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世紀後半のパリ・オペラ座におけるバレエ伴奏者
─フランス国立文書館及びオペラ座図書館の資料に見る実態─
Les accompagnateurs de ballet à l’Opéra de Paris dans la seconde moitié
du 19
esiècle: une réalité basée sur les documents conservés aux Archives
nationales et à la Bibliothèque-musée de l’Opéra
永 井 玉 藻
Nagai TamamoA l’Opéra de Paris au 19e siècle, l’accompagnateur du cours de ballet occupe une place
indis-pensable à l’entraînement quotidien des danseurs, comme l’on remarque qu’ils apparaissent parfois sur les tableaux chez Degas, dessinant les répétitions des danseuses. Si les pianistes n’existent nulle part dans ses tableaux, c’est parce qu’à l’époque, les instrumentistes à cordes sont chargés du rôle. Pour eux, on a toujours préparé une partition réduite qui s’appelait « répétiteur ». Même si les cher-cheurs comme Roland John Wiley, Marian Smith ou David A. Day se sont intéressés aux leurs activi-tés, aucun détail ne nous parvient sur ce métier.
Cette étude a ainsi pour but de dévoiler la situation de travail des accompagnateurs de ballet à l’Opéra de Paris dans la deuxième moitié du 19e siècle, en analysant les documents conservés à
l’Archive Nationale ainsi qu’à la Bibliothèque-musée de l’Opéra.
Le résultat des recherches nous montre que la direction de l’institution admet un poste d’accompagnateur de ballet qui pourra être rempli par un violoniste ou un artiste de l’orchestre. Dans la seconde moitié, dix instrumentistes à cordes sont en charge d’accompagner le ballet, dont neuf sont engagés par l’Orchestre de l’Opéra en tant que violoniste ou altiste, comme Gustave Col-longues (1830-1906), un des altistes de l’orchestre et des accompagnateurs. Cela veut dire que, pour eux, l’accompagnateur de ballet était un emploi secondaire autorisé, très rarement, par la di-rection de l’Opéra. La trace de leurs activités se trouve jusqu’à la période de 1920s, alors que les pia-nistes se succédaient au rôle des accompagnateurs comme aujourd’hui.
0
.序
本論文の目的は,19 世紀後半のパリ・オペラ座における弦楽器のバレエ伴奏者1)について,一次 資料に基づき彼らの人物像や劇場での立場の解明を試みることである。ひいては,本論文はこれまで ほとんど着手されていない,バレエ上演の歴史的実態に迫る研究の試みである。 1)今日,「バレエ」という語が指す舞踊ジャンルは多岐に渡るため,本論では便宜上,19世紀以降に発達し,ポワントの技法 を用いることを前提とするクラシック・ダンスの総称として,「バレエ」という語を用いる。また,今日のダンスの伴奏者 は,「アカンパニスト」や「伴奏ピアニスト」などと呼称されるが,日本でも欧米でも,統一した職業名があるわけではな い。そのため本論では,器楽や声楽の伴奏者との区別のために,上述した「バレエ」の稽古伴奏をする人物を指して「バ レエ伴奏者」という語を用いる。フランスの代表的なオペラ劇場であるパリ・オペラ座に関しては,これまで演奏者や劇場運営全般 に関する研究が中心的になされてきた。しかし,公演の創作過程で行われていた稽古の全容や,公演 の稽古に不可欠な伴奏者の実態は,ほとんど論じられて来なかった。そこで本論では,様々なバレエ カンパニーが,今日,主要なレパートリーとしている作品が生み出された 19 世紀後半から,バレエ・ リュスの登場によって,パリのバレエ界の様相が大きく変化する 20 世紀初頭までの時期を対象に, オペラ座監督の規則集や監督義務書などの劇場運営に関する一次資料を検証し,実証的見地からの考 察を行う。 現在,年間を通して公演を行うプロフェッショナル・バレエカンパニーにおいて,日常の稽古はピ アノによる伴奏付きで行われるのが一般的である。最古の歴史を持つパリ国立オペラ座バレエ団で も,「クラス・レッスン」あるいは「クラス」と呼ばれる日常的なトレーニングの伴奏を担当するピ アノ伴奏者 pianiste-accompagnateur が 5 名,公演の稽古の伴奏を担当するシェフ・ド・シャン chef de chantが 7 名所属し,年間 100 回以上の公演準備と,日々の稽古に携わっている2)。 ところが,バレエの稽古伴奏を当然のようにピアニストが行う習慣は,実は 20 世紀以降に始まっ たものである。それ以前の稽古伴奏は,弦楽器奏者によって行われていた。本論文は,この弦楽器の バレエ伴奏者に焦点を当てるものである。 バレエ伴奏者については,表舞台で活躍するダンサーや演奏家とは異なり,不明な事柄が多い。 1841年にオペラ座で初演された《ジゼル》に関するマリアン・スミスの論考(Smith 2000B)や,ロー ランド・ジョン・ワイリーによるチャイコフスキーの三大バレエに関する著作(Wiley 1985)は,19 世紀半ばのパリ・オペラ座や,世紀後半のロシア帝室マリインスキー劇場におけるバレエ伴奏者の存 在に触れているが,その記述は極めて断片的である。そのため,バレエの稽古伴奏がどのような人物 によってなされていたのか,という点については,詳細がほとんど明らかにされていなかった。 一方,デイヴィッド・A・デイ(Day 2008)の論考は,19 世紀初頭から 1830 年代までのブリュッ セル王立劇場におけるバレエ伴奏者について精査した点で画期的である。しかし,デイのこの論考 は,19 世紀におけるバレエの上演地としては周辺的な位置付けにあったブリュッセルの場合を扱っ た研究に過ぎず,当時,ヨーロッパにおけるバレエ上演の中心地だったパリ・オペラ座での場合につ いても,検討されるべきであろう。 そこで本論では,まずバレエの稽古伴奏が弦楽器によって行われるようになった経緯と,19 世紀 のダンスの稽古伴奏の状況を概観する。次に,フランス国立文書館やフランス国立図書館所蔵のオペ ラ座に関する資料をもとに,19 世紀後半にオペラ座で稽古伴奏を行っていたバレエ伴奏者について 精査し,パリ・オペラ座の場合は 2 名以上の弦楽器奏者が伴奏者として就業していたことを明らか にする。さらに,弦楽器伴奏者のうちの一名を例として取り上げ,経歴や給与の詳細を検討する。最 後に,弦楽器によるバレエ伴奏の習慣が衰退した時期について考察したい。
1
.バレエ伴奏と弦楽器
1-1.弦楽器による伴奏の起源 バレエの稽古伴奏が弦楽器によって行われていたことを示す例としては,エドガー・ドガ Edger 2)オペラ座付属のバレエ学校にも,現在,11名のピアノ伴奏者と1名のシェフ・ド・シャンがおり,2クラスずつ6学年に 分かれた生徒たちのクラス・レッスンと,公演稽古などの伴奏を行っている。Degas(1834~1917)による絵画作品が広く知られている。19 世紀後半のフランスで活躍したドガ は,オペラ座の様々な風景,とりわけオペラ座バレエ団の日常風景を主題とする作品を残した。その ひとつである《ペルティエ通りのオペラ座のフォワイエ・ド・ラ・ダンス》(1872 年作)では,バレ エ教師の傍らに,ヴァイオリンと弓を持って椅子に腰掛ける一人の弦楽器奏者が描かれている。 では,このように弦楽器奏者がバレエの稽古を伴奏する習慣は,いつごろから始まったのだろう か。その起源は,中世の舞踊教師に遡ることが出来る。サンドラ・ノル=ハモンドによると,当時, フランス中のダンサーの訓練を監督し,教育することを認められていたのは,1321 年に結成された ミンストレルのギルドだった。メートル・ア・ダンセと呼ばれた舞踊教師たちは「必然的に音楽家で もあり,指導者自身が踊りながら演奏するため,ヴァイオリンはダンスのレッスンを伴奏する典型的 な楽器になった」(Noll-Hammond 2011: 66)。したがって,当時は舞踊教師が自ら伴奏するのが一般 的であり,彼らは踊りの技術だけでなく,弦楽器の演奏技術も有している必要があった。 その後,踊りの名手として知られたルイ 14 世の治世下である 1661 年には王立舞踊アカデミーが 創設され,1714 年には,プロフェッショナルのダンサーを育成するための教育機関として,舞踊ア カデミー付属のバレエ学校が設立された。その際,バレエ学校の設立を認める省令の中で,舞踊アカ デミーの責任者であるメートル・ド・バレエ3)の職務内容が定められた(Jacq-Mioche 2013: 23)。 メートル・ド・バレエは,1669 年に創設された音楽アカデミーで上演する演目の振付を担当するほ か,アカデミーのダンサーや学校の生徒を指導する役割も担っていたため,舞踊教師でもあった。し かし,稽古伴奏の義務の有無については,最も内容が充実している 1784 年の省令にも記述されてい ない。 ただし,舞踊教師が弦楽器演奏も出来る例は,フランスでは 19 世紀半ばから後半にかけての時期 にも見られる。19 世紀のオペラ座バレエ団で,メートル・ド・バレエとして活躍したアルチュール・ サン=レオン Arthur Saint-Léon(1821~1870)は,パガニーニに師事したヴァイオリン奏者として も知られている。サン=レオンは,自身が振り付けたバレエ《悪魔のヴァイオリン》の初演(1849 年)では,主役の一人として踊る一方,ヴァイオリン演奏もこなした。 また,指導者だけでなくダンサーの中にも,ヴァイオリン演奏に長けている者がいた。19 世紀前 半にオペラ座に勤務していたカシミール=アレクサンドル・ロピケ Casimir Alexandre Ropicquet (1808~1861)の場合,オペラ座バレエ団のダンサーとしてキャリアを築いたのちに,同劇場のオー ケストラ奏者に転身し,第 2 ヴァイオリン奏者として引退まで勤めた経歴を持つ。とはいえ,サン =レオンやロピケがバレエ伴奏者としてオペラ座に勤務した経験はなく,彼らのようにアマチュア以 上のレヴェルでヴァイオリンを弾きこなせたダンサーやダンス指導者も,19 世紀には稀だったと思 われる。 1-2.弦楽器のためのリハーサル用伴奏譜 では,19 世紀のオペラ座におけるバレエの稽古伴奏は,どのように行われていたのだろうか。今 日のクラス・レッスンに相当する日常的な訓練の音楽的側面に関しては,現在のところ,記録は発見 されていない。クラス・レッスンの伴奏者は今日でも即興で伴奏するため,19 世紀においても,ダ 3)ルイ14世時代の「Ballet」は,日本語で「バレ」と記されることが多いが,オペラ座のMaître de balletは「メートル・ ド・バレエ」と記されるのが一般的である。Maître de balletは,王立舞踊アカデミーの創立以来現在まで一貫して用いら れてきた名称であることから,本稿では,18世紀のMaître de balletに関しても,役職名として「バレエ」と記すことと する。
ンサーの日常的な訓練は即興で伴奏されていたと考えるのが自然であろう。 一方,公演の稽古伴奏に関しては,当時の様子を類推できる資料がある。それは,バレエ伴奏者が リハーサルで使用するオーケストラ・スコアのリダクション譜である,「レペティトゥール譜4) répétiteur」である。 レペティトゥール譜の存在はこれまでもさまざまな先行研究で言及されており,バレエ上演の稽古 には欠かせない楽譜だったことが明らかにされてきた。例えば,19 世紀前半にパリ・オペラ座のオー ケストラ・マテリアルセットを借用してバレエを上演していたブリュッセルの王立劇場においては, バ レ エ 公 演 の 指 揮 者 を 兼 ね る ヴ ァ イ オ リ ン 奏 者 が リ ハ ー サ ル の 伴 奏 を 行 っ て お り, 彼 ら が 「répétiteur」もしくは「violon répétiteur」と呼ばれるオーケストラ・スコアのリダクション譜を用 いていたという(Day 2008: 5)。 またロシアでも,19 世紀後半にバレエ上演の中心地だった帝室マリインスキー劇場では,新作バ レエのオーケストラ・スコアが出来上がると,リハーサルで使用するために,2 台ヴァイオリン用の レペティトゥール譜を作成する習慣があった(Wiley 1985: 4)。チャイコフスキー作曲の三大バレ エ,すなわち《眠れる森の美女》(1890 年初演),《くるみ割り人形》(1892 年初演),そして 1895 年 に上演された《白鳥の湖》のマリインスキー劇場初演プロダクションに関しても,レペティトゥール 譜が現存している5)。 このようなレペティトゥール譜は,19 世紀のパリ・オペラ座でも作成されていた。現在,フラン ス国立図書館の分館であるオペラ座図書館では,19 世紀にオペラ座で上演されたバレエ作品,およ びオペラのバレエシーンのために作成されたレペティトゥール譜を所蔵している。これらは個々の作 品のオーケストラ用パート譜セットに含まれている場合が多く,所蔵資料の電子カタログ上では,両 ジャンルの計 43 作品にレペティトゥール譜の存在を確認できる6)。 オペラ座のレペティトゥール譜に見られる大きな特徴の一つは,時代や作品によってさまざまな楽 器編成で書かれている点である。例えば,オペラ座で 1832 年に初演された《ラ・シルフィード》 や,1841 年に初演された《ジゼル》のレペティトゥール譜は,スミス(Smith 2000B: 45)やブカ・ エルツ(Butkas Ertz 2012: 59)が指摘するように,ト音記号 1 段とヘ音記号 1 段の大譜表で書かれ ている7)。また,デルデヴェス Edme-Marie-Ernest Deldevez(1817~1897)作曲のバレエ《パキー タ》(1846 年オペラ座初演)のレペティトゥール譜のように,基本的にはト音記号 2 段の大譜表で構 成されつつも,ときおりヘ音記号の段が書き足され,3 段譜になる例も見られる。 4)本論では,後述のバレエ伴奏者を指す「レペティトゥール」との語の混同を避けるため,バレエ伴奏者が使用したリハー サル用楽譜を指す場合には,「レペティトゥール譜」という語を用いる。 5)《白鳥の湖》の初演は1877年にモスクワのボリショイ劇場で行われているが,ワイリーによると,この初演時のレペティ トゥール譜は失われた(Wiley 1985: 41)。一方,1895年のマリインスキー劇場初演版は,レペティトゥール譜が現存する (Wiley 1985: 418)。この1895年のプロダクションでは,台本や振付に変更が施されただけでなく,チャイコフスキーの 音楽もリッカルド・ドリゴ(1846~1930)によって改訂された。なお,今日上演されている《白鳥の湖》は,この1895 年初演のプティパ=イヴァーノフ振付版を基礎とするものが多い。 6)この43点のうち,21点に関しては「Violon répétiteur」の記述がある。ただし,《ポルティチのおし娘》のレペティトゥー ル譜のように,資料検索カタログ上ではレペティトゥール譜であることが明確に示されていない場合もあるため,今後精 査が必要である。なお,以下の本論の注においては,フランス国立文書館をAN,フランス国立図書館オペラ座図書館を F-Poと示す。 7)スミスやブカ・エルツは,《ジゼル》や《ラ・シルフィード》のレペティトゥール譜について,ヴァイオリン奏者とチェロ 奏者のバレエ伴奏者のために書かれたとしている。チェロ奏者がバレエ伴奏者を務めていた記録はANやF-Poの資料に は見られないが,1840年代以前のオペラ座では,作品により,低音弦楽器奏者も伴奏をしていた可能性も指摘できる。
しかし,こうしたト音記号とヘ音記号による大譜表は,鍵盤楽器による伴奏のための楽譜とは考え 難い。なぜなら,《ラ・シルフィード》や《ジゼル》,《パキータ》のレペティトゥール譜で和音が書 かれている場合,その構成音は,2 音を滅多に超えないためである。また,ヘ音記号の段には和音す ら登場せず,音符は常に単音で記されている。レペティトゥール譜のこのような記譜は,ロッシーニ 作曲のオペラ《オテロ》(1840 年パリ・オペラ座初演)のバレエシーンのレペティトゥール譜など, オペラのバレエシーンのためのレペティトゥール譜にも共通している8)。 一方,1866 年にオペラ座で初演され,1875 年のパレ・ガルニエのこけら落とし公演でも上演され た,リュドヴィク・ミンクス Ludwig Minkus(1826~1917)とレオ・ドリーブ Léo Delibes(1836~ 1891)作曲のバレエ《泉》のレペティトゥール譜は,全てト音記号 2 段の大譜表で書かれており, どちらの段にも,「arco」あるいは「pizz.」の指示が頻繁に見られる。また,1870 年にオペラ座で初 演されたドリーブ作曲の《コッペリア》のレペティトゥール譜は,ト音記号とハ音記号の 2 段譜表 で書かれていることから,ヴァイオリンとヴィオラ用であることが明らかである。 このように,オペラ座のレペティトゥール譜は,基本的に 2 人以上の弦楽器奏者が演奏すること を念頭において作成されている。つまり,バレエ公演の指揮者兼ヴァイオリン奏者が稽古伴奏を行 なっていたブリュッセルとは異なり,19 世紀のオペラ座では,公演の稽古伴奏のために少なくとも 常時 2 人以上の弦楽器バレエ伴奏者がいたと考えられよう。また,楽器もヴァイオリンに限らず, ヴィオラやチェロも用いられていた可能性が高い。 しかし,前述したドガの《ペルティエ通りのオペラ座のフォワイエ・ド・ラ・ダンス》,あるいは 《オペラ座バレエ学校》(1873~79 年作)や《リハーサル》(1873~78 年作)で描かれた弦楽器奏者 は,ヴァイオリンあるいはヴィオラ奏者 1 名のみである。ドガだけでなく,1890 年頃のパレ・ガル ニエ内での稽古の様子を描いた,ポール・ルヌアール Paul Renouard(1845~1924)の《ダンスの 稽古》や《ダンスの稽古,バーレッスンをする女性ダンサーたち》でも,画面には,1 名の男性弦楽 器奏者が伴奏をする様子が描かれている。デイはこのような絵画作品,とりわけドガの作品を根拠と して,19 世紀前半のブリュッセルだけでなく世紀後半のオペラ座でも,バレエ公演の指揮をするヴァ イオリン奏者が稽古伴奏をしていたとしている(Day 2008: 123)。では,当時のオペラ座は,バレエ 伴奏者の雇用に関してどのような規定を設けていたのだろうか。
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.資料に見るオペラ座バレエ伴奏者
2-1.フランス国立文書館及びオペラ座図書館所蔵のオペラ座内部資料 アニエス・テリエールによると,17 世紀後半から 18 世紀にかけてのオペラ座オーケストラの団員 のうち,最も給与の低い奏者たちは,小型ヴァイオリンのポシェットでダンスの稽古を伴奏するなど して,収入の足しにしていた(Terrier 2003: 60)。その習慣が 19 世紀にも継続していた場合,オペ ラ座バレエ団の稽古伴奏を,同劇場のオーケストラ奏者が行っていた可能性はありうる。 そこで筆者は,フランス国立文書館とオペラ座図書館が所蔵する,19 世紀のオペラ座に関する所 蔵資料のうち,比較的多くの資料が現存する 1840 年代以降の,オペラ座オーケストラ団員の雇用契 8) F-Po : D-17825.なお,フランス国立図書館の資料検索カタログ上で,この資料には「ピアノ用Pour piano」との説明があるが,この記述は資料内にはない。また,資料がピアノ用であることを証明するような他の文言も,資料内には見られな い。フランス国立図書館は,資料検索カタログで検索可能な資料に対し簡易な説明を付け加えているため,この記述に関 しても,後の時代に図書館側が資料を整理する中で記されたものと推測される。
約書や給与一覧などの資料を精査した。その結果,19 世紀のオペラ座では,少なくとも下記の 10 名 の弦楽器奏者が,バレエ伴奏者を務めたことが明らかとなった。
・ボ ワ ヴ ァ ン, 別 名 イ ポ リ ッ ト = ブ レ ー ズ・ ロ シ ュ フ ォ ー ル Boivin, dit Hypolitte-Blaise Rochefort9)(1798~1861?) ・ドミニク・ヴネトッザ Dominique Venettozza(1813~1895?) ・ガール(名不詳) Gard(生没年不明) ・ロシュフォール(名不詳) Rochefort(生没年不明) ・オーギュスト=ジョセフ・ランドルミー Auguste-Joseph Landormy(1818~?) ・アダン(名不詳) Adam(生没年不明) ・ジュール・ダンベ Jules Danbé(1840~1905) ・ギュスターヴ・コロンギュー Gustave Collongue(1830~1906) ・ヴィタル(名不詳)Vital(1825~?) ・ポール=サンタムール・ピエール Paul-StAmour Pierret(1843~?) この 10 名のバレエ伴奏者に関しては,彼らが職務にあたっていたことを明らかにするオペラ座内 部の資料が現存している。表 1 では,10 名のバレエ伴奏者の任期と,各人に関して現存する資料の 種類について示した。該当する資料が現存する場合には「○」を,現存しない場合には「×」を記 し,伴奏者としての給与記録がある場合には,具体的な給与額を示す資料の名称を記した。 この 10 名がオペラ座に雇用されていた条件を明らかにするため,本論ではまず,オペラ座の運営 方針を決定づける監督義務書における,バレエ伴奏者に関連する記述を精査する。 9)ボワヴァンの名は,雇用契約書や給与一覧のような公式文書でも「ボワヴァン,通称ロシュフォール」,「ブレーズ・ロシュ フォール」,「イポリット・ロシュフォール」などの様々な記され方をしている。本稿では,もう一人のロシュフォールと の混同を避けるため,イポリット=ブレーズを「ボワヴァン」,名不明のロシュフォールを「ロシュフォール」と記す。 10)オペラ座監督による決定事項の伝達書類や,奏者に関する報告書,懲罰の通知記録など。 表1 バレエ伴奏者の任期および現存する資料の種類 任期 契約書雇用 伴奏者としての給与記録 劇場内の 伝達等10)での言及 伴奏者オーディションの資料 ボワヴァン 1830~ ? ○ 給与一覧 ○ × ヴネトッザ 不明 × 給与一覧 ○ × ガール 不明~ 1869? × 給与一覧 ○ × ロシュフォール 1869~ ? ○ 雇用契約書 ○ × ランドルミー 不明 ○ × ○ × アダン 不明~ 1863? × × ○ × ダンベ 1863~ 1867? ○ 雇用契約書 ○ ○ コロンギュー 1863~ 1877? ○ 給与一覧,雇用契約書 ○ ○ ヴィタル 1871?~不明 ○ 雇用契約書 × × ピエール 1877~ 1878? ○ 雇用契約書 × ×
2-2.弦楽器伴奏者に関する監督義務書での規定
オペラ座に勤務する事務方やアーティストの職務に関する規定は,フランス国立文書館が所蔵する 資料のうち,復古王政以前の時期についてはアカデミーの規則集 Règlement de l’Académie に,19 世紀中頃から後半は,オペラ座監督の活動の指針となる監督義務書 Cahier des Charges に記されて いる。現存するこれらの文書のうち,1847 年から 1891 年までの監督義務書11)においては,「バレ エのリハーサルと稽古のために伴奏者 1 名,もしくはヴァイオリン 1 名。この職は,オーケストラ 奏者によってなされても良い」12)との記述が見られる。したがって,19 世紀のオペラ座は,オーケ ストラの奏者がバレエ伴奏者の職に従事することを公式に認めていた。 ただし,この監督義務書の記述と実際の状況には多少隔たりがある。まず,バレエ伴奏者の職名 は,義務書では「accompagnateur」とあるが,オペラ座内では,「Répétiteur de la danse」と呼ぶ のが一般的だったようである。répétiteur とは,上述したようにリハーサル伴奏者用の楽譜の名称だ が,語の本来の意味は「生徒に練習 répétition をさせる人」であり,デイによると,楽譜だけでな く,その楽譜を使用するバレエ伴奏者のことも指している(Day 2008: 5)。オペラ座の場合も,監督 義務書以外の書類では,伴奏者の職名は全て「répétiteur de la danse」と記されている。 この「répétiteur」という語は,フランス革命以前の時期から使用されているが,1780 年の王立音 楽アカデミーの規則集においては,「répétiteur」はダンサーの稽古を監督する役目があり(Serre 2011: 158),1805 年の規則集においても,オペラ座のバレエ団であるダンス部門と,付属バレエ学 校の構成員であると記されている。この「répétiteur」が,のちにバレエ伴奏者を指すようになった のかは定かではないが,17 世紀のダンスの指導者が弦楽器奏者でもあった点を踏まえると,アンシャ ン・レジームから帝政初期にかけてのアカデミーでは,稽古やリハーサルに立ち会っていた 「répétiteur」が伴奏をし,その名残で,のちのバレエ伴奏者たちも「répétiteur」と呼ばれていた可 能性がある。 また,義務書が規定するバレエ伴奏者の人数についても,1 名のみというわけではなかった。確か に,ドガやルヌアールの作品では,いずれも一人の弦楽器奏者しか描かれていないが,1865 年のオ ペラ座オーケストラ奏者の給料一覧では,コロンギュー,ヴネトッザ,ガールの 3 名が répétiteur de la danseと記されており,複数のバレエ伴奏者が同時期に職務に当たっていたことが分かる。こ の人数の違いについては,義務書にも詳細が記されていないため理由が明確ではないが,ドガやルヌ アールが描いたバレエ団の稽古はおそらくクラス・レッスンの風景で,そのような日常的な訓練の場 では,バレエ伴奏者は 1 名だけだったのではないだろうか。一方,公演のための稽古には,レペティ トゥール譜が 2 名以上の弦楽器奏者用に書かれているように,2 人以上のバレエ伴奏者が参加してい た。したがって,義務書の記述はあくまで基礎的なものであり,バレエ伴奏に従事するオーケストラ 奏者は,同時期に少なくとも 2 人以上は必要とされていたのである。 こうした監督義務書の記述を踏まえ,個々のアーティストに関する様々な資料を調査すると,オペ ラ座オーケストラの弦楽器奏者でもあるバレエ伴奏者の立場が,より直接的に示される。 上掲の表 1 で示したように,ガールとアダン,ヴネトッザ以外の 7 名に関しては,1856 年以降に 作成された,オペラ座のアーティストとしての雇用契約書が現存している。雇用契約書は,オペラ座 11) 19世紀の監督義務書は,1847年,1866年,1879年,1884年,1891年のものがANに現存している。 12)例えば,1847年のアンリ・デュポンシェルHenri Duponchel(1794~1868)の監督義務書における,該当部分の原文 は以下のとおりである。「Un accompagnateur ou un violon pour les répétitions et les études de ballet ; cet emploi pourra être rempli par un artiste de l’orchestre.」
に所属する歌手,ダンサー,オーケストラ奏者の誰に対しても作成される書類で,書類の表紙には アーティストの氏名,出生地と生年月日,オペラ座への入団年月日,職種(オーケストラ奏者の場合 はセクション),初年度の年俸,引退可能になる勤続年数と年齢を書き入れ,控除などに関する項目 の下に,昇給などの変更が生じた場合にはその詳細を記入し,最後に引退年や年金額などを書くよう になっていた。 この各バレエ伴奏者の雇用契約書を中心に,表 1 で示した他の関連書類を比較しつつ,本論では, バレエ伴奏者としての資料が今日最も充実している,オペラ座オーケストラヴィオラ奏者のギュス ターヴ・コロンギューの活動を中心に,バレエ伴奏者の経歴や給料などを検討する。
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.弦楽器伴奏者の実態
3-1.経歴 1830 年 8 月 18 日にフランスのオルレアンで生まれたコロンギューは,1858 年 10 月 30 日に行わ れた,オペラ座オーケストラのヴィオラ・セクションのオーディションを受け,9 人の受験者の中か ら採用された。彼はオーディション合格直後の 11 月 1 日から,月額 87 フラン 50 サンチームの給料 を得ており,翌 1859 年 1 月 1 日に,正式にオーケストラへ入団した。 彼の入団から 4 年後の 1863 年,3 月 7 日付のオペラ座監督宛ての報告書によると,この日にはバ レエ伴奏者のオーディションが行われた。このオーディションは,前任者のアダンが伴奏者の職を辞 したことによる欠員を補うためのものだった。候補者は 3 名で,第 2 ヴァイオリン奏者のジュール・ ダンベ,ヴィオラ奏者のルイ・アンリセ Louis Henricet(生没年不明)とコロンギューである。オー ディションの結果,「より良く条件を満たしており,また才能との関係から ayant paru remplir le mieux les conditions, sous le rapport du talent」ダンベが推薦され,彼は 3 月 11 日付で稽古伴奏者 に任命されている。この任命により,ダンベは 1863 年 3 月 11 日から,年額 1800 フラン(オーケス トラ奏者としての給与 1200 フラン,伴奏者としての給与 600 フラン)を得ることが決定した。 ところが,同年 4 月 20 日および同年 8 月 12 日付の,当時のオペラ座監督であるエミール・ペラ ン Emile Perrin(1814~1885)の手紙によると,コロンギューも 9 月 1 日から,稽古伴奏者として の給与を得ることが決定している。この理由は明らかではないが,ダンベの 1865 年 7 月 31 日時点 での給与は年額 1200 フランと記されており,彼はさらに 1867 年 10 月 1 日付で第 1 ヴァイオリン奏 者に転向している。おそらく,ダンベは団内コンクールを受けたものの,その直後から,バレエ伴奏 者の職務を全うするには困難な事情を抱えていたのだろう。その埋め合わせのために,同じコンクー ルを受けていたコロンギューが,バレエ伴奏者として採用されたと考えられる。 以降,コロンギューはオペラ座オーケストラのヴィオラ奏者として活動しつつ,第 2 ヴァイオリン奏 者のヴネトッザ,ヴィタル,ヴィオラ奏者のガール,そしてロシュフォールらとともに,バレエ伴奏 者の役割を 1877 年ごろまでは兼務していた。オペラ座オーケストラ団員としてのコロンギューの活 動は,1894 年 1 月 1 日付けで年金付き退職の権利を得るまで続いていたと思われる。したがって, 彼は約 35 年間のオペラ座勤務中,少なくとも 14 年間ほどは,バレエ伴奏者としても活動していた。 3-2.採用方法 伴奏者の採用方法に関しては,ダンベやコロンギューの場合以外に資料が現存していないため, オーディションによる審査が一般的な手法かを問うのは難しい。しかし,アダンの辞職によってオーディションが行われたことを踏まえると,バレエの伴奏は,練習の際に都合の良い奏者なら誰でも可 能だったのではなく,条件や能力を審査され,伴奏者のポストに任命された者に限られていた,と考 えられよう。 また,この職務を担える演奏者は第 2 ヴァイオリン奏者かヴィオラ奏者が一般的で,第 1 ヴァイ オリン奏者は対象外だったと推測できる。実際に,本論で調査対象とした 10 名のうち,1868 年にバ レエ伴奏者として直接雇用されたロシュフォール以外は,全員が採用時点でオペラ座オーケストラの 第 2 ヴァイオリン奏者(ボワヴァン,ヴネトッザ,ランドルミー,ダンベ,ヴィタル)か,ヴィオ ラ奏者(アダン,ガール,コロンギュー,ピエール)だった。ダンベがオーディションによってバレ エ伴奏者に任命されたにも拘わらず,直後にコロンギューも職に就くことになったのは,おそらく オーディションの前後の時期に,ダンベが将来的に第 1 ヴァイオリン奏者に転向することが決定し たため,あるいは非公式の了承によって,すでに第 1 ヴァイオリン奏者としてもオペラ座の公演に 参加していたためだったのではないだろうか。なお,ロシュフォール以外の 9 名は,デイが上記で 主張したバレエ公演の指揮者兼ヴァイオリン奏者ではなく,いわゆるトゥッティ奏者であり,彼らが 公演を指揮する機会はまずなかったと考えるべきである。 3-3.勤務スケジュール オペラ座のオーケストラ奏者は,指定された公演及び練習に参加する義務があり,許可された場合 以外の欠勤は罰金の対象となった。日々のスケジュールは規則正しくかつ過密で,コロンギューがバ レエ伴奏者として勤務し始めた 1863 年の公演および練習を記録した日誌によると,1 週間のうち 月,水,金,日の各曜日には公演が行なわれ,火,木,土曜日には新作や新しいプロダクションの演 目を稽古している。公演の演目は 2,3 日で変わり,バレエの場面を含むグランドオペラだけの日も あれば,オペラとバレエの双方を上演する日もあった。そのため,いずれの演目の場合にも 19 時半 ごろに公演が始まると,真夜中前後に終演するのが常だった。19 世紀後半には,オペラ座の公演数 は平均して年間 200 回にのぼり,1893 年 1 月及び 2 月の休日は 2 ヶ月合わせても 3 日しかなかった という(Terrier 2003: 199)。 バレエのリハーサルは,このスケジュールの合間をぬって行われており,オペラの後に上演される バレエ作品の練習は本番直前の練習日に数日間,オペラのバレエシーンは公演当日の昼間に稽古する ことが多かったようである。一例を挙げると,1863 年 9 月 21 日にはヴェルディの《シチリア島の夕べ の祈り》(1855 年初演)が上演されており,同日昼の 12 時半から,メートル・ド・バレエのリュシ アン・プティパ Lucien Petipa(1815~1898)13)の指導の下で,バレエシーンの舞台リハーサルが行 われている。なお,オペラ座図書館は,《シチリア島の夕べの祈り》の初演時に作成されたオーケス トラ用パート譜セットを所蔵しており,その中には,バレエ伴奏者用のレペティトゥール譜14)も含 13)リュシアン・プティパは,チャイコフスキー作曲の3大バレエの各初演プロダクションで振付を担当し,帝室マリイン スキー劇場のメートル・ド・バレエとして活躍したマリウス・プティパMarius Petipa(1818~1910)の兄である。二人 の父のジャン=アントワーヌ・プティパJean-Antoine Petipa(1787~1855)もダンサーだった。プティパ兄弟は父の指 導によりマルセイユでダンスの教育を受けたのち,1821年にブリュッセル王立劇場でダンサーとしてデビューした。その 後,兄のリュシアンは1839年にパリ・オペラ座バレエ団に入団し,1860年から1868年までオペラ座のメートル・ド・ バレエの地位にあった。一方,弟のマリウスは1869年から没するまで,帝室マリインスキー劇場のメートル・ド・バレ エとして数々の作品の振付を行った。
14)なお,このレペティトゥール譜が含まれるマテリアルセットには,violon-conducteur用のパート譜F-Po : MAT-393(1) も含まれている。
まれている。したがって,1863 年 9 月 21 日に行われたバレエシーンの舞台稽古は,コロンギュー らバレエ伴奏者の伴奏で行われた可能性がある。彼らが夜の公演でも演奏していたとすると,その拘 束時間は他のオーケストラ奏者に比べかなり長い。 3-4.給与 では,彼らのバレエ伴奏者としての報酬は,その活動内容に適うものだったのだろうか。19 世紀後 半のオペラ座では,給与額は勤務年数やセクションによって異なっており,コロンギューが入団した 1859年の彼の給与は,年額 1050 フランだった。一方,彼がバレエ伴奏の仕事を始めた 1863 年に は,コロンギューの給与の総額は年額 2000 フランに引き上げられており,そのうち 800 フランがバ レエ伴奏者としての給与だった。しかし,この額は彼にとっては満足できるものではなかったようで ある。オペラ座入団から約 10 年が経過した 1870 年 5 月 10 日付で,コロンギューは監督のペランに 宛てて,以下のような手紙を送っている。 監督 1 年ほど前,私はダンスの稽古伴奏者としての手当てを増額していただけるよう,嘆願のお 手紙を差し上げました。 私の要望は音楽監督のジュヴェール氏にお知らせしたのですが,彼は,監督がお忘れにならな いように,この件をお話しすると約束して下さいました。 このように申し上げるのをお許しいただきたいのですが,私はこの役職を 10 年勤めておりま す。全ての時間を注いでおりますので,他のことを全くできない状態にあるのです。 この件をお考えになっていただけること,そして私がこの職務に就いてから変わらない賃金 の,引き上げについての要望を,宜しくお取り計らい下さいますよう,望んでおります15)。 とはいえ,コロンギューと同時期にバレエ伴奏を行なっていたヴネトッザやガール,また伴奏者に 任命されていたダンベの場合,伴奏者としての給与は年額 600 フランだった。1871 年 11 月 1 日付 けで,第 2 ヴァイオリン奏者兼バレエ伴奏者として雇用契約を結んだヴィタルも,1873 年までのバ レエ伴奏者としての給与は 600 フランである。つまりコロンギューの場合は,バレエ伴奏の仕事を 始めた当初から,同じ立場の同僚たちよりも報酬面でわずかに優遇されていたのである。さらに, オーケストラ奏者の給与に関する 1865 年の書類によると,バレエ伴奏を受け持っていない他のヴィ オラ奏者の年収は 1200 フランで,ヴィオラ・セクションの首席奏者であるソロ・ヴィオラ奏者の
15)原文は以下のとおり。「J’ai eu l’honneur de vous adresser, il y a bientôt un an, une lettre, sollicitant de votre bienveil-lance, une augmentation de mon traitement comme répétiteur de la Danse.
Monsieur Gevaert, Directeur de la Musique, à qui j’avais fait part de ma demande, m’a promis de l’appuyer auprès de vous, que vous ne seriez pas éloigné à y faire droit.
Permettez-moi de vous rappeler, Monsieur Le Directeur, que je fais ce service depuis 10 ans, qu’il me prend tout mon temps, et me met, par conséquant[sic] dans l’impassibilité de faire autre chose.
J’ose espérer que vous voudrez bien prendre ces faits en considération, et que vous serez assez bon, pour faire droit à la demande d’augmentation, d’une traitement, resté le même, depuis que j’ai pris possession de ce service.
Veuillez agréer, Monsieur Le Directeur, l’assurance de tout mon dévouement Gustave Collongue
ヴィゲール Vigaier(生没年不明)の年収は,2050 フランだった。したがって,コロンギューはオー ケストラでヴィオラを演奏しつつ,バレエの稽古伴奏者も務めることで,首席奏者に近い年収を得て いたことになる。 コロンギューの嘆願はペランに受け入れられたのか,彼の稽古伴奏者としての給与は,オペラ座が 現在のパレ・ガルニエに移転した 1875 年には,年額 1000 フランに引き上げられた。また,コロン ギューより後にバレエ伴奏者となったヴィタルとピエールの 2 名も,1875 年以降のバレエ伴奏者と しての給与は 800 フランに増額されている。ヴィオラ奏者としての給与も合わせると,コロンギュー の年収は,最終的に 3200 フランに達した。 テリエールによると,第三共和制期のオペラ座オーケストラ奏者の年収は 1500 から 3300 フラン ほどで,この額では,パリで 4 人家族の家庭を養うには不十分だったという(Terrier 2003: 199)。 また,このオーケストラ奏者の年収額は,キャリアの浅い合唱団員の年収 5000 フラン(Patureau 1991: 125)にも,当時のオペラ公演の稽古伴奏者であるシェフ・ド・シャンの年収 4000 フラン16) にも及ばない。しかし,オーケストラ奏者のオペラ座外での活動は厳しく制限されており,必要があ る場合には監督の特別許可を得なければならなかった。彼らがオペラ座外のコンサートでソリストと して演奏することや,コンサートの演奏者として氏名が発表されることは禁止されていた。そのた め,オーケストラ奏者はオペラ座の規則に抵触することを避けながら,プライベート・レッスンやコ ンセルヴァトワールでの教授,他のコンサートでの演奏,作曲などで副収入を得ていたという (Terrier 2003: 172)。コロンギューも,オペラ座オーケストラのヴィオラ奏者とバレエ伴奏者として の活動の他に,入団前から作曲家としても活動していた17)。 この点を踏まえると,オペラ座におけるバレエ伴奏者の職は,他の副業とは対照的に,監督義務書 によって公式に認められている,という稀な条件下での副業だったといえる。しかし,バレエ伴奏者 の給料額は,彼らがオペラ公演の稽古伴奏者とは比較にならないほど社会的に地位が低く,また重要 視もされていなかったことを明らかにしていよう。
4
.弦楽器伴奏の終焉
このように,19 世紀後半のオペラ座では弦楽器のバレエ伴奏者たちが活躍していたが,例外とし て,19 世紀後半のバレエ作品では作曲者自身がピアノ・リダクション譜を作成している場合もあっ た。例えば,上述したドリーブ作曲の《コッペリア》は,弦楽器伴奏者用のレペティトゥール譜が存 在するが,作曲者の手によるピアノ・リダクション譜も残されている。また,1876 年に初演された 《シルヴィア》の場合,当時の新聞は,振付師のルイ・メラント Louis Mérante(1828~1887)が作 曲者のドリーブのピアノに合わせてステップを試す様子を伝えている(Girard 2010: 50-51)。 では,パリ・オペラ座での弦楽器によるバレエの稽古伴奏は,いつごろまで継続していたのだろう か。前述の 10 名のバレエ伴奏者のうち,20 世紀に最も近い時期までオペラ座に在籍していたのは, 1898年に年金付き退職の権利を得たピエールである。彼の雇用契約書によると,ピエールは少なく とも 1878 年まで,オーケストラのヴィオラ奏者とバレエ伴奏者の職を兼務していた。ピエール以降 16)例えば,1874年10月1日付でオペラ座のシェフ・ド・シャンとして入団したジュール・コーアンJules Cohenの場 合,雇用契約書に記された初任給は年額4000フランである。AN : AJ/13/1184 ; Contrat d’engagement de Jules Cohenを 参照のこと。にバレエ伴奏者を務めたオーケストラ奏者の記録は,現時点では確認されていないが,20 世紀初頭 の付属バレエ学校男子クラスの様子を描いた油彩画の《A クラス》18)には,生徒の伴奏をする弦楽 器伴奏者の姿を確認できる。 また,レイミスタン・ブルッサン Leimistin Broussan(1858~1960)とアンドレ・メサジェ André Messager(1853~1929)による共同監督体制下である 1908 年の監督義務書では,「ヴァイオ リン 1 名」の記述は無くなっているものの,19 世紀後半の義務書と同様に,バレエ伴奏者の職はオー ケストラ奏者によってなされても良い,とされている。 この規定は,ブルッサンとメサジェに続いて 1914 年からオペラ座監督に就任したジャック・ルー シェ Jacques Rouché(1862~1957)の監督下でも,監督義務書の第 69 条の一項目として記されて いた。ルーシェがオペラ座監督を務めた 1914 年から 1939 年の間に作成された監督義務書は,1915 年,1919 年(1922 年に改定),1926 年,1932 年,1933 年のものが現存している。このうち,弦楽 器のバレエ伴奏者に関する記述が含まれる第 69 条は,1915 年と 1919 年の義務書に見られる。した がって,監督義務書がオーケストラ奏者によるバレエ伴奏を許可している時期までは,オペラ座のバ レエ伴奏者は弦楽器奏者だった可能性があるといえよう。 その後,弦楽器奏者によるバレエの稽古伴奏は一般的ではなくなり,今日ではもっぱらピアノが用 いられるようになった。それゆえに,プロコフィエフ Sergei Prokofiev(1891~1953)作曲のバレエ 《シンデレラ》(1945 年初演)は注目に値する。作品の第 1 幕第 7 曲「ダンスのレッスン」は,舞踏 会へ行くシンデレラの姉たちがダンスの稽古を受ける場面で,主に 2 台ヴァイオリンのみで演奏さ れる。当該の箇所のオーケストレーションは,バレエ版の曲をもとに作成された演奏会用組曲でも変 更されておらず,際立って室内楽的な雰囲気を生み出している。だが,この編成の意図するところ は,曲に対する室内楽的な雰囲気の付与というよりも,バレエ伴奏で伝統的に用いられていた弦楽器 2台という編成の引用であろう。すなわち,《シンデレラ》におけるこのヴァイオリンの用いられ方 は,弦楽器のバレエ伴奏者という職業が,プロコフィエフの世代においてもバレエの稽古を特徴付け る要素として考えられていたことを示しているのである。
5
.結論
以上の分析と考察から,19 世紀後半のパリ・オペラ座では,主にオペラ座オーケストラの第 2 ヴァ イオリン奏者とヴィオラ奏者が,バレエ団の稽古伴奏者を務めていたことが明らかとなった。 声楽の伴奏とは異なり,バレエに関しては,系統だった教授法による専門的な伴奏家の育成が長い 間行われてこなかった。伴奏家の育成を 19 世紀前半から行ってきた現在のパリ国立高等音楽院で も,ダンス伴奏の専門教育課程が設置されたのは 2011 年になってからのことである。19 世紀後半の オペラ座で稽古伴奏をしていた弦楽器奏者たちにとっても,バレエ伴奏は,単なる副業の位置づけを 超えることはなかっただろう。 しかし,少なくとも 1847 年の時点で,バレエ伴奏者はオペラ座の正式な役割の一つとして認識さ れており,また 1863 年のオーディションにおけるダンベに対しての評価にみられるように,バレエ 伴奏に携わる演奏家には適した条件や才能があると考えられていた。このことは,のちにバレエ伴奏 18)作者不明,« La Classe A », début du XXe siècle. Huile sur toile de Friant. dans Mathias Auclair, Christophe Ghristi dir.者が,専門的な訓練を受けた演奏家の職業として成立した経緯を明らかにする上で,大いに考慮に入 れるべきではないだろうか。 また,バレエの稽古伴奏が弦楽器奏者からピアニストによる伴奏へ移行した時期についても,今後 精査する必要がある。フランスの画家のポール・セガン=ベルトー Paul Séguin-Bertault(1862~ 1964)が,1911 年から 14 年の間に作成したオペラ座バレエ団の稽古のデッサン集や,当時の付属 バレエ学校の完成クラスの19)様子を描いたデッサンの中には,アップライトピアノの背面や側面を 描いたものがある。他方,バレエ・リュスの代表作である《春の祭典》(1913 年初演)で,作品の振 付補佐を担当したマリー・ランバート Marie Rambert(1888~1982)は,皆に「コロサール」と呼 ばれていたドイツ人のピアニストが,リハーサルを伴奏していたと証言している(Crisp 2001: 7)。 このような,バレエの稽古伴奏における楽器の変遷を精査することは,19 世紀から 20 世紀前半に かけてのバレエ音楽史の考察に,より豊かな情報を提供するだろう。また,バレエ伴奏者という職業 の歴史についても,未だ不明な点は残されている。したがって,バレエ伴奏者が弦楽器奏者からピア ニストへ移行した時期の解明と,本論では扱わなかったオペラ座の他の時代のバレエ伴奏者や,19 世紀後半にロシア・バレエ発展の礎となった帝室マリインスキー劇場の場合については今後の課題と し,さらなる考察を続けていきたい。 参考文献 19 世紀から 20 世紀初頭のオペラ座に関する一次資料
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AN : AJ/13/489 ; Contrat d’engagement de Boivin, dit Rochefort, Blaise. AN : AJ/13/489 ; État des services de M. Boivin dit Rochefort (Blaise). AN : AJ/13/489 ; Suppression à faire et l’augmentation proposée.
AN : AJ/13/489 ; Lettre signée par Emile Perrain annonçant que Dambé fera répétiteur de la danse, le 11 mars 1863.
AN : AJ/13/489 ; Rapport du chef d’orchestre daté du 7 mars 1863. AN : AJ/13/489 ; Contrat d’engagement de Jules Danbé.
AN : AJ/13/489 ; Contrat d’engagement de M. Vital. AN : AJ/13/489 ; Contrat d’engagement de Rochefort.
AN : AJ/13/489 ; Lettre signée par Emile Perrain annonçant que Rochefort fera répétiteur de la danse, le 15 décembre 1868.
AN : AJ/13/489 ; Contrat d’engagement de Landormy, Auguste Joseph. AN : AJ/13/1184 ; Lettre d’Émile Perrin datée le 20 avril 1863. AN : AJ/13/1184 ; Lettre d’Émile Perrin datée le 12 août 1863.
AN : AJ/13/1184 ; Concours du 30 Octobre Place d’alto vacante à l’orchestre. AN : AJ/13/1184 ; Contrat d’engagement de Gustave Collongue.
AN : AJ/13/1184 ; Contrat d’engagement de Paul StAmour Pierret.
19)当時のオペラ座付属バレエ学校の最上級クラスである完成クラスは,13歳から16歳の生徒のうち将来性のある者が, バレエ団のダンサーとしてデビューするのに備えることと,特に際立った技術を持たない生徒を振り落とすことを目的と して設置されていた。したがって,セガン=ベルトーがデッサンを描いた時期には,プロフェッショナル・ダンサーの日 常的な訓練の場だけでなく,若いダンサーを育成する教育現場でも,ピアノによる伴奏が行われ始めていた可能性もある。
AN : AJ/13/1184 ; Contrat d’engagement de Jules Cohen.
AN : AJ/13/1186 ; Règlement pour l’Académie impériale de musique, du 1er Vendémiaire an 14 (23 sept 1805). AN : AJ/13/1187 ; Cahier des charges 1847.
AN : AJ/13/1187 ; Cahier des charges 1866. AN : AJ/13/1187 ; Cahier des charges 1879. AN : AJ/13/1187 ; Cahier des charges 1884. AN : AJ/13/1187 ; Cahier des charges 1891. AN : AJ/13/1187 ; Cahier des charges 1908.
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─. « Melle Dumas, classe de Melle Rosita Mauri ». Bibliothèque nationale de France, Bibliothèque-musée de l’Opéra, B-707 (8).
Renouard, Paul. ca. 1890. « Répétition de danse ». Dessin à l’aquarelle, à la gouache, à la mine de plomb et aux rehauts de blanc. 47. 2×63. 2cm. Musée d’Orsay, conservé au Musée du Louvre. dans Mathias Auclair, Christophe Ghristi dir. 2013. Le Ballet de l’Opéra, Trois siècles de suprématie depuis Louis XIV. Paris: Albin Michel, 94-95.
─. ca.1890. « Répétition de danse : danseuses s’exerçant à la barre ». Dessin à l’aquarelle, à la gouache, à la mine de plomb et aux rehauts de blanc. 37. 8×52. 8cm. Musée d’Orsay, conservé au Musée du Louvre, dans Mathias Auclair, Christophe Ghristi dir. 2013. Le Ballet de l’Opéra, Trois siècles de suprématie depuis Louis XIV. Paris: Albin Michel, 98.
(2017 年 12 月 18 日受領)
永
なが
井い 玉たま 藻も