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― ― モンテーニュとカステリヨン

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(1)

モンテーニュとカステリヨン

―寛容の競演―

Montaigne et Castellion :

Une comparaison des deux esprits de tolérance

宮 川 慎 也

 16世紀の宗教改革期を生き,寛容を唱えた二人のフランス人,モンテーニュ とカステリヨンを比較する。スイスの改革派都市に身を置き,異端者の処刑に 公然と反対の声を上げた後者と,フランスの地方貴族として時に政治に関わり つつ,『エセー』を著した前者と,彼らの寛容の精神はどのように似ており,ど のように異なっているか。次の三点において比較を試みる。異なる意見に対す る寛容,判断し発言する自由の擁護,世俗の権力と宗教問題の分離。

キーワード

カステリヨン(カステリョ),宗教改革,自由,異端

 寛容という言葉を「異なる者を受け入れる」という意味一つに絞ったと しても,訪日外国人の急増やヨーロッパの移民問題,アメリカの政治情勢 など様々な話題の中で,今日しばしば耳にするようになっている。パリで 起きたテロ事件をめぐるフランス社会の反応を論じた,トッド

Emmanuel Todd

著『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』の中に次のよう な一節がある。「「多文化主義」は一般に,標的となるグループの隔離を「固 有の文化の尊重」という表現や「寛容」という言葉で包み隠す。典型的な 場合をいえば,差異主義は,移民であれ,ユダヤ人であれ,黒人であれ,

あるいはイスラム教徒であれ,それらのグループが各々の場所にとどまり,

(2)

異なる人間として

(期待される)

役割を果たすならば,そのかぎりにおいて かなりよく許容する。非平等主義的な素地が違和感を示すのは,問題のグ ループがマジョリティに同化し,他と違わない人間,普通の市民として自 己を打ち出してくるときなのだ」

1)

。トッドのこの言葉は,寛容という言葉 が差別の隠れ蓑として使われる可能性を示唆し,一定の条件が失われれば,

取り澄ました仮面の下から不寛容が素顔をのぞかせるという危険性を指摘 している。こうした,いわば条件付きの似非寛容は,何も海の向こうを探 すまでもなく,そして人種や宗教問題に限らず,我々の身近でも様々な形 で見出されることではないだろうか。

 では,「真の寛容」とはどのようなものか。歴史の中にその答えの手掛か りを求め,ここでは,16世紀ヨーロッパの宗教改革期を生き,思想史にお いて寛容の元祖とも位置付けられうる二人の人物―カステリヨン

(カス テ リョ と も )Sébastien Castellion( 1515-1563 )

と モ ン テー ニュ

Michel de

Montaigne(1533-1592)―を比較しつつ,この問題を考えてみたい。この

二人に高い関心を示した人の中にツヴァイク

Stefan Zweig(1881-1942)

がお り,ファシズムに対する批判を込めてそれぞれの伝記を著したことは広く 知られているが

2)

,寛容のユマニストという同じカテゴリーに入れるにし ても,どのように似通っており,どのように異なっているのだろうか。そ れを探るための足掛かりとして,次の三点に焦点を当てて,二人を比較対 照することとしよう。Ⅰ)異なる意見に対する寛容,Ⅱ)判断し発言する 自由の擁護,Ⅲ)世俗の権力が宗教問題に介入することの拒否。なぜなら

『セバスティアン・カステリョ 宗教寛容のためのたたかい』という大著を

著したグッギスベルク

Hans R. Guggisberg

は「カステリョはついぞ,首尾

一貫した教理体系を構築することがなかった。(…)カステリョが神学的論

題に見解を表明する場合には,いつでも論争家としての発言であった」と

した上で,「カステリョの全著作を一貫する中心主題」として,この三点を

(3)

挙げているためだ

3)

。いずれも寛容の問題を考えるに当たって,基本的な 論点と思われる。

Ⅰ.異なる意見に対する寛容

Ⅰ–a.カステリヨンと神の全能

 カステリヨンは日本ではモンテーニュほど知名度がないと思われるので,

この考察にあたって必要と思われる最小限のことを記しておきたい

4)

。1515 年にジュネーヴとリヨンの間に位置する小さな村で農民の子として生まれ

5)

, 1535年からリヨンで学生生活を送りつつギリシャ語・ラテン語を学ぶうち に改革派に転じた。1540年にストラスブールのカルヴァンの下に亡命,さ らには,この宗教改革者がジュネーヴに赴くのに合わせて,1542年に同市

の学

アカデミー

校に校長として着任する。しかし,やがてカルヴァンやジュネーヴ市

当局と対立し

6)

,1545年にバーゼルへ亡命。1553年にはセルベト

Miguel Serveto (1511-1553)

処刑事件が起こり

7)

,この処刑がカルヴァンの指図に基 づくものと解するカステリヨンは,処刑の是非をめぐって,このかつての 指導者やその同僚テオドール・ド・ベーズ

Théodore de Bèze (1519-1605)

ら との間で激しい論戦を繰り広げる。

 上記のグッギスベルクはカステリヨンについて「寛容の原理の最初の主 張者として後世に名を留める」

8)

と指摘し,次のように述べている。「カス テリョは「寛容」という表現をほとんど使用していない。しかしこの語は 彼の時代にあっては,一七世紀以後のようには,まだ一般的に用いられて いなかった。「寛容」という語の代わりに,このサヴォワ人はしばしば「愛」

(charitas)

,「平和」

(pax)

,「寛慈」

(clementia)

,「慈愛」

(benignitas)

,「鷹揚

さ」

(lenitas)

,「平常心」

(continentia)

,等々の語を用いるのが常だった。こ

れらの用語は今日の読者にとっては,「寛容」そのものが内包するよりはむ

しろ,寛容の前提,あるいは結果として受け止められるかもしれない。そ

(4)

れにもかかわらず,カステリョがこれらの概念を用いる際に彼が念頭に置 いていたのは,まさしく我々が今日「寛容」

(tolerantia)

という言葉で考え る内容そのものだった。それはヨハンネス・キューンがまことに適切に,

こう言い表した内容,「異なる者を許容すること,あるいはもっと積極的に 表現すれば,それをも是とすること」にほかならない」

9)

 では,具体的にカステリヨンの寛容はどのように表現されているか。彼 の寛容の理念が良く表れるのはセルベト事件をめぐる論争においてであろ うが,その中で書かれた『異端者を処罰すべからざるを論ず』De l’impunité

des hérétiques

において,セルベトの処刑を正当化するベーズを彼は次のよ

うに批判している。

ベーズよ。君たちはいま裁き手の座につき,最後の審判以前に,聖パ ウロの言葉に反し,心の秘密を裁いている。なぜなら君は,異端者た ちが頑に命つきるまで否定しているにもかかわらず,悪しき意識とい うものは常に異端と結びついていると記しているからだ。けれども彼 らがこのことを,死ぬまで隠しているとしたら,誰がこの心の秘密を 君に明かしたのかね。君がそれほど固く隠されたことを分かるまで。

最後の審判〔神の光〕が君を強く照らしているのかね。君がそう述べ るなんらかの理由を,挙げてみたまえ。君にはそんなものはないのだ。

少なくとも推測ならどうかね。もっとないだろう。だが君は,それを

神のようにただ言い放っている。(…)君は,神の精神もないのに

(な ぜなら,かくも悪しき霊魂のうちに神の精神が宿っていると誰が考えるであろ う)

,理由も,それらしき何の徴もなく,君たちが異端者と判断してい

る者たちが常に悪しき意識を有しており,意図的に真理を無視してい

ると敢えて確言する。おお,カルヴァンの徒の慈愛よ! カルヴァン

自身

(私の望むに,彼が常に自分の見解を固持して欲しいものだ)

,彼は選ば

(5)

れた者を見放された者から識別するのは,唯一の神のなすべきことで あって,私たちのすべきことではないと,教えている。神のそのお務 めを君はいま,大胆にも侵害しようとしている

10)

 ここに読み取れるのは,人間には異端を見分ける力はなく,その力を持 つのは神のみであり,最後の審判を待たずして人を裁いてはならないとい うことであろう。グッギスベルクはこうした認識を「宗教的寛容の基本精 神」と呼んでおり,カステリヨンの寛容の根底に神の全能と人間の無力が あることを指摘している

11)

。グッギスベルクの訳者出村彰氏は「自己自身 とその拠って立つ根拠をも相対化できる,絶対的なるもの・超越的なるも のの前での自己放棄なくしては,「寛容」は単なる無責任に終わるだろう」

12)

と述べているが,それになぞらえれば,カステリヨンの寛容は,神の絶対 的な力の前に人間の力を相対化するところに生まれると言えようか。

 では,モンテーニュはどうであろうか。『モンテーニュ事典』Dictionnaire

de Michel de Montaigne

の「寛容

tolérance」13)

という項目の中で,デュボワ

Claude-Gilbert Dubois

はモンテーニュを「他の考え方や生き方を認め,差

異を熟慮のうえ受け入れるという現代的な意味において,「寛容」という徳 目の先駆者の一人となった作家」としている。そして,«tolérance» という 言葉は『エセー』Essais 中で ₂ 回しか使われていない―肉体的なもので あれ,精神的なものであれ,一定限度まで苦痛を受け入れるという,16世 紀の最もありふれた意味で―が,«accepter»

(受け入れる)

という動詞と その派生語は45回,«liberté»

(自由)

という名詞は162回現れることを指摘 した上で,「『エセー』はピエール・ベール

Pierre Bayle,ロックLocke

や ヴォルテール

Voltaire

が著すことになる寛容論の草案のようなもの」とし ている。

 彼をカステリヨンと比較するに当たって,その生涯のうちで注目すべき

(6)

点は,まずカステリヨンに遅れること18年後の1533年に,ボルドー郊外の 城館で貴族の子として生まれたこと,生涯を通じてカトリックとしての立 場を変えなかったこと,法律を学んだ後,1554年21歳の時から1570年まで ペリグー御用金裁判所やボルドー高等法院の評定官という,いわゆる司法 官職にあったこと,そして,1581年から ₄ 年にわたり父親と同じくボルド ー市長を務めていること,などが挙げられよう

14)

。農民の生まれで改革派 のカステリヨンと貴族でカトリックのモンテーニュと対照的な二人だが,

カステリヨンが生涯の多くを宗教改革論争に捧げたように,モンテーニュ の生涯もまたその大きな部分が宗教戦争と重なっている。

 彼の寛容を扱う場合,カトリックであったことから,戦争批判とか改革 派への理解を思い浮かべがちだが,事はそう簡単ではない。ドゥサン

Philippe

Desan

はモンテーニュと宗教戦争について「これらの戦争が常に彼の心に

あるとしても,彼が『エセー』の中でそれに触れたり,触れずにおいたり するやり方には一つの変遷があることに気づく」として,次のように三つ の区分を示している

15)

。1569年頃までは高等法院に勤務するカトリックと して戦争に関心を持ち,公然と反「新教」の立場をとっていたが,1572年 のサン・バルテルミーの虐殺以後は,ギエンヌ地方の中流貴族として争乱 が常に考察の背景をなす一方で,口を閉ざすことの方を好んでいる。そし て,1585年以降は政界への進出がおぼつかなくなると,宗教戦争をいっそ う熱く批判するようになるものの,暗示的に言及するなど,どの党派も敵 に回さないよう気を付けている。そして,ドゥサンは次のように指摘する。

「フランスの内戦に関する彼の考え方のこうした変遷は,彼を取り巻く残虐

さから一線を画し,独自の快適な空間を自分のために創り出したいという

願いが一層高まったことの表れである。あたかも,断続的に繰り返し現れ

る恐怖や暴力と共存しながら,生きる術を学んだかのように」

16)

 では,宗教戦争に対するモンテーニュの姿勢がうかがえる言説を見てみ

(7)

よう。

削除したり置き換えたりすべき多くの問題,偉大で深遠な問題を含ん だ,我々の目下の論争において,双方の陣営の大義や論拠を正確に確 認したと誇れるような者が何人ぐらいいるのか,それは神のみぞ知る。

もしそれがある程度の人数であるとしても,それは我々を混乱させる ほど大きな力を持たないような人数であろう。しかし,その他の人の 群れは皆,どこへ行くのか。どんな旗印の下に,彼らは遠ざかってい くのか

(I-XXII ; PL. p.126)17)

 この言葉を先のカステリヨンからの引用と比べれば,神の全能,人間の

無力,そして,教義論争という共通の要素が見出されるものの,ニュアン

スの違いは明らかだろう。カステリヨンが神の全能を強調しつつベーズに

反論するのに対して,モンテーニュでは神が知るのは論争を正しく理解で

きる者の人数であり,むしろその神の現れ方は

«Dieu sait»

という慣用表現

と見なすことができよう。神,教義論争,モンテーニュ自身という三者の

間に,カステリヨンと比較して距離が感じられ,教義の問題はより抽象的

に,より婉曲に表現されている。「双方の陣営

de l’un et l’autre party」とい

う表現もまた,何か中立的な立場を感じさせる。そもそも,モンテーニュ

はカトリックと改革派の対立を教義論争とは切り離して捉えていた,とい

う指摘もある。ドレアノ

Maturin Dréano

はモンテーニュが「改革派の中に

常に不穏な「変革」

«nouvelleté»

を見ていた」

18)

と指摘しつつ,上記の言説

について次のように考察している。「モンテーニュが改革派に対しての治安

維持力の行使を求めたとき,彼は彼らを異端者としてではなく,反逆者と

見なしていた。彼は彼らが自分たちの信仰を固く信じているとも,真理へ

の純粋な愛に導かれているとも,信じてはいなかった。(…)モンテーニュ

(8)

はこれほど難解な問題について,これほど容易く受け入れられる信仰が,

考察に値するとは考えていない。改革とは,あらゆる群衆を扇動するのと 同じ熱狂によって引き起こされた一つの運動である」

19)

 また,モンテーニュは改革派ばかりでなくカトリックに対しても疑いの 目を向けるが,その言い回しは慎重である。

普段よく目にすることだが,善き意図であっても,節度なく行われる と,人をひどく誤った行為に押しやってしまう。フランスが内乱とい う形で今かき乱されている原因を作った,あの論争において,最も善 良で最も健全な党派は,疑いもなく,国の古くからある信仰と政体を 守る側である。しかし,そんな党派に与する善き人々の中にも

(とい うのも,私が話題にしているのは,自分の党派を口実に利用して,個人的な復 讐を果たしたり,自分の欲を満たしたり,王侯方の寵愛を求めたりする人々で はなく,信仰に対する真の情熱や,祖国の平和と政体を守ろうとする健全な愛 情によって,党派を作る人々のことなのだから)

,こうした人々の中にさえ も,情熱に駆られて,理性の命ずる限度を越えてしまったり,時には 不正で,乱暴で,無謀でもある決定をする者がたくさん見られるのだ

(II-XIX ; PL. pp.706-707)

 ここでモンテーニュの念頭にあるのは「カトリック同盟

Ligue」と言わ

れるが

20)

,非難がましく語る一方で,「善き意図

les bonnes intentions」「最

も善良で最も健全な党派

le meilleur et le plus sain party」「善き人々les gens de bien」という言葉遣いの中に苦心のほどがうかがえよう。

 このように,宗教戦争と一定の距離を置きつつ,モンテーニュは改革派

と交際してもいた。ドレアノはその理由として, ₁ )孤独を愛する一方で

社交をも好むモンテーニュの性格, ₂ )彼の城館が改革派の多く住む地域

(9)

に位置するという地理的条件,そして, ₃ )信仰を口実に行われる残虐行 為への反発,という三つを挙げている

21)

。実際,後にアンリ ₄ 世となるナ ヴァール王

Henri de Navarre

も,改革派のリーダーであるにもかかわらず,

モンテーニュの城館を二度にわたって訪れている

22)

。また,モンテーニュ は改革派の一部に対して思いやりさえ示していたとして,ドレアノは『エ セー』から次の箇所を引いている

23)

私が我々の時代の大きな恥だと思っているのは,学識において極めて 卓越した二人の人物が,食べるにも事欠くような状態で,我々の目の 前で亡くなったことだ。すなわち,イタリアではリリオ・グレゴーリ オ・ジラルディが,ドイツではセバスティアン・カステリヨンが

24)

。 私が思うに,彼らの窮状を知ったなら,とても恵まれた条件で彼らを 呼び寄せたり,あるいは彼らがいるところから救い出したであろう人々 が無数にいるはずだ。世の中はそれほど広く腐敗しているわけではな いので,家族から受け継いだ財産を―自分がそれを享受するのが運 命のお気に召す限り

―何らかの能力において類い稀で注目すべき人々

を窮乏から救い出すために使うことを,極めて熱心に願うような人を 私は知っている。そんな人なら,不幸が時に極限まで打ちのめすこう した人々を,もし満足できないならそれは分別が欠けているにほかな らないと言えるくらいの状態に,少なくとも彼らを導いてあげられる であろう

(I-XXXIV ; PL. p.229)25)

 『エセー』中でカステリヨンに言及する唯一の箇所であるが,引用後半で

イメージされる篤志家が,著者自身を指すことは言うまでもない

26)

。グッ

ギスベルクもそこに「モンテーニュの洞察と共感的評価」を認めている

27)

(10)

Ⅰ–b.モンテーニュと世界の多様性

 このように,『エセー』のうちに控えめに表現された,戦争や改革派に対 する姿勢の中に寛容を感じ取ることは可能であろうが,むしろモンテーニ ュの寛容の特徴は,読書や経験,観察を通して認識された世界の多様性の 尊重にこそ,より明確に見出されるように思われる。デュボワはこのユマ ニストの寛容を簡潔に定義し, ₁ )多様性

diversité

の認識, ₂ )その多様 性の受容からくる相対化, ₃ )存在に対する一貫性

cohérence

の認識,特 に人間に固有な一般的条件の表明から成るとしている

28)

 デュボワの指摘する「多様性の認識」とは,例えば ₁ 巻26章「子供の教 育について」の中の次のような箇所に見られるだろう。

この広い世界は(…)我々が自分を正しく知るために,そこに自分を 映して見つめなくてはならない鏡なのです。要するに,私はそれが私 の生徒の教科書であってほしいと思います。とても多くの気質や学派,

判断,意見,法律,そして習慣が,我々に自分たちのものを正しく判 断することを教え,我々の判断力にその不完全さと生来の弱さを認識 することを教えてくれます。こうしたことは取るに足りない学習では ありません。とても多くの政治的動乱や国運の変遷は,自分たちのも のについても,大して驚嘆しないよう我々に教えてくれるのです

(I-XXV ; PL. p.164)

 世界の多様性の前に,人間は己が無力を悟るべきであるという。つまり

は,世界の絶対的な多様性の下に人間の意見も習慣も相対化され,さらに

は,当時フランスを覆っていた宗教をめぐる論争や戦争すらも,歴史の一

コマに過ぎないとでも言うかのように相対化される。そして,これは決し

て机上の空論ではないと言わんばかりに著者自身,ドイツ,スイス,イタ

(11)

リアをめぐる大旅行を敢行し,その道中で世界の多様性を楽しみ,それを

『旅日記』Journal du Voyage だけではなく『エセー』の中にも次のように記 している。

(…)私は我々の風習に飽き飽きして,旅をする。シチリア島にガスコ ーニュ人を求めるためではなく―それなら家に幾らでも残してきた

―むしろ私はギリシャ人やペルシャ人を求める。私は彼らに近づき,

彼らを観察する。その点にこそ,私は自分を集中させ,没頭させる。

さらに言うなら,私は我々の流儀よりも価値がないような流儀にはほ とんど出会ったことがないように思う。(…)私はこの旅の喜びが,そ れを文字通りに取るなら,動揺や移ろいやすさを証言していることを よく知っている。それに,それらが我々の主要で支配的な在り方なの だ。(…)ただ変化

varieté

だけが私に報いてくれる―多様性diversité の獲得が―少なくとも何かが私に報いてくれるのなら

(III-IX ; PL.

pp.1032-1034)29)

 このように世界の多様性を身をもって経験するモンテーニュは

30)

,その 一方で多様性のうちに,デュボワの表現を借りれば「内的一貫性

une cohérence interne」を見出してもいる。

我々は我々以外のものよりも,上でもなければ下でもない。賢人が言 うには,天の下にある全ては,一つの同じ法と運命に従っている。(…)

幾らかの違い,幾つかの序列や段階があるものの,一つの同じ自然の 様相の下にある

(II-XII ; PL. p.481)31)

 さらには,「人間に固有な一般的条件」の発見に至る。

(12)

私は慎ましくて,輝きのない一つの生活を書き示しているが,それは 全く一つのことなのだ。平凡な私生活にも,より高貴な恵まれた生活 と同じくらいに,あらゆる道徳哲学が当てはまるからだ。それぞれの 人間は,人間性の完全なかたちをそなえている

(III-II ; PL. p.845)32)

 このように,多様性と一貫性の認識から生じるモンテーニュの寛容を,

デュボワは「人間社会を特徴付ける多様性という規定と,人間性を特徴付 ける普遍性という規定の,当然そうあるべきであろう結果」とまとめてい る。

 では,カステリヨンの方にも,人間に共通する一般的条件の認識は見ら れるであろうか。それは人間の救済における神の下の平等を,彼が固く信 じていたことであろうが,まさにこの点こそがカルヴァンの予定説と鋭く 対立する点でもあった。

神は罪を望まず全ての人の救済を望んでいる,と発言する人々をなぜ 異端であると見なすのか

33)

 この点について,グッギスベルクは次のように指摘している。「すべての 人間は平等に創造され,それ故に,救いへの可能性においても対等である。

「我々すべては生まれつき,同じ生命へと条件付けられている」。これこそ

はカステリョが繰り返して止まなかった論点である。カステリョはカルヴ

ァンと全く同様に,神の全能を確信して疑わなかった。しかし,神の全能

という論理的前提からして,ある者らが罪へと予定され,したがって滅び

るほかはないという論点を受け入れることはできなかった」

34)

(13)

Ⅱ.自由の擁護

 次に自由の擁護という点について見てみよう。カステリヨンが自ら判断 する自由や意見を表明する自由を擁護したことについては,次のような言 説からうかがえる。

「(…)徐々に,邪なお喋りが―それが誰であろうと―説教壇で垂 れ流すものすべてが,すなわち預言者の代わりに,託宣として見なさ れるまでになって,それを託宣として見なさない者は誰でも,こっぴ どくぶちのめされている」。こうしたことをツウィングリは言ってい る。これらの風習を,ベーズよ,君たちはかの者たちから授受し

35)

, 徐々に導入し,いまやそれを堅持して,君たちの気に入ることを自由 に述べ,しかしながらほかの人々は敢えて口を開く勇気がないほどに なっているのだ。こうしたことのために,君たちが私たちを非難する のに同じことをしている君たちがどれほど術数に長けているかが見て 取れる。なぜなら私たちの方では,キリスト教徒は感じていることを 述べる自由を持つのが望ましいと思っているのに対し,君たちは怪物 を導きいれようと望んでいるからだ。けれどもどちらが怪物を飼育す ることをいっそう欲しているだろうか。言葉が自由であることを望ん でいる者か,それとも話すことがその者だけに許されているよう望む 者だろうか。もし誰かが律法学者やファリサイびとに対して自由に話 せなかったとすれば,いったい誰が私たちの世代の誤謬を見つけただ ろう。君たちの振る舞いが露見しないようにでなければ,なんのため に君たちは人々の舌を切除したりするのだろうか

36)

 このようにカステリヨンはカルヴァンやベーズらジュネーヴの改革派を

(14)

批判し,カトリックを非難して宗教改革を起こしながら,自らもまた硬直 化し,言論の自由を弾圧しているとする

37)

。自由に判断し発言できること がカステリヨンの考える理想的な教会の在り方なのであろうが,そもそも 自由とは,彼にとって神の恩寵に他ならない。

さらに君たちは私たちが故意に冒瀆をしている,なぜなら私たちが自 由意志を策定して神の恩寵を少なくしているからだ,と言っている。

しかしもしこうしたことが冒瀆ならば,君たちがしかしながらその権 威をよりどころにしている,古代の教会博士たちは,ほとんどみな冒 瀆家であった。私たちについていえば,確かに私たちは,従う者たち を解放され,自由にされるキリストを崇拝している。なぜならそのみ 子が私たちを解放され,自由になされれば,私たちは本当に,あらゆ る悪から自由になり,解放されるであろうからである。そしてこの点 において,私たちは神の恩寵を減じてなど全くないし,むしろ大きく しているのだ。なぜなら自分の子供たちを自由になさるのは神にとっ て栄誉なことだからである

38)

 では,モンテーニュについてはどうであろうか。彼もまた判断の自由を 尊重していることが,以下のような言説の中に読み取れよう。

(…)私が思うに,並外れて特別な在り方は何であれ,真の理性より は,むしろ愚かさや野心的な気取りから発しているが,賢者は内面に おいて,その魂を人の群れから引き戻し,それを自由な状態に保ち,

物事を自由に判断できるようにしておくべきであろう。しかし,外面

においては,人から受け入れられる在り方や慣例に,完全に従うべき

であろう。公の社会は我々の思考に対して何もできないが,それ以外

(15)

の,我々の行為や我々の仕事,我々の財産,我々の生活などは,社会 への奉仕と一般的な意見に貸し与え,委ねなければならない。あの立 派で偉大なソクラテスが行政官に,それもとても不正でとても邪悪な 行政官に逆らうことで命を救うことを,拒んだように。なぜなら,各 自が自分のいる場所の決まり事を守るということが,規則の中の規則 であり,法の中でも普遍的な法であるからだ

(I-XXII ; PL. pp.122-123)

 この箇所についてドレアノは「彼は個人を共同体のために犠牲にするこ とはなく,国家は宗教的な役割を与えられてはいるが,その諸権利は個人 の権利によって制限される。モンテーニュは信仰の自由を要求しており,

国家は外面的服従を受ける権利があるが,人間の最良の部分はその支配を 免れる」

39)

と考察している。しかし,ここでモンテーニュは判断の自由を 求めてはいても,発言の自由までは求めておらず,先に見た通り自分の発 言については慎重であった。カステリヨンと比べると,その自由はより内 面的であり,規則や法を,つまりは現にある秩序を変革するような自由ま では求めていないように見える。ソクラテスの処刑については―このギ リシャ人はモンテーニュが特に晩年になって最も敬愛する人物であった

裁判の不正よりも,法を尊重し甘受する姿勢により注目し,それを称えて いる。それに対してカステリヨンは,ソクラテスの「無知の知」を称賛し た上で,彼の処刑について次のように述べている。

(…)彼は非常に評価されたので

(しかしあらゆる立派な人間に起こりがち なように,ずっと遅くなってからだ)

,大哲学者みなが彼こそ哲学を始め たひとであると述べたほどである。それは彼の熟慮にあふれた無知が,

ほかの者の軽率で向う見ずな学識をはるかに凌駕したように思えるほ

どである。もしアテナイのひとたちがこのことで彼に従っていたら,

(16)

不幸きわまりなくも,彼らが自分たちのなかでもっとも優れた人間を 殺すことなどしなかったろうに

40)

 カステリヨンの関心はソクラテスと同時に裁判の判決にも,あるいはア テナイ社会の在り方にも向けられている。比較した場合,モンテーニュの 方が自由の要求について,社会の秩序により配慮していると言えよう。

 こうした一方で,『エセー』中には ₂ 巻19章「信仰の自由について」

«De la liberté de conscience»

と題された章があり,そこではこの自由が肯定的 に唱えられている

41)

。注目すべきは次のような言説である。

(…)考察に値するのは,我々の王様方が内紛による混乱を鎮めるため に近頃用いた,信仰の自由という同じ方法を,皇帝ユリアヌスは煽り 立てるのに使っていることだ。一方ではこう言える。「手綱をゆるめて 各派が自分たちの意見を持ち続けるのを許すことは,分裂の種をまい て拡大させることであり,分裂の進行を御したり遮ったりする法の障 害も強制もないので,その拡大に手を貸すようなものだ」。しかし,他 方ではこうも言えるだろう。「手綱をゆるめて各派が自分たちの意見を 持ち続けるのを許すことは,安易さと容易さによって彼らを柔弱にし て弛ませることであり,珍しさや新しさ,難しさによって鋭くなって いる矛先を鈍らせることだ」

(II-XIX ; PL. p.710)

 ここで「我々の王様方」と呼ばれているのは,宗教戦争の中で時に改革 派に譲歩した,シャルル ₉ 世

(在位 1560-1574)

やアンリ ₃ 世

(在位 1574-1589)

を指すとされるが,特にこの言説の背景となったのは,第 ₅ 次宗教戦争を

終わらせた「ボーリューの勅令」

l’édit de Beaulieu(1576)

と見なされてい

42)

。それは改革派にとって有利なものであり,モンテーニュはそれを肯

(17)

定的に評価しているのがわかる。この勅令への支持については過去に考察 したことがあるが

43)―多少の繰り返しをお許しいただきたい―少し前

に置かれた ₂ 巻15章は「我々の欲望は困難さによって増大すること」

«Que nostre desir s’accroist par la malaisance»

と名付けられており,そこでモン テーニュはオウィディウスの詩とセネカの言葉を援用しつつ,次のように 述べている。

(…)容易さから来る飽満ほど,我々の味覚を自然に損なうものはな く,珍しさと難しさほどそれを鋭くするものはない

(II-XV ; PL. p.650)

 つまり,上記二つの引用を合わせ読めば,モンテーニュは古典を手掛か りとして人間の心理に着目しつつ,寛容な宗教政策は急進派の矛先を鈍ら せるが,禁止や弾圧は反発を招くだけだと指摘していることになろう。さ らにここでは, ₂ 巻19章を締めくくる以下の言説にも注目したい。

しかし,私は我々の王様方の信仰の名誉のために,こう信じたい。彼 らは望んでいることができなかったので,できることを望んでいるふ りをしたのだと

(II-XX ; PL. p.710)

 この箇所が言いたいのは,国王は本来カトリックで国を統一したいのに,

それができないので改革派への寛容策を望むふりをしているということで

あろうが,「権威への服従と国家体制の維持

l’obeïssance du Magistrat, et manutention des polices」44)

を尊重するモンテーニュは,そうした政府の意

向も酌んだ上で,勅令に賛同を示していることになろう。デュボワはここ

に見られる信仰の自由を「マキアヴェリが思いつくような寛容策」と見な

し,「信仰の自由の授与は,その効果が政府にとって有益であるとき,正当

(18)

化される」

45)

と指摘している。つまりは,ここで言う自由は政治的動機に 基づき,王権を頂点とする国家体制の維持を目的とし,その実現のための 一つの手段である

46)

 では,カステリヨンはどうであろうか。その死の ₁ 年前,1562年に書か れた『悩めるフランスへの勧め』Conseil a la France desolée の中で

47)

,彼は 自分の祖国に宗教戦争が永く続いた場合の六つの悲惨な可能性を数え上げ た後,次のように主張する。

さて最後に残った第七の結末は,和を講じて二つの信仰を自由に委ね るということであるが,もし諸君がこれを受け入れないならば,諸君 は今まで述べてきた六つの不幸のいずれかに,必然的に突き落される ことになるのである

48)

 こうしてカステリヨンもまた信仰の自由を提唱するが,彼がそうせざる を得ないのは,「信仰の強制」こそ戦乱の元凶と見なしているためであり,

この点でカトリックも改革派も等しく非難している。

(…)現在の戦いの原因は信仰の強制,良心の侵害にあると結論せねば ならない

49)

 こうした強制に反対するためにカステリヨンが根拠とするものは,聖書 である。モーセの律法には「信仰を強制すべしというような言葉は一言た りとも存在しない」

50)

。「トビト記」には「自分が嫌なことは,ほかのだれ にもしてはならない〔四・一五〕」

51)

。あるいは,「ローマの信徒への手紙」

には「「善が生じるためには悪をしよう」とも言えるのではないでしょう

か。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが,こういう

(19)

者たちが罰を受けるのは当然です〔三・八〕」

52)

等々。

いやしくもわれら何をなすべきかを決する場合には,必ず神の誡命に 注目し,これによって自らを律する必要がある

53)

 そして,戦争継続を「神の教えに反するもの」

54)

として,信仰の自由を 提唱している

55)

。このように,論証も動機も聖書の教えに立脚したカステ リヨンの信仰の自由は,読書や人間心理の観察に支えられ,政治的動機に 基づいたモンテーニュのそれとは,明らかに異なっていよう。

Ⅲ.世俗の権力と宗教問題の分離

 国家が宗教を保護して治安を守る一方で,俗権は信仰の問題には介入す べきでないとする考えは,カステリヨンに一貫していたとされる

56)

。セル ベト事件をめぐってカステリヨンが『異端者を処罰すべからざるを論ず』

を書いたのは,ベーズがその処刑を擁護した『行政官の権威を論ず』

57)Traitté de l’Authorité du Magistrat en punition des heretiques, & du moyen d’y

proceder(ラテン語題名『異端者は世俗権によって裁かるべきこと』)

に対して反

論するためであった

58)

。この著書に沿って,カステリヨンの主張を見てい くと,

私たちが示したいのは,異端者が処罰されるべきだとしても,それは

世俗の行政官の権限ではないということだ。というのも,私たちの戦

の甲冑は精神的なものだからだ。精神の戦は精神の武器によって行わ

れるべきだ。それに,キリストの王国はこの世のものではないのだ

59)

 カステリヨンは「異端とは犯罪の名称ではなく(…)悪徳の名称だ」

60)

(20)

し,さらに聖書を繙きつつ,もし異端が宗教上の罪であるとしても,それ は教会が罰するべき問題であって俗権が介入すべき問題ではないという。

もし世俗の行政官がある異端者を罰するなら,彼は教会が破門で罰す る者を罰することで,教会裁判権を脅かすことになる。(…)あらゆる 悪意にまみれていても,素行を改めようとするなら,聖パウロは破門 にしていない。だが,行政官はバラバを,大罪を犯したがゆえに処罰 し,異端説や臆見は気にも留めなかった〔マルコによる福音書一五・

七,ルカによる福音書二三・一八〕

61)

 そもそも聖書によれば行政官はキリストが設けたものではない上

62)

,そ うした俗権を宗教問題に介入させれば,教会は俗権の支配下に置かれるこ とになるだろう

63)

。だいたい異端を裁くには専門的な知識が必要だが,俗 権がそれを持ち合わせているだろうか。

もし誰かがキリスト教徒でありながら,キリスト教の告白に謀反し聖

書を完全に拒絶し自らの誤解を他者に教え,それを行政官が鎮圧する

ならば,私は逆らって言うことなど何もない

64)

。しかし異端は,行政

官が裁くべきではない。ベーズよ,君は自らそう書いている。私たち

はそれに付け加えて,他者の良識に関わり,第三者の残酷性の執行官

になることをおそれて,行政官たるものは知識なく罰することのでき

ない罪を罰するべきではないと言う。「あなた方の律法に従って,それ

を取り上げ,それを裁きなさい」と,辛抱強く言うべきだろう。他の

言い方をするなら,恐れや他の事に左右されて罪を知ることができず

に死刑にするならば,彼を行政官に引き渡した者たちよりも罰は少な

いけれど,それでも彼は手を洗っても虚しいだけである,なぜなら第

(21)

三者の残酷性の執行官になったからである

65)

 ここで「第三者」とか「彼を行政官に引き渡した者たち」とは,セルベ トを処刑させたカルヴァンらを指すのであろう。

 では,モンテーニュの方は,こうした俗権と宗教の分離に関してどう考 えているか。次のような言説が見られる。

我々の弱さに由来する過ちと,我々の悪意に由来する過ちとの間に大 きな違いを認めることは,本当に正しいことだ。というのも,後者に おいては,我々は自然が我々の中に刻み付けた理性の規則に対して,

意識して頑なだったからだ。そして,前者においては,この同じ自然 が我々をそれほど不完全で弱い状態にしたのだから,自然に対して責 任を問うことができるように思われる。したがって,良心に反して為 すことだけしか,我々は咎められることはないと多くの人々

prou de gens

は考えたわけだ。そして,この原則に,異端者や無信仰者を死刑 に処す人々の意見も部分的には基づいているし,弁護士や裁判官は職 務上そうとは知らずに犯した過ちについては責任を負うことはないと 定める意見も,またそうなのだ

(I-XV ; PL. pp.72-73)66)

 この箇所について,ドレアノはモンテーニュもまた「異端者を処罰する 権限を国家から取り上げようとしているように思える」と指摘している

67)

「過ち」を弱さに由来するものと,悪意に由来するものとに区別し,前者に

ついては処罰の対象外としているが,これはカステリヨンが〈異端とは犯

罪ではなく,悪徳である〉としたことに重なるであろう。しかし,後者が

聖書を繙き,キリスト教史を援用しつつ論証を進めるのに対し,前者は「理

性」「自然」「良心」という言葉を用いながら,人間の心理に踏み込んで論

(22)

を進めている。この引用箇所の前には著者の見聞が紹介され

(「私はかつて 聞いたことがあるJ’ouy autrefois︙」)

,後ろには古代ギリシャの歴史家ディオド ロス・シケロスから採った実例が置かれており,見聞や読書が考察の手が かりであることがわかるが,それに加えて,著者の視点が司法に携わる人々 に接近していることも注目できる。これはモンテーニュが若い頃,高等法 院の評定官であったことと関係があろうし,その経験上,宗教問題を俗権 が裁くことの困難を,容易に想像できたに違いない。経験と言えばまた,

処罰をめぐる人間の心理を考察した言説として,「我々の欲望は困難によっ て大きくなること」の章中に次のものもある。

この話題〔章題を受ける〕については,ある昔の人の意見をつなぎ合 わせることができよう。すなわち,「刑罰は悪徳を弱めるよりもむしろ 刺激し,善を為そうという配慮は生まず―それは理性と教育のなせ る業だ―ただ悪を為しているところを見つからないようにしようと いう配慮を生むだけである」。(…)私はこの意見が本当かどうか知ら ないが,経験を通して知っているのは,そんなやり方で社会が改善さ れたことは決してないということだ。素行の秩序や規律は,何か他の やり方にかかっている

(II-XV ; PL. p.653)

 セネカを引きつつ,かつ自らの経験を踏まえてこう述べるが,カトリッ クの立場をとるモンテーニュは,声高に〈異端者を処罰すべからざるを論 ずる〉ことなど難しかったであろうから,こうした言葉の裏に読み取る他 はないであろう。

結 び

 ここまで,カステリヨンの生涯を貫く,寛容に関わる三つの中心テーマ

(23)

を取り上げ,それらをモンテーニュと比較することで,各々の特徴を見て きた。互いに共通する部分もあれば,異なる部分もあったわけだが,こう した考察を通して気付くのは,寛容とは個々の人間の世界観に深く根差し ているということであろう。カステリヨンの寛容は時に「宗教的寛容」と 括られるが,それは彼の寛容の精神が宗教問題に限定されるということで はなく,その世界観が極めて宗教色の強いものであったということに他な らないであろう。今日「寛容」という掛け声がよく聞かれる一方で,似非 寛容主義の仮面ばかりがあふれて,その精神がなかなか根付かないのも,

世界観とのこうした結びつきが見落とされているためではなかろうか。

 ところで,モンテーニュとカステリヨンを比較するポイントは,何も上 記の三点だけとは限らない。例えば,信仰における理性の役割をめぐって,

この二人を比較することは興味深いと思われるが,それはまた別の機会と したい。また,ここで取り上げた二人は,日本から見れば海の向こうの大 陸の,そのまた反対側を生きた人たちであったが,東洋にもまた寛容の提 唱者たちが見つかるはずだ。例えば,関根秀雄が繰り返し指摘したよう に

68)

,モンテーニュがこの世界に一貫性を見出したことと,中国古代の荘 子の「万物斉同」という哲学は非常に似通って見える。このフランス人は 先に引用した「天の下にある全ては,一つの同じ法と運命に従っている」

という言葉をラテン語で書斎の天井にも刻んでいたが

69)

,この中国人も次 のような言葉を残している。

天地と我と並び生じて,万物と我と一為り

70)

 この点で洋の東西を比較するのも興味深いが,それもまた今後の課題と

したい。

(24)

₁) エマニュエル・トッド『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』

堀茂樹訳(文春新書,電子書籍版)文芸春秋,2016年,「第 ₂ 章 シャルリ~

カトリシズム,イスラム恐怖症,反ユダヤ主義」より。

₂) カステリヨンについては『権力とたたかう良心』高杉一郎訳(ツヴァイク 全集15)みすず書房,1963年(Ein Gewissen Gegen Die Gewalt: Castellio Gegen Calvin, 1936);「モンテーニュ」渡辺健訳(『三人の巨匠』ツヴァイク全集 ₅ ) みすず書房,1961年,265-372頁(1942年に書き上げられたMontaigneはツヴ ァイクの遺作となった)。

₃) グッギスベルク『セバスティアン・カステリョ 宗教寛容のためのたたか い』出村彰訳,新教出版社,2006年,277頁。

₄) カステリヨンの生涯については,以下を参照。出村彰『カステリョ』(人と 思想)清水書院,1994年;グッギスベルク,前掲書;カステリヨン『異端者 を処罰すべからざるを論ず』フランス・ルネサンス研究チーム訳(中央大学 人 文 科 学 研 究 所 翻 訳 叢 書 ₉ )中 央 大 学 出 版 部,2014 年,i-xviii頁(S.

Casterillon, De l’impunité des hérétiques, texte français inédit publié par M.

Volkhopff, Droz, Genève, 1971)。

₅) 村の名前はサン・マルタン・ドュ・フレヌSt. Martin du Fresneといい,当 時のサヴォワ大公国,現在ではフランスのアンAin県に属する。

₆) 対立の発端は,カステリヨンの新約聖書のフランス語訳出版問題―カルヴ ァンからの修正の要求とカステリヨンの拒絶―であったとされる(出村彰,

前掲書,31-33頁を参照)。

₇) 医師で神学者のミゲル・セルベトが,三位一体説を否定したとして改革派 からもカトリックからも異端者と見なされ,逃亡中にジュネーヴで逮捕,火 刑に処された。

₈) グッギスベルク,前掲書,76頁。

₉) 前掲書,19頁。

10)『異端者を処罰すべからざるを論ず』前掲書,228-229頁。

11) グッギスベルク,前掲書,176頁。

12) 前掲書,359頁。また出村氏はその著書『カステリョ』の中で次のように指 摘する。「カステリョによれば,私たちの生きているのが,キリストの死と復 活,そして終末の時の再臨と審判との「間の時」(interim)であるからには,

その間は決定的・究極的判断は留保すべきである」(出村彰,前掲書,171頁)。

13) Claude-Gilbert Dubois « tolérance » in Dictionnaire de Michel de Montaigne, publié sous la direction de Philippe Desan, nouvelle édition revue, corrigée et

(25)

augmentée, Paris, Honoré Champion, 2007, pp.1145-1146.

14) イヴォンヌ・ベランジェ『モンテーニュ 精神のための祝祭』髙田勇訳,

白水社,1993年,16-26頁を参照。

15) Philippe Desan, Montaigne  : Une biographie politique, Paris, Odile Jacob, 2014, pp.124-125.

16) Ibid., p.125.

17) «Dieu le sçache en nostre presente querelle, où il y a cent articles à oster et remettre, grands et profonds articles, combien ils sont qui se puissent vanter d’avoir exactement recogneu les raisons et fondements de l’un et l’autre party.

C’est un nombre, si c’est nombre, qui n’auroit pas grand moyen de nous troubler. Mais toute cette autre presse où va elle? Soubs quelle enseigne se

jette elle à quartier? »『エセー』からの引用は,特に断らない限り次のプレイ

ヤッド版によるものとし, ₂ 巻12章なら「(II-XII)」のように,ページ数は

「(PL. p. XX)」の よ う に 表 記 す る。Michel de Montaigne, Les Essais, édition établie par Jean Balsamo, Michel Magnien et Catherine Magnien-Simonin,

«Bibliothèque de la Pléiade», Paris, Gallimard, 2007. 本文では訳文を掲げ,表 現が問題となる場合のみ,注に原文を載せる。訳は拙訳であるが,訳出に当 たっては以下の現代仏語訳および邦訳を参考にさせて頂いた。Essais, adaptation et traduction en français moderne, par André Lanly, ₃ vol., Paris, Champion, 1989;関根秀雄訳『随想録』(全訳縮刷版),白水社,1995年;原 二郎訳『エセー』(岩波文庫,全 ₆ 巻)岩波書店,1965-1967年;荒木昭太郎 訳『エセー』(中公クラシックス,全 ₃ 巻)中央公論新社,2002-2003年;宮 下志朗訳『エセー』(全 ₇ 巻)白水社,2005-2016年。

18) Maturin Dréano, La religion de Montaigne, nouvelle édition revue et complétée, Paris, Nizet, 1969, p.92. モンテーニュいわく「私は変革nouvelleté というものには,それがどんな顔をもっていようと,嫌悪を抱く。それも訳 があってのことで,そのとても有害な結果をこの目で見てきたからだ」(I-XXII ; PL. p.123)。

19) Ibid., p.116.

20) Dubois, op.cit., p. 1146.

21) Dréano, op.cit., p.119.

22) Ibid., p.123.

23) Ibid., p.120.

24) カステリヨンが亡くなったのは,実際にはスイスのバーゼル。

25) «J’entens avec une grande honte de nostre siecle, qu’à nostre veue, deux très-

(26)

excellens personnages en sçavoir, sont morts en estat de n’avoir pas leur saoul à manger  : Lilius Gregorius Giraldus en Italie, et Sebastianus Castalio en Allemagne  : Et croy qu’il y a mil’hommes qui les eussent appellez avec très- advantageuses conditions, ou secourus où ils estoient s’ils l’eussent sceu. Le monde n’est pas si generalement corrompu, que je ne sçache tel homme, qui souhaitteroit de bien grande affection, que les moyens que les siens luy ont mis en main, se peussent employer tant qu’il plaira à la fortune qu’il en jouisse, à mettre à l’abry de la necessité, les personnages rares et remarquables en quelque espece de valeur, que le mal-heur combat quelquefois jusques à l’extremité : et qui les mettroit pour le moins en tel estat, qu’il ne tiendroit qu’à faute de bon discours, s’ils n’estoyent contens».

26) カステリヨンが校訂したり,訳したりしたギリシャの古典のうち,モンテ ーニュが所有,または知っていたと推定されているのは,クセノフォン,デ ィオドロス・シケロス,ホメロス,トゥキディデスである。また,実際には カステリヨンもジラルディも,モンテーニュの言うほどの困窮状態にはなく,

むしろ当てはまるのはイタリアの宗教改革者オキーノBernardino Ochino

(1487-1564)と言われる(Daniela Boccassini «Castellion» in Dictionnaire de Montaigne, op.cit., pp.160-161を参照)。

27) グッギスベルクは「モンテーニュ自身がどれほどカステリョの著述やその 思想を熟知していたのかは不確かだ」としつつ,この引用箇所について「こ の時代が,偉大なるサヴォワ人の人間味に満ちた高い知性を認めようとしな いからであった」(前掲書,312頁)と指摘している。

28)「(モンテーニュの寛容の)原則は,観察,すなわち自然の生成がもつ多様

diversitéの認識から生まれてくる。その第二段階はこの現実の受容と,普

遍化された相対化の原則の表明である。存在するものには全て存在理由があ り,内的な一貫性cohérence interneを含んでいるが(その基盤を指し示すの に,「構造structure」という言葉が使えるかもしれない),その一貫性は,意 味体系の変化をもたらす象徴の種類に応じて,外観だけが異なっている。第 三の点は人間に固有な一般的条件の表明であるが,それは存在の異なる在り 方への敬意を誰に対しても抱かせる。寛容に与えられるこの原理は本質的で あり,いわば断固とした命令的性格を帯びていると同時に,確認され検証さ れた前提条件に基づく結論から力を得ており,差異の表れの単なる受容―条 件や制限を設け,あらゆる場合に状況や運に左右される受容―に勝るもので ある」(Dubois, op.cit., p.1145)。

29) この引用の少し後に次のような一節があるのも注目される。「なんの役に立

(27)

つのか。どんな人間も身の置き所がないような哲学のあの高い峰々や,我々 の習慣も我々の力をも超えるあれらの規則が。私がよく目にするのは,我々 にあれこれ生き方を薦めながら,薦める本人も拝聴する側も,それに倣える 見込みもないばかりか,倣いたいとも思わないというような有様だ。(…)私 は若い頃,ある立派な人物が一方の手で,美しさと放埒さにおいて卓越した 詩を,もう一方の手で,ずっと前から世間がたらふく味わってきた,もっと も好戦的な宗教改革論を,同時に人々に向けて発表するのを見たことがある」

(III-IX ; PL. pp.1034-1035)。ここでモンテーニュに皮肉られている人物は誰 か。それがカステリヨンの論争相手であったベーズと推定されることは,興 味深い(PL. p.1799を,または次を参照。Essais, édition réalisée par Denis Bjaï, Bénédicte Boudou, Jean Céard et Isabelle Pantin, sous la direction de Jean Céard, Le Livre de Poche, 2001, p.1541 (note ₇))。ただし,モンテーニュの矛 先はあくまでもベーズの品行に向けられており,その教義に向けられている わけではないことにも注意したい。

30) この点について,デュボワはこう述べている。「多様性multiplicitéが本来 の姿である。16世紀において多元性pluralismeを肯定的な価値とみなすこと は,その時代が統一性unitéを同一性uniformitéと混同したり,そこに至るた めにあえて手段を択ばなかったりしながら,統一性を最も貴重な善とする時 代であっただけに,革命的な逆説である」(Dubois, op.cit., p.1146)。

31) «Nous ne sommes ny au dessus, ny au dessous du reste : tout ce qui est sous le Ciel, dit le sage, court une loy et fortune pareille. (...) Il y a quelque difference, il y a des ordres et des degrez  : mais c’est soubs le visage d’une mesme nature».

32) «Je propose une vie basse, et sans lustre : C’est tout un. On attache aussi bien toute la philosophie morale, à une vie populaire et privée, qu’à une vie de plus riche estoffe : Chaque homme porte la forme entiere, de l’humaine condition ».

33)『異端書を処罰すべからざるを論ず』前掲書,306頁。

34) グッギスベルク,前掲書,281頁。

35)「かの者たち」とはカトリックを指すのであろう。

36)『異端者を処罰すべからざるを論ず』前掲書,239-240頁。

37) このような両者の対立について,グッギスベルクは「一方では,改革者は 教会刷新の闘いを,新しい霊的一致という防波堤によって貫徹しようとする のに対し,他方では,人文主義的な批判者はそこに,個人的な精神と信教の 自由の抑圧しか見ようとしない」と指摘している(前掲書,112頁)。

38)『異端者を処罰すべからざるを論ず』前掲書,257頁。

(28)

39) Dréano, op.cit., p.113.

40)『異端者を処罰すべからざるを論ず』前掲書,19-20頁。

41) この章では「信仰の自由」を政策としたローマ皇帝ユリアヌスが取り上げ られるが,ベーズたちはこの皇帝を,暴君にして先駆的なマキアヴェリスム の例と見なし,ジュネーヴ版の『エセー』からこの章を削除しているという

(PL. p.1657を参照)。

42) Essais, éd. Céard, op.cit., p.1038 (note₁)を参照。

43) 拙稿「モンテーニュ『エセー』におけるユリアヌス擁護と自己弁護―₂ 巻 15章―19章の自己表現」(『ロンサール研究 XVI』日本ロンサール学会,2003 年)41-54頁。

44)「キリスト教は極めて正しくて極めて有益なあらゆる特徴を備えているが,

権威への服従と国家体制の維持を厳格に勧告していること以上に明らかな特 徴はない」(I-XXII ; PL. pp.124-125)。なお,モンテーニュの見解を裏付ける 教えは「マタイによる福音書二二・二一」「ローマの信徒への手紙一三・一~

七」などに見られる。

45) Dubois, op.cit., p.1146.

46) この点については,PL. p.1658を参照。

47) この1562年 ₃ 月にシャンパーニュ地方のヴァッシーにおいて,カトリック による改革派の虐殺事件が起こり,30年にわたって断続的に続く宗教戦争が 始まる。

48) カステリヨン「悩めるフランスに勧めること」二宮敬訳(『ルネサンス文学 集』世界文学大系74)筑摩書房,1964年,295頁。

49) 前掲書,278頁(上段)。

50) 前掲書,286頁(中段)。

51) 前掲書,282頁(上段),285頁(上段)。

52) 前掲書,289頁(中段)~290頁(上段)。

53) 前掲書,288頁(上段)。

54) 前掲書,295頁(中段)。

55) グッギスベルクはカステリヨンが「政治的・実際的な寛容論者へと変身」

したとした上で,こうした転換が「常に自分の祖国と見なし続けた国の民族 的危機を契機に生起したことは,彼の伝記を研究するに当たって重要である」

と指摘している(前掲書,257頁)。

56) グッギスベルク,前掲書,150頁,及び277頁を参照。

57) 高橋薫氏による抄訳が『異端者を処罰すべからざるを論ず』(前掲書)の中 に掲載されている(401-525頁)。

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