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波 平 勇 夫

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明治2⑪年代宮古島地主層と人頭税廃止運動

波 平 勇 夫

1 . は じ め に

昨年(1993=平成5年)は、明治26年ll月宮古島農民代表が上京し、人頭税をはじめとする 旧慣島政改革を帝国議会に請願して100年目に当たる。これを記念して、宮古島(宮古広域圏 事務組合)やとくに農民代表の出身地城辺町は、「人頭税廃止請願100周年」と銘打っていくつか の事業を企画し実施した。記念事業のほとんどは啓蒙的なものにならざるをえなかったため、

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せめてその一つは学術的な催しもあってよいという提案もあって、本稿の原形が準備された。

人頭税に関する研究は決して少なくはない。またこれほど話題性のある先島(宮古・八重山)

史のテーマも少なく、多くの人に語り告がれ、また書き物の素材となってきた。しかし、意外 にも不明な点が多い。このテーマに足を踏み入れてみるとわかることだが、多くの文献資料が 同一内容をくり返し再録しているのである。オリジナルな資料は限定されていることになる。

本稿は人頭税制度そのものの研究ではないため、これまでの研究成果のくり返しは最小限に とどめることができる。歴史学の研究者ではないという気楽さもあるが、しかしそれだからこ そ思い切って新しい資料を使い、人頭税研究に新たな視点を拓くことも期待できる。ここで要 約していえば、本稿の目的は、人頭税廃止運動に対する地主層の関わり方をとおしてこの運動 の(1)背景、(2)性格を考察するとともに、土地所有形態から(3)人頭税制下の土地制度、(4)地主形

成、(5)名子制についても言及したい。

考察の順序として、人頭税廃止運動のリーダーを確認し、村(=字)におけるこれらリーダー の政治経済的位置(=地主的地位)をみた上で、具体的に地主層がどのように運動に関わった かをみていく。そして、人頭税廃止以前、つまり土地整理事業(1899=明治32〜1903=明治36 年)以前の宮古島の土地制度、その中での地主形成、名子(隷属農民)について考察する。

資料源は三つに分かれる。一つは各間切(明治41年特別町村制以前の行政区)の土地台帳で あり、それをもとに砂川、下地、平良の三間切における廃止運動の中心リーダーの土地所有状 況を調べた。土地台帳は土地整理事業が完了し、明治36年1月1日から「地租条例及国税徴収 法」が施行されることにともなって設置されたと思われるが、後述するように、土地所有者に よる法的所有権設定はそれより遅れたと思われる。不備はあるものの、近代期の一級史料とみ

てよい。

第二の資料源は地主による人頭税廃止運動に関するもので、聴き取り資料を中心とする。し

かしそれだけでは不十分なため、文献資料で補う。聴き取り調査は、記憶の信感性と適当な数

のインフォーマント獲得に限界がある。幸いタイミングよく、人頭税廃止運動のリーダーとほ

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ぽ同時代のインフォーマントに接することができた(そのうちの一人は既に故人となってい る 。 )

第三の資料源は宮古島の土地制度に関するもので、これは既存の史料と他の文献史料からな

る 。

2.研究課題の限定と用語をめぐる問題

本題に入る前に、関連事項の予備的考察が必要である。まず人頭税についてである。これは 歴史学の専門領域であり、深入りは許されないため、ここでは本稿への導入の意味で定説を示 すだけにとどめたい。しかしそれでも、その定説の範囲が容易ではなさそうである。関連文献

(2) (3)

をひととおり目をとおした上で、ここでは『旧慣調査資料』と『一木書記官取調書』を基本資 料として、人頭税の輪郭をとらえてゑたい。

薩摩進攻(1609=慶長14年)後の近世琉球の租税は、薩摩の手による検地(1610=慶長15年 1611=慶長16年)、その結果としての検地帳に記載された諸基準によった。検地の際調査さ れたのが各地の村位反別草高上木などであるが、それによって土地(田畑)の総面積、生産件

(村位=上・中・下・下々)、予想生産高(草高=89,086石)、税率(1石に対する)が確定し

た 。

宮古・八重山の税制は沖縄本島の税制と同一であったが、1637(寛永14)年に至り、人口増 減に関係なく総上納額を定額とし、これを課税対象者に人数割(頭懸け)した。課税方法であ るが対象は年齢15〜50歳までの男女で、これを上(20〜40歳)、中(41〜45歳)、下(46〜50歳)、

下々(15〜20歳)の4等級に区分した。、もう一つ重要な課税基準は村位である。これは地味 の肥清、耕地の広狭、農耕の適不適、利便などが加味されたと思われる。村位は上、中、下の 3等級に分けられた。すると年齢と村位の組み合わせにより、12段階の納税階層が出現したこ

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とになる。

これまでの概略からすれば、この課税制度は合理的にみえる。しかし重要にして不明な点は 土地の所有方法および形態(土地制度)である。後でみるように、通説では宮古島には沖縄本 島における地割制はなく、耕地は私有に近いものだったとされる。だとすれば納税者は一定以 上の土地を保有していなければならない。事実、富川親方農務規模帳にもそのことが特記され

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ている。問題は、私有制に近い状況下で、農民は一定以上の耕地をいかにして確保できただろ うか、あるいは土地保有の多寡は生じなかっただろうかということである。

人頭税制下の土地の位置づけを問い詰めていくと疑問だけが続出する。制度的にゑると、人 頭税下の宮古島の耕地は私有地、八重山のそれは自分田(私有地)と上納田(公有地)からな

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っていたとされる。土地が私有制だとすれば、また各戸(個人)が土地を保有できた限りにお

いて、人頭賦課は原理的にどこにでもみられるような一般的税法といえる。ところが土地保有

の自由は土地の移動を招来させ、土地の不均等保有状況を生ゑだす。だとすれば人頭税制の維

持は困難となる。階層分化の中でこれを維持したとすれば、それはどのようにして可能になっ

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たか・土地私有制の下で階層分化がそれほど進まなかった(中大地主が形成されなかった)と すれば、それは何故か。明治20年代にみられる中大地主はいつ頃成長したのか。その背景は何 か。この地主層はどのような歴史的役割を担ったか。

本稿は、近世宮古・八重山における人頭税制に関する歴史学的研究を意図しない。それはあ くまでも明治20年代における人頭税廃止を含めた島政改革運動から地主層の成長と歴史的役割 を考察しようとするものである。

地主の概念について一言ふれておきたい。保有土地の自由処分を前提とした土地私有制が確 立しない段階での地主は、限定付きの用法しか許されないであろう。よって土地整理(1899=

明治32年〜1903=明治36年)以前の地主の扱い方は注意する必要がある。それは地割制下の沖 縄本島および周辺離島だけでなく、土地私有制を基本としたとされる宮古・八重山の場合も同 様である。しかしわれわれは、土地の私有制が確立していなくても、あるいはそれが不完全な 形であろうとも、土地が一定の収益を生承、それが商品化されれば、つまり土地が商品化され、

利権化して売買質入れ等が可能になれば、それは地主的土地所有と見なされるという立場をと

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っている。

地主層は役人地主と農民的地主に分けられる。役人地主は、正確には役俸地主で、その土地 は役職の手当てとして支給されたものである。役職から離れると、給地もなくなることから、

地主といっても自由売買が許された地主とは異なる。これは私有制による地主ではなく、封建 的土地所有による地主といえよう。ただ人頭税制下の役人は、役俸地以外に私有田畑を有して いたことが考えられる。役人地主は、直接農業に従事するわけではなく、代わりに農民が耕作

して、その地代(小作料)を役人に支払うということになる。

農民的地主は、直接あるいは間接に農業生産と関わる。身分は士から百姓まで含まれる。沖 縄本島における帰農士族のように、士分層が農業に従事することは珍しいことでなはい。沖縄 本島の場合、地方役人(例、地頭代)は多くが百姓身分であるが、社会的には首里王府と間切 レベルの百姓の間に位置する中間支配層である。彼らは開墾によって私有地(仕明地)を拡大 した人びとであり、近代地主形成で最も注目すべき部分である。農民的地主には、純然たる百 姓(それらはとぎには村落レベルの末端役人となることもある。)も含まれる。時代が下るに つれて、百姓地主も形成されるに至ったと考えてよい。

われわれの問題意識では、人頭税廃止運動や宮古島島改革運動は、役人地主と農民的地主の 潜在的な歴史的対立から、イデオローグの媒介によって劇的に展開したということである。そ

こで後者(農民的地主)の形成発展が重要な研究課題になる。

次に、地主の土地所有(または保有)規模である。旧慣制度下の税制は間接的には(王府レ ベルからみて)地租であることから、納税者は土地と何らかの関わりをもつ。しかし納税者を すべて地主とするわけにはいかない。地主とは土地が商品化され、売買や質入れが社会的に承 認された状況下で、そのような土地を集積した人びとを指す。その規模は相対的なものであり、

数字上何町歩以上ということは実質的に重要ではない。地主の所在する地域の平均的所有(あ

るいは耕作)規模が一つの目安となる。

(4)

地主は土地経営のあり方からも検討しなければならない。土地経営には二類型が考えられ る。まず地主は自己所有(占有)の耕地を他人労働(例、使用人)によるかどうかはともかく も、直接自分で管理経営したか。あるいは他人に貸与して、被貸与人(小作人)から受けとる

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地子(小作料)を目的とした士地経営であったか。もし指摘されているように、宮古島の旧土 地制度はきわめて私有制に近いものであった(つまり、沖縄本島にみられる地割制はなかった と考えられている)とすれば、役人地主は後者に、農民的地主は前者に近いものであったと考 えられる。

ところで、この二類型の地主は近代に入ると、商品経済(あるいは市場経済と置き替えても よい)の発展という共通の歴史的宿命を背負って発展・衰退(停滞)する。先述のように、地 主形成には土地の商品的価値付与が制度化される必要があった。明治期に入ると、商品経済の 発展とともに土地の商品的価値が増大し、土地集積が進んだ。その結果は、とくに後者(一般 に寄生地主と称されている)が近代的土地私有制にもとづいて出現することになるが、皮肉に もそれ以降の市場経済の発展によって押し潰され、大正12,3年頃から中大地主は衰退に向

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う。こうした地主形成史からみると、沖縄における寄生地主はこれまで報告されていない。そ の背景として、旧土地制度である地割制の影響、農耕地の低生産性が指摘されたりする。それ はそれとして、それでは地割制が敷かれなかった宮古島ではどの類型の地主が発展したのだろ

うか。人頭税廃止請願運動を推進した地主層はどの類型か注目しなければならない。

3.明治20年代の地主層

地主層と人頭税廃止運動との関りをみるのであれば、当然のことながら運動に関った地主が 特定されなければならない。それはつぎの手続きによった。

まず、宮古人民総代に選出され、明治26の帝国議会(第5回)請願に加わった砂川間切福里 村西里蒲と同間切保良村平良真牛両者の名前はよく知られている。両者は各ムラの総代であっ たことも知られているが、農民層の中でどのような生産上の地位を占めていたかが不明であっ た。またこのことをこれまで問題にしなかった。

ところが問題の手掛りは「宮古島水産組合規約書」(明29年)にあった。この規約書は、も とはといえば真珠養殖事業の目的で宮古島を訪ずれたものの、農民運動に身を投じて事業の目 途が立っていない新潟県人中村十作(1867=慶応3〜1943=昭和18年)のために、運動の中心 的同志城間正安(1860=万延元〜1944=昭和19年)が宮古郡民を説得して中村の恩に報いるた

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めにつくった規約書である。この規約書は全13条から成り、中村十作と城間正安の他70名が組 合員として捺印している(ただし砂川間切福里村163番地西里蒲が2度出ている。)この規約書 によれば、資本金は1,400円で組合員20名で等分して拠出することになっている(第3条)。そ こでいくつかの点が注目される。まず、明治29年当時20円の拠出金は農民にとって大金という

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ことである。因みに明治26年の粟石代を5円30銭とすれば、一俵約1円60銭となる(中村十作

の「沖縄県宮古群島の惨状」と題する新聞投稿文〈=明治26年11月22,26日報知新聞>によれ

(5)

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ば粟l俵の価格は約1円67銭である)。これにもとづくと、20円は粟約12.5俵になる。上記の 中村投稿文によれば、平良真牛の明治26年度の粟収穫は9俵、西里蒲の収穫は8俵となってい る。貢租額(粟)が平良一家は7俵4升、西里一家は8俵(下男分を含めると16俵2斗)であ り、その他最小必要分を除くと、上記拠出額の大きさがわかる。事実1回で支払うことは困難

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なため、実際には4回払いとすることとし、初回の5円は支払ったようである。

つぎに注目されるのは、組合員は各村の総代あるいは総代格であり、人頭税廃止運動のリー ダーが含まれているということである。(ただし、砂川間切保良村の平良真牛は東京請願から 帰郷後、周囲との折り合いが悪く、そのため村民によって軟禁状態に置かれたこともあったと いう。こういうこともあってか、規約書には本人に代わって息子=宮国真津が登録されること

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になったようである。)砂川間切新城村の場合3人の組合員がいるが、その一人は有名な大地 主、もう一人は平良真牛、西里蒲と並んで人頭税廃止運動の主要リーダー、もう一人はやはり

ムラのリーダー格で大正9から13年まで村議会議員をつとめた(いずれも後出)。

こうして「宮古島水産組合規約書」の組合員名から、各ムラの重要人物、あるいは人頭税廃 止運動のリーダー格が確認できた。あとは彼らが実際に地主層であったかどうかを調べればよ い。そのための基本資料は各間切の土地台帳であった。この土地台帳は、明治36年土地整理事 業の完了および土地私有制のスタートに合わせてつくられたはずである。というのは、所有土 地の確定にもとづいて地租が設定されたからである。ところが実際にいつ土地台帳が整備され たのかは、台帳そのものからは明らかでない。畑地によって「明治三十一年法律第三十二号増 徴地租」の記述がみられるだけである。また土地整理事業にもとづく確定所有者は、土地台帳 からゑる限り新制度スタート(明治36年)と同時に登記しておらず、それはごく稀れにしか見 当たらない。所有関連事項が実際に台帳に記載されたのは、新制度がスタートしてずっと後の ことのようであり、それも売買、譲渡など何かの事由が発生したときになされたようである。

よって台帳から特定田地の所有始期を確定することは、少なくとも明治40年以前に関していえ ば困難である。

調査されたのは、「宮古島水産組合規約書」に記載された組合員のうち、運動の主要リーダ

(平良真牛を含む)とそれらの出身ムラの組合員である。間切村でみれば、砂川間切西里村、

福里村、保良村、新城村、下地間切嘉手苅村、上地村、川満村、平良間切比嘉村、長間村であ り、全島には及んでいない。

順序として、「宮古島水産組合規約書」で氏名と住所を確認して、各間切村の土地台帳を各 頁めくって調査対象者の所有地を記録するのであるが、ここでもいくつかの難点につぎ当たっ た。まず規約書にある組合員の住所地番(明治29年現在)がその後変更になっていることであ る。これは組合員全体に共通するから用心すればそれほど問題ではないが、個人ベースによる 住所変更は確認するのに困難をともなう。同姓同名が多いことも調査対象確認で難点の一つで

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ある。特に古い時期の名前は数が限られているため、同名が多いのである。加えて、同一ムラ

では同姓が多い。

調査項目は、地目・面積・字(小字)名・地番・所有権異動である。所有権異動は土地の入

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・出を示すもので、いつどのような事由で土地の所有が確定したか、異動があったとすればい つどのような事由で所有権を消失したかをみる。

ここで留意すべきことは、調査対象者の所有土地は土地台帳と必ずしも一致しないというこ とである。実際の所有地は土地台帳に記載されたもの以上とみてさしつかえない。その理由の 一つは、事実上、自己所有地として耕作していても、法的知識がなく、あるいは故意に登記し ていないかも知れないのである。本来、土地台帳には土地整理事業が完了する明治36年に土地 異動の記載がなければならないが、これまで調べた土地台帳からゑる限り、このような事例は 全くの例外で、ほとんどが明治40年代以降、あるいは昭和に入って「所有権保存」として処理さ れている。しかもその手続きが、土地の売買、譲渡、相続など異動事由が発生した時点で、止 むをえざるステップとして所有権の確認作業をしているのである。事例によっては、明治36年 になすべきことを、昭和に入ってから処理しているものもあるくらいである。実際の所有面積 と土地台帳の登録面積が一致しない第二の理由は、所有土地が特定村(または間切)を超えて広 範に及ぶ場合があるということである。所有形態がムラを超えている事例はたまたまみられ る。例外的には、間切を超えている場合もある。たとえば砂川間切下里村209の亀川恵寛は、

下地間切上地村に田3筆3反3歩9勺を有している。そのうち2筆とも明治44年5月25日付け で所有権が保存され、同年6月12日、1筆目は地元民根間金へ、2筆目は上地金へ所有権が移 転している。3筆目(2反l畝1勺)は明治39年8月2日所有権が保存され、明治39年8月3日 上地村48番地上地亀へ所有権が移転している。

所有地がムラや間切を超えると、結局宮古島全体を調べなければならないが、これは全く困 難な作業である。そこでせいぜい隣接ムラは調べるようにした。たとえば調査対象者がaムラ 出身であれば、それに隣接するbムラやcムラも調べるようにした。砂川間切の保良・新城・福 里,下地間切の嘉手苅・川満・上地の各ムラは相互に隣接している。

このようにして調べた結果が、運動の主要リーダーおよび各村リーダーの土地所有状況であ る。まず前者からゑていくことにする。

人頭税廃止運動は、二つの指導者層によって組織されていた。一つは中村十作と城間正安の 外部指導者層であり、他は各村の総代から成る内部(地元)指導者層である。両者は運動の展開 で相補関係にあり、一方だけではうまくいくものではなかった。中村や城間がいかにすぐれた 指導者であっても、地元がまとまらなければ運動は成立しない。他方、地元がまとまっても、

情報を与えたり、戦術を練るなど運動をリードする実践力のある指導者がいなければ運動は前 進しない。

各村の総代に問題を説明し、ときには説得して総代のオルグ活動に大きく貢献したのは下地

(16)

間切嘉手苅村の川満亀吉(幼名は屋真、1867=慶応3〜1928=昭和3年)であった。川満は帝国 議会請願資料には名前は出てこないが、島内における実質的な中心リーダーだったらしいとい うのがこれまでの調査結果である。上京請願に際し、中村十作と城間正安の同伴者を選出する に及んで各村の総代は川満亀吉の留守中に問題が起きることを憂慮して、川満が上京すること

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には反対したという。

(7)

表 1 川 満 亀 吉 の 土 地 所 有 状 況

表1は、川満亀吉の土地所有状況である。これを地目別にみると、畑4町2反5畝23歩、原 野1町8反1畝28歩、宅地6畝13歩、合計6町1反4畝4歩となり、川満は約6町歩の地主と

いうことになる。

さて問題は、いつからどのような事由でこれらの土地を所有しているかを明らかにしなけれ ばならない。残念ながら、このことが土地台帳からは明らかにできないのである。表1では、

Nnlの入異動は明らかだが、残りは不明である。ここで入異動欄の「所有権保存」に注目する 必要がる。所有地のうち大部分(約48%)が同年同時に所有権保存となっている。これは、明 治32年以前から継続して所有しているにもかかわらず、所有権の設定や保存をせず大正11年6 月5日付けでまとめて所有関係を確定したということだろう。表1によれば、残り約48%の土 地の入異動は不明となっている。所有地に対する法的手続きがとられなかったことから生じた 結果とみることができる。以下にみるように、同様なことは他のケースについてもいえる。

N

、 地 目

面 積 ( 反 ) 字(小字) 地 番

所 有 権 異 動

入

出

備 考

123456789ⅢⅡⅢBM賜陥Ⅳ肥旧加別

野野野野野地

畑〃〃畑〃〃畑畑〃畑畑〃〃畑〃

原原原原原宅

反 畝 歩 1,703 1,311 2,500 12,916 504 5,902 2,606 1,311 1,819 1,220 2,008 2,206 1,311 1,819 1,220 2,008 4,621

3 , 2 2 8

613 2,813 7,125

ミヅドウ

〃

〃

〃

ハイバラ

下 原

拝″″″″″″″″″″″″″″ 子

ス

嘉手苅38 嘉手苅37‑8 嘉手苅341 嘉手苅#1 嘉手苅1612 嘉手苅217‑1 嘉手苅314‑1 嘉手苅314‑2 嘉手苅314‑3 嘉手苅315‑1 嘉手苅329 嘉手苅314 嘉手苅314‑2 嘉手苅314‑3 嘉手苅315‑1 嘉手苅329 嘉手苅334‑1 嘉手苅335‑1 嘉手苅336 嘉手苅552 嘉手苅333‑1

昭3年12月7日

?

●

大l1年6月5日所有権保存 大11年6月5日所有権保存

?

大ll年6月5日所有権保存

?

犬11年6月5日所有権保存

?

ワ

大ll年6月5日所有権保存

?

大l1年6月5日所有権保存

ワ

ワ

●

M1年6月5日所有権保存 大11年6月5日所有権保存 M1年6月5日所有権保存 大11年6月5日所有権保存

ワ

?

1954(昭29)年長男相続 1947(昭22)年長男相続

?

?

1963(昭38)年孫相続 1951(昭26)年孫相続 1947(昭22)年孫相続 1968(昭43)年孫相続 1968(昭43)年孫相続 1947(昭22)年孫相続 1947(昭22)年孫相続 1947(昭22)年孫相続 1968(昭43)年孫相続 1968(昭43)年孫相続 1947(昭22)年孫相続 1947(昭22)年孫相続 犬11年6月6日弟所有権移転

"1年6月6日弟買得 1951(昭26)年孫相続 1963(昭38)年別人買得

?年宮城蒲戸へ移転

大5年3月無届開墾、

大7年5月発覚

No.8と重複?

(8)

表 2 平 良 真 牛 の 土 地 所 有 状 況

つぎに砂川間切保良村総代平良真牛(1859=安政6〜1943=昭和18年)をみてみよう(表2)。

平良はつぎに述べる西里蒲とともに、帝国議会請願のため明治26年に上京した島民代表である。

平良は身長が約6尺もあり、稀にみる豪腕の大男であったことが語り伝えられている。所有地 を地目別にゑると、田3畝21歩、畑4町l畝20歩、宅地6畝8歩、墓地l畝9歩、原野1町8 反l畝19歩、計5町9反5畝17歩である。平良の場合も表中NulとNn2の畑地を除いて、いつ からこれらの土地を所有したか不明である。恥9の畑地にゑられるように、入異動は不明でも、

出異動をみると明治35年に買却されていることから、所有権保存または不明は異動までの継続 的所有を意味することにもなる。平良の場合、西里と同様、明治26年度の収穫高と租税が宮古 農民の生活実態を示す資料として、中村十作により東京報知新聞に投稿されている。それによ

(18)

ると、粟9俵2斗、小麦3俵1斗、黍l俵1斗5升、豆2斗、胡麻6升となっている。畑の収

(19)

穫高であるが、上畑1反に付き約3斗、中畑約2斗5升、下畑約2斗とすれば、粟畑だけでも 9反6畝7歩(上畑の場合)から1町4反5畝(下畑)までの面積となる。畑の収穫高は「一

(20)

木書記官取調書」(明26年)にも出ているが、一反当りの収穫量はこれより低い。因承に明治26 年の沖縄県統計書を利用して、畑1反に付き大麦および小麦は1斗5升6合、粟1斗6升とし、

(21)

下地間切川満村農民の証言として、小麦上畑にして3斗、粟上畑にして2斗としている。もう 一度、平良真牛の所有地に戻ると、小麦収穫高は3俵1斗だから、これを粟と同一基準で計算 すると1反3畝1歩(上畑)から2反(下畑)となる。黍1俵1斗5升を粟と同一条件で計算 すると作付面積は約1反5畝(上畑)から2反2畝5歩(下畑)ということになる。すると粟

・黍・小麦畑だけで1町2反4畝(上畑)から1町6反7畝5歩の間ということになる。その 他豆・胡麻の雑穀畑地を合わせると、畑地は約1町5反から2町歩の範囲内ということにな

恥

地 目 面 積 ( 反 ) 字(小字) 地 番 所 有 権 異 動

入

出

備 考

123456789川Ⅱ 地地野

畑〃〃畑〃〃〃田

宅墓原

反 畝 歩0,608 8,600 0,125 6,516 0,109 7,820 3,322 5,719 7,808 18,119 0,321

村 内 明日jll 村 後 割目前原

〃

〃

〃

七 笠

〃

東七笠 保 良 1 1 1 田

保良500 保良6541 保良662 保良707 保良740 保良743‑1 保良743‑2 保良755‑1 保良7861 保良11Ml 保良1138

?

明41年1月6日 明36年9月25日 明40年8月13日所有権保存

?

大5年5月25日所有権保存 大元年11月12日所有権保存

?

ワ

?

?

1958年平良嘉松所有権保存 大l笄4月l旧台南製雛式会社所有権鮪

"3年平良真(保良500)所有権保存 明40年8月15日砂)ll金所有権移転

ワ

●

大5年5月29日根間加那志所有権移転 大元年11月12日平良金所有権移転 大7年4月22日所有権保存 大7年4月24日平良金所有権移転 明35年10月27日根間真津買得 大7年所有権保存

M4年9月28日台南蝿賊会社所有繍転

昭和14年9月14日付所有権保存

昭昭14年9月14日根間加根所有権移転

(9)

る。この数字を表2と比較すると大きくずれてくる。

つぎに砂川間切福里村の西里蒲(1858=安政5〜1908=明41年)を承よう(表3)。西里は 前述のとおり、平良真牛と同様、上京して帝国議会に請願した一人である。西里の所有地はど ちらかといえば少なめで、畑地2町3反8畝24歩、宅地3畝2歩、合計2町4反1畝26歩であ る。表4からみると、西里の場合も各畑地をいつどのように獲得したか明らかでない。ただ所 有権保存を一定の時間的経過後の事後的処理だとみれば、これまでの事例同様、土地保有時点 を遡及させてみることも可能である。平良の場合と同様、明治26年の収穫高から耕作面積を割

(22)

り出してみよう。西里の収穫高は粟6俵、小麦6俵、黍1俵、豆3俵、胡麻2斗となっている。

これからすれば粟畑6反(上畑)から9反(下畑)、小麦畑は粟と同一基準で計算して6反(上 畑)から9反(下畑)、黍畑1反(上畑)から1反5畝、豆畑3反から4反5畝となる。結局、

粟・小麦・豆・黍合わせて1町6反から2町4反の間の作付面積となる。この数字は表3のそ

( 2 3 )

れにやや近い。西里の場合注目されるのは、下男二人を使用していることである。

川満泰奉(1839=天保10〜1916=大正5年)は砂川間切西里村士族で、第6回帝国議会に提 出された第2回目の請願書「沖縄県宮古島々費軽減及び島政改革請願書」の代表署名人である。

彼についてはあまり知られていないが、宮古島水産組合の組合員である。人頭税廃止運動を士 族対平民(農民)の対立とみて、士族川満泰奉の運動への参加に注目する向きもある。しかし 同時に、運動を積極的に推進した層の生産上の位置にも目を向けなければならない。

表 3 西 里 蒲 の 土 地 所 有 状 況

表4は、砂川間切西里村士族川満泰奉の土地所有状況である。ここでも地目別にまとめてゑ よう。畑1町9反8畝6歩、溜池3畝5歩、墳墓地1畝20歩、宅地4畝21歩、合計2町7畝22

肋

地 目 面積仮) 字(小字) 地 番

所 有 権 異 動

入

出

備 考

123456789ⅢⅡ

紬心

畑綱畑姻″″″″″″″″

牽七

反 畝 歩 1,905 0,302 0,129

0 , 9 2 6 0 , 8 2 0

0,707 1,100 0,621 4,113 7,027 5,826

後前竹 福 里

〃

西 長 底

〃

東 大 道

〃

〃

西 大 道

〃

東 其 後 福里354 福里1164 福里1253 福里1268‑1 福里1269 福里1428 福里1448 福里1453 福里1476‑1 福里1523‑1 福里1665‑1

大6年9月13日所有権保存

︽叩″︐●︵叩〃︐●

ウ

大6年9月13日所有権保存 大4年6月26日所有権保存 大4年2月2日所有権保存

?

●

明37年11月18日砂111幸雄よ り買得

明44年5月27日相続

?

●

犬6年11月1日伊礼蒲所有権移転 1949年相続人長男所有権保存 明37年5月15日)ll満方善買得 昭62年1月29日西里全太郎所有権保存 犬6年11月1日伊礼蒲所有権移転 大4年6月26日西里政亮相続 犬4年4月1日福原カマド所有権移転

ワ

●

明43年11月10日西里蒲戸相続

明44年5月27日西里蒲戸相続

明45年4月29日西里蒲戸所有権移転

(10)

表 4 川 満 泰 奉 の 土 地 所 有 状 況

歩となっている。表4からみると、Nn4の溜池とNn5の畑を除いて、残りは明治36年以前から 所有していたように思われる。たとえばNQ8の畑地は入異動は不明だが、出異動では明治35年

9月1日に親戚筋に贈与されている。NQllも同様である。

川満と人頭税廃止運動の関係をみるとぎ、焦点は彼が士族であったことではなく、農業生産 上の地位に注目することでる。要するに役人地主であったか、あるいは農民的地主であったか

ということである。

城間正安を宮古島の地主として上記と同列に扱うことは適当ではない。ただ参考程度にふれ ておきたい。彼は沖縄の糖業技師として宮古島に赴任し、甘蕨作や糖業の普及に精出した。宮 古島の経済を救うのは甘鳶作以外にないことを悟り、実践によって粟作から甘鳶作への転換を はかるのであるが、思うように成果は上がらなかった。業を煮やした城間は県職員を辞し、下 地間切嘉手苅村で農業を始めた。嘉手苅に移住する前、城間は現在の下地小学校の東側にある アカハタという所に製糖小屋をつくり、鉄車も沖縄から取り寄せて普及の目的で試験的に製糖 を始めた。他方、その東隣に農業試験場をつくり(1町歩以上)、甘蕨づくりと製糖を実践し たのである。そのようなことから川満亀吉は城間正安と知り合いになり、弟三人を城間のとこ

(24)

ろへ送り込んで製糖法を学ばせたのである。県職員を辞した城間は、川満とのコネを頼ってか、

(25)

あるいは嘉手苅村は宮古島の中でも肥沃でキビ作に適していると判断したためか、明治33年に このムラで農業を始めた。

その城間正安の土地は、畑2町3反4畝12歩、原野2町4反3畝13歩、宅地1反8畝9歩、

Nn

地 目 面 積 ( 反 ) 字(小字) 地 番

所 有 権 異 動

入

出

備 考

123456789ⅢⅡⅢ旧 鋤把鈴把砧旭 替垂細楜畑杣″″″″″″″″ 倦頃牽七画佃

反 畝 歩

0,120 0,421 1,007 0,305 1,719 1,610 2,610 1,200 0,506 0,708 3,500 4,807 1,929

田圭寺辿晒豚盾坏盾厩 ″〃何″″″″″厚匪″″ 奉四祠掴吉屋m︑古木

西里62 西里458 西里462‑1 西里752‑2 西里753 西里87旧 西里887 西里903 西里9Ml 西里911‑1 西里1390 西里1392‑1 西里1298‑1

ワ

?

ワ

明35年10月4日 明43年8月29日}││満泰章よ

り所有権移転 明44年7月27日住所変更 昭6年6月24日所有権保存

ワ

ワ

ワ

?

ワ

?

ワ

●

大7年2月22日家督相続人所有権保存 明45年3月22日家督相続人所有権移転 明44年7月27日住所変更(西里489)

大4年11月2日下地盛寿所有権移転 明44年8月3日鶇柵人(長男)所樵擁 昭6年6月25日長男所有権移転 明35年9月1日lll満泰序譲受 明44年7月22日住所変更、所有権保存、

大15年8月26日長男所有権保存 大15年1月21日長男所有権保存 明35年9月1日)││満泰序譲受 明44年7月27日住所変更、

同8月3日長男所有権移転 大15年1月21日長男所有権移転

名義は長男泰守

〃

泰奉と泰序の関係不明

(11)

表 5 城 間 正 安 の 土 地 所 有 状 況

合計4町9反6畝4歩となっている。表5によって、土地の出入異動をみよう。ここでも、い

(26)

つどのような事由で所有するに至ったかは明らかでない。しかし、伝記からみると、明治33年 嘉手苅村に移る前に、土地は所有していたことがわかる。興味深いのは出異動である。城間は 宮古を離れるとぎ、すべての土地を手離したらしい。所有地のうち約半分、2町3反3畝29歩 は川満亀吉が購入している。ところがその購入記載が川満亀吉の土地記録(表1)にはみえな

い。この辺の事情は不可解である。

砂川間切新城村の上原戸那(1864=元治元〜1939=昭和14年)は、平良真牛や西里蒲に比べ て華やかさに欠けるが、新城村の総代として運動にも深くかかわったようである。笹森儀助は 明治26年8月26日砂川間切保良村の番所に着いて、蔵元からの課税通知に対する反対集団(約 30余名の老人壮男)とそれをなだめようとする担当巡査の姿に接するのだが、その巡査の説明 では、この4,5年在職しているが昨年までこのようなことはなく、説得すれば不満はあって も承服していたという。しかし名子廃止など旧慣改革の情報が伝わったとたん、それを実現し ようとした役所長が免職になったことが伝わって、村民は不満を募らせたようである。そこで 各村では前役所長の復職を要求して改革を推進しようとしているが、中でもとりわけ保良・福

(27)

里・新城の各村は運動の主導的存在であるというものであった。なるほど既にみてきたよう に、保良村と福里村から宮古島人民代表が選ばれて帝国議会へ請願したのである。そして新城

村の総代が上原戸那だった。

土地台帳で確認する限り、上原の所有地は2町8反1畝26歩である。現当主上原弘道(大正 2年生)は孫に当たるが、聴取り調査によれば、祖父時代からの土地はほとんど継承しており、

いまでも原名(小字名)と面積いずれも確認できるという。それによれば祖父の残した田畑は

肋

地 目 面 積 ( 反 ) 字(小字) 地 番

所 有 権 異 動

入

出

備 考

123456789ⅢⅡ 野野野地野

畑畑畑″畑〃

原原原宅原 1

反畝歩

1 , 3 0 7

1,414 5,010 424 5,104

1 3 , 2 0 5

807 1,809

2 , 4 1 9

5,003

2 , 8 2 2

オ ホ ナ

〃

〃

〃

ミヅドウ ハイバラ

″″″″″

嘉手苅261 嘉手苅30 嘉手苅31 嘉手苅32 嘉手苅41‑1 嘉手苅155‑1 嘉手苅156‑1 嘉手苅157‑1 嘉手苅158 嘉手苅15M 嘉手苅1611

︽四グー●︑クリ●の〃︐●︽叩〃︐●︽叩〃︐●︽叩〃■の″r●の〃︐︒︽叩r●︽叩″●︽叩〃︐●

明38年9月25日111満亀吉買得 明38年9月25日111満亀吉買得 明38年9月25日lll満亀吉買得 明38年9月25日)││満亀吉買得 明38年9月25日}││満亀吉買得 明38年5月27日下里玄統買得 明37年7月30日砂lll康這買得 明37年7月30日宮国恵是買得 明37年7月30日宮国恵是買得 明37年7月30日宮国恵是買得

明38年2月24日下地玄統買得 明43年畑に開墾

(12)

3,4町歩で、そのうち祖父(入婿)が曾祖父から相続したのは1町歩5,6反だという。

以上は人頭税廃止運動に表立って動いたリーダーである。土地台帳からみる限り、彼らは約 2町歩以上の土地を有する中層以上の地主と位置づけることができる。

つぎにその他の村総代あるいは総代格について象よう。彼らは「宮古島水産組合規約書」に 記載された組合員である。調査されたのは組合員全員ではなく、先に示した間切村の組合員だ けである。そのうちここではその典型だけをとり上げ、残りは関連的に言及するだけにとどめ たい。

表6は、下地間切上地村51番地上地与野志(1867=慶応3〜1919=大8年)の土地所有状況 である。1908(明41)年特別町村制が施行されると、従来の行政単位間切は村となり、宮古群 島は平良、城辺、下地、伊良部の4村に編成され、各村で第1回の村議会議員選挙が行われた が、上地与那志は字上地から選出されている。しかし、一期だけで終わったようである。当時、

部落や地域の顔役でもあった上地は、大地主でもあった。地目別にみると、田3反7畝21歩、

畑4町8反6畝25歩、山林・原野2町6反5畝29歩、宅地1反9畝4歩、合計8町9畝19歩と

なっている。

問題は、いつ頃からこれらの地所を所有しているかということになる。表6の入異動欄をゑ ると、大きく分けて父からの相続、親族からの所有権移転、他人からの所有権移転に分けられ る。しかも親族および他人からの所有権移転は、明治40年あるいは明治45年が多い。そこでこ れらを除いて父からの相続分だけに限定すると、その面積(田畑・山林原野・宅地)は、5町

5反5畝25歩となる。相続時点が大正期に集中しているが、継続性からみて、これらの土地所 有は明治36年以前から続いているとみてよい。そのことは与野志の父上地屋真(1845=弘化2

1912=大元年)も大地主であったことが裏付けられよう(表7)。屋真は弘化2年3月10日

(錫)

の生まれである。彼の家系がどのようなものであり、ムラでどのような位置を占めていたかな ど今のところ明らかでない。

表7は重要なデータを示してくれる。まず地目別の面積をみると、田1反2畝6歩、畑4町 2反7畝28歩、原野2町3反7畝27歩、宅地3反5畝13歩、合計7町1反3畝14歩となってい る。注目されるのは入異動欄の事項である。まず目に付くのは父からの相続が多いことである。

父上地戸那の生年は確認できないが、長男屋真が弘化2年生だから、天保年間あるいはその前 の文政年間の人であろう。この時代から相続されてきたことになるが、土地台帳上は明治41年 になって所有権が保存されている。つまり法的手続きはずっと遅れているのである。

つぎに注目されるのは、出異動欄で子どもへの相続、あるいは子どもによる買得がみられる ことである。しかも、明治36年ll月1日の日付けが多い。土地整理事業完了とともに登記され たことになるが、このようなケースは極めて限られている。いずれにしても水産組合員上地与 野志はかなりの地所を父から相続しており、父屋真はまたその父戸那より台帳に記載されただ けでも2町6反4歩を相続している(表7)。

上地与野志親子に似た事例として、砂川間切新城村17番地高里真津(1867=慶応3〜1931=

昭6年)と長男の高里景親(1887=明治20〜1961=昭36年)がいる。高里は古くから資産家と

(13)

表 6 上 地 與 野 志 の 土 地 所 有 状 況

恥

地 目 面積仮) 字 ( 4 , 字 ) 地 番

所 有 権 異 動

入

出

備 考

123456789冊Ⅱ脳BⅢ賜陥Ⅳ肥旧加剛〃別別踊茄叩沁羽測別

地林野林地

畑姻″″″細姻″″m︑″︑︑″畑楜″″″″″″″″″″″″

細糾四四

索で山山盾厩山山

牽で

反畝歩 4,016

104 100 310 1,102 321 510 424

2 , 8 0 2

1,300 1,605 23,301 129 121 426 3,601 1,814 5,721 2,715 3,027 2,007 4,211 6,803 3,424 2,212 4,607 1,727 122 802 419 426

カアス原 番所

〃

一

H リ

1 1 1 田 嶺 里

〃

〃

カナイダ

〃

〃

〃

上 角

〃

〃

〃

竹ア

〃

〃

一

フ

崎 田

ミヤホシ

〃

〃

111ピサ ャーマゴ原

〃

カアス原

〃

〃

沖パイ

〃

番所

ユ別

大瀬111 上地65‑1 上地394‑1 上地395‑1 上地434‑2 上地437‑1 上地437‑1 上地5061 上地507‑1 上地545‑1 上地562‑1 上地598‑1 上地628‑1 上地629 上地631 上地635 上地644‑1 上地647‑1 上地982‑1 上地1005‑1 上地lO1M 上地1044‑1 上地1088 上地481

上地63‑2 上地78

上地79

上地81‑1

上地861 上地87 上地388‑1 上地43M

明45年7月2旧 明44年11月29日所有権移転

(兄から)

明44年8月10日所有権移転 明44年8月10日所有権移転 大2年1月30日(父より所 有権移転)

〃

〃

〃

明45年1月17日(弟より所 有権移転)

所有権移転(父より)

明40年9月23日別人より所 有権移転

明44年11月29日別人より所 有権移転

大8年1月16日父より相続 明44年11月29日別人より所 有権移転

〃

犬2年1月30日父より相続 大8年11月12日別人より所 有権移転

〃

大2年1月30日父より相続 明40年5月22日別人より所 有権移転

大8年9月12日別人より所 有権移転

大4年3月19日親族より所 有権移転

明40年10月26日別人から所 有権移転

大2年1月30日父より相続 大12年5月22日父より相続

"2年8月9日父より相続 大12年8月9日父より相続 大12年8月9日父より相続 M2年8月9日父より相続 M3年7月9日父より相続 大2年1月30日父より相続 大2年1月30日父より相続

昭和5年10月7日孫長男所有権移転(相続)

昭18年11月29日孫長男相続 昭18年1月20日孫長男相続 犬9年1月10日長男相続

〃

大8年8月30日別人へ所有権移転 犬9年1月10日長男相続 昭5年10月7日孫長男相続 犬2年1月30日長男相続 昭9年9月11日孫長男所有権移転 大9年1月10日長男相続 犬8年1月18日所有権移転 犬9年10月7日長男相続 大9年1月10日長男相続

〃

犬8年12月29日長男相続

〃

大9年1月10日長男相続 犬3年6月24日別人へ所有権移転 犬9年1月10日長男相続 大9年1月10日長男相続 犬8年11月17日別人へ所有権移転 犬9年1月10日長男相続 大12年5月29日別人へ売渡 昭和10年6月4日親族(?)へ所有権移転

〃

〃

M3年3月26日別人買得 昭11年9月19日別人へ所有権移転 大9年1月10日長男相続

〃

別人=家族・親族以外

の人

(14)

表7上地屋真の土地所有状況

肋

地 目 面 積 ( 反 ) 字(小字) 地 番

所 有 権 異 動

入

出

備 考

123456789ⅢⅡ岨BⅢ旧陥Ⅳ肥旧刈Ⅲ〃郷別踊茄町朋別別Ⅲ

地地野林

如畑″″″″″″″″細姻″″″″″″四四畑肌″″″畑綱︑国四四m国細姻″

牽七牽七盾厩山山

反 畝 歩 4,921 6,803 3,424 3,405 2,212 4,607 1,727 122 802 606 405 3,423 419 1,516 106 706 108 426 310 1,102 523 321 19 1,716 305 23,301 100

426 305 5,721 517

仲 道 原 ヤーマゴ原

〃

カアス原

〃

〃

〃

沖'《イ

〃

〃

七 嶺 里

〃

番所

〃

〃

〃

〃

一別

大瀬jll j l l 田 嶺 原

〃

〃

j l l 田 嶺 里

〃

池 原 竹ア

フ一

上 角

〃

〃

竹ア

フ一

崎 田

〃

上地22 上地48‑1

上地63‑2

上地64 上地78 上地7分2

上地81‑1

上地861 上地87 上地88 上地329

上地3311

上地388‑1

上地397‑1

上地404 上地405‑2 上地412‑1 上地4311 上地343‑2 上地43H 上地447 上地452 上地454 上地465‑1 上地6361 上地628‑1

上地630

上地635 上地6361

上地982‑1

上地983

明41年7月29日所有権保存 (父より相続)

?

明41年7月29日所有権移転 (父より相続)

〃

〃

〃

明41年8月29日所有権保存 (父より相続)

〃

明41年7月29日所有権保存 (父より相続)

明41年7月29日所有権保存 (父より相続)

明41年8月29日所有権保存 (父より相続)

明41年7月29日所有権保存 (父より相続)

ワ

ワ

?

明43年9月21日 明38年1月17日別人より買得

?

?

ワ

?

?

ワ

明42年8月27日

ワ

?

?

ワ

?

?

?

明42年5月10日5男へ相続 大2年1月30日長男へ相続 大12年5月22日長男へ相続 明42年5月10日5男へ相続 大12年8月9日長男へ相続 大12年6月4日長男へ相続 大12年8月9日長男へ相続

〃

大13年7月9日長男へ相続 明45年6月17日5男へ相続 明43年6月7日別人へ移転 明45年7月24日別人へ移転 大2年1月30日長男へ相続

〃

明43年8月2日6男へ相続 明43年10月28日3男へ相続 昭6年12月19日長男孫へ相続 大2年1月30日長男へ相続

〃

〃

明36年11月1日5男へ相続 大2年1月30日長男へ相続 明36年11月1日5男へ相競 明43年2月7日別人へ移転 明36年11月1日5男買得 大8年1月16日長男相続 明36年11月1日長男買得

大2年1月30日長男へ所有権移騒(相続)

明36年11月1日5男買得

犬2年1月30日長男へ所有権移嘱(相続)

?年別人へ移転

別人=家族・親族以外

の人

(15)

して知られており、親子とも社会的にも活躍して少なからぬ足跡を残している。真津は慶応3 年新城村新城金戸野の二男として誕生したが、高里加真の養子となっている。表8でみる土地 の異動は複雑である。入異動の事由として買得、転耕、所有権保存、無事由(日付のみ)とな っており、不明も約42%(14筆)ある。実態は把握しにくい。ただ一つの特徴は、明治36年か ら38年にかけてかなり集積している点である。地目別にみると、畑12町3反9畝1歩、宅地2 反8畝26歩、合計12町6反8畝7歩となり、かなり広大な耕地を有している。しかも小字西皆 粉地は宮古島でも稀な粘土(ジャーガル)性の良質の農地である。(その一部はキビ作が広く 普及する前、水田として太平洋戦争の後まで使用されていた。)

表8から土地異動の実態をみることは困難だが、一つの方法として明36年から40年にかけて

「買得」された土地だけをとり出すと、3町2反6畝3歩となり、それを全体から引くと9町 4反8畝4歩となる。この土地は明治36年以前からの所有地とみてよいであろう。表8の出異 動に注目すると、ほとんどが長男相続となっている。そこで長男高里景親の土地所有形態をみ

ることにする(表9)。

景親をとり上げるのは人頭税廃止運動とのかかわりではなく、近代地主の形成をみる上で大 いに参考になるからである。地目別にまると、畑10町1畝28歩、山林・原野2町4反6畝16歩、

合計12町4反8畝14歩となっている。父真津の所有面積とほとんど同じであるだけでなく、良 畑西皆粉地の面積が拡大している。生産性では長男景親の土地が高かったと思われる。

景親の土地経営は、前近代から近代に向う過渡的地主の性格を有していた。まず西皆粉に耕 地を集中させ、下男下女を使って当時としては近代的農業を営んだ。居住地のある集落を離れ て農地の中に住宅を移したのである。おそらく大農場経営を意図していたと思われる。畜産に も力を入れ、この地域でははじめて牛乳販売も手がけたようである。手作り地主であったので ある。小作地も有したかどうか明らかでないが、畜産の「作り分け」は手広く営んでいたとい う。つまり雌の牛、豚、馬などを周辺の農家に飼育させ、子どもを飼育者と交互に分け合うと いう方法である。高利貸としても知られている。たとえば、粟は貨幣同様に利用されていた先 代から、周辺農家に粟を貸し付けておいて返済不可能になると抵当物件の土地を取り上げると いう方法をとった。当時粟1俵に対して利息は1斗(年利)で、元利4斗収めなければならな

(29)

いが、延滞すると複利計算のため利息は大きかったようである。こうして高里は、所有地を隣 村保良にまで拡大した(ただし所有権移転は昭和15年になされている)。表9で注目されるの は、Nu6、7,8,21にみられるように、かなり広くて肥沃な農地を明治43年に宮城カマドか

ら購入している事実である。この点は後でふれることにする。

下地間切嘉手苅村123番地の宮城金(1865=慶応元〜大10=1921年)も大地主である(表10)。

地目別では畑6町4反1畝29歩、原野4反7畝28歩、宅地9畝13歩、合計6町9反9畝10歩で ある。ここでも問題は、これらの土地がいつ集積されたかということである。表10でみると、

記録上は19地所のうち約47%が明治36年以降の入異動となっている。既述のように、ここでの 記載期日が必ずしも所有の始期を示すものではないが、とりあえず全体からこの部分を除き、

残りの所有面積をみると(表10で不明となっている部分)1町9反9畝2歩となる。記録上こ

図

表 1 川 満 亀 吉 の 土 地 所 有 状 況 表1は、川満亀吉の土地所有状況である。これを地目別にみると、畑4町2反5畝23歩、原 野1町8反1畝28歩、宅地6畝13歩、合計6町1反4畝4歩となり、川満は約6町歩の地主と いうことになる。 さて問題は、いつからどのような事由でこれらの土地を所有しているかを明らかにしなけれ ばならない。残念ながら、このことが土地台帳からは明らかにできないのである。表1では、 Nnlの入異動は明らかだが、残りは不明である。ここで入異動欄の「所有権保存」に注目する 必要がる
表 2 平 良 真 牛 の 土 地 所 有 状 況 つぎに砂川間切保良村総代平良真牛(1859=安政6〜1943=昭和18年)をみてみよう(表2)。 平良はつぎに述べる西里蒲とともに、帝国議会請願のため明治26年に上京した島民代表である。 平良は身長が約6尺もあり、稀にみる豪腕の大男であったことが語り伝えられている。所有地 を地目別にゑると、田3畝21歩、畑4町l畝20歩、宅地6畝8歩、墓地l畝9歩、原野1町8 反l畝19歩、計5町9反5畝17歩である。平良の場合も表中NulとNn2の畑地を除いて、いつ か
表 4 川 満 泰 奉 の 土 地 所 有 状 況 歩となっている。表4からみると、Nn4の溜池とNn5の畑を除いて、残りは明治36年以前から 所有していたように思われる。たとえばNQ8の畑地は入異動は不明だが、出異動では明治35年 9月1日に親戚筋に贈与されている。NQllも同様である。 川満と人頭税廃止運動の関係をみるとぎ、焦点は彼が士族であったことではなく、農業生産 上の地位に注目することでる。要するに役人地主であったか、あるいは農民的地主であったか ということである。 城間正安を宮古島の地主として上
表 5 城 間 正 安 の 土 地 所 有 状 況 合計4町9反6畝4歩となっている。表5によって、土地の出入異動をみよう。ここでも、い ( 2 6 ) つどのような事由で所有するに至ったかは明らかでない。しかし、伝記からみると、明治33年 嘉手苅村に移る前に、土地は所有していたことがわかる。興味深いのは出異動である。城間は 宮古を離れるとぎ、すべての土地を手離したらしい。所有地のうち約半分、2町3反3畝29歩 は川満亀吉が購入している。ところがその購入記載が川満亀吉の土地記録(表1)にはみえな い。この辺
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