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〈文化〉分析の視点と課題

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〈文化〉分析の視点と課題

一く宗教〉社会学からの接近一

鎌  田  彰  仁

序       おける宗教の衰弱ないしは脱宗教化と同義となろ

〈文化〉は,社会成員相互に共有されている価  う。確かに,現代の高度産業社会においては,宗 値と認識の体系であり,常態においては,社会  教を核とする規範的秩序として社会を概念化する

を規範的に秩序づける機能を遂行している。そし  ことは,最早,現実にたいする有効な分析モデル て,われわれの日常的生活世界は,このような文  たりえないであろう。とりわけ,その宗教が伝統 化を枠組とする行動様式の体系として構成されて  的な制度宗教を範型としている場合には,殊更そ いる。そうした行動様式のうちで,とくに社会的  うである。

に一般化された行動様式が,通例社会的規範と呼   だが,ウェーバーやデュルケムが強調していた ばれるものである。こうした規範は,人間行為を  ように・〈宗教〉は単に制度宗教にのみ限定され

■   ●

外側から規制するとともに,内面化のメカニズム  るものではなく,それ以上のなにものかである。

を通して,行為を内側からも規制していく。それ  そのような意味での〈宗教〉は,人びとの日常的

o  ●

ゆえ,文化はまた,個人にとって,客観的である  生活世界を規範的・認識的に定義づけるととも とともに主観的でもある価値(規範)と認識の体  に,人びとに体系的に首尾一貫したく意味〉を供 系に枠づけられた共同社会行為の束でもある。   給するところの客観的・倫理的なく意味のコミュ かつて,こうした文化の中心に位置していたの  ニティ〉(community of meaniP9)と名づけるこ は,存在と世界の究極的価値と究極的意味とを人  とができよう・デュルケムが・宗教=聖という言 間に提示することによって,存在と世界あるいは  葉で問題にしていたのは・実のところ,こうした 個人と社会との関係を有意味的に秩序づけていた  く意味のコミュニティ〉であったとも言えよう・

宗教であった。その意味で,宗教は,社会秩序  それゆえ・このように定義されるところのく宗 の規範的源泉であるとともに,また,人間行為の  教〉は,デュルケムにしたがうならば,全ての社

@制を解明するための鍵でもあっだ1)マックス.  会に不変的に遍在している文化的要素であり,そ ウユーバーやエミール・デュルケムが,〈宗教〉  の意味でまた・全ての人間はなんらかの程度にお を社会分析の戦略拠点に選んだのは,接近方法こ  いて宗教的な存在である・

そ両者異なれ,宗教のもつこのような機能的特質   高度に産業化された現代社会とそこに生きる人 を看取していたからであろう。         びともまたその例外ではない。全ての社会はく意 だが,社会の近代化に伴ない,宗教は世俗化の  味のコミュニティ〉をもっており,また,全ての 傾向を辿りっづけてきており,いまや,文化の中  人間はく意味〉への欲求を内に秘めている。勿 心としての地位を他にあけわたしたかのようであ  論,現代の高度産業社会における意味のコミュニ る。伝統的な制度宗教を対象とする教会志向型一  ティは,その世俗的性格からして,かつてのよう 教団志向型宗教社会学の観点からすれば,今日み  な制度宗教の形をとることはないであろう。だが,

られる宗教の世俗化傾向は,直ちに,現代社会に  それがどのような世俗的形態をとろうとも一と

(2)

      一

「うよりはむしろ世俗的形態をとるからこそ一  あり,所与の制約条件下における行為者の主体選 ウェーバーやデュルケムにとって〈宗教〉がそう  択を方向づけるものである。つまり,価値は,行 であったのと同様に,〈意味のコミュニティ〉と  為者にとって,行為の選択的メカニズムとして機 いう観念は,現代社会の〈文化〉分析にとって  能する。

●  ■  ●  ●  o

の戦略拠点になるのである。本稿は,方法として   集団や社会の価値(体系)を構成するこうした

●     ●  ●     ●  ●  o

のく宗教〉社会学という視点に立脚しながら,こ  観念は,特定の歴史的状況のなかでは,集団や社        ●  ●

フ観念のもつ社会学的機能を分析することによっ  会と対立的な関係に位置する個人によって形成さ て・<文化瀞析の方法と課題を鯉しようとす れる.マ・クス・ウェーバーの言う〈カリスマ〉

るものである・      ないしは〈カリスマ的支配〉は,主として,価値

       観念が個人の行為過程から形成されてくる側面を1       概念化したものだと言えよう。だが,歴史の常態

人間は・一定の歴史的・社会的に制約された状  においては,ある社会の価値を構成している観念

●  ■  ●

況のなかで,能動的・主体的に行為する存在であ  は,個人的なものというよりはむしろ集合体的な る。それゆえ,人間の行為は,状況の単なる関数  ものであり,日常的生活世界のなかで,人びとの としてではなく,本源的には,主体選択に基づく  社会的相互作用を通して共通に保持されているよ 状況構成的行為として捉らえられる。そして,行  うなものである。デュルケムの意味でのく宗教=

為者によるこうした主体選択の根源には,つねに,  聖〉ないしは〈道徳的実在としての社会〉,ウェ

〈価値〉(value)と呼ばれる要素が存在している。  一バーの言う〈カリスマの日常化〉あるいはく正 人間の行為がつねに一定の価値に準拠している  当的秩序〉等の諸概念は,主として,社会的に形 とすれば,社会的行為の積分としての日常的生活  成されている価値要素の制御過程,または,行為 世界は,究極的には,情報論的に構i成されたく価  過程から形成された価値の制御過程への地位転換 値のコミュニティ〉として存立する。人間は,家  について言及したものである。制御過程における 庭,学校,地域社会等の制度領域における社会化  価値要素は,その機能要件からして,社会的に行 の過程を通して,こうした価値のコミュニティへ  為する人びとの動機にまで遡及して還元していく と成員化されていく。また,社会化と連動する社  ことはできない。その意味で,社会的行為の制御 会統制は,そのような成員のうちに内面化された  過程に位置する価値要素は,本来的に,創発的・

価値意識を通して作動する。      集合体的な性格をその属性としている。それゆえ このように,価値という概念は,行為の社会学  また,制御機能としての価値要素の存在は,諸個 的分析にとって,戦略的に重要な地位を占めてい  人の社会的相互作用を可能にする基本的条件でも

る。それゆえ,価値をどう捉らえるかは,行為の  ある。

社会学的研究にとっての原問題となる。       ところで,価値と極めて近似した内容をもつ用 価値をめぐる問題は,ソクラテスやプラトン以  語にく意味〉(meaning)という概念が存在する。

来,哲学や倫理学の中心テーマとして論じられて  そして,〈意味〉もまた,価値と同様に,人間行 きた。だが,幾多の興味深い論点を含むそうした  為における動因素を構成している。

学説史の整理は,本稿にとって直接の課題ではな   社会学が,人間行為の動因素としての〈意味〉

い・ここでは・社会的行為における価値の機能と  の役割に関心を払うことの重要性を認識したの いう視角から,価値とは人間行為の道徳的判断に  は,ウェーバーの理解社会学に負うところが多 っいての観念(あるいは観念複合体)としてのみ  い。彼によれば,社会学とは,社会的行為を解明 定義しておくことにする。このように定義される  しつつ理解し,これによってその経過とその結果 ところの価値は,行為者にとっての行動の指針で  とを因果的に説明しようとする理解的説明ないし

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鎌 田:〈文化〉分析の方法と課題       3

は説明的理解の科学である。この定式によって,  のような存在であることは,旧くは,トーマスの 行為の社会学的分析は,<行為者によって主観的  公理一もし人が状況を真理であると決めれば,

に思念された意味〉あるいはく行為が内属する意  その状況は結果においても真実である一として 味連関〉の解明を主たる課題とすることになる。  知られているが,マートンの言うく予言の自己成 だが,〈意味〉という概念もまた,価値と同様  就〉一最初の誤った状況の規定が新しい行動を に,極めて定義することの難しい概念である。実  呼び起し,その行動が当初の誤った考えを真実な 際,ウェーバーもまた,〈意味〉は彼の理解社  ものとする一もまた,人間存在のそうした側面 会学の鍵概念であるにも係わらず,それについて  を,つまり擬似環境の環境化という側面を別出し

(3)       (5)

なんら明確な定義を下してはいない。とはいって  たものである。だが,このような状況定義は,行 も,ここで,〈意味の意味〉の問題に深入し,オ  為の制御機能としての価値が個人に還元できない グデン=リチャーズからハヤカワに至る意味論の  のと同様の意味で集合体的・創発的な性格を属性 系譜をたどることはできない。それゆえ,ここで  としている。また,そうであるからこそ,その定 は・本稿の課題に必要な限りにおいて,〈意味〉  義は社会成員に共有化されうるのであり,それを の概念に言及するにとどめたい。        通して,成員相互のコミュニケーションが可能と 本稿の視角からすれば,〈意味〉は,行為者の  なるのである。つまり,状況定義ないしは現実定

状況への単なる反応から産出されるのではなく,  義の発生史的基盤は,デュルケムの言う意味での      (6)逆に,行為者の主体選択から形成されるものとし  く社会〉に求められる。そのようなく社会〉が,

て捉らえられる。つまり,〈意味〉とは,状況の  日常的生活世界の経験的現実についての定義を産 属性ではなく,行為者が状況にたいして賦与する  出する源泉であり,また,かく産出された現実定

●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  o  ●  o  ●  ●  ●  ●

ものである。とすれば,〈意味〉の決定因は,状況  義は,その社会におけるあらゆる社会状況の自明

●  ●  ●

の側に存在するのではなく,意味賦与する行為者  な文脈(the taken−for−granted context of aU so一 の側に存在している。その場合,行為者が状況に  cial s三tuations in that society)を構成する。社 たいしてく意味〉を賦与するということは,それ  会状況についての自明な文脈とは,換言すれば,

によって,それ自体としては単なるカオスに過ぎ  人間行為における〈意味〉の文法的構造であり,

ない状況を有意味的に秩序化して処理することを  それゆえにまたそれは,個人に還元不可能な集合 目的としている。換言すれば,行為者による状況  体的・創発的属性をもつとともに・社会文化的な への意味賦与は,すなわち,行為者の知覚に基づ  性格を備えたものである。

く状況の有意味的な定義と表現することもできよ   ところで,行為の社会学的分析において用いら う。それゆえ,ここで用いる限りでのく意味〉と  れるく意味〉という概念は,〈価値〉を特殊カテ は,行為者の主体選択の根源にあるく状況定義〉  ゴリーとして含むく現実定義〉として規定される definition of situationsないしはく現実定義〉   とすれば,社会的行為におけるく意味〉ないしは       (4)

р??奄獅奄狽奄盾氏@of realityだと規定しておこう。行為者  く現実定義〉の機能は複合的なものとなる。

は,こうした現実定義に基づいて状況を処理し,そ   すなわち,現実定義の人間行為における機能は,

の処理を通して状況のもつ意味を理解する。また  分析的にみれば,行為者にとっての規範機能と認

〈意味〉が,行為者の主体選択の根源にあるく現  識機能とに分析することができる。前者の規範機 実定義〉だとすれば,〈価値〉は,〈意味〉の特  能は,文字どおり,行為者にたいしてく存在すべき 殊カテゴリーとして位置づけることができよう。  現実〉(ought to be)を指示するものであり,ま

実際,社会的行為の積分から成る社会状況に関  た,後者の認識機能は,それとは逆に,〈存在して 与する行為者は,過程的にみれば,自己の行為状  いる現実〉(to be)を指示するものである。そし 況を不断に定義しながら行為している。人間がこ  て,〈存在すべき現実〉を指示する集成要素は,日

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常的生活世界を情報論的に統合しているく価値〉  拠は,プロテスタンティズムの職業論と救済論の ないしは〈規範〉であり,また,<存在している  うちに求めることができる。すなわち,それを信 現実〉を指示する集成要素は・理論的思考に基づ  仰する人々にとっては心理的に耐え難い救済観念 くく観念〉のみならず,人びとが日常的生活世界   (二重預定説)と,神の意志に適う行為として聖 のなかで〈現実〉として〈知っている〉ような常  化された職業労働を通しての救済の確証という観

識的な知識をも含むところのく知識〉の体系であ  念は,両者相まって,世俗内的禁欲主義と定義さ(7)る。勿論,人びとの日常的生活経験は,実際には  れるような行為規範を形成したのである。換言す

現実定義におけるこの二つの機能的側面から構成  れば,プロテスタンティズムという特殊な宗教心 されていることは言うまでもない・換言すれば,  理学の根底にある論理から,職業的ないしは経済 日常的生活世界は,また,人びとに共有されてい  的成功への努力を動機づけるような一・連の行為規 るく規範〉とく知識〉の複合体でもある。     範が産出されたのである。

      プロテスタンティズムの宗教倫理と資本主義精皿       神の関連についてのこのような分析は,より一般

ウェーバーの宗教社会学は,社会分析の戦略拠  化していえば,経済行為はそれ自体においては 点を〈宗教〉の領域に設定し,その拠点から社会  〈理解〉しえない,すなわち,経済的に行為する の規範的秩序の問題に接近していく。換言すれ  主体によって内面化されている行為規範との関連 ば,宗教社会学における彼の分析視点は,人間行  づけなくしては経済行為の意味理解は完結しえな 為における現実定義の規範的側面に焦点づけられ  いということを含意している。つまり,ウェーバ ている。      一的な分析視点からすれば,経済行為もまた一定 ウェーバーの社会学体系を貫通している問題意  の社会文化的な枠組のなかで営まれる社会関係的 識は,近代西欧の合理主義,就中,近代的生活に  な行為であり,その点では,経済行為といえども

●  ■

とって最も運命的な力であるく近代〉資本主義の  そのような枠組から自由ではありえない。それゆ 成立を,その精神史的起源において解明すること  え,経済行為の意味理解は,経済行為における非 にある。彼の代表的著作である『プロテスタンテ  経済的要素一社会文化的に特質づけられている

イズムの倫理と資本主義の精神』は,そのこと,  行為の規範的要素との関連づけを必要としてい       (8)

つまりプロテスタンティズムの宗教倫理が近代資  る。そして,近代資本主義の精神史的起源を問題 本主義に適合的な経済行為へと人びとを動機づけ  にするウェーバーにとっては,近代資本主義に適 るような価値を供給したことを実証したものであ  合的な経済行為にみられる社会文化的な規範要素 る。彼は,そのような価値の複合体をく世俗内的  は,発生史的にみれば,特殊な宗教的伝統のう 禁欲主義〉(inner−worldly asceticism)と定義し  ちから組織化されてきたものであり,その伝統こ た。この世俗内的禁欲主義という用語は,勤勉,  そが,歴史的個体としてのプロテスタンティズム 節約,質素,慎重,用心,自制,あるいは生活の  にみられる世俗内的禁欲主義という価値複合体な 合理的設計,(経済的)成功への努力等の徳性を  のである。ウェーバーの宗教社会学は,このよう 下位体系とするところの価値複合体である。    にして,経済行為における非経済的要素としての だが,ウェーバーの課題は,プロテスタンティ  規範機能を問題とすることによって,〈宗教と経 ズムの宗教倫理がこのような規範的特性と親和的  済〉という広大な問題領域を開拓したのである。

な関係にあることを説明するだけにあったのでは  彼が,比較宗教社会学と名づけた研究分野がそれ ない。問題は,こうした行為規範は如何なる観念  である。

にその発生史的根拠をもつのかにある。そして,   ところで,経済行為の解明的理解についてのこ ウェーバーによれば,そうした観念の発生史的根  のような接近法は,功利主義的行為理論の伝統か

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鎌 田:〈文化〉分析の方法と課題       5

ら成立した古典派経済学の仮説的前提と対立す  たときでも,神の意志としての職業労働という義 る。古典派経済学は,たとえば〈経済人〉という  務観念から永遠に解放されることはない。そこで 仮設構成体からもわかるとおり,経済行為を人間  は,被造物としての人間はどこまでいってもく神 にとって〈自然〉な行為と仮定する。そこでは,  の道具〉であり,そうだからこそ,自己の行為を 経済は人間の自然な現象であり,また同時に,人  道具として合理化し尽すことを義務として課せら 間の自然は経済として現前化する。換言すれば,  れている。神の意志としての職業労働に強迫的に 古典派経済学の行為論的基礎においては,〈幸運  専念するというプロテスタントのこうした生活態

な歴史的偶然〉という事情が背後に存在してはい  度(手段的合理主義)は,人間にとって自然な欲 (9)たが,〈存在するもの〉とく存在すべきもの〉,  求性向という観点からみれば,明らかに,目的と

〈事実と価値〉,っまりは,経済行為と規範的要  手段の疎外論的転倒の上に成立したものである。

素とが分析的に区分されえずに同一視されてい  それゆえ,超越的な神観念を知らない一別言す る。それゆえ,そこでは,経済行為における非経  れば,疎外を経験の深みにおいて知ることのない 済的要素の機能についての分析視点は,社会認識  一東洋社会の宗教的伝統からすれば,かかる生 における経験主義的方法態度の優越のまえに後方  活態度はその本質からして理解不能な態度とな へと追いやられてしまう。       る。そして,もしも人が,人間の欲求性向にとっ

●  ●

ここで,ウェーバーが,『ロッシャーとクニー  てよりく自然〉なものという入文主義的観点を選 ス』をはじめとする一連の方法論研究において鋭  択するならば,恐らく,人間をく神の容器〉として い批判の鐸先を向けたのが,まずなによりも,こ  認じる東洋の宗教的伝統の側に組するであろう。

のような経験主義的・自然主義的な方法態度であ   このように,近代資本主義の経済システムに適 ったことを想起するならば,彼の宗教社会学は,  合的な行為規範(資本主義の精神)は,それ自体 また,デュルケムとは異なる問題視角からする古  すぐれて反自然的な宗教倫理にその発生史的起源 典派経済学批判一一行為の功利主義的理論への批  をもつ。すなわち,近代資本主義は,単なる欲望 判を含意していたものと理解することができよ  自然主義的な伝統的生活態度からの自然な産物で う。勿論,そのことの直接的な検討は,社会学思  はなく,逆に,極めて厳格な禁欲主義的生活態度 想史上の問題として稿を改めて論ずべき課題であ  からの意図せざる結果として成立をみた。ウェー るので,ここでは,本稿の文脈に関わるかぎりに  バーが,語の厳密な意味で,資本主義とく近代〉

おいて,そのことの含意を確認しておくことにと  資本主義とを峻別するのは,まずもって,両者を どめたい。       このようなエトスの深みにおいて把捉していたか

すなわち,本稿の視角からすれば,社会の制度  らである。こうしてウェーバーの宗教社会学は,

的配置は,個人をその制度的パターンにしたがっ  宗教と経済あるいは価値=規範と利害との同一視 て行為に動機づけていくような規範的要素に依存  という意味での自然主義批判(功利主義批判)を しているが,実際のところ,こうした行為規範    通して,経済行為における規範的要素の機能につ とりわけ,ウェーバーの意味での近代資本主義の  いての独自な分析視点を構築したのである。

システムに適合的な行為規範は,人間の欲求性向   だが,そのことはまた,規範と利害あるいは現 に照らし合わせてみれば,概ね,〈非自然〉的な  実動機と道徳的修辞との関係についての方法論的 性格のものとして特質づけられる。たとえば,プ  問題を再提起するものでもある。

ロテスタンティズムの世俗内的禁欲主義は,その

タ現を生存中には決してみることのない無限遠下      皿

の目標に向って労働しつづけることを人びとに強   人間行為における規範と利害の関係についての 制する。人は,たとえ生の自然な欲求が充足され  基礎的な命題一人間の意識は彼の社会的存在に

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よって決定される一は,基本的な用語の修飾こ  在するという視点は,その後の知識社会学研究の そあれ,マルクスにその起源をもっている。この  なかに様々な形で継承されてきている。

命題は,マルクス主義的分析においては,<下部   マルクス主義的分析に近似した社会学的分析の 構造一上部構造〉という社会分析の基本図式のな  一例は・その理論的合意とイデオロギー上の立場 かに位置づけられている。この図式は,また,マ  では全たく異なってはいるが,パレートの分析図 ルクス主義においては,社会の母型(社会の基本  式のうちにみいだすことができる。パレートによ 的制度配置)を示すものとしても用いられてい  れば,行為の社会学的分析の出発点は,生物学的 る。       な人間性に基づく行為動機の再帰的側面(残基)

この基本図式によれば,下部構造は人間の行為  一本能ないしは無意味で非論的な感晴に基づく

(労働)とそれによって形成される社会的諸関係  欲求  にあり,残基が示す多様な要素(派生体)

の局面を,また上部構造は,そうした人間行為と  一人間が自己の行為動機を隠蔽して論理的に説 社会関係とによって基礎づけられて創造されたと  明しようとする方法  にあるのではない。した ころの世界を指示する。だが,マルクス以後のマ  がって,社会的行為一彼は非論理的な行為を社 ルクス主義の一部は,この基本図式の解釈をめぐ  会の核心とするが一を理解するには,行為の客 る議論の過程で,下部構造をそのまま経済構造と  観的観察や行為者による行為についての言明を分 同一視する傾向を強め・やがては,上部構造は経  析するだけでは不充分であり,むしろ社会的行為 済構造の直接的なく反映〉とする解釈に傾斜して  の研究者は,残基の局面=行為と言明との基底に いく。このような経済決定論的マルクス主義は,  ある現実動機の局面を分析しなければならない。

弁証法的というよりは本質的に機械論的な性格を  だが,そのような視点からすれば,たとえば性に もったものであり・そうだからこそ,下部構造と  っいての道徳的観念の変容は性残基の単純な表明 上部構造の関係は基底還元主義的命題一経済構  として説明されることになり,その分析は,性に 造の単純な反映としての上部構造一に単純化さ  ついてのフロイトの分析と極めて相似したものと れてしまう。それゆえ,このような視点からすれ  なる。っまり,パレートによれば,人間行為の大 ば,人間行為の規範分析は,下部構造(経済構造)  部分は無意識の動機によって決定されていること における経済利害から行為規範を一元的に演繹す  になる。

ることが焦点となる・換言すれば・日常的生活世   行為のマルクス主義的分析やパレート的分析 界を構成している諸個人の道徳的・規範的諸観念  が,人間行為の規範ないしは動機を下部構造や残 は彼らの現実の階級利害の反映であり,そうだか  基という人間行為の基底にある条件的要素から演 らこそまた・規範は利害に還元されてその分析的  繹することで共通しているとすれば,ソローキン 独立性を否定されることになる。たとえ,上部構 の分析図式は,まさにそれと対極的な視点に立脚 造の相対的自律性が認められる場合でも,社会的  している。ソローキンによれば,社会学的分析に 行為の規範は,階級利害によって決定される従属  とっての基本的な事実は,あくまでも精神的な要 変数という地位に位置づけられるにすぎない・そ  素であり,それはく全体としての社会〉あるいは れゆえ,行為規範についてのマルクス主義的分析  〈文化的宇宙〉という視点からのみ理解可能なも は,最後的には・イデオロギーと虚偽意識の問題  のである。つまり,ソローキンにとっては,人間 に集約されていく。      社会は単なる有機体ではなく,精神によって統合 だが,マルクスによる〈下部構造一上部構造〉  づけられている超有機体的精神的統一体である。

の基本図式が,たとえ解釈上の論争を惹起する余  このような視点からすれば,社会変動の源泉は,

地をもっていたとしても,人間行為とそれによっ  観念的真理・理想主義的真理・知覚的真理のいず て創造された世界との間には一定の対応関係が存  れをも超越する統合的真理のうちに求められるこ

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鎌 田:〈文化〉分析の方法と課題      7

とになり,それゆえにまた,人間行為における精  社会層の側からすれば,自らの社会的存在に規定 神的要素が,行為分析の優越的な要素として措定  された利害関心のゆえに,その関心に引照させな されることになる。換言すれば,ソローキンの分  がら,特定の宗教思想にたいする救済欲求が生じ 析図式においては,マルクス主義的およびバレー  てくる。そして,自己の利害関心からして適合的 ト的分析図式とは対照的に,行為規範にたいして  な宗教思想を選択し,かく結合された宗教思想を 決定的な地位が付与されている。それゆえ,彼  自己の行動原理とすることによって,行為の方向 の分析図式にしたがうならば,行為者の抱く道徳  や統一的意味を獲得することになる。

的・規範的諸観念を或る種の基底的な諸力(経済   このように,ウェーバーにおいてもまた,宗教 利害,残基)に還元することは無意味な企図であ  思想が社会層の行動原理となるためには,彼らの り,むしろ人間の行為は,逆に,そうした道徳的  観念的ばかりではなく物質的な利害関心とも結合

・規範的諸観念の流出として理解されなければな  しなければならないという視点が保持されてい らないことになる。       る。だが,同時にウェーバーは,宗教思想と社会

社会的行為における規範と利害あるいは現実動  層の利害関心が結合するのは,思想や価値規範が 機と道徳的修辞との関係についての以上のような  階級利害の単なる反映であるからではなく,かか 視点は,経済的な意味での階級利害,生物学的な  る思想や価値規範のなかに,社会層が自己の利害 意味での残基,精神的な意味での結合的真理のい  関心に引照させて,それと親和関係にあるものを ずれに着目するかの相違こそあれ  別の視角か  選択することによってであることを強調する。つ らすればこの相違こそ重要であるが一,いずれ  まり,宗教思想は,社会層の利害関心と親和的な の視点もが,それを社会的行為における優越的な  選択とに媒介されながら,特定の社会層のうちに 決定要因と規定することによって,規範と利害の  思想の共鳴盤を獲得し,それによって社会層の行 関係を一元的・決定論的に説明しようとする点で  動に一定の方向規定が賦与されることになる。

は方法的態度を共有している。       ウェーバーにおける合理主義的偏向一社会的 マックス・ウェーバーは,〈選択的親和関係〉  行為の〈型〉の成立を目的合理的行為と価値合理

(elective aff三nity)という観念を導入することに  的行為にのみ認める一と〈型の原子論〉(type よって,規範と利害の関係についての一元的・決  atomism)  社会的行為を社会を構成する原子 定論的な説明方法を回避しようとする。つまり,  的単位として概念化する一を批判しつつ,独自 彼の言う選択的親和関係という観念は,人間行為  な視点から,この問題へのウェーバー的接近法を

(10)

の定数としての規範ないしは利害という分析視点  再構成したのがパーソンズである。

の拒絶を意味している。それゆえ,規範と利害   パーソンズによれば,行為はそれ自体ですでに は,ウェーバーにおいては,いずれかを他方から  一つの体系をなしており,その構成素は欲望(カ 演繹して説明することのできない関係におかれて  セクシス),観念(認知)および価値(評価)とに いる・両者は・個々の歴史的・社会的状況のなか  分析することができる。なかでも価値=規範は,

で選択的に結合するのであり,その結合の仕方は  彼の社会体系論においては,社会体系の統合点と 本来的に個性的なものである・         して特に重要な地位を与えられている。っまり,

ウェーバーの宗教社会学においては,規範と利  パーソンズは,社会体系を地位=役割の体系,役 害は,〈社会層〉という概念装置を通して媒介・  割複合体としての制度,諸制度の組織化として 結合・関連づけられている。まず,宗教思想の側  の集合体とに分析するが,そこに一貫して流れて からこの関係をみれば,宗教思想は,特定の社会  いるのは,社会体系内部で相互関係的に行為する 層の物的・観念的な利害関心を媒介としながら,  諸個人は規範的に秩序づけられた観念と信念を内 宗教運動の担い手たる社会層と結合する。また,  面化しているという思考である。かかる規範的秩

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序は,社会的相互作用の脈絡のなかで行為者の期  ンハイムは,この問題を解決するために,そこに 待を組織化し,他者との相互作用を規制すること  思想・知識の類型化という視角をもちこむことに によって・社会体系の維持に適合的なパーソナリ  よって,異なる階級間をく自由に浮動するインテ ティを形成するための文化的資源となる。つま  リゲンチャ〉によって担われる諸観念を,イデオ り,社会的行為における欲求充足の規範的な秩序  ロギーから自由な,それゆえ,社会事象に関して 化こそが,パーソンズによれば,社会体系の動態  一般的有効性をもつ真の知識とみなそうとした。

に関する基本的現象なのである。        彼は,自己のこのような立場をく相関主義〉一 彼は・このような意味での文化的資源をく文化  人間の知識はつねにある一定の社会的立場から得 体系〉として範疇化するが・これは・個人のパー  られた知識であるとする認識論的立場_と名づ ソナリティ(パーソナリティ体系)や社会的相互  けたが,その要点は,異なる社会階層から集合さ 作用の体系(社会体系)に還元不可能な独自の機  れた知性によって表明される,合致した,より拡 能と機能要件を備えている。それゆえ,規範と利  い視点こそが真の知識であるという主張にある。

害の関係についてのパーソンズの分析視点は,必  換言すれば,そうした知識といえども,イデオロ 然的に,体系相互間の出入力関係を追求する相互  ギー化作用(知識の存在被拘束性)を完全に免れ 連関的分析となる。これによってパーソンズもま  ることは不可能であるが,少なくとも,社会的に た,ウェーバーと同様に,規範と利害の関係につ  規定づけられた種々の立場を可能なかぎり多く分 いての一元的。決定論的な説明を回避しようとす  析することによって,知識のイデオロギー化作用 るのである。       を緩和することは可能である一一これが,マンハ

      イムが相関主義と名づけたところの基本的な立場IV       であった。

社会的行為における現実定義の機能には,先述   デュルケムは,知識社会学という言葉こそ用い したように,規範的側面とともに認識的な側面が  てはいないが,知識の社会的起源についての認識 存在する。しかも・現実定義の規範的側面は,こ  論的な問題に関心をもっていた。彼の晩年の著作 の認識的側面と分離して問題にすることはできな  『宗教生活の原初形態』は,社会はあらゆるカテゴ い。      リーの基礎であること,つまり,社会は個人が自

現実定義の認識的側面を集成している構成素は  己の行為を組織し説明するための諸観念の基礎で

〈知識〉であるが・知識と社会の関係について  あることを論じている。勿論,社会こそが諸観念 は,従来,社会学の下位部門である知識社会学の  の基礎的な道具性を産出する母胎であるとデュル 課題とされてきた。その中心的な関心は,観念や  ケムが主張したからといって,そのことを直ちに 思想の諸形式とその社会的文脈との関係を分析す  下部構造一上部構造図式と同一視することはでき ることにある。こうした研究分野にとっての鍵問  ない。デュルケムにとっては,諸観念を非観念的 題は,いうまでもなく,マルクスによって提起さ  な社会的源泉にまで遡及して分析することは主た れたイデオロギーの問題であった。知識社会学  る関心ではなかった。そうではなくて,彼の主張 は,この問題をめぐって,マルクス主義によるイ  の要点は,全体としての社会は道徳的な実在とし デオロギー論の相対化を企図してきた。だが,知  て存立しており,それは,観念と実践的行為,規 識社会学は,イデオロギー論を相対化することに  範と利害とのマトリックスとしてのみ理解されう

よって,社会集団の現実利害を直接的に反映する  るという点にある。

一連の観念としてのイデオロギーと,単なるイデ   道徳的な実在としての社会ないしは規範と利害 オロギーより以上の観念を如何に区別するかとい  のマトリックスとしての社会というデュルケムの う問題に直面する。知識社会学の代表者であるマ  観念は,また,諸個人の行為に共通の準拠枠を供

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鎌 田:〈文化〉分析の方法と課題       9

給する現実定義の源泉が〈社会的〉(道徳的)な  のうちに源泉をもつこと,そして,その体系はま ものであることを含意している・この場合,社会  た社会成員の共通の道徳的感情によって裁可され 的あるいは道徳的なるものとは,その性格からし  ており,そうだからこそ,究極的意味の体系と社 て・諸個人に道徳的な尊厳と義務の感晴を抱かせ・  会成員の道徳的感情との間には極めて密接な統合 彼らの功利的・利己的な行為を制御し,さらに,  関係の存在することを看取したのである。それゆ 諸個人の行為を社会秩序のうちに有意味的に統合  えにまた,この統合関係の崩壊は,社会と個人の しうるものでなければならない。彼は,そのよう  関係をアノミー化させることを指摘し,知識社会 な機能要件を全て充足しているものをく宗教〉と  学的問題にたいする彼独自の解答を提起したので して定義する。      ある。

デュルケムによれば,このような意味での宗教   ところで,デュルケムにおける宗教へのこのよ こそが,諸個人の日常的生活経験を社会的文脈に  うな接近法は,ウェーバーのそれと必らずしも同 沿って有意味化させうるのである。そして,その  例的に論じられるものではない。ウェーバーもま 宗教=i聖の源泉は,このような意味で社会的なる  た自己の宗教社会学において,<現世の倫理的非

ものであり,また,こうした社会的なるもののみ  合理性〉という観念を拠点としながらく意味の問 が宗教的崇拝の対象となる・すなわち,デュルケ  題〉に接近していくが,彼の関心は,つねに,人 ムによれば,諸個人に行為の共通の準拠枠を提供  間行為の意味とその理解という水準に焦点づけら する現実定義の源泉は社会的(道徳的)なるもの  れている。ウェーバーが,このように,行為過程 のうちに求められるが,そのカテゴリーの究極的  における〈意味〉に執着することの背景には,社 形式は,宗教の象徴的表象に依存しているのであ  会を構城する原子的単位としての行為という観念 り,さらに,その象徴的表象は全体としての社会  が前提とされている。この前提観念は,後進国ド によって基礎づけられているのである。とすれ  イツの近代化を運命的課題と自覚するウェーバー ば,行為の現実定義の究極的源泉は社会にあり,  にとっては,たとえパーソンズの批判を受けよう また,この社会こそが現実定義そのものとなる。  とも,歴史にたいする責任という実践の深みにお それゆえ,デュルケム的な視点からすれば,社会  いて一歩も譲歩することのできない観念であっ

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は現実定義(規範と認識)の体系である。     た。それに比して,功利主義批判を通してく秩序 宗教の象徴的表象一それはまた究極的には社  の問題〉と格闘する典型的な社会学者デュルケム 会を指示するものであるが一のうちに源泉をも  にとっては,個人の経験と行動を包括的に定義す つ現実定義は,その本質的な性格からして,日常  るような究極的意味の体系としーての宗教こそが問 的生活経験の究極的意味を表現するものでなけれ  題であった。

ばならない。社会体系の維持にとって,諸個人が   こうして,人間行為における現実定義(規範と 究極的意味の体系を分有することが機能要件であ  認識)の社会的機能についての問題は,ここで改

るとすれば,宗教を源泉とする現実定義こそが社  めて,宗教社会学の検討を要する問題となる。

会と個人との重要な統合点となる。そして,デュ

ルケムは,産業化・世俗化の進行に伴う現実定義       V

の体系的一貫性の崩壊とそれにかわる新たな現実   みられたように,デュルケムが宗教という言葉 定義の不在との狭間において生起する事態一新  に含意させているものは極めて包括的であり,宗 たな集合表象と集合意識の不在一をくアノミ  教についての通常の定義をはるかに越えるもので 一〉と定義した。      ある。すなわち,彼のいうところの宗教は,単に神 このようにしてデュルケムは,究極的意味の体  観念や超自然的現象についての信念に限定されえ 系(現実定義)は宗教=聖(全体としての社会)  ず,そうした観念や信念を下位体系に含むところ

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●  ■  ●  ●  o  o  ●  ●  ●  ●  ●

のそれ以上のなにものかを意味している。敢て言  ような究極的挫折の適切な解釈とに分析すること えば,デュルケムの定義するところの宗教は,社会  ができる。前者の機能は,宗教の規範的機能とで における究極的意味の体系とでも名づけるにふさ  もいうべきものであり(規範機能としての宗教),

わしいものである。それゆえ,宗教のデュルケム  それは,現実定義の規範的側面と対応する関係に 的定義にしたがうならば,諸個人の日常的生活経  ある。また後者の機能は,宗教の説明的機能とで 験についての包括的な現実定義を産出する観念体  もいうべきものであり(説明機能としての宗教),

系は,たとえそれが宗教として明示的に制度化さ  それは,前者と同様に,現実定義の認識的側面と れてはいなくとも,制度宗教と同等の意味でく宗  対応する関係にある。宗教のもつこの二つの機能 教〉として定義することが可能となる。換言すれ  的側面が,機能論的な視角からするならば,宗教

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ば,制度宗教の社会的機能に着目し,本質的にそ  の社会学的分析の要点となる。

れと機能的等価の関係にあるものは,デュルケム   まず,宗教の規範的機能についての例証は,前述 的な定義ではすべて〈宗教〉として包括しうる。  したように,ウェーバーの宗教社会学における宗 勿論,日常的生活経験の究極的意味を最も体系  教倫理と経済倫理の問題があげられる。ウェーバ 的に維持しているのが,明示的に制度として確立  一は,近代資本主義の精神史的起源に関心をもっ された宗教,なかんずくウェーバーのいうところ  ていたがゆえに,宗教の規範的機能を,主として,

のく世界宗教〉であることはいうまでもない。だ  経済倫理との関連で問題にした。それによれば,

が,その点を強調することによって,宗教を狭く  プロテスタントは,地上における神の栄光をます 限定してとらえることは,逆に,ウェーバーやデ  ために職業労働に専念したのであるが,その宗教 ユルケムにおける宗教社会学研究のより一般的な  的行為は,無限遠のかなたにある見えざる神との 含意を見失なうことになる。彼らが宗教の社会学  関係においてのみ価値づけられるものであった。

的研究に着手したのは,宗教それ自体が問題であ  そして,この場合のプロテスタンティズムの教義,

ったのではなく  現に,ウェーバーもデュルヶ  つまり神との関係において価値づけられた職業倫 ムも,個人史のうえでは深い宗教的体験を経験す  理は,その救済観念(二重預定説)とも相まって,

る環境を生きてはきたが,彼らはとくにウェーバ  プロテスタント諸個人の宗教的行為規範として内 一は,あらゆる意味においてく宗教者〉ではな  面化された。そして,プロテスタント諸個人のう かった一,宗教こそが典型的に遂行するところ  ちにかく内面化された行為規範こそが,彼らの世 の社会的機能に着目しながら,解体化しつつある  俗的経済活動の心理的起動力をなしたのである。

19世紀西欧社会の構造的秩序を支えてきた共同の   宗教の説明的機能は,主として,宗教の提示す 信念体系を別出するためであった。その意味で,  る神義論の問題として分析することができる。経

●  ●  ●   ●  ■

彼らの宗教社会学は,厳密にいえば,宗教を戦略  験的にはもとより道徳的にも制御不可能な究極的

●   ●   ●   ■   ●   o   ●   ●   ■   ●      ●   ●   ●   ●   ●      ■   ●   ●   ■   ●

的拠点とするところの「秩序の問題」への応答の  挫折が日常的生活世界の不変的属性だとすれば,●学であった。それゆえ,彼ら社会学の第二世代が  この倫理的に非合理な現世に生きる人々にたいし

問題にしたところのく精神〉,〈倫理〉,〈道徳〉  て救済の方法を提示することが,まずもって宗教 等諸観念の思想史的意味は,こうした問題軸にひ  とりわけ救済宗教のもつ基本的な役割であった。

きつけ蕊ヂることによって最もよく理解されるこ  そして,この救済の方法を教理哲学として体系づ とになる。      けたのが宗教の提示する神義論である。それは,

ところで,機能論の視角からすれば,宗教の社  道徳的に非合理な現世における究極的挫折を適切 会的機能は,社会の道徳的価値の基礎にあり,そ  に解釈して,その事態をなんらかの有意味的な秩

・  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●

の社会に統合をもたらすような究極的価値の提示  序のうちに統合化することを本質としている。と と,経験的にはもちろん道徳的にも制御しえない  りわけ,救済宗教の提示する神義論は,道徳的に

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鎌 田:〈文化〉分析の方法と課題       11

非合理な現世機構も全体としてみれば何らかの意  だが,世俗化の進行による宗教の個人化,個人の 味をそなえたく秩序ある全体世界〉であるという  自律性と自由の増大は,ただちに,社会の脱宗教 観念から,人々のく苦難〉や〈悲劇〉を宗教的に  化,すなわち,社会の宗教からの解放と宗教の社 聖化し,その事態にく意味〉を賦与することを目  会からの消失と果して同義なのであろうか・最後 的としている。      に,現代文化の基本的性格に関わるこの問題につ

こうして,宗教の提示する神義論は,人問生活  いて若干の検討をしてみることにしよう。

に固有の究極的挫折を適切に解釈し,それを一貫      wした説明体系のうちに統合することによって,人

間生活にたいして究極的意味を提示する。神義論   社会は,諸個人の利害関心に基づく行為の積分 のもつこのような説明機能によって,究極的挫折  からなる事実的秩序を成しているが,この秩序は,

からくる情緒的,感情的欲求不満は経験的社会体  人間行為を行為者の利害関心にのみ還元できない 系へと統合されるだけでなく,さらに,残された  とすれば,〈正当〉と見倣される規範的秩序(正 経験的社会体系そのものの非合理性についての認  当的秩序)なくしては長期的に維持されることは 識的欲求不満もまた,究極的意味の一貫性の次元  困難である。その意味で,人間社会は諸個人の利

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から有意味化されることになる。宗教の提示する  害の関数以上のなにものかである。ウェーバーや 神義論は,このようにして,人間に本性的な認識  デュルケムは,〈カリスマ〉やく聖〉の問題に言 的欲求から生じるところの「意味の問題」にたい  及しながら,社会秩序をその根底において正当化 して独自な解答をさし示すのである。       たらしめているところの規範的秩序の問題を考察 宗教のもつこのような社会的機能は,人間が自  していたのである。そして,彼らが言明するよう 己の存在状況を主観的に定義しつつ生きる存在で  に,歴史を遡及すればするほど,また,先進から あり,また,社会生活の道徳的非合理性が不変的  未開へと視野を移行させればするほど,社会秩序 属性として存続しつづけているかぎり,社会の統  を正当化たらしめている源泉はまずもって宗教的 合的機能として保持されていくものであろう。だ  観念のうちに求められるのであった。それゆえ,

が,社会の近代化は,一方では,産業化を軸心とす  すべての人間社会は,その存続を究極的な要件と る社会規模の拡大と社会構造の分化を,また他方  するかぎり,つねに何らかの形で宗教ないしは宗 では,それと併行して,〈魔術からの解放〉(世俗  教的要素を必要としている。また,別の側面から 化)をともなって進行するが,その過程は同時に,  表現すれば,〈意味の問題〉が人間生活に不変的 宗教も含めて旧来のあらゆる社会統制のパターン  にまつわりつく本源的問題であるかぎり,人々 を破壊していく過程でもある。それによって,  は,宗教の提示する現実定義を必要としているの 宗教の名において特定の信念や慣行を全体的規模  である。そのことを,デュルケムの宗教論を通し で聖化し,その規範と意味の体系への画一的な同  て再確認しておこう。

調を諸個人に強制してきた宗教は,次第に公的な   デュルケムは,前述したように,宗教を社会現 世界からの後退を余儀なくされ,その活動領域を  象として分析したが,その点では,ウェーバーも 少数者の〈私的〉な生活領域に見い出さざるをえ  また同様である。だが,デュルケムが宗教を社会 なくなる。それを宗教の世俗化と呼ぶとすれば,  現象として捉らえたことのうちには,さらに興味 現代社会における制度宗教は,世俗化の進行とと  深い論点が秘められている。すなわち,彼は,宗 もに、ますます〈個人化〉を余儀なくされてい  教が社会現象であるだけでなく,社会現象もまた る。それは,他面からみれば,個人が旧来の宗教  究極的には宗教的な現象であることを看取してい 的社会統制から解放されてきた過程という意味  た。これは,実証主義者デュルケムにとっては極 で,個人の自律性と自由の増大を意味している。  めてアイロニカルな帰結ではあるが,本稿の分析

(12)

にとっては有益な示唆を提供してくれる。つま  の不可避的な帰結である。だが,諸個人の存在か り,デュルケムの言明するように,社会=宗教的  らしだいに〈意味〉が磨滅してさているという経 聖であるとすれば,そのことは,社会生活におけ  験的事実から,直ちに,高度産業社会に生きる諸

る存在状況はそれへの関与者たちによる現実定義  個人の内部に〈意味〉への要求そのものの喪失を に依存しており,それゆえにまた,全体としての  みることは,恐らく,事態の余りにも皮相的な見 社会はこうした現実定義の束から構成されている  方に過ぎないであろう。むしろ,社会の近代化と ことを意味する。換言すれば,現実あるいは状況  宗教の世俗化が昂進すればするほど,逆に,<意 は社会的に定義されるものであるが,全体として  味の問題〉が日常的生活世界の境界領域から鋭く

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の社会は,まさに,このよなう定義の積分から構  浮上してくる。とすれば,宗教の世俗化は,直ち 成されているのである。それゆえ,究極的には,  に,社会の脱宗教化を意味するのではなく,宗教 社会はく意味〉ないしはく現実定義〉のコミュニ  機能の新たな展開と変容を意味するものとして理

ティとなる。そして,宗教は,このコミュニティ  解されよう。

の中核に位置するところの典型的な社会文化的資   勿論,旧来の制度宗教を核とする現実定義は,

源なのである。その意味で,社会は単なる利害共  高度産業社会のく現実〉のなかでは,その機能的 同体以上の何ものかであり,そうだからこそまた,  影響力を徹底的に低下せしめられていることは否 社会はつねに宗教を必要としているのである。   定できない。たとえば,西欧とりわけアメリカ社 かつて,宗教の提示する現実定義は,人間に存  会を長期にわたって価値統合してきたプロテスタ 在の究極的価値と究極的意味を指し示すことによ  ンティズムの宗教倫理(中産階級の功利主義的文

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って,〈どこから〉〈どこへ〉救済されるのかと  化)は,ダニエル・ベルの指摘するように,高度 いう時間軸上の根源的問に回答を与えてきた。こ  産業化の落し子であるく快楽主義〉的価値観のま の宗教的回答は,さらに空間軸上に投射されて,  えに激しい攻撃にさらされている。換言すれば,

人間相互の共同社会関係を有意味化させてきた。  プロテスタンティズムのもつ規範機能と説明機能 人間は,こうした〈意味のコミュニティ〉のなか  は,「豊かな社会」の現実にたいしては,有効な で,自己存在の価値と意味とを確証してきた。こ  現実定義としての機能を果しえなくなっている。

のような意味のコスモスのなかに生きる人々は,  まさに近代資本主義は,その成長とともに,その たとえ自己存在の無力さを思い知らしめられるこ  システムを支えてきた〈精神〉を根底から否定す とはあっても,存在の無意味さを経験することは  る鬼子を自らの内部に生み育てつつあるのであ なかった。だが,近代化にともなう宗教の世俗化  る。これは,産業の高度化にともなうプロテスタ は,旧来の画一的な社会統制から個人を解放し,  ンティズムの世俗化と,それによる存在からの意 彼らに自由と自律性の増大をもたらすとともに,  味の磨滅とによって惹起された産業社会にたいす また,存在の究極的な投錨点であったく意味の  る文化のく反逆〉であり,近代資本主義にとって コミュニティ〉の解体をも随伴する。その結果,  の大いなるく逆説〉である。ベルに倣って言え

●  ■  ●  ●  ●

個人は,自由と自律性の代償として,存在からの  ば,この変動傾性こそが「資本主義の文化的矛盾」

●  ●     ●  ●  ●

〈意味〉の磨滅という経験に直面する。つまり人  であり,資本主義社会の内部にあるシステム融解 々は,バーガーらに倣って言えば,究極的意味の  への潜勢力である。それゆえ,資本主義の文化的 コミュニティから不断に引き裂かれていく「故郷  矛盾はまた,資本主義社会のシステムを統合して 喪失者」(Homeless Mind)として自己を経験す  きた「伝統と権威」のたそがれに起因する支配の

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る。      正当性の危機でもある。

存在からの意味の磨滅=故郷喪失者たちの析出   社会秩序が,今日においてもまた,究極的には,

は,まぎれもなく,社会の近代化と宗教の世俗化  宗教的要素(意味のコミュニティ)を核とする伝

参照

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