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著者 大江 泰一郎

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モンテスキューと講義体系の転回問題 (田中克志先 生退職記念号)

著者 大江 泰一郎

雑誌名 静岡法務雑誌

巻 6

ページ 83‑118

発行年 2014‑03‑31

出版者 静岡大学法科大学院

URL http://doi.org/10.14945/00007824

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■ 論

アダム・ ス ミス『法学講義』 における私法 と公法

― モ ンテスキュー と講義体系 の転 回問題

大     泰一郎

目次

はじめに一―『法学講義』 における私法 。公法問題 1「 シヴィリアン」 ・ 法史家 としてのモ ンテスキュー

は )『 法の精神』 一体系 と所有権

鬱 )所 有権概念 と権力分立理論 ―「 アラブ人、 タタール人」

2  アダム・ ス ミスの転回―― 自然法か ら比較法・ 法史学ヘ に )「 正規の統治」あるいは「市民的統治 J

② 所有権・ 裁判権・ 議会

3  専制 ロシアにおける公法 と私法

に )プ ラデー ミルスキー=プ ダーノフ『 ロシア法史概説』 (1886年 初版 )

12)ス ペ ランスキー「国法典序説 J(1809年 ) むすびに代えて

は じめに一―『法学講義』における私法・ 公法問題

アダム・ ス ミスは、 グラスゴウ大学の道徳哲学の教授 として 1763年 に行 った「法学

jwisp■ ldcnce」 講義 において、 これを記録 した学生のノー ト (い わゆる「 Bノ ー ト J)

によれば、法学講義 の構成、 とくに所有権、 これを中心 とす る私法 と、統治形態 (政

体 )と の、展開順序について次 のように述べている。

A〕 自然権 の起源 は、非常に明白である。人がその身体を侵害 されないように して お くこと、彼の自由を正統 な理由がないのに侵害 されないように してお くことに ついて、権利をもつ ことは誰 も疑いをもたない。 しか し、所有権のような取得権 については、それ以上の説明が必要である。所有権 と政治的統治 civil gov∝ nent は、相互 に大いに依存す る。所有権 の保存 と財産 posssessionの 不平等が、最初 に

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政治的法的統治を形成 したのだ し、所有権の状態はつねに、統治の形態 ともかか わ っていたに違 いない。大陸の法学者たち civiliansは 、統治の考察か ら始めてそ のあとで所有権およびその他の権利を取 り扱 う。 この主題 について書 いたその他 の人びと 〔グロティウスやプーフェンドルフら、 自然法学者〕 は、後者それぞれ か ら始めて、そのあとで家族 と政治的法的統治を考察する。 これ らの方法には、

それぞれ固有の長所がい くつかあるが、全体 として ローマ法 〔 大陸法〕 the civil law

の方法が優 っている (LJAll;Hb310)。

この 1763年 の講義 (そ の第 1部 )は 、大枠でみれば確かに「司法」 「公法学」か ら「家 族法」 「私法」 「契約」へ と展開されているが、 これに先立つ 1762‑63年 の法学講義 は、

これ も残 っている学生のノー ト (い わゆる「 Aノ ー ト」 )に よれば、ほぼ逆の展開をみ せている。 この講義の組み立ての逆転 は何を意味す るか ?  ここには、 ス ミスにおけ る経済学の形成 の筋道の問題 はさしあたり別 として も、法学の視角か ら見て、西欧法

(「 正規の法」 )の 構造 とそれについての認識、あるいはそれについての説明の論理 にか かわ る重要 な問題が潜んでいるよ うに思われる。 )。 この問題 を解 くことが非西欧法

(「 正規」 とみなされない法 )の 理解にとって も有益な視点を提供するように考え られ る所以である。

ところで、 この引用文中の「 この主題 について書いたその他の人 びと」 とは、講義 その ものの文脈か らグロティウス、 プーフェン ドルフらであることが分か る。 ところ が、他方の「大陸の法学者 たち」 は、むろんグロティウスやプーフェンドルフを含む はずであるが、彼 らとは何 らかの意味で区別 されるローマ法系の学者 となると、誰 を 指すのかはけっして 自明ではない く 「 ローマの法学者」でないことだけは確かであろ う )。 文字通 りの「 シヴィリアンズ」つまリローマ法学者 たちを念頭 におけば、彼 らは ほとんど例外な く、 もっぱ ら私法の体系のみを論ず るか、そこか ら公法 に及ぶ場合 も 私法か ら公法へ という学問体系 の展開を採用 して きたか らである 131。 だが、私法 。公 法 とい う枠組の先後関係か ら少 し距離をとり、 この引用文のニュアンスをそのまま素 直に受 け取 り、虚心 にス ミスの言 う通 り「統治形態」 (政 体 )と 「所有権」の相互関係 の取 り扱 いに関心を集中 してみると、政体論か ら始めてのちに所有権 を考察す るとい う方法を採 った学者 は (ス ミスは civiliansと 複数形を用いているにもかかわ らず )、 実 はほとん どひとり、 モ ンテスキューに絞 られて くる。

本講 は、 こうして得 られる、西欧法に固有の構造に関するアダム・ ス ミスとモ ンテ

スキューの研究方法の接点、 とりわけモンテスキューの東洋的専制 を含 めた 3政 体論

の枠組の合意 とこれに関す るアダム・ ス ミスの把握、講義体系の転換 に着 目し、 そこ

か ら得 られる有益な示唆を出発点 として、西欧法 とは異質の、「所有権」、 いわゆる私

的所有権の秩序 という前提を もたず、 したが ってまた「主権 J概 念を含め政治的 =法

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的統 治 の構 造 を と らな い、 ロ シア固有 法 の研 究 へ の手 懸 か りを模 索 す る こ とを 目的 と す る。

政体論か ら出発 して近代的所有権形成史 に至 るというモ ンテスキュー『法の精神』

体系の展開方法 は、 じつは論 じられ ることがほとん どない )か ら、 まず、 この問題の 考察か ら出発す ることに しよう。

1  シヴィリアン・法史家と してのモ ンテスキュー

モ ンテスキューが、その教育や法服貴族 (ボ ル ドー高等法院副院長 )の 実務か らし て も、『 ローマ人盛衰起源論』『 法 の精神』などの著作か らみて も、大陸の法律家

(c市 ilians)の ひとりであることは間違 いない。だが、 モ ンテスキューの作品、 とりわ けその主著『 法の精神』が所有権の問題、 とくに近代「 フランス法 J成 立史 における 近代的所有権 の形成を詳細 に研究 した仕事の成果であること、 『法の精神』全体の構成 はフランスにおける「 自由な国家」 の可能性 にかかわるこの問題を軸 に していること は、必ず しも周知 のことが らではない 152。 まず この点 をここで改めて確認 しておこう。

(1)『 法の精神』 一体系 と所有権

まず、主著『法の精神』の組み立 てはどうか ?  ここでは、その詳細な説明 (0を 繰 り返す ことはで きないが、あ らためてその成 り立ちを叙述の順序 に即 して ごく大 まか に区切 るとい う仕方で整理 してお こう (モ ンテスキュー自身の全 6部 編成を、 さらに 大掴みに 4つ のプロックに分 けて整理 してみたい )。

第 1プ ロック (『 法の精神』第 1編 のみか らなる全体の総論部分 )一 ― ここでは、

本書全体の展開を規定す る原理 (方 法的枠組 )と して、く 客観的事実 (「 風土」等々 )

→「政体 J→ 「 法律」〉 の連関、く 「習俗 m∝ urs」 →「法律 loisJ〉 連関 と西欧における

「 法律」の司法的由来 (「 正義」「衡平」の諸関係の先行性 )、 法律形成 における「国家 的状態」 (力 の結合 )→ 「 市民的 =政 治的状態」 (意 思の結合 )の 2段 階的進行、など が提示 される。 『 法の精神』の、いわば社会学的・ 唯物論的基礎づ けが行われるわけで ある。

第 2プ ロック (同 第 2編 〜第 8編 )一 ― 政体論、つま リアダム・ ス ミスのいう「統 治形態」の問題を考察す る。広 く人類史 に照 らして「 自由な国家」 の可能性を考察す るために、東洋的専制 oHental despotismを 含 めた比較法史ない し比較政治史 (古 典古 代の共和政つまリアテナイの民主政 とローマの共和政、 アルプス以北 の君主政、アジ

ア・ ロシアの専制 の 3政 体 )が 考察の対象 とされる。 この視野 の拡大 は、一方ではフ ランス絶対主義 の暴政 らrannyな い し専制への傾斜の危険性 とその現実的可能性 (こ

E J

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の傾斜 の限界 )を 吟味す るとい う意味を もつが、他方 では、西洋的な「法律」 のいわ ば異質性 (非 普遍性 )と その形成要因・ 意味を意識す ることにな る。 ここで、歴史上 ほとん ど初 めて、政体論 に接続す る形で比較法 の各論的な叙述が展開 され、 その中で 専制国家 の法 に も議論が及 ぼされ る。

第 3ブ ロック (同 第 9編 〜第26編 )一 ― 各政体 ごとの法律 の考察か ら一端離れ る が、政体論 の枠 を維持 しつつ、   トピック別 に法律論が展開 され る。軍事 。政体 の安全 (防 衛力 )、 軍事・征服 (攻 撃力 )、 国制 と政治的 (=法 的 )自 由、市民 と政治的 (=法

的 )自 由、租税・ 歳入、風土、市民的奴隷制、家内奴隷制、政治 的隷属 と風土、土地 の性質、国民 の一般精神・ 習俗・ 生活様式、商業、貨幣経済、住民 の数 (種 の増殖 )、

宗教、 「事物 の秩序」と法律、とい った諸主題がそれである。 ここで西欧的な法律 とア ジア的な「法律 Jと の違 いが比較法的に多方面か ら論 じられ、西欧法 の自己認識が深 め られ る。 これ らの系列 の中で、第 19編 「 国民の一般的精神、習俗 および生活様式 を 形成す る諸原理 との関係 における法律 について」 と、第26編「 その規定す る事物 の秩 序 との間で もつべ き関係 における法律 につ いて Jと が、 それぞれ比較法研究 の成果を 踏 まえた、一種 の中間的・ 理論的総括 の意味を担 うもの とな っている。

第 4プ ロック (同 第27編 〜第31編 )一 ― フランス法制史 に即 して近代的所有権 と

「 フランス法」の形成が、 ローマ共和政 の再興で はな く、新 たに「 ゲルマ ンの森 Jに 起 源を有す るもの、 「 ゴシック (ゴ ー ト族的 )政 体」 の変遷、 「 フランス法」 の成立 (=

イギ リス 。モデルヘの接近 の可能性 )、 とい う文脈で分析 され る。

以上 の展開をさ らに巨視的に俯政 してみれば、第 1プ ロ ックは別 と して も、アダム・

ス ミスが言 うよ うに、 「統治形態 J(第 2・ 3プ ロック )か ら「所有権」 (第 4ブ ロ ック )

へ、 とい う展開 はそ こに容易 に確認で きるであろう。第 4プ ロックが所有権史である ことを、 いろいろ回 り道 を しなければな らないが、 もう少 し立 ち入 って説明 しよ う。

まず、 この第 4プ ロックが、 引証基準 とな るローマの相続法 の考察か ら始 まること に留意す る必要がある。相続、 これによって維持 され る家 ない し家族 (と もに原語 は falmillcs)が 、所有権制度 の歴史的変遷 をたどる際の軸 となる。 「家 la fanlilleは 一種 の 所有権 である」 (EL23 4,Nb35び つ )。 相続法 の如何、 とくに相続 (処 分 )の 可能性が所 有権制度変遷 の最 も重要 なメルクマール とな ることは、第 4プ ロ ックの最終編最終章 において、次 のよ うにモ ンテスキューが言 う通 りである。 『法 の精神』エ ピグラフに も い うよ うに、これがモ ンテスキ ュー自身が 自 らの作品の最 も重要 な美質 (「 母無 くして 生 まれ し子」 Na30)と 認 める点 だ ったのであ る。

B〕 封地が取 り上げ 〔 封主 による回収〕可能か一代限 り 〔 相続不可〕かであったと

きは、封地 はほとん ど国制の法律 lols pol■ iqucs〔 =公 法〕のみに属 していた。そ

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の当時の市民 (民 事 )の 法律 において、封地 に関する法律 にはとんど述べ られて いないのは、そのためである。 しか し、封地は、世襲的になり、贈与 されること も売却 されることも遺贈 されることもで きるようになったとき、国制の法律 にも 市民 (民 事 )の 法律 に も属 した。封地は軍事的奉仕の義務 と見 られることによっ て国制 の法律 に属 し、取引される財産の一種 と見 られることによって市民 (民 事 )

の法律 に属 した。 このことは封地 に関す る市民 (民 事 )の 法律 lols dviLsを 生み 出 した。

封地が世襲 になったので、相続順位 に関す る法律 は、封地の永代性 〔 =脱 封地 化〕 と関係せざるをえなか った。 このように して、 ローマ法およびサ リー族の法 律 〔 =古 ゲルマン法〕の規定か ら離れて、 『 伝来財産 〔 =家 産 としての封地〕は 〔 封 主 には〕復帰 しない PrOpres ne remontcnt pomt18)』 というあの 〔 近代〕 フランス法 の原則が成立 した。…… この 〔 近代法の〕原則 は、初めは、封地 についてのみ成 立 したのであった CL31‐ 34 Nc461)。

封建制 の変容、土地保有 (封 地 )の 処分権イ ビカつ まり近代的所有権の形成 は、近代 的市民法 =「 フランス法 le drOit ian9dsJの 成立 (Nc461)を 告げるものに他な らな い。 9。 この市民法成立の次第への考察を、モ ンテスキューははや くもその出発点 (「 大 地を掘 る」歴史学的作業の起点 )か らアエネーアースの旅 (ロ ーマ建国伝承 )に なぞ

らえ、 『 法の精神』全編の最終章、フランス法成立の確認を、印象的な約束の地到達の 声「 イタリアが見える、 イタ リアだ Italialll,ItaliamJで 結ぶ ● c2861462)。 ローマの 共和政 とその法が この歴史を遡 る旅の導 きの星であることが真 っ直 ぐに表明 されるわ

けである。

ここに見 る近代的所有権、 フランス法の成立 は しか し、市場経済 (モ ンテスキュー のい う「商業」 )や 経済的 自由主義、ま してや資本主義 といった経済的要因によって も た らされた ものではない。 ここで も参照 され るべ き基準 は、 「 全世界のために法律 を 作 った」 (3Tb280)ロ ーマのケースである。「 ローマ人の商業に対す る執着が指摘 され たことは決 してない。¨… .彼 らの天分、彼 らの栄光、彼 らの軍事教育、彼 らの政体 は 彼 らを商業か ら遠 ざけたJ(EL21‑14,Nb271,272)。 ローマの偉大 さを可能に したのは その政治、その共和政体であるが、共和政体を可能 に したのは土地 の平等 な分配であっ た。 「 古代共和国の創設者 は土地を平等に分配 した。これによってにみ人民 は強力にな りえた、すなわち社会 はよ く統制 されえたのである」 「 ローマを最初にその低迷状態か ら脱せ しめるのに役立 ったのは、土地 の均等分配であった。 そ して、 この ことはロー マが没落 し始めた時、はっきりと感 じられた。 1し 、 とモ ンテスキューは言 う。

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(2)所 有権概念 と権力分立理論 ―「 アラブ人、タタール人」

ローマは行論上の引照基準ではあっても、 18世 紀 フランスにおける「 自由な国家」

の保障ではもはやありえない。共和政 ローマが基準 とな りうるのはもともと、その政 体 gouvemenentが 「誕生以来、人民の精神、元老院の力、そ して複数の政務官の権威

〔といった三者間の抑制 と均衡〕によって、権力のあ らゆる濫用を常に是正で きるよう な働 きを保 っていた」か らであるが、 自由で活発な政体の もつ こうした「固有の法則

propres lois」 を現代 において体現 しているのは名誉革命後のイギ リスの混合政体で

あって、そこでは「政府 をも自分 自身を も不断に監視 している一団体 un cOTS」 ヽつま りまさ しく共和政的機関 としての議会、とくに民主政の契機をなすその庶民院 こそが、

この「 賢明な」政体の成立を可能にしているのだ、 とモンテスキューは見 る。つ。

因みに、 『 法の精神』第 11編 第 6章 の権力分立論 は、原理的にその分割を許 さない主 権概念 とは相容れないかに しば しば理解 されるが (確 かに主権概念の使用 についてモ ンテスキューは慎重であった )、 彼 は同時にイギ リスに成立 した議会主権 (「 議会 にお ける国王」 )を それはそれ として正確に把握 していたことも見落 としてはな らない。三 権分立 の理論を展開 したい くつか後の章で、彼 は「国民の代表者 によって構成 された 立法府」を有するイギ リスの政体を、 「 ゴー ト的 gothique」 つまリゲルマ ン的な ものと して論ずる文脈か ら、 この政体 (庶 民院、貴族院、そ して君主 )を 、 「人民の市民的自 由 h lbert6 d宙 お du peuple〔 ≒主権、その構成の中核部分〕、貴族 と聖職者の特権、国 王の権力 puissanceの 三者がよ く協調を保 っている」ものとして捉え、これを「人間の 想像 しうる最良の種類 の政体」 と呼んで もいるのである。つ (ELll‐ ■ Na309‑310)。 権 力分立 の「政治体制」 とくにその議会制度がそ うであったように、 この主権の構造を も、モ ンテスキューは、ローマの基準 (タ キ トゥス『 ゲルマニア』 )に 照 らして これを 評価す る 〈 Na306,309)。 「 自由な国家」の引照基準 (モ デル )は こうして、 ローマと ゲルマ ン的なものとに二重化す るのであるが、 この両者 には、政体のいわば共和政バ ネ (民 会ない し議会の役割 )と 、 またローマ法 とイギ リス法 (コ モン・ ロー )と いっ

た、同 じ法曹法、裁判由来の法 としての性格 とが、通底 している。モ ンテスキューの イギ リス政体論を理解す る上でわれわれが留意すべ き点であろう。

ここで 1つ 直面する問題 は、 イギ リスの議会主権 に象徴 されることで もあるが、法 曹法 (非 成文法 )の 伝統 を有す る国にもその予兆がみえる立法 (議 会制定法 )の 時代、

法形成の論理が大 きく転換 しようとしている時代に、議会 という制度が法形成の構造 の中にどのように位置づけられるか ということである。裁判権の独立 とい う権力分立 理論の要諦 は、この問題への 1つ の解答で もあろう。だが、 「意思」の表明その ものは、

専制国家の「法律」ではあって も、法の精神 に合致する法律ではない、 という判断が モ ンテスキューにはある。実定的な法律は、予め存在する「正義の可能的な諸関係」

「衡平の諸関係」(Na41)を 後 になってか ら確立す るものに他な らないか らである。そ

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の経緯を説明す る余裕 はいまないが、モ ンテスキューが この問題 に与えた解答 は、ル ソーの主権論 を先取 りすることになるが、立法機関は「国家の一般意思 Jだ とい うも のであった。法 の精神か らみて、受容可能な意思 による立法があ りうるというわけで ある。 「 一般意思」 はひとりの意思ではな く、団体 corpsの 、合成 された意思である。

その「一般意思 Jは どのように して形成 されるのか ?  モ ンテスキューは直接的な解 答を与えてはいなようにみえる。 この概念 は自然法理論、 とくにグロティウスに由来 す るが、 「事物 の本性 に由来す る必然的な関係 Jつ まり自然法則 と同 じ水準 において 「法 律」 loisの 在 り方 を考察すべ きことを標榜 して研究を開始 したモ ンテスキュー (ELl‑1;

NB9)は もはや 自然法思想の狭 い地平を脱 してお り、擬制的な社会契約の思想 に与す ることもできない。モ ンテスキューはこの場面で、法律を成 り立た しめる一般意思の 基礎づ けを、 いわば歴史的・社会学的に解明せざるをえな くなっている。

モ ンテスキューが この場面で到達 し、やがて『法の精神』全体の背骨 となった構想 が、①「国制 (統 治 )の 法律 Jと ②「市民 (民 事 )の 法律」 との区別 と関係の見方、

'「 国家状態」 と② '「 市民状態」 との区別・ 関係の把握であ った。 モ ンテスキュー は、「国制の法 drOi pO■ tiquc」 (治 者 。被治者関係の法律 )と 「市民法 drOit civil」 (市

民相互関係の法律 )と の違 いに触れたあと、 グラヴィーナの著作 に仮託 して、次によ うに言 う。

〔 C〕 あ りとあ らゆる社会 に関係す る万民法の他 に、各社会 のための国制の法 un drO■

poliiqueが ある。社会 は統治な しには存続できないであろう。 「個々の力すべて結 合 union dc toutcs lcs forccsが 『国家状態 ぬ t politiquc』 と呼ばれるものを形成す

る」 とグラヴィーナがまことに正 しくも言 っている。 (I■ 1‐ 3:Na47)

〔 D〕 個 々の力 は、すべての意思 tOutes les v。 1011t6sが 結集す ることな しには、結集 し えない。 「 これ らの意思の結合が『 市民状態 6tatcMl』 と呼ばれるものである」 と グラヴィーナがまたまことに正 しくも言 っている。 (EL1 3;Na48)

これ ら2つ の命題の関係 は、力の結合が或 る意味で意思の結合を前提す るかのよう なニュア ンス もあ って微妙であるが、 ここでは論理的かつ歴史的に、①国家状態→② 市民状態 とい う順序の連関 (力 の結合①な しには何事 も始 ま らないが、②の「すべて の意思が結集す ること」が達成 されて、改めて①が正当な国家状態、モンテスキュー が市民的ない し政治的統治 gouvcmement civilと 呼ぶ ものとして確立 され る )、 が想定 されているもの と理解 してお こう。つ。留意すべ きは、① o② の区別 。関係 という問題 において、 ここでまた奇 しくも、 あの、 アダム・ ス ミスが指摘 した、統治形態か ら市 民法 (私 法 )へ という順序 の問題の一端が表出されているとい うことである。だが、

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①→② の歴史的進行 は、いずれの人民 において も可能 な ものではない。 「 一般的な力 〔 =

結合 した力〕 は 1人 の手中におかれ ることも、 あ るいは数人 の手 中におかれ ることも 可能である」、つま り統治形態 (政 体 )は 多様であ りえ、 「社会 は統治 〔 =① 〕 な しに は存続 しえないであろ う」が、 「 すべての意思 の結合 J(=市 民状態 ない し市民社会 な い し政治社会の )し たが ってまた「 市民 の法律」 (=市 民法 )は どこで も可能 な もの だ とい うわけではない。 「市民状態 J「 市民法」はどのよ うな条件 の下で可能 になるか ? こうした意味では、 2つ の命題 は、 ある意味で比較法的考察の手続 を も示 唆す ること にな る。 この問題 の解明が、 さまざまな トピックの下 に展開 され る『 法 の精神』第 3 プロック (同 第 9編 〜第26編 )の 主題 なのである。軍事、政治的 自由、租税、風土、

奴隷制 ない し隷属、土地、商業、宗教等 々の トピックが試 され るが、問題解明への手 懸か りが示 され るのは、第 18編 「 土地」 トピックにおいてであ り、 しか もいささか思

いが けない仕方 によってである。

この第 18編 中、第 13章 では、「民法典 lc code c市 il〔 =ロ ーマ法大全〕 を とりわ け膨 大 な もの と しているのは土地 の分割 〔 =市 民資格 の前提 としての公有地 か らの土地分 与〕 である。 このよ うな分割 を行わない国民 にあ っては、民事 の法律 はご くわずか し かないであろ う」 (EL8 1■ Nb126)と い う観察が まず示 され、 ローマ以外 の国民 にお

いて「 民事 の法律 J、 市民法 は可能か、可能 であるとすればどのように してか、とい う 問題が提起 され検討 され る。 ローマ的な土地 の分割 を行わない国民 として は、 ゲルマ ン人 と「 アラブ人、 タタール人」が ともにひ とまず一括 りの「牧畜民族 lcs pCuplcs

ptttcurs」 として想定 され る 0脱 26‑127,131)。 結論 としては、市民法 はア ラブ人・ タ

タール人 で はな くゲルマ ン人 にお いてのみ形成 され た とい うことにな る。 なぜか ? 判断の根拠 とされるのは、 フランスにおいて「 王国の基本法」 の中核 と見 なされて き たいわゆるサ リカ法典 la 10i saliqllcの 諸規定、 その解釈 である。 モ ンテスキ ューによ れば、女子 の相続 (=王 位継承 )を 制限 して封地 (=封 建制 )を 確立 したのはサ リカ 法典 で はな く、逆 に「 封地 の確立 Jこ そが女子 の相続 とサ リカ法典 に制限 を加 えたの であるが、 そ こに「民事 の法律 の規定 〔 =相 続法〕が国制 の法律 〔 =王 位継承法〕 を も拘束 した」 という連関の構造が見出 され る (EL1822,Nb140‐ 141)。 つ ま り、 ゲルマ ン人の歴史 において は、 ローマの場合 とは異 な り、建国の初 めにおける土地分与 で は な く、 フランク時代 よ り後の封建制 こそが、市民法を、つ まリローマ法大全 に代 わ る ものを、基礎づ けることにな った とい うのである。近代的所有権 と「 フラ ンス法」 の 形成を、 さまざまな トピックの 1つ としてではな く、正面か ら主題的に扱 うのが『 法 の精神』第 6部 であることはすでに見 た通 りである。事物の秩序 において は「市民法

〔 私法〕が統治構造 〔 公法〕を制約す る Jと い う構造が見 られ るに して も、 この連関 の

構造認識 は、多様な統治構造か ら出発 して、市民法 はいかに形成 されたのかを問 う手

順 を経て、獲得 しえた ものだ ったのである。

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この予備的結論 と「 一般意思」 とはどのよ うに結 びつ くのか ?  サ リカ法典 を考察 した第 18編 で はその終末近 く (EL18‑30)に な って、 タキ トゥス『 ゲルマニア』 およ びカエサル『 ガ リア戦記』 の記述 に即 して「 フランク族 における人民集会」 (Nb151) が想起 され、第 11編 第 6章 のイギ リスの国制 (権 力分立 と議会制度 =「 一般意思 J)へ の繋が りがかすかに示唆 され る。議会制度を軸 に、考 えてみよ う。

示唆 はまだ微 か な ものに止 まっている (人 民集会がそのまま議会 の祖型 とされ るわ けで はない )。 ここか ら、前記、第 11編 第 6章 、イギ リス議会 の「一般意思 Jへ と論理 をつ なげるためには、 いわば 1つ の ミッシング・ リンクを明 るみに出す必要 がある。

イギ リスの庶民院が「所有権 の代表」 であるとして も、「代表」「議会」 とい う仕組 は どこか ら来 たのか とい う問題が、まだ解明 されていないので ある。古典古代 (ギ リシャ、

ローマ )の 「民会 Jで はあ りえない。古 ゲルマ ン人 の「人民集会」 も範型 にはな りえ ない。権力分立 の章 〈 ELll‐ 6)に おいて、 モ ンテスキ ューはい う。「 〔 議会 とい う場 に おける〕代表者 たちの もつ大 きな利点 は、彼 らが諸案件を討議 で きることであ る。人 民 はそれ には全 く適 して いない。 これ は 〔 古代地中海 と「 ゲルマ ンの森 Jの 〕民主政 の重大 な不都合 の一つをな してい る」● 296)。 それで は「討議 discuterす る J能 力 は どこで陶冶 された とい うのか ?  この問題 をモ ンテスキ ューは、 じつ はイギ リスの議 会 に話が進 む前 に、 あ らか じめ処理 している。

第 6編 は、標題か らして も、民事・ 刑事 の法律 の単純 さ、裁判手続、刑罰 と政体の 原理 との関係 な ど、やや雑多な印象 を生 みかねない。 ほとん ど孤立 した位置 に「 裁判 の仕方 につ いて Jの 章 (EL64)が ある。 モ ンテスキ ューによれば、裁判役 (判 事 )

の役割、裁判 の仕方 は政体 によって大 き く異 なる。第 H編 第 6章 で も裁判役 は当事者 の「同格者 pCrs」 (Na294)で あることが指摘 されていたが、 ここで も「君主政 におい ては裁判役 は 〔 当事者 と同格の〕仲裁人 albi¨ sの 仕方 を とる」 もの とされ、この仲裁 人 たち (複 数 )の 裁判 の仕方が次 のよ うに説明 され、 ローマ、 ギ リシャとの違 いが強 調 され る。 「 彼 らは合議 し、互 いに意見 を交換 し、たが いに妥協 しあ う。自分 の意見 を 他人 の意見 に一致 させ るよ うに修正す る。少数意見 は二つ 〔 賛否 の〕 の多数意見 に合 流 させ られ る。 この ことは、 〔 古代 の〕共和政 の本性 には属 さない」 と 鰊 a164)。 複 数裁判役 の「合議」 の意 味す るところは、ゲルマ ン人 の裁判 では トル コの総督 の裁判 とは異 な り、 ヨー ロッパでは「裁判役 は決 して単独で は裁判 (=判 決 )し ない Jこ と であると、後 に繰 り返 し強調 され る通 りである (EL28‐ 42,30‐ 18,:Nc250,330)。

近代 イギ リスにお ける議会 のモデルが中世 ヨー ロ ッパ にお ける領主 の下級裁判権

(16世 紀 の歴史家 シャルル・ ロヮゾーのい う「村 の裁判所」 )で あ ることは、 モ ンテス

キューが これを ヨーロッパ における「一 つの一般的な政治 システム Jと 呼んでいるこ

とか らも明 らかである。 これが「 政治 システム」 であ るとい うのは、 その原型が「 ゲ

ルマ ン人 の慣行 と慣習法」つ ま リゲルマ ン人 の裁判集会 (政 治集会)mallus,Dlllgに あ

(11)

り、 この手続を領主が「 纂奪」 したとされてきたものであり、そこか らよ り「一般的」

な ものに発展 したとみなされるか らに他 な らない。 0。 次章でみる、イ ングラン ドの下 級裁判所の「人民的 J「 民衆的」な性格、立法権へのその発展 というス ミスの着 日と構 想 も、 もし偶然の一致でないとすれば、 このモ ンテスキューの見方 に倣 った ものなの である。

2  アダム・ スミスの転回―― 自然法論から比較法・ 法史学ヘ

『法の精神』 におけるモンテスキューの議論が、政体論、それ も比較政治論的ない し比較法的な政体論か ら近代的所有権形成史 (封 建制変遷史 )だ ったとして、それが アダム・ ス ミスの法学講義 にどのような影響を及ぼ したのかが、次 に考察 されなけれ ばな らない。先回 りして結論をここで予示 しておけば、 Aノ ー トで採用 していた自然 法論の枠組 と 4段 階歴史論が、モ ンテスキューの比較法、 とくにゲルマ ン法 と「 アラ ブ人およびタタール人」の法 との対比か ら影響を受 け、 Bノ ー トではモ ンテスキュー 流の比較法に置 き換え られ、 「 市民的統治 Jと 「市民的」ではない統治の意味 とが精密 化 されるのであるが、 これによって「法学講義」の体系構想そのものが転換す る、 と

いうことになる。

(1)「 正規の統治」あるいは「市民的統治」

まずは、 この変化がモンテスキュー『法の精神』に触発 されたものであ った ことの 証徴を確認 しておきたい。本稿の初めに掲 げたス ミスの Bノ ー トの記述 (引 用 A)を 、

ここで もう一度想起 しよう。 「 自然権の起源 は、非常 に明白である。・…¨しか し、所有 権のような取得権については、それ以上の説明が必要である」、とそこでス ミスは述べ てぃた o7、 所有権はAノ ー トにおけるような自然権、生得の権利ではな く、 ここでは 人が社会的行為によっていわば歴史的に獲得 (「 取得」 )し た権利 として位置づけなお されているわけである。 自然権 は人間の「 自然」つまり理性 によって基礎づけられた もの として普遍的に形成 されるものである。 Bノ ー トにおいて も法学 は「すべての国 民」の法律の基礎であるべ き「 一般原理」を研究する学問である CHb 17)と い う講義 の自然法学的な目標 は維持 されているが、 Aノ ー トか らもすでに知 られるよ うに、所 有権 はそのような普遍的な成立史を もたないこともス ミスの認めるところとなってい る。西欧では歴史的に、 したが ってまた論理的 (自 然法論的 )に も、 「 所有が統治を必 要な ものとす る」 (Ha215,Hb31,40)と いう連関が認め られるのであるが、狩猟民 hmtc"

ない し牧畜民 shephersに おいてはそ うではない。 「狩猟民族においては、ただ しくいえ ば、統治 はまった く存在 しない。」「狩猟民 の間には、正規の統治 regular gove― ent

は存在せず、彼 らは自然の諸法 に従 って生活す るのである。〔 牧畜民における〕牛や羊

(12)

の群の領有 apprOpl■ ttionは 財産の不平等を もたらすが、正規の統治を最初 に成立 させ たの もそれである。所有 prope● がない限 り、統治 というものはありえないのであり、

統治の目的はまさに富の安全を保障 し、貧者 に対 して富者を防衛す ることなのである J

(Hb39,40,cl H230)。 Bノ ー トでは、次に見 るように、こうした比較論がローマ型 と アジア型 との比較 とい う形に結晶化 している (ci Ha248)。

〔 E〕 ローマに樹立された軍事的統治 とアジアに樹立されたそれ らとの間に、大 きな 違 いがあることに注意 しなければな らない。 ローマでは、征服するもの 〔ローマ 人〕 もされ るもの 〔 属州の他民族〕 も、同 じ国民であった。征服者 たち自身 は、

これ らの法律 〔 =属 州の法律〕のいい効果に気づいていて、それ らを廃棄 しよう としないだけでな く、改良 したほどである。 アジアの諸統治 は、純粋 に軍事的で はあるが、 このようではない。   トルコ、ペル シャその他の国々には、 タタール、

アラブおよびその他 の野蛮民族 に征服 されたが、 これ らの野蛮民族 は正規の法体 系 rcttlar system of lawsを もたず、それ らのいい効果を全 く知 らなか った。彼 ら

はすべての公職 に彼 ら自身 の国民 をあてたが、彼 らは自分 の義務 を全 く知 らな か った。 トルコの高官や下級官吏 は、あ らゆることの決定的な裁判官であ り、彼 ら自身の管轄 の中では、太守 と同 じように絶対的である。生命 と財産 は、 このよ うに最下級為政者 の恣意 に依存 している限 り、まった く不安定 precanOusで ある。

これより悲惨で抑圧的な統治 は、想像す ることができない。 (LJB4α  Hb68)

極めて鮮明な比較法 の図式が打 ち出されているが、その特徴を 3点 にまとめて説明 しよう。 まず第 1に 、 ここには西欧型 という言葉 はないが、西欧型が ローマによって 象徴的に示 され、 それが アジア型の統治構造 と対比 されていると見 ることもできる。

また、例示 されている トル コにおける統治の構造 は、官吏がそのまま同時に裁判官で ある、つまり司法が行政の一環 として位置づけられている (統 治権力その ものが西欧 のようにまず もって裁判権であるとい う形をとらない、 あるいは司法の独立がない )、

従 って ここでは、行政官 (=裁 判官 )が 、上か らの行政命令以外の、 「法 J(法 が定め る「義務 J)を 知 らない、とい うように理解す ることがで きよう。そ うだ とすると、こ こに示 されている図式 は、ローマ・西欧型 =軍 事的統治 十「正規 の法体系 J、 アジア型

=軍 事的統治 +行 政規則、 とい う比較法の シェーマとして把握す ることができる。前 者の軍事的統治 +「 正規の法体系 Jは 、その影響関係 まで言えるか否かは別 として も、

前章で見たモ ンテスキューの方法論的枠組 に比定 して、 「力の結合 J+「 意思 の結合 J、

つまり「国家状態」 +「 市民状態」 (市 民法がそ こか ら形成 され る )と 理解す ることが できる。 「軍事的統治」つまリモ ンテスキューのいう「国家状態」の概念をあえて ここ に挿入す ることよって、 「正規の法体系」 (モ ンテスキューのいう 「市民状態」)が 際立 っ

υ

(13)

て くるわけである。こうした理解が可能だ とすれば、他方のアジア型統治 は、 「 法」な き (行 政規則によって秩序づけられた )実 力の支配 とみることができる (そ こに も、

「 正規」ではないが、 「統治」 その ものは存在する )。 「国家状態」 はあるが、 そこには

「市民状態」がない、 というように見て もよい。 こうした図式化か ら、 「 正規の統治」

あるいは「正規の法体系」の合意 を理解す る手懸か りが得 られるであろう。

第 2は 、 「 正規の統治」 「 正規 の法体系」 は、 ほぼ完全にアダム・ ス ミスの頻用す る oivil govmmelltつ まり「政治的統治」あるいは「市民的統治」の概念。つと重なりあう ものだということである。Aノ ー トでは、 「 法学講義」の開講冒頭に、 「 法学 とは、国々 の政治的統治 cMl govermentが それによって導かれるべ き諸規則 についての理論の ことである」(Hal)と いう定義が示 され、次 いでアジアのそれを含め「 あらゆる統治」

が意図す る司法以下 4つ の事柄が説明 されるのであるが、この くだ りが Bノ ー トでは、

アジア型統治を も意識 して重要なニュア ンスの変化を見せている。 Bノ ー トで もス ミ スはまだ自然法的普遍性の枠組を維持 して、法学を「すべての国民の法律の規則であ るべ き一般諸原理を研究する学問である」(Hb17)と するが、そこでは「政治的統治」

概念 は消えている。 グロティウス、 ホ ップズ、 プーフェン ドルフらの学説 に触れたあ とで改めて、 「 法学は、法 と統治 law and goverlllllentの 一般的諸原理の理論である。法 の 4大 目的は、司法 justlce、 公行政 police、 公収入、軍備である。司法の目的は侵害 に対す る安全保障であり、それは政治的統治 の基礎である」と述べ られる (Hb23)。 「 政 治的」統治 は、 「 司法」が司法、つまり公行政以下の「統治」の諸項 目とは区別 された 意味での justlceと して存在 して初めて、可能になる。 "と いうように読めるわけである。

Aノ ー トのス ミスのように、所有権 ない し私法か ら法学講義を開始す る場合 も本来 そ うであるが、 「政治的統治」があるかないか、ローマ 。西欧型かアジア型かで講義の組 み立て方が大 きく変わって くることになる。

もっとも「 政治的統治」は「 正規の統治」と完全に同義 とまでは言えない。 「 政治的 統治」は、 「正規の統治」といった、いわば価値判断 (「 正規」 )の みを標識 に立てた概 念 とは異な り、それ自身固有のニュアンスを もっているはずである。それが何である かの最初の ヒントは、 Bノ ー トの冒頭で法学体系の見 るべ き先例にふれた箇所、 なか んず くホ ップズの体系への言及 に見出される。 「彼 〔 =ホ ップズ〕は教会人 たちに反対 して道徳の 1つ の体系 a system Ofmoralsを 樹立 しようと努力 したのだが、その体系 に よれば、人々の良心 は 〔 教会ではな く世俗の〕政治権力 civil powerに 従属 させればよ く、またその道徳体系は為政者の意思を行動の唯―の正当な規則 とするものであった。

ス ミスによれば、政治社会 cMI societyの 確立以前には、人類 は戦争状態にあ り、人 々 は自然状態の害悪を避 けるためにすべての争論を処理すべき一人の主権者 に服従す る とい う契約を結んだ。「 この主権者 の意思への服従が、政治的統治 ci宙 l governlnentを

成立 させたのであって、それがなければ 〔 道徳原理 としての〕徳 というものはあ りえ

(14)

ず、従 ってそれはまた徳の基礎であ り本質 なのであった J(LJB2‑3,Hb19‑20)。 『 リヴァ イアサ ン』 において ホ ップズは、 この主権的権力確立 の次第 を「 2つ の道 J、 「 設立

Instltutlonに よるコモ ン・ ウェルス」 と「獲得 Acqulslhonに よるコモ ン・ ウェルス」

によって行われ るもの として展開 していたの。後者の「獲得 によるコモ ン・ ウェルス J

は、形式的にコモ ン・ ウェルスの一種 として位置づけられてはいるが、本来、 「政治的 コモ ン・ ウェルス」の種類は君主政、民主政、貴族政の 3つ しかない。 「獲得 によるコ モ ン・ ウェルス」は厳密 には国家 commOn wcalthと いうよりもむ しろ「支配 dominion」

その ものの体制 (す なわち dOmus,dOmillusの 秩序、すなわち家的な秩序の一種 )、 「父 権的および専制的支配 dominlon ptternJl,and despoticall」 「召使いに対す る主人の支配」

として説明され るものであった (『 リヴァイアサ ン』第 17〜 20編 )。 単 なる「支配」 (つ

ま り非政治的秩序 )で はない「政治的統治 civil govemmenJは 、ホ ップズにあっては、

「合議する人民の同意 cOnscntJを 合意す るこの著作全体の基本概念であ って、 ス ミス の「正規の統治 J「 正規の法体系」はこれを受 け継 ぐものなのである。ホ ップズの政体 論 は専制政体概念 (「 2つ の道 J論 )を 含めて、まだア リス トテ レス以来の古典政治学

(乃 ′ 滋

̀α ,1285の の軌道上 にあるが、モ ンテスキューはのちにこれを共和政、君主政、

専制の 3政 体論へ と再構成す るであろう (3政 体論ではあるが、制限政体 としてのギ リシャ 。ローマ型 =共 和政および西欧型 =君 主政 とアジア型 =専 制 とへの二分化を も 含意する )。 アジア的専制 は、ホップズが同意概念 と対比 し「恐怖 Jを 原理 とす る政体 その ものとして、政体論外の概念か ら、 ここモ ンテスキューにおいて初 めて政体論内 部へ と包摂 されることになる。 ス ミスのアジア型 。ローマ西欧型分岐論 は、 まさにこ の他 に類例をみないモ ンテスキュー理論 に接続す ることになるわけである。ス ミスの 講義体系 は、 この点 において も比較法学的である● 1)。

第 3に 注 目すべ き点 は、官吏が行政の一環 として行 う裁判の下では「生命 と財産 は まった く不安定 prccariousで ある Jと い うときの precanousで 、これ も、ス ミスが ここ で偶然 に採用 した用語法 とは考え られない。 というの も prccariousは 、 ローマ法概念 のプ レカ リウム Precarium(容 仮 占有 )か ら派生 した形容詞で、法学的にみて くアジア 型〉の法の構造 にかかわる重要な含意 を有 し、 この概念の採用 には重要 な判断が絡ん でいると見てよいか らである。 モ ンテスキューは『法の精神』 における政体論、なか んず く専制政体の法構造を論ず るかな り目立 った箇所 (第 5編 14章 )で 、 これ と同 じ く「 トルコ」の国制 に触れたあと、 「 あらゆる政体の中で、君公が自分がすべての土地 の所有者であり、すべての臣民の相続人であると宣言する政体 ほど自分で自分 を疲労 させ るものはない」 と述べ、 そのあと直 ぐ、 この国有地の大部分 は役人 たちによって

「容仮 (プ レカ リウム )的 に占有 されている sont poss6d6s d'tlne llnalliれ p carc」 に過 ぎないの と、 その理由を記 している (EL5‐ 14,Na138‑139)。

念のために、 この「 トルコ Jに おける、土地の国家的「所有」 と「容仮的」 占有 と

95

(15)

い った構造の把握がモンテスキューか ら採 られたものであることを傍証す る明瞭な表 徴 を『法学講義』 A・ B両 ノー トで確認 しておこう。その表徴 というのは、端的に「 タ タール (人 )、 アラブ (人 )Jと いうまことにユニークな対語に他な らない。 これは、

じつ は本稿前節で触れたところであるが、モ ンテスキューが『法の精神』第 18編13 章 において、古ゲルマ ン人 とともに「 〔ローマのように〕土地の分割 (分 配 )を 行わな

い国民」 としての論 じた、あの「 アラブ人、 タタール人 J(EL8‐ 13;Nb126‑127,131) とい う記号 を引き継 ぐものである。 この第 18編 第 13章 は、 モンテスキューが フランス における近代的所有権形成史の密かな伏線 を敷 いた場所であるが、 ス ミスは過たず確 実 にそれを踏 まえているわけである。 「 タタール、アラブ」の対語 は、Aノ ー トではと

くに頻 出 し (Ha12,224,227,232,238,250,253)、 Bノ ー トで も本節上引のローマとタ タール・ アラブ民族 との比較論 ほかで重要 な意味を引き続 き担い (Hb49,51,68)、 さ らには『 国富論』第 5編 第 1章 にも 〈 KⅢ 344,345,359。 3)):│き 継がれるものであって、

ス ミスがたまたま単発一過的に使用 した用語法ではないことは確かであろ う。 この使 用例を『国富論』 まで時系列 に沿 って追 ってみると (前 引の Bノ ー トにおけるローマ との比較論 Ha68の 原型 はAノ ー トでは Ha253に 見 られる )、 Aノ ー トでは、いずれか といえばタテの歴史 4段 階論 (狩 猟、牧畜、農業、商業 )の 中に位置づけ られていた かに見える「狩猟民」ない し「牧畜民」 としてのアラブ人・ タタール人の特質が、 B ノー トでは明確にアジアの「民族 natiOnJの それとして、アテナイやローマあるいは とくに「土地 の分割」の有無 に関わる「 ヨーロッパの近代的諸統治」 (Hb73)な どと の、 いわば ヨコの比較論へ と移 し替え られていることも注 目されよう。ス ミスにおけ るモ ンテスキューの文脈の受容が時を追 って進行 しているわけである。

モ ンテスキュー的な比較統治形態 (政 体 )論 ない し比較法 (法 律 )論 の受容 はス ミ スにとって何を意味 したかを、 「法学講義」の体系 に即 しつつ、この問題の最後 にかん がえてみよう。それは、結論か らいえば、中世の領主権 dominiuln、 その実体的内容 と して の裁判権 jurisdic■ oに 歴史 的起源 を有 す るところの、土地所 有権 dominium, propnetasの 「政治的」機能に着 目 し、それを比較法学的にみた「 イ ングラン ドの法律」

の特質把握の軸にすえるという見地の樹立であった、 と筆者 は考える。以下、 この問 題を 3点 に絞 って考えてみよう。

まず第 1は 、 Bノ ー トで私法に前置された公法論が何を論 じたものか、を確認 して お く必要がある。 Bノ ー トではAノ ー トには無かった「法学講義」全体への「序論」

が加え られ、 また「司法 Jと いう公法 。私法 を含めた法の体系 (第 1部 )全 体への導

入部分が挿入 されている。 「序論」ではグロティウスーホップズープーフェン ドル フー

コッケイの系譜が法学の体系に関する過去の学説 として回顧されるのであるが、ス ミ

スはここで『法の精神』開巻後す ぐにモンテスキューがホップズ理論を批判 している

ことを意識 している。 これは、モ ンテスキューの文脈 (政 治社会成立後の歴史 と して

(16)

捉 え るべ き戦争状態を 自然状態 と して想定す ることへの批判 Na45,46)を 見 て も分か るよ うに、公法論への導入 にあた って、 自然状態か ら国家状態へ とい う自然法学的 。 契約説的枠組 か ら脱却 して、国家 の成立 を現実の歴史過程 と して叙述す る立場 を明 ら かにす る前置 きに他 な らない (2)。 「 司法 Jの 叙述 も、 自然権 との対比で、 「所有権」が 歴史現象 (「 取得権」 )で あることを確認す ることに主眼がある (Aノ ー トの該当部分 Ha5‑6で は この把握が いまだ明確 にはな って いなか った )。 「所有権」 の形成がそ こか ら、 「 公法学 Jに おいて (モ ンテスキ ューで もまず は「国制 の法律」上 の現象 とみなさ れ )、 封建制 の歴史 と して検討 され るの も、 モ ンテスキューと同 じであ る。

第 2は 、上述 の「 アラブ人、 タタール人」論の もう 1つ の側面 と して、 ス ミスはモ ンテスキューと同様 に、 ローマ・ 西欧型 の国家形成 を、 ローマ共和政 の成立史 ではな く、 また 4段 階歴史論 で もな く、西欧 とりわ けイ ングラン ドの封建制 の歴史 と して論 じているとい うことである。 この方法 ははや くも Aノ ー トで実質的 に採用 されている のであるが、 そ こでは、封建制 が、 ひ とつには近代 的所有権 の形成史 と して、 ローマ 法の細 目との煩雑 な比較論 を交 えなが ら (Ha32,4546,49‑60,7577,79‑80)、 もう 1つ

には国家 の歴史的成立 の問題 (Ha259284,287‐ 306)と して、大枠で見て も二回繰 り返 して検討 されなければな らなか った。 「政治的統治 Jの 成立 とい う問題が、 「 ア ラブ人、

タタール人 J論 を軸 とす る比較史 の問題 として処理 されれば、封建制 は事実上、 どち らかの問題 に寄せて (Bノ ー トで は公法学つ ま リイ ングラン ドにお ける政治的統治成 立史 として Hb73 123)1回 だけ論 じられればよい ことになる。叙述 が こうして整理 さ れ圧縮 され ることにな る。

第 3は 、 その封建制 の歴史 の中身 の問題である。 この問題 に関 しては、 Aノ ー トと Bノ ー トとの間 に大 きな違 いがある。 Aノ ー トはいわば裁判権 中心 の叙述 であるのに 対 して、 Bノ ー トは、 この裁判権 の検討 が脱落す るわけではないが、立法権 ない し議 会主権収敏型 にな るのである。

(2)所 有権 (領 主権 )。 裁判権 。議会

Aノ ー トか ら見てい こう。 「 政治 的統治」の前史、と くにイ ングラン ドにお ける封建 的統治 の生成 (「 導入 J)と 衰退 の過程 は、裁判制度 の変遷 の問題 として叙述 され る。

封建制 に先立つ、封建 的諸負担 を まだ負 うことのなか った自由所有地 的統治 JlodiJ govttmentの 段階 においてすでに、支配者 たち loldsは 行政的統治者 で はな く、 まず もって「裁判官 judgCs」 であ った とされ る。 この、領主 10rdが ほん らい裁判権 の担 い 手であるとい う構造 は、封建制導入後 も領主裁判権 fcudalljurisdicuonに おいて維持 さ れた。イ ングラ ン ドではまた、 この裁判権が、賢人会議 wl■ enogemotな ど参加 の形式 を とりつつ「民衆的要素 Jを 保持 し、 「 国制 の民主的部分」と して存続 した とい うので ある (Ha 260,261,266,266‐ 267,271‑273,292‐ 296,300306)。

υ

(17)

F〕 ギ リシャの諸国家において統治が共和政的王政、すなわち頂点に王をいただ く 貴族政であ ったのと同様 に、〔 封建制の導入後〕ヨーロッパの統治 は最初 は、頂点

に王 を頂 く民主政であったが、 この政体 は、 自由所有地的統治の下 においてさえ 貴族 たちによつて大いに掻 き乱 され、封建的統治が ヨーロッパ全体 に導入 される と、イ ングランド以外では完全 に転覆 されて しまった。…… 〔 住民中の有力者が、

ギ リシャでのように王の権力を完全 には除去で きなか ったのは、ギ リシャの諸 ポ リスと異なり〕 ヨーロッパの諸国は大国であ り、有力者たちはそこへ散在 してい たので、一箇所 に集 まって自分 たちの力を結合 して国王に対抗す る機会がなか っ たか らである。彼 らがな しえたのは、 〔 かつて封建制導入以前 に存在 した〕国制

∞ nstltutlonの 民主的部分を廃止 し、貴族的君主政を樹立することだけであ った。

これはあ らゆる国で行われたが、例外 はイ ングランドであった。そ こでは民主的 裁判所 〔 =古 来の民会 fok mOotの 伝統を継 ぐ共同体裁判所 commun ∝川′

'〕 が ず らとぁとまで存続 し、通常通 りその任務を果た していた。そ して、長期間開廷 されていないが、今 日で も州裁判所 ∞ unty courtは 、依然 として法律によって存 続が認め られているのである。 マグナ・ カルタにより、重罪や反逆罪などのよ り 大 きな事件 はそこでは取 り上 げ られないことになっていたので、 この州裁判所 は より小 さな訴訟事件を扱 っていたが、やがて治安判事 Justlces ofPeaceの 制度が設 けられると、彼 らがはるかに迅速かつ器用にこれ らの事件を処理す るよ うになっ た。〔 他方、国王 自身の裁判権 についていえば〕国王の大裁判所は王か ら直接受封

している者 〔 =barons直 臣たち〕か ら構成 されていた。 こうして王国は一大封土 iefと みなされ、その業務 は封土を保有す る者 たちによって運営 され、彼 らすべ ての所有や生命 に関わる事柄 はいずれ も、彼の首長か同輩である領主たちによっ て審理 され、同様に 〔 各地の〕バ ロン裁判所 〔 =封 建裁判所〕の業務 は、彼の封 地を保有す る者 によって運営 されることになったのである。(LJA149‑151:Hb271‑

272)

Bノ ー トでは、 この「国制の民主的部分」を含め、封地 (領 主権 )す なわち裁判権 という把握 はやや後景 に退 き、封建制 と司法権の変遷が「立法権」の形成 に繋が った という、歴史の別の側面が クローズアップされる。 この文脈か ら2箇 所を引用 してお こう。

〔 G〕 イ ングランドでは、 いや実 に全 ヨーロッパでは、封建法が導入 されてか らは、

王か らの直接受封者 barOnが その裁判権 junsdictlonに おいてな したように、王国

全体が統治 され司法が運営 された。領主 に属す る領地 〔 =州 county〕 内のすべて

の事柄を 〔このバ ロンの〕執事が処理 したように、王国内の万事を二の最高法官

(18)

the Grand Justiciaryが 処理 したわ けで あ る。最 高法 官 は州長 官 sherirそ の他 下級 官 職を任命 した。最高法官 は じぶん 自身が大領主 gre江 lordで あり、イ ングラン ド以 外のすべての国で、その職務 の権威 によって国王のように強力 にな った。 CB6生

Hb422)

H〕 それ 〔 国王の裁判権〕はやがて絶対的になった。〔 立法ではな く裁判実務 に由来 するところのコモ ン・ ローが支配 してきた国イ ングランドにおいては〕立法権力 は、それが導入 されたときはつねに絶対的であったが、社会 の初期 にはそれ 〔 立 法権力〕 は存在 しなか った。立法権 は司法権力の成長か ら 〔 司法権力へのいわば 対抗力 として〕発生 したのである。司法権力が絶対的 にな ったときには、裁判官 は見 るだけで も恐 ろ しいものであって、 〔 庶民 commOnsの 〕生命、 自由、所有が 彼次第であったか らである。タキ トゥス 〔 実 は別人 ?〕 によれば、〔ローマの〕クィ ンティリウス・ ウァルスがゲルマ ン人の一部を征服 したとき、裁判所を設立 して 彼 らを 〔ローマの civitasと 同 じよ うな〕政治社会 に導 こう oivilizeと したとき、

これが彼 らを刺激 して、彼 らが ウァルスとその軍隊を虐殺 したほどであった。粗 野な民族 にとって、裁判官の姿 は、 この世で最 も恐 ろ しい ものだ ったのである。

従 って 〔とくに庶民の〕所有 propertyが 拡大 されたときは、彼 ら 〔 裁判官 たち〕

が したが うべ き厳 しい規則を指示す ることによって、彼 らの恣意的な決定を抑制 す ることが必要 になった。 こうして立法権力が司法権力に対す る抑制 として導入 された。 ブ リテンでは、国王が絶対的な行政権力 と司法権力を もつ。 しか しなが ら 〔 「所有権 の代表 (26)」 と しての〕庶民院は王 の大臣たちを弾劾す ることがで き るし、彼が任命する裁判官 は、その ご彼か ら独立する。立法権力 は 〔 議会主権 King

lll Pal■ alnentの 概念が示すように〕国王 と議会 にあって絶対的である。 しか しな

が ら、統治がいかなる原理 にもとづ くに して も、権限濫用 abusesが 抵抗 を疑い も な く合法的な もの とす るよ うな場合が存在す るものである。 (LJB92‑93;Hb122

123)

イ ングランドの司法権力が「絶対的」 にな り庶民の「生命、 自由、所有」が危険 に 曝された (引 用 H)と い うのは、 テューダー朝絶対王政、直接的には暴政的 (非 司法 的 )裁 判所 といわれる星室裁判所。つの強化を指す ものであるが、議会制定法 による星 室裁判所の廃止 (1641年 )に 至 る経緯 を、 ス ミスは、裁判権その ものの変容 というよ りも、 これ も「民主的裁判所」 と無縁ではないが、古来の「国制の民主的部分 Jを 引 き継 ぐ議会 =立 法権力 (引 用 F)に よる司法権の抑制 とい う文脈で説明 しようとす る のである。

ここで、引用 Fと G・ Hが それぞれ どのようなニュアンスの違 いを有す るかについ

99

(19)

て考察す るために、モ ンテスキ ュー 『法 の精神』におけるフランス封建法史 lols od」 es chez rrancs研 究 の合意 を もう一度検討 してみよ う。この歴史 を主題 とす る同書第30編 、 第31編 が「 フランス法 J、 その中核的概念 と しての近代的所有権形成史 であることはす で に見 た通 りであるが、 ここでは、 この両編がそれ とパ ラレルに、領主権 の内実 をな す「裁判権」 の変遷、 と くにそのゲルマ ン的伝統 を検討す るもの ともな っていること に注 目 しよ う。

モ ンテスキューはここで、フランス法学 の伝統 とはやや異 なる見地 か ら、 「 封地 を有 す る者 は裁判権 を も有す る」 ことを強調 し、 フランスで はと くに裁判権 が領主 の家産 と して定着 したとい う見地 を うち立てた (Nc205,341,342,350,415,455)。 この意味で の領主裁判権 の特質 を彼 は、一面で は裁判組織 自体を、政治権力 の一環 とい うよ りも む しろ「 同輩 たち pJrs」 によって構成 された「仲裁人」 の原理 la mmiё rc des arbitres

に もとづ くもの として捉 え るが、同時 に他面 で、 「一人では裁判 畔」 決〕 しない」 とい ういわば合議制 の民主的構造 を有 していた ことを重視 し、繰 り返 し強調 す る CNa164, Nc202 208,215,249250,328‑329,372375c■ Na284)。 こうした裁判権 の特質 を彼 は、

サ クソ ン人や ノルマ ン人 において も共有 され ることを念頭 におきつつ、 「 ゲルマ ンの森 に起源 を もつ Jも の、 「 ゲルマ ン人 の慣行 と慣習法 との奥底」に起源 を有す る もの と認 め、 フランス各地だけでな く、非常 に多 くの諸王国において「 1つ の一般的 な政治 シ ステム Jを 創 ったとさえ記 したのであ る Oc328,330,343)。 この一般 的な「政治 Jシ

ステムを、 モ ンテスキ ューが中世 の「封建的 J統 治 の胎内に宿 った、 フランス国民 la nat10nの 「市民的 (=政 治的 )統 治 gouvcmcmont civilJ(Nc378)、 とも呼んだ ことが、

ここで記憶 されてよいであろう。

このよ うに歴史を遡及 していけば、権力分立理論を説 いた ものされ る『 法 の精神』

第 H編 「 イギ リスの国制 について」 の章 においてモ ンテスキューが、古代 の作品であ る タキ トゥス『 ゲル マニア』 を あえて想起 しつつ、「 イギ リス人 が その政治 的統 治 gotlvcmemellt poli■ qucの 観念 を引 き出 したのは、彼 らゲルマ ン人か らである」KNa306)

ことを、とくに付言 していた ことが さ らに想起 され よう。この指摘 は しば しば「議会」

制度 その もの起源 に係 るもの と して解釈 され批判 され もす るのであるが 。 8ヽ ここでモ ンテスキューが念頭 においていた「政治的 J統 治 の観念、すなわち「政治的 な もの」 、 あ るいはデモクラシーの概念 とは、英 国議会 の起源 とい うよ りは、む しろ遠 くヨーロ ッ パ の古代、封建法の始原 と訴訟 の構造 に由来す るもの と して理解 され る ものである。

ス ミスが ノルマ ン征服以前 の州裁判所・ 同議会、国王裁判所の構造 につ いて、 ブル グ ン ド族 およびゴー ト族 (南 仏 )に おける統治 の在 り方 を も視野 に入れなが ら検討 し、

そ こにおける賢人会議 ヽ ヤ ltcnagemotoutの 役割 に注 目 していること (IIb258 260)も 、 これ と軌 を一 にす るものであろ う。

こうして見れば、 ス ミスの『法学講義』がモ ンテスキューの F法 の精神』 とが、少

(20)

な くとも公法か ら私法へ という展開の順序だけでな く、近代的な所有権制度の成立、

議会を含む近代的な「政治的統治 civil or pol■ icJ governmentJの 形成などの構成 の点 で、多重的な並行関係 に立 っていることは、 もはや疑いえないであろう。引用 H中 で ス ミスは繰 り返 し「裁判官の姿は恐 ろしい terlbleJと 述べているが、 これが、イギ リ スの国制 に関する章でモ ンテスキューが記 した、裁判権力は「人々の間でひどく怖れ

られて terribleい る」(Na294)と い う文言を強 く意識 したものであることも、 こうし た関係 を傍証す るものである。

ス ミスの「法学講義」 にとって範型 となったモ ンテスキューの私法・公法関係 に関 す る枠組 の問題を、本章の締 め括 りとしてまとめておこう。

F法 の精神』 において この点で もっとも抽象度の高い枠組 は、引用 CoDで 見た、

「国家状態 6tat politique」 か ら「市民状態 ё ttt civilJへ 、 というものであった。 この図 式 は、グラヴィーナか ら得 られた、 ローマ史 における共和革命・ 十二表法 (前 500年 〜 450年 )の 画期に係 る認識、すなわち王政か ら共和政 と市民法の成立へ、という経緯を 理論化 したものとも言える。 モ ンテスキューにおけるフランス封建法史研究 は、 この 図式 に即 して、 「政治的王政 mOnarchie pol‖ queJあ るいは「政治的統治 gouvernement pol■ que」 (フ ランク時代 )→ 「 封建的王政 m OdJc」 ない し「封建的統治 g χ od狙

→「市民的統治J Oc378,396,452)、 という3段 階を枠組 としてなされている。 この 場合、「政治的 plotiqueJと いう形容詞 は力による結合を、 「 市民的 civil」 は意思の結 合を、すなわち共和政体 (混 合政体であればその内部で共和政的契機が優越す る政体 )

と市民法 の成立 を、合意す る。その際、 「 市民的統治 Jを 前提 とす る場合 には、国家に ついてマキァヴェッリ的な ё tat← StatOmで はな くキケロ的な ci6←civLS)の 用語が使 用 される KNc105‑106)。 この諸段階を、 フランスにおける所有権法の定位 に即 してみ れば (上 引 Bの 前半 )、 封地 (近 代的所有権の祖型 )は 、初めはもっぱ ら公法すなわち

「国制の法律」 に属 していたが、やがて「国制の法律 Jと 私法すなわち「市民 (民 事 )

の法律」 との双方 に、最後 に私法すなわち「市民 (民 事 )の 法律」 に定位す るように な った、 とモ ンテスキューは言 う。 こうした段階的発展を支えたのが、 ヨーロッパ的

(ゲ ルマ ン的 )な 裁判権 と訴訟の構造であった。 「 〔 制定法であれ慣習法であれ〕実定法

la loi positivcに 先立 ってまず 〔 人 の意思 によらない必然的な〕衡平の関係が存在 し、

この関係を 〔 まずは裁判を通 じて、やがて立法 によって〕実定的な法律が確立 aabli す る」。というの もほん らい「法律 あるいは法則 loisと は事物 の本性 に由来す る必然的 な関係 なのである」 (ELl‐ 1,Nβ 9,41)。 キケロが言 うように、 「国家 d は各人がその 財産を保全するためにのみ設立 された Jの であるが、 これはホップズのい う「設立に よる J(す なわち市民 たちがその意思 の結合によって設立 しうる)コ モ ン・ ウェルスに ついて格率であって、 そこでは、「市民 (民 事 )の 法律 lois civilesは 国制 の法律 lois

pol■ iqllesに 依拠 している J(EL29 13,Nc273)と い うべ きなのである。アダム・ ス ミス

υ

参照

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