一 はじめに
鎌 倉 末 期 に 編 纂 さ れ た 名 所 歌 集『 歌 枕 名 寄 』 ( 以 下『 名 寄 』 と 略 称
する)には、千首を超える萬葉歌が所収され、萬葉集の伝来史・訓点
史 の 上 か ら 価 値 あ る 資 料 で あ る こ と に つ い て 今 ま で 幾 度 か 触 れ て き
た。 『名寄』は、私撰集中最も多くの漢字本文表記(以下「本文表記」
と略称する) の長歌を所収する。 『名寄』 所収萬葉集長歌一〇五首 (述
べ一三八首) のうち、 『名寄』 が初めての引用文献である (渋谷虎雄 『古
文献所収万葉和歌索引』に拠る)歌が十四首あり、このうち本文表記
が七首、仮名表記(平仮名・片仮名)が六首、本文表記と仮名表記の
混在する長歌が(以下「混在表記」と略称する)一首である。長歌は
短歌に比べて勅撰集をはじめとして歌集・歌書に引用される例は極め
て 少 な く、 『 名 寄 』 編 纂 時 の 鎌 倉 時 代 に 至 っ て も、 引 用 さ れ た こ と の
な い 長 歌 が か な り あ っ た の で あ る。 『 名 寄 』 が 地 名 に 着 目 し て 部 分 的
にせよ長歌を引用することがなければ、長歌が歌集・歌書に引用され
ることは更に少なかったであろう。
長歌は、引用する文献が少ないが故に、萬葉集古写本から直接引用
した可能性が高く、本文表記の長歌について考察した結果、紀州本系
の片仮名訓本(巻十まで)に依拠したと考えられるが、なお異同や独 自 訓 も 多 く 、 現 存 し な い 非 仙 覚 本 系 の 一 本 で あ ろ う と い う 結 論 を 得 た
⑴。
本 稿 で は 残 る 仮 名 表 記 の 長 歌 か ら、 『 名 寄 』 所 収 萬 葉 歌 の 長 歌 の 特 質
に つ い て 討 究 し た い。 『 名 寄 』 原 撰 本 に 最 も 近 い と 推 定 す る 細 川 本 に
所収された長歌で、仮名表記の長歌、混在表記の長歌併せて六十八首
(述べ数
⑵)を考察の対象とし、適宜『名寄』の他の写本も参照する。
二 集付・作者名表記について
勅撰集をはじめとする歌集 ・ 歌書に引用されることの少ない長歌は、
萬葉集古写本に拠った可能性が高いと、 本文表記において考察したが、
仮名表記は如何であろうか。 『名寄』 所収萬葉歌の集付は① 「万 (万葉) 」
のみのもの②「万二」の如く巻数を付すもの③「万続古」 「万四新勅」
の如く①或は②に加え他の集付を付すもの④「新古」のごとく萬葉集
以外の集付のみのもの⑤全く集付のないものなどさまざまである。こ
のうち③④は萬葉集古写本ではなく、他の文献(集付に記された)に
依拠したのではないかと推測される。
そこで集付に萬葉集以外の出典名を記す歌を取り上げ、歌句を比校
してみた。仙覚校訂本として西本願寺本(西・西 )を用いる。
三・
3 1 8
細川本 二十 ・ 二八一一 駿河国 富士山 『歌枕名寄』所収萬葉集仮名表記長歌について ―
非仙覚本と仙覚本の間をつなぐもの
―
樋口 百合子
細 新古 田子のうらにうちいてゝみれは 白妙の ふしのたかねに雪
は ふりつゝ 赤人 (傍線部は稿者が私に付す。以下同)
西
⑶田
タコノウラニ兒之浦従 打
ウチイテヽミレハ出而見者 真
マシロニソ白衣 不
フシノタカネニ盡能高嶺尓 雪
ユキハフリケル波零家留 新古今 たごのうらにうち出でてみれば 白妙の 富士のたかねに 雪
はふりつつ 赤人
三 ・
3 1 8 歌は 『名寄』 では集付に 「新古」 とあり、 『新古今集』 (六 ・
六七五) と歌句も一致するので、 『新古今集』 からの引用であろう。 『名
寄』では当該歌の直前が萬葉集三・
3 1 7 歌であるが、こちらには集
付は記されない。 『新古今集』 では三 ・
3 1 8 歌のみの入集であるので、
3 1 7 歌 は 他 の 文 献 か ら 所 収 し た こ と に な る。 『 名 寄 』 以 前 に
3 1 7
歌を所収した文献は 『古今和歌六帖』 『赤人集 (松平本) 』『袖中抄 (一
部) 』 『定家物語』 『仙覚抄』 『釈日本紀』があるが、全歌句を所収した
どの文献とも『名寄』は大きく乖離し、萬葉集古写本とも異なる訓を
多く持つ。次にもう一首比校してみた。
九・
1 7 6 8 細川本 九 ・ 一四五一 大和国 布留早田 細 同(万) 新古 石上ふるのわさたのほにはいてすこゝろの中に
恋やわたらむ 人丸 西 抜氣大首任筑紫時娶豊前国娘子紐兒作歌三首(うち一首)
石
イソノカミ上 振
フルノワサタノ乃早田乃 穂
ホニハイテス尓波不出 心
コヽロノウチニ中尓 戀
コフルコノコロ流比日 新古今 いその神ふるののわさ田のほにはいでず心のうちに こひ
やわたらむ 人麿
九・
1 7 6 8 歌 は 萬 葉 集 中 で は 作 者「 抜 氣 大 首 」 と さ れ 結 句
「 戀
コフルコノコロ流 比 日 」 と あ る が 、『 新 古 今 集 』( 十 一 ・ 九 九 三 ) で は 作 者 「 人 麿 」 結 句
「こひやわたらむ」 と 『名寄』 と一致し、 『名寄』 は 『新古今集』 に依拠 したと思しい。このように『名寄』所収の萬葉歌に萬葉集以外の集付 が記されている場合は、その文献に依拠したと推定されるが、実はこ のような例は全て短歌であり、長歌にはないのである。右に挙げた例 はいづれも『新古今集』であるが、他にも「新勅・続古」など勅撰集 名を集付に記す例は短歌には多くある。全勅撰集中に所収された万葉 歌は六二七首(後拾遺〜千載、続拾遺、新後撰の六勅撰を除く全てに 万葉歌は所収される) 、 そのうち長歌は七首のみである。これらはいず
れ も、 「 な が う た 」 の 例 と し て 挙 げ ら れ て い る。 拾 遺 集 が 一 首 と 残 り
五首は、 続千載集三首、 新千載集一首、 新拾遺集二首で、 拾遺集に一首
採られて以来、 続千載集に至るまで勅撰集に採られることはなかった。
勅撰集所収長歌は全て全歌句所収される。仮名表記長歌で全歌句所収
する歌は二首(
3 1
・ 7 3 1 9 )のみでむしろ稀であり、地名の前後
を 抜 き 出 し た り、 抜 き 出 し た 歌 句 を 繋 い だ り な ど の 現 象 が 見 ら れ る。
これは歌を鑑賞したり、作歌の参考にするのではなく、地名の情報を
得ることを目的としていたからであろう。歌体の規範として長歌を採
取した勅撰集と、 地名の情報を得ることを目的とした『名寄』とでは、
姿勢が大きく異なり、所収萬葉歌にも影響を及ぼしたことであろう。
『名寄』以前に長歌を所収する勅撰集は『拾遺集』のみであり、一 ・
3 6 歌を所収するが、この歌は『名寄』にも所収される。拾遺集は仮
名表記であるが、 『名寄』は本文表記に傍訓の付されていて、 『拾遺集』
に依拠したとは考えられない。
勅撰集所収萬葉集長歌の作者名についてみると、七首のうち明記す
るのは人麻呂一首、赤人二首で残り四首は読人不知である。ところが
これは萬葉集を見ると「鴨君足人・笠朝臣金村・境部宿祢老麻呂・久
米朝臣廣繩」と作者名が記されている。それにも拘わらず、勅撰集は
読人不知とする。
『名寄』 が長歌を所収するにあたって勅撰集に依拠することはなかっ
た。勅撰集以外の歌集・歌書にも依拠した可能性は極めて低い。表Ⅰ
には仮名表記長歌全ての集付と作者名表記を調べた結果を示した。本
文表記は六十四首(述べ数)のうち「万」という集付が記されている
ものが十八、そのうち十一には巻数も記されている。一方仮名表記は
六十八首のうち集付が記されているものが三十二、そのうち二十二に
巻数が記されていた。これをみると集付は仮名表記に記されている割
合が高い。巻数は本文表記の誤りは四、仮名表記のそれは二で、これ
も仮名表記が正しく記す割合が高い。また本文表記・仮名表記とも萬
葉集以外の集付が記されている例は一例もない。つまり仮名表記も萬
葉集以外の歌集・歌書より採取された可能性は、長歌に関する限り殆
どないと言ってよいようである。
さらに作者名表記をみると興味深いことがわかる。作者名表記は本
文表記・仮名表記とも集付より記される割合は遥かに少ない。本文表
記 六 十 四 首 中、 作 者 名 が 萬 葉 集 中 に 明 記 さ れ て い る も の が 五 十 三
⑷、
そ の う ち『 名 寄 』 に 明 記 さ れ て い る も の は 六、 一 方 仮 名 表 記 六 十 八 首
中、 萬葉集中に作者名が明記されているものが六十、 そのうち『名寄』
に 作 者 名 が 記 さ れ て い る も の が 十 四
⑸で 、 仮 名 表 記 が や や 詳 し い と 言
え よ う 。 そ の 記 さ れ た 作 者 名 を 見 る と 本 文 表 記 は 、 人 丸 ( 3 6 、1 9 9
= 万 葉 集 歌 番 号 以 下 同 )、 藤 原 役 民 ( 5 0 )、 石 額 王 ( 額 田 王 の 誤 り 、
1 5 5 )、 大 后 ( 1 5 9 )、 家 持 ( 4 0 9 4 )、 仮 名 表 記 は 軍 主 ( 軍 王 の 誤 り 、
5 )、 人 麻 呂 ( 1 3 5 )、 家 持 ( 4 7 5 . 3 9 9 1 4 0 1 1 、4 1 1 6 、 4 1 8 5 )、 赤 人 ( 9 1 7 ② 9 4 2 、9 4 6 ② 、 ② は 重 複 数 )、 大 伴 池 主
( 3 9 9 3 ② 、 一 例 は 黒 主 と 誤 っ て 記 す ) で あ り 、 人 麻 呂 、 赤 人 、 家 持 の 占
表Ⅰ 集付・作者名有無表
本文 集付 万のみ 巻数有 作者 備考 かな 集付 万のみ 巻数有 作者 備考 混在
1 10 1 1 0 2 1 3 3 1 2 1 1 0
2 13 4 1 2 2 2 3 2 0 2 0 1
3 4 1 1 0 0 7 4 1 3 1 2
4 1 0 0 0 0 1 1 1 0 0 0
5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
6 9 5 1 4 0 13 4 1 3 5 2 1
7 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
8 0 0 0 0 0 1 1 0 1 0 0
9 5 2 1 1 0 7 3 0 3 0 1
10 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
11 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
12 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
13 11 3 1 2 0 5 3 0 3 0 0
14 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
15 1 0 0 1 0 2 1 0 1 0 0
16 3 0 0 0 0 2 1 1 0 0 0
17 5 1 1 0 0 15 5 5 0 4 3 0
18 1 1 0 1 1 4 3 3 0 3 1 5 0
19 0 0 0 0 0 5 0 0 0 1 6 1
20 0 0 0 0 0 1 1 0 1 0 0
64 18 7 11 5 68 32 10 22 13 6
※ 1 数はすべて述べ数
※ 2 混在表記は集付はなし、作者名は人丸 2 赤人 1 虫麻呂 1 田邊福麻呂 1 家持 1
備考 1 作者名左注にあり 備考 4 家持
備考 2 作者名は2例共赤人 備考 5 家持
備考 3 家持 2 大伴黒主 1 大伴池主 1 備考 6 家持
め る 割 合 が 高 い 。『 名 寄 』 の 関 心 は 専 ら 地 名 に あ り 、 作 者 に は さ ほ ど 興 味 が
な い よ う で あ る 。 中 古 ・ 中 世 の 著 名 な 万 葉 歌 人 は 、 平 安 時 代 に 私 家 集 も
編 纂 さ れ て い る 人 麻 呂 、 赤 人 、 家 持 で あ り 、『 名 寄 』 の 編 者 の 関 心 も 著 名
な 歌 人 の み 向 け ら れ た の で あ ろ う 。 こ れ は 勅 撰 集 と 共 通 す る 意 識 で あ る 。
集付、作者名表記からは、仮名表記が萬葉集以外の歌集・歌書から
引用されたと思しき痕跡は見当たらなかった。仮名表記も本文表記と
同様萬葉集古写本の一本より採取されたと推測される。
三 編纂意識
一・
5 細川本 三十四 ・ 五二九七 讃岐国 網浦 細万 一 網 の浦のあまおとめらがやくしほの
右幸讃岐國安益郡時軍主見山作哥
一 ・
5 は題詞に「幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌」とあるが、 『名
寄』ではそれに「右」を付し左注に移動している(軍王を軍主とする
誤りがあるが) 。このような例は他にもある。
二・
2 2
・ 0 2 2 1 細川本三十四 ・ 五二八七 ・ 五二八八 讃岐国 狭峯嶋 佐美山 細 玉もかるさぬきの国はおちこちの嶋はおほけれとなくはしき
さみねのしまの跡そもに
反哥 妻もあはとりてたきましさみ山ののかみのうわきすきにはら すや 人丸 右讃岐國狭峯嶋視石屋中死人作哥
西
2 2
0 の題詞(歌は省略) 讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
2 2 0 の 題 詞 に「 右 」 を 付 し、 作 者 名 は
2 2 1 の 下 に 記 し た の で
省略し、 「右讃岐國狭峯嶋視石屋中死人作哥」と編集して左注とする。
歌 は 長 歌 の 初 め 二 句 を 引 用 し た 後、 二 十 三 句 を 省 略 し、 「 狭 峯 嶋 」 を
含 む 五 句 を 引 用 し、 残 り の 十 六 句 は 引 用 し な い。 反 歌 も「 反 歌 二 首 」
と あ る が 一 首 の み 引 用 し て い る の で、 「 反 哥 」 と 書 き 改 め る
⑹。 こ れ
をみると『名寄』の編者は萬葉歌を採取するに際し、そのまま書写す
るのではなく、内容を理解し、地名に関わる歌句を選択し、題詞を編
集して引用している。
巻 十 九・
4 1 8 5 ( 細 川 本 二 十 九 ・ 四 三 二 一 越 中 国 茂 山 ) は、
作者名「家持」と記すが、萬葉集巻十九は巻末に「但巻中不偁作者名
字 徒 録 年 月 所 処 縁 起 者 皆 大 伴 宿 祢 家 持 裁 作 歌 詞 也 」 と し、 「 こ の 巻 の
中 で 作 者 名 を 記 さ ず、 た だ 年 月・ 場 所・ 事 情 だ け を 記 し て あ る の は、
全て大伴家持の作った歌である」と述べている。巻末のこの一文を詠
んでいなければ作者名を「家持」と記すことはできない。なおこの歌
は『 名 寄 』 以 前 に は『 八 雲 御 抄 第 五 名 所 部 』 「 山 」 の 項 に「 し
繁げ 谷 に有
二山吹
一家持在
二越中
一時歌也」 と記されているだけで、 他の歌集 ・
歌 書 に 引 用 さ れ て い る 形 跡 は み え な い の で、 『 名 寄 』 の 編 者 が、 直 接
萬葉集古写本から
4 1 8 5 歌の地名のみ着目し引用したのではなく、
全巻をよく読み理解して上で引用したと思われるのである。これらか
らも、 『名寄』 が萬葉集古写本を直接見たと考えざるを得ないのである。
四 仙覚校訂本との関係
本文表記の考察では非仙覚本系であるという結論を得たが、仮名表
記は如何であろうか。
十三・
3 2 3 4 細川本十八 ・ 二六三九 伊勢国下 五十湍原 細 山の辺の いそせの原 にうち日さすおほみやつかへ 西 ( 二 十 一 句 省 略 ) 山
ヤマノヘノ辺 乃 五
イソシノハラニ十 師 乃 原 尓 内
ウチヒサス日 刺 大
オホミヤツカヘ宮 都 可 倍
(十三句省略)
傍線部は『名寄』写本間に異同はなく、 「いそせの原」で一致する。
地名は目録・本文共に「五十湍原」とある。西本願寺本以下仙覚本系
では「 五
イソシノハラ十師乃原 」で一致する。ところが、廣瀬本では当該歌に訓は ないが、 本文は 「五十 端
師イ乃原」 とある。 「端」 は 「湍」 の誤りと思われ、
それを本文に 「師」 を異本としていることから、 廣瀬本の親本は 「五十
湍原」であったと思われる。仙覚本系が主流となり、非仙覚本の多く
が消えて行った中で、僅かに廣瀬本と『名寄』に「五十湍原」という
本 文 が、 『 名 寄 』 に「 い そ せ の は ら 」 と い う 訓 が 残 っ た の で あ る。 刊
本 も 目 録 で は「 五 十 師 原 」 で あ る が、 本 文 で は 地 名「 五 十 師
湍イ原 」 、 歌 本文は「 五
イソシ十師 の原」とある。これをみると刊本の版下原稿を作成す
るときまでは 「湍」 と記されていたが、 寛永版本を参考として修正した。
版下作者の伊藤南可がいくつかの『名寄』を見て、異同なく「湍」と
あるので、イ本注記として残したのであろう。廣瀬本までは確かに存
在 し た「 湍 」 が 僅 か に 名 寄 の み に 残 っ た の で あ る。 「 師 」 が「 湍 」 と
誤られたのか、その逆なのかは分からない(崩し字の見誤りと判断で
きるほど類似していないと思われる) 。
反歌の
3 2 3 5 番歌には「五十師乃御井」が詠まれているが、廣瀬
本 に は こ ち ら は イ 本 注 記 は な い。 『 名 寄 』 に も 反 歌 が 所 収 さ れ「 い そ
せのみ井」とある( 『名寄』写本異同なし) 。
「いそし(せ)の原」 「いそし(せ)の御井」をを詠んだ歌は『新編 国歌大観』に拠ると萬葉歌 ・ 重出歌を除くと九首あり、全て「いそし」
で あ る。 猶、 当 該 歌 は 仙 覚 の 新 点 歌 で あ る が、 『 古 今 和 歌 六 帖 』 で は
末尾五句を短歌として引用し、 『類聚古集』にも僅かに訓があり
⑺、『名
寄』引用箇所とは一致しないが、当該歌を詠む努力は平安期から行わ
れていたことを示している。
3 2 3 4 歌の例からも本文表記と同じく、仮名表記も非仙覚本系に
依拠したと思われるが、次に『名寄』仮名表記中の全ての新点歌につ
いて検討する。
(
1 ) 新点歌との関係
仙覚が始めて訓を付した歌は長歌・短歌・旋頭歌合わせて一五二首
と、 仙 覚 自 ら が 明 ら か に し て い る が( 『 仙 覚 律 師 奏 覧 状 』
⑻) 、 ど の 歌
が新点歌かは明らかではなかった。橋本進吉氏によって新点歌が明ら
かとなったが、その後武田祐吉氏や上田英夫氏の調査によって、この
新点歌の数は減じることとなる。上田氏は武田氏の調査に加え、つご
う 九 十 六 首 を 除 き、 五 十 六 首 が 仙 覚 以 前 に 全 く 付 訓 さ れ て い な い 歌、
「純粋の新点歌」 とした。 『名寄』 所収新点歌中にこの 「純粋の新点歌」
が あ り、 そ れ が 仙 覚 新 点 と 異 な っ て い れ ば、 『 名 寄 』 の 成 立 年 代 を 考
えると、仙覚以前に付訓された可能性もあり、上田氏が「純粋の新点
歌」とされた五十六首がさらに減じることになるのである。仙覚披見
の萬葉集古写本には確かに訓はなかったが、仙覚が見た以外に多くの
写本が都には存在したであろうし、仙覚以後も無訓歌のままで放置す
ることなく、付訓の努力はなされ、仙覚校訂本が都で流布するまで次
第に無訓歌の数は少なくなっていったと考えるのが妥当ではなかろう
か。仙覚以前以後何れにせよ、仙覚と無関係に付訓された新点歌が存
在したことは否定できないであろう。
仮 名 表 記 の 長 歌 六 十 八 首 の 中 に 新 点 歌 は 二 十 首 あ る。 『 名 寄 』 と 仙
覚新点とを比較したのが表Ⅱである。全てについて詳細に述べること
が で き な い の で、 い く つ か を 挙 げ、 『 名 寄 』 の 新 点 歌 に つ い て 考 え て
みたい。 六・
9 6 3 細川本 三十五 ・ 五三七四 筑前国 名児山 細 なにのみ は なこ山と おもひてわれこそは ちへの一ゑもなくさ
ま なくに
西 名
ナニノミヲ耳 乎 名
ナコヤマトオヒテ兒 山 跡 負 而 吾
ワカコヒノ戀 之 千
チヘノヒトヘモ重 之 一 重 裳 奈
ナクサメナクニ具 作 米 七 國
当該歌は『名寄』以前に所収する歌集・歌書はない。西本願寺本と
比校すると第一・二・三・五句に異同がある。この歌は長歌であり初
句から四句を削除し、短歌の如く改作して所収する。このように長歌
を短歌と改作するのは古くは 『古今和歌六帖』 にあり
⑼、 珍しくはない。
それはさておき、異同歌句を見ると「なにのみ は 」 「 おもひて 」 「 われ
こそは 」は訓の異同に繋がる萬葉集古写本間の本文の異同はない。と
ころが 「なくさまなくは」 の本文を見ると、 西温矢京 「 奈
ナクサメナクニ具作米七國 」 、 元 紀「 奈
ナクサメナクニ具 佐 米 七 國 」 ( 元 訓 な し ) 、 細 廣「 奈
ナクサマナクニ具 佐 末 七 國 」 、 寛 無 附
「 奈
ナクサメナクニ具佐末七國 」 (無訓なし)とあり、 『名寄』と一致するのは細井本 ・
廣瀬本である。細井本・廣瀬本の巻六における類似は既に『校本萬葉
集 十 八 』 に 述 べ ら れ て い る が、 『 名 寄 』 が そ れ と 一 致 す る の で あ る。
但 し 第 一・ 二・ 三 句 は 一 致 し な い の で、 『 名 寄 』 が 細 井 本・ 廣 瀬 本 の
いずれかを見たとはいえないが、これらと系統を同じくする一古写本
に依拠したと思われる。当該歌は新点歌とされているが、廣瀬本に全
句 の 訓 が あ り、 『 類 聚 古 集 』 に 僅 か に 訓 が あ る。 廣 瀬 本 は こ の 前 後 は
片仮名別提訓であるのに、 当該歌は片仮名傍訓であることを考えると、 も と は 訓 が な く、 後 に 書 き 入 れ ら れ た と 思 わ れ る。 『 名 寄 』 の 訓 は 仙
覚本に依拠しないものであるが、細井本・廣瀬本とも乖離のある訓を
持つ一本に拠ると考えられる。
十八・
4 1 1 6 細川本 二十九 ・ 四二一七 越中国 射水篇 河 細 いみつ川雪 か
きえへ に ま
みちし て行水のい
○ましにのみたつかなく奈 呉江のすけのねもころに思むすほ し
れ(見せ消ち、右傍書・○共に朱)
西 射
イミツカハ水河 雪
ユキキエミチテ消溢而 逝
ユクミツノ水能 伊
イヤマシニノミ夜末思尓乃未 多
タツカナク豆我奈久 奈
ナコエノスケノ呉江能須気能 根
ネモコロニ毛己呂尓 於
オモヒムスホレ母比牟須保礼
『 名 寄 』 は 第 二 句 と 第 八 句 に 異 同 が あ り、 朱 で 見 せ 消 ち を し、 右 に
修 正 を 記 入 す る
⑽。 第 八 句 は 片 仮 名「 レ 」 と「 シ 」 を 見 誤 っ た と 思 わ
れるが、これは『名寄』が片仮名訓本に依拠していたことを推量させ
る も の で あ る( 高 松 宮 本 思 ム ス ホ ヽ レ、 宮 内 庁 本 こ の 句 な し ) 。 第 二
句は高松宮本「雪カエニマシテ」で、細川本と一致、宮内庁本「雪は
上にまして」も細川本と類似する。第二句は萬葉集古写本は元暦校本
に 訓 は な く、 他 は 全 て「 ユ キ キ エ ミ チ テ 」 で 一 致 す る。 『 名 寄 』 以 前
に 当 該 歌 を 所 収 す る『 和 歌 初 学 抄 』 『 八 雲 御 抄 』 に も 当 該 句 は な く、
非 仙 覚 本 系 で こ の 句 を 所 収 す る 歌 集・ 歌 書 は な い
⑾。 ま た『 名 寄 』 以
後当該歌句を所収する歌集・歌書は見当たらない。
全 四 十 五 句 中 訓 字 表 記 を 用 い る 句 は 九 句 で そ の う ち 三 句 が『 名 寄 』
所収歌句 「射水河 雪消溢而 逝水能」 、 残り六句は 「年内 ・ 五月 ・ 夏野 ・
花 咲・ 今 日・ 鏡 」 を 含 む。 こ の 六 句 は 訓 む こ と は 困 難 で は な い。 『 名
寄』引用歌句も「射水河」は萬葉集中六首に用いられ、そのうち新点
歌 の 長 歌 が 五 首 で あ る。 一 字 一 音 表 記 が「 伊 美 都 河 泊・ 伊 美 豆 河 泊・
=
=
= =
や
=
伊美豆河波」の三例、訓字表記「射水河」が当該歌を含めて三例であ
る。短歌は
4 1 5 0 一首で「射水河」と表記し、 新点歌ではなく、 『古
今六帖』 ・『五代集歌枕』など多くの歌集 ・ 歌書に採られ訓まれていた。
『 名 寄 』 引 用 歌 句 三 句 の う ち「 雪 消 溢 而 」 以 外 は 訓 む こ と は 困 難 で は
な い。 『 名 寄 』 の こ の 訓 は 他 に 見 な い が、 仙 覚 本 に 依 拠 し た と は 思 え
ない。仙覚本系と異なると認定したが故に、朱で修正した。修正は仙
覚本に拠るものである。 ( 『名寄』他写本には修正の跡は見られず(刊
本は「雪きえみちて」とする)原撰本成立時は仙覚校訂本に依拠して
いないことを表すものである。当該歌は上田氏によって「純粋の新点
歌」と認定されたが、平安期から当該歌に着目し、地名のみであった
としても訓もうという努力はなされていたのである。それを嚆矢とし
て付訓歌句が拡がっていったと考えられよう。
他 に 表 Ⅱ か ら も 明 ら か な よ う に、 『 名 寄 』 所 収 新 点 歌 二 十 首 は、 西
本願寺本と異同のある歌が殆どであるが、そのうち新点歌と一致する
歌が一首ある。
十七・
4 0 0 8 純粋の新点歌
細川本 二十九 ・ 四三〇一 越中国 礪波山 細 見 わ た せ は 卯 の 花 山 の 時 鳥 ね の み し な か ゆ あ さ き り の み た
るゝ心ことにいてゝいはゝゆゝしみとなみ山たむけの神にぬ
さまつり
西 見
ミワタセハ和多勢婆 宇
ウノハナヤマノ能婆奈夜麻乃 保
ホトトキス等登藝須 祢
ネノミシナカユ能未之奈可由 安
アサキリノ佐 疑 理 能 美
ミタルルココロ太 流 々 許 己 呂 許
コトニイテテ登 尓 伊 泥 弖 伊
イハヽユユ婆 婆 由 遊 思
シミ美 刀
トナミヤマ奈美夜麻 多
タムケノカミニ牟気能可味尓 奴
ヌサマツリ佐麻都里 4 0 0 8 は 西 本 願 寺 本 と 訓 の み を 比 校 す る と 全 く 異 同 は な い。 『 名
寄』以前にこの歌を訓んでいる歌集・歌書は『萬葉集註釈』のみであ るが、 『名寄』 引用部と一致しない。この歌は全句一字一音表記であり、
訓むことはさほど困難ではない。猶、当該歌は本文表記としても所収
されるが、こちらは無訓である。仮名表記で所収しているということ
は訓めなかったわけではなく、何らかの事情で訓を記さなかったと考
え る べ き で あ ろ う。 当 該 歌 を 所 収 し て い る こ と が、 『 名 寄 』 が 編 纂 時
において仙覚校訂本に依拠したことの証左にはなりえない。
二十・
4 3 7 細川本 二十 ・ 二九六九 相模国 足柄御坂 2 純粋の新点歌 細 あしからの御坂たにいりうへくみすあれはくへゆくあられと
おもたれ
(高くへゆく―イエユク 他写本異同なし)
西 阿
アシカラノ志加良能 美
ミサカタマハリ佐可多麻波理 可
カヘリミス閇理美須 阿
アレハコエユク例波久江由久 阿
アラシヲモ良志乎母 多
タシヤハハカル志夜波婆可流
「 純 粋 の 新 点 歌 」 と さ れ る 一 首 で あ る が、 一 字 一 音 表 記 で 訓 む こ と
が 困 難 で は な い。 防 人 歌 で 方 言 が 用 い ら れ、 意 味 が 解 り 辛 い こ と が、
無訓であった理由であろうか。 「たにいり」は「タマハリ」の「マハ」
が「 ニ イ ― に い 」 と 見 誤 ら れ、 「 あ ら れ・ お も た れ 」 も こ れ で は 意 味
不明であるが、 「シ」 を 「レ」 と見誤ったものではなかろうか。 「カヘリ」
が「ウヘク」になったのは「カ」と「リ」が「カ→ウ→う」 、 「リ→ク
→く」と崩して書いた片仮名を誤認したと考えることができ、片仮名
傍訓本に依拠していたと推測されるのである。一方『名寄』の漢字本
文 に 訓 が 付 さ れ て い た と す る と、 「 タ マ ハ リ カ ヘ リ ミ ス 」 を「 た に い
りうへくみす」と誤認するであろうか。当該歌から『名寄』の依拠し
た萬葉集古写本は一部片仮名別提訓であった可能性もうかがえる。
細 川 本 の 朱 の 書 入 れ は 東 歌 に 偏 在 し て い た
⑿。 そ れ は 片 仮 名 を 誤 認
して生じた訓とは考えられない訓も多く、意味の解り辛い東歌を理解
しようと努め、 そのように訓んでいた写本もあったと考える他はない。
十四・
3 3 7 5 細川本 二十一 ・ 三〇三八 武蔵国 武蔵野 細 むさし野ゝおくきかきけ を
したち別い か
にに
しよひより こ
せろにあは
なふ ね
よ( 高・宮きけ を
しーキケヲ、い か
にに
しーイカニ、高 こ
せろにーコロニ 宮 ころも 高・宮あはなふ ね
よーアハナフネ)
西 武
ムサシノノ蔵 野 乃 乎
ヲクキカキケシ具 奇 我 吉 藝 志 多
タチワカレ知 和 可 礼 伊
イニシヨヒヨリ尓 之 与 比 欲 利 世
セロニアハナフヨ呂尓安波奈布与
3 3 7 5 歌( 短 歌 ) は 細 川 本 で は 朱 で 修 正( 見 せ 消 ち と 修 正 は 朱 )
されているが、片仮名の誤認により生じた訓とは考えられない。高松
宮 本・ 宮 内 庁 本 は 細 川 本 の 修 正 前 の 訓 と 一 致 し、 『 名 寄 』 と し て は こ
の 訓 を 所 収 し て い た の で あ る。 確 か に「 シ 」 と「 レ 」 、 「 つ 」 と「 ヘ 」
という誤認し易い例もあるがそれだけではないと思われる。
東 歌 は 無 訓 で も 一 字 一 音 な ら ば 訓 む こ と は 困 難 で は な い 歌 も 多 く、
ともかく訓むことは訓んだ、 『名寄』 はそういう訓の写本に依拠しつつ、
意味が通じにくいので、後に朱を以て修正したのである。
『 名 寄 』 所 収 新 点 歌 の 全 て を 本 稿 に 挙 げ る こ と は で き な い が、 特 徴
的な歌をあげ、 『名寄』 と新点における仙覚校訂本との関係をみてきた。
二十首のうち全く異同のない歌は
4 0 0 8 の一首のみであった。この
ことをもってしても新点歌に関する限り『名寄』は仙覚校訂本に依拠
していないと言えるであろう。
『 名 寄 』 仮 名 表 記 の 新 点 歌 の う ち、 「 純 粋 の 新 点 歌 」 は 七 首 あ っ た。
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上田氏の「純粋の新点歌」五十六首の減じる可能性は大きい。本文表
記 は 新 点 歌 が 十 七 首( 仮 名 表 記 と の 重 出 歌 五 首、 無 訓 歌 一 首 ) 、 純 粋
の 新 点 歌 は 九 首( 仮 名 表 記 と の 重 出 歌 二 首 ) で、 『 名 寄 』 長 歌 の 新 点
歌は三十二首、純粋の新点歌は十四首である。短歌について詳細に調
査 し て い な い が、 『 名 寄 』 所 収 萬 葉 歌 に よ り、 仙 覚 と 関 わ り な く 付 訓
された新点数は増えるであろう
⒀。
(
2 ) 改訓歌について
仮名表記長歌のうち西本願寺本に「青・モト青・モト青カ」 ( 『校本
萬 葉 集 』 ) と 記 さ れ た 歌 句 を 持 つ 歌 は、 二 十 八 首 六 十 二 歌 句( 重 複 歌
の歌句を含む)である。そのうち、西本願寺本と一致するもの(改訓
と 一 致 す る も の ) 二 十 三、 一 致 し な い も の 三 十 三、 ど ち ら と も 判 断 で
きないもの(その歌句のみ本文表記無訓のため)六である。このうち
改訓が一箇所のみで一致する歌が一首ある(改訓が複数個所あって全
て 一 致 す る 歌 は な い ) 。 こ の 改 訓 が 一 致 す る 歌 が 仙 覚 校 訂 本 に 依 拠 し
たのか確かめてみたい。
六・
9 3 3 細川本 三十四 ・ 五二二九 淡路国 野嶋 細 みちつくにひゝのみわき と あわちしまのしまのあまのあわひ
かゐ 本まゝ
西 御
ミケツクニ食 都 国 日
ヒヒノミツキト之 御 調 等 淡
アハチノ路 乃 野
ノシマノアマノ嶋 之 海 子 乃 海
ワタノソコ底 奥
オキツイクリニ津伊久利二 鰒
アハヒタマ珠 改訓箇所は「 御
ミツキト調等 」の「ト」であるが、 元紀京
赭廣「ラ」 、 細「ヲ」
で あ る。 『 名 寄 』 は こ こ だ け は 改 訓 と 一 致 す る が、 他 の 歌 句 は 大 き く
乖 離 す る。 「 あ わ ち し ま 」 は 萬 葉 集 古 写 本 は「 ア ハ ミ チ ノ・ ア フ ミ チ
ノ 」 で『 名 寄 』 と 一 致 す る も の は な い。 「 の し ま の あ ま の 」 の 後 の 二
句「 海
ワタノソコ底 奥
オキツイクリニ津 伊 久 利 二 」 を 省 略 し「 鰒
アハヒタマ珠 」 に 続 く が「 あ わ ひ か ゐ 」
とある。細川本と同系統と思われる高松宮本は「アハヒタマ」となっ
ているが、他の歌句は細川本と一致する。細川本も「あわひかゐ」に
不審を抱き、その疑問を「本まゝ」と記すことで表した。これらの異
同 を み る と「 ト 」 が 改 訓 と 一 致 し て い る こ と を も っ て、 『 名 寄 』 が 仙
覚 校 訂 本 に 依 拠 し た と は 到 底 思 わ れ な い。 「 み ち つ く に 」 は 高 松 宮 本
も同じであるが、 恐らく 「ミケツクニ」 の 「ケ」 を 「チ」 と見誤り、 「ケ
→ チ → ち 」 と い う 過 程 で 誤 認 さ れ た も の と 思 わ れ る。 こ れ も『 名 寄 』
が依拠した萬葉集古写本が片仮名訓本であったことを推測させる。も
う一首『名寄』が仙覚校訂本に依拠していないと思われる例を挙げよ
う。 六 ・ 9 4 2 細 川 本 ① 三 十 一 ・ 四 七 六 一 播 磨 国 青 山 ② 三十四 ・ 五二二八 播磨国 野嶋 ③三十一 ・ 四六〇〇 播磨国 辛荷嶋
① から 本
にのしま も
のよ
しまゝり 我やとをみれはあを山のそこともみえす白雲 の (見せ消ち 傍訓とも朱 「白雲の」朱)
② さくら貝まきたる舟にまかちぬき我漕くれは淡路嶋野嶋も過てい
なみつまからかのしまのしまかくれ
纒 ③ 桜皮 作
ツクレルフネニ流舟二 真
マカチヌキ梶貫 ワ
吾榜来者カコキクレハ 淡
アハミチノ路乃 野
ノシマモスキ嶋毛過 伊
イナミツマ奈美嬬 辛
カラ荷
ニ乃
ノ嶋
シマ之
ノ嶋
シマ際
マヨ
従
リ (傍訓朱、 傍書 「吾榜来者」 及び 「淡」 の左の 「アハ」
墨。 「嬬」は「嶋」を塗り消して書く。 「従」朱)
西 桜
カニハマキ皮 纒 作
ツクレルフネニ流 舟 二 真
マカチヌキ梶 貫 吾
ワカコキクレハ榜 来 者 淡
アハミチノ路 乃 野
ノシマモスキヌ嶋 毛 過
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=
伊
イナミツマ奈美嬬 辛
カラ荷
ニ乃
ノシマ
ノ