について言えば、現在では平易が標準とされ ている。しかし、白話文学運動以前では、所謂「雅潔」

であることが標準だった。「雅潔」とは、清の桐城派13 のいう義法14の一つである。桐城派開山の祖である方 15はかつて以下のように言っていた。

 南宋元明以来、古文の義法が説かれなくなって久 しい。呉越あたりの明代の遺民たちは最も好き勝手 で、小説を交えたり、或いは宮廷の昔ながらの上奏 文のスタイルに合わせたりして、雅潔さがない(沈 廷芳「書方望溪伝後」)

 姚鼐16もまた次のように言った。

 私は「言の文無きは、行いても遠からず(論語)」

と聞いている。発した言葉が下品で筋が通らなく なってしまったので、曽子が戒めたのである17

……唐代では、仏教僧が文というものを理解してい なかったため、その師匠の言葉を日常世俗の語で記 録し、これを「語録」と呼んだ。宋代の儒者の弟子 たちは、恐らく其れに倣ったのである。とはいえ、

弟子が亡くなった師匠の記録を残そうとして、その 真実を失うのを畏れたのであるから、そこには首肯 すべきところもある。明代になって、自分の書を著 す者もまたこれに倣ってしまったのは、まったく取 るべきものはない。先生にお願いしたいのは、およ

そ「語録」のような卑俗な言葉は、すべて変えてし まい、文としてふさわしいものにすることだ。そう すれば、善くなりましょう。(姚鼐「復曹雲路書」)

 これより後、桐城派に直属する或いは帰依するもの は、一人として雅潔の語を言葉選択の規範にしない者は いなかった。 清の康煕年間から「五四」前後に至るまで、

文章家の心を虜にすることほぼ二百余年に及んだのであ る。たとえ翻訳の世界で頗る貢献した厳復18、林紓19 あっても、その束縛を受けざるを得なかった。厳復は言 う、「翻訳には三つの難しさがある。信、達、雅である。

……『易経』に「修辞にて誠を立てる」と述べられ(信)、

孔子は「辞は達するのみ(辞は達すれば十分)」20と言 い(達)、また「言に文無きは、行いても遠からず」21 と言われた(雅)。この三者こそ文章における真っ当な 道であり、また翻訳の模範である。従って、信や達の外 に、雅であるべき事も求められるのだ」という(『天演論』

例言に見える)。最後に雅の語を出さねば気が済まない のは、また所謂雅潔の義法が厳復を虜にしているからで あった。この義法は白話文学運動の始りで、ようやく打 ち破られることになった。白話運動には歴史的社会的な 根源があるものだから、当時林紓が雅の旗を振って反抗 に出ても、もはや如何ともしがたく、無残にも敗走する しかなかったのである。これは白話運動以後、明らかに 変わったものの一つである。厳復は「遠くまで行われる」

ために雅が必要であるばかりではなく、「達であるべき」

ためにも雅が必要だと考えた。厳復は、「実のところ細 やかな筋道や表現をもつ文の作成においては、漢以前の 用字法造句法を用いれば、達しやすくなるが、近世に喜 ばれる通俗表現を用いれば、達しにくくなり、しばしば 意味よりも表現に重点が置かれて、初めはわずかな違い であってもついには意味と表現との間におおきな乖離が

13 桐城派:中国・清代の文章家の一派。安徽省桐白県出身の方苞に始まり、劉大櫆、姚鼐に至って大成。唐宋の古文を範として文章の典雅 さを尊んだ。桐城派は当時の訓詁と駢文家の修辞に反対して、厳格なまでに文章の典雅さを追求した。姚鼐が『古文辞類纂』七五巻を編 纂して古今の古文の模範を集めたほか、数多くの古文の選集を編纂した。桐城派の典雅と平淡を尊ぶ主張は実用性ともあいまって、人々 に歓迎され、清末のみならず民国に入っても大きな力を保っていたが、民国初年の文学革命で打倒の対象となった。

14 義法:桐城派(上注参照)の方苞(1668-1749)が提唱した文章理論。桐城派の理論は、直接的には明の帰有光の説を継承し、唐宋八家の 古文に連なるが、新たに儒教理念を内容とした「義」と、古文家の法度にもとらず、俗語や麗辞を排して質実な文を書くべきだとする「法」

を重視したのが義法説である。

15 方苞(1668-1749):清代の学者、古文作家。安徽省桐城県の人。望渓と号す。1706年(康煕45)の進士。明の帰有光の唐宋派を継承して 桐城派古文の義法理論を確立した。礼学に関係する『礼記析疑』『儀礼析疑』のほか、文集として『望渓文集』『望渓文集外文』『望渓文集 外文補遺』がある。

16 姚鼐(1731-1815):清代中期の学者、古文作家。字は姫伝、号は惜抱。安徽省桐城県出身。1763年進士。『四庫全書』纂修官をもって辞任し、

以降各地の書院にて学を講じ、桐城派古文の学燈を継承発展させた。『惜抱軒文集』16巻、『詩集』10巻のほか、『古文辞類簒』74巻の編がある。

17 論語『泰伯篇』の語。ここで言う「文」は姚鼐の主張する品格のある文章語を指す。

18 厳復(1854-1921):中国、清の啓蒙思想家。福建省閩侯の人。福州船政局海軍学堂を経てイギリスに留学、帰国後90年に『天演論』(T.H.ハ クスリー著『進化と倫理』)を出版、以後、スミス『国富論』、ミル『自由論』、モンテスキュー『法の精神』などを翻訳し、西欧近代思想 の紹介に務めた。

19 林紓(1852-1924):中国、清の古文家、翻訳家。福建省福州の人。古文を学び、フランス語のできる友人王寿昌の訳述により『巴黎茶花女事』

(デュマ・フィス『椿姫』)を訳し、この成功により170種もの翻訳書を出して各国文学の紹介に貢献した。後に京師大学堂で古文の教育に あたり、民国以後、胡適らの白話運動に反対し、学長の蔡元培に非難の書簡を送るなどの反対行動をした。

20 『論語』衞霊公第十五より。

21 『左伝』襄公二十五年より。

(5)

生まれる」(同書例言を参照)という。このような感覚は、

多くは言語や文字の意味から来るものではなく、辞趣(言 葉の情緒)と呼ばれるものから来るに過ぎない。なぜな らば、漢以前の用字法造句法について、ある一部の人な ら比較的読むことが多く、声に出して読んでしっくりく るし、それぞれの言葉についてその字義を知っているだ けでなく、その来歴も知っているからなのである。例え ば、爾雅という語についても、『爾雅』という書籍のあ る事を知っているし、『爾雅疏』では、「爾雅」の二字 が「爾、近である。雅、正である。それに近づき正しい 意味を知るということ」であると解釈している。「爾雅」

の語は『史記』儒林伝序にも「文章は爾雅、訓辞は深厚」

と用いられたことがあった。注では「詔書の文章が雅正 である事をいう」と解釈する。漢以前の用字法造句法を 用いるなら、容易といえば容易にこのような歴史的な輝 きで照らし出すことができ、文字の上にきらめく光りを 加えられて、読む人には実に測りがたい「深厚」さを思 わせる。しかしながら、この「爾雅」な有様は、実際の 所遠くまで及ぶには障碍があり、所謂達と関係はなかっ たのである。「儒林伝序」に公孫弘の上奏文で以下のよ うに言うようなものである。

 臣めが謹んで考えますに、詔書律令が下されるの は、天と人との分際を明らかにし、古今の正義を受 け継ぐもので、その文章は爾雅であり、訓辞は深厚 で、恩恵の施しは甚だ素晴らしいものであります が、下層の役人は見識も浅く、よく理解できず、

下々の者に明確に示して内容を伝える事ができませ ん(『史記』『漢書』の「儒林伝」を参考引用)。

 ここにいう「文章が爾雅」である詔書や律令は、官吏 でさえ理解できないのに、「遠くまで伝えられる」わけ がない。また所謂言葉の歴史的な色彩も漢代以前の用字 法造句法にばかりあるわけではない。もし漢代以前の用 字法造句法に注意するように、真剣に現代の言語や文 章に注意するとすれば、現代語の言語や文章の歴史的な 背景はもっと豊かであり、その上心情には一層近いのだ から、その辞趣を利用しようとしたら、利用できる辞趣 がないとは思えないのである。大体の所、過去の詩文家 は多くが高踏的気配をただよわせていて、社会から隔た り、さらに社会をわが足下に広がる塵芥の世界と見なし てもいた。したがって、言葉の持つ情緒である辞趣に ついても、しばしば所謂文壇の辞趣と所謂社会の辞趣と は明快に分かれていた。ある人は、「文壇の辞趣とは文 壇で慣用の字句が専ら伝える情緒であり、このような字 句にはしばしば文壇の背景があり、読者に典雅な感覚と 好感を導くもので、粗野な刺激はない」といっている。

これに対し所謂社会の辞趣となると、そうではない。し たがって、文壇の辞趣と往々にして衝突を生じるのであ る。このような区分は非常に奇妙なもので、驚く人もい るだろう、彼らの「文壇」とは「社会」以外の場所に作 られるのかと。しかしながら、彼らはその気持ちを正直 に述べているまでで、その気持ちは彼らだけのものでは ない。例えば厳復が「漢以前の用字法造句法を用いれば、

達は容易であるが、近世の俗人を喜ばせる表現を使うと なると、達を求めても難しくなる」と言ったのもまた同 様の気持ちではあるまいか。彼らは社会以外の場所にい るわけではないのだが、社会の中にいるわけでもないの である。彼らは「象牙の塔」の上に高々と隠れ、「芸術宮」

の中に深々と潜んでいるのである。彼らは俗塵喧噪を嫌 悪し、我々の如き「車を引いたり飲料を売ったりして 暮らす庶民の言葉」22が彼らの耳の中に入ってくるのを 望まないのである。そんな言葉は耳障りで話す習慣もな く、当然ながら彼らは口にできるものでもないので、し たがってそのような言葉では確かに「伝えることが難し い」と言ってよい。とはいえ実は口にしたくないという 気持ちの方が大きかった。そこで厳復はかつて呉汝綸23 に尋ねたことがある。「文章を綴るのには爾雅たること を求めるものだが、使うべからざる字句があったとき、

別のものに変えてしまえば真実を失うことになり、その まま使えば品格を損なってしまうことになる」、どうす ればよいのか。呉汝綸が彼に教えたのは、「品格を損な うくらいなら、真実を失うほうがまし」(呉汝綸「厳幾 道の西書を訳すに与える書」)というものであった。誠 に「その爾雅たるを求め」、ついには「真実を失うほう がまし」となる、これでは「意味よりも表現に重点が置 かれる」というものでもあり、「達しやすくなる」もの にはなりそうもない。つまるところ、所謂雅潔の義法に 人の心が虜にされると、すべてのものがそのために犠牲 となるものであり、またすべてのものがそれによって作 り上げられるようなものである。雅潔という言葉の選択 標準はもはや打ち破られているのだから、これからは所 謂「真実を失った方がましだ」うんぬんといった、真実 を「雅」のために犠牲にすることはもはやは起らなくなっ ている。これは手法の面において、形式が内容を拘束す るという狭隘な義法から離脱するという大きな解脱であ り、意識の面でも超越的な社会から実際の社会に立ち位 置を移す一大転換だったのである。

三 しばしば流行廃りのある修辞現象

 修辞法の領域でも、しばしばその評価には上下がおこ るもので、自然な発展から来るものもあれば、意図的な

22 『史記』魏公子列伝より。

23 呉汝綸(1840-1903):清朝末期に活躍した桐城派の代表的人物。文学家、教育家。

(6)

改変もある。例えば蔵詞では歇后語の前句を用いたもの から次第に変化して歇后ばかりに用いるものになった り、『詩経』『尚書』などの書籍から成語となり使用され ているうちに口語に直接用いる成語となったり、また復 畳では、「灼灼」とか「依依」など言葉を重ねる語から 次第に変わって行き「随随便便」とか「不不少少」など の重ね語になるのなどは、音も立てず声も上げずに進ん でいる。この動きは自然な発展から来る変化と見なしう る。このような自然な発展変化は、それを最初に行った 人物はやはり意図的であったに違いないが、しかし、

そこにその人の名前は出ては来ないし、今からではそ の経歴など調べられるものでもない。ただ積み重なる弊 害の極めて重いもの、改革もたいへんだったものの幾種 かは、我々も意図的な改革だったと知りうるばかりであ る。例えば対偶である。対偶はそもそも排斥する必要は なく、もし表現すべき事柄や意識が当然対になるような ものであれば、対を為す言葉遣いを用いそれを表現して も当然かまわない。しかし、魏晋以後、細かな技巧を競 うようになると、しばしば文辞は必ずや対にすべしとし

て、表現上の桎梏となったのである。したがって、唐代 に一度激烈な反対が起こり、「五四」運動のころにもま た激烈な反対運動が起こったのである。さらに典故引用 などもそうだ。典故引用は本来やはり排斥する必要はな いものである。もし前人の事跡や発言が自分の発言を本 当に助けるものであったり、或いは代替するに十分なも のであったりする場合は、引用してもかまわないし、有 効な場合もある。しかしながら、適切だとは見えない或 いは全く不適切な事柄や陳腐な文句を持ち出して代用し たり、さらには適切とは見えない或いは全く不適切な事 柄や陳腐な言葉を説明に用いたりして、時には晦渋で難 解となり、まさに謎々のようになることが、過去にはし ばしばあったのである。一方不自然に省略される状態も しばしば読者を不愉快にさせる。これは意と趣の両面で 有害無益である。その効用の最大のものでも、それによっ て知識の豊かさをひけらかすばかりにすぎず、つまりは

「掉書袋」と呼ばれるありさまに落ちてしまう。清の周 寿昌24の著『思益堂日札』(九)には「掉書袋」の項目 があり、以下のように述べる。

凡そ書籍の文辭を引っ張ってきて談話を繋ぎたがる人を、俗語では「掉文」と呼んだり、また「掉書袋」と呼ぶ。

掉書袋の語は馬令『南唐書』彭利用伝に見える。利用は自ら彭書袋と号すほどで、伝記の中にのせる引用文使用の 例は実に恐れ入ってしまう。その伝には以下のようにある。

 あるものがその姓を尋ねると、

答えて「隴西の遺苗、昌邑の余冑 なり」というので、今度はその住 居を尋ねると、答えて「広陵に生 まれてより、長じて螺渚に僑す」

と答えて言った。

 その下僕がしばしば問題を起こ すので、利用は下僕を責めて、「余 始め紀綱の僕、人百其身ほどと以 為い、爾の同心同徳、左之右之に 頼る。今、乃ち中道而廃、侮慢自 賢、故に労心労力して、日不暇給 なり。若し而今而後、過而勿改な らば、予当に循公滅私、撻諸市朝 し、汝に自西自東、以遨以遊する を任すのみ」と言ったのである。

当時の江南の士人たちは雑談のた びにこの話を出してからかい笑う のが常であった。

 利用が父を亡くしたとき、客が 弔って、「お父上のご入棺、哀悼 の念に堪えません」というと、利 用はこれに対して、「我が父は不

24 周寿昌(1814-1884):清代の学者。著作に『恩益堂集』『漢書注校補』がある。

(引用文出典と思われるもの)

「隴西の遺苗、昌邑の余冑なり」:彭氏は古は隴西に祖を持つこと、漢の彭越が山 東の昌邑出身である事から彭姓を示唆する。

「広陵に生まれてより、長じて螺渚に僑す」:出典不明。史書の表現をまねたもの と思われる。

紀綱の僕:『左伝』の語、家事の庶務を行う者。

人百其身:『詩経』の語、人物の立派さをいう。

同心同徳:『尚書』の語、思想志向を共有すること。

左之右之:『詩経』の語、各種の作業を行う。

中道而廢:『礼記』の語、途中でやめること。

侮慢自賢:『尚書』の語、尊大になり悪事を働くこと。

労心労力:『孟子』の語、頭脳労働と肉体労働のこと。

日不暇給:『漢書』の語、忙しくて処理する時間ないこと。

而今而後:『呂氏春秋』の語、これより以後、今後。

過而勿改:『論語』の語、過誤を改めないこと。

循公滅私:白居易の語、私情を押さえ公を重視すること。

撻諸市朝:『礼記』の語に基づく。人前で打擲すること。

自西自東:『孟子』の語。東西南北あちこちのこと。

以遨以遊:『詩経』の語。あちらこちらぶらぶらすること。

不幸短命:『論語』の語。不幸にして夭折すること。

糊口四方:『左伝』の語。家を出てあちこちで苦労する 相如の壁:『史記』司馬相如伝に基づく。貧乏なさま 仲堪の棺:『捜神後記』の話に基づく。葬り手のない棺。

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幸短命、諸子は糊口四方、帰れば 相如の壁を見、空しく余る仲堪の 棺、実に痛心疾首、不寒而慄たる べし。苟も泣血三年しても、不可 再見」、と言って大いに慟哭の始 末。客が無理をして「悲しんでば かりでは、葬礼もうまく終わりま せん」というと、利用は又もや「古 自り毀不滅性、杖而後起、卜其宅 兆而安措之。君子有終と雖も、然 るに孝子不匱、三年不改、何日忘 之」と大いに涕涙にむせながら 言った。弔問者もここまでくると 失笑してしまった。

 隣家に火災が発生し、利用が救 援に行ったことがある。ゆっくり とでかけながめて言うには、「煌 煌然、赫赫然として、不可嚮邇、

自鑚燧而降、未有若斯盛。其可撲 滅か?」。

 

 また仲間と遠くに出かけたお り、宿舎に至るや、すぐさま何も 告げず帰ってしまった。翌朝(ま た来たので)ある者がその理由を 尋ねた。利用は「忽として朱亥之 椎を思えば、猶お陳平之戸に依 るがごとし、窃かに恐れる数鈞之 重、転た傷けん六尺之孤」と言っ たのであった。その発言のあざ笑 うべき有様はこのようである。

 通常、典故の利用は上掲のものほど滑稽なことにはな らないとはいえ、しかし、聞く人に不自然さを感じさせ てしまうと、しばしば彭書袋の「掉文」を聞かされるの とさほど変わらなくなる。したがって、かつては一度激 烈な反対運動もおこった。これらの運動は意図的なもの だ。意図があれば、当然その効果は一層大きな力を持つ ので、通常は当然と思われていた現象の問題点を目の前 にさらけだし、見る人を驚かせることになる。しかしな がら、このような運動は大抵その問題が極めて大きくな り特に目立つときに起こるもので、その他の時は静かに 外には現れないまま改変が進むものだ。その改変の進行 は、しばしば言語や文字表現の各種の可能性をあれこれ 利用しながら、それぞれの異なる状況に対応しようとす るもので、時にはある種純粋な主観によるものや、実際

の情況に沿わない提唱よりも却ってうまく進む場合もあ る。例えば、文法上の詞語の多音節化については、従来 誰も提唱した人物はいないのに、早くから次第に増えて 行った。「馬」に「児」を加えて「馬児」(馬)と呼んだり、「鴨」

に「子」をつけて「鴨子」(アヒル)と呼ぶのは、音が 増えるとはっきりして聴き取り易くなるからである。こ れに対して、修辞上の音節短縮は、かつては一括して排 斥しようという人もいたのに、逆にだんだん多くなる情 況となっている。例えば「五月四日」節は「五四」と呼 ばれ、「左翼作家聯盟」は「左聯」と呼ばれ、「人民代表 大会」は「人大」と呼ばれている25。これもまたよく知 られ、わざわざ説明する必要もない理由のためである。

このような経験による自然な改変のようなものは、旗を 大きく振り回し主張する改革ほどには分明なものではな

25 この情況を端的に示すものとして『当代簡縮語辞典』(四川人民出版社1998年4月)といった辞典がある。

痛心疾首:『左伝』の語。心を極めて痛めること

不寒而栗:『史記』の語。恐ろしさに鳥肌を立てること。

泣血三年:『礼記』の語。声を潜め泣き三年の喪を過ごす。

不可再見:『孔子家語』の語。二度と会えないこと。

不滅性:『孝経』の語。悲しみすぎて心身を害さない。

杖而後起:『南史』などの語。衰弱して杖で立つこと。

卜其宅兆而安措之:『孝経』の語。墓穴を選んで葬ること。

君子有終:『易経』の語。君子には良い結果がつくこと。

孝子不匱:『詩経』の語。子孫の孝行が絶えないこと。

三年不改:『論語』の語。三年間父の方法を改めないこと。

何日忘之:『詩経』の語。忘れる日がないこと。

煌煌然、赫赫然:『詩経』の語、明るく勢いのよいさま。

不可嚮邇:『尚書』の語:近づけないこと。

鑚燧:『管子』の語。火を使えるようになったころ。神話時代の黄帝の大昔。

未有若斯之盛:『南斉書』の語。かくまで盛んな事はない。

其可撲滅:『尚書』の語。火を消すことができる。

朱亥之椎:『史記』の話による。朱亥は危急の時にあたり40斤(約8kg)の椎で相 手を打ち殺し仲間を救った。

陳平之:『史記』の話による。陳平の家。陳平は漢初の軍略家。皇帝のために陰 謀で多くの功臣を粛清した。

數鈞之重:朱亥の椎(四十斤 約1.3鈞)をさすか。

六尺之孤:『論語』の語。未成年の孤児のこと。ここでは自分のことをいうか。

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いので、学者たちの注意も引かないかも知れない、しか しながら、要素の上での割合はかえって多数を占めてい るのである。我々は少数の名高い英雄の改革の業績より も、これら静かだが堅実に為される無名の英雄の改革の 業績に一層注意すべきなのである。これこそが、通行の 学説に注意するより、古今のすべての実例に注意すべき 最も重要な理由である。例えば錯綜の修辞法は、対偶排 列に反対する最も有効な方法なのだが、何度かの対句排 列反対運動の中では,錯綜を対句排列と並列しうる修辞 法とみなすべく提唱した者は誰もいなかった。しかしな がら、その実例のほうは夙に存在していたのである。実 際の例に注意しなければ、極めて注意すべき修辞現象を 必ずや見落としてしまうのだ。

四 修辞現象にもある誕生と消滅

 修辞法の項目もまた固定されたものではない。現在既 にあるものでもやがて消滅するかもしれず、現在はない ものでもやがて生まれてくるかもしれない。現在の情況 から言えば、例えば厳格な意味で作られる回文は既に消 滅せんとしているし、漢代以降になって生まれた蔵詞26 は、現代ではその片方は失われ、もう片方は発達してい る。このような変動の情況を知ってこそ、古来既に説か れていたものを棄てる勇気が出、古来説かれていなかっ たものを創りうる勇気が出る。それはつまり旧来使い古 されたものは敢えて避け、従来誰も用いたことのないも のを敢えて創り出す、ということでもある。一九二四年 八月、私がある人へ返答した「修辞法論の効用を論ず」

という公開書簡で以下のように述べたことがある。

 私の見るところ、修辞法論の用い方は、概ね四項 目である。⑴修辞法全体の条理を明快に理解するこ とにより、勉強するときや教えるときに作者の真意 を容易に理解できる、あるいは解釈できる。⑵修辞 法全体の条理を理解すれば、文章制作時には一般規 則を利用すればよく、他の人のものを丸写しする必 要がなくなる。⑶既にある修辞法を全面的に見るこ とで、修辞が自分のたまたま思いついたものに偏る ことが無くなる。⑷既にあるすべての修辞法を通覧 することにより、そこから進んで現在にはない各種 の修辞法を創作可能になる。

 我々の希望は、そもそも現状の保守にあるのではな く、新しいものの創出にある。従って第4項が我々の理

想といえよう。第2項、第3項は書いたり話したりの学習 に過ぎず、第1項となると読んだり聞いたりする学習に 過ぎない。もし、読んだり聞いたりすることにも修辞論 が役に立たないとすると、前人が如何に賑やかに議論し たものでも、まったく気を向ける必要はない。前人は時 には方法が大雑把で、分析は精密さに欠け、しばしば違 いは細部に止まるのに、同じものをあれこれ別なものに 見たり、 またあるものに視野を置くとしばしばその他の 大して関係の無い事項までも持ち出してきたのである。

見たころ極めて複雑にみえても、実際は極めて単純なも のもしばしばあった。例えば陳騤の『文則』27巻上丙節 の条では十種類の比喩の話が載っているが、先に挙げた 欠陥から抜けだせていない。彼らがあれこれ言ったから といって、実際には役に立たないものを大いに驚嘆した り、また彼らが未だ指摘してはいないものの実際には大 変有用なものへ注意をまったく向けないようであっては ならない。つまるところ、空談に注意を向けるべきでは なく、具体的な事実に注意を向けるべきであり、過去を 重んじるものではなく、将来を重んじるべきであり、固 定化されたものだけを見ずに、変化進展に注目すべきな のである。

 修辞法についての論述は、中国内外を問わず、従来注 意はされてきた。なぜならば、それは新しいものの創造 と関係があったばかりでなく、旧来あったものを理解す る方法にもできたからである。兪樾28の『古書疑義挙例』

が一般の人々に重視されるのも、このためである。しか し、我々が必要とするのは、更に上位のレベルであって、

伝統の桎梏ではない。口を開けば「律」とか「既成規範」

などと言う人がいて、前例から帰納される方法を、誤っ て規律とか規則とかとみなし、後世の者たちを規制して しまうよう今の情況は、我々にとって実に有害無益なの である。

更に幻想たくましく修辞法の所謂原理を応用した組み 合わせを決めて、結体増義とかなんとか、或いは正反虚 実とか、詳簡単復とか、緩急軽重とか、平直曲折とか、

整斉錯綜とかなんとかいって、修辞法を操ろうとする人 もいるが、それも実際の情況にはそぐわない空論にすぎ ない。所謂「起承転合」説と同様に、些かの言葉の末梢 現象をつかまえたに過ぎず、しかも概括性などない末梢 の現象を、滔々と語って已まないのである。我々が重視 しなければならないのはそれより一層重要な現象であ る。それはそれぞれの修辞法の組織とその機能なのだ。

これは、語法というものがでてくる以前では所謂正反虚 実をのみを言うばかりだったが、今やそれぞれの品詞の

26 蔵詞は《修辞学発凡》第七篇で提示される。

27 陳騤の『文則』:陳騤は南宋の人。『文則』は六經や諸子の文章を範例として広く文章作成上の理論を検討したもの。十種の比喩の名前の みを挙げれば「直喩、隠喩、類喩、詰喩、対喩、博喩、簡喩、詳喩、引喩、虚喩」となる。

28 兪樾(1821-1920):中国清代末期の学者、詩人。

(9)

組織や効能について語らねばならないのと同じなのだ。

もちろん、修辞現象は語法の現象よりも一層複雑で、一 層捉えどころがないので、どこから語り始めればよいの かしばしば分からなくなる。しかしながら、難しさを避 けて易きにつき、末梢の現象ばかりに目を向けるようで はいけない。分類となると、さらに説明のための方便に すぎず、本当に必要なもの以外は、あれこれ細かく分け て混乱させる必要はない。修辞法の大きな分類はたいへ ん難しく、従って最も揺れるところであった。本書でも かつて何度も改めたことがある。今回では以前の分類を 完全に棄て、以下の四類に改めた。

 (甲類)材料上の修辞法――事象材料にそって行われ る修辞

 (乙類)意境上の修辞法――心境意境29にそって行わ れる修辞

 (丙類)言葉上の修辞法――言葉を要素にしたすべて の修辞

 (丁類)章句上の修辞法――章句の構成を利用したす べての修辞

 その理由は、以上の分類によって以下のことが可能で あるに過ぎない。

⑴すべての修辞法を包摂することができる――修辞 法は修辞上の幾種かの重要なモデルあるいは代表で ある。このようなモデルは時代の好みによって変わ るし、地域によっても違ってくる。どんなに博学な 修辞学者も古今東西すべてのモデルを悉く収集して しまうことはきっと不可能だし、またどんなに詳細 を尽くした修辞学の書籍も古今東西のモデルを一冊 の中に列べきることはきっとできない。従って修辞 法の数は、著者の見解に依って、自ら取捨選択が行 われることになる。しかしながら、その分類はすべ ての修辞法を包摂していて、幾つかの修辞法を増や す時は、いつでもそこに組み込めて、類別項目を変 える必要がないようにしておかねばならない。以前 の分類では、この点で大きな問題があった。例えば 飛白30の一法を増やそうとしたとき、どの類に入れ たらよいか分からなかった。今回の改変によって、

この問題がなくなったのである。なぜならば、今回 は語文の構成や機能に従った分類だからである。語

文の構成は、如何なる時でも以下の四項を出ること はない。①その中に使われる言葉、②言葉が集めら れてできあがる章句、③材料、④意境。よって、こ の分類はすべての修辞法を包摂することになるので ある。

⑵修辞法の性質を明らかにできる――言葉に関する 修辞は言葉によって変わるものだ。漢語文の諧音(同 音による多義表現)は日本語やロシア語・英語で は諧音として上手に訳せるとは限らない。その一方 で漢語文の離合の修辞は日本語文では離合の修辞と して簡単に訳せる。それはつまり漢語と日本語の語 文の字音はそれぞれ異なっても、漢字のほうは同じ 形である為による。また材料に関わる修辞法は材料 に依って変わってくるもので、中国人は「裙」をつ かって女性の借代とする事ができるが、日本では、

「裙」は男子の借代に限られる31(新時代の女学生 を除く)、新しい分類法を用いると、このような現 象を容易に説明する便利さがある。

 とはいうものの、実際にはやはり難しいものだ。例え ば双関32は材料と言葉の間を繋ぐ修辞法であり、どちら にも入れてよい。今回は言葉のみに関わるものではない こと、また材料のほうを重視する傾向がかなりあること によって、甲類に入れている。当然ながらこれではいさ さか不自然だと言ってよいのだが、このような大分類 は、先のような末梢の現象の指摘はあっても、これ以上 のものはもはや見つけられないほど簡明で実際に沿い、

完璧で批判されるものではあるまい。これは語法のよう に単に形式や組み合わせによって比較的容易に妥当な分 類が示し得るものとはもとより異なるのだが、語法上で もこのような大分類になると、いろいろ議論が起こって くる。例えば語法上では一体詞類は何種類に分けるべき なのか、それらの詞類はどうやって虚詞と実詞の二大分 類に分けるべきなのか等といった問題については、現在 やはりそれぞれにそれぞれの主張がある。これは、現象 が本来複雑で変化に富むため、高レベルでの統合を作り 上げるのが容易ではないからなのであって、決して人間 の力が及ばないというわけでない。幸い語法のこのよう な大分類は、多くは排列の順序にのみ関係するので、う まく説明し誤解を招かないようにしさえすれば、それで 十分だと考えてよい。修辞法の区分となると、国外では 概ね決まっていて、しかも蓄積厚く覆せない形勢で、中

29 意境:境は〜の領域/ 〜の世界という意味を示す。従って情況が情景の世界の意味となるように、意境は心情意識の世界、領域、境地を指す。

心境と列べて使われているが、ここではほぼ同じ意味。

30 飛白:文字・発話を間違えたままわざと進める修辞法。

31 陳望道は「日本では、裙は男子の借代に限られる」というが何を指すのかよくわからない。日本ではかつて女性が「裙」をつけることは ほとんどないこと、僧侶が身につける裳のようなものを「裙子」と呼んでいたことから、男性の僧侶の借代にはなり得そうだが、一般化 していたものか不明。

32 双関:ひとつの語に二つの語義を含ませること、かけことば。

(10)

国のように蓄積がまだ浅いという情況ではない。私はこ の機会に古来の実例及び現在の習慣と自然の決まりに基 づき、大体の合併や分離を加え、比較的容易に理解でき、

容易に記憶でき、さらに外国の修辞法と容易に対照でき る区分を作り上げようと考えた。本書の排列などは、こ の区分けの小さな試みである。その中の分合の情況は本 書で講じた修辞法を、唐越の『修辞格』という別の書籍 と比較してみれば、その大概が分かる。『修辞格』はほ とんどを国外の修辞区分法に従った書である。今本書で 説く初めの二つの修辞法、つまり比喩と借代を、『修辞格』

に述べるものと列べて対照表を作れば以下の通り。

  本書       『修辞格』

         明喩   顕比(simile)

  譬喩     引喩

       隠比(metaphor)

         借喩

         傍借   伴名 (metonymy)

  借代 

         対代   類名(synecdoche)

 本書ではわが中国に昔からある修辞説に対しても同様 の分合法を応用している。外国のまたは昔からの修辞説 に興味を持つ方は互いに参照してほしい。

 五 さらに各種各様な使用法

 以上述べたほとんどは概ね言語や文章の可能性を利用 することに関しての領域である。言語や文書の面での使 用にあっては、すでに複雑に枝分かれして、変化もさま ざまである。題意や心情世界への使用となると一層各種 各様だ。仮にこのような使用を徹底して分析できると考 える人がいるとすれば、その人は作者の思想や意識の全 領域、作者の経験や人生の全分野を具体的にまた正確に 見出すことができるであろうし、一方その作文の性質に ついては、科学的な分析と科学的な評価を与えられ得る ものとなる。もちろんこれはあまりにも誇張された話 だ。しかし、作者の思想や意識の領域、経験や人生の領 域については、確かにこの適用の中から見いだすことが できる。例えば「穀物を積み飢餓に備える」の語は、我々 の思想や意識の上では子供を養うこととは何の関係もな

いし、また子供を養うことがまた老後にそなえることと 何の関係もないのだが、昔の諺では、「穀物を積み飢餓 に備える」といえば「子供を養い老いに備える」事の喩 えとしていた。また、例えば地名「柏人」がなぜ「迫人」

となるのか、酒の肴に魚を用いれば、なぜ「富貴余り有 り」となるのか(例は「析字」を参照)、舟の進行には かならずや「住」とか「翻」とかの語を避け、「住」の 類似音の「箸」は「快」と呼ばれねばならないのか(例 は「避諱」を参照)33。こんなことは我々にとっては何 の意味もないように思われるのだが、過去の作者の中に はしばしばそれを語感として持つ者がおり、しかもその 語感は極めて強固なもので、用いてはならないあるいは 避けなければならない程のものであった。このような例 からは、作者の思想や意識の様相を概ね見いだすことが できる。ところが、これがずっと使われていくと、往々 にしてもとの言葉を圧倒してしまい、もとはそんな意味 はなかったものも、そう言わざるを得なくなる。すなわ ち「快」の語がその例である。「快」(箸の意味)は現在 では既に竹冠がつき「筷」 となり、「筷児」とか「筷子」

(箸)とも呼ぶ。一般の人々の会話では既に「箸」の語に 取って代わり、日常語となってしまって、もはや修辞現 象とはいえない。とはいえ、人によっては、それを「縁 起担ぎの表現(口采)」と見なそうとするかも知れない。

日常言語にはそもそも「縁起担ぎの表現」によってつけ られた名前もあるからだ。例えば水を貯めて火事に備え る水がめを太平缸というし、死体を置いて納棺を待つ家 屋を太平房といい、緊急時に備える非常口を太平門(或 いは安全門)というなどは、逆の意味の語を使って忌避 することで、いわゆる縁起担ぎの心理を満足させる実例 の一種である。

 このような使用のしかたから我々は作者の地位の違い を見いだすことができる。例えば同じような婉曲な表現 でも触讋が趙太后に対する言葉遣いの場合、自分の死を 婉曲に言うときは「溝壑を填める」といいながら、太后 の死を婉曲に言うときは「山陵崩れる」と言っている。

一方司馬遷の言葉遣いでは、任少卿に対して言うとき、

恐らく自分が遠からず死ぬだろうと予測していても、た だ婉曲に「卒然たることの諱けがたきを恐れる」と述べ る程度なのだ34。さらに立場の違いも見いだすことがで きる。例えば、同じような誇張表現でも、劉佬佬35はそ れを使って賈家を持ちあげるし、『儒林外史』36の作者 はそれを使って儒学者の世界を諷刺するのである。この ほかに、人に対する態度の違いなどもある。諷喩をつかっ

33 「柏人」と「迫人」、「魚」と「富貴余り有り」:『修辞学発凡』第七篇積極修辞三析字参照。 「箸」と「筷」の関係については第六篇積極 修辞二八避諱参照。

34 触讋の話は『戦国策』趙策四、司馬遷の語は「報任少卿書」参照。

35 劉佬佬(劉ばあさん)は、賈家を舞台とする曹雪芹による小説『紅楼夢』の登場人物。「佬佬」は「老老」「姥姥」と書く時もある。

36 『儒林外史』:清代の長編小説。呉敬梓(1701-1754)作。科挙をめぐる士大夫の行動を描き、当時の社会を諷刺した小説。

参照

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