• 検索結果がありません。

与えたモンテッソーリ教育の影響に着目して

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "与えたモンテッソーリ教育の影響に着目して"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

与えたモンテッソーリ教育の影響に着目して

著者 香山 太輝, 遠座 知恵

雑誌名 東京学芸大学紀要. 総合教育科学系

巻 72

ページ 51‑61

発行年 2021‑02‑26

その他の言語のタイ トル

The Development of Entaro Noguchi's Thought on Teachers : Focusing on the Influence of

Montessori Education on his Self‑Cultivation Theory

URL http://hdl.handle.net/2309/166796

(2)

* 1 東京学芸大学大学院 連合学校教育学研究科

* 2 東京学芸大学 教育学講座 学校教育学分野(184‑8501 東京都小金井市貫井北町 4‑1‑1)

野口援太郎における教師論の形成過程

―― 修養論に与えたモンテッソーリ教育の影響に着目して ――

香 山 太 輝

* 1

・遠 座 知 恵

* 2

学校教育学分野

(2020 年 9 月 29 日受理)

1.はじめに

 本研究は,大正新教育の代表的実践家の一人として 知られる野口援太郎(1868 1941)の教師論の形成過 程に着目し,その中核に位置づく修養論がどのように 展開していったのかを解明することを目的とする。

 野口が教育の世紀社同人として,1924(大正 13)年 に設立した池袋児童の村小学校(以下,児童の村)は,

大正新教育における実践改革の到達点として評価され ている1。中野光の研究では,その運動や学校構想の 特徴の一つが,教師の改革を促そうとしたところに あったとされながらも2,それを支えていた教育の世 紀社同人たちの教師論の特質の解明については未だ課 題として残されてきた。この課題の解明に向け,本研 究では教育の世紀社の中心人物であり3,児童の村の 校長を務めた野口の教師論に注目したい。

 野口が 1901(明治 34)年に初代校長として姫路師 範学校に着任し,以来 18 年にわたって同校で「自治 自修」を重視する師範教育に取り組んだことは周知の 通りである。彼の教師論について言及した先行研究は,

この姫路師範学校着任当初における彼の言説に着目し てきた4。そこでは,彼が陽明学や報徳思想に学んだ ことで人間性や道徳性を重視する「人格の指導者」と しての教師を求める,聖職的教師論を唱えていたとさ れている5。しかしながら,こうした研究における分 析対象は,野口の教育者としてのキャリアの一時期に 限定されており,これをもって彼の教師論の全体像は 把握しきれないだろう。

 1914 年から翌年にかけての欧米視察以降,野口は

積極的に海外新教育情報を収集し,これに学びながら 教育思想を形成していた6。なかでもモンテッソーリ

(Montessori, Maria)から受けた影響が大きく,姫路師 範学校在籍中の附属幼稚園の教育実践や,いわゆる

「姫路プラン」と呼ばれる師範教育改革案との関係に ついて考察がなされてきた7。しかし,先行研究では 同校を離れた後も彼がそれに関心を向けていたことに ついては注目されてこなかった。そこで本研究では,

姫路師範学校辞職後の彼の活動もふまえ,モンテッ ソーリ教育から影響を受けたことで,彼がどのような 教師を求めるようになったのかを明らかにしたい。

 その際に本研究では,野口の教師論の核となってい たと考えられる修養論に焦点を当てる。伊津野朋弘の 研究によれば,明治末期から大正期にかけて展開され た教師論は「すべて「修養」論を含む」ほどであった といわれており,この時期「修養」は教師論のキー ワードであった8。実際に野口自身も修養の必要性を 師範学生に対して繰り返し説いており9,修養論は,

彼の教師論において重要な位置を占めていたと考えら れる。

 以上を受け,本研究での課題を以下のように設定し たい。まず,姫路師範学校時代初期における野口の教 師論に着目し,彼の中での修養論の位置づけや,この 時期の修養論の特徴を確認する。次に,野口のモン テッソーリ教育受容について,特に姫路師範学校を 去ってからの彼の立場や取り組みをふまえながら分析 し,この時期彼がモンテッソーリの教師論に注目して いたことを指摘する。そして,野口がモンテッソーリ の教師論をどのように理解していたのかを検討し,最

(3)

終的に彼の修養論にいかなる変化が認められるのかを 考察したい。

 なお,本研究における調査は香山・遠座が共同で行 い,論文の執筆は香山が担当した。

2.野口の教師論における修養論

2.1 教師論の基底と修養

 野口は 1868 年,福岡県鞍手郡木屋瀬に生まれた。

同県鞍手郡木屋瀬小学校,同県鞍手郡公立中学校を経 て 17 歳で教員補助員免許状を取得,同郡直方小学校 教員となり,ここから彼の教育者としてのキャリアが 始まる10。この頃までに彼の思想形成に影響を与えた ものとしては,陽明学とスマイルズ(Smiles, Samuel)

の『自助論』(

Self-Help

)があげられる。橋本紀子に よれば,野口の出身地では公立の学校よりもむしろ

「藩政時代以来の塾教育」の方が栄えており,そこで の学び,とりわけ陽明学の学習の経験が彼自身の人格,

あるいは人生観に大きな影響を与えたとされている11。 また,野口が初めて小学校教員となった頃,スマイル ズの著作を読んで感銘を受けたことを彼は姫路師範学 校の講話において回顧している12。いずれの思想にも 共通していえることは,自力による自己形成を重視し ていることである。陽明学の根底には,「自力による 自己実現・自己救済を可能にする人間本性論」があ り13,スマイルズも『自助論』において「自助の精神」

を養う必要性を説いている14。こうした思想の影響か ら,「『人は自ら教育するものである』といふ大原則」,

いわば自己教育が野口の教育理念となっていったと考 えられる15

 野口にとって自力による自己形成とは,児童生徒に 対してのみならず,教師に対する教育の理念でもあっ た。彼が師範学生時代に目にした同窓生たちは,強圧 的,画一的な師範教育によって「皆一定の形式にはめ 込まれ」16,「無気力な,虚飾者」,他人にへつらう

「阿諛者」となってしまっていたという17。野口が理 想とした人間像とは裏腹に,師範学生たちは,教育者 としてのあり方を自身で模索し,つくりあげていくこ とを許されていなかったのである。師範教育における こうした状況を打開すべく,1901 年に初代校長とし て姫路師範学校に着任した野口は,自治と自由を重ん ずる革新的な師範学校づくりに取り組んだ。

 自力による自己形成,すなわち自己教育という野口 の教育理念の基盤となっているのが,「自然」信仰と もいうべき宗教的世界観であった。これは,姫路師範 学校の教育指針となっていた「理想の教師」と題した

一文にも盛り込まれていた18。ここではその内実を確 認しておきたい。彼が信仰の対象とする「自然」は,

森羅万象を運行させている「外界の自然」と,人間個 人の「内心自然の進行」を指す「内界の自然」とに区 別されている。我々人間は,内外の「自然」の「道 理」を信頼し,従うことで幸福に生きることができる という。野口にとって自力による自己形成とは,この 内外の「自然」の「道理」を明らかにした上で,自己 の生き方についての信念を形成し,それに従って生き ることを意味したのであった19

 野口は,こうした信念の形成に関して師範学生に対 する講話で次のように述べている。

余の考によれば教師は完全なる人であるべき筈であ る。完全なる人は単に修身倫理の末に拘泥して居る ものゝ出来るものでは無い。人生の帰趣を解し其の 不定不備無力無能なることを悟つた所で始めて努力 と奮進と柔順と温和と謙遜と明智と安心と感謝など が起つて来る。20

(以下,句読点は引用者の判断によって付した)

ここでいう「完全なる人」という表現には注意が必要 であろう。引用の通り,これはその後につづく「人生 の帰趣」を理解することや,自 己 の 「不定不備無力無 能なることを悟」ることを想定している。「己れを知 れ」と題した別の講話においても,自己自身を知ると いうことは,「宇宙の造化の力の絶対無限なることを 知」ると同時に「己れの力の微小なるを知」ることで あると述べているが21,「完全なる人」となることは,

自己を取り巻く外的な「自然」の偉大さに気づき,そ れに対する自己の位置を自覚することを意味した。し たがって信念の形成に終着点はなく,生涯を通して継 続されなければならないものであると野口は認識して いた。

 以上のように野口の思想は「自然」に対する信仰を 軸に展開されており,既述の通り,それは彼の宗教的 世界観ともいえる。ただし,彼は特定の宗派に当ては められるような既成宗教と,自身の持つ宗教的世界観 とを区別しており22,宗教を重視するとはいえ,それ は「極めて自由な意味での宗教」であるべきだとする。

つまり,自己と自己を取り巻く大いなる自然のあり方 やその関係性をどのように理解するのかという世界観

(信念)は,個々人によって違ったものであってよい とするのが野口のスタンスであった23

 その一方で野口が重要視するのが,いかなる過程を 経てそうした信念に到達するのかということであった。

(4)

これについて彼は次のように述べる。

此処[=信念の形成]に到達するには実行経験観察 省察思考工夫なんど云へる人としてあらゆる能力を 使用せねばならぬことを忘れ玉ふな。是等のない思 考研究は空中に建築するのと同様であると思ひ玉へ。

励め励め思ひ煩へ煩悶せよ思索せよ。そして実に此 の堂奥に到達することが出来るだらう。24

(以下,[ ]内は引用者)

野口自身もそうであったように,例えば「高徳の人に 会しその説法を聴き宗教上の問題を考究する」ことや,

「一二の哲学概論と一二の哲学史を精読」することも ある信念に到達するための手段の一つとなる。しかし,

野口はこれだけでは不十分であると断言し,教師自身 が「自分の処世上の苦い経験や甘い経験について」反 省し,「苦悶懊悩」の過程を経た上で信念を見出さな ければならないということを強調する。彼は,こうす ることで初めて自己自身の信念を形成することができ ると考えていた25

 野口は教師に対し,教師としていかに生きるべきか という独自の信念を形成することを求めた。そして,

そのための努力は生涯を通して継続しなければならな いのであり,このような信念の形成とその更新に向か う不断の努力を,野口は修養と捉えていたのであっ た26

2.2 姫路師範学校時代における修養論

 明治末期から昭和初期にかけ,教師に限らず一般成 人や青年の間でも修養論は盛んに議論されていた。そ して,当時の修養論は「精神修養」という言葉に表さ れるように,個人の内面性の向上を問題にしている点 に共通した特徴が認められる27。このような志向性は,

教師の修養論の特徴としても指摘されてきた。伊津野 は,明治末期に登場する教師修養論が,教師に対して

「意欲的」に職務に励むことのできるような「内部的 精神的修養」の必要性を説くものであったと説明して おり,これが聖職的教師論を支えていたという28。  上記の修養論の特徴は,姫路師範学校時代の野口の それにも認められるのだが,それは以下に示すような この当時の彼の教師論に基づいていた。

 既に述べたように,野口はこの頃から「人は自ら教 育するものである」との教育理念を有していたが,そ れは被教育者を「放任」するものでは決してなく,教 育者が適切な方法で「指導」を加えなければならない としている。「指導」の内実としては「教訓」を与え

ること,「実践躬行」によって「模範」を示すこと,

あるいは時に「命令」や「賞罰」を与えることが挙げ られている。そして彼は,このような「指導」を行う 前提として教師の「人格」が優れていることが必須で あると述べる。教育者の人間性や道徳性が優れている からこそ,被教育者との間に信頼関係が築かれ,教育 者による種々の「指導」が有効なものになるという29。 したがってこの頃の野口は,教育が成功するか否かは

「教師の人格」にかかっているのであると考え,師範 教育の中核に「教師の人格を陶冶」することを掲げて いた30

 こうした教師論に基づき,野口は人格の修養の必要 性を訴える。

完全な教導を施す為めに吾々自身の修養といふこと が甚だ大切なことになります。これはたゞ精神の修 養のみでなく,身体上,学術上,実行上,覚悟上,

など有ゆる方面の修養をいふのであります。31

実際に,人格の修養は姫路師範学校において重視され ていたようで,「生徒は皆自ら紳士を以て任じ,口を開 けば即ち人格を説き,修養を語るといふ風で,[中略]

生徒の書棚には論語,報徳記,二宮翁夜話,聖書,真 宗聖典等の修養書類が多く陳列」されていたという32。  その他にも,精神鍛錬の一環として水泳訓練や黙想 などを野口自身が師範学生に勧めたことや33,浄土真 宗の近藤純悟を講師として招き,師範学生を交えた

「精神修養会」を組織したこともあった34。このように,

あらゆる方法によって人間性を磨こうとする修養の機 会が設けられていたのであった。

 ただし,以上の取り組みからは,教師にとって必要 な修養と,一般のそれとを明確に区別できる特徴が見 当たらない。つまり,この時期において野口は,教師 に特有の修養の方法を明確化できていなかったと考え られる35

 先行研究でも繰り返し指摘されてきた通り,野口は 自身の教育思想および実践のさらなる深化のための手 がかりを求め,1914 年から翌年にかけて欧米視察を 敢行する。その後彼は海外新教育の情報収集およびそ の研究を積極的に進め,特にモンテッソーリに対して 強い関心を寄せた。彼は姫路師範学校着任以来,自治 と自由を重んずる教育を目指してきたが,こうした教 育のあり方について「ほんたうに分つた」のはこの欧 米視察以後であったと振り返っている36。この時に,

彼の教師論および修養論に変化はあったのだろうか。

もしあったとすればどのようなものだったのか。以下

(5)

この点について検討していきたい。

3.モンテッソーリ教育受容の経緯と着眼点

 本節では,野口のよるモンテッソーリ教育の受容の 経緯と,彼がどのような点に留意してそれを研究して いたのかを明らかにしていきたい。

 野口は 1914 年 3 月30日,姫路師範学校長の休職と同 時に満一年に及ぶ欧米視察を文部省より命じられた37。 この欧米視察中に野口はイタリアのローマにあるモン テッソーリが創設した子どもの家(

casa dei bambini

) を訪問し,ロサンゼルスでは本人との面会を果たして いる38。またこの時,彼は「モンテッソーリ教育法国 際教員養成コースとその実習場であるモンテッソーリ スクール」を視察した39

 帰国後まず野口が着手したのが,幼児教育における モンテッソーリ教育法や教具の導入である。竹田宏子 は,野口が幼稚園段階における子どもに対する「感覚 教育」の必要性をモンテッソーリから学び,1918 年 に彼が設立した城北幼稚園の保育実践にモンテッソー リ教育法および教具が採用されていたことを明らかに している40

 また,橋本や多田建次は,野口が,教育課程・時間 割・試験・賞罰などによる拘束から子どもを解放する モンテッソーリの徹底した自由教育の方法に共鳴し,

これを師範教育の改革案に応用しようとしたことを指 摘している。この改革案は「姫路プラン」とも呼ばれ,

野口は 1919 年に姫路師範学校の教職員に対してこれ を発表した。彼はこれを実践に移す意志を持っていた が,文部省からの許可が降りず,また,彼が同年帝国 教育会専務理事に就任し同校を去ることとなったため に実現はされなかった41

 以上のように,姫路師範学校在籍時代,野口はモン テッソーリの徹底した自由教育の方法に共鳴し,これ を実践に応用しようと試みていたことが先行研究に よって指摘されてきた。

 ただし,野口は姫路師範学校を去った後も,モン テッソーリ教育の研究を継続しており,1921 年には モンテッソーリの著作を翻訳し解説を加えたものを

『自由教育と小学校教具』と題して上梓している。こ の原典は,モンテッソーリによる 1916 年の著作『アド バンスド・モンテッソーリ・メソッド』(

The Advanced Montessori Method

42であり,1909 年のモンテッソー リの主著,通称『モンテッソーリ・メソッド』(

The Montessori Method

43が幼児教育を想定していたのに 対し,同著は小学校教育を想定した彼女の思想および

教具について論じたものであった。

 日本においてモンテッソーリ教育が幼児教育を中心 に最も盛んに紹介,議論されていたのは主に 1912 年 から 1916 年であったと指摘されている44。野口が『自 由教育と小学校教具』を上梓した 1921 年には,その 関心のピークは既に過ぎており,彼自身同年に「一時 其の教具等も少しは売れたさうであるが今日では殆ど 顧るもの無く」,「女史の勢力は我国には殆ど何物も与 へて居ないと言つても宜しい」と述べている45。この ように教育界全体としてはモンテッソーリへの関心が 低下してきた時期に,野口がモンテッソーリ教育を改 めて紹介しようとした意図はどこにあったのか。彼に よるモンテッソーリ教育受容に関する先行研究は,先 に見たように姫路師範学校時代の取り組みを検討して おり,その後の時期においても野口がモンテッソーリ 教育に関心を寄せていたことはほとんど注目されてこ なかった46

 そこで以下では,姫路師範学校を去ってからの野口 の置かれた立場や取り組みの状況をふまえつつ,彼が この時期に雑誌に投稿した論稿も用いて,モンテッ ソーリ教育の受容の着眼点を検討していきたい。

 既述の通り,野口は 1919 年に姫路師範学校長の職 を辞し,帝国教育会専務理事に就任している。それま で教育実践の現場に身を置くことに強い拘りを持って いた彼が同会会長の沢柳政太郎による再三の要請に応 えたのは,「教育振興」のためには教育者が政治的な 運動に立ち上がる必要があることを自覚したからで あったという47。そして『自由教育と小学校教具』が 出版された 1921 年の 3 月には,野口は教育擁護同盟 を結成し,当時の内閣より提出された地方教育費整理 節減に関する建議案への反対運動に奔走していた48。 種々の制約を受けながらも教育の理想を追求していた 姫路師範学校時代とは異なり,この時期の野口は教育 界全体の厳しい現実と向き合う日々を送っていた。彼 は『自由教育と小学校教具』の序文で,当時の教育界 を「厳密な規則の下に,画一的な制度の上に,抑へつ けられて,身動きもならない状態」であると述べてい る49。こうした状況の中でモンテッソーリが実践した ような教育を実現するにはどうしたらよいのか,とい うことが彼にとって大きな課題となっていた50。  そこで野口は少人数の学級をつくることや,学校設 備を充実させることなど,自由教育実現に向けた種々 の条件を提示したのであるが,中でも彼が自由教育実 現の条件として第一に挙げたのが「優良なる教育者」

を育成することであった51。これに関連して彼は次の ように述べる。

(6)

或る制限の下にあつても,猶且児童等の自由を尊重 し,其の興味を尊重し,彼等をして自ら進んで研究 するに至らしむる道は多々あると思ふ。そして自信 ある教師ほど,此の清新な空気を教育界に注入する ことが出来るのである。私は世の教員諸君が努力奮 励して,充分の意気を以つて,各々其の可能な範囲 に於て此の教育主義[=自由教育]を実現せられん ことを深く希望する。52

この引用から明らかなように,野口は自由教育が実現 するか否かの鍵は,教師にあると考えていた。さらに,

彼はモンテッソーリによる他の著書でなく,あえて

『アドバンスド・モンテッソーリ・メソッド』を紹介 した理由ついて,それまでの著書や研究書では教育方 法や教具の紹介に重きが置かれていたのに対し,本著 は「女史の教育思想を充分に論述したもの」であった からであると述べていた53

 『自由教育と小学校教具』を上梓した時期,野口自 身は教育実践の場に身を置いていたわけでない。当時 の彼は,モンテッソーリの教育方法や教具のみならず,

その思想,特に教師論を紹介することで,現場に立つ 教師の意識改革を促進しようとしていたのではないか と考えられる54

 また,彼はモンテッソーリの教師論を紹介した際,

「本当の教師としての修養の甚だ困難なこと」を感じ たと述べており55,『アドバンスド・モンテッソーリ・

メソッド』の検討は,彼にとって自身の修養論を見直 す契機となったとも考えられる。したがって以下では モンテッソーリ自身の教師論を整理した上で,それを 野口がどのように理解していったのかを検討していき たい。

4.モンテッソーリの教師論の受容

4.1 教師に要求される「科学的精神」

 林信二郎によれば,モンテッソーリは自身の理想と する教育を実践する上で,必要な資質を備えた教師を 得ることが不可欠であることを早い段階で認識してお り,1909 年には最初の「モンテッソーリ教員養成コー ス」を開校し,教師教育に着手したという56。そこで 教師に求める資質としてモンテッソーリが重視してい たのが,「科学的精神」である。

 よく知られるように,モンテッソーリはもともと医 者,あるいは人類学の研究者であり,19 世紀から 20 世紀の転換期における「優生学的な知の渦中」で科学 者としての思想を形成していた57。こうした背景を

もっていたが故に,彼女は,あらゆる思弁性や先入観 を排する科学的な手法による教育学を打ちたてること を目指したのであった。

 モンテッソーリが,科学的な手法を教育に導入すべ きとしたのは,「古い学校の教師」が「形而上学的な 哲学原理に従って養成」されたがために「権威者とみ なされている特定の人々の思想を理解し」,その思想 の実現をのみ志向している状況を変えなければならな いと考えたからであった。つまり,子ども一人ひとり の違いを無視して権威づけられた一定のやり方で教育 が行われていることを問題としていたのである。そこ で教師は,「人体測定の方法,感覚器具の使用法,「心 理学的資料」の収集」などによって個々の子どもを理 解できるようにならなければならないと彼女は考えた のであった58

 しかし,ここで注意すべきことは,以上のような

「科学的技術」を身につけたとしても,それを「機械 的」に活用するだけならば,「古い学校の教師」が

「「形而上学的な哲学原理」に盲従していた状態と本質 的には変わらなくなってしまうとモンテッソーリが捉 えていたことである59。そこで彼女は,教師が「科学 的技術」よりも「科学的精神」を身に付けなければな らないとして次のように述べる。

われわれが教師において陶冶しなければならないの は,科学者の機械的熟練よりもその精神

0 0

であると信 ずる。[中略]そこでわれわれは,教師を指導して

0 0 0 0

, 彼のためにより広いより大きい可能性への扉を開い ている科学的精神

0 0 0 0 0

を,彼自身の特殊な分野である学 校と関連させて目覚めさせようとしている。要する にわれわれは教育者の精神と心の中に自然現象への

0 0 0 0 0 0

関心

0 0

を目覚めさせ,その結果彼が自然を愛しながら,

実験を準備し,そこから新事実を期待する人の気を もんで待ち望む態度を理解して欲しいのである。60

ここでいう「自然現象

0 0 0 0

」とは,子どもの自然性を指し ていると考えて差し支えなかろう。彼女は教師自身が,

子どもに対して「関心」を持つこと,言い換えれば,

目の前の子どもを知ろうとする意志を持つことが必要 であると考えていたのである。

 野口が翻訳した 1916 年の著作『アドバンスド・モ ンテッソーリ・メソッド』においてモンテッソーリは,

「科学的精神」についてさらに詳しく説明を加えてい る。彼女は,「教育学が科学の仲間入り」をするなら ば,教師は科学者の「特質」である,「「観察」の能 力」を身につけなければならないという。この能力は,

(7)

先にみたように観察対象への「関心」を原動力とし,

さらに副次的な三つの態度によって構成されている。

第一の態度としてモンテッソーリがあげるのが「忍 耐」である。これは「重要に思われていないことに持 続的に綿密に向かう力」であるという。第二の「謙 譲」は「権威的に絶対的真理を述べる人の威厳を捨て,

生徒と共に真理を追求」する姿勢を指す。そして第三 の「自己放棄」は「真理と向き合う」際に「先入観を 持たず」,「自分の考えが間違っていれば,その場で捨 てる」ことのできるような「常に新鮮で清澄な裸のま まの心でいる」ことを意味した61

 教師が観察によって発見しなければならないことは,

それまで見過ごされてきた子どもの欲求やその性質で ある。そうしたことに目を向けるためには,既有の価 値観に囚われず,子どもの「自然」に対する真摯な態 度が必要であり,これがモンテッソーリの要求する

「科学的精神」の要点であった。

 そして,モンテッソーリは教師が観察すべき子ども の状態について以下のように述べている。例えば,「ピ ンでとめられたたくさんの美しい蝶を入れた標本箱」

と同様に「座席や机へとしばりつけられている」状態 の子どもは「科学的研究の材料」にならないという62。 子どもを研究の対象として相応しい状態にするには,

「適切な科学実験室の準備」,すなわち「子どもに発達 手段を与え,特に自由を尊重すること,そして精神的 現象を発露させ,彼[=子ども]を真の「観察材料」

にするための環境」を整備する必要がある63。さらに 教師は,このような環境の中で子どもを観察する実践 を繰り返すことでこそ,子どもへの関心が芽生え,「科 学的精神」やそれに付随する態度を身につけることが できるのであると彼女はいう64。モンテッソーリの教 育において自由が強調される理由は,それが教育を科 学の水準にまで高めるための必須条件となっていたこ とにあった。

4.2 モンテッソーリの教師論の理解と修養論の深化  モンテッソーリ教育の要点として野口が捉えたのは,

「児童の本性」に対し「絶対の信頼」を置き,それが 正しく発達するように「妨害物」を取り除き,必要な

「境遇を供給」することであった65。そしてこの点に 自由教育の困難さがあるとして,野口は次のように述 べる。

自由教育は放棄教育では無い。余程賢明な処置を要 するものである。賢明な干渉教育である。従つて余 程六かしい充分の頭脳と手腕とを要する教育である。

単に[モンテッソーリ]女史の教育法の形式を学ん だ丈けでは,到底充分に行ふことが出来ぬ。[中略]

つまりは教師其の人の手腕如何によつて其の成績に 非常な相違があることゝ思ふ。66

このように野口は,自由教育に取り組む教師にとって 重要なのは,モンテッソーリ教育の「形式」に精通す ることではなく,「教師其の人の手腕」であると考え ていた。彼は,姫路師範学校時代から教師の人格を最 も重視していたが,ここでは「充分の頭脳と手腕」の 必要性を強調しており,彼の教師に対する要求が拡大 していることが認められる67。では,これに伴って彼 の修養論はどのように展開していったのだろうか。

 野口はモンテッソーリの教師論を参照し,「女史の 教員養成に関する意見は大体に於て正鵠を失つては」

おらず,「理想としては是非其斯くありたいものであ る」と共感している68。そしてここで彼が共感を示し たのが,先に見たモンテッソーリのいう「科学的精 神」,すなわち「観察対象」への関心を原動力とする

「「観察」の能力」であった。野口の翻訳では,「忍 耐・謙遜・無執」とされ,以下のように説明が加えら れている。

第一に必要な性質は忍耐である。科学者の観察には 余程此の忍耐が必要で,是が無くては到底観察する ことが出来ぬ。次には謙遜な態度が必要なんだ。傲 慢に構え込んでは科学の研究は出来ぬ。特に我執を 排斥せねばならぬ。事実上の心理の前には我を執し てはならぬ。69

野口は,自身が持つ既有の子ども観に囚われずに,未 だ見出し得なかった子どもの姿を捉えようと努める姿 勢が,教師に求められる科学者としての態度であると するモンテッソーリの教師論を理解していたことがわ かる。既述の通り,野口はこれを受け,「本当の教師 としての修養の甚だ困難なこと」を感じたという。モ ンテッソーリのいう「科学的精神」をもって,教育実 践に取り組むことが,教師の修養上重要な意味を持つ と野口は理解したのであった。

 さらに野口は,教師が「科学的精神」を身につける と同時に,学校が「実験研究所」とならなければなら ないというモンテッソーリの主張に触れており70,こ の後の彼の教師論を見ると,教師の「科学的精神」の 形成に「実験研究室」としての学校が必要であると捉 えていたことが窺える。例えば,1924 年に発表され た「新教育に於ける教師の態度」という雑誌記事にお

(8)

いて彼は,教師が「子供達から学ぶと云ふ態度」を身 につける必要があるとした上で次のように述べる。

子供達がその盛な活動力をほしいまゝにして疑問の 数々を連発し,又は自由自在に仕事を組み立てゝ行 く間に,彼等の自然の天性が発揮せられ,其の傾向 が遺憾なく表現せられる所に,彼れ[=教師]の取 るべき道が明かに確実に看示せられるのである。彼 れの学ぶべき道は実にこゝにあるのである。71

この引用から読み取れるように,彼は,自由自在に活 動することによって発揮される子どもの自然性に直面 するときこそ,教師はさらなる学びや向上すなわち修 養の契機を得ることができると考えていたのである。

 以上のように,野口はモンテッソーリの教師論から,

自由教育の担い手としての教師には,「科学的精神」

が形成されなければならないことと,その形成のため には,学校が子どもの活動の自由を認める「実験研究 所」となる必要があることを学んでいた。そして彼は,

これらが教師の修養にとって欠かすことのできないも のであるとの認識を得たのであった。

5.おわりに

 野口は一貫して,自己の信念の形成を教師に求め,

そのための修養を重視していた。欧米視察以前,彼は 教育の成否は教師の人格にかかっていると考えており,

それに伴ってこの時の彼の修養論は,人間性や道徳性 を磨くことに主眼が置かれていた。同校では,様々な 形で修養の機会が設けられていたが,そこからは教師 に特有の修養のあり方は認められなかった。こうした 彼の修養論にとって大きな画期となったのは,モン テッソーリ教育の受容であったと考えられる。

 従来,野口によるモンテッソーリ教育受容は,姫路 師範学校時代の取り組みについて考察がなされてきた が,本研究では,彼が同校を離れてからもモンテッ ソーリの教師論に学び,修養論を深化させていったこ とを明らかにした。この時期野口は,教師にとって重 要なことは,子どもの未知なる自然性を直視しようと し,それによって自己自身を変えようとする「科学的 精神」を形成することであると認識するようになって いった。さらに彼は,教師の「科学的精神」を形成す るためには,子どもに活動の自由を認め,その自然性 を充分に発揮させることが必要不可欠で,学校はこの 状態が確保された「実験研究所」となる必要があると 考えるようになった。すなわち野口は,教師が修養す

るために必要な条件や環境について考察するように なっていったのである。

 1924 年,野口は教育の世紀社同人の一人として児 童の村を設立する。同校は大正新教育において最も徹 底した自由教育を実現した学校として評価されるとと もに72,既述の通り,その構想の一つが教師の改革に あったことが指摘されてきた。しかしながら,従来の 研究では,児童の村の構想がなぜこの課題を含むこと になったのかが検討されてこなかった。本研究では,

野口が姫路師範学校辞職後も教師の修養を課題とし続 け,この時期,より具体的に教師の修養のあり方を論 じていたことを明らかにした。この点をふまえれば,

野口は児童の村に教師の修養上必要不可欠な「実験研 究所」としての役割を求めていたとも考えられるので ある。つまり,児童の村は,野口による教師教育の構 想の延長上に位置づく可能性があるのではないだろう か。今後は同校の構想や設立後の実践について,教師 教育の視点から,その意義や特質を検討していくこと を課題としたい。

1 海老原治善は児童の村について,「戦前におけるカリキュ ラム研究と実践の成果の到達点」であったと評価し(海老 原治善『現代日本教育実践史』明治図書,1975 年,809 頁),

梅根悟は,「大正期新教育のいわばクライマックスを示す もの」であったと評価している(梅根悟『新教育への道』

梅根悟教育著作選集 2 ,明治図書,1977 年,256 頁)。

2 中野光は,教育の世紀社の結成時に発表された「宣言」

から「教育者の自己変革の必要性」が強調されているこ とが読み取れると指摘している(中野光「池袋児童の村 小学校の教育」中野光・高野源治・川口幸宏『児童の村 小学校』黎明書房,1980 年,28 頁)。また,中内敏夫も同 社の運動が,「教師の人間変革」を目指したものであった としている(中内敏夫「教育の世紀社史研究の課題と方 法」民間教育史料研究会編『教育の世紀社の総合的研究』

一光社,1984 年,24 頁)。

3 教育の世紀社の発起人は野口と下中弥三郎(1878 1961)

であった。また,教育の世紀社が発足時に定めた「「教育 の世紀社」の教育精神」は,新教育連盟(The New Education

Fellowship)の「教育精神」を参考とした,野口の原案を

もとにしていることからも,その精神的支柱が野口であっ たと考えられる(野口援太郎「池袋児童の村小学校の創設 について」永田与三郎編『大正初等教育史上に残る人々と 其の苦心』東洋図書,1926 年,254 255 頁)。

4 先行研究では,野口が姫路師範学校の職員とともに作成し

(9)

た「学規」(1902 年),「理想の教師」(1903 年)を中心的な 史料として彼の教師論が検討されてきた。特に「理想の教 師」は,彼の教師観が集約されたものとして注目されてき た(大井令雄『日本の「新教育」思想─野口援太郎を中心 に─』勁草書房,1984 年,8 17 頁,橋本紀子「野口援太 郎の生活史」民間教育史料研究会前掲書,48 頁,多田建次

「野口援太郎と姫路師範学校─大正期教育改革の軌跡(そ の一)─」『玉川大学文学部紀要』第 31 号,1991 年,13 頁)。

5 大井同上書,15,31 頁,橋本同上書,48 頁。

6 橋本同上書,51 頁,大崎裕子「野口援太郎における教育 思想形成過程─西洋新教育の影響を中心に─」『南九州大 学人開発達研究』第 2 巻,2012 年,31 42 頁,同「新教 育における理論と実践に関する一考察─池袋児童の村小 学校での野口援太郎と野村芳兵衛の関係に注目して─」

『関東学院大学人間環境研究所所報』第 16 号,2017 年,3 18 頁。

7 宇野美恵子「野口援太郎の教育思想─「自由教育」と「知 天」の構造─」『教育哲学研究』第 52 号,1985 年,19 20,

24 25 頁,多田前掲論文,17 21 頁,竹田宏子「野口援 太郎によるモンテッソーリ教育法の受容と実践」『広島大 学教育学部紀要 第一部(教育学)』第 43 号,1994 年,49

56 頁。

8 伊津野朋弘「大正期教師「修養」論の思想─新教育論と の関連を中心に─」『北海道教育大学紀要(第一部

C)』

第 23 巻第 1 号,1972 年,1 頁。

9 例えば,野口援太郎「教師論を推薦するについて余の意 見を述ぶ」『姫路師範学校同窓会会報』第一回温旧会紀念 号( 臨 時 増 刊 ),1906 年,17 19 頁, 同「 教 育 学( 下 )」

『姫路師範学校同窓会会報』第 15 号,1909 年,31 頁,同

「師道を語る(第一回)」『師道を語る』第 1 輯,城西学園 中学校印刷部,1938 年,11 頁。

10 三先生言行録刊行会編『三人の先生』三先生言行録刊行会,

1955 年,216 頁。

11 橋本前掲論文,44 47 頁。

12 野口援太郎「訓話その二」『姫路師範学校同窓会会報』第 1 号,1905 年,15 頁。

13 吉田公平『日本における陽明学』ぺりかん社,1999 年,

14 頁。

14 サミュエル・スマイルズ著,下谷和幸訳『セルフヘルプ

─天は自ら助くる者を助く─』野間教育研究所,2000 年。

15 野口前掲「教育学(下)」25 頁。

16 野口援太郎「祝辞」長谷川憲一編『母校創立三十周年記 念号』姫路師範学校同窓会,1931 年,12 頁。

17 野口援太郎「師範教育の変遷」国民教育奨励会編『教育 五十年史』民友社,1922 年,375 頁。

18 姫路師範学校同窓会編『姫路師範三拾年の教育』兵庫県

姫路師範学校同窓会,1931 年,7 8,19 頁。

19 野口援太郎「自由教育の原理としての自然と理性」『教育 の世紀』第 1 巻第 1 号,1923 年,57 64 頁,同「野口援 太郎氏教育学」大日本学術協会編『日本現代教育学大系』

第 12 巻,モナス,1928 年,307 330 頁(講演筆記,筆者 不詳)。

20 野口前掲 「教師論を推薦するについて余の意見を述ぶ」

17 頁。

21 野口援太郎「己れを知れ」『姫路師範学校同窓会会報』第 5 号,1906 年,5 頁。

22 野口援太郎「「理想の教師」について」長谷川前掲書,

219 220 頁。

23 野口前掲 「教師論を推薦するについて余の意見を述ぶ」

18 頁。

24 同上書,19 頁。

25 同上書,18 19 頁。

26 同上書,17 19 頁。

27 和崎光太郎「青年期自己形成としての〈修養〉論の誕生」

『日本の教育史学』第 50 巻,2007 年,32 頁。

28 伊津野朋弘「明治末期教職倫理の一性格─教育行政官僚 制の前近代性に関連して─」『北海道教育大学紀要(第一

C)』第 21 巻第 1 号,1970 年,25 頁。

29 野口前掲「教育学(下)」25 31 頁。

30 野口前掲「祝辞」12 13 頁。

31 野口前掲「教育学(下)」31 頁。

32 姫路師範学校同窓会前掲書,145 頁。

33 野口援太郎「泅水術練習に就て」『姫路師範学校同窓会会 報』第 3 号,1905 年,1 10 頁,同「黙想に就て」『姫路 師範学校同窓会会報』第 6 号,1906 年,9 12 頁。

34 この点については,久木幸男による研究に詳しい(久木 幸夫「野口援太郎と近藤純悟」『横浜国立大学教育紀要』

第 11 号,1971 年,65 83 頁)。

35 野口は教師に対して「筆舌の上の学問」ではなく「事実 上の学問」を学び,「自己の遣つて居る経験を省察し是を 思考し他人の夫れを観察することを主」としなければな らないと述べていた(野口前掲「教師論を推薦するにつ いて余の意見を述ぶ」16 頁)。ここでいう「自己の遣つて 居る経験」が教育実践を想定していたとすれば,机上の 学問よりも,子どもと直接関わる経験に基づいて修養す ることを求めていたと考えることもできる。しかしなが ら,この時点ではこれ以上の説明や言及がみあたらない。

36 野口援太郎他「月例夜話会 道徳教育に就いて」『教育の 世紀』第 2 巻第 7 号,1924 年,99 頁。

37 三先生言行録刊行会前掲書,217 頁。

38 野口援太郎『自由教育と小学校教具』集成社,1921 年,2 3 頁。

(10)

39 竹田前掲論文,50 頁。

40 同上書,49 56 頁。

41 橋本前掲論文,51 52 頁,多田前掲論文,17 21 頁。

42 野口は 1917 年に英訳されたものを使用している。なお,本 著は,Spontaneous Activity in Education およびThe Montessori Elementary Materialの 2 冊からなる。

43 正しくは,『子どもの家の子どもの教育に適応された科学的 な教育学の方法』The Montessori Method: Scientific Pedagogy as Applied to Child Education in “The Children’s Houses”)。

44 戦前期におけるモンテッソーリ教育に関する教育雑誌記 事数の調査を行った永井優美によれば,最も早いものが 1912 年,翌年に記事数のピークを迎え,その数は 1917 年 には激減しているという(永井優美「モンテッソーリ教 育情報の普及」橋本美保編著『大正新教育の受容史』東 信堂,2018 年,14 37 頁)。

45 野口援太郎「モンテッソリー女史と自由教育説」『明日の 教育』第 1 巻第 3 号,1921 年,2 頁。

46 宇野美恵子は,野口が姫路師範学校を去った後,『自由教 育と小学校教具』を上梓するまでのモンテッソーリ教育 の研究によって,子どもの発達に応じた「教育的な設備 と条件」を「科学的」な方法を用いて整備することの必 要性を確信したと指摘している(宇野前掲論文,19 20,

24 25 頁)。しかし,野口があえてこの時期にモンテッ ソーリ教育に着目し,それを紹介しようとしていた意図 は明らかにされておらず,また教師論に関する検討もな されていない。

47 野口援太郎「教育者の政治運動」『教育』第 447 号,1920 年,2 10 頁。

48 中内前掲論文,21 頁。

49 野口前掲『自由教育と小学校教具』1 頁。

50 同上書,164 頁。

51 同上書,163 頁。

52 野口前掲「モンテッソリー女史と自由教育説」16 頁。

53 同上書,3 頁。

54 実際に野口は,「何かなしに昔の人の教育説を受け入れて,

それをそのまゝに伝へることを能事とする学者先生では 新教育の先生となることはできない」として,教師が既 存の教育方法を模倣するのみでは,新教育は実践できな いと考えていた(野口援太郎「新教育に於ける教師の態 度」『教育の世紀』第 2 巻第 10 号,1924 年,30 頁)。

55 野口前掲『自由教育と小学校教具』56 頁。

56 林信二郎「モンテッソーリ教師論」『埼玉大学紀要(教育

学部)教育科学』第 34 巻,1985 年,69 頁。

57 山内紀幸「モンテッソーリにおける「子ども」─ 一九−

二〇世紀転換期の優生学的な知の中で─」『教育哲学研究』

第 77 号,1998 年,78 91 頁。

58 モンテッソーリ著,阿部真美子・白川蓉子訳『モンテッ ソーリ・メソッド』世界教育学選集 77,明治図書,1974 年,

11 13 頁。

59 同上書,13 15 頁。

60 同上書,14 15 頁。

61 モンテッソーリ著,阿部真美子訳『自発活動の原理─続 モンテッソーリ・メソッド─』世界新教育運動選書 19,

明治図書,1990 年,127 130 頁。

62 モンテッソーリ前掲『モンテッソーリ・メソッド』18 頁。

63 モンテッソーリ前掲『自発活動の原理─続モンテッソー リ・メソッド─』126 頁。

64 同上書,132 133 頁。

65 野口前掲『自由教育と小学校教具』162 頁。

66 野口前掲「モンテッソリー女史と自由教育説」14 頁。

67 ただし,『自由教育と小学校教具』において野口は,「性 格の高貴」であることも教師には必要であると述べてお り,この時期においても教師の人格が重要であると認識 していたことが確認できる(野口前掲『自由教育と小学 校教具』56 頁)。

68 同上書,55 頁。

69 同上書,54 頁。

70 同上書,53 頁。

71 野口前掲「新教育に於ける教師の態度」31 頁。

72 中野は,児童の村を伝統的な学校に関するあらゆる既成 概念を超越した,「大正期のいわゆる「自由教育」をもっ とも徹底してここに実現したもの」と表現している(中 野光『大正デモクラシーと教育』新評論,1977 年,115 頁)。

付記

 本稿は,香山太輝「野口援太郎の修養論─教師にお ける科学的態度の形成─」(橋本美保・田中智志編著

『大正新教育の実践─交響する自由へ─』東信堂,

2021 年,86 107 頁)をもとに,その後行った野口援 太郎によるモンテッソーリ教育受容に関する調査を加 味して修正を加えたものである。

(11)

*1 United Graduate School of Education, Tokyo Gakugei University

*2 Tokyo Gakugei University (4‑1‑1 Nukuikita-machi, Koganei-shi, Tokyo, 184‑8501, Japan)

―― 修養論に与えたモンテッソーリ教育の影響に着目して ――

The Development of Entaro Noguchi’s Thought on Teachers:

Focusing on the Influence of Montessori Education on his Self-Cultivation Theory

香 山 太 輝

* 1

・遠 座 知 恵

* 2

KOYAMA Taiki and ENZA Chie

学校教育学分野

Abstract

This paper aims to examine the development of Entaro Noguchi’s thought on teachers.

Previous studies have pointed out that Noguchi emphasized the importance of humanity and morality of teachers, but these studies only analyzed his idea at the beginning of his career as principal of Himeji Normal School. However, little is known about the development of his thoughts on teachers. This paper investigated his study of Montessori education after leaving Himeji Normal School and clarified the evolution of his self-cultivation theory as the core of teacher training.

Influenced by Montessori, Noguchi had come to consider teachers’ self-cultivation from the following viewpoints. First, teachers need to cultivate the “scientific spirit” that enables them to see children from a new perspective and reflect on their teaching through observation of the naturalness of children. Second, schools must become the “experimental laboratory” that let children be active without restraint and make them exhibit their naturalness. “Experimental laboratory” is necessary for teachers to cultivate “scientific spirit.” In brief, Noguchi deepened the consideration about requirements and circumstances for teachers’ self-cultivation.

Keywords:

Entaro Noguchi, Maria Montessori, teachers’ self-cultivation, Taisho New Education

Department of School Education, Tokyo Gakugei University, 4-1-1 Nukuikita-machi, Koganei-shi, Tokyo 184-8501, Japan

要旨 : 本研究では,野口援太郎の教師論の形成過程に着目し,その中核に位置づく修養論がどのように展開 していったのかを解明することを目的とした。

 先行研究は,野口の姫路師範学校着任当初の言説を検討し,彼が教師の人間性や道徳性を重視する教師論を 唱えていたことを指摘してきた。しかしながら,その後の時期に彼の教師論がどのように展開していったのか は検討されてこなかった。これに対し本研究では,姫路師範学校を辞職した後,彼がモンテッソーリ教育に注 目し,これに学ぶことで彼の修養論を深化させたことを明らかにした。

 この時期に彼は,子どもの未知なる自然性を直視しようとし,それによって子どもや教えることについて今

(12)

の「科学的精神」を形成するためには,子どもに活動の自由を認め,その自然性を充分に発揮させることが必 要不可欠で,学校はこの状態が確保された「実験研究所」とならなければならないと考えるようになった。つ まり,野口はモンテッソーリの教師論に学ぶことで,教師の修養に必要な条件と環境についての考察を深める ようになったのであった。

キーワード : 野口援太郎,マリア・モンテッソーリ,教師の修養,大正新教育

参照

関連したドキュメント

Standard domino tableaux have already been considered by many authors [33], [6], [34], [8], [1], but, to the best of our knowledge, the expression of the

The general context for a symmetry- based analysis of pattern formation in equivariant dynamical systems is sym- metric (or equivariant) bifurcation theory.. This is surveyed

We show that a discrete fixed point theorem of Eilenberg is equivalent to the restriction of the contraction principle to the class of non-Archimedean bounded metric spaces.. We

Instead an elementary random occurrence will be denoted by the variable (though unpredictable) element x of the (now Cartesian) sample space, and a general random variable will

We study the classical invariant theory of the B´ ezoutiant R(A, B) of a pair of binary forms A, B.. We also describe a ‘generic reduc- tion formula’ which recovers B from R(A, B)

The theory of log-links and log-shells, both of which are closely related to the lo- cal units of number fields under consideration (Section 5, Section 12), together with the

We relate group-theoretic constructions (´ etale-like objects) and Frobenioid-theoretic constructions (Frobenius-like objects) by transforming them into mono-theta environments (and

The theory of log-links and log-shells, which arise from the local units of number fields under consideration (Section 5), together with the Kummer theory that relates