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新しい彼岸一リルケの詩作世界に棲むもの一

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新しい彼岸一リルケの詩作世界に棲むもの一

市田せつ子

(人間科学)

中二階につながっているという、いつもは閉まっているはずの扉が徐々に開いた。僕が 好奇心と驚きのために思わずそちらへ目を凝らすと、扉口の暗がりの中に淡色の衣をま

とった細身の女性が現われて,そのまま,ゆったりと僕たちの方へ近づいてきた。

『マルテの手記』

1.破壊の世界への入りロ

ハイデガーによるリルケ像一神の遠ざかった乏しき時代に神を取り囲む大気

(Ather)の元素「神聖」を呼び起こそうとした詩人一を一方の極におくな ら,1)その対極は,さしずめ精神分析による解釈とその結果浮かび上がってく る症例としてのリルケであろう3)さらに今日に近づくほど,リルケの詩作の直 接的な意味解釈ではなく,作品から距離をとって,政治的社会的視野における 位置づけを試みる論も出てくる8)1990年を生きる者にとって,文学と社会・政 治の関連を捉えた上で,ある書き物を生みだした個人にこだわるとすれば,そ の作品世界の住人の中で,誰が最も全面に現われくるか,という読者としての 体験から出発するしかない。論者にとってそれは,「神」でも「天使」でもな く幽霊或いは魑魅魍魎と呼べるような存在である。リルケの芸術を支えていた 彼独自の彼岸を考察することがこの論の目的である。普通,彼岸といえば死を 契機として展開される世界である。そして,神やそれに付属する天使等,宗教 上の形姿も当然彼岸の住人といえるだろう。ここで彼岸の住人である幽霊にこ だわるのは,リルケと宗教の断絶を語ることになろう。

  さらに,「彼岸」ということばをリルケの詩作品全体に股がる構造を示す

(2)

鍵として用いることも可能であると思われる。リルケはメーテルリンク論の中 で「夢の中では,本来別々の感情の領域に含まれ,現実には舞台を移し替えな ければ展開が不可能であると思われるような筋が,睡眠の加護の下で起こって きます。夢の中ではすべてが一つの場面で進行するのです。」4)と言い,メーテ ルリンクの作品がこの夢の性質をもつとする。ここで「一つの舞台」を一つの 詩と考えれば,このコメントはそのまま,『新詩集』中の幾つかの詩の解説に なるだろう。「白鳥」という詩を見てみよう。

白鳥

まだなされていないことの間を/重く,鎖に繋がれた慮囚のように進む苦しみは/白鳥の

ぎこちない歩みに等しい。//

そして死ぬということ,/私たちが毎日立っているあの地面に,もはや足がついていな

いことは/白鳥の覚束ない入水…//

鳥を柔らかく迎え,/幸福そうに,うたかたとなって/一波,一波と腹の下から身を引い ていく水流,/白鳥はこのうえなく静かに,落ち着いて,/成熟し,王者になり勝り/威 風堂々と進む。//5)

ハンブルガーはこの詩の中で,wieによって結ばれた「比較するもの」「比較 されるもの」の二層の構造が最終詩節で崩れ,先行する像を欠いたまま直喩で あった「白鳥」が専ら語られていることに着目している。彼女によれば,詩の 本来のテーマは「白鳥」であり,先行して語られる生から死への移行こそが,

「白鳥」の動きを描く「比較されるもの」である:)しかし,リルケの言ってい た,異なる要素の同時的な進行という作品の在り方をここにあてはめて,「白 鳥」の動きと生・死の推移の双方を「一つの舞台」で進行させる見方の方がよ り自然であろう。いずれにしても,wieで明示されていたはずの現実と非現実 の境は破られ,相互に侵し合うことになる。リルケの作品に現われる非現実の 層をすべて,「彼岸」ということばでまとめることは乱暴かもしれない。しか

し,非現実の層に死が関わってくることは,この詩における限り,真実である。

ここで論ずる「彼岸」は,死を越えて,一つの絶対的な差異として現われる非

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新しい彼岸一リルケの詩作世界に棲むもの一       33 現実の層,「ここ」に対する「あちら(彼方)」を指す記号へ広がっていくだろ

う。だがまず彼岸の直接の契機である死とリルケの関わりを見てみよう。

  リルケは,『手記』と『体験』を1913年に手帳に書き付け,その一部を 1913年に発表した。本来,覚え書きであったこの文章が一部であれ自身の手で 公表されたことは,その内容が同時に芸術家としての宣言でもあったことを示 す。13年から19年の間には第一次世界大戦という限界的な状況の体験が挟まれ ており,戦争がリルケにとって創作生活の中断を意味したことは伝記上の事実 である。それゆえ,公表には,芸術家としての将来への展望も関わってくるだ ろう。これら二つの覚え書きに共通しているのは,それが死者の目線によって 貫かれていることである。「もうとっくに彼は自由だった。もし,彼が死ぬこ とを妨げるものがあるとすれば,彼がそれを見通してしまったこと,即ち,他 の者のように,それへ向かって進むのではなく,それへと逆戻りしなければな らないという,唯一それだけの事情であった。」7)と始まる,『手記』の冒頭が,

視線の在所を宣言している。続いて書かれた『体験』でも,自身のいる屋敷に 付属した墓所に棲む死者との親しさが語られる。その親縁性は,一体どのよう な兆候によって確かめられているのか。それは肉体的に確認される。さらに,

己の立つ場をリルケは「人間的なもの」から切り離された状態だとしている。

彼が「人間的なもの」との齪酷を別の箇所で繰り返し嘆いていることからもわ かるように,この語は哲学的な思索以前に,人と過ごした体験を指すだろう。

社会に不適応であった体験は彼に社会制度批判のエッセイを書かせたが,同時 に幽霊との親近性を深めたといえなくない。『体験』の次の箇所からわかるよ うに,「人間的なもの」から離れていることは,彼の芸術の条件であった。

彼は,またある南国の庭で過ごした一時を思い出した。それは,鳥の鳴き声が外界と彼 の内側で同時に響き合い,彼が肉体の境界で折れ曲がらずに,体の内と外を途切れない 一つの空間に合わせた瞬間であった。何か神秘的な力に守られて,限りなく澄んだ,限 りなく深い意識が一点残されているだけであった。(…)彼の生涯の初めから,大気の 荒々しい疾走や幾重になって流れる清らかな水の様,そして雲の雄々しい出現が彼の心 をゆすぶり,人間的なものの中に手応えを得られなかった彼の運命として,魂に迫って きた。最近の体験からくる影響を経て,彼にはこういった関係に身を委ねることは最終

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的に確定されたことのようだった。人間と彼を柔らかく分けへだてるのは,一つの清澄 な,輝いているとさえ思われる境界空間だった。そこを通って個々のものが渡来するこ とはあった。だが,結局はその空間が,生まれてくる関係の夫々を吸い上げて,飽和し た後には,様々なだまし絵を描く煙となるだけであった。(…)彼にはそれ[隔絶]が人 間に対するある種の自由を保証しているように思われた。それは貧しさへ至る第一歩で あり,その分,彼は軽くなった。互いに望みを託し,心配し合う者,これら生と死の間 に縛り付けられた者たちの間にあって,彼は易々と動くことができた』)

  死者リルケの形作る,生身の人間とも肉体とも隔絶した,しかし事物のみ は語りかけてくる,一つの彼岸。『ドゥイノーの悲歌』注釈のために書かれた フレヴィッツ宛ての有名な手紙で,リルケが「生と死の肯定は『悲歌』の中で は同じこととして示されます。(…)生の真の形象は双方の領域に股がってい ます。より大きな循環系の血液は双方を流れるのです:此岸も彼岸もありませ ん。在るのは我々を勝る天使が住処としている偉大な統一です。」9)と述べてい るにもかかわらず,我々は彼が否定している「彼岸」をキリスト教での術語に のみ限定して,やはりこのことばに固執しなければならない。そもそも,或る ものと或るものを近付け,統一させる行為は,両者の間の相違が自明であるか,

或いはこれを定義づけなければ成り立たない。そして,もし後者の道を採るの であれば,我々は両者の差異について了解してからでなければ,その上に立つ 統一についても語れないだろう。即ち我々の目の前には初めに差異が,そして 統合が現われてくるからである。リルケが示すのはまさにこの過程である。

『体験』で描かれた,事物との交流の場はすべての「人間的なもの」と隔絶し た死者リルケの棲む場であった。誰もが「固有の死をもつ」ことを考えた彼に

とっては,死も万人と分かち合う以前に純粋に個人的な体験である。死はそれ ゆえに描かれる価値があるとされた。それは「死」を新たに定義づけ,創造す ること,『時梼詩集』のことばでいえば,「死」を「産む」行為にほかならない。

我々の目の前にはまず境界づけられた死が現われてくる。

  では死そのものについて語っている詩行を拾ってみたい。『ドゥイノーの 悲歌』の始まりと終わりである第一,第十悲歌は共に死者の空間を歌っている。

夫折した死者のさまよう空間を描いた第一悲歌は次のように死の空間を開く。

(5)

新しい彼岸一リルケの詩作世界に棲むもの一      35

(…)

   もちろんおかしなことだ。この地上にもう住まないこと,/まだ覚えたての習 慣をもう続けないこと,/約束事をする薔薇などから/人間の未来を占わないこと,/

手でこわごわと包んでいた,私というもので/もはやないこと,自分の名前も/壊れたお もちゃのように置き去っていくことは。//

  おかしなことだ,望んでいたことをもはや望まないこと,おかしなことだ/関わり 合ったすべてが,空間の中でほどけて/ひらひら舞うのを見ることは。(…)10)

  死の体験は生からの別離,遠ざかる感情を基盤としている。同時にそれは,

壊れていく感覚でもある。物すべてが浮遊する,磁場を失った世界が現われる。

『悲歌』の冒頭を飾り,悲歌を出発させる舞台となるのは,ちりちりばらばら に砕け散ったものが細かな粒子となって勝手に運動している空間であった。破 壊は,生命をもった肉体ばかりでなく,世間的な意味関連,約束事,社会的な 関係,そしてそれらを包摂する言語にも向けられる。死とは破壊に充たされた 場である。

  破壊とは,言い換えれば無に帰すこと,何もない状態へ復帰させることで ある。やはりリルケの好んで用いた語であった「幼年時代」も同じ想念に連な る。「芸術とは幼年時代なのです。」11)「人類最初の人間であるかのように,あ なたが見,体験し,愛し,失うものを言うように努めてご覧なさい。」12)という リルケの若い頃の発言を踏まえるならば「幼年時代」もまた, 何もない 出発 地点を意味している。「死」や「幼年時代」という人生における特殊な時期と 芸術の結び付きは,芸術家を普通の人間が或る一時期にしか経験できないもの を感知できる、神の庇護の下にある者として浮き立たせる。

  しかし,実際には,彼に詩の創作を技と心得る,近代的な職人肌の詩人の 顔があったことも明らかである。「死」を「産む」ことは,上に描かれた破壊 を芸術創造の原理に据えることである。破壊の意図性を傍証するためには,彼 の否定した「彼岸」を見ることも役に立つだろう。そこで,リルケの神との付 き合い,そして,神から天使へ彼の関心の移っていく様を述べる。リルケの芸 術の成り立ちに,彼独自の「彼岸」を据えるこの論の上では,破壊がまず彼に

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とって既存の「彼岸」に向けられること,そしてその後に純粋に個性的な「彼 岸」が構想されたことを述べるのが自然な論の運びになる。

  西洋の言語・社会・政治制度までに浸透したキリスト教に対するリルケの 批判について,ここで改めて繰り返すまでもないだろう。「もしも,神々がい るとしても,我々はついぞそれを知ることにはならないだろう。我々が彼らの 一部を知っていることだけで,彼らを壊す十分な理由があるからだ。」13)という 彼の発言は,キリスト教に限らない,既存の神への破壊の意志であると受け取 れる。リルケがミュンヘンへ上京した後,サロメに注目するきっかけとなった のが,彼女のエッセイ『ユダヤ人イエス』であった。二人の出会う三年前に彼 女はニーチェ論を出版している。リルケが初めてサロメに宛てた手紙で紹介し た自作品は『キリスト幻想』であった。二人の思想をニーチェが結んだであろ うことは想像に難くない。『キリスト幻想』では,人間であるキリストが,人 間と話すエピソードが綴られているが,そこでキリストは,既に時代遅れの存 在であり,人々を生へと導くことができない。「私と握手しておくれ,通り去 るときには,私の方をちょっと向いておくれ/そのまなざしはもう生の水に浸 されている/そこから,新しい未使用の/神がお前達に双手を差し伸べるだろ う」14)とキリストは自らの幕引き役をかってでる。では,ここで言われる,「未 使用の」神とは何なのだろう。

  リルケの初期の代表的な作品『時禧詩集』『神様の話』は相次いで神をテ ーマにしているが,この神は創造神である。ここには,創造する芸術家が簡単 に重なるであろう。さらに,もう一つ芸術による救済というテーゼの上にいる 芸術神がいる。そこでは,芸術により完成された「もの」が神を担う。こうし て,神という媒介項によって芸術作品と芸術家が自閉的な輪を閉じることにな

る。

  先達メイスンはこういったリルケの作品に現われる神を芸術の象徴である と論じた;5)それは正しい。だがなぜ,リルケが芸術或いはその対象として「も の」とは言わず,神という象徴を持ち出さなければならなかったという疑問は 依然として残る。少なくとも,エレン・ケイのような同時代者,そして30年代

(7)

新しい彼岸一リルケの詩作世界に棲むもの一        37 の評者たちにとって,リルケは真摯な「神を探す人」(Gott−Sucher)であった のである。たとえ,比喩の世界に限られていたとしても,「神」という語を発

したことによって,リルケは神を己の生きている場を作る一つの絶対的な形而 上の条件と考えていたといってよいだろう。ただし,神の不在という欠損の状 態を己に課せられた形而上的な条件であると意識していたのである。逆に神が ないという認識こそ,いったん受け入れられた限り,彼の精神を支える土台で あったともいえる。欠損の神に対して,新しい神の模索は,初期から中期まで の作品のテーマとなるが,欠損状態が根本的に解消されることはない。

  『神話の話』の中で神の不在は,はっきり示される。墓堀人夫が空を指し て,「私がここで人間を埋めるように,人間達は神をあそこに葬ったじゃあり ませんか」16)と言う場面である。神を素朴に信頼していた時代とは,神を生命 現象のすべてと等価に見なした時代であろう。それゆえに神が死ぬという想念

も起こってくる。神の死という事態は神への愛があればこそ考え付けるもので あり,神へ哀悼を表すことが,「いない者」へのぎりぎりの愛情表現になる。

こうしてリルケの世界で浮かび上がってくる芸術神的な神とは,神の死を想定 した者につきまとう,神のイメージ,「死んだ神」の幽霊なのである。このよ うに,リルケにとって,神が歴史的に条件付けられた存在であることは,逆に 彼及びその時代が「神」の「その後」を生きているという認識いや神が生命 の総称であれば,彼の時代が死に限りなく近いところに位置しているという認 識にほかならない。「神はいた(Gott war)。(…)神はいることになろう。

(Gott wird sein.)」17)という言葉は,神の現時点での不在を語ると共に,その 不在もまた歴史的に相対化させ,千年王国的な救済への望みを繋ぐ。

  『時禧詩集』において,リルケは現在生きている自分にとって必要な神を ロシアの神に見出だすことで,一つの解答を与えているように見える。しかし,

この詩集は神に対する熱烈な信仰告白でありながら,西方と東方の神を対立さ せ,打ち消しあっているようでもある。常に二つの神の違いが際立たせられる のである。信従を誓いながらも,そこには,選び取る者の視点がある。従って また,この作品の目論見が,リルケの異郷(東方)への脱出にあったという見

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方も自然な解釈になる。自身の生を条件付けている「いない神」への愛着と,

キリスト教の神の否定が専らこの詩を成り立たせる情熱なのであれば,このロ シアの神は異郷の神であればこそ価値があることになり,キリスト教の神の代 替物的な側面は拭えない。否定と否定が重なり,おぼろげな存在が生じるので ある。しかし「神」に「いない」という特性が備わる限り,これをリルケの詩 の対象である「もの」の土台には据えられなかった。ハンブルガーは『時禧詩 集』を評して「考えられる限りのすべての領域から選ばれた隠喩が次々と交代 していく中で,神という表象は消える。」18)と述べているが,彼女のいうように

「神という表象が消えて」「[隠喩として]呼びだされた『もの』自体が残る」

ことはリルケの意図していたことではなかったろう。彼のメーテルリンク論に 従えば,神と「もの」という二つの位相の違う存在が,一つの詩の中で喚起さ れなければならなかったはずである。だが,「もの」によって「いない神」を 喚起することも,その逆も不可能であった。第三部ではTod−Gebarer(死を 産む者)への渇望が詠われることによって,超感覚的な次元への入り口は宗教 から離れ,生理的な現象である「死」へ移る。

  当初『神様の話』の第二部として書き起こされた『マルテの手記』19)でも,

予定された最終節「トルストイ」は,「もし神がいるのであれば,すべては御 用済みであり,我々は憂骸な余計な生き残り者であったことだろう。」2°)という 激しい神の不在論で始まる。しかし,実際の作品に神の不在を露にする口調は 残っていない。代わりにマルテが神の存在の「証明」について語る場面がある。

みすぼらしい盲人の新聞売りが身に着けていた新しいネクタイと帽子に感動し てである。だが,神へ向けての呼びかけがあるにも係わらず,神との直接的な 接触は用心深く避けられる。

ああ(Mein Gott),僕は突然打たれるように感じた,あなたはこういう風であったの だ。あなたの存在についてはたしかに証明(Beweise)があるのだ。僕はそれらすべて を忘れていた。そしてそういったものを求めもしなかった。あなたの存在の確証にはど んな巨大な義務が伴うことになろう。それでも僕には示された(n皿wird mirs gezeigt)。これがあなたの趣味であり,ここにあなたのお気に入りがいるのだi1)

(9)

新しい彼岸一リルケの詩作世界に棲むもの一        39 神の証明はBeweiseと冠詞抜きの複数で表される。神へ至る道が複数である

ことは,それを相対化させることになる。後続の文では,自身と神の間の距離 があっさり認められる。第五文目,「あなたの存在の確証には」で始まる一文 は接続法二式で書かれる。神の存在は接続法二式という迂回路の上にある。そ こで神へ向かって噴出する心は抑えられる。神との直接の関わりはここで意図 的に断たれるのである。続く文の「示される」対象,即ち主語はesであり,

神へ向かっての呼称(du)ではない。そのesが少なくとも視覚上は盲人の被 り物とネクタイであったことはさらに続く文から推し量れる。それらの「も の」が,神の顕現(Epiphanie)であることでマルテは満足する。

  反対に神秘の成就はこの作品の中では天使と人間の間に起こる。公園で鳥 に餌をやるみすぼらしい男の手にいわば吸い込む力があるかのように(Und

wie er lockt, wie er anlockt,)天使がやってくるのである。

どんなに彼が誘惑しているが,誘いかけているのか,あのたくさんいる馬鹿な小鳥ども に見当もつかない。もしも見物人たちがいなくて,彼を好きなだけ放って置いたなら,

突然一人の天使が現われて,その萎びた手から,思い切って酸っぱくなった古いパン切 れを食べるだろうと,僕は信じて疑わない…2)

  天使が現われる箇所は接続法二式に統一されている。だが,仮定されてい る非現実とは,天使の行為に関わるものであり,その存在についてではない。

そして,たとえ幻想の中であっても,男の招請に天使が答えることで,神秘の 圏は実現し,閉じられる。

  スティーヴンスは,初期のリルケの詩作の対象である神が,『マルテの手 記』の書き始められる頃に天使と入れ替わっていくと述べている。即ち,芸術 神的役割を天使が担うようになる。やはり彼岸の存在である天使が,「欠けて いる」神の何を補ったといえるのだろう。宗教でいう天使とは,神の周囲にい てこれに仕える存在である。しかしマルテ(リルケ)の神に対する迂回路を経 た接近の上では,天使は神へ至る方向を示し,同時に神を指し示すことで啓示 を受ける者と神の間に距離を生じさせる者として記号づけられる。在と不在の

(10)

間を揺れ動く神よりは,天使こそ,「示す」存在として「もの」を統括しえた のである。

  このように,天使がリルケにとって重要な語彙になるのは,中期以降であ る。しかし,『時藤詩集』の天使も神の装飾というユーゲント・シュティール 的な性格の他に,リルケなりの独自性を備えている。この天使は神を出自に持 ちながらも,神と無縁になった寄る辺ない存在であり,神を探しているのであ

る。

これほど多くの天使があなたを探しながら/額を星へ突き出して/輝きという輝きからあ なたの存在を学び覚えようとする。/それでもあなたを詩に綴る私には/天使たちがあな たから顔を背けて/あなたの衣のひだから離れていくばかりに思える…3)

神と対置するとき,天使はいかにもはかなげである。この天使たちはいわば

「いない神」と向かい合うからである。だが,リルケにとって神との関わりが 専らそれを「示す」ものに還元されるとき,人間と神の仲介者である天使は

「もの」の牧者になるのである。『ドゥイノーの悲歌』の第二歌で,自己に充 足した天使が「光の関節」24)と呼ばれるとき,なお,人間から神へ向かう折れ 曲がった道の角に立つ天使が見えてこないだろうか。

  こうして,リルケの世界で神は「いない」ことによって,初めてそれにつ いて語ることのできる存在であった。それに付属する天使も,神の在と不在を 同時に示しうる存在である。リルケの彼岸体験を切り開くには冒頭の『体験』

で紹介した,個人的に体験される死の次元まで戻らなければならないだろう。

2.破壊と再生

  冒頭の『体験』でリルケが描いた彼岸体験は肉体の止揚される感覚で始ま った。ここで,彼の肉体を彼岸への入り口に据えて作品を見ていきたい。『マ ルテの手記』の中では再三「恐ろしいもの」(Die Existenz des Entsetzlichen,

das Grauen, GroBes, das Ungeheuer)1)が話題になる。それは,具体的な事物

(11)

新しい彼岸一リルケの詩作世界に棲むもの一       41 を指すのではなく,時間を問わない,すべての人間の体験しうる「恐ろしいも の」と解説される。ここで,大切なことは,その「恐ろしいもの」もまた,破 壊的な力を備えていることである。それは,感覚の捉える「もの」を取り囲み その外縁を成す。神の啓示を与えるべき「もの」の輪郭は疑いにふされる。

「もの」の形が否定されるのである。

どんな稜線の上にこの安心は身を支えていたのだろう。ほんの少し向きを変えるだけで,

まなざしは,なじみ,親しんできたものの外へはみ出ていく。たった今,慰めを与えて くれた輪郭は恐怖の緑として,より鮮明になるのだ』)

肉体はこの「恐ろしいもの」を「透明なものと共に吸い込んでいく」:)「恐ろ しいもの」は毛細血管に吸い上げられて体中に禰漫し,彼の肉体の支配権を握 るのである。肉体は形を無みする一つの破壊力の働く場であった。

  リルケがどれほど自身の肉体の不調にてこずらされ,彼の「肉体が,精神 的なものの猿になって,自分独自の状態から,些細なきっかけで,それなりの 生産をした」4)かはサロメ宛ての生涯にわたる書簡の中で吐露されている。だ が,同時に彼の手紙はたとえ,不調であれ肉体内部の感覚を伝えることで,あ る満足を得ているようだ。彼の芸術の場が「体の内と外を途切れない一つの空 間に合わせ」たものであるなら,体の内部感覚は,外界の事物に対応する。こ とばは体の内部から現われ,味合われる(「私におそろしく不能の後味

(Nachgeschmack)を残した五行」5))。自分の読む本のことばを「かじり食 べられ(herumknabbernd)」、その内の一部は「薬草(Krauter)」として摂取さ れる:)当然,自分の生みだしたことばも,自分という存在も他者に摂取される ことになる3)外界と肉体内部の境の廃棄により,互は互いに入り込み,外界に は常に自分が映し出される。

   『手記』と『体験』を書いた三ヶ月後には「ナルシス」という題の詩が二 つ書かれた。自分自身を見つめるナルシスと自身を転移させる芸術家は現象的 には相似である。

(12)

Dies also:dies geht von mir aus und l6st/sich in der Luft und im GefUhl der Haine,/entweicht mir leicht und wird nicht mehr das Meine/und glanzt, weil

es auf keine Feindschaft st6Bt.//

Dies hebt sich unaufh6rlich von mir fort,/ich will nicht weg, ich warte, ich

verweile;/doch alle meine Grenzen haben Eile,/stUrzen hinaus und slnd schon dort.//

Und selbst im Schlaf, Nichts bindet uns genug,/Nachgiebige Mitte in mir,

Kem voll Schwache,/der nicht sein Fruchtneisch anhalt Flucht, o Flug/von

allen Stellen meiner Oberflache.//

  Was sich dort bildet und mir sicher gleicht/und aufwarts zittert in verweln−

ten Zeichen,/das mochte so in einer Frau vielleicht/innen entstehn;es war

nicht zu erreichen,//

wie ich danach auch drangend in sie rang,/Jetzt liegt es offen in dem teilnahmslosen/zerstreuten Wasser, und ich darf es lang/anstaunen unter meinem Kranz von Rosen.//

Dort ist es nicht geliebt, Dort unten drin/ist nichts, als Gleichmut UberstUrzter Steine,/und ich kann sehen, wie ich traurig bin,/War dies mein Bild in ihrem Augenscheine?//

Hob es sich so in ihrem Traum herbei/zu sUBer Furcht? Fast fUhl ich schon die ihre,/Denn, wie ich mich in meinem Blick verliere:/ich k6nnte denken,

daB ich t6dlich sei.//

(ああ,これが私から出ていって/ 大気や森苑の息吹の中へ溶け込み/私から身をか わしていき,もはや私とはいえないもの/輝いて,もはや敵意に出会わぬものだ。//

これがひっきりなしに私から立ち上る,/私は消えたくないのに,私は待って,とど まっているのに../ 私の境界線は急いている,/飛び出してもうあちら側へ行って

(13)

新しい彼岸一リルケの詩作世界に棲むもの一        43

しまった。//

眠りの間でさえ進んでいく。何も私たちをしっかりと結び付けない。/私の中の固ま りない中心,弱さの詰まった芯に/果肉は繋ぎ止められない。逃走よ,おお飛行よ/

私の表面のあらゆる箇所からの剥離//

 あそこで形が出来上がっていくもの,私にきっと似ていて/泣きぬれたしぐさで震 えながら立ち上がるもの,/ それが一人の女の中で/ 内にとどまったまま立ち上がっ たのかもしれない,だが,私の手には届かなかった//

どんなにか私はそれを求めて彼女の内に押し入ったことか。/今それは開かれて横た わっている,無関心で/ぼんやりした水の中で,そして私は長い間/ ばらの花輪に埋

もれたそれをほれぼれと眺めていてよいのだ。//

あそこでそれは愛されていない。あの水中深くには/ ひっくり返った石ころの平かな 心があるだけ,/私には私が悲しんでいるのがわかる。/ これが彼女の目に映った私

の像だったのか?//

それが彼女の夢の中に入り込んで/甘い恐怖になったのか? 私には彼女の恐れまで が感じられる。/ 私が,私のまなざしの中で消えていくとき/ 私には私が死をもたら すかもしれないと思えるのだから。/8)

普通,ナルシスというときに思い起こすナルシス神話は,森の泉の水面の上に かがみこみ,そこに映った自身の像に恋い焦がれた青年の話である。恋の成就 を求めて水面に接すると像は壊れる,そこで,再び離れるという堂々巡りがこ の青年の抱えた問題であった。クンツはリルケを「望みの成就したナルシス」

と呼んだがご)それは専ら,リルケの提示した芸術観の内「統一」の側面に着目 した結果である。ここには,自身の放出した美を再び呼び戻す「鏡」としての 天使,噴水,ボール,白鳥,薔薇など一連の自己充足的な像が並ぶ。だが,ク

ンッ自身の解説による,ナルシス神話が既に破壊的な要素を抱えている。ナル シスは自身の像が自身を越えてとどまるよう,泉のほとりで死ぬとされている。

泉の中でではない。さらに,妖精Echoが彼女に求愛するが,彼はこれを退け たという挿話もある。今,上に挙げた詩で現われるナルシスにとっては,神話 のこの後半の部分がより重要といえるだろう。

  第一,第二詩節で,自分を発見する驚きの声(「これが,」)には自身の像 を水面で確認する古代のナルシスが重なるであろう。だが,ここで,確認され

(14)

る自分とは,大気に溶けだし消滅していく自身なのである。いわば,不可視の 存在へ移行していくときに初めて自己が確認される。その過程には自己愛に代

わって不安の感情が伴う(「私は消えたくない」)。この詩に先行して書かれた リルケのもう一つの「ナルシス」詩は,「自身を見ることが」ナルシスの「宿 命」だったとしてる。「ナルシス」は伝説を離れ,芸術家リルケが被る仮面に なる。溶解の無残さは次の第三詩節でさらに露である。ナルシスは果肉が果皮 から飛び出しかかっている朽ちる寸前の果実に喩えられる。「すべての表面か

らの」「逃走」,「飛行」とは,球体が全方位へ向けて爆発する有様である。こ こで破壊の描写はひとまず終わる。

  後半部は,次の詩節が,数字あけて始まっていることからもわかるように,

或る破滅の後,「その後」の消息である。この詩の前半三詩節には,「森苑」の 他に風景を表す語はない。それに対して第四詩節から続く三詩節で言われる

「あそこ」とは第五詩節の水辺の風景から,水中であるとわかる。そこで,第 四詩節の「あそこで形が出来上がっていくもの」において初めて,我々は水面 におぼろげに浮かぶ自分の鏡像と向かい合う伝説のナルシスを目撃する。伝説 のナルシスは水辺で死んだことになっているが,それは水の中にある自身の像 を永久に残すためであった。この詩では,ナルシスが死後に至って,水面の自 身の像を眺めていることになる。しかし,水の中で「形が出来上がっていくも の」とは,破壊の後で浮かび上がった自己の亡霊でもある。「その後」のナル シスが既に消滅した彼自身によって語られるのである。その「像」は「泣きぬ れたしぐさで震えながら立ち上がる」。或いは,次の第五詩節のことばによれ ば,「それは」「水の中で」「横たわっている」。

  このナルシス詩から読み取れるように,リルケにとって自分が外部に映し 出されるとは,内界と外界の照応という両者共に合い並ぶ安定した関係を指す のではない。外界の事物に映る自分とは,破壊の後に出会う自身の霊である。

ナルシスの外界への溶解が果汁の飛び出していく様で表されていることは,リ ルケの詩における果実が破壊・摂取の双方の側面を合わせ持った隠喩として機 能していることを意味する。サロメ宛てのある手紙を見れば,彼が果物を食べ

(15)

新しい彼岸一リルケの詩作世界に棲むもの一       45 るときの経験を語りながら,実は直喩で現われる「ことば」を主題としている ことがわかる。「時々食べる果物は舌の上でこなれていきます。ちょうど,精 神が生むことばが消えてしまうように。しかし,その果物がなしとげた永遠に 残る成功は,果実の純粋な美味を私が知ることです。この経験は私の存在の内 にある可視・不可視すべての器官に伝わっていくのです。」10)ことばは果実とし て体内に摂取されていく。そしてその果実を提供する詩人もまた,果実として,

消滅を経なければ「形が出来上がってい」かないのである。

3.反・世界の構成

  第四詩節以降には,一人の女性がナルシスの像に絡んでくる。伝説上では,

ナルシスは妖精の愛を退けたとされるが,この詩の女性には,伝説の持つ具象 性は残っていない。第四詩節の三行目「それが一人の女の中で/内にとどまっ たまま立ち上がったのかもしれない」で言われる女性と,続く第五詩節の「彼 女」とは無関係ではありえない。しかし mochte と vielleicht という二つの 弱い蓋然性を示す語に挟まれて「一人の女」の形姿はおぼろげである。その姿 が具体化されることなく,即ち不定冠詞の示すあいまいさ,不特定さそのまま に,「彼女」と結ばれることによって,この「彼女」もまた,任意の「彼女」,

どの女性を取ってきてもその「彼女」だといえるようなもの,即ち「彼女」の 共通項になってしまう。ここではナルシスと或る女性の関わりが展開されてい るにも係わらず,それは女性一般とナルシスの関わりになるのである。ナルシ スもまた,伝説の姿そのものでないとすれば,芸術家を象徴したと同様に「男 性」を示すとしても,おかしくはない。ここではナルシスに代表される男性と,

女性の本質論が展開されていくといってもよいだろう。第四詩節では,ナルシ スから止めようもなく,消え去っていったもの,そして,水面に「泣きぬれた しぐさで震えながら立ち上がるもの」は「一人の女性」にあって,内部で「立 ち上がった(entstehen)」ことが考えられている。これは男性ナルシスと女性 の決定的な差異である。ナルシスには,女性の中に入って「私の像」(第六詩

(16)

節)をかち得ることができない(第四/第五詩節)。それはちょうど,水面の鏡 像を得ようともがく伝説のナルシスと平行する過程である。女性はその像をも

とから内に孕むことによって,生来「あちら」側,彼岸的な形象である。これ に対して,ナルシスは破壊によって初めて亡霊としての自身の像を得る。その 像が「泣きぬれたしぐさで震えながら立ち上がる」様も19世紀的な意味でいえ ば,より女性に近い形姿といえよう。像は強力である。それは,あちら側に位 置する女性にやすやすと入っていく。詩は彼に「私は死をもたらすかもしれな い(daB ich t6dlich sei.)」と言わせて終わる。専ら「その後」の私の成り立ち を観察していた「私」はここで,もう一度完全に消滅しながら,(Wie ich mich in meinem Blick verliere:)「彼女」の恐怖を引き起こす水面の像になり きる。破壊をもたらす「恐ろしいもの」の力を受け,自身が破壊することでそ の力を示しつつ,他方で,彼女の「甘い恐怖」という,「恐ろしいもの」に変 容する過程がここに見られる。

  この逆転の現象はあくまでも神秘的である。自身の肉体の滅びが,彼岸を 切り出すことを我々は前章で見たが,この詩で「像」が生まれることは,彼岸 における霊としての再生といってもよいだろう。その神秘は,宗教とは無関係 に,滅びと同時に起きている。霊が彼女の中に入ることで,彼女即ち女性一般 の素性は彼岸に引き付けられる。その意味で「女性」とは常に「恐ろしいも の」と結託しているのである。だが,その彼女を霊が支配する。

  この最終詩節に充満しているのは,性的なエネルギーとでもいうべきもの だろう。ナルシスは死ぬことによって,霊としてある再生を得るが,それは生 命の原初の姿に戻ることでもある。人間の意志から独立した,性的なエネルギ ー,フロントのことばでいえばリビドーについて,リルケがフロイトと近かっ たサロメと集中的に話し合うのは,この詩の書かれた翌年であるが,1)同様の思 考は既に彼の内で進んでいたのであった。この性的なエネルギーは専ら男性に のみ関わる。女性にとって未知であるがゆえ,それは「甘い恐1布」になるので ある。「ナルシス」詩成立の前後を挟んで書かれた『ドゥイノーの悲歌』第三 歌も,同様の視点にたって「河の神」(性の神)を詠った:)それでは,なぜナ

(17)

新しい彼岸一リルケの詩作世界に棲むもの一       47 ルシスの性的なエネルギーが彼女に破壊をもたらすほど彼女を圧倒するのか。

女性の存在は彼岸と此岸の双方に股がっている存在であり,破壊されたナルシ スもまたある超越を経て,彼岸の存在になったのであるが,ここに優劣ができ るのはなぜなのか。最終行からは,ただ推測のみが許されるだけである。「ナ ルシス」の詩において,ナルシスの体現する性的なエネルギーは,破壊を経た 後の,再生の芽生えへ向けての純粋なエネルギーであり,両方の領域を揺蕩う ている女性より,より原初の力に満ちているということなのか。当時,遺伝の 原理は周知であったが,生殖の現象は「男性」に引き付けられていたのではな かったか。受精卵の染色体の構造はまだ一般的な知識ではなかったのだろう8)

いわゆる帝国主義の時代にあって,生殖が自己増殖のイメージで捉えられ,男 性的な兆候を冠せられても不思議はない:)「偉大な愛する女たち」を造形した リルケにあっても,『ドゥイノーの悲歌』第三歌では,母親に「先行する」「恐 ろしいもの」を「父親たち」によって「飽和」させていたのである3)彼の世界 の中で,女性はあくまでも器的な存在として,生と死の二つの領域に関わるの であった。

  リルケの芸術世界が破壊を契機に展開されたことを前章で述べたが,「女 性」という曖昧に彼岸と関わる存在において見られたように,破壊によって元 素に還元された諸要素からは位階が生じる。純粋な超越を経た存在に女性は服 す。それが,女性の本質とされるがゆえ,この詩の「一人の女」は終始動かな いのである。リルケが,ナルシスの破壊と超越の後に提示するのは,本質或い は原型と,未定形な力が錯綜する世界である。それら諸要素は互いを位置づけ 合うだろう。『ドゥイノー』の第一悲歌の天使たちが「序列(Ordnungen)」の 中で住まっていたように:)

  リルケにおける破壊と再生の逆転,そしてこの過程を通して生まれるヒエ ラルキーを彼は鋳型と鋳物のイメージをもって描いている。おそらく初めは,

ロダンの許で見た鋳型と鋳出物の印象をヒントとしたのであろう。鋳型は,た とえ転倒した形であっても,鋳物となる材料に自分の形を転写し,その意味で は形ある「もの」を生みだす。同時に,鋳物の外縁部として,鋳物の材料を封

(18)

じてもいる。リルケは自分自身を鋳型と鋳物を使って説明する。「私の魂は鐘 の鋳魂(Glockenspeise)で,神はそれを白熱させて,鋳造の準備を整えるの ですが...私は相変わらずの古い鋳型なのです。この間の鐘を作った型のまま なのです。」7)リルケにおいて,鋳型の由来は神秘に包まれている。言い換えれ ば,内容に対して形が優位に立つのである。ライアンは中期のリルケを扱った 論の中で,彼の詩作に見られる急激な移行をUmschlag(急変)、Verwandlung

(変容)と呼んでいる:)しかし,変化には,時間の概念が入ってくる。完全に 神秘的な逆転を説明するのは,無時間の鋳型と鋳物ではなかったろうか。事物 が目に映し出されるとき,そこには既にそれを打ちだした鋳型が控えているの である。メーテルリンク論に見られた,別々の要素が一つの舞台で進行すると いう作品の構想は,ミー方、の要素が型取り,逆転させることによって,ミ他 方、を生みだすという経路をとって実現する。

  そのポジとネガの関係は究極的にはリルケが統一を称する生と死の関係に 行き着くだろう。『ドゥイノーの悲歌』が爆発後の世界のような死空間を描い た第一悲歌で始められたことを先に見たが,最後の悲歌である第十悲歌は,鮮 明な風景をもった死の国を提示する:)もちろんこの死の世界にも破壊の痕跡が ないわけではない。その一つの舞台は,スフィンクスが現われることから砂漠 であると察しられる。しかし,事物は一つずつ,明確に示される。「広大な風 景の間へ」死者を案内する者が,瓦礫となった城と寺の柱,谷,山脈,寺,木 々,畑,獣,鳥,星そして墓(!)を若い死者に「示す」。案内者が死者に対 して事物を指すことで,それらが,空間の中で配列されていることがわかる。

同じ空間とはいっても,第一悲歌の方向のない,いわば壊れた空間とちがい,

この空間では下(谷),上(鳥の飛翔を見上げること,星),前後(スフィンク スの冠の後ろから現われる臭)といった位置関係が作られるのである。しかし そこにはやはり転倒の現象が見られる。死者の国に棲む「嘆き」の一族はこの ように紹介される。

私たちは,/(...)かつては栄えた一族でした,私たちは嘆きは。/祖父たちはあそ

(19)

新しい彼岸一リルケの詩作世界に棲むもの一        49 この山脈一帯で鉱業を営んでおりました。お前は人間のもとにあったとき/時折研磨さ れた原・苦悩に出会ったことでしょう/或いは古い火山から噴石になった怒りが飛び出 してくるのを見たやもしれません。それはここから来ているのです:o)

死の国は鋳型の作られる世界である。ここにおいてすべての生者のもつ感情が 打ちだされる。この「悩みの国」から,生者のもとへ「喜びの泉」が湧く。何 よりも,死者は谷を下ってこの国に入るが,死者の国から生者への交信は上か ら下への動きで表される。生者との関わりでのみ,死者の国の空間構造は安定

を失う。

  ここには同時に,鋳型が鋳物を形作っている観点が明確である。死の国の 鋳型こそが,生の世界を規定する。死の国とは形の世界である。そこにある一 つずつの事物は,鋳型=原型の刻印を受ける。夜になって,この国では,様々 な星座(騎士,棒,果冠,天秤等)や,棄が死者の「耳に刻む」スフィンクス の円形の輪郭といった図形が現われる。具象的な形は抽象化され,称揚される。

この鋳型=原・形より遡る所がないのであれば,その形自体が事物の究極的な エッセンス,本質と呼べるであろう。星座はその名前の指示する事物が昇華,

純化された形ということになる。その星座の浮かぶ砂漠はそれ自体が浄化され た世界といえよう。だが砂漠は自然が事物の形を削り取った末に生まれた環境 でもあるのだ。既存の世界の破壊の後に建てられた,倒立的な反・世界は本質 の棲む世界である。それは,本質の名において,既存の事物を支配する。

  今日の目に,生と死の間の「より大きな循環系」,即ち両者の差異の破棄 というリルケの芸術観が違和感を与えるとすれば,それは彼が,本質と本質に より型取られたものという二者の差異の上に立って,死生観を築いていること が原因である。本質の由来は破壊の中にあり,その破壊は,個人の死として描 かれる。リルケの詩の世界で,本質は,共同体の歴史から離れ,ますます神秘 化され,固定された。

(20)

底本にはRainer Maria Rilke:S亘mdiche Werke, Bd,1−VI, Frankfurt、am Main,

1955−1966,(Insel−Verlag)を用いた。以下, SWとする。引用箇所と題の題名は「」

で,詩集の表題は『』で示した。

1.1)MHeidegger:WoZu Dichter, In l Holzwege,4, Aufl.:Frankfurt am Main     (Vi廿orio Klostemann):1967.

2)E.Simenauer:Rainer Maria Rilke, Legende und Mythos,:Bern, Frankfurt:1953.

3)E.Schwarz:Das verschluckte Schluchzen, Poesie und Politik bei

    Rainer Maria Rilke:Frankfu牡am Main:1972;R. Gnmm:Von der A㎜ut und

    vom Regen, Rilkes Autwort auf die soziale Frage . In:Gedichte und Interpre.

    tationen, Bd.5. Vom Naturalismus bis zur Jahrhundertmitte:Stuttgart:1983.

4)SW5, S.476ff.

5)SW1,S.510.

6)K.Hamburger:Die phanomenologische Sturuktur der Dicht皿g Rilkes. In:

    Rilke in neuer Sicht:Stuttgart, Berlin, Mainz:1971:S.103ff.

7)SW6,S.1035.

8)SW6,S.1040ff.

9)Rainer Maria Rilke:Briefe,2. Bd.1914 bis 1926:Wiesbaden(Insel−Verlag):1950,

    S.480ff., An Witold Hulewicz.

10)SW1, S.687ff.

11)SW4,S。229.

12)Rainer Maria Rilke:Briefe,1. Bd.1897 bis 1914:Wiesbaden(Inse1.Verlag):1950,

    S.42,An Franz Xaver Kappus.

13)Rainer Maria Rilke:Das Florenzer Tagebuch:Frankfurt am Main(lnsel.Verlag):

    1982,S.38.

14)SW3,S.137.

15)E.C. Mason l Zur Entstehung und Deutung von Rilkes Stunden−Buch, In l Exzen.

    trische Bahnen:G6ttingen:1963.

16)SW4,S.358.

17) ebd. S.398.

18)K.Hamburger, a. a.0., S.112.

19)Rainer Maria Rilke/Lou Andreas−Salom6:Briefwechsel, hrsg. von E Pfeiffer.2.

    Auflage:Frankfurt am Main:1979, S.139.

20)SW6, S.967.

21) ebd., S.903 22)・ebd., S.781

23)SW1,S.270.

24)SW1,S,689.

2.1)SW6, S,776ff.

(21)

新しい彼岸一リルケの詩作世界に棲むもの一       51

2)ebd.

3)ebd.

4)Rainer Maria Rilke/Lou Andreas−Salom6:a.a.0., S.345.

5) ebd., S.244.

6) ebd., S.338.

7)SW1,S.698 Du, der um mich so bitter das Leben schmeckte, meines kostend,

   Vater, .或いは、クララ(妻)が自分を摂取し(Mich−eimehmens),分泌している     (Mich−ausscheidens)という手紙 In:Rainer Marika Rilke/Lou Andreas−

   Salom6:a. a.0.,259.

8)SW2, S.56ff.

9)Marcel Kunz:NarziB. Untersuchungen zum Werk Rainer Maria Rilkes:Bonn:

   1970,

10)Rainer Maria Rilke/Lou Andreas−Salom6:a. a.0., S.339.

3. 1) ebd.. S.314ff.

2)SW, S.693ff.

3)中西宥:染色体の研究:1981(東京大学出版会;UPバイオロジーシリーズ)

4)EW. Said:Orientalism:New York(Georges Borchardt Inc.)11978

   E.W.サイード:オリエンタリズム:板垣雄三,杉田英明監修;今沢紀子訳:(平

   凡社):1986,p.224

5)SW1,S.695.

6)SW1,S.685.

7)Rainer Maria Rilke/Lou Andreas−Salom6:a. a.0.,340.

8)J.Ryan:Umschlag und Verwandluug. Poetische Struktur und Dichtungstheorie    in Rainer Maria Rilkes Lyrik der mittleren Periode(1907−1914);MUnchen:1972.

9)SW1, S.721ff.

10)SW1,S.723.

参照

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