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日本統治時代の台湾人の生保加入に 関する研究

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日本統治時代の台湾人の生保加入に 関する研究

⎜⎜ 政治的誘因か経済的誘因か ⎜⎜

曽 耀 鋒

■アブストラクト

日本統治時代の台湾において生保はかなり普及していた。その理由につい て,多くの台湾人研究者は,総督府が政策的に台湾人の生保加入を奨励した こと,すなわち,政治的誘因が強く働いたことを主張している。このような 主張に対して,本稿は,戦時体制期以前(1905年〜1937年)の台湾生保の成 長について,市場メカニズムが働いた結果として生じたことを,当時の新聞,

日記,統計データなどの一次史料を駆使して明らかにした。この時期の台湾 人の生保加入の動機は多様であり,義理,人情による場合,高額な冠婚葬祭 費用を用意するためという場合,さらに特殊な文化要因と称すべき場合など が存在した。このように多様な加入動機が見られる一方,激しい契約獲得競 争が繰り広げられたこの時期の台湾生保市場は,総督府の指導による政府主 導型ではなく,自由経済のメカニズムが働いていたと言えるのである。

■キーワード

生保史,台湾,日本統治時代

1.はじめに

現代の台湾生保市場を理解するためには,その歴史の経過を理解すること

*平成19年9月26日の日本保険学会関東部会報告による。

/平成20年2月1日原稿受領。

(2)

が必要であり,また,現代において,保険関連の規制など政策立案を考える 際には,とくに長期的な視点に立って過去の生保市場の発展経緯を理解する ことが必要である。

スイス・リー シグマ誌2007年第4号によれば ,台湾生保市場における 2006年の収入保険料総額は412.4億ドルで世界第9位である。これは対GDP

(国内総生産)比率11.6%であり,対GDP比率については世界第3位とな るまで躍進した。このように新興工業諸国の中では目覚しい高度成長を遂げ たと言える台湾生保市場は,戦後飛躍的に成長したものではなく,戦前の日 本統治時代から現在に至るまでの歴史的経緯によるところが大きいと思われ る。

戦前の台湾生保市場を検討するためには,生保会社という供給サイド,お よび契約者という需要サイドの両面から吟味しなければならない。筆者はす でに供給サイドからの研究の一端を明らかにしている 。そこで,本稿は,

需要サイドに焦点を当てることとする。生保加入の動機を分析しようとする 場合には,V.A.R. ゼライザー やポール・ジョンソン などは,多角的

1)

Swiss Re

,

sigma No.4,

2007,p.39.

2) 曽耀鋒 戦前の日本生命保険会社の台湾進出−公衆衛生と法律基盤を中心と して− 生命保険論集 第159号,2007年,pp.113‑156を参照されたい。

3) 社会学研究者である

V. A. R. ゼライザーは,生保の発達過程におけるア

メリカの特性に注目し,アメリカの生保業において,なぜ1840年代に突如とし て急激な発展が始まったかという 謎 解きに挑戦する。従来の諸説は経済 的・経営的・保険技術的側面に限られていたが,ゼライザーは,生保に加入す る個々の人間の活動について分析することが必要であるとして,生保商品のも つ非経済的価値に注目し,より一般的な社会学上の問題という視点から 謎 を解明している。V.

A. R. ゼライザー(著)・田村祐一郎(訳) モラルと

マーケット:生命保険と死の文化 1994年。原著については,Viviana A.

Rotman Zelizer

,

Morals and  Markets: The Development of Life Insur- ance in the United  States, New  York, 1979を参照されたい。

4) ポール・ジョンソンは,19世紀後半から20世紀前半にかけて,イギリスの労 働者階級に属する家族が,ある種の金銭的保障を確保するために,いかに財布 のお金を使ったかについて検証している。ジョンソンは生保商品に関する非経

(3)

な視点から研究を行っている。本稿の課題を明治38年(1905年)〜昭和12年

(1937年)台湾人の生保加入の動機を解明するとした。具体的には,日本生 保会社の台湾進出に伴い,台湾人はどのような商品に,どの販売チャネルで,

どのような目的をもって加入したかなどについて考察することにより,戦前 の台湾生保市場における需要サイドの状況を明らかにする。

この研究領域においては,これまで多くの台湾人研究者 が戦時体制期に 焦点を当て,台湾人の多くが生保に加入する際に,総督府の政治力が強く働 いたこと,すなわち,政治的誘因が存在したことを強調している。これに対 し,本稿は,明治38年(1905年)〜昭和12年(1937年)の間に着実に成長し た台湾生保市場に焦点を当て,台湾人の生保加入の多様な動機を明らかにす る。分析に当たっては,日本統治時代において最大の発行数を誇った新聞 台湾日日新報 や台湾人の上流階層の代表的な人物である林献堂 の日記

済的な加入動機に焦点を当て,生存水準ぎりぎりの所得しかない労働者階級が なぜ埋葬保険に加入したのかを明らかにした。ポール・ジョンソン(著)・真屋 尚生(訳) 節約と浪費:イギリスにおける自助と互助の生活史 1997年。原 著については,Johnson,

Paul

,

Saving and  Spending: The  Working-Class Economy in Britain, 1870-1939

,

New  York, 1985を参照されたい。  

5) 例えば,曹慧玲 國家與市場:日據時期臺灣壽險市場的發展 國立臺灣大學 社會學研究所修士論文,2001年,および國史館臺灣文 腸勒肚為 聖

: 時儲蓄與保險 烽火歳月: 時體制下的臺灣史料特展圖録 2003年,

pp.91‑114などは,それらの代表的な例である。

6) 台 湾 日 日 新 報 は,明 治31年(1898年)年 5 月 1 日 に, 台 湾 新 報

(1896年創刊)と 台湾日報 (1897年創刊)の両紙を合併した形で創刊された。

初代社長は守谷善兵衛。第1号は,初刊発行から5日後の5月6日に発行され た。 総督府府報 台湾州報 台北市報 を附録として発行し,漢文欄を設 けたことで,台湾にとどまらず,中国南部から太平洋諸島にいたる中国人読者 を獲得し発行部数を伸ばした。昭和19年(1944年)年3月31日,統合によって 廃刊し, 台湾新報 となって終戦を迎えた。

7) 林 献 堂 潅 園 先 生 日 記 ⑴〜 ,2000‑2006年。林 献 堂(り ん け ん ど う,

1881年12月3日〜1956年9月8日),名を朝 ,号を潅園と称し,日本統治下 の台湾における台中の著名な地主資産家である。大正9年(1920年)に大成火 災が台北で創立された際に多額の出資を行い,同社の取締役を担っていた。

(4)

など,今まであまり活用されていない史料を駆使するとともに,総督府およ び日本本土の主務官庁によって公表された保険事業に関するデータを用いて 検証する。

2.台湾人契約の募集

⑴ 日本の生保会社の台湾進出および営業開始

日露戦争が終わると,日本本土における経済活動の活性化に伴って起業活 動が盛んになり,生保会社もこの時期に多数設立された。そして,日本本土 では,多くの生保会社間で新契約の獲得競争が激化し,生保会社は新契約を 獲得するために,次第に台湾市場に注目するようになった。

台湾日日新報 は,戦前の大手会社である帝国生命に関して,明治35年

(1902年)にはすでに, 台湾に代理店を置くに決し千代田屋久阪秀次郎氏に 主管を嘱托し同社員橋詰久寿彌太氏診査医吾妻省吾氏と共に渡台せり し,帝国生命が本社から役職員を台湾に出張させて募集に当たると同時に,

代理店の設置を中心とする地盤の開発を行い,いわゆる出張職員と代理店と いう二本建の募集制度を採用していたことを明らかにしている。さらに,帝 国生命は,在台日本人のうちで民間紳士を募集対象の中心 として,主力商 品である利益配当付養老保険を日本本土と同一の料率 で販売している。

なお,帝国生命の他にも日本の大手生保各社が次々に台湾に進出している。

台湾日日新報 によれば,千代田生命は明治37年(1904年)に, 本島代理 店は台湾駅伝社に於て取扱ふこととなり駅伝社は又台中,台南,新竹,打 狗 ,宜蘭,基隆の各支店に於て同地方に於ける生保の契約申込みに応ずる 組織となし , 本島官民有力者の契約を為すもの続々あり後藤長官の如き

8) 生命保険会社代理店 台湾日日新報 1902年2月9日第2面。

9) 帝国生命保険会社の近況 台湾日日新報 1903年10月1日第2面。

10) 生命保険会社代理店の状況 台湾日日新報 1902年2月19日第2面。

11) 台湾の南部に位置する高雄の旧称。

12) 千代田生命保険相互会社 台湾日日新報 1904年11月17日第2面。

(5)

も一万円の契約を為したる とされている。また,同紙は,日本生命につ いて,明治40年(1907年)11月に, 同社医局長遠藤博士及び有村神戸代理 店主とを特発し被保険者の募集に着手せり聞く処に依れば同社が本島に於け る保険料は既に二十三万円に達し と記している。さらに同年には,明治 生命 ,万歳生命 ,および東洋生命 なども台湾に社員を派遣して営業活 動を始めている。

⑵ 台湾人市場の注目

新契約の獲得競争の激化に伴い,生保各社は 内地人方面の勧誘に限られ たる姿にて夫れも上流方面の契約は大凡各会社夫々地盤を分割し尽くしたる を以て現在は中流以下の階級に向て勧誘中なり其他本島人間は遂年契約高の 増加あるもまだ保険思想普及せざる事とて将来は会社にて唯徐々として是等 の方面を蚕食する可きのみ と考え,次第に台湾人市場に注目するように なった。例えば,台湾の北部では, 帝国生保会社基隆代理店にては是れま で本島人の保険契約を取扱はざりしが今回其業務を拡張し台北,台南等と同 じくこれが取扱を開始することとなり ,また,台湾の南部では, 台南に 於ける生保の運動は近来著しく競争を高め帝国及万歳の両社は互に本島人被 保険者を募るに全力を傾注し街長及保正甲長は申すまでもなく卑しくも苟も 市内に名の知られたる本島人に対しては勧誘に尽力しつつあり と社会 的・経済的地位が高い台湾人階層を対象として募集活動が始められた。

このように,日本の生保各社による募集活動の拡大によって,台湾におけ

13) 千代田生命保険の営業成績 台湾日日新報 1905年3月17日第2面。

14) 日本生命の被保員募集 台湾日日新報 1907年11月14日漢文第3面。

15) 明治生命保険 台湾日日新報 1907年1月19日漢文第3面。

16) 万歳生命保険 台湾日日新報 1907年3月1日第2面。

17) 東洋生命保険会社の募集 台湾日日新報 1907年9月18日第2面。

18) 保険界の競争 台湾日日新報 1911年11月25日第5面。

19) 帝国生命代理店の拡張 台湾日日新報 1907年3月1日第2面。

20) 生命保険と本島人 台湾日日新報 1907年6月26日第2面。

(6)

る生保の新契約高は順調に伸びた。すなわち,明治39年(1906年)には約 56.5万円であった新契約高が,明治41年(1908年)には約146.6万円となり,

明治42年(1909年)には不況のため約2.6倍の149万円に止まったものの,そ の後は再び増加して,大正元年(1912年)には約526万円となり,僅か6年 間で9.3倍になった。また,年末現在契約高 は,明 治39年(1906年)の 約 233.9万円から,明治41年(1908年)の約507万円,大正元年(1912年)の約 1310.3万円と,こちらも同じ期間に5.6倍になった 。

こうした好調な新契約高の伸びについて, 台湾日日新報 は次のように 述べている。すなわち,高所得者層の台湾人契約者が増加していることに関 して, 一は台湾の富源が倍々開拓せられ,所得 の 増 し た る 結 果 に も 因 る。 とし,また,彼らは, 如何なる種類の保険が歓迎さることかと云へ ば,利益金付養老保険が一番である。顧ふに之は従来富籤の流行地の事とて,

被保険者は死後財産を子孫に すよりも,寧ろ現代に於いて資金を得,安楽 に生活して行かうと云ふ希望は胚胎するものであらう。 と記している。

⑶ 高解約率・高失効率

このように生保市場が拡大する一方で, 解約と失効之が本島に於ては案 外の多額に上って居る 状況となった。図1を見ると,大正3年(1914年)

〜大正14年(1925年),台湾における解約・失効の割合は,常に日本本土の平 均を上回っていることが分かる。その中でも,特に,大正3年(1914年)

〜大正5年(1916年)および大正10年(1921年)〜大正11年(1922年)にお

21) 各年度 保険年鑑 の内国会社による死亡保険および生存保険の台湾データ を基づく。なお, 保険年鑑 における徴兵保険については,大正期以降台湾 においても販売されはじめたが,台湾人の徴兵制度が昭和19年(1944年)9月 に施行されたため,それ以前の台湾人の徴兵保険の加入は不可能であった。

22) 台湾と保険業 台湾日日新報 1911年9月13日第3面。

23) 前掲注22を参照。

24) 生命保険事業 台湾に於ける各社現況 台湾日日新報 1917年5月4日 第1面。

(7)

ける解約・失効の割合は最も高く,いずれも70%を超えたことは注目に値す る。

この状況について,大正4年(1915年)に発行された 台湾日日新報 は,

募集競争による弊害であると論述し,次のように述べている。

本島生保界は近来新契約の増加せざるに反して解約者の続出し経営甚だ 困難の状況なる , 生保勧誘員等が契約濫募の為社会の悪感を招き或は保 険金支払の紛 によりて信用を隕し最近解約者の続出は殆んど流行の観あ , 解約の原因は一部不正勧誘員の契約争奪等に起因するもの と論 じるとともに,募集競争による弊害に関して, 例へば地方勧誘に際し募集 図 1:日本本土および台湾における新契約に対する解約・失効の割合の推移

(1909年〜1937年)

注: 保険年鑑 における日本本土および台湾の 其他の事由による消滅件数 および 新契約件数 に関するデータより作成。

25) 保険界新傾向 台湾日日新報 1915年8月5日第2面。

26) 渾沌たる保険界当業者の覚醒を要す 台湾日日新報 1915年6月11日第 1面。

27) 保険と勧誘員 所謂解約の真因 台湾日日新報 1915年6月13日第2面。

(8)

員は手段として警察官吏を頼り其紹介によりて勧誘の手を伸ばすが如き内地 人募集員に取っては止む得ざる所ならんも悪辣なる募集員に至っては其間一 種の弊害を察せられざるなきにあらず故を以て本島人の被保険者は掛金を一 種の租税の如く心得へ厭々ながら出金する向きあり と記している。

⑷ 募集取締に関する規制の強化

大正9年(1920年)10月の 台湾日日新報 は, 悪弊多き台湾保険界 と題し, 勧誘員は…多く保険界に多大の弊害を醸しつつあり偶偶強圧的に 余儀なく保険に加入せる本島人の如きは途中より保険契約を破棄し保険の当 にならざるを説き一時本島人間に保険契約の減少せることもあり又保険勧誘 員中詐欺を働き掛金を横領せるもの等多かりしが故に保険募集員の来るを嫌 うもの多かりし。 と記述するとともに, 監督官庁たる督府当局は此の弊 害に対して相当取締るの態度に出でざれば本島に於ける保険業は今後大発展 は到底望むを得ざるべし。 として,総督府にいっそう厳重な取締規制を実 施するよう促している。

それに対応して,総督府は,大正10年(1921年)1月13日付で総務長官よ り各州の知事,庁長に宛てて通牒を発し ,募集弊害に対してより厳しい規 制を実施した。なお,通牒の要旨は以下のとおりである。

①許を受けずして営業する事

②保険契約募集に関し契約者に対し欺 手段を用ひ又は不 当の手段を用 ふる事

③保険金の支払に際し保険金受領の広告費用を天引し又は交換的に新契約 を強要する事

28) 保険解約真相 当業者の再考を要す 台湾日日新報 1915年5月29日第 2面。

29) 悪弊多き台湾保険界 営業方針の改善と之が取締りは如何 台湾日日新 報 1920年10月24日第3面。

30) 前掲注29を参照。

31) 保険業取締 台湾時報 大正10年2月号,1921年,p.5。

(9)

④生保に於て健康診断を経たることはく契約をなす事

⑤其他不都合と認めらる所為

その後,大正13年(1924年)以降は,台湾における解約・失効率は徐々に 下がり,昭和元年(1926年)〜昭和11年(1936年)の期間においては,常に 日本本土における解約・失効率を下回った(図1を参照)。一方,日本本土で は,昭和6年(1931年)7月の商工省令第7号によって, 保険募集取締規 則 が公布され,外務員の登録と本格的な不正募集の取締りが官庁によって 行われることになった。図1によれば,募集取締規制を強化した一つの結果 として,昭和7年(1932年)以降,日本本土における解約・失効率が格段に 減少したことが挙げられる。しかし,台湾では,保険外務員の募集行為を規 制する重要な法規である同規制が施行されたという記録が見つかっていない。

総督府は,予算上の制約および厳重に各社を統制することで足りることを理 由に,台湾での同規則の施行を見送ったのである 。また,実際,大正11年

(1922年)以降,日本人外務員の強引な募集によってもたらされる台湾人契 約の解約・失効に関する 台湾日日新報 の記事はない。その限りでは,大 正10年(1921年)になされた募集規制の強化は,とりわけ,日本人外務員に よる台湾人への強引な契約募集という弊害をある程度で抑えることに成功し ていたのであった。

⑸ 台湾人外務員の登場と活躍

昭和期以降は,台湾人を雇って台湾人市場の募集に力を入れようとする動 きが活発になり,台湾人外務員の登場に注目が集まった。 台湾日日新報 は,日本生命の営業部長の談話を引用して, 台湾では生保は二十万に足り ぬ内地人側に随分広く亙っているのに三百七十万の本島人側には一向普及せ ぬ…その理由としては保険思想がないからと云ふより寧ろ勧誘法が誤って居 はしまいかと思ふ。朝鮮に例を取ると朝鮮人の生活振りは寧ろ台湾人以下だ

32) 生命保険の外務員免許制は台湾では別箇に独立で 台湾日日新報 1931 年7月30日第5面。

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がそれでも保険加入件数の割は所に依っては内地人以上に及ぶ之は朝鮮では 支社とか支部を設けるに京城の如き朝鮮人開拓専門と内地人目的専門を別に して朝鮮人への宣伝は朝鮮人使用人をして契約から一切をやらす。人情言語 の関係で之が非常に成功して居る。此事実は確かに今後本島保険界開発に各 社とも研究すべき問題である と指摘し,さらに, 台湾に於て保険事業の 進歩発達を妨げるものは第一に言語の相違であり…本島人に向って募集の鋒 先を向けて居る。然しながら…内地人外交員で台湾語を話す人もあるがそれ は日常の会話で高速な保険の精神を打ち込むと云ふ様に雄弁に台湾語を話せ る人は先ない様で今日の状態では止むを得ず内地語の出来る本島人の媒介で 保険を勧誘することにしている と記している。ちなみに,昭和3年(1928 年)時点で台湾に進出していた日本の生保会社16社の外務員の総数は250名 であり,そのうち台湾人は57名で約2割を占めていた 。これら台湾人外務 員は,日本人外務員の通訳者として募集活動を行ったり,または,自らのネ ットワークを活かして,募集人として台湾人に生保加入するよう働きかけた りするなど,様々な方法で活躍した。

台湾人外務員によって締結された契約件数の増加は,昭和期以降の台湾人 市場における解約・失効率の低下をもたらした可能性が大きい。ところが,

その反面,台湾人外務員の登場に伴い,台湾人外務員による保険料・保険金 の横領といった不祥事 や,台湾人契約者および審査医と共謀して保険金を

33) 本島人の保険思想と勧誘法 台湾が朝鮮に劣る所以 台湾日日新報 1926年8月14日第3面。

34) 本島に於ける生命保険事業㈡本島人間への開拓は先づ言葉の習得から 台湾日日新報 1928年9月2日第3面。

35) 前掲注34。

36) 保険勧誘員払込金横領 台湾日日新報 1927年6月18日第3面, 詐取嫌 疑被拘 台湾日日新報 1927年12月14日夕刊漢文第4面, 保險外務員 嫌疑 被拘現究問真相 台湾日日新報 1935年5月18日漢文第8面, 横領被拘

台湾日日新報 1935年5月19日夕刊漢文第4面, 飲回る間に千五百円紛失 青くなって届出づ 台湾日日新報 1935年7月25日第13面, 生命保險會社 監督書記被拘 台湾日日新報 1936年8月13日夕刊漢文第4面などを参照さ

(11)

詐取しようとするケース が相次いで発生し, 台湾日日新報 にも度々報 道されている。したがって,台湾人外務員の増加は必ずしも外務員の質の向 上には結び付いたものではなかった。

⑹ 上流階層の台湾人の生保加入

台湾人の上流階層の代表的な人物である林献堂の日記によれば,昭和5年

(1930年)〜昭和12年(1937年)の8年間に,生保加入の勧誘の目的で,外務 員が少なくとも13回林の自宅を訪問したことが分かる 。中でも,昭和12年

(1937年)2月の日記において, 清水の楊濱溪と大安の 振東は家に訪問に 来ました。楊濱溪は太平生保会社の勧誘員であり,雲龍(筆者:林献堂の3 男)に生保加入を積極的に説得しました。姻戚の関係でお断りしにくいため,

2000円の契約に加入すると答えました とし,義理・人情によって生保に加 入したことが明らかにしているのは興味深いところである。さらに,林自身 は明治生命の1万円の契約 ,長男は第一生命の25年満期養老保険の1万円

れたい。

37) 詐取保險金案 勸誘員亦被拘 台湾日日新報 1930年2月10日漢文第4 面, 勸誘員及醫師詐欺保險 台湾日日新報 1930年3月30日夕刊漢文第4面,

病入膏 奇貨可居 契約生命保險 台湾日日新報 1932年9月29日漢文第 12面, 從兄肺病 替入生命保險 台湾日日新報 1935年8月16日漢文第8面,

瀕死の肺患者に一万円の生命保険 関係者引致さる 台湾日日新報 1935年 12月5日第5面, 保険金詐欺の疑で引致さる 台湾日日新報 1936年6月6 日第9面などを参照されたい。

38) それらを整理すれば,以下のとおりである。1930年8月20日(明治生命),

1930年8月21日(明治生命),1930年8月22日(明治生命),1930年10月8日

(明治生命),1931年8月21日(日本生命),1934年1月29日(第一生命),1934 年1月30日(第一生命),1934年12月22日(明治生命),1935年5月31日(安田 生命),1935年7月27日(安田生命),1935年9月29日(東洋生命),1937年2 月5日(太平生命),1937年2月8日(太平生命)。

39) 潅園先生日記 1937年2月5日。原文は漢文である。

40) 潅園先生日記 1930年8月22日。

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の契約 ,3男は太平生命の20年満期の2000円の契約 にそれぞれ加入して いたことが記されている。その年間保険料は合計で1007円となることから, 台湾人の上流階層は高額の保険契約に多額の保険料を支払って加入していた ことが分かる。

3.台湾人契約の状況および特徴

主務官庁が公表する民間生保会社の統計データ(例えば,新契約件数,新 契約高,保有契約件数,保有契約高)は, 台湾人 と 在台日本人 を区 別せず,台湾全体に関する営業成績を掲載している。したがって,各社の台 湾人のみに関するデータを入手することは困難であり,時系列のデータによ って分析することはできない。ただし,大正5年(1916年)の太平生命 , 大 正12年(1923年)の 某 2 社 ,お よ び 昭 和 2 年(1927年)〜昭 和12年

(1937年)の簡保 のデータが残っているため,これらのデータを利用し,

戦時体制期以前における台湾人契約の割合,性質,特徴などを明らかにして いく。

⑴ 大正5年(1916年)の太平生命のデータ

まず,大正5年(1916年)に台湾に進出した日本の生保会社19社の中で上 位の成績を収めていた太平生命のデータを用い,大正5年(1916年)頃の台 湾人契約の状況を検証する。

41) 潅園先生日記 1934年1月29日,および 霧峰林家捐贈之手稿

LIN054

信函1封‑收信者:林攀龍(保險 據四張,信封一) 國立臺灣大學所蔵史料。

42) 潅園先生日記 1937年2月8日。

43) 生命保険事業 台湾に於ける各社現況 台湾日日新報 1917年5月4日 第1面。

44) 台湾総督府殖産局商工課 台湾に於ける保険業 台湾時報 大正14年3月 号,1925年,pp.77‑87。

45) 台湾総督府 台湾総督府統計書 (第32回)〜(第46回),1927‑1940年。

(13)

表1を見ると,保険金額が200円および300円以下の全契約件数に占める在 台日本人契約の割合は5.76%であるのに対し,台湾人契約の割合は2.35%と 低くなっている。このことは,在台日本人に対する募集が,比較的生活水準 の低い階級にまで及んでいたことを推測させる。また,全契約の平均保険金 額は770.97円であるが,うち台湾人の平均保険金額は794.13円であり,在台 日本人の平均保険金額の755.97円を大幅に上回る。これは,台湾人において は,比較的高所得層が生保に加入したことによるものと考えられる。

表2によれば,在台日本人契約の割合は,16〜20歳の6.69%,21〜25歳の 8.65%と年齢が上がるにつれて上昇し,26〜30歳において最大となるが,そ の後は次第に下がり,46歳以上では急激に低下する。一方,台湾人契約の割 合は,16〜20歳が僅か2.26%であるのに対して,36〜40歳は在台日本人を上 回る22.50%となり,さらに,46歳以上では在台日本人を大幅に上回ってい る。

表1:太平生命の台湾契約の状況(1916年;単位:件・円)

台湾人契約 在台日本人契約 総計

対総金額 0.03% 1.67% 35.26% 45.09% 12.06% 3.59% 2.31% 100.00% 金額

296 19,500 412,100 527,000 140,900 42,000 27,000 1,168,796 対総件数

0.13% 4.29% 54.42% 34.89% 4.95% 0.92% 0.40% 100.00% 件数

2 65 825 529 75 14 6 1,516 金額

296 15,300 251,300 310,200 77,400 24,000 17,000 695,496 件数

2 51 503 311 41 8 4 920 金額

0 4,200 160,800 216,800 63,500 18,000 10,000 473,300 件数

0 14 322 218 34 6 2 596 保険金額別 200円以下 300円以下 500円以下 1,000円以下 2,000円以下 3,000円以下 5,000円以下 合計

出典: 生保事業 台湾に於ける各社現況 台湾日日新報 1917年5月4日第 1面より作成。

(14)

また,図2によれば,在台日本人と比べて,台湾人が比較的長期の契約に 加入する傾向にあったことが分かる。そして,これらのデータから,台湾人 契約の特徴として, 高齢者契約が多いこと および 長期契約が多いこと が明らかになった。

表 2:太平生命の台湾契約における契約年齢別割合(1916年) 年齢層 台湾人契約 在台日本人契約

6.69%

8.65%

23.54%

21.27%

19.65%

14.64%

3.24%

1.63%

0.69%

100.00%

2.26%

5.46%

18.00%

15.44%

22.50%

11.89%

10.62%

9.00%

4.83%

100.00%

16〜20歳 21〜25歳 26〜30歳 31〜35歳 36〜40歳 41〜45歳 46〜50歳 51〜55歳 56〜60歳 合計

出典:太平生命の台湾契約データより算出。

(15)

長期契約が多いことについて,生保会社の社員であり,台湾に10ヶ月間滞 在していた濱野真は, 本島人は若年者は勿論,老年者は愈々長期契約を希 望する,即ち保険契約期間は…本島人は主として可成的に低廉の保険料で多 額の保険金額を契約せんと欲するから,勢ひ長期を選ぶ事になる と論じ,

また,高齢者契約が多いことに関して,台湾人は 非常に儀礼を重ずる,従 って冠婚葬祭にはその財産を傾けても悔ひない。親を被保険者にするのはそ の葬礼費の出処を得んとする と説明している。つまり,生保加入の動機 の一つとして,高齢者の葬儀費用の準備ということが考えられる。

一方,台湾人契約において,多くの被保険者が契約者の妻であることに関 し, 台湾日日新報 は,次のような興味深い記述をしている。 本島人は遺 族の為めに図るに非ずして主人自らの利益を望み自身に保険を付さずして其 図2:太平生命の台湾契約における養老保険の契約期間別割合(1916年)

出典:太平生命の台湾契約データより算出。

46) 濱野真 台湾に於ける生命保険事業に就いて 生命保険会社協会会報 第 6巻第3号,1917年,pp.35‑36。

47) 濱野真,前掲論文,p.36。

(16)

妻を被保険者とし,主人は保険金の受取人たるの位置に立つ者少なからず是 等は本島結婚法の余弊にして代償金を以て妻を購ふの慣習上妻の死去に於て 直に新妻を得るの資金に宛っるに外ならず又之と同時に投機心も混同するも のなる 。また,昭和13年(1938年)当時のある保険募集人は, 本島人は

…自分が入ると云ふよりも年寄った親を先に入れる女房を先に入れ,自分は 最後に余力があったら入ると云ふのです。之れは,第三夫人まで持っている 三十五,六の富豪の話ですが,自分は二十年の養老に入り,十 の妾には終 身を掛けると云って承知せんのです。それで,非常に間違った考へだと色々 と説いても承知しない。私もそんな間違った考へなら契約せんでもよいと 遂々契約しませんでしたが,三十五六の男が養老をとり,十 の妾は終身に かけ,途中死んだなら儲る位の考へも働いたのでせう と証言しているた め,おそらくこうした加入動機が大正期のみならず1930年代までも続いてい た可能性が十分に考えられる。

⑵ 大正12年(1923年)某2社のデータ

表3は,大正12年(1923年)の総督府殖産局商工課による会社名が掲載さ れていない2社に関するデータである。これは台湾の全契約に関するデータ ではないが,同年の台湾人契約の状況を窺うことができる。表3によれば,

在台日本人においては500円超え1000円以下の契約が最も多く,在台日本人 契約の57.04%を占めている。それに対して,台湾人に関しては,300円超え 500円以下の契約が最も多く,3568件中の1660件を占め,500円超え1000円以 下の契約よりも123件多いこととなる。大正5年(1916年)の太平生命のデ ータと比べれば,台湾人契約の件数および平均保険金額が増加したことが分 かる。

48) 生命保険の警戒 台湾日日新報 1913年5月28日第2面。

49) 一人一職座談会 台湾実業界 昭和13年4月号,1938年,pp.21‑22。

(17)

⑶ 昭和2年(1927年)〜昭和12年(1937年)の簡保のデータ

昭和期に入ると,台湾人契約件数の増加および解約・失効率の低下が顕著 なものとなる。その原因としては,前述した台湾人外務員の登場と募集規制 の強化が考えられる。また,昭和2年(1927年)に簡保が台湾で導入された ことも,保険思想をある程度定着させたという意味において評価すべきもの かもしれない。表4の昭和2年(1927年)〜昭和12年(1937年)の簡保に関 する台湾人のデータによれば,簡保における台湾人契約の割合は,新契約件 数などいずれも上昇している。

表3:某2社の台湾契約の状況(1923年;単位:件・円)

台湾人契約 在台日本人契約 総計

対総金額 0.01% 0.05% 0.29% 14.83% 49.45% 13.34% 6.85% 7.57% 5.69% 1.42% 0.19% 0.00% 0.31% 0.00% 100.00% 金額

2,383 7,752 46,823 2,383,340 7,949,506 2,143,981 1,101,914 1,216,535 914,850 229,000 30,000 0 50,000 0 16,076,084 対総件数

0.17% 0.30% 1.06% 32.15% 53.75% 7.60% 2.52% 1.69% 0.66% 0.09% 0.01% 0.00% 0.01% 0.00% 100.00% 件数

25 44 158 4,774 7,981 1,128 374 251 98 13 1 0 1 0 14,848 金額

2,383 6,987 41,327 1,612,595 6,421,101 1,788,581 844,414 1,002,535 833,850 214,000 30,000 0 50,000 0 12,847,773 件数

25 40 138 3,114 6,434 935 284 207 89 12 1 0 1 0 11,280 金額

0 765 5,496 770,745 1,528,405 355,400 257,500 214,000 81,000 15,000 0 0 0 0 3,228,311 件数

0 4 20 1,660 1,547 193 90 44 9 1 0 0 0 0 3,568 保険金額別 100円以下 200円以下 300円以下 500円以下 1,000円以下 2,000円以下 3,000円以下 5,000円以下 10,000円以下 20,000円以下 30,000円以下 40,000円以下 50,000円以下 50,000円以上 合計

出典:台湾総督府殖産局商工課,前掲論文,pp.84‑85より作成。

(18)

簡保が民間生保業に好影響を与えたということについて, 台湾日日新報 は次のように述べている。 逓信部が内地に倣ひ本島に簡易保険を実施した

…世間には簡易保険の開始はやがて民間生保の圧迫を来たし其の不振を促す だらうと甚しく危慎の念を抱くものもあったが事実は全く之に反し民間保険 界は総督府の簡易保険創設で一段と勢を得たのみならず保険思想は民間生保 会社の万の広告よりも総督府と云ふ一つの官の威信に勝るものなく一般に広 くその保険とはどんなものかと云ふ正しい概念と必要さを諒解されるやうに なった。それは独り台湾のみならず内地に於ても簡易保険創設の際之と同じ 民業圧迫の声が揚ったが全くの杞憂で結果は之と反対に官営保険業は民間保 険業の宣伝となった。飜って然らば台湾の保険業は如何と云ふにそれは進歩 の一天張りであると云っても良い

表4:簡保における台湾人契約の状況(1927年〜1937年;単位:件・円)

和暦 簡保新 契約件

台湾人 割合

簡保新 契約保 険料

台湾人 割合

簡保新規契 約高

台湾人 割合

簡保保 有契約 件数

台湾人 割合

簡保保有 契約高

台湾 人割合 昭和2年 5,766 31.50% 7,137 25.83% 1,459,253 28.99% 4,539 24.85% 1,461,263 28.89% 昭和3年 13,257 45.41% 17,101 40.50% 3,255,266 43.22% 16,414 35.58% 4,067,032 33.22% 昭和4年 22,161 63.93% 27,919 60.29% 5,170,574 62.44% 32,121 44.73% 7,757,762 44.38% 昭和5年 41,809 75.46% 50,290 74.52% 9,431,702 76.54% 64,348 56.18% 14,956,812 55.07% 昭和6年 45,069 79.04% 51,886 77.15% 9,837,486 79.46% 90,805 61.74% 20,644,335 61.13% 昭和7年 42,017 70.17% 48,373 65.41% 9,173,485 66.74% 125,333 67.09% 29,365,688 66.88% 昭和8年 55,442 89.79% 68,406 88.74% 13,243,571 91.01% 174,133 72.81% 41,049,633 73.13% 昭和9年 45,676 87.50% 56,605 85.55% 10,885,523 88.04% 207,602 75.28% 49,036,053 75.86% 昭和10年 48,497 88.09% 62,461 87.00% 11,532,255 88.92% 244,228 77.11% 58,091,159 78.18% 昭和11年 57,114 86.92% 75,801 86.38% 13,991,078 88.21% 289,607 78.57% 69,048,726 79.81% 昭和12年 60,983 81.40% 81,482 80.20% 14,896,454 81.90% 331,397 78.96% 79,141,995 80.19%

出典: 台湾総督府統計書 (第32回)〜(第42回),1928‑1938年より作成。

50) 本島に於ける生命保険事業界㈠総督府の簡易保険は民間生命保険界に好影 台湾日日新報 1928年9月1日第3面。

(19)

4.結びにかえて

本稿で使用した史料によれば,一部の日本人外務員は警察と共謀し,植民 地下の人々の警察に対する恐怖心を利用して募集活動を行ったことが分かる。

そのため,台湾人の生保加入が 強制 によるか否かを考える際には, 強 制 の意味をどう捕らえるかということが重要かもしれない。なぜならば,

警察も国家権力の一部であり, 強制 しうる地位にあるからである。私見 によれば, 強制 は,法律(例えば,自賠責保険や健康保険に関する法律)

または国家政策(例えば,第2次世界大戦中の国民貯蓄奨励運動)の形式で 現れるものである。したがって,本稿が対象とする期間(1905年〜1937年)

においては,法律または国家政策の 強制 によって台湾人を生保に加入さ せたという事実は見当たらないことになる。

また,それぞれの史料を検証することによって,明治38年(1905年)〜昭 和12年(1937年)台湾人の生保加入の動機が多様なものであったことが分か った。つまり,それは政治的に優位な立場にある日本人外務員に配慮して生 保に加入するという単純な理由には限られず,義理,人情への配慮,高額な 冠婚葬祭費用を用意するための経済上の目的,さらに再婚の準備という特殊 な要因なども含まれていた。したがって,このように多様な加入動機が見ら れ,かつ激しい契約獲得競争が繰り広げられたこの時期の台湾生保市場は,

総督府の指導による政府主導型ではなく,自由経済メカニズムを有していた と言えるのである。

そして,このような明治38年(1905年)〜昭和12年(1937年)の32年間に わたる自由経済下での生保市場に関する経験は,戦時体制期を経て,ある程 度1945年以降の戦後に至るまで継承されたと考えることも可能である。戦前 の台湾における生保市場メカニズムに関して,供給サイドから検討した拙稿 の結論と合わせると,政治力が戦前の台湾生保市場メカニズムにある程度の 影響を与えたことは認められるが,それは最も重要な要素ではないと言える。

(20)

(本稿は,㈶生命保険文化センターの平成19年度研究助成による研究成果の一部で ある。)

(筆者は一橋大学商学部特任講師)

参照

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■実 施 日:平成 26 年8月8日~9月 18

第1回 平成27年6月11日 第2回 平成28年4月26日 第3回 平成28年6月24日 第4回 平成28年8月29日

日本への輸入 作成日から 12 か月 作成日から 12 か月 英国への輸出 作成日から2年 作成日から 12 か月.

日本への輸入 作成日から 12 か月 作成日から 12 か月 英国への輸出 作成日から2年 作成日から 12 か月.

− ※   平成 23 年3月 14 日  福島第一3号機  2−1〜6  平成 23 年3月 14 日  福島第一3号機  3−1〜19  平成 23 年3月 14 日  福島第一3号機  4−1〜2  平成

 今年は、目標を昨年の参加率を上回る 45%以上と設定し実施 いたしました。2 年続けての勝利ということにはなりませんでし