清少納言の「汗」 : 「清涼殿のうしとらのすみの
」の段の一解釈
著者 赤井 赳哉
雑誌名 三重大学日本語学文学
巻 16
ページ 57‑66
発行年 2005‑06‑26
URL http://hdl.handle.net/10076/6626
清 少
納 言
の
「汗」
‑「清涼殿のうしとらのすみの」の顔の一解釈‑
はじめに
『枕草子』の「清涼殿のうしとらのすみの」の段の前半部に
は次のはぅにある。清涼殿の高欄のそばに桜の花を生けた青い
瓶が置かれてあり、天皇渡御の際、伊周が古歌を詠み、その直
後に定子が女房たちに「これにたゞいまおぼえん古き事、一つ
づゝ書け」とテストしたところ、女房たちは頭を悩ませながら
それぞれ歌を朗詠した。清少納言は「年ふればよはひはおひぬし
かはあれど花をしみれば物思ひもなし」という古歌の「花をし
みれば」の部分を「君をし見れば」と改作して詠み上げたとこ
ろ、定子は父である道隆が三位中将であった頃に、同じように
古歌を改変して天皇に褒められたというエピソードを語り、そ
れを聞いた清少納言は「すゞろに汗あゆる心ち」がした、とい
うものである。続いて後半部「古今の草子を」以下は、定子が
女房たちに『古今和歌集』の暗記テストを実施したところ、清
赤 井 剋 哉
少納言でさえも満足に答えることができなかった。そこで定子
は、村上天皇の頃に宣耀殿の女御が『古今和歌集』の暗記テス
トでl問も間違えなかったというエピソードを語ったという。
本稿では、当章段の前半部で「冷や汗」を流した際の清少納
言の心情に焦点を当て、清少納言が和歌を読み上げるまでに行
なわれた、定子、伊周たちとのやり取りに注目することで、一
般に自讃談と位置づけられる当章段を再解釈しようと思う。
一、清少納言の詠歌と「場」の再現
まずは本段前半部の、特に清少納言の詠歌に関して見ていこ
うと思う。清少納言が、定子が行なったテストの答案として詠
み上げた古歌は『古今和歌集』に収められているものである。
そめどのゝきさきおま
へ
がめ
さくら
lまな
さ ゝ
染殿后の御前に、花瓶に、桜の花を挿させ
給へるを見て、よめる・前太政大臣
年ふればよはひは老いぬしかはあれど花をし見れば
(おもひ)物思もなし
(『古今和歌集』巻一、春歌上、五二)
この歌に関して、古注では『寂恵本古今和歌集』に、
后ノ御幸二花ヲソヘタテマツレリ。
とあり(注一)、また『古今栄雅抄』には、
(前略)(歌)かめにさせる桜を。后の容顔美麗なるを。父
自愛のあまりに。老てあれど。見れば物おもひなしと。花
によそへてよめり。(後略)
とある(注二)。また窪田空穂氏の『古今和歌集評釈』でも、
「花」は、皇后のお前の櫻であるが、女の皇后を隠喩とし
たものである。女の条章の横を見ると、老の欺きも忘れる
心である。
とし(注三)、最近のものでは『古今和歌集全評釈』が、「桜に
娘の染殿の后が託されていることは誰しも否定出来ない」とし ている(注四)。単に目の前の花を詠んだ歌ではないということは明らかである。
この古歌を清少納言が詠んだ意図については後に述べるとし
て、ここではまず『古今和歌集』の「年ふれば」の歌の詞書に
注目したい。
この詞書は、良房がこの歌を詠む際に桜の花が花瓶にさして
置かれていたという状況を示しているのだが、この場面は当牽
段の「高欄のもとにあをき瓶のおほきなるをすへて、桜のいみ
じうおもしろき、枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば」
の箇所の状況と類似している。定子が女房たちに正解の答案を
導き出させるため、瓶に花をさして良房の詠歌の場面を再現し
た、という表現は当章段中には見られないが、当章段と『古今
和歌集』とで偶然に詠歌の場面が一敦したとは考えにくい。そ
の理由は後に述べるとして、やはり定子が清少納言たちを試す
ためにこの良房の詠歌の場面を再現したと考えたい。
この定子による「場」の再現については清水好子氏が早くに
指摘していることであるが(注五)、こうした場の類似に気づい
ていない限り「年ふれば」の歌を詠むことはできず、定子の周
りに集められた腕利きの女房でさえこのことに気づかなかった
ため、定子が求める答案にたどり着けなかった。この良房の詠
歌の「場」の再現は、定子による、正解への第一の「手がかり」
として押さえておきたい。
‑58‑
二、中宮定子「難波津も、何も」発言の真意
定子が女房たちに「たゞいまおぼえん古き事一つづゝ」を書
くように促したものの」その命令に対応できる者は一人もいな
かった。それに対して定子は「とくく、たゞ思ひまはさで、
難波津も、何も、ふとおぼえむ事を」と言って女房たちを急か
した。この発言中の「難波津」とは『古今和歌集』の仮名序に
挙げられている歌のことである。
はじ
難波津に咲くやこの花冬籠り今は春べと咲くやこの花
(『古今和歌集』仮名序)
この歌は、同仮名序中に「歌の父母の様にてぞ、手習ふ人の、
初めにもしける」とあるように、当時は手習いの初めとされて
いた歌で、誰もが知っていると言っても過言ではない歌であっ
た(注六)。そのように有名な歌であったために、定子は「難波
津の歌のように簡単な歌でも良いから、早く詠みなさい」とい
ぅ風な気持ちで女房たちを急かしたのであろう。しかし、その
直後の女房たちの反応を見てみると単にそれだけではないよう
である。定子に急かされた女房たちは、「春の歌、花の心など、
さいふくも上席二つ三つばかり書きて」という風に春の歌や
花についての気持ちを書いたのである。もし定子が単に早く歌
を詠ませるためだけに「難波津に」の歌を例として挙げたとす
ると、古歌であれば何でも良いのであるからその対象範囲は広 いはずであり、女房たちは「難波津に」の歌自体をそれほど意識せず、定子に急かされる前から考えていた歌を詠んでいたかもしれない。
しかし、この定子の発言によってその範囲は「春の歌、花の
心」に縮まったのである。そう考えると、この発言も定子によ
る正解への「手がかり」であり、この歌を挙げたのには理由が
あったことになる。「難波津に」の歌は「花」を詠んだ歌である。
そして、清少納言が持ち出した古歌、
年ふればよはひはおひぬしかはあれど花をしみれば物思ひ
もなし
も愛しい娘を「花」に例えて詠んだ歌である。定子は「花」と
いうキーワードを挙げることで正解を導く糸口を清少納言や女
房たちに与えようとしたと、清少納言は読んだ。「花」の歌はい
くらでもあるが、その中であえてこ.の「鹿波津に」の歌を挙げ
たのは、この歌が老若男女誰でも知っている歌であるという以
上の理由がある。
この「難波津に」の歌に関して深沢三千男氏は、さらに詠み
人の心情にまで踏み込んで、次のように述べている(注七)。
(前略)大鶴鶉命に皇位を継ぐようにいう作者の(情)が、難波津に咲く花の(景)の表現の裏に添えられている二諷
歌」
には「ソヘウタ」の古訓もある(神武紀元年正月条)。
そして「この花」を目前の花を具体的に直接指して言った
ものと解すると、「この花」は王仁の意識の中にある大鶴鶉
皇子を指してたとえている事になる。(後略)
つまり「難波津に」の歌と「年ふれば」の歌は、「花」を詠ん
だ歌であるという点だけではなく、詠み人がある人物を→花」
に例えて詠んだ暗喩の歌であるという点でも共通していると言
うのである。さらに、「難波津に」の歌は大鶴鶴皇子を、「年ふ
れば」の歌は定子を称えて詠んだ歌であり、ともにその時の宮
中を称えて詠んだ歌であるという点でも類似していると言える。
このように両歌は詞書、状況設定、暗喩の技法の点で類似し
ており、三つ重なると偶然の一敦とは考え難い。桜を生けた瓶
を設置したことも、「難波津に」の歌を持ち出したことも、今回
の歌詠みの場を飾るための定子による演出と考えた方が自然で
ある。
またもう一つ、定子の発言で「たゞ此心どもの、ゆかしかり
つるぞ」とある。これは清少納言が正解の歌を詠み上げた直後
に定子が言ったお褒めの言葉であるのだが、ここでは「此心」
ではなく、「此心ども」となっており、清少納言を含め女房たち
全員を賞賛している。先にも述べたように、女房たちは、定子
が「難波津も、何も」と発言した後、即座に「春の歌、花の心」
を詠んでおり、この行動によって女房たちは、定子の賞賛を浴 び得たと考えられる。
この「たゞ此心どもの」という定子の発言に関して、三田村
雅子氏は『馬内侍集』の巻頭を飾る桜の歌と今回の花瓶の前で
の歌詠みとを結びつけ、
(前略)「ただこの心どものゆかしかりつるぞ」と言ったと
いう定子の対応も、ただ一人のみを激賞するのではなく、
それぞれの良さを救いあげるような、それぞれが自分が最
も褒められているように錯覚しかねないものであったよう
にも思われる。(後略)
と述べ、それが清少納言ただ一人に対するものではない可能性
があると言う(注八)。もし定子が正解の歌を導き出すための「手
がかり」として「難波津に」の歌を挙げたのであれば、見事正
解を導き出した清少納言はもちろんのこと、両歌に共通するキーワードに気づき、即座に「春の歌、花の心」を詠んだ女房た
ちをも賞賛したと言えるのではないだろうか。
三、伊周の意図
中宮定子の「難波津も、何も」の発言、清少納言の「年ふれ
ば」の詠歌の前に、伊周が「月も日も…」という歌を詠んでい
る。この歌は『万葉集』に収められている歌である。
ー60‑
ツキモヒモカハリユケトモヒサニフルミムロノヤマノトツ
ミヤトコロ(『古葉略類宋抄』による次点歌)
月も日も変はらひぬとも久に経る三諸の山の離宮所
(『萬菓集』巻十三、三二三一)
『枕草子』三巻本ではこの歌の第五句のみが記されておらず、
また能因本では「月日もかはりゆけともひさにふるみむろの山
とみやたかく」とあり、前田本では「月日もかはりゆけとひさ
にふるみむろの山のとみやたかく」とあり、『枕草子』の底本で
は第五句が記されているものは皆「とみやたかく」となってい
る(注九)。しかし、『高菜集』の第五句は『元暦校本萬葉集』
に「とくみやところ」とある以外は、「とつみやどころ」となっ
ており、「とみやたかく」は誤った増補本文であると考えられる
(注十)。そうすると、第五句を省略したのは誤写を削るためか、
もしくは意図的に隠すためかなどと考えることができる。
清水氏は、「月も日も」の歌と良房の「年ふれば」の歌に関し
て次のように述べている(注十一)。
(前略)廿三段の光景に戻ると、この場面が古今集の世界と
一致する点はまだある。后、桜の花瓶、御兄の訪れ、と整
うが上に、その兄が「月も日もかはりゆけどもひさにふる
三重の山のとつ宮どころ」と古歌を詠じたことである。染
殿の后の父が「年ふればよはひは老いぬしかはあれど花を し見ればもの思ひもなし」と詠じたのに相応じる。その歌の意も「年ふればよはひは老いぬ」「月も日もうつろひゆけども」と、ともに似た発想であり、「花をし見ればもの思ひもなし」「久にふる三宝の山のとつ宮どころ」と、后の栄え、宮廷のとわの栄えを讃むる心もひとしい。(後略)
「后、桜の花瓶、御兄の訪れ、と整うが上に、その兄が「月も
日もかはりゆけどもひさにふる三重の山のとつ宮どころ」と古
歌を詠じたこと」から、伊周の歌と良房の歌との、宮廷の栄華
を歌うという類似性を指摘している。
清水氏のように考えると、この歌の主旨は、宮廷の栄華を歌った点で、大鶴鶉皇子を称えた盛波津に」の歌や、定子を称
えた「年ふれば」の歌と似通ってくる。「月も日も」の歌にも「年
ふれば」の歌と類似する点があるとすると、伊周も定子と同じ
ょうに、正解の歌を連想させる歌詠みをすることで、清少納言
や女房たちに「手がかり」を与え得た可能性がある。
定子の兄である伊周は何らかのかたちで定子の意図を見抜い
ていたのだろうか。清少納言が「これはいかゞ」と言って伊周
に参加を求めたことに対し、伊周が「とう書きてまいらせ給へ。
をのこはこと加へさぶらふべきにもあらず」と言って歌詠みテ
ストへの参加を断ったことから見て、女房たちは急いで歌を奉
る必要があること、自分は参加すべき立場にないことは心得て
いたものと思われる。
四、清少納言の「汗」
『枕草子』には、清少納言が自分自身を褒め称える自讃談が
いくつかある。どの章段を自讃談と捉えるかと考えた場合、い
ろいろと問題が生じるのだが、例えば久保木哲夫氏は次に示し
たような章段を自讃談として挙げている(注十二)。
(一二段)今内裏のひむがしをば〔定澄僧都の枝扇〕
(二三段)清涼殿の丑寅のすみの
八二段頭の中将の、すずろなるそら言を〔草のいほり〕
(八三段)かへる年の二月廿日よ日
(八七段)職の御曹司におはします頃、酉の麻にて〔雪の山〕
一〇二段中納言まゐり給ひて〔海月の骨〕
一〇五段殿上より、梅のみな散りたる枝を〔はやく落ちにけり〕
一〇六段二月つごもり頃に〔南秦の雪〕
一三三段頭の弁の御もとより〔餅俵一包〕
一三六段頭の弁の、職にまゐり給ひて〔鳥のそら音〕
二二七段五月ばかり、月もなういとくらきに〔この君〕
二三八段細殿にびんなき人なん〔ぬれぎぬ〕
二九九段雪のいと高う降りたるを〔香炉峯の雪〕
※章段番号に
〓
の施されているものは、自講談としての位
置づけに問題があると久保木氏は述べている。 ただし、久保木氏は一見自讃談に思える当章段については次のように述べている。
二三段の「清涼殿の丑寅のすみの」には、
年ふればよはひは老いぬしかはあれど花をしみればも
の思ひもなし
という良房の歌の、「花をしみれば」というところを、「君
をしみれば」と書きなおして、その機転を中宮にほめられ
た話がのっているのだが、これも実は章段全体の中では一
部分で、本当は、中宮定子を中心とした、中開自家のすば
らしい春がテーマになって描かれているわけなのである。
当章段はこれまで見てきた前半部だけに限ると自讃談と捉え
ることができるかもしれないが、続く後半部を含めた「清涼殿
のうしとらのすみの」の段全体を見渡すと、自讃談とは言い難
い。それは後半部において、清少納言でさえも定子のテストに
満足に答えられておらず、「我ぼめ」を感じさせる記述が見られ
ないこと、後半部の大半が定子の語りで構成されていることな
どからも明らかである。
自讃談である前半部と、惨めな失敗をさらけ出している後半
部とを〓早段としてまとめた理由は、定子によるこれら二つの
テストが同日に行なわれたためと考えることも出来る。清少納
言の
「我ぼめ」の意図が強ければ、それを抑止しようとする内
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面的な力も働く。その時、「後宮の記録」もし・くは「宮讃美」の
主題が浮上してくると考えて不思議ではない。
前半部と後半部の共通点は何かを考えてみると、それは『枕
草子』中でもめずらしい定子による長々と続く「語り」であり、
清少納言はこの「語り」が目的でこれら二つのエピソードをま
とめ合わせたのではないだろうか。
私は「前半部だけを見ると自讃談と捉えられるかもしれない」
と述べたが、清少納言が定子の「語り」を強調するために前半
部と後半部をまとめたと考えると、定子の「語り」が重視され る。
清少納言が「年ふれば」の歌を詠み、定子がそれを褒め、円
融院の頃のエピソードを語った直後に「すゞろに汗あゆる心ち
ぞする」という叙述が続く。これは清少納言が正解の歌を詠ん
だことで、定子からお褒めの言葉をもらった時の自身の描写で
ある。この時の心理は一般に「(尊い中宮様からもったいないほどの
お宮菓を頂き)自然と汗が出るような気持ちです」という風にプ
ラスの意味で解釈されている。
ではこの表現をマイナスの意味で解釈するとどうなるのであ
ろうか。定子は「円融院の頃にちょうど今と同じような状況で、
父道隆は「しほのみつ」の歌の「息ふはやわが」の部分を「た
のむはやわが」に改変して詠んだ」ということを清少納言たち
に語り聞かせた。それは今日の遊びの演出を説明するためでも
あった。もし中宮定子の手元に集まった歌を見て、その必要が なければ、定子がこの語りをするはずもない。大方の女房が円融院の頃の、父道隆のエピソードを知らないと見たからこそこの語り聞かせがあったのである。その場にいる清少納言がもしそのような過去の出来事を知らずに「年ふれば」の歌を改変し
て詠んだのであれば、と考えたらどうなるのか。
そのような初めて耳にするエピソードを定子から聞かされれ
ば、清少納言も「そのような出来事を知らずによく正解できた
ものだ」と自然と「冷や汗」がこぼれてくるだろう。
しかし、過去に古歌を改変して詠んだという出来事を知らな
いで
「年ふれば」の歌を改変して詠むことができるのであろう
か。清少納言が、先に述べたような定子、伊周の「手がかり」
をすべて受けとめていたとすればどうであろうか。定子が言っ
た「難波津に」の歌も、伊周が詠んだ「月も日も」の歌も皇室
の栄華を詠んだ歌である。清少納言はこれらの歌に込められた
思いに気づき、「花をしみれば」を「君をし見れば」に改変し、
皇室、そして目の前の定子を思って詠んだことになる。見事正
解を導き出した清少納言であったが、円融院の頃の出来事を知
らなかったことを不覚に思い、「冷や汗」を流したのではないだ
ろうか。一見定子からのありがたいお言葉に「冷や汗」を流し
たと捉えられるこの表現の内には、宮仕え後まだ間もない新参
者としての素直な心情が隠されていたことになる。
五、章段成立時期に関して
「清涼殿のうしとらのすみの」の章段の成立時期について、
前半部と後半部とに分けて考えようと思うのだが、まず当章段
の史実年時について言及しておく。前半部は、金子元臣氏が早
くに、伊周が大納言の現任であること、道隆を「たゞいまの関
白殿」としていることから正暦五年(九九四)春と指摘し(注十
三)、その後萩谷朴氏は、定子が内裏にいた時期、伊周が大納言
であった時期(正暦三年(九九二)八月〜同五年(九九四)八月)、
清少納言の出仕以降、桜の咲く季節であることなどから正暦五
年(九九四)春と指摘している(注十四)。私も、前半部に関して
はこの通説通り正暦五年春でよいと考える。一方後半部は、前
半部と同日の出来事であると見ることもできるし、別の日の出
来事とも考えられるが、別の日の出来事と見ると、その史実年
時を特定する内部徴証はない。
ただし前半部と後半部は文面を比較しても次のような明らか
な違いがある。当季段の史実年時として考えられる正暦五年春
というのは、清少納言が初出任してからおよそ半年後のことで
ある。当章段前半部を見てみると、和歌を詠む際に「これはい
かゞ」と言って、まず伊周に意見を求めている点、定子の催促
に対して「などさは臆せしにか、すべて面さへあかみてぞ思ひ
乱る〜や」と気後れして顔を赤らめている点、そして前項で述
べた「冷や汗」の解釈などから、出仕後間もない頃の初々しさ
が垣間見られる。一方後半部では、前半部のような新参の初々 しさは特に見られず、むしろ「「さやはけにくゝ、仰ごとを、はへなうもてなすべき」と咤くちおしがるも・おかし」と当時の状況を「をかし」と回想している点からは、前半部とは異なった、新参離れした余裕が感じられる。
政文に「左中将、まだ伊勢の守ときこえし時」と書かれてい
る源経房が『枕草子』を持ち出した年時は、彼が左中将に任じ
られた長徳四年(九九八)から任期を終えるまでの一五年間と、
伊勢の守であった長徳元年(九九五)一月〜同二年(九九六)十
二月との重複期間である長徳元年〜同二年の期間であると考え
られ、私はこの経房の『枕草子』持ち出しの時点で、もうすで
に当章段は完成していたと考える。特に作者の初々しさが文面
に表れている前半部に至っては、当章段の年時である正磨五年
春〜道陸幕去の長徳元年四月頃までにはほぼ完成していたので
はないかと思う。中関白家没落の前後で清少納言の意識に変化
が見られ、まだ新参意識が残っていて中宮讃美が目立つ当章段
前半部は、中関白家没落以前のまだ華やかで明るかった時代の
筆に近いと感じられるからである(注十五)。
それに対して後半部は、新参意識が見られず、語末に「まこ
とに露おもふことなくめでたくぞ覚ゆる」と清少納言による中
宮並びに女房たちへの懐かしげな讃美の言葉が見られる。また
その前文では、主上が定子を讃美する姿も描かれており、話末
にこのような宮廷のにぎやかさを描く方法は宮中の暗さを払拭
しようとする、特に中開自家没落以後に多く見られるものに近
‑64‑
いように思える。
以上のことから、前半部と後半部は、それぞれ道隆裏去の以
前と以後の非常に微妙な時期に執筆され、定子の「語り」とい
ぅ共通のテーマを軸に展開しているために、一章段として扱わ
れたのであろうと、私は考える。
おわりに
中宮定子による二度の「語り」を軸に構成された当章段では、
まだ新参の頃は、宮中の出来事を、中宮讃美を中心とした方法
で、時には自身の素朴な心情や気楽な「我ぼめ」を交えて記し
ていた。
注 注 注 注 五 四 三 二 注六
当章段前半部においては、「難波津に」「月も日も」の両歌に
隠された「手がかり」とともに、「宮を思う気持ち」までもが作
者の心に伝わり、初出仕の頃から心中に存在していた中宮讃美
とそれが重なることで定子が求めた答えを導き出した。そして
その心が、黒い闇に包まれていた後半部の執筆時期に至っても、
前半部の栄華に引けを取らないほどの宮中の明るさを描くきっ
注七
かけとなったと思う。道隆の募去に伴う中関白家の命運の転落
をきっかけに、彼女の筆も政治的役割を担うものへと変化して
いくからである。なお、後半部の叙述の分析は後の機会を待ち
注八
たい。
注九 注十
竹岡正夫『古今和歌集全評釈』(上)(右文書院、一九八六年)の
細字による。
注一に同じ
窪田空穂『古今和歌集評釈』(東京堂、一九三五年)
片桐洋一『古今和歌集全評釈』(上)(講談社、一九九八牢)
清水好子「宮廷文化を創る人‑定子皇后の役割‑」(『金蘭短期大
学研究誌』言て一九六六年五月)
「難波津に」の歌について、片桐洋一氏(注四に同ヱは、「『日
本書紀』『古事記』『万葉集』などに所見なく、文献としては、こ
の『古今集』の仮名序の六義の部分(省略)に掲出されているの
が最初であるが、実は、かなり早くから手習歌として広く知られ
ていたことが明らかになっている」と述べ、奈良時代以前から「難
波津に」の歌が手習歌としての役割を担っていたことについて、
法隆寺五重塔初層天井組子の落書その他四件を挙げて示してい
深沢三千男「枕草子余滴‑第二十「清涼殿の丑寅のすみの」段の る。
受取り方について(神戸商科大学『人文論集』二五号、一九八九
年十月)三田村雅子「枕草子の(間)と(答)‑日記的章段の論理をめぐ
って‑」(『国語と国文学』六四巻一一号、一九八七年十一月)
田中重太郎編著『校本枕冊子』(上巻、古典文庫、一九五三年)
山脇毅氏は、「古くから誤り伝へられたのを、三巻本は第五句を
削り去ったのであろう」としている(『枕草子本文整理札記』、山
脇先生記念A不一九六六年、三〇七貢)。これは一案ではあるが、
私は後補と見る。
注十一注一に同じ
注十二久保木哲夫「枕草子における自講談‑その表現の方法と基盤につ
いて‑」(『言語と文芸』七〇号、一九七〇年五月)
注十三金子元臣『枕草子評釈』(明治書院、一九二一年)
注十四萩谷朴『枕草子解環』
l
(同朋舎出版、一九八一年)
注十五例えば原同文子氏(「「枕草子」日記的章段の笑いについての一試
論」『平安文学研究』五七集、一九七七年六月)が述べているよ
うな後半期の「笑い」の増加、三田村雅子氏(注八に同じ)が述
べる後期章段における「間」と「答」のずれなどのように道陸幕
去後の暗い時期の章段では、その暗さを払拭しようとする「道化
者」的な作者のはたらきが窺える。
テキスト『枕草子』‑‑痙辺実校注『枕草子』新日本古典文学大系25(岩波書店、
一九九一年)
『古今和歌集』
‑
小島憲之、新井栄蔵校注『古今和歌集』新日本古典文
学大系5(岩波書店、一九八九年)
『校本萬菓集』
佐佐木信綱編『校本萬葉集』七(岩波書店、一九三一
‑
年)
『萬葉集』
佐竹昭広等校注『萬菓集』三新日本古典文学大系3(岩
‑
参考文献 波書店、二〇〇二年)松尾聡等校注『枕草子』新編日本古典文学全集18(小学館、一九九七 牢)
田中重太郎『枕冊子全注釈』一(角川書店、一九七二年)
萩谷朴『枕草子解凍』五(同朋舎出版、一九八三年)
片桐洋t『古今和歌集全評釈』(上)(講談社、一九九八年)
高橋由記担当「清涼殿のうしとらのすみの」の項(枕草子研究会編『枕草
子大辞典』、勉誠出版、二〇〇一年)
岩堀准子「『枕草子』日記的章段における一考察」(『国文畢論叢』第四一
輯、一九九六年二月)
[あかいたけや在学四年次生]
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