近世に恥ける越前里山目村の人口動態
j長
沼
操 は
じ め に 231近世における越前黒目村の人口動態
一般的にいえば︑幕藩制時代には︑農民の離村は厳重に禁止されていた︒これは︑従前の耕地ならびに生産を確保
し︑貢租関係を安定し︑封建体制を維持するためであったことは周知のとおりである︒農村の安定政策は実はこの目
的のため労働力を確保するためのものであった︒したがって農民の農村への緊縛は決して一律に強制されたものでは
なくて︑貧農子女の出奉公は︑むしろ奨励されたような事情もあることは︑よく知られている︒しかしながら基本政
策として離村禁止の方向がとられていたこともあり農民の離村には五人組や村名主︑日一那寺等えの届出︑許可を必要
とするなど相当厄介な手続を経なければならなかった︒このような事情で︑反面︑奉公出人は一つの既得権となり︑
奉公免という形で︑特権的存在となる事情でもあった︒
何れにしても︑流通経済の侵入と︑それにともなう都市えの人口流動は︑既に近世初期から見られたが︑それは単
に時代的現象であるばかりではなく︑都市と農村との距離の問題や︑農村の生産機構などの問題が相当複雑に関連
232
し︑地域的特徴としてとらえられ︑歴史地理的な興味ある問題となる︒
越前黒目村の人口移動の形態は︑従来報告されている各種の移動形態のなかで可成特殊な問題を含むと考え︑問題
⑨
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し︑先学諸氏のご叱正を乞う次第である︒
﹂の研究の資料は︑佐久高士の﹁越前国宗門
人別御改帳﹂によるところが大きいことを︑
お 右高100石当り人口(嘉永2年)
こと
わり
して
おく
︒
この研究にあたり︑東京教育大学の浅香幸雄
教授ならびに日本女子大学の佐藤甚次郎教授か
らご指導をいただくことができたのは︑筆者の
光栄とするところであり︑深く感謝するもので
ある
︒ 第1図
一︑人口分布より見たる福井平野
本稿の主題は︑黒目村に関するものである
が︑広く福井平野の人口分布のなかで︑黒目村
の人口が︑どのような位置づけをされるかを見
る必要があると考える︒
福井平野の人口分布の概要については︑さきに拙稿①でふれるところがあったが︑戸当人口は全国平均より多少下 回 わ り
ニの例外的村落を除いて︑一般的には四五乃至三一二程度である︒更に村高百石当りの人口密度を見る
一、
と︑第1図のように︑平野の中心部および丹生山地の山脚部は四五内外を示し︑全国平均に近似しているが︑平野の
東部では三O内外︑扇状地では︑
一四
乃至
一
O
を一
部し
︑ 理解し難いような低さを示しているoこの低さは︑この平野
が低湿な水害頻発地域であり︑重税地域であって人口支持力が︑甚だ低いことを示すものである︒このなかにあっ
て︑黒目村は︑六三を一示し︑平野において例外的な高い人口支持力をもっている一一一二の村の一つである︒
これは如何なる地理的理由によるものであるか興味をひくo 近世における越前黒目村の人口動態
ニ︑黒目村の人口増加
越前黒白村は三里浜砂丘の内側にある村高四O六石一斗一升の村であって︑福井平野としては中級の農村であっ て︑少くとも幕末七0年聞には村高の変化は全くない︒この間戸数は︑六O戸乃至六五戸︑人口は二五O人乃至三O
O
人 の 間 に あ え 題 め て
yわずかな変化を示すに過ぎない︒概観的に見ると︑極めて平凡な低位安定型の農村である︒
この村の人口の年次変化を示したのが第2図である︒この図は︑寛政三一年(一八
OO )
から明治二年
(一 八六 九) までの︑この村の人別増減改帳︑宗門改帳から作製したものである②O
233
この図から次の諸項を読みとることができる︒
川黒目村の人口は総括的に見て︑長い期間にわたって︑極めて増減幅が少なく︑停滞︑安定をつづけているo福井
234
平野の停滞性と極めてよく一致する︒この限りにおいては︑特に注目すべきものはない︒
川文化年聞には多少の増減はあっても︑順調に増加している︒しかしその増加はきわめてゆるやかで︑最高三OO
人をこえない︒この村の最大可容人口を示すものと判断される︒
川天保八年から九年にかけて︑人口は急激に減少しているoこれは︑全国的な規模の天保飢鐘の黒目村における様
相を示すものである︒天保九年の死亡数は四七人で︑全く突然に高く︑絶家数七戸︑他国願二三人に及んでいる︒こ
れは男ばかりである︒この年には出生者もわずかに一名で︑飢鐘によるものであることは疑いはないo黒目村では天
保六年にも二O名の大量の死亡者をだしている︒里山目村の南方にある長橋浦村では︑
天保
五年
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八三
四)
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柚 前 回 図
細田 念品
V﹀ロ・川山崎両
が流行し︑全村人口三五七人のうち一二一六人が病気になっている︒実に八八・五%の人的損害をうげている︒平野の 中心部の田島村でも甚だしい死亡者をだしているoこれらの事実を綜合して︑一筒井平野では︑数年間にわたって︑飢
謹に見舞われ︑大きな人的損害をだしていることがわかる︒
川天保一一年を最低として人口は恢復に向い︑この年から明治初年までの三0
年間
は︑
わずかではあっても︑人口
は増加しつづけているo但しついに天保前期には及ばなかった︒
このように見てくると︑概括的には黒目村の人口は︑長い期間︑停滞安定性をもっていたことが注目されるが︑内
容的な問題を見ると非常に特殊な動態をもっている点が注目される︒
近世における越前黒目村の人口動態
三︑黒田村の人口動態
村落の人口動態を見るに当つては︑出生︑死亡︑縁組︑出入人口等について︑全体的に見なければならないが︑前
者については︑著るしい特徴は見当らないし︑本稿では︑村外への移動並びに村外からの流入人口を主題としている
ので︑自然増および縁組関係は一応除外することとする︒
黒目村の総人口は︑極めて微弱の増減を示すに過︑ぎないが︑内部的には︑大きな動きを示しているo福井平野の他
の村落の動きと比較して︑特殊な形となり︑黒目村を特徴づけていることが注目される︒
川第
3図
は︑
この村から他村への出奉公人の行先きを示したものであるo天保飢謹のときの他国願の者は例外的で
あり︑行先きも明らかでないので︑図にはあらわしてない︒出奉公人は︑周辺の村々にでているが︑村を中心に半径
235
四キロメートル以内にとどまっていることが明らかである︒それ以上の距離にあるものは︑相当の数ではあるが︑全
236
体的に見て︑例
外的であると考
えてよい︒人口
移動が近距離に
行なわれること
出奉公人行先村落
は︑地理学的に
は︑きわめて自
然 の 現 象 で あ るc後にのべる
ように︑福井平
第3図
野の村々の移動
が︑村落内部に
限る か︑
キ ロ
メートル以内の
ものが多いのと
比較
して
︑ 四 キ
ロメートルの距
離は大きいものと見られ︑黒日村の移動の一つの特徴である︒
出奉公人の人数別︑村別の行先地を見たのが第1表である︒これによって見ると︑移動先は︑三国港が圧倒的であ
ることがわかる︒表のなかの︑新保︑出村︑滝谷︑宿の各村は︑大きく見て三国港と考えなければならないので︑こ
れらを合わせると︑九OM以上は︑三国港に向っているのであって︑移動の大きな特徴であるo移動の男女別を注意 すると︑その殆んど全部は女子であることが注目されるo第1
表の数は︑必ずしも毎年の流れを示すものではなく
て︑ある年数の間続けて奉公をしている者も含まれている︒これは届出の形式の関係である︒
237近世における越前黒目村の人口動態
その内容の一部を示すと︑
文政八年
前略
人家増減御改帳黒目村
娘 娘 娘 目黒
村 主
良
のように︑清左衛門の娘は二年続けて三国に奉公しているのであるが︑表の上では︑毎年出ていったように数えてあ
女 壱 人 清 左 衛 門
此者三国折戸屋権兵衛方ニ奉公仕候
女 壱 人 与 兵 衛
此者
三国
米屋
嘉右
衛門
方一
一同
断 文 政 九 年 人 家 増 減 御 改 帳 女 壱 人 清 左 衛 門
此者三国折戸屋権兵衛方ニ奉公仕候
女 壱 人 弥 五 右 衛 門
此者
西野
中村
杢兵
衛方
‑一
奉公
仕候
238 る場合があるが︑長目村からの奉公出人が︑三国に向って集中していることは著しい事実であるc
次に注目されるのは︑他の村々の資料によると︑三国港への出入は︑黒白村に限られていて︑港の周辺の村から
は︑三国港に出ていないことであるo現代の考え方からすれば︑奉公人は︑周辺の村から白由に入ってよい筈であっ て︑この形は明らかに︑幕藩期の封建体制下における特殊の事情のあることを予察させるo
このように︑三国港への若い娘の移動は︑港町としての三国の繁昌と密接な関係のあることを知ることができる︒
川出奉公人の場合と同様にして︑黒白村に入ってくる奉公人の出身村を示したのが︑第4図である︒四キロメlト
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論口
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第 2表 入 奉 公 人
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241 近世における越前黒日村の人口動態
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第4図 入 奉 公 人 出 身 村 落
ル以内の村々から入ってくるのは︑出奉公人の場合と同じであるcただ多少距離が遠いもの︑村が分散的であること
を見ることができる︒
その人数別︑村別を示したのが第2表である︒この表から入奉公人は︑分散的であって出奉公人のような集中は見 られない︒米納津村︑下野村︑沖布目村などに多少の集中が見られる程度であるo総合計で見ると︑出奉公人の数と
殆んど同数であることが注目される︒
又男女別からすると︑男女殆んど同数である︒
このことから︑黒目村の人口移動の形は次のように理解することができる︒
この村の人口移動は︑資料のある限りにおいて︑享和年代(一八
OO )
より始まっているが︑これは︑それより可
近世における越前黒目村の人口動態 成以前から始まっている現象ではないかと考えられるo出人口は三国港の繁栄に関係し︑若い娘が三国港に奉公にで
てい
る︒
この場合︑黒目村は独占していて︑他の周辺の村々からは︑三国港に対して奉公人をだしていない︒明らかに特殊
な形態であるo
入奉公人は附近の村落から分散的に入り︑出奉公人と略同数であるが︑男女同数である︒
若い娘が村をでた数を男女の雇入れによって補っている有様が︑
はっきりして︑この動きには興味深いものがあ
る︒このような人口の入替は︑どのような事情によるものであるかを究明しなければならない︒
243
これにさきだって︑福井平野の他の村落の移動について述べ︑黒目村の人口移動と比較して︑黒目村の特殊性を明
らかにしておく必要がある︒
244
四︑福井平野の人口移動
黒目村以外の福井平野の村落の人口移動の資料は少なくないが︑二三の例を示すにとどめるo 田島村の場合田島村は︑国鉄北陸本線丸岡駅の東側に当るo幕藩時代には村高七八九石︑戸数六O戸内外で︑
ほ ぼ黒目村と同様規模の農村であるo文政六年三八二三)のこの村への入奉公人は女二名︑一人は南四キロメートル
の儀間村より︑他の一人は南一キロメートルの一本田中村よりきている︒男の入奉公はない︒この年に出奉公人は一
一名をかぞえるが︑そのうち一O名は道路をへだてた隣村の宮領村にいっているoこれは村内移動と見てよい程度で ある︒他の一名は︑北一キロメートルの長畝村にでているo人数や移動距離から見て︑里山目村と比較して全く小規模
であ
る
oこの村には連続資料があるが︑この傾向は長い期間続いている︒
この村は現在は坂井町に属しているが︑九頭竜川下流の北岸に位置し︑
余︑戸数八七戸内外︑人口二七O人︑黒目村より少し大きい農村である︒文政二二年(一八三
O) のこの村の出奉公
折戸村の場合
幕藩
期に
は︑
村高九二六石
人は女子一名で︑吉田村に行っているo他村よりの入奉公人は男子一名で︑米納津村からきている︒その他の移動と
して︑男子三五人︑女子一一名があるが︑これらは︑すべて村内の移動である︒黒目村では村内の奉公人は七0年間
にわずか一名だけであるので︑その状況は全くちがっている︒
高塚村の場合この村は︑金津町の北に接し︑加越丘陵内の農村である︒幕藩時代は村高五六七石余︑戸数三六︑
人口は一一六人で黒目村に比較して︑その半数程度の農村である︒文政二年(一八一九)の出奉公人は二名で︑男
名が隣村の金津町え︑女子一名が東南の隣村︑菅野村に行っているo他村からの入奉公は三名で︑それぞれ︑近接の
金津町︑山室村︑柿原村からきているoこのほかに村内で一一名の男子の奉公人があるが︑これは全部地名子がその 主家に奉公するもので︑一般的な奉公とちがって︑中世的な遺構を示すものとして興味があるが︑ここでは︑黒白村
の人口移動と比較して︑全くちがった形であることを指摘するに止める︒
香田町の場合この村は竹田川の北岸にあるが︑幕藩時代には村高七一O石余︑戸数四七戸︑人口二二三人︑
黒 目
村とほぼ同じ程度の農村である︒文化七年(一八一
O) の出人口は︑男一名が三国港に行っているo
黒目村以外の村
から直接三国港にでている唯一つの例であって特殊な例である︒入奉公人は総計四六人を数え可成の数にのぼってい
る︒男子二一人のうち八人は村内の移動であり︑残る一三人は︑山室村︑清玉村︑上番村等の近隣の村々からきてい
る︒女子二五名のうち︑福井からきている一人を除いては︑村内か︑上番村︑国影村︑重義村などの至近の村々から
近世における越前黒日村の人口動態
きている︒黒目村と比較して︑規模は小さい︒
このように見てくると︑福井平野では︑各村でそれぞれ人口の移動が見られ︑その事情は︑各村各様であるが︑里山
目村とちがって︑小規模であって︑集中の傾向もないことが︑明らかとなった︒入替ということもない︒
このように黒白村の人口移動は︑平野の各村と比べて非常に特殊な形態であることは明らかであり︑一二国港に向つ
て独占的な移動を示し︑周辺の他の村落からは︑一一一国港への移動は例外として一例があるだけである︒黒目村として
は出人口と同数の人口を入れているが︑これは村内の労働力の補充と考えられる︒
245
このような人口移動を図式化すると︑第5図のようになる︒この図を見ると︑伊豆大島の模式図と同様である︒伊
豆大島では︑江戸への出稼移動のあとの労働力の不足を︑神津島︑三宅島からの移住者によって補なっている︒この
246
場合は︑ラベンシュタインの法則が適用できるものと考えるが︑黒目村の場合
には︑図式としては︑大島の場合に似ているが︑孤立的な環境でもなく︑甚だ
しく近距離でもあるので内容的には全くちがって︑幕藩体制のもとでの特殊な
人口移動模式図
事情を考慮しないと説明は困難であると考える︒このような移動形態の形成
は︑しばしばふれたように︑一二国港の繁栄によることは︑明らかな事実である
ので︑次にこの港の繁栄について検討する︒
第5図
五︑三国港の繁栄
九頭竜川の河口に近く︑竹田川との合流地点に発達した三国港は︑
現 在 で
は︑交通や経済事情の変化によって︑老衰しているが︑幕藩時代には︑日本海
岸のこの方面の唯一の海港として非常に繁栄した港である︒
三国描仰が世人に注目されはじめたのは︑遠く中世以前勺あるとされている③o
中世
にな
って
︑
この附近に荘園をも
っていた春日神社や東大寺などでは︑その貢納米のうち︑三分の一乃至三分の二程度を現物で︑奈良に輸送させてい
たことが明らかになっている︒当時︑福井平野の産米は九頭竜川の水運を利用して三国港に集められ︑大船に積換え
られた︑この港に問丸が設けられたのは︑中世初期であることも知られている︒このように中世初期に既に賑わいを
見せたのであるが︑その規模は藩政時代に比べて小さかったようであるo九頭竜川の河運を中心とした関係で︑舟は 小型で︑この港の発展の核となった最初のものは︑竹田川の川口︑現在の三国港としては︑最も奥の位置であったo
てい
る︒
福井平野の物資の輸送路としての九頭竜川の重要性に注目した福井藩では︑三国港の発展に対し特別な保護を加え
加賀藩でも︑藩の南部大聖寺方面の物資の輸送に︑この港を利用せざるを得なかった関係から︑特別の保護を加え
近世における越前黒目村の人口動態 247
吉田 森ョ福井窯新誌による
てい
る
@o
藩政時代を通じて日本海海運の発展にともな
って︑船舶の大型化︑港湾規模の拡大の必要か
ら︑港の中心は次第に第6図ーより3の方向に 三国;巷の中心の移動
移動
した
︒
丸岡藩領の滝谷出村と三国港は︑地理学的に
は一つの港市を形成するが︑この水面の利用に
関し︑福井︑丸岡の両藩は永い期間にわたって
紛争を起している⑤O﹂れは三国港の発展にと
第B図
もなう中心の移動に関連したものである︒
﹂のような関係で︑福井藩の米倉庫は︑竹田
川にそって1にあり︑丸岡藩のものは3
にあ
っ た ︒
﹂れとは別に︑滝谷寺の門前町も一つの中心
248
として栄えていた︒このようなわけで︑藩政時代の大三国港は︑多中心の港市として繁昌したのである宅
日本海海運の発展と︑三国港の繁栄とは密接な関係があるo幕政初期には既に越前船或は越前資本は︑日本海沿岸
で大きな活躍をしている︒慶長三年三五九八)の記録によると︑秋田藩の木材輸送に当った廻漕人のなかには︑
国の治兵衛︑利右衛門︑新保の新助等の名が見え︑三国勢の活躍が推測される︒
このような活躍は秋田藩の例だけではない︒下北半島の木材は南部藩の財源として重要なものであり︑これらの木
材は田名部を中心として日本海を通って敦賀に輸送された︒この輸送に当って︑新保の久五郎は藩の特権的御用商人
となって活躍したことも明らかとなっている︒
三国港︑新保︑滝谷出村︑宿村等は相接続していて大三国港として考えてよいのであるが︑ここを根拠とする越前
商人は︑舟持の廻漕業者としてだけではなしに︑これに関連する資本家としても大きな活躍をしている︒彼等が取扱
った運上金だけでも︑六
OO
O両︑九
OO
両の多きにのぼったことも一再ではなかった⑦OO
このようにして︑越前船は︑津軽︑南部︑秋田各藩の米や木材を積んで︑日本海海運に活躍したが︑三国港は︑そ
の根拠地として繁栄したのである︒その実状について二三の著名なものをあげると次のようである︒
寛文八年(一六六八)の幕府の尋問に対する返答書によれば︑その概況は@
一︑
米穀
は他
国へ
出し
申候
一︑
蝋︑
漆︑
油木
実︑
他国
へ出
し申
候様
によ
り領
内不
足の
節は
留申
候
一︑
阜︑
他国
へ出
不申
候︑
他国
より
は入
申候
一︑
大豆
︑年
々領
内不
足ニ
而︑
他国
え出
不市
中候
︑他
国よ
りは
入申
候
一︑
鮭︑
鱒︑
鱈︑
領内
払底
の節
は他
国え
出不
申候
︑他
国よ
りは
入申
候
右は松平越前守領内︑米︑雑穀︑雑色︑津留出入之様子︑如此御座候︑糸︑綿布以外の者別儀無御座候者也
極めて概要だけであり︑数量等も不明ではあるが︑福井平野への物資出入の有様をうかがうことはできる︒
更に下って︑享保一O年(一七二五)の御巡検控には︑港の繁栄が一一層具体的に見えている
@o
当時の新保その他の接続地域を含めた大三国港の状況は︑
北国船三九 小 船 五 四 馬 一 一 匹
川 船 三 羽ケ瀬船
橋市 河七 小廻 一 近世における越前黒目村の人口動態
となっている︒馬は荷役用のものであろうが︑九頭竜川の河船と北国船が注目され︑この港の機能をよくあらわして
いる︒市内の繁栄振りについては︑
酒屋一七軒︑両替屋二軒︑質屋
韓役その他傾城六二人(三国)
六軒
︑網
役
一四
軒︑
絹屋
︑室
屋︑
抽拙
八軒︑鍛冶屋三O
軒︑
桶屋
八五
人(
出村
)
一 五 O
軒︑
豆腐
屋 となっている︒料理︑飲食業︑米屋等当然なければならない業種が書き上げられていないし︑桶屋の一五O軒という
のは︑如何なる理由であるか不明であるといった各種の問題を別として︑傾城合計一四七人というのは︑港町の特色
をよくあらわしているというべきであるo
当時の近接村落を合せた大三国港は︑各種の資料を綜合すると︑戸数二一七O戸︑人口は一O
八五
O人と推定され
る︒これは城下町としての福井に次ぐものと考えられるから︑その繁昌振りが推測できる︒
249
このような繁昌のなかで︑若い娘の職場は︑広かったことは︑容易に理解できるのであるが︑近代的立場から見る
、、
250
と︑それは︑黒目村に限定される理由はない︒ここに封建社会における特殊な条件を考えなければならない理由があ
る ︒
六︑黒田村の発展と人口移動との関係
農村としての黒目村は︑村高四O六石一斗一升で︑福井平野としては︑中位の農村であるo資料のある限りでは︑
幕藩期を通じて村高は変化していない︒
この村は三里浜砂丘上に立地しているが︑生産の本拠である耕地は前面の低地にある︒この低地は潟湖の開拓によ
る湿田であって︑海抜僅かに一メートル︑福井平野では最も低湿であるoこの地域は︑平時には︑石盛一六を一不し優
秀な生産力をもっている︒しかしながら︑常習的な水害地で︑実収量は甚だ低い︒水申告による被害高は︑福井平野の
なかで最大を示していることは︑この地域の免によって推定することができる︒
福井藩では︑検見によって毎年の税率をきめているが︑黒目村の税率は福井平野のなかで最も低い︒一例を示せば
文政
元年
(一
八一
八)
酉年
(文
化一
O年)二一分七厘余
成年(文化一一年)五分壱厘余
亥年
(文
化二
一生
l )
五分
七厘
余 子年(文化二二年)弐分余
丑年(文化一四年)五分八厘余
寅年(文政元年)七分下行半九俵被下置候