長崎大学総合環境研究 第 6 巻 第 1 号 pp. 51‑6 2 2 0 0 3 年 1 0 月
西 田哲学の 「 場所」の論理 とカ ン ト
井 上 義 彦
Thel o gl COf" Pl ac e"i nNi s hi da' SPhi l os o phyandKant Yos hi hi kol no ue
§1.西田の自覚の立場 と場所 ,
中江兆民が,遺書 『 一年有半』 (明治 3 4 年) に率 いて, 「わが 日本, 古 よ り今 にいた るまで哲 学 な し」( 1 )と喝破 したのは,当否 は別 に して有名である
。それか ら 1 0 年後 に,西田幾多郎の処女作 『 善 の研 究 』 ( 1 91 1 年,明治 4 4 年)が世 に登場 した。 明治 3 4 年 に病没 した中江兆民が, この書 に接す ることは残 念なが らで きなか ったが, もし読む ことがで きた と
した ら, ,何 と評価 したであろうか と興味をそそ られ る。
西田は,『 善の研究』 において, 彼の根本 的な・ 思 想的立場を 「 純粋経験」の形で提示 した。 こP)書 の 初版の序で,西田はこう言 う, 「純粋経験 を唯一 の 実在 としてすべてを説明 して見たいというのは, 余 が大分前か ら有 っていた考であった。 .初 はマ ッ‑ な どを読んで見たが, どうも満足 はで きなか った。 そ の うち,個人あって経験あるにあ らず,経験 あ って 個人あるのである,個人的区別 より経験が根本 的で あるという考か ら独我論を脱す ることがで き, また 経験を能動的 と考 うることに由って フイセテ以後 の 超越哲学 とも調和 し得 るかのように考え,遂 に この 書の第二編を書 いたのであるが,その不完全な る こ
とはい うまでもない 」 (' 4)
(2)0西田の前期か ら中期 に至 る思想 が, 『善 の研究』
( 1 9 1 1 年) における 「 純粋経験」 の立場 か ら, 次 の 著書 『自覚 におけ る直観 と反省 』 ( 1 9 1 7 年, 大正 6 年). における 「自覚」 の立場へ移 り,更に′ 「 『 働 くも のか ら見 るものへ 卦 ( 1 92 7 年, 昭和 2年) にお ける
「 場所」の立場へ至 ったことは,周知のことであ る。
西田自身 は,『善の研究 』 の改版の序 ( 昭和 1 0 年) で , 「今 日か ら見れば, この書 の立場 は意識 の立場 であ り,心理主義的 とも考え られるであろう。 しか
受領年月 日 2 0 0 3 ( 平成 1 5 ) 年 6 月 9日 受理年月 日 2 0 0 3 ( 平成 1 5 ) 年 8月 4日
非難せ られて も致方 はない。 しか しこの書を苦 い. た 時代 において も,私の考の奥底 に潜む も甲は単 にそ れだけの ものでなか った と思 う
。純粋経験の立場 は
「自覚 における直観 と反省十 に至 って, フィヒテの 事行の立場 を介 して絶対意志 の立場 に進 み, 更 に
「 働 くものか ら見 るものへ」 の後 半 にお いて一 丁 ギ リ シャ哲学 を介 し;一転 して 「 場所」の考 に至 っ! =。
そこに私 は私 の考を論理化す る端緒を得 たと思 う。
「 場所」の考 は 「 弁証法的一般者」 と して異体化 せ られ,「 弁証法的一般者」 の立場 は 、 「行為的直観 」
の立場 として直接化せ られた」 (6丁 7) と総括 し ている。
西田の論考 は,簡単 には読解で きないはど論 旨が 入 り組み難解である
。それは, ′恐 らく西田が彼 と同 時代の ヨーロッパの先進哲学思潮 に敏感 に反応 しっ つ吸収 し,それ と共通の問題意識を共有 しなが ら, 同時 に東洋人 として,東洋思想の独 自性 を自覚 して それを取 り込 もうと努力 しなが ら,時代 の最先端 の 先の見えない哲学問題 に果敢 に挑戦 して,考えなが ら書 き,書 きなが ら考えているとい?た思索の書, まさに 「悪戦苦闘の ドッキ干, }ン ト」であることに 起因す ると推察 される
。西田独 自の哲学的立場 , 「場所」 の立場 に到達 し た 『 働 くものか ら見 るものへ』 の序 に一 おいて, こう 言 う,「 形相を有 とな し形成 を善 となす泰西文化 の
けん ら
ん
絢欄たる発展 には,尚ぶべ きもの,学ぶべ き年0, の 許多なるはいうまで もないが,幾千年釆我 らq )祖先 をは ぐくみ来 った東洋文化の根低 には,形 なきもの の形を見,声 なきものの声を聞 くといったような も のが潜んでいるので はなかろうか。我々の心 は此 の 如 きものを求 めてやま昼い,私 はかか る要求 に哲学 的根拠 を与えて見たいと思 うのである 」( Ⅰ‑3 6
(3))0
西 田の思想が一般 に西田哲学 と呼称 されるよ うに
なったのは,左右田喜一郎の論文 「 西田哲学 の方 法
について‑ 西田博士の教を乞 う 」( 『 哲学研究』 第
1 2 7 号 ,1 9 2 6 年)か らとされる
。左右 田 は, そ 午で は 『働 くものか ら見 るものへ』所収 の 「 働 くもの」
と 「場所」の二論文 を取 り上 げて,筆鋒鋭 く西 田へ 論戦 を挑んでいる
。この 「 場所」 の論文 は,西田哲学 の中で も独創性 の高 い論稿 として評価 されている
。さて,西田は , 「 左右田博士 に答 う」 の論文 にお いて, 自分の自覚の立場をカ ン トの意識一般や純粋 統覚,そ して認識主観の考え方 にか らめて論究 して いる
。そこで こう言 う,「 以上 の考 は 『自覚 にお け る直観 と反省』以来,既 に私の抱 く所である
。カ ン トの純粋統覚を形式 と内容 との統一 によって,知識 の客観性 を樹立す る真の認識主観 とす るな らば, そ れは単なる直覚的主観でないとともに,単 なる論理 的主観であることもで きない。此の如 き綜合統一 の 主観 を求むれば,我 々の自覚 のはかない, 自覚 にお いて は,考えるもの と考え られるものとが無条件 に
‑であるのである 」 (Ⅰ‑1 7 3 ) 。 そ して こうも言 う,
「カ ン トに還れ といわれ るな ら, カ ン トに還 って も よいが, リッケル トのカ ントではな く, カ ン トの カ ン トに還 ってなお一応考えて見たい 」 ( Ⅰ‑1 7 6 ) 0
西田によると, カ ン トの純粋統覚 あるいは意識一 般 は,形式 と内容 とを綜合統一 して,知識の客観性 を樹立す る真の認識主観であ るか らして, 「カ ン ト はかかる 〔形式 と内容 との 〕統一を知的 自覚 に求 め た, カ ン ト哲学の真髄 は此 にあると思 う
。私 はカ ン トの この立場 に立 って深 く自覚的主観の意義を考 え て見たい 」 ( Ⅰ‑1 6 8 ) 。 これが, 西 田の 「カ ン トの カ ン トに還 って考え る 」 ことである。 これによって, 西田の自覚 とは知覚 と思惟 。判断 との綜合統一 の主 観, あるいは知識の形式 と内容 との綜合統一の主観
を意味す ることになる
。西田は, この自覚の働 きの根拠づ けを判断の形式 に即 して論理化す る形で , 「場所」 の論理 に到達 す るのである
。西田によると,「私 は全 く従来 の考 を棄 てて, 紘 真 に判断意識其者の自省か ら出立 して見たいと思 う,
・ ‑‑かかる考か らして私 は一般の中に特殊 を包摂 す るとい う包摂判断か ら出立 した 」 ( Ⅰ‑1 7 8 ) 。 そ し て 「 以上の如 く客観的なるものを主語 とな って述語 とな らない ヒボケ‑メノン 〔基体 〕に求 めるとと も に,私 はこれに反 し主観的なるものを述語的方 向 に 求めた,即 ち述語 とな って主語 とな らないものを意 識 と考えた。私のいわゆる場所 とはかか るものを意 味す るにはかな らない 」 (Ⅰ‑1 7 9 ) 。 判 断す る意識
が場所であ るとは, 判 断 において 「意識 の野」 が
「 夢識の場」 としての 「 場所」 の性格 を有 す ること を表わ してお り, しか も 「 Sは P である」 とい う包 摂判断 において,主語 S は特殊であり,述語 P は一 般であ り,特殊 ( 主語)が一般 ( 述語)の中に包摂
されることを意味 している
。だか ら,「右の如 き考か ら, 判断 とい うの は特殊 なるものが一般なる場所 に於てあるということとな る,而 して述語 とな って主語 とな らない超越的場所 の立場か らして, それは知 るということとなる, こ れが知 るとい うことの根本義 であ る」 (Ⅰ‑1 7 9 ) 0 それによると,真の認識主観 とは,客観 に対立 す る 主観ではない 。 「か くの如 き考 はなお主客相対立 し て 」 お り,「なお主観を対象的 に見 て いる 」 のであ る 。 「すべてを包む もの」, 「主客 の対立 もこれ に於 てあるもの」が真の認識主観 であ り , 「私 のいわ ゆ る超越的場所」なのである
。そ こで, 「右 の如 く包 摂判断の述語面が述語 とな って主語 とな らない と考 え られた時,それが私のいわゆる場所 として意識面 であ り, これに於てあるということが知 るとい うこ とであるというのが,私が 「 場所 」 の論文 にお いて 到達 した最後の考である」 (Ⅰ‑1 7 9‑' 8 0 ) とな る
。この ことを,「 場所」 の論文の言説で確認す ると,
「 従来の認識論が主客対立の考か ら出立 し, 知 ると は形式 によって質料を構成す ることであると考 え る 代 りに,私 は自己の中に自己を映す という自覚 の考 か ら出立 して見たいと思 う
。自己の中に自己を映 す ことが知 るということの根本的意義 で あ ると思 う」
(Ⅰ‑7 4 ) 0
§ 2.西田のカン ト解釈
西田の 「 場所」の意識構造を巡 る論説 には, カ ン トの純粋統覚や意識一般そ して認識主観への言及が 常 に繰 り返 しなされているのが注 目を引 く。これは, それだけ西田にとってカ ン トの意識構造が重要 な意 味を持っ ことを証 しているといえる。 ところが, 管 見 によれば,従来の西田研究では西田 とカン トとの 関係を主題的に論究 した ものが,意外 に少 ない とい うか,む しろ殆 どないに等 しいのに驚 く
。 (4)西 田 の根本的立場である 「場所」の意識構造 に関 して, 西田とカ ン トとの密接 な思想的関係が見出され るだ けに,西田研究の盛んな折 に,誠 に意外であ り, 不 思議である
。カ ン トへの言及 には,「 場所」 に関連 して, 次 の ような重要な指摘がある。
「 判断作用 とは対立的無の特殊化である。‑‑ ‑ 対
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西田哲学の「 場所」の論理 とカ ン ト
立的無の場所 においてはなお作用を見 るが,真 の場 所においては単 に妥当的なるものを見 るのである
。カン トの意識一般 もすべての認識の構成的主観 と し ては,真の無の場所でなければな らぬ
。この場所 に おいては,すべて 「 於てあ るもの」 は妥当す る もの であ る」 (Ⅰ‑90‑'1)0
すべて有 るものが於 いてある場所 になる時に, 意 識の根底 にある一般的な もの ( 述語面)が意識 とな るのである
。そ こに,相対無の立場か ら絶対無 の立 場への転回がある。
「 有無対立の立場か ら真の無の立場 に移 る時, そ の回転 の点 において, カ ントのいわゆる意識一般 の 立場が成 り立 っ 」( Ⅰ‑9 3 ) 。 この意識「股の立場は, すべての有を包む無の立場であるか ら,何処 まで も 意識の立場を失わないとされる。意識 の本質的立場 は , 「 無 より有を生ず る,無 に して有 を包 む」 とい うことであるので,意識の立場 は,ある限定 された 低次の立場 に対 して,常 にそれより一層高次の メ タ の立場 になる。だか ら,「高次的立場 は低次的立場 に対 して,無 に して これを包むが故 に,意識の意義 を有っ ことがで きる 」(Ⅰ‑9 7 ) ので あ る
.そ して
「 無 は何処 まで も有を裏打 して いる
。述語 は主語 を 包んでいる,その窮 まる所 に到 って主語面 は述語面 の中に没入す るのである,有 は無の中に没 し去 るの である。 この転回の所 に範晴的直覚が成立す る, カ ントの意識一般 もかか る意味における無の場所 であ る 」(Ⅰ‑1 2 2 ) 0
さらにこうとも言 う,「私 の場所 とい うの は判断 的知識の由 って成立する一般者 という如 きものであっ て,‑‑か くの如 き何処 まで も判断的知識の背後 に 見 られねばな らない述語面 という如 きものが,私 の いわゆる場所であって, それはカン ト学者の認識主 観 に相当するものといってよい。唯,従来の考 え方 の如 く主観を統一点 というように考えないで,包容 面 とい うように考える点 において異なるのである 」 ( Ⅰ‑1 8 6 ) 0
ところで,西田は彼の自覚の構造 に関 して, デカ ル トの コギ ト ( 私 は考える) とカ ン トの自覚 (自己 意識) とを対比 して論究する。 この対比的な論議 を 媒介にすると,西田の自覚の構造が比較的によ く理 解できる。
西田によると , 「デカル トは, 自覚 の立場 か ら, すべてを否定 した。 しか し,真の否定的自覚の立場 に至 らなか った」( Ⅰ‑2 8 4 ) とす る。それは何故か。
デカル トはすべてを疑 った。疑 う自弓の存在 も疑 っ
た。 Lや しい くら疑 って もか く疑 う自己の存在昼端 的な自証的な事実 として疑 いえない。 ここに,疑 う 自己存在 の不可疑性 とい う直証の事実か ら,絶対 に 不可疑 の命題 「私 は考 え る, 故 に私 は存 在 す る ( c o gi t o,e r gos um . ) 」 が成立す る。 しか し西田によ れば, デカル トは依然 として彼の主語的論理の独断 の故 に, この直証の事実 を内的真理 と解 して,存在 す る自己を実体 と考えて しま ったo 「我 々? 自己 自 身を,デカル トの如 き意味において一つの実体 と考 えるな らば,それにおいて. の内的事実 と して, いわ ゆる明噺判明なる真理 も,主観的たるを免れない」
( Ⅲ‑2 8 1
(5))。 デカル トも,実 ははっきりこの こと を自覚 していた。 そこで,「彼 〔デカル ト〕は遂 に 知識の客観性を,神の完全性 に,神の誠実性 に求 め た」(Ⅱ ‑2 8 1 ) 。か くて, デカル トは論理 的 に 「矛 盾を起 こさざるを得ない」 ことにな る。 「しか し神 の誠実性 を以て知識の客観性を基礎附 けるとい う如 きは,何 らの論理性を有 たない。主語的論理の破綻 を示す ものである」 ( Ⅲ‑2 8 3 )
。西田の指摘 は鋭 く 的確であ り, まさにその通 りである
。西田によれば, 本来的 に言 えば, 疑 う自己存在 の不可疑性 とい う
「 疑 うも疑 うことので きない直証の事実 とい うの は, 自己と物 との,内 と外 との矛盾的自己同一の事実 と いうこと」̲( Ⅲ‑2 8 4 ) を証示 しているのに, デカル トはその ことを十分 に把握 し切れなかったと考える
。「自己は,何処 まで も自己 自身 を否定す る所 にあ る のである
。しか もそれは単 なる否定ではな くて絶対 の否定即肯定でなければな らない 」 ( Ⅱ‑2 8 4 ) 。 自 己は,疑 う自己の存在を否定す ることにより, この 否定を媒介 に して疑 いえない自己存在の肯定 に至 る のである。 そこに,絶対 の否定即肯定 と しての 自己 矛盾的存在の自己同一性があるのである。
か くして, デカル トに対す る 「カ ン トの批評哲学 の的 とな ったのは,右の如 き主語的実在の独断であっ た。直覚 の形式を離れて推論式的に実在 を考え るこ とが,超越的弁証法の虚偽 に陥 ることである
。それ は主語的論理その ものの自己矛盾である」( Ⅱ‑2 8 5 ) 0 西 田が ここで言及 して い るの は, 「私 は考 え る」
( I c h de nke ) を唯一のテキス トに して, そ こか ら心 の諸規定を導出 して,心 の実体性や実在性 を論証 し よ う と す る デ カ ル トの 思 考 法 が , 誤 謬 推 理 ( Par al o gi s mus ) にはかな らないことを明 らか に し たカ ン トの超越論的弁証論の論説 のことである。
カ ン トは, このようにデカル トのコギ トの論理 的
欠陥をよ く承知 していた。 そこに,西田が 「 私 はカ
ン ト哲学 の方法を も否定的 自覚 と考える」( Ⅱ‑2 8 5 )
所以 がある。「しか しカ ン ト哲学 は果 して真 に否定 的 自覚 に徹 したであろうか」(班 ‑2 8 5 ) と,西 田 は 自問 自答す る
。そ して こう言 う, 「カ ン トは主語 的 方向 に超越的実在 を否定 したが,述語的方向に実在 の根拠 を求 めた と考 え る羊とがで きる。 カ ン トの 自 覚的 自己は, デカル トのそれの如 く,それ自身によっ てあ る実体で はないが,私が考え るとい うことは, 私 のすべての表象 に伴 うとい う
。我 々の判断的知識 は, その綜合統一 によって成立す るのである
。主語 とな って述語 とな らない基体が,逆 に述語的 に主 語 的な るものを包み,すべての判断 を自己限定 と して 成立せ しめる述語的主体 とな った とい うことがで き る 」 ( Ⅲ‑2 8 6 ) 。
ここには,西 田のカ ン ト解釈 の特徴が よ く出て い る
。西田は直ちに言 を継 いで こう書 く, 「無論, 斯 くい うのは,色 々のカ ン ト学派 の人 々か ら色 々の異 議が あるで もあろ う
。私 は今 これ らの議論 に入 らな い 」 ( 班‑2 8 6 ) とす る。西田のカ ン ト解釈 の この部 分 について は,後 に触 れ るが,西 田はカ ン ト哲学 に 完全 に納得 している訳ではない。 「とにか く, カ ン ト哲学 においては,先験感覚論 の始 にいってい る如 き,我 々の自己が外 かち動か され るとい う如 き主 客 の対立,相互限定 とい うことが根低 にあ り, そ こに 主語的論理 の考 え方 を脱 していない。 いわゆる物 自 体 の難問 も, そ こか ら起 って来 るのである」( Ⅲ‑2 8 6 ) 。
西 田によって, デカル トもカ ン トも, 自覚 の構 造 に関 して主語的論理 の考え方 を脱 していないと批 判 されている
。§ 3. カ ン トの自己意識の構造
それでは,西田の述語的論理 とは如何 なる考 え方 であ るのか。 それ は,「 我 々の 自己 自身 の実在 を考 え る論理 は,我 々の自己を外延 と して含 む一般者 の 論理 でなければな ら. ない ( 私のいわゆる場所的論理) 」 ( Ⅲ‑2 8 8 ) とい うことである
。これは,次 の有 名 な 言説 に言 い換 え ることがで きよ う
。即 ち, 「 旦空三
の経験的知識 には 「 私 に意識せ られ る」 とい うこと が伴 わねばな らぬ, 自覚が経験的判断の述語面 とな るのである
。普通 には我 とい う如 きもの も物 と同 じ く,種 々なる性質 を有つ主語的統一 と考え るが, 我 とは主語的統一で はな くして,述語的統一 でな けれ ばな らぬ,一つの点で はな くして一つの円でな けれ ばな らぬ,物で はな く場所でなければな らぬ
。我 が 我 を知 ることがで きないのは述語 が主語 となる こと がで きないのであ る 」 ( I‑1 41 )。
直前 の引用文 における 「すべての経験的知識 には
「 私 に意識せ られ る 」 とい うことが伴 わねばな らぬ」
の文章 が,西 田のカ ン ト解釈 のポイ ン トであ り, こ れまで もしば しば言及 され た カ ン トの周知 の言説
「 「 私 は考え る」が私のあ らゆる表象 に伴 うことがで きねばな らない 」( Das: I c hde nke ,muβ al l eme i ne Vor s t e l l unge nbe gl e i t e nkanne n. B1 32
(6)) に対 応 す るものであることは明 らかである
。では, カ ン ト自身 の この言説 は,如何 なる意 味 内 容を もっのであろうか。 この解明 は,西 由 とカ ン ト
との思想的立場の比較 と識別 のために是非必要 で あ る
。カ ン トによると, 自己意識 ( Se l bs t be wuβt s e i n) , すなわち旦裳 ( 7 )とは,意識 の統一 におい て可 能 で あ り, そ して この意識 の統一 は根源的 には意識一般 と しての純粋統覚 によ って可能である
。この純粋統 覚 は,私のあ らゆる表象 に伴 な うことがで きね ばな らず, しか も私 のすべての意識 を通 して同一 で あ る ところの , 「私 は考 え る 」 ( I c hde nke ) とい う表象 を生 み出す 自己意識であるか らして‑ ,「 根源的統覚 」
とも呼ばれて い る
。この統覚 の統一 は, 自己意識 (自覚) の超越論的統一 と呼ばれ る
。なぜ な ら, 直 観中 に与え られ る多様 な表象 は, もしそれ らがすべ て一つの自己意識 に属 さないとすれば, それ らはす べて 「 私」 の表象で あるとは言われえないであろ う か ら
。か くて, およそ自己意識 は,根源的 にはこの純粋 統覚 の綜合的統一 を前提 に してのみ可能なのである
。そ して 「 統覚 の綜合的根源的統一 においては,私 は 自分 自身を意識す るのに,私が自分 に現象す るが ま まにで もな く,私が 自分 自身 においてあるがままに で もな く,7=だ私が存在す るということだけなので ある 」( B1 5 7 ) 。 カ ン トによ ると, 統 覚 の統一 にお ける純粋 な自己意識 は, 自分 自身 を現象 と してで も な く,物 自体 ( 英知体) としてで もな く, ‑ 「ただ私 が存在す るとい うことだけ 」( nurdaβi c hbi n. ) の 意識 なのである
。こうした自己意識 は, カ ン トによ る と, 「私 が 自 己を思惟す るとい うこと 」( da ▲ β i c hmi c hde nke . ) を意味す る ( B1 5 8 ) だ けで あ るか ら, それ は ・ r思 惟であ って,直観ではな い 」( e i nDe nke n,ni c hte i n Ans c haue n)( B1 5 7 ) とされ る
。我 々が 自己 自身 を 認識す るためには,統覚 によって統一 ∵ され る思惟 の 働 きのほかに, なおそれによって綜合統一 され る自 己の直観が必要 なのである。 「私 は, 私 自身 を認識 す るために,意識のほかに,換言すれば私が 自己を
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西田哲学の「 場所」の論理 とカ ン ト
思惟す るということのほかに, なおそれによって私 が この思想を規定す るところの,私の内なる多様 の 直観を必要 とする 」( B1 5 8 ) のである。 ところが, この自己意識 においては,かかる自己の直観が欠 け ているか らして,私 自身の現存在 は, まだ 「 現象 に なっていない」のである。 それ故 に,「自己意識 は, まだとうて い自己認識ではない ( DasBe wuβt s e i n s e i ne rs e l bs ti s tnoc hl angeni c hte i nEr ke nnt ni s s e i ne rs e l bs t . )のである
。ところで, この自己意識 は,純粋統覚 あるいは意 識一般 としての 「 私 は考える 」( I c hde nke ) によ っ て可能である。つまり,「 私 は考 え る 」 ( I c hde nke )
と純粋統覚 とは,根源的には同義であることに注意 せねばな らない ( A3 4 3,B4 01 ,A3 5 4 ) 0
カン トによると, 「 「 私 は考える」 は,私の現存在 を規定 す る働 きを表現 して いる ( Das ,I c hde nke , dr uc ktde nAkt usaus , me i nDas e i nz ube s t i mme n. )
」( B1 5 7 ) とされる。つまり,私の現存在 は, この
「 私 は考える」 という働 きによ って 「既 に与 え られ ている」が, しか し私が この自己の現存在をどのよ うな ものとして規定すべ きかの仕方 は,未だそのた めに必要不可欠な私の内的自己直観 ( 内感 にお ける 自己規定)を欠 いている、 が故 に, この 「 I c hd e nke 」 の働 きによるだけでは, まだ規定 され るものと して 与え られていないのである
。「 I c hde nke 」 にお ける 自己意識 は,「ただ私が存在 す るとい うことだ け」
を意識する,言 い換えれば 「 私が私を思惟するとい うこと」 を意味す る 「自発性の作用 ・ ( Akt usde rSp‑
Ont ane i t at ) 」( B1 3 2 ) であるか ら, 自己認識 に必要 な内的 自己直観を欠 いている
。従 って , 丁I c hde nke 」 における 「 私 は,単 に私の思惟の自発性を,即 ち規 定作用の自発性を表象す るだけであ り, だか ら私 の 現存在 は,常 にただ感性的な ものに,換言すれば一 つの現象の現存在 として規定 され うるものにとどま
る 」( B1 5 8 ) とされるのである
。か くして, 「 I c hde nke 」 は , 「 経験 的で はあ るが, しか し直観のあ らゆる仕方 に関 しては無規定な命題 ( de ne mpi r i s c he n,abe ri nAns e hungal l e rAr tde r Ans c hau t l ngunbe s t i mmt e n,Sat z
,‑ I c hde nke . )」
( B4 2 1 ) と して, 把握 されて い る
。別言 す れ ば,
「 「 私 は考える」 とい う命題 は,無規定 な経験的 な直 鶴,即 ち知覚を表現す る ( Er〔De rSat z: I c hde nke 〕 dr uc kte i neunbe s t i mmt ee mpl r i s c heAns c hauung , d.i .Wahr ne hmnng,乱us .) 」( B4 2 1 ) とも表記 され ている
。「 I c hd e nke 」 は, この よ うに私 の現存在 を規定
す る自発性の作用 として,私の現存在 はそれによ っ て既 に与 え られているとされるが, カ ン トはこの事 態を 「 「 私 は考 え る 」 ( I c hde nke ) は経験 的命題 で あ り,私 は実在す るという命題 ( Sat z ,I c he xi s t i e r e . ) をその内に含む ものである 」( B4 2 2 ) と言 い表わす。
また 「 I c hde nke 」 と 「 I c he xi s t i e r e 」 とを同義 に解 して, 「 私 の実存在 ( me i neExi s t e nz ) は ,I c hde n‑
ke という命題 と同一である 」( B4 2 2 ) とも言表す る
。要す るに, カ ントの統覚我 ( 主体我), 即 ち 「 I c h de nke 」 における我 ( I c h) は,私 は私を思惟 す るとい
う単 に私 の思惟 の自発性 を,換言すれば私の現存在 を単 に規定 され うるものとして規定す る自発性 の作 用を表わすだけであ り, この限 りでは形式的には単 に表象を統一す る作用の形式我 にとどま り, この意 味では,西田の表現を逆用すれば,主語 とな って述 語 とな らない基体 にとどまり, この我 とは,述語 的 統一でな く,主語的統一であ り,一つの円でな く, 一つの点( 統一点)にな っているといえる
。しか し西 田に戻 ると,西田自身 も 「自覚」 の立場か ら 「 場所 」
の立場へ変換 していることであ る
。「西 田 は, 自覚 という意識の 「 統一点」か らものを見 る立場か ら, それを包む場所か らものを見 ようとす る立場へ転 じ ている 」
。 (8)す ると, カ ン トの自己意識(自覚)は,私のあ らゆ る表象 に常 に伴わねばな らないところの 「 I c hde nke 」 において成立す る
。つまり,私の自己意義の根底 に は,常 に 「 I c hde nke 」 が意識表象 を統一 す る主体 として,西田風 にいえば,主語 とな って述語 とな ら ない基体が述語化 して,横たわ っている。 自己意識 において,私 は自己を対象化 して意識 し認識 し串 う として も,対象 として意識 された ものは常 に客体我 ( 対象我) 宣 な り,主体我 その ものは対象的に把握 す ることはで きない。客体我 は主体我の影であ り, 主 体我 その ものは常 に影の背後 に隠れ, その底 に潜 む ことになる
。それで いて, 「 I c hde nke 」 は,私 のあ らゆる意識現象 においてそれの根底を貫 き,一貫 し て意識を構成す る統一作用 として働 いているのであ
る
。カ ントの有名な言葉 に, 「一般 に客観 を認識 す る ために前提 されるものは,亘れ自身客観 として認識 す ることはで きない 」 ( A4 0 2 ) とあ るが, まさに至 言である。考える働 きその ものは,作用 としてそれ 自身対象的に認識で きない。考える認識主観 その も のは, それ自身客観 として認識で きない。
西田は, これに関連す る事態 について こう言 う, }
「 真の主観 は反省す ることので きない もので なけれ
ばな らぬ,客観視 す ることので きない ものでな けれ ばな らぬ,即 ち意識 の構成的統一作用 とい う如 き も のでなければな らぬ, カ ン トの所謂純粋統覚 の綜 合 作用 とい う如 きものがそれであ るとも考 え ることが で きるであろう」 ( 第二巻
(9), 1 41 貢)。 この意 味 で は,西田のカ ン ト解釈 は妥当な もの といえよ う
。また,私 が主体我 を認識 しよ うと, それを対象化 すれば, それは もはや主体我ではな く客体我になり, 主体我 は常 に客体我 の背後 に潜在す る
。そ してか か
る主体我 の構造 を考 えている我,常 にそれを包 み込 んでいる我 が あ る
。そ こに は, 確 か に西 田の い う
「 意識 の野」が開示 されてお り,「 意識 の場」が成 立 して いる
。この意味では,西 田の表現 を もう一度 借 用す ると, 「 I c hde nke 」,即 ち純粋 統覚 の 自己意識 (自覚)とは,確かに主語的統一でな く,述語的統 一 であ り,一つの点でな く一つの円であ り,物で はな く場所 であ り,「 我 が我 を知 ることがで きないの は, 述語 が主語 となることがで きない 」 (Ⅰ‑1 41 )か ら であ るといえよう
。まさ しく, 「真 の動 的主観 は反 省す ることはで きぬ,反省せ られた ものは既 に動 的 主観 ではないと云 うことである」 ( 第二巻, 7‑8) 。 か くて,西 田の既述 の言説 ( Ⅲ‑2 8 6 ,本稿 5 4 貢)は, 今や十分 に納得で きるであろう
。上 田は, こう解釈す る‑ 「 西 田は又 ここか ら, カ ン トの dasl c h を改釈 して います 。 「 Dasl c h は経
○● ● ○●●
験 の場所である
。論理的な るもの も之 に於てあ り,
●000●○
感覚的なるもの も之 に於てある場所である」( 十三 一 2 8 0)
10)」, と
。§ 4.西 田の場所 とカン ト
西田は,「 場所」 を大 きく三種 に区別す る
。まず,
「 有 の場所」で, それには, 存在 す る物 が あ る 「場 所」 と,物 と物 との関係がそ こに 「 於いてある場所 」
とがある
。物 に対 して外的な場所が 「 空間」であり,
物 に対 して内在的な場所が 「 力の場 」 である
。この
「 有の場所」 は,物 と物 との関係 の世 界 と して 自然 罪( 現象界)である。次 に,物 と物 とが関係す る 「有 の場所」 に対立す る場所が,意識 とその対象( 物)と が関係す る 「 有無対立 の場所」 としての 「 意識の野」
である。 「 「 意識 の野」 は,意識 とその対象 をと もに 自己の内に包容す る場所であるが, これを意識 す る 意識 ( 主観)の側か ら見れば,対象を 「映す場所」 と な り, また意識 され る対象( 客観)の側か ら見れば, それが 「 於 いてある場所」 とい うことにな る( l l )」。
そ して最後 に, この 「 意識 の野 」 に対 して,有無 の 対立を超越 した 「真の無の場所」 としての 「 絶対無 の場所」がある。 ( 図 1 参照)
西田の この場所の論理で, カ ン トの意識一般 や統 覚 の立場 を評価す ると, こうな る 。 「有無対立 の立 場か ら真の無の立場 に移 る時, その回転の点に於て,
カ ン トの所謂意識一般 の立場が成 り立
っ 。この立場 か ら見れば,すべてが認識対象 となる,理論的妥 当 となる,すべてが認識対象界 に映 されたる映像 に過 ぎな
い 。真実在 は認識対象界の後 に形 を潜 めて, 不 可知的なる物 自体 とな る」( Ⅰ‑9 3 ) 。 あるいは 「い わゆる意識一般 とは対立的無 より真の無 に転ず る門 口であ る。対立的有 の立場 において不可知的な る力 の作用であ った ものは,対立的無の立場 において意 識作用 とな り,真の無 の門口たる意識一般 を越 ゆ る ことによって,広義 における意志作用 となる
。判 断 作用 とい うのは丁度意識一般 の立場 において見 られ るのである
。判断 と意志 とは一つの作用の表裏 と考 えることがで きる 」(Ⅰ‑9 4) 0
小坂 は, こうした論点 を踏 まえて, 「西 田 は, カ ン トのいわゆる 「 意識一般」 は,西 田のい う 「意識 の野」 か ら 「 絶対的無 の場所 」 にいた る門 口に位 置 していると考えている ( 1 2 )」 と解す る
。西 田が, カ ン トの意識一般 を 「 絶対無の場所」 の 門口にあると した理由 としては,前 にも引用 したが,
「とにか く, カ ン ト哲学 において は, 先験 感覚論 の 始 にい っている如 き,我 々の自己が外か ら動か され るとい う如 き主客 の対立,相互限定 とい うことが根 低 にあ り, そ こに主語的論理の考え方 を脱 して いな い。 いわゆる物 自体 の難問 も, そ こか ら起 って来 る のである 」 ( Ⅲ‑2 8 6 ) とい うことに基 づ くと推察 さ れ る
。けだ し, ヤコ‑ ビが言 うよ うに, 「私 はか の 〔物 自体の 〕前提な くして はカ ン トの体系 に入 りえず, この前提 を以て してはカントの体系に留まりえぬ( 1 3 ) 」 。 物 自体 は,確かにカ ン ト哲学 の難問である
。‑5 6‑
西田哲学 の「 場所」の論理 とカ ン ト
カ ン トも,西田の指摘す る通 り, 「超越論 的感性 論 に於 いて現象の概念が制限 された ことは,既 にお のずか ら可想体 ( No ume na) が客観 的 に実在 す るこ とを我 々に示唆 して' いる 」(A2 4 9 ) ことを は っき り 是認す る
。ドイツ観念論 の哲学的展開 は,物 自体 を 認識主観 ( 哲学的精神主体)の内に取 り込む歴史であっ
た。西 田 も, それを自覚 して論 じている
。「 所与の範暁 とい うものは何処か ら成立す るので あろうか。 カ ン トの物 自体を知覚 の根低 に考え られ ねばな らぬ超越的対象 の意味 に解す るな らば, それ は排除すべ きではな く,かえ って認識構成 に欠 くべ か らざるものでなければな らぬ 」(Ⅰ‑1 7 2 ) 。 そ し て知覚 の内に意志を包 む とはいえないが,意志 の内 には知覚 を包む とはいい うると考 えて, 「意志 の意 識 なく して知的 自覚 は成立せな い。 カ ン トの純粋統 覚が フィヒテの事行 に到 らねばな らなか ったの もこ の故である 」( Ⅰ‑1 7 2 ) とす る
。その当時のカ ン ト解釈の傾向の適否 は別 に して, 西田の考える思想 は, カ ン ト自身の哲学 の内に も存 す るものである
。まず言えることは, カ ン トの理論 理性( 悟性)ら,実践理性 ( 意志)ら,同一 の理性 で あ り, しか も実践理性 の優位 ( Pr i mat ) が カ ン ト哲学 の根本主張であることである
。次 に言え ることは, 物 自体 に関 して, カ ン トも西田の指摘す るように, 物 自体 を 「 超越論的客観」 ・ 「 超越論的対象」 と し て認識主観が,認識構成のための不可欠 の構成要素 と考えているということである
。「これ 〔超越論的客観 〕は或 るもの ( Et was‑Ⅹ) を意味 す る
。‑‑ これ はただ統覚 の統一 の相 関者 ( Co r r e l at um) として, 感性 的直観 におけ る多様 の 統一 に対 して使用で きるだけである,悟性 はこの統 一 によ って直観の多様 を一つの対象概念 に結合 す る のである 」( A2 5 0 ) 。 だか ら,「この超越論的客観 は, いかに して も感性的与件 と切 り離す ことはできない, なぜな ら, そ うす ると, それによって超越論的客観 の思惟 されるべ き何物 も残 らぬ ことになるか らで あ る 」( A2 5 0‑' 1 )。従 って , 「 現象 は, それ 自身 だ け では, また我 々の表象 を離れては何物で もありえず, 果て しない循環論が生ずべ きでないとすれば, 現象
とい う言葉がすでに或 るものへの関係を指示 して い る 」( A2 5 1‑' 2 ) のである
。現象が生 じるためには,我 々の感官 を触発す る何 か或 るもの ( e t was ) が存在 せねばな らな い。 「我 々 がまさに同 じ対象 を, 〔現象 としてのみな らず 〕, 物 自体 として もまた, たとえそれを認識で きな いに して も,やはり少 な くとも思惟す ることがで きねば
な らない とい うことが, ここに常 に留保 されている。
なぜな ら, さ もないと,現象 として現われ るものが 何 も存在 しないのに,現象が存在す るとい う不合理 な命題がそ こか ら生 じて くるか ら 」( BXXVト ⅤⅠ Ⅰ ) 0
カ ン トによると,我 々の心性 を内 と外か ら触発 し つつ,現象 として内外 に現われ出 るものの根拠 と し て超越論的 に措定 され る ものは, 「或 る もの一般」
( e t wasqbe r haupt‑Ⅹ) で あ り, そ れ は内 的 に は
「 超越論的主観」であ り,外 的 には 「超 越論 的客観 ( 対象) 」である
。カ ン トはこう言 う, 「外 的現象 の 基礎 をな し,我 々の感官 を触発す るこの或 るものは, 可想体 と して(もっと適切 には超越論的対象 と して) 見 られ るものであるが, この或 るものはまた同時 に 思考の主体 たることがで きるで あ ろ う 」 (A3 5 8 ) 0
しか し て , 「一 方 の 関 係 に お い て は 物 体 的 ( k6r pe r l i c h) と称 され る同一 の ものが, 他方 の関係 において は同時 に思惟す る存在 ( e i nde nke ndWe s e n) であることとなるであろ う 」(A3 5 9 ) 。 それ故 に, 超越論的主観 と超越論的客観 とは,経験 を可能 な ら
しめる超越論的統覚の統一 の コレラ‑ トである (A2 5 0 ) ともいえ るのである
。こうした考 え方が, カ ン トの超越論的論理 なので ある
。ここで論 じた ことは,主 として超越論的反省 において扱われている
。今 ようや く我 々は,西 田の
「 場所」 の論理 に関連す るカ ン トの 「場 所」 論 を論 ず るところに到達 したのである。
§ 5. カ ン トの場所論
西田 とカ ン トとを主題的 に論 じた論文が殆ん どな いように,西田の 「 場所」 の論理 に関 して, カ ン ト の 「 場所」 の思想 に触れた論稿があるのか どうか, 寡聞に して知 らない。
さて, カ ン トは,「 反省概念 の多義性 へ の注解」
の節の冒頭で, こう言 う,「我 々が, 感性 にお いて かあるいは純粋悟性 においてか, いずれかにお いて 概念 に与 え る位 置 ( St e l l e ) 杏, 超越論 的場 所 ( Or t )
と名づ けることを許 されたい 」( A2 6 8 , B3 2 4 ) 0
カ ン トは,超越論的反省の営みを超越論的場所論
( Topi k) と解 している
。カ ン トの い う超 越論 的場 所
論 とは,「それぞれの概念 に, その使用の差異に従 っ
て帰属す る位置を判定 し, この場所 をあ らゆる概 念
に規定す るよ うに規則 に従 って指示 す る こと」 (A
2 6 8 , B3 2 4 ) を役割 とす る。 何故 にそれ が必要 か と
いえば, それは,「 概念が本来 いか な る認識能 力 に
帰属す るかを常 に識別 して,純粋悟性 の誤 った要求
と, それか ら生 ず る幻惑 とを根本 的 に阻止 す る」
( A2 6 8 , B3 2 4 ) ためである
。カ ン トの超越論的場所論 は, 「ア リス トテ レスの 論理的場所論 はこれに基づ く 」( A2 6 8 , B3 2 4 ) とあ るよ うに,演説 や論議で 自己矛盾 に陥 らぬよ うに関 係概念 のあ り場所 と しての論点 。題 目を論 じた ア リ
ス トテ レスの 『トビカ』 を ヒン トに しているが, 内 容 は大 いに異 な る。超越論的場所論 は,概念 に対 す るあ らゆる比較 と区別 に関す る四つの反省概念, 即 ち ( 1) 一様性 と差異性 ,( 2 ト 致 と対立
, (3)内的な もの と外的な もの ,( 4) 質料 と形式 ( 規定 され る もの と規 定作用)を内容 とす る。
あ らゆる判断,従 ってあ らゆる比較 と区別 は 「反 省 」 を必要 とす るが,表象一般 を認識能力 と比較 対 照 して,感性か悟性 かへのそれ らの所属 の場所 を識 別す る働 きを 「超越論 的反省」 とい う (A2 6 1 , B 31 7 ) 。
ここには,従来 の形式論理 ( 一般論理学)に対 す る カ ン トの超越論的論理 の考 え方がある
。従来の形 式 論理 ( 学)は,認識 の内容 と対象 の差異性 を一切捨 象 して,思惟 の単 なる論理的形式 のみを考察 した。 こ れに対 して,超越論的論理 ( 学)は,必ず しも認識 の 一切 の内容 を捨象せず, もっぱ ら対象 に関す る純粋 思惟 の規則 のみを考察 す るので あ る (A5 4‑' 5 , B 7 8‑8 0 ) 。 だか ら,形式論理 にお いて, 概念 の論 理 的比較 は, その概念 の対象が何処 に所属す るか を顧 慮せず になす ことがで きるが, しか し,超越論 的論 理 と して , 「 我 々が これ らの概念 に よ って対象 に関 与 しよ うとす る場合 には,概念がいず れの認識能 力 の対象 であるべ きなのか,純粋悟性 の対象か, それ とも感性 の対象 なのか, を決定す る超越諭的反 省 が まず必要 なのであ る 」( A2 6 9 , B32 5 ) 。
この超越論的反省 を欠 くと,我 々は純粋悟性 の対 象 を現象 と混同す ることに基づ く超越論的多義性 の 誤謬 に陥 いることになる
。この超越論的反省 に基 づ く超越論的場所論 を欠 いたがために,換言す ると, 反省廠念 の多義性 に欺かれたが ため に, 「一言 で い えば, ライプニ ッツが 〔世界の知的体系 によって 〕 現象 を知性化 した ( i nt e l l e kt ui e r t e ) のと同様に,ロッ クは Noogoni e( 概念 発生論)の体系 によ って悟性 概 念 を感性化 した ( s e ns i f i z i e r t ) 」( A2 7 1 ,B3 2 7 ) ので ある。 カ ン トによると,本来感性 と悟性 との結合 に よってのみ,対象 に関す る客観的認識 ( 判断)が成 立 す るとい うように考 えないで , 「この偉大 な両人 は,
この両認識源泉 の一方 にのみ固執 して, それを直 ち に物 自体 に関係 させて, しか も他方 の源泉が一方 の 源泉 の表象 を混乱せ しめ るとか, あるいは秩序 づ け
るとかす るだけの もの と考えた 」( A2 7 1 , B3 2 7 ) と 論断す る。
§ 6. 西 田とカン トの場所論の比較
カ ン トは, ア リス トテ レスの 『トビカ 』 を ヒン ト に して,概念 のあ り場 所 (T6 7 TOS ) を概念 の所属 す る 「 場所」 と して捉えている
。西田の 「 場所」 は, プラ トンの 『テ ィマイオス』
におけるイデアを受 け取 る 「場所」 (コー ラ, Xa pa) , あるいはア リス トテ レスの 『デ ・アニマ 』
における形相 の 「場所」 ( T6 7 TOS ) の思想 を ヒン ト に している 。 「か くの如 きイデ アを受取 る もの と も い うべ きものを, プラ トンのテ ィマイオスの語 に倣 うて場所 と名づ けて置 く
。無論 プラ トンの空間とか, 受取 る場所 とかい うもの と,私 の場所 と名づ け る も の とを同 じいと考 えるので はない」(I ‑6 8 ) 。また,
「 真の形式 の形式 は形式の場所 で な ければな らぬ
。ア リス トテ レスの 『デ ・アニマ 』 の中に も, ア カデ ミケルに倣 うて精神 を 「 形相 の場所」 と考えている 」 (
Ⅰ‑7 2 ) 0
西田は, カ ン トの 「 場所」 に関す る論説 を恐 らく 読んでいない, あるいは読み落 しているのではな い か と思 うが,両者 の場所の考 え方 には,共鳴 し合 う 思想があると思 われ る
。そ こで,両者 の思想が共通 に重 な り合 う論説 に的を絞 って少 し論 じて見 たい。
カ ン トは , 「 反省概念 の多義性」 の附録 において, ライプニ ッツの唯心論 的哲学が超越論的場所論 を欠 くことによ り,反省概念の多義性 とい う誤謬 に陥 っ たとい うことを節全体 において主題的 に論究 して い る。西 田の場所の論説 に関係す るものに限定すると, カ ン トは, ライプニ ッツの 「 不可識別者同一の原理 」 が本来 は悟性 レベルの物一般 の概念 に妥当す るにす ぎないのに, それが無批判 に感官 の対象 にまで拡張 して適用 され る過 ちを犯 していると批判す る
。その 理 由は,超越論的場所 の反省 を欠 くためである
。確 かに我 々が一滴の水を物自体 としてその全性質を知 っ ているとすれば,概念的 には 「いずれの水滴 を も他 の水滴 と異 なるもの と見 ることはで きな い」, 即 ち いずれの水滴 も他 の水滴 と同 じとな るが, 「しか し この水滴が空間における現象であるとすれば, それ は単 に悟性 の内のみな らず,感性的な外的直観 の内 に( 空間中に) 場所 を有す る 」( A2 7 2 , B3 2 8 ) ことに なる
。だか ら,「 場所が異 な る とい うことは, ‑‑
現象 と しての対象 の数多性 と区別 とを,必然的 た ら しめる 」( A2 7 2 , B3 2 8 ) のである。つ ま り,悟性 と い う意識 の レベルでは, た とえ概念的 に同一で あ っ
‑ 5 8‑
西田哲学の「 場所」の論理 とカ ント
て も,空間において偲,二つの物( 水滴)が同時 に同 一の位置( 場所)を旦有することができないか ら,従 っ て場所論的にこっの物 の差異が明 らかになるか ら, 二つの物の識別が可能 になるのであり, ライプニ ッ
ツの原理 は誤 りであることが明 らかになる。
これに関連す ると思われる西田の論説を上げると,
「 空間 においては,同時に二つの物 が存在 す ること はで きないが,意識の場所 においては,無限に重 な り合 うことが可能である 」(Ⅰ‑1 1 7‑' 8 ) 0
この西田の言説 は,一見す るとカ ン トと反対 の考 えを主張 しているように受 け取れるが,果た して ど うか。 それは 「 意識の場所 」 か ら 「 有 の場所」 の方 向で考えればよいことなのであ る
。つ ま り, 「意識 の場所」 は,「 意識 の野」 と して, そ こで は二 つの 物 も同時に重層的に共存で きる場所であることは明 らかである
。この 「 意識の野」 は, 「有無対立 の場 所」 として 「 有の場所」を包み込む場所であるか ら,
「 空間」 としての 「 有 の場所」 で は, 二 つの物 が同 時に同一の場所を占有で きないことを知 ることがで きるのである
。従 って,一般的にいえば, カ ントの超越論的場所 論が, ライプニ ッツの唯心論的哲学 に対 して果 た し
たような超越論的反省 に基づ く批判 は,西田の 「場 所」の立場では , 「 絶対無の場所」か ら 「 意識の野」
へ,そ して 「 有の場所」への方向に 「 場所」の在 り 方を考察 し, それぞれを比較 ・識別すればよいので ある
。西田はカン ト認識論 について こう言 う, 「私 は今 フィヒテ及びフィヒテ以後の独逸唯心論の批判 に入 り込む暇はないが,何処 まで もカ ン トの認識論的立 場を維持 して形而上学 に陥 るを避 けるには,認識主 観 としての自覚の意義 を失わないことを務めねばな らぬ 」(I‑1 7 6 ) 。 もう一つ引用す ると,「 カ ン トの 認識主観 については, リッケル トの如 き考に反 して, む しろカ ント自身甲考 を維持 したい と思 う」 (Ⅰ‑
1 8 4 ) 。 しか して , 「 私 は何処 まで も判断意識 の立場 を離れないで,異体的一般の背後 に も場所 として抽 象的一般を考えることによって,認識論的立場 を維 持 したいと思 う 」( Ⅰ‑1 8 5 ) 。
西田は , 「 場所」の立場で は, む しろカ ン トの認 識論的立場を維持 しよ うと努 めていることが注 目に 値す る
。§
7 ・ . ′カン トの無の思想
カン トの 「 反省概念 の多義性」 に関す る附録 の個 所 は, これまで論 じたように非常 に重要な思想 を蔵
無
1対生なしの垂虚な救急として
en8
rA tio ni B
2
概念の垂虚な対象として3対象なしの空虚な在銘としてnihilpriy
Atiy tn
enBin品JnArium4枚念なしの空虚な対象として
ni
hil ne gA ti ∃ 巨
す るにも拘 らず,汗牛充 棟のカン ト研究のなかで 誠 に不思議な ことに従来 か ら殆んど盲点のよ うに 看過 され,見落 されて き たのである
(15)0
この附録の末尾で, カ ン トは,その有無が いま だ決定 されていない対象 一 般 の概 念 につ いて,
「 無」 の表 (図 2 )にあ る ように, 育( e ns ) と無 ( ni hi l )との対比 にお いて, 考察 している
。つ まり, カ ン トは,超越論的場所 論 において,有 と無 とを 越えた超越論的反省 の立 場か ら, 4 種 の無 を考察 しているのである
。この 意味では, カン, 卜の超越論的場所 とは,西田の い う
「 有 と無 もこれに於てある真の無の場所」 ( Ⅰ‑1 4 8 ) の考え方 に密接 に共通す る思想があるといえよう
。まず, 4 種の無 についての説明を述べ, その後 に それについての疑義や問題点を論ず る。
(1
) 「 対象なき空虚な概念」 と̲ しての無 ( Ni c ht s ) と は, いかなる示 され うる直観 も対応 していない概念 の対象が,対象なき概念 として 「 無」であることで, 例 えば可 想 体 ( Noume na) の よ うな 「思 惟 的存 在 ( e nsr at i oni s ) 」のことである
。 .( 2 ) 「 概念の空虚な対象」 としての無 とは, あ る も の ( Et was ) としての実在性 に対す る 「 無 」 と しての 否 定 性 の手 とで , 例 え ば影 ( Sc hat t e n) , 寒 気 ( Ka l t e ) のような対象欠如 の概念であり,「 欠如的無 ( ni hi lpr i va ' t i vum) 」 の ことである
。( 3 ) 「 対象なき空虚な直観」 としての無 とは, 直観 の形式 として,実体なき或 るものであるが, しか し それ自身 は何 ら直観 され る対象 で はな く, 対象 ( 覗 象)の形式的条件 としてあるもの, 例 えば 「純粋空 間」 と 「 純粋時間」の ことであ る
。それ は, 「想像 的存在 ( e nsi magi na r i um) 」 である
。( 4) 「 概念なき空虚な対象」 としての無 とは, 自己 矛盾す る概念の対象 としての無 の ことで あ り, 「か か る概念 は無であるが故 に,不可能 な ものである。
例えば,二辺か ら成 る直線図形のようなものである」
(A2 9 1, B3 4 8 )
。こ れ は , 「否 定 的 無 ( ni hi l
ne gat i vum) 」 である
。カ ン トによ ると, 思考物 Ge danke ndi ng( 1 ) が非合 理な もの Undi ng( 4) か ら区別 され るの は, 前者 は単 なる仮構物であるゆえに,可能 な ものに数え られ な いのに対 して,後者 は, その概念がおのれ自身 をす ら廃棄す ることによって,可能 な ものに対立 して い るとい うことによってである。 しか し両者 とも空虚 な概念である。 これに反 して,欠如的無 ( 2) と想像 的 存在 ( 3) とは概念のための空虚 な与件である
。光 が感 官 に与え られなか った時 は,人 はいかなる闇 ( Fi ns t ‑ e r ni s ) を も表象で きない し, また鉱 が りあ る存在者 が知覚 されなか った時 は, いかなる空間を も表象 で きない。否定性 も,直観の単 なる形式 も,実在的 な もの ( e i nRe al e s ) な しでは, いかな る客観 で もない ( A2 9 2 , B3 4 8‑' 9 ) 。
さて, 4 種の無 の内で,欠如的無 ( ni hi lpr i vat i v‑
um) ( 2 ) と否定的無 ( ni hi lne gat i vum) ( 4 は が無 ( ni hi l ) と解 され るの は理解 され易 いが
,思惟 的存在 ( e ns r at i oni s ) ( 1 ) と想像的存在 ( e nsi magi na r i um)( 3 ) とが 育( e ns ) でな く,無 と解 されるのは注意 を惹 く
。また , 「 実在性 とは或 る もの ( Et was ) で あ り, 香 定性 とは無 ( Ni c ht s ) である 」( A2 9 1 ,B3 4 7 ) の用語 法 に見 られ るように,実在性の反対が否定性であり, 或 る ものの反対 が無 で あ る
。この節 で も, 「obe r Et wasode rNi c ht ss e i . 」 (A2 9 0 , B3 4 6 ) とい う用 法 にあるように, 無 と或 る もの とが対立 的 に用 い られていることが,やはり注意を惹 く
。普通の用法 では,有 と無のよ うに,「 存在 」( Se i n,e ns ) と 「無」
( Ni c ht s ,ni hi l )が対立的,対比的 に使用 され るのが 常である
。カ ン トの Se i n の用法が普通 と異なるのは,
「 存在 はいかなる実在的な述語 で はない, 存在 は単 にある物の定立 Pos i t i on にす ぎない 」( A5 9 8 , B6 2 6) というカ ン トの有名な考え方を反映 しているので あろう
。次 に,欠如的無 としての影 と寒気の例 について考 えたい。 まず 「 影 ( Sc hat t e n) 」 であるが, カ ン トは
「 光が感官 に与え られなければ, 我 々 は闇 を も表象 で きない 」 と論ず るが,影 は,光 と闇 との問の中間 現象であるか ら,光の光量 に応 じて影の濃淡 とい う 濃度が異なるはずである
。だか ら,単純 に影を否定 性 としての無 とす るのは疑問である
。これと同 じよ うに , 「寒気 ( Kal t e ) 」 も,単なる否定性 としての無 ではない。和辻が,『 風土』 において論ず るように,
「 我 々が寒 さを感ず るとき,我 々は直接 に 「寒気 」 を感ず るので あ る
。す なわ ち志 向的体験 にお いて
「 感ぜ られたるもの」 としての寒 さは , 「 主観的 な も
の」ではな くして 「 客観的なもの」なのである
。‑‑
超越的有 としての寒気 というごときものは, この志 向性 において初めて成 り立
っ (1 6 ) 」 。
カ ン トは,「 否定性 は実在 的な ものな しで は, い かなる客観で もない」 と考えて,対象 を欠 く概念 た る寒気 は,否定性 としての無 と捉えているが,和辻 の適切 な把握 に見 られ るように,寒気 はやはり濃度 を もち,客観的に実在す るものであ り, カ ン トの考 え は疑 問で あ る
。また, カ ン トは, 「原則 論 」 の
「 知覚の予科」 において,「 感覚の対象 たる実在 的 な もの ( dasRe al e ) は,内包量( 皮)を有す る 」 と して, 現象 にお ける実在性 Re al i t at と否定性 Ne gat i on と
の問には,多 くの可能 な中間感覚の連続的差異 が内 包量 と して存在 しうる ( A1 7 0 , B21 2 ) ことを論 じて いるが, ここの論議 は自己のその論説 に反す る もの と言わざるをえない。
最後 に,否定的無 と しての 「 二辺か ら成 る直線図 形」であるが, ここでは,「その概念 が 自己矛盾す るか ら,不可能 な ものである」 とされているが, 原 則論では,「 二直線 によって囲 まれた図形 とい う概 念 には矛盾 は含 まれていない,二直線 とその接合 と いう概念 は決 して図形 の否定を含 まぬか ら
。この不 可能性 は概念その ものにではな くして,空間におけ る概念の構成 に,即 ち空間 とその限定 との制約 に基 づ くのである 」( A2 2 0‑' 1 ,B2 6 8 ) とその反対 の こ とが主張 されているのである
。いずれの主張が妥当な ものであるか,結論か ら言 えば,後者の方である
。ユーク リッ ド幾何学では, 前者が妥当な主張 になるが,非ユーク リッ ド幾何学 では,後者が妥当な主張 になるのである
。リーマ ン の非ユーク リッ ド幾何学( 楕円的幾何学)で は, 「二 直線が一つの面積を囲む( 1 7 ) 」 ことが可能である
。い ずれの幾何学の公理を選ぶかに応 じて,空間が異 な るので あ る
。カ ン トの後者 の主張 の中 で, 「この
〔図形の 〕不可能性 は概念その ものにではな くして, 空間における概念の構成 に基づ く」 とあ り, カ ン ト はやはり, この図形の空間的構成 は不可能 と考 えて いるようであるが, リーマ ンの球面空間では, それ は構成可能なのである。
さて我々は, カン トの 「 無」の考 え方 について い くつかの疑義 を呈 し, その難点を指摘 した。 それ は 基本的には妥当な批判であったと患 う
。しか しその 反面,気 になる点がある。二辺か ら成 る直線図形 が ユーク リッ ド幾何学では不可能な図形であって も, 非ユーク リッド幾何学では可能 な図形 になる
。この
‑ 6 0‑
西田哲学の「 場所」の論理 とカ ン ト
ように思考の立場が変わると,不可能 な ものが可能 な ものになる。 ここには,見逃せない重要な論点 が ある
。それは簡単 にいえば,西 田が, 「形相 を有 と な し形成を善 となす泰西文化」 に比 し, 「東洋文化 の根低 には形なきものの形を見,声なきものの声 を 聞 く」 といった言葉を思 い起 こすにつけて も,東洋 人である筆者 は,無意識の内にいわば東洋的無のフィ ルタ‑をかけて,西洋人であるカ ントの無観 を当然 の如 く分析 していたのではないか, という自省 であ る
。これは,異文化を考える際に, 自戒すべ き反省 点であると思 う
。そ ういう訳で, カ ン トの無の所説を もう一度虚心 に捉え直す ことに したい。 カ ントは,有 と無,存在 と無 ,e ns と ni ni l といった対比 で, 無 を捉 えて いな いこと,それどころか, 無 ( Ni c ht s ) の中 に有 ( e ns ) と無 ( ni hi l )とを一緒 に入れていたことは,既 に指摘 した。 しか も, Ni c ht s と Et was とを対比 して論 じて いた。実在性 Re al i t at が Et was ( 或 るもの)で あ るの に比 し,否定性 Ne gat i on が無( ない もの)で あ った。
すなわち,否定性 としての無 とは,実在性の否定 で あり ,ni c hte t was なのであ る
。英語 で は, 無 とは not hi ng あるいは not hi ngne s s であ り,辞書によると, not hi ng は ,s ome t hi ng( ドイツ語の e t was ) に対応す
る否定形であり, 即 ち notanyt hi n g のこととある( 1 8 ) 0 ドイツ語 と英語 とで用法が同 じなのである。そして, 前述 した 「 obe rEt wasod e rNi c ht ss e ュ . 」 という表 現 は, この節 に 2 度 あるが, Et was と Ni c ht s とが対 比 された 「 e r 」 とは , 「 対象 Ge ge ns t and」 と 「対象 一般の概念」 とを指 して いるので あ る
。だか ら, Et was と Ni c ht s ,有 と無 とは,対象 にかかわ る事態 を意味 していることが分か り,我々に重要な論点 を 示唆す る
。つまり,有 とは有 るものであり,対象的 に何か或 るもの e t was であり,形 のあ る ものの こと である
。これに対 して,無 とは無 いものであ り, 対 象的に何 にもない ( no‑ t hi ng) であり,何かでない も のであ り,形のないものなのである。
こう考えると, カ ン トの 4 種の無の思想がよ く理 解できる
。まず第‑ に,可想体(ヌーメノン)の如 き 思惟的存在 e nsr at i o ni s ( 1 ) と純粋空間及 び純粋時間 の如 き想像的存在 e nsi ma gi nar i um( 3) とのよ うに, e ns ( 育)であるものが無 とされたのは, まさに, そ れが ni c hte t was として 「形 のない もの」 であ り, 何か具体的な対象性がない ( o hneGe ge ns t and) か ら である。第二 に, 影 や寒気 とい った欠如 的無 ni hi l pr i vat i vum( 2 ) が, 無 とされたの は, 影 や寒気が 目
に見え るような 「 形のないもの」であり,従 って対
象 として空虚で捉えどころのない ものであるか らで ある。第三 に,二辺か ら成 る直線図形のような否定 的無 ni hi lne gat i vum( 4 ) , tは, 対象 的 に否定 的年 も の,即 ち ni c ht e t was ( notanyt hi ng,Undi ng) と し て何か具体的な形 に現わせない もの,従 って概念 的 に形 にな らない もの として無であった, ということ である。
ここには,明 らかに無 の思想 を特徴 とす る東洋文 化 に対 して,西洋文化が有の思想,「 形のあるもの」
の文化 といわれ る所以がある
。しか し西 田哲学 とカ ン トにおける 「 無の思想」の対質 については, いず れ別の機会 に論 じたいと思 う
。注
( 1 ) .中江兆民 , 『 一年有半』 ( 中公バ ックス) ,3 6 4 貢, 中央公論社
( 2) . 西田幾多郎,『 善の研究』 , 4 貢,岩波文庫 ( 3 ) .西田幾多郎 『 場所 ・私 と汝』哲学論集 Ⅰ ,3 6 頁,
岩波文庫,以後 この書か らの引用は本文中で Ⅰ‑
3 6 などと記す。
( 4) . カ ン トと西田との関係を主題的に論 じた論文は, 管見 によれば,門脇卓爾 「 西田哲学 とカ ン ト」
( 上田閑照編 『 西田哲学へ の問 い』 所収, 岩波 書店 ,1 9 9 0 年) 以外 には知 らない。
( 5) . 西田幾多郎,『自覚 について』哲学論集 Ⅱ, 2 81 頁,岩波文庫,以後 この書か らの引用 は本文 中 で Ⅱ‑2 81 などと記す。
( 6 ) .Kant , Kr i t i kde rr e i ne nVe r nunf t .B1 3 2 引用 は,慣例 により,第 1 版をA ,第 2 版をBと し て本文 中 にペー ジづ ける
。なお, 上 田閑照,
『 西田幾多郎を読む』,岩波書店, 32 4 貢以下参
照
( 7 ) .Se l bs t be wuβt s e i n は, 邦訳 で は 「自己意識」
と 「自覚」 の二様 に訳 されて い る
。『純粋理性 批判 』 には, 日本では五種類の翻訳があるが, 天野卓祐訳( 岩波文庫旧版,講談社学術文庫版)
と高峰‑愚訳( 河出書房版)では 「自覚」 と訳 さ れてお り,原佑訳( 理想社版 カ ン ト全集)と篠 田 英雄訳( 岩波文庫版)と有福孝岳訳 ( 岩波版 カ ン
ト全集)では,「自己意識」 と訳 されている。 筆 者 は自己意識の方を取 る。
( 8 ) . 小坂国継 , 『 西田幾多郎の思想』, 1 4 6 貢, 講談 社学術文庫
( 9 ) .西田幾多郎,『 西田幾多郎全集』第二巻 ,1 41 頁, 岩波書店
( 1 0 ) .上田閑照 , 『 西田幾多郎を読 む』, 32 6 貢, 岩波
書店
( l l ) .小坂国継,前掲書 ,1 4 8 貢
( 1 2 ) . 小坂国継,『 西 田哲学 の研 究』, 2 0 4 貢, ミネル ヴ ァ書房
( 1 3 ) . Jac obi ,Davi dHumeube rde nGl aube n ode r l de al i s musundRe al i s mus ,1 7 87 , S2 2 3 ( 1 4 ) . プ ラ トン , 『テ ィマイオ ス 』 (プ ラ トン全 集 1 2 )
種 山恭子訳 ,85 貢訳注参照,岩波書店
( 1 5 ) . この附録 の個所 に着 目 した研究書 は, 日本 で は 唯一,牧野英二 , 『カ ン ト純粋理性批判 の研 究 』 法政大学 出版局, くらいであ る。牧野 は, この 個所 を 「 超越論 的反省 の地平 」 ( 第二章)と 「無 に関す るテーゼ一一 「 無」 の表への一考察‑ 」 ( 第八章)で詳細 に考究 してい る
。超越論 的反省概念 の重要性 に着 冒 した論文 と し て は, 上 山春 平 「カ ン トの カ テ ゴ リー体 系 」
( 『 歴史 と価値』所収,岩 波書 店)が あ り, 参 考 になる 。2 9 4 貢以下
外国の研究書 で も, この個所 を考察 した もの は 殆 ん どな く,次 の ス ミスの書 くらいである
。N.
K.Smi t h,AComme nt ar yt oKant ' sCr i t i que ofPur eRe as on,P41 8‑P42 4.
( 1 臥 和辻哲郎 , 『 風土 』, 1 1 貢,岩波文庫
( 1 7 ) . モ リス 。クライ ン , 『 数学 の文化史』下 ,2 51 貢, 現代教養文庫
リーマ ン , 『 幾何学 の基礎 をなす仮説 につ いて』
( 菅原正巳訳) ,清水弘文堂
B .Ri e mann , " Ube rdi eHypot he s e n,We l c he de rGe ome t r i ez uGr undel i e ge n. "
この論稿 は ,1 8 5 4 年 の彼 の大学就任講義 で発 表 された。
(18).