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貴族院議員団による辛亥革命下の中国視察旅行

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貴族院議員団による辛亥革命下の中国視察旅行

The Visit of the Group of Members of House of Peers to China under the Revolution in 1912

西尾林太郎

Rintaro NISHIO

Abstract

After the abdication of the emperor and the destruction of the Great Qing Empire in February 1912,China`s politics did not even show signs of stability. Not only that,China was in a chaotic state in which the revolutionary government and some warlord government were assigned to the Beijing government centered on Yuan Shi-kai,who ruled northern China centered on Beijing. Under these circumstances, an inspection team was dispatched from Japan in July 1912.It was not by military or economic personnel,but by a group of 11 members of the House of Peers.This idea came from Prince Iesato TOKUGAWA,the President of the House of Peers. The members visited Shanghai, Nanjin, Wuhan, Beijing and Tianjin, and interviewed Huang Xing,Li Yuan-hong and Yuan Shih-kai big-name politician in the Chinese Revolution period. They extended their journey in Manchuria and visited Dalian ,Mukden and Harbin. The visit to Harbin was the response to the strong request of the Russian side.

はじめに

辛亥革命とは 1911 年 4 月の広州起義(失敗)および 10 月の武昌起義以来中国全土に及ん だ清朝打倒の革命闘争であり、翌年の中華民国臨時政府の成立を経て、それは同年 2 月、

宣統帝退位を実現させた。そのことはまた、秦・漢以来およそ 2000 年に及んだ専制君主制 の終焉を意味するものであった。

この革命運動には当初から日本人が少なからず関与していることは知られている。山田 良政、宮崎滔天、川島浪速、犬養毅などはそのほんの一例である。日露戦争後、清朝打倒 を目的とした中国同盟会が東京で結成され(1905)、中国各地に作られた各支部の本部は東 京に置かれた。その中心が孫文であり、黄興であった。彼らは広く日本人と交わり、日本 人から少なからざる革命資金を得ている。

1912 年に皇帝が退位し大清帝国が滅んだ後、中国の政治は安定の兆しすらなかった。そ ればかりか、中国は、北京を中心に中国北部を支配した袁世凱を中心とした北京政府に対 し、革命政権やいくつかの軍閥政権が割拠するカオス状態にあった。

こうしたなか、日本から視察団が派遣された。それは軍や経済関係者によるものではな

(2)

く、総勢 11 名から成る貴族院議員の視察団であった。後に述べるように、未だ治安の安定 がままならないこの時期に、政府関係者ならびにそれに準ずる立場、すなわち公人ともい うべき人々が、非公式とはいえ 10 余人が一団がとなって中国を視察することなど稀であ るといわざるを得ない。

本稿では、この視察旅行に参加した人物の日記や回想録、現地で撮影された写真1)そして 当時の新聞記事を基礎資料として、貴族院議員たちの行動や見聞を明らかにするとともに、

辛亥革命期の日中関係史の一コマについて論じてみたい。

1.視察団の編成

貴族院議員による中国視察は明治45年すなわち1912年5月末から約1か月間にわたり、

移動し訪問した都市は上海に始まり、北京・天津を経て大連や奉天、哈爾濱など満洲にま で及んだ。この視察旅行は貴族院議長徳川家いえさとの発案であった。

旅行に参加した元桑名藩士で司法官僚であった加太か ぶ と邦憲くにのり(勅選議員、貴族院における所 属会派:研究会)によれば、徳川は「前年十月を以て清朝を廃して新に共和政を布き朝鮮 は前々年を以て帝国に併合したれは、此両地を視察するは必要事」と考え、貴族院議員の 有志のなかから

10

名を選定し、それぞれに費用

600

円を補助して派遣するものであった2) 視察旅行費の一人分は資料を欠き詳らかではないが、議長よりの補助金

600

円は、当時の 議員歳費

2000

円の

3

割にあたる。今日の衆参両院議員の歳費約

2200

万円の

3

割は

660

万円である。徳川議長は奮発したというべきであろう。明治

43

年度より貴衆両院議長に 対し交際費が設けられ、明治

45

年度は各議長2万

5000

円であった3)。交際費が設けられ るまでは、両院の議長・副議長はじめ各議員の対外的交流や研修を名目に両院が使用でき る財源はなかった。徳川は交際費が設定され、さらに増額されたのを捉え、議員の海外派 遣をについて積極的に考えたのであろう。彼は

10

名分

6000

円をここから捻出したのであ

(

一人は全額自費で参加

)

新聞等では、例えば「貴族院議員朝鮮支那視察旅行」

(

『東京朝日新聞』

)

として、その動 向が報じられたが、団長として参加した伯爵柳沢保やすとし(旧大和国郡山藩主家当主、統計学 者として著名)によれば、当初、清朝滅亡の直後なだけに、官界には時期を得ていないな どとの批判や風評があった4)。なるほど、この時点で日本を含む何れの国も、中国における 新たな共和国である中華民国を承認していなかった。翌

1913

10

6

日に、日本は諸外 国と共にこれを承認した。出発にあたり、前もって徳川議長や参加者たちが公式に記者会 見をすることはなかったようであるが、ともかくも徳川は、辛亥革命直後の中国の現状を 直に議員たちに体験させ、植民地となった朝鮮を見聞させようとしたのである。

参加した貴族院議員たちの動機や意図などは全く不明である。ただ参加者のひとりであ る水野直

(

旧結城藩主家当主

)

は学生時代、英語は苦手ではあったが、その後外交官として 名を成した松平恒雄

(

外務次官、駐英大使、秩父宮妃・勢津子の実父

)

や中国文学研究の泰斗

(3)

く、総勢 11 名から成る貴族院議員の視察団であった。後に述べるように、未だ治安の安定 がままならないこの時期に、政府関係者ならびにそれに準ずる立場、すなわち公人ともい うべき人々が、非公式とはいえ 10 余人が一団がとなって中国を視察することなど稀であ るといわざるを得ない。

本稿では、この視察旅行に参加した人物の日記や回想録、現地で撮影された写真1)そして 当時の新聞記事を基礎資料として、貴族院議員たちの行動や見聞を明らかにするとともに、

辛亥革命期の日中関係史の一コマについて論じてみたい。

1.視察団の編成

貴族院議員による中国視察は明治45年すなわち1912年5月末から約1か月間にわたり、

移動し訪問した都市は上海に始まり、北京・天津を経て大連や奉天、哈爾濱など満洲にま で及んだ。この視察旅行は貴族院議長徳川家いえさとの発案であった。

旅行に参加した元桑名藩士で司法官僚であった加太か ぶ と邦憲くにのり(勅選議員、貴族院における所 属会派:研究会)によれば、徳川は「前年十月を以て清朝を廃して新に共和政を布き朝鮮 は前々年を以て帝国に併合したれは、此両地を視察するは必要事」と考え、貴族院議員の 有志のなかから

10

名を選定し、それぞれに費用

600

円を補助して派遣するものであった2) 視察旅行費の一人分は資料を欠き詳らかではないが、議長よりの補助金

600

円は、当時の 議員歳費

2000

円の

3

割にあたる。今日の衆参両院議員の歳費約

2200

万円の

3

割は

660

万円である。徳川議長は奮発したというべきであろう。明治

43

年度より貴衆両院議長に 対し交際費が設けられ、明治

45

年度は各議長2万

5000

円であった3)。交際費が設けられ るまでは、両院の議長・副議長はじめ各議員の対外的交流や研修を名目に両院が使用でき る財源はなかった。徳川は交際費が設定され、さらに増額されたのを捉え、議員の海外派 遣をについて積極的に考えたのであろう。彼は

10

名分

6000

円をここから捻出したのであ

(

一人は全額自費で参加

)

新聞等では、例えば「貴族院議員朝鮮支那視察旅行」

(

『東京朝日新聞』

)

として、その動 向が報じられたが、団長として参加した伯爵柳沢保やすとし(旧大和国郡山藩主家当主、統計学 者として著名)によれば、当初、清朝滅亡の直後なだけに、官界には時期を得ていないな どとの批判や風評があった4)。なるほど、この時点で日本を含む何れの国も、中国における 新たな共和国である中華民国を承認していなかった。翌

1913

10

6

日に、日本は諸外 国と共にこれを承認した。出発にあたり、前もって徳川議長や参加者たちが公式に記者会 見をすることはなかったようであるが、ともかくも徳川は、辛亥革命直後の中国の現状を 直に議員たちに体験させ、植民地となった朝鮮を見聞させようとしたのである。

参加した貴族院議員たちの動機や意図などは全く不明である。ただ参加者のひとりであ る水野直

(

旧結城藩主家当主

)

は学生時代、英語は苦手ではあったが、その後外交官として 名を成した松平恒雄

(

外務次官、駐英大使、秩父宮妃・勢津子の実父

)

や中国文学研究の泰斗

塩谷温

(

東大教授

)

ら友人の影響もあってか、学生時代より海外に大いに関心を持ち、将来 外交官になろうと考えた事もあったという5)。水野が貴族院議員となって間もない明治

38

年か、

39

年に、彼が突如松木宗隆

(

旧公卿、伯爵

)

を訪ねてきて、金は何とかするから二人 でヨーロッパに出かけようと懇請されたことがあったという6)。松木が固辞したため、結 局、それは実現しなかったが、水野の海外にたいする関心には並々ならぬものがあり、そ のことが彼をしてこの旅行に参加させたと言ってよい。

参加者は以下の通りである。子爵は子爵議員、男爵は男爵議員、勅選は勅選議員、多額 は多額納税者議員をさす。名前の後の

(

)

内は所属する院内会派である。当時は山県・

桂系勅選議員中心の茶話会と子爵議員中心の研究会とが提携して貴族院多数派を形成し、

同院を動かしていた。

伯爵 柳沢保やすとし

(

扶桑会

)

、子爵 前田利定

(

研究会

)

、同 水野 直なおし

(

研究会

)

、男爵 安場末

(

無所属派

)

、同 坪井九八郎

(

無所属派

)

、勅選 杉田定一

(

純無所属

)

、勅選 小野田 元熈もとひろ

(茶話会) 、勅選 高崎親章(茶話会)、同 加太邦憲(研究会)、多額(山口県選出) 堀

正一

(

研究会

)

これに勅選議員で院内会派「木曜会」に所属する鎌田栄吉

(

慶応義塾塾長

)

が全額自己負 担によるものとして加わり、貴族院事務局から書記官東久世秀雄

(

男爵、のち男爵議員

)

同行した。視察旅行団の総勢は

12

名であった。この他に、属官や通訳が随行した。しか し、おそらくカメラマンが少なくとのひとり同行したのではないかと思われる。研究会所 属議員や貴族院有爵互選議員(例えば子爵議員)の選挙人団(例えば子爵者たち)の子孫 にあたる方々による公益団体「尚友倶楽部」(現在、東京都千代田区霞が関にある)が、こ の旅行の折に撮影された何枚かの参加者全員の記念写真やスナップショットを多数所有し ているからである

(

これらの写真は同倶楽部が所蔵する多数の写真とともに写真集として 出版されている。注

1

を参照されたい)。それらは参加した貴族院議員の撮影によるもので ないことは明らかである。

視察団の団長は一行のなかで最も高い爵位の持ち主である柳沢

(

旧大和国郡山藩主家当

)

、副団長はそれに次ぐ前田

(

旧上野国七日市藩主家当主

)

と水野

(

旧下野国結城藩主家当

)

であった。杉田は自由党や立憲政友会の結党に参加した福井県選出の元衆議院議員であ り、第1次西園寺内閣の際、衆議院議長を務めた、いわば衆議院の長老である。彼は明治

45(1912)

年4月に勅選議員になったばかりで、貴族院については一度も登院の体験がなく、

院内会派についても未加入であった。なお彼は帰国後、第

30

議会の開会を前に、政友会系 の勅選議員の会派「交友倶楽部」を組織する。以上の参加者に共通する所などはないが、

明治

37(1904)

年当選組が目立つ。互選議員の任期は

7

年であるが、明治

37

年に初当選し

7

年後の明治

44

年に再選された議員が数名まとまっている。柳沢、水野、前田、安場 がそれである。水野と前田はその後、最大会派「研究会」の常務委員を重任し、貴族院の 有力者となった。また前田は、大正期後半に2度にわたって国務大臣に就任した。

(4)

2.出発、南京での体験

旅の前半は、神戸から船で上海、上海から揚子江を遡上し、南京そして漢口(今日の武漢 市漢口地区

)

に至った。後半は、漢口から鉄道(京漢線)で北京に至り、続いて天津を経由 して奉天(現在、瀋陽)に至り、さらに満鉄で長春や哈爾濱

(

ハルピン

)

にまで足を延ばす鉄 道の旅であった。この旅行について水野はメモ風の簡単な日記をつけており、加太は自叙 伝に旅の記録を遺している(注1を参照さ れたい)。また、記念写真やスナップ写真も 遺されている。また、一行の動向は新聞で も報道されている。これらによって視察旅 行を辿ることができる。以下、この地図7) 参照されたい。

明治

45(1912)

5

30

日、貴族院議員 一行は新橋から京都経由で神戸に向かった。

京都では牧野忠篤、野村益三、本荘宗義ら 貴族院の最大会派「研究会」の仲間たちが 見送りに来ていた。翌

31

日、一行は丹波丸 に乗船し上海に向かった。上海入港は6月 4日であったが、その前日に水野は「研究会 に無線電話」8)をした。

4日、上海に到着した水野らはアスターハウスホテル(

Astor House Hotel

)に投宿し、

翌日は日本小学校や東亜同文書院(

1899

年、根津 一はじめらによって設立)などを視察した。

6

月6日、一行は上海を発し鉄道で蘇州を経由し、南京に入った。彼らは船津辰一郎領 事主催による夕食会に招かれ、孫文と並ぶ辛亥革命の指導者・黄興

(1874

1916

、湖南省 出身

)

を都督府に訪ねた。黄は漢陽や漢口で革命軍を引いて政府軍と戦い、これを撃破した いわば革命軍のヒーローであった。

黄は東京で在日の清国留学生を中心に革命運動を展開していたこともあり、日本には知 人や友人が少なくなかった。彼はまた京都や九州などを旅行した。ちなみに明治

42(1909)

年、自ら希望して友人の宮崎滔天と神戸より鹿児島に至り、西郷隆盛の墓に詣で城山の古 戦場を参観し、熊本を経由して長崎に入っている9)。なお、この旅行の大分前のことである が、黄と宮崎との出会いが黄ら湖南勢力(革命結社「華興会」

1903

年設立〕などのグル ープ)とすでに広東に革命結社「興中会」を結成していた孫文との提携を早め、それまで 点在していた革命勢力の統一化を促進した10)

日本でのそのような体験を有する黄興が、共和国成立早々に訪中し訪ねて来た貴族院議 員たちに対して親近感を覚えたであろうことは容易に想像できる。この会見で彼は貴族院 議員とどのような会話をしたのか、大いに興味深いところであるが、資料を欠き不明であ

辛亥革命下の中国

出典:『辛亥革命見聞記』(東洋文庫 165)より

(5)

2.出発、南京での体験

旅の前半は、神戸から船で上海、上海から揚子江を遡上し、南京そして漢口(今日の武漢 市漢口地区

)

に至った。後半は、漢口から鉄道(京漢線)で北京に至り、続いて天津を経由 して奉天(現在、瀋陽)に至り、さらに満鉄で長春や哈爾濱

(

ハルピン

)

にまで足を延ばす鉄 道の旅であった。この旅行について水野はメモ風の簡単な日記をつけており、加太は自叙 伝に旅の記録を遺している(注1を参照さ れたい)。また、記念写真やスナップ写真も 遺されている。また、一行の動向は新聞で も報道されている。これらによって視察旅 行を辿ることができる。以下、この地図7) 参照されたい。

明治

45(1912)

5

30

日、貴族院議員 一行は新橋から京都経由で神戸に向かった。

京都では牧野忠篤、野村益三、本荘宗義ら 貴族院の最大会派「研究会」の仲間たちが 見送りに来ていた。翌

31

日、一行は丹波丸 に乗船し上海に向かった。上海入港は6月 4日であったが、その前日に水野は「研究会 に無線電話」8)をした。

4日、上海に到着した水野らはアスターハウスホテル(

Astor House Hotel

)に投宿し、

翌日は日本小学校や東亜同文書院(

1899

年、根津 一はじめらによって設立)などを視察した。

6

月6日、一行は上海を発し鉄道で蘇州を経由し、南京に入った。彼らは船津辰一郎領 事主催による夕食会に招かれ、孫文と並ぶ辛亥革命の指導者・黄興

(1874

1916

、湖南省 出身

)

を都督府に訪ねた。黄は漢陽や漢口で革命軍を引いて政府軍と戦い、これを撃破した いわば革命軍のヒーローであった。

黄は東京で在日の清国留学生を中心に革命運動を展開していたこともあり、日本には知 人や友人が少なくなかった。彼はまた京都や九州などを旅行した。ちなみに明治

42(1909)

年、自ら希望して友人の宮崎滔天と神戸より鹿児島に至り、西郷隆盛の墓に詣で城山の古 戦場を参観し、熊本を経由して長崎に入っている9)。なお、この旅行の大分前のことである が、黄と宮崎との出会いが黄ら湖南勢力(革命結社「華興会」

1903

年設立〕などのグル ープ)とすでに広東に革命結社「興中会」を結成していた孫文との提携を早め、それまで 点在していた革命勢力の統一化を促進した10)

日本でのそのような体験を有する黄興が、共和国成立早々に訪中し訪ねて来た貴族院議 員たちに対して親近感を覚えたであろうことは容易に想像できる。この会見で彼は貴族院 議員とどのような会話をしたのか、大いに興味深いところであるが、資料を欠き不明であ

辛亥革命下の中国

出典:『辛亥革命見聞記』(東洋文庫 165)より

る。後年、加太は黄を次のように評している。「……円顔白色、人に接する、最も穏和にし て愛嬌あり、本邦にていわゆる豪傑風という点は、その面貌においても、その態度におい ても、さらに見えず、誠に接遇に心持こ こ ちよき人なり

(

日本に居りたることありて、邦人には特 に親昵にして、邦語も普通のことは差支えなし

)

。従って人望もあり、また学問あり、策略 もあり、機敏にして機を見て動き、変に応ずることを知る英傑なり……」11)

貴族院議員一行とほぼ同じ時期に上海や武漢三鎮に滞在した、フランスの社会学者・フ ァルジュネルは「無数の危険の只中で信じがたい堅忍不抜さをもって、自己の目的に向か って進んだ」と評し、彼の人物評伝を書いた作家たちの孫文と黄興の評価「孫は革命のワ シントンであり、黄興は革命のナポレオンである」を自著で紹介している12)

ところで、会見場となったこの都督府はかつての太平天国の天王府であったところであ る。この時、一行が黄興と共に撮った写真が

6

18

日付『朝日新聞』第

4

面に大きく掲 載された。この記念写真13)は今日、尚友俱楽部に保存されている。以下の写真である。

前列の真ん中が黄興、その左右に視察旅行参加者が着席する。前列右から鎌田栄吉、坪 井九八郎、高崎親章、水野直、柳沢保惠、黄興、前田利定、小野田元熈、安場末喜、加太 邦憲、杉田定一、後列右から

6

人目が堀正一。

貴族院議員訪中団、黄興と共に

出典:『尚友倶楽部所蔵貴族院・研究会写真集』より

(6)

7日は終日南京の観光に充てられたが、夕方、一行は黄興の招待宴に臨んだ。

当時、南京市街の一部で、政府軍(革命軍)と反政府軍との間で撃ち合いがあり、市中の警 戒は厳重であった。一行を乗せ、宿舎・蓬莱館と宴会場とを行き来する馬車は、何度か警 備の兵士に停められ、その都度誰何された14)。南京の治安は未だ安定してはいなかったの である。

ちなみに、一行が訪中する5か月前の

1912(

明治

45)

年1月、孫文を臨時大統領とする中 華民国が南京に成立し、2月に宣統帝溥儀が退位して清朝が滅びた。3月、暫定憲法であ る臨時約法が公布され、孫文は北洋軍閥の巨頭・袁世凱に臨時大統領職を譲った。4月に 入り、立法機関にあたる参議院が北京に移転したが、黄興が都督として「留守政府」=革 命政府を預かっていたのである。一方、袁は、北京を事実上の中華民国の首都としつつ、

強大な軍事力を背景に、革命勢力を疎んじつつあった。

余談であるが、一行が帰国した頃、袁世凱に対抗するべく、黄興の仲間であった宋教仁 を中心とした革命同盟会を中核に小会派が糾合され、新たに国民党が結成された

(8

)

。翌

(1913

)

2月の第一回国会議員選挙で袁の与党共和党が国民党に敗れると、袁は刺客を

放ち宋教仁を暗殺し、新たに成立した国会を無視する挙に出た。ここに至り、孫文や黄興 らは袁世凱追討を掲げ、革命派は各地に蜂起した

(

第二革命

)

。が、たちまち袁の軍隊に鎮圧 され、孫文は日本統治下の台湾に、黄興は日本にそれぞれ亡命を余儀なくされたのである。

2.武漢三鎮へ

さて、

6

8

日、一行は大空丸に乗船し、

700

キロ余り上流の漢口に向かった。9日午 後5時、九江に停船し、体調の悪い水野と加太以外は上陸して大冶た い やの鉄鉱石の鉱山に立寄 った。

大冶鉄山は清末に張之洞によって開設された漢陽鉄政局の管轄にあり、漢陽製鉄所への 鉄鉱石の供給を前提に開発された鉄鉱石の鉱山で、鉱脈が一部露出しており、露天掘りが 可能な、極めて良質な鉄鉱山であった。明治

34

1901

)年に操業を開始した八幡製鉄所 も、この鉄山から専ら原料の供給を受けた。八幡製鉄所は当初、釜石鉱山からの原料供給 を意図したが、供給量について見込みを大きく下回ったため、揚子江―南シナ海ルートで 原料運搬が容易である、この鉄山に目をつけたのである。鉄は近代産業の血液といわれる が、いわば大冶鉄山は日本の産業近代化にとって不可欠な鉱山であった。ちなみに、水野 は手帳に次のようなメモを遺している15)

大冶の鉄山 山乃ち鉄

15

POND

の中

Sweden 60per

大冶は

68per

(7)

7日は終日南京の観光に充てられたが、夕方、一行は黄興の招待宴に臨んだ。

当時、南京市街の一部で、政府軍(革命軍)と反政府軍との間で撃ち合いがあり、市中の警 戒は厳重であった。一行を乗せ、宿舎・蓬莱館と宴会場とを行き来する馬車は、何度か警 備の兵士に停められ、その都度誰何された14)。南京の治安は未だ安定してはいなかったの である。

ちなみに、一行が訪中する5か月前の

1912(

明治

45)

年1月、孫文を臨時大統領とする中 華民国が南京に成立し、2月に宣統帝溥儀が退位して清朝が滅びた。3月、暫定憲法であ る臨時約法が公布され、孫文は北洋軍閥の巨頭・袁世凱に臨時大統領職を譲った。4月に 入り、立法機関にあたる参議院が北京に移転したが、黄興が都督として「留守政府」=革 命政府を預かっていたのである。一方、袁は、北京を事実上の中華民国の首都としつつ、

強大な軍事力を背景に、革命勢力を疎んじつつあった。

余談であるが、一行が帰国した頃、袁世凱に対抗するべく、黄興の仲間であった宋教仁 を中心とした革命同盟会を中核に小会派が糾合され、新たに国民党が結成された

(8

)

。翌

(1913

)

2月の第一回国会議員選挙で袁の与党共和党が国民党に敗れると、袁は刺客を

放ち宋教仁を暗殺し、新たに成立した国会を無視する挙に出た。ここに至り、孫文や黄興 らは袁世凱追討を掲げ、革命派は各地に蜂起した

(

第二革命

)

。が、たちまち袁の軍隊に鎮圧 され、孫文は日本統治下の台湾に、黄興は日本にそれぞれ亡命を余儀なくされたのである。

2.武漢三鎮へ

さて、

6

8

日、一行は大空丸に乗船し、

700

キロ余り上流の漢口に向かった。9日午 後5時、九江に停船し、体調の悪い水野と加太以外は上陸して大冶た い やの鉄鉱石の鉱山に立寄 った。

大冶鉄山は清末に張之洞によって開設された漢陽鉄政局の管轄にあり、漢陽製鉄所への 鉄鉱石の供給を前提に開発された鉄鉱石の鉱山で、鉱脈が一部露出しており、露天掘りが 可能な、極めて良質な鉄鉱山であった。明治

34

1901

)年に操業を開始した八幡製鉄所 も、この鉄山から専ら原料の供給を受けた。八幡製鉄所は当初、釜石鉱山からの原料供給 を意図したが、供給量について見込みを大きく下回ったため、揚子江―南シナ海ルートで 原料運搬が容易である、この鉄山に目をつけたのである。鉄は近代産業の血液といわれる が、いわば大冶鉄山は日本の産業近代化にとって不可欠な鉱山であった。ちなみに、水野 は手帳に次のようなメモを遺している15)

大冶の鉄山 山乃ち鉄

15

POND

の中

Sweden 60per

大冶は

68per

15

億ポンドは約

6

8000

万キログラムで

68

万トン、スウェーデンの鉄山の品位は

60

これに対し大冶の品位は

68

で高い。しかも、露天掘り、「山乃ちすなわち鉄」であった。

体調を崩した二人は先に上流の漢口に向かい、

10

日に到着した。加太は夜中に蘇東坡の

「赤壁の賦」で有名な赤壁を通過したため、有数の景勝地を見ることができなかったこと を「実に遺憾とせさるを得さりき」16)と悔やんだ。

6

11

日から

13

日まで一行は漢口に滞在したが、一日早く当地に来た水野・加太のふ たりは、名和司令官の招きで領事館の前に停泊する軍艦「新高」を訪問し、松村領事夫人 の配慮で領事館の地下の一室で暑さを忘れ「無上の休養」17)をし、元気を回復しつつ、大 冶見学組の到着を待った。

漢口は揚子江に面した大きな港街であり、北行する鉄道の拠点であった。列国の領事館 や総領事館が置かれた。漢陽は張之洞によって建設された鉄の溶鉱炉や鋳造工場はじめ製 鉄関連工場と兵器廠や製糸工場が多数集まり、武昌は官衙が軒を連ね、国軍の駐屯地もあ る、いわば湖北省の中心であった。そして、そこは辛亥革命の幕が切って落された地でも あった。

さて、漢口、漢陽、武昌は総じて武漢三鎮と称せられる。一行は武漢で、黄鶴楼に登っ たり、日本人倶楽部に招かれたりした。しかし、この地も南京同様、治安は完全でなく、

漢陽の工場群については、一部は閉鎖され、他のほとんどが操業を停止し、時折砲撃や銃 撃の音がした。貴族院議員団より数か月前にこの地に滞在した、先述のフェルナン・ファ ルジュネルは次のように書いている。

・・・・・人々は戦闘が再開されるのではあるまいか、武昌の要塞が共同租界のヨーロッ パ人住宅を砲撃するのではあるまいかとさえ疑っている。というのは、相変わらず起こ る可能性のある排外主義者の運動か、それとも紛争を引き起こす手段として、陰謀家グ ループによる外国人の襲撃があるのではないかと、人々は恐れているのである。夜中に 時々、大砲のとどろく音でびっくりして目を覚ます。服を着る。情報を求めにホテルの 廊下に行く。そこで聞き耳を立てている隣人たちを見出す。いいや、この近所では何も 破裂しませんでしたよ。私たちは再び床につく。しかし、後刻また同じように起きるの である。日によって

3

回か4回くりかえされる不愉快な訓練である。・・・・・18)

13

日にはこの地の都督で前中華民国臨時副大統領・黎元れいげんこう

(1864

1928

、当時の臨時大統領は孫文、なお、大正

2

1913

10

月、袁世凱の大統領〔総統〕就任と共に、副大統領に就任

)

を表敬訪問した。彼はもともと海軍の軍人であったが、日清戦争 後、張之洞の指示で陸軍に転じ、新軍の創設にあたった。短期間、

日本に留学し軍事技術を学んで帰国、その後武昌を拠点に展開す る国軍に配置され、辛亥革命勃発時には混成旅団長であった。新 軍の幹部の多くが逃亡したのち、中央に反旗を翻した軍内部の革 黎元洪

出典:『柔暗総統 黎元洪』より

(8)

命軍派の説得に応じ、湖北新軍の大半を率いて革命軍の総司令官となった19)。清朝が崩壊 し、日本の貴族院議員団と会見してほどなく、彼は袁世凱の招請に応じ、北京に出た。し かし、革命勢力を代表するひとりとして袁とは距離を置いた。そして袁の死後、彼は不安 定な立場ながらも中華民国の大統領に就任することになる。後年、加太は彼を評して「彼、

人に接して度ありといえども文なし」「その大統領に選まれしは、彼に私心なく敵党なき ところが彼をしてこの大任に当たらしめる所以ならん」20)と、述べている。

3.北京で

6

15

日、一行は京漢線を北上して北京に到着したが、これは黎元洪によって提供され た特別列車であった。北京駅では軍楽隊が一行を歓迎した。この夜、邦人有志の歓迎宴に 一行は招待されたが、参議院副議長・湯化龍ほか数名の参議院議員も来会し、大いに盛会 であった。

16

日の午後

5

時、

20

分程の短い時間であったが、一行は中華民 国総統・袁世凱

(1859

1916)

と会見した。袁は一行に対し、日本は同 文同種で最も親しき隣邦であり、「立憲政治国」の先輩として惜しみ ない指導と他国に先んじて新国家を承認するよう、要請した21)。加太 は袁世凱の印象を「〔袁は〕霜降りの詰襟服を着し、白髪円顔、徹頭 徹尾莞爾として辞令を卑しゅうし、あたかも門弟が師の教えを仰ぐが 如き彼の態度は、田舎の好々爺としか窺われざりしなり。当時彼は

〔ママ、五十三歳〕五十六歳

とのことなりしが、慥かに十歳ほども高年に見えたり」と 語る23)

その後、一行は伊集院彦吉公使の招待宴に応じたが、十数名の参議院議員や数十名の邦 人も参加し盛会であった。翌日一行は新国家の暫定的な立法機関である参議院を見学し、

議事の様子を傍聴した後、正午となり外交部長・陸徴祥の招きで昼食をとった。

19

日には、

一行は万里の長城・十三陵を参観した。こうして北京滞在の5日間を忙しく過ごし、

20

に天津に移動した。天津に清朝後期の大官・李鴻章

(

北洋大臣

)

の邸宅を見学したり、日本人 会の歓迎を受けたりした。

こうして、貴族院議員一行は、産声を上げたばかりで、未だ不安定な政治状況にある共 和制下の中国の現状を見た。それは第一革命が終り、第二革命

(

袁打倒

)

を迎えるまでの、袁 世凱派と革命派とが対峙した中国であった。そして、前田が語るように、至る所で大いに 歓迎され、「大官都督等は皆等しく、日本は世界に率先して支那の共和に承認を与へ呉れよ。

然らざれ列国は承認せず」24)との要請を受けた。しかし、日本側一行はこれに応えることは なかった。彼等にはそのような権限はなかったからであり、政治的な配慮からでもあろう。

続いて一行は万里の長城の北側、すなわち満洲に移動した。「新領土朝鮮」を体験しつつ、

半島を縦断して日本本土に帰還するためである。

袁世凱

出典:「近代中国指導者評 論集成22)」より

(9)

命軍派の説得に応じ、湖北新軍の大半を率いて革命軍の総司令官となった19)。清朝が崩壊 し、日本の貴族院議員団と会見してほどなく、彼は袁世凱の招請に応じ、北京に出た。し かし、革命勢力を代表するひとりとして袁とは距離を置いた。そして袁の死後、彼は不安 定な立場ながらも中華民国の大統領に就任することになる。後年、加太は彼を評して「彼、

人に接して度ありといえども文なし」「その大統領に選まれしは、彼に私心なく敵党なき ところが彼をしてこの大任に当たらしめる所以ならん」20)と、述べている。

3.北京で

6

15

日、一行は京漢線を北上して北京に到着したが、これは黎元洪によって提供され た特別列車であった。北京駅では軍楽隊が一行を歓迎した。この夜、邦人有志の歓迎宴に 一行は招待されたが、参議院副議長・湯化龍ほか数名の参議院議員も来会し、大いに盛会 であった。

16

日の午後

5

時、

20

分程の短い時間であったが、一行は中華民 国総統・袁世凱

(1859

1916)

と会見した。袁は一行に対し、日本は同 文同種で最も親しき隣邦であり、「立憲政治国」の先輩として惜しみ ない指導と他国に先んじて新国家を承認するよう、要請した21)。加太 は袁世凱の印象を「〔袁は〕霜降りの詰襟服を着し、白髪円顔、徹頭 徹尾莞爾として辞令を卑しゅうし、あたかも門弟が師の教えを仰ぐが 如き彼の態度は、田舎の好々爺としか窺われざりしなり。当時彼は

〔ママ、五十三歳〕五十六歳

とのことなりしが、慥かに十歳ほども高年に見えたり」と 語る23)

その後、一行は伊集院彦吉公使の招待宴に応じたが、十数名の参議院議員や数十名の邦 人も参加し盛会であった。翌日一行は新国家の暫定的な立法機関である参議院を見学し、

議事の様子を傍聴した後、正午となり外交部長・陸徴祥の招きで昼食をとった。

19

日には、

一行は万里の長城・十三陵を参観した。こうして北京滞在の5日間を忙しく過ごし、

20

に天津に移動した。天津に清朝後期の大官・李鴻章

(

北洋大臣

)

の邸宅を見学したり、日本人 会の歓迎を受けたりした。

こうして、貴族院議員一行は、産声を上げたばかりで、未だ不安定な政治状況にある共 和制下の中国の現状を見た。それは第一革命が終り、第二革命

(

袁打倒

)

を迎えるまでの、袁 世凱派と革命派とが対峙した中国であった。そして、前田が語るように、至る所で大いに 歓迎され、「大官都督等は皆等しく、日本は世界に率先して支那の共和に承認を与へ呉れよ。

然らざれ列国は承認せず」24)との要請を受けた。しかし、日本側一行はこれに応えることは なかった。彼等にはそのような権限はなかったからであり、政治的な配慮からでもあろう。

続いて一行は万里の長城の北側、すなわち満洲に移動した。「新領土朝鮮」を体験しつつ、

半島を縦断して日本本土に帰還するためである。

袁世凱

出典:「近代中国指導者評 論集成22)」より

4.北京から満洲へ

6

21

日、貴族院議員一行は天津から海路、営口に渡った。営口は当時、満洲最大の港 湾都市である。営口から大連に移動し、

25

日には日露戦争の激戦地・旅順を訪れた。旅順 口、二〇三高地などの戦跡をめぐり、現地の日本人会の歓迎を受けた。

26

日午後、大連を 出発し翌日早朝長春に到着した。長春は満鉄の終点であり、後年「満洲国」の首都となる 都市であるが、当時は小都市であった。

この時、ロシア側は一行にハルビン

(

哈爾浜

)

来訪を要請していた。一行はこれに応じ、東 清鉄道が提供した特別客車に乗車してハルビンを訪れた。

27

日午後2時、一行を乗せた列 車がハルビン駅に着くと、東清鉄道長官代理・ヒルコフ公爵や民生部長・アファナシェフ 中将などロシア側要人や多数の在留邦人が一行を出迎えた。一行は馬車で市内を観光し、

夜は官民挙げての歓迎会に臨み、

29

日に奉天に戻った。加太はハルビンの印象について、

「徹夜娯楽の弊風」を指摘する。パリやロンドンなどでは遊楽に夜を徹することはあるが、

ハルビンではその歓楽街において「夏冬問わず終夜歓楽を尽くすを通常とし、公園も夏季 夜を徹して雑沓す」という具合に極端である、これは戒めなければならない25)、と。

ともかく、ロシア側は日本の貴族院議員一行を丁重にもてなした。なぜか。第一次・第 二次日露協約の締結と、両国は日露戦争後、利害関係を調整し、協調関係を急速に構築し つつあった。一行がハルビンを訪れた直後には、桂前首相が後藤新平とともにシベリア鉄 道を使って渡欧しモスクワを訪問することが予定されていたし、第三次日露協商が締結さ れることとなっていた。今回の協商は日露で東西に内蒙古の特殊権益を分かつことが意図 されていた。日露戦争終結後

10

年を出でずして、日露両国は政治的に大きく接近してい たのである。東アジアにおける日露間のこのような動向が、ロシア側による一行の歓待に 繋がったのではないか。

ところが、旅の疲れからであろうか、水野は体調を崩したためハルビン行きを断念し、

直ちに帰国するよう決断した。彼は

27

日、ひとり長春に留まり

(

満鉄直営の大和や ま とホテルに 宿泊

)

26)、翌朝帰国の途に就いた。加太の『自歴譜』には水野は大連から帰ったとあるが、

水野の日記では長春まで来たようだ。いずれにしても、加太ならずともこれは「遺憾」で あった27)

水野は満鉄線を南下し奉天で安奉線

(

奉天―安東

)

に乗り換え、国境の町・安東に向かっ た。安東着、

6

29

日午前

7

40

分。安東で京義線

(

新義州―京城

)

に乗り換え、京城

(

日のソウル

)

に向った。京城到着、午後8時。更に京釜線

(

京城―釜山

)

に乗り換え、翌

30

6

40

分、釜山に到着し、直ちに釜山港から門司に向け出港した。日記には記録がない が、

7

1

日には門司に到着したと思われる。

なお、水野以外の一行は奉天に戻って

2

泊し、彼と同じ行程で京城に到着した

(7

月2

)

。7月3日、一行は朝鮮総督府を訪れ山県伊三郎政務総監と面会した。寺内正毅総督は 東京に出張し、不在であった。総督府のナンバー2ともいうべき山県は元老山県有朋の養

(10)

嗣子である。続いて彼らは昌徳宮に伺候し、李王

(

李垠ぎん、大韓帝国最後の皇太子、

1897

1970)への挨拶を済ませた。その翌日、団が解かれ、以後自由行動となった。

むすびにかえて

最初にも述べたが、辛亥革命勃発後、清朝が倒れ中華民国が成立した直後の政情や社会 状態が不安定な時期に、貴族院がなぜ議員団を派遣したのか。派遣先は中国でなく、ヨー ロッパでもよかったのではないか。また、「新領土朝鮮」だけでもよかったのではないのか。

「大清帝国」の崩壊は日本人にとって驚愕すべきことであったのであろうが、統一政権は 未だ存在せず、危険と背中合わせの訪中であった。

視察旅行に参加した貴族院議員たちにとって、ここでの体験はその後の彼らの議員活動 にいかなる指針となったのであろうか。今、その結論を出すことはできない。ただ、ハル ビン行きを断念した水野は

8

年後の大正

9(1920)

年、弟の片桐貞央(貴族院議員)らと共 に、満洲を訪れ、長春から西行し鄭家屯にまで足を延ばしている。第

1

次世界大戦後、中 国側と日本軍が同地で撃ち合い、双方に死傷者を出したことがあった(鄭家屯事件,

1916

〔大正

5

〕年)が、水野は事件後現地を訪れた。

8

年前の体験や見分が下敷きにあったもの であったかと思われる。

また、一か月間ではあったが、貴族院議員たちが会派を超え行動を共にし、意見を交換した ことは少なからず意味のあることであろう。この旅行を通じて水野と加太は大いに親しくなっ た。その後、貴族院の有力な指導者となる水野であるが、彼は研究会の中枢機関である常務委 員会の委員となり、同会の主導権を握っていった。その際、この視察旅行で親しくなった加太 を常務委員とし、彼を含む自派で常務委員会を主導し、青木信光(子爵)や小笠原長幹(伯爵)ら と共に研究会をして原敬率いる政友会と提携する道を拓いていった。

1 「明治

45

年水野直懐中手帳」(国立国会図書館憲政資料室所蔵『水野直関係文書』所 収)、加太邦憲『自歴譜』(岩波文庫、

1982

年)、千葉功監修・尚友倶楽部・長谷川怜編 集『尚友倶楽部所蔵貴族院・研究会写真集』(芙蓉書房出版、

2013

年)である。

2 加太邦憲『自歴譜』、岩波文庫、

1982

年、

203

頁。

3 原口大輔『貴族院議長徳川家達と明治立憲制』、吉田書店、

2018

年、

82

83

4 明治

45

年7月

7

日付『東京朝日』

5 大束健夫の回想『水野直子を語る・水野直追憶座談会録』

(

尚友ブックレット

19

2006

)

303

頁。

6 松木宗隆の回想、同、

247

248

頁。

7 ファルジュネル、石川湧・石川布美訳『辛亥革命見聞記』

(

東洋文庫

165

、平凡社、

1970

)392

頁と

393

頁との間の地図。

8 前掲「明治

45

年水野直懐中手帳」

(11)

嗣子である。続いて彼らは昌徳宮に伺候し、李王

(

李垠ぎん、大韓帝国最後の皇太子、

1897

1970)への挨拶を済ませた。その翌日、団が解かれ、以後自由行動となった。

むすびにかえて

最初にも述べたが、辛亥革命勃発後、清朝が倒れ中華民国が成立した直後の政情や社会 状態が不安定な時期に、貴族院がなぜ議員団を派遣したのか。派遣先は中国でなく、ヨー ロッパでもよかったのではないか。また、「新領土朝鮮」だけでもよかったのではないのか。

「大清帝国」の崩壊は日本人にとって驚愕すべきことであったのであろうが、統一政権は 未だ存在せず、危険と背中合わせの訪中であった。

視察旅行に参加した貴族院議員たちにとって、ここでの体験はその後の彼らの議員活動 にいかなる指針となったのであろうか。今、その結論を出すことはできない。ただ、ハル ビン行きを断念した水野は

8

年後の大正

9(1920)

年、弟の片桐貞央(貴族院議員)らと共 に、満洲を訪れ、長春から西行し鄭家屯にまで足を延ばしている。第

1

次世界大戦後、中 国側と日本軍が同地で撃ち合い、双方に死傷者を出したことがあった(鄭家屯事件,

1916

〔大正

5

〕年)が、水野は事件後現地を訪れた。

8

年前の体験や見分が下敷きにあったもの であったかと思われる。

また、一か月間ではあったが、貴族院議員たちが会派を超え行動を共にし、意見を交換した ことは少なからず意味のあることであろう。この旅行を通じて水野と加太は大いに親しくなっ た。その後、貴族院の有力な指導者となる水野であるが、彼は研究会の中枢機関である常務委 員会の委員となり、同会の主導権を握っていった。その際、この視察旅行で親しくなった加太 を常務委員とし、彼を含む自派で常務委員会を主導し、青木信光(子爵)や小笠原長幹(伯爵)ら と共に研究会をして原敬率いる政友会と提携する道を拓いていった。

1 「明治

45

年水野直懐中手帳」(国立国会図書館憲政資料室所蔵『水野直関係文書』所 収)、加太邦憲『自歴譜』(岩波文庫、

1982

年)、千葉功監修・尚友倶楽部・長谷川怜編 集『尚友倶楽部所蔵貴族院・研究会写真集』(芙蓉書房出版、

2013

年)である。

2 加太邦憲『自歴譜』、岩波文庫、

1982

年、

203

頁。

3 原口大輔『貴族院議長徳川家達と明治立憲制』、吉田書店、

2018

年、

82

83

4 明治

45

年7月

7

日付『東京朝日』

5 大束健夫の回想『水野直子を語る・水野直追憶座談会録』

(

尚友ブックレット

19

2006

)

303

頁。

6 松木宗隆の回想、同、

247

248

頁。

7 ファルジュネル、石川湧・石川布美訳『辛亥革命見聞記』

(

東洋文庫

165

、平凡社、

1970

)392

頁と

393

頁との間の地図。

8 前掲「明治

45

年水野直懐中手帳」

9 長崎中国交流協会編『孫文と長崎―辛亥革命

100

年—』

(

長崎文献社、

2011

)19~20

頁。

10 井上桂子「黄興と宮崎滔天の関係―辛亥革命における宮崎滔天と家族の役割―」

(

日本大 学国際関係学部紀要『国際関係研究』第

36

巻第

1

号、

2013

年、所収)

63

頁。なお、興 中会、華興会に加え、

1904

年に結成された蔡元培らによる浙江省を拠点とした「光復会」

が、

1905

年に東京で「中国同盟会」として統一された。

11 加太、前掲書、

225

頁。

12 ファルジュネル、前掲書、

193

頁。

13 前掲『尚友倶楽部所蔵貴族院・研究会写真集』

80

頁、所収。

14 加太、前掲書、

203

頁。

15 前掲「明治

45

年水野直懐中手帳」

16 加太、前掲書、

209

頁。

17 加太、前掲書、

212

頁。

18 ファルジュネル、前掲書、

168

頁。

19 李書源『柔暗総統 黎元洪』

(

吉林文史出版社,

1995

)

を参照。写真は同書の口絵に よる。

20 加太、前掲書、

226

頁。

21 明治

45

年7月7日付『東京朝日』

22 パンフレット「近代中国指導者評論集成」(ゆまに書房)表紙

23 加太、前掲書、

226

頁。

24 明治

45

7

7

日付『読売』

25 加太、前掲書、

221

222

頁。

26 前掲「明治

45

年水野直懐中手帳」

27 加太、前掲書、

219

頁。

本稿は令和

2

年度愛知淑徳大学研究助成による研究成果の一部である。ここに記して謝 意を表したい。

参照

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