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佃’;慧 目  鴻

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      1996年夏期韓国研修報告集 目次

『韓国研修報告集』を刊行するにあたって    本間泰幸

1、報告

   「ことばとこころ」       遠藤久美子    「ソウルの夏」      本間泰幸

   r初めての鰍初めての韓畔」 小島美知子

   「日本を離れて」       茅原洋介    「第12回日韓学生フォーラムに参加して」 石橋みほ子 2.コラムーソウル・アギジヤギ

  (1)ソウルの街角で

     乗り物の中のドラマ (茅原)

     韓国の化粧(遠藤).

     ウエーデーア7プー外大前(本間)、・

     乗り物の値段  (小島)

     ヒットソング1996  (石橋)

  (2)韓国人・日本人

     シニァ、オッパ、オンニ  (石橋)

     公州の達人(本間)

     ひでさんのこと (石橋)

     下宿のアジュンマ .(本間)

     Dear Friends  (石橋)

  (3)韓国外国語大学と下宿      韓国外大の授業  (遠藤)

    ・ハンバーグ (本間)

     下宿のお風呂 (小島)

     キンパップ屋のおばさん  (痘藤)

     .お菓子屋のおばさん (小島)

3.韓国短期留学 Q&A14

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『報告集』を刊行するにあたって

本間泰幸

今回の短期留学は僕にとって2回目の韓国だった。96年3月に海外研修 旅行の名目でかの地を訪れたときは、噂に聞いていた韓国を間近に観て、大 変な感動を得ることができた。その時の経験が、今回の短期留学の直接の動 機になったのは言うまでもない。

 しかし、それとは別に僕の心の中にはいつの頃からか『海外で暮らしたい 症侯群』がつきまとっており、とにかく 海外で生活をする ことに対する

ささやかな憧僚の思いを抱いてきた。それが意外にこんなにも早く実現する

ことになった。

 場所は韓国ソウル。一昔前の自分がこの現実を知ったらきっと驚いたに違 いない。 「韓国.!なんて近いの!」と思わずにはいられないからだ。この心 理の裏にぱ自牙の『海外で暮らしたい症侯群』の侯補の中に韓国と言う名前 が入っていなかったことを暗に示唆するものだ。しかし、短期留学を決意し たとき の自分は、もうかつての自分でぱなかった。この大学に入って韓国に 関する様々な事象に触れる度に、僕の心が次第に傾いていったのが正直なと

ころである。そして、いっしか「韓国もいいかな」」と思い始めたのだ。

 ξんな感じで僕の韓国生活はスタートしたのだ。同時に、この企画には僕 の他に3人が参加した。3人がどんな理由で決心したのかを僕は知らない。

でも人間が」人一人違う様に、3人の心境もまた様々だったことと思う。し かし、彼らがどうあれ、おかげで僕が心細い思いをせずに済んだことには変 わりがない。そレて彼らがいなければ僕の決心も揺らいだだろうから、彼ら の存在は僕にとってかけがいのないものだったのだ。

 この文集は僕ら4人と、そして日韓学生フォーラムに参加した一人を含め た5人の感性が書かせた悲喜こもごもの韓国談義である。語ることはたくさ んあって書き切れないくらいだけれども、みんな限られたスペースに精一杯 のエッ七ンスを詰めて「朱玉の名文集」となっている。2週間から1ヵ月と いう短い期間ではあったが、得たものは限りない。これを読んで下さる方々 がみな異国生活と、そして韓国に思いを馳せていただけたら幸いである。

1996年・10月14日

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1・報告

ことばとこころ

遠藤久美子

≡   〈はじめに〉

     韓国語を学ぶため7月28日〜9月1日の約一ヵ月韓国外国語大学に行ってき     た。今回の韓国訪問は2回目だったので、だいたいの雰囲気は分かっている     つもりだった。しかし、その思いも韓国で数日間生活すると、自分の韓国生     活に対する甘さに気づかされた。

     今年の3月、私は日韓文化交流基金派遣の訪韓団として韓国に来た。その     時は日本人大学生との団体行動が中心で、日程も宿泊所も交通手段もすべて     事前に決められており、おまけに通訳つきと至れり尽唯りの旅だったg.もち     ろん韓国人学生との交流もあった。しかし、相手は日本語のとても上手な人     達で、私のつたない韓国語を「披露」する機会は無かったに等しい。そのた     め、国内旅行と違ったところは景色ぐらいなものだったのではなかろうか。

     そのような旅行をして、「韓国に一度行ったから…」などと大きなことを     言っていた自分が恥ずカくしい。何も分かっていなかった。今回の短期留学で     は、もちろん通訳なんているはずがない。韓国で何をするにも韓国という国     の言葉である韓国語を使わなくてはならない。語学力のなさから意思疎通が     思うようにできず、幾度ももどかしい思いを味わった。聞き返されて笑って     ごまかしてしまったこともあった。情けない話だが、本当のことだ。

     韓国では、多くの韓国人と出会った。日本語の上手な人、全然話せない     人、.大学生、社会人、紹介されて会った人、偶然知り会った人、前回の旅行     で知り合った人など、さまざまだった。

    〈バスの中で〉

     韓国で多くの人と出会い、その出会った人達ごとに思い出はたくさんあ     る。・しかし、私にとって一番心に残っている人といえば、ソゥルから釜山へ     の高速ノくスの中で知り会った人だ。.会っている.時間は、とても短かったかも     しれないし、話したこともそんなに多くはなかったかもしれない。

     外大の授業が終わって、私たちは残りの一週間を韓国の観光にあてた。私     がその韓国の人と知り会ったのは、その観光での高速バスの中。約5時間、

    たまたま席が隣だった。彼は日本の文化について学んでいる大学生だった。

    しかし、日本語は全然話せない。話しかけられたとき、正直言ってとまどっ     た。バスが出発してすぐに話しかけられたのでこれから5時間どうしようと     思ってしまった。一ヵ月韓国で勉強したからといってそんなに韓国語がうま

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くなっているわけでもないし、初対面の人と話すζとで緊張してしまって、

はじめのうちはめちゃくち」やな韓国語と英語で会話していた。彼と出会った ことが一番心に残っているのは、一対一で、しかも日本語が通じずに、.会話 に苦労したからカ)もしれない。彼の言っている韓国語の意味はわかってもそ れに対する答えをどのように表現していいのかわからず、言葉につ幸ってく る。すると、内容が理解できなかったのだと思われ、英語で話しかけてくれ るのだが、もう何年も英語から離れている私にはなおさらチンプンカンプ ン。気がつくと単語は英語、文法は韓国語という事態まで発生していた。あ らためて私は、「大学での2年間、何を勉強してきたんだろう」と思って一し まった。今さらながら、.英語の必要性を実感した。バスの中そはそれまで外 大に通っていた一ヵ月よりも頭を使っていたのではないだろうか。

 自分でも何を言ってるのかわからない韓国語を、彼はちゃんと聞いてくれ た。とてもうれしかった。バスの中では、話をしたり、ゲームをしたり、 韓 国語を教えてもらったりと、頭を使ったため、私は途中、車に酔ってしまっ た。車に酔って気分が悪くなったから少し休みたいと言うと、彼はとても心 配し、トマトや水を買ってきてくれたり、気分転換にと音楽を聞かせてくれ

た。

 具合がよくなってからは、バスの中からみえる景色を説明してくれたり、

釜山での観光spotを教えてくれたりと、本当に親切だった。私にはお兄ちゃ んはいなし、言葉もそれほど通じなかったけれど、rお兄ちゃんってこんな一 感じなのかな」と勝手に想像してしまった。韓国語で話さなければならない 緊張感もあったけれど、なんだか和んでしまった。次回また韓国に行けるか どうかはわからないけれど、それまでにはもっと韓国語を勉強して、今度会 う時にはそのとき言いたくても言えなかったことを話したい。

〈下宿で〉

 バスの中で出会った人がお兄ちゃんなら、下宿のア、ジュンマは韓国でのお 母さんだった。下宿では大学から一緒に行った友達、そして日本人の女の子 1人。私達の生活していた3階は日本語だらけの生活だったが、アジュンマ

とは韓国語で話しをしなければいけない。アジュンマは明るく.てとてもやさ しい人だった。しかし、韓国語が下手な私にはアジュンマの言っていること がよくわからなく、話したくてもあまり話せなかった。

 私は他の人に比べて約束が多くて外食することも多かったため、なおさら アジュンマと接する時間も少なかった。アジュン÷の中でもきっと私の存在 は、他の4人にくらべたらうすいものだったと思う。でもとても親しみを感

じていた。

 下宿での最後の朝食では、なんだか寂しくて泣いてしまった。アジュンマ

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に「ウルジマセヨ(泣かないで)」と言われたけど、涙が止まらなかった。

アジュンマのその言葉が私には、とても温かく感じられた。彼女との会話の 中で一番心に残っている言葉となっている。下宿での生活の中でアジュンマ と話をするとき間違った韓国語を使ったことが何回かあった。最後の場面で も小島さんと2人で自信を持って「アンニョンヒ カセヨ」と言ってしま い、アジュンマに「アンニョンヒ ケセヨ」と直されたときには3人で笑っ てしまった。でもアジュンマの目が潤んできていろのを見て、私も泣きそう になってしまい・アジュンマのことをよく見るこξができなかったg.戸葉が それほど通じなくても、心は通じていたのかなと思う。

〈妹としての私〉

 私が今回出会った人は、日本語がと・ても上手な人達もいた。その人達は日 本語を職業のなかで使っている人達だから、私め韓国語とは天と地のような 差がある。優しくて、年齢的にも年上の人達だったから、私は彼女達と会っ.

ているとき、彼女達のことをお姉ちゃんのように感じていた。頼りきってい た面もある。彼女達と会っているとき、使う言葉は日本語でよかったし、あ ちこち連れて行ってくれたり、たくさんの話をした。けれど、一方で彼幸達

と会っていると、 自分の無能さを感じ、むなしくな?たごともあった。

時々、韓国語を使って話しては見たものの、あまりの韓国葦のつたなさに恥 ずかしくなってしまった。

 彼女達との話し中で、日本へ留学していたときの話や、職場での失敗談な どがあった。みんなたくさん失敗しながら日本語を上達させていることがわ かった。みんな努力していることもわかった。 「私も頑張らなくては」とは 思うが、彼女達の日本語ように韓国語を上手に話せるようになる日は来るの だろうか。肝心なところで度胸のない私だが、失敗して恥をカニくことばかり 考えていないで、何にでもチャレンジすることから始めよ うと思う。

〈最後に〉

 韓国で出会い、お世語になった人はたくさんいる。そのすべての人につい て述べていくことは出来ないが、その人その人に思い出があるρ同じ韓国人 だけど性格だって全然違う。本国の韓国人だけでなく日本人や在日、在独の 韓国人とも知り合った。今回だけでなく、これからも私は出会いを大切にし ていきたい。そして、.韓国で私がそうしてもらったように、周りで困ってい る人がいたら助けてあげたい。そのためにも韓国語、そして英語の勉強を頑

張ろうと・思う。

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かった僕はそれでもまんざら.でもなかったのでそのままにしておいた。以後 ことあるごとに先生は「…さんは今日はお休みですね一」とか、女性の話題 の時には必ず僕に「どんな女の子が好きですか?」なんて言う質問を浴びせ る始末。僕も僕で「…さんみたいな人です」と調子に乗って笑いをと ってい

.た。でも本当にきれいな人なんですよ。

 この授業を毎日こなすのは大変だったが、「大変」が「楽しい」に変わる のに時間はかから なかった。日に日に理解度は増し、余裕が生まれるにつ れ、毎日教わる会話のエッセンスを実生活で使いたくなった。それが通じた

ときのささやかな喜びは今でも忘れられない。なによりもぼくのクラスには 破天荒な関酉人が二人いて(一人は問題の彼女です)、いつも彼女達を中心 に話しは進んだ。傍らでだまって聞いているのが耐えられないほどサイコー に楽しくて、初めのうちは彼女達のテンポについていくので精一杯。ひょっ としたらハングルより関西弁の方が得意になった?!かもしれない。僕は関 西弁がいたく気に入っていつも下宿でマネをしていた。こんな感じで終始ク

ラスの雰囲気は和やかで、6クラスあるなかでも特に楽しいクラスとして評

判だった。

〈ソウルを知るには…〉

 一ヵ月の生活のすべてが授業だったわけではない。毎日午後からはフリー だし、土、日は休みである。いつもは宿題を しに図書館へ行ったり、夜は ホップ(飲み屋のこと)でビールを飲んだり、ふらっと息抜きにビリヤード をしたりと、ソウルの夜は長い。無論旅行にも行った。どこへ行く、のも経験 だから、といろんなところに足を運んだ。実際ちょっとした発見がたくさん あった。韓国へ行くならとにかく町を歩くξいい。歩道を走るバイク、うる さい自動車、めちゃくちゃ時間の短い横断歩道、コングリッシュ(韓国風英 語)の看板、ケバい女性・(しらないうちにファンデーションが肩についてい たなんてこともあった)二こんな風景が僕が思うソウルの町だ。

 中でも強烈だったのは、タプコル公園(三・一独立運動発祥の地で、今は お雫さん達が朝からたむろう憩の場・とは言ってもその雰囲気に結構緊張す る)へ行ったときだ。そのとき僕等は三人だった。写真を撮ろうとしてとし て二人がすわって、はい、ポーズ、 と言うや否や、後ろから「イルボン!イ ルボン!」の叫び声。その瞬間僕らは内心「うわ!やべ一よ、おい!」とパ ニック状態。おじいさんたちカメラに向かってがすごい勢いで駆け寄ってく る。と、突然カメラを強引に取り上げ、もう一人は「叩き付けろ!」とまで 言い串し始める。お爺さんはしきりになにか怒っているのだが、僕らには何 を言っているのかさっぱり分からない。その間とにかく謝ることしかできな かった。結局カメラは返してくれたけど、今回一番ひやひやした経験だっ

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た。この写真は僕らの間では永遠に語り継が牝るだうう。皆さ今もタプコ!レ 公圃へ行くときはカメラと日本語に気をつけまし土う。

 それからこれはなにもソウルに限ったことではないが、 市場(ハングルで シジャン)がおもしろい6ちょっと気が抜けないけど生の韓国をはだで摩じ

ることができる。 いろんな店があり、ほとんどすべての生活用品と食材が手 にはいる。一通り見て回ったら、屋台でマッコリ(濁り酒、チョーう一まかっ た)を飲みながらアジュンマ(おばさん)と語しをするといい。なにか収穫 があるはずだ。せっかくの屋台だから「これはちょっと食べらんない」と忠 うものも試してみよう。ちなみに僕らはチョッパリ(豚足)とスンデ(豚の 腸にもち米をつめたもの)を食べてみた。どちらも思ったよりずっと旨かっ

た。

 食堂は至る所にあるのだが、まずい食堂は一つもなかった(ただ外大の学 食は安いけど問題アリ)。どこの食堂も、普通のおばさんが片手間にやって

いるといった感じで家庭的な味がした。日本で食べる韓国料理は法外に高い けど、本場で食べると安いし、とにかく量が多い。僕は辛い料理が大好きな ので、韓因料理で苦労することはなかった。ピビンパプも、牛カルビも、テ ジコギも、サムゲタンも、有名な韓国料理はほとんど食べたけど、やっぱり 一番旨いのはご飯物には必ずつくテンジャンチゲ(韓国版味噌汁。家庭に

よって味が違う。そこがまたいい)だった。ごれは僕にとって韓国での の故郷 と言っていいかもしれない。ああ、あの味よ 、フォーエバー!。

〈夏が終わって…〉

 授業で、普段の生活で、旅の途中でとなにかと実感したことがある。それ は「何事も言ってみるものだな一」と言うことだ。例えば、旅先で帰りの交 通手段に困ったとき、これから帰ると思われる感じのいい御家族にお願いし てみたら、みごと僕等をベス停まで送って下さったり(ヒッチハイクってや つ?!ほんとに感謝してます)、貸自転車屋さんのおじさんが不在で危うく その日の予定が御破算になり一かけたときに近くにいたお爺さんに事情を話し たら、貸白転車屋さんのおばさんを呼んできて下さったり、食堂で 辛ラー メン が食べたくてメニューにないのにおばさんに蕪理いって作ってもらっ たり、と、じつにいろんなことが一言の勇気でうまくいったのそある。こう いったイベントが僕らの韓国生活の端々を彩ってくれた。もちろんいつも通

じたわけではないけど…。

 日本にいる時で苧え、いろんな人がいるものだと思うものだが、海外へ出 るとそれがもっと強烈に感じられる。最初は勇気がいるけれど、やがてその 違い に驚き、感動し、.しまいにそのエキサイテ・イングな刺激が麻薬のご とく僕をおそい、快感の高みへと誘ってくれる。.退屈な日常生活め中ではと

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かく感じることのないハイな毎日が海外にはある。

 「世の中ぽんの少しの勇気が大切だな」と、これが今回の僕の教訓であ る。貴重な体験の連続で、毎日があっという間に過ぎてしまろたが、一この経 験がとても大きな自信につながった。たった一ヵ月なのにもうどこの国に放 り出されても平気なきがする(若気の至り)。これからの世の中、国境の意 味がどんどん変わっていくと思うけど、そんな 時代感覚 みたいなものを はだで感じることができた気がするのだ。それはいうなれば未来に対する楽

.観的な希望と言えるかもしれない。そしてちょっと幸せな気分なんですよ、

これは。こんな気分を味わいたいなら迷わず海外ぺ行こう.!。

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初めての海外、初めての韓国生活

小島美知子

〈食べ物シヨ,ツク〉

 私は今回が初めての海外旅行だった。しかも一ヵ月以上も韓国で暮らすと いうことで、行く前の緊張の度合は他の4人と比べて相当大きかった。こん

なことまで考えなくてもいいのにと思うほど、余計な心配をたくさんしてい た。その中でも食べ物は一番大きな問題だった。私は辛いものが苦手なの で、その心配ばかりしていた。

 しかし、実際に韓国で暮らしてみると、辛い食べ物よりはお茶が飲めない ことのほうが私にはとっては重大なことだった。私は日本で「韓国にはコン ビニェンスストアもあって何でも揃っている」と聞いていたので、当然お茶 も売っていると思っていた。しかし、お店で売っているのは水とジュースば かりで、缶に入ったお茶はあまり売っていなかった。暮らし始めて1週間く

らい経ったとき、友達が緑茶を見っけて買ってきてくれた。久しぶりのお茶 がとても嬉しく、味わって飲んだ。日本では缶の場合、お茶もジュースもみ んな同じ大きさで同じ値段だ牟、韓国ではお茶はジュースよりも小さくて、

しかも値段は高い。それで、下宿のご飯の時、おばさんが出してくれる麦茶 がひそかな楽しみだった。

 韓国では、鉢料水に砂糖がたくさん入っていることにも戸惑った。ジュー スは日本のそれよりも甘いので、日本でいつも飲んでいたウーロン茶が飲み たくなる。甘いジュースを飲む度に、ジュースから「太るぞ、太るぞ」と言 われているようだった。喫茶店に入ってもお茶はなく、紅茶もコーヒーも気 持ちが悪くなるほど砂糖がたっぷり入っている。そこで次に喫茶店に入った 時、「砂糖を入れないでください」と言うつもりで、なぜか「ソルタン(砂 糖)オプソヨ(ありません)」という言葉が出てレまった。自分でも何を 言っているのか分からないのだ。でも店員さんは笑ってうなづいてくれたの

で、私の言いたいことは通じたのだと思って安心していたら、出てきたのは やはりお砂糖たっぷりの紅茶だった。

 下宿では朝と夜に2食を出してくれた。おかずはニンニクの入っているも のが多く、朝食から大きなニンニクのかけらが入ったスープなどが出てくる

と、食べられないと思うこともあった。食堂の前を通ってもニンニクの臭い がしてく・るので、 「もうやめて一」と言いたくなったこともある。そのた め、昼食に、はファーストフードを食べることが多かった。日本にいる時はあ

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まり食べなかったのに、韓国へ来て食べるのは少し変な気がした。でも、

ファーストフードがこんなにありがたいと思ったのは初めてだった。

 韓国でラーメンといえば・「辛ラーメイ」というとても辛いラーメンが有 名だ。私も一度食べてみた。味は確かにおいしいのだが、信じられないくら い辛い。辛すぎて舌と唇がビリ ビリして、味が全然わからなくなる。こん」な に辛いものを食べたのは生まれて初めてだ。私は口が痛くて食べられず、涙 と鼻水と格闘していると、店のおばさんがかわいそうに思ってくれたのか、

「これは辛くないよ」と言って、ただでマンドウククスという餅の入った スープを出してくれた。おばさん、ありがとう。

〈沐浴湯での私〉

 下宿のお風呂はシャワ・一だけなので、時には湯船につかりたくなり沐浴湯

(銭湯)へ行った。日本と違うとζろは、朝早くからやっていて、夕方で終 わってしまうことだ。私は一度夕方6時頃に沐浴湯へ行ったところ、営業は

6時30分までだと言われて驚いた。翌日は早い時間に行った。脱衣所の中 はマサージ椅子はないものの、日本の銭湯とほと々ど変わらない。お風呂場 に入ると直ぐに垢すり台が置いてある。今回韓国へ行ったらぜひ垢すりを やってもらおうと期待していたが、垢すりおばさんはいなかったため残念な がらその機会はなかった』

 垢すり台の反対側にはお風呂場の中なのにもかかわらずトイレがあり、と ても驚Y・てしまった。その奥にはサウナもある。湯船は2つで、最初に入っ た方はとてもぬるいので、もうユつの方に入ろうとしたら今度は水だった。

私は熱いお湯に入れることを期待していったのに、ぬるま湯と水ではあまり お風呂に入ったという実感がしなかった。

 帰るときに受け付けのおばさんが私のことを覚えていてくれて、「ト オ セヨニ(また来てね)」と言ってくれた。嬉しくなって何か言わなくてはと 思ったが、.きちんとした韓国語が出てこなくて、思わず「ト カプシダ(ま た行 きましょう!)」という意味不明なことを言ってしまう。友達に指摘さ れて言い直したが、とても恥ずかしかった。私は韓国人に何か話しかけられ ると、頭はパニックになって自分でも何を言っているのか分からなくなって

しまうのだ。韓国ではこうした「パニック」が本当に多かった。

〈地下道をさまよう〉

 ソゥルは地下道がとても多い。地下道でも地下鉄の」駅に連絡している所 と、商店街だけの所があり、とても分かりにくい。 買い物を終えて帰ろう」と 地下鉄の駅に連絡している地下道に降りたつもりが、間違えて他の商店街の 地下道を歩いていたこともある。「何かいつもと違う感じの地下道だな」と 思ったが、その時は間違えていることに気がつかずにそのまま歩き続けた。

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でも、いくら歩いても駅らしき物が見つからないので地上に出てみると、行 こうとしていた駅から2駅分も歩いたことが分かり、疲れがとっと出てし まった。それからは地下遺を歩くときは慎重になったが、 それでも何回か間 違えることがあった。

〈旅館での一泊〉

 大学の授業が終了して友達と一緒に釜山に行った。1日目は旅館に泊まっ た。安くて清潔で、それに旅館のおじさんは日本語が話せるのす安心だっ た。私と遠藤さんは同じ部屋に泊まったが、うかりして夜鐘をかけるの牽忘 れて寝てしまった。朝になってからそれに気付き怖くなったが、何も盗まれ ていなかったので幸いだった。

 釜山で友達になった女の子に「昨日は旅館に泊まった」と話すと、と一でも 驚かれた。私たち日本人は「旅館」は旅行客が泊まる宿だと思うが、韓国で

は連れ込み宿のように考えるそうだ。「今日も旅館に泊まるつもりだ」・と言 うと、その女の子のお母さんにまで叱られた。お母さんは「旅館に泊まるく らいなら私の家に泊まりなさい」といって、自宅に泊めてくれた。

 ソウルド戻り二宿泊するところを探したが、緒局また旅館に泊まってし まった。旅行ガイドブックで、日本語が通じて、日本人が良く利用する「大 祐(テウ)旅館」という旅館を見つけた。ここなら大丈夫だろうと、電話で 予約をした。旅館の近くまではタクシーで行き、そこから旅館のおじさんが 案内してくれた。おじさん律飲み屋街の細い道をどんどん入って行くので、

後ろからついていきながら「どこに連れて行かれるんだろう」と不安になっ た。着いたところはとても薄暗い建物で、ますます大丈夫かなと心配になっ たが、外観と違って部屋は騎麗で、普通のオンドル部屋だった。受け付けは おじさん2人とお姉さんが交代でやっていて、3人とも日本語が通じるし、

市庁のすぐ近くで地下鉄の駅もあって便利なので、とても快遭に過ごせた。

この旅鎗は空港や案内所でも紹介されているらしく、.女性が一人でも泊まっ一 ていたり、日本人がたくさんいたので安心だった。とにかく、釜山の人が 言っていたような不安はなかった。

〈最後に〉

 今回韓国に行って、楽しい驚きや嬉しい驚き、中には少し嫌なこともあっ たが、たくさんのことを知ることができた。行って本当によかった。韓国で は流行っている口紅を使ったり、ズボンを履いたりして韓国人になりきろう

と努力したが、やはり日本人にしか見えないと言われた。次に行くときは韓 国人に話しかけら九ても、余裕で答えられるようになっていたい。

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日本を離れて

      茅原洋介

〈夏の巡業〜韓国場所初日〜〉

 金浦空港からタクシーで約1時間、漢江の北側に韓国外国語大学校(以 下、外大)がある。そこへ向かう途中、国会議事堂、63ビル、漢江などを 眺めながら、運転手さんにハングルで話しかけてみた。今まで大学で勉強し てきたことを使って、こちらから話すことはできても相手が話すハングルを うまく聞き取れず、このときは短い会話をいく?かするのが精一杯だった。

それでも今回韓因に来て最初の会話が成功したことに、「夏の巡業〜・韓国場 所〜」の初日を私たちは白星で飾った気になっていた。 ・

〈下宿にて〉

 当初予定されていた下宿がいっぱいということで、私たち4人は急きょ別 の下宿へ案内された。さっそくトラブル発生だ。家賃はY・くらか、食事は何 時にとるのか、風呂は入れるのか、また夏はお湯が出ないと聞いていたの で、お湯は出るのか、誰がどの部屋に雪まいるかなどを交渉する必要があっ た。幸か不幸か、その日はわが新潟国際情報大学の柳在相先生が」緒にいて 下さったため・意外とこれらの交淑幸順調に進んだ。結局、食事は牛前7時 半から8時までに朝食を、午後6時半から7時までに夕食を丁階の台所でと ることに・風呂は浴槽が無いためシャワーで我慢、お湯は夜9時から10時 まで出してくれることになり、部屋は当然ながら男2人でひと部屋、女2人 でひと部屋に決まった。それから洗濯物もおばちゃんが洗濯機でしてくれる ことになった。家賃は、2人部屋で、一ヵ月1人30万ウオ・ン(1日2食、∴

洗濯付きで約4万円)。

 外大が斡旋してくれたはずの下宿が、いっぱいだから別の下宿へ案内され る。信用が大切な日本では考えられないことだった。今になって思い返して一 見るとそんなに大したことではないようにも思えるが、それでも初日から日 韓の考え方違いを見せつけられた私は、明日からの事を思うと初日は白星な どと、うかれている場合ではないことに気付きく「ここは韓国なんだ」と改 めて自分に言い聞かせていた。

〈レベル.1〉

 外大の語学研修最初の試練は、1〜6のレベルに振り分けられるテスト だ。90分に及ぶテストの結果、私は初級のレベル1であった。今まで何を 学んできたのかという腹立たしさと、これが実力なんだという何か妙な納得       12

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感があった。とにかくレベル1の授業を、月曜日から金曜日、朝9時から昼 1時までの授業をこなしていくうちに、強く感じたことが5つある。まず1 つ目は、授業は英語もたまに使うが、基本的に韓国語で行われ、日本語は皆 無に等しく最初は少し戸惑ったことである。それでも外大の先生の熱意と、

韓国語を勉強しに来たという学生の決意が呼応しあい、授業はとても良い雰 囲気のなかで進んでいった。2つ目は、1・2・4時間目を受け持つ先生

と、3時商自、主に読み中心の授業を受け持つ先生がおられたのだが、この 先生方の十分な打ち合わせのためか、2人の先生にも関わらず、授業に統一 感があり、とても学びゃすく外大の語学研修への徹底ぶりがうかがえた。3 つ目は、日本人が多い。レベル1の私たちのクラスは11人全員日本人だっ た。大学生がほとんどを占めていたが、40代の会社員の方や、妻子ある中 学校の先生がいて驚いた。世の中いろんな人がいて、いろんな価値観がある

と考えたことはあっても、本当に実感したのはこのときが初めてだった。4 つ目ぽ、日本人の他に在日2世・在米2世・在独2世・アメリカ人・タイ 人・インド人・フイリピン人・パキスタン人・オーストラリア人など様々な 国の人がいて驚いた。日本を発って日本人でも韓国人でもない異国の人を目 にするまで、これから行く外国にまさか別の外国人がいるなどと考えたこと もなかっ・た。自分の視野の狭さと「国際化社会」という言葉を改めて肌で感 じたのはこのときだった。5つ目は、韓国にいる日本人以外の外国人と話す ときの共通語はやはり英語そあり、英語の大切さを知ったことである。私は 英語から逃げたくて韓国語を始めたぐらいの人間であった二しかし、日本に いるξきには気付かなかったのか、気付こうとしなかったのか。今回の韓国 で英語の必要性を再認識させられ、また英語から逃げることも無理だと悟っ

た。

〈強いぞ!本間〉

 宿題が山ほど出されたある日、図書館で勉強しようと思った私は夕食を下 宿で済ませた後に、外大の図書館に行らてみた。昼間は留学生だと言えばす んなり入れたのに、夜は「学生証がないとだめだ」と言われた。守衛さんの 話が聞き取れず、語学力が圧倒的に劣る私はろくに理由も解らないまま帰ら ざるを得なかった。しかし、一緒にいった本間はさらに、「留学生なのに何 故入れてくれないの」か、昼間は入れてくれたのに何故夜はだめなのか」と、

質問を続けた。それでも緒局取り合ってくれなかったが、彼は最後に「明日 また来ます」と皮肉たっぷりの顔で守衛さんに別れの挨拶をしていた。言葉 はよく理解できなかったにしても、彼のその姿を目のあたりにした私は、彼 の考え方とそれを遂行する勇気に此べて、すぐに納得してしまった白分がも のすごく情けなかった。結局なぜ夜に入れなかったかはいまだに謎である。

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〈机がない〉

 普通、どこの下宿にも机がない。そのため学生は図書館で勉強する。外大 の図書館は夜の12時まで開いていて、夏休みだというのにいつ行っても学 生達でいっぱいであった。韓国の学習熱の高まりは以前カ、ら知ってはいた が、これ程までとは思わなかった。図書館のトイレで歯を磨いたり、顔を 洗ったりして眠気を吹き飛ばし、更に机にむかおうとする学生がか左りい た。机はほぼ左右に仕切りがあり、天井は低めに設定されていて、部屋の蛍 光灯の灯りだけで十分な明るさだった。冷房も完備され快適で、しかも本当 に静かである。 さらに学生が常に真剣な雰囲気の中で勉強しているため、そ こに行けば嫌でも勉強をすることになった。

 下宿に机がないために見られる学生同士の切瑳琢磨する姿に、新潟大学の 図書館以来、久しぶりに大学生を見た気がした。同じ大学生として韓国の学 生達は、無言で私に大学生たることを教えてくれた。

〈お金じゃ買えないもの〉

 私はこの夏、韓国で沢山の友達ができた。中でも同じ下宿で同じクラス、

韓国にいる間のほとんどの時間を私たちと一緒に過ごしたひとりの日本人の 存在は、私にとっても他の3人にとっても忘れることのできない存在になっ た。まったく予想もでき.なかったことではあったが、今となっては彼女の存 在をぬきにして、この夏の出来事は語れない。私は、彼女の悩みや考え方や 将来の夢に、同じ大学3年生として共通する部分も見つけたが、今回韓国で

出会うまで別々の環境で育った彼女に、今までの私には存在しなかったなに か新しい価値観を発見した。5人で過ごした1ヵ月は夢のように過ぎ去った が、それぞれ胸の中にお金では買えないたくさんの思い出が残った。

〈心の変化〉

 今回韓国へは短期の語学研修に行って来たわけだが、そこで韓国語の他に も生活習慣や文化や歴史など様々のことを学び、さらに日本では気付くこと のなかった英語の大切さや大学生としてのありかたなどを改めて気付かされ

た。

 3年生でもあり最後のチャンスだと決断した今回の短期留学は、私の心に 今までにはなかった変化をもたらしてくれた。 もっと早く行っておくべき

だったと思うのが正直な気持ちだが、過去には戻れない。これから自分がど うするか、今のこの気持ちを忘れないためにもこの夏のことをここに書き記

しておく二

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第12回日韓学生フォーラムに参加して

石橋みほ子・

〈涙、涙のフォーラム〉

 1996年7月31日午前10時、私たちは関西国際空港からソウルヘ向けて出 発した。今回のプログラムは韓国語でも日本語でもなく英語を共通語として

15日間を過ごす。 実は不安だらけの出発だった。何故ならば出発前にス・トレ スと過労から神経性胃炎になったことや、この時点での自分の英語力にかな

りの不安があったからだ。まだ知らない韓国側のメンバーに対しても然りで

ある。

 しかし行ってしまえば英語に苦労しながらも私は楽しんだ。英語で苦しん だ分だけ優しさが身にしみたこと。日本では経験できないような体験をした こと。そして今回も泣いたこと。今年3月の海外研修旅行で韓国を訪れた時・

も釜山や金浦空港で大泣きしたが、今回も負けず劣らずホームシックで泣 き、閉会式で泣き、最後の金浦空港でも泣いた。空港へ向かう前に「今日は 絶対に泣かない」と約束していたのにもかかわらず私はこの約束を守れな

かった。韓国のメンバーであるChmkonやMr.Ryu、そしてホームステイ パートナーだったJiyeonに同じことを言われ続けた。 Mihoko,don t cry!

〈第1分科会〉

 分科会はフォーラムの中でシンポジウムとフォーラムの軸を形成するもの である。第12回は 地球時代の共同発信 という全体テーマのもと、第1分.

科会、第2分科会と分けて、より多くのメンバーと話し合い、より濃い内容 を目標としていた。第1分科会は政治、経済、文化、歴史、教育の5つの分 科会に分かれ、私は経済分科会に所属した。経済分科会のメンバーは「めん こい」こと立命館大学の佐々木君、同じく「てっちゃん」こと酒井君、「衛 さん」こと東京大学の栃木さん、ソウル大学校のChmkon、梨花女子大の Meeyoung、高麗大学校のKihoと私の7人であった。私たちは4つのトピッ

クについて話し合った。南北の経済協力について、韓国のAPEC加盟につい て、北東アジア共同体について、そし て多国籍企業についてである。私は Chmkonと共に多国籍企業のトピックを担当した。

 第1分科会だけでなく15日間を通して私は勉撃不足、知識不足であること を実感した。日本のメンバーと比較してもそうである。とにかく韓国の3人 は週2 回集まって半年間、経済にづいて勉強してきたそうだ。その資料の厚 さといったら私たちのそれとは比べ物にならなからた。一方日本側といえば 全員が集まれたのは出発前の直前合宿のみ。E−mai1を使ってもディスカッ

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なく、私たち日本のメンバーもため息ものであった。歌いながら舞い、その 声は私たちがカラオケで歌うような声とは違い、マイクなどなくても通る声 であった。日本人のくせに「伝統芸能もいいかも」と思ってしまった。

 Korea Nightは伝統的な韓国のお茶で始まり、劇『ある暇な学生の.1日』、

ファンダンス、グイズ、サムルノリ、そして合唱。アンコールでもう一度 ファンダンスを 見せてくれた。この中で私はサムルノリにいたく感動した。

最初は耳カミ痛いと思うような大きな音なのだが、5つの打楽器がそれぞれの リズムを刻み、二つの音楽になっていく。どれ一つとして同じリズムはな い。不思議な音楽だなと思った。このサムルノリを練習する光景を韓国の至 るところで見てきた。大学のキャンパスでも公園の大きな木の下でも。雅楽 クラブがあったとしても日本では決して見ることのできない光景である。や はり伝統芸能であるファンダンスもまた素晴しかった。日本の『巫女の舞』

と比較すると、『巫女の舞』は神様に捧げる静かな臨りであるのに対して、

ファンタンスは動きの大きな踊りという気がした。大きな扇子を広げ、最初 は蝶々のように、次は大輸の花のように、あるいは風のように舞っている。

本番では緊張して固かった表情も、アンコールではみんなとても騎麗な笑顔 だった。Japan NightもKorea Nightも終わった後にはそこにいたすべての 人々が笑顔だったことが私には嬉しくてしょうがなかった。

〈初めての体験〉

 日本では絶対に体験できないことも期間中には起こった。延世大のある新 村のカラオケに行った日のこと、デモがあって催涙弾の臭いが残る中を帰っ・

てきた。韓国のメンバーのKihoやRanちゃんが私たちに注意を与える。「決 して目をこすらないこと」、 「必ずハンカチを口に当てること」。Ranちゃ んはハンカチを持っていない人のためにトイレットペ∵パーを手際良く切っ ていく。私はまだ生まれていなかったけれど、60年安保の頃の日本と同じな のだろう。日本に帰ってきてからニュースや新聞を見ると、デモによる負傷 者や死者、違行された人々のことが報道され、日本と似ていてもやはり違う

と思ってしまった。

 そして韓国から帰って来たときのこと∵台風の影響で降りるはずだった関 酉国際空港に降りることができず名古屋空港まで行ってしまった。台風の風 で飛行機に乗り慣れた人でさえ、「こんなフライトは初めて」と言うくらい 機体は激しく揺れた。しかも名古屋空港に着いてからも機内で1時間待ち、

入国審査を受け、用意されたホテルについたのは翌日の12時過ぎであった。

〈フォーラムに参加して〉

 私は本当に素敵な体験をしたと恵う。帰ってきてからは新潟日報の取材も 受けた。この半年、たくさんの人に出会った。今までで一番たくさんの土地

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に出かけ、たくさんの友達をつくった。しかし、フォーラムに参加できたの は諸先生や衛さ んのおかげであると思っている。デつでも違っていたら・

きっと」参加していなかった、できなかっ牟であろう。実は参加した畢由はた くさんの人に会ってその考えヤ気持ちに触れてみたいと思ったからであっ た。その目的はきっと達成そきたと思う。そして私は今回韓国へ行って・今

まで以上に韓国カ干好きになった。韓国が好きという理由も明確になったよう な気がする。

 フォーラムに参加できて良かった。それが今の正直な気持ちである・

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2・コラムーソウル ・アギジヤギ

(1)ソウルの街角で

      〈乗り物の中のドラマ〉

 タクシーの相乗りは楽しかったけど、乗車拒否が一番いやだら・た。日本と 違うと言ってしまえばそれまでだが。そういうこともあってか、ソウルでは 地下鉄を利用することが多かった。電車に乗っていると日本にいる錯覚に陥 ることもあるくらい韓国人と日本人は似ていた。しかし、新聞屋さんや物売

りがいきかい、盲目の人赤ハーモニカを吹いて慈悲を求めながら目の前を 通って行くと「やっぱり日本じゃないな」と、ふと球に帰ることが何度か

あった。

 大学の授業が終わった後で一週間ほど旅をした時、ソウルから釜山まで高 遠バスを利用したのだけどめちゃめちゃ疲れた。もう乗りたくなへ釜山で は路線バスにも乗ったが、運転がかなり.「上手」で、手軽に遊園地気分が味 わえた。慶州からソウルまでは一番信頼できるセマウル号、し牟もファース

トクラスに乗った。それでもそこは韓国、僕らの座席の足元に荷物がいっぱ い、誰の荷物かと回りの人に聞いているうちに、問題の荷物の持ち主らしい

3人のおばちゃんたちがそそくさと荷物を持って行ってしまった。このよう な楽しいできごとを除けば、.さす赤セマウル号のファーストクラス、トイレ はあるわ、洗面所はあるわ、、食堂車はあるわで、高速バスなどとは比べ物に ならなかった。でも、僕らの席は一番前で、あまりにトイレに近すぎファー ストクラスの割にはほんのちょっとだけ悩殺される匂いに負けそうになっ

た。

 交通機関の料金は日本に比べはるかに安かった(半分以下)し、そこで繰 り広げられる数々のドラマは今の韓国そのままであった。 (茅原洋介)

      〈韓国の化粧〉

韓国でも日本と同じく、早い子では高校生のころから化粧をする子が出て くるという話です。道を歩いていても、素顔の人をみたことがありません。

韓国に限ったことではないのかもしれないが、特に韓国では女の人の化粧は 人に会うときの礼儀 なのかもしれません。簡単なメイクしかしないという か、知らない私は韓国人の友達に会うとよく「化粧.してる?」と聞かれまし

た。

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