スピーチ・コミュニケーション教育の意義と展開(その1)
オーラル・コミュニケーションCをどう扱うか
大川 道代*・立山 利治**・長澤 邦紘*
(1995年10月13日受理)
Theory and Practice of Speech Communication Education(Part 1):
How to Teach Oral Communication C
Michiyo OKAwA, Toshiharu TATEYAMA, and Kunihiro NAGAsAwA
(Received October 13,1995)
Abstract
This paper discusses the significance of teaching Oral Communication C(i.e。,
recitation, speech, debate, discussion)which was introduced in the revised Course of Study(1989), and tries to provide a theoretical framework and methodological ideas for teaching it in speech communication class at university leve1, The authors basic idea is that these courses should and can be taught not as separated skills but as ones which are
related to each other and integrated into the overall development of communicative competence of learners. It is suggested that classroom methods for teaching Oral Communication C in high school can easily be adapted from the methods and ideasprovided in the papeL
は じ め に
平成元年に改訂された学習指導要領において,高等学校の英語にオーラル・コミュニケーション A,B, Cのコースが設けられた。オーラル・コミュニケーションAでは日常生活場面での一般的会 話,オーラル・コミュニケーションBでは聞き取り,オーラル・コミュニケーションCではレシテー
ション,スピー一一一チ,ディスカッション,ディベートなどが扱われる。本稿では,スピーチ・コミュ ニケーション教育の一環として重要と考えられるオーラル・コミュニケーションCの内容について,*茨城大学教育学部英語教育講座(〒310水戸市文京2−1−1;English Language Teaching, Faculty of Educa−
tion, Ibaraki University, Mito, Ibaraki 310 Japan).
**国際武道大学共通教育研究センター(〒299−52勝浦市新官841番地; Faculty of Genera1 Education,
International Budo University, Katsuura−shi, Chiba 299−52 Japan).
その意義と指導の実際について論じることにする。
スピーチ・コミュニケーション教育の一環としてオーラル・コミュニケーションCを重要視する
理由は3つある。まず第一に,英語のコミュニケーション能力の中でも重要な談話構成に関する能力(以下「ディスコース・スキル」)を養成できるという点がある。オーラル・コミュニケーションAに おける会話が比較的短い発話のやりとりであるのに対して,オーラル・コミュニケーションC(例え
ばスピーチやディベート)における発話は比較的長い時間持続するのが特徴である。原稿を用意し て行うスピーチでは原稿を記憶・復元して談話を構成し,原稿を用意しないで行うスピーチでは即 興(あるいは半即興)のうちに談話を続けなければならない。英語の口頭能力を育成する上でこれ らの訓練のもつ意義は計り知れないものがある。第二に,英語の論理・発想の教育ができるという 点がある。スピーチ,ディベート,ディスカッションなどの行為の中には相手を説得するという目 的がある。英語で相手を説得するには英語の論理・発想法に従わなければならない。そして,英語 文化を基盤に培われた論理・発想法が重要なのはスピーチやディベートに限ったことではない。日 常生活場面でのコミュニケーション活動においても,英語の表現活動のもつ文化的側面の重要性は 近年とみに英語教育において重要視されてきている。第三に,音声教育上の意義がある。同じオー ラル・コミュニケーションでも,一般的な会話では,話者の注意は話そうとする内容に向けられる 結果,その時の発音までは注意が向けられない。しかし,スピーチやディベートにおいては,いか に効果的に話すかという問題がその内容とともに重要になる。レシテーション(詩などの朗唱)に
おいては発音やデリヴァリー(話しぶり)の問題が最重要事項となる。つまるところ,オーラル・コミュニケーションCの教育は,英語を運用する上での伝達内容とその方法の両面に関わるものだと いうことができる。以下,特に教員養成課程における教育を意識した,大学生対象のレシテーショ
ン,スピーチ,ディベート,ディスカッション指導の意義と実践上の問題について論じていくこと にするが,高等学校におけるオーラル・コミュニケーションCの指導では,これを応用・変形ある
いは単純化させた形で扱えばよいであろう。1レシテーション指導の意義と展開
1 レシテーション指導の意義
レシテーションとは,普通,詩や物語などの文学作品を人前で朗唱することをいう。しかし,そ れはただ正しく美しい発音で読めばよいというものではなく,そこには読み手の作品に対する解釈 が要求される。作品に対する読み手の解釈が音声的に表現されていなければならないのである。レ
シテーションが oral interpretation とも呼ばれるのはこのためである。大川(1993:101)も述べて いるように,近年におけるオーラル・インタープリテーションの対象は文学作品のみならず,新聞,手紙,個人的談話など広きにわたっている。高等学校の英語科教科書に現れる題材の多様さを考え れば,将来教師となる者が,説明文,詩,ニュース,物語など多くの種類のテキスト文にふれ,そ
の音声表現の基礎を習得しておくことは不可欠のことと思われる。では,レシテーション指導の意義はどこにあるのか。(以下「レシテーション」という語を「オー
ラル・インタープリテーション」と全く同義で使う。)それは音声教育,文学教育,協同的学習とい う3つの側面から考えられる。
1.1音声教育上の意義
大学レベルでの英語の音声面の教育は,その指導の順序はともかく,子音や母音の発音,種々の 音声変化,リズム,イントネーションなどに分けて行い,それらの解説のみで終わってしまうこと が多いが,英会話やスピーチの授業でより総合的な発音指導が行われることもある。レシテーショ
ンを音声教育の一環として位置づけるのもこの考えによる。1つには,これまで個別的に習得してきた個音(母音,子音)の発音,リズム,イントネーションなどを,与えられたテキスト文を読むこ とによってより総合的に練習するという考えである。読み手はテキスト文を全体的構成,部分的強 調,作者の心理等あらゆる側面から解釈して,それらの意図が聞き手に伝わるように音声で表現す るために,英語音声の様々な特徴を知っていて,それらを駆使しなければならない。単に正しい発 音をすればよいというだけでなく,場面によって,やさしい音声,荒々しい音声,単調で物憂い音 声,うきうきした音声等を使い分けなければならない。将来英語教師になろうとしているような大 学生ですら,その英語音声の一般的特徴はいわゆる棒読み口調である。人と対話をする場合でも書 かれたものを読むような平坦な口調で話すことが多い。英語音声にも様々な強弱,高低,音色,ニ ュアンスがあることを知らせ,その習得を促し,将来におけるより豊かなコミュニケーション活動
を展望させるためにも,レシテーション指導の充実をはかる必要があるのである。レシテーションの指導は教員養成課程においてもう1つ別の意味をもつ。それは教師が教室で使う
英語のたあに必要な,ややtheatricalな発音・発声の習得と関わる。レシテーションは比較的多く
の聴衆を相手に行われることがある。そこでは普通の会話の場合の話し方と異なる,「劇場的な」発 声が必要となる。「1000人の聴衆の最後列まで届く声」で音声表現を行うレシテーションの訓練が教 員養成課程においてもつ意義は決して小さいものではない。1.2文学教育上の意義
レシテーション指導のもつ第二の意義は,それが文学教育の一端を担いうるということである。レ シテーションのテキスト文として文学作品を取り上げた場合,読み手はまずそのテキスト文を分析・
解釈することから始める。テキスト文の構造や各部分の意味についての一定の解釈がなければ,そ の文を朗読することはありえない。その解釈という行為が作品に対する読み手の理解を深め,その ために読み手はその作品をより深く享受することができるのである。また,一定の解釈に基づいた 読み手の音声表現が妥当なものと読み手自身に感じられるのであれば,そのレシテーションという 行為には,一部分,作品の創造とも呼べる行為が交じり込んでくるようにも思われ,読み手の文学
鑑賞に二重の喜びを与えることになる。レシテーションの文学教育に対してもつ意義をもう少し広げて考えてみると,それは英語学習者
の情意的側面の伸長に資する契機となるということである。現在の日本の英語教育が言語の文法的
側面に関する認知的学習に偏していることは多くの人が指摘するところである。そこには学習者の
情意的側面の教育が抜け落ちている。英語教育に様々な形で音声を持ち込めば,認知的に弱い学習
者でも活躍できる場面が出てくる。英語のスキットで活躍する生徒は必ずしもペーパーテストに強
い生徒ではない。1編の英詩を表情豊かに朗読する生徒は「文法に強い」生徒に限られるだろうか。
感情を音声で表現したり,作品を解釈するときに創造力・空想力を駆使したり,夢を語ったりする
能力をこれまでの教育は「学力」の一部とは考えなかった。Moskowitz(1978)に代表される「人間 中心の言語教育」(Humanistic Language Learning)の考えが台頭して以来,英語教育では学習者の情意面の伸長は教育の大きな課題となった。学習者の情意的能力に対する考慮は,最近では学習方略
(learning strategies)1)またはコミュニケーション方略(communication strategies)2)の研究と深く結びつ いている。学習者の情意面の配慮は無視できなくなってきているのである。
1.3協同学習の意義
レシテーション指導のもつ第三の意義は,教育における望ましい教室風土の醸成と関係がある。次 項2で見るように,レシテーションの形態は個人によるもののほか,グループによるものもある。テ キスト文をいくつかの役割に分けて,それぞれを別の人物が朗読する場合もこれに入るし,1人の役 割の部分(つまり同じ言葉)を複数の人物が朗読する場合も入る。これらは一・般に「群読」3〕と呼ば
れるものであるが,このレシテーションの形態では,グループ内の人々との協調関係,一定の音声
解釈(オーラル・インタープリテーション)に到達する過程での他人の考えや感情に対する理解・共感などが要求される。集団の中でこのような作業が遂行されれば,それが完成された場合の成就感
は個人の場合とは違ったものがあるかと思われる。特に slow learners にとっては,自分がグループの他のメンバーから認められながら作業し,一定の成果を得たという自信を持つことになり,今
後の英語学習にとって大きな動機づけとなることは容易に想像できるのである。2 レシテーション指導の展開 2.1テキストの選定
レシテーションのためのテキストは詩,小説,物語,劇,スピーチ,ニュース,説明文,対話文 等の題材から選ぶのが普通であるが,受講者の全員に同じ題材を与えるかどうかは教師が適宜決め る問題である。例えば,英語のリズムがなかなか身につかない学生には,朗読時にリズムが強調さ れる詩の題材を与えるのが効果的であるし,棒読み口調から抜け出せない学生には,イントネーシ
ョンの高低が強調される幼児向けの物語等が適している。
2.2 レシテーションの形態
レシテーションの形態は話し手の構成の違いによって次のような種類に分かれる。
① 1つのテキスト文を終始1人が読む。
② 1つのテキスト文を終始グループ全体で読む。
③ 1つのテキスト文を1人が1つの役を受け持って,数人で役割読みする。
④ 1つのテキスト文を1つのグループが1つの役を受け持って,数人で役割読みする。
⑤複数のテキスト文を1人または1つのグループが,1つまたは複数の役を受け持って読む。4)
レシテーションといえば①の形態をいうことが多いが,②〜⑤も「群読」という形のレシテーショ ンである。レシテーションという行為が一人で行うものから集団によって行われる行為に変わる時,
そこには単なる語学教育以上の何物かが期待されている。つまり,同グループのメンバーに対する 人間的理解,共感協力,そしてそこから生まれる連帯感の醸成というような教育的意義である。
2.3指導上の留意点
レシテーションの題材は様々であり,それらの題材はそれ独自の音声的特徴をもっている。ニュー ス文を幼児向け物語の様に読む者はいないし,詩を新聞記事と同じ調子で読む者はいないであろう。
題材によって異なるこれらの多様な音声的特徴を厳密に法則化することはできないが,普通,読み
手と題材と聞き手の間にはおよそ以下の一般的な原則が存在するように思われる。① 聞き手の数が多いほど話し手の音量は大きくなり,話すスピードは遅くなる。(この場合,マ イクロフォンの使用は考えない。)
② 聞き手の年齢が低いほど話すスピードは遅く,音量は大きくなり,イントネーションの高低 差は大きくなる。
③読まれる題材が感情や態度の表現を含む場合ほどイントネーションの高低差は大きくなる。
(ニュース文より対話文の方がイントネーションの高低差が大きい。)
④ スピードの速い読みの方が遅い読みよりもイントネーションは平板である。
2.4授業手順
テキストが決まった段階で,音声表現に入る前に作品の解釈をするということは前にも述べたが,
それは1つの解釈にそって皆が同じ様な読みをすることを意味するものではない。作品の解釈は多様 であるはずで,教師が考えてもみなかった解釈に出会うということもまれではない。「ここの意味を
強調したいから音声的にはこうなる」という一応納得のいく解説があれば,それぞれの解釈を受け
入れていく。レシテーション発表の形態は題材や目的によって変わってくる。「10人ぐらいの小学生に物語を語 って聞かせる」という設定では,受講生が小さな半円形に机を並べて発表を聞く。rlOOO人の大聴衆
を前にしたスピーチ」という設定では,大きめの教室の最後列にすわって発表を聞く。聞き手との
距離で話す音量を調節することは言うまでもない。レシテーションの最終段階では,テキストは「ほとんど暗記する」ことを課した方がよい。発表
のとき一応テキストは手に持つがS,それはいざ「ライン」(台詞)を忘れた場合の備えで,いちい ちテキストに頼ってレシテーションをするようでは,生きた言葉にならないことが多いからである。テキストを暗記していれば,テキストを(右ききの場合は)左胸の前あたりに持つことができる。暗
記できていないと,テキストを顔の前に持つことになり,聞き手の側から読み手の顔の表情が見え
なくなり,聴衆との一体感(rapport with audience)やオーラル・コミュニケーションの楽しさを大いに損なうことにもなる。表情,音声,身体の全てを駆使してテキストのメッセージを伝え,聴衆の
反応によって話しぶりを工夫して初めて真のtwo−way communicationが成り立つのである。2.5指導の実際
レシテーション教材の例としてエドガー・アラン・ボーの詩 Annabel Lee を取り上げてみる。こ
の詩はAnnabel Leeという名の美しい少女とある少年の恋を描いた詩と読める。そうには違いない
が,読み手がこの作品を解釈する場合,自分自身に次のような質問を課してみると,作品解釈の奥
行きが広がってくるのがわかる。①誰が,誰に話しているのか。
②どこで,いつ話しているのか。
③どのような目的で話しているのか。
④どのような形式で話しているのか。(近江1984参照)
まず,この詩の語り手は老人(男性)である。聞き手は不特定多数,あるいは老人の国人(くに びと)と考えてよい。この老人は少年の頃にアナベル・リーという少女を愛したが,少女は天使の 手によって殺されてしまう。しかし,老人は今でも自分とアナベル・リーの魂が一つに結びつけら れているように感じている,と人々に告げるのである。最後の連で老人は自分とアナベル・リーの
魂の融合を次のようにうたう。For the moon never beams, without bringing me dreams Of the beautiful Annabel Lee;
And the stars never rise, but I feel the bright eyes
Of the beautifu1 Annabel Lee;
And so, all the night−tide,11ie down by the side Of my darling, my darling, my life and my bride,
In the sepulchre there by the sea In her tomb by the sounding sea.
ここで老人が「愛しい人のそばに横たわる」というとき,その表現は甘美なイメージを想起するが,
実際は白骨化した少女のかたわらに夜な夜な添い寝をするとう怪奇な光景を描いている。それゆえ,
この場面をおどろおどうしく読むことも考えられる。しかし,それは話し手である老人にとってお どろおどうしい光景ではない。老人にとって白骨と添い寝することは甘美この上ない体験なのであ る。それゆえ,この場面はあえて老人の悦惚感を出すように夢見るような調子で読むのがよい。語
る調子が甘美であればあるほど,この場の情景の奇怪さが聞き手に強く印象づけられるからである。Ilスピーチ指導の意義と展開
スピーチと聞くと,英語スピーチコンテストや大統領就任演説等,演台やマイクがある所で大勢
の人々を説得するために話す行為を連想する。その際スピーチとはPublic SpeakingやPublic Commu−nicationと分類される学問分野を意味する。東京書籍と桐原書店から出版されたオーラル・コミュニ
ケーションCの教科書では,このような実践的スピーチ理論の一部をアメリカから取り入れる努力
がみられる。各大学で開講されている科目「スピーチ」のシラバスや,日本における英語スピーチ
の指導書(ハウエル・中沢:1987,津田:1988,石井:1994)からも同様の傾向が認められる。そこでは主に自己紹介のスピーチ,儀礼的スピーチ,情報伝達のスピーチ,説得目的のスピーチ,日本紹
介のスピーチ等が解説されている。大川(1994a)はそれらのスピーチをvisual・aidsを用いて発表する指導法について言及した。これらはスピーチ「を」教えるという発想である。
これに対して,スピーチ「で」教えるといった柔軟な態度も必要である。つまり,コミュニケー
ション理論等を導入する手段としてのスピーチ教育の実践である。同時に,オーラル・コミュニケー ションCでの4活動(レシテーション,スピーチ,ディベート,ディスカッション)を個別ではなく,随時組み合わせて指導することも大切である。古田ら(1987:262)は「発信面についても,平易な日
常会話に加えて討論,演説,朗読,演劇などさまざまな形の音声表現力の養成を組織的におこなう
ことが肝要である」と述べている。
本節では既成の枠組みにこだわらずにスピーチを広義に捉えることから始め,従来あまり扱われ てこなかった様々な形態のスピーチを実践することを提唱したい。それは学生の英語九独創性,自
己表現力,自尊心,さらにはコミュニケーション能力を総合的に向上させることにつながる。また,将来英語で授業をし,レポートや論文が書け,発表や討論ができる教員養成を目指している。ただ
単にスピーチのノウ・ハウを伝授するのではなく,「人前で話す」あらゆる状況に臨機応変に対処できる力量を育成する英語教育の確立が急務だと考えるからである。
1パブリック・スピーキング「を」教える 1.1米国のスピーチ教育から学ぶもの
全米の大学で「コミュニケーション概論」の教科書として採用されているDeVito(1994)のHu〃zan
Communicationは, Public speaking consists of a speaker addressing a relatively large audience with a relatively continuous discourse usually in a face−to−face situation(362). ttとパブリック・スピーキング
を定義している。ここで言う a relatively large audience とは10名程度から数百〜数千人規模までの 聴衆を指す。 A relatively continuous discouτse とは話者と聞き手の役割が随時交代する会話とは違っ て,話者が1人でメッセージを語り,聴衆がその話しぶりや内容に反応しながら聞く意志疎通のプロ セスを意味する。日本の英語教育界では,「スピーチ=英語パブリック・スピーキング」という図式 が一般的に受け入れられてきた。したがって,現状の大学レベルの「スピーチ」クラスやオーラル・コミュニケーションCのスピーチにおいては,英語パブリック・スピーキングを教えることが期待 されている。では何を教えたらいいのだろうか。参考資料として,米国・南イリノイ大学で1995年
春学期にJannet・Hoffmanが開発した「上級パブリック・スピーキング」のシラバスの一部を引用する。a.指導目的(一部抜粋)
① 自分のスピーチを聞くことになっている聴衆に関する知識と理解を深める。
②他の話者のメッセージを批判的に聴く能力を養う。
b.スピーチの実演課題
①個人的な信念を述べるスピーチ(personal belief speech),5〜6分
聴衆が理解および評価できるように,話者が自己の信念を紹介するのがこのスピーチの目的で
ある。聴衆の理解を促すために,自己体験を信念へと結びつけることが焦点となる。②行動を促すスピーチ(speech to actuate),8〜10分
話者の提案に基本的に賛成の立場をとる聴衆に対して,特定の行動をおこすように促すのがこ
のスピーチの目的である。聴衆に行動意欲をおこさせる方策や,心理的アピールが焦点となる。③ 敵意を持つ聴衆に対するスピーチ(speech to a hostile audience),8〜10分
賛否両論に分かれている話題に関して,話者の個人的意見や信条を,反感を持っている聴衆に 最後まで聞かせることがこのスピーチの目的である。聴衆の反対を乗り越えて,話者と聴衆の
間で和解の糸口を探ることが焦点となる。④ 演説スピーチ(declamation speech),8〜10分
過去220年間に発表された,アメリカ人演説家による説得目的のスピーチを朗読発表する。演
説家のメッセージを具現化しながら,当時の状況を再現することがこのスピーチの目的である。歴史に残る雄弁家の修辞法を学び,効果的な朗読発表のために音声と身体を十分に活用するこ
とが焦点となる。これらを最初から英語で行なうのは困難が伴い,非生産的である。しかし,「初級スピーチ」では 従来型のスピーチ(自己紹介,儀礼,情報伝達,説得目的)を指導し,「上級スピーチ」ではその範 疇に属さないスピーチを課すことも将来的には可能であろう。また,「英語パブリック・スピーキン
グ」の枠を超えて,上級スピーチは随時日本語で行なう,または「日本語パブリック・スピーキン グ」を新たに開講することも一考の価値がある。複数の科目を開講できない場合は,毎年シラバス
を替えながら,多彩なスピーチ活動を導入すればよい。大切なのは,「スピーチ=英語パブリックスピーキング=AETによって執筆された暗諦型コンテスト・スピーチ」という固定観念にとらわれず に,教員が多岐にわたる独自のスピーチ活動を展開することである。そのために教員は常にスピー チ関連の最新指導書に目を通したり,積極的に各種セミナーに参加する必要がある。日々是決戦の
試行錯誤を繰り返しながら,教員と学生はともに少しずつ「語る自己」を構築していくのである。三 熊(1995:21)は「語る自己」について,以下のように解説する。単に話したいという気持ちのことでなく,メッセージを持ち,自らの存在する空間の中で聞き 手の存在を認め,自分との間に語りによってコミュニケーションを成立させ,影響し合おうと
する自己,そしてその「術(すべ)」をもつ積極的な存在のことである。多くを語らないのを美徳とする日本文化の中で,あえて「語る自己」の形成を試みることに,ス
ピーチ「を」教える意義が集約される。その過程で,speak outすることに適さない学生は自分なり の方策を模索しながら,人前で話すことに対する抵抗感を徐々に克服できる。 Communication・is・a transactional process. tt(DeVito l 994:32)という大命題を体験学習する貴重な機会にもなる。1.2即興スピーチ
日本におけるスピーチ教育の問題は,1つのprepaτed speechを何度も書き直し,発音指導を徹底
しながら完全に暗記して発表する形式が多数派である点にある。この教授法に頼ると原稿はあたか も指導にあたっているAETやnative speakerが執筆したようになってしまい,文法や発音に完壁を 期すあまりに年間1〜2種類の発表しかできなくなる。これらの点を改善するには,豊富な題材を提
供し,即興スピーチを人前で発表する機会をできるだけ多く与える必要がある。野村(1993:82)は「トーストマスターズインターナショナル」と呼ばれる社会人向けスピーチクラブでの活動を応用し て,毎回の授業を以下の四部構成で展開している。
a.Educational Session(約15分)
スピーチの準備,原稿の作成,練習方法,発表の仕方を解説する。また優秀なスピーチをビデ
オで研究し,良いスピーチとはどのようなものかを学ぶ。
b.Table Topic Session(約25分)
Table Topic Masterに指名された学生は時事問題や学生生活の身近な問題から自由にテーマを設
定し,他の割り当てがない学生が即席で2分間,同テーマに関するスピーチを行う。
c.Formal Speech Sessien(約30分)
事前準備した4分間スピーチを5名が発表する。 lce 一 breaking Speech, Eye Contact,1 Body Movement, Vocal Variety, lnterpretive Reading,等,毎回指定したテーマに従って行う。
d.Evaluation Session(約15分)
各スピーチに対し1名ずつのevaluatorが講評を行い, evaluation・formを発表者に渡す。最後 に投票により各sessionのbest speakerを選び,次回のテーマを発表して授業を終える。
上記の方法で優れているのは,毎週全員が何かの形で発表できる点である。b〜dの司会進行やtime keeperは学生が担当しており,会議運営の手法も体得できる。 Evaluation speechも一種の即興スピー チであり,友人の発表を批判的に観る訓練にもなる。Table Topic Sessionの題材として絵や写真を見 せて,それに対するreaction speechを行うことも可能である。例えばオウム真理教のシンボルマー
クが提示されたら,発表者は日頃から新興宗教に関して憂慮している事項を述べる。大川(1993:
242−243)は毎週違った種類のテーマや題材を使って即興スピーチを練習しながら,各タイトルに相 応しい論理構成を指導する方法を提唱した。以下に加筆して,一部抜粋する。
Debatable Topics:ディベート論題の様に賛否が分かれるタイトルに対し,賛成・反対意見を首 尾一貫して,2〜3つの理由を挙げながら述べる。例えば, lnformed consent should be legalized
in Japan. という題に対して, 1 am for/against the legalization of informed consent in JaPan・Ihave 2 reasons. One, S+V. Two, S+V. Let me discuss each point one by one, とスピーチを始めるように指
示する。次に段落を変えて,自己体験や有名人の逸話等を織りまぜながら具体的に理由を説明す る。最後に,結論を別の表現で繰り返す。 ln conclusion, based on these two reasons I believe
informed consent should/shouldn t be legalized.
これらの指導法に共通するのは,コンテスト形式の発表に拘束されずに,多様なスピーチを数多
く実践する Learning by doing. Doing by learning. ttという教育哲学である。
2 スピーチ「で」教える
スピーチ「で」教えるとは,何かを教える手段としてスピーチを利用することである。その際ス ピーチをパブリックスピーキングに限定せずに,あらゆる言語行為を対象にすると展開方法が広が
る。ここではスピーチを「話すこと」全般,すなわち any communication act meeting the criteria of aesthetic discourse (Pelias and VanOosting l 987:227)と定義し,コミュニケーション理論を教える手 段としてのスピーチ教育について考えてみたい。2.1自己開示(self−・disclosure)
Jourard(1971)は,隠された自己からの情報を表明する際に我々は自己開示していると解説する。換
言すれば,自己開示とは独白によって自己の私的情報を他人に伝える行為である。日本人は文化的
な要素が絡んでいるため,自己開示が苦手であると言われている。バーンランド(1973)の研究結果によると,日本人の公的自己は一般にアメリカ人よりも狭く,話題が表面的になりがちであるとい
う。中西雅之は1995年日本コミュニケーション研究者会議において,self−disclosureでは照れくさい,恥ずかしいといった感情が先に出てしまい,大抵の場合自分のことをあまり話さず,雑談に終始し てしまう,と指摘している。一方,米国の大学では,自己開示を頻繁にスピーチコミュニケーショ ン学科の授業に取り入れている。例えば,個人的な質疑応答をペアで行い,結果をクラスに劇的に 報告するといった活動が行われている。以下は南イリノイ大学で同活動用に1995年春学期,Nathan
Stuckyが配布したハンドアウトの一部抜粋である。Any highly dramatic moments in your life?
Any moments that you remember as particularly intense?
A皿ything that you do regularly that is particularly telling about who you are?
Any particular times or places that hold particular significance for you?
Any stories that are often repeated in your family?
米国の自己開示指導を日本の英語教育に応用する方法については大川(1995a)で詳しく論じたので,
ここではその要点のみを再述することにする。まず,ペアで人生の中で最も印象的だった出来事を 告白しあい,一番興味深い話を選ぶ。次に,その出来事を小グループの前で独白する練習を繰り返 す。最後に,空間や身体を駆使して自己体験を大勢の聴衆の前で独白する。これらの作業を半期か けてゆっくり行い,少しずつ自己開示に対する抵抗感を減らしていく。この活動を通して自己を見 つめ直し,発表へ至る過程で達成感を味わい,自尊心を高めることを目指している。その結果,副 産物として英語運用能力が向上するという考えである。苦手なことは,授業という形で強要されな
ければ克服しようとはゆめゆめ思わない。「苦手だから敢えて挑戦する」という前向きな姿勢で取り 組めるか否かが,この活動の成功を握る鍵になる。ここでも,「積極的にコミュニケーションをはかる態度」が育成できる。
2.2聴衆を楽しませるスピーチ
第15回日本コミュニケーション学会主催オーラル・インタープリテーションフェスティバル(1989
年12月)のシンポジウムにおいて平井一弘は,喜怒哀楽の中で,日本人の自己表現は怒と哀に偏っ ている。もっと喜びや楽しさを人前で表現する努力が必要である,と指摘した。実際 日本の大学
における「スピーチ」シラバスに,人を楽しませるスピーチ(speech to entertain)は,ほとんど組み込まれていない。その原因はblack・humorやコメディーに代表されるように,笑いは文化的価値観
に深く根づいていることにある。ゆえに,異文化背景を持つ聴衆に対して英語で冗談を言うのは,高
度すぎるスキルなので今まであまり指導されてこなかった。しかし,日本の大学でスピーチをする
際の聴衆は日本人大学生であり,価値観や文化背景が似通っているため,「面白い」という感覚は話 者と聴衆間でほぼ一致する。最初は inside joke の感を免れないが,それでも果敢に挑戦する risk taking の精神が「積極的にコミュニケーションをはかる態度」を助長するのである。塩沢ら(1993:126)はスピーチ指導の留意点として,以下を挙げている。
スピーチ原稿の作成は生徒の自由にまかせるほうが好ましいが,聴衆に理解させ,時には聴衆を
説得し,楽しませ,感動させる印象深いものとするためには,必要に応じて教師も助言を与える
とよい。では,教員はどのような課題や助言を与えればよいのだろうか。
大川は1995年濁協大学英語学科の「上級スピーチ」授業の初講時に,人を楽しませる即興スピー
チを全員に課した。All Englishで行われる同授業の導入は,以下の要領でなされた。Suppose you were in New York and wanted to be a musical star on Broadway. Today is the audition
day and I am a director. Try to impress me to get a major role in the play. You can sing a song, dance,or do anything you want. You can also portray a fictive figure. Please enjey the thrill and show off your
talent.
この一種奇抜なテーマに対して,学生は自由な発想で応答した。例えば, 1 am a great singer. と言 いながら,意図的に下手な歌を披露する。あるいは, 1 am a bilingual dancer. May I sing in Japanese?et
と前置きをしてから,宴会芸を始める等,個性的な発表が多くみられた。上記の状況設定が学生の 適性にあわない場合には,テレビ局や広告代理店等の就職面接におけるユニークな自己PR等,学生 にとって現実味のある設定に代えればよい。オーディションでの自己PRを課したのは,ゲーム感覚 で自分以外の人になりきる度合いや,英語力のみならず恥ずかしさを克服しようとする学生の前向
きな姿勢をみるためである。「面白くなければ,履修を認めない」という過酷な状況設定をしたが,「追いつめられなければやらない」現代の学生達は A pinch is a chance. という発想転換ができる。
1回では無理でも,数回自分らしさを表現する活動を少しずつ導入することによって,学生の日常生 活がスピーチに浮き彫りにされるようになる。上記活動の目的は人を楽しませるスピーチの展開法
を教えることよりも,人前で話すことに対する苦手意識(speech anxiety)を克服する方策を各自模索 させることにある。「スピーチ」のクラスを1つ履修した程度ではspeak outするのに適する人間にはなれないかもしれないが,不安を感じながらも自分のメッセージを伝え,履修前よりも人前で話 すことに慣れることは十分可能であろう。苦手意識を克服したという自信や達成感は,英語学習の
みならず,大学生活全般を有意義に過ごす糧になるのである。川 ディベート指導の意義と展開
日本の高等学校におけるディベート教育の問題点として,松本(1993:20−21)は,「教師にディ ベート経験がない」,「母国語でのディベート体験がない」及び「指導法が確立していない」の3点を 挙げている。結果的には「指導法が確立していない」のも,「経験がない」という事実に由来するも
のと言えるであろうし,仮に,指導法だけが確立していても,実際のディベート経験のない教員に
どれだけ効果的な指導ができるかは疑問である。大学でディベート教育を行う,またはディベート
の経験をさせる必要性は,この1点についてのみ考えても大きなものがある。しかしながら,神田外
語大学異文化コミュニケーション研究所の調査報告(1992:82−86)によると,1991年に全国の大学で開講されたディベート関連科目は僅かに6科目(スピーチ・コミュニケーション全般3,ディスカッ
ション・ディベート1,スピーチ・ディベート1,ディベート1)を数えるにすぎない。もちろん,本稿でカリキュラムの改善を論じるものではないが,高等学校の英語教育の一環としてディベートが
導入された今日,将来英語教師を目指す大学生がディベートを経験できる場をより多く設ける必要 性は論を待たないであろう。そして,その「場」が授業という極めて時間的に制限のある場である ことから,本節では第一段階としてディベートの全体像を把握し,第二段階で原稿分析と理論を導
入し,第三段階でディベートを実践する展開例を提示することにする。1 ディベートの全体像を把握する
1.1手本原稿の配布と解釈
まず,教員が配布する手本原稿がディベートの完成形と呼ぷにふさわしいものか,またディベー
トたる要因を満たしているかどうかを綿密に吟味しなければならない。もちろん,完成形とはいっ ても,非のうちどころのない完壁なディベートの最高峰であるような原稿を意味するものではない。ディベートの指導書に共通して見られる下記の基準を満たしているか否かを推考する必要がある。
a.Competitive advocacy:ディベートはあくまでも意見を異にする相手との対立(competition)で あり,妥協を許さぬ自己の立場の擁護(advocacy)である。つまり,1つの命題をめぐって相反する 2つの立場のぶつかり合いが生じていることが必要である。
b.知的営為・フェアプレイ:上記の説明からは,ともすると口げんかや,意見を異にする2者の好
き勝手な言い合いを連想させてしまうかもしれない。そこで重要になるのがこの点である。例えば,ディベートの授業にCNN Crossfire のトランスクリプトを活用している大学もある。 Crossfire と
いう番組は現実社会における利害の対立を背景としており,知的活動というよりむしろ政治的背景 を反映したディベートである。したがって,対等な土俵の上で,ルールに則って行われているディ ベートとは呼びがたい。初学者に対しては,ただ相手を言い負かせばいいという態度を根づかせぬ
よう,教育的ディベートを題材として選ぶことが肝要である。c,Argumentativeである:ディベートは議論であり, Klopf and Cambra(1979:25−33)は学術的な 議論に不可欠な要素として証拠資料(evidence),理由説明(reasoning),主張(claim)を挙げている。
すなわち,証拠資料を用いた理由づけを行いつつ自己の主張や論点を明確に提示しているかが問わ れることになる。また,これらの提示をスムーズに,より聴衆に分かりやすく行うためのスピーチ
構成法が重要であることは,多くのディベート指導書の説くところである。以上のような条件を満たした手本原稿を,立論から反駁まで全て用意するのが最善であるが,授 業の重点の置き方によって立論だけに限ったり,ディベートの形式によって各スピーチの長さを調 節したりしながら,各自に適した方法を導入することが重要である。また,これらの諸条件を満た
す教育的ディベートの最高峰として,日本でも入手可能な全米大学ディベート大会(National・DebateToumament)決勝戦の原稿を挙げたい。最も初歩的なものに始まり,このNDT決勝戦に至るまで,各 担当教員が学生に望むディベートの能力に鑑みて,朗読用原稿を選ぷ,または作成することが必要 であろう。その際教員自身がどこまで正確にその原稿を分析して,学生に明示しうるかも問題とな
る。近年数々の出版社からディベート的要素を取り入れた教材が出版されているが,ディベート「を」教えるのに適しているとは言いがたい。最低限教育的ディベートと呼べる例として,Eisenberg and Ilardo(1980:112)による原稿を以下に加筆抜粋する。
論題 Resolved:That Euthanasia is Justified.
Affirmative Constructive Speech(肯定側立論)
There is a steadily growing interest in euthanasia, or mercy killing, a phenomenon by which
terminally ill patients are allowed to die with dignity. Modem technology has made a great manyadvances, including machines that will sustaill the life of a dying person. However, along with the
problem of how to save life comes the problem of when to stop it.The question I want to raise is this:Is euthanasia ever justifiable?Ibelieve it is. Under exceptional
circumstances, one or more of the following three parties ought to have the right to withdraw life。support equipment and thereby allow the patient to die。 Ideally, the patient himself should make the decision. If
he is incapable of doing so, then the family, in consultation with the doctor, should be permitted to make that choice for him.What are the exceptional circumstances that would justify euthanasia?Isee two:(1)if the disease or illness is truly terminal and there exists no hope for recovery or return to normal life;and(2)if the continued use of the life support equipment yields only agonized,10nely, or dehumanized death.
Unfo血nately, a great many doctors and families equate euthanasia with murder. But according to O.Ruth Russwell, author of Freedom to Die(New York:Human Sciences Press,1975, page 224), the epithets of murderer or executioner, often hurled freely by the opponents of euthanasia, are patently
inapplicable to the act of mercifully ending a painful and meaningless life.Society has a responsibility to treat its members with kindness. According to Marvin Kohl and Paul Kurtz, authors of A Plea of Beneficent Euthanasia , which appeared in the book, Beneficent」Euthanasia
(New York:Prometheus Books,1975, page 135), this means that in certain circumstances, we have a
moral obligation to induce death, that it is not only virtuous to help most where help is most needed, but it is often a duty to do so. Our first commitment, according to the authors of this essay, is to preserve, tofulfill, and to enhance life. But, they add, when a meaningful or significant life may no longer be
possible, we should be able to die with dignity. If a person can live with pride, then why should he not be able to die with it?次に手本原稿の解釈をするが,それはあくまで内容理解に関わることなのでここではふれない。ま
だこの段階ではディベート技術の多くについて語るべきではないと考えるからである。初期の段階
で多くの理論を教授するのは,かえって学生に対して「ディベー一一一トは難しい」という印象を与えるばかりか,教示された内容に忠実に従おうとするあまりに,学生の側からの積極的な発言を封じ込
める危険性さえあ・るのである。1.2ディベート教育へのオーラル・インタープリテーションの援用
手本原稿を配布し,それを全員で解釈しただけでは,学生のディベート体験にはならない。この 段階において,ディベートの内容を学生に定着させるための方法としてオーラル・インタープリテー
ションの効用に着目してみたい。オーラル・インタープリテーションを通して,他者の手による作
品を自分で解釈し実演する結果,他者の作品を自分のものとすることができる。大川(1994b:120)によると,オーラル・インタープリテーションとは,従来文学的価値のある作品を朗読することと
みなされていたが,1983年以来米国ではパフォーマンス・スタディーズと呼称されるに至り,その題材を文学に限定することなしに,広く新聞記事,日常会話等の非伝統的作品をも含むようになって きた。それならば,ディベートの原稿を題材として朗読し,ディベート能力の養成をはかることも
可能であろう。松本・青沼(1989:65−87)をはじめとし,いたるところでディベートの教育的意義が説かれており,ディベートを通して論理的思考能力が助長できることは明白である。平均的日本人 にはこの論理的思考能力が不足しているとしばしば指摘されるが,手本原稿を朗読することによっ
て物事を賛成と反対の両面から考えるディベート的思考が徐々にできるようになる。渡部(1994:25)は「名文句は暗記していると,いつの間にか,その人の思考法を作ってくれる」と述べている。す なわち,ある文を体得するまで徹底的に口頭発表すれば,論理的思考能力が構築できることを示唆 するものである。換言すれば,オーラル・インタープリテーションはそれまで個人内に存在しなか
ったディベートの発想や論理を萌芽させる手段である。
この活動のもう1つの意義として,ディベートの音声面の訓練が挙げられる。松本(1995:30)が述
べるように「ディベートの目的は説得」である。そして人を説得するには話しぶりが重要な役割を
果たす。Mannebach・and・Uematsu(1973:89)はアリストテレスの修辞学に触れて,「議論は内容の優 劣のみで競われるべきではあるが,人間の悲しい性のせいで外的要因が大きく結果を左右する」と,音声面の重要性を指摘している。オーラル・インタープリテーションの導入によって,ディベート
の重要な要素である音声面および話しぶりの強化も図ることができる。2 原稿の修辞学的分析とディベート理論の導入
学生がディベートについて何の予備知識も持たない段階で理論を詰め込むのではなく,まず手本 原稿に出てくる実例からディベート理論を導入すれば,学生がディベート理論を把握するのは容易
であろう。この段階で初めてディベートに内在する諸要素の知識体系の構築を図りたい。しかし,一般にディベートの指導書で述べられているような事象すべてについての理解を促す必要はない。こ
こでは,ディベートの基本概念である2つの事項の指導について論及したい。
2. 1証拠資料
立山(1991:77−84)が触れているとおり,近年の教育的ディベートにおいては証拠資料が重要性を
増している。このことは,ディベートが単に「私はこう思う」ではなく,客観的裏付けをもって自 己の立場を擁護するものであることを意味する。原稿中で使用されている証拠資料に言及しつつ,
各々の種類や性質について理解を深めさせたい。
a.証拠資料の種類:実例(factual example),統計(statistics),権威者の意見(autoritative statement)
とする分類がもっとも一般的である。例えば,前掲の安楽死立論における証拠資料は2つとも権威者 の意見の引用である。
b.証拠資料の検証:証拠資料を引用しただけで,証明は完成しない。Freeley(1976:93)による証拠
資料の信頼度テストを援用しつつ,原稿中の証拠資料について信頼度を検証する作業も,相手側が
引用した証拠資料を吟味する習慣を身に付けるための訓練となるであろう。c.調査活動について:大学生であれば日頃から図書館の利用法を熟知しているべきであるが,ディ
ベートの調査活動の一環として国立国会図書館や論題に関連した専門図書館の効果的利用法も指導
したい。これらの調査活動は将来的に有益なものであることは疑いの余地なく,課題として必ず実 行させたい。更に重要となるのが,調査で得た証拠資料の整理方法である。必要な時にいつでも引
用できるような整理方法の指導が必要である。この点に関してSanders(1983:28−29)が, There are almost as many forms for evidence cards as there are debaters. と述べているように,各個人のやりやす いように整理させればよい。教員は整理された証拠資料の実物を見せながら,分類記号,見出し,出 典と著者肩書等を記入させることが大切である。2.2 スピーチ構成法
コミュニケーション活動において,自己の考えを効率的に提示する技術は必須不可欠である。そ
の技術を習得するために,まずディベート原稿を簡潔で的を得た文にまとめあげ,それぞれを1,(A)等の数字や記号(サイン・ポスト)を使って再構築するのが有効である。具体的には各要約文に関し
てWhyで始まる疑問文とBecauseで始まる解答文を作成し,手本原稿を自分なりに書き直せばよ
い。下記の例では,(問)によって導かれた答の部分がスピーチの骨子となっていき,小論点1により 中論点(A)が導かれ,中論点(A)が大論点1を導いている。1.Euthanasia is justified.
(問)Why does he think euthanasia is justifiable?
(A)Because people have the right to die with dignity.
(問)Why does he think so?
1。Because authorities say so.
このように自己の解釈に基づいて原稿を書き直してみると,安楽死を正当なものと考える理由は
いくつあるのか,またそれぞれの理由がどのような論拠によって支えられているのかが明瞭になる。この例では(A)の尊厳死の権利が単に権威者の意見のみによって導かれていることが理解でき,否
定側(negative side)の反論を考える一助となろう。また,(問)における主語をheからyouへ代
えることによって,指導の第三段階であるディベートの実践を導入できる。3 ディベートの実践
本来,ディベート教育のあり方について論じるのであれば,実践方法について多くが語られるべ
きであるかもしれない。しかし,この最終段階での方法論は,本節のオーラル・インタープリテー
ションを援用したアプローチにおいて,それほど大きな意味を持たない。1対1のリンカン・ダグラ
ス形式,あるいは大学対抗ディベートで一般的な2対2の形式を導入しても構わない。細部にわたる
ディベートの技術論については,教員の考えも多岐にわたるであろうし,限られた時間内でそれら
のすべてを指導することは到底不可能であるからである。「習うより慣れろ」の考え方に徹し,できるだけ多く時間を割いてディベートの実例に触れさせ,文字通り「体得」させることが,このアプ
ローチ最大の狙いなのである。手本原稿の分析をしながら,学生に対し「あなたであれば」の問い
を繰り返し,オーラル・インタープリテーションで培った論理的思考能力を向上させていくことが
望ましい。そのような過程を経て実践されたディベートをあらためて批判的に分析して,
践を繰り返すことにより,より洗練されたディベート能力が溺養できるのである。
さらに実
lVディスカッション指導の意義と展開
ESS等における大学対抗戦は例外として,我々の日常生活において,今はスピーチ,今はディベー
トとはっきりした境界線を設けることは困難である。多少大げさな言い方をすれば,コミュニケー ション教育とは,絵を描き上げたり,音楽を創作するのと同様に,諸々の場面に柔軟に対処できる コミュニケーション能力を持った一個の人間を作り上げる芸術活動とも言えるであろう。コミュニ ケーション学が学際的研究分野である所以である。ゆえに,ディスカッションの指導も,他のコミ ュニケーション活動との融合が可能である。本節ではディベート教育を利用しつつ,学生をディス カッションの場へと自然に導く一展開例を示すことにする。本指導案では学生にディスカッション を実際に経験させること,および,その導入をよりスムーズにすることを第一義とする。したがっ
て,数あるディスカッションの形式,目的,方法等の中で取り上げられるのは,自ずと限定される。しかし,本指導案に含まれるディスカッションの諸要素は,いずれの形式のディスカッションにも 応用可能であることを最初に理解させておくことが望ましい。また,形式,目的,方法等が異なる
ディスカッションについても,時間の許す限り実践したい。1 ディベート準備段階におけるディスカッション導入の意義
初学者にとってみれば,debateを「討論,討議(discussion),論争(controversy)」と訳し, discus−
sionを「検討,討議審議,討論」とする岩波英和大辞典の定義は,おそらく両者の明確な差異を示
しているとは言いがたく,両者とも単なる意見の言い合いに堕する恐れを免れない。端的に言うと,debateがcompetitive advocacyであるのに対し, discussionはcooperative inquiryと定義され,
cooperation(協力)とinquiry(探索),すなわち,参加メンバーが互いに協力しつつ,ひとつの結論 を探索する過程である。そして,ディベートの試合を行う準備段階におけるチーム内での討議が,ま
さしく上記のディスカッションの二大要素を満たすものであろう。自分たちなりの,問題分析によ るディベートの実践に入る前の段階で,授業時間の数時間分を費やしてチーム単位のディスカッシ
ョンを行いたい。この活動に費やす時間数は,目標レベルや時間的制約に応じて調整すればよい。この導入方法の意義は,後にディベートの実践があるので,必然的にメンバー同志が協力して1つ
の結論に達する状況におかれるため,ディスカッションの二大要素である協力と探索を実際に身を もって体験できることにある。また,ディベート指導の過程においてディスカッションを教員の指 導下で授業内に行うことによって,ディベートとディスカッションの相違を実際に理解させること
が,2っめの大きな意義となろう。ディベートチーム単位でディスカッションを行う際は,自由に話し合わせておけばよいというも
のではない。教員の側から,効果的なディスカッションを行うための指針を提示する必要がある。また,将来的に,スピーチ・コミュニケーション教育の実践が可能な人材育成が目的であるので,デ
イスカッションの目的と意義の理解,および効果的なディスカッションのための諸条件と方法論の
理解を,随時促すようにしたい。2効果的ディスカッションのための諸条件とそれぞれの意義 2.1小グループに分ける
まず,クラスをディベート・チームに分けて,小さなグループを作ることが出発点である。この
小さなグループがディスカッションを行う単位となる。Klopf and Cambra(1981:98−99)は,小グルー プを性質により, casua1, leaming, therapeutic, problem−solving and action groups の5種類に分類して いる。その中で主にディスカッションの対象となるのが,学習グループ(learning group)と問題解決 グループ(problem−solving group)であることを,次のように示唆している。In the two types of groups we are most interested in, the leaming and problem−solving groups, group discussion plays a major role. (p.111)
このディベート・チーム単位でのディスカッションは,基本的に問題解決グループに分類される
ことを,参加者にまず意識させておくことが重要である。人数に関しては,最終的にディベートを行うことを目標としているため,実施するディベートの 形式に則した人数でグループを構成することが望ましい。一般的に,グループの定義は最低3人以上
ということになるが,最高人数となると規定は不可能である。例えば,Klopf and Cambra(1981:96)
は,グループ人数の増加に伴ってメンバー間の効果的な意思疎通がより困難になることを指摘して
いる。また,Klopf(1976:9)は,コミュニケーション効率やメンバーの得る充実感から,最適規模を5人,7人,ないし9人と定めている。本節では,初学者のディベートには5人程度が最適である,と
提案したい。2.2事前の準備
ディスカッションに限らず,あらゆる人間のコミュニケーション活動について考える時,まず,コ
ミュニケーションが,ラテン語のcommunis(共通の)を語源とする説が有力である事実を考慮して
みたい。すなわち,異なる個人間に共通(common)な考え方や知識を生み出す行為がコミュニケーションであるといえよう。このことは,各個人の中に他人と共有したい考えや知識が存在することを
大前提としており,何も考えずにディスカッションに参加することが効果的でないことを暗示する。ゆえに,各参加者はディスカッションのために事前準備をする必要があり,準備万全であるという
自負が積極的なディスカッションへの参加を促すのである。効率的な事前準備のために,教員の側から以下のような方法を指導する必要がある。