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労働による労働力の「 ̄生産」について

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(1)

労働による労働力の「 ̄生産」について  

一高橋正立氏の批判に答える 一冊  

山 下■ 隆 資  

Ⅰ はじめに 

資本主義社会では,あらゆるものが商品化する。そ・の基礎は,労働力が商品   化しているためである。   

ところで,この労働力商品ほ,果して,物質的財貨の生産と同様に,人間労   働に.よって生産されるもの,いいかえれば,物質的財貨と同質の,労働生産物  

ということができるのであろうか。   

私はかつて,労働力商品の価値の「実在」性や,労働力商品の価値法則につ   いて論じたおり,労働力商品は,労働生産物ではない,価値物でほ.ない,という  

ことをしぼしば述べてきたのであるが,これに対し,最近,高橋正立氏が「労  

(1)  

働カそのものの対象性」なる興味ある論文で,私の見解を批判すると主もに,  

特に.教育労働をとりあげ,教育労働に.よっで一・定の有用性をもづ労働力が生産  

(1)高橋正立「労働力そのものの対象性」『名城商学』籍25巻第4号。  

なお,労働力商品に閲して,氏がこれまでに発表された論文としては次のものがあ   る。   

′(1)「労働力の商品的性格の検討−『■労働力の価値規定とサービス労働』のための   覚え書き(1)」『■名城商学』第15巻2号   

(2)「労働力の価値の形成要素と形成過程−『■労働力の価値規定とサー・ビス労働の   ための覚え書き(2)」『名城商学』算15巻3号   

(3)「労働力商品と価値法則(上)−『労働力の価値規定とサ−ビス労働のための   覚え書き(3)」『名城商学.』第15海4号   

(4)「労働力商品への価値法則の適用の困難−一法別語識の方法の問題にかかわら   せて」竜谷大学『経済学論集』第7巻2号   

(5)「『教育の経済学』の対象・方法・性格」京都大学『■経済論叢』第107巻2・3   号  

このうち(1)(2)の論文は,その後氏自身「きわめて未熟な思考の産物である」と   

「反省」され,(3)以下の論文で「はっきりと異なった立場を表明」しているよ   

(2)

労働に.よる労働力の「生産」について  −49−  

497  

されており,これほ他の物質的財貨の生産と同一・視することができる,労働力   ほ.物質的財貨と同質の労働生産物であるということができる  ,という見解を発   表された。   

そ・こで,小論でほ,民の批判に‥お答えするとともに.,民の見解に.ついて2〜  

3の問題点を指摘し,あわせて,私がかつて,労働力ほ.労働生産物とはし、えな   い,といった意味内容について−も,ここであらためて明らか紅して−おきたい。  

ⅠⅠ高橋氏の筆者に対する批判点  

高橋氏は,労働力商品を労働生産物と考えているか否かをめぐっての,従来   の諸氏の見解を詳細にサ−ベイされ,これを次の3つのグループに分類され   る。   

その第1ほ.,「労働力商品も他の商品と同じく直接又は間接の労働生産物であ  

(2)  

り,社会的労働が対象化されているかぎりで価値物である,と考え.る」立場で  

(3)   (4)  

あり,こ.のグル十プ紅属する論者として,下山房雄氏,吉沢文男氏,西川清治  

(5) 氏をあげる。   

第2ほ,「労働力が労働の生産物であることを認めるにしても,・そ・の労働を生   活手段に投下されたものに限り,したがって,労働力を直接紅生産する労働を  

(6)  

認めない,とする」立場であり,このグループに属する論者として−,金子ハル   

(9)  

(7)       (8)       オ氏,村串仁三郎氏,佐武弘華氏をあげる。   

第3は,「労働力商品それ自体を直接紅せよ間接にせよ労働の生産物とするわ  

(2)高橋正立「労働力そのものの対象性」,25貢  

(3)下山房雄稿「労働市場と賃金」,(高橋沈他編『講座現代賃金論Ⅰ』所収)  

(4)吉沢文男「商品労働力に関する一考察(1)−雇用問題研究覚え書−」『駒沢大学商   経学部研究紀要』21号.同氏『労働の経済理論』.  

(5)西川漕治・′「国民所得と謂わゆるサ−ビス労働」大阪市立大学『凝済学雑誌』算50巻   2・3号  

(6)高橋正立,同上,25貢  

(7)金子ノ\ルオ「国展所得の理論問題」(経済理論学会腐『現代資本主義と物佑』所収).  

同氏『生産的労働と国民所得』  

(8)村串仁三郎『賃労働原論』  

(9)佐武弘章『労働力価値規定について』大阪市立大学『経済学雑誌.』第64巻6号   

(3)

第49巻 第5・6号   498  

ー50−  

けに.はいかず,その価値も生産手段(生活手段のミスプリント?−引用者)の  

(10) 価値として実存するのみだ,とする」立場であり,このグル−プに属する論者  

(11)(12)  

として,荒又重賂氏と私をあぼる。   

このように氏は,3つのグル−プに・分類されるのであるが,こ・こで第1と策   2の見解ほ,ともに労働力商品が労働生産物であるという基本的な点では−・致   しており,いわゆるサ−ゼス労働が,労働力商品の価値を形成するか否かとい   う点で差異が生じているにすぎない。   

これ軋対し第3の見解ほ,労働力商品は労働生産物でないという点で,第1   と算2の見解とは根本的に異なっており,氏はこ・の算3の見解を「きわめて特  

(18) 異な見解」であるとされるのである。そしてこの策3の見解を,特に私の見解  

をとりあげ,これを批判するとともに,労働力は人間労働に・よって直接的に生   産される,労働力は労働生産物である,という白からの論理を積極的に展開さ   れるのである。   

では次に,氏の私の見解に対する批判点はどこなのか,まずその点から検討   してゆくことにする。   

氏はまず私の論文「労働力価値規定の特殊性について」の中から次の文章を  

引用する。「労働力商品は,云うまでもなく,人間と自然との質料変換の媒介た   る人間労働によって,直接的に生産することはできない。労働力商品ほ,人間   労働によって直接生産される一般商品とは異なって,労働生産物としての価値  

(14) の実体を,それ自体の中紅有するものとして存在するのではないのである」0   

そして続いて「なぜ『云うまでもない』のか?」と問い、,その理由としてひき   つづいて論文「労働力の価値について」の中から次の文章を引用する。「このサ  

−ビス労働が,労働者の生活過程で新しく労働力の価値を形成すると主張する  

(10)高橋正立,同上,25貰  

(11)荒又重雄「労助力の価値の実在性と仮象性について」北海道大学『経済学研究』第    17巻1号.同氏『価値法則と賃労働』.  

(12)山下隆資「労働力の価値について」香川大学『経済論割算43巻1・′2・3号・  

(13)高橋正立,同上,25頁  

(14)山下隆資「労働力価値規定の特殊性について」香川大学r研究年報(12),』,113真   

(4)

労働による労働力のイ生産」について   一言ヱー  

499  

なら,それは,人間と自然とのあいだの物質代謝である労働生産過程以外のと   ころで,労働の対象化過程を認めることとなり,結果的紅それほ.,労働価値説  

(15) 自体を・否定することになると思われるのである」。   

民ほ上記の2、つの文章を引用したのち,まず最初の引用/丈.でほ,私が「サ−  

(16) ビス労働がそもそも労働力を薗腰に.生産することほできない,という主張」を  

しているといわれる。そしで氏は,特紅教育労働をとりあげ,この教育労働が  

−・定の有用性を有する労働力を形成していることを詳細紅論じ,そのことから  

「サー叫ビス労働がそもそも労働力を直接的に生産することはできない,と主張」  

することほまちがいであるといわれるのである。これが算1の批判点である。   

欝2の批判点ほ,上記の点とも関連するのであるが,私がこのような結論に  違っしたのは,「『人間と自然との質料変換の媒介』が労働だという1つの労働  

観と,労働力そのものの形成ほ,『人間と自然との質料変換』の過程ではないと  

(17)  

いう認識」に・立っているからだといわれる。そして「労働以外にも自然と人間   との間の『質料変換』を媒介する契機の存在が否定されることほできない・い。  

自然から人酪への過程虹しても,労働過程だけで完結するのではない。いわゆ   る『消費活動』の過程がそれ軋つづく。これもまた『自然と人間との物質代   謝』の1契機である。労働力の形成も,この『物質代謝』過程のどこかに位置   しなければならない。    山下氏ほ,この『質料変換』を部分的に.しか見て  

(18)  

い(ない)」と述べる。つまり私の「認識」があやまっているといわれるのであ   る。   

さて第1の批判点について。   

民は私が「サ−ビス労働がそもそ・も労働力を直接紅生産することができな   い,という主張」をしているといわれるが,私は,氏のいわれるように,労働   者の生活過程での労働力の形成にとって,サ・−ビス労働が何の役割も果してい  

(15)山下隆資「労働力の価値について」,166京  

(16)高橋正立,同上,31貢  

(17)高橋正立,同上,31京  

(18)高橋正立,同上,32貢   

(5)

第49巻 貨5・6葛   500  

−−52−−  

(19)  

ないことを主張しているのでは.ない。氏の最初の引用文それ自体をみれば,あ   たかも私がそ・のように主張しているかに㌧見えるが,これほ私にとって全ったく   不本意な引用のされ方である。   

なぜなら,私の主張の意図するところほ,氏の引用された文章の漁後でも述  

(20) ぺているように,そしてまた,他のところでもくり返し述べているように「労   働力は,他の一般商品のよう紅資本の生産過程で労働生産物として生産されて  

いるのではない等1十労働力商品ほ,……・資本によって労働生産物として生産され  

るものでほないという点で,したがって,その使用価値が資本の生産過程で生  

(22)  

み出されたものでないという点で,他の−・般商品とは決定的に異なってごいる」  

ということである。そ・しでそれ故に「労働生産物としての価値の実体を,それ   自身の中に有するものとして存在するものでは.ない」と主張したのである。   

したがって.また,私が「労働力商品は云うまでもなく,人間と自然との質屋変   換の媒介たる人間労働に.よって,直接的に生産することができない」と述べた  

ことに.対し,氏が,「なぜ『云うまでない』のか?」と問い,そ・の根拠を,あ   との引用文で示されたこ.とほ,まちがいである。繰りかえすこと把なるが,私   が「云うまでもなく」といったのほ,労働力は「人間労働によって」,「資本の   生産過程」で「直接的紅生産することができない」という意味でいったに・すぎ  

(19)ノ 高橋氏枚脚注(同上論文,45「}46京)の中で,私が「われわれは,人間の生酒過程    に.おける消費行為は,あくまでも本能行為の範疇であり,それを労働力の生産のため    の人間労働と牲認めることができないと考える」(「労働力の価値について」,166頁)  

と述べたことに対し,「教師」の「『本能行為』としての講義とはどんなものだろうか」  

と述べているが,ここで私が論じているのは,生活手段商品の価値が消費匿.よって労    働力商品の中紅移転して行くという考え方を批判しているのであり,ここでとりあげ  

ている「人間の生活過程での消費行為」とほ私が具体に示していっているように「た   とえば食物の消費」に.おける「胃の消化作用」あるいは食事の時の「食物を食べるた    めの手の動作」のことを指しているのである。そ↓でそれは「本能行為」セあって,   

「決っして人間労働というととはできない」と言っているのである。決っして,「学    生・生徒」の学習活動や「教師の労働」が「本能行為」といっているのでほない。  

(20)氏の引用された次貢でも私は「労働力は,資本の生産過程で,人間労働を媒介にし    て直接的に生産されるものではない」(「労働力価値規定の特殊性について」,114頁)  

と明確に.述べている。  

(21)山下隆資「労働力の価値について」、159貢  

(22)山下隆資,同上,160貢   

(6)

労働に.よる労働力の「生産」紅ついて   −−∂β−  

501  

ない。P.M.Sweezyのいうように.,「綿布製造業があるといった意味でほ『労  

(23)  

働カエ業』なるものはまったく存在しない」のであり,社会的総資本に・よって  生産される社会的総生産物の中紅は,生産手段商品や生活手段商品ほ含まれて   いても,労働力商品は含まれていない。   

次に.常2の批判点について。   

氏ほ私が「労働力そ・のものの形成は『人間と自然との質屋変換』の過程でほ  

ない,という認識」に.立っていると主張されるが,私ほいまだかつて,明示的  

にせよ暗示的にせよ,このような見解を表明したことば.ない。したがっで氏が   何故に,このように「認識」されたのか,私紅は理解できない。氏ほ脚注で「こ   の認識ほ,(山下は)明示的に述べられていない,だが,『人間労働』にわざわ   ざ『人間と自然との質屋変換の媒介たる。』という修飾語が付されている意味は,  

それがある特定種類の労働を指定するためのものでないかぎり,労働−・般のも   つこ.の性格に,『労働力商品が・・…1人間労働によって直接に生産することほでき   ない』ということについての『云うまでもな』いはど自明の論拠が求められて  

(24)  

いることは, 云うまでもな かろう。」と述べられているが,この文意も理解   しがたい。   

いずれ紅せよ,高橋氏が指摘されているよう紅,Ⅹ.MaI−Ⅹも「『人間と自然   との質料変換の媒介』を労働にのみ見ているのではない」ことは.事実だし,「労   働以外軋も自然と人間との憫の『質鼠変換』を媒介する契機の存在が否定され  

ることほできない‖…・。自然から人間への過程忙しても,労働過程だけで完結   するものでほない。いわゆる『偶発活動』の過程がそ・れにつづく。これもまた  

『自然と人間との物質代謝』の1契機である。労働力の形成も,この『物質代   謝』過程のどこかに位置しなければならない.」こ・とは明らかであり,私も何ら  

これを否定するものではない。かくて,氏の私に対する第2の批判点も,残念   ながら誤解にもとづくものと云わざるをえないのである。  

(23)P.M廿Sweezy.The Theory of Capitalist Development,Monthly Review    Press,1964,p.84.都留重人訳『資本主義発展の理論』102貢  

(24)高橋正立,同上、37頁   

(7)

第49巻 第5・6号   502    ー5・尋 −  

以上でみて来たように,私のこ.れまでの主張ほ,生活過程でのサ・−ビス労働   が,・山・定の有用性を持つ労働力の形成に・役立っていることを決っして否定して   いるのではない。労働力は資本の生産過程で,人間労働を媒介に・して,直接的   に生産されるものではない,とレ、っているにすぎない。高橋氏と同様,現実に  は,生活過程での労働力の形成に.とって.,医師や教師などの一・走塁のサービス   労働が不可欠の要素をなしていると考えているのである。   

ただこの場合,ここ∴で指摘しておきたいことほ,このような生活過程におけ   るサーービス労働に.よる労働力の「生産」と,人間労働紅よる物質的財貨の生産   とを同一・祝し,共に同質の労働生産物(価値物)とすることには問題があり,納   得しがたいのである。私が,サ一−−ビス労働に.よって労働力が形成される側面があ  

ることを認めるに.もかかわらず,あえて,労働力を物質的財貨と同質の労働生   産物(価値物)としてとらえない点についてほ.,後の(ⅠⅤ)で述べるこ・とにする0  

ⅠⅠⅠ高橋氏の労働力F ̄生産」の論理  

では次に.,労働力ほ,人間労働によって,直接的紅「生産」されるとする高   橋氏の見解をながめてみることにする。   

氏はまず「 ̄そもそも労働に.よって労働力を生産すると考えるこ・とができるの  

か,できるとすれば,『生産』という点において見たとき,他の物体的財貨を生  

(25)  

座するばあいと,どこが異なるのか」(傍点一高椅氏)と問題を提示する。   

そしてこの問題を,「学問的.」紅解明してゆくためには,「ある・一層の質をもっ   た労働力」が,いかに.して形成されるか,そ・のlプロセスを具体的に・追求して  いく」という方法をとることが重要であり,そのため軋は,まず前もって「労   働力という概念」を明確匿.しておく必要があるといわれる。   

そこで氏ほ,「観念上の操作」によって,具体的紅存在する「人間の諸活動」  

から「労働という概念」を分離し,続いて,「活動力の中から労働力を分離」す  

(26)  

るという方法で,「労働力という概念」をしだいに・明確にしてゆくのである。  

(25)高橋正立,同上,30克  

(26)高橋正立,同上,32貢〜33頁   

(8)

労働による労働力の「生産」について   −55−   

503  

ではこのようなプロセスを経て,戌の適っした「労働力という概念」とほ,  

−一体どのようなものか。   

氏は云う。「労働力とは.『何らかの種類の使用価値を生産するたびに運用する   肉体的および精神的な諸能力の総計のことである』というマルクスの規定を共   通の出発点として一差しつかえなかろう。これを別の言い方ですれは,人間が肉   体的エネルギ−を合目的に支出する能力のこどだ,と言える。だから労働力と  

いうのほ,エネルギ−の発生,それの伝達,時間的・空間的紅特定された特定の  

………=  ………‥(2り  

…  

点−・引用者)と。   

では次に.,このような「能力」は,果して人間労働によって「生産」すると   考えることができるのであろうか。   

この点に閲し氏は次のよう紅説明する。「この能力ほ.,その物質的根拠を,そ   のための身体諸器官く筋肉,骨・腱,事,目,足,神経系など>の機能のうち   紅もっている。したが・つて労働力が形成されるにほ.,(1)エネルギー・の蓄積,  

(2)これら諸器官の組織の構成,ならび紅(3)神経系における・−・定の複雑な回   路の設定,が枢要な部分として必要である。(1)と(2)は食物の適当な摂取紅  

よって直接に.実現され,自他の特別な労働を薗接軋必要とするものではない。  

これに卑して(3)は異なる。これほ教育・訓練の過程であるが,ここでは一億   の意味遵蘭に.よって整理されたさまざまなシ∵/ポルが外から与えられ,それ紅  

(28)  

対応して神経系に特定のパターンをもった神経興奮伝達の回路が設定される。」  

と。   

そしてさらに続けて「こうした複雑な順序づけをもったシンボル群を特定の   個体に与え,それの神経系に.特定のバク−ンの回路を設定するという働きは,  

これまたエネルギ−の合目的な支出という性格をもっている。シ/ンポルを送る   エ.ネル軒−も微弱でほあるが存在している。こうした働きをするものを労働と   呼ぶことは.果して不都合であろうか。その主体の側でほ.,あらかじめ表象され  

(27)高橋正立,同上、34貫  

(28)高橋正立,同上,34克   

(9)

第49巻 第5・6号  

−− 5ぢ −   504  

た目的に・したがってノ対象を変化させるために特定の活動をしているのであり,  

く29) 客体の側はそれによって−−・定の物質的変化をひきおこされるのである」と説明   される。   

みられるとうり,こ・こでの氏の主張は,教師の主体的な教育活動が,教育を受   ける客体の側紅対し,「一億の物質的な変化」をひきおこしている,つまり,「神   経系に・おける−・定の複雑な回路の設定」をおこなっている。そ・して−この教師の   教育活動は.まさに「労働」である。かくて「男傲によって労働力を生産すると   考えることができる」というのである。   

では次紅,このような労働力の「生産」と,他の物質的財貨の生産とは1果   して同じように考えるととができるのであろうか。この点紅潤し,戌がぎのよ   うに考えているのか引続いてながめてみよう。   

この点に.閲しでほ.,氏ほまず「自己意識を人間に固有のものとするならば,  

人間ほ自己以外の他人ほいうにおよばず,自分自身さえも意識の対象とするこ   とができる。のみならず,意識の対象紅.なりうる実在物は.働きかけの対象とも   なることができるから,かくて,人間ほ自分自身を働きかけの対象とすること  

(30)  

ができる」と述べ,われわれが勤・植物を自己の労働の対象紅するのと同様に,  

(31)  

人間自体をも,労働の対象物とすることができることを強調される。   

そして続いて−,教育労働は「人間の神経系の回路の設定を行なうのだという  

(29)高橋正立,同上,、34巽  

(30)高橋正立,同上,38頁′・ノ39貰  

(31)また,氏は「労働は自然と人間とのあいだの物質交換を媒介するはずのものだか   ら,労働の対象はあくまでも自然素材でなくてはならない」というありうペき「反    論」に対しては,「いかに労働が自然と人間との間の物質代謝を娘介するといっても,   

個々の具体的な労働がつねに自然素材そ・のま′まを対象とするのではない」とされ,そ    の例として「機械を生産する労働」をとりあげる。そして「労働力を生産する労働」   

と「機械を生産する労働」は「同じ」であり,「労働力を生産する労働」は,「見方に   

ょっでは,自然素材そのままを対象に.してはいないと見え.る忙して滝,この労働紅よ   

って高い資質を得た労働力は,人間と自然との物質代謝過程を媒介する役割におい   

て,ずっと大きな効果を発揮することだろう。自然と人間との物質代謝過程を具体的   

に考えるときにほ,社会全体に.よる生産をイメ・−ジすべきであって,個々の具体的な   

労働を直接にこれに対応させてはならない」と説明される(高橋,同上論文,34′}35   

京)。ここでは,「労働力を生産する労働」と「機械を生産する労働」が,「社会的生産   

の全体の中」で,同一・なものとして「位置」づけられている。   

(10)

労働軋よる労働力のー一生産」について  

505    − 57 −  

形で,まさしく,人間の物質的状態を変化させる」ことに.より,−・定の有用性   を有する労働力を形成しているのであり,このことほ,われわれ人間が,労働   を投下し,牛や豚などの家畜あるいは.穀物や野菜などの成長を助けることを,  

生産と呼んでいることと何らかわらない。ノ′なぜなら「われわれが事物のある変   化過程をとくに.『生産』と呼ぶのほ,変化する事物またほ変化過程・そのものの   ゆえにではなく,たとえ他の諸力をかりたに.しても,その変化を意図し,実現  

(32)一 せしめた主体の立場からにはかならない」からであるといわれる。   

かくしで氏は,「人間の活力が,労働力が1つの対象たりうるとするならば,  

しかもこの労働力が存在するためにイ也者の労働が必要であったならば,こ.の他  

(38)  

者の労働をもって,前者の労働力の『生産』に参与したと見なすべきである」  

(傍点−・∴高橋民)。「労働力を1個の客体として,労働の対象たりうるもの,生   産しうるもの,と考えることは,それ自体としては,けっして不都合なことで  

(:iい  

はない」と結論づけ,労働力の「生産」と,他の物質的財貨の生産とを全った   く同一・祝するのである。   

以上で高橋民の見解をながめて来たのであるが,氏のこのような考え方ほ.,  

決っして「きわめて特異な見解」でほない。人間を「人的資産」(H止manCapital)  

(35)       (86) としてとらえるT.W.SchultzやG.S.Beckerに代表されるいわゆる「■人  

的資本投資論」者の考え方がそれである。彼らほ,人間を,物的な生産手段と   全ったく等しい物としてとらえ,「人的資源」と呼ぶ。そしてこの認識から出   モノ   発し,さらに.「発展」させ,人間は自己にとっての「1個の資本財」である,  

教育投資に.よってその「価値」を増すこ.とかできるとさえ考えるのである。  

(32)高橋正立,同上,40貫(′41頁  

(33)高椿正立,同上,42真  

(34)高橋正立,同上,幽貰  

(35)T.W.Schultz.The Economic Value of Education,Coiumbia University   Press,1963.T.W.Schultz:.1nvestmentin Human Capital,−The Role of   Education and of Research−・,The F三ee Press,New York,1971。  

(36)G.S.Becker.HumanCapital,−・A Theoreticaland EmpiricalAnalysis,  

With SpecialReferenceto Education,ColumbiaUniversityPress,NewYoz−k,  

1975 

(11)

第49巻 第5・6号   506   

−5β−・  

たとえばSchultzほ「人間の経済的能力は,そのはとんどすぺてが生産され   た生産手段であり,また生得的な能力のちがいに原因するある種の所得の純地   代は別として,所得格差の大部分は,人間への投資の屋のちがいに・起因してい   る……これによれば,長い間,経済学者の悩みのタネであった賃金・給与構造   の規定要因は,長期的には学校教育,健康,職場訓練,就職機会軋関する情報  

(37) の収集,そ・れ紅もとづいた行動などへの投資だということになる」「教育を人間  

町対する・一層の投資として,またその教育のさまざまな成果を一層の資本とし   て問題にすることを提案したい。教育ほそれをうけた人間の一部分に・なるのだ  

(38) からそれを人的資本と名づけることに・しよう.」「われわれが消費と呼んでいるも  

のの大部分が,人的資本への投資を形成するものである。教育支出,健康維持   のための支出,よ、りよい就業機会を求めて移動するのに魯する支出などは・,そ  

(39)  

のよい例である」などと述づてヤ、る0   

このように.Scbultzほ,有能な「技術や知識」が,教育によって後天的に得   られるものであり,この人間に体化された「技能や知識」がそ・の人間紅「収益」  

をもたらすことから,それを「人的資本」と把捉し,教育を「人間への投資」  

と見るのである。彼がこのような見解をもつに垂ったのほ,その出発点で,物  

モノ 的生産手段と人間とを区別することなく,共に単なる物として把握し,物的財  

貨の生産過程と労働力の形成過程=消費過程とを経済学的紅区別することなく   同−・祝しているこ.とに「起因」している。  

ⅠⅤ 高橋氏の見解に対する問題点  

さて前節でみて釆たよう紅,高橋氏ほ.「労働力が存在する紅いたるプロセス」  

を「具体的に.追求」してゆき・,その結果「人間ほ,少なくとも他の人間を自己   の」「働きかけの対象とすることができる」ということ,また教育労働紅よって   労働力ほ「■生産」されるし,この「生産」は,人間労働の投下による物質的財  

清水義弘訳『教育の経済価値』125貢   同上,172真  

同上,137貫   

Z Z Z  t ・t t  lll  

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T T T   

\︼∵▼ \■ノ ︶  7 ︵UO 9  3 3 3  

.一l\ ▲′11・l\  

(12)

労働による労働力の「生産」に.、ついて   ー 59 −−  

507  

貸の生産と同じであるということ,つまり,労働力は,物質的財貨と同様,労   働生産物ということができるという結論を導き出したのであった。   

確か杜氏の云われるとうり,・一・定の有用性を発揮しうる労働力の形成紅とっ   て,生きたサ−ビス労働が必要不可欠であることは誰れも否定することができ   ないと思われる。労働力は,人間の中に.存在する肉体的能力と精神的能力の統   一・されたものと考えられるが,氏ほ,特にその精神的能力の側面をとりあ帆   これが,教育労働によって形成される点を強調されたのであった。そしてさら   に・云うなら,労働力の形成に盾接的に関係している「他者の労働」咋・,氏の強   調される教育労働に限られるわけでほ恵い。労働力の形成にとって,教育労   働以外の「他者の労働」が直接的軋関与していろ事実ほ,たとえば労働者の生   活過程を具体的紅ながめてみればすぐ判明する。家庭内で主婦は,家事労働に   よって食事を作り,健康的な生活が維持できるよう掃除・洗濯に専念する。そ   してこれは,・仙・家の生計を支える主人の労働力の健全な再生産に不可欠 であり,  

このことによって,労働力の肉体的能力の側面が「正常」に再生産されでい   る。また母親の育児労働を考えてみてもよい。母親ほ子供紅・ミルクを与え,健   康に注意し,言葉を教え,誠心誠意育児紅専念する。もし人間による育児労働  

(ヰ0) が放棄されるならば,人間も野生化し,いわゆる「オオカミ少女」と化し,健  

全な労働力は形成されないであろう。そしてこの育児労働が社会的分業に.よっ   て自立化したものが,保育所に‥おける保育労働であり,保育所でほ,多くの人   々の保育労働の中で子供はすぐすくと成長する。   

要するに.,人間の子供は人間紅よって育てられるのであり,たとえ成人とい   えども,現実の日々の労働力の再生産にとって,さまざまな直接的サービス労   働が不可欠であることは誰れも否定できない。教育労働以外の家事労働や保育   労働といったサ−ビス労働も,労働力の形成に直接的に役立っていると考えて  

(40)いまから約半世紀憺ど前の1920年にりインドのカルカッタの近くで発見されたとい   われる推定年令2才と8才の2人の「オオカミ少女」のこと。彼女ら二人は,オオカ  

ミに育てられていたため,牧師の努力に.もかかわらずとうとう「人間らしく」育たな  

いまま短命に終ったといわれ■ている。A.Gesell.Wolfchild and HumanChild,生  

月雅子訳『狼にそだてられた子』   

(13)

第49巻 第5・6号  

− ∂♂ −・   508  

も「少しもさしつかえ.ない」といえる。   

だが果してこれらの事実から,自然科学の領域とは異なる経済学の領域の問   題として論じる場合軋も,労働力は他の物質的財貨と同様に,人間労働によっ  

て生産される,労働力は労働生産物である,と断言してよいのであろうか。   

高橋氏の論理でゆけば,人間労働によって,家畜や穀物・野菜を成長させる   ことと,家事労働に.よって労働力を再生産させること,あるいは保育労働紅よ   って子供を成長させることは区別できず,すべて同じことになる。だとすると   き人の労働力は主婦の労働によって再生産されたもの,つまり主婦の労働生産   物である。子供は母親の労働生産物である,あるいほ保育労働者の労働生産物   である。また学生は教師の労働生産物である。親方から技能を教わる弟子は,  

親方の労働生産物である,ということ 

よいのであろうか。これが私の納得しがたい問題点の第1である。   

私ほ,このように.考えることについては,氏とは異なって,−・種の「抵抗感」  

をいだき「ためらい」を覚える着である。これは決っして単なる感情論として   いって:いるのではなく,「学問的」に.そう思ってル、るのである¢   

われわれが経済学の領域で「労働力の生産」というときの「生産」は,人間労  

働に.よる物質的財貨の生産とは,やほ.り意味が異なるものとして,区別すること  

が重要であると考え.る。したがって物質的財貨と労働力も,同質の労働生産物  

としてとらえるのでほなく区別すべきである,と考えるのである。物質的財貨   の生産にも,人間労働力そのものの形成にも,ともに「生きた人間労働」が必要   であり,その限りでは全ったく同一・に・見え.る。しかし重要なことは,経済学で  

ほ,社会的再生産の観点から,労働力の形成過程ほ消費過程と位置づけられ,  

物質的財貨を生産する過程は.生産過程としで位置づけられ,明確に区別づけら  

れているのである。そしてこの物質的財貨の生産過程(資本主義社会では資本   の生産過程となる)で,人間労働によって物が作り出されることが経済学でい  

う本来の生産であり,この過程で生産された物が労働生産物であり,価値を有  

するものとして存在すると,私は理解しているのである。  

モノ   

人間が,かつての奴隷のように.単なる物として取扱われ,売買の対象として   

(14)

労働紅よる労働力の「生産」について   −6J−  

509  

「飼育」されるのであれば,あるいほ家畜などと同様紅,生産過程で労働生産  

物として生産されるもの,として取扱うこ.とも可能であるかも知れない。しかし  

タグモノ(41)  

労働力の担い争である労働者ほ「素朴な唯物」でほない。労働者は「人格的自  

由」を有するのであり,労働力の再生産は.社会的再生産の観点からは,消費過  

程として位置づけられている労働者の生活過程で,労働者の「自由」な意志の  

もとでおこなわれてV、るのである。   

またこの生活過程での労働力の形成にとって,主婦の労働や保母による保育   労働,あるいほ教師による教育労働などが・−・定の役割を果しているとほいえ,  

彼らの「労働対象」としての労働力ほ,いわゆる自然素材とほ異なって,彼ら  

の意のままに自由にイ加工」できる性質の物でほないし,形成された労働力も   彼らの所有物となるものでほない。さらに.,労働力は,機械などのように,他  

者によって.,手産手段として自由に利用されうる性質の物でもない。   

このよう軋考えると,少なくとも経済学では,労働力の「生産」と物質的財   貸の生産とは区別することが重要であるし,また労働力を,物賀的財貨と同質  

の労働生産物として扱うことほできないと思うのである。   

館2の問題点は,民の云われるよう紅,労働力の「生産」と物質的財貨の生   産は同一・であるとし,ともに,人間労働が対象化された労働生産物であるとす   ると,労働力商品の価値規定をめくやっで,困難な問題が生じてくるということ   である。   

ここでもし,労働力が,資本の生産過程で,人間労働を媒介紅して直接的に   商品として生産され販売されるのなら,一一・般の商品と同職,その商品を生産す   るに要する社会的必要労働によって,直接的に価値規定をおこなうことがで   き,何ら問題ほない。しかし,このような想定ほできない。なぜなら,すでに  述べて来たように,労働力の形成にほ,確か紅直接的人間労働が必要であると   はい.え.,それほ,資本の生産過程での直接的人間労働でほなく,消費過程であ   る人間の生活過程での直接的人間労働である。生産過程ではなく,消費過程で   労働力は「生産」されるのである。  

(41)高橋正立,同_ヒ,42貢   

(15)

第49巻 第5・6号  

ーー 62㌧一   510   

次に.,ここでもし,資本の生産過程と労働力が形成される生活過程を同一−・に  

考えると,問題は解汲するかにみえる。ことでほとりあえず教師だけの労働を   とりあげて考えてみると,氏の云われるように.,主体である教師の労働が,客   体である人間に対象化されるとすれば,労働力の価値は,生活手段商品の価値  

と,教師の労働時間に.よって,直接的に.規定されることに・なるのである。   

いいかえれほ,氏自身が云われるように・「 ̄複雑な労働過程を制御Lrうるよう  

(&2)  

に・神経系が機能するためにほ.,それだけ長期の年月を聾する」のであり,たと   えば,ある種類の労働力の形成に12年間の教画期間が必要だとすると,その間   に教師が投下した総労働時間によって,直接的に・労働力の価値規定がなされる   ということに.なるのである。   

だがしかし,このよう紅物質的財貨の生産過程と,労働力の形成過程とを同一  祝し,その過程で労働力の価値が形成されるという想定ほ.,とうていできない。  

それほなぜか。それほ労働価値説そ・のものの否定紅つながるからである。   

MarⅩほ『資本論』発一・巻第三篇第五章発−・節「労働過程」で,「労働は,ま   ず第側に人間と自然とのあいだの一・過程である。この過程で人間ほ自分と自然  

との物質代謝を自分自身の行為に.よって媒介し,規制し,制御するのである。  

人間ほ,自然素材にたいして彼自身1つの自然力として相対する。彼は,自然   素材を,彼自身の生活のために使用されうる形態で狂得するため紅,彼の肉体  

(43)  

にそなわる自然力,腕や脚,頭や事を動かす」と述べ,人間は.,労働紅よって  

「自然素材」を人間の諸欲望充足に適合的な生産物に作りかえてゆくこ.とを述   べる。   

そして続く第二節「価値増殖過程」では,資本の生産過程も,それ自身とし   ては「自然素材」紅「合目的的」にはたらきかける「労働過程」紅はかならな   いのであり,「商品そのものが使用価値と価値との駄一・であるよう紅,商品の生  

(崩)  

産過程も労働過程と価値形成過程との統一・でなければならない」と述べこの過  

(42)高橋正立,同上,43貢  

(43)K.Marx.Das Kapital,Dietz Verlarg Berlin,1962,BdI,S.192,岡崎次   郎訳『資本論』(Fマルクス=エンゲルス全集』版,大月書店)第1分冊,234貫  

(44)K.Marx,eみβね♂α,S.201,邦訳,同上,第1分冊245貢   

(16)

労働による労働力の「生産」について   −6■3−  

511  

程で,生産物に対象化される抽象的人間労働を,価値として把挺しているので   ある。そしてまた,・そ・れゆえに,社会紅存在する総価値義ほ,社会の総資本に   よって生産された総生産物の中に・含まれている総労働鼠として−,いいかえれ  

ば,社会の総資本によつて生産された個々の商品紅含まれて−いる価値屋の総計  

として,とらえられて.いるのである。消費過程で形成される労働力商品に・も労   働が対象化され,価値が形成され,労働力商品も価値物であると考え,それに  含まれている価値畳も,社会の総価値藍の中紅算入するというようなことほ,  

決っしてしていないのである。   

このように,物質的財貨の生産紅も,労働力の「生産」紅も,ともに人間労   働が必要だとはいえ,前者の労働は価値を形成し,その生産物は価値を有する   のであるが,後者の労働ほイ酢値を形成せず,その「生産物_トである労働力ほ, 

価値を萌しない,価値物でほない,のである。生活手段商品ゐ価値が労働力の   中吟移転してゆくと考えることもできないのである。かくて両者は同質の労働   生産物(価値物)である,ということはできないと考えるのである。   

ここ.でもし氏が,労働力を,物質的財儀と同質の労働生産物と考えるなら,  

つまり価値物と考えるなら,何ゆえに・消費過程での人間労働が価値を形成する   のか,,その点を説明せざるをえない。また社会紅存在する総価値恩の中にほ,  

労働力に対象化ざれている価値鼠をも含めなければならなくなるのである。   

策3の問題点ほ,MaIXが労働力価値規定紅あたって,教育労働を「無視」  

している,ということ紅開レての氏の見解について.である。   

氏は.,「マルクス自身,労働力ほ労働生産物である,といいながら,実際紅ほ,  

労働力商品に・体化されている労働としては,生活手段の生産に・投下された労働  

(45)  

しか視野におさめていなかった」(傍点−・高橋氏)とか,あるいは「マルクスが   教育の労働力養成に.しめる役割を無視しうるものとして理論上あまり重きをお  

(46)  

かなかった」といわれる。そしてその理由として,MaI・Ⅹの時代にほ,まだ「学   校制度に.よって組織的大盛教育という形」をとっておらず,したがって「教育  

(45)高橋正立,同上,25貢  

(46)高橋正文,同上,36貢   

(17)

籍49巻 第5・6弓  

51ゥ  

ー 64・−  

活動と教育成果との間にはかなり相関度の高い壷的関係が成立する」ことも明  

しIT)  

確になっていなかったからだ,と述べ,このようなことからMar・Ⅹが「麺視」  

(48) し「理論上あまり重きをおかなった」のも「無理もない」と云われる。   

ところが時代が移りかわり「20世紀とく紅その後半」になると「教育大衆化の   他界的進展によって,労働力を直接に『生産する』ものとし七の教育サ−ビス  

(49)  

の存在が大きく浮び上って来」ており,「この間の教育の急激な発展に冒をつぶ   らないとするならば,労働力の生産における教育労働の役割を無視すること  

(50)  

は,理論的な怠慢以外の何ものでもない」といわれるのである。   

だが果して,MarⅩが『資本論』第鵬・巻第二篇寛四章第三節「労働力の売買」  

で,労働力の価値規定をおこなうさい,生きた教育労働を、「無視_」しているの   は,氏の云われるような理由によるものであろうか。   

確か軋氏の云われるとうり,MarⅩの時代に・は,今日はどの教育の大衆化が   進んでいなかったことほまぎれもない歴史的事実である。しかしだからといっ  

て,この歴史的事実からMafⅩが『資本論』における論理的分析で,教育労働  

を「額祝しうるものとして理論上あまり重きをおかなかった」と結論づけるこ   とができるのであろうか。私にほ.そ・う考えることができない。   

なぜならMaI・Ⅹほ,『資本論』の中で,機械制大工業のもとでは.,生産技術   がたえず変革され,それ紅つれて,従来のように労働力を自然発生的に・形成す   るだけでほもはや不十分となり,「工学および農学の学校」や「労働者の子供が   技術学やいろいろな生産用具の実際の取扱いに・ついてある程度の教育を受け  

る」ところの「職業学校」(6coles d enseignement professionnel)など,  

(51) 々の学校教育が不可避的紅発展してくることを強調する。・そ↓て「学校教師」  

(52)  

は「子供の頭脳に加工(bearbeiten)する」とか,また『剰余価値学説史』の  

(47)高橋正立,同上,36貢  

(48)高橋正立,同上,36貢  

(49)高橋正立,同上,25貢 

(50)高橋正立,同上,36貢  

(51)Ⅹ.MaI・Ⅹ,♂∂β乃dα,S.512,邦訳,同上,第1分冊,634真  

(52)Ⅹ.Ma‡Ⅹ,β∂β〝dα,Sい532,邦訳,同上,第2分冊,660真   

(18)

労働による労働力の「生産」について   −65叫   513  

中でも,「教師のサービス」や「医師のサ−ビス」は,「労働能力を形成し,維  

(53)  

持し,変化させる」「労働能力そのものを生み出サケ−ビス」である,といった   ようなことをしばしば指摘している。これらのことは,MarⅩが,教育労働に   よって−−・定の質を有する労働力が形成されることを十分認識していたことを意   味する。だからMむⅩが,労働力の価値形成をめぐっでの論理的分析で,教育   の大衆化が進んでいなく,「教育活動と教育成果との間紅ほかなり相関度の高   い還的関係が成立する」ことが十分わからなかったがゆえに・,教師のサ−ビス   労働を「無視」した,と考えることほできないのである。   

ではなにゆえに.,彼は,労働力の価値規定に際し,労働力の価値を形乱する   ものとしで,重きた教育労働を「無視」したのか。それは,理論的に云って,  

教育労働ほ労働力の価値を形成しない,つまり労働力の形成過程=労働者の生   活過程は,社会的再生産の観点からほ消費過程であり,そこ∴でのサービス労働   ほ価値を形成しない,と考えたから紅はかならない。   

また高橋氏ほ,MaIⅩのあげる労働力の価値を構成する「養成費」「修業費」  

(54)  

の中味は,「物体的な形態をとったノート・ぺン。書物だけに限定」されてい   る,と理解されているようであるが,この点も問題があるように・思われる。   

Ma‡Ⅹは労働力め価偵規定に.あたって「・−・般的な人間の天性を変化させて,  

一・定の労働部門で技能と熟練とを体得して発達した独自な労働力紅.なるように   するため紅は,一・定の養成またほ.教育が必要であり,これにはまた大なり小な  

りの額の商品等価物が費やされる。労働力がどの程度に媒介された性質のもの   であるか紅よって,その養成費も違ってくる。だから,こ.の修業賀は,普通の   労働力紅ついてははんのわずかだとほ.い.え,労働力の生産のために.支出される  

(55〉  

価値のなか軋ほいるのである」と述べているが,この場合,この「一・定の養成   または教育」のため紅費やされる「大なり小なりの額の商品等価物」,つまり  

(53)K.Marx,Theorieniiber den Mehrwert,Dietz Verlag,Berlin,1965BdI,  

S.137,時永淑訳『乗Ij余価値学説史』(『マルクス=エンゲルス全集』版大月畜店)第    1分冊,180貢  

(54)高橋正立,同上,25貢  

(55)K.Marx,Das kapital,BdI.S.186.邦訳,同上,第1分冊,225寅   

(19)

第49巻 算5・6号  

・− 86 −−   514  

「修業費」の中味は,あえて「物体的な形憩をとったノ−ト・ペン・書物だけ濫   限定」して理解すべきものとは考えられない。むしろ教師に支払う費用(たと   えば教師軋支払う授業料など)も含めるものとして理解する方が自然では.なか   ろうか。教師の労働そ・のものは,すでに.述べたように,直接的紅労働力の価値   そのものを形成するのではないが,教師に支払う授業料などの費用は,他の生   活手段商品と同様紅労働力の価値を構成する・−・つの要素として含めるべきであ  

(5¢)  

ると考.え.るのである。   

さて最後に,以上で私の考えを述べてきたのであるが,これを簡単に.要約す   れば,次のように・なる。   

一足の賀を有する労働力の形成にほ,一局魔の直接的なサー・ビス労働が必要   である。しかしこの「 生産」された労働力ほ,精神的能力と肉体的能力の統十  されたもあであり,物質的財貨のような,意志のない,主体性のない単なる  

タグモノ 物,「素朴な唯物」とほ.,本質的紅異なっている。そしてまた,労働力ほ,物質  

的財貨の生産過程である資本の生産過程で,人間労働を媒介に・して生産される   ものではなく,経済学でいう本来の消費過程で「生産」されるのであり,たと   えこの労働力の「生産」のため隼,・一億鼠のサ−・ビス労働が支出されたとして   も,それは労働力の価値を形成するものとして,対象化されるのでほ.ない。ま   た,生活手段商品の価値が,労働力の中に・移転されるものでもない。   

かくて,労働力を,物質的財貨と同質な労働生産物,価値物としてとらえる  

ことはできない,ということである。  

(56)すで紅他の論文(「労働力の価値紅ついて」)でも述べたように,労働力の価値とい   

っても,それは労働力商品それ自体の中紅「実在」して−いるのではない。労働力商品   

はそれ自体価値物でないがゆえ把,資本の生産過程で,人間労働によって生産され   

た,労働生産物である生酒手段商品の価値でもってメ 労働力の価値とみなされてい  

るのである。   

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