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(1)

F  ‑ リ ス ト

﹁ 農 地 制 度 論

﹂ と政策主体

il

小林昇と

W・O‑へンダl

ス ン の 研 究 に よ せ て

五 リスト像とリスト研究の意義リストとプロレタリアート

il

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ンダ

lスンのリスト論

小林昇のへンダlスン批判とその問題性

小林昇の﹁農地制度論﹂理解

ブルジョア・デモクラット︑リストの悲劇││まとめ

リスト像とリスト研究の意義

中 西

一九

世紀

前半

コニ

耳前

期﹂

の分裂国家ドイツにあって︑国民的生産力説と経済発展段階説および保護関税論とを

五 七

F・リスト﹁農地制度論﹂と政策主体

(2)

立教経済学研究第四一巻四号(一九八八年)

五八

もってドイツ国民の経済的政治的統一を果さんとした︑ドイツ歴史派経済学の先駆者フリ1ドリヒ・リスト

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はその政策論の挫折ゆえにピストル自殺をとげるという悲劇をもって生涯を終えたのであっ

たが︑やがて数十年を経てその影響力は蘇り︑暗いナチスの時期をへて今日に至るまでその意義がさまざまに語られ

続けてきた︒本稿はその生命力の秘密がどこにあり︑またその悲劇はなぜ生じたのかを明かそうとする一試論であ

I近年︑イギリスにおけるヨーロッパ経済史の長老でありその﹃ドイツ関税同盟都﹄で名高いへンダ る ︒

スン

(巧

0・

OD)は︑興味深い論説﹁フリlドリヒ・リストと社会問題﹂を発表してカiル・マルクスとの対比をおこな

ぃ︑そこにリストの基本的な特徴を描き出している︒それはリストが﹁工業化社会における労働者という巨大な大衆

(3

の役割を重視しなかった﹂ということである︒筆者もまたへンダiスンのこの見解に賛成であり︑リストの挫折と悲

劇とは︑社会の発展を推進する主体というものを当時のドイツにあってリストがとうとう見出し得なかった︑という

ところにあったと考えるのである︒そしてまた︑それは同時に︑推進主体があいまいのままに置かれていることによ

り︑市民社会の階級対立にあってはその融和のために︑諸国聞の対立にあっては国民的団結のために都合のよいもの

としてリストの学説が利用されるに至った︑ということにつながるのである︒もちろん︑こういう利用がリストの本

意ではなかったであろうことはいうまでもない︒そしてまた︑こういうリストの弱点にもかかわらず︑こんにちのリ

スト研究の水準が求めるリストの意義はこのような利用ではありえない︒

戦後わが国のリスト研究にあって一貫して学会をリードしてきた小林昇のリスト論は用意周到さをきわめたもので

あって︑そこに示されたリスト像とリスト研究の意義とはとりわけ大きな説得力を有している︒小林はリストを﹁夢

(3)

想的実践家﹂として把えることによってその悲劇を語り︑また︑晩年の﹁農地制度論﹂(一八四二年)の中で主張さ

れた政策思想が︑夢想であったにせよ﹁第一次大戦を超えて︑ナチス・レジームまで生きつづける﹂というそれの

( 4 )  

ドイツ資本主義の歴史的展開とのかかわりのなかに深刻な問題性を見出すのである︒

だが︑リストの夢想性がどこから来ているのかという論点において︑後に結論として示すようにさきの﹁推進主体

の欠除﹂という理由をもって小林のリスト像を正そうというのが︑筆者の意図である︒したがってこの結論からは︑

小林の強調するリストとナチスとのつながりは大幅に弱められることになる︒というのは︑﹁農地制度論﹂で展開さ

れたリストの夢想は﹁ユストゥス・メlザ!を源流とするゲルマン主義的ロマンティシズムがあらわれている﹂とい

うことに起因させる小林の理解に対して︑筆者の結論では︑そのようなナチスへとつながるメlザl的ロマンティシ

ズムはリストにはなかったことを﹁農地制度論﹂そのものの行論を検討することによって明らかにするからである︒

したがって︑この結論からは小林のいう﹁ハンセンをへてダレlへとつながる農本思想﹂としてのリスト像をも弱め

6

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ドイツ資本主義の深い矛盾と苦悩とを︑リストとナチスとがそれぞれに体現していたとしても︑両者の直接のつな

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lベンのデモグラlト﹂からドイツの﹁大産業資本家の代弁者﹂

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へと成長したリ

ストを悲劇に陥れたものは︑資本の原始蓄積を推進すべきブルジョアジーの経済的・政治的未熟さであったのにたい

し︑ナチスの悲劇は資本主義の独占段階におけるブルジョアジーとプロレタリアートとの対抗が︑帝国主義的国家対

立による敗戦の結果として民族的にゆがめられたからにほかならない︒両者の悲劇のつながりを強調する小林には︑

ドイツよりも更に遅れて出発した半封建的日本資本主義の第二次世界大戦における悲劇の影が色濃く刻みこまれてい

F

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スト

﹁農

地制

度論

﹂と

政策

主体

五 九

(4)

立教経済学研究第四一巻四号︿一九八八年﹀

ノ、

たのではあるまいか︒

しかしながら小林にあっても︑

一九

0

年代にはいってからはナチスにつながるリスト像という側面は否定はされ

ないもののうすれてゆく︒そして︑そのことと併行してリスト研究の今日的意義についてもその重点を移してゆく︒

小林は次のように述べる︒

﹁生産諸力(農・工・商業力)の国民的ーーというのは国民経済の内部での││調和的発展(こんにちの用語で

はず

弘山

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︒仏

84

2F

)

というリストの根本思想は︑ことに現在では︑たんなる工業力推進論でもなく︑後進国の

工業化のためにのみ関心を寄せられる対象でもない︒日本のような︑工業的先進国となるための代償に農業を切

り捨てて国民経済的自立を失った国においても︑リストはおのずから新たに省みられるであろう︒わたくしは戦

時中からリスト研究に従って来て︑みずからのリスト研究のなかでの実践的関心の重点が︑しだいに

8

4司吾の問題に推移してゆくのを実感した﹂ σ

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一九八三年の盛夏に書かれたこのような小林の認識の変化には︑資本主義世界第二位のGNPへと高まってゆく日

本経済の極度な物質的発展に対する危慎が込められていたのである︒すなわち︑一国の経済が国民経済的自立を失え

ば失うほど︑その国は経済成長を速めて世界貿易の場での優位を保持せざるをえず︑そのことによって国家聞の緊張

が高められ戦争の危険性が高まるのみならず︑国内の精神的安定もが危機にさらされるからである︒したがってこの

ような不安に対して小林は︑リストの根本思想とするところの国民経済の

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巧吾という穏やかな経済の

あり方を対置させるのである︒

しかしながら︑こういう小林のリスト研究の今日的意義づけに対しても︑さきの主体論の立場から一言つけ加えた

(5)

ぃ︒すなわち︑今日の世界経済のあり様のなかで︑一体どこのだれがそのようなげ色

g g a m g d

﹃吾という経済政策

を担い押し進めることができるというのであろうか︒社会主義諸国ですら資本主義の科学技術の急速な発展に恐怖し

て︑自らのぴ包

g

の 包

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司匹を放棄せざるをえなくさせられているのが今日の世界経済の特徴である︒そうして資

本主義諸国にあっては︑高蓄積と資本輸出にともなう国民経済の空洞化がますます進展しているのである︒こうした

状況があと戻りできないとすれば︑筆者には国民経済のげと

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という主張はもはや時代に即した提言と

はみなされないように思う︒そうではなく︑今日はもはや資本主義も社会主義も含めた国際的σと

g n a m g d q F

そが提言されるべきであると筆者には考えられる︒そうであるとすれば︑もはや国民という枠組はとり払われねばな

らないであろう︒それは今日の生産力の技術的発展によってつよく促されているといわねばならない︒そして︑国民

という枠が弱められたとすれば︑世界経済の

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8

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を推進する政策主体は︑けっして資本の論理(競争

と蓄積)の立場に立つものではなくて︑あくまでも︑生産し生活するという労働者一般であるということがいよいよ

明らかになってきていると言えるのではなかろうか︒政策主体の把握の問題こそリストの悲劇の問題であり︑今日の

リスト研究の意義の問題なのである︒生産力の今日的発展に︑つながされて国民という歴史的概念の政治的意義が弱ま

れば弱まるほど︑資本の論理とするどく対抗する労働者一般の概念はますます明確となって来ているのであり︑それ

8

)

はかつて古典派が描いた宮内凶器刊号の概念を高い次元において再現しうるものといえるのである︒

( 1 )

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立教経済学研究第四一巻四号(一九八八年﹀

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(4

﹀小林昇﹁へンダiスンのリスト伝によせて﹂﹃経済研究﹄第六集(大東文化大学︑一九八四年三月)︑六二ページ︒

( 5 )

小林

昇﹁

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iパl﹄のリスト﹂﹃経済学史評論﹄(未来社︑一九七一年一O

月)

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小林

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( 6 )

小林﹃著作集﹄明日︑二七一︑四二八︑四︑一一一八︑班︑四三七︑四九四ページ︒ただし︑ナチス政権の農相ダレl

の﹁

と土﹂の思想につながるとする小林の主張は︑初期の諸論考にかぎられ︑一九六六年の論説﹁リストと経済学における歴史主義﹂を最後にダレーへの言及は姿を消し︑一定の留保が置かれるようになる︒小林訳﹃農地制度論﹄(岩波文庫︑一九七四年八月﹀二八八│九ページ参照︒

( 7 )

小林﹁へンダiスンのリスト伝によせて﹂六四ページ︒

( 8 )

﹁インダストリ﹂概念については︑小林昇﹁ステュアlト﹃原理﹄における﹁インダストリ﹂について﹂

昔話

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リストとプロレタリアート

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Iスンのリスト論││

リストがドイツ国民の政治的・経済的統一と発展とのためにその情熱を傾けてたたかった︑ナポレオン戦争後の一 八一五年から﹁三月革命﹂へと収殺してゆく四

0

年代までの時期はまた︑封建的農村共同体の急速な解体とギルド制 の弛緩とによって大量の貧民が生み出されていった時期でもあ九品︒そして同時に︑すでにイギリスでは工場労働者 そのものが低賃金ゆえに貧民と化していたのである︒このような新・旧のプロレタリアートの発生に対し︑リストは

(7)

どのような態度をとワたであろうか︒このことを明らかにすることは︑リストが政策主体をどのように把握していた

かを知るための大きな手掛りとなるであろう︒

へン

lスンの論説はこの間題にとりくんだものであった︒

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へン

lスンは一九八一年の

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と題する論説を発表し︑一八一五年から一八四

0

年代にかけてヨIロ

γパに広範に存在した貧民問題に対しフリlドリヒ・リストがどのような態度をとったのかを明らかにした︒ここで

のへンダlスンの基本的な問いかけは︑どうしてリストがこの貧民問題(すなわち社会問題となるほどの大量の貧民

(2

) 

の存在)に対して多くを語りえなかったのか︑ということである︒(六九七ページ)

では当時︑貧民はどれくらい存在していたのか︒へンダ!スンによれば︑一八三四年にく巳

3 2 4 0

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見積った貧民・乞食の数はヨーロッパで二ニ

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万人以上であったという︒イングランドとウェi

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一八

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年から四七年にかけて貧民数は一

OO

万人から一七

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万人へと増大した︒またフランスでは︑

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万人ないし一八三万人と見積られる貧民が救済を求めていた︒当時のイングランドとヴェールズとの人口はおよそ一

(4

) 

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万から一八

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万ちかくであった︒またフランスの一八五一年の人口は三五八

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万たらずである︒したがって

一八

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年で

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当時︑人口の五パーセントちかくが貧民と化していたと推定できる︒今日ヨーロッパで深刻化している失業率が五パ

(5

) 

1セント前後であるから(日本は一九八五年で一・三パーセントたらず﹀︑当時の貧民問題がそうとうな社会問題と

化していたのが分かるであろう︒

一九世紀前半のこういう規模の貧民問題にたいして当時の人々がいだいた不安感は︑たんにその規模の大きさによ

るものではなく︑労働能力を有しているにもかかわらず失業やかせざの少なさによって家族の生活を救助なしには維

F・リスト﹁農地制度論﹂と政策主体

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(8)

立教経済学研究第四一巻四号(一九八八年)

六四

持できない︑という貧民の質からくるものであった︒こういう貧民が増えた理由としては︑一八一五年以降ナポレオ

ン戦争後の兵士の復員を労働市場がすみやかに吸収しきれなかったこと︑一八一七年の農業の不作などが考えられる

が︑なによりも︑産業革命の進展が新しい機械の導入をとおして︑古い技術しかもたない人々を失業させていったこ

とがその最大の理由であるとみなされるのである︒(六九八ページ)

もちろん︑フリl

ドリヒ・リストは同時代人としてこういう貧民問題を熟知していた︒すでにリストは若いころ

に︑ヴュルテンベルク王国の国家官吏としてアメリカへの移民を希望している貧民の実態調査を命ぜられ︑それを行

っていた︒ライン川につながる運河沿いのハイルプロンで一八一七年にリストが調査しえた移民希望者たちの動機と

は︑当時の物価高と食糧不足にたいし半封建的な行政当局が救済の手をさしのべるどころか︑反対に貧農たちを虐待

していることにあった︒貧農たちは生活必需品として森林から少量の柴や藁を採取してくるだけで罰せられていた︒

( 6 )  

リストは不実な行政当局者を批判し︑事態の改善を勧告していた︒

このことがあってのち︑リストは貧民問題にたいする移民の有効性について論じ始めていたが︑やがて自らの政治

活動の急進性ゆえに弾圧されてアメリカへ移民せざるをえないはめに陥った︒リストは一八二五年から一八三二年ま

で七年アメリカに住んだ︒はじめにリストは農場経営に手を出したのだが不馴れで失敗した︒しかしその後は︑ジャ

ーナリスト・企業家・政治家として成功した︒

ジャーナリストとしてリストは︑ペンシルヴァニアで影響力を有していたドイツ語新聞レディング・アドラI紙

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町公崎両可人立た司︑の編集者として活躍し︑そのコラムのなかで︑合衆国の経済発展をおし進めるためのヨーロッパか

らの移民の必要性を説いていた︒またたとえば︑ロンドン・クl

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ミミに載ったイギリス工場労

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(9)

働者のカナダ移民の記事を︑一八二六年九月二六日づけのアドラl紙に転載して彼らがペンシルヴァニアへも移民し

てくることを期待したりした︒それから一八二八年にはリストは︑失敗に終りはしたが︑ドイツ人をペンシルヴァニ

アへ定住させる計画に深くかかわったりしていた︒(六九九ページ)

さらに一八三

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年には︑リストはアメリカの領事職を希望して国務長官ビュレン(宮

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2

ろにたいし︑口

自分が合衆国の領事になればドイツ人のアメリカへの移民を促進することができると主張して︑首尾よくその職に着

くことに成功した︒リストはすでに企業家として成功していて︑ペンシルヴァニアのタマクア寸

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炭 坑 の 開

発と︑そこからポiト・クリントン旬︒ュロ円

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までの炭坑鉄道の建設とに指導的役割をはたしていた︒そしてい

ま︑政治家として成功して︑一八三二年に合衆国領事としてヨーロッパへ戻ってからも︑この炭坑むけにドイツ人坑

夫を移民させる計画を仕事仲間のアイザック・ヒl

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とともに立てていた︒リストはとlス

タi宛の一八三二年ごろの手紙で次のように述べている︒

この固からペンシルヴァニアへ炭坑夫を送るという君の希望について︑僕はいくつかの論説を新聞にのせてみ

た︒しかしこれは多くはなし遂げられないと思う︒というのは︑この国の坑夫は貧しすぎて合衆国への船賃を支

払うことができないのだ︒別の計画を提案したい︒石炭会社が数社かあるいは全部︑坑夫を輸入するという目的

のために協力すべきなのだ︒船賃はひとり三五ドルあれば十分だと思う︒だから一ニ

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人を輸入するのに︑

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そ一万ドル以上の前金は必要ではないわけだ︒この前金は︑あとで彼らの賃金から差し引けば取り戻すことがで

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さて︑こうしてみてきたように︑

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lスンによれば︑リストの移民についての考えは︑ドイツの貧民にかせざ

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﹁農

地制

度論

﹂と

政策

主体

六五

(10)

立教

経済

学研

究第

四一

巻四

号(

一九

八八

年)

︑ 晴 ︑

を与えるというものではあっても︑新たな就業先での労働者の境遇については何も語っておらず︑そこに注意を向け

るものではなかった︒

一 八

一 ニ

0

年代のリストは︑ドイツに鉄道網を建設することにそのエ︑不ルギ!と時間とをささげていた︒その場合か

れは︑鉄道はけっして仕事を奪うのではなくて︑かえって仕事を増やすのだと反対者にむかつて説き︑また︑安い運

賃によって労働者が旅行を楽しむことができるように鉄道会社に要請していた︒また︑鉄道と同様に蒸気力を動力と

する機械はたとえそれが家内手工業者たちを労働から遂放するとしても︑それは一時的なことであって結局は仕事を

増やすことになるのだとして︑リストは反対論者を批判した︒これは︑ロテック︑ヴェルッカl

編の

﹃国家辞典﹄

(一八三二年)の﹁労働者﹂と﹁労働節約機械﹂という項目をリストが担当して執筆したさいに述べられている︒(七

00

ページ)

一八

0

年代においては貧民問題にたいするリスF

の主

張は

おもに﹃関税同盟新聞﹄阻むミミ舎をお町内やその他の

新聞・雑誌のなかに見出される︒その基本的観点は︑工業経済の確立が国を富ませてその力を強め︑以前の貧農や手

工業者のときよりも収入をずっと増やして人々の生活水準を高める︑というものであった︒リストの最も親密な協力

者のひとりであったテI

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の主張はもっと徹底していて︑一八四五年二月十一日づけの

﹃関

同盟新聞﹄に載った彼の論説﹁労働者の組織化と今日の工業﹂においては︑工場は雇用をふやし︑機械は重労働を軽

減して広範な安い製造品の消費をもたhりしたのであって︑工業化がプロレタリアートを生み出したとか︑搾取を生み

出しているとかいうことはないのだ︑と断言していた︒(七

O

一ページ)

一八

四年代においては多くの工場労働者のあいだに︑男も女も子供もひとしく低賃金で長時間労働させられるの

0

(11)

で︑深刻な不安が存在していたことは事実であった︒しかしリストは︑近代工業の興隆は労働力に利益を与えたのだ

とする自分の信念を守るために︑労働の悪条件はけっして工場制度のもって生まれた特徴ではないと主張していた︒

それを証拠づけるためにリストは︑﹃関税同盟新聞﹄に開明的な雇用主によって営まれている近代的な工場の例を紹

介し

てい

る︒

一八四四年四月二二日づけの記事では︑マサチューセッツのロlウェルにある綿工場についてのチャ1

(7

ルズ・ディケンズの報告を転載してその状態のすばらしさを賛美している︒すなわち︑工場に勤める娘たちはみん

な︑上等な衣服・帽子・コート・ショールを身につけており︑健康そうで︑作法・ふるまいは娘らしい︒仕事場は整

頓されており窓には緑の植物が置かれている︒そこは清潔で︑新鮮な空気と居心地よさとがある︒娘たちは工場の近

くの良く管理された寄宿舎からかよっている︑というものであった︒

また

一八四五年三月二五日づけではリストはエルバlフェルト近郊のハマlシュタイン綿工場に関する

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N号

‑ F R

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の記事を転載している︒

二四

OO

台の紡錘を操作する最も近代的な機械装置が︑十分に換気がなされて非のうちどころなく清潔な九つの

大作業場に設置されている︒この作業場は外火にたいする避難構造をふくむ防火のために石造りであった︒労働

力は四

OO

名の職工と︑機械工や大工という幾人かの副次的労働者とからなっていた︒動力は鉄製巨大水車と蒸

気エンジンとから成っていた︒福利施設としては︑住宅・小学校・裁縫教室・貯蓄銀行・健康保険制度があっ

た︒工場主は七五家族の住宅として一八棟のアパートを建てていた︒労働者は近隣の町で請求されるよりもはる

かに安い家賃を払えばよかった︒どのアパートもそれぞれの野菜園をもっていた︒工場の子供たちは︑宗教教育

と一日一時間の学校教育とを受けた︒若い婦人用の裁縫教室は︑夏のあいだの労働時間の終了後にひらかれた︒

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リス

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農地

制度

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策主

、 七

(12)

立教経済学研究第四一巻四号(一九八八年)

六八

健康保険制度は︑労働者が毎週すこしの寄付をしなければならなかったが︑経営から補助金が出ておこなわれて

いた︒また地方医療官が︑職工の健康をみによろこんで出かけて来てくれた︒(七

G

三ページ)

このように︑労働の悪条件はけっして工場制度のもって生まれた特徴ではないとするリストの観点からすると︑と

りわけ一八三

0

年代と一八四

0

年代のイギリスにみられた工場労働者の貧苦や不安は︑いったいどのように見なされ

ることになるであろうか︒リストはそれを︑他の国が工業化されてもくり返す必要のない例外であると主張する︒す

なわちリストによれば︑イギリスのこの不安定は次のように説明される︒イギリスの産業革命のはじまったころは労

働者は高賃金をえていた︒ところが︑一八一五年いらいイギリス工業は拡大して︑競争が激化した︒これによって利

潤が減少したので︑工場主たちは賃金を引き下げることによってそれを補った︒たとえそうしても︑拡大した工業に

よって物価は下落するはずであるから︑労働者は賃金の減少分をそれで補えるはずであった︒ところが穀物法が存在d

していたため物価の低下はおこらなかった︒こうして労働者の生活水準の低下がおこってしまった︒これがイギリス

の大衆のなかに不安を引きおこした原因だったのである︒

ところが一八四四年のイギリス工場法は︑こうした不安にたいして婦人の労働時聞を短縮することで対処した︒リ

ストからみれば︑これではさきの真の原因をとりあげたことにはならない︒イギリスの労働者は長時間労働よりも︑

食糧品の物価高のほうに関心をもっていたのである︒したがってこの場合︑リストの主張する解決策とは︑自由貿易

(穀物法の撤廃)と高賃金とによって土地所有者と製造業者とがそれぞれ労働者に譲歩し︑工業の平和をもたらすこ

とであった︒それゆえリストは︑ビールの所得税の導入にたいして︑それが課税の重荷を富裕階級に転稼する︑とい

う理由で賛意を表したのであった︒(七

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(13)

さてそれではドイツの状況はどうであろうか︒イギリスの工場労働者問題とはちがって︑ドイツではシュレl

ジェ

ンの織工に代表されるような古い型の家内労働者や貧農の貧苦がいまだに問題の中心であった︒したがってリストに

とっては︑こちらは問題がはっきりしていた︒というのは彼にとって︑家内労働者や貧農とは去りゆく経済発展段階

に属しているのであって︑彼等の貧苦は工業経済を創造し︑いなかの手工業者を都市の工場労働者へ変え︑成長する

工場都市を養うための大農場を設立するということによって︑解決可能な問題であると考えられたからである︒リス

トは一八四四年七月二八日づけの﹃関税同盟新聞﹄で次のように述べている︒イギリスの不穏は工場労働者の不平に

よるものであるが︑ドイツのそれは古い家内労働者の不平によるものである︒イギリスに必要なものは︑過剰生産を

吸収しうるより大きな外国市場の獲得なのであるが︑シュレlジェンが必要としているのは︑園内市場を外国工業か

ら保護することと︑生産の能率を向上させる機械の導入とである︑と︒(七

O

五ページ)

ただしリストは︑近代的な機械工場をドイツに導入する方法としては︑国家からの助成金や貸付けによる私企業家

の経営に期待をかけた︒リストの考えでは︑プロイセンの王立海外商事会社

ω 2 F B

‑ 2

ロロ肉によってシュレl

ジェ

に設立された機械工場のような︑官僚によって統制される国営工場は︑成果をあげておらず失敗であるとみなされ

た︒反対に︑ウラッハに機械化されたリンネル紡績工場をつくりだした貸付けを認めたヴュルテンベルク政府の方法

は︑リストの賞賛するところであった︒

さいごに︑リストが﹁小人経済﹂N当OH四項目立田口町田口と呼んでいる貧農問題については︑かれはマイン︑ネッカ1河

谷の貧農の状態をアイルランドの貧農のそれと対比させて論じている︒すなわち︑アイルランドの貧農は小作農であ

って︑かれらは容易に小さな農地を賃借できるので︑それに促されて早婚が可能となり大きな家族をもっ︐ことにな

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﹁農

地制

度論

﹂と

政策

主体

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(14)

立教経済学研究第四一巻四号(一九八八年﹀

る︒これがかれらを貧困にさせているのである︒これにたいし︑マイン︑ネッカ!河谷の貧農はフリl

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l

ルダ

l

であって︑自分自身の小農地を相続のたびごとに均等に分与してゆくその相続法に貧困の原因があるのである︒した

がってマイン︑ネッカlの貧農問題の解決策は︑リストによれば︑小農地をもっと大きな農場をつくるために結合

し︑それによって生じてくる余剰人員は移民するか工場労働者になるように奨励されるべきである︑というものであ

︿8

った

︒(

O

六ページ)

貧民問題にたいするリストの態度を見てきた結果︑結局リストは社会の発達ということに関して︑生産力説や経済

発展段階説を補うような教説を提出することはなかった︑とへンダlスンは結論づける︒リストは︑工業化の唱道に

あまりにも熱中していたから︑重視していたのは工業化の積極的な推進力を供給するであろう科学者・発明家・企業

家・経営者といった人々を生み出す諸中間階級

B E a Z

己宮回目的なのであった︒それゆえ工場労働者はリストの目か

らすれば︑工業化の従属物でしかなかったのである︒また︑貧農や家内労働者の貧困問題も︑リストにとっては工業

経済にとってかわられるべき遅れた経済発展段階に属する問題でしかなかったのである︒したがってリストにたいし

てはこれまでに︑彼が初期の社会主義者たち

11

2フーリエ︑ヴァイトリング︑

(9

りあげようとはせず︑社会問題にたいして怠慢であった︑との批判がなされてきたのも当然であった︒(七

O

七ぺl マルクスら││の問題提起を真剣にと

¥ J  

それでは︑社会の発達ということについてリストはマルクスと比較した場合︑どのような差異が認められるのであ

ろうか︑これがへンダlスンが論説をしめくくる問いかけである︒

(15)

リストとマルクスとは︑将来の社会発展についての正反対の見解の典型をなしているとへンダiスンはいう︒ふた

りとも︑封建的農村社会が新しい工業社会へと移行しつつあること︑またこの過程においては諸中間階級が支配的な

役割をはたしていること︑については等しく認めている︒ふたりの差異は︑リストが中間階級の勝利の永続を信じて

いたのにたいし︑マルクスがそれにとってかわる労働者階級の︑新たな社会における支配階級としての意義を認めて

いたところにあったのである︒それはまた︑リストの目標がドイツの経済発展と政治的統一とであったのにたいし︑

マルクスの目標が︑自己の教説の普遍性を信じて世界の労働者の団結をめざすところにあった︑という違いでもあっ

たの

であ

る︒

こうしてへンダ!スンは︑リストにたいするマルクスの優位を確認して次のように述べている︒

この

O

世紀において共産主義国の指導者たちは︑自分たちを権力へと導いた草命を説いたマルクスを尊敬して

いる︒いっぽう資本主義世界は︑工業化と自由な企業とについてのリストの力強い唱道をほとんど忘れてしまっ

た︒その理由はひとつにはリストが︑自分が推進しようと願った工業化社会においての︑労働者という巨大な大

衆の役割をもっと重視しなかったからである︑といえよう︒(七

O

八ページ)

結局︑貧民問題についてリストが多くを語ることができなかったのも︑工業化社会における労働者階級の役割を理

解することができなかったからであった︑といえるのである︒それはまた︑経済政策を現実に担ってゆく主体がだれ

であるのか︑どこに求められるべきであるのか︑ということをリストがとらえ切れなかったのだともいえよう︒当時︑

後進国ドイツにあっては︑生産を担い推進する主体が︑没落してゆく小生産者層と未熟なブルジョアジーとプロレタ

(

リア

iトとの三者からなっているという状況であった︒

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農地

制度

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策主

(16)

立教経済学研究第四一巻四号(一九八八年﹀

(1

﹀ハンス・モテック﹃ドイツ経済史﹄(大島隆雄訳︑大月書庖︑一九八O

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lスンのこの論説は

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(5 18

の六九七ページから七O八ページを占

めている︒以下ここからの引用はページ数のみを示す︒

( 3 )

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14

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( 4 )

iタl・フローラ編︑竹岡敬温監訳﹃ヨーロッパ歴史統計︑国家・経済・社会一八一五l

一九 七五

﹄( 原書 一一 房︑ 一九

八五年)四九︑五一ページ︒

( 5 )

日銀﹃経済統計月報﹄一九八六年︒

( 6 )

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( 7 )

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( 8 )

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Iスンはリストのこの案を﹃農地制度論﹄から導き出しているのであるが︑この点は小林昇のリスト像の根幹にか

かわるものであるから︑後にみるようにへンダlスンに対する小林のするどい批判がある︒

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(日)理念としてはリストはこの主体を産業的中産者層として提起していた︒しかしその論理に内在する矛盾については︑住谷

一彦﹃リストとヴェiバl﹄(未来社︑一九六九年)︑一O

四︑ 一

O五ページ参照︒

小林昇のへンダ i スン批判とその問題性

一 年 ) の あ と 一 九 八 三 年 に は

﹃ フ

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ドリヒ・リスト︒経済学者と夢想家︑

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︑ 前 節 で そ の 内 容 が 詳 し く 紹 介 さ れ た 論 説

﹁ フ リ ー ド リ ヒ

・ リ ス ト と 社 会 問 題

﹂ ( 一 九 八 (1

一 七 八 九

│ 一 八 四 六

﹄ を 出 版 し た

︒ 小 林

昇はこれを︑

﹁ や や コ ン パ ク ト な が ら き わ め て 本 格 的 な 伝 記 で あ っ て

︑ 資 料 と 文 献 と の 探 索 に 遺 漏 が な く

︑ :

・ 注 と

(17)

文献とはリスト研究の最新の道標としてきわめて貴重であって︑:::今後のリスト研究にとって最高度に有益であろ

2う﹂と評価している︒しかし︑二八八ページにおよぶこの著書においてはリストと社会問題とのかかわりは一ページ

たらずの簡単な言及ですまされている︒すなわち︑リストは社会問題についてはあまり語らず︑鉄道や機械が結局は

(3

雇用を拡大するのだと強調していた︑と説明されているにとどまる︒

ヘン

lスンの著書の意図がリストの全体像を

伝記的に描き出すことであったのであるから︑

( 4 )  

たのは仕方ないのかも知れない︒ ﹁社会問題とのリストのかかわり﹂がこの程度におさめられてしまっ

さて︑このへンダiスンの著書にたいして小林昇はただちに﹁へンダ1スンのリスト伝によせて﹂(一九八四年三

月)と題する論説を発表した︒小林のこの小論説はへンダlスンのリストの全体像にたいする評価と批判とをなすと

ともに︑小林自身の最近のリスト観を対置させるものとなっている︒したがってここでまず︑小林によるへンダlス

ン批評を要約し︑総括的なリスト問題の所在を確認してみたい︒

小林によれば︑

へン

lスンの認識するところの基本的なリスト像は︑﹁帝国都市ロイトリンゲンにデモグラット

として生を受けて絶対主義と隷属的な官僚制に対する敵でありつづけたりスト﹂というものである︒そうであればこ

﹁リストの死が多くのドイツ人にうしろめたい思いをさせた﹂のであって︑のちに三月革命の起こるにあたって

ヴュルテンベルグの新議会の議員アイゼン・ロ1アがリストに対し﹁国民の自由という思想の種を播いた人﹂として

深い感謝の念を表すということもありえたのであった︒

リストの基本的な姿がこのようなものであるから︑それは当然リストの政策にも反映している︒すなわちリストは

その段階説にもとづいて︑﹁工業化のための前提として政治的安定︑地方自治︑法と秩序の三者と身分的特権の廃止

F‑

リス

ト﹁

農地

制度

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策主

(18)

立教経済学研究第問一巻四号ハ一九八八年)

七回

とをあげている﹂のであって︑それだからこそりストの今日的な意義も︑﹁すべての後進諸国のアシピションのため

の預言者となり︑二十世紀の後半に至ってもなお︑第三世界の諸国の経済的発展を進めようとする人々にインスピレ

ーショシをあたえているという事実﹂のなかにあるのである︒

それ

では

へン

iスンの指摘するリストの欠陥とその﹁夢想家﹂という側面はどういうところにあるのであろう

か︒それは基本的には︑﹁リストは経済発展にあたっての国家の役割を一貫して強調しているが︑それは諸因子の相

互作用の生みだす高度な複合的プロセスの動因を国家の政策という一因にのみ帰着させようとするものであって︑過

度の単純化という誤ちを犯すに陥っている﹂というところにある︒疋からこそリストの工業力育成論には﹁工業化に

ともなうプロレタリアートの問題への積極的関心が欠けて﹂いたのであり︑またリストの保護主義の理論体系も︑現

実に対する認識において多くの誤りをもつこととなったのである︒こうしてリストの保護主義は生前にはわずかしか

受容されず︑イギリスでの反穀物法連盟の勝利とプロイセンという現実の国家の利害のまえに︑自由貿易主義の流れ

のなかに飲み込まれざるをえなかったのであるa

以上が小林昇によれば︑

へン

Iスンがその著書﹃フリiドリヒ・リスト︒経済学者と夢想家﹄のなかで明らかに

したリスト像とリストの意義およびリストの欠陥である︒そして小林昇もリストについてのこういう認識に基本的な

同意をあたえる︒しかし︑これだけでは小林かhりすれば不十分である︒小林のリスト観の重要な側面がここにヘンダ

iスン批判として提示されることとなる︒

へン

1スンのリスト理解の不十分性はとこにあるか︒それは﹁農地制度論﹂の一面の反動性への無関心にある︒

(19)

すなわち小林の重視するリストの反動性をへンダlスンが理解できなかったのは︑

へン

iスンが農業問題を軽視し

ていたからである︒小林はいう︑﹁リストに工業化の理論を求める努力が︑まさに工業化の前提である農民解放←農

業近代化(エングロlジュア)の問題をその型と方向とにかんしてきわめて切実な国民経済的課題だとリストが認識

していたという事実を軽視するならば︑そこに価値のある実りは期待されないであろう﹂(六一ページ)と︒

このようなへンダlスンの認識不足は小林によれば︑イギリス的限界ともいうべき学史的・理論的分析の欠陥に起

因している︒すなわちへンダiスンは︑名誉革命の樹立したイギリス議会とヴュルッテンベルクの等族議会とを安易

に同列視して︑その歴史的段階と意義との違いを認識できず︑従ってリストの直面した政治的苦悩を十分に理解でき

なかった︒また同じく︑イギリス重商主義とドイツのそれとの特質と歴史的意義のうえでの差異を認識できないこと

によって︑リストの中農的エンクロIジュア論の意義とナチスへとつながる反動性とを見失なっているのである︒

﹁へ

ンダ

lスンの新しいリスト伝(リスト研究)は︑イギリスの伝記﹃文学﹄の良き伝統を示すとともに︑

﹃自

分自

身の歴史をつねに忘れる﹄(マルクス)というもう一つのイギリスの伝統に立って︑資本主義成立期の思想家の苦悩

に深い思いを致すことがないのである﹂(六二ページ)︒

こうしてへンダiスンは︑リストの欠陥を国家の役割の過度の強調︑プロレタリアートの軽視︑保護政策論の非現

実性として指摘することはできても︑その欠陥の由来と後世への影響とを指摘することは出来なかったのである︒

それでは︑小林昇のリスト論の特質をなすリスト﹁農地制度論﹂のもつ一面の反動性とはどのようなものであろう

か︒小林は次のようにいう︒

イギリス︑フランスに比して政治的・経済的な後進性という段階規定をうけたコニ月前期﹂のドイツにあっては︑

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農地

制度

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と政

策主

七五

(20)

立教経済学研究第四一巻囚号(一九λ八年)

七六

すでに青年リストにおいて︑重商主義的・国民主義的政策家と領邦政治の規模でのブルジョア・デモグラットとは当

然のことながら重畳していた︒そうして︑ゴ二月前期﹂が政治的復古の時代であったかぎり︑ブルジョア・デモグラ

ットとしてのリストは生︑症にわたって迫害されるという宿命にあった︒また︑それと同時にリストは重商主義的国民

主義的政策家として︑工業化の前提であるドイツの農民解放

l

←農業近代化(エンクロl

ジュ

ア﹀

への生程的関心を

示すこととなる︒そしてそのことは︑リストの総体系を特徴づけるものとして﹁農地制度論﹂(一八四二年)のなか

に以下のごとく結晶している︒

(1) 

農民を市民の有力な一翼として位置づける中農的エンクロIジュアの全ドイツにおける実現︒

(2) 

この計画によって清掃されるべき農村の過剰人口の捌け口としての中欧植民日東南方政策︒

(3) 

この計画は︑工業化の前提H農民解放と︑時代の制約を受けた別の課題とを合わせもつ性格のものとなってい

る︒すなわち︑イギリスの大農業が生み出す社会問題(大量のプロレタリアートの出現)に対する予防と︑フラ

ンスの小農業が生み出す新たなボナパルテイズム(軍事的侵略性)への防壁とのために︑ドイツでの中農業の維

持が計画されたのであった︒

(4) 

これによって生み出される近代的中農層は︑国防力の基礎としての︑また東南方への進出のための尖兵として

の役割のために︑その分解が防がれる︒﹁こうしてリストの政策思想は︑第一次世界大戦を超えて︑ナチス・レ

ジ!ムまで生きつづけるであろう︒﹃夢想者﹄リストの夢想とドイツ資本主義の歴史的展開とのかかわりは︑ま

さしく深刻なのである﹂︒

(5) 

しかし他方で︑リストにおける工業化の理論の今日的意義は﹁農地制度論﹂に至って示された︑段階説の脱却

(21)

リ普遍史の比較史への転轍である︒すなわちそれは︑各国経済の歴史的個体性における把握である︒

(六

一︑

二ページ)

こうして︑小林によって示されたリスト﹁農地制度論﹂の諸特徴のなかにみられる︑その一面の反動性は凶に見出

される︒すなわち︑リストの東南方政策論は︑﹁後進国ドイツの経済統一と帝国主義的膨脹とのプランの︑

同夢

想家

リスト﹄の政策構想における結合の必然性﹂を示していたのであり︑後進ドイツ資本主義の運命を予示しているので

ある︒そして︑このリストの先駆的な中央ヨーロッパ構想は︑ナチス支配←第二次大戦下におけるこの﹁希望﹂の復

( 6 )  

活をみるのであり︑そこにリストと第三帝国とのかかわりがあるのである︒(五三ページ﹀

だが︑くりかえし述べるように︑リストの政策のもつ﹁帝国主義的膨脹性﹂とナチスのそれとでは︑形態は似たも

のであっても本質を異にするものであって︑両者に直接の因果関係はないというのが筆者の問題意識である︒リスト

の﹁農地制度論﹂そのものが後にそれを明かすであろう︒

へン

lスン批判における小林の﹁農地制度論﹂の要約は

﹁反動的側面﹂にとらわれすぎている︒次にもっと包括的な小林の﹁農地制度論﹂理解をみることとしよう︒

( 1 )

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( 2 )

小林昇﹁ヘンダlスンのリスト伝によせて﹂﹃経済研究﹄第六集(大東文化大学︑一九八四年三月)四0

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( 3 )

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小林﹁へンダiスンのリスト伝によせて﹂︑五七ページ︒小林はここで﹁﹃社会問題﹄は︑あるいはリストの直接の経験か

ら欠溶した部分だったのであろうか﹂としているが︑これはまったくおかしな把握である︒書記時代からこういう経験が豊富であればこそ貧困からの脱出がリストの終生のテlマであったのではなかったか︒(以下ページ数を示す)

( 5 )

プロイセンが自由貿易を望んだのは東エルベのユンカi的農業利害によるだけではない︒ロlマ法王に由来する旧ドイツ

の復古主義と正統性とに対抗して︑新興プロイセンが覇を唱えるためには︑すべて既存の体制を打破せんとする自由貿易の破

F・リスト﹁農地制度論﹂と政策主体

七七

(22)

立教

経済

学研

究第

四一

巻四

号(

一九

八八

年﹀

)1

壊力とプロ一一スタンテイズムとが有力な味方でありえたのである︒それゆえプロイセン主導下のドイツは一八七三年の創業者

恐慌にいたるまで︑自由貿易政策のうえをつっ走ったのであった︒ハンス・モテック著︑大島隆雄訳﹃ドイツ経済史︒一七八

九年

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一八

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( 6 )

小林は﹁農地制度論﹂の一面の反動性に︑リストとバイエルン貴族との晩年における親密な交友をもかかわらせているが︑ナチスへ至る反動性との直接の関連性はそこには見出すことはできない︒リストと貴族の関係は別の問題である︒

四 小林昇の ﹁農地制度論﹂理解

小林昇訳のフリードリッヒ・リスト﹃農地制度論﹄(一九七四年︑岩波文庫)には小林の詳細な﹁訳者解説﹂がつ

けられており︑それはまた小林の最も包括的なリスト﹁農地制度論﹂理解となっている︒本節はこの小林の叙述に即

してその論旨を要約して︑小林の﹁農地制度論﹂におけるリスト像を鮮明にし︑かっその問題点を明らかにする︒

﹃国民的体系﹄と﹁農地制度論﹂との関係

F・リストの社会科学的体系の全体は︑﹁型通りには﹂その第一の部分を﹁農地制度と農地政策﹂とし︑以下﹁工

業制度と工業政策﹂からしだいに展開して︑第九の部分である﹁国際関係と対外政策﹂に終るはずのものであった

が︑ドイツにあってとくにイギリスに対する保護貿易制度を実施することの要請の厳しさが︑この最後の部分をまず

﹃経済学の国民的体系﹄として刊行することをリストに急がせ︑こうして最後の巻が最初の巻となって︑

一八 四

(23)

年五月に出版されたのであった︒この場合リストは︑﹃国民的体系﹄の完成のためにその諸続巻を書くという約束は

売れる自信がもてなかったので慎重に避けたのであったけれども︑この﹃第一巻﹄に対するさまざまな批判がおこな

われたので︑ことに自分が﹁農地制度については分別のあることを語る能力がない﹂という批判に接して︑なにより

もまず﹁農地制度論にかんするわたくしの考えの先触れを世に送る﹂こととしたのであった︒だから﹁農地制度論﹂

﹃国民的体系﹄の最初の続巻のトルソとして︑書きおろされたものなのである︒そして本訳書によって十分に知

られるように︑この論説にいたってリストの経済思想の最も基底的でありまた最も深奥にある思想が端的に語られる

こととなったのであった︒(二五七i二五九ページ︒傍点は筆者)

l土

執筆動機

i i

反批判と世界情勢の変化

リストが﹁農地制度論﹂の完結を急いだのは︑﹃国民的体系﹄の公刊の直後に││あるいはむしろ﹁農地制度論﹂

の執筆が進むにつれてーーー︑世界政局に対する彼の見透しに微妙な変化が生まれたことの結果でもあったように思わ

れる︒周知のように︑﹃国民的体系﹄の世界政策的根本思想は︑イギリスを生産力的には唯一の優越国H超大国と見

て︑これに対抗するためにドイツ︑フランス︑ロシア︑およびアメリカが保護制度の上で連繋しようというものであ

った

9だからそれは大陸諸国の政治的平等という新しい平和的原理に立つ︑ナポレオンの大陸制度の復活として主張

されたのである︒ところが﹁農地制度論﹂が書かれた年の九月にシュトゥットガルトで開かれたドイツ農林業者会議

にリストが提出した︑﹁諸外国の農業制度の変動にか'んする調査委員会の設立案﹂についての提案理由をみると︑そ

こにはイギリスが自由貿易体制の推進をヴェイルとして自給的帝国の建設に向いつつあるという︑新しい認識の示さ

F

・リ

スト

﹁農

地制

度論

﹂と

政策

主体

七九

(24)

立教経済学研究第四一巻四号(一九八八年)

l¥. 

れていることが知られる︒リストのこういう認識は︑彼の晩年の世界政策論の基盤となったのであったが︑このよう

なイギリスの世界政策の動向は︑もはやドイツにおけるグlツヘル│←ユンカ!と産業資本との︑また自由貿易と保

護貿易との︑対立を許さない︒だが︑そうだとすれば︑ドイツの外国貿易の新しい課題は深く農業という対象にかか

わるものであり︑この課題からはいって︑さらに根本的に︑産業資本の蓄積の前提である農業近代化(農民の解放

‑←エングロl

ジュ

l

j

国民的市場の形成)の問題に対するみずからの見解と主張とを示すためには︑機はすでに

熟していることを︑リストは自覚したことであろう︒(ニ五九│二六二)

﹃国民的体系﹄の課題

11

1後進工業国の重商主義

﹁農地制度論﹂のふくむ独自で端的な主張の内容を︑リストの抱懐した社会科学的総体系の構想とかかわらせて︑

またその経済思想史的意義を省みつつ︑ごく簡単に要約すればつぎの通りである︒リストの主著﹃国民的体系﹄は︑

幼年期にあるドイツ産業資本のために︑保護制度の樹立によって国内市場を確保し︑それを通じて国民的規模での再

生産すなわち国民経済を形成すべきことを主張したものであって︑この場合の窮極目標は国民的生産力の発達におか

hv

れ︑それを支える価値基準は近代的国民主義であった︒﹃国民的体系﹄はこの立場から︑アダム・スミス│←リカl aP

ドヮの古典学派を﹁価値の理論﹂と呼んで︑その理論的本質に対するリスト自身の無理解にもかかわらず︑その政策

p論の基調を成す世界主義と自由貿易主義とへの︑工業上の後進国の有効な抗議を行ったのであった︒それは後進工業

国の重商主義の政策理論的再編成だったのであって︑先進工業国H優越国とリストの見たイギリスが︑とくにその市

民革命以後の重商主義体制によって他国に先んじて成熟した国民経済を形成させ︑その結果である優越的工業力を古

(25)

典学派の政策論的基盤として提供したかぎり︑しかも古典学派の行った重商主義批判がこの独自な継承の関係を認識

できなかったかぎり︑それ自体十分な存在理由を持つものであった︒(ニ六八l

九) 4 

﹁農地制度論﹂の課題H国民的規模での農・エバランスの形成

しかし︑後進工業国ドイツに国民経済が形成されるためには︑たんに貿易政策の部面に保護制度が樹立されただけ

では不十分だったのであって︑保護制度によって守られるべき国内市場そのものが︑具体的にいえば工業と農業との

あいだの国民的規模での再生産的相互依存関係(国民的分業)自体が︑あらたに創出されなければならなかった︒当

時のドイツのように︑スミスの政策構想をその内面から培養したイギリス重商主義の場合とはちがって市民革命の成

立をまだその歴史的前提としていない段階にあっては︑この前提にあたるものを

l

ただし革命家でなかったリスト

にとってはもっぱら改良的政策の推進によって114つくりだすことが要請されねばならないであろう︒リストはこの

課題を鋭敏に見ぬいて︑﹃国民的体系﹄の続巻としてまっさきに﹁農地制度論﹂をまとめようとしたのであった︒(二

六九

i

二七

O )

﹁農地制度論﹂の主方策││中農エンクロlジュア

リストによれば︑当面のドイツのなかで行われるべき最大の改良的事業こそ︑農民の解放と農地の分合交換と封建

的諸負担および共同体的制約の解消とによる近代的農業の建設︑すなわちドイツの実情に即したエンクロlジュアの

遂行

であ

った

﹁農地制度論﹂の主眼としたものはこれである︒﹁立憲君主制が民主制と貴族制と君主制とのあらゆ

F

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スト

﹁農

地制

度論

﹂と

政策

主体

i¥ 

(26)

立教経済学研究第四一巻四号︿一九八八年﹀

/¥ 

る長所を一つに結合するためには︑農地制度によって大・中・小の土地所有と零細経営とのあいだの正しい関係をこ

の政治様式の内部にうち立てるように努めなくてはならないと思われる︒::;われわれの不断の確信では︑中・小経

営が原則であって大経営と零細経営とがこれに対する例外をなすような農地制度こそ代表制度にもまた農業経済的な

いし国民経済的原理にも最もよく適合する制度であり︑したがって土地の細分がいちじるしく行き過ぎた国にあって

は︑立法と行政とはなによりもまず交錯園経営と村落経済との適度の減少と農場経営の漸増的設定とを計らなくては

なら

ない

﹂︒

(二

Ol

一)

﹁農地制度論﹂の目標││正常な国民

このようなかたちでの近代的農民と近代的農場との創設によって︑はじめて︑農工両部面間での分業を前提とする

商品交換︑すなわち農工両生産力の均等的発達が実現される︒そしてそれを基礎に工業製品の輸出と熱帯生産物の輸

入とを軸とする外国貿易が展開されることとなれば︑そこに﹃国民的体系﹄の求めた﹁生産諸力の国民的結合﹂が豊

かに

現前

し︑

﹁正常な国民﹂が形成されるであろう︒そしてそれは︑近代的農場経営の成立がみちびき出すはずの人

をもたらして萎縮した農業の原因となるという指摘があったが︑

業改革の側に身をおいて克服しようとするのである︒そして︑商品生産の展開

ll

←資本主義の発達がまず農工分離の 口増加過程││ψ農工分離過程の結果としてなのであった︒すでに﹃国民的体系﹄には︑工業力の乏しさが農地の細分

﹁農地制度論﹂はドイツにとってのこの現実を︑農

かたちで開始され進行するものであるかぎり︑﹁農地制度論﹂のこの立場こそ︑リストの国民生産力の理論にとって

いっそう根本的な立場と見るべきものであった︒ハ二七二u

参照

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