はじめに
われわれは通常、 ことばは心 (ないし脳(1)) の中に存在するものと思っている。 今、 私はイスに座 り、 パソコン画面に向かって文字を打ちつけているが、 これらの文字列は、 あらかじめすでに私の心=
脳の中で思いつかれ、 存在したものが、 姿形を表したものであると思われるからである。 そうでなかっ たら、 いったいいつ、 どのようにしてこれらの文字列はそこに生み出されたというのか。 すなわち、
われわれの脳の中にことばが存在しないとすれば、 脳はどのようにして、 自らの内にある非言語的な 脳内イメージを言語的なものに変換し、 紡ぎ出すことができるのか。 まさか指先が、 あるいはキーボー ドが、 脳から独立に、 勝手に言語を生み出すと言うのでなければ それは、 ありそうもない 、 脳が言語を生み出すとしか言えないだろう。 とすれば、 ことばは、 身体外に紡ぎ出される前に、 それ と同じものが脳内に存在すると言ってどうして不都合があろうか。
常識的に言えばこのように、 ことばはわれわれの脳の中にも存在すると考えて何ら問題はなさそう である。 しかし、 常識が常に正しいとは限らない。 たとえば、 話しことばが口から発せられる場面を 思い浮かべてみよう。 そこでは、 手で書くときよりはるかに高速に、 ことばが口から発せられるが、
出てくることばに先立って、 それと同じものが脳の中に常にすでに、 少なくとも意識された形で成立・
存在しているかというと、 そうではないということに気づかされるだろう。 というのも、 われわれは 通常 (いつもではないが)、 考えながら話すというよりも、 いわば考える前に話しているからである。
あるいは、 考えていたことと口から出て来たことばが食い違う (反対のことさえある) ということも、
しばしば経験することである。 とすると、 口から紡ぎ出されたことばと脳の中にある言語的なものと はしばしば別のものだ、 ということは少なくとも言えるのではないか。 そして、 話しことばで言える ことは、 書きことばに関しても言えるのではないか。 それが証拠に、 われわれは 現在、 この文章 を書いている私も 自分の脳の中で考えたこと (これは常に言語的なものとは限らない) が、 自分 の指先から生み出される言語的表現と必ずしも対応・一致していないと感じるがゆえに、 何度も何度 も書き直しをするし、 いや何度書き直しても自分の思いを十全に表現し切れていないと悩むからであ る。
このように、 脳内の考えと身体外の言語的表現とは対応・一致するものではないと、 理論的に主張 する一つの哲学的立場が、 心の唯物論 (materialism of mind) である。 あらかじめその要点をここで 記せば、 心の唯物論の言語観とは次のものである。 すなわち、 人間のあらゆる心的状態 (感覚・知覚・
心はことばの中にあるか−−心の唯物論による 「拡張された心」 批判
Is the Mind in the Language? :
A Critique of “The Extended Mind” by Materialism of Mind
武 田 一 博 TAKEDA Kazuhiro
想像・思考・意志など) は、 すべて脳によって生み出されるもの、 いや脳状態と同一である。 たとえ ば、 「私は今〜と考えている」 という心的状態は、 脳が生みだしたある特定の内部状態に他ならない。
したがって、 そうした思考する脳状態は、 われわれが普通考えるような言語的状態ではない(2)。 とい うのも、 脳を構成する基本単位、 ニューロンの中には、 電気的インパルスの流れが存在するだけであ り、 脳の内部状態は、 それらニューロン間の結合強度の重ね合わせとして存在するのみである (数学 的にはそれは行 列
マトリックス
の重ね合わせとして表現される)。 しかも、 そうしたニューラル・ネットワークと しての脳は、 全体が単純な一つのシステムとして機能しているのではなく、 脳を構成する膨大な (1,000億個以上の) ニューロンは、 コラム、 モジュールと呼ばれるひとまとまりの小ニューロン群で それぞれ異なる情報処理を受け持ち、 それらが複雑なネットワークを形成するという仕方で、 脳の内 部状態は成立している。 この点で、 脳は並列分散処理システムなのである (Churchland 1995、 武田 1997、 2008a、 2008bなど参照)。 われわれがもつどんな心的状態も、 脳のある特定の部位の状態では なく、 脳のさまざまな領域で別個に処理され、 全体に分散表現されたものが相互に関係づけられ、 ま とめ上げられたものの一つの帰結に他ならないのである (武田 2001 参照)。
こうして、 われわれの脳が生み出す言語活動も、 それを支え・可能にするさまざまな脳の認知機能 が、 それぞれ別個の働き たとえば聴覚情報処理 (音声知覚など)、 視覚情報処理 (文字知覚、 相手 の表情や身振り知覚など)、 抽象的な情報処理 (意味知覚、 イメージ形成など)、 運動感覚処理 (口や 舌、 顎、 喉頭、 咽頭などを動かす機能) など として行なわれながら、 それらが協働することによっ て成立させられているのである (逆に、 それらの機能のいずれかがマヒ・障碍
がい
に陥ると、 さまざまな 異なる現れ方をする言語障碍が起きることになる。 Ahlsén 2006、 Ingram 2007、 Breznitz 2008、
Daniloff ed. 2002 など参照)。 しかも、 脳内のそうした言語活動の多くは無意識下で、 いわば自動的な
形で行なわれてもいる (Meyer et al. eds. 2007、 Lieberman 2000、 武田 2008bなど参照)。 言うまで もなく、 意識的であれ無意識的であれ、 脳内のそうした言語に関わる機能のいずれも、 その実体はニュー ロンの一定の発火パターン (神経インパルス頻度分布の変化) の連続だけである。 脳はそのような神 経インパルスから身体のさまざまな活動 (口や手の動きだけでなく、 表情、 身振りなども含め) を通 じて、 実際の言語を身体外に生み出すのである。
この過程は、 脳内記号過程の身体外的言語への変換過程と言い換えることができるが、 この変換過 程は、 実際に身体外に (たとえば音声言語として) 発せられなくても、 脳内=心の内であたかも 「自 分の声を聞く」 ことができることをも可能にする。 というのも、 他人の声をわれわれが聞くことがで きるのも、 空気の振動が鼓膜を初め聴覚器官を通じて電気信号 (神経インパルス) に変換され、 それ が意味やニュアンスなどを含意するものとして理解されるからである。 つまり、 他人の声も自分の内 なる声も、 脳内においてはもはや空気の振動ではありえず 脳内には音声を伝達する空気は存在し ない 、 神経インパルスとして存在するのみである。 それはあたかも、 CDやDVDの盤の中にあ る音声は、 物理的突起や電子・磁気の一定の配列パターンとして存在するのみで、 空気の振動として は何ら見出しえないが、 それが再生装置を通じて変換されれば、 空気の振動という普通の音声として
われわれの聴覚に捉えられるものとなるのに、 似ている。
ともかく、 脳の中には音声言語も文字言語も、 ソシュール言語学的に言えばシニフィアン (言語表 現) 空気の一定の振動パターン、 インクの痕跡、 液晶画面の発光パターンetc. としては存在 しないのである。 にもかかわらず、 このことを理論的に主張する心の唯物論は、 今日でも圧倒的に支 持されていない (Gillet and Loewer eds. 2001、 Koons and Bealer 2010など参照)。 それに引き替え、
支持されているのは常識的立場、 すなわちフォーク・サイコロジー主義である (注2参照)。 このフォー ク・サイコロジー主義の考え方からすると、 われわれが口ないし手から紡ぎ出すことばは、 それに先 立って存在する脳内状態と同じものであり、 脳内状態が言語状態であることによってむしろ身体外言 語は可能となる、 とされるのである。 しかし、 そうだとすると、 言語を生み出す身体的活動も、 それ によって物理的に存在させられたある特定の空気振動パターン、 インクの染みパターン、 液晶画面の 発光パターンetc.もまた、 脳内状態と同一の心的状態に他ならないことになる。
こうしたフォーク・サイコロジー主義から帰結する (私には否定的に見える) ことを、 心の哲学と して肯定的・積極的に主張する議論が、 最近英米哲学の中で盛んにもてはやされている。 すなわち、
心的状態は脳の内部にのみ 「閉じ込め」 て考える必要はなく、 心的状態は身体に、 さらには環境世界 にまで 「拡張できる」 とする議論である。 この 「拡張された心 (extended mind)」 の議論は、 大まか に言って二つのタイプがある。 一つは心的状態を身体 (他者の身体を含む場合もある) にまで拡張し よう (できる) とするタイプであり、 もう一つは、 身体を超えて環境世界 (道具や機械あるいは自然 物) までも心的状態と見なしうるとする議論である(3)。
本小論は、 いずれの 「拡張された心」 論も難点をもつことを、 言語の問題を中心に検討しながら、
心的状態は結局のところ脳状態としてしか理解できないことを明らかにすることを通じて、 心の唯物 論を擁護しようとするものである。
Ⅰ アンディ・クラークの 「拡張された心」 論
今日の 「拡張された心」 のもっとも原型となる議論を展開したのが、 アンディ・クラークである。
彼によれば、 心的状態の認知過程は脳のみによって可能なのではなく(4)、 またそれは、 身体 (皮膚) 内部に限界づけられるものでもなく、 われわれが使用する道具・機械・自然物など環境世界にまで拡 張されて考えられなければならない。 すなわち、 それら脳−身体−環境世界は一体であり、 一つの認 知過程 (つまり心) を構成している不可分の要素であると見なされる。 「拡張された心」 というタイト ルが初めて付けられた、 デイヴィッド・チャーマーズとの共同執筆になる記念碑的論文(5) (Clark and
Chalmers 1998) で、 彼らはいくつかの思考実験を用いながら、 そのことを説明しようとする。
まず、 彼らによれば、 次の三つの異なるケースは、 いずれも同一の認知過程と見なすことが可能で ある (ibid. p.7、 内容は少し簡略化してある)。
(1) コンピュータ画面の前に座っている人が、 画面に映し出されるテトリス・ゲームを見ながら心
の中で、 ある2次元の幾何学的図形を回転させると、 下の穴 (slot) にピッタリ入るかどうか、
想像しながら図形を回転させて考えている。
(2) ある人が、 同じくテトリスのコンピュータ画面を前にしているが、 今度は自分で回転ボタンを 押すことによって実際にその図形を画面上で動かすことができるので、 試行錯誤しながらスロッ トに入るかどうか試している。
(3) コンピュータに支配された未来社会 (cyberpunk future) で、 ある人がテトリスのコンピュー タ画面の前に座っているが、 その人の脳には電極が埋め込まれていて、 その人が心 (脳) の中で 図形を回転させると瞬時に、 電極につながれたコンピュータがそれを画面上で実行してしまうの で、 被験者は考えながら、 同時にコンピュータによって実行される画面を見て、 試行錯誤してい る。
クラークらは、 上の三つのケースは、 認知過程としては別種のもの (exotic) ではないと主張する。・・
つまり、 頭の中だけで行なっても、 脳と身体の共同プロセスであっても、 あるいはマシーン操作に依 存しながらでも、 ある図形を回転させるとある場所にフィットするかどうか確かめるという認知過程 としては、 区別できないというわけである (クラークらはこれを 「等価原理 (Parity Principle)」(6) と 名付けている (ibid. p.8))。 それはあたかも、 ある計算をするのに、 暗算で行なっても、 紙と鉛筆を使っ て行なっても、 算盤・計算尺・電卓など道具や機械を用いても、 同一の計算過程 (結果) が生み出さ れるのと同様だ、 と言いたいのである。 言い換えれば、 身体的な動作 (紙に書く、 ボタンを押す) や マシーン操作による認知過程 (計算) の実行は、 脳内で行なわれていることの代理でしかない、 とい うことでもある。 逆に言えば、 心 (意識) の内で行なわれていることも、 紙や鉛筆や道具や機械を利 用して遂行されていることと同様、 離散的記号 (この場合は数字) の直列的処理過程だ、 ということ である (ibid.) このことは、 彼らが心的過程をフォーク・サイコロジー的に考えていることを示 すと同時に、 心的過程は外部の物理的世界と同様の実在的過程であると、 広い意味での心の唯物論の 立場に立っていることをも示している(7)が、 心的状態をマシーン状態と同一視する立場は、 後で見る ように、 クラークが人間=生まれながらのサイボーグとする議論につながることになる 。 ともか くこうして、 「認知過程は (すべて) 頭の中にあるのではないのだ!」 (ibid.) と主張されるのである。
いや、 クラークらはそこからもう一歩踏み込んで、 人間 (心と身体) と環境世界とは認知過程とし て一体・不可分のものだ、 と主張する。 「人間という生命体 (human organism) は外的存在 (external entity) と双方向の相互作用 (two-way interaction) をする中で [両者は] 繋がり合っており、 一つの まとまったシステム (a coupled system) を作り出している。 それは、 それ自体において (in its own
・・・・・・・・・
right) 一つの認知システムと見なしうるものである」 (ibid.、 強調もクラークら)。 そこでは脳 (心) だけでなく、 すべての構成要素が認知活動に対して能動的な因果的役割を果たしており、 一繋がりの ものとして (jointly) 認知活動を成立させていると考えられている。 そこから彼らは、 こうした自分 たちの立場を 「活動的 (能動的) 外在主義 (active externalism)」 と呼んでいる(8)。
こうした彼らの立場をより明示的に示すために、 さらに彼らが持ち出すのが、 次の思考実験 (また もや!(9)) である。
ここに友人同士の2人の人間がいて、 現代美術館に行こうと約束している。 インガは、 まったく普 通の認知能力をもった人間で、 現代美術館が 53 番街にあるということを自らの記憶で知っているので、
その記憶に頼って行こうと思っている。 それに対し、 オットーはアルツハイマー病なので、 自分の記 憶に頼ることができない。 しかし彼はメモ魔で、 あらゆる自己の経験を、 いつも持ち歩いている分厚 いノートに詳細に書き込んでいる。 もちろん現代美術館が53番街にあるということもメモしてあり、
彼は身につけた独特のやり方で (われわれが記憶を呼び起こすのと同じくらい) すばやくそれをノー トから探し出すことができ、 それを頼りに現代美術館に行こうとしている (ibid. pp.12-13) クラー クらはふれていないが、 オットーのノートには、 彼の町の詳細な通りの地図も記してあり、 それをも すばやく検索できなければならないはずである。 ついでに言えば、 アルツハイマー患者は5分前のこ とも思い出すことが困難なのが通常であり、 私の亡き母がしていたように、 どこに何のメモを書いた かをもメモしていなければならないはずなのに、 クラークらはこれらの点もまったく無視しているこ とは、 ここではひとまずおいておこう。
彼らがこの思考実験で示そうとすることは、 単純である。 すなわち、 現代美術館に行くという行為 を導く (すなわち行為への因果的な役割を果たす(10)) 認知過程としては、 心 (脳) の内の記憶を参照 しようと、 ノートの記載に頼ろうと、 違いがないということである。 言い換えれば、 認知過程は心 (脳) の内のみに限界づけられるものではなく、 身体外の道具的・環境的世界にまで拡大しうるという ことである。 つまり、 ノート (の記載内容) もまた、 心的活動と同様、 認知過程ないし心的存在と見 なしうる、 と言いたいのである。
ノートに書かれた内容が認知過程として、 行為を導く因果的な役割を果たしていることは、 もし双 子のオットー(11)のノートに書かれた内容が、 たとえば現代美術館は51番街にあるといった誤った情報 であれば、 彼は美術館にたどり着けないという結果を生み出すことからも明らかである。 そして、 こ のような違いを生みだしたのは、 美術館がどこにあるかという認知過程 (ないし信念 (belief)) の因 果的働きであるとしたら、 二人のオットーとも、 その 「信念 [状態] は、 まったく頭の中には存在し ないのである」 (ibid. p.14)。 つまり、 二人のオットーのノートはいずれも、 インガの脳内記憶とまっ たく同じ認知過程としての因果的役割を果たすのである。 しかも、 双子のオットーのノートの記述内 容が誤っている点に関しても、 それが自分の記載ミスによるものでも、 あるいは誰かが知らないうち に内容を勝手に書き換えたとしても、 インガの脳内記憶と存在論的な身分を異にすることにはならな い。 というのも、 インガの脳内記憶も、 記憶間違いや、 時間の経過と共に記憶内容が変化するという ことが起こりうるからである。
ともかくこうしてクラークらにおいては、 認知過程は行為を生み出す因果的役割を果たす (ことの できる) 実在的過程である点において、 脳内過程であれ、 現実の道具的・機械的存在であれ、 区別は 付けられない、 とされるのである。 そして、 それらがともに 「心的存在」 と見なされる。 言い換えれ
ば、 人間の心的状態ないし過程は、 ノートに記載された言語的存在と同一であり、 かつ道具的・機械 的存在と同一視することができるということに他ならない。 後者の点から言えば、 彼らは人間をあた かも機械的存在と見なしたがっているように見える。
実際クラークらは (明示的な言い回しではないにしても)、 ターミネーターもまた、 記憶を呼び起こ し、 記憶に基づく行動を行なうことができる点で、 意識や信念など心的状態をもつ存在と見なしたい ようである (ibid. p.16参照)。 その後、 2003年に発表されたクラークの本では、 まさにそのことがスト レートに表明されている。 それによれば、 人間は 「生まれながらのサイボーグ (natural-born cyborgs)」
だ、 と言うのである (Clark 2003)。 すなわち人間は、 「プラグを引き抜かれたサイボーグ (cyborgs un- plugged)」 でしかなく、 その内部状態 (いわゆる心的状態) は、 それを取り巻く機械・道具類すなわ ちテクノロジーなしには不可能であり これはどこか 「ケータイは命」 「ゲーム機なしには生きられ ない」 と考える若者を連想させるが 、 テクノロジーとの相互作用の中で成立させらると主張し、
そうした心的状態をクラークは 「ハイブリッドな心 (hybrid minds)」 と表現している。
クラークらの 「拡張された心」 とは、 おおよそこのような議論といえるが、 クラークらがそこから どのような言語観を紡ぎ出すかに移る前に、 こうした 「拡張された心」 に対する心の唯物論の側から の評価を、 とりあえずこの段階で言えることに限って述べると、 次のようになる。
それは、 ロバート・ラパート (Rupert 2009) やフレデリック・アダムスとケネス・アイザワ (Adams and Aizawa 2008) らが指摘している点に尽きている。 すなわち、 人間の認知過程は基本的に 脳において行なわれているが (こうした見方は一般に 「標準理論 (orthodox theory)」 ないし内在主義 (internalism) と言われる)、 脳は閉鎖系ではもちろんなく、 身体各部およびそれを取り巻く環境世界 と相互作用を行なう中で、 情報処理過程は可能となっている。 その認知過程によって、 脳は身体およ び環境世界に関するいわば世界像を脳内表象 (アダムスらの表現を使えば 「非派生的 (underived) 内 容をもつ表象」) として形成させている (武田 2003bも参照)。 この点で、 「拡張された心」 論者が、 脳−
身体−環境世界を因果的作用において緊密に結合された関係として捉えていることは、 誤ってはいな い。 しかし、 クラークらはそこからさらに大胆に足を踏み出し、 脳と因果的連鎖でつながる身体−環 境世界の一切を、 脳 (心) 内の認知過程とまったく同一のもの、 紙や鉛筆、 パソコンや電卓といった 道具や機械をも、 人間の心的存在の延長されたもの、 いわば心的存在の内部要因と見なそうという立 場は、 はなはだしい行き過ぎ、 論理の飛躍である。 それは、 因果的に関係があるものはすべて同一の システムを構成するという見方に立ったものであるが、 その論理を徹底させると、 たとえばわれわれ の 「見る」 という認知状態が可能になるためには、 太陽や蛍光灯による電磁波 (可視光) の照射がな ければならないが、 そうだからといって、 太陽や蛍光灯までもが 「見る」 という認知過程ないし認知 システムを構成するということにならないし、 太陽や蛍光灯が認知を生み出す、 ないし太陽や蛍光灯 自体が認知過程として存在する、 とはとうてい言えないからである。 一言で言えば、 「認識という現象 の産出にとって、 明確な (distinctive) かつ本質的な (nontrivial) 仕方で因果的に寄与する状態や過程 であれば、 それもまた認知的 [状態や過程] である」 と見なす、 「拡張された心」 論者の 「境界原則
(principle of demarcation)」 ないし 「等価原則 (parity principle)」 は、 この点だけから言っても誤り だ、 ということである(12)。
Ⅱ クラークの言語論
さて、 以上のような 「拡張された心」 の理解に立って、 クラークらは次のような言語観を提出する。
すなわち、 「言語 (language) は、 認知過程が世界の中へと拡大されるための一つの中心的手段 (a cen- tral means) として立ち現れる (appear)」 ものだと (Clark and Chalmers 1998 p.11)。 別のもっと具 体的な表現では、 「言語とは、 たとえば学校で子どもたちが、 あるいはさまざまな専門領域 (profes- sions) で訓練を受ける者たち (trainees) が、 [自分たちの] 認識を拡大するのにさまざまな物理的な 計算器具 (computational artifacts) を日頃用いているのと同様に、 [われわれの認識を拡大する] 一つ の中心的事例 (a central example) として存在する」 (ibid. p.12) ものだと。 これらの説明から確認で きることは、 言語が彼らの 「拡張された心」 の中心的事例と見なされていることである。
だが、 以上のことをもう少し立ち入って論じた箇所を読むと、 言語を巡る彼らの議論の組み立ては、
単純ではない。 まず第一に、 言語は 「われわれの内的状態の鏡 (mirror) ではない」 (ibid. p.18、 強調・・
は武田) と言われる。 第二に、 言語は 「むしろ、 [人間の] 内的状態を補完するもの (complement) だ」 (ibid.) とされている。 ここで 「補完する」 とは、 「言語は、 [脳内の] 内蔵装置 (onboard devices) では果たすことのできない、 認識 (cognition) を拡大するという役割を果たす道具 (tool)」 (ibid.) と して機能する、 ということである。 そして第三に、 人間は 「言語によって認識の拡張が可能になる (linguistically-enabled extension of cognition)」 (ibid.) ということである。
ここでの言語の特徴づけ方は、 前節で見た 「心の拡張論」 と少し不整合性があるように見える。 と いうのも、 言語は心的状態を忠実に映し出す鏡ではないと言われるのであるから、 それを文字通りに 理解すれば、 言語的表現の中にわれわれは心的状態を直接見出すこともできず、 心的状態をそのまま の形で言語的表現に移し換えることはできない、 ということであろう。 もしそうだとすると、 フォー・・・・
ク・サイコロジー主義は採られてはいないかのようである。 フォーク・サイコロジーの立場であれば、
心的状態はその日常言語表現と同一のものと見なされるからである (注2参照)。 さらに、 言語は認識 を脳 (心) の内部状態から環境世界へと拡張する手段・道具であり、 脳 (心) を補完するものとされ るのであるから、 この 「補完する道具」 という点から言っても、 言語は脳 (心) と区別されたものと なる。 前節で見た 「拡張された心」 の議論では、 拡張された世界もまた、 心的状態と同一の認知状態・・・
と言われていたはずである。
こうした点から見れば、 上の言語の三定式化は、 前節で述べられた意味での 「拡張された心」 の言 語論と見なすことはできないように一見、 思われる。 だが、 別の文献を読めば、 クラークが結局のと ころ、 道具的世界と心的世界を同一視することによって、 言語もまた心的状態=脳の内部状態と同一 視していることを、 もっと正確に見ることができる。 その記述は、 先の共著論文の書かれた前年に出 版された本 (Clark 1997) の内にある。
クラークはこの本の言語に関する章 (第10章 「言語 究極の人工物 (the ultimate artifact)」) の 初めで、 まず言語に関する相互に異なる次の三つの理論的立場を区別する (ibid. pp.193f.)。
(1) 言語は観念の記号ないし思考の手段 伝統的言語観、 J.Fodorの 「思考の言語」
(2) 言語は行為者の間で情報を伝達する手段 ヴィゴツキー、 コネクショニズム、
心の唯物論などの言語観 (3) 言語は行為を構成し統御する手段 (a tool for structuring and controlling action)
クラークの言語観
クラークが第一の立場に反対するのは、 言語はジェリー・フォーダーらが考えるような、 個々人の 脳に先天的に備わる、 思考や観念の 「内的な記号コード (symbolic inner code)」 (ibid. p.142) ではな・ いと見なすからである (フォーダーの言語論をクラークは、 表象主義 (representationalism) と呼んで
・
いる (ibid.)。 武田 2008bも参照)。 もっとも、 クラークがフォーク・サイコロジー主義の立場にある とすれば 私にはそれは否定されているとは思えない 、 フォーダーと同様、 思考と言語は密接 不可分に結びついていると考えているはずだが (Clark 1989、 武田 1999 参照)、 そうだとすると、 ク ラークにとって言語は、 個人の心の中での内的表象の世界としてのみ成立しているのではない。 つま・・
り、 言語は脳 (心)(13) によって生み出された身体外的存在でもある、 ということである。 しかしその・ ことは同時に、 彼にとって言語は、 脳 (心) の内部状態を忠実に映し出す存在として生み出されたも のではなく、 行為を構成・統御する手段としてである。 いや、 クラークの考えでは、 そもそも人間の 脳 (心) 自体が、 身体のコントローラーとして進化・発達したと考えるのである。 「われわれの脳は、
実在的世界 (そして、 それはしばしば敵対的である) の中で動き回り、 行為する身体のコントローラー として進化したものである」 (Clark 1997 p.68)。 言語は、 そうした身体的行為を生み出し、 コントロー ルする脳の産物 (artifact) であり、 コントロールするための手段だ、 というのがクラークの考えであ る。 「言語は、 それによってわれわれが自分自身の思考を、 さまざまな新しい活動 (operations) や物 の 操 作 (manipulations) に 使 用 す る こ と が で き る よ う な フ ォ ー マ ッ ト で 効 果 的 に 書 き 換 え る (redescribe) のに最重要な資源 (a key resource) として立ち現れ、 存在する (stand revealed) ので ある」 (ibid. p.210)。
また、 第二の立場にクラークが反対するのは、 彼が言語をあくまで 「行為を導き変化させるために 使用する」 手段であり、 行為のための 「外的資源 (external resources)」 (ibid. p.198) だと考えるか らである。 言い換えれば、 言語使用は 「表象 (representation) や計算 (computation) といった脳自身 の基礎的あり方 (modes) を補完するもの (complements) ではあっても、 それ [脳の内部状態におけ る表象や計算過程] を根本的に (profoundly) 変化させるものではない」 (ibid.) と見なすからである。
それに対して、 第二の立場に立つ論者、 たとえばヴィゴツキーでは、 「公的言語 (public language) [いわゆる外言] の使用が [子どもの] 認知発達にきわめて深い (profound) 影響を与える」 (ibid. p.
194) と見なされているし(14)、 ポール・チャーチランドでも、 「公的言語によって人間の認識が集合的 (collective) なものにされる」 (ibid. p.206) と主張されている (チャーチランドの言語観は、 以下の記
述およびChurchland 1995、 武田 2008a参照)。
それだけでなく、 第二の立場にクラークが批判的なのは、 特にチャーチランドの言語把握 (フォー ク・サイコロジー批判) に見られるように、 「言語形式 (linguaform) による表現がわれわれの 真の (real) 知識であるという見方 (reflection) は、 まったく浅薄な (shallow) な見方であるとして退ける (dismiss)」 からである。 そうした見方は、 クラークからすると誤った議論でしかない (Clark 1997 p.
211)(15)。 もっと詳しく述べると、 チャーチランドの考え方では、 「われわれが一連の記号 (symbol strings) を [脳内で] 文のような形で (sentence-like) 無意識的に繰り返して物語りとする (rehearsal) 中で、 あらゆる思考や認識は形成されるという見方は、 思考および認識を誤った仕方で描き出すこと になる」 (ibid.)。 しかし、 そうした見方 (フォーク・サイコロジー主義) に反対するチャーチランド では、 逆にあらゆる思考や認識の 「生物学的で進化論的な根本原理 (fundamental) と見なされる、
[神経] パターンおよびプロトタイプに基づく強力なコード化(16)に対して盲目になりかねない」 (ibid.) とクラークは考えるのである。 そこからクラークは、 「言語は認識 (cognition) を補完する人工物であ ると見なされるがゆえに、 言語はわれわれの認識の地平 (horizons) を純粋に拡大することができる のであり、 しかも、 非言語的な思考の詳細な内容を繰り返し再現する (recapitulate) といった、 不可 能な過重負担 (burden) から [言語使用は] 逃れさせて (without) くれる」 (ibid.) という仕方で、 言 語は心的過程内部で認識や思考を補完してくれるもの、 と考えようとするのである。
こうした言語理解を巡る議論を通じて、 クラークは何を言おうとしているのか。 それはこういうこ とである。 第一に、 「脳−身体−世界は、 計算論的 (computational) で力動的 (たえず変化するdy- namic) な統合された全体としての、 拡張されたシステム」 (ibid. p.215) をなすということ。 第二に、
「われわれは、 心的なもの (the mental) と意識 (the conscious) を混同しがちである」 (ibid.) が、 両 者は区別されなければならないということ。 すなわち、 意識過程 (conscious processes) は個人の脳 過程の内でのみ可能であるのに対し、 心的過程は頭の外の身体的、 環境的世界へと拡張されうるもの であること。 第三に、 思考は行為に他ならないということ。 すなわち、 「それら [思考] とは、 われわ れが問題を解決しようとする際に、 脳が直面する計算論的作業 (tasks) を変化させることが真の目的 であるような、 行為である」 (ibid.)。 最後に、 こうして 「理性 (reason) や思考の流れ (flow)、 およ び観念 (ideas) や態度 (attitudes) の時間的進化は、 脳と身体と世界との緊密で (intimate) 複雑な連 続した相互作用によって決定されているし、 [そのようなものとして] 説明される」 (ibid. p.217) とい うことである。
こうした考え方は、 クラークの最近の著書の言葉で言えば、 「(たとえば、 かくかくしかじかと信じ ているという状態のような) きわめて人間にとってなじみのある (familiar) 心的状態でさえも、 部分 的には、 人間の頭の外に位置している構造や過程によって、 実現され (realized) うるということ」
(Clark 2008 p.76) である。 このことは、 言語 (外言) 的に表現されたものを通じて人間の内的・心理 的状態は知られうるし、 あるいはまた、 人間の心的状態とは公共的にアプローチ可能な仕方で 「実現 され」 たものだ、 という考え方である (先に、 クラークはフォーク・サイコロジー主義の立場を捨て
ていないと私が見なしたのも、 こうしたクラークの考えのためである)。
それに対し、 先の第一の立場 (表象主義、 「思考の言語」) のように、 言語を頭の中だけにあると見 なしたり、 第二の計算論的、 コミュニケーションの道具的言語観のように、 言語は頭の中にはまった く存在しないと見なす考え方は、 いずれも頭の内か外かどちらかに限定してのみ言語を考えようとす るところに誤りがある、 というわけだ。 クラークからすれば言語は、 「脳−身体−世界を横断して (across) 配置 (distribute) されうる乗り物 (vehicles)、 すなわち拡張された乗り物 (extended vehicles)」
(ibid.) だということになる。 こうした言語観からすれば、 ノートの上に書かれた鉛筆の痕跡であれ、
身体の音声器官を使って発生させた言葉 (ある特定の空気振動パターン) であれ、 脳内のニューラル・
ネットワークの神経パターンであれ、 形式が違うだけで、 いずれも同一の内容をもつもの、 というこ とになる。 それだけでなく、 それら三種の状態 (ないし身体表現) は、 認知状態としては質的に区別 できないもの (第1節参照) ということである(17)。 前節での表現で言えば、 脳が壊れても、 メモやマ シーン上で脳の内部状態を再現できれば、 人間の認知活動にとって何ら違いはなく、 実際上も不自由 はないことになる。
だが、 現実上の問題として、 たとえばアルツハイマー患者にとって詳細なメモさえあれば、 経験上 の困難を事実上なくすることができるかというと、 けっしてそうではないという問題がそこでは捨象 されることになるばかりか (第1節のインガ−オットーの話を参照)、 言語論上の問題もまた、 クラー クの議論に対して指摘することができる。 第一は、 意味の問題。 第二は、 機能主義の問題。 このこと を、 次節では検討してみよう。
Ⅲ 「心の拡張」 論と言語の意味や指示
すでに見たように、 クラークはパトナム=バージ式の意味の外在説を批判したが (注8参照)、 それ は次の理由からであった。 たとえばクラークが (仮に=思考実験の中で) パソコンに向かって書き物 をしている時に、 突然、 双生地球に送られて、 双生地球上の水 (H2OではなくXYZから成る物質) に取り巻かれても、 「水」 の意味が、 パトナムやバージのように、 受動的に (すなわち指示対象と真理 値という理論的基準によって) のみ決定されるとすれば、 実際のところ、 地球上の水とまったく経験 的に区別できないことになる (Clark 2008p.79)。 双生地球の水も、 無色透明の液体である、 飲める、
空から降ってくる、 船を浮かべることができる、 三態変化をもつetc.からである。 しかし、 クラーク が考えるように、 もし 「水」 の意味が、 人間の身体的活動と相関する 「活動的な (active) 外的特徴 (external features)」 によって決定されるとすれば、 H2OとXYZは脳−身体−環境世界という統合さ れた全体との関わりの中で、 自ずと異なる意味をもつものとして立ち現れるはずだ、 というわけであ る (ibid.)。 そして、 脳−身体−世界の関わりは、 「問題を解決するという負荷 (problem-solving load) を共有する」 (ibid. p.81) という点で、 統合されたものであり、 相互に同一の過程だ、 とされるのであ る。
だが、 そのように主張することは、 クラークの議論にきわめてやっかいな問題をもたらさざるをえ
なくなる。 というのも、 まず第一に、 パトナム=バージらは、 意味は心 (脳) の内部には存在せず、
あくまで実在的世界においてのみ客観的に (つまり、 語ないし言明が、 真なる対象を指示するという 真理値をもつという形で) 見出されるとしたのに対し パトナムらは、 われわれが日常的経験のレ ベルでは、 地球上の 「水」 と双生地球での 「水」 とは、 区別できず、 科学的なやり方 (つまり分子構 造の解明) によってのみ、 両者の 「水」 の意味は区別できる=意味は心の外に客観的に存在する、 と 主張する (Putnam 1975) 、 クラークは、 両者の意味の違いは、 脳−身体−環境世界の統合され た全体の中で経験的に立ち現れうるとするのであるから、 そうした意味の違いは、 環境的世界におい てだけでなく、 身体的活動においても、 さらには日常言語による意識的 (自覚的) 気づきの内でも、
同一の仕方で捉えられうると見なされていることになる。 そうだとすると、 意識における 「水」 の日 常言語的意味と、 水が身体との相関関係で生じる特徴、 および環境世界における水の客観的ないし道 具的特徴は、 同一のものと見なされることになる。 たとえば、 「水」 とは、 無色透明の液体で、 飲める・
のどの渇きをいやせる液体、 川や湖を満たす物質で、 ボートをその上に浮かべることができる、 空か ら降ってくる物質で、 触れると身体や物が濡れるetc.と。 しかし、 そのように 「水」 の意味を理解す る中では、 H2OとXYZとの差異、 すなわち語 「水」 の指示関係は現れてこようがない。 つまり、 こ こには科学的認識の入り込む余地がなく、 概念の指示対象が厳密に科学的に確定されねばならないと いう、 学問的にはきわめて重要な議論は、 どこかに吹き飛んでしまう。
第二に、 このように意味を日常言語的に、 かつ脳−身体−環境における相関的・統一的に把握しよ うとするやり方は、 自ずとクラークを現象学的発想へと向かわせることになる。 実際、 クラークは次 のように述べて、 ハイデガーやメルロ=ポンティにシンパシーを表明している(18)。
「このようにハイデガーの著作は、 内的表象について 行為中立的な (action-neutral) 仕方で表現 されるものに関しては、 懐疑論 (skepticism) をすでに予示している (prefigure) のである。 そして、
そのことは、 われわれ [クラークら] が道具使用を強調し、 また生物 (organism) と世界との間で行 為志向的な (action-oriented) カップリング (統合couplings) [がなされていること] をわれわれが強 調してきたことと、 共鳴する (echoe) ものである」 (Clark 1997 p.171)。
「現在の [クラークらの研究] 課題 (project) を遂行する (execution) 上で、 あるいはその精神 (spirit) にとって、 より密接な (closer) [関係にある] ものが、 現象学者モーリス・メルロ=ポンティ の著作である。 [というのも] 彼は、 日常的な知の活動 (everyday intelligent activity) を、 生物−身 体−世界が全体として相乗作用 (synergy) する中から生み出されたもの (the playing out) として描 くことに関心をもっていた [からである]。 とくにメルロ=ポンティが強調したのは、 私 [クラーク]
が 持続的に相互作用する因果性 (continuous reciprocal causation) と名付けたものの重要性である。
すなわちわれわれは、 生物が世界を受け取る [だけ] という受動的なイメージを超えて進まなければ ならないこと、 および、 われわれ [人間] の行為はたえず (continuously) 世の中の出来事 (worldly
events) に反応している (responsive) のであり、 また世の中の出来事もまた同時にわれわれの行為に たえず反応しているという仕方で、 われわれは認識しなければならないという考え方である」 (ibid.)。
確かにハイデガーの 「世界−内−存在」 の思想やメルロ=ポンティの知覚論における 「身体図式」
や 「身体の空間性」 の強調は、 クラークの思考様式と共鳴するのだろうが、 しかし、 そうした現象学 者たちの発想は、 その観念論的 (反科学的、 反実在論的、 主観主義的) な意味了解によって、 クラー クが一面でもっている科学的で唯物論的な考え方を、 根底から覆すことになりかねないものである。
たとえばハイデガーは主著 存在と時間 (Heidegger 2006 [1927]) の第1部第1編第3章の中で、
ハンマーのような道具 (「手元存在Vorhandensein)」) およびそれを指示する記号意味は、 それ自身に おいて客観的に存在したり成立するものではなく、 われわれの日常生活におけるそれらへの主観的な 配慮 (Vorsorge) の中で立ち現れ、 了解されるものである、 と主張している。 ということは、 同じ存 在でも、 人によってその現れ方も意味もまちまち、 ということになる。 同じことはメルロ=ポンティ においても言えることであり、 対象の知覚は客観的になされるのではなく、 身体図式においてゲシュ タルト的に成立されるのであり、 それはいかなる科学的・客観的過程でもない、 と見なされる(19) (メ ルロ=ポンティ 1967)。 こうした現象学者たちの考え方は、 クラークの考え方、 すなわち、 脳のメカ ニズムをコネクショニズムに従って理解する (注13参照) 点から言っても、 脳の内部で起こっている ことをコンピュータなど機械や道具を使用する中で進行することと同一視する (第1節参照) 点でも、
著しく齟齬を来さざるをえないものである(20)。
第三に、 したがってクラークは、 脳の理解では科学的・唯物論的な立場を取りながら、 心の理解に なると一転、 反還元主義的立場をとることになる。 それは、 すでにふれたように、 クラークが心を単 なる計算主義だけで理解することは誤りだとし、 それに表象主義的立場を接合・統合することを求め (ただし、 単なる表象主義の立場は誤りとすることは、 前述の通り)、 かつ、 心的状態をフォーク・サ イコロジー的なものと見なすことに由来する。 クラークが還元主義を退けるのは、 還元主義的説明は
「諸要素およびそれらの相互作用の仕方 (modes) を特定する (specify) 部分モデルを展開し、 [その 上で] ある高次の現象を説明しようとする」 (Clark 1997 p.104) からに他ならない。 しかし、 そのよ うなボトム・アップ式の構成主義的 (componential) 理論モデルでは、 心のような 「より高次の諸性 質 (higher-level properties)」 (ibid.) をもつ存在は、 説明することはできない、 と考えるのである(21)。 こうしてクラークでは、 心的状態の説明は、 あくまで脳−身体−環境の全体的統合の内で説明されな ければならないのである。
しかし、 クラークのような心の理解の仕方で、 はたして言語意味をうまく説明することができるで あろうか。 すなわち、 認知過程が脳−身体−環境の全体的統合の内で成立しているとすると、 そこで 誰が (何が) 意味を理解し、 成立させているのかという、 意味理解の主体をきわめて曖昧なものにし てしまうことになりはしないか、 という問題が生じるように思われる。 というのも、 パースの記号学 (パース 1986) を下敷きにすれば、 ある記号がある意味をもつためには、 それを理解し解釈する第三
項が存在しなければならないが (それは、 科学的に言えば、 ある特定の動物ないし人間の神経メカニ ズム以外に考えられない)、 クラークのような説明では、 そのどこにも定位させることができないから である。
たとえば言語意味が外延的意味 (denotation) として成立する場合でも、 ある語 身体の外に表現 された、 記号としての物理的存在や現象 がどのような対象を指示するか、 指示対象の集合の範囲 を理解し、 (ある程度) 確定させなければならないが (「りんご」 という語が何を意味するかは、 その 語が何を実際に指示するか/しないかが理解されなければならない)、 それを遂行するのは身体でもな く、 環境でもなく、 われわれの意識すなわち脳をおいて他はない。 もちろん、 指示対象の範囲は、 た いがいは社会的・集団的・共同体内で規定されるが、 その場合でも、 時代によって、 地域によって、
あるいは個人によっても大きな差異が生じる。 それは、 外延の範囲は必ずしも社会的に確定されても いず、 いや不変的である必要・必然性はどこにもない (いわゆるソシュールの 「恣意性」) だけでなく、
たとえ社会的に確定されたとしても、 人間の理解の仕方は自ずと微妙に違いが出てくるからに他なら ない (クワインはそのことを 「指示の不透明性 (referential opacity)」 と呼んだ (Quine 1960))。 そし て、 その理解の仕方の違いを生み出すのも、 心すなわち脳の働きが個人的・時間的・歴史的に異なる からである。
そのことは、 言語意味のもう一つの面、 内包的意味 (connotation) においていっそう顕著に表れる。
というのも、 内包的意味とはまさに言外に含蓄的に表現された意味のことであり、 それは、 その語を 含む文脈、 記憶、 体験、 解釈などによって、 多様に理解/解釈可能だからである。 「夕陽の美しさ」 と いっても、 明日の希望につながるような輝くポジティブなものなのか、 没落や死をイメージさせる滅 び行く美なのか、 はたまた……と、 限りなくその意味は多様であろう。 そして、 言うまでもなく、 そ うした多様な意味を語にもたせるのも、 われわれの心すなわち脳の働きをおいて他はない。 クワイン が意味の厳密な翻訳不可能性 (indeterminacy) を主張したのも (ibid.)、 言語はこうした主観的な解釈 の多様性を本質的に抱えていると分析したからであった(22)。
以上のことから言えることは、 要するに言語意味は、 外延的にも内包的にも、 言語そのものの中に は存在せず、 心すなわち脳の内部にしか見出し得ないことを示している。 そして、 そのような言語意 味のずれ (差異) が個人間で存在するからこそ、 われわれはそれをコミュニケーションにおいて少し でも埋めるべく、 表情や身振り、 あるいは直接的対象指示や道具や機械による補完などを利用するこ とで、 意味をできるだけ公共的なものとなるよう努めるのである (それでも溝は容易には埋められな いことを、 われわれは経験的に実感するのだが)。 「拡張された心」 の議論からは、 そうした言語の意 味や指示の客観的・公共的な議論は、 結局のところ後景に追いやられ、 現象学的なやり方で解釈の問 題とされることになってしまうのである (これらのことは、 最後のまとめの箇所で、 もう一度立ち帰っ て考えることにしたい)。
Ⅳ その他の論者の 「拡張された心」 論
さて、 クラークの議論は以上で一応区切りをつけ、 本節では、 クラーク以外の論者がどのように
「心は外部へ拡張させうる」 と論じているかを、 ここでも言語を中心に、 見ていきたい。 もっとも、 現 代英米哲学の中では、 ジョゼフ・メンドーラが言うように (Mendola 2008)、 「拡張された心」 や心の 外在主義は主流派となり、 百花繚乱の観を呈しているので、 ここではその主な議論を取り上げること ができるだけである。
(1) マーク・ローランズ
ローランズ (Rowlands 2003) は、 デカルトに始まる 「内在主義 (internalism)」 は、 存在論 (ontol- ogy) においても認識論 (epistemology)、 価値論 (axiology) においても、 いずれも誤りだと主張する (ローランズでは、 デカルト主義 (Cartesianism) と内在主義は相互に置換可能 (interchangeable) と さえ見なされている (ibid. p.3))。 すなわち内在主義は、 心は頭の中にしか存在しないこと、 心的性質 をもつのは主観 (subject) のみであって、 それは外的世界のいかなるものからも独立していると見な すだけでなく (存在論)、 心およびその内容についてまず何よりも、 そして一番よく知っているのは、
われわれ自身だとされ(23) (認識論)、 世界において存在する価値は、 心の活動によって主観的に構成さ れたものに他ならない (価値論) と説くが、 それらの見方はいずれも現代では、 もはや擁護できない ものとされる。 ローランズによれば、 そうした内在主義の欠陥を批判し、 意識は常に何物かについて の意識であること、 そうした意識の対象は意識を超越した (transcendent) ものであることなどによっ て、 外在主義的立場を最初に表明したのが、 サルトルだと考えられている (サルトルが師事した現象 学者フッサールは、 ローランズでは内在主義者と見なされている。 また、 外在主義のもう一つの源泉 として、 ヴィトゲンシュタインの思想も上げられている)。 ローランズはそうしたサルトルの外在主義 を受け継ぎ、 われわれの心的内容は単に心の内的所有物ではなく、 外的対象や世界に関するもの、 そ れらを志向するもの、 という立場を打ち出す。 すなわち、 「[われわれの] 経験が、 ある仕方で見える (seem) ないし感じる (feel) というのではない。 そうではなく、 ある経験を持つ (having) 中で、 世・・ ・ 界 (world) がある仕方で見える、 ないし感じるのである。 すなわち、 見えること、 感じることは、 世
・
界の諸性質 (properties) なのである。 [その場合、] 性質とは、 われわれが経験することによって (in・・・・
virtue of) 世界が持つところのものである」 (ibid. pp.193-4、 強調はいずれもローランズ)。
したがって、 このような意識内容の外在主義 (content externalism) を取るローランズは、 ジェリー・
フォーダーの 「思考の言語」 仮説には否定的である。 というのも、 フォーダーでは、 意識内容すなわ ち表象は徹頭徹尾、 言語的なもの (フォーダーはそれをメンタリーズ (mentalese) と呼んだ) であり、
したがって、 われわれに生得的な言語によって表現可能なものと考えられたが (武田 2008b参照)、
「われわれ [ローランズ] は、 こうした [人間の] 表象は、 言語的存在とも言語に似た存在とも考えな い」 (Rowlands 2003 pp.156-7) からである。 ローランズの考えでは、 意識内容すなわち心的表象は非 言語的なものであるからこそ、 それを表現し、 他者に伝達する 「思考の乗り物 (vehicles of thought)」
である言語や記号は、 心的なものにとって外在的なものとなる、 というわけである (ibid. p.157)。
しかし、 このことは、 ローランズがクラークの 「等価原理」 には賛同しないということを帰結する。
第Ⅰ節ですでにふれたように、 クラークは脳自身が記憶していても、 ノートに書き記したメモでも、
人間の認知活動にとって両者は等価であると見なすのだが、 ローランズはそうではないと主張する。
というのも、 そうした外部記憶は単に心 (脳) が行なう認知活動を代理するだけでなく、 補完し、 補 償し、 補強するものでもある (ibid. pp.175-6)。 しかし、 人間の意識内容がそうした外部記憶に依存し ているのは、 ローランズによれば、 何も現代においてだけではない。 「われわれの記憶能力は、 われわ れを取り巻く世界における情報によって [そもそも] 形成され、 作り出され鍛えられ (forged) てき た。 したがって、 われわれは自己の記憶する能力を、 この周囲の情報を利用する (exploit) われわれ の能力から、 どのような原理的仕方によっても、 切り離すことはできないのである」 (ibid. p.177)。 こ うしてローランズは、 人間の意識は外部世界の情報と不可分であるという仕方で、 心の外在主義をと るのである。
だが、 ローランズは特に強調していないが、 人間が外部記憶に依存するのは、 われわれの脳の記憶 がそれ自体不確かで、 脆く、 壊れやすいからである (この点は、 Schacter 2001など参照)。 そのため、
われわれはしばしば外部記憶に依存した形で、 自己の認知活動を行なおうとする。 さまざまな電子記 憶装置が開発された現代においては、 そうした外部記憶装置に依存する頻度・割合は激増している。
しかし、 その結果、 自己の記憶能力をますます衰退させている (いわゆる 「ワープロ症候群」 という 漢字力の後退は、 その最たるものである。 インターネットが発達して、 簡単に情報が入手できるよう になればなるだけ、 それだけ人間とくに学生は自分で考えようとしなくなることは、 もっと深刻な現 象である)。 ともかく、 ここから言えることは、 われわれが心的活動を外部化させればさせるほど、 心 的能力は衰退するのであるから、 むしろ、 われわれは自らの心的活動を外部化させる余り、 各種の情 報処理マシーンに (過度に) 依存してはならない、 ということであろう。 その意味でも、 外部記憶装 置と心的能力を同一視することは誤りだ、 ということである。 つまり、 ローランズがクラークの 「等 価原理」 を退けるのであれば、 首尾一貫した議論をとるためには、 少なくとも外部記憶と心的状態を 一体のものと考えるべきではなかったのである。
(2) ロバート・ウィルソン
ウィルソン (Wilson 2004) は、 別のタイプの外在主義を主張する。 ウィルソンもまた、 チョムスキー やフォーダーらの言語生得説は退ける。 しかし、 彼にとってあらゆる生得主義が誤っているわけでは ない (ウィルソンは、 生得主義と経験主義は弁証法的関係にあると考えている (ibid. pp.54-5))。 強い 生得主義は、 内的で生得的な心の存在はそれ自体で豊かなもの (Internal Richness Thesis) と肯定す るだけでなく、 心にとって外的な世界や手段の必要性に関しては極小でよい (External Minimalism Thesis) と考えるが、 ウィルソンは前者を認めながら、 後者に関しては否定的に考える立場も可能だ と見なすのである(24)。 つまり、 心の生得的なものを認めながら、 同時に、 外在的なものの重要性も認