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幕末期西蝦夷地高島場所 における 現地労働 力の存在形態

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(1)

幕末期西蝦夷地高島場所 における 現地労働 力の存在形態

長 谷 川 伸 三

は じ め に

近世後期,蝦夷地 における基本的な漁業生産組織 である場所請負制の労働組 織 は,

1.

番人,

2.

雇 い人,

3.

二八取漁民 の夫役,

4.

アイヌ人, よ り構 成 されていた。 ごこで番人 は運上屋の常雇 いで,番家守等 の少数の管理人 と稼 ぎ方 と呼 ばれる労働者か らなる。雇 い人 は運上屋 に季節的 に雇 われ る大工 ・船 頭 や漁師で,手間取 りとも呼 ばれていた。二八取漁民 は浜中 ( はまじゆう)とも 呼 ばれ,場所 に定住 した一般漁民 で,個別の漁業経営 を許可 された代償 として, 漁獲物の一部 を二八役 と して運上屋 に徴収 されるとともに,錬漁や鮭漁の最盛 期 やその加工 の繁忙期,弁財船の入港時,家屋 や蔵の普請時等 に 「 手伝 い

「 人 足」等の名で運上屋 に動員 された。 これ らの二八取漁民が運上屋 に提供する労 働 は,その多 くが有償 であったとはいえ,場所 内の浜単位 で動員 されることに 示 され るように,夫役的性格 を持 っていたとみ られ る。 1 ) 場所請負制 の展 開に 即 してみれ ば,運上屋 による労働力編成 のなかで,アイヌ人の比重 が しだいに 低下 し,雇 い人や二八取漁民の夫役の比重が増大する傾向にあったが,場所 に よっては幕末期 にいたるまで,アイヌ人の労働 力は無視 できない要素 であった。

小論 では,幕末期西蝦夷地高島場所 ( 現小樽市高島)の事例 の分析 を通 して, アイヌ人の労働力が場所経営 に果 した役割 と,その家族形態の特質や人口減少

原稿受領 日

1986

10

8

1

)長谷川伸三 「 幕末期西蝦夷地における場所経営の特質一西川家高島場所の事例 ‑」

( 地方史研究協議会編 『 蝦夷地 ・北海道一歴史と生活 ‑』雄 山閣出版

,1981

年) 。

〔57

(2)

の要因を検討 してみたい。主 に分析 の対象 とした史料 は,西川家 ( 元高島場所 請負人 )文書 の うち,文政

4

年〜明治

4

年間の 「 御場所蝦夷人別調子書」,慶 応

2

年 「 運上家諸用 日記

等である

。2)

1

高島場所の概況

西蝦夷地高島場所 は石狩湾の西端 に位置 し,現荏 の小樽市色内 ・手宮 ・高 島 ・祝津の海岸 に相当する 場所請負人 は近江八幡を本拠 とする住吉屋西川伝 右衛門で,西川家 は宝暦頃か ら高 島場所 を隣接 する忍路 ( オショロ)場所 とと

もに請負い,明治初年 におよんだ。高島 ・忍路両場所 は,西蝦夷地では錬漁 に 恵まれたいわゆる千石場所 として知 られていた。地形的 にも,石狩湾のなかで は船の出入 りや停泊 に適 した海岸であり,陸地 も背後 に低 い丘陵を控え,その 間に奥行 は浅 いが平坦 な土地が連なっていた。

慶応

4

(1866)

の場所の概況 は,場所内のタカシマに運上屋 と付属の板蔵 やアイヌ人の住居が集まってお り,場所内のテ ミヤ ・ボン トマ リ ・ムマヤ ・シ クツシにはそれぞれ番屋が置かれ, さらにテ ミヤのシュマサ ンには通行屋が置 かれていた。運上屋の番人は

54

人, うち支配人等幹部が

5

人,他 は稼 ぎ方で

49

人である。アイヌ人 は

1

1 戸

・38

人である。運上屋の支配 を直接受 けない漁民 ( 二 八取 )の戸口は,永住

42

・199

人,出稼 ぎ

86

・265

人,合計

128

・464

人で ある。

3)

また明治

2

(1869)

の永住 ・出稼 ぎの戸口,合せて

128

・458

人の 地区別分布状況 は,場所内のイロナ イがもっとも戸口が多 く,以下 シクツシ ・

テ ミヤ ・タカシマの順 になっている ( 第 1 表 ) 。運上屋 の本拠があるタカシマ には,運上屋 の付属の施設が集中 し,またアイヌ人の集落 もあったため,二八

2)小樽市博物館所蔵 目録第

6

集 『 西川家文書 目録』 ( 小樽市博物館

,1984

年 )参照。

ただ し,慶応 2年 「 運上家諸用 日記」 は,同館の所蔵分の中には見出せなか ったの で, もっぱ ら越崎宗一編 「 西蝦夷地高島運上家 日記 ( 史料 ) 」 ( 同著 『 練場史話‑郷 土史 ノー ト ー』北海道地方史研究会

,1963

年 )を参照 した。本学の前身の小樽高等 商業学校 の御出身で,す ぐれた郷土史家であった故 人の学恩 に感謝する。 なお西川 ( 伝右衛門 )家文書 は,滋賀大学経済学部附属史料館 と滋賀県立短期大学附属図書 館 にも所蔵 されてお り,小論の作成 に際 しても参考 に した。

3

)西川家文書,慶応

4

年 「タカシマ場所引渡書上」I , J 、 樽市博物館所蔵.

(3)

幕末期西蝦夷地高島場所 における現地労働力の存在形態 第 1表 高島場所の和人の永住 ・出稼 ぎ戸口

59

年 度 永 住 「 盲 譲 ー 妄 合

妄 「 「

戸 数 男 ⊥ 空 」 計 戸 数 男 女 計 戸 数 男 j女 ⊥ 計 慶応

4(1868) 42 122 77 199 86 168 97 265 128 290 174

明治

2(1869) 76 168 129 297 52 106 55 161 128 274 184

i妄言言 責

29 71 62 133 17 46 30 76 46 117 92 17 33 24 57 14 20 6 26 31 53 30 8 18 ll 29 5 10 5 15 13 28 16 22 46 32 78 16 30 14 44 38 76 41

4893426508424421

〔 史料〕 西1 1 1 家文書,慶応

4

年 「タカシマ場所引渡書上」・明治

4

年 「 高島郡御請負中諸調書上」

小樽市博物館所蔵。

取漁民が割込 む余地 は少なかったものと思われる。

高島場所の南隣 りは小樽内場所で,小樽内は幕末期 に西蝦夷地の支配 ・流通 の拠点 として和人の人口が急増 し, 慶応

3

年 には

550

・2,308

人に達するなど, 小都市 の様相 を呈 していた。 こうした状況 に対 して,箱館奉行所 は慶応元年

(

1865)

,小樽内場所の場所請負人恵比須屋岡田家 を解任 し,村並 という道南 の和人地 に準 じた直轄地 に している

。4)

そのため高島場所 の小樽 内に隣接 する イロナイ ・テ ミヤは多少 とも町場化 していた○松浦武 四郎の安政

3

年 (

1856)

『 竹 四郎廻浦 日記』 によれば, ヲムマヤ ( 注 ‑ムマヤ)か らテ ミヤ ・シュマサ ン ・イロナ イまでは,二八小屋が市町様 に立 ちな らんで,小樽内との境 になる ウコバチ川 ( 注‑オコパテ川 )に達すると述べている。特 にテ ミヤへツ ( 手宮 の南部 )は 「 二八小屋続 き平地 しば し行,此処酒屋,月代店 ( 屋 ヵ) ,湯屋等 まで有」 とある

05

」 方 シクジシ ( 症 ‑ シクツシ)よ り西方 の海岸 は,赤岩 の 断崖が続 き,二八取漁民の家 も少な く,季節的に運上屋 より漁師が派遣 される 程度 であった。

4

)長谷川伸三 「 幕末の小樽 と小樽 内騒動」 ( 津田秀夫編 『 近世国家の解体 と近代』塙 書房

,1979

年) 。

5

)高倉新一郎編 『 竹 四郎廻浦 日記』上 ( 北海道 出版企画 セ ンター,19

78

年 )

p.435

‑437

0

(4)

2

運上屋のアイヌ人対策

高倉新一郎氏は,蝦夷地のアイヌ部落 (コタン)の変遷 を, 自然 コタン ・強 制 コタン ・保護 コタンそ こ分 け, これ らの

3

類型 は,民族的自立性 を維持 してい

たコタンが,和人の支配下に組み込 まれていく過程 に照応すると論 じている 。6)

この ことは高島場所でも跡付 けることができる。松浦武四郎の安政

3

年 (

1856)

『 竹四郎廻浦 日記 』 によると,高島場所のアイヌ人の戸口は,安政

3

年当時 は

「 土人小屋

19

軒,人別

7

1人 ( 男

41

( ママ)人,女

31

人)有」であるが,文政

5

年 (

1822

)の幕領 より松前藩への 「 御引渡の時は

41

,189

人 ( 男

103

人,女

86

人)有 しとかや」であった。また安政

3

年当時は,高島の運上屋がある小湾 に, 場所内の全 アイヌ人の集落があった。

しか し,場所内では, シクジシ (シクツシ,現在の祝津 )に 「 番屋一棟,塞 蔵二棟,稲荷の社等。往昔 は夷人小屋有 Lと,今 はな し」, ヲムマヤ (ムマヤ, 現在の厩海岸 )に 「 其少の浜 には二八小屋多 し。むか しは夷家五軒有 りLと。

今 はな し」, テ ミヤへ ツ (テ ミヤの南,現在 の手宮)に 「 番屋一棟,雑蔵‑, 網 くら‑,板 くら一棟,傍 に弁天社有。むか しは夷家此処 に弐十軒程有 Lが, 今 は皆運上屋 え引取 りた り」 とあ り,少な くとも文政期以前 には,場所内の シ

クツシ ・ムマヤ ・テ ミヤにも,アイヌ人の コタンが存在 していたことを示 して いる。

7)

しか し, これは自然 コタンの状態 ではな く,運上屋が場所内 に数 カ所 配置 した番屋 の監視下 に,アイヌ人 を集住 させていた段階 を示す ものであろう。

その後 アイヌ人の戸口の減少が進んだので,彼等 を運上屋の近辺 に一括 して集 住 させるにいたったと思われる。

運上屋 は場所内のアイヌ人 を統轄 していく上で,いくつかの対策 を打出 して いた。その一つは,場所内の和人 とアイヌ人 との接触 を極力避 けるということ であった。隣接する上下 ヨイチ場所 ( 請負人 は林家)の例であるが,天保

14

6

)高倉新一郎 「アイヌ部落の変遷」 ( 同著 『 アイヌ研究』北海道大学生活協同組合,

1966

年,初出は

1940

年 ) 0

7

)高倉新一郎編 『 竹 四郎廻浦 日記』上 ( 北海道出版企画 セ ンター

,1978

年 )

p.432

‑436

0

(5)

幕末期西蝦夷地高島場所 における現地労働力の存在形態

61 (1

843) 「 上下 ヨイチ御場所年中行事記」 ( 余市町林家文書 )所収の 〔 御場所御 法度九 ヶ条〕 の第

3

条 に,「 ‑, 自分取夷人井雇 の者,ヘカチ ( 注 ‑セガチ, 小童のこと)に至迄,食料数貯置候様精 々可被聞候。猶蝦夷人共 より聯成共飯 料交易等致間敷侯事。附 り,当御場所ハ追錬取数 た入込の御場所 に候条,夷人 共浜中と親敷致間数様,浜中へ厳重 に可申聞置事」 とある 。8) ただ し,幕末期 の高島場所 では,アイヌ人 と運上屋の番人 ・雇人や二八取漁民 との接触 を厳 し

く規制 した様子 は見 られない。

他 の一つ は,春 ・秋

2

回のオムシャによる統制の強調である。オムシャでは, 幕府 の布告や場所の規則 をアイヌ人 に読み聞かせたあとで,彼等に酒食 をふる

まい,物品 を分 け与 えて,運上屋への服属 を強化 させている。次 に慶応

2

(1866

)高島場所 での事例 を 「 運上家諸用 日記」 より引用 してみよう 。 まず春 のオムシャは,小樽内役所の役人 ( 幕臣)を招 いて,

2

15

日に行 われた。

「 二月十五 日 今 日例年之通漁業前祝 として,土人共へ清酒,運上家 より差遣 ス度旨御届,御出役願,出迎三半船 ・屋形船幕打,久次郎差出ス候事。土 人水主 ・小便役壱人乗せ差遣 し,九 ッ半時頃御出役,伊沢様 ・平田様 ・藤 田様,右御三人御出役被遊,定例之通。

土人共清酒四升 ツツ行嚢二人,通辞役之 申聞ケ相済侯事。

ナク ト・ヲコヱ ・ヱ リシコロ ・エ コウシマ ・ヤ ンケ ・ホン トノ ・サ ンタ 以上七人

其余貸附,今 日漁業用鯖 さし,下帯様のもの貸附侯事。 」

4 月 24 日のオムシャは,運上屋の 3 月 20 日の大火後 の整理が一段落 したこと による臨時的なものと思われる。松前 より店長代理 を迎えての行事 であった。

「 四月廿四日 御店代宗次様 より,浜方若者一統へ,類焼見舞並二礼之詞申述 ル。浜役三四郎 ・新兵エ ・市石工門 ・又吉 ・捨左工門,浜中呼出 し申述ル。

畢而昼後土人 ヲムシャ,

御店代宗次様 ・御支配人 ・番家々々守 ・通詞中間ル

今度外用二而罷下 り侯義無之,此度 タカシマ所方火,中家一同焼失二付,

8

)余市町史編集室編 『 余市町史』第

1

巻,資料編

1

( 余市町

,1985

年 )

p.8100

(6)

場所表 も唯心配之事二存 じ,准兵工留守中ニハ侯得共,御話合様御窺,並 二土人心付 ケのため罷下 り侯。一統J hヲ用 ひ,是迄之通撫育 いた し候間, 随両漁業其外,都而御主意相貫 き侯様可致侯。右之段平土人一統 串間ル。

畢而遣ス品,

清酒弐樽 惣土人四拾三人江

玄米八斗六升 惣土人男女小児差別 なく 壱人二付弐升 ツツ

手拭壱本 永代帳壱本 ツツ 役土人 ナク ト・ヱ リシコロ ・ヤンケ 右 三人江 〆

手拭壱本 ツツ 男女惣土人四拾人へ 但役土人除キ 如此差遣ス侯事」

なお秋 のオムシャは,

8

24

日に行われ,運上屋 はアイヌ人たちに,清酒 ・ 煙草 ・縫 い針 ・ ̀ 料理等 を与えている。運上屋 はオムシャ以外 にも,年始 ・節句, 船の浜出 し,漁期の開始 と仕上 げの時期,大漁時等 に,アイヌ人 を集めて,宿 酒 や品物 を与え,酒や餅 をふるまって,彼等の運上屋への帰属感 を強めさせて いる。その際,役付 きのアイヌ人や功績のあったアイヌ人 を他のアイヌ人 より 手厚 くもてな して,彼等のあいだに競争意識 をもたせもしている。

ところで,幕府 は箱館の開港 にともない,安政 2 年 ( 1855 )東西蝦夷地 を松 前藩か ら上知 させ直轄地 とするが,その際場所請負人に対 して次のような方針 を打出 している。それは,場所請負制 は存続 させ るが,アイヌ人の取扱 いに関 して 「 人別井 に御手当方 」 は箱館奉行所の直支配 にする, しか し,運上屋がア イヌ人 を使役することは出先の役人 に願 い出れば従来 どお り認め,その際の賃 米 や撫育品 は従来 どお り運上屋 で用意せ よ, というものである。

9)

上記のオム シャに小樽内役所の役人が出張 して くるのも,この方針 に基づ くものであろう。

しか し,幕末期の高島場所 における運上屋 とアイヌ人の基本的な関係 は,松前 藩政下 と本質的に同 じであったと見 られる。

9

)安政

2

1

1月

21

日 「 箱館奉行支配組頭伺,奉行へ,東西蝦夷地請負人へ申渡 の件」

( 東京大学史料編纂所編 『 大 日本古文書,幕末外国関係文書』第

13

巻,復刻版,秦

京大学出版会

,1985

年,元版 は

1920

年刊

,p.142‑146)

0

(7)

幕 末 期 西 蝦 夷 地 高 島場所 に お ける現 地 労 働 力 の存 在 形 態

63

3

アイヌ人の人口減少 と家族形態

高島場所 のアイヌ人戸 口は,各年の 「 御場所蝦夷人別調子書」 によれば,文 政

5

年 (

1822)

41

・189

人 より,天保

5

(1834)

28

・130

人 に減少 し, 以後天保

15

(1844)24

・98

人,嘉永

6

(1853)19

・7

7人,文久

2

年 (

1862) 14

・54

人,慶応

4

年 (

1868)1

1 戸

・38

人 と漸減の一途 をたどっている。なお

1

戸平均の家族数が,天保

12

(1841)

以前 は

4.5‑4.8

人だったのが,天保

15

(1844)

4.1

人に,安政

3

年 (

1856

)に

3.9

人 に減少 し,以後 も減少傾向が 続 いている ( 第 2 表 ) 。 このことか らアイヌ人の人口減少の直接的 な要因は,

第 2 表 高島場 所 にお け るア イヌ人 の家数 ・人数 の変化

年 次 西暦 家数 人数 男 女 一 家平 均人 数 史 料 名 文政

4

午年

1822 41 189 103 、86 4.6

タカ シマ御場 所 蝦 夷 人別書上 天保

5

午年

1834 28 130 76 54 4.6

高 しま御場 所 蝦 夷人 別調 子 控 天保

8

酉年

1837 25 119 69 50 4.8

高 しま御場 所 蝦 夷人 別書 上写 天保

12

丑年

1841 25 112 66 46 4.5

高 しま御場 所 蝦 夷人 別網子 書 天保

15

辰 年

1844 24 98 .59 39 4.1

御場 所蝦 夷人 別 調子 下 書 弘化

4

巳年

1847 20 81 48 33 4.1

御場 所 蝦 夷人 別調子 下書 嘉永

3

成年

1850 19 85 49 36 4.5

タカシマ御場所蝦夷家数人別書上 嘉永

6

丑年

1853 19 77 44 33 4.1

タカシマ御場所蝦夷人別並家教書上 安政

3

辰 年

1856 18 70 40 30 3.9

御場 所 蝦 夷家 数 人別 書上 安政

6

未 年

1859 18 64 35 29 3.6

土 人 家数 人別 書 上

文久

2

成年

1862 14 54 29 25 3.9

御場 所土 人 家数 人別 書 上 元治

2

丑年

1865 13 47 25 22 3.6

御場 所 土人家 数 人別 書上 慶 応

4

辰 年

1868 ll 38 21 17 3.5

高島御場 所土 人家数 人別調 子 書

〔 史料〕 西川家文書,文政

4

年〜明治

4

年 「 御場所蝦夷人別調子書」ノ J 、 樽市博物館所蔵0

家族数の減少,とくに子供の数が減少 し,独身または老夫婦のみの家が増大す ることに求め られる。第

2

次幕領期 には,アイヌ人に対する政策が,一方的収 奪か ら一定の保護政策 と同化政策 に転換 されるが,高島場所では,アイヌ人の 人口漸減 を食 い止 めることはできなかったようである。

次 にアイヌ人の家族形態に関 しては,各年の 「 御場所蝦夷人別調子書」では,

(8)

いわゆる単婚小家族の形態が一般的であるが,血縁複合家族 や非血縁 の同居人 を複数含 む家族 もかな り存在する。各年の 「 御場所蝦夷人別調子書」の記載形 式 は, 「 人別帳」 の形式 であ り,明治初年 になると,戸籍簿の形式 に整 え られ ている。ただ し,帳簿 の記載形式 は,領主側が和人の家族形態 に即 した人別書 上 げ ( 宗門人別帳 より宗旨の記載 を削除 したもの)をアイヌ人 に適用 したもの で あ り, ア イヌ人 の現実 の家族形 態 をどの程 度反 映 して いたか は不 明 で あ る。

10)

そ こでアイヌ人 の家族形態の実態 に迫 るには,少 な くとも同一家族 につ いて,各年の記載 を時系列的 に追跡する必要がある。

ここではまず 「 御場所蝦夷人別調子書

の記載形式 を紹介 してみよう。天保 5 午年 ( 1 834 )の 「 高 しま御場所蝦夷人別調子控」 の本文最初 の部分 は,下記 の通 りである。

「 覚

惣乙名 モ シ トモ 妻

シ ンチ 惇

テ ツケ シ 妻

クヱヘ シ テ ツケ シ弟

ホ ンテケ シ 〆 男三人

女弐人

平乙名 1 ヱ ンクロ

ク ンタ リ ヱ ンクロ弟

カ メ 妻

シヨ モ 子

〆 男弐人 女弐人

以上の ように,戸別 に役名 ・続 き柄 ・名前 および男女 の人数 が記載 されると いう単純 な人別帳である。巻末 に家数 ・惣人数 ・男女数が記載 され, さらに当

10)海保洋子 「

蝦夷地の戸籍史料 につ いて‑その成立 と性格 をめ ぐって‑ 」 ( 『 北海道史

研究 』第22 号

,1980

年 )参照。

(9)

幕末期西蝦夷地高島場所 における現地労働力の存在形態

65

年 の出生者 ・死亡者 の名前 と人数 が記載 されている。天保

12

丑年 (

1841

) 「 高

しま御場所蝦夷人別調子書 」 か らは,年齢 の記載 が見 られる。その本文最初 の 部分 は,下記 の通 りである。

惣 乙名 イネタラ 六拾九才 妻 ヲサ ンコ トヱ

六拾九才 惇 ヤ ケ ク シ

三拾 四才 妻 アキ ノ

廿 弐才 惇 マ レヨ

十三才 イネタラ弟

ラルヘ カチ 五拾九才

〆 男 四人 女弐人

この例 で は,血縁 の二世代 の夫婦 に独身の弟が加 わ った家族形態 を示 してい る。 さ らに慶応

4

辰年 (

1868)

「 高 島御 場所土人家族 人別調子書」 を例示 して

名 ナ ク ト

当辰

五十

八才 娘 ヤヱ トキ

同三

十才

(10)

以上弐入内 壱人

女 壱人

( 中略)

土産取定九郎

当卯 ( ママ)弐十一才 母 ホロメノコ

同 五十一才 走九郎弟弁五郎

同 十九才 同 徳 蔵

同 十六才

娘 お りよ l

同 十三才 」

記載形式 は変化 していないが,若 い世代 に和風 の名前が多いことに注 目 した い。最後 に明治 4 年辛末 ( 1 871) 9 月の 「 後志国高嶋郡高島村土人戸籍」 の本 文最初の部分 を紹介 しておこう

「 後志国高嶋郡高島村

第一番屋敷居住 惣小便

也武牙

辛未年三十 四 妻 恵賀志羅麻

年三十 四 男 阿倍 呂

年 十九 実佐武多弟 弟 千牡計

年三十二

(11)

幕末期西蝦夷地高島場所 における現地労働力の存在形態

67

姪 恵倍於 曽麻

年 十三 」

例示 した家族 も人数 は少ないが,複合的な家族構成 を示 している。ところで, 各年度の 「 御場所蝦夷人別調子書」に記載 されている個々のアイヌ人の名前 に, 当時 の ア イヌ人 と和 人 との関係 が如実 に反 映 して いる。 た とえ ば天保

10

(1839)

までは,「 マ ンチウ 」 キンタマ」 などという,一部の和人がアイヌ人 を侮蔑的な態度で扱 って付 けたと思われる名前が見 られる。一方,第

2

次幕領 化直後の安政

4

(1857)

より,子供の名前 に,漢字 ( 男子 )やひらがな ( 女 千 )で表示 される和名が出現 し,文久元年

(1861)

には当主名にも和名が現わ れている。 これ らの点 に,幕府 によるアイヌ民族の同化政策の一端 を見 ること ができる。

高島場所のアイヌ人の全家族 を時系列的に追跡 した結果が第

3

表 である。 こ の表 の表示方法 は凡例 を参照 されたい。なお 「 御場所蝦夷人別調子書」の存在 状態か ら,第

3

表 に採用 した年次をさらに上 は天保

5

(1834)

まで,下 は明 治

4

年 (

1871

)まで延長することと,間隔を

6

年 ( 一部

7

年 )より

2‑ 3

年程 度 にすることも可能であったが,今回は時間 と紙面の関係 もあって,天保

8

(183

7)より慶応

4

年 (

1868

)までの

6

年度

,31

年間 に限定 した。 この結果 に よっても,幕末期 のアイヌ人の家族形態の特徴 と多様 な相続形式 を明 らかにす ることができるが, ここでは慶応

4

年 まで存続 した家族1 1 戸の系譜 を見てみよ ら ( 数字 は第

3

表,天保

8

年の記載順番 ) 0

〔7〕

平蝦夷 トンビ ( 天保

8

)の家系 は,樺 の平蝦夷ヱソンクロ ( 安政

3

) , 孫の土産取文之助 ( 慶応

4

)と蔽 いている

。 〔12

平乙名ホンタロ ( 天保

8)

の家系 は,博の平蝦夷ハ ンノ 、 \ラキ ( 嘉永

3

)に相続 され,慶応

4

年 に続 いて いる

。〔20

〕平乙名ヱ ンチ ( 天保

8

)の家系 は,怪の平乙名ハ ロクロ ( 天保

15)

, 孫の土産取 ウコイ ( 文久 2 )に相続 され,慶応 4 年 に続 いている。以上の 3 戸 は,血縁 あ. るいは非血縁の複合家族の形態の時期 もあるが,概 して単純 な 相続 を示 している。

〔3

〕平乙名工 ンクロ ( 天保

8

)の家系 は,弟の平乙名カメ ( 安政

3

)が独

(12)

3

表 幕末期高島場所の アイヌ人家族 の構成 と系譜

文 久

2年(1862)

車応 4

牢(1868)

◆ テ ツケ シ 3 0 ■

テ ツケ シ

36

件 カフ カ七

城 女‑一人

1

惣 乙名

◆ イ子 タラ

捧 ヤ ケ クシ 同 書 マ キ ノ 弟 り) L ・ ヘ カ

喝) 一 事 タンラ t

) 1

5

4

平 乙名 4 棒 カフケ

七1 14

◆ カフ7七

20

×

娘 ヱモ キ ラ

1

0 母 タ ンラ リ 35?‑㊨

⑤ 一事 ヱカシロマ ツ 茨 ト

妹 エモ キ ラフ

1

5

7

37

2 5

62

3

平 乙 名 1 0平乙 名

◆ ヱ ンクロ 4 6 ・ ◆ エ ン グロ 5 2 1 0平 乙 名 書 グン クリ 4 5 弟 カ メ 4 3 ● カ メ 弟 カメ 37 「厄 介男 キ シ ヒ 3 6 厄 介男 キ シヒ

4

i )同 子供 ナ シ コ タ チ1 3 同 子 供 ナ シ コ タ

チ 13

9 P L

1 2 平土 人 1 0平土 人 ナ シコ クツ 2

5

◆ ナ シコ クツ 31 芸 →妄

;

三 三 コ 芸 ㌣ 着 お とみ

20

F f i 介 男 カメ 5 5

i

4

平 乙 名

14

平蝦 夷

12

平蝦 夷 1 1 平土 人

+ トミルヱ

ケ 28 ●

トミJ L , ヱ ケ

34

× . ‑ 令 ヱ カ ンテ 2 7 ユ カ ンテ

鳩 4

. ン

妻 ウコホヱ

22

「 ヰ 妹 ホ シヒル カ

21

●妻 ホ ンヒル カ 2 相 ト

しミJ L , り 同妹 ホ ンキナ

ヨ 17

‑⑬ 弟 シフ ラ

201

倖 ヲ タホエ 4 惇 斧次 郎 弟 キ ク

14

1 妹妹 ヲ リテ ン

1

4 ‑ ‑ ・ ⑨ 娘 おかめ 妹 ヲ リテ ン

9

5 平 乙名 4平 乙名

5

平 乙名

l ◆ ア シキ

4

0 ・ ◆ ア シ

46 ◆ ア シキ 52

妻 ヤ ツサ カ

6

2 第 ヲ シ ト

シ 3 6 弟 ヲ シ トム シ 4 2 1 3 平 土 人 娘 カハ ル

4

0 弟 トク r ) 31 弟 トツ ク1 )

弟 寸 , トム ,

3

。⑭ ー同 着 ヲフケ 4 3 同妻 ヲフケ

言 ◆ 妻 三三 ;

1' ] 4

5

3

5五

弟 トム リ

2

5 兄 ヲ シ ト ム

4時 )

・相 子 リ 名 マ ナ カ ラ 乙 ロ ク チ ン 平 シ タ ト タ

6

母 弟 妹 ●

ノ 相 ツ 子 リ カ 名 マ マ カ ラ ン 乙 ロ エ ツ ン ム 平 シ ソ ト タ サ 6 父 妻 弟 妹 伯 カ カ ウ ン ン マ ヱ キ ロ ク コ ロ ッ ラ キ 夷 ヒ 子 チ 人 ン 夷 チ カ ヨ ヤ 人 夷 タ ロ ホ 名 ヨ コ マ 名 ン ワ コ ケ 名 タ マ ハ レ 蝦 ン ツ ン ー タ 蝦 ン ル シ ユ 1 蝦 ン コ ン 乙 シ ン ヨ 乙 ヨ タ ン 7 乙 ン カ / エ

叩 ト マ ホ 女 。 ‑誓 ヒ ヱ シ 女 押 キ ナ ヱ 讐 ア ヱ 讐 イ カ ヲ 平 ホ ヱ ハ ヤ 11 妻

128

9 妻 件 娘 母 妻 惇 弟 妹 惇 妹 VFrr t

1

事 件 同 事

弟 チ フ ク ケ ン カ

5平 乙名 3惣小 枝

30 ・

シロマ相 ノ 36 1 ◆ シロ マ ア イ

ノ 42

6 4⑱ 一 考 ホ ロメ /コ 33 妻 ホ ロ メ /

コ 39

1 5 娘 ヱ カシロマ ツ 14‑ ④ 娘 ヲ リマサ シ ケ1

8‑(

4 土産取

1 絹 洞 ヱ シルハ ン ヲ シマ ソ シ ケl テ H 9 同 F ‑ i三 Z ヲ ノ L, 7三 テ I I E 1 1 Tl 信 芸書

ノ 同 ヲ ス

悼 サ ダクロ 3 同 へ ンケ 8 第 弁五郎

7

平蝦 夷 棒 男‑ 人 2 同 トサホ ウ 5 同 徳哉

' 諾 弟主 . 三三 芸 冒

. 1 2 7讐

5

8 娘 11 ;芸 1 5 当 昧

2

…二 三 ク

ン 使 ン レ 助 み 中 ソ ヨ 之 う 惣 ヱ シ 文 お

2

l 1 9 6 3 2 5 1 1 1

コ ノ 取 郎 メ 郎 よ 産 九 口 五 戒 り 土 竜 ホ 弁 徳 お

4

母 弟 同 妹 ●

557

3 1 7

141

1 1

¢ 棒 エ ソ ンク ロ 29 ◆ ヱ ソ ング ロ

‑同 委 シヨレ ン 3 3 妻 シヨ レ ン

⑯ 同 伴 モ ツココ イ

5 惇 モ ツコ コエ 同 娘女一 人 当 厄 介 女 コ ンキ ツ 倖 トツコ イ 同 7 ン/くり

8平 鞍 夷 ⑩ 1 3平蝦 夷 同 ウ ン トコ ′

◆ シユ ヤ ン

ケ 21

● ◆ シユ ヤ ン ケ

母 ヒ ル カ

62

分 母 ヒルカ 娘 ホ ンヒル カ 1 5」④ ‑妻ホ ンキナ ヨ

件 トツコイ

9平蝦 夷 地 女一 人

◆ チ コ ロヱ ン

34

× 妹 ヱ ンホ キ

18

1 0脇 乙名

◆ ヲ シ ヨロ

「篭 孝 吉 ;三 二 ● 母 妻 伯 姉 3 父 惣 ナ ヤ ク ラ カ 小 ク ツ ラ ル ハ 佳 ー サ マ ヘ ル カ ニ カ

8

0 誕

4

名 コ ケ 乙 ン フ 平 カ ヲ

4

4853

1

8

4

ケ ロ チ ラ キ ヱ 名 ク マ ハ レ カ 乙 ン カ / ヱ マ 平 ホ ヱ ハ ヤ ク

2

同 弟

' 'L

ケ ロ 7 7 コ カ コ コ テ キ シ ノ 名 シ カ レ ン マ レ メ 人 乙 コ ツ ロ カ ニ チ ロ 一 坪 エ テ シ ユ ト 男 ホ 女 l 介 妻 娘 要 件 同 同 厄 同 同 妻 惇 同 同

平 乙名

× 27 68 ㍑ 3 当

娘 女一 人

1 惣乙名 40 ◆ ナ ク ト

6

8 母 ヤ ツサ

51

事 クラマ子

チ 6

8 「悼 ヤヱ レ

4 時 甘‑ l l i l i H ' ユ

辛 事 件 娘 I 諮 調 15 2 9 9 5 3 当 キ ヨ

7

3

取 助 み 産 之 と 土 文 お 7 妹 ◆

1

4 1 7

4

.4. 1

8

0

5

3 キ 名 ト ト 乙 ク エ 惣 ナ ヤ 娘 ◆ 52

3

6 加

キ キ 名 ー レ ト 乙 ク エ ヱ 惣 ナ ヤ ヤ ‑ 事 件 同 ◆

4 6 7

357l

17

平蝦 夷

15

平蝦 夷 1 0平土 人

ハ ンハ ラ

2 8

+

ハ ンハ ラキ 34 ◆ ハ ンハ ラ キ

母 ヱ カマ ツ

59

① ⑧ 一章 ソ ノコ

弟 ヤヱ レキ 2相 」 悼 辰 作

同 勝東

「 ‑ ¢ 書 見ユ か )コ ロ

4 3

0

4 1

1

キ 17 人 ハ 土 ン 蔵 蔵 平 ハ 辰 勝 9 件 同 ◆

40

2

6 7 4

エ コ シコ 7 67 1

テツ カ

5

3 8 平 乙名 ⑩ 8 平 乙名 7 土 産取

シロ レ 23 ◆ シロ レ

29

◆ シロ レ

34

◆ シロ レ

40

ユ カ ンテ

1

6 母 テ ツカ

55

分 母 テツ カ

6

5 母 テ ツ カ

7

1 5土 産取 卜二 マキ コロ

1

2 弟 ユ カンテ

21

」⑱ 一書 ソ ノコ

2

0‑@ ヱ コラ ン マ 30 + ヱ コラ ン マ 36

厄介男 チ レシカ

7

3 4 1 同 卜二マ キ コロ

1

8 第 卜二マ キコロ

2

4 ⑨ ‑同書 オリマすシケ

2

4 妻 ヲ リ

ソシ ケ 29

同娘女 一 人

2

娘 お か

10

(13)

幕末期西蝦夷地高島場所 における現地労働力の存在形態

^= 保 8 年(

183

7

)

⑩ 天保

15

(1844)

嘉 永 3 年

(1850)

・ 女

児 3it=r1856)

1 41 7 ・ Z, Y,

クマカ 1

芹 昌一 LX カ

15

平蝦 夷 タフカキル

# カク 作 ユ カリコロ 弟 ア ンコ 外 女 ‑・ 人

16

平蝦 夷 イ トンへ 孝 ホ ンへホ 同妹 ウ ンタヌヱ

17

小 便 カシヲヱヘ 孝 クツラマ二 悼 . ホ ロナ 同著 クンネコ

1 8 平 乙名

イ ナケ

×

丈久

Zfl:tlR62)

慶応 4 年 ・ ( 1 8 6 8)

16

平蝦 夷

18

平蝦 夷 ⑩

+ タフカキ

ル 48

◆ タフカキ

ル 5

4

16

平蝦 粥 i 3 L 仲 ユ カ リコ

ロ 12

梓 ユ か ノコ

18

◆妹 ユ か ノコ ロ 2 4 」 娘 ソノコ 8 娘 ソ ノロ

14

‑( 勤 チャへ コ 1 6 弟 ア ンコ

37

弟 ツケモ ノ

4

3

同娘女=‑人

4

同娘チヤベ コ

10

・妻

1

号 警… 日 長 宗 主三 言

7 …2

. 讐 讐 ヵ

7 3

1 5 平蝦炎

⑳‑同著キ ンニ ッ

2

9 妻 キ ンニ ッ

35

.7

, , t T i 漂誌芸‑ * ・ ヱキ 芸F 志介誓 呈芳 4 ㌢ ③

+ カシヲヱ

ヘ 5

6 11 平蝦夷

17

平蝦夷

件 ワウカ ク

29

● ワ ノカク

3

4 + ワッカ ク

4

( 仁〉 「

同著 クン子 コ

2

5 書 ク ン子 コ

3

1 委 クン子 コ

「37

⑤ 3 脇小便

2惣小便

同娘 クラコ

4

娘 クラコ 1 0「 ‑ ⇒ 件 ヤ ンケ

20

◆ ヤ ンケ 26 J + ヤ ンケ

31

同娘女一 人 当 事妹 ヤ イ トキ

13

娘 クラコ 」

1

6 ‑⑫ 父 テ レシカ

7 5

0 妻 ヱ カシラマ ツ

32

同 書妹ヤエ トキ

7 1

㊨ ‑賓 ヱカシロマツ

2

6 第 七ヱホキ

29

書 キ 二 ノ

妹 タエロ二 子

19

平乙名 l

18

平 乙名 7 並小 便 ヱ カサ ン テ ⑩ ◆ I ・ =カサ /テ

60

ヱ カサ ン

テ 66

妻 タクチ

i)

L t〉悼 ヱ カ ンラ

ヱ1 3

9 娘 ヲキ ク 2 2 i ) 7 平 乙名

8

6

3

6

∴ 件 ナ ク ト

同書ホテ シハ 同妻妹 ヲキ ク

20

平 乙名 妻 カク ミ 件 エ トノ7 弟 ハロ グロ 同着ホ ンカラフ 同惇 ウコヱ 同娘女一人 弟 ハ ッカ ク7

21

平 乙名 チェ コヨフケ 妻 ルカク ミ 同伯父ヱ ン ト

.L / ト悼 キ シヒ キ シヒ妻 ヲ ヨ

2 2平 乙名 二へ カナ 件 シヱ シヨ 同 ヱ カシホ リ

」 ⑳ ‑同 書 シヨレン 同悼 キ トラ ン 同娘 ヲキアナ ミ 同伴ヤ ンケ

同伴七ホキ 同伴男一人 ノナケ妹 ヲキ リ

2 2平乙名

◆ ハロ クロ

母 カク ミ 妻 ホ ンカラフ 惇 ウコヱ l娘 マサナ イ C, 弟 ア ンコ

」妹 キ ンニ ノ

2 0平 乙名

◆ ヱ ン ト 悼 キ シヒ 同伴ナ シコ

キ トラ ン

20

キ トラム

ヤ ンケ セホ キ

14

」 「架 ス

IL

12

i )同事 ヲキ ク l弟 セホ キ

ム リ キ ヨ 取 ラ ラ ホ 人 シ リ 産 ト ン ヱ 土 ヱ ・キ

誓 誓 岬 シ ヲ

! t . . ・ ⊥

2

4

21

フ 一7 ン 取 イ カ テ み ‑ 産 コ ン リ と ふ 土 ウ ホ ヲ お お 8 母 著 娘 同 ●

023

0

5422

7

ロ ラ ン 名 ク カ イ テ 乙 ロ ン コ リ 乎 ハ ホ ウ ヲ 9 着 事 件 同

∵ 了

.h

ロ ラ カ イ カ ク 名 ク カ へ イ ナ ル マ 乙 ロ ン 二 コ サ ー ト 平 ハ ホ 父 ウ マ ウ シ 9 伯 仲

⑩ 欝 7 ⑨h

1

8

3 16

平蝦 鵡

l

/エ ノ

3

コ ヲ タ

2 3平 乙名

‑ ◆ 二へ カナ 悼 シヱ シヨ

同 ヱ カシホ

') 2

2 「弟 ホ ン ト

冨 ま 芸 トノ 1 母 1 1 = ,モ ノ ヱ クワ

戸 冒妻 三言 7 弟 カケ

76

8

(U3212]

「コ ノ ソ ′

3 3

×

3 3

53

1 11 平土 人

49

◆ シヱス ヨ

55

33L O 高妻 三三号 1 '

jg;

弟 カケ

37

I . . .I・. . 2 42 1

3 脇小便 ウコイ ホ ンカラ フ ヲ リテ ン おふ く

溺 a ;32 1

i)

14

平蝦 夷

9

土産取

6

土産取

◆ ホ ン ト/ 32 ◆ ホ ン トノ

37

ホ ン トノ

43

妻 ヲキハ ツ

ミ 2

4 着 ヲキハ

弟 カケ

2

6 弟 カケ

2 3平乙名

19

平 乙名 キ ン トキ .

キ ン トキ

41×

妻 シヨレン 叫 ⑯ ㌔ 書芸呉 カル

コ 芸

伯父 クンナエ

2

4平乙名 C

者 ホ ンサ t 一 一

l

カケヤ

31

, + カケヤ

37

◆ カケヤ

同 カケヤ ◆ カケヤ

2

5 J 同委モ ンラヱ

25

同娘 ヲソメ 8 C, 伺娘 おそめ

娘 女一人 妹 モ ンラヱ

19

同娘女一 人

2

」厄介男 ワッカ ク

25

平蝦 夷

24

平蝦 夷 1惣乙名

2

脇 乙名

ヱヘチ カラ ◆ ヱヘチカ ラ 48 ◆ ヱヘナカ

5 4 ・ ◆ ヱヘチ カ

ラ 6

孝 ケ シヨマ ツ 妻 ケ シヨマ ツ

4

7 事 ケ シヨマ

5 3 要 ケ シヨマ ツ 5

9

件 キ ンハチ 悼 キ ンハチ 1 5 ・ 搾 ヱナヲフ

2 1 惇 ヱナラフ

二 27

3

0 着 ウキハツ ミ

36

170542

ク イ 人 力 ラ 土 ツ ン 染 平 ワ モ お 8 着 娘 ◆

3745431

.

4

1

合計2 5

.1

1

9

人 (

r769

・女

50)

合計2

4

,98

人 ( %5 9 ・ *39 )

合計1

9

85人 ( 男

49

・女

36)

合計1 軒

,70

人 ( 男

40

・女 3 0 )

合計1

4

,5

4人 ( 男

29

・女

25)

合計 11 軒

,

38人 ( 男21 ・女

17)

69

(14)

3

表 幕末期高島場所のアイヌ人家族 の構成 と系譜 :凡例 記載順番 と役名 年齢 ( 当は当歳)

嶋 は前年度 と同人 当主 を基準の続 き柄

⑨‑ 前年度

9

番 の 家 よ り嫁取 り

4

平 乙名

カフカセ

2

母 タンラ リ

35

㊨ ‑妻 ヱ カシロマ ツ

20

凸 惇 男一人 当 ⑫

× 当年度 と次年度 の間 に断絶

「 a , 次年度 ( 編入先 には右

1

2 番の家 に編入 L t s .

⑫ のよ うに示す)

‑⑮ 次年度

15

番の家へ嫁入 り ( 肇入 り等 も)

〔 史料〕西川家文書,文政

4

年〜明治

4

年 「 御場所蝦夷人別調子書」小樽市博物館所蔵。

身で相続 したが,嘉永

3

年か ら同居 していた厄介男キ シヒの子供の平土人チ シコタツ ( 文久

2

)に当主の座 をとられ,カメの方が厄介男 になっている。

〔6 〕平乙名 シロマ相 ノ ( 天保 8 )の家系 は,怪の土産取定九郎 ( 文久 2) が相続 したが,嘉永

3

年 に当主 シロマ相 ノの妻 となっていたホロメノコは, 天保1

5

年以後平乙名エ コシコフの厄介男 テ レシカフと別れ,娘

3

人 を連れて きた女である。文久

2

年以降,母のホロメノコ以外 は全員和名 となっている。

10〕脇乙名 ヲシヨロカク (

天保

8

)の家系 は,養子の惣小便ナク ト ( 嘉永

3

)が相続 しているが,ナク ト自身は

19

平乙名ヱカサ ンテ ( 天保

8

)の 博で,天保1

5

年 ヲシヨロカクの家 に入 っている。ナク トは安政

3

年 に今度 は 平蝦夷ハ ンハ ラキ ( 嘉永

3

)の弟ヤエ レキと平蝦夷 ワッカク ( 嘉永

3

)の妻 の妹ヤイ トキを夫婦養子の形で迎 えている。

13〕平乙名エ コシコフ (

天保

8

)の家系 は,怪の平乙名 シロレ ( 嘉永

3

) , シロ レの弟の土産取ヱ コランマ ( 慶応

4

)に相続 されている。 この家の相続 関係 は単純 であるが, 天保

8‑14

年の厄介男テ レシカフの存在 に注 目される。

彼 には妻ホロメノコと娘が

3

人あったが, 嘉永

3

年 に妻 をモ ンラヱに替えて, 妻モ ンラヱの兄の平乙名カケヤの厄介男,安政

3

年 には独身で,平蝦夷ホ ン

チカフの厄介男 になり,文久 2 年 には脇小便ヤ ンケの父 (

?

)となっている。

17〕小便 カシヲヱヘ (

天保

8

)の家系 は,博 の平蝦夷 ワッカク ( 嘉永

3

) ,

ワッカクの養子の脇小便ヤ ンケ ( 文久 2 )に相続 されている。ただ し, ワッ

カク自身は文久 2 年独身で,土産取 カケヤの厄介男になっている。ヤ ンケの

(15)

幕末期西蝦夷地高 島場所 における現地労働力の存在形態

71

万 も安政

3

年 ワッカクの娘 クラコの聾 に入 り,文久

2

年 には平乙名 カフカセ の寡婦ヱカシロマ ツを妻 に し,当主 になっている。

19

〕平 乙名ヱ カサ ンテ ( 天保

8)の家系 は,孫の平乙名キ トラム (

安政

3)

が相続 したが,文久 2年以降キ トラムの死亡 によ り断絶 したと思 われ る。キ

トラン自身は,・ 平乙名 ノナケ ( 天保

8

)の伯父ヱ カンラヱが平 乙名ヱ カサ ン テ ( 天保

15)

の家 に夫婦養子 で入 った時の連れ子 である。安政

3

年ヱ カサ ン テの娘 ヲキクに筆入 りしたスヱ シヨが,文久

2

年 には平土人 シヱ シヨと して 独立 し,慶応

4

年 に続 いている。スヱ シヨ自身は,次記の平乙名二へ カチの 怪の平蝦夷 シヱ シヨ ( 嘉永

3

)であ り, この家の相続関係 は複雑である。

22

平乙名二へカチ ( 天保

8

)の家系 は,怪の平蝦夷 シヱ シヨ ( 嘉永

3)

, シヱ シヨの弟の平蝦夷 ホ ン トノ ・ ( 安政

3

)に相続 されている。ただ し,二へ カチの憧 ホ ン トノは天保

15

年 には平 乙名 と して一時独立 し,嘉永

3

年 には平 蝦夷 シヱ シヨの家 に戻 っている。慶応

4

年 には,平土人ユ カンテが妻ヱ ミル ワンテ ( 安政

3

年 の惣小便 シロマアイノの娘 )■ と子供

3

人 を連れて,土産取 ホ ン トノの家 に合宿 している。ユ カ ンテは

〔4

〕平 乙名 トミルヱケの系統 で, 安政

3

年 に トミルヱケの妹 ホ ンヒルカに聾入 りした男で,本来 は

13

平乙 名エ コシコフの博 であった。 したが って,ユ カンテとホ ン トノとの間には血 縁関係 は無 いものと思 われる。

24

平乙名 ヲシヘ シ ( 天保

8

)の家系 は,怪 の平 乙名 カケヤ ( 天保

15)

に 相続 され,ついで

17

〕小便 カシヲヱへの系統か ら文久

2

年厄介男 と して入 っ てきたワッカクが,カケヤの妹モ ンライ ( 嘉永

3

年 には例の厄介男テ レシカ フの妻 であった)と夫婦 になって相続 し,慶応

4

年平土人 ワッカクと して当 主 にお さまっている。

ここでは説明 を単純化するために,近代の 日本人社会の家族概念で説 明を加

えてみたが,近代社会の通念 では理解 しがたい流動的な男女関係 が,家族構成

員 の離合集散 を引 き起 していると思われる。 また厄介男 とされる存在 も,その

系統 をたどると,妹や娘がいる家族 に身 を寄せた り,夫がいない婦人の家 に入

りこんだ りしている事情がわか って くる.ただ家族構成 を複雑 に した要因の‑

(16)

つ として,複合的な家族構成の成立事情 を見 てみると,慶応

4

年のホン トノの 家の合宿人ユカンテのように,血縁関係が全 くないと思われる場合 もあ り,人 口の漸減 を避 けるための運上屋等 による強制力が考え られる。

4

アイヌ人の労働力編成

高島場所では,運上屋 による漁場経営 は,運上屋の直轄部分 と

3

ヵ所 の番屋 が管轄する部分 とに分かれていた。 ここでは,運上屋の直轄下 における,慶応

2

年 (

1866)1

年間のアイヌ人の作業状況 を第

4

表 に示 した。運上屋の主な作 業 を漁労 ・加工 ・船 ・運送 ・材木 ・山 ( 仕事 )・普請 ・( 役所 )御用 ・運上屋 ・ 雑の

10

項 目にわけ,月別 に一覧表 に した。例 によって 「 運上家諸用 日記」 によ

り,

3

人以上が同 じ日に同 じ作業 に従事すれば

1

件 とした。アイヌ人 と和人が 同 じ作業 に従事 した場合 は,人数の過半 を占める方 に分類 した。ところで慶応

2

年当時高島場所 には,アイヌ人が

1

1 戸

・44

人 ( 男

23

人 ・女

21

人 )住んでいた が,一人前の労働力た りうる

15

歳以上

,55

歳以下の者 は男

18

人 ・女

15

人,合計

33

人であった。

11)

一方後述の ように, 2‑

4

月の

3

ヵ月間の錬漁期 に,サルの アイヌ人

18

人 と白老のアイヌ人

8

人,合計

26

人の労働力が導入 されている。 し たがって,第

4

表の

2‑ 4

月の作業 には,運上屋の直轄下 に配置 された導入 ア イヌ人1

4

名が担 った分 も含 まれている。

高島場所 におけるアイヌ人の労働 は,第

4

表 に具体的に示 したように,春先 の雪切 り ( 除雪 ) ,山仕事 ( 薪取 り ・木皮 はぎ) ,漁具製造,春の錬漁期の加工 作業 ( 錬つぶ し ・錬 さき ・身欠 ぬき等 ) ,山菜取,夏の漁業 ( 飽突 き ・昆布取 り) , 小船 による土石廻送,材木 ・薪の横取 り,秋 の鮭漁の手伝 いや鮭の加工 ・収納, 山仕事 ( 茅刈 り ・ ー 薪取 り) ,冬の薪割 り ・薪積みと山仕事等である。 これ らの 作業のうち,主 に女子が行 った作業 は,冬期の雪切 り ・薪割 り ・わ らたたき ・ 綿糸打 ち,蔵の整備等運上屋周辺の雑用,山菜取 り ・木皮 はぎ等の山仕事,役 人宅への届 け物の運搬等であ̲ つた。 もとより錬漁の最盛期 には,男女の別な く 錬つぶ し ・錬 さき ・数の子選 び ・身欠ゆい等の加工作業 に動員 された。またア

ll) 西川家文書,慶応 2 年 「タカシマ御場所土人家数人別書」小樽市博物館所蔵。

(17)

4

表 慶応

2

年(

1866)1‑12

月,高島場所運上屋 の管韓下 におけるアイヌ人の作業状況

1 月 2 3 4 5 6 7 8 9 10 月 11 12

漁 労 網打ち 1 夏漁場出漁飽突 き 11 夏漁場出漁昆布取 り 11 大保網漁網糸打ち 11 網糸打 ち 1

加 工

煉つぶし 2練釜たき 1錬つぶ し数の子選び線さき考欠ぬき 2212身欠結い納屋おろし1胴錬結い 11 鮭切り蝕魚背負い1蔵に練背負い1鮭手かえし12

積込み手伝1

運 送 擢運び 1魚運搬 L1 石 .土回送荷物出納 22石 .土回送1 三半船回送1 土背負い薪山へ飯米送 21 歳暮運搬薪山へ食料運11

普 請 足掛打ち 1蔵の整備 1蔵普請 1

御 用 役人接待 1 役人宅届け物1役人宅届け物2

蓮上畠 逃亡者探索高札取付け11 蔵片付け 1

注〕数字 は件数で

, 3

人以上 が同 じ目に同 じ作業 に従事すれば

1

件 と した。

アイヌ人 と和人が同 じ仕事 に従事 した場合 は,人数の過半 を占め る方 に分類 した。

史料〕慶応

2

年 「運上家諸用日記」 (越崎宗一

〔1 9 6 3

〕所収 )0

胡 穎 蓋 温 帯 淑 暴 動 肝 癌f 3‑G B; 改 耳か 灘碁 雄藩 j ] o) 科 料 苛 醸 7 3

(18)

イヌ人たちが何 日も泊 りがけで山に出かける時は女子 も同行 し,男子同様 に山 仕事や材木の運搬 に従事 したことはいうまでもない。

要するに,アイヌ人の労働 は, 1 年間を通 じて比較的単純 な作業で,運上屋 の経営か ら見れば補助的な仕事 に向 け● られていた

しか し,アイヌ人に与えら れた休暇 は,新年 ・オムシャ ( 年

2

回1 ・祭礼等の他 は,正月 と1

2

月に各

7‑

8

日にすぎず,とくに春期の錬漁の

3

ヵ月余 りは,練の加工作業 に追い廻 され ている。一方,小船 による薪 ・材木の横取 りや薪取 り ・木皮 はぎ等の山仕事 は, アイヌ人 だけで仕事場 に泊 りがけで出向き, 和人の番人 は

1‑ 2

人が付添 うか, 時 たま見廻 りに来 るだけで,アイヌ人達 はかな り自主的に作業 を進めていた。

次に第

5

表 に,運上屋の直轄下 における

1

年間の作業件数 とそのなかでのア イヌ人および二八取漁民が分担 した件数 を示 してみた。

12)

表中の「アイヌ人」は 第

4

表 に示 した件数 を合計 したものである。「 手伝 い」 は,和人の二八取漁民 が動員 された件数であ り,練漁業や錬加工,それに運上屋 の普請等 に 1 日に数 十人の規模で動員 されるものが含 まれている

この表か らいえることは,やは

り運上屋の経営の中心 をなす漁労 ・船 ( 弁財船の入港時の荷役等 ) ・普請 ( 焼 失 した運上屋 と倉庫群の再建 ) ・役所御用 ・運上屋の経営業務等の作業 に占め るアイヌ人の分担量 は少ない。一方漁獲物の加工,漁獲物 ・木石の運搬,材木 の伐出 し,各種の山仕事,運上屋周辺の雑用等 に占めるアイヌ人の分担量 は, かな りの比重 を占めていることがわかる。

注 目すべき点 は,錬漁の開始直前か ら錬加工がほぼ終 了するまでの

3

ヵ月間 に,他の場所 よりかな りのアイヌ人が雇 い入れ られていることである。慶応 2 年

(1866)の場合,運上屋 は正月19

日か らサル場所の請負人土 印 ( 山田文石衛 門家の屋号 )や㊥印 ( 店名不明)にアイヌ人派遣 の交渉 をはじめ,

2

6

日に 次のようにサルのアイヌ人1

0

人 を高島場所 に迎えている ( 以下の引用 は 「 運上 家諸用 日記」 による) 。

「 二月六 日 久次郎土人迎 として,曇̲ ㊥印へ差遣 て,( 中略)九 ッ半時曇̲ 土人

12)

和人を含めた運上屋全体の具体的な作業状況については,前掲論文,長谷川伸三 「 幕

末期西蝦夷地 における場所経営の特質一西川家高島場所 の事例 ‑ 」 の第

9

表参照。

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