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マルクの通貨交換性をめぐる議論         (1952−1955)

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マルクの通貨交換性をめぐる議論

        (1952−1955)

「ドイツの世界市場への復帰」との関連において

石 坂 綾 子

1.はじめに

 本稿は,1950年代前半,特に52年から55年にかけてドイツマルク(Deutsche Mark,以下,

マルクと省略する)の交換性回復がどのような形で進展したのかについて,アメリカとブレト ンウッズ体制を支える国際金融機関との議論を中心に明らかにする。マルクの公式の交換性回 復は,他のヨーロッパ諸国の通貨と同様に,58年12月の非居住者向けの交換性回復宣言によ るものと理解されている。ドイッでは50年代前半から為替管理の緩和が進められ,55年には 対ヨーロッパ経済協力機構(Organization for European Economic Cooperation;以下OEECと 省略)地域において91.3%,対ドル地域[アメリカ・カナダ・フィリピン]へ68.1%の輸入自

由化が達成された。マルクはこの時点で事実上,交換性を回復していたのである。

 しかし,ドイッ連邦共和国(以下,ドイツと省略)は,単独でマルクの交換性回復を求めず,

あくまでヨーロッパ決済同盟(European Payments Union;以下EPUと省略)の中で, OEEC 諸国とともに交換性回復を目指した。55年6月にOEEC諸国の間では,総クォータの50%を 超える国々の通貨交換性が回復された時点でEPUを廃止することが合意された。そして同年 8月には,ヨーロッパ通貨協定(European Monetary Agreement;EMA)が署名され, EPUを 維持しつつ,交換性回復以後にEPUを解体することが決定された。その間52年7月には早く もEPU理事会においてドイツの黒字ポジションが問題視され,53年6月にはエコノミスト

(Economist)誌に「ドイツの対EPU信用は,ドイツが世界のより大きな部分に対して獲得し てきた黒字国ポジションの一側面にすぎない。マルクギャップがドルギャップに続いている」

と指摘され,黒字の一方的な拡大が深刻に受け止められだ。ドイツの黒字増加は,EPU組織 内でドイッの裁量の余地を拡大するばかりではなく,他のEPU加盟国,とりわけ巨額の赤字 を抱えるイギリスやフランスとの収支不均衡を引き起こした。

 このような状況が続くにつれて,ドイツにおいてしだいに地域主義のコストが強調され始め た。DickhausによるとドイッにとってEPU加盟は,以下のような地域主義のコストを意味し た2。第1に,極端な黒字国として収支不均衡を是正するために,EPU理事会による勧告を受 け,通貨・為替政策上の自律性を制限された。超国家的機関による勧告は,ドイッの国内経済 政策へも影響を与えた3。第2に,金・ドル放棄と準備構築への負荷である。ドイッは黒字を抱 えながらも信用を確保しなければならなかった。伝統的な貿易・決済連関の再構築一ヨーロッ

(2)

パ諸国との取引で得られた黒字によって他地域との赤字を解消し,収支を均衡する一がこれに よって困難になり,対ドル地域自由化への限界となった。第3に,対外貿易への影響である。

EPUはドイッの輸入先を安価な生産者から高価な生産者へと転換した。同時に輸出産業に ヨーロッパという優先的市場を提供し,それによってソフトカレンシー市場に集中する可能性 も提供した。しかし,通貨準備が増大するにつれてドル不足は緊急の要件ではなくなった。優 先的市場が存在することで,ドイツの輸出産業はかえってハニドカレンシー地域でのチャンス

をつかめなかった。

 このような地域主義のコストに加えて,双務決済国との取引において信用義務が負担となっ たことからも,交換性の機能に注目が集まることになった。ドイッはこの時期に「世界市場へ の復帰」(Deutschlands RUckkehr zum Weltmarkt)を目指して,ドル地域への輸入自由化と双 務協定の廃止に向かって動き出すのである4。

 Dickhausに代表される従来の研究が,マルクの交換性回復をヨーロッパ諸国との関連で捉 えているのに対し,本稿は,これをアメリカと国際通貨基金(International Monetary Fund;

以下IMFと省略)・世界銀行(lnternational Bank for Reconstruction and Development;以下 IBRDと省略)といった国際金融機関との関わりにおいて論ずる5。通貨の交換性回復は,極め てグローバルな課題であった。折りしも1953年2月にロンドン債務協定(Londoner Schuldenabkommen)が締結され,ドイツの国際金融界への復帰が期待された。以下では,ま ず第1に第ll章を中心に,ドイツ国内においてマルクの交換性回復がどのように認識され,

EPUの決済機能がどのような意味を持ったのかを検討する。第2に,第皿章においてアメリ カ財務省やIMF・IBRDが,マルクの交換性とどのような関わりを持ったのかを明らかにする。

ドイツが目指す交換性とは国内居住者向けの交換性であった。最後に第IV章において,交換性 に関連して為替管理の緩和や自由化措置の実施について述べていく。

ll.ドイツにおけるマルク交換性をめぐる議論

1.エアハルトの交換性回復キャンペーン

 ドイツにおいて交換性回復への関心が高まったのは,52年以隆EPUにおいてドイツの累 積黒字が指摘されてからのことであった。黒字が拡大するにつれて,以下の点が懸念された マルクの交換性が未回復のままでEPUが存続し続けた場合, EPU内においてドイツの黒字が

さらに一方的に増加し,自動的にクレジットの供与を余儀なくされる。そしてこのEPUシス テムの下で累積したクレジットが不良債権化するのではないだろうか。この黒字を無制限にド ルに交換できるならば,ドル地域からの輸入が可能になるという大きなメリットがあった。

 1952年1月,連邦経済相エアハルトはこのような事情から為替管理の撤廃について演説し,

交換性回復へ向けて一気に動き出した7。彼は経済省内での取り組みやドイツレンダーバンク

(Bank deutscher Lander,以下,レンダーバンクと省略)への陳情のみならず,ベルギー政府

(3)

とも積極的な議論を要望した。EPU内では,交換性回復に関連してエアハルトのキャンペー ンのみならず,後述のようなイギリスの交換性回復案,ベルギーによる要望も存在した。ベル ギーは,51年から52年にかけてEPUに対する黒字国としてクォータの拡大を求めた。ベル ギーは,クォータを超えた黒字に対しより高い金の配分を求め,これを間接的に交換性へのス テップにしようとしていたのである。

 エアハルトは秩序政策的な概念から為替管理の撤廃を進めようとし,通貨改革に始まる国内 での市場経済原則の導入に続いて,対外経済面においても市場経済原則を持ち出した。自由な 通貨交換性はマルクへの信頼を高め,ドイッに外国資本を引き寄せるとともに,貿易の拡大を 可能にし,ドイツ経済を活発化させる。エアハルト自身が一貫していたのは,初めは商品・サー ビスの交換における為替管理を撤廃し,資本移動については引き続き為替管理が必要と考えて いる点である。彼が常に主張し続けたのは,以下の3つの論点である8。

 第1に,エアハルトはOEECの自由化プログラムが不十分であると批判した。51年2月,

ドイツは貿易収支危機において輸入自由化を停止したが,この危機はEPU発足直後に発生し たものであり,その後はドイツを前例としてイギリスが51年11月に自由化率を90%から61%

に,52年2月にはさらに46%にまで引き下げた。また,同時期のフランスは自由化を停止して いた。エアハルトはこの状況を次のように表現して批判した。「OEECの自由化プログラムは 道化人形のようである。 自由化に加わったかと思えば,自由化から抜け出す (Hinein in die Liberalisierung, heraus aus Liberalisierung)状況である。」このようにエアハルトはOEECの

自由化プログラムに大きな不満を抱えており,ドイツの自由化率引き上げが故意に抑制されて いると説明した。そのためエアハルトは,自由化率の漸進的な引き上げによって交換性が可能 になるとは考えていなかった。現状ではEPU自体が巨額の赤字を可能にし,自由化率の引き 下げを許可している。エアハルトにとっては生み出すより多くのことを使い尽くすという犠牲 が許されるよりも,イギリス・フランスの国内経済政策を根本的に検証するべきであった。

 第2の論点は,OEECの地域主義とEPUの基本方針に対する否定的見解である。エアハル トはドイッ自体が資本不足であるにもかかわらず,EPUを通じて加盟国に資本を供給しなけ ればならないことを指摘した。EPU内でのドイツの黒字は不良債権化し, EPU以外の地域か

らの原材料供給に黒字を利用できない。エアハルトは,ドイツの経済政策の目標は国家間の貿 易・決済取引において制度上の障害を取り除くこととして,EPUの解体を唱えた。この言動に 対し内外からの強い批判が集中したため,エアハルトはEPU解体への要求は誤解であると弁 明したが,以後もEPUへの不満を持ち続け, EPUの改革を強く促した。

 第3に為替相場をめぐる問題点である。エアハルトにとって通貨交換性と固定相場制は両立 できなかった。そしてヨーロッパ諸国通貨の為替相場は調整が必要であると主張し,±5%の 変動相場制を求めた。後述のように,イギリスによる交換性回復案「共同アプローチ」

(Collective Approach towards Convertibility,以下,共同アプローチと省略)も為替相場の変 動幅を±5%とする内容を含んでおり,この点でエアハルトの考え方と共通していた。変動幅

を設定するのは,為替相場の変動によって,準備水準に影響を与えずに自動的に国際収支が調

(4)

整されるからであった。しかし,そもそもEPUの決済システムは固定相場制を前提としてお り,どのような変動幅であれEPUの決済システムとの矛盾は避けられず,結果としてEPUの 解体,またはEPUからの脱退を招くことが予想された。

2.EPU決済メカニズムへの評価

 ドイツ政府は,マルクの交換性が回復しなければグローバルな自由貿易はありえないと考え,

交換性問題に強い関心を持っていたが,47年8月のポンドの交換性回復の失敗もあり,この問 題には慎重に対応した。エアハルトの交換性回復キャンペーンは,ドイツ国内に否定的反応を 引き起こした。この議論は,連邦経済省,外務省,マーシャルプラン省,レンダーバンクと EPU理事会代表,ドイツ代表理事フォン・マンゴルト(Hans Karl von Mangoldt−Reiboldt)を

中心に展開された。議論においては,交換性回復がもたらすドイツ経済への活性化作用に強い 理解を示しながらも,より現実的にヨーロッパ市場の持つ重要性が強調された。そのためエア ハルトが率いる経済省においても,統一的な見解を保持しえなかった。以下では,エアハルト による3つの論点に対し,どのような議論が展開されたのかを明らかにする9。

 第1に,OEEC自由化についての問題である。レンダーバンクはOEEC自由化プログラム が不十分であるとエアハルトに賛同した。現時点での自由化の状況は,まるでブランコのよう である。EPUは,加盟国の自由化政策に強い影響力を行使できるようにするべきであり,ドイ ッの自由化率も引き上げられるべきである。OEEC地域に対する自由化の進展は,為替管理の 撤廃を伴うべきである。レンダーバンクは数量制限の撤廃を前面に打ち出した。ドル地域への 自由化の前提は,十分な通貨準備とドル収支の均衡である。

 第2にOEEC/EPUを中心としたヨーロッパの地域主義に対する批判であるが,レンダーバ ンクはこれに賛同しなかった。ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(European Coal and Steel Community;ECSC)が創設され,ヨーロッパ統合への動きが進んでいた。レンダーバンク理 事エミンガー(Otmar Emminger)が強調したように,ドイツの対外取引パートナーの約4分 の3が対OEEC地域であった。 EPUはマルクの交換性を妨げるものではなく,解体する必要 はない。ドル地域に目を転ずれば,アメリカの関税政策と輸入政策による困難によって,ドイ ツの対ドル地域への輸出は依然として停滞していた1°。ドイッのEPU脱退は困難であった。

エアハルトはEPUにおけるドイツの黒字は,獲得して当然のドルであると考えたが,レンダー バンクにとっては違っていた。EPUの決済メカニズムの存在があるからこそ,レンダーバン クのドル準備は着実に増加していたのである11。同じように経済省内においても,この事実に は2つの解釈があった。総合政策局(第1局)は,エアハルトと同様にEPUに対し否定的見解 であった。EPUはドイツの輸出拡大を抑制し,自発的ではない資本輸出と結びついている。

ドイツの黒字累積は構造的であるにもかかわらず,これに十分な対応がとられず関係が歪めら れている。そのためには交換性の回復と変動相場制が必要である。ドイッは交換性に関心のあ るイギリス;ベルギー,オランダ,スイス,(イタリア)とともにEPUを脱退し,交換性へと

(5)

進むべきである。その一方で外国経済局(第V局)は,第1局のEPUへの判断を一面的だと指 摘した。交換性問題においては差別化リスクが決定的であり,この点はこれまでに解決されて いない。ヨーロッパ諸国の十分な準備とアメリカの良き黒字国政策という前提が,何よりもま ず生み出されなくてはならないのである12。

 EPU理事会代表フォン・マンゴルトは,エアハルトのEPU批判に抵抗した。フォン・マン ゴルトはヨーロッパ全体の関心に比重を置き,国家的関心を抑制する必要性を説いた。52年 夏,エアハルトはフォン・マンゴルトと対談し,以下を申し出た。「イギリスとフランスが EPUの援助によってはばかることのない完全雇用政策と福祉国家政策を実施し,それによっ て自国経済の基礎を破壊し,ヨーロッパにおける誠実な協力を妨げている。EPUを解体して 交換性を回復し,それと同時に為替相場を自由化し,ポンドやフランの実勢が市場で決定され るようにするべきである。」フォン・マンゴルトはイギリスやフランスの感情や両国との利害関 係が損なわれることを恐れ,経済省だけではなくマーシャルプラン省をも非難した上で,エア ハルトの申し出を退けた。EPU理事会は,ドイッ政府に良き黒字国としてより良い事例となっ て先頭に立ち,ドイツのOEEC地域からの輸入を促進すること,自由化率をさらに高めていく ことを要望した。

 第3に為替相場問題である。この点ではエアハルトとレンダーバンクの間で大きな見解の相 違が存在した。レンダーバンクは,政治的理由から変動相場制について明確に拒否した。レン

ダーバンク議長ベルナルト(Karl Bernard)は, IMF加盟により固定相場制への義務があると し,エミンガーもまたアメリカが変動相場制を容認しないだろうと反対を表明した 3。他友で 経済的な動機も存在した。通貨投機の発生に備えて,十分な通貨準備が必要となろう。レン

ダーバンクはドルに対するマルク切り下げに強い原則的な留保を保持していた。切り下げと低 い輸出価格の状況で収支を均衡させるのは難しく,貿易条件の悪化は必至であると考えられた。

また,フォン・マンゴルトのように,変動相場においてマルクの価値が上昇するならば,ドイ ツの輸出困難につながると懸念する声も強かった。

 エアハルトの果敢なキャンペーンにかかわらず,ドイツはこの時点で交換性を回復するため の犠牲を受け入れられる状況にはなかった。交換性を回復するためには,広範な条件を整える 必要があった。レンダーバンクは,他のヨーロッパ諸国の通貨がどのような状況にあるのか,

その動向にも注目していた。公式の交換性回復はドイツ単独では実施できない。第1の条件 は,イギリスが同時にこの問題に着手することであった。イギリスにもヨーロッパ諸国通貨の 交換性回復に中心的役割を果たす必要があったのである。

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皿.交換性をめぐる国際議論

1.イギリス案へのアメリカの反応

 ドイツ政府は,エアハルトの交換性回復への再三のアピールにもかかわらず,EPU内での 同の相互主義 (cooperative gradualism)を追求した。イギリスは,52年2月の「ロボット案」

(ROBOT)を極秘裏に作成し,これに続いて同年9月に交換性回復への「共同アプローチ」を 提案した。イギリスは47年8月にポンドの交換性回復に失敗した後も,この交換性問題に積 極的であり,強い危機感を持っていた。イギリスは朝鮮戦争による原材料価格の国際的高騰の 反動から収支危機が発生し,急激な準備流出を抱えていた。これとは対照的にドイッの場合,

51年から53年にかけて,この原材料価格の低下により貿易条件が約20%もの著しい改善へと つながっていた。以下では,ドイツとイギリスが求めた交換性回復とそれに対するアメリカの 反応を明らかにする14。

 イギリスのアプローチは,ロボット案の骨格を継承しつつ貿易障壁の拡大を防ぐため,ヨー ロッパ諸国と同時に共同で交換性回復を目指すものであった。このアプローチでは,非居住者 向けの交換性回復において,対ドル相場の変動幅を約±15%であったロボット案から±5%に 縮小し,非交換性通貨国に対する貿易制限を導入した15。エアハルトは交換性回復へのステッ プをより速く確保できることから,イギリスによる変動相場制の導入案に賛同した 6。

 1953年3月,エアハルトはイギリス財務相バトラー(Richard A. Butler)と外相イーデン

(Anthony Eden)が,ワシントンでアイゼンハワー政権とポンドの交換性回復へ向けて交渉 していることに大きな希望を持っていた。イギリス政府は,保護主義的なアメリカの関税政策 を転換させるとともに,ポンドの交換性回復に必要とする広範な金融支援具体的にはアメリ カから直接の,またはIMFを通じてのドル援助をとりつけようとしていた。しかし,国務長官 ダレス(John F. Dulles)と財務長官ハンフレー(George M. Hamphrey)を中心とするアメリカ 側は,イギリスの提案に消極的な態度をとり,イギリスは成果を得られなかった。

 イギリス代表団がアメリカを訪問した当時,アメリカではヨーロッパの政治的・経済的安定 が優先されており,ヨーロッパ諸国通貨の交換性回復についての重要性,その緊急性は低下し ていた。イギリスの交換性回復への動きによってこの問題が再び浮上したが,通貨圏の分断を 解消する必要性についてはコンセンサスがあったものの,交換性を回復するための方法につい ては関係諸機関においても様々な意見が存在した。財務省と連邦準備制度は交換性が必須の課 題であり,ヨーロッパによる貿易において,アメリカの国益どしてドル差別化を出来る限り早 急に終わらせる必要があると考えていた。他方で外交政策の樹立において,ヨーロッパの単一 性と統合は,ドル差別化を犠牲にしても守るべき現実的な財産であるとも理解していた。アメ リカは,EPUをヨーロッパ諸国の通貨協力機関として高く評価していたため,もしポンドが変 動相場制に移行すれば,EPUは解体されざるを得ないということを懸念した。ヨーロッパ諸 国の通貨準備はまだ低水準で,巨額のドル輸入を必要としており,交換性を維持できる状況に

(7)

はない。ドルギャップが貿易量の増加によって解消されていかない限り,交換性回復はまだ無 益なものである。財務省と連邦準備制度は,EPUをソフト・カレンシーブロックとして保持し,

一時的な手段としてのみ考えていた。そのため,イギリスの交換性回復案の中に地域主義を廃 止する機会を見い出していた。共同アプローチによってEPUの最も弱い国のペースと結びつ いて交換性回復が進められる。財務省と連邦準備制度にとって,ドル差別化を克服する方法は アメリカの輸入自由化よりも交換性であった。

 これに対し,国務省は財務省による交換性への賞賛を共有せず,現実的にアメリカのヨーロッ パ統合への関心を重視しだ7。イギリスの交換性回復への動きをサポートすることは,ヨーロッ パを分断することになる。今,ポンドが交換性を回復したとしても,ドルギャップや貿易不均 衡を解消できる見込みはない。交換性は徐々に目指すべき目標である。EPUは維持されるべ

きであり,地域的差別化も許容されている。鉄鋼企業の経営者ランドール(Clarence B.

Randall)をトップとする対外経済委員会(Randall Commission on Foreign Economic Policy;

CFEP)においても報告されたように, EPUは交換性を進めるための一時的な機関として賞賛 された。結果としてイギリスの交換性回復案は,EPUの維持を危うくするためにアメリカの サポートを得られなかったのである。

 バトラーは交換性について会談するために,ドイツの副首相・マーシャルプラン担当相ブリュ ヒャー(Franz BIUcher)とエアハルトをロンドンに招待した18。イギリス側のバトラー,貿易 相ソルニークロフト(Peter Thorneycroft)との会談は,53年5月12,13日に開催された。同 年3月23日に始まったOEEC閣僚会議において,イギリスはヨーロッパ諸国に共同アプロー チを提案したが,ワシントンでの交渉の挫折は隠されたままであった。エアハルトは交換性問 題についての解決が目前に迫っていると期待し,イギリス側に暫定的な解決として,①今後は クォータ限度内でのEPUポジションの50%,限度を超えた部分はドルで均衡させる,②自由 化原則に一切の例外を認めないことを提示した。エアハルトが希望的観測を胸に抱きロンドン

に赴いたのに対し,イギリス側の反応は険しく,この会談でイギリスとドイッが求める交換性 回復に大きな相違があることが明らかになっだ9。

 最大の違いは,イギリスがポンドの非居住者向けの交換性を優先させたのに対し,ドイツは 国内居住者向けのマルク交換性一原材料・食料の輸入を安価にし,ドイッの輸出産業の競争力 を強化する一を進めようとしたことである。また,ドイツにとってこの政策は「良き黒字国政 策」でもあった。ヨーロッパの赤字国の負担が軽減され,自由化が維持されることによって,

ドイツの輸出も確保できる。これに対し,非居住者向けのマルク交換性には大きな関心が払わ れなかった。イギリスはポンドを国際的な決済における準備通貨にするという威信から交換性 の回復を目指した。このイギリスとは対照的に,ドイッはマルクを国際決済通貨とし,フラン クフルトを国際金融センターにするという願望を持っていなかった。ドイツの場合,非居住者 がマルクを準備通貨として保持し,ドルに交換することは望んでいなかった2°。

 エアハルトがこの会談において大胆にも共同のヨーロッパ市場を創設し,ほぼすべての貿 易・為替・関税制限の廃止を提案したように,ドイツが求める交換性とは,国際的な競争や経

(8)

済的自由を高める手段としての交換性であった。それは自由化と結びつき,ただ単に公式的な ものでも金融的なものでもなかった。自由化とは外国からの商品やサービスの決済における自 由にほかならない。通貨の交換性とは,誰でも自由にどのような通貨へも交換できるというこ とであった21。しかし,バトラーは会談の中でエアハルトに申し述べた。「イギリス政府はエア ハルト経済相の提案に非常に驚いている。イギリスのEPUにおける決済ポジションは再び黒 字になっている。しかし,その黒字幅は小さく,イギリスのEPUに対する赤字の累積を改善 するものではない。イギリス政府はEPU理事会の暗黙の容認で, EPUの自由化要求に対応で

きない。イギリスは,ドイッと違って絶対的な自由化を敢行することはできないのである。」絶 対的な自由化を実施すれば,イギリスが赤字の累積とポンドの弱体化を抱えることは明白で あった。これは非居住者の交換性,国際準備・決済通貨としてのポンドの地位獲得という目標 と大きく矛盾することであったのであるn。

2.エアハルト,ワシントンへ行く

 1953年5月のロンドン会談において,エアハルトは交換性回復についてアメリカの協力をと りつけるためにも,ヨーロッパ側からイニシアティヴをとる必要性を唱えた23。エアハルトは 誰よりも楽観的であり,断固たるヨーロッパの行動がアメリカを輸入自由化へと促し,IMFも

ヨーロッパ諸国通貨の安定保証のための追加的ドルを融通するはずだと確信していたのであ る。しかし,同年9月に開催されたIMF・IBRD年次総会においても,アメリカからは交換性 回復へ向けての強いリーダーシップがなく,加盟国代表から失望の声が挙がっていたan。エア ハルトはそのような状況で同年11月にワシントンへと乗り込んだのである25。

 12月2日,財務省高官はエアハルトが余りにも率直で,時にはためらいもなく苛立ちを見せ ることに驚きを隠さなかった26。エアハルトは交換性が自動的に回復できるわけではなく,

EPUの外部において積極的な動きが必要だと考えていた。すなわち, EPUは交換性回復への ステップを提供できないとして,新たにハード・カレンシークラブの形成を呼びかけた。そし てEPUのみならず, IMFも交換性への十分なイニシアティヴを保持していないとして,交換 性回復を単独の目的とした国際的な通貨会議の開催を提案した。

 エアハルトは,交換性回復のためにアメリカに次のような提案を行ったav。①アプローチ:ア メリカの合意の下で先進ヨーロッパ諸国の小さなグループの中で,新たに貿易・決済方法につ いて共通の合意が必要である。②メンバー:初期グループは,イギリス,スイス,オランダ,

ベルギー,スカンジナヴィア諸国である。フランスはこのグループに含まない。③貿易自由 化:ヨーロッパにおいて100%クォータ廃止,または少なくとも自由化の最低レベルを凍結す

る。ドル地域では共通リストか無制限輸入に同意すること。ドイツの目標はドル地域への 100%輸入自由化である。④交換性の程度:経常勘定のみ,資本勘定のコントロールは継続する。

⑤為替相場:初期的グループの現平価の適合性について監視すること,所定の範囲内で自由に 変動する為替相場制度を導入すること,⑥EPU:(交換性を回復した通貨の)国々が脱退する,

(9)

またはそのまま継続するべきか考慮するべき,EPUの決済条件を強化することも可能性とし て考えられる。⑦アメリカの役割:サポートを希望するが,ドイツはイギリスのような金融支 援を求めてはいない。

 アメリカの態度は,イギリスへの対応と同様に一貫して抑制されたものであった。アメリカ は交換性の促進へ向けて,主要国の代表がさらに調査を重ねるコミッションを提案した。アメ リカは,エアハルトの目指す方向性が正しく,ドイツの見解は,アメリカと類似していると感 じていた。また,ドイッの対外決済についての行動が金融的強さを伴い,ドイツが明確してい る目標に沿うならば,ドル差別化がなくなり,アメリカをサポートすることになるとさえ予想 した。エアハルトはワシントン滞在中,対ドル地域の貿易自由化を強く促された。

 しかし,アメリカはドイッを含むヨーロッパ諸国が交換性回復へ向けて,積極的に準備して いるのかどうかについては,さらに注意深く調査するつもりであった。両国のアプローチが異 なるのは,イギリスとスターリング地域の収支ポジションが,ドイッと比較して大きく変動し,

イギリスの短期債務がドイツよりも多額であることによるものであり,アメリカにとってイギ リス案,ドイツ案の異なるアプローチが調和するのかどうかは判然としなかった。アメリカは,

現時点では両案へのサポートが必要であり,交換性を進めるいかなるプランも妨げてはならな い。EPUは一時的で不完全なものと考えられてきたが, EPU自体の変化も必要である。特に EPUの赤字国フランスが交換性回復国との決済のために必要なドル援助について考慮が必要 であると考えた。

 12月3日,エミンガーはIMFドイツ代表理事として,エアハルトの提案がアメリカ側に最 大の理解を得られるようにIMFのアメリカ代表サザード(Frank A. Southard, Jr)と会談した。

両者は,交換性に関心を持つヨーロッパ諸国が,今まさに積極的なプランを展開する時期が来 ており,その最初の段階としてアメリカ政府と議論していることを確認し合ったZZ。

 エミンガーは,エアハルトがどの機関が交換性について責任を持って進めて行くのかをわか らずに苦労していたと述べた。その上でエミンガーは,IMF専務理事ロース(Ivar Rooth)が,

エアハルトはIMFが交換性回復のために金融支援をする機関ではないと信じていると感じて いることに言及した。両者は,この金融支援に関連して交換性問題におけるIMFの役割につ いても議論した。サザードは,これはIMFが交換性の問題をどのような形でセットアップす るのかということでもあり,アメリカはIMFがその役割を果たすと確信していると述べた。

しかし,IMFは現時点で(エミンガーがヨーロッパ諸国が必要な金額と予想する)50億ドル規 模のドル基金を供給できず,小規模のアメリカの援助以上の財源は存在しないことも事実で あった。結局のところ両者は,IMFは来たるべき時が来れば自ずと役割を果たすことができる と確認したee。

 IMFはドイツの交換性政策をどのように判断していたのだろうか。この問題は,53年のコ ンサルテーションにおいてIMF側とドイツ代表団との間で詳細に議論された3°。この会議はワ シントンで54年2月25日から3月5日にかけて開催されたが,IMF側からはフリードマン

(Irving S. Friedmann),スティーヴンズ(J. M. Stevens)を中心としたスタッフ8名,ドイツ

(10)

代表団は,レンダーバンク理事エミンガー,ヴォルフ(Eduard Wolf),連邦経済省審議官シュ テットフェルト(Fritz Stedtfeld),同省外国貿易政策担当部局長シュミット(Matthias Schmitt)

などが議論に参加した。

 IMFスタッフは,エ?ハルトが交換性の回復を切望していることに注目し,ドイッ代表団に マルクの交換性回復へ向けたドイツ政府の政策についての見解を求めた。ドイッ代表団は,交 換性の概念を明確にするために,国内居住者向け,非居住者向けの区別をし,スイスフランを 引き合いに出しながら,ドイツの主眼点は居住者向けの交換性にあると述べた。そして,もし ドイツが居住者向け,非居住者向けを含む100%の交換性を比較的短期に達成できるのかどう かと尋ねられたならば,瞬時に達成できるような状況にはなく,対ドル地域への自由化双務 協定の廃止,資本移動の自由化などの問題も含めて総合的に目指していくと説明した。IMFス

タッフは,EPUにおける黒字余剰が100%金かドルで決済できるならば,ドイツはドル地域(=

赤字)やOEEC地域(=黒字)での不均衡を憂慮する必要がないだろうとし, EPUにおける黒 字ポジションとドル地域への自由化という2つの課題が深く結びついていることを改めて実感

した。

3.世界銀行による融資の挫折

 エアハルトのワシントン訪問には,アメリカ財務省,IMF関係者との会談のみならずIBRD とその融資について議論するという大きな目的があった。ドイツの資本市場は低迷しており,

レンダーバンクは,国内経済復興へ向けての資本不足を解消するために資本輸入の必要性を繰 り返し指摘していた。そのためまず最初にIBRDからの借款に注目した31。しかし, IBRD側か らはドイッにとって耐え難い融資条件が提示された32。

 ドイツは52年8月にIBRDに加盟したが, IBRDは加盟直後に連邦経済省にユーゴスラヴィ アへの信用として2,000万マルクを自由に利用できるように要請したzz。この要請は, IBRD第 3代総裁ブラック(Eugene R. Black)の方針でもあったsc。ブラックが加盟国の通貨による 18%の拠出(18percent portion of members−subscriptions)を要請したのは, IBRDが ドル銀 (dollar bank)になってしまい,ドル以外の通貨での資金(non−dollar funds)の欠乏を憂慮

したためであった。

 エアハルトは52年11月7日の閣議でIBRDからの提案を説明し,これを支持したss。ドイ ッのドルベースでの収支が改善され,ドイツのユーゴスラヴィアへの信用供与が間接的に拡大 できると考えたためである。しかし,財務相シェーファー(Fritz Schalifer)が慎重な議決を求 め,以下の事実を指摘した。「ユーゴスラヴィア政府はドイツへの賠償請求を起こしているが,

そもそもそれをどのような形でファイナンスするのだろうか。ドイツにはIBRDが提案した方 法でユーゴスラヴィアを経済的に支援する十分な動機がない。」レンダーバンク総裁フォッケ

(Wilhelm Vocke)もこの意見を支持し,世界市場でマルクでの借款は,当分の間適切ではな いと申し立てた。この要請に対し,ドイツ政府は最終的には53年1月にユーゴスラヴィアへ

(11)

の借款として54年4月から1,302万マルクの利用を承認したが,当初は要請への回答を保留

した。

 この要請を議論している最中に,今度はIBRDによる融資の条件に対して疑問が出てきた。

エアハルトは閣議で意見を求めた。フォッケと復興金融公庫(Kreditanstalt fUr Wiederaufbau;KfW)の総裁アプス(Hermann J. Abs)もこの議論に加わった。この融資は,

53年2月のロンドン債務協定の締結後ドイツにとって初めての外国信用であるため,内閣は これを重視した。IBRDからの融資は,1)輸出産業へのプロジェクト2,000万ドル(期限:10 年間),2)鉄鋼業オーグスト・ティッセン・ヒュッテ(August Thyssen−HUtte)への1,000万

ドル(同15年間)であった。IBRDは,この2つの融資に以下の4つの条件を提示した。①ド イツ政府はIBRD融資を通常の債務よりも有利に扱うこと(=IBRDの融資はドーズ借款

(Dawes−Anleihe)・ヤング借款(Young−Anleihe)と同格に扱われる),②信用確保のために最 恵国待遇条項に地方自治体とレンダーバンクを含むこと,③プロジェクトの残額のファイナン スをマルクで行うことへの保証④産業信用銀行(Industriekredit Bank)による確保への要求 であった。閣議で強い反発があったのは,①の条件であった。ドーズ借款・ヤング借款の条件

と結び付けられることで,広範な抵当権によってすべてのドイツの借款に不利益を与えること が予想された。閣議においてこの4つの条件は拒否されたse。

 エアハルトはワシントン訪問中にブラック総裁を訪ねてドイツ政府の意向を伝えた。ドイツ はIBRDから提示された条件のみならず,その内容についても当初の期待通りの結果が得られ ず,融資の辞退を申し入れたev。2つのプロジェクトに共通するのは,ドル地域からの輸入を促 進できないことであった。1)はドル地域からの投資財の輸入を容易にすることで,ドイツの 輸出産業を振興することが目的であった。しかし,輸入の大部分がOEEC地域に偏り,ドル地 域からの輸入は約325万ドルにとどまった。すでに述べたように,ドイツはEPUの黒字国で あり,黒字を削減するような措置を迫られていた。EPU諸国の通貨でIBRD債券を起債する ことは,OEEC地域からさらに輸入することでもあり,この地域からの黒字を削減させたいと いうドイツの目的とは大きく矛盾するものであった。2)のプロジェクトについても同じよう な矛盾を抱えていた。オーグスト・ティッセン・ヒュッテはアメリカ製造業,特にコンチネン タル・ファウンドリー(Continental Foundry)とゼネラル・エレクトリック(General Electoric;

GE)との契約を締結した。当初輸入額は1,000万ドルと見積もられていたが,これが600万ド ルに減額された。この議論の後に交換性の機能は,資本輸入のために重要な意味を持つと再認 識されたのであるSS。

IV.国内居住者の交換性回復を求めて一外国為替管理の緩和一

 交換性回復についての国際議論において,ドイツは具体的な成果を得られなかった。しかし,

交換性回復を求める方向性に大きな変化はなかった。ドイツでは1931年7月にライヒスバン ク(Reichsbank)の金・外貨準備の急激な減少に対応して外国為替管理が実施されていた。ド

(12)

イッは単独で国内居住者の交換性回復へ向けてこの為替管理の緩和に取り組んだ。ロンドン債 務協定の締結によって対外債務の支払い義務が確定したことも,マルク交換性回復へのステッ プを進め,この為替管理の緩和に取り組む重要な契機となった39。この緩和は,為替政策として は,以下の3つの動機に基づくものであった。①為替制限の撤廃は国内居住者の交換性回復に 有効であり,ドイッ経済にとってもメリットがある。②為替管理の緩和は 良き黒字国政策

と理解され,ヨーロッパ諸国からも交換性回復へのステップとして受け入れられる。③イギリ スの交換性回復へのイニシアティヴを準備させるためであっだ゜。以下では,主として DickhausとBuchheimの分析に基づき,ドイツ国内で実施された為替管理の緩和措置につい て述べていく。

 a)対OEEC地域・対ドル地域の輸入自由化

 ドイツはEPUの黒字国としてのポジションに見合う形で自由化率を拡大し,対OEEC地域 については53年4月の時点で90%以上を達成した。他方で対ドル地域への自由化も重要なポ イントであった。53年初頭EPUドイツ代表理事フォン・マンゴルトは,ドイツの通貨準備の 蓄積を考慮した上で,安価な原材料輸入が可能であることから,対ドル地域への自由化を支持

した。IMFの要請もあり53年4月に輸入請求権(Einfuhranrechte)が廃止された。アメリカ は,53年11月に対ドル地域への貿易制限の撤廃を求め,これを強く促した。ドイツ側は,原材 料・食料の自由化に価値を見い出し,54年2月に51.9%の輸入自由化が開始され,54年を通じ て自由化率は68.1%まで引き上げられた。対ドル地域への自由化が開始されたことで,ドル地 域からの輸入は,53年の13.5%から56年の17.4%まで増加した。この影響を受けて対 OEEC地域からの輸入は,53年の66.3%から56年の60.1%にまで低下した。

 b)外国為替取引

 すでに述べたように為替管理の実施によって,すべての為替取引はライヒスバンクに集中さ れていた。レンダーバンクはこの為替専売権を緩和した。マルクの平価は公式にはIMFのも

とで設定されていたが,レンダーバンクは値動きのある市場に適合した相場となるように基礎 を築いた。ドイッは52年8月にIMFに加盟したが,マルクの平価自体は53年初頭に設定さ れた。53年5月には,ポンド,マルク,スウェーデンクローネ,デンマーククローネ,オラン ダギルダー,フランスフラン,ベルギーフラン,スイスフランの8力国間多角的為替取引が可 能となっだ1。このような為替取引により中央銀行にカバーを求める比率はさらに低くなり,

民間の為替取引への移行を通じてEPU経由の決済比率を低下させることが考えられた。レン ダーバンクは為替の独占専売権を緩和し,輸出業者に口座開設を認めた。為替の引き渡し期限 は10日間から6か月間に延長され,輸出業者や商業銀行と為替取引との関わりが広がった。

外国貿易銀行の為替保有量は53年8月から増加した。       、

(13)

 c)制限つき交換性マルク(Bek(}Mark)の創設と双務協定の廃止

 1953年夏,フォン・マンゴルトはEPU代表理事として双務協定の廃止を要請した。ドイツ は双務的決済国に対し黒字となっていたが,IMFコンサルテーションにおいても同じ要請が あった。実際に52年夏,ブラジルとの双務取引においてドイツは大きな問題を抱えた。ドイ ツのブラジルへの大幅な輸出増加に対し,ブラジルによるドイツへの輸出はこれに比例しな かった。取引量の増加に応じてクレジットラインを引き上げたが,その直後に不十分であるこ とが判明し,新たな対応を迫られた42。双務協定の廃止については53年秋頃から具体的な取り 組みが始まった。レンダーバンクは,経済相エアハルトに双務協定を締結している国々との取 引を自由なドル取引へと移行させていくことを提案した。メキシコとコロンビアがドル決済を 了解したものの,他の双務協定国との二国間協議では留保され,転換がスムーズに進んだわけ ではなかった。53年11月,こうした困難からレンダーバンクは一面的措置を進め,非居住者 に対する多数のマルク特別口座を自由マルクロ座と制限つき交換性マルク(Beschrankte konvertibare Mark;以下, Beko・Mark)に転換することを決定した。

 レンダーバンクの意図は以下のような点にあった。ドイツの輸入業者にとっては,貿易パー トナーの国の外国為替管理局が認める限り,この口座への支払いを通じて赤字を決済できるこ と,他方で外国の輸入業者はこの預金で決済ができる。それによって2つの決済領域一交換性 のあるマルクか交換性を制限されたマルクーが発生する。結果としてマルクは国際決済取引に おいて,高い交換性に基づいて大きな意義を持ち,厳しい双務主義を緩和することになる。レ ンダーバンクのイニシアティヴは,「単なる決済のテクニックに関わる手続きは重要ではない」

として,財務相シェーファーの抵抗にあった。シェーファーはドイツの輸出への影響を懸念し た。しかし,ドイツはすべての双務協定国に対して黒字国のポジションにあり,この措置によっ て輸出の可能性は縮小しない。これまでの双務協定国との取引の範囲内で黒字国ポジションの 解体に貢献するという経済省の主張が支持を得た。

 第1図に明らかなように,54年3月末,Beko−Mark口座は5,000万マルク以上に達し,双務 協定の多くがBeko−Markに転換された。54年10月からフィンランドと,55年5月からスペ インとBeko−Mark取引が開始された。ブラジル,パラグアイ,日本,ハンガリー,ウルグアイ がこれに続き,エクアドルとはドル決済の協定を締結した。このような形で56年末までに双 務協定数は18から3へと減少した。それと同時に,レンダーバンクが確保したクレジットも

2億8,000万ドルから100万ドルへと減少した。

 d)封鎖マルク(Sperrmark)から自由化資本マルク(Libka−Mark)への転換

 1931年の金融危機において,ライヒスマルク(Reichsmark)債権は外国人債権者に対して封 鎖された。この封鎖された債権は,外国で転換することも国内で他の目的に利用することもで きなかっだ3。レンダーバンクは,この封鎖マルクの解体が為替管理の緩和にとって重要な布 石になると考えていた。しかしレンダーバンク内でこの解体は強く望まれていたが難題でも あった。総裁フォッケは以下のように試算した44。封鎖マルク資産は77億4,300万マルクであ

(14)

単位:

600

100万マルク 口自由マルク(freie Mark) 目制限付き交換性マルク(Beko−Mark)

500

400

300

200

100

  1954       1955      1956

         第1図 商業銀行のドイツマルク債務(1954−1956)

[出所](原資料)Monatsbericht der Bank deutscher Lander(レンダーバンク月報各月度版)

   Dickhaus, Die Bundesbank im westeuroPdiischen Vaiederaorfbau, S,189より作成。

り,そのうち30.3%にあたる23億4,600万マルクがドル地域に対するものであった。とはい え通貨準備は1億6.920万ドルであり,封鎖マルクを自由化するならば最大で通貨準備を 15.8%も減らすことになり,債権者への資本自由化は現時点では困難である。しかし53年12 月時点でドル余剰が拡大したため,レンダーバンクの姿勢は従来とは一転した。レンダーバン クは対ドル地域のみならず,対OEEC地域についても資本収益・資本還付の自由化に同意した。

OEECからは良き黒字国政策として輸出の抑制とともに資本収益の自由化についても常に圧 力をかけられているという事情も存在した。

 54年初頭,封鎖マルクの転換額には制限が設けられ,10,000マルクまたは月々500マルクま でとされていたが,その後この制限も撤廃された。EPUでの黒字拡大とOEECからの圧力,

ドル地域に対する差別化をなくすべきというアメリカの積極的姿勢から,ドル地域でのトラン スファーが認可された。1954年4月初旬,3月末までの封鎖マルクがBeko−Mark口座に移譲 された。同年9月,すべての封鎖マルク資産がBeko−Mark口座に移譲されることになり,同時 に封鎖マルクは自由化資本マルク(Liberalisierte Kapital Mark:以下, Libka−Mark)に変換さ れた。

 第2図に明らかなように,この措置による効果は直後に明確に現れた。54年秋,レンダーバ ンクはドイツの収支状況の拡大を実感し,外国からの資本流入を確認した。為替管理が継続さ れた期間,外国の民間投資家は対ドイツ投資への旺盛な需要を抱えつつも,それを抑制された

(15)

状態であった.54年にはそれ以前の時期にはドイツの民間長期資本輸入が年間1億マルク程 度であったのに対し,12億マルク以上に急増した。

単位:100万マルク 800

700

600

500

400

300

200

100

口封鎖マルク (Sperrmark) ■自由化資本マルク (Libka−Mark)

 O   l954       1955       1956       1957

         第2図 封鎖マルクと自由化資本マルク(1954−1957)

[出所](原資料)Monatsbericht der Bank deutscher Lander(レンダーバンク月報各月度版)

   Dickhaus, Die Bundesbanh im westeuroPdiischen Pl)fiederaufbau. S.192より作成。

V.結び

 エアハルトのキャンペーンに始まる交換性回復への動きは,1958年12月の公式の交換性回 復宣言へと結実した。ドイツではすでに同年6月にLibka−Markが廃止されtアメリカドル,

カナダドル.スイスフランによるドイツ国内への自由な投資が行われていだ5。

 エアハルトのキャンペーンを通じて,ヨーロッパという限られた決済空間による地域主義の コストが検討されたが,ドイツはEPUにとどまることを選択した46。53年は交換性問題につ いてドイツ国内においても,国際的にも重要な分岐点となった。アメリカ財務省は,イギリス の非居住者向けのポンド交換性回復への動きを支援せず,またドイッの国内居住者向けの交換 性回復案に理解を示しつつも,これも支援しようとはしなかった。ドイッはEPU内ではイギ

リスにイニシアティヴを持たせつつ,国内では為替管理の緩和に取り組み,交換性回復へ向け た土台を築いた。こうした一連の措置は,黒字による通貨準備の増加やロンドン債務協定によ る対外債務の確定を前提としたが,IMFによる輸入権制度,双務協定の廃止要請, IBRDによ る融資の挫折とその結果として生じた資本輸入へ向けた取り組み,アメリカによる対ドル地域

(16)

自由化への圧力もこれを大きく後押ししたと言える。このようにして,ドイツの世界市場への 復帰が進められた。

 1955年に入りOEECではEPU廃止後の新たなヨーロッパの通貨協力について議論された。

この議論はEPUの段階的強化とEPU自体の廃止を一括して取り扱うものであった。この時 点でEPUの金・ドル決済比率は75%に達しており,交換性回復の議論が現実味を帯びるよう になったのである。

*本稿は平成19年度科学研究費補助金(若手研究B)「IMF体制におけるドイツ・マルク(1958

〜1973年)」(課題番号18730232)および平成19年度愛知淑徳大学研究助成特定課題研究による 研究成果の一部である。

l Franco−German Contrasts, in:Economist, June 27,1953, pp.922−925.

2 Monika Dickhaus, Die Bundesbank im westeuroPdischen隅 ederaufbau,・Oie internationale  Wdhrungspolitih der Bundesrepublik Deutschland 1948 bis 1958, MOnchen 1996, S.157−164.

3 0tmar Emminger, BRp und internationale Kreditinstitutiohen, in:Z)er Volkswirt, Beilage zu  Heft 41 vom 11. Oktober l958, S.37;Uwe Andersen, Das internationale PVdihrungssystem  zwischen nationaler Souverb nitdit und supranationaler Integration, Berlin 1977.

4 Ludwig Erhard, Deutschlands Ritckkehr zum Weltmarkt, DUsseldorf 1953.

5 1952年8月14日,ドイツはIMF・IBRDに加盟したが,レンダーバンク総裁がIMF,連邦経済相  エアハルトがIBRDのドイツ代表を務めた。諸外国では後者のポジションに財務省関係者が該当す  るが,52年8月以降,「通貨・信用」部局は連邦経済省の管轄となったため,経済相が就任した。こ  の事実は本稿第m章において述べているように,コンサルテーションの協議においても,経済省官  僚が参加していることから明瞭である。ただし,51年3月6日の占領憲章は,55年5月まで有効で  あった。このため対外経済政策についてもその権限は連合国側にあったが,しだいに緩和された。

 この権限移譲は以下の流れである。51年8月13日 為替管理の運用を移譲;同年10月13日 貿  易政策上の留保の放棄;52年11月25日 為替相場政策上の留保の放棄;53年6月1日 ロンドン  債務協定発効後 ドイツは協定に基づく返済を実施する。

6 1 a MaBnahmen zum Abbau der extremen Glaubigerstellung der Bundesrepublik in der Europaischen  Zahlungsunion,37. Sitzumg am 2. Juli 1953, in:Onhne−Version der E(1ition Die Kabilettsprotokolle der

 Bundesregierung , http://www . bundesarchiv.de/kabinettsprotokolle/web/index.jsp 7 Diとkhaus, Die Bundesbank im westeuropdiischen Wiederaufbau, S.130−133.

8 Dickhaus, Die Bundesbank im westeuropdiischen WiederaufOau, S.130−133.

9 Dickhaus, Die Bundesbank im westeuropdiischen WiederaufOau, S.133−137.

10 ドイツでは優遇外貨制度が導入されており,50年7月〜51年3月の輸出額の20%を輸出業者に  与える「自由外貨割当制」(Devisenfreibetrag)に続いて52年4月から「輸入請求権」が実施され  た。この制度は一時的緊急措置でコントロール可能な範囲内で実施され,複数の為替相場とその範  囲を限定し,ドル地域への選択的な切り下げを認可するものであった。輸入権はドルまたはスイス

(17)

 フランの収入を伴う輸出の場合,輸出額の40%を輸出業者に保有させ,業者はこの権利を3か月以  内に特定の商品輸入に利用するか権利を委譲することもできる。権利は52年4月半ば20−20.75%

 のプレミアムで取り扱われ,5月半ばには13−14.5%のプレミアムに達した。4月半ば輸出業者は  1$=4.20DMではなく4.54 DMで,5月には1$=4.41 DMで受け取った。輸入業者は輸入権を  用いる限り,4月には5.04DM,5月には4.75 DMの相場で考慮しなければならなかった。輸入権  を用いた商品は52年8月にかなり拡大され,輸出促進効果もあったが,53年に入ってから輸入需  要が減少し,輸入自由化政策が進んだことから輸入権プレミアムが下落した。Dickhaus, Die  Bundesbank im westeuroPdiischen WiederaufOau, S.136.

ll Volker Hentschel, Ludwig Erhard, Ein l)olitikerleben, M U nchen 1996, S.192.

12 Dickhaus, Die Bundesbank im westeuropdiischen Wiederaufbau, S.171.

13 レンダーバンクはマルク切り下げを恐れていた。51年当時,総裁フォッケはマルク切り下げに  よって輸入が困難になり,高価になる。物価水準が上昇するだけではなく,結果として輸出能力を  低下させると分析していた。IMF加盟において,フォッケは「IMF,またはIMFを通じてアメリカ  がドイッの平価を設定する上で決定的である限り,我々は通貨主権を失う。IMFはマルク切り下げ  を要求するだろう」と予想した。Dickhaus, Die Bundesbank im westeuroPdiischen WiederaufOau,

 S.97−98.

14 Werner BUhrer, Prot696 and Partner, The United States and the Return of West Germany to the  Liberal World Economic System, in:Detlef Junker(ed.), The United States and Germany in the  Era of the Cold PVar,1945−1968, vol.1, New York 2004, pp.314.

15 Alan S. Milward, Motives for Currency Convertibility:The Pound and the Deutsche Mark,

 1950−5,in:Carl−Ludwig Holtfrerich(ed.),Interactions in the Vaorld Economy. Perspectivesノアo勿  International Economic History, New York l989, pp.260−284;アメリカとの交渉については,田中  綾一「ポンド・・スターリングの交換性回復過程:1951−1955」『立命館国際研究』11−2(1998年12

 月),pp.70−86.

16 Harold James, International Monetary Cooperation since Bretton Woods, Oxford 1996, pp.101;

Is Sterling Convertiblity Still Far Off? , in:The Statist, July l9,1952, pp.79−80.

17 Federico Romero, Interdependence and integration in American eyes:from the Marshall Plan  to currency convertibility, in:Alan S. Milward, The Frontier of∧lational Sovereign ty:History and

 Theory,1945−1992」pp.159−165.

18  Erhard in London , in:Frankfurter.Allgemeine Zeitung,15. Mai 1953, S.7.

19 Hentschel, Ludwig Erhard, S.192.

20 Dickhaus, Die Bundesbank im westeuropdiischen WiederaufOau, S.143.

21 Christoph Buchheim, Die Wiedereingliederung Westdeutschlands in die PVeltwirtschaft  1945−1958,MUnchen 1990, S.166.

22 Hentschel, Ludwig Erhard, S.192.

23バトラーは,後にエアハルトの交換性への意欲とドイツ政府関係者の消極的な態度とのギャップ  に驚愕し,ドイツ政府内でのエアハルトのポジションとその影響を正確に把握できていなかったこ  とを実感した。Dickhaus, Die.Bundesbank im westeurop∂ischen WiederaufOau, S.169−170.

24 Time Presses, in:Time, Monday, September 21,1953.

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