• 検索結果がありません。

一高伝来の「歴史画」をめぐって

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "一高伝来の「歴史画」をめぐって"

Copied!
27
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

文】

「歴史画」における有職故実と図案教育

一高伝来の「歴史画」をめぐって

井 戸 美 里

(2)

一、一高伝来の歴史画について

第一高等中学校に由来する日本画は︑歴史上の重要な人物や事象を描くいわゆる﹁歴史画﹂であり︑現在は東京大学︵総合文化研究科・

教養学部駒場博物館︶に所蔵されている︒明治二十五年︵一八九二︶頃を中心に当時の一高の校長・木下広次の構想で﹁歴史参考室﹂に陳

列することを想定して依頼されたと推測される作品群である ︒すべて日本の近世以前の歴史に取材する内容であるが︑これらの作品は︑画

面形式により以下の四種類に分類される︒大画面の額装四点︑大画面軸物五点︑小画面軸物二十点︑絵巻物︵模写も含む︶四点︑計三十三

点である︒本コレクションの中刻をなすのは大画面の軸物に﹁歴史画﹂を描く五点と比較的簡素な紙を使用して各時代の歴史上の人物や

風俗を描く一連の小画面軸物二十点である︒前者については︑橋本雅邦︑川端玉章︑巨勢小石︑下村観山など当時開校間もない東京美術学

校︵現︑東京藝術大学︶の関係者を中心に川辺御楯など有職故実に詳しい画家によって制作された︒後者は︑描いた画家の名の横に﹁福地

復一撰﹂の書入れがある作品群で︑統一したテーマのもと東京美術学校や岡倉覚三︵天心︶とも関わりの深い福地復一が画題の選定に関わっ

ていたことが推測される︒これらの作品が一高に購入された経緯については以下の﹁倫理講堂設置に関する校長所見草稿﹂から明らかとな

従来当校教育上生徒ノ特性ヲ滋養スルノ点ニ於テ頗ル欠乏ヲ免レサルノ実アルヲ以テ先ニ倫理ノ学教ニ一層ニ重キヲ帰シ⁝ 日本歴史ノ科ニ重キヲ置キ其教室ニ関シテモ適当ノ注意ヲ要シ倫理教室ト併立セシメ之ヲ以テ当校教育ノ主眼タラシメンコトヲ要ス  倫理教室ニ講堂装置ハ新深厳正ナルヲ要シ歴史教室ハ宏壮優美ナルヲ要シ又歴史教室ニハ本邦歴史上ニ関スル絵画肖像其他ニ美術品等ヲモ陳列シ以テ歴史上ノ感情ヲ振奥スルニ於テ興リテ力アラシメンコト甚肝要ナリ ︵傍線部は筆者︶

 このように一高の歴史画は︑学生の倫理と歴史の教育のため︑それらをそれぞれ倫理講堂と歴史教室に陳列することを想定して依頼され

たものであったことがわかる︒       さらに﹁木下校長演説抜粋および付言 ﹂には︑以下のように記され る︒  附して言ふ︑また木下校長時代に歴史参考室なるもの設けられ︑國史上著名の人物または事件並びに風俗等の図絵を聚めて國史の

参考資料たらしめんとし︑当時出色の画家をして描かしめしことあり︒不幸にしてその業爾来発展を見ず中絶せるも︑左記の如き

大作以下多数の図絵なほ今日に存して図書館に在り︒うち田村将軍並菅公之図は恆に倫理講堂に掲げ来れり︒

ここに記されるように︑小堀靹音により描かれた菅原道真および

坂上田村麻呂の肖像は倫理講堂に掲げられ︑文武両道の象徴として倫理教育の一端を担っていたと考えられる︒﹃鞆音遺響﹄︵私家版︑

(3)

一九三一年 ︶には︑明治二十二年︵一八八九︶十月に︑﹁第一高等中学校の嘱に依り︑文武両官の二大画像を描く﹂と記録されている︒小

堀桂一郎氏によればこの明治二十二年は明治二十三年の誤りである可能性があり︑もし︑この十月が正しければ︑明治二十三年十月に発布

された教育勅語との関連で︑﹁菅公図﹂と﹁田村将軍図﹂は成立したと考えられる ︒つまり︑教育勅語の発布に伴い︑一高では同年十二月

二十五日に明治天皇宸筆の勅語が下賜され︑続いて︑二十四年一月九日には倫理講堂にて拝戴式が行われており︑このことからも﹁文武

両官﹂を示すこの二つの肖像は教育

勅語の記念として依頼された可能

性がある ︻図1︑2︼︒一高のコレ

クションのうち︑小堀鞆音に依頼さ

れた作品は最多の五点が所蔵さ

れる︒なかでも﹁大阪後役之図﹂

は︑明治二十三年︵一八九〇︶の第

三回内国勧業博覧会で妙技三等賞を

【図1】小堀鞆音「田村将軍図」(左)、「菅公図」(右)

【図2】一高の入寮式の様子(『第一高等学校六十年史』より)

(4)

受賞し︑その後一高の買い上げとなった︒小堀鞆音は︑東京美術学校において教科用絵画取調や考古学の事業の嘱託を受けた川崎千虎の門

であり︑有職故実など時代考証を得意とした画家であることから︑歴史画を描くのに適任と判断され抜擢されたのであろう︒

木下校長の関与については︑下村観山から木下宛ての書簡を見出すことができたが︑そこには観山が尾形月耕筆の菅公図を斡旋していた

様子が記されており︑一高を去って京都大学の学長となった木下が︑京都大学のために新たな﹁菅公図﹂の制作を依頼していた可能性が窺

われる

二、「歴史画」への目覚め―明治二十年代の「歴史画」をめぐる言説

﹁歴史画﹂は︑言うまでもなく西洋美術においては古くから高いヒ

エラルキーに位置づけられてきたジャンルである︒日本にとって馴染みの薄かった歴史画は︑明治以降の新しい近代国家の体制のなかで歴

史教育の一環を担っていくこととなる ︒先行研究でも注目されているように︑大日本帝国憲法が公布され

た明治二十二年は﹁歴史画﹂においても画期的な年であった︒明治二十二年︵一八八九︶に刊行され現在でも続く日本美術史の雑誌﹃国

華﹄創刊の辞において岡倉は﹁歴史画ハ国体思想ノ発達ニ随テ益新興スベキモノナリ﹂と述べており︑歴史画が国体思想と密接に関わる

ジャンルとして定義されている︒またこの年︑新聞﹃日本﹄における歴史画題の懸賞募集があったことも知られている︒この懸賞募集では あらかじめ歴史画題が呈示されており︑絵画は﹁神武天皇御即位ノ図﹂﹁日本武尊東征ノ図﹂﹁蒙古敗軍ノ図﹂︑彫刻は﹁神武天皇御像﹂﹁護

良親王像﹂﹁楠正成像﹂であり︑新聞を通じた懸賞募集は歴史画の流行をもたらした︒このような画題は一高の歴史画とも共通しており︑

こうした時代的背景のなかで︑東京美術学校の成立に所縁のある画家たちによって一高の歴史画も生み出されたと考えられる︒一高の歴史

画は︑歴史画が興隆した明治二十年代に当時の最高教育機関により依頼されたことが明らかであり︑近代国家において歴史画という西洋由

来の画題や概念が日本に定着していく過程を示してくれる貴重な作例であると言えよう︒

日本画の再興に貢献し︑東京帝国大学で哲学などを講じたアーネスト・フェノロサは︑岡倉とともに明治二十二年︵一八八九︶に開校し

た東京美術学校の設立にも尽力した︒なかでも重要なのは︑この時期にこれまで存在していなかった﹁歴史画﹂が誕生していく経緯にフェ

ノロサや岡倉と関わりの深い東京美術学校にゆかりのある画家たちが関与していたことである︒明治十八年︵一八八五︶に行われたフェノ

ロサの講演﹁日本歴史画の将来﹂は︑その後の歴史画の行方を大きく左右した 10

︒そこでフェノロサは︑日本における﹁歴史画﹂の不在に警

鐘を鳴らしている︒つまり︑日本には絵巻物のように小画面に歴史的な人物や出来事が描かれることはあったが︑それらは多くの人々が鑑

賞できる公共の場での展示を想定した大画面ではなく個人的な鑑賞のための形式であり︑国家のための国民的な主題としての歴史画として

は不十分であることを説いている︒大切なのは無表情な人形や甲冑や衣装などの細密な描写よりも︑大画面の形式に相応しい人間の心情で

(5)

あると訴える︒さらに岡倉も﹃国華﹄創刊の辞において︑絵巻に描かれる英雄伝を歴史画と認めつつ︑その細小さと秘匿性から︑公共の展

覧に適さず︑﹁明治今代/国民元気ヲ形相﹂するには至っていないとする︒フェノロサの言説を継承していることは明らかである︒こうし

た言説に東京美術学校を中心とする画家たちが無意識でいられたはずがあるまい︒一高歴史画の中刻となる五点の大画面の掛軸の成立背景

には︑このような﹁歴史画﹂観が看取される︒それではこれら五点の歴史画から検討してみよう︒

川端玉章﹁八幡太郎図﹂は︑名将・源義家を描く︻図3︼︒七歳の時に石清水八幡宮で元服をしたことからこう呼ばれた︒ここに描くの

は﹁後三年合戦絵巻﹂にも取材される有名なエピソードがあるが︑義家が中国の古い故事にある雁の乱れに敵陣の伏兵を知るという場面を

描く︒絵巻の詞書には﹁兵野に伏ときに雁つらをやぶる﹂と記される︒義家は大江匡房から文の道を学んでいたからこそ︑合戦の兵法だけで

なく︑中国の古い書に説かれる道理を知ることができたといい︑義家の知略を示すエピソードとして語り継がれてきた︒文武両道の精神が

強調された時代において︑義家の下したこの一瞬の判断はこれからを担う若者の歴史教育の場に適切な画題として採用されたのであろう︒

玉章は京都に生まれ円山派に西洋絵画の技法を取り入れ︑南画風の山水や花鳥の作品を多く残しているが︑このような歴史の題材は玉章の

画業のなかでは稀であり︑当時の﹁歴史画﹂の隆盛を物語っている 11

︒東京美術学校では円山派を代表する画家として指導にあたっていたと

され︑遠景の山並や樹木の自然表現にみる写実的な描写に玉章の特徴が表れている︒ 次に見ていくのは︑巨勢小石﹁大塔宮之図﹂である︻図4︼︒大塔宮護良親王は︑後醍醐天皇の第一皇子とされ︵諸説あり︶︑天皇とと

もに幕府討幕を企て挙兵した人物である︒本図は﹃太平記﹄巻五の﹁大塔宮熊野落事﹂を典拠とし︑元弘の変︵一三三一︶によって幕府

方に追われ︑奈良の般若寺に潜んでいたところに敵の軍勢が攻めてきた場面を描く︒そのとき護良親王は機転を利かせ︑般若経の入った唐

櫃のうち︑あえて蓋のしていない箱を選びその中に身を潜めることで

【図4】巨勢小石「大塔宮図」 【図3】川端玉章「八幡太郎図」

(6)

難を乗り切ったとされる︑緊張の一瞬が描かれる︒開いた窓の奥にたなびく旗によって敵の存在を暗示し︑執拗なまでの伽藍堂内の装飾や

経典細部の描写は︑画家の個性的な表現となっている︒父・後醍醐天皇を健気に支えた護良親王は︑忠臣・楠木正成とともに南朝方の天皇

を支えた人物として明治期に脚光を浴び︑﹁歴史画﹂の懸賞課題になるなど注目を集めた画題であった︒

愛国忠君のシンボルとして南朝方の皇国史観のもと再解釈されたこの歴史的な題材を︑西洋画に見られるような遠近法や写実性を取り込

んだ肉感溢れる人体として描出する点にこの時代に模索された﹁歴史画﹂の方向性を認めることができる︒従来の日本美術においてこの

ように天皇の人間性を強調して描くことは稀であり︑白粉や眉墨を施した﹁護良親王出陣図﹂︵個人像︶などの作例と比較するまでもなく︑

ここではこれまでに例を見ないたくましい肉体描写となっている︒人間の身体そのものを描くことの重要性が説かれた当時の美術界の動向

を示していよう︒橋本雅邦﹁西行法師之図﹂は︑鳥羽院の下北面の武士︑徳大寺家

の随身を勤めた平安末期から鎌倉初期の歌人︑西行︵一一一八︱一一九〇︶を描く︻図5︼︒当時︑開校間もない東京美術学校の絵画

科の主任となった橋本雅邦によって描かれた︒注目すべきは︑その人物表現である︒本図は﹁西行物語絵巻﹂や琳派の作品を参照しながら

描いたとされるが︑西行の相貌はそうした古画とは異なり︑彫も深く表現されている 12

︒本場面は︑﹃山家集﹄の﹁心なき身にもあはれは知

られけり鴫たつ澤の秋の夕暮﹂を絵画化したと考えられるが︑﹁あはれ﹂という﹁日本的﹂な主題に焦点が当てられている︒西洋画の技法 を駆使しリアルな表現を追求する一方で︑中世の歌人︑西行の﹁あわれ﹂の発露という日本的な画題を折衷させようとする痕跡がここには見られる︒西洋画の様式や技法の単なる模倣ではなく︑明治期の日本の土壌のなかで読み替えられうる新しい日本画が求められた時代で

あった︒下村観山﹁蒙古襲来之図﹂は︑鎌倉時代に元寇の名で知られるモン

ゴル軍による二度の襲来を題材として描いた作品である︻図6︼︒観山の描く﹁蒙古襲来﹂には︑﹁蒙古襲来絵詞﹂などの古画をふまえな

がらも︑そこに空気遠近法のような西洋画の技法を取り入れ︑蒙古の軍勢との戦いに挑む一瞬の張りつめた様子が伝わってくる︒﹁蒙古襲

来図﹂︵もしくは﹁元寇﹂︶は︑明治期の﹁歴史画﹂として特に好んで

【図5】橋本雅邦「西行法師之図」

【図6】下村観山「蒙古襲来之図」

(7)

描かれ︑当時の歴史教科書の挿絵として採用されている題材のなかでもその数はトップクラスであった︒同じ頃に推進された元寇記念碑

の設置運動とも軌を一にする︒こうした歴史的背景については︑帝国大学の哲学科において初めての日本人の教授となった井上哲次郎が教

育勅語の注釈として執筆した﹃勅語衍義﹄の一節が当時の状況を極めてよく示している 13

︒国家の危機に際しては国民としての義務を全うす

る必要があることを説いており︑時代の趨勢のなか︑画家たちの描く﹁歴史画﹂は国家の戦争というプロパガンダの一翼を担うことになっ

ていく︒本作品の受け入れは﹃第一高等学校六十年史﹄には明治二十六年

︵一八九三︶とあるが︑﹃下村観山伝﹄は︑明治二十八年︵一八九四︶に日清戦争の戦勝記念として一高が東京美術学校に依頼したものであ

ることを伝えており︑もともと橋本雅邦が担当する予定であったが︑大和絵を研究し歴史画を得意とした観山が命じられ揮毫したとされ

14

︒川辺御楯﹁衣笠合戦金子兄弟奮闘之図﹂は︑源頼朝の挙兵に呼応し

て三浦氏が籠城していた衣笠城を平家方の畠山氏が攻めた衣笠合戦を描く︻図7︼︒﹃源平盛衰記﹄巻二十二の﹁衣笠合戦事﹂を典拠とす

る︒ここに描かれるのは︑負傷した兄・金子十郎家忠を背負う弟・与一親範が共に三浦与一を返り討ちにした場面︒御楯が多くの﹁歴史

画﹂を描いていたことは日本美術協会などの展覧会出品目録から推察され︑天皇家の依頼に応える作品も手掛けていたことが知られる︒現

在宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵される﹁新田義顕血戦図﹂は明治二十五年︵一八九二︶の日本美術協会秋季展に出品され銀賞を受賞︑宮内省 御用品となったことが知られる︒

以上︑大画面の軸物五点を見てきたが︑橋本雅邦の西行を除き︑ほとんどが戦の場面を描いていることに時代の趨勢を見ることができ

る︒これらの歴史画はいずれもフェノロサや岡倉が提案したような国民に共有される感情を醸成していくことを目指し︑適切な画題が模索

されていたことが理解されよう︒先のフェノロサの講演と呼応するかのように︑新しい日本画の行方

については︑外山正一や井上哲次郎など︑当時の東京帝国大学教授らが明治美術会において行った東洋の美術や日本の絵画についての報告

からも明らかとなる︒外山は西洋の絵画に比べて日本の絵画には﹁思想ヲ表セルモノハ至ッテ稀﹂であり︑﹁歴史画ノ如キ宗教画ノ如キ想

像的ノモノト雖モ画人ノ想像ハ専ラ形状ニハルモノナリ﹂とし︑日本の絵画には﹁思想﹂を表すものがほとんどなく歴史画や宗教画を描こ

うとしても﹁形状﹂にとらわれていることを批判している 15

︒井上は西洋画と比べて東洋画の規模の狭小さを批判しながら︑﹁東洋ノ美術ヲ

【図7】川辺御楯「衣笠合戦金子 兄弟奮闘之図」

(8)

盛ンニ仕様ト云フニハ︑極メテ高尚ナル現象ニ︑美術ニ入レテ置カナケレバナラヌ︑即チ人事ノ絵画カ益々盛ンニナツテ来ナケレハナリマ

セヌ﹂とし︑歴史画などの人事を描く主題によって美術は高尚な現象に高められること︑さらに﹁形体上ノ美ト︑精神上ノ美ヲ合併シテ居

ル﹂人間の身体そのものを描くことに思想性を見出している 16

︒通常の軸物よりも格段に大きな一高の﹁歴史画﹂には︑規模の狭小さを克服

し︑壮大で崇高な思想性の表出を備える人物表現により国民に共有されうる新しい日本画の在り方を模索する画家たちの姿勢が見えるので

はないだろうか︒それはこれまであった日本の伝統的な歴史を単に描くということだけでは不十分であり︑西洋の﹁歴史画﹂の概念を日本

の伝統のなかで体現しようとする東京美術学校を中心とする画家たちに共通の目標であったと言えよう︒

三、教育のための歴史画

前節では一高に歴史画が購入された経緯を大日本帝国憲法や教育勅

語の発布など明治二十年代前半の近代化の荒波のなか︑新たな日本画の必要性が説かれていく状況を確認してきた︒一高が依頼した﹁國史

上著名の人物または事件並びに風俗等の図絵﹂を描く画家たちが︑いかに新しく移入された西洋美術の﹁歴史画﹂という概念に挑戦して

いったのかという点については先に考察した通りであるが︑次に︑これらの作品の図について︑典拠となる作例や同時代の教科書の挿絵と

比較する︒ 図像の典拠としての『前賢故実』小堀鞆音筆﹁菅公図﹂は︑幕末から明治初期にかけて刊行された

﹃前賢故実﹄から図像を引用している︻図8︼︒﹃前賢故実﹄は︑画家の菊池容斎が︑古代から南北朝時代における歴史上の重要人物︑

五七一人を描き全十巻にまとめたものであり︑当時多くの画家たちが作品制作の拠り所としていた 17

︒塩谷純氏は︑容斎自身が﹁古より我国

の人にして我国の人物を画くことをせず多く漢土の人物を画く︒いかなればかくの如きや﹂︵﹃東洋絵画叢誌﹄第五︶と述べるほど︑日本人

はそれまで過去の歴史人物を描くことが少なかったことを認め︑自力でさまざまな考証を行いながら一人一人を描いていったことを指摘し

ている 18

︒さらに東京国立博物館に人物の的確な姿態の写生が残されていること︑同館の﹃前賢故実﹄には参考にした古器などのスケッチが

添付されていることからもそうした状況を窺い知ることができるとい

【図8】菊池容斎『前賢故実』より「菅公」

(9)

19

︒それまでまとまった過去の歴史的人物像がほとんど描かれてこなかった状況のなかで︑歴史画興隆の時代にあって画家たちがいかに容

斎の﹃前賢故実﹄を信頼していたのかは想像に難くない︒そのことをよく示しているのが︑以下に引用する同時代の雑誌﹃絵画叢誌﹄に掲

載された野口勝一による﹁歴史教育画論﹂︵明治二十五年四月︶と題する論説である︒

絵画は美術最高の品位を保つのみならず歴史教育と至重至大の関

係を相為し一図一筆も亦苟もすべからざるものあり︒本邦往昔歴史画と称すべきは土佐派にして初めは時様を直写せしもの其源を

なし諸画巻の類は歴史に意ありて作るにあらざるも亦伝へて後世に至り歴史画となり︒又後世古への文意歌様を図するもの所謂有

職故実を写して一の歴史画をなしたるなり︒然れども之を要するに是れ美術に歴史を寓するものにして純然たる歴史の目的より作

るにあらざるもの多し︒独り菊池容斎翁の筆に成る前賢故実に至りては純乎たる歴史画と称するに足るべし︒乃ち翁の如きは絵画

世界に一生面を開きたるものといふへし︒教育画に至りては既往此の如く其整へるものあるを見ず︒︵傍線部は筆者︶

﹁歴史教育画﹂の制作にあたっては︑有職故実を基礎に置かなけれ

ばいけないことは言うまでもなく︑画題の選択に対してはより慎重に考察しなければならないことが説かれる︒菊池容斎の﹃前賢故実﹄は

有職故実の考証については正確であるが︑画題の選択には一考すべき余地があるとされ︑画題選択の重要性が示されている点も興味深い 20

﹃絵画叢誌﹄第八号︵明治二十年︶の巻末に本雑誌発行元の東洋絵画会への入会者に一高の校長・木下広次の名が見えることから︑木下はこのような言説に早くから触れていたと考えられ︑﹁歴史教育画﹂の画題選択は国家を支える歴史教育を担っていた一高にとっても喫緊の課題であったはずだ︒歴史教科書の挿絵としてさらに重要なことは︑一高の歴史画の多くの図像が明治二十年代前

半の歴史教科書の挿絵と極めて類似していることであり︑注目すべきは︑﹃前賢故実﹄を参照して制作されたと思わる一高の﹁菅公図﹂が︑

歴史の検定教科書︵﹃高等小学日本歴史﹄︵文部省︑明治二十四年︶︶の挿絵に共有されている点である︒この点については︑以前論じたこ

とがあるが︑重要な点でなので重複する部分もあるが簡潔に述べておくと 21

︑﹁菅公図﹂と対となる﹁田村将軍図﹂についても︑歴史教科書

﹃小学校用歴史﹄︵辻敬之︑福地復一編︑明治二十年︶の挿絵の図様と類似していることから︑まさに︑この二図は歴史教育という点にお

いて重要な意味を担っていたことが推察される︻図9︼︒ほかにも三十三点の歴史画のうち多くの作品が教科書や歴史を題材

とする読み物の挿絵と類似しているか︑もしくは︑共通する主題を描いていることに留意したい︒たとえば︑川端玉章﹁八幡太郎図﹂は

﹃小学校用  歴史﹄︵福地復一︑明治二十年︶︑﹃小学国史概要﹄︵明治二十年︶︑﹃小学  歴史階梯﹄︵明治十九年︶に﹁義家雁行ノ乱ルヽヲ

見テ伏兵ヲ知ルノ図﹂などとして掲載され︑そのほかにも﹃小学日本史﹄︵金港堂︑明治二十一年︶︑﹃高等小学歴史﹄︵明治二十四年︶など

(10)

多くの教科書に採用されている︻図

は﹃幼学綱要﹄︑﹃小国民﹄︑﹃小学帝国史談﹄︵明治二十五年︑太田百 10︼︒また︑巨勢小石﹁大塔宮図﹂

祥編纂︶︑﹃高等小学歴史﹄︵明治二十四年︶などにもほぼ同様の図様を確認できる︻図

11︼︒

さらに︑小画面の軸物にも同様の傾向が看取できる︒大石真虎﹁朝賀図﹂は﹃小学日本史﹄︵金港堂︑明治二十一年︶および﹃日本歴史

画報﹄十一号︵明治二十六年二月︶︻図

12︼︑石本秋園﹁上代人物之 天皇の肖像として掲載されている︻図 年園﹄に掲載される川崎千虎筆の﹁神武天皇の宸影﹂においては神武 図﹂は﹃歴史大要﹄に類似した図様を確認することができるが︑﹃少

人図﹂は﹃小学帝国史談﹄︻図 13︼︒小堀鞆音﹁豊臣家時代武 14︼に武田信玄の肖像として︑同じく

小堀鞆音﹁源平時代武将之図﹂は﹃古今事歴大要﹄︻図

帝時代武将之図﹂は﹃日本小歴史﹄︵富山房︑明治二十六年︶︻図 15︼︑同﹁仁徳 16︼︑

石本秋園﹁大礼服着御之図﹂は﹃尋常小学日本歴史﹄︵明治二十四年︶

【図91】『高等小学歴史』(文 部省、明治24年)

【図92】『小学校用 歴史』(辻 敬之、福地復一編、明治20年)

【図11】『高等小学歴史』(明治24 年)

【図10】『小学日本史』(金港堂、

明治21年)

(11)

【図121】大石真虎「朝賀図」

【図122】『小学日本史』(金港堂、明治21年)

【図123】『日本歴史画報』11号(明治262月)

【図133】川崎千虎「神武天 皇の宸影」

【図132】『歴史大要』(普及舎) 【図131】石本秋園

「上代人物図」

(12)

【図162】『日本小歴史』(富 山房、明治26年)

【図161】小堀鞆音「仁徳帝時代 武将之図」

【図152】『古今事歴大要』 【図151】小堀鞆音「源平時代武将之図」

【図142】『小学帝国史談』 【図141】小堀鞆音「豊臣家 時代武人図」

(13)

において後三条天皇の肖像として掲載される︻図

図像自体は異なるが︑住吉広一﹁藤氏専権時代宮女之図﹂や山名義海 17︼︒これ以外にも︑

﹁鎌倉幕府時代山僧之図﹂︑同﹁源平時代譜紳家下車之図﹂などは﹃小学日本史﹄︵金港堂︑明治二十一年︶︻図

18︼に同様の主題として掲載

されていることから︑その時代の風俗として描かれているのであろう︒﹁歴史画﹂興隆の時代において︑これらの図像がいかに教科書の挿

絵として利用され歴史教育の役割を担っていたのか︑という点については上原いづみ氏の詳細な研究がある 22

︒上原氏が明らかにしているよ

うに︑歴史教育において挿絵などの視覚教育が重視されるようになる転機は︑明治二十三年︵一八九〇︶の小学校令︑教育勅語の発布に続

き︑明治二十四年︵一八九一︶の﹁小学校教則大綱 23

﹂において︑視覚教材の重要性が指示されたことである︒

明治初年までは翻訳教科書が使用されており︑挿絵についてもすべての教科書にあるわけではなかったのに対し︑挿絵を用いた国史の教

育が企図された時期と一高の歴史画が木下校長時代に購入された時期は軌を一にしている︒一高においてこれらの歴史画が倫理講堂や歴史

参考室のために制作されたことに鑑みれば︑当時の教科書の挿絵とも共通するこれらの作品が︑将来の日本を担う若きエリートたちの倫理

や国史の教育に資するための視覚教材として機能していたことは明らかであろう︒しかしながら︑歴史参考室の構想は︑木下校長が一高を

去った後に実現したという記録は見当たらず︑構想だけに終わってしまったようである︒しかしながら︑明治二十年代初頭にこのような国

史教育のための歴史画が一高によって東京美術学校に依頼され︑しかも同時代の教科書の内容と極めて近い内容であることは︑当時の政治

【図172】『尋常小学校日本歴史』(明 24年)

【図171】石本秋園「大礼服着御之図」

(14)

【図182】『小学日本史』(金港堂、明治21年) 【図181】山名義海「源平時代譜紳家下車之図」

界︑教育界︑美術界の密接な関わりを想起させる︒以下︑このような流れのなかで︑一高ひいては帝国大学における歴史教育の実態と国史

編纂事業との関わりについて見ていきたい︒

明治二十年代の修史編纂事業と「歴史画」明治十九年に文部省内に教科書の編集局が設置されると︑文部大

臣・森有礼の着想により︑歴史教科書の原稿公募があり︑修史局の長官・重野安繹︑帝国大学教授外山正一などが関わったことが知られて

いる 24

︒これらは小学校で使用する歴史教科書が主であったと思われるが︑当時は高等教育機関においても適当な教科書は存在していなかっ

たことが推測される︒実際︑木下校長時代に文部省の濱尾新︵後の帝国大学総長︶から国史の授業へ使用する教材について問い合わせがあ

り︑木下の回答は一高では国史の授業においては教科書も参考書も用いず︑﹁神皇正統記﹂などを通読していたことを記している 25

︒さらに

興味深いのは︑﹁本校国文学部に於て相当の国史教科書を編成せんと欲して既に着手せり﹂︵明治二十五年︶と追記されていることであり︑

文部省の協力のもと帝国大学を中心として国史の教科書が編纂されている実態である 26

︒このとき文部省で教科書の調査を行った濱尾新は︑

明治二十六年︵一八九三︶には帝国大学総長になる人物であり︑しかも︑文部省に入省する一年前には東京美術学校の校長代理を務めてお

り︑その時の幹事は岡倉であった︒また︑修史局は帝国大学の国史科へ移管されたため︑重野も帝国大

学での国史教授となった︒伊藤真実子氏によると︑この修史編纂事業の中心を担った重野は︑日本の国史の叙述方法においても︑清の考証

(15)

学や江戸時代の国学に加えて︑欧米の実証主義的な歴史叙述を参考にすべきことを主張したとされる 27

︒このような姿勢は︑当時の歴史画を

めぐる言説とも共通するものであろう︒帝国大学の外山正一や井上哲次郎により歴史画についての講演が行われたり︑一高の歴史画が東京

美術学校に依頼された背景に︑直接的ではないかもしれないが︑このような国が主体となり歴史教育のための基盤を整えるなかで国史の教

科書の編纂事業が行われていたことを視野に入れる必要があるのではないだろうか︒

文部省は一高のような高等教育機関を始めとして︑国史の教育のために使用できる教材や掛図︵挿図︶について適切なものを東京美術学

校に直接発注した可能性もある︒実際のところ︑一高にも東京美術学校にも文部省が一高の歴史画を主導的に斡旋したことを示す記録は

残っていないが︑下村観山の﹁蒙古襲来之図﹂については︑﹃下村観山伝﹄のなかに﹁この年第一高等学校の依嘱に応じ︑﹁元寇図﹂の大

作を揮毫す︒この図は元来︑文部省より高等学校に於ける歴史教育資料として︑美術学校にその制作を依嘱したもので︑教授橋本雅邦

が執筆担当の処︑大和絵は特に観山が研究する処ふかかったが為に︑二十二歳の若年にも拘らず特に命ぜられて揮毫したものと伝えられ

る︒﹂とある 28

︒後世の資料ではあるものの︑修史編纂事業とともに一高の歴史画制作の背景に︑文部省が関与した可能性が見えてくる︒ま

た︑少し時代が下るものの︑修身の教育のための掛図は明治三十三年より文部省が着手し︑東京美術学校の寺崎広業へ嘱託されたことが記

録上明らかである 29

︒文部省を中心に東京美術学校や帝国大学が一枚岩となって新しい国 家のイデオロギーを模索するなかで生み出されたのが一高の﹁歴史画﹂であり︑それらは国家の倫理観や歴史を支える教育的使命を担うことが期待されたのであろう 30

︒では︑このような時代の要請に一高歴史画の制作に関与した画家た

ちはどのように向き合ったのであろうか︒最後に︑当時の東京美術学校や日本美術協会における絵画制作の実態について︑図像を詳細に分

析することを通して一つの回答を試みたい︒

四、東京美術学校における図案教育と有職故実

これまで見てきたように︑東京美術学校が中心となって制作をした歴史画は︑教育用の教材としての性格が求められた︒明治二十年代に

新たに試みられた国史の教育には︑重野を中心とする歴史学者が目指した西洋に倣った実証的な歴史叙述という方向性を軸に︑教科書にお

いては発掘の成果などに基づく科学的かつ考古学的な成果や考証が組み込まれたとされる 31

︒このような傾向に対して︑実際に歴史画を描い

た当時の画家たちはどのように対応していたのであろうか︒

福地復一と歴史教科書の図案をめぐって一高の歴史画のうち︑二十点の小画面の軸物には画面右下に画家の

名とともに﹁福地復一撰﹂と書き込みがあり︑これらの作品の画題を福地復一が選定していることを示している︒福地復一は︑岡倉が明治

三十一年︵一八九八︶に東京美術学校を去ることとなった美術学校騒動の際の黒幕として知られている人物であるが︑一高絵画が描かれた

(16)

当初は︑岡倉は福地を美術学校へと呼び寄せ︑模写事業においても重用していたことが知られている︒また福地は︑文部省の編纂事業とは 別に教科書の編集にも携わっていたことも見逃せない 32

︒先述のように﹁福地復一撰﹂とある図様の多くは︑明治二十年代の

歴史教科書の挿絵と一致もしくは類似しているが︑このことは︑一高絵画が歴史参考室に陳列されるために集められた歴史の教材であった

ことに鑑みれば不自然なものではない︒一方︑特筆すべきは︑装束や武具などの図柄︑細部描写への執拗なまでのこだわりである︒このよ

うな歴史的考証や有職故実に基づき︑日本史上の著名な人物や各時代の風俗を描くことは︑当時の画家たちにとって重要な任務であったと

考えられる︒たとえば︑荒木季達﹁寧楽時代采女之図﹂が﹁吉祥天像﹂︵薬師寺

蔵︶をベースとして描かれていることは明らかだろう︻図

19 33

︒奈良時代の采女の肖像を正確に描写するのはほぼ不可能に近いが︑同時代

に制作された仏画を参照すればある程度正確な装束を描くことができるという判断から﹁吉祥天像﹂を引用し︑装束の色や図柄などを参照

して描いたことが推測される︒住吉広一﹁藤氏専権時代宮女之図﹂は︑紫式部像や斎宮女御像など

宮廷女性の肖像を想起させる︻図

類似しており︑それを反転させ装束や顔が見えるように几帳を奥に描 20︼︒構図は佐竹本の斎宮女御像に

く︒硯箱が前に置かれた上げ畳に座し口元に手を当てる姿や装束の文様までも参照した可能性が高い︒一方で上畳や几帳の文様はそれとは

異なり︑これらについてはむしろ﹁源氏物語絵巻﹂の﹁早蕨﹂の萌黄地の袿姿の中の君の姿や﹁柏木︵一︶﹂に見える紐の短めの几帳や女 房の装束とも近く︑一つのソースではなく︑当時展覧会などに出品されることのあった作品などを複合的に参照していると考えられる︒住吉広一の来歴については不明ながら︑明治二十年代前半の展覧会に︑小堀鞆音︑川辺御楯︑山名義海などとともにその名が見える︵﹃絵画

【図192】「吉祥天像」(薬師寺蔵)【図191】荒木季達「寧楽時代采女之図」

(17)

叢誌﹄第二十八巻および第四十五巻︶︒石本秋園﹁大礼服着御之図﹂︻図

17

1︼に描かれる肖像は︑一高の 資料として同じ時期に購入された大石真虎﹁朝賀図 34

﹂の天皇が着用している装束との類似性が見られる︻図

12

1︼︒実際に東山天皇が着用

したとされる﹁御礼服﹂︵江戸時代︑宮内庁蔵︶も現存しているため︑有職故実を正確に描く際の参考にした可能性もある︒石本秋園につい

ても来歴は不詳ながら︑明治三十年代には女性の装束や風俗を描く﹃女装沿革図考﹄を国学者で東京美術学校で教鞭を取っていた小杉榲

邨とともに出版し︑その挿絵を担当していることから︑有職故実を描く図案家として活動していたと考えられる︒

これらの作品に共通するのは︑描かれる対象の時代と近い古画が存在する場合にはそれらを参照して描いている点である︒実物を実際に 見て模写する機会があったかどうかは定かではないが︑当時日本美術協会の展覧会などが催される折には︑多くの著名な古画が展示される

機会もあり︑画家の目に触れることもあったろう︒これらの福地復一の選定による二十点の掛図については︑ほかの作品とほぼ同じ時期に

一高から購入されているが︑制作状況の実態については史料が存在しないため詳らかではない︒福地が教科書の編纂に関わっていたこと︑

そして︑福地は帝国博物館︵現︑東京国立博物館︶の御宝物掛に勤務し︑東京美術学校においては明治二十七年︵一八九四︶より﹁図案﹂

﹁図案法﹂﹁新案﹂などを担当︑明治二十九年︵一八九六︶に図案課新設に伴い採用されたことなどを勘案するに︑各時代の歴史や風俗など

の図案に精通している人物として画題の選定に適任と判断された可能性が高い 35

東京美術学校における図案教育

では︑東京美術学校における図案教育について考察していく︒そのためにまずは一高の歴史画のなかからいくつかの作品を見ていこう︒

小堀鞆音﹁菅公図﹂︻図1︼については︑前述のように菊池容斎の﹃前賢故実﹄を典拠としていたと考えられる︻図8︼︒三曲屏風を背景と

して︑脚の付いた台座に坐す姿は︑数ある現存する束帯姿で描く﹁束帯天神像﹂とは異なり︑﹃前賢故実﹄と共通する︒歴史的人物の絵画

化にあたり︑野口勝一が述べたように﹃前賢故実﹄こそが画家たちの参照に足る有職故実をふまえた教材となっていたことは見てきた通り

である︒通常︑束帯姿の天神像で描く場合には巻き上げられた御簾や幕︑高麗縁の上畳に坐す神格化された姿で描かれることがほとんどで

【図202】「斎宮女御像」(佐竹本「三十六歌仙」

のうち)

【図201】住吉広一「藤氏専権時代宮女之図」

(18)

【図212】「梨子地螺鈿金装飾飾剣」(東京国立博物館)

あるが︑本作品では︑笏を手に文官としての正装姿︑つまり生身の人間としての菅原道真像を描き出そうとする意識が強かったことが窺わ

れる︒また笏の持ち方についても︑束帯天神像ではいずれも右手で笏の上を押さえるように描かれているのに対し︑本図では﹃前賢故実﹄

と同様に袍のなかに手を入れたまま両手で持つ姿として描かれ︑鎌倉時代の天皇の肖像︵﹁聖武天皇像﹂︵東大寺︶や﹁嵯峨天皇像﹂︵宮内庁︶︶

や上畳本三十六歌仙のうち﹁紀貫之像﹂︵五島美術館蔵︶などに近く︑できるだけ道真の生きた時代に近い人物の肖像画を参照して描かれた

と考えられよう︒一方で﹃前賢故実﹄は五七一人を掲載していることから︑いくら容

斎が考証を行って描いているとはいえ︑版本であることの制限に加え︑人物一人一人が着用している装束や武具など細部の表現に心血を

注ぐことは難しかったであろう︒一方︑鞆音は自ら集めたとされる甲冑などを実際に参照して絵画制作を行っていたとされるから︑﹃前賢

故実﹄の穴埋めをするように装束や武具の細かい文様や色彩を描き加えていったと考えられる︒鞆音が参照した古画あるいは実物の装束

や裂地︑刀剣や甲冑などの武具を特定することは困難であるが︑例えば︑冠の纓の文様や装束の裾の文様は︑十六︱七世紀頃に制作された

と考えられる﹁束帯天神像﹂︵常盤山文庫蔵︶のそれらと近いことが指摘できる︒また刀剣の描写をこれほど精密に描いた画家がかつてい

たであろうか︒胡粉の盛り上げによる柄の部分に施された鮫肌風の文様や緻密な金具の描写︑蒔絵の梨地を金泥で表現した鞘に至るまで圧

巻の仕上りである︻図

21

館に所蔵される国宝﹁梨子地螺鈿金装飾剣﹂︵平安時代︶と極めて類 1︼︒この刀剣の描写は︑現在東京国立博物

【図211

(19)

似していることから実際に目にして描いたことも十分に考えられよう︻図 21

2︼︒小堀鞆音は︑川崎千虎に学びつつ師の写しものを引き継 いでいたといい︑明治十九年からは帝国博物館においても臨時雇いとして飾箱の図案を写す仕事をしていた 36

︒このことからも︑古器什物に

触れ︑有職故実を直接学ぶ機会には恵まれていたと考えられる︒ここで鞆音の師であった川崎千虎について少し述べておきたい︒川

崎千虎は日本画家/有職故実家であり︑明治二十二年より嘱託により設立されたばかりの東京美術学校において教科用絵画取調として

教育に携わっていたことが知られる︒﹃東京芸術大学百年史﹄の明治二十四年の項目には﹁帝国博物館書記本校教科用絵画取調等嘱託員川

崎千虎古物取調ノ為往復滞在共一週日以内ヲ以テ京都及奈良出張ヲ命ス﹂とあり︑多くの古物を直接学び模写する機会があったと推測でき

る︒明治二十五年には︑東京美術学校において﹁古学及本邦武装沿革等﹂の講義を行っていたことが記される︒千虎が記した﹃本邦武装沿

革考﹄には種々の武具︑田村麿像︑扇面法華経の貴族男性の冠などを詳細に考証しており︻図

22︼︑このような有職故実の考証が︑鞆音の

﹁菅公図﹂の冠や﹁田村将軍図﹂の武具の詳細に活かされていることは明らかである︻図

1︼︒また︑千虎は歴史画の描き方がわからない 当時の画家たちを対象として︑﹁歴史画の材料﹂と題して歴史画の画題の解説も行っている 37

︒また︑一高が購入した大石真虎の﹁朝賀図﹂

︻図

12

能性がある 38 1︼は︑川崎千虎のもと所蔵品︵もしくはその模写︶である可

︒千虎は大石真虎に私淑していたとされるが︑日本美術協

会展覧会に千虎がこの大石真虎筆﹁大内裏図﹂を出品していた記録を報告のなかに見出すことができる︵﹃日本美術協会報告﹄第七号︑明

【図222】田村麿像(『本邦武装沿革考』より) 【図221】貴人の冠

(『本邦武装沿革考』より)

(20)

治二十一年七月︶︒その報告には︑内裏の建築や朝賀の儀式を描く作品中︑真虎の作品こそが最も︵故実に︶詳しいとする﹃増補考古画譜﹄

の記述を紹介したうえで︑本図の奥書に記されているものと同一内容の文面が転記されている 39

︒先に述べたように︑本場面は歴史の教科書

の挿絵としても使用されており︑千虎が明治二十二年より東京美術学校において有職故実などを講じていたことに鑑みれば︑本作品が一高

に伝来していることの意義は大きい︒次に川端玉章﹁八幡太郎図﹂を見ていこう︒この主題については

﹁後三年合戦絵巻﹂の一場面から着想を得ていることはすでに述べたが︑その構図やモティーフについても絵巻の本場面を踏襲している 40

ここで気がつくことは︑﹁後三年合戦絵巻﹂やこの型を踏襲して描かれた狩野美信筆﹁八幡太郎義家図﹂︵三井記念文庫美術館蔵 41

︶と比較

をすると︑玉章の義家像は︑絵巻などと比べるとより詳細な面貌表現をが見られ︑さらに甲冑や馬具に至ってはその細密な表現がより顕著

である︻図

用している鎧直垂や般若経の一文字一文字に至るまで極めて緻密な描 23︼︒また巨勢小石﹁大塔宮図﹂においては護良親王が着

写がなされている︒般若寺の堂内の詳細な描写にも圧倒されるが︑これらの寺院建築の堂内については小石が何を参照して描いたのか定か

ではない︒これらの作品の詳細な表現は︑おそらく当時の東京美術学校におけ

る写生に基づく考証学的な教育が大いに寄与しているのではないかと思われる︒例えば︑義家像については︑古絵巻などを参照して描く場

合︑画面の制約もあり︑甲冑の文様などの細部まではっきりと描かれない場合が多い︒剥落の可能性もないではないが︑﹁後三年合戦絵巻﹂ においても赤糸威鎧は正確に描写されているものの︑その文様までは鮮明ではないなか︑玉章は牡丹獅子の図柄を散りばめた細密な文様や金具を描き込んでおり︑実際の甲冑を詳細に考証して描いていた可能性もあろう︒春日大社所蔵の源義経奉納と伝えられる国宝﹁赤糸威大鎧﹂などが想起される︒また︑小石の﹁大塔宮図﹂︻図

24

親王が着用している鎧直垂は東京国立博物館に所蔵される護良親王所 1︼で護良 用と伝えられる﹁赤地蟹牡丹紋様錦鎧直垂﹂と極めて類似しており︑高田倭男氏により復元されている 42

︻図

24

2︼︒昭和四年より東京帝室

博物館の依嘱により高田装束が﹁伝大塔宮護良親王所用鎧直垂実測調査︑後に︑これに基づき復元模造﹂し︑昭和十五年までの間に完成し

たことがわかる︵高田装束のホームページ﹁大正時代以降の高田装束︑研究所及び研究所長の主な業績﹂︶︒

もちろん︑伊勢貞丈の有職故実書や松平定信が編集させた﹃集古十

【図23】川端玉章「八幡太郎図」部分

(21)

種﹄などの過去の故実書も参照した可能性は否定できないが︑実物による教育や考古学的な成果に基づく考証が重視されていた時代の風潮

をここに見ることができよう︒東京美術学校における設置科目を見てみると︑明治二十三年に

は﹁歴史及古物学︵本邦歴史中風俗故実ノ大意及東洋ニ於ケル古物学ノ要ヲ講授ス︶﹂とあり︑明治二十五年の﹁絵画科  第一年﹂には

﹁図按法︵各代装飾ノ様式ニ基キ美術工芸図按ヲ作ルノ要法ヲ講授ス︶﹂﹁考古学︵東洋考古学中美術上ニ要用ナルモノヲ講授ス︶﹂とあ

ることから︑各時代の歴史や有職故実を重視した図案教育が行われていたことがわかる 43

︒図案科自体が設置されるのは︑明治二十九年

︵一八九六︶であるが︑明治二十七年からは福地復一が図案の授業を担当しており︑その授業内容や図案については﹁天香遺物﹂として残 されている 44

︒図案科は東京美術学校設立当初からフェノロサが設置を強く主張したものの叶わず︑絵画科の教育課程の一環としてのみ行わ

れてきたという︒福地復一の図案科における教育方針については︑上記の﹁天香遺物﹂とともに後世の回顧録が残されており︑﹁古代文様

や古器物を模写して︑それを時代別にしたものを教授用﹂としたことが記されている 45

同時に重要なのは︑当時︑岡倉を中心として東京美術学校と帝国博物館の間で開始されていた古社寺の宝物や美術品の模写事業である 46

明治二十三年より帝国博物館とともに五年間︑模写事業を始め︑その作業に若手教員や学生も加わった︒興福寺や薬師寺も訪れていること

から︑想像の域を出ないものの前述の薬師寺の﹁吉祥天像﹂を模写する機会もあったかもしれない︒東京藝術大学には︑薬師寺の吉祥天像

の模写も残されているが制作年代は不詳である︒ちなみに横山大観︑下村観山︑小堀鞆音︑川辺御楯︑天草神来︑住吉広一など︑一高の歴

史画を手掛けた画家たちもこの模写事業に参加していた 47

︒一高は大観による﹁絵師草紙﹂の模写も購入しており︑こうした機会に行われた

模写制作であった可能性もあるだろう 48

︒このような考証に基づく作品の制作を担当したのが東京美術学校で

当時活躍した画家たちであったが︑これらの作品の制作はどのような形で依頼されたのか︑最後に展望だけ述べておきたい︒想起されるの

は︑明治二十年代前半から東京美術学校においてさかんに行われるようになった図案懸賞画題であり︑明治二十四年十二月に発足した東京

美術学校の教員や生徒で構成される校友会の存在である︒このような図案懸賞は東京美術学校の関係者を中心に頻繁に催されており︑明治

【図242】「赤地蟹牡丹紋様錦鎧直垂」(東 京国立博物館蔵)

【図241】巨勢小石「大塔宮図」部分

(22)

二十四年には﹁図案振興の良策東京美術学校々友会にては今度普く世人の需に応じ図案の工夫を為すことゝなり︒左の如き書状を所々へ

配布せり﹂とあり︑そこでは図案の注文制作を開始している︒当時の校友会には︑岡倉を始め︑川崎千虎や一高の歴史画を制作した川端玉

章︑橋本雅邦︑巨勢小石らも参加をしており︑この時点での福地の関与は定かではないものの︑このような背景のなかで東京美術学校に関

わりのある画家たちを中心に歴史教育に相応しい作品の制作が行われたことが推測される︒実のところ︑図案懸賞は明治二十三年に楠公銅

像の依嘱制作事業が行われており︑岡倉秋水や川端玉章などの図案が選ばれ川崎千虎による考証が加えられたことが知られている︒さらに

明治二十七年には︑今泉雄作・川崎千虎・福地復一らによって︑装飾図案の振興を目的とする組織も創設された︒東京美術学校においてこ

のような有職故実や図案教育を受けた画家たちの活躍した大舞台の一つが一高の歴史画制作であったと考えられよう︒

おわりに明治二十年代から明治三十年代はまさに︑西洋に由来する﹁歴史

画﹂が移入され日本の土壌に根付いていった時代である︒一方で︑森鴎外と外山正一の間で繰り広げられた﹁歴史画論争﹂が示しているよ

うに︑知識人の間でもその概念をめぐってさまざまな言説が展開された︒明治二十七年︵一八九四︶の日清戦争に勝利した日本では以前

にも増して﹁歴史画﹂が盛行していく︒一高の﹁歴史画﹂は︑明治二十三年︵一八九〇︶から二十六年︵一八九三︶の間にそのほとんど が制作され︑制作経緯もある程度判明しており︑日本における西洋由来の﹁歴史画﹂が定着していく様相を如実に示してくれる貴重な作例である︒フェノロサや岡倉の言説に見られるように︑日本古来の絵巻物において語られてきた個人的な鑑賞を基本とする歴史叙述のあり方を︑いかに公共の場において︑国民を意識した国家の絵画たるべき﹁歴史画﹂

として創出していくのか︒その期待に応えるように︑明治二十年代初めに設立された東京美術学校を中心とする画家たちが挑んだ軌跡をこ

こに見ることができるだろう︒古画や現物の忠実な考証に基づく実証的な歴史を絵画を通して伝えていくこと︒一高の絵画は︑明治国家の

倫理観や教育思想を織り込んだ﹁歴史画﹂の先駆的な存在であり美術作品としての価値はさることながら︑当時の歴史や教育とは何であっ

たのか︑というさまざまな視点を今も私たちに与えてくれる視覚教材であったのだ︒

照︒亀井高孝﹃葦蘆葉の屑籠﹄︵時事通信社︑一九六九年︶︑小 1︶一高伝来の日本画のコレクションについては︑下記の論文を参

堀桂一郎﹁旧一高所蔵の歴史画に就て﹂︵﹃比較文化研究﹄第十四輯︑東京大学教養学部︑一九七四年︶︑石渡美江﹁黎明期

の大学付属博物館︵Ⅱ︶︱第一高等中学校の歴史参考室について︱﹂︵﹃MUSEUM STUDY 5 ﹄明治大学学芸員養成課程紀要︑

一九九三年︶︑井戸美里﹁一高絵画コレクションの概要︱一高の教育理念と﹁歴史画﹂をめぐって﹂﹃BI

七号︑二〇一四年︒

(23)

第一高等学校については︑﹃第一高等学校六十年史﹄第一高等学校︑一九三九年を参考にした︒第一高等学校は学制の制定さ

れた時期により︑第一高等中学校︑第一高等学校など呼称が異なるがここでは﹁一高﹂の名で統一する︒

2︶前掲註1石渡氏論文を参照︒

3︶東京大学駒場博物館所蔵木下資料より抜粋︒

4︶﹃第一高等学校六十年史﹄より抜粋︒

5︶小堀鞆音については︑前掲註および小堀桂一郎﹃小堀鞆音﹄ミ

ネルヴァ書房二〇一四年を参照︒︵

6︶一高の記録には︑両図の購入年度はほかの作品が購入された明

治二十五年となっていることから︑依頼された年と制作年︑受け入れの年に一年ほど差があるが︑おそらくほかの作品と合わ

せて支払いを行ったためであると考えられる︒︵

7︶この文武のイメージは︑江戸時代以来︑私塾などで掲げられて

きた﹁天神﹂と﹁孔子﹂に代わる近代化の新たな象徴として機能していたと思われる︒

8︶京都大学大学文書館所蔵の木下広次関係資料︒

9︶歴史画という画題の成立については︑佐藤道信﹃明治国家と近

代美術﹄吉川弘文館︑一九九九年︑北澤憲昭﹃境界の美術史︱﹁美術﹂形成史ノート﹄ブリュッケ︑二〇〇〇年︑山梨俊夫﹃描

かれた歴史︱日本近代と歴史画の磁場﹄ブリュッケ︑二〇〇五年を参照︒さらに︑この時期には大森惟中﹃美術園﹄第十五号

では﹁歴史画の必要﹂と題し﹁夫レ忠臣孝子節婦義民の美談は大に世の風教を扶くるを以て其状態を写出して之を伝ふるは亦 歴史画の必要とする所なり﹂︵明治二十三年︶︑野口勝一﹃絵画叢史﹄第六十一巻﹁歴史画を作るもの亦風教を忘るべからず︑

教育画を作るもの亦歴史を省みざるべからず﹂︵明治二十五年︶など数多くの歴史画を言説が展開された︒

ド大学ホートンライブラリー蔵﹄第二巻︑ミュージアム出版︑ 10 ︶村形明子編・訳﹃アーネスト・E・フェノロサ資料ハーバー

一九八四年所収︒︵

11 ︶川端玉章については︑塩谷純﹁川端玉章の歴史㈠㈡㈢﹂﹃美

術研究﹄三九二号・三九九号・四〇一号︑二〇〇七年九月・二〇一〇年一月・二〇一〇年八月に詳しい︒

二〇〇九年︒ 12 ︶塩谷純﹁橋本雅邦筆西行法師図﹂﹃国華﹄第一三七〇号︑

ノ勇気ナカルベカラズ⁝北条時宗ガ元兵ヲ鏖殺シテ︑外寇ノ患 13︶﹁国家ノ急ニ赴クトキニ當リテハ︑直前奮進︑以テ難ニ殉スル

ヲ絶チシガ如キ︑實ニ後人ノ模範トスベキ所ナリ︑然レドモ若シ今日外寇アラバ︑新民タルモノハ︑一個ノ私ヲ以テ︑妄ニ事

ヲ挙グベキニアラズ︑唯々徴兵ノ発令ニ従ヒテ︑己レノ義務ヲ盡クスヲ要ス﹂

14 ︶下村英時﹃下村観山伝﹄︵大日本絵画︑一九八一年︶︒ 15 ︶﹁今後ノ画人ハ思想画ヲ描クベシ﹂

    ⁝古来吾邦ノ絵画タル大率皆形状ヲ表セルモノナリ活動ヲ表セルモノナリ情緒ヲ表セルモノナリ思想ヲ表セルモノハ至ッテ稀

ナリ歴史画ノ如キ宗教画ノ如キ想像的ノモノト雖モ画人ノ想像ハ専ラ形状ニ拘ハルモノナリ専ラ活動ノ様子ニハルモノナリ専

参照

関連したドキュメント

Matsui 2006, Text D)が Ch/U 7214

に本格的に始まります。そして一つの転機に なるのが 1989 年の天安門事件、ベルリンの

海を未来へ引き継ぐアクションの輪を広げていくため、⽇本財団、総合海

7 ) Henri Focillon, ‘L’Eau-forte de reproduction en France au XIXe siècle’, Revue de l’art ancien et moderne, 28/ 1910,

[r]