批 評 の 時 代 に お け る 小 説 家
│中 村 光 夫 ︑ 大 岡 昇 平 ︑ 吉 田 健 一
NAKAMURA Mitsuo , OOKA Syohei , and YOSHIDA Kenichi : Novelists in the age of critick葛 綿 正 一
KUZUWATA Masakazu
第Ⅰ部では、河上と小林の登場とともに到来した批評の時代が近代批判、啓蒙批判、表象批判によって特徴づけられることを述べた。批評優位の時代において啓蒙と表象は批判される。では、そうした時代において啓蒙の道具であり表象の技術を担っていた小説はどのようにして可能となるのか。第Ⅱ部では、二人の批評家の周辺にいた三人の批評家兼小説家を取り上げ、批評の時代における小説の困難を浮き彫りにしてみたい。三人の小説家は翻訳家でもあるが、批評の時代に属しているがゆえに批評家を兼ねており、近代啓蒙の透明な表象システムに失調をきたすものに触れざるをえない。中村光夫(一九一一─八八)において啓蒙を混乱させるのは社会や肉体であり、大岡昇平(一九〇九─八八)において啓蒙を混乱させるのは政治や戦争であろう。だが、吉田健一(一九一二─七七)において啓蒙を混乱させるのは時間そのものの不透明性にほかならない。そうした点について検討するのが本試論の課題となる〔1〕。
一 中村光夫または記号と社会
氷で冷したシャンパンが注がれた。
エンマは口のなかにその冷たさを味わって全身が慄えた。『ボヴァリイ夫人』第一部八(中村訳)
1 『戦争まで』
『『わが性の白書』』『贋の偶像』
辿り着けない欲望や官能を目覚めさせることになるからである。 に論述していくからである。だが、中村の小説は啓蒙を否定するものではないだろうか。その小説は、啓蒙が絶対に 「です・ます」の文体で記された中村光夫の批評は、ひたすら啓蒙をめざすものにみえる。論理的に、また実証的
『戦争まで』
(一九四二年)は第二次大戦が始まるまでのフランス留学を描いたものだが、中村の作品では飲み物が独特の役割を果たしている。しかしもう話すことはお互に大概話してしまつたし、混み合つてゐる喫茶店にあまり長くいるわけにも行かないので、冷たい飲み物で咽喉をうるほしてしまうとすぐ外にでて別れましたが、ふたりとも気持の平衡を失つて話の調子が外れていたせいか、長いこと話をしたわりには、肝腎なことはちつとも云ひ尽さなかつたやうな割り切れぬ感じがして、それだけにひとりで家に帰つてからもアンナのことが妙に気掛りになりました。(十) なぜ、ともに飲み物を口にするのか、それは語り合うためである。未婚の男女がいっしょにいるためには飲み物を必要とするのが社会的ルールなのであろう。だが、そこに別の社会的圧力が加わる。「混み合つてゐる喫茶店にあまり長くいるわけにも行かない」という理由である。しかし、語り合うことで何かが解決するのであろうか。否である。「長いこと話をしたわりには、肝腎なことはちつとも云ひ尽さなかつたやうな割り切れぬ感じがして」いるからである。「ひとりで家に帰つてからもアンナのことが妙に気掛りになりました」というが、これこそ恋愛感情であろう。『戦争まで』はいわば「恋愛まで」を描いた作品なのである。
比較していえば、中村光夫が「戦争まで」を描いているのに対して、大岡昇平が描くのは「戦争から」であろう。それは「恋愛まで」と「恋愛から」の相違といってもよい。吉田健一の小説には恋愛のない焼け跡が登場するが、後述したい。
絓秀実は『二葉亭四迷伝』(一九五八年)を重視し、「言文一致という表象=代行機能への懐疑のなで言文一致体の小説を書き、そしてついに一篇の作品も完成しえなかった二葉亭の挫折を哀惜しつつ、その終わったところから、小説家・中村光夫が出発した」と述べている(講談社文芸文庫版の解説)。従うべき見解だが、ここでは『戦争まで』
から中村の小説への一貫性を重視しておく。
には、つとめて愛想よくした。「玄関で塩をおかけするんでした。旦那様、おめしかへは。」(第一章) 心を刺戟したらしかつた。/「やあ、ありがたう。もう歩くと咽喉がかはくな。」/了介は重宝な通ひの手伝ひ 扉をたたいて、小母さんが茶をもつてきた。外出から帰つた夫婦がいつものやうに茶の間によらないのが、好奇 り飲み物が重要な役割を果たす。 『『わが性の白書』』(一九六三年)には「わが性の白書」という小説家の遺稿をめぐる人間関係が描かれるが、やは
係をもつ。二人の関係を知ったとき、批評家の夫がコップを投げつけるのは偶然ではない(第八章)。第三者の介入 亡き小説家の遺稿出版をきっかけにして、過去に関係のあった妻は小説家としてデビューし、編集者の吉井とも関 いことであつた。この男、わざと俺をいらだたす気か。(第一章) 席をしめると、かたくなつて黙つてゐた。以前から、了介の家庭の無遠慮な客だつた彼にこんな態度はかつてな た。/「すみません。どこか近くの駅まで。」編集者は切り口上で身体をかがめて乗つてきて、妻と了介の間に 夫の演じる滑稽は人々の眼付に感じられた。/帰途にも、ほかの車は一杯なので、吉井をおくらねばならなかつ 骨上げのとき、いつ子は手がふるへて骨がはさめなかつた。あはてて自分の箸を妻のにそへてやつたが、善良な てみたい。 人で語り合う設定のために活用されるのは、飲み物と乗り物である。冒頭、タクシーに三人で乗り込む場面に注目し この場面でも、飲み物のせいで編集者と雑談をせざるをえなくなり、遺稿の問題が蒸し返される。本作において三 ましたけど。」(第二章) /「杉戸君の本はいつごろでます。」/了介はわざとつつこんだ。/「来月の十日ごろと思ひます。大分おくれ 給仕がコーヒーと菓子をもつてきた。おかげで三人は互にさけたく思つてゐた雑談をしなければならなかつた。 いる。その介入の契機が飲み物なのである。 「通ひの手伝ひ」というのは、いまや歴史的な存在にみえるが、そうした第三者が夫婦間の蟠りを浮き彫りにして
が飲み物を通してであることに気づいたのであろう。そんな三人が雑誌向け座談会の後タクシーに同乗するのが結末である。小説家として自立したいつ子はすでに了介とも別れ、吉井とも別れている。俳優たちはみな自分の車でかへつたので、銀座のすぐ近くに行く中沢のほかの三人は一台で間に合つた。了介といつ子がハイヤーの両隅に座をしめると、吉井は助手台にのつた。(第一三章) いつ子を送り届けて、「渋谷の辺に一寸よつてみるか」と誘うと「さうですね。こないだ見つけた飲み屋へ御案内しようかな。変つてるんです」と応じるが、飲み物が再び人間関係を結び直そうとしている。
ここで中村光夫の小説を先導した戯曲に触れておきたい。最初の戯曲『人と狼』(一九五六年)に飲み物は出てこないが、体に注ぎ込まれたものの検査結果から騒動が起こる点は注目される。検査結果によって人が狼になったり人に戻ったりする家庭劇である。
パリの日本人を描く戯曲『パリ繁昌記』(一九六一年)には「なにかのむ?」と女がはぐらかす場面があり、「のめないとは云はせないわ」と男に強制する場面がある(第一幕)。一人の男は「いや、結構です。もういただきました」と断り、別の男は「誰かのましてやらなきや」と口うつしに流し込むのである(第三幕)。
鉄道敷設を描いた戯曲『汽笛一声』(一九六四年)に登場する女たちはそれぞれが飲み物と密接な関係をもつ。すなわち、第一幕で牛乳を自ら飲む女みよであり(「のめる。なれたら大丈夫よ」)、第三幕でビールを強いられる女きぬであり(「まあ、さう男に恥をかかすな」)、第四幕でお茶を出す女りつである(「粗茶ですけど」)。牛乳を飲んだ妹のほうは外国人の鉄道技師と結ばれる。姉のきぬは民部省技師の総一郎を好きになるが、その父親と関係があったことを暴かれて鉄道自殺する。成金の小山はきぬの過去を知っているから言い寄るのであり、総一郎の女中であったりつは小山をきぬに取られたと思って暴くのである。本作は中村光夫の構造的思考をよく示す。
一幕の戯曲『家庭の幸福』(一九七〇年)は妻を偽って手伝いとして家庭に同居させた愛人をめぐる悲喜劇である。夫が赤葡萄酒で愛人と睦み合うところに、その妻をめあてに夫の友人が訪れる。「心をこめたコーヒーをふるまはれたら、まさかあたしたちを裏切らないでせう」と愛人は黙契を迫っている。夫と愛人の関係、妻と友人の関係がすべ
て明らかになったとき、愛人はガスを吸って自殺しかけるが、それは飲み物の代わりなのであろう。苦い「家庭の幸福」がもたらされる。
駐仏公使であった栗本鋤雲を描く戯曲『雲をたがやす男』(一九七七年)の中心に掛かっているのは小栗上野介の肖像画である。前任の公使は「まづ酒について意見が一致したのは、めでたい」と口にしているが(第一幕二場)、栗本は本国の小栗と酒を酌み交わすことができない。小栗の肖像画に祈っても、「悪酔ひでもしたんですか」と訊かれるばかりである(第三幕三場)。小栗が打ち首になる夢をみるのは、葡萄酒を呑んだ女であって、栗本ではない(第四幕)。そこに栗本の孤立ぶりがうかがえるが、小栗の肖像画だけは残すことにする(「たとへあとからくる連中に破られ、捨てられ、焼かれても、いいではないか」)。それが雲をたがやす男にふさわしい決断であろう。
歴史的仮名遣いの「新井教授のノート」と現代仮名遣いの「学生佐川の手記」が交互に並べられた『贋の偶像』(一九六七年)は、長田秋濤という忘れられた明治の作家を掘り起こしている。森鴎外の『百物語』に登場する作家で、「此時より二年程前かと思ふ。湖月に宴会があつて、行つて見ると、紅葉君はじめ、硯友社の人達が、客の中で最多数を占めてゐた」、その中にいた場違いな人物である。この導入から明らかなように、本作でも飲み物が独特な役割を果たしている。鞄のなかから本をだして読んでいると、奥さんが例によって気をつかってくれる。紅茶に何気なくイギリス製のビスケットをそえてきたり、スコッチを瓶ごとおいたり、ガスストーブの火を加減したり、その度に人の顔色をうかがう。(Ⅰ) 学生の佐川にとって教授夫人は、いささか押しつけがましい存在であり、紅茶にビスケットも歓迎されない。むしろ、一人で牛乳を飲んでいるほうが気楽であろう。不満を感じるのは、カップルを求めているときにほかならない。「牛乳とトーストの昼飯を、こみあった地下室でせかせかすますあいだに不満はますます強まった」というのは、教授に指示されて文献閲覧のために国会図書館を訪れたときである。食堂で彼女にあったとき、僕はだらしなく嬉しそうな顔をしたに違いない。前もって買った食券が同じ牛乳とトー
ストなのも、二人の親しみを増すような気がした。ただし、彼女の選択は経済的理由からでなく、近頃はやりの美容のためらしい。(Ⅱ) 学生が秋濤の姪と知り合うのは、同じ本を閲覧したからだけではなく、同じ飲み物を口にしたからなのである。「止んだやうですね、お茶をのみに行きませう。」/僕は窓際に立つたまま、言つた。二人きりでゐると、なにか馬鹿げたことをしでかしさうだつた。//喫茶店のざわめきのなかで、僕らは気楽に喋つた。(Ⅲ) 教授が秋濤の姪と親しくなるのは、喫茶店においてである。そんな空間から学生は逃げ出している。冷房のある場所へ行って、冷いものを飲もうという先生の誘いをことわって、僕は涼しい風の吹抜ける玄関から、暑い往来にでた。自分が邪魔者であるのもわかっていたし、一刻も早くひとりになりたかった。咽喉のかわきをとめるなら駅で牛乳でものむこと。背のびして喋ったあとの空しい気持は、ひとりでかみしめていれば沢山だ。(Ⅲ) 教授は秋濤の身近にいた老人から話を聞き出そうとするが、そのとき振る舞うのは酒である。幸ひ家内が酒の仕度をしてきた。酒好きの老人は眼を細めて盃をうけとりながらお愛想を云ふ。/しばらく他愛のない話がつづいたあと、老人が云つた。/「此間、長田文子さんのとこへ行きました。豪勢なうちですね。」/「まあ、以前の貸間にくらべればね。」(Ⅳ) 秋濤の弟の未亡人が思いがけず豊かな暮らし向きになったという情報を老人は漏らしている。それは秋濤の姪に経済力のあるパートナーがいることを暗示するが、秋濤の姪と関係をもった教授はすでに知っている。
長田秋濤は飲食に関してきわめて不均衡な存在である。自らは羽振りがよかったにもかかわらず、弟には「冷飯」を食わしているからである。また同年代であるにもかかわらず、徳田秋声に対して冷めた仕打ちをしているからである。秋声には秋濤を描いた『別室』という短篇があるが、秋声といっしょに食事することはない。秋声は昼食のとき秋濤の夫人に「「金を少し」ねだつて、近所の小料理屋へあがつて」とったという。(Ⅳ) 学生の佐川が教授夫人と喫茶店で会おうとするのは、教授を模倣したいからであろう。新井教授の奥さんから電話で至急あいたいという。三畳のアパートにきてもらうわけにも行かないので、近くの
私鉄の駅前にある喫茶店を指定した。(中略)「愛しているんです、前から」/できるだけ熱っぽい調子で云い終ったとき、靴音をひびかせて近づいて来たウェイトレスが、コーヒーを卓子に音をたてておいた。(Ⅳ) 喫茶店で愛を告白するというのは、秋濤の姪と関係をもった教授の模倣なのである。そして三人で食事をするときは、葡萄酒を飲むことになる。かね子は始めは何かすねた様子で、メニューを見ても、わざと前菜から高い料理を注文したり、外国の葡萄酒をとったりした。僕は気の毒になって、先生と同じに比較的安いもので我慢した。(Ⅳ) 話題は秋濤のスパイ事件だが、まさに三人はそれぞれの内側を探り合っているのである(「前菜」は「前妻」と韻を踏み、秋濤の妻、教授の妻を暗示するし、外交官と離婚したかね子自身、前妻に位置づけられる)。
学生の佐川が次に喫茶店に入るのは、新井教授、大谷博士と三人になるときである。新井教授は、隣室から来た珍客を、近くの喫茶店にさそった。「部屋にいると落付いて話もできませんから」という口実に、博士もよろこんでついてきた。(Ⅴ)
わした。(Ⅴ) を卓子の上において出ていった。彼女のフラットをはじめて訪ねた僕は、秋の日ざしを一杯にうけた居間を見ま 彼女は急にうつむいて、眼を拭いた。母親が這入ってきて、その様子を見ると、ばつが悪そうに黙ったまま紅茶 まま置かれた「紅茶」とともに、はじめてかね子の全身像が描かれる。 教授夫人の「身のふり方」は会話として語られるのみである。だが、秋濤の姪のそれは目の前で示される。黙った 新井夫人が家出して、博士に身のふり方を相談に行ったという。(Ⅴ) 大谷博士にお茶に誘われた。かつてないことなので、警戒してついて行ったら、やはりいやな話をきかされた。 博士と三人で喫茶店に入った学生の佐川が、三度目に喫茶店に入るとすれば、それは博士とともにであろう。 側にあるものを露呈させるのが、中村光夫の小説技法だからである。まず教授夫人と二人で喫茶店に入り、次に教授、 は第三者にきいてもらいたかった」とあるが、「第三者」という点が重要であろう。三人に会話させ、それぞれの内 「僕は思い切って、持論を主張した。博士の前で先生に楯つくのは、遠慮すべきだったかも知れないが、僕として
「こんな家、いつでも捨てるわ、好きな人と一緒になれたら」とかね子は口にするのだが、佐川は「紅茶を飲むと」
すぐに立ち上がる。それは「紅茶にビスケット」で迎えてくれた教授夫人と同じ身振りにみえたからかもしれない。「彼が秋濤に打込むのも、ひとつの錯誤だろうか。そう云えば、あんな男を愛する女は一体何を期待しているのか」と考え込むのが結末だが、愛は一つの愚かさであるというのが本作のテーマなのであろう。
物故作家の墓を詣でる場面が本作にはあり、評論『二葉亭四迷伝』(一九五八年)は墓を訪ねるところから始まる。その点では小林秀雄『本居宣長』(一九七七年)に先駆けるものであろう。しかし、「こういう場合に催す感慨は、第三者には無意味な滑稽としてしか映らぬのが普通です」と記すところが中村光夫的というべきかもしれない。第三者の視点を忘れないからである。
2 『虚実』
『虚実』
(一九七〇年)は「小さなキャベツ」「パリ、明治五年」「サン・グラス」「影」「アニマル」「出会」「大の虫」の七編から成る短篇集である。「小さなキャベツ」は亡き同級生の遺稿の序として記されたものだが、その思い出も飲み物にかかわる。こんな場所に店を出したのは婿さがしのためといふ噂でしたが、一杯のコーヒーで女の匂ひをかぎ、「文学の話」をするために大勢の学生があつまりました。戦前の、高等学校が女人禁制などと痩我慢を張つてゐたころの話です。(「小さなキャベツ」)
一杯のコーヒーを通して、若い姉妹の経営する喫茶店とそこに集まる戦前の学生たちの姿が浮かび上がる。「モン・プチ・シュー」と囁きながら恋を遂げる短篇を同級生は書いたが、モデルは喫茶店の妹娘であったらしい。その同級生と二十年ぶりにベイルートで再会し、「レバノンの地酒といふ辛口の白葡萄酒」で歓待される。しかし、注目するべき飲み物はコーヒーであろう。要するに乱痴気さはぎです。楠はあとで何も覚えてゐないさうですが、僕は恥づかしいことにちやんと意識がありました。そしてしまいに楠が手洗に立つて苦しくなつたのかシャワーをあびてゐる間、奥さんとコーヒーをの
んでしんみり話したりしました。/彼女は夫が毎晩のやうにおそくまで書斎にこもつてゐながら、書いたものを彼女にも決して見せないと訴へました。(同) 日本から遠く離れたベイルートで同級生がまだ小説の執筆を続けていることを知るのだが、一杯のコーヒーが二十年の時間を浮き上がらせる見事な構成といえる。しかし、本作がなんとも官能的なのは、三人が「コニャック」を呑みながら目にするシリア人のダンサーの踊りである。「楠が僕の膝をそつとついて、「セ・マ・ファム」と云ひました。「私の女だ。」といふつもりだつたのでせう。この我流のフランス語に彼といふ人間のすべてが含まれてゐる気がして、僕は彼の期待した羨望の情ではなく、抱きつきたいやうな親愛を覚えて、口のなかに「モン・プチ・シュー」とつぶやきました。奥さんは眉ひとつ動かさずに舞台を見上げてゐます。真赤な布で縁どられた女の腹には漣のやうな痙攣が走りはじめました」。そのダンサーは同級生のかつての恋人であり、「モン・プチ・シュー」の女と「セ・マ・ファム」の女に愛された男の人生が「痙攣」とともに浮かび上がる。
るものを使って儀式を行う、これが文明の正体なのであろう。 リの日本人たちの仲間割れである。「新衣をつけ公使館に赴き、三鞭酒をもつて屠蘇にかへ、拝賀の式を行ふ」。使え クを呑むとき、政治が話題となる。「腰をすへてコニャックをのみだし、使節団の内幕話をはじめた」というが、パ といえるかもしれない。「葡萄酒の酔ひが快くまはつたところで、アムボワズ街三号地の娼家に赴く」。再びコニャッ 娼家に遊ぶ手順を微細にわたつて講義する。余を元気づける親切心かららしい」。親切心とははなはだ猥褻なものだ にはいられない。「後藤老人来訪。シャノワーヌの手紙をもつてきてくれる。コニャックを振舞ふと上機嫌になり、 「パリ・明治五年」は「成島柳北の日記」という形でパリを訪れた日本人の姿を描くが、やはり飲み物に注目せず
際立っているのは、人類の進歩など無縁にみえる官能性であり、端的な痴態である。「余の心はただ空虚であり、なかを黒い悍馬に乗つた美少女が走りまはる状態を、無限に快く感じてゐただけだ。これを文字にする術が、西洋にはあるのだらうか」。こうして官能性は表象可能かどうかという問題に辿り着くのである。好色な柳北は「小さなキャベツ」の同級生によく似ている。
「サン
・グラス」はハワイで日系人から運転を習う大学教授の話だが、日系人後藤の人生が垣間見えるのは、コーヒー
を飲むときである。みすぼらしいコーヒー・スタンドにいたのは後藤の娘であり、父親に賭博癖があることが明らかになるからである。ある日かへりがけに、後藤は高速道路の入口の近くにある、見すぼらしいコーヒー・スタンドによらうと云ひました。めづらしいことと思つて這入ると、カウンターにゐた若い女が、はづかしさうに下をむきました。(「サン・グラス」)
父親に隠れて娘はホステスとして働き出すので、その店に立ち寄ることはできない。「家の近くのスタンドで、薄いコーヒーを一杯のんで、別れました。リンダの店を彼も思ひだした筈ですが、その話はお互に口にだしませんでした。//結局、日本にかへつたあと、一月たらずの柄にない日課から、のこつたのは、粗末なサン・グラス一個でした」。サングラスは隠しつつ明らかにしてしまったのである。
西は官能的な肉体なのである。 てしまうのはビールの誘惑が欠けていたからであろう。いずれにしても、中村にとって西洋がそうであるように、関 は少し不機嫌な僕を駅近くの呑み屋に誘つた」。後に『グロテスク』に発展する物語だが、本作で愛人の誘いを断っ に再会した友人は駅を降りると、その事情を話してくれるのだが、もちろん飲むことが契機となる。「降りると、彼 「影」は関西に住む父親の愛人に誘惑されたという友人の話である。たまたま電車のなかで亡くなった父親の愛人
「アニマル」に出てくるのは、発情した猫や犬である。
「虎斑が一呼吸おいて、よじのぼる。黒はそれをひきつけておいて、もつれあふやうに一緒に向ふ側にとび降りた」。しかし、飲み物はそこに距離を導入している。「家の犬ころなんか、斬り殺したかてどうといふはないと思ふけど、それがでけへんのは、やつぱりそんな気持からじやないやろか。」「物騒なこと云ふてますね。気のやさしいぼんぼんが。」/看護婦が、茶盆を持つて、顔をあげながら云つた。/「お客様の話を立聞きしたてたらあかんやないか。」(「アニマル」)
胸の病気を患った章は、海岸の療養所で知り合った山根幸子に思いを寄せて、近くに間借りしている。療養所で同室だった増田正一は関西の地主の息子で、広い庭のある家を借りて住み、世話をしてくれる中年の看護婦と関係がある。犬を殺すと祟りが怖いと話をしているところに入ってきたのが、看護婦の安井であり、「さっき山根さんから石
鯛がぎようさんとどきましてん」という発言から増田と幸子が親しく近所づきあいをしていることが明らかになる。飲み物と食べ物が人間関係を浮き彫りにするわけである。
菓子を持つてあがつてきた」。 人の彼にたいする態度は、無名の崇拝者にたいするのとまるで違つて、卑屈なくらゐだつた。細君もすぐに茶と別の いかとたしなめた」。しかし、宣教師の服をきた中年の小男が訪ねてくると、泡鳴に対してとは異なる態度をとる。「詩 菓子を持つてきた細君が、おびえたやうな表情で、夫の顔をながめ、おづおづした口調で、初対面の客に失礼ではな に振る舞う茶菓子であろう。髪を長くした大男を訪問し、たちまち議論に熱中する。「彼も昂奮して大声をだす。茶 「出会」は北村透谷を訪問する岩野泡鳴の手記として描かれているが、ここで注目されるのは、透谷の細君が客人
だが、本当に恐ろしいのは「その表情は、気味の悪いほど、そばの母親に似てゐた」という透谷の母親にちがいない。母親は「あばれますんで、薬をやつてねかして居ります」と悪事を打ち明けるように声を潜める。「俺はいま廃人になりつつある天才の言葉を心に反芻した。詩人は本当に女性の敵なのか」というのが結末だが、詩人以上に女が恐ろしいのは男に何かを飲ませるからではないだろうか。
「おや、どうしたの、ここにゐるの。」(「大の虫」) 客をむかへる準備をととのへた離れ座敷にくつろいだ父子に茶をもつてきたのは、勝造の妹の君子であつた。/ の妹と再会する。 「大の虫」は妻を亡くした男が再婚するために、娘を手放そうとする話である。故郷に戻った尚一は、そこで従弟
君子は未亡人となった後、近くの町で教員をしているが、茶をもってきた女がここでは重要な役割を演じる。男が娘を手放すのに反対し、しかも男との再婚を希望しているからである。酒宴の目的は達せられ、盃の交換が早くなつた。尚一は空虚になつた心に酔ひがまはるのを意識した。一体彼は雪子を手ばなす決心をしたのであらうか。話がきまつた今、かへつてとりかへしのつかぬ過失ををかしたやうな気がした。(同) 本家の老人に仕切られて、娘を手放すことが本決まりになったかと思われたが、翌々日、本家を訪れると「ビール
の酔ひ」とともに、従弟が養子を必ずしも望んでいないことが明らかになる。従弟の妻はまだ実子を諦めていないからである。男の子をもつ君子は尚一と再婚し雪子を引き取りたいと考えているが、四人の乗っていたゴムボートにヨットがぶつかり、雪子は溺死する。「おや、どうしたの、ここにゐるの」という男の言葉は雪子に向けられた言葉だったといえる。「小さな身体に交錯する大人たちの思惑の重荷に堪へかねたといふのでなくとも、みなが内心ではもてあましてゐれば、幼い彼女の行き場所はあそこしかないのではないか」とあるように、雪子は居場所のない存在だったからである。飲み物を提供されたときの不意の一言が、存在のありようを告げていたのである。
3 『平和の死』
『ある女』
戦前の日本人留学生たちの姿を描く『平和の死』(一九七三年)は、はじめてパリに着いた三人がタクシーに乗って移動する場面からはじまる。「左手の黒くくすんだ建物に、灰色の空から細かな雨がふっていた。右側の石垣の間を流れる河は、ミルクを入れすぎたコーヒーのように濁っている」。
だが、本作の前半においてコーヒーを飲むことは徹底的に回避される。コーヒーを飲むことが許されるのは、愛する女性が現れるときである。これが本作の周到な小説技法になっている。「いい女だな。あんな爺さんにやらしとくのはもっていない。」/藤村は見送りながら、あたりはばからぬ日本語で言って、どこかモンパルナスのカフェへ、コーヒーを飲みに行こうとつけ加えた。/「もう、いいよ、帰ろう。ねむくなった。」(一) 主人公の昌一が先輩の誘いを断るのは、帰国を先延ばししてパリに馴染みすぎた藤村のいう「コーヒー」には夜の女たちが含まれているからである。本作においてコーヒーを飲むことは性愛化されており、女性との関係に活用されるといってよい。女は彼にコーヒーを飲むかとたずね、ことわると、しいてすすめず、隅の長椅子に腰を下して、編みものを始めた。(二) 主人公がお金を届けることになった佐藤は大病院の御曹司だが、思想的な動機でパリに留まり、女と同棲中である。