明治期秋 田県 における武道の奨励 について
森 田 信 博
TheEnc our a ge me nto fBudo si nAki t aPr e f e c t ur ei nMe i j iEr a
NobuhiroMoRITA
ThepurposeofthisstudyisintendedtoinvestigateprogressofBudos(japanesemilitary arts, chieflyKendoandJudo)inAkitaprefectureinMeijiera.Thenationalinstituteofgymnastiscinsistes uponnormalgymnasticsforschoolphysicaleducation.After1886militarygymnasticswereusedin schoolsasteachingmaterials,too.ButtraditionalBtldoswerenotadoptedasindispensableteaching materialsinMeijiandTaishoera.Conclusionsofthisstudyarefollowing.
1.TradionalBudoswereadoptedasteachingmaterialsinnumberoflowersecondaryschoolinAkita.
Andafter1906Budoswereusedasindispensablematerials.
2.Budosweremorepopularasextra‑curricularactivities(club)thatextensivelyexecutedinterclass andinterschoolmatchs.
3.TheparticipantsofinterschooIBudomeeting(KendoandJudo)increasedeveryyear.Thismeet‑ ingwasmostimportantaim amongallstudentsinAkita.
4.TheencouragementplansforBudosinAkitamadeBudosmorepopularinSchoolandlocalsociety.
1. は じめに
明治5年 (1872) 9月5日 (陰暦8月3日), 学制が 発布 され小学校教科 に 「体術」 の名称で学校体育が実施 され ることにな った。 しか し具体的な実施方法を示 した
「小学教則」 には 「体術」 の項 目がな く, その内容, 方 法 は明 らかにされなか った。翌6年の 「改正小学教則」
で は 「体術」が 「休操」 と改め られ,「樹 中体操法図, 東京師範学校板体操図等」を参照 して 「1日1,2時間」
実施す ることが示 された。体操伝習所が開設 される明治 11年 まで は, これ らの欧米 の体操書 の直訳を模倣 した形 式的な徒手体操が実施 されれば良い方であ った。学校体 育 の教材 に 「徒手体操」が取 り上 げ られたひとつの理由 として,幕末か ら明治初年 にかけ幕府や各藩 は兵制の改 革 に西洋式 を取 り入れ, その基本訓練 として徒手体操が 実施 されてい った ことがある。明治3年 には陸軍が フラ ンス式軍制 を敷 き,6年 には陸軍戸山学校 に体操研究所 を設立 し翌年 にはフランスの体操教師デュクロを招聴 し ている。学校体育 はこのような陸軍の採用 した体操 の影 響 を うけ,徒手中心 の体操教材 とな り, さ らに施設,設 備の不備 さ らには学童の和服 も,室内での上肢,下肢を 主 とす る運動 にな らざるを得なか った。
明治11年 に体操伝習所が設立 されて,学校体育の基礎
が整 っていった。外国人教師として招蒋 されたG.A.リー ラン ドは,D.ルイスが考案 した 「徒手体操, 亜鈴, 球 竿,木見 豆嚢,梶棒など1)」の保健的性格のノーマル ・
ジムナステ ィックス (nomalgymnastics)を主要教材 として 「男子体操術,女子体操術,幼児体操術,美容術, 調声操法など2)」を指導 した。 この 「普通 体操」 あ るい は別名 「軽体操」 は,斜梯,平梯,平行棒,跳躍板など を用いる重体操 (heavygymnastics)の対極 に位置 さ れ, フッ トボール, ク リケ ッ ト,ベースボールなどの戸 外運動や端船操櫓法や競漕などの操櫓術 も含 まれていな か った3)。 この リーラン ドの指導 した体操法 は, 明治14 年7月以降,体操伝習所の卒業生 によって全国 に普及 さ れることになる。 この体操法だけが学校体育 として最適 の方法 とな った。
しか し明治16年の徴兵令の大改革 に伴 い翌17年 に,文 部省 は学校で行われる歩兵操練科 の程度,実施方法 さら に小学校での実施の是非を体操伝習所に問いかけた。 こ の頃 より富国強兵策の強い影響 と急速な西欧化への見直 しなどにより,体操伝習所の普通体操 のほか陸軍戸山学 校の兵式体操,伝来の武道 さらに外来の戸外 スポーツが 学校現場 に導入 されていった。すなわち外来 のスポーツ は教科 としてではな く,課外 クラブや運動会 といった課
秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学部門 第58集
外的行事 として学校体育 に影響をおよぼ したが体操伝習 所の考え方か らすれば, 自主的なスポーツやゲームは, 必ず しも教育的ではなか った。 さらに体育 は単 に保健衛 生的 に疾病予防や身体養護 のみではな く,徳育 として精 神 を も鍛えてい くとい う発想 も強 まり,陸軍戸山学校式 の操練法 に強い関心が もたれ,陸軍教導団附士官の学校 派遣が行われた。 この軍事訓練 としての兵式体操 も,体 操伝習所 は当初反対の姿勢であったが,文部省,陸軍 に 押 し切 られ,明治17年 に答 申を出 し学校体育は普通体操, 兵式体操併行へ と移行 してい く。それ とともに剣術及 び 柔術 の教育上の利害適否 に関す る調査が体操伝習所 に依 頼 されてい く。
一方秋 田県では,他県 と異 な り 「学制発布 一従前学校 廃止 一新教師の育成 一新学校設立4)」 という経緯をたどっ たために,学制 に基づ く学校設立の伺書は明治7年になっ て文部省 に届 け られ ることになる。秋田県では従来の郷 学校や藩校などを容易 に廃止す ることはで きたが,その 一方で新学校の創立 には困難が山積 し,長 い教育の空 白 期を生み出 して しまっている。 その遅れを取 り戻すべ く 明治期中期以降 にかけて,学校制度が整備 されてい くな かで,地域社会 に広 く普及 し親 しみ もあ りさらに従前 の 藩校 などで武芸,教練 として実施 されていた武術,武道 が どのよ うに扱われさ らに奨励 されていったのかを明 ら かにす ることが本稿の課題 となる。 そ こには近代的な西 欧の学校教育,体育 の目標,課題 と日本の伝統的な道徳 敬,鍛錬観,精神性 などの括抗 を見て取 ることができる。
2.武道教材 に関する文部省の見解 (1)武道 に対する体操伝習所の答 申
明治4年廃刀令 に伴 い刀剣への規制 も始 まり,不辛士 族の動乱か ら武術稽古 に も疑惑 が もたれ, 東京府 で は
「撃剣 の稽古 をす る者 は国事犯嫌疑 と認 め る」 とい うよ うな布告 も出された5)。 しか し明治10年 頃を さか いに, 都市部では急激 な西洋化への見直 しや地方では武芸,武 術 に対す る親近感への理解が認 め られていった。各種の 道場 の開設や学校での課外 クラブ活動 さらには随意科 と して武道の指導が行われた。明治15年 には講道館が開設 され,各地か らの武術正課採用の要請に対応するように, 翌16年5月文部省 は 「剣術及 び柔術の教育上 の利害適否
に関す る調査」を体操伝習所 に諮問 した。
体操伝習所吏員渋川半五郎 のほか陸軍省より富田正直, 警視庁 よ り久富鉄太郎が伝習所兼務 として調査 に取 り組 み,生理学的見地か ら東京大学医学部長三宅秀 と外国人 教師E.ベルツ,J.スク リバが招聴 された。 翌17年10月 に出された答申では,身心の発育か ら考えて武道の正課 採用 は不適 当であるとい う結論であ った。 「身体 の発育 助長,待久力,護身力,気力, などを養 うことがで きる
けれども,身体の調和的発達をさまたげ,多少危険を伴 い,闘争心を誘発 し勝敗 にとらわれる風を助長 しやすい など,心身の発達 に応 じた指導が困難であ り, また経済 上,管理上か らみて も」学校の正課 として採用す ること は不適切である, とい うものであった6)。 体操伝習所 の 立場 は生理学,解剖学,衛生学 といった医学的な面か ら 発育期 の学童を配慮 した もので,競技主義,鍛錬主義 を 回避 して適度 な運動 により身体の発育発達 の促進,健康 の維持増進 を主課題 とす るものであ った。 それに加 えて 武道各流派 は別々の教授,指導法で共通性 も少 な く,勝 負,護身が主眼 とされ,精神的効果 に重点を置 きす ぎて いる点 も否定的に受 け止め られた。 しか しなが ら日本在 来の運動であ り,「慣習上行われ易 さところあるを以て, かの正科 を怠 り,専 ら心育 のみ偏す るが如 き所 に之 を施 さば,利を収むるを得べ し7)」 と付 け加 え られ, 若干 の 配慮が された。
体操伝習所の武道 に対す る否定的な答申が,兵式体操 に対す る積極的答申と対照的であるのは,森文相 に代表 され る富国強兵策への効果的対応 としての西欧的軍制へ の傾倒 と三育主義 に基づ く医学的合理主義 に立つ体育思 想の優位性の結果であろう。
(2)武道の体操化
明治35年頃にスエーデ ン体操が紹介 され るまでは,正 課体育 は大 きな変更 もな く普通体操 と兵式体操が実施 さ れていた。一方で学校衛生への関心が高 まり,両体操 に 医学的視点か らの批判が加え られつつあ った。 とりわけ 普通体操 は形式的で不合理 な もの とな っているとの批判 を受 けた。 そ こに生理学,解剖学 に即 した科学的で合理 的なスエーデ ン体操 の紹介を川瀬元九郎や井 口あ くりら が相次 いで行 ってい く。 この体操の合理化 に武道関係者 は,伝統的精神をより所 に しつつ,武道 の体操化を試み その合理性を文部省 に問いかけ,正課採用を求めてい く。
小沢卯之介 は棒術,剣術,薙刀術,槍術等武道各流派か ら体育方法 として適切な ものを抜粋 し,歩兵操典,体操 教範,剣術教範,陸軍礼式,普通礼式法等を配慮 して体 操 に同化の試みを 「武術体操法」 として著 し, また 「薙 刀体操」 を実施 しその有効性を示 しなが ら,武術の本 旨 を失わない新体操であることを強調 してい く。 さ らに中 島賢三 は 「木剣体操」「長刀体操」を創作 した8)。 これ ら の試みは武道が尋常中学校でさえ正課 とされず,わずか に一部 の課外遊戯 としての扱 いに対する妥協策であった。
しか レJ\学校で もこれ らの 「武術体操」が実施 され るほ ど武道 に対す る理解や賛同 があ った ことも確かである。
ただ し文部省の武道 に対す る消極的な姿勢 は明治期 に とどま らず,数度の正課採用の建議 に もかかわ らず大正 期 に入 って も法令上 は随意科 にとどめ られていた。
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(3) 体操遊戯取調委員会 と武道
日露戦争終了 の明治38年 に体操遊戯取調委員会そ して 40年 に陸軍文部省共同調査委員会が開催 され,従来の普 通体操 とスエーデ ン体操 さらには国際的な広が りをみせ るスポーツなど多様化 した学校体育 の整理統合が検討 さ れた。体操遊戯取詞委員会 は 「報告書」 において学校武 道 に関 して以下 のよ うな結論を出 している。
明治16年 に体操伝習所の調査 による正課不適当の決定 後,明治29年 に学校衛生顧問会議 の調査で も従来通 りで あ り
,
「近年体育奨励の声盛なると共 に之 を学校正科 に 加へん として建議す るもの多 Lと雄 も今 日に於 いて嚢 に 調査せ る結果を覆 し之 を正科 に加へ ざるべか らず とす る の理 由を発見す ること能わず仇て従来 の方針 に依 り満15 才以上 の強壮 なる生徒 に限 り任意正科外 に行 は しむるを 以て正当な りと信ず8)」。 この報告書 では,委員会 は従来 の答申を繰 り返 しただけで,武道の正課採用を検討 して いるよ うに も思われない。その後明治39年3月の第22会議での武道正課採用の建 議 に対 して,積極的な発言 に押 され,委員会修正案 「中 学程度の諸学校 に体育正課 として剣術若 しくは剣術形の 体操 (練胆操術)又 は柔術若 しくは柔術形の体操 の何れ か調査の上其 の‑を教習せすむべ し9)」 が可決 された。
この時点で中学校施行規則の改正 までは至 らなかったが, 各地 の中学や師範学校で武道は随意科的に採用されていっ た。 そ して明治44年中学校令施行規則が 「体操 は教練及 体操 を授 くべ し又撃剣及柔道 を加ふ ること得10)」 と改正 された。高等中学校規定,師範学校規定 も改正 され,正 課必修で はな く 「随意科」扱 いであ ったが,法令上の初 の改正 とな った。
(4)学校体操教授要 目と武道
大正2年1月に陸軍 と文部省の共同調査委員会の比較 的協調的な協議 を経て,学校体操教授要目が発布された。
ここで初めて普通体操,兵式体操が 「体操」 として統一 された。そ して体操科 の教材が,小学校 で 「体操
」
「教練
」
「遊戯」,中学校,師範学校 の男子 には 「撃剣 ・柔術」が加 え られた。「体操」 は教科 の名称 と して広義 に使用 され ると共 に教材のひとつ として狭義 にも用い られるよ うにな った。
「撃剣及 び柔術」 の武道 は正科 に 「加ふ ることを得」
と記載 されたが,具体的な教材内容 の配当表 は示 されな か った。随意科 として 「別 に一定の方式を示 さず従来の 方法 により適宜之を授 くべ し」 とい う段階 にとどめ られ た。指導上 の注意 として,勝敗を競 うよ りも
,
「特 に精神的訓練 に重 きを置 き」,用具 の改善 , 危険防止 に留意 して 「教授 の方法 を工夫 して常 に用具を清潔」 にす るこ とを掲 げている11)。
この要 目作成の責任者である永井道明は,武道を要 目 に加えることには賛成 したが,随意科 として中学校 に採 用 したにとどめた。 また内容,方法を明記 しなか った こ とは体操科教授時間外に実施 させ ることを前提 に してい るようにも受 け取れさらにその後 の方向性 などに関 して も極めて消極的態度であ った。
大正2年の学校体操教授要 目の制定以後, これに準拠 して全国の学校体操 は実施 されて きたが, その後教練 の 重視, スポーツの隆盛 などによ り大正15年5月 に改正公 布 された。「撃剣及 び柔術」 の名称が 「剣道及 び柔道」
に改め られたが,体操科 の教材 は 「慣操,教練,遊戯及 競技 とす但 し男子の師範学校,中学校 に在 りて は剣道及 柔道を加ふ るころを得」 と示 され随意科 のままで,具体 的な教材配当 も示 されず 「剣道及柔道 に関 して は一定 の 方法を示 さざるも適当なる方法を定めて之 を授 くべ し」
と改訂前 とほぼ同文のままで,指導上 の注意 は 「特 に礼 節を重 し徒に勝敗 に捉 はるるか如 きことあれへか らす」
とだけ掲 げ られた12)。学校での正課 として武道 が取 り扱 われてい くのは,昭和6年の満州事変以後であ り,教材 の配当などは昭和11年 の第2次学校体操教授要 目の改正 か らであった。
3.秋田県での武道実施状況 (1)明治期中期 における実施状況
体操伝習所が設立 され,明治12年 には教育令が公布 さ れ,西欧流 の近代的学校制度 における学校体育展開 され 始めた頃,徐々に儒教的思想の復活や修身重視 の傾向が 在来の武道の採用を求めていった。明治13年12月の元老 院の教育令改正布告案の議論では,文部省 の 「体操」 と い う原案 に対 して 「武技体操」 とい う教科名の修正案が 出された。 そこでは 「体操だけで は少年 たちの心胆を練 り護国の強兵をっ くることはで きない。徴兵年限を短縮 す るためにも武技を加える必要がある13)」 とい う富国強 兵主義か ら体操科 において武道を用いて精神的鍛錬 と軍 事的基礎訓練 を実施 してい くことが論議 されていった。
激 しい論争 の末,11対7とい う採決で原案が承認 された が,その結果 は後の兵式体操 の強化,重視 とな ってい っ
た 。
明治16年12月秋 田中学関藤校長 は,体育 の重要性 を説 き
,
「尚一層の活発強剛の心身を養せんが為体操科 中 に 撃剣の‑科を加え随意科14)」 として,担当者を配置 し希 望学生 に指導 してい くとして時間割案 を添 えて県令 に申 し出ている。同 じく秋 田県師範学校で も 「体操科補翼」として師範科生 に撃剣を練習 させ ることに して い る15)。 明治22年1月には秋 田中学第 3年級生徒 に兵式体操 (漢 練)が導入 され,軍隊式の団体組織での行動が指導 され てい く。翌年の教育勅語の公布 により,体育,武術への
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関心が高 まり,清国 との関係の不安か らますます武道熱 が高 まっていった。秋 田中学では明治23年 に寄宿舎が設 け られ,25年か ら寄宿生28名 に日曜,祭 日の早朝,雨天 体操場で撃剣の稽古が実施 されてい く。撃剣 と柔道の教 師が雇われ,竹刀,防具等を学校 よ り支給 して指導す る と共 に,26年 には県知事等を招 いての撃剣,柔道大会を 開催す るまでにな った。27年 に新寄宿舎が増設 されると, いちだん と熱が入 り人数 の関係で二班 に分かれて毎朝隔 日の練習 とな った16)。師範学校では明治26年か ら柔術師 範を招鰐 して撃剣,柔道,漕櫓,湛泳を課 してい く。
全国的な武道復興の高 まりに応え るように,明治28年 大 日本武徳会が設立 された。武道,武徳を保護奨励 し国 民 の士気 の滴毒を目的に,全国 に武徳殿を設立 し道府県 知事が支部長 を兼ねた。 このことは在来の武道 に全国的 な中核がで きただけで はな く,精神的訓練 には武道が最 適であ り,武徳,尚武の気象の養成 などが戦時体制 とと
もに教育,体育 に浸透 していった。
(2)明治期後期 における武道実施状況
明治31年 に後 の大館中学,横手中学 (明治34年 にこの 校名 に改称)が創設 され,34年 には高等女学校 も設立 さ れた。中等教育 の普及 と充実が進む と同時 にこれまで校 内での練習や大会であ った武道が対校戦へと移 っていく。
秋田中学で は明治32年9月に函館中学校生徒19名が修学 旅行 として来秋 し,撃剣 の試合を行 っている17)O 同年10 月には大 日本武徳会渡辺会長一行が来校 し,各文武高等 官の見守 るなか撃剣試合を開催 した。それに応えて 「武 徳会大演武会」が催 され,一行の参観す る前で柔術,撃 刺,槍術,銃槍の演習が披露 された18)。翌33年京都武徳 殿で開催 された全国青年武徳大会 に 「寄宿舎生徒第四学 年小西貞助」が 自費で参加 し,撃剣試合で勝利 し賞与を 授与 された。 これに刺激を受 けると同時 に修学旅行費を 県が支給す ることにな り,旅行をかねて全国青年武徳大 会等 に参加す ることになる。37年 には県か らの補助が打 ち切 られ参加を見送 らざるをえなか ったが,撃剣, ボー トが大会参加 を してい った19)。30年頃までは撃 剣 に比 べ 柔道 は 「旧式 にて一向興味な く生徒 は柔道の教授 を受 く るもの甚 な し20)」 とい う状況で,生徒の要望 もあ り,31 年 に 「講道館出身」 の白石康助を招聴 し,柔道 の普及が
はか られた。
大館中学 の初代西館校長 は,「質実 剛健 の気風」 を教 育方針 に掲 げ,明治32年 に担当者3名をお く 「鍛錬会」
を組織 した。鍛錬会 は 「本会 は神気を養ひ胆力を練 り併 せて身を強健 にす るを以て目的 とす る」 として全員加入 が義務づけ られ,課 目として普通体操及 び兵式体操,響 刺,柔術,胞格調練,遠足,行軍,学術旅行,徹夜,夜 行,水練が実施 された。正課の体操 を規定の週3時間か
ら6時間に増加 させ,寄宿生,通学生 を問わず 「鍛錬会 の趣 旨を貫徹せんが為め一週6日の間6時 よ り7時迄生 徒全体体操を行ひ8時より12時迄他学科 の学習す る」 と いう時間割を組んだ。そ して撃剣,柔術 は校内試合 とし てさかんに実施 されていった。翌年 の 「父兄への書翰」
には,朝6時 より体操や撃剣等の運動を続けた効果がはっ きりと現れ,初夏を迎えるこれか らは朝5時か ら運動 を す ることも考えていることを伝えている21)。西館 は と り わけ徳育を重視 し学校家族主義 と言 え る理念 を もとに
「生徒20名程度で構成 し,部長 には先生 がつ く。 生徒 は 部友 として, おたがいどうLは兄弟のよ うに,部長 には 一家の家長のように して教 えを受 けるとい う形態」 いわ ば家族のような部属制を取 り入れ,各部 を競わせなが ら 生徒心得の遵守,遠足,修学旅行 などの活動 を展開 して いった22)。その主要な手段が体操,武道,教練 であ った といえる。
明治35年の秋田中学,師範学校では 「従来撃剣柔術等 の武術を以て体育方法の一 に加へ居た りしが近来武術界 の趨勢 につれ一層の奨励を加へたれば従て生徒 の熱心 の 漸 く度を増 し寄宿生 の如 きは早起 きして所謂朝稽古 を試 む るなど甚だ盛 な り」 とい う状況であ り,新年 の稽古 は じめには,両校長 を は じめ知事, 視学 官 の参観 の もと
「20数名の小学生 も加 はり市内知名剣客指摘 の下 に数十 番の銃剣術を試み其挙措動作の活発なる従来の所謂学生 に似ず頗 る人意強ふせ しむ るのあ りき」 と評価 されてい る23)。そ して明治36年 には秋 田中学, 大館 中学, 横手 中 学 による撃剣の対校戦が開催 されてい く。
横手中学では明治34年 に校友会が結成 され器械体操, 撃剣,相撲,柔術,野球など7つの運動部が組織 された。
撃剣 は明治38か ら 「準正課」 とされたので 1, 2年生 は 毎週1時間必修, 3年生以上 は志望 として実施 されてい た24)。創部当初か ら校内での試合のほか, 1級 か ら3級 までの 「級位検定」 も実施 され,38年 には 「横手町付近 の剣客を会 して大試合をな し,併せて部員の等級を定め」
ている。 さらに大館中学 の来校時に行われた撃剣試合で 完敗 したことを うけ,横手警察署撃剣部 との問 に 「連合 撃剣会規的」が結ばれ,毎月1回練習試合を開催す るこ
とが決め られた25)。柔術部 も創部当初か ら活動 が行 われ ていたが,専門の指導者 もな く活動 は停滞 していた。38 年 に生徒有志が自費で講道館柔道 の専門家を招蒋 して本 格的な活動が再開 されていった。 その後,地域の小学生, 警察官,有志 を交えての撃剣柔道大会が開催されてい く。
明治39年 に秋田市 に武徳殿が設立 され るとさ らに全県 の武道への関心が高 まっていった。すでに明治20年代末 か らの武道への関心 の高 ま りは,各地 に武道場を開設 さ せていき,中等学校 の生徒 も通 うほどにな っていた。特 に明治19年開設 した楢山 「揚武館」 をは じめ 「練武館」
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「尚武館」 などで秋 田中学,師範学校生 が武道 を 自主的 之 を不問に附す る能 はず」 とい う状況 も生 じ,演武場 の に行 ってい った。 しか し明治30年代 に入 ると道場での稽 稽古 は 「学校教育 の下 に従属」すべ きであるとい う見解 古や軍隊の歓迎などの演武場の都合で児童生徒 に学校を を秋 田県教育会が示 してい く26)。明治35年 の秋 田県 内 の 休校 させ ることが しば しば起 きた。 「演武場 と学校 との 武道団体 と大 日本武徳会会員数 は次 の表 のようである27)0 問に往 々に して衝突 を釆 たす ことに於 いては看す看す, 明治38年の秋 田県教育会総会で 「修業年限4ヶ年 の高
秋田県内の学校外武道団体 (明治35年)
名 称 武術種別 位 置 役 員 会員数
揚 武 館 撃剣 .柔術 秋田市楢山 館長大久保泰臓 600名 報 国 館 撃剣 .柔術 秋 田市西根小屋町 幹事須田秀夫 300名 尚 武 館 撃剣 .柔術 秋 田市保戸野 館長萩津助言 400名
練 武 館 撃剣 .柔術 秋田市手形 館長貝塚清直 150名
楢山射的場 射的 南秋田郡広山田 長谷川勝太郎 遠田貞誠 30余名 八幡大弓場 大 弓 秋 田市八幡社境内 御代弦 羽生氏熟 長山武治 100余
志 殻 会 大弓 秋田市 田中町 会長西宮継 30名
山本大弓場 大弓 秋 田市鉄砲町 (営業矢場)
土崎尚武会 撃剣 .柔術 土崎 会長七候平六 150名
養 神 会 大弓 土崎池鯉亭 石井忠尚 20余名
志 殻 会 大弓 能代下川反 会長蝿千代記 16名
輿 武 会 大 弓 大館作楽矢場 高橋末坪 演松新七 30名
小田嶋道場 撃剣 .柔術 花輪町 小田嶋治右衛門 小田嶋昌臓 20余名
花輪大 弓場 大弓 花輪町 小田嶋由義 10余名
正 巳 会 大弓 本荘町 会長高橋健 16名
健 射 会 大弓 本荘町 熊本亀三郎 7名
揚 武 会 撃剣 本荘町 高橋健 60名
横手尚武会 撃剣 .大弓 横手町 小室忠蔵 25名
大 弓 会 大弓 大曲町 遠藤政敏 榊田清兵衛 小西良書 25名
武 談 会 撃剣 .柔術 .射的 .槍術 .銃剣術 秋 田市 武田安之助 岐部熊雄 波速新一 70名
大 弓 会 大弓 湯揮町 佐藤治門 10余名
秋田県内の大 日本武徳会会員数 (明治35年) 郡市名 特別会員 正 会 員 賛助会員 計 秋 田 市 ll 1,158 188 1,357 南秋 田郡 17 1,393 46 1,456 北秋 田郡 18 965 5 85 1,068 山 本 郡 19 1,2852 6 1,310 川 辺 郡 8 718 19 745 由 利 郡 41 2,491 86 2,618 仙 北 郡 53 1,648 64 1,765 雄 勝 郡 21 1,087 18 1,126 平 鹿 郡 42 1,229 87 1,358 鹿 角 郡 12 566 23 601
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等小学校 に撃剣,銃鎗,柔術の‑科若 くは数科 を加ふ る こと」が論議 された28)。提案理 由 は
,
「尚武 の気衆 を養 成す る途がないか らであ らうと恩ふ,之れを養成す るに は小学校時代か ら武術 を仕込 まんけれはな らない武術を 仕込む と自然 に堪忍力を養 うと同時 に健康を保つに至る, 世間能 く武術 を仕込 む と人が荒 くなる疎暴 になると云ふ て居 るが,之れ は大 いなる誤解で,無教育者 には往々疎 暴 に流 るるか知れんが,決 して左様の ことがない」 とい うものである。提案者か らは 「全国では幾 らも武術を教 科 の‑ として課 して居 る所がある,当分の内に遊戯の一 部 を して体操の時間をさいて,遣 らせ るより致方がない が,往々は正科 と」 し 「本会で可決 になれは会長 より文 部大臣に建議 して実行を期す る」考えが出された。 これ への賛成意見 として 「此問題 は至極同意な り, 日露戦役 に於て撃剣の心得 ある者 は総ての点 に於て他に異 なる所 があ り頗 る成績が良好 な りと聞 く,軍事教育を補助す る 上 に於て,是非此‑科 を加ふ ることを望む」 とい うもの であるのに対 し,次のよ うな反対意見 が出 され た。 「児 童体力 に及 ぼす関係其他研究 を要す る点が多いので軽忽 に決定すへ き問題でないゆえ,宿題 として来年の総会 ま で会員 に預 けて貰 ひたい」
「児童 の年齢身体 の発育上 よ り見て果た して害 なきや否 は未だ研究を欠いて居 るので, 遊戯 として体操科 の一部 として便宜之れを遣 ることは兎も角 も法令を改正 して正科 に加ふ ることは軽忽に失す る の嫌 ひあ り
」
「撃剣の身体 に利益を輿 ふ るは認 めて居 る が,中学以上 には無論であるが,小学 に之を課す るは如 何かの疑 な きにあ らず」
「只今の戦争 は智誠 の戦争 で あ るか ら剣術 の心得があるもなきに勝 るか も知れんが,正 科 に加ふ る程の必要 を見す,況んや志気を養成す るには 他 に幾 らも途 あ りと思 う」。その後 の提案者 の補足 に も かかわ らず, この総会 の議論では採決 の結果大差で 「宿 題 とす る説」 に決定 している。正課 とす ることでは提案者 も認めているように指導者 や経済的な問題の解決 は容易で はないが, ほとん どの会 員 は武術の価値や必要性を認 めているので この議題が廃 案ではな く継続審議 とされ,全国的な武術正課採用への 運動 と文部省,議会 の対応 さ らには 「体操遊戯取調委員 会」 の報告 などを注視 しなが ら時期を待つ とい うもので ある。明治39年 の体操遊戯取詞委員会での武道の 「正課 採用」 に関す る委員会修正案 の可決を受 けて,秋田中学 は明治39年,師範学校,大館中学 は41年,横手中学 は44 年 に撃剣,柔術 を随意科か ら正科 に変更 してい く。 これ
により校内の武術大会や他校 との対校戦がます ます盛ん にや ってい く。
明治41年 の教育会総会で 「高等小学校 に撃剣を加ふ る 事」が提案 されている29)。提案者 は 「小学校の児童 を集 め撃剣をなさ しむるは気質 の鍛錬上云ふべか らざる面 白
味あり,其の意志 を以て教育上 に武術を加へ られん こと を望む而 して中学校 は1年 より撃剣を教授す るが年齢 よ り云へば其の 1年 の3年生 は高等小学校 の児童 と桐均 し ければ体育上 にも別段 の影響なか るべ し」 と して
,「 ‑
科 目」 としてではな く体操 として教授す ることを提案 し ている。反対意見 は
,
「小学校 にて体操科 に加 へ る と云 ふの生理上 より研究 され し体操 のあるあ り又解剖上 よ り 云へば撃剣 は児童 に適す るものに非ず」
「小学校児童 に 課す るに付 き医師の説 を聞かざりしか」 とい った医学, 生理学上の点を問題 とす るにとどまり,採決 の結果 は反 対少数で可決 され遊戯 の一部 として指導 されてい くこと になった。明治41年10月に県知事 に赴任 し教育会会長 に も就任 し た森正隆は,教育 と勧業 に対 して極 めて積極的な政策を 数多 く行 った。 とりわけ日露戦争後 の社会風紀 の乱れに 対 して武術の奨励を熱心 に取 り組んだ。 とりわけ訓育 に 関 して は 「近来社会風紀の顎敗 より勤勉力行の美風頼れ て遊惰潤逸 に流れ進取協同の気象表へて徒 に固幡濁所の 弊 に陥 り正義節制の観念薄 らきて廉恥礼譲 の良習漸 く将 に消磨せん とす る等遺憾 の点甚 た少か らす是れ社界風紀 の顎敗 に依 るとは云へ華美訓練其の宜 しきを得 さるの致 す所 と云 はさるへか らす特 に我国徳育の根本義 たる 『忠 孝』の事如 きす ら時 として児童 の心 に確全然樹立す るや 否や頗 る疑問あるものを見 るに至 りて転 た心 に堰へ さる ものあ り
」
「武を以て鳴れる我国 も近来漸 く文弱 に流 れ 尚武の心 日に薄 く悠柔 の風年 と共 に最先せん とす是れ教 育か一般 に文 に流れた る結果 に して之 を救ふ には武術 を 以てせ さるへか らす況んや風紀額敗の今日に於いてをや」そのためには,学校外で も 「文事 と共 に武術 (撃剣,莱 術,弓術,長刀,水泳 など)を奨励」 し 「文武不殊」 の 実現 のために 「演武場 の設立」 を し学校 にも付設 し 「武 術を正科の内に加え」 さらに学校外で も 「青年 は勿論其 の以外の もの と雛 も廉 く武術の講究を奨励」 され るべ き である, と訓示を示 した30)。 この後秋 田で は
,
「忠孝惟‑
」
「文武不殊」 そ して 「教育産業一致」 が教育 の三大 方針 とな ってい く。 さ らに森 は愛,勇,敬の三綱 と忠勤, 実勉,進節,取制,共正,同義 を6日として教育訓練細目として示 している。
明治43年の教育会総会で 「小学校 に撃剣を普及せ しむ る方法」 として 「撃剣教授 に適当なるものを代用教員 と して任用す るの道 を開 くこと」が提案 されているが多 く の反対意見 に もかかわ らず森会長 は 「法規の上 に之 を許 さざる問題なるも其の精神 はよ く了解せ りに預か りとす べ し」 と保留扱 いとしている31)。 このよ うに秋 田県 で は 学校 に限 らず地域 において も武術,武道 の奨励が県 の施 政方針 として進め られてい った。
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4.全県中等学校武術大会の推移
全県の武道 に対す る関心の高 まりを受 け,明治41年10 月17日,撃剣,柔道 の第 1回県立学校武術大会が秋 田県 教育会主催で秋 田市 の武徳殿で開催 された32)。 これ以後 県内の中等学校 はこの大会を最大の目標 として,校内の 武術大会,他校 との交流試合を行 ってい く。各学校の選 手 を力量 に応 じて,撃剣,柔道各15階級 に分 け,各階級 ごとに競技が行われた。参加校および結果は表の通 りで, 勝利か ら敗戦を差 し引いた得点方式で,撃剣は師範学校, 柔道 は大館中学が優勝 している。「来賓参観人多針 の具 体化数 に して会場 は立錐 の余地 な く競技者 も平素鍛錬 の 精神 と体力技術 を以て勇壮活発 に試合をな し観 るものを して大 に志気を興奮せ しめた り」 と大会 は盛会な もの と な っている。
第 1回参加校 と参加選手数 学 校 名 撃 剣 柔 道 師範学校
秋 口中学 横手中学 大館中学 工業学校
558551111 55350日H==
第1回大会成績 撃 剣 勝 負 柔 道 師範学校 40 7
秋 田中学 28 22 横手中学 27 21 大館中学 5 25 工業学校 12 37
大館中学 秋 田中学 師範学校 横手中学
10771・Il11815ハソJl11
第2回大会 は,明治42年10月16日か ら弥高神社創建 の ための秋 田県教育会臨時総会が開催 され17日の武徳会秋 田支部 の演武大会の後18日に撃剣 と柔道の試合が行われ た。参加校 は第1回 と同 じで,撃剣,柔道 とも秋 田中学 が優勝 している。試合 の詳細な結果 は不明であるが,秩 田市以外の学校 に補助金が交付 されている33)。
第3回大会 は,翌43年10月16日に秋 田市武徳殿 におい て内務部長,警察部,第二大隊,憲兵分隊のほか各県立 学校長,市中学校長 らの来賓 を迎え柔道,剣道の試合が 行われ,番外 として女子師範学校,女子技芸学校の選手 の薙刀試合が行われている。後述す る森知事 の 「武術奨 励規定」が制定 された こともあ り,剣道 は150組, 柔道
は70組 の対戦が行われ る盛況をみせている34)0
第3回大会成績
剣 道 勝 負 柔 道 勝 負 引分 師範学校 44 1
横手中学 34 0 秋 田中学 17 5 大館中学 17 15 本荘中学 6 22 工業学校 4 34 農業学校 0 45
秋 田中学 師範学校 大館中学 横手中学 工業学校
88994
358141、リ」75180HHHHHHH
明治44年7月,中学校令施行規則が改正 され第13条で
「体操 は教練及体操を授 くべ し又撃 剣及 柔術 を加 ふ るこ とを得」 とされ,法令上 は随意科であ って も正課 として 実施 されることが可能 にな り,前述 したよ うにほとんど の中学校が正課 に加えた。
第4回大会 は44年10月17日に開催 され,大雨 の中午前 5時には参観者が集 まり始 め6時 にはすでに満席の状態 とな った。秋田市武徳殿 に知事,内務部長,事務官,各 県立学校長,市中学校長 の観戦す るなか午前7時半 よ り 剣道 は212組,柔道 は150組の取 り組みが行なわれた35)。
第4回大会成績
剣 道 勝 負 柔 道 勝 負 横手中学 44 8
師範学校 42 16 秋田中学 31 22 本荘中学 19 33 工業学校 16 38 大館中学 14 36 農業学校 10 22
師範学校 秋 田中学 横手中学 大館中学 工業学校 本荘中学
1697961122051822211
(なお農業学校の選手は他校の半分)
第5回大会 は大正元年19月20日,会場を秋 田県公会堂 に移 し開催 される。晴天 に も恵 まれ,午前3時 には参観 者が集 まり始 め,各小学校の参観者だけで数百名にのぼ り,知事,内務部長,警務長,事務官,各学校長,軍隊 将校,市中学校長 らが観戦す るなか午前7時半 より開始 された。今大会では 「賞奨の為両道 の優勝旗 を得たる選 手一同には銀牌,両道一番組中の優勝一名つつ に銀牌其 他の各番組中優勝者一名っっには鋼牌を授輿」 され るこ
とにな りさらに剣道 の 「最優勝者 に賞輿 の希望 を以て刀 一本」が与え られている。剣道 は252組,柔道 は147組 の 対戦が行われ,柔剣道共 に師範学校の優勝が決 まってい
る36)0