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韮女舞いについて 福島邦夫

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(1)

長崎大学総合環境研究 第

8

巻 第

2

pp.17‑30 2006

8

韮女舞いについて

福島邦夫

OndieMikoDancesoftheKyushuIslands

KumioFUKUSHm

Abstract:ThispaperpolntSOutthatdleteW asandstillisasわngtraditionofmikoindleWeStemPartsOfthe Kyushuislands.

Mk

oisafemaledancerorsham an whoaremostlyover55yearsoldorwhoareVeryyoung,Stin ofap陀‑menShahonage.ThereseamhareacoveredTsushimaofNbgasakaiPrefecture,KishukuandShimtoriin ndmejimaofdieGot

ol s l

andsalsoin Nagasak

iP

陀fecture,KoshikijimaofKagoshim

aP

refecture,and KuchinOshimaoftheTokaraIs

l

andsalsoof

K

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F

bfEXtLm .h theseareas,diedancesa托performed

wemngexo血 arycostumesandwidldrums. TTlegeSttneSanddancesshow acommonhistorical backgroundand由血 nintheseareas.Theymoveinacircularod)itfordieSecond,thirdarKlfourdldances.

CoI叩 aringthedancesatdiffe陀ntSitesrevealedthatdiemikoisnotamdden,butapnestessorsha

ma n

.However, mom extensiveresearchencompassmgmoreexamplesisnecessary to dmw anevenclearerpictureOfdis imJndamtdan ceindlekaguraofKyushuIslands.

Kq word.miko,血nces,Priestess,s

h m7

W tbushuishmds

はじめに

現代の]培β 九州のシャーマン自 傭 静 こついて、筆者は これまで機会を得て何回か報告してきた。

1

それらをとらえ る視点は災因論であったり、成載過程であった。そして、

視野は]培B JL J J 、 l 寸 にのみ限られていたが、さらに九州沿岸那 離島を一つの単位として、盛女の歴史的伝統を訪ねること はできないだろうかとずっと考えつづけてきた。

ここでは南書B j L J J 、 l 寸 の盛女との比寂を、 主に神楽芸能と言う 新しい視点でおこなってみたいO鼻 息 下野敏見 「 麺女舞 いの伝統について」( 日本民俗学

207 199

6年)で南 部九州に残されていた政 の芸台 払ミ 明らかになった。

2

それ らと]培β 九州のそれとを上 場≡ することは可能ではないかO 筆者はこの着想に基づき調査を進めてきた。本報告はその

1

拙稿 1

993

年、1

995

2

下野敏見

1996p.128

受蘭年月日

2∝蛎

( 平成1

8

年)

1

月1

9

日 受哩年月日

2∝蛎

( 平成1

8

年)

5

月8 日

部 である。ちなみにここでいう九仲沿岸部離島とは、九州 本土の西側にまたは南北に展開する島々、すなわち長崎県 の対馬、壱岐から、五島、鹿児島県の甑島、種子島、屋久 島に加えトカラ列島までをさす。それ以南はいわゆる琉球 文化圏に属し、大事 町村ヒ 圏とはべつの文化に屠する.

今まで東] 地 方または沖縄のシャーマン的職白 線 ある いは政 については多くの調萄 形 訴ミ 行われてきた。しか し、九州に歴史的に展開した掛 こついての研究は数える 程しかない。もうすでにそれらは民俗としては過去のもの になり、文献史剛こしかあらわれないものも多い.しかし、

対馬の命婦、壱岐のイチジョウ、甑島以南の内侍 ( ネ‑シ) など九州南吾隅任 島に垂女の伝統 が あり、今なお九州にはそ の伝統に連なるシャーマン自 勝 巳 者が活躍している.私が 九州に盛女の宗教文化的伝統が存在するという意味はそ のことを指している。 いまなお活躍するシャーマン的職能者 とは区別する意味で、本論丈では九州沿岸吾舶 こおける 宗教史化を歴史的に扱うため、垂女という言葉をつかうこと にする。北部九州にはホウニン、ダイニン、トウニンと呼

‑17‑

(2)

ば れ るシャーマン的職台勘 いるが一方、南部の鹿児島 県薗肇大隅半島、桜島、種子島、屋久島などにも 「物知り」

というシャーマン的職能者が いる.さらに、トカラ列島には ネ‑シと呼ば れるシャーマン自 臣者が活躍している.南 吾BjLJJNのシャーマン的職能者に関する研究 はこれまで主に 下野敏見によってなされてきた。南部九州のシャーマンに ついては、同氏の 『トカラ列島民俗誌』(1965)3から 『 西諸島の民俗

』(1981)4、『カミとシャーマンと芸能』(1984)

5民俗学から原 日本を見る』(1999)6奄美トカラの伝統

文f

出 (2005)など最近の業績に至るまで繰り返しこのシャ ーマン的職能 者の問題が論じられているのである。また、

トカラ列島のネ‑シに関しては、すでに安田宗生の 「トカ ラ ・悪石島のネ‑シに関する覚え書き」(1972)7というすぐ れ た報告がある。ここではそれらを参照しなが ら、筆者の 調査で得られ た資 料を加 え報告していきたい。

1.内侍

1 ‑1

トカラ列島のネーシ

トカラ列島のネ‑シにつ いては七島のうちわず かに口之 島でその神楽が行われているにすぎない。 口之島の八月 祭りを調査する機会を得たので、私 自身の調査と先学の報 告を引きなが ら、トカラ列島の盛女、ネ‑シについて検討 してみたい。ネ‑シとは本土で言う 「内侍」であり、盛女 のことである。もとはこのネ‑シになるためには激しい一 種の神がかりをへる必要が あった。それをシケと呼んでい る。安田宗生によれ ば悪石島ではネ‑シとはシケ (いわゆ る神がかりの状態に陥ることで、悪石島では身体が震 え、

次に激しくぶ状態になる。その状態から、ウサギ あるい はカエル のようなと表現される)がかかり、ついで神役に よって、このシケが神によるものと承認され 、それ 以後信 仰活動に従 事する者をf旨すとしている。これ は安 田によっ て詳しく報告されているが 、8シケがかかると神役、ネ‑シ がカミシラベ 仔申調べ)を行い、神の名をクチコボル (

3下野敏見

4下野敏見 化資料集成)

5下野敏見 世界を探る」

6下野敏見

7安田宗生 化資料鞄劫

8安田宗生

1965 p54108惑 百島の年中行 事の項 1981p.393412(唖 女の世界』 日本庶民文 1984p.72138

「 第

1編第3章シャ ーマンの

1999p.91184

「 第

2部民俗学から内侍をみる」

1972p.369393(唖 女の世界』日本庶民文 同前掲書

こぼ る)ことによって、彼女はアラネ‑シとなる。普通、八 幡 ・乙姫 ・伊勢などが のるという。そうして祝詞を覚えてい く内に島中のあらゆる神が のってくるようになるという。ネ

‑シと対になって、祭祀を行う男性神役をホンボーイという.

ホンボーイが主に祝詞を奏上する神 官であるとすれ ば 、ネ

‑シの役割は神楽を舞い、神がかりをする垂女である。盛 女の地位は内地のように低くはない。それ は祭の際に、立 つ位置によってわかる。祭りの際、ネ‑シはホンボーイと 同列に並 ぶ。しかし、神楽をあげる場所は男性神役の後方 である。惑 百島のように祭りの最中にシケがかかり、何人も ネ‑シが 生まれ る場合もある。口之島では現在クジで選ば れる。

石塚尊俊によれ ば 、口之島ではネ‑シは現在五十五歳 以上七十歳までの女性で忌 中でないものの中から選ば れ る。神役はオセンと言って神鼓で決める。ホンボーイとネ

‑シが毎年選ば れ る。ネ‑シの場合、年が明けた一月十 七 日にトンチ (殿地一沖縄でいう聖所と同じ)でホンボーイ がオセンをあげて決めることになっている。オセンは玉鼓 でその上に扇子をかざすとくっつくと云われている。今まで のネ‑シがカミテンゲの入っている小箱をもって新ネ‑シ を訪れるO新ネ‑シの家 では餅をついて御神酒やお茶も用 意 する。カミテンゲとは髪手拭いの意味らしく、赤い手拭と 髪の毛を束 ねて髭のようにしたものである.これ は最 初の ネ‑シの髪の毛だという言い伝 えが ある。赤手拭と櫛が二 枚箱に入っている。それ を持ってきて渡し、それでネ‑シ は交代することになる。

石塚によると神 郵 こなるとネ‑シはまず、シリメに赤い装 束を着せてもらう。単衣 で袖が長く丈はひきづるくらいある。

帯はない。木綿のたすきのようなものを首に掛ける。 自分 で小箱を開け、中から髪を出して、頭に乗せ、櫛 でとめ、

上から赤テンゲをかぶる。こうして、赤装束を着て、カミテ ンゲをかぶるとそれ からもう便所に行くこともできないとい う。ケガ レから、身を遠ざけね ば ならないからである。9

ネ‑シとは本土で言う 「内侍」であり、この名称は神社に 勤める垂 女のことであったが 、 口之島の場合では神役とし てもその一端を担う。神役には男性のホンボーイ (本祝) と女性のネ‑シと男性のジホ‑イ ㈱ という三役が あ り、それ にミョウド衆 七人という系 あるOミョウド衆の内 訳はデ ークジ (大工司) と オセ‑クジ

(

大細工司)コセ

9

石塚尊俊

1994

p.

6

086

‑18‑

(3)

韮女舞い について

クジ (小細工司)シリメ (尻見舞)、各一人、ツカエ (仕え) 三人といった構成である。これらが神楽に関わっているの である。石塚はオセは大人で長の意味、コセはこれに対す る次者の意味であり、デークジは大工クジでこれは八月祭 に神事用の船形をつくる役だと考えている。 悪石島では ホンネ‑シ、ハマノネ‑シをトコロネ‑シといい、それ以 外をハネ‑シと呼ぶ。苦闘噺 巳においてはホンネ‑シとハ マノネ‑シはカミコウグッを告げる役を果たすのであるが、

ハマのネ‑シは浜の宮でのみ機能するO書簡 はこのト コロネ‑シが中心となるが、ハネ‑シも儀礼に参加する。)

ネ‑シの仕事は下野の整理によって表にしてみると、

主な年中行事

12月 11月29日 年の晩 12月 1日 七島正月 127日 親霊祭い 12月 16日〜17日 ひちげ‑

1 1月 1日 若水くみ 12日 船祝い 1

3

日 節句

2 2月 1日〜 3日 カライモ祭

3

3

4日 漁願立て 4

4

8日 お釈迦祭 6 6月 16日〜17日 アワの祭 7

7

7日 七夕

713日〜16日 お盆 8月 第二の丑の 日 コメの祭

815日 十五夜 9

9

9

日 節句

9月 10日〜11日 御 日待ち 11月 11月の初丑の 日 イモの祭

(下線部は収穫祭)

次に、悪石島のネ‑シの活動の例を安田の報告によって みることにする。10十二月一目より、トカラ列島では、年の 変わり目である七島正月が行われる。十二月六日は 「先祖 のおたち」の日と言われ、島へ戻ってきた祖先が島から出 発する日である。その出発の合図はネ‑シにシケがくるこ

1 0 安田宗生 同前掲書

とによってわかる。ホンネ‑シが 自宅でその合図を待ち、

シケがかかると各家の先祖を出発させるように命令をくだ す。二十四日は浜のネ‑シ (二十五日はホンネ‑シが 「 ムスビ」といって、芭蕉の繊維で作った輪を村人全員に配 る。これを村人は魔よけと言う。この 日は島中のあらゆる 神が書階 こ集まる日と言われ、万一;抑 こあっ

時の用心の ためであるという。神そのものは人間に危害は加えないが、

神の持つ霊力 (それを神風という)はそれにあたったもの を死に至らしめると言う。神風にあたっても大丈夫なように、

フを胸にかけるという。二十六日は 「ヒチゲ‑ノカミキキ」

といい、村人は好きなネ‑シの所に行って、カミコウグッ を聞く。このカミコウグッは一年の豊凶、部落全体の運命 等に関するものではなく、ネ‑シに乗るとされる乙姫様の 口上を聞くものとされる。一月六日は 「お 目待」、十一日は

漁祭り」十六日 「山の神祭り」十七日 「秋葉講」などに は神役七人がそろって神楽をあげる。四月の麦の収穫祭、

八月の粟の収穫祭、十一月の甘藷の収穫祭にも七人がそろ って神楽をあげる。これ以外に害虫の発生時に行う 「虫祈 祷」や伝染病や風邪の流桐 こ 田寺の神」をあげたとい う.かつては、船が港に着くたびi詔毒のネ‑シが事故など が持ち込まれないように、蔽いをしたという。こうした、定 められた、あるいは臨時の年中行事にネ‑シは関わってい た。また、個人の人生儀礼にも関わっている。主に誕生と 死についてである。誕生に関しては、女性が妊娠すると 「 トパパ」になる。三ケ月目には 職 )」が行われるがオ トパパは帯を贈る。この帯にフを結びつける。無事出産す るとオトパパは後産をネ‑シが 「イラバカ」に持っていく。

さらに出産後、 「オビキン」という儀礼をする。これは赤ん 坊の産着を作る儀ネじご、作るときオトパパが 「あさ姫のお さし始めん唐衣、着る度ごとに喜びぞまし、あぶらおんけ んそわか」 と唱えて、布を裁ち始める。また、赤ん坊の 髪を剃る 「カミタテ」といわれる儀式でも 「乙姫嬢が七つ の御符をむすぼせたまえ、ひっつけひっつけ八重重ね、

衣装は弱れ、胴は強かれ、あぶらうんけんそわか」とと なえるという。このほかオトパパとして、生後三十五 日目の

ハツメ」、名付け、初歩きなど子供の生育のあらゆる場面 に関わっていたことを安田は報告している。死者儀礼にも 関わっている。葬儀のときでも、ホンネ‑シが関わり、死 者の納棺の時、手にしぼを持ち、神勤 、りの状態で 「急げ 急げ」と唱え、しぼで死者の体や棺をなでるという。また、

三 日めに、家の中を清め、死者の霊を墓地の入り口まで追

‑19‑

(4)

っていく。それ から家にもどり死 者の霊がかかってくるのを 待つ。やがて死 霊を門口までおくり、これで、死者の霊を 送ったことになる。F線は修験道の呪である。)

このほか、ネ‑シの行うものとして 「マバライ (魔蔽い) が あった。これ は、人間の体に悪いた魔 物を引き離し、追 い払う行為である。魔には死霊、生霊、引き落としの神

あるとされ る。死 霊はこの世に未練、怨 みを残して死 んだ 霊は常に風となって、世界を舞っているとされる。そして、

ゆきあたった者に悪くという。 「トビハナノシケ」と言ってネ

‑シに激しいシケがかかることがある。神がその威厳を示 し、魔を脅すために荒々しいシケになるとされる。そのうち 魔がのり、なぜ 悪いたかを語る。これ に対して、人間は抗 議して反論しても良いという。それでも、離ぬ時は 「 島のいもう権 現、かもう権 現のだいてやみやみての御門の 下におくりとどけるぞ」と唱える。離れると雨戸を開け、花 米を蒔きなが ら魔を追う。死 霊の場合は墓地まで送っていく。

生霊は最も蔽いにくいものとされる。これ は怨みが原因で 悪くものとされ る。死霊と異なり、離しても納めるところが ないので、完 全に蔽うことができない。また、いったん離 れても、相手が怨み続ける限り,悪くものであるから、そ の度に蔽いを必要とするOそれ故 生き霊は当事者が禾鵬弓 るのが最良の方法である。生霊は死 霊より強力であること がおおい。そこで追うときには塩をまき、包丁

(

刀のかわ

り)を振りかざして蔽う。引き落としの神は人間に危 害を加 えると考えられている神である。山にはヤマノモン、磯には イソノモンが いるとされ 、ヤマノモンにはガラッパ (河童) や 山の神 (悪い山の神)が いて神同様人間にシケをかける 力を持ち、クチコボル 物 を言わせる)力を備えている。

そして人間を死に至らしめることができる。これ らの神は 日 常引き上げ の神 (人間に利益をもたらす神)の監 院下にあ り、人間に危 害を与えることはない。しかし、神が不在の 時や 目が届かない所では引き落としの神が悪くことがある。

また、引き落としの神は死霊や生霊がのった者にさらに悪こ うとする。そうした場合は非 常に危険 で生命を奪われ ること が あるという。10(以上安 田の幸階 による)

1‑2口之島八月祭りでのネーシの神 巣

ネ‑シの槻 こついては実際に見る機会をえた。ネ‑シ の神楽がどのような文肝 で行われているのか、ネ‑シは祭 の最中にいろいろな場所で多くの神々に祈願をこめている。

それ らを見ることにする。次にネ‑シの舞いについて述べ

る。ネ‑シの舞や踊りとしての動きは鈴や笹などのとりもの を持って立ったり、座ったりするだけである。一つ のとりも のをもって祈願 することを‑セクあげるという.右手でとり ものを持ち、左手の袖は必ず握っている。そして祈 顕の歌 を歌う.島の中にあるいろいろな聖 政 神社で神楽をあげ 、 笹 を備え、散米し、塩などをまくのである。八月祭では最 後にトンチで十二セクあげる。十二セクの時に招く神様は、

地主 大明神、傭 西の宮、衝陶権 現、イチノー様、六 所悔呪、沖の御神、衝

ジョウ、寄 宮権 現、北山権現、風 本権現、天竺の神の十二神であるという。

八月祭り

トカラ列島 口之島八月祭りの様子を次に述べることにしよ

う。

1996924日 (旧813日)の記録であるo

朝4

時にトンチでヨッパ レ (会食)がある。

①朝8時頃、トンチでヨッパ レ

ネ‑シ、ホンボーイ、ジホ‑イ他 、へイジ持ち、ミョオド衆 7人が集まって、食事をする。ご飯、なます、お新香など の簡素な料理である。祭りの時は腹のなかに何か入れてお かね ばダメだと言う。公民館のなかにトンチが ある。トン チは昔は村お さの屋敷 であったが 、今は公民館コ脚 こ祭 壇 が西向きに作られている。祭壇に相対して、ネ‑シが座り、

北側にホンボーイとジホ‑イがすわる。東のまどの外にモ ノマツリが行われ るお盆がおかれ る。東側にミョウド衆が 座る.座敷には系謬 巨が なされている.

モノマツリは湖中11によると 、リュウキュウチクの枝を格 子 状に組み合わせて、 「アミダナ」と呼ば れ るものを縁側や 窓 口におき、その上に 「セパナ」とよぶ清めの笹の葉を載 せる。これ に、米の粉 を焼酎 で練った 「Lとぎ」、 「花米」

とよぶ生米をかける。このモノマツリは神を呼び 込むため に行われるという。

餅つきは前 日、酒作りは7日前からなされている。餅はサ クと言って普通のご飯で食べる米を混ぜてあるから、良く ないと総代は言う。酒は玄米にこうじを混ぜ たものである。

(/リーンコマイとも言う)米の祭 であるから、米 で作ったも のを神に供える。

口之島には多くの神がある。トンチの宮の額に書かれ たも のを以下にあげ る。

地主大権現、/Ⅶ酎申、西漬大権 呪、御赦大権呪、一之主、

沖ノ御神、守 宮大権 呪、北山十六番神、風本ノ衝阻 天地

‑2 0‑

(5)

韮 女舞 い につ い て

久之節帆 若宮八幡、越慎 (ゲ‑ロー)大明神、照 日大神、

川祭大明神、聖之宮である。

②西の官での祭り

西≠寛大権現、衝階 大権現をまつる。ホンボーイ、ジホ‑ィ、

へイジ持ち、以下11名が参る。ミョウド衆がミヤクジ (餅の 箸と言う)を神様の数だけ作る。餅を神様によって決まった 数だけ供えるo近くにある恵上線 こも供える.

イザケブシ (かつおのなま節)を作る。

ホンボーイ、ジボーイは宮のすぐ脇に座り、ネ‑シは少し

たところにござを敷いて座る。

ジホ‑イは決められ た数のミヤクジと餅と濁り酒を神に供 え、それを降ろし、イザケブシ、味噌と焼酎といりこを食べ る。最 後に濁り酒にも口をつける。そして、ミョウドは参会 者にそれらを配って、食べさせる。ネ‑シに先に食べさせ る。ネ‑シは散米の後、幣ジを神の数だけ上げ 、その上 にシトギ、酒 ㈱ 、セパナを上げ、さらに散米、続いて、

ホンボーイが酒を供えて、祈祷し、祝詞を上げる。ジホ‑

イが幣ジを社殿の中にいれ、戸を閉める。続いて、ネ‑シ による神楽、「12セク」がある。(12のとりものをそれぞれ 右手に持って、立ち上が り、振る動きをする。左袖を丸めて 握る。とりものを変える度に腰を下ろし、また、立ち上がる。) そのとりものの順番は、

ガランガラン‑鈴 大幣 ガランガラン‑鈴 ガランガ ラン‑鈴 ガランガラン‑鈴 セパナ 後ろを向いて、ガ ランガラン‑鈴 向き直って、セパナ 丸鈴 ガランガ ラ ン‑鈴 ガランガラン‑鈴 ガランガラン‑鈴

以上であ る。 (写真5)

トンチで食事。

③東の宮での祭り

島の中央をトンチとすると、西の宮のちょうど反対側に東の 宮が ある。鳥居を入ると後ろ向きに若 宮が あり、横向きに 八幡、地主権現、それ に相対して、メ‑デンがある。 伊

‑デンとは沖縄等に見られる柱だけの廼 臥 柱は8本‑こ のメ‑デンは現 在は使われていない。)行事の内容は西の 宮と同じである。海のしお水 (タビノゴクとよんでいる。) で初めに手を清める。全部で45のミヤクジを作る。濁り酒 を壷に入れる.壷の上には上書怜こ白い紙

さしてある。ネ

‑シはヒトツバノキの下で12セクを上げた。

①寄寓権現

少し離れて、さらに東に隣接し、寄 宮権現がある。行事の

1 1 湖中真読

1989

p.1

46

内容は西の宮と同じ ネ‑シは

1

セクだけ、神楽を上げた。

とりものは、丸鈴のみo午後 1時半頃終了.この寄 宮権現 の神体は石で、7人のミョオドが海岸に寄りついた石を運ん だものという。

コングノー トで作られ た神殿の中には 白い玉石が たくさん 敷かれ、中に古い壷があった。

ネ‑シは神楽を 1セクあげ た。とりものは丸鈴、へイジは 3本。

肥後由之助宅で午後 11時頃、後夜おこし、神役、ミョウド が集まって楽精そろえが行われた。

8

14

日 ㊥月

25

日)

朝、セパナを取りにいく。ネ‑シ、神役、ミョウド衆が参加。

セパナ 潮 水)で身を清めなけれ ば 、注連縄の中に入れ ない。東の演にセパナがあがっているのがタケの神、そこ から、前岳を拝むという。

⑤トンチでヨツパレ。ご飯、なます、お新香をいただく。

ホンボーイが線香、灯明を各神にあげ る。酒といりこの居 酒を飲む順番は、ネ‑シ、続いて、ホンボーイである.ネ

‑シは神にLとぎ、酒、セパナ、散 米の順に供え、拍手す る。ホンボーイはそれに続いて、散米、拍手、礼。総代は 礼のみである。

モノマツリの川酢)ネ‑シ、ホンボーイ、ジホ‑イのJlr ネ‑シがカへ‑ジの神に行っている間、ホンボーイ、ジホ

‑ィ、ミョウド達は花の宮へお参りをする。

⑥ゲ一 口一の宮での祭り

弊 を2本に大弊1本あげる。その他の準備は同様。ホンボ ーイが、ながながと祝 河をあげる。声が小さいため、聞こ えない。ホンボーイの祝詞は後述する。神楽は 1セクのみ、

楽給を奏しなが ら、大弊を先頭に、ネ‑シ、へイジカンメ をはじめ、神役、ミョウド衆が集落へ下ってくる。神迎えの 意味のようだこ途中、阿昭様で、神楽を 1セクあげる.

ジホ‑イが靴を脱ぎ、石の上に立って、大弊を掲げていた。

⑦トンチへの打ち込み 仔中々をつれてくること)

その後、ネ‑シ、ホンボーイ、ジホ‑イの3役は、北山様、

照 日様へいく。それぞれ祈祷するが、餅はあげ ない。神

を 1セクあげ る。太鼓と鉢殿はそれぞれ の神をまつる家 の者がたたく。

トンチへ戻り、ホンボーイが線香と祝詞をあげる。ネ‑シ が神楽を12セクあげる。その採り物は ガランガラン‑鈴 幣 ガランガラン‑鈴 ガランガラン‑鈴 ガランガラ ン‑鈴 セパナ 後ろを向いて、ガランガラン‑鈴 向き

‑21‑

(6)

直って、セパナ 丸鈴 ガランガラン‑鈴 ガランガラン

‑鈴 ガランガラン‑鈴、以上である。その時、ネ‑シが 肩から、フ (藁の輪の袈裟)をかけること、そして、杵をも って祈ること、もう一人の荒ネ‑シ (次のネ‑シの候樹 が青い着物きて、神楽をあげること等が注 目される。これ らは米の神に祈ること、大神楽に昔飛び入りのあったことを 示 すのではあるまいかと思われる.いよいよ最後の段には いる。

⑧高天原でネ‑シが木の根で神楽をあげるのと同時に、子 ども (現在はミョウド)が7人でて、「人の子どもの回りを 時計回りに3回廻る。

その後、トンチで酒盛り、ナンコという遊びをした。

926日朝トンチでヨッパ レ (会食)0

ネ‑シは、祭りの期間中、汚い物にさわってはいけないの で、便所に行けないから、何も食べないし、水も飲まない。

ネ‑シはもともと四十八才以上 (現在は前に書いたように 五十五才.七十才までの女性から、オセンによって選ば れ たが、)ずっと肥後Y子氏がやっている。寡婦であり、霊 盛 の強い人物が 自然と選ば れて行くのではないかと思われ る。

霜月祭りは芋の祭りである。田芋はこの機会でも、食べさ せてもらったが、紫色で、非常に粘りけがあり、餅を食べ ているようであった。この 口之島では、各家が、神をまつ ることを内神という。そして、神の依りしろはあんどんで、

上部右に水、左に火の字が書かれている。

(2)ホンボーイの祝詞

次に社人 (ホンボーイ)の祝詞を記す。

三五徹 り、是神きこしめし謹々申し奉る 川を求め、こうりをかき、湊を定むる (智略) 社人侍家の物祭の次第

八幡 宮、地主大権呪、西漬大権 呪、森の御神、沖の御神、

若 宮jⅧ乱 寄 旭

祭、清水の御神、聖宮、ゲ一 口、

北山、照日の筆陣申、住 吉大明神、轍 の上には八百八拾四人、

七百七拾七人の荒の荒い御神、西に.官 戸柱、スルスノ 御神、蛭子ヨ 弧 十二の船玉、浦の御神、七人の潰殿原、

川上殿、川下殿、有正殿、次正殿、地神、幸神宮、繁盛、

島繁盛と円満せしめたまへと御折と申し上げ奉る。

昭和五十二年八月吉 日定む 松田仲之進

東演より汐里を上げる書

.「 岩屋のしろたつの御神様、二、赤山の御神様、三、お

どいがくらの御神様

四、ななつ岳の木の主様、五、東表の木の主様、六、平 尾の神様、七、かえじ様

八、東の宮の御神様 九、西の幸神 騒、十、川上様、十一、

なみしようの得帆

十二、川尾様、十三、赤むたえ衝帆 十四、西の宮の御神 十五、みつ岳様、

十六、ゲロウ様、十七、きよつか様、十八、あがり日本の こう松ごぜ様、

十九、赤瀬の得肝申様、ニート 元どい平の御神様、二十‑1 とうせどえ御神様、

二十二、奥 州日の本の衝榊司鼠 二十三、琉球の神様、二十 四、屋久島の神様

二十五、口永良部の御神様、二十六、鹿児島の御神様、二 十七、臥蛇の御縁の御神様

二仇 小臥蛇の御神様 二十九、中之島の御縁の御神様 三一上 島の前岳の神様

是れわ滴所より上げるなり 昭和五十二年度 総代日高助 日高次男神 宮

山の神

三五醗 上再拝

奥山にも三高三千三百三拾≡鉢 山中にも三寓三千三百三拾≡鉢 山口にも三高三千三百三拾三鉢

之山之御神まして驚かせ (ひびかせ)奉る 西には西方弥陀のしゃふどにてましませば 是も 八寓四千の若神にて申しおろし奉る

東之方はくわんのんのしょうふどにてましませば 是も 八寓四千の若神にて申しおろし奉る

畦波ケ島と申すははとは小さい浦島にて候なり 西之波花 (しょば な)東に小やさす東之波花 西にこやさす東に横雲引き渡す時相木之森之下なる 霜つづやつふづとんこ丸はていかしたて

神はまさしくしゃゆるはんしてはからいたもう

此の書は昔の通り 日辞 口五十五年度二月吉 日 日高松彦 このホンボーイの祝詞によって、島内の神だけでなく奥 州

日の本の神、琉球、屋久島、鹿児島の神にまで祈願がこめ られていたことがわかる。また、山の神におびただしいご 神体があることが わかる。この祝詞は 口之島の人々により、

大切に伝承されてきたものであり、どのような神に祈願がこ

ー22‑

(7)

韮 女舞 い につ い て

められてきたかが わかる。

( 3 )

次に東の宮西の官にまつられている神を見よう。数は上 げるミヤクジの数である。

東の宮にまつられている神、

jⅦ 軒申 九束 後ろに四束

主権現

九 束 後ろに三束 若 宮権現 九束 後ろに三乗 寄 昏悔現 九束 後ろに三東 沖の衝陣中 玉東

唐の神 三乗

鳥居 二束

(お元 E) あわせて五十九束 西の宮にまつられている神、

御縁権現

九東 西漬大権現 九束 今 宮権現 四束 唐の神 三束 脇の衝搾中 三束

荒神殿

玉東

蛭子殿

二束

鳥居 二束

前瀬の御神 (二束) (B天遼

東の官 では、主に用 敵 地主権現、若宮権 現、寄 宮権現、

沖の衝陣中に、西の官 では、衝幡 権 現、西演権現、今 宮権現 などに祈願がこめられてきたことがわかる。

3.九州南部艶島とj培鵬 の舞の比較 3

‑1

甑島内侍舞

既に下野によってこのトカラのネ‑シ舞と甑島里村内侍 舞、山川町成川内侍舞の比較が為されている。これ は鹿児 島県に場所を限定したものであり、比較の範囲としては狭 いといえよう。しかし、そこでは大変重要な指摘が為され ている。それ は成川内待舞も甑島内侍舞もまわって舞うこ とである。成

では六回まわり、里村では十二回まわって、

舞うことである。トカラでは十二楽と言って十二種類の神楽 をあげる。甑島のさらに北方の下五島でも市舞があり、小 学六年生までの女の子が左右左のまわる舞をしている。こ のまわって舞うことをきわめて、単純化して行っているもの に甑島内侍舞

ある。以下下野の報告に自分の調査を加え

たものを簡単に述べる。12

甑島里村では 旧暦九月二十八 日の宵祭りと翌二十九 日の 二回、内侍舞が行われる。祭祀はホイドン一人であり、組 合は十九あり、そのなかから、テスマイと言bて、三十人ぐ らいを一組とし、まわり番で選び 、祭の準備をする。テス マイの中の中学 三年生の女の子の中から一人内侍をくじ引 きで選ぶ。マシジョウと言う。

マシジョウの格好は紋付きの着物を着て、帯を締め、その 上から八幡宮に保管してある、麻のうちかけを羽織り、冠を かぶる。その冠は特殊なもので、先端に白い紙が付いた綿 入りの赤紐を何本もつけ、それを自分の髪の上に垂らすも のである。額に金冠をつけたもので、冠には鈴もついてい る。内侍の髪はまとめて後ろへ垂らす。手に鈴を持つ。

楽器は太敦である.まず、太鼓が鳴ると、ネ‑シはマイド の鈴を両手で捧げ持つようにして中央に出ていき、両手で 大きく円を描くように内から、外へ四回、まわしながら後ず さりする。ここが正面のタチドとなる。タチドとは舞いの開 始地点を指す。次に鈴を持った右手を目の前にまっすぐ前 にのば し、左手で袖をつかみ肩の上に添 える。そして時計 まわりにマイドを角から角まで大きくまわる。このまま三回繰 り返してまわる。そして、タチドにくると手を内から、外へ三 回、大きくまわし、今度は逆廻りに一回まわる。次に時計回 り一回、逆回り一回、時計回り一回 (このときは左手を腰に 当てる。これ は六回目でちょうど半分に当たる)、又左手で 袖をつかみ逆回り一回、時 計回り一回、逆回り一回まわる。

時計回り一回、逆回り一回まわる。毎回タチドでは手を内か ら、外へ三回、大きくまわす。最後に四分三回まわって、

中央に右足より出て、右足、左足を前に進み、右足より下 がって右足、左足へと下がる、つまり、三歩前進して三歩 下がる、そしてタチドヘ行き、手を内から、外へ三回、大 きくまわし両手をそろえて、鈴を捧げ持って中央神前に進み、

終わりとなる。 (写真4)

この内侍舞は塩田によれ ば 、延事四年 (1747)の記録 があり、この里村八幡は川内市新田神社から、移され たも のであるという。13同神社の元 事三年 (1323)の記録には 内侍という言葉があるところから、そのころに確実に存在し たことがわかる。天文六年 (1537)の国分市止神神社の記 録には正内侍という諭 出る.同神社には 「古来の神職 の名目」として、「座主、神事奉行、行司、大宮司、正視子、

12下野敵見1996年、下野敏見、1999年 制 叉

13

塩田甚志 里木 湖 β 土誌 上巻

1985

‑2 3‑

(8)

権正一内侍、二内侍、三内侍、権大宮司云々」と記されて おり、内侍の位が高かった事が知れる。内侍にはそれぞ れ屋敷も給されていた。月胡 弓郡高山町の四十九所神社の文 書の中にも、 「神主、代 宮司、検校、‑内侍、二内侍、三 内侍」という記載があり、南九州の主な神社に内侍がいた ことが わかる。この内侍の仕事は内侍舞を舞うことであった という。ここに壱岐や対馬などとの共通 性を見ることができ る。

3

‑2五島(下五島)の市舞

五島岐宿巌立神社 では九月十五 日と十六 日に秋の例大 祭に市舞が行われ、十六日の午後に神楽

行われる。拝 殿 で祭典が行われたあと、市舞がおこなわれる。また、御 輿で町内を巡行するときにも、各家々であるいは町の辻で、

市舞が舞われる。市舞は神楽の前にもおこなわれる。この ように重要なものであるにも関わらず、今まで注 目されてこ なかった。市舞を舞う垂女は/J嘩坂 六年生までの女の子か ら選ば れる。白い千早に緋 色のもんぺを着る。髪はそのま までで、冠はつけない。右手に鈴を持ち、左手の袖を手で つまむ。舞は小円を描いて舞庭を歩くもので非常に単純で ある。まず、両手を二回打ち合わせた後、時計回りに三回、

逆回りに三回、時計回りに三回、そこで静止し、また、時計 回りに三回逆まわりに三回と歩くもので、まわるたび にだん だん円が小さくなる。合計十五回まわることになる。各家々 では神主が初詞をあげ、金幣で蔽うのと同時にこの動作を 繰り返す。 (写真2)

玉の浦白鳥神社では九月二十一日、ニーに 日と二 十三日 の三 日間の例大祭に市舞が行われる。二十二日夜には夜 神楽が行われ る.二十一 日は午前十一時頃、白鳥神社で 祭 典を行った後、市舞がある。節陛をと巡行行列は船に乗っ て、対岸の井持部落に̲出重し、御輿で町内を巡行し、各家々 で、市舞が行われる。市舞を舞う垂女は/J嘩坂 六年生まで の女の子から選ば れる。白い千早に緋色の袴をつける。髪 はそのままでで、冠はつ けない。舞は巌立神社のもの同 様に小円を描いて舞庭を歩くものである。まず、右手に鈴を 持ち、左手の袖をつかんで、両手を胸の前ですりまわす様 に二回まわす。そして円を描くように歩き始める。逆時計回 り三回、時計まわり三回、逆まわり三回、時計まわり二回、

逆まわり二回、時計まわり二回とまわる。計十五回まわるも のである。神 主が祝詞を上げ、金幣で蔽 うのと同時にこの 動作を繰り返 す。 (写真3)

4.対馬の命婦と壱岐のイチジョウ

対馬の命婦については、岡田啓助が最近、貞享三年 (1686)卿 小r神を を主な資料として、まとめたところ によると、5相中r神社誌には少なくとも対馬には五 十六名の盛 女、また、二十二名の法 者が記載されていると述べている。

当時、数多くの命婦が対馬全島におり、蛮女は対馬のそれ ぞれ の示乱 神社で神楽をあげていたことが わかる。 (この 神楽については後述する。)また、藩主との関係の深い厳 原の州 幡宮の祭礼には、惣之市、木 坂八幡宮婦、天神宮婦、

かうじう、池 神命婦、慶知住吉線 なたれ命婦、今 宮之 命婦、白木之蔀 融 雪参加し、この九人の命婦が神楽をあげ ていた。お神楽料として銀子や白米、おしろい代 べにの代 が藩主から与えられるほど重視され たものであった。しか も八幡宮のもっとも盛大な祭礼であった放生会の前 日、八 月十四 日の宵宮にお神楽と法者の舞が行われていたこと も記されている。命婦は法者とともに神楽、舞に奉仕して いた。このほか正月十一日の年の始めの殿 蘭卸名代の参詣 の場 での御楓 十月の出雲に渡る神々を送るための御神 楽、十 一月の出雲から帰られ た神々を慰めるための衝榊考 殿様の乗った船が出発する折帰着 する時に神楽を行って いる。また、御下屋敷の 「はたけ祭」に惣之市、天神宙婦、

かうじうの三人の命婦が神楽を舞っている。このように、対 馬の木 坂鳩 国府の傭 慶知の住吉宮などの命婦を 頂点とする帯rlf55あり、対馬の清々にいた命婦を統括する

制度 が

あった。14命婦は対州誌には盛と記されることもおお く、神楽と同時になんらかのシャーマン的な職能をはたし ていたことも考えられる。

ここで命婦の神楽について簡単に触れておくことにする。

旧暦八月一 日の和多都美神社の祭礼に仁位の国分家の命 婦が命婦の舞を行っている。もとは同じ時に法者が磯良舞 を舞ったという。 住民在は途絶えている)まず、太鼓を打ち ながら、祝詞を読む。その後立ち上が りながら、法者の打 つ太鼓に合わせて神楽を舞う。神楽は正面に向かって神歌 を謡いながら、まずそでを左右左に翻し、その後 右手で鈴 を振り、左手は袖をつまんで肩の上にあげながら神歌を歌 う.これを四方 瓶 右、後正面、左)と繰り返す。次に また、そでを左右左に翻し、両袖をつかんでつま先立ち、

最後に両手を前にあわせ、前に軽く屈む。これ を四方 ( 面、右、後正面、左)と繰り返す。そして、そでを左右左

‑24‑

(9)

砿女舞い について

に翻し、今度は鈴と左手を下から上に繰り回す。これを四方 (正面、右、後正面、左)と繰り返 す。という独特のもので ある。15

( 写真 1 )

神歌を次に述べる。

千早振る神の忌垣に袖かけて 舞えば ぞひづる天の岩戸

天の戸をおしあげかたの雲間より、神代の月日影ぞさやけ

さやかなる月日の影ぞ仰げただ 命をのぶる神の恵みを 敷島の四季は四節に変われども 変わらぬものは吾が氏 のさと

春は花夏は橘秋は菊冬季の空を 雪といふらむ

高き屋に登りてみれ ば煙立つ 民のかまどは賑わいにけ

さいわいのここは高天の原なるよ おろし神のみ遊びたま

命婦と組になって活躍した法者については別稿に述べた のでここでは省略 ㌻る。

壱岐のイジョウについては、勝本の聖母宮などの祭礼記

録に

14

岡田啓助

1997

15

拙稿、2 〔 伽 年p.

266

1 衣 装

市之儀は惣之市二之市三之市小西平田にて候 (中略)寛

文五年

(1666

年)中原弥左衛門」

( 下線一福島)

とある。少なくとも三人の位の高い市が居たことがわかる。

また、市は蔽い神楽、日和祭、出入りの船の蔽いなどの祈 祷にたずさわった。

また、鬼風はらいなどといって、弓をユリ 休 の底の浅い 曲げ物)の上に置き、 唱恰 若説経を語って病者の祈祷、

屋堅めの祈祷をしたことなどがわかっ七いる。壱岐のイチ ジョウについて舞いの資 軸 ま残っていない。壱岐神楽は早 くから、男性神職のみの舞いになっている。16

5.

整理と績輸 5 ‑1 表

以 下対馬、口の島も含めて、九州沿岸部の盛女舞いを表に 整理してみることにする。

16

拙稿

、2

( X 氾年

場 所

対 馬 五 島 ( 咲宿 神 社 ) 鳥 神 社島 (白 甑 島 口 之 島 踊 り 手

老 女 小

老 女 (

55

以 下 以 下 以 下 歳 以 上 )

髪 飾 り で 束 ね る長 い 髪を パ レ ッ ト な し な し 房 上 の も王 冠 と 先の 髪 を 入れ た 赤 ネ ‑ シ 子 に 先 輩不 一 シ のた も のを い れ

上 衣 麻 の 打 ち掛 け 赤 い 長 いち 掛 け上 着 、 打 衣 装 赤 い 袴 に 赤 い 袴 に 正 装

ー25‑

表 2 踊 り 場 所 対 馬 (令柿 ) 五 島 (岐宿 ) 五 島 ( 白良 ) 甑 島 口 之 島 楽 器 鈴 、 太 鼓打 つ ) (命 婦 も 鈴 、 太 鼓 鈴 、 太 鼓 鈴 、 太 鼓 テ ン ペ ス 、小 太 鼓 方 向 4 方 向 回 転 回 転 大 回 転 そ の 場 立 戸 で の つ ま 先 立 鈴 と 手 を 鈴 と 手 を 両 手 で 動 き ち 併 せ て ま 併 せ て ま 内 か 大 き 鈴 を 上 下 わ す 、 鈴 わ す 、 鈴 くら外 へ 3 に 激 し くまわ

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︵漫 録㌧ 第十λ⁝櫓  麓伊九⁝號   二山ハご一

︵原著三三験︶ 第ニや一懸  第九號  三一六

宵祭りの日は、夕方 6 時頃から家々はヨバレの客とそのもてなしで賑わう。神事は夜 10 時頃か ら始まり、

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