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L'histoire politique de la ville de Bruxellesdu XII^e a la fin du XV^e siecle. : Desorigines a la formation et a la transformationdu Troisieme Membre dans l'administrationurbaine.

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Kyushu University Institutional Repository

L'histoire politique de la ville de Bruxelles du XII^e a la fin du XV^e siecle. : Des

origines a la formation et a la transformation du Troisieme Membre dans l'administration

urbaine.

藤井, 美男

九州大学大学院経済学研究院国際経済経営部門 : 教授 : 西洋経済史

https://doi.org/10.15017/15736

出版情報:經濟學研究. 74 (1), pp.57-93, 2007-09-28. Society of Political Economy, Kyushu University

バージョン:

権利関係:

(2)

一第三会派の形成と変容に至る過程一

派 井 美 男

はじめに

目  次

第1節 市政組織の初期史一12世紀中葉〜13    世紀中葉一

 (1)都市的定住の開始とブラバント公権  (2)参審人と宣誓人一学説史的検討から一    1)古典説一F.ファヴレスー

  2)古典説批判一M.マルテンス・G.デ    スピイ・P.ゴダンー

  3)小恩一評議会の意nt 一一

第2節 市政参加権をめぐる一般市民と都市貴    族一14世紀前半一

 (1)手工業者の台頭と都市貴族反動体制  (2)市政改革とアンバハト宣誓人の出現

第3節 一般市民の市政参加から大改革へ    一.14世紀後半〜!5世紀前半一

 (1>アンバハト宣誓人の権限拡大と第三会派    の形成

 (2)拡大評議会の成立

第4節 都市評議会の形成と第三会派の変容    一ユ5世紀後半一

おわりに一エピローグとともに一

はじめに1)

 千年の古都ブリュッセルは、統合ヨーロッパ の実現に伴いEUの 首都 となった。それを

契機として、簡約な史的概観(De Ridder

[1991])から大部の通史(Billen[2000a]、そ して中世から近世に至るセンヌ水系の地域史研 究(Deligne[2003])の発表に見られる通り1、

近年立て続けに史的考究の対象となってきた。

特に麗装版の通史においては、C.ビレン女史が 中世部分の叙述に大きな紙幅を割いているのが

印象的である(Bil!en[2000b])。

 中近世南ネーデルラントにおけるブリュッセル の 首都的性格 をめぐっては、既に50年代から 議論の的となっていた(Martens[1953])。そ の後ブリュッセル条約にもとつく1967年の欧州 共同体設立を機に、再びMマルテンス女史を中 心とした研究(Martens[1976品目/Dickstein−

Bernard[1976b])の進捗を見るとともに、 J.

バルティエ、J.バールテン(Bartier[1979]/

Baerten[1979a・b]1[!985])らの実証研究が 大きく展開することとなった。その結果、ブラ バント公からブルゴーニュ公、ハプスブルク帝

1)本稿では、史料原文と文献一覧(欧語・邦語の順)

とを末尾に配置し、引用の際文中に著者名・年度・ペー ジ数などを挿入して示した。後年に再録された文献を 参照した場合には、その書誌情報を追記し、引用は後 者のページ数に拠った。また、人名はフランス語表記、

地名は現代現地表記を原則としている。もちろん、史 料原文引用の際はいずれもこの限りではない。なお、

同じく末尾に表[1][2]を配し、本稿で記述する出来 事の時系列や市政構造の史的変遷をそこにまとめてい

る。本文中必ずしも逐次的な言及はしないが、適宜参 照願いたい。

一 57 一

(3)

国支配へと至る経過の中で、有力な対抗者とし ての近隣都市レウヴェンLeuvenの存在により、

かつて旧説で強調されていたほどには継続して 首都的機能を保持した訳ではないという事実が 浮き彫り.にされ、ブリュッセルは相対的に不安 定な地位に甘んじていたというのがほぼ定説と

なってきている2)。

 中世都市研究の盛んなベルギー学界では、以 上のような議論にとどまらず、中世盛期から中 世後期にか.けてブラバント公領そしてブルゴーー ニュ公国の一中核都市であったブリュッセルに 関する研究自体、長くかつ多面的な歴史をもつ。

19世紀末に通史叙述を行なったA.エンヌと A.ワウテルスらの業績を先頭とし(Henne

[1845])、20世紀初頭から第2次大戦をはさん だ前後の時期に史料刊行をも伴いつつ、政治史・

経済史の様々な分野を開拓したG.デ;マレ

(Des Marez[1904ユ:[1906ユ:[1927ユ)、 P.ボナ

ンファン(Bonenfant[1921]:[1953b])やF.

ファブレス(Favresse[1932];[!934b]:[1961])、

ブラバント公との関係という視点を盛り込みな がら、ブリュッセルの制度・法制史的研究を深 化させた、マルテンス (Martens[1954]:

[1976a])やP.ゴダン(Godding[1960]:[ユ975]:

[ユ987])といった先駆者達の労作をすぐに思い 浮かべることができる。こうした太い潮流が、

2)この論点についてより詳細には、De Ridder[1979],

Smolar−Meynart[1985],Billen[1995ユを見よ。ま た、15世紀ブラバント公・ブルゴーニュ公の移動宮廷  という視点から、ブリュッセルその他の都市の首都性  を考察したUyttebrouck[1991]も参照されたい。

 とはいえ、ブルゴーニュ公国期の首都に関しては、領 邦国家と申世都市の取り結ぶ関係という.視点から検討 の余地がなお多く残されている。一例を挙げれば、ディ  ジョン、ブリュッセルと並んで北仏都市リルが公国の

首都的位置を占めたが、ヴァロワ朝初代公フィリップ=

ル=アルディがなぜこの都市を選定したのか、その理 由についてはまだ十分に解明されていない。詳細な論 点については拙著参照(藤井[2007]p.84,n.36)。

上述のビレンや彼女と並んで今や中世都市ブ リュッセル研究の第一人者とも言えるC.ディッ クステイン=ベルナール(Dickstein−Ber:nard

[1976a・b]:[1977]:[1997])へと連なるといっ て過言ではなかろう3)。

 筆者はかつてブラバント公、ブルゴーニュ公 治世期のブリュッセルの市政改革に関する考察 を試み、市内の権力構造が上位権力と絡み合い つつ、複雑な変遷を辿ることを概観したことが

ある(藤井[1995]二[2000a])。とはいえそれは、

毛織物工業や都市財政に関係する側面に重点を おいたいわば部分的な考察であり、市政構造に 関する十分な分析とは言えない内容にとどまっ ていた。しかしながら、ヨーロッパ中世都市の 史的研究において、都市内の行政諸制度に関わ る分野の解明は欠くことのできないものであ る4)。本稿は、北ネーデルラント都市ドルドレ ヒトDordrechtに関する我が国の近業にも触 発されつつ5)、かつて拙稿で考察した内容と一

3)以上、研究史についてはあくまでも素描に留めた。

 中世都市ブリュッセルの諸側面についての学界状況は、

既に旧稿(藤井[1994]:[ユ995]:[2000a])で詳細に言  及しているので参照されたい。

4)ここではそのことを示す典型例として、中世都市の 制度的側面に重点を置きながら英仏の比較を論じた R.ヒルトンの作品を挙げる(ヒルトン[2000ユ)。

5)田申[2006ユ,[2007ユ.田中[2006]は、J.:L,ファン=

ダーレン(Van Dalen[1931])に拠りつつ、ホラン  ト都市ドルドレヒトの統治形態の変遷をまず次のよう  に辿る。1)原初から1200年まで。ホラント伯直接統  治の時期。2>1200〜1285年。市民の統治権未分化の 時期。3)1285年〜!386年。スハウト、参審人、市長  など都市役職者確立期。4)1386年〜1467年置諸島ル  ドの市政参加実現とブルゴーニュ公によるその勢力削 減時期。5)都市統治形態の確立期。そして、ホラン  ト諸都市の中でドルドレヒトは比較的大きな都市政府  を形成し、それはスハウト1人、市長2人、審判人9  人、市政団員5人、財務官2人、八人団、旧市政団な  どから構成されたとして、都市役職者の起源や変遷を  その職種毎に跡付け、中世後期にいたるドルドレヒト  の有力家門による市政寡占、といった経過を示してい  る。なお、都市を含めた中世後期ホラント経済全体に  ついて上方への修正評価を行った興・味深い仕事(Van

Bavel[2004])のあることもここで付記しておきたい。

(4)

部重複する側面のあることは承知の上で、中世 盛期から後期にかけてのブリュッセルについて、

市政構造の変遷を通時的に辿っていく。そうい う意味では、旧稿および拙著の補遺の位置を占 める小篇である。

第1節 市政組織の初期史一12世紀中葉〜13    世紀中葉一

 (1)都市的定住の開始とブラバント公権  ブリュッセルは10世紀に入って、センヌ河に あるサン;ジェリーSaint−G6ry島を中心に小 集落として出現し、干潟を干拓して定住地を広 げた。やがて、この島を中心とした集落の高台 周辺部に商人集団が定住を開始する (Des

Marez[1904]p.1−2:[1935b]p.38−56)。11世

紀には「沼沢地の集落」を意味するBrosela,

Buocselaの名のもと、 Portusとして史料で言 及されるようになる(Bonenfan七[1953aユp.

428)。商人定住地としての形成の背景には、ラ イン河一マース河を含む地方とフランドルー イングランドを結ぶ通商路としての重要性増大 があることは間違いない(De Ridder[199ユ]

p.8/Billen [2000b] p.37−39).

 !174年には、サンニジェリーに以前からある 小さな市場superius forumとは別に新市場 forum inferius, Nedermarctが形成され、商 人保護聖人たるサン=ニコラSaint−Nicholas の礼拝堂も建設されなど、12世紀にかけてブ リュッセルは次第に都市的景観を形成してくる。

この新市場を核として、パン・肉・魚・毛織物 の取引所が出現していき、集住と建設が一層進 行した。そして更にその外側へ、香草・鶏肉・

バター・チーズ・炭の取引所が建築されるのも さほど間のないことだった。新市場外部の東と 西はなお手つかずの土地に近かったが、南部に

は定住域が拡大した。後に基幹産業となる毛織 物工業関連の諸手工業者は、センヌ河に近い辺 りあるいは水面を干拓した「新地」に集住して いった6)。他方さほど面積を必要としない金銀 細工や金属加工業は中心部で展開し、同時に、

古着屋・ベルトエ・石工・建.具師・小写物屋な ど、同一職種が集中して営業する現象が見られ

た(Des Marez[1904]p.3−4)7)。

 以上のような都市的成長を示し始める前、

977年頃西フランク家ゆかりのシャルル=ド=

フランスCharles de Franceがセンヌ河東方の 高台Coudenbergに城館Castrurnを建設した

ことが(Bonenfan、t[1934]p.7)、ブリュッセ ルとブラバント公権との折衝の始まりというの がほぼ定説となっている8)。

 しかしながら、詳細ははっきりしないものの、

シャルルの後継者たちはその後レウヴェンに拠 点を移し、!260年代後半の女公アレイデAleydθ 統治までその状態は続いた。そして、彼女の第

2子ジャン1世Jean工が生誕地ブリュッセル を改めて公権の本拠地と定めることとなる

(De Ridder[1979]p.331−332)9)。この時期こ

そが、都市およびその住民が上級領主権と複雑

6)11−12世紀ブリュッセルの初期定住史における多核 構造については、Billen[2000b]p.41を参照せよ。

7)これは、当該職の利害を共通にして連帯性を高める 効果をもったであろう。しかし、手工業者たちの同職 組織=アンバハトambachtの形成にはなお多くの時 間が必要で、ブリュッセル都市貴族との長い権力闘争 の果てにそれは実現することになる。その経過を跡づ けていくのも本稿の主眼の1つである。なお本稿では

ブリュッセルの都市図を省略した。拙著(藤井

[2QO7ユp.180)を参照されたい。

8) Martens [1976d] p. 38−40, De Ridder [1979] p.

329−330,[1991]p.8.しかし、史料的根拠がなお薄弱 だとして、公権の関与開始を10世紀末に遡る説になお 慎重な態度を取り、それを11世紀半ばだと強調する説  も存在する(Billen[1995]p,220:[2000b]p.39)。

なお、11世紀末に至るブリュッセルの複雑な地政学的 初期史については、Bonenfan七[1934]p.5−31を参照

されたいσ

一 59 一

(5)

な関係を作り上げていく, その史的舞台の幕開 けとなるのである。

 (2>参審人と宣誓人一学年史的検討から一  空間造形としての都市的景観の現出を看取で

きるとすれば、次に問題となるのはブリュッセ ルの住民とその統治組織  以下ではそれを都 市当局あるいは市政団magistratと呼ぶこと とする一とりわけ後者の構成要素のありよう であろう。一般に中世南ネーデルラントの都市 発達史においては、司法機能を含め市政を統治 する小集団として、参審人(団)scabini,

echevins(echevinage)と宣誓人(団)jura七i,

jur6Sの二者をほぼ常に確認することができる

(Pirenne [!939]p.ユ76−177)。

 ただし、この2つの市政組織の史的変遷過程 については、南ネーデルラント全域に渡って一 様に捉えられ、記述されている訳ではない。初 期の参審人団については、上級権力からその裁 判権を付与された封建家臣たちが12世紀を通じ て構成していったものであることが、ほぼすべ ての都市について認められている10)。しかし宣

9)1261年2月28日アンリ3世Henri皿の逝去に続く

 長子アンリ4世Henri Nと母妃アレイデとの確執、

 それに大きく影響を受けたブラバント諸都市と公権.と

 の政治的状況については、Van Uytven[2004]

 p.103−104を見よ。

10)Gilissen[1954]p.555−556, Van Uy七ven[1982]

 p.224一一225.むろん12世紀においては、フランドルで  さえ法人格としての「都市」communeという認識は  なお未形成で、後述の通り13世紀に参審人が都市代表  の市政官として立ち現れるようになったとしても、伯  の領主権の強い影響下にあったことは前提としておか  なくてはならない(Monier[ユ924]p.115−!19)。ヒ  ルトンも、初期門閥支配層が商業的市民によって形成  されていたイギリス都市と対比しつつ、商業的成長が  始まる!3世紀以前のフランス都市について、フランド  ルのそれを除き、封建的権力と強く結合したミニズテ  リァーレス的性格を持つ土地所有者が、初期の市政支  配勢力だったことを強調している(ヒルトン[2000]

 Pi!ll−1!7)e

四人については、12世紀に起源を求められると するフランドル伯領を例外として )、低山タリ

ンギア地方などその他の領邦、例えばフランド ル伯領と国境を接し上級権力が強いまま推移し たリエージュ司教領の諸都市については、市政 官としての宣誓人が出現するのは、早くとも12 世紀末で多くは13世紀に入ってからだとされる からだ(:KupPer[1991a]P.47−48)。とはいえ 他面で、市政団の成立および中世後期に至る変 遷過程にとりわけ司教領都市間での強い類似性 が強調されてもいる(Gi工issen[1954]p、533−

534)o

 つまり、中世盛期の都市ウイHuyに関し参 審人を中心とした一部富裕家系による市政掌握 と、それに対する民衆の早熟な反乱と直後の反 動、そして中世後期における有力手工業者層の 政治的台頭という市政構造の変遷過程(ジョリ

1ユ)南ネーデルラントの中でも、他領邦に比較して都市  的成長と政治的権能増大が早熟だったフランドル伯領  においては、商業ブルジョワジーの台頭とともに(ヒ  ルトン[2000]p.115)、参審人だけでなく宣誓人も既  に12世紀から見て取ることができるとされている(プ  ラーニッツ[1959]p.103)。もちろん、古くはしヴァ

 ンデルキンデレとRモニエが(Vanderkindere

 [1905]/Monier[ユ924]p.104−114)、伯の司法機能  担当者としての参審人と市内秩序維持者としての宣誓  人の対峙・併存状況を主張したのに対し、あのH.ピ  レンヌが、エールAireやアルクAruque、リルLille  といったごく一部の例外を除いて、13世紀以前のフラ  ンドル都市に宣誓人は存在しないと反批判するといっ  た(Pirenne[ユ926]p.401−402:[ユ939]p.177, n.2)、

 興味深い学説史的経緯:があった点は銘記しておかなく  てはならない。この論争には、宣誓人の性格と機能に  関する史料解釈の困難と認識の相違が大きく関与して  いるのだが、現在では、ピレンヌ的解釈が後景に押し  やられ、12世紀フランドル都市における宣誓人の存在  を想定するのが定説となっている(Gilissen[1954]

 p.559−561/フルヒュルスト[2001]p、141>。本稿では、

 13世紀以降のブリュッセル市政官を申心的な考察対象  とする関係上、この点に関する研究史上の更なる議論  については、Van Werveke[1951], Van Uytven  [1982]を提示するにとどめる。なお、形成期中世都  市の住民と上級権力との法的関係について、より一般  的に論じたものとして、プティ=デュタイイ[1998],

 斎藤[1992],[2002],[2006]も参照されたい。

(6)

ス[1995]p.95,!32−145)がその一例で12)、そ

れ以外にリエージュ:Li6geやシント=トラゥデ ンSt.一Truidenについても、それぞれ既に新旧 の研究においてほぼ同様な叙述がなされてい る13〕。同じく帝国の辺境に位置するブラバント 公領の都市ブリュッセルについても、市政官の 出現時期や市政構造の変化に関する見地はおお

よそ同様と考えて良い。

 とはいえ上記諸都市と同様、中世盛期以前の 状況に関しては史料の沈黙が決定的である。13 世紀末までは、ブリュッセル住民全般の社会的 状況は不詳とされるエ4>。都市統治に関わる初期 の組織についても不明な点は多い。しかし、中 世を通じてこのセンヌ河都市の司法的統治集団 を傭揺する時、ほぼ常に参審人熱そしてそれと 並んで宣誓人を見て取ることができるのも確か

なのである.。

1>古典面一F.ファヴレスー

 まず前者について見てみよう。ブリュッセル における参審人への言及は、1154年の史料が初 出とされる。しかしながら、彼らの出現時期を めぐっては、最初の市壁建築の時期がいつだつ たのかをめぐる論争と並行する形で、見解が必 ずしも一致してないことに留意せねばならない。

つまり、ブリュッセル独自の参審人団に関して は、かつてエンヌとワウテルスがその起源を

12)ウイの市政組織については、Joris[1959]p.423−

452が詳しい。なお、中世後期における都市内階層対  立については、本論次節以降の主眼でもある。

13) Kurth [1909] t.1, p.53−109, Kupper [1991a] p.48−

 64,Charles[1965]p.267−313,375−377.13世紀低ロ  タリンギア地方における都市宣誓人の出現について、

 より一般的な言及としてはVan Uytven[1982]

 p.229,Kupper[2004]p.121−123を参照せよ。

14)例えば、都市貴族と大衆(一般市民)という二分法  がほぼ明瞭に確認できるようになるのは早くとも13世  紀後半に至ってからである(Favresse[1934a]p.48)。

1135年以前と考え、1!35年と!138年の史料中に 彼らの名前をいくつか確認することができると

していた(Henne[1845]t.!, p.24/Wauters

[ユ894] p.323)。

 ところが、これにデ=マレがまず疑問を提示 した。彼は、最初の磁壁建築開始時期について 12世紀説を唱えていたワウテルスを批判し15)、

それを13世紀だと修正する議論の中で、参審人 団の形成時期についてもそれほど早期とは考え られない、と主張したのである(Des Marez

[1927]pユ8,218)。続いて同様にボナンファ ンも、ワウテルスらの依拠した1138年の史料に は単に《参審面忘》《scabini》とあるだけで、

当時既に存在していたであろうブラバント公宮 廷の参審人徳である可能性も排除できないこと を指摘した。そして、1138年の可能性が非常に 高いとしつつも、《ブリュッセルの参審人膚》

《scabini de Bruxella》と史料にはっきり記さ れる1154年を初出と見なすべきだと、いわば中 間説を打ち出したのだった(Bonenfan七[1934]

p.25−26,n.3:[1936ユ p.24−25)Q

 彼と同じ1934年の論文集への寄稿でブリュッ セルの法的諸制度を論じたファヴレスも、この 1154年説を支持していた(Favresse[1934a]

p.50)。しかしそれだけではない。!138年忌言 及される3名を都市の参審人だとしてもユ6)、彼 らはブリュッセルの隣接地ウクルUccleのそれ とも解釈できる余地があるため、ブリュッセル

151)最初の市壁建築の時期に関する諸見解については、

 Bonenfan七[1936]を参照。なお、近年の都市考古学  的調査などから、ブリュッセルの第一次市壁完成は  12−13世紀二期と考えられている(Billen[2000b]p.

46)。また、第二次市壁建築までに設置された防備柵  ham6desに関して、ゴダンの好論(Godding[1956])

 があることを付記したい。

16)3人の名は以下の通り。Gswinus, Balduinus,

 Meinardus(Favresse[ユ938]p.356, n.!)

一 6! 一

(7)

のそれだとは言い切れない。従って1138年では なく、やはり1154年こそをブリュッセル参審人 の初出史料だと見なすべきだと述べ、ボナン ファン説を再修正して結論づけたのであった

(Favresse[1938]p、355−356, n.1)17)。いずれ

にせよ、都市的定住地の様相を深めていた!2世 紀半ば頃には、ブリュッセルで自立的な法的統 治集団が形成されていたことに間違いはないと

言えよう18〕。

 さて、その機能と性格についての検討はひと まずおくならば、ユ2世紀半ば以降について、中 世ブリュッセルにおける参審人の通時的存在は 疑うことができない。しかしながら他方で、宣 誓人一とりわけ13世紀のそれ一については 慎重な考慮が必要である。というのも、1229年 忌ブラバント公アンリ1世Henri Iが下付した 都市法charte, keureがエ9)、参審人と並んで宣

誓人に初めて言及するのだが(Favresse

[!934c]p.318, n.1)、ユ235年に再度言及されて

後、彼らがブリュッセルに伝来する史料に登場 するのは、126ユ年から1262年にかけて交わした 協定書での記述を除けば2。)、都合4度つまり 1264年、1265年、!267年、!270年忌けで2!}、彼

らのあり方については必ずしも十分な情報が残

17)奇妙なことにビレンは、以上の学説上の異同に全く  触れないまま、ブリュッセル都市民civesとその一部  scabiniが1138年に言及される、とだけ述べている

 (Billen [2000b] p.43).

18)レウヴェン伯ランベール1世Lambert lに始まる  ブラバント公権の形成史と、それに絡み合うブリュッ  セルの法的・地政学的地位の史的変遷は極めて複雑な  様相を示し、ここではその全体を論じる余裕がない。

 とりあえず、Bonenfant[1934]およびGodding

 [1975],Steurs[2004]を参照されたい。

19)ファヴレス(Favrese[1934c]p.311)を始め史家  たちはこの文書を、ブリュッセル初の刑法規定だと考  えてきた(Martens[1976d]p.66/Despy[1978]p.

 10)。それに対し、ゴダン(Godding[!999]p.120,

 n.7−8)は必ずしもそう捉えていない。これに関して  は後段で触れる。

されている訳ではないからである22)。

 エンヌやデ=マレ(Henne[1845]t.!, p.55,

n.1/Des Marez[1904]p.159−178)らによる 部分的な考察以来、宣誓人に関する史料を発掘・

刊行し、ブリュッセル市政制度研究の嗜矢をな したファヴレスは、1235年に言及された宣誓人 13人というのは、それ以前から、14世紀に出現 する手工業者代表のそれとは異なり23)、7名の 参審人と同じ都市貴族層に帰属しながらも、後 者がブラバン・ト公権の利害を代表するのに対し、

公権と対峙する市民代表としての性格を持って いた、と想定していた(Favresse[1931a]p.

145一ユ47,164>。

 実は1235年という1のは、ブリュッセル統治組 織にとって重大な変革をもたらした年であった。

20)ファヴレスは、1261年7月から1262年4月にかけて、

 レウヴェン、アントウェルペンAntwerpen、リール  Lier、ニヴェルNivellesとブリュッセルが交わした  協定書を刊行し、同時期それ以外の諸都市多数とも協  定を結んでいたことを指摘した(Favresse[1938]p.

 423−425)。それらの中では協定を結ぶ主体として、参  二人や市民全体という表現とともにブリュッセルの宣  誓人という記述が見られる。こうした協定締結は、ア  ンリ3世死去後の公領内の政治的混乱を背景にしたも  のであることは明らかである。前注9参照。

21)ユ3世紀後半ブリュッセル宣誓人に関する史料の記述  を要約すれば次のようなものとなる。1264年:参審人  団とともに救貧院財政について討議。1265年:公代官

 アンマンammannおよび参審人団とともに施療院の

 規則制定に関与。ユ267年:参審人団と並んで、レウヴェ  ンおよびブラバント公妃、公太子たちと外交文書を締  結。1270年1前記と同様に対ケルンkOlnとの外交交  渉 (Favresse[1931a]p.146/Despア[1978]p.8)。

 なお、ブラバント公領のアンマンとは、フランドル伯  領におけるバーイbailに比すべきものである。ただ  し、15世紀半ば以前まではその権限はさほど大きなも  のではなかった(Gilissen[1954]p.580>。これにつ  いて詳細は、ボナンファン(Bonenfant[1934]p.23−

 25)を見よ。

22)史料での言及は13世紀から散見されるにもかかわら  ず、ブリュッセル宣誓人の法的位置づけを初めて詳細  に明記した史料は、後述する通り!42!年2月1ユ日のフィ  リップ=ドニサンポールPhilippe de St.一Polによる  市政改革令である(Favresse.[1931a]p.141−142)。

23)14世紀アンバハト宣誓人については本論次節以降詳  述する。

(8)

というのも、それまで寡占的に大きな権限を握っ ていた有力市民による市政団に対し、一般市民 の不満が爆発したため、公アンリ1世がこれに 介入して改革の手を加えるという事態が発生し たからである。その結果、それまで終身だった

と推定される参審人の任期が1年に制限され、

離任者が後任の参審人候補者を提案し、拒否権 付きで公がこれを承認する、という方式が定め

られた(史料[1](1)(2))24)。他方、宣誓人に

ついてもほぼ同様の手続きが定められたものの、

その後、都市統治に関する史料文言から彼らへ の言及は消滅する。つまり、1261年アンリ3世 死後の政治的混乱を契機に復活するまで、市政 主体として記述されるのは参審人に限られるの である(Favresse[1931aユp.!48−149)25)。南 ネーデルラント都市全般において13世紀前半は、

当初終身だった参審人の任期が制限されていく という点で市政組織の大きな変動期であり

(Gilissen[1954]P.556−558)、上記ブリュッ セルでの動向はブラバント公領での一典型例だっ

たのだと言えよう(Byl.[1965]P.80−81)26)。

 もちろん、1235年に導入された市政官の1年 任期制度は、都市に対するブラバント公権の単

なる伸張を必ずしも意味する訳ではない。終身 制に制約をかけ、都市貴族の市政権限を制限す るということは、他方で、一般市民層の影響力 増大という可能性を大いに含んでもいたからで

24) Favresse [1934a] p,52, Martens [1959] p.173.

25)前述.したユ2世紀宣誓人の存在とは逆に、伯フィリッ  プニダルザスPhilippe d Alsaceの命令によって、フ  ランドル諸都市においても13世紀におけるその市政権  後退が強調されることがある (Gilissen[1954]

 p.562,n.2)。しかしそれは二二全域に浸透した訳で  ない。前野11で述べたように、エールやアルク、リル  あるいは、ポーペリンゲPoperinge、サン=ト心心ル  St.一〇皿er、コルトレイクKortrijkなどでも13世紀に  ついて宣誓人の残存が確認されている(Van Uytven

 [1982] p,229−230).

ある27}。

 1235年の市政改革において、もう1つ見逃す ことのできない現象をファヴレスは指摘してい た。それは評議会consei1, raadの成立である。

評議会の起源は不明とされ、史料において初め て言及されるのは1282年と遅いのだが(史料

[2])、成立は恐らく1235年が契機だったに違い ない、と強調するのだ(Favresse[1934a]p・

50)2s>。というのも、上記の如く宣誓人の市政 における権限が後退し、参審人たちも1年で離 任を余儀なくされるという経験をしたブリュッ セル都市貴族たちは、評議員conseil!erという 名のもとに市政での助言者としてなお一定の影 響力を確保しようとしたのではないか、という

のがファヴレスの主張なのである(Favresse

[1930ユp.139−140>29)。そして、アンリ3世の

26)参審人の12〜14カ月の任期制というのは、北フラン  スから北ネーデルラントに至る地域の都市で、早くは  12世紀末から見られる現象である(Van Uytven.

 [1982]p.227)。J,ジリッセンに拠りつつ、都市参審人  の任期制導入時期を領邦毎に記しておこう(Gilissen  [1954]p.558)。アルトワ伯領:アラスArras(1194  年)。フランドル伯領:イープルIeper(ユ209年)、ヘ  ントGent(1212年)、ドゥエDouai(1228年)、リル  (1235年)、ブリュッへBrugge(1241年)。ブラバン  ト公領:ブリュッセル(!235年)、レウヴェン(1267  年)、ザウトレーウZoutleeuw(1295年目、アントウェ  ルペン(1300年)、ス=ヘルトーヘン=ボス s−

 Hertogenbosch(1336年)。エノー伯領:ヴァランシ

 エンヌValenciennes (1302年)、モンスMons

 (13!5年)。

27)この点、公権を背景とする家人的性格が後退し、参  商人団の「市民的」な自立度が上昇したというゴダン  (Godding[1999]p.125)の指摘を見よ。

28)なお、評議会がブリュッセル市政で法的かつ正式に

 位置づけ.られるのは、1421年2月のことである

 (Favresse[1930]p.132)。この点に関しては、本論  第3節を参照されたい。またフランドルについても、

 13世紀参審人品の強化と宣誓人の後退を想定する論点  の中で、評議会の成立が指摘されている (Monier

 [1924]pユ10−115/Pirenne [1939]p.176−177)。

29)評議会の成立と1いう論点は、後述の「13世紀宣誓人  への懐疑」という批判的議論と接続するため、留意し  ておく必要がある。

一 63 一

(9)

死去に伴う政治的混乱の.中で、13世紀後半から 宣誓人が再びかつての市政権を取り戻し、参審 人および後述する八人衆とともに、!280年頃ま で司法・行政機能を果たしたと想定していたの だった(Favresse[1930]p.138−!39:[1931a]

p.146−147)o

2)古典三二二一M.マルテンス・G.デスピィ・

 P.ゴダンー

 13世紀のブリュッセル市政団に関する以上の ようなファヴレス説は、1930年代以来永らく定 説としての地位を保っていた。ところが、70年 忌に入って次のような疑義が提起される。まず マルテンスが、ブリュッセルの宣誓人出現につ いて、史料初出の1229年よりずっと以前ではな いか、と時期の引き上げを示唆した(Martens

[ユ976d]p.69)。というのも、12!3〜14年忌か けて一時フランス王権側についたブラバント公 アンリ1世は、イングランド王権に与した隣…敵 フランドル伯の軍事的圧力に敗北した結果3。1、

失われた公領内の秩序回復のため都市宥和策を 必要としていた。その際、ザウトレーウなどに 見られるのと同様、ブリュッセルにも同じ時期 に宣誓入の存在を許容した可能性が高い、とい

うのである31)。

 マルテンスとほぼ時を同じくして、デスピィ もファヴレス以来の定説に疑問を投げかけた。

30)アンリ1丁目レウヴェン伯としてはアンリ4世Henri  IV)をめぐる当時の国際政治情勢については、 Van  Mingroot[1980]p.60−62を参照されたい。

31>マルテンスは1235年の市政改革で、市政団の1年任  期制導入と宣誓人の公権からの自立という現象さえ、

 そうした文脈の中で捉えている(Martens[1976d]

 p.69−70)。ただし、こうしたマルテンス説に対し、13  世紀ブラバント諸都市の宣誓人は、市民から選出され  るとはいえその存在は様々で、単純に類比を結論する

 ことはできないという留保と反駁も見られる

 (Despy[1978]p.19, n.28/Godding[!999]pユ26)。

しかもそれは、市民から選出される「13世紀の 宣誓人」という大枠の見方をさえ批判してのけ る、強い論調のものであった。

 つまり、既に述べたように、ピレンヌやG.

タルトに始まりH.ヴァン=ウェルヴェーケ、

ジリッセン、A.ジョリスといった研究者たち の踏襲してきたロワールーライン間諸都市に関

する共通認識(Gilissen[ユ954]p.602 一 603)

一14世紀のそれとは違って、13世紀の宣誓人 は上層市民の利害代表者であった。しかし、領 主の任命した参審人団とは対峙する立;場を有し、

やがて後者の権限を裁判権のみに押し込めると ともに、それ以外の市政全般を大きく把握する ことによって、市政団の中で主要な地位を占め るに至る32> に対し、次の2点から改めて検 討する必要がある、と言うのである。第1に、

参審人と宣誓人とは市政での立場を異にするに も関わらず、同じ都市貴族層を選出母体と想定 することが本当に妥当なのか。第2は、参審人 に比べ余りに史料中言及の少ない宣誓人が、恒 常的に市政を担う人間の一員たり得たのか、と いうことである(Despy[1978]p.7−8)。

 デスピィはこの2側面の検討を13世紀ブリュッ セルを素材として行う。その際まず、史料発掘

と刊行といったファヴレスの膨大な仕事には敬 意を払いつつも、この先達がピレンヌやタルト 以来の19世紀史学的呪縛に囚われ、解釈におい て後者の追随にとどまってしまったとする33}。

32)前回11,12,13参照。

33)Despy[1978]p.!8, n.4.この時ファヴレスの依拠  した先行研究は、ディナンDinantについてのピレン  ヌ(Pirenne[1889]p.25−33)、レウヴェンについて  のH.ヴァンデル=リンデン(Vander Linden[1892]

 p.32−38)、リエージュについてのタルト (Kurth  [1909ユt.1,p.90−99, t.2,146−199)の各著作である  (Favresse[!931a]p,145一ユ46)。ただし残念ながら、

 前二者は筆者未見である。

(10)

13世紀宣誓人の出現については、ピレンヌ以来 の観念、つまり市民的共同体が形成される際の 必然的帰結だとする確信がファヴレスには強過 ぎた、と言うのである。そこで、史料の精読に より、ブリュッセル宣誓人の生成と消滅および その機能を、都市の社会経済あるいはブラバン

ト公権との関係の中において、改めて見直すこ とが必要だと主張する(Despy[1978]p.9)。

 そうしたデスピィの批判的議論は、以下の如 く4点に渡って展開されている(Despy[1978]

p.10−13)。まず、1229年の史料が記述する宣誓 人の役割は、ワインの品質吟味について記した 条項(Favresse[1938]p.387,§ユ4)を除く

と、法廷闘争や私闘に対する裁判・調停への部 分的参加、そしてブラバント公宮廷での助言と いう内容に過ぎない。従って、彼らが参審人と ともに市政全般を担っていたとは言い難いこと。

 第2に、1235年のブラバント公令は、その前 に生じた政治的情勢変化を反映した結果、一 つまり市内に通常法理が通用しないような特殊 な状況一に対し、宣誓人という特定集団が市 内において、また公権に対して、一種の圧力団 体として振る舞った様相を呈していること。

 第3に、126!年から1262年にかけて宣誓人が 関与した他都市との協定や講和条約は、公権継 承問題で揺れる政治的不安の中で交わされたも のである34)。彼らの任務は、そうした情勢下で 発生した、市民同士の都市間をまたぐ係争の裁 定であり、通常市政を与る市政官としてのそれ だったとは考えにくいこと。

 第4に、!264年から1270年に出現する宣誓人 の役回りは、商人が居住する街区の救貧院や施 療院に関する問題解決、あるいは、ケルンとの

通商における安全確保であり、前記と同様、彼 らが市内行政担当者だったように見えないこ

と35)。

 以上の諸点を取りまとめ、デスピィは次のよ うに結論づける。13世紀ブリュッセルの宣誓人 とは、参審人とは異なり、市民全体を代表する 通常の市政官ではない。市内のサン=ニコラ街 区を地縁的基盤として強い結束を保ち、主とし てライン地方からエノー地方にか.けての流通に 大きな利害を持つ商人集団の代表者たちであっ た。彼らが市政の前面に出るのは、市内外の司 法機能が正常でない:場合や、関係する救貧組織 が財政問題を抱えた時、そして、商業活動に支 障が生じる可能性があった場合である36)。こう

した意味で、彼らは市当局あるいは公宮廷に対 し、時宜に応じかつ可能な際に、意見具申する 圧力団体的な存在だったのだ、と (Despy

[1978] p.!3−15)e

 以上のデスピィの結論には、一般論として更 にもう2点が加わる。一方で、ユ3世紀に低ロタ リンギア諸都市で見られる宣誓人は、旧来の説 が述べてきたように、必ずしもすべてが同様な 性格を持つものではない。従って、各都市およ

び市内有力者の置かれた政治・経済的状況によっ

34)弥陀20参照。

35)デスピィはこの点でファヴレス批判を更に進める。

 1277年にケルン大司教がブリュッセルに発した、商業  不安に関する警告状の名宛人のうちconsulSと記され  た対象が、ファヴレスの否定的見解(Favesse[1938]

 p.450,n.2)とは異なって、やはりブリュッセルの宣  二人なのだと断定する。そして、彼らはケルンとの通  商に大きな利害を持つ集団だった、と結論づけるので  ある(Despy[1978]p.19, n.26)。

36)13世紀に成長を遂げ、政治的発言力を増した都市的  商人層を強調するというのは、かつてピレンヌが打ち  立てた「南ネーデルラント都市における商人一企業家  層の存在」という命題を、デスピィが当時しきりに論

 証しようとしていた際の根拠の1つである(Despy

 [ユ981]〉。商人一企業家論とそれへの批判について、

 ここでは詳細に述べる余地がない。藤井[ユ998]

 p.23−34を参照されたい。

一一@65 一

(11)

て逐一吟味する必要があること。他方で、12世 紀末リエージュに出現した宣誓人制度の周辺へ の浸透、という固定観念さえも払拭していかね ばならないだろう、ということである(Despy

[1978] p.!5−17)3

 13世紀宣誓人の存在と機能全体を限定的に捉 える以上のデスピィ説は、ファヴレスはもちろ ん、マルテンスとも一線を画すものであった。

ところがそれからおよそ20年後、「再読」との 副題を付したゴダン論文が1229年の史料を再検 討し、研究史は興味深い展開を辿っていく。

 ゴダンはまず、1229年公布の都市法に関する それまでの定説、つまり、ブリュッセル市民と ブラバント公との双務契約を記した刑法である、

との認識から狙上に載せる38)。その上で、前述 のファヴレス説とデスピィ説を対比しつつ、改 めてそれらに光を当てる。そして、参審人とと

もにブラバント公に助言する者としてこの史料 冒頭に出現するブリュッセルの《jurati》は、

通常の市政担当者とは考え難い、とひとまずデ スピィに軍配を上げる(Godding[1999]p.

119 121, 124)o

 しかしながら他方で、《jurati》を特定の職 務を果たす者とだけ狭く捉えようとしたために、

この語の持つ広義の意味をデスピィが見逃した のではないか、とも指摘する。ここでゴダンは、

比較のためにヴァランシエンヌの事例を取り上

.げ検討していく。つまり、暴力沈静化を目的と して1114年にエノー伯とこの都市との間で制定 された、市内和平執行者として認定された

jur6s;coniuratioがそれである。この史実か ら類推すれば、ブリュッセルの史料(Favresse

[1938]p.380−381)で述べられている人々

《homines》というのは、《jurati》を含み、

市内の平和と都市法keureの遵守を誓った15 歳以上のブリュッセル住民全体《burgenses》

とまずは考えるべきである、と言うのである

(Godding [1999] p.122−123).

 他方、狭義の宣誓人としての《jurati》に ついて、ゴダンは解釈の幅が大きすぎるとして、

1229年の史料に関しては判断を保留する。そう して、あのアンリ!世による!235年改革令を検 討に付す。市政団の選出過程で公の関与に制限 を加える内容を含むこの命令は、参審人団の家 人的性格を後退させ(=市民的性格の拡大)、

また、宣誓人の市民的自立度を大きく高め、か つ両者の制度的確立を実現した、と考える。13 世紀後半の宣誓人への言及についての分析とも 併せて、結果として、彼らは参審人団とほぼ常

に行動を共にしながらも、正規の都市統治者で はなく、助言を行う団体という意味で、市政に おける副次的存在だったに違いない、と結論

したのである(Godding[1999]p.124−126,

147) 39  o.

3)小括一評議会の意義一

 13病期前半の宣誓人を取り巻くブリュッセル 内外の詳しい事情は判明していない。そうした 現況下では、上述したゴダンの再反問は比較的 妥当なものと言える4σ)ρそれゆえ、13世紀宣誓

37)1196年リエージュ司教アルベール=ドニカゥク

 Albert de Cuyckによるリエージュへの都市法下付  とコミューンの形成、という説に関する疑義について  は、Despy[1972]およびK:upper[199ユa]p.47−48  を見よ。

38)前注ユ9参照。

39)更にゴダンは、1213年のザウトレーウの宣誓人が、マ  ルテンスの見解(前注31参照)とは逆の意味一つま  り正規の市政官ではない一で、ブリュッセルのそれと  類似していた可能性を指摘する。そして同時に、デス  ピィと同様に、13世紀諸都市における宣誓人の多様性  をも強調するのである(Godding[1999]p.ユ23,126)。

(12)

人のありようについてなお慎重に考えるべきで あることは当然だとして、ここでは2つの留意 点が残ることを指摘したい。

 第1は、1235年頃に出現した可能性が高いと される評議会の意義である。ファヴレスが示唆 したその存在と宣誓人との関係を、その後の史 家は余りに軽視してきたのではないか。デスピィ が強調する通り、1235年時点の宣誓人が時限的

に圧力団体としての機能を発揮したの.だ、とい うことならば、自立度を高めたはずの彼らが市 政官としてなぜその後残存しなかったのか、と いう疑問が提起される。ファヴレスの想定は、

この疑問に予め答えるもの一宣七人の市政へ の直接関与の後退という現象は、評議会の出現

と表裏一体であること一となっていたはずで

ある(Favresse[1930]p.139一一140)。

 史料での言及は確かに少ないものの、後述の

「15世紀アンバハト宣誓人による評議会形成」

を考える時、「13世紀評議会」の意義について

「依然として検討の余地が残る。他都市との比較 を含め、今後に残された課題であろう41)。

 以上と関連して第2点は、宣誓人の成立基盤 をどのように考えるかということである。彼ら と参審人の出自がいずれも都市貴族層だと想定       し することについて疑念が生じる、というデスピィ

の批判は確かに自然ではある。しかし他方で、

これも後述する通り、14−!5世紀の都市貴族間 対立の様相を見ると、ブリュッセルの都市貴族

はそれが家人的出自であろうと、豪商の出自で

40)中世ブリュッセルに関する史料発掘とそれに基づく  研究は脈々と続けられている(例えばDickstein−

 Bernard[1988],[ユ995],[1997]を見よ)。13世紀市  政官をめぐる状況の空隙も、やがて新史料の出現が埋  めてくれることを期待したい。

41)前注28,29参照。これは、1306年3月に公令で言  及される宣誓人と宣誓評議会の意義をどのように考え  るべきかという問題とも絡んでくる。後注65参照。

あろうと必ずしも一体的なものではなく、むし ろ初期から利害を異にするグループに分かれて いたことを強く想像させる。従って、ファヴレ スの言う13世紀における宣誓人と参審人の利害 相反も全くあり得ないことではないのだ。

 1235年から1261年まで、宣誓人の表面的不在

(=史料欠如)は25年間である。しかも参審人 の退任者を含め、彼らがその間も評議員となる ことによって市政へ一定の関与を続けたことは ほぼ間違いない。とするならば、デスピィやゴ ダンの言う通り、たとえ宣誓人が市内一部勢力 の代弁者だったとしても、その発言力が強けれ

ば、実態として、参審人とは異なる利害を反映 する市民の代表となり得たのではないか。

 ファヴレスを古典的定説とし、マルテンスや デスピィを経由しゴダンに至る議論は、同一の 史料を前にしつつ、生成期宣誓人の位置をどの

ように見定めるか、という解釈の問題を我々に 提示している。この添いずれの論者も実は、14 世紀以降のそれがアンバハト宣誓人に代替され ていく、という単純な前提を措いている。その ため、議論と結論が二者択一的で平板なものと なっていることは否めない。しかし、13世紀か ら14世紀以降にかけての都市統治組織の人的構 成は、必ずしもそのように単純な動向を示した 訳ではない。幾度も組上に載せられた1235年の 評議会の出現が、動的な状況を明瞭に語っては いないだろうか。!3世紀についての批判的見地 はそれなりに妥当性をもつとしても、ファヴレ スの示した諸研究は、決して時間的に切り離し た形でブリュッセル市政を見ようというもので はないことは念頭におかねばならないのである。

一一@67 一

(13)

第2節市政参加権をめぐる一般市民と都市貴    族一14世紀前半一

 前節で見た通り、13世紀の宣誓人については 様々な見解が提示されてきた。ところが他方で、

ユ4世紀以降のそれについては、逆に研究者たち は認識の一致を強く見せる。つまり、都市商工 業の発展とそれに伴う手工業組織=アンバハト ambach七, metierの経済的成長が、一般市民 層による都市貴族体制への挑戦を可能にし始め る。そうした中、手工業組織の代表者たる宣誓 人を生みだし、彼らを通じて手工業者たちが市 政へ一定の関与を始める、というものである42)。

このような見方は既に19世紀末のエンヌ

(Henne[1845])たちの仕事に始まり、デ;マ レ (Des Marez[1904])やボナンファン

(Bonenfant[1921])に受け継がれていたが、

ブリュッセルについて実証度を飛躍的に高めて 詳細を明らかにしたのは、やはりファヴレスで あっだ3〕。以下その史料発掘の仕事にも依拠し つつ、!4世紀以降手工業者層を軸に大きな変転

を見せるブリュッセル市政構造とその特徴を探っ

ていこう。

 (1)手工業者の台頭と都市貴族反動体制  13世紀末からの経済成長を背景として(藤井

[2007]p.!79−181)、14世紀初頭ブリュッセル では、手工業の職種を少なくとも36以上数えた

42)13世紀後半から都市内の本格的対立一つまり都市  貴族層と一般市民層のそれ一が開始される、という  見方については、例えばリエージュ司教領に関しても  堅持されている(K:upper[2002]p.37−38)。なお、13  世紀末以降の南ネーデルラントにおける、より一般的  な状況については、Gihssen[1954]p.564 一566, Van  Uy七ven[1982]p.210−213を見よ。

43)ここではその貢献の一部を挙げる。Favresse

 [ユ932], [1934a・b], [!957].

とされる44)。しかし、デ=マレやボナンファン は、幹部選出・規約制定・集会開催の諸権利を 持つような同職組織の形成が明確になるのは14 世紀半ばになってからだと考えていた(Des

Marez [1904] p,13−!4, Bonanfant [1921]

p.585)。これに対し、次項で述べる手工業組 織固有のアンバハト宣誓人gezworenen van ambacht, jures du m6tierの存在確認によっ

て、ファヴレスとディックステイン=ベルナー ルは、織布工と縮充工の2アンバハトについて は、その萌芽を14世紀前半に遡ることができる と主張した。ただし、宣誓人の選出やアンバハ ト規約の制定などはなお毛織物ギルドGildeの 統制下にあり45)、手工業組織としての正式な承 認は拒まれていたため: 6)、14世紀半ばまでは完 全に自立的な組織体ではなかったであろうと述 べ、デ=マレらの結論を半ば認めてもいたのだっ

k47)oとはいえ、毛織物関連の手工業者たちが 13世紀末以降、次第にその地位を改善していっ

44)13世紀末から14世紀前半にかけてのブリュッセル手  工業の全般的状況については、Des Marez[1904]p.

 5−20を参看されたい。

45)毛織物ギルドとは、都市貴族層が形成した商人団体  であり、毛織物商工業に強い統制権を持つとともに  (Favresse[1932]p.24−45)、市政全般に影響力をふ  るう組織であった(Billen[2000b]p、45−46)。正確な  起源は不明だが、13世紀初頭頃に成立し、その後ブラ  バント公によって認知されるとともに、独自の財政・

 会計処理をするなど!3世紀を通じて自立した組織体と  して姿を整えるという経過をたどったと推定されてい

 る (Dickstein−Bernard[1977]p.10−1!:[1979b]p.51;

 1[1988]p.18)。史料での初出は1282年で、都市当局が  手工業者の賃金・労働条件や罰金に関わる規則を制定  するに際し、ギルド役職者が公布主体として名を連ね  ているのを見て取ることができる(Favresse[1938]

 p.455−458)。ギルドの毛織物商工業経営については、

 藤井[2007]p.220−222を見よ。

46)織布工・縮充工以外の手工業職については、1365年

 都市当局による4アンバハトー家具工・樽工、油製  造工、大工、刀・鞘・綱各製造工一の追加認可

 (Des Marez[1904]p.24/Favresse[1932]p.123)ま  で、同職組織形成は阻止されていた。なお、大工はそ  の後石工・彫刻師・瓦工とともに1つのアンバハトを  形成したようで、後者全体の都市当局による正式認可  と宣誓人選出は1380年代に下る。後注71参照。

(14)

たこ ともまた間違いない(:Favresse[1934a]

P・58一一59) 8

 そうした中、ブリュッセル市政に大きな転機 をもたらしたのは、14世紀初頭の政治的動乱で あった。当時フランドルで発生した内乱が南ネー デルラントの周辺諸都市へ波及し、各地で手工 業者層が政治的発言力を増大させていた

(Gilissen.[1954]p.563)49》。ブリュッセルでも

1303年5月手工業者の一・斉蜂起の後、彼らにア ンバハトを組織したり市政へ関与したりする権一 利をブラバント公が認める事態へと進展した

(De Ridder[1974]p.292−293)so>。ところがそ

の後、ブラバント諸都市が反動市政へと回帰す る中(Van Uytven[2004]p,124−125)、公妃 による都市貴族と一般市民との仲介を手工業者 たちが無視した行為をきっかけに、公ジャン2 世Jean Hは以前の命令を取り消し、1306年2 月《7人の都市貴族とアンマンによってブリュッ セルは統治さるべし》との命令を発布したのだっ

た(史料[3])51)。

 この時の手工業者層の政治的野心はわずか3

年ほどで頓挫した(Favresse[!934aユp.57「58)。

しかしそれは他方で、市政を牛耳る有力市民層 の姿を我々の眼前に顕わに示すという結果をも 招来したのである。それは、「7人の都市貴族」

47) Favresse [1932] p.122−123, Dickstein−Bernard  [1976a] p.133−134, [1977] p.10−11.

48)例えば、毛織物ギルドおよび都市当局と縮充工との

 間に交わされた1282年の賃金協定の存在を見よ

 (Favresse [1955])e

49)1302年「黄金の拍車の戦い」1e batail des eperons  d orを頂点とする当時の内乱については、 Rotier  [工995],Van Uytven[2004]p.123−125を見よ。

50)ただし、手工業者の組織化とそれに対する都市当局  からの規制は、1282年の縮充工規約制定に遡ることが  できる。前上45参照。

51)ブリュッセルを取り巻く以上の社会・政治的状況に  ついて詳細は拙著(藤井[2007]p.225−227)を参照  されたい。

と呼称された人物たちの存在である。彼らは、

7都市貴族Sept I.ignagesと呼ばれる、名望 家市民たちを排出する家系であった。時に、都 市の公的職務を遂行する特権集団として、また、

市内外の不動産所有者あるいは毛織物商工業の 支配者として彼らは言及され(Van Parys

[1959]t.3,p.107,122)、その政治・経済的権 力は中世盛期から後期にかけてのブリュッセル に強く浸透していた(Pirenne[1929]p.296−

297)0

 7つの家門がすべて史料中に現われるのは、

上記ジャン2世の命令が初めてで、反動都市貴

族体制下、Serhuigs, Weerts,:Leus, Rodenbeke,

Seroloefs, uten Steenwegs, Coudenbergeの7 家系が市政担当者として指名されたのだった

(史料[5ユ(1))52)。ただし、そうした都市貴族

体制が14世紀初頭になって初めて成立した訳で はない。13世紀を通じて有力市民家系が市政の 寡占を実現しようとしていたことは、研究者た ちのほぼ共通した認識となっている5B)。マルテ ンスによれば、1235年に発布された公アンリ1 世の命令が有力家門台頭の契機だとされる。7 人の参審人と13人の宣誓人を正式に認可すると

ともに、彼らの毎年の改選を定めたあ.の公令以 後54)、1306年に至る過程で上記7家門が形成さ れてきた、というのである(Martens[1959]

p.!73h174)o

52)もちろん、有力市民という範疇での都市貴族は7家  門に限定されている訳ではない。市政において種々の  特権を行使し得たのが7家門の血統を公称する者たち  なのである。

53)この点については、Van Parys[1960]p.166,

 Verriest [1960] p.15−18, 177−178, Dickstein−

 Bernard[ユ988]p.61を見よ。またブリュッセル以外  の都市における門閥支配体制については、Favresse  [1932]p.24,[1934a]p.48を参照。

54)本論第1節(2)参照。

一 69 一

(15)

 しかもマルテンスのこの議論には、これら7つ の家系名がすべて1306年以前から存在していた

のではなく、Leo, Weerts(=Hospes),Serroelof,

Coudenberg, Rodenbekeは14世紀以前に遡ると しても、Serhuigs, U七en Steenwegheの2家系 はユ4世紀初頭になって初めて出現したのでは ないか、との主張も同時に込められていた

(Martens[1959]p.190一一191)。この想定に対 し、H.C.ヴァン=パレィス (Van Parys I[1960])は各家系の諸起源を完全に決定するこ

とは難しいと留保を加えつつ、1306年のブラバ ント公令第3条にある《我が父祖諸公の時代よ りブリュッセル市政を司ってきた7家門》(史 料[5](2))という文言を拠り所の1つとし、

1306年に明言される7家門はすべて13世紀から ブリュッセル市政に関与していた強い可能性を

強調したのである55)。

 いずれにせよ、彼らは高い経済成長ととも に56)、毛織物ギルドをも通じた市政支配をユ4世 紀前半までに実現していったのである。

 ② 市政改革とアンバハト宣誓人の出現  14世紀以降毛織物ギルドは、2人の主席 doyenと入人衆huitsと呼ばれる幹部会を中心 として、7家門を出自とする市政当局者ととも に毛織物商工業に係る立法権・司法権を行使し

(Godding [1951] p.144−146: [1960] p.344).

都市的生活全般に及ぶ強い権能を発揮した

(DicksteirL−Bernard [1977]p.10−11:[1979bユ

p.52−53>57〕。しかしそうした統治構造は必ずし

55)その詳細な論拠については、藤井[2007]p.218,n.

 14を参照されたい。

56)本稿ではブリュッセルの経済的側面の叙述を大きく  割愛した。毛織物工業を基盤とした14世紀前半以降の  経済動向については、藤井[2007]p.179−210で詳し  く叙述しているので参照されたい。

も盤石のものではなかった。後述する通り、都 市貴族体制がそもそも一枚岩の如き均質性を保っ ていなかったことに加え、内乱後一旦縮小した 手工業者たちの経済的・政治的な力が再び拡大

し始めたからである5s)。

 14世紀前半のうちに、財政問題を契機とした 市政構造変革の動きが生じた。都市財政全体に 対する一般市民層からの不満と糾弾とを背景

として、1334年7月5日2人の都市会計官

receveursが任命され、財政改革が図られるこ ととなった(:Favresse[1931b]p.115−118)。

しかもこの動きと連動する形で、毛織物ギルド の主席と八人衆に対しても、参審人団と評議会 ヘギルドの会計報告をする義務が課されること となったのである(Dickstein−Bernard[!977]

p.91;[1988]p.27)59}。この時参審人言と並ん

で、命令布告主体に評議会が現れていることに

留意したい(史料[7](ユ)(2))。14世紀初頭の

反動市政においては殆ど言及されない評議会が、

ここで登場するということは(表[2](8))60)、

当該時点のブリュッセルで都市貴族内部の統一 が大きく揺らぎ、一回市民からの圧力も手伝っ て2つの財政運営に刷新が求められたと想定で

きるからである61)。

 この問参審人団の性格にも変化が生じていた。

57)前注45参照。

58)ファヴレスは織布工のアンバハトが認可された1320  年代を、大衆運動が結実し始めた時期だとしている

 (Favresse [1934a] p.58−59)0

59)毛織物ギルドは恐らく成立当初から、都市財政とは  全く別個に独自の会計・財政処理を行っていたと考え  られる。ギルドへの加入金、原料・製品への秤量や検  印の際の課税といった経常収入だけでなく、毛織物工  業規約の違反者に対する罰金がこの組織一特に役職

 者たち一の収入を形成していた(Dickstein−

 Bernard [1977] p.93−95)e

60)とはいえ1333年時点でも評議会の権限等に関する詳  直な規定が定められた訳ではない(Favresse[1930]

 p.137−138)o

参照

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