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暗 夜 の 信 仰 の 近 世

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序   かつてH・ブレモンは︑一七世紀フランスにおける神秘主義の興隆を﹁神秘主義の侵入﹂および﹁征服﹂と表現した︒だが︑S・ウダールが強調したように︑フランス王国内ではすでに世紀初頭から神秘主義的思潮への警戒感

が高まっていた︒近世神秘主義の生命は︑撞 着語法││明るい闇︑沈黙の音楽︑等々││に象徴される本質的に多

義的な﹁語りかた﹂にあったが︑世紀半ばから後半にかけては︑幻視や脱魂などの﹁体験﹂とともに︑神学的言説 稿

『宗教研究』94巻輯(2020年)

暗 夜 の 信 仰 の 近 世

││

 

一七世紀フランス神秘主義における十字架のヨハネ解釈の諸相

 

││

渡   辺       優

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に収まらないこの﹁常軌を逸した︵extraordinaire︶﹂語りかたが争点化し︑﹁通常の︵ordinaire︶﹂神学的言説に回収

しようとする動きも顕著になる︒一般に近世神秘主義は︑その歴史的正統性を擁護したフェヌロンの著﹃諸聖人の箴言解説﹄の断罪︵︶をもって終息したとされるが︑退潮の要因は一七世紀を通じて進行した言語解体

︵経験を語る言葉の術語化=定型化︑神学的言説への再統合︶の運動に求められるのである 1︒   本稿の目的は︑近世神秘主義の言語に内在する緊張を念頭に置きつつ︑神秘主義的信仰論の諸相を概観し︑その帰趨を見通すことである︒議論の焦点は︑十字架のヨハネ︵︶の﹁暗夜の信仰﹂論に置かれる︒それは︑

近世神秘主義の隠れた主題である﹁純粋・赤裸な信仰﹂論││あらゆる感覚的体験を退けた﹁暗き信仰﹂の境涯に

留まるべきことを説く││の決定的源泉だった 2︒もっとも︑ヨハネの信仰論を参照したのは一部の神秘家だけでは ない︒アビラのテレサと並び一六世紀スペイン神秘主義を代表するこの跣足カルメル会士の教説は︑近世フランス・カトリック界に幅広く受容された︒世紀末の静 寂主義︵概して魂の受動的な祈りと神への自己放棄を重んじ︑

近世カトリック教会から異端視された思潮︶をめぐる論争でも︑ボスュエとフェヌロンは各々の立場からヨハネを

読んだ 3︒神秘主義の擁護者のみならず弾劾者もヨハネを参照し︑自説を権威づけたのである︒   こうしたヨハネ解釈の多様性を細やかに捉えるためには︑近世神秘主義をめぐる諸々の相克を視野に入れつつ︑

まずはヨハネの教説それ自体の多義性を理解する必要がある︒そのうえで本稿は︑一七世紀フランスのヨハネ解釈

において︑信仰の暗さを消極的・否定的に捉える傾向が強まってゆくことを見通す︒暗夜を一義的に﹁冷たい夜﹂として語る傾向は︑反神秘主義者たちの解釈に鮮明に表れている︒彼らが何を読み損ねたか 00000000を明らかにすること

で︑暗夜の一義化が神秘主義の言語解体と並行関係にあったことがみえてこよう︒ただし︑この流れを単線的︑一

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暗夜の信仰の近世

方向的な傾向に還元することはできない︒本稿は最後にスュランのヨハネ解釈を取りあげ︑近世にも別様の解釈の命脈が存在したことを確かめる︒

一  十字架のヨハネの

暗夜

の教説と信仰=愛論 1  暗夜の両義性  ││  冷たい夜と熱い夜  ││   ﹁暗い夜︵noche oscura︶﹂は︑ヨハネの四つの主著﹃カルメル山登攀﹄︑﹃暗夜﹄︑﹃霊の讃歌﹄︑﹃愛の生ける炎﹄を

貫く根本モチーフであり︑鶴岡賀雄の言葉を借りれば﹁神との合一に向かう道程を論ずるヨハネの教説全体の出発

点であり︑またそれの展開する場を開いて行く言葉でありイメージである 4﹂︒それはまた一貫して信仰の 000暗夜であ る︒﹁神との合一のためにふさわしい︑本来の方法﹂︵S. II, 8, 1︶とされる信仰だが︑まず問われるべきは︑いかな

る意味においてそれは﹁暗い﹂のかということだろう︒

  第一にヨハネは︑魂が得るいかなる個別的な認識も表象も︑神へと向かう道を阻むものであり︑退けるべきものであると主張する︒幻視︑啓示︑霊的な言葉や感情といった﹁超自然的な知覚﹂についても同様である︒それゆえ

﹁神に達するためには︑理解しようと欲するよりもむしろ理解しないようにするべきであり︑よりいっそう神の光

に近づくためには︑目を開いているよりもむしろ目を閉じ︑闇に留まるべきである﹂︵S. II, 8, 5︶といわれる︒すべて﹁判明で個別的﹂なものは神との合一から遠く隔たっているものとして拒絶されるのに対し︑ただひとつ﹁曖昧 で︑暗く︑漠然とした﹂観念︵noticia︶である信仰のみが肯定される︵S. II, 10, 4; S. II, 29, 5; S. II, 29, 7︶︒   ﹁感覚や霊を︑それらすべての知覚や味わいから完全に赤裸にして︑暗く純粋な信仰のうちを歩ませなければな

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らない﹂︵N. II, 2, 5︶︒超常的なものも含めて︑すべて神ならぬ認識へのこだわりを厳に戒めるヨハネの暗夜は︑そ

のうちで魂が霊的な荒み︑乾き︑苛烈な苦しみを被る﹁冷たい夜﹂としての一面をたしかにもつ︒﹁霊の歓喜と味わい﹂に惹かれがちな﹁初心者﹂に必要な暗夜について彼はいう︒﹁この暗夜の中で神は︑純然たる無味乾燥と内

的な闇において︑それらの味わいや愉しみの乳房から彼らを離れさせ︑すべてそれらの不作法や幼稚な行いを取り

去る﹂︵N. I, 7, 5︶︒この苦しみは時に︑自らが神に棄てられたと信じる魂の絶望的な苦しみとなる︒﹁この痛み苦しむ魂が︑ここで何よりも辛く感じることは︑神が自らを見棄て︑自らを忌み嫌い︑闇の中に投げ込んでしまったと

いうことが明らかにみえることである︒神が自らを見棄ててしまわれたと信じることは︑魂にとって︑重大な︑痛

ましい苦しみである﹂︵N. II, 6, 2︶︒   他方でヨハネは︑見果てぬ神に焦がれて暗夜に彷徨う信仰者の魂にこそ﹁愛の炎﹂は燃え立つと語る︒﹁この暗い窮地のさなかにあって︑魂は︑神についての或る種の感覚や予感のようなものを抱き︑強烈な神の愛によって︑

激しく︑鋭く傷つけられたと感じる︒︹︺この時︑霊は強い愛に燃え立っていることを感じる︒なぜなら︑この

霊の燃焼は︑愛の熱情を生じさせるからである﹂︵N. II, 11, 1‑2︶︒愛の炎は魂に圧倒的な活力をもたらす︒﹁ひとたび炎が魂を燃え立たせたならば︑魂は︑すでに神に抱いている尊敬とともに︑非常な力と勢いとを帯び︑神への激 しい焦 燥︵ansia con Dios︶を抱くようになるのが常であり︑愛の熱が与えられ︑その結果︑魂は︑極めて大胆にな って︑何ものにも目をくれず︑何事をも構わないようになる﹂︵N. II, 13, 5︶︒   冷たく過酷な夜から一転して魂を焦がす﹁熱﹂を帯びるヨハネの暗夜は︑信仰論であると同時に︑あるいはそれ 以上に﹁愛﹂の教えである 5︒彼は第一の主著﹃カルメル山登攀﹄から︑信仰の暗夜が深まり︑信仰が赤裸であるほ

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暗夜の信仰の近世

ど神の愛はいっそう深く魂に注がれると述べていた︵S. II, 24, 8︶︒﹃暗夜﹄では﹁観想は愛の学知である︒︹︺なぜなら︑ただ愛だけが︑魂を神と結び︑合一させるものだからである﹂︵N. II, 18, 5︶といわれる︒叙述のスタイル

に明白な転換がみられる﹃霊の讃歌﹄および﹃愛の生ける炎﹄でも︑神を求める魂の道程は相変わらず﹁暗い﹂︒

しかし︑そこで描写される信仰の夜はよりいっそう﹁愛に満ちた夜﹂である︒﹃霊の讃歌﹄の序文でヨハネは︑﹁愛によって知られる神秘的叡智﹂について﹁信仰と同じように︑そこにおいて私たちは神を理解することなしに愛す

るのです﹂︵CB. Pról., 2︶と語る︒スコラ神学では修練によって知られる神的な真理は︑神秘神学 6において﹁ただ知 られるのみならず︑いっぺんに味わわれるのです﹂︵CB. Pról., 3︶︒ヨハネにおける信あるいは愛が︑知性的認識と は別の圏域にある知であるということは︑後世のヨハネ解釈を思想史上の問題として検討するうえでも極めて重要な前提である 7︒

2  暗夜の多義性 ││ 三つの﹁暗さ﹂ ││   ヨハネの暗夜には︑魂が浄化の苦しみを被る﹁冷たい夜﹂と︑愛の炎が燃え立つ﹁熱い夜﹂という二面性が認められる︒しかし︑これだけでは暗夜の多義性を十分に把握したことにはならない︒後世の解釈の多様性を見越して

考察を掘り下げておく必要がある︒

  議論の糸口としてヨハネによるスペイン語表現の使い分けに注目しよう︒J・バリュジによれば︑暗夜を叙述するヨハネの用法は次の三つに大別できる 8︒①単数形の﹁闇﹂︵tiniebla︶︑②複数形の﹁闇﹂︵tinieblas︶︑③﹁影﹂︑﹁暗 い﹂︑﹁暗がりに﹂︵oscridad, oscuro, a oscuras︶︒問題はこの三つの表現がそれぞれどのような意味内容に対応してい

るかである︒必ずしも厳密に区別できない用例や例外もあるものの︑M・ミルネールも踏襲しているように︑およ

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そ次のような傾向の別が認められる 9︒①光り輝く神の闇︑②神の光と対立する被造物の闇︑③神の光と被造物の闇

とのあいだの明暗︒これら三種類の闇︑暗さの表現と意味の区別は︑ちょうど前節で引用したテクストにも確かめることができる︒再度引用しよう︒①﹁よりいっそう神の光に近づくためには︑目を開いているよりもむしろ目を

閉じ︑闇に留まるべきである︵poniéndose en tiniebla︶﹂︵S. II, 8, 5︶︒②﹁この痛み苦しむ魂が︑ここで何よりも辛く 感じることは︑神が自らを見棄て︑自らを忌み嫌い︑闇の中に︵en las tinieblas︶投げ込んでしまったということが明らかにみえることである﹂︵N. II, 6, 2︶︒③﹁この暗い窮地のさなかにあって︵en medio de estos oscuros aprietos︶︑

魂は︑神についての或る種の感覚や予感のようなものを抱き︑強烈な神の愛によって︑激しく︑鋭く傷つけられた

と感じる﹂︵N. II, 11, 1︶︒   もっぱら否定的な意味をもつ被造物を覆う闇︵②︶と︑なお暗さの中にありながら愛の炎に照らし出されるような明暗︵③︶との区別については︑ヨハネ自身が次のように明言している︒﹁霊的な言いかたにおいて︑暗さの中にい

る︵estar a oscuras︶ということと︑闇の中にいる︵estar en tinieblas︶ということとは︑別の事柄である︒なぜなら︑ 闇の中にいるということは目が見えないということであり︑すでに述べたように︑罪の中にいるということだからである︒しかし︑暗さの中にいるということは︑罪なしにそうであることもありうる﹂︵LB. III, 71︶︒文字通り陰影

に富み多義的であるこの③の用法は︑それだけに捉え難く︑次章にみるように往々にして後世の解釈の盲点とな

る︒しかし︑ヨハネの暗夜の教説と信仰=愛論を理解するうえでの要諦であるこの微妙な明暗の重要性は︑たとえば︑﹃愛の讃歌﹄のよく知られた歌の一節││﹁︹あのかたは︺あけぼのがたちそめるころの/静かな夜/沈黙の

楽/ひびきわたる孤独/愛に酔わす︑たのしい夕 食﹂︵CB. XV︶││に加えられた次の解説にも明らかだ︒

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暗夜の信仰の近世

ここでこの神的光を﹁あけぼのがたちそめるころの﹂光︑すなわち朝と呼ぶのは︑きわめて適切である︒なぜなら︑朝が明けはじめると︑夜の暗さは追い散らされ︑昼の光が現われるように︑神において静かに憩うこの

霊は︑自然的認識の闇から神の超自然的認識の朝の光へとあげられるのだから︒この認識は︑明るいものでは

なく︑すでに述べたように︑﹁あけぼのがたちそめるころの﹂夜のように暗い︵oscuro︶︒﹁あけぼのがたちそめるころの﹂夜は︑すっかり夜というわけでもなければ︑すっかり昼というわけでもなく︑いわば二つの中間に ある︒︵CB. XV, 23︶   信仰の暗さと明るさという逆説は﹃カルメル山登攀﹄以来繰り返される主題だが︑これについてさらにイメージ

豊かな語りが展開されるのは最後の著作﹃愛の生ける炎﹄においてである︒第一の歌を引用しよう︒﹁おお︑愛の生ける炎!/やさしく傷つける/私の魂の最も奥深い中心で!/あなたはもう心なきものではないのだから︑/お

のぞみならもう終わらせてください︑/この甘美な出会いの幕を破ってください﹂︒ここで歌われている﹁幕﹂に

ヨハネが加えている解説に注目したい︵LB, I, 29︶︒彼は︑この幕︵las telas︶が魂と神との完全な合一を妨げている障壁であると述べたうえで︑破られるべき三つの幕を列挙する︒第一の﹁現世的幕﹂は︑魂がまずそこから離脱す

るべき世俗の事柄である︒第二の﹁自然的幕﹂は︑魂に備わる自然的な欲情全般である︒そして第三の﹁感覚的

幕﹂は︑魂と肉体との結合であり︑肉体をもって地上に暮らす魂の生そのものである︒

  しかし︑この歌を歌うような段階にある魂にとって︑はじめの二つの幕はすでに破られており︑したがって魂は

﹁いまあるようなかたちで︵como aquí está︶神と合一するに至っている﹂という︒というのも魂は︑ここに至るまで

にすべて世俗の事柄を放棄し︑自然的な欲求や情感をも克服して浄化されているからだ︒とすれば︑のこすは感覚

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的幕を破ること︑すなわち魂と肉体の結合を解くことである︒ところがヨハネはこう続ける︒

もはや破るべきはこの幕だけなのだが︑それはいまやきわめて薄く繊細であり︑かの神との合一によって霊化されているため︑炎は他の二つの幕に対して行ったような苛烈さをもって襲うことはなく︑風味豊かに甘美に

出逢われる︒したがってここでは︑﹁甘美な出会い﹂と呼んでいるのであるが︑この出会いは︑生の﹁幕を破

る﹂時が近づいているとみえればみえるほど︑風味豊かで甘美なものとなるのである︒︵LB, I, 29︶   重要なことは︑﹁この甘美な出会いの幕を破ってください﹂という魂の訴えにもかかわらず︑実のところ幕は破 0

れてはいない 000000ということだ︒ヨハネは︑肉体をもってこの世を生きる人間の生を︑破られるべき﹁卑しく弱い生﹂

︵LB, I, 31︶であると語っているが︑望むべき﹁甘美な出会い﹂は︑その生の幕を破ることによってもたらされるの

ではなく︑むしろ幕があることによって可能になると語っているかのようである︒

  ﹁この甘美な出会いの幕を破ってください﹂という歌にヨハネが加える二度目の解説は︑事態の消息をより明ら かにしてくれる︵LB, I, 32︶︒ヨハネはここで︑人間の﹁生﹂が﹁幕﹂と呼ばれる理由を三つ挙げる︒人間の生が

﹁霊と肉とが織り合わされたものであるから﹂という第一の理由︑また﹁神と魂のあいだを隔てるものであるから﹂という第二の理由は︑肉体をもつゆえに地上に縛り付けられ︑神の﹁崇高で強靭な生﹂から隔てられて生きるほか

ない人間の﹁卑しく弱い生﹂の否定的価値をいうものと︑ひとまずは解釈できる︒

  だが︑ヨハネの主張の重心は第三の理由にこそある︒﹁あまり厚くなく目の詰んでいない布がいくらか光を透すように︑この状態において︑魂はいまや大いに霊化され︑照らされ︑薄くされているため︑魂と肉の織り合せはご く薄い幕のようであり︑その薄さのため神性の光が漏れださずにはおかないほどだからである﹂︵LB, I, 32︶︒幕は

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暗夜の信仰の近世

やはり破れてはいない︒言い換えれば︑神を求める魂の道には最後まで暗さ 00が付きまとう A︒しかし︑その幕が薄くされ︑あるかなきかにまでに至るそのとき︑人間の生︑そしてすべて被造物の価値は︑それ自体に神の光が染み渡

るようになり︑根源的肯定へと転化する︒隔てる幕は︑むしろさまざまな対立的価値││霊と肉︑来世と現世︑光

と闇││を織り合わせる幕となるのである︒幕の破れによってではなく︑幕があることによって﹁事物のすべて 000を神が感じるように感じる﹂︵LB, I, 32︶という事態が魂にもたらされる︒かくしてヨハネの信仰観念は︑あらゆる個

別的認識の否定の極致たる﹁無﹂の観念にみえて︑しかし︑焦がれるように神を希求する愛の裡に︑人間世界に顕

現するもの一切の全面的肯定へと至る B︒   ﹁幕﹂という比喩をめぐるヨハネの語りかたそれ自体のうちに︑彼の信仰=愛の神秘主義の真髄は認められる︒それは︑さまざまな対立項を織り合わせてゆく言葉の運動である︒暗夜そして幕という言葉に凝縮された可能性と

しての多義性が︑この動態の源にある︒

二  一七世紀フランスにおけるヨハネ解釈の諸相 1  テクストの翻訳   テクストの翻訳の概況に限定して︑一七世紀フランスにおけるヨハネ受容を一瞥しておこう C︒最初に公刊された仏訳版はR・ゴーチエの訳によるもので︑一六二一年にパリで出版された︒翌二二年には︑同じくゴーチエによる

﹃霊の讃歌﹄の仏訳が││後にブリュッセルで初めて日の目をみる﹃霊の讃歌﹄西語版に五年先立ち││パリで出

版された︒ただし︑ヨハネのテクストの仏訳は︑西語の活字本が上梓される以前に︑ボルドーのカルメル会修道院

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内で企図されていた D︒ポントワーズの同会修道院でも︑フランス霊性派の源流をなすアカリ夫人が﹃カルメル山登 攀﹄の手写本に接していた E︒その後も︑C・ド・ラ・ナチヴィテによる著作集の仏訳︵︶︑J・マイヤールによる著作集の仏訳︵︶と︑一七世紀を通じて複数の翻訳が出版された︒

  ただし︑テクストの翻訳は改竄と表裏一体であった︒たとえば︑深い神学的︑哲学的教養に支えられ︑神秘家た

ちの著作の倦むことなき編集︑公刊に尽力したことで知られるP・ポワレが︑一七〇〇年にマイヤール訳に与えた次の評価は︑反神秘主義的思潮が強まる近世フランスのヨハネ受容のありかたを考えるうえでも示唆に富んでい

る︒マイヤール訳についてポワレは﹁以前の訳︹シプリアン訳︺よりも明晰に︑より適切な表現で訳されている﹂

との肯定的評価を与える一方︑次のように続ける︒﹁訳者が原文の意味をよく理解していないと思われる箇所がい

くつかある︒加えて︑冗長な繰り返しを避けるという口実のもと︑あまりにも多くの原文を削除してしまっている︒あるいはおそらく︑原文を削除することで︑いまや多くの者たちにとって不都合であるような章句︑つまりハ

ルフィウスの著書から削除されたようなものに類する章句を︑抹消しようとしたのだろう G﹂︒一六世紀半ば以降︑

フランスでも多くの版を重ねたハルフィウスの﹃神秘神学﹄は︑北方神秘思想由来の鍵概念を全西欧に広めたテクストである︒ところが︑そうした概念を含み︑神秘主義に特徴的な語りかたは︑避けるべき﹁過剰さ﹂として︑一

七世紀を通じて排斥されていったのだった H︒神秘主義にも思考と言語表現の﹁明晰さ﹂を求める傾向は︑多義性を

旨とする暗夜の教説の解釈にも影響しないはずはなかったと考えられる︒

2  反神秘主義的言説の伸長とヨハネ  ││  暗夜の一義化  ││   一七世紀フランスにおけるヨハネ解釈を概観するとき︑反神秘主義言説の台頭と呼応するかのように︑﹁冷たい

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暗夜の信仰の近世

夜﹂の一面が際立ってくるようにみえる I︒以下では︑それぞれ世紀前半と後半を代表する二人の反神秘主義的思想家について︑暗夜理解の一義化の傾向を確かめるとともに︑神秘主義の言語に対する否定的態度との連関を明らか

にする︒

︵1︶ジャン=ピエール・カミュ   まず検討したいのは︑一六四〇年に刊行されたカミュの著﹃神秘神学﹄である︒フランソワ・ド・サルの宣揚者

として知られるカミュは︑師と同じく︑広く一般信徒たちに実践可能な霊性として神秘主義を再形成しようとし

た︒ディオニュシオス以来の神秘神学の伝統や︑同時代の神秘主義文献にも通じていたカミュだが︑彼には神秘主

義に対して相反する二つの態度が認められる︒すなわち彼は︑一方では人びとの霊性の興隆を支えそれを養うものとして︵真の︶神秘主義の効用を評価するのだが︑他方では︵偽の︶神秘主義の有害な側面として﹁常軌を逸した﹂

体験および言語を非難するのである J︒   まず体験批判について︑﹁幻視と啓示﹂を主題とする第五論考を検討しよう︒ここでカミュは︑慎重な留保を重ねつつも︑神秘家たちが語る幻視や啓示を︑アビラのテレサのものを含め最終的には全面的に否定する︒このと

き︑自説を根拠づけようと彼が持ち出してくるのが﹁幻視や天啓の偉大な懲 罰者﹂ Kたるヨハネであり︑ほかならぬ

暗夜の教説である︒極めて高度な観想と︑神秘神学の深い学識によるすべての彼の著作は︑ただひとつの点をねらい定めているよ

うだ︒それは︑あらゆる欲動を完全に克服することによって︑あらゆる感覚をそうした感覚が向かう望ましい

対象から引き剥がすことであり︑想像力によるものであれ知性によるものであれ︑幻想︑形色︑想像物︑観念︑

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形相を精神から剥ぎ取って︑善きものであれ悪しきものであれ︑幻視や天啓がもたらす印象を取り除いて精神 を空 にし︵これは十字架のヨハネの言葉である︶︑そうして暗闇の中の︑雲に包まれてある︑そして聖ディオニュシオスの言葉を用いれば︑暗黒の中にある︑神の観想に到達するのである︒これは十字架のヨハネが魂の 暗夜と呼ぶものである L︒   ヨハネに従えば体験に真偽の区別はなく︑すべて拒絶されるべきという︒カミュにおいてヨハネの教説は︑自らが真の神秘主義と考えるもの││﹁通常の﹂信仰一般の規範に適う神秘神学││にそぐわない﹁超常の﹂体験全般

を排斥するに有用な武器と化す︒暗夜の教説はまた︑ディオニュシオスがいう﹁暗黒における神の観想﹂と同一視

される︒カミュは︑ディオニュシオスという権威にヨハネの教説を帰着させ︑浄化の試煉の果てに到達されるべき

観想の極致として﹁暗夜﹂を理解し︑かくしてヨハネの暗夜を一義化したともいえる M︒   神秘主義の﹁常軌を逸した﹂言語ないし語りかたに対するカミュの攻撃は︑体験に対するそれにも増して激し

い︒彼の言語批判については︑ヨハネの教説の解釈が直接関わってくるわけではない︒しかし︑本稿二︱2で検討

した︑﹃愛の生ける炎﹄の第一の歌に歌われる﹁幕﹂を語るヨハネの言葉・イメージと︑次に引用するテクスト││サンダエウス﹃神秘神学﹄︵︶中の一節││にみられるそれとの類似を知るとき︑私たちの議論にとって

のカミュの重要性はいや増す︒カミュは︑﹁超卓越的観想﹂をめぐるサンダエウスのこの語りかたを正面から否定

しているからである︒神の顔を覆うすべての幕が取りのけられるわけではないが︑しかし︑近づきがたい光に包まれた神を︑知性は

その目で見つめる︒ちょうど︑きわめて薄い覆い布から︑あるいは灯の覆い紙から漏れ出す光のように︑愛す

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暗夜の信仰の近世

る者の顔が垣間見えるのである N︒   極めて﹁ヨハネ的﹂にもみえる Oこの﹁幕から漏れ出す光︵愛する者の顔︶﹂を︑カミュはしかし︑彼一流の皮肉

を利かせた調子で次のように片づけてしまう︒

ここから私が教訓を引き出すとすれば︑ただ次のことでしかない︒すなわち︑神 秘的で受動的なこれら︿神 ミステール秘﹀には︑あれこれ言葉による表象より︑︿沈黙﹀をもってするほうが︑はるかに相応しいやりかたで覆いをかけ

ることができるということだ︒そうした表象は︑低劣にすぎるとは言わないが︑しかし滑稽なものであって︑

受動的︑超卓越的観想の悦びを︑ランプの覆い紙や幕の中に閉じ込めてしまうのだ P︒   ここに露骨に表れている神秘主義の語りへの無理解は︑暗夜の多義性への無理解と言い換えられるのではないか︒ヨハネの暗夜の微妙な明暗︑﹁あけぼのがたちそめるころの﹂夜の﹁暗さ﹂を理解できない者の眼には︑それ

は滑稽な駄弁としか映らなかった︒あるいはむしろ︑それを語る言葉への無理解ゆえに︑暗夜は一義化されたとい

うべきかもしれない︒

︵2︶ピエール・ニコル

  世紀末に反静寂主義として決定的に顕在化する反神秘主義陣営の最も強力な論客の一人ニコルは︑﹃祈禱につい て﹄︵︶を締めくくる最後の一章︵第七巻第八章︶をヨハネの暗夜の解釈に割いている︒﹁十字架のヨハネ師の教えはけっして無感覚が魂の最もよい状態であるとは説いていないこと﹂と題されたこの章においてニコルが 展開する﹁暗夜﹂解釈の要点は︑次の二点にまとめられる R︒第一に︑神に向かう魂の最終目的地は合一であり︑暗

夜はあくまでも通り抜けるべき一過程にすぎないということ︒第二に︑暗夜とそこで魂が経なければならない数々

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の試煉は︑罪人である人間の弱さに由来するものであり︑本来悪しきものだということである S︒彼にとって︑暗夜

の暗さはすなわち罪に由来する暗さであり︑どこまでも否定すべき状態なのである︒

  ニコルの暗夜解釈は︑しかし︑まったく一面的というわけではない︒彼は︑ヨハネのいう﹁闇と乾きの状態﹂ が︑﹁にもかかわらず多くの光と多くの愛とを含む﹂と明言している T︒この言葉をもって︑ヨハネの暗夜がたんに

﹁冷たい夜﹂ではないという認識は︑ニコルにもあったというべきだろうか︒しかし︑彼はこう続ける︒それゆえヨハネ師は︑こうした闇および乾きと︑世の一般の人びとや完徳に至らぬ人びとのそれとをまったく

別物として区別している︒後者は︑怠惰や傲慢を罰するがために神が恩寵を取り去ってしまうところの闇であ

り乾きである︒というのも︑ヨハネ師が説いているのは︑そこにおいてはおよそ被造物のうちにはいかなる味

わいも見いだされないという闇だからだ︒説かれているのはつまり︑人は被造物の虚栄と無なることとを知り︑心の奥底に造られざる善を求め︑それを愛するということである U︒

  ニコルは︑暗夜に輝く光や燃える愛を語るヨハネの言葉を︑あくまで霊的上級者向けに語られたものと限定的に 解釈しながら V︑ヨハネが語る闇を︑被造物ではなく内なる神を愛すべきという内面主義的教説に還元する︒こうして彼は︑ヨハネの暗夜を否定することなしに︑闇や乾きをどこまでも罪の問題に還元する自らの立場を堅持する︒

結果的にヨハネの暗夜は︑﹁およそ被造物のうちにはいかなる味わいも見いだされない﹂という﹁冷たい夜﹂に一

義化される︒暗夜の﹁光と愛﹂は︑ニコルにはついに空疎な言葉でしかなかった︒

  カミュにとってと同じく︑あるいはそれ以上に︑ニコルにとってヨハネの暗夜の﹁明暗﹂を認識することは困難

だった︒そしてこの困難は︑ニコルが至福直観と信仰を鮮明に対比・対置し︑この世における神認識の可能性を語

(15)

暗夜の信仰の近世

ろうとする﹁純粋・赤裸な信仰﹂論を論難したことと密接に結びついているように思われる︒次に引用するのは︑ニコルやボスュエによる批判の槍玉に挙げられたギュイヨン夫人の著﹃雅歌註解﹄︵︶の一節である︒

人はこの至上の善を︑この世において信仰の暗夜の裡に享受するのであるが︑この信仰の暗夜にあっては神を

見るという悦びをもつことなしに至上の善を享受する幸せを得るのだ︒来世においては︑神をおのれのものとする幸せとともに神の明晰な見 ヴィジョンを獲得することになろうが︒しかし︑この盲目状態は真の所有を妨げるもの でもなければ︑いとも真実なる対象の享受を妨げるものでもなく︑神的な婚姻の成就を妨げるものでもない W︒   ギュイヨン夫人はヨハネの熱心な読者であり︑卓越した理解者だった X︒信仰の暗夜を語る彼女の言葉には︑﹃カ ルメル山登攀﹄中のヨハネの言葉﹁信仰というこの愛に満たされる暗黒の知解は︑ちょうど︑栄光の光が天上にお

いて神を明らかに見るために役立てられるようにこの世において︑すでにある形で神的一致の道となる﹂︵S. II, 24, 

4︶と同じ響きが聞こえる︒しかし︑それはニコルには聞こえるべくもない響きだった︒   最晩年の著書﹃キエティストどもの主たる誤謬を糺す﹄のなかでニコルは︑先に引用したギュイヨン夫人の信仰論を徹底的に糾弾している︒とりわけ彼が問題視したのは︑来世においてのみ可能な至福をこの世において享受で

きるとする主張であり︑それは彼の眼には﹁べガールども﹂︑つまり一三世紀から一四世紀初めにかけてフランド

ルを中心に多数出現した在俗修道者たち︵ベギン派︶の誤謬を繰り返すものにも映った︒﹁聖アウグスティヌスは︑死が支配するこの世に至福を求めた哲学者たちを嘲弄したが︑しかし彼女はあいかわらず至福を現世に求めること

をやめず︑人がそのように求めることを擁護さえしている Y﹂︒来世の至福とこの世の信仰を区別せよというニコル

の批判は︑﹁鏡に映ったものを朧にみる﹂認識の域を出ない地上の信仰の不完全性・時間性と︑天上の認識の完全

(16)

性・永遠性を区別したアウグスティヌスの権威に基づくものであり Z︑また︑ベギン派を異端として断罪した公会議 の決定に連なるものである a︒   しかし︑ニコルにとって暗夜の教説の真に非難すべき点は︑異端の教説との類似というより︑むしろその﹁言い

回し﹂にあった︒

彼女のいうことがすべてわ ざとらしい言い回しであって︑もし彼女がそれ以上の説明を施すのであれば︑その意味はなにかまったく平凡なことがらに帰着するであろうことは明らかである︒ところが︑この者たちの心を

そそることはといえば︑異端者どもの言葉や表現を真似することも︑異端者どもの見解と一致をみることも恐

れずに︑常軌を逸した︑秘密めかしたやりかたで語ることなのだ b︒   ここにおいてニコルとカミュに共通する姿勢が浮かび上がってくる︒彼らはいずれも︑信仰の暗夜が説く﹁明暗﹂を認識できないがゆえに暗夜を一義化した︒そして︑暗夜の﹁明るさ﹂への彼らの﹁盲目﹂は︑信仰の暗夜を

語るその語りかたへの無理解と通底していた︒

3  暗夜に燃える炎 ││ スュランにおけるヨハネ ││   暗夜の一義化という事態が認められるのは反神秘主義言説に限ったことではない︒一六八六年︑イエズス会内の

神秘主義的思潮を代表する一人ジャン・リゴルによる五編の論考を収めた﹃霊的論考﹄が出版された︒第三論考第

二章にはヨハネの暗夜の教説が手短にまとめられている c︒第一節﹁暗夜とは何か﹂の冒頭部に端的な定義が置かれている︒

福者十字架のヨハネが魂の暗夜と呼んでいるのは︑完全なる苦行であり︑魂に備わるあらゆる能力の全面的な

(17)

暗夜の信仰の近世

浄化であり︑古い人を脱ぎ去ることであり︑一切の被造物の包括的な空無にほかならないのであって︑神が︑私たちと一つになるために︑私たちに要求する最後の態度なのである d︒

  リゴルの考えるヨハネの暗夜は︑超常の体験を求める霊的貪欲さなど︑魂のもつ欠点を根こそぎにし︑浄化する 試煉の夜にほかならない︒それは﹁乾き︑荒み︑悲嘆︑闇︑そしてその他すべての肉体的霊的な能力を見事に浄化する︑秘密の苦しみ e﹂をもたらす︑どこまでも禁欲的な夜なのだ︒そこに﹁愛の炎﹂は認められない f︒

  ところでリゴルの﹃霊的論考﹄は︑出版の翌年︑うち三編︵第二︑第三︑第四論考︶が抜粋され︑匿名著者によ る﹃幻想なき祈り︒偽りの観想の誤謬に抗して g﹄として新たに出版された︒タイトルからも窺い知れるように︑反 静寂主義文書として再編集されたのである︒つまり︑暗夜の教説は反神秘主義・反神秘体験論に読み換えられ︑ヨ

ハネは偽の神秘体験を断罪する文字通りの﹁懲罰者﹂となった︒これは︑一七世紀におけるヨハネ解釈のひとつの

流れを証示する象徴的事例であるように思われる︒しかし︑暗夜の多義性を豊かに解釈し︑暗い夜に燃える愛の炎

を語ろうとした神秘家たちもたしかにいたのである︒その証言者││おそらくは最良の││の一人として︑最後にスュランを取りあげよう︒

  一六六一年出版の﹃霊のカテキスム﹄第四部第七章において︑スュランは﹁大いなる財︵bien︶は大いなる苦し

みを経験した者にしか与えられないのか﹂という問いに︑はっきり﹁否﹂と答えている︒﹁神の導きは多様かつ自由﹂であるがゆえに︑﹁特別な恵みに与るために︑そのような苦しみを経験していなければならないということは

けっしてない h﹂︒大いなる財は﹁通常の恩寵の流れ﹂の中にすでに与えられている︑と彼はいう︒

結論として私が言いたいことは︑十字架のヨハネ師が語っていることだ︒︹︺すなわち︑この地点にまで到

(18)

達した魂たちは神の栄光にあまりにも接近しているため︑両者のあいだには一枚の幕しかないのだが︑そこに 神の栄光はうち迫り来るのである︒覆い紙に迫り︑ぶつかっては引いていく松明の灯りのように︒同様に︑信仰と現前の生のはざまは︑そこを通じてかの栄光が現れにやって来る︑薄紙のごとくである i︒

  信仰の﹁幕︵une petite toile︶﹂をめぐるこの語りは︑ヨハネが﹃愛の生ける炎﹄で歌ったあの﹁幕︵la tela︶﹂の変

奏である︒最晩年の著﹃神の愛についての問い﹄︵︶の第三巻第八章でもスュランは繰り返している︒﹁ときに魂は︑神のさまざまな完全性の充溢を感じることすらある︒それはいと高きものであり︑高くされた

感覚によって︑信仰を超えているかのようである︒しかし他方では︑それはこの同じ信仰の幕に覆われている︒信

仰をこれ以上なくうまく説明するのは︑囲い枠や覆い紙の向こうにみえる炎のごとく︑うち迫り来る神の栄光の松

明である j﹂︒スュランにおいても︑信仰の幕はついに破れない︒事実︑晩年のスュランが語る魂の道程はつねに暗 0

0︒彼は︑ルダンの悪魔憑き事件に起因する数々の﹁超常の体験﹂によって現前する神の光を垣間見ながらも︑最

終的には一切の感覚的体験を拭い去り︑神の栄光から隔てられた暗い﹁信仰の状態﹂へと戻っていった︒﹁永遠の

場外区﹂とも呼ばれるそこは︑変転するこの世の生につきものの弱さや悲惨さにまみれているという︒だが︑スュランはそこに﹁愛の傷﹂を見いだす︒彼は︑信仰の幕の彼方に姿を隠した神に焦がれて疼き︑そこから愛の言葉が

湧きだしてくるようなこの傷を︑あらゆる超常の体験を凌駕する神的な宝として言祝いだのだった k︒   死と絶望の闇を抜けたスュランは︑そこから﹁信仰の状態﹂というもうひとつの夜 0000000へと入ってゆくが︑そこでこの宣教師は燃え立つ愛に駆られる︒彼は︑晩年のおよそ一〇年を司牧と宣教に捧げつつ︑信仰の神秘を語り続け

た︒ボルドー近郊の農村地帯を奔走しながら彼が書き残した書簡には︑信仰の内に﹁秘められた流路﹂を走り続け

(19)

暗夜の信仰の近世

ている神的な財の奔流を語る言葉が散見される︒この諸々の財の活動する流脈は︑信仰の包括的な観念の内にあり︑神や神の子イエス・キリストについて一般

的な事柄のほかに何か特別な富があるわけではなく︑大多数のキリスト教徒の音域に合ったものです︒そして

私には︑私たちの音域は根底において最もしがない農民たちのそれと同じであって︑私たちの主がそこに加える刺 繍音は完全かつ単純素朴なものだと思われます l︒

  ヨハネの暗夜の多義性はスュランに受け継がれ︑その豊かな信仰解釈を許した︒スュランの暗夜は︑幻視や啓示 といった現前の体験を退ける否定的側面をたしかにもっている m︒だが︑彼が称揚する信仰の暗さは︑ヨハネのそれ と同様︑暗いと同時に明るい︒そしてスュランが語る信仰の﹁幕﹂は︑あるいは﹁刺繍音﹂││高音と低音を結び合わせてハーモニーを実現する音││は︑光と闇のみならず︑霊と肉︑来世と現世とを織り合わせる 000000︒ヨハネの

﹁沈黙の音楽﹂は︑スュランをして﹁大多数のキリスト教徒﹂に共通の信仰に流れる神的な財の奔流を聞き︑そし

て語ることを可能にしたように思われる︒かくして暗夜の教説は︑スュランの神秘主義においても︑この世の変転する生の悲惨さと弱さをも呑み込むような根源的肯定を結果する︒そしてこの肯定は︑反神秘主義言説であればそ

こに否定的な価値しかみないであろう多義的な言葉︑語りかたと不可分なのである n︒

結び

  反神秘主義が強まる一七世紀フランスに受容されたヨハネの暗夜の教説は︑概して﹁冷たい夜﹂へと一義化して

ゆく傾向が認められる︒それとともに︑﹁暗夜に燃え立つ愛の炎﹂というもうひとつの︑あるいはより本質的な要

(20)

素は忘れられてゆくのである︒カミュやニコルのテクストを検討するかぎり︑その背景に窺えるのは︑ますます強

まる﹁超常の体験﹂への警戒感であり︑個々人の多様な体験を語る神秘主義的思潮を一般的な信心や伝統的な神学の規範に分類・回収しようという動きであった︒そしてそうした動きは︑神秘主義の言語︑語りかたへの批判ない

し根本的無理解に裏打ちされていた︒

  近世神秘主義の言語解体とヨハネ解釈の一義化とは連動していたと考えられる︒いずれにも共通するのは︑光/闇︑霊/肉︑来世/現世︑あるいは超常/通常︑永遠/時間︑神秘家/一般信徒など︑二つのものを判明に区別し︑

曖昧さを解消する傾向である︒対照的に︑ヨハネの暗夜の多義性︑とりわけその﹁暗さ﹂の﹁中間﹂的性格は︑本

稿が﹁幕﹂の比喩をめぐる語りに明らかにしたように︑二つのもののあいだにあって︑両者を縫い合わせる動態的

な語りとともにある︒ただしそれは︑﹁神を求めての無窮の揺らめき o﹂というスュランの言葉にあるように︑本来的に不安定な語りであるほかなく︑反神秘主義言説が強調するとおり︑矛盾や逆説︑曖昧さや冗長さを含むほかな いのだろう︒ついに破れない 0000﹁幕﹂をめぐるヨハネやスュランの信仰の言葉は︑それゆえ﹁神が︑私たちと一つに

なる﹂︵リゴル︶という一言にも落ち着けない︒だが︑それこそ知性的認識とは異なる信の︑あるいは愛の言語の可能性ではないか︒スュランをはじめ︑暗夜に燃える愛の炎を語る別様の解釈の伝統を掘り起こすことは︑とりも

なおさず近代以降に﹁知﹂の外に追いやられていった信そして愛の︑別様の知としての可能性を問いなおすことで

もあると思われる︒

(21)

暗夜の信仰の近世

San Juan de la Cruz, , 6a edición (Madrid, EDE, 2009).S. ﹃︵︶﹄N. ﹃︵︶﹄CB. ﹃︵︶﹄BLB. ﹃︵︶﹄B

Les Belles Lettres, 2008).=   Sophie Houdard,  (Paris, 1︶

︵   2︶︒   Henri Sanson,  3︶

(Paris, PUF, 1953).︵

︵   4︶〇〇〇

︵ Ysabel de Andia,  (Paris, Vrin, 2019), pp. 291‑293.︒   5︶Y・

︵   S. II, 8, 6.6︶

︵   7︶﹄︑︒   Jean Baruzi, , 2 éd. (Paris, Félix Alcan, 1931), pp. 306‑307.8︶e

(22)

︵   Max Milner, ’’ (Paris, Seuil, 2005), pp. 49‑52.9︶

︵ Max Milner, , p. 54; Ysabel de Andia, , pp. 293‑294.’’﹄︑ 10  ︶

︶︑︒ 11  ︶﹁﹁西﹂︵﹃西

︵ =﹄︑︒ 12  ︶

︵ pp. 709‑719. 13  Jean Orcibal, ‑ (Paris, Klincksieck, 1997), p. 679 sqq., 

︵ 14  Bruno de Jésus-Marie,  (Paris, DDB, 1942), pp. 658‑659.︶

︵ 15  ︶

︵ Millon, 2005), p. 142. 16  Pierre Poiret, , éd. Marjolaine Chevallier (Grenoble, Jérôme ︶

︶︑︶︑︶﹂︵﹃ 17  ︶︶﹂︵﹃

18  =︶﹄︑︶︒

︵ 19  =︶﹄︑

︵ 20  Jean-Pierre Camus, , éd. Daniel Vidal (Grenoble, Jérôme Millon, 2003), V, 28, p. 174.︶

︵ 21  , V, 29, p. 175.︶ 22  ︶稿

5︶

︵ 10︶︒ 23  Maximilien Sandaeus,  (Mogntiae, impen-︶

参照

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